特集「富岡製糸場一世界遺産」
故郷・父母思い官営時に56人逝く
官営時代(1872-93年)の富岡製糸場(群馬県富岡市)で働いた若い工女の基や過去帳を調べ、その実態に迫った42年前の著書が復刻され、注目されています。日本共産党市議でもあった高瀬豊二さん(故人)が1972年に出した『異郷に散った若い命一旧官営富岡製糸所工女の基―』。高瀬さんの活動と復刻にかけた思いを現地にみました。
6月下旬の夜。富岡市内の一戸建て2階の部屋で、10人が車座になりました。再版実行委員会の集まりです。復刻本普及のための熱い論議が続きました。
「偉業」を今に
実行委員会の発足は、4月にユネスコ諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)が世界遺産登録を勧告した直後です。事務局の赤石竹夫さん(67)は「どうしても建物に目がいってしまうが、そこで働いていた人に光をあてたこの本を改めて世に問うことは意味あることではないかと考えました」といいます。実行委員の一人、強矢義和さん(59)も「42年前に工女に光をあてた業績を多くの人に知ってもらいたい」と話し、小板橋淑恵さん(61)は「復刻版をぜひ読みたいと思い、お仲間に入れていただいた」といいます。
『富岡製糸場と絹産業遺跡群』の著者で、富岡製糸場総合研究センターの今井幹夫所長は、「復刻版発刊に寄せて」で高瀬さんの仕事を「偉業」とたたえこう書いています。「(製糸場の)経営を支えたのが全国各地から入場した名もない工女たちである。名もなきがゆえに表面的には捉えきれない部分を内包している。かかる面からしても『異郷に散った若い命』の復刻は大きな意義ある計画である」
9歳で死亡も
著者の高瀬豊二さんは戦前、治安維持法違反で投獄され、そのときの病気がもとで戦後右足を切断。66年から3期12年、日本共産党市議として活動。その間、製糸場創立100年に向け「長いあいだ心の一隅にひめていた工女の墓の調査をはじめ」ました。富岡市史編さんにかかわり、91年に79歳で亡くなりました。
高瀬さんの調査では官営時代に亡くなった工女は56人。富岡市の龍光寺と海源寺にある墓石は50基。最も多い年が1880年(明治13年)の15人。募集要項は「15歳から」なのに過去帳では9歳、13歳を筆頭に20歳までが31人。出身県の最多は滋賀県の21人。高瀬さんは、9歳10カ月の娘が、滋賀県から両親の手を離れて富岡の地に来てひとり寂しく死んでいったことなどに思いをはせ「文字も消えかかった墓石の傍にたつとき、一掬の涙なきを得ない」と書いています。
人間を書いた
開業時全国から窮乏した士族の娘を中心に400人以上が集められました。当時は鉄道もなく、徒歩、馬、かごでした。長野県の松代から富岡まで4日かけたという記録があります。
亡くなっても引き取る人はなく、同僚480人がお金を出し合い5人の工女の墓を建てた記録も残っています。「故郷を思い、父母を思いながら死んでいった」と高瀬さんは書き、「日本資本主義発達のいしずえとなった」と工女たちに思いをよせています。後の『女工哀史』にふれつつ、官営時代について「記録にあらわれた限りでは、その後に続く時代よりもよい労働条件だったといえるようだ」とのべています。
実行委員の一人、日本共産党の甘楽町議山田邦彦さん(56)は「高瀬さんは、そこで生きた人間を書いた。涙を流し、汗を流した人間がいたということだ」といいます。
この日の集い出席者は、高瀬さんの調査の模様を「自転車に乗ってこつこつと調べていた。すごい人だよなあ」などとしのんでいました。
年次別工女死亡者数
年 次 人数
明治6年 1人
7年 2人
9年 6人
10年 4人
11年 5人
12年 8人
13年 15人
14年 2人
16年 1人
17年 3人
18年 2人
19年 1人
22年 1人
23年 2人
24年 1人
25年 2人
計56人
『異郷に散った若い命』から
群馬県富岡市の富岡製糸場が世界遺産に登録されました。1872年(明治5年)に官営の製糸場として開業、民間に払い下げられ、1987年に操業を停止しました。この115年の歴史のうち、最後の片倉工業時代(39-87年)の50年代に入社して働いた2人の元工女に当時の話を聞きました。
2人は富岡市在住の海津すみ子さん(76) と浅川タツ子さん(73)。
においは強烈
海津さんは祖父母、両親から3代続く富岡製糸場の労働者。1954年(昭和29年)3月、中学卒業と同時に15歳で入社。69年(昭和44年)まで15年間働いたあと退職。再入社、中断、転勤はありましたが、最後は富岡工場で操業停止まで計31年間働きました。
「糸と糸をつなぐときに、結び目の余分の糸を0・8ミリから1ミリ以内にするように歯で切るんです。私はそれが苦手で苦労しました」といいます。生糸の原料となる繭は、県内外から年5回集められました。生糸になるまではたくさんの工程があります。海津さんは、歯で糸を切る作業のある操糸の仕事ははずれましたが、工程の多くを担当しました。「不器用な人はつらかったと思います」とふりかえります。休憩を含め早朝5時からと午後1時15分からの2交代8時間労働でした。
仕事のあと、歌や演劇、フォークダンスを夜遅くまで楽しんだのは「懐かしい思い出」です。敷地内のブリュナ館には広い畳の部屋があって、そこが会場でした。ずっと工場敷地内の寮生活でした。「寮生同士けんかもしましたが、お風呂場で背中を流しっこしてそれで仲直りです」よかったのは工場内に診療所があったこと。週1日ずつ、内科・外科の医師2人が交
代で診秦にあたりました。
敷地内を歩きながら海津さんは思いだすようにいいました。「蚕のさなぎのにおいは強烈で、いまでもそのにおいがよみがえってくる」
20歳で総寮長
海津さんの後輩にあたる浅川さんも同じく中卒で55年に入社し、61年まで6年間勤めました。産地ごとに調べた繭の糸の長さや太さに応じて、繭と繭の組み合わせを決める仕事に従事しました。
そのかたわら浅川さんは男性従業員からよく「タツ子くるか」と声をかけられたといいます。操糸場に行って湿度と温度を管理するためです。生糸の品質に影響するのです。「私は年少でもありますし、『はいっ』と言っていきました。床から12bほどもある天窓の開け閉めをするんです。男の人も怖がるほどで、女性でやったのは私ぐらいでしょうかね」と笑います。
敷地内の片倉富岡学園(のちに片倉富岡高等学園)では、和裁、洋裁、生け花、国語、社会を学びました。楽しかったのはコーラスの活動。「『みずのわコーラス』というサークルをつくってみんなで歌いました。楽しかったですよ」と浅川さん。「みずのわ」は「水の輪」。石を落とすと広がる水の輪のように、コーラスの論が広がるようにとの思いを込めました。
20歳で総寮長に抜てきされました。年上の寮生からの風当たりが強く「つらくて東京に逃げ、会社もやめました」。
今回の世界遺産登録について2人は口をそろえました。「誇りです」
ブリュナ館
富岡製糸場建設のために明治政府が雇ったフランス人技師ポール・ブリュナが家族と暮らした住居。後に工女たちの寄宿舎や読み、書き、和裁を教える夜学校として、さらに片倉富岡高等学園の施設として利用されました。
(2014年07月05日,「赤旗」)
群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が、近代日本の産業遺産としては初めてユネスコの世界遺産に登録されることになった。
注目されるのは、決め手となったイコモス(ユネスコの諮問機関)の報告が、近代産業の貴重な遺構への評価とともに、「女性たちの指導者あるいは労働者としての役割」や「労働者の労働環境・社会的状況についての知見を増すこと」を勧告し、近代日本の女性労働の歴史に関心を持つよう求めた点である。
「富国強兵」と「生糸と軍艦」
1872 (明治5)年に開業した官営富岡製糸場では、当初エリート技術者養成の目的もあって「工女」には士族出身者も多く、当初は週休や8時間労働が保障されていた。しかしまもなく労働条件は悪化、民間払い下げ後の1898 (明治31)年にはストライキも起こっている。
全国から集まった工女たちのなかには「15歳以上」という募集条件に満たず、10-12歳ぐらいの少女も少なくなかった。入場後間もなく脚気になって歩けなくなり、同郷の工女の看病で入院生活を送った工女もいる。(上条宏之著『絹ひとすじの青春』)
「進取の気概にあふれた富岡製糸場」(藤岡信勝者『教科書が教えない歴史』)と持ち上げるだけではすまない現実があった。各地の民間製糸場では、山本茂実著『あゝ野麦峠』で知られるような長時間労働や罰金制度などが横行したことも事実である。
なによりも明治政府の近代化=殖産興業政策は、日本がアジアの強国をめざす「富国強兵」の柱でもあった。。「生糸と軍艦」といわれたように、生糸は輸出の花形として外貨を獲得、それが洋式軍艦の輸入をはじめ巨額な軍事費の原資になったのである。
しかし、当時の工女たちの実態を「哀史」とみるだけでいいか。指摘したいのは、彼女たちが労働のなかでつちかった「納得できないことには黙っていない」という精神である。長野県松代出身の横田(和田)英は、後に当時の思い出を『富岡日記』に書くが、仲間とともに助け合いながら技術習得に「一心に精を出し」、時には差別的処遇に抗議の声をあげ、「野中の一本杉のように」まっすぐ生きたと語っている。松代帰国後は近代的製糸場開設に力を尽くし、在来工法に固執する人びとに向かって堂々と自説を主張したという。
人間としての「めざめ」を今
こうした精神は富岡工女だけでなく、各地の民間製糸場で働く貧しい農村出身の工女たちの間にも生きていた。1886 (明治19)年、山梨県甲府の製糸工場主が連合して一方的に労働時間延長や貸金切り下げを強行した時、市内雨宮製糸では100余名の工女たちが「雇主が同盟規約という酷な規則を設けわたし等を苦しめるなら、わたし等も同盟しなければ不利益なり」と近くの寺に立てこもって「同盟罷工(ストライキ)」を決行した。
労働組合もなく指導者もいない時代に、同じ器械で糸をとる少女たちが自主的に団結して「理不尽」とたたかったのである。
今回の世界遺産登録を機に、近代日本の黎明期を生きた女性労働者たちの「人間としてのめざめ」を思い起こすことは、時代は違うが今もブラック企業や不当解雇に苦しみながら働く女性たちにとっても、大きな励ましになるのではないだろうか。
(よねだ・さよこ女性史研究者)
(2014年07月01日,「赤旗」)
「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)が6月末、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録されました。これで国内の世界遺産は18カ所に。文化遺産は、昨年の「富士山」に続く14件目です。明治維新以降の近代の産業遺産としては国内初です。北候伸矢記者
技術革新と交流/高品質・大量生産
世界遺産登録決定を前後して、見学者で連日にぎわう富岡水糸場。開場前から千人以上が並ぶ日も。
「6月の入場者数は昨年の4 ・6倍です。定時解説ツアーを担当する解説員の数が足りず、困っています」(富岡市)
ユネスコが世界遺産に登録した対象は、@富岡製糸場(富岡市)A
田島弥平旧宅(伊勢崎市)B高山社跡(藤岡市)C荒船風穴(下仁田町)-の4資産です。
ユネスコは、生産量が限られていた生糸の高品質・大量生産を実現した「技術革新」と、世界と日本を結ぶ「技術交流」に果たした4資産の役割を重視。 「顕著な普遍的価値」を認めました。
官営富岡製糸場は1872年(明治5年)に設立。明治政府の「富国強兵」「殖産興業」政策の下、フランスの技術を導入して完成した日本初の本格的製糸工場です。1893年に民間に経営が移り、1987年まで操業を続けました。
東西二つの繭倉庫は長さ104b、操糸場は140bです。「木骨れんが造り」と呼ばれる構造の美しさが印象的で、建造当時は破格の大きさの建築物でした。
富岡製糸場に代表される製糸技術の発展は、▽近代養蚕農家の原型「田島弥平旧宅」▽養蚕教育機関「高山社跡」▽蚕の卵の貯蔵施設「荒船風穴」-という、ほかの対象資産が代表する養蚕の技術革新とも密接に結びついていました。
その結果、日本の絹産業・生糸生産は飛良的に拡大しました。
「伝習工女」は全国から
官営期(1872-93年)の富岡製糸場では、全国から集まった「伝習工女」たちが生産現場の主役でした。
記録で確認できた限りでは、1873-84年に現在の30都道府県から、のべ3476人の女性が富岡に来て、技術を習得しました。
まだ鉄道がない時代ですが、遠隔地の出身者も目立ちます。お互いの「お国ことば」が通じず、相手を外国人だと勘違いした逸話も。工女の多くは帰郷後、新設工場で指導に当たったとみられます。
1873-74年に富岡で働き、『富岡日記』を著した長野県の士族の娘、和田(樵田)英も初期の伝習工女の一人。所長から「操婦(工女)は兵隊に勝る」と励まされたことなどをつづっています。当時は電灯がなく、ガラス窓越しの自然光に頼っていて、労働時間は1日約8時間でした。
『女工哀史』
その後、各地に次々とできた製糸・紡績工場では、長時間労働や児童の酷使がまん延するようになりました。その実態は、細井和喜蔵『女工哀史』(1925年刊)や山本茂実『あゝ野麦峠』(1968年刊)などで描かれています。
養蚕の盛衰
紀元前200年ころ、中国から日本に伝わったとされる養蚕。江戸時代末期の開国後、生糸や蚕の卵は主要輸出品になり、養蚕技術の改良が急速に進みました。その結果、繭の晶質が向上し、収量も増えました。
1909年、日本は世界一の生糸輸出国に。最盛期には世界の繭生産量の6割を占めました。養蚕農家が200万戸を超え、全農家の4割近くが従事していた時代も。
第2次大戦後は生糸輸入の増大で養蚕の衰退が加速。2013年の統計では、養蚕農家数は全国で486戸(大日本蚕糸会調べ)です。
富岡製糸場/富岡市
フランス人技術者ポール・プリュナの指導で建設。主要な施設が142年前の創業当時のまま、ほぼ完全に残っています。耐震性などの問題から、見学できるのは全体の3割程度。今後の維持管理も課題です。
田島弥平旧宅/伊勢崎市
蚕の飼育法「清涼育」を考案した田島弥平が1863年に建てた住居兼蚕室。換気用の越屋根(こしやね)を初めて取り付けました。これにより、良質の蚕種(蚕の卵)の増産が加速しました。
高山社跡/藤岡市
通風と温度管理を調和させた蚕の飼育法を確立した高山長五郎は、1884年に養蚕改良高山社を設立。現在の34都道府県から実習生を集め、指導員派遣は24都府県に及びました。
荒船風穴/下仁田町
標高約840bの山あいで吹き出す天然の冷気を利用した蚕の卵の貯蔵施設。3基造られ、国内最大規模でした。ふ化時期の調節で、当時年1回だった養蚕が複数回可能に。繭増産に貢献しました。(2014年07月06日,「赤旗」)
絹産業の全体像見えてくる
富岡製糸場は、日本の絹産業と製糸業に飛躍的な発展をもたらし、日本を産業革命に導く起爆剤になりました。
富岡製糸場での生産効率の変化を見てみましょう。明治20年(1887年)と昭和49年(1974年)の87年間で、作業者1人当たりの生糸生産量は85倍になりました。開業直後の官営期を通した比較でも、生糸の品質が顕著に向上しています。
機械の入れ替えはありましたが、115年間も同じ場所、同じ広さの操糸場で作業していた富岡だからこそ、こうした比較ができる。そこに、世界に誇る産業遺産としての価値があります。
官営期は模範工場としての役割があり、全国からやって来た「伝習工女」たちが技量を競いながら、実際の作業を担いました。異郷の地で命を落とした工女もいました。日本の産業革命の始まりを担っていたのは、こうした若い女性たちでした。
開業当初から日曜日は休日で、電気がないため勤務は毎日7時間45分でした。その後、労働時間は徐々に長くなったようです。次々開業した各地の工場では、「女工哀史」のような過酷な実態も広がった。そのことも忘れてはなりません。
富岡製糸場の魅力は建物の美しさだけではありません。乾燥施設、倉庫、煮繭(しやけん)場、糸取り工場…。こうした施設がすべて残っていて、繭の加工工程がぜんぶ分かる。ほかの3資産も合わせて見れば、絹産業の全体像が見えてきます。多くの方に足を運んでいただきたいですね。(2014年07月06日,「赤旗」)
群馬県内の「富岡製糸場と綿産業遺産群」が今年6月、世界文化遺産に登録されました。明治時代初期から発展し、かつては世界一の生産量を誇った日本の生糸産業。現在の生産現場を訪れました。
群馬県安中市に今も、繭から糸をつくる製糸工場があります。碓氷製糸農業協同組合(組合員350人)が経営する従業員20人の碓氷製糸工場です。
ずらりと並ぶ自動繰糸機の前で、女性従業員が行き来し、途切れた糸をつなぐ作業を続けます。工場内は30度を超え、繭を煮るため湿度も高く蒸し風呂のようです。
同組合の設立は1959年。廃業した製糸工場を、地元養蚕農家や当時の町長・議員などが出資し、組合をつくって工場経営を引き継ぎました。国産繭を使う製糸工場は、他に山形県酒田市の企業が経営する工場が残るだけです。
高村育也組合長(68)は、「政府の政策で安い生糸を輸入、国産を圧迫して生産が落ち込んだ。いまのTPP(環太平洋連携協定)は日本のコメを同じ状態にさせる危険なものだ」と厳しく語ります。
記事橋爪拓治
(2014年08月17日,「赤旗」)
生糸5`を一束にします。着物が5着つくれる量です。
群馬県安中市の碓氷製糸農業協同組合の製糸工場では全国から集めた薪を生糸に仕上げています。1`あたり4千〜5千円で取引されます。
最盛期は昼夜稼働した機械、今は5分の1が動くだけです。それでも国産生糸の約6割をこの工場から出荷しています。
群馬県は、製糸工場に施設整備の支援などを行い、養蚕農家には独自の補助や、人工飼料の開発などを行っています。県農政部は「地域経済を支える産業として守りたい」と言います。
日本共産党の金井久男、桜井ひろ江両安中市議は、県や市に養蚕、製糸業への支援対策を訴えています。農水省交渉では、国の責任で繭価を補償し、養蚕農家、製糸業者が続けられるよう紙智子参院議員や伊藤祐司県議と求めました。
記事橋爪拓治
(2014年08月18日,「赤旗」)