第3回/「韓国併合」と植民地支配/上/独立奪った日本軍の大弾圧
第4回/「韓国併合」と植民地支配/下/湧き起こった「独立万歳」
「在留邦人保護」を口実に
来年は戦後70年の節目の年を迎えます。それを前にして、安倍政権は日本をふたたび外国で「戦争をする国」にする解釈改憲の道に踏み出しています。このときにあたり、戦前に日本軍国主義が朝鮮半島・台湾を植民地として支配し、中国大陸を侵略、さらにアジア・太平洋戦争へと拡大していった「日本の侵略戦争」の歴史を4回シリーズでふりかえります。第1回は、「東方会議から『満州事変』へ」です。
日本が朝鮮半島の植民地化に続き、本格的に中国大陸への侵略を始めるのは、1931年の「満州事変」からです。その「満州事変」=中国東北部への侵略は、どんな理由ではじめられたのでしょうか。
中国侵略決めた
靖国神社は、「満州事変」の始まりを「満州における排日運動と在満邦人の危機感が関東軍主導の満州事変の契機となり、満州国の建設となった」(遊就館図録、2008年版)と説明します。中国の民族意識の高まり、排日運動が、日本人の危機感を増大させ「満州事変」は起こったといいます。
日本の中国侵略を決定づけたのは、1927年6月〜7月の「東方会議」です。当時の田中義一首相・外相が主催し十数日間開いた会議で、軍部と政府・外務省の首脳が一堂に集まり、中国大陸への積極的な介入を決めました。
「シナにおける帝国の権利利益並びに在留邦人の生命財産にして不法に侵害せらるるところあるにおいては、必要に応じ断固として自衛の措置に出でてこれを擁護するほかなし」(東方会議「対支政策綱領」に関する訓令)
侵略の口実として日本の「権利利益」(権益)と「在留邦人の生命・財産」の侵害をあげています。
日本の権益とは、日露戦争(1904〜05年)後にロシアから奪った南満州を縦断する鉄道(南満州鉄道、いわゆる満鉄)の使用・管理の権利などです。日本はその権益を守るため関東軍=中国東北部に駐留した陸軍を南満州に駐屯させます。
日本近現代史が専門の山田朗明治大学教授は「英米協調的な外交路線を投げすてた膨張主義の路線を決めたのが『東方会議』でした。日本は同時期に、中国国民政府軍の満州への接近阻止と山東半島の権益擁護のために3度の山東出兵を行います。本格的な戦争でしか動かさないような大規模な軍隊を山東省におくりました。満州ではなく近接する山東省に予防的に大軍を派遣するのです。さらに軍部はそれまで軍に協力してきた張作霖を謀略によって爆殺します(張作霖爆殺事件)。この事件は未遂に終わった『満州事変』です。混乱に乗じて『満州』を占領してしまうのが目的でした」
日本政府は、東方会議で「満蒙」(満州と内モンゴル)を中国「本土」と区別して特別な地域、すなわちこの地域を日本が大国に対抗して発展していくための生命線≠ニ位置づけ、自ら支配するという方針を確立しました。これが「満蒙生命線」論です。
東方会議に先立つ5月に、関東軍高級参謀の板垣征四郎(後のA級戦犯)は講演で、日本の「生存」のためには「原料の補給地ならびに成品の販路を確実に自国の勢力下に置くにあらざれば世界の大国に伍して国民の経済的生存を確保することを得ざる」として「これ(満州)を領土とするを当面の急務といたします」(「満蒙問題に就て」)と述べていました。
「神速なる行動」
1931年9月18日、関東軍は南満州鉄道の線路を奉天駅の近くで爆破し(柳条湖事件)、これを中国人の攻撃だと偽って、軍隊を出動させ朝方までに奉天市を占領するとともに、南満州鉄道沿線の全線で出撃し、主要都市を占領します。先の講演で板垣が「疾風のごとき神速なる行動」で目標を達成すると述べていましたが、その筋書きどおりことを進めました。
「満州事変」が始まって半年ほどの間に遼寧省、吉林省、黒竜江省の東三省の全域を占領し、32年3月、ここにかいらい国家「満州国」を建国します。
政府は「中国軍隊の一部は南満州鉄道の線路を破壊し我が守備隊を襲撃しこれと衝突するにいたれり」(満州事変に関する政府第1次声明)と、中国側に責任があるとする声明を出し、関東軍の行動を正当化しました。
「満州事変」を機に日本国内での軍部の影響力は強まります。当時の商業新聞は関東軍の「成功」を大々的に報道します。
排日感情の原因
当時の中国の対日感情は確かに悪化していました。その原因は、日本が武力でロシアやドイツから奪った「満州」や山東省の「権益」を維持・拡大したためです。排日運動は、日本が日清戦争、日露戦争などで中国から奪った租借地の返還を求めたり、不平等条約の撤廃を求めるなど主権回復の運動でした。
中国近現代史が専門の久保亨信州大学教授は「日本が中国で権益の拡張をしなければ、排日運動は起きませんでした。排日運動が強まった一因は、権益拡張の波に乗った居留日本人の激増です。1920年代には都市部を中心に毎年1万人以上の規模で居留日本人が増えていくのですから、中国側は平穏ではいられません」と述べます。
久保氏は「在留邦人保護」を理由にした軍隊の駐留が、次の侵略の火種になっていったと指摘します。
「在留邦人保護を目的とした中国への軍隊駐留は、欧米列強の侵略に反対する排外主義的な民衆蜂起の『義和団事件』(1900年)に始まります。他国の駐留軍が規模を縮小する中で、1936年に日本は以前は数百人規模の駐留軍を5800人規模に拡大しました。この軍隊が37年に、日中全面戦争の発端となる北京郊外での軍事的衝突、盧溝橋事件をひき起こします」
もともと中国の人々の対日感情は、悪くはありませんでした。中国側に近代化のモデルとして日本から学ぶという気持ちがあったからです。久保氏は「中国から毎年1万人くらいの留学生が来ていた時期もありました。日本が山東や満州などの権益を格段に拡張しようとする『21カ条の要求』を出してから対日感情は悪化します」といいます。
「自衛」と正当化
当時の日本政府は、侵略行動を「断固とした自衛の措置」と言っています。そう主張したのは、国際社会が第1次世界大戦の反省をふまえ、パリ不戦条約(1928年)などに代表される「侵略戦争」を禁止する動きへの対応でした。山田氏は「政策の手段としての戦争を禁じ、自衛戦争以外は違法であるとなります。日本陸軍は、自衛という理由さえ立てば、どのような軍事行動も可能であると考えました」と述べます。国際的な平和の流れに逆らう「口実」でした。
(若林明)
対華21カ条の要求
第1次世界大戦に参加し、ドイツの持っていた山東省の青島などを攻撃・占領した日本が戦争中の1915年1月に中国政府に突きつけた要求。南満州と東部内蒙古や山東省の支配権の引き渡し、各種の経済的特権、多数の日本人の政治・軍事顧問の配置などを求めました。
■満州事変関連年表
1914年 第1次大戦開始
15年 日本が「対華21カ条の要求」
19年 中国で五・四運動
27年 第1次山東出兵、東方会議
28年 張作霖爆殺事件
31年 満州事変
32年 かいらい国家「満州国」、五・一五事件
33年 日本が国際連盟脱退
( 2014年08月02日,「赤旗」)
中国東北部を侵略(「満州事変」)し、日本が操る傀儡国家「満州国」を建設した日本は1937年7月、中国への全面侵略戦争を開始しました。日本の過去の植民地支配と侵略戦争を美化するセンターとなっている靖国神社の軍事博物館・遊就館が、この経過をどうゆがめているかを検証しながら、歴史の事実を見てみましょう。
(入沢隆文)
盧溝橋事件/1937年7月/現地の停戦協定を無視
日本の中国全面侵略の発端となったのが、1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で夜間演習をしていた日本軍が中国軍と衝突した盧溝橋事件です。
遊就館は事件を次のように描いています。
「昭和八年の塘沽協定で安定を見た日中関係は、現地日本軍の北支工作とコミンテルン指導下の中国共産党による抗日テロの激化により、再び悪化した」「盧溝橋の日本軍に対する中国側の銃撃という小さな事件が北支那全域を戦場とする北支事変となった背景には、このような中国側の反日機運があった」(『遊就館図録』。以下同)
歴史の事実を見てみましょう。
「満州国」を建設した日本は1933年5月、中国と塘沽停戦協定を結んだものの、その直後から、「満州国」に隣接する華北を中国の国民政府の影響下から分離して「第二の満州国」にしようとする華北分離工作を進めました。「北支工作」とはこのことです。
これに対し中国国内では抗日の機運が高まりました。36年12月には、抗日よりも中国共産党との対決を重視する蒋介石を東北地方の実力者・張学良が監禁して、内戦の停止を要求する西安事件が発生。蒋は張の要求を受け入れ、国民党と中国共産党は抗日民族統一戦線の結成に向けて動き出しました。
一方、日本は、1900年の義和団事件で手に入れた北京・天津などでの駐兵権をたてに、北京周辺での兵力を一方的に増強。日中間の緊張が高まる中で、日本軍が中国軍の眼前で夜間演習を強行し、偶発的に起きたのが盧溝橋事件でした。
遊就館の説明は、華北を勢力下に置こうとする日本の侵略的野望と、それに抗する中国の運動を同列に並べ、後者に責任があるかのような侵略者側の言い分にほかなりません。
盧溝橋事件では31年の柳条湖事件とは違い、現地日本軍は偶発的な衝突として解決する方針で中国側と交渉し、7月11日には停戦協定が調印されました。
ところが、「中国は一撃で屈服する」と考えた陸軍中央は10日、約10万人の大兵力の華北派遣を決定。近衛内閣も11日、「今次事件は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし」と断定し派兵を承認しました。これは事件を中国全面侵略の転機にしようという日本政府・軍部の野望をあらわにしたものでした。
当時の日本軍の動きについて山田朗明治大学教授は「『満州事変』の成功体験が強く生きていた」と指摘します。「満州を切り取ったように軍事衝突を利用して華北も切り取れないかと華北侵略を決行した。成功体験にこだわって、それをやるごとに中国との対立が深まり、世界との対立につながっていくことに気がつかなかった」
第二次上海事変/1937年8月/和平閉ざし戦火広げる
華北での日本の新たな侵略は、中国全土で激しい抗日運動を引き起こしました。その中で1937年8月13日、上海で日本軍と中国軍が衝突しました。第二次上海事変です。
遊就館は、「中国側の挑発による第二次上海事変以降、蒋介石は、広大な国土全域を戦場として日本軍を疲弊させる戦略を択び、大東亜戦争終戦まで八年間を戦」ったと説明します。しかしこれは、侵略拡大の責任を侵略された側に押し付ける卑劣な論法です。
両軍の衝突の一つの原因となった「大山中尉殺害事件」(1937年8月9日)も、最近の研究(笠原十九司・都留文科大学名誉教授「大山事件の真相」)では日本海軍の「謀略」によるものという見方が出されています。近衛内閣は15日、南京政府断固庸懲(こらしめる)の声明を発表。17日には、それまで建前としてきた「不拡大方針」を放棄しました。
上海を攻略した日本軍は、功名心に駆られた松井石根中支那方面軍司令官らの独断で南京に向けて進撃(大本営も追認)、12月南京を占領し、大虐殺事件を起こしました。
この時期、日本側の依頼でドイツを仲介者とする和平交渉がもたれましたが、南京が陥落すると日本は講和条件をつり上げたため、交渉は決裂。近衛内閣は38年1月16日、「爾後国民政府を対手とせず」と声明し、外交交渉の道を自ら閉ざしました。
日本軍は蒋介石政権の軍事的屈服をめざして侵略を拡大し、長期戦の泥沼にはまり込んでいったのでした。
南京事件/1937年12月/日本兵の記録に明らかな虐殺
日本軍は37年12月13日、南京を占領し、その過程で中国軍民に対する虐殺事件を引き起こしました。『南京事件』などの著作がある笠原氏は「十数万以上、それも20万近いかそれ以上の中国軍民が犠牲になったと推測される」と指摘します。
ところが遊就館は南京事件について、松井司令官は「『厳正な軍規、不法行為の絶無』を示達した」が、「敗れた中国軍将兵は退路の下関に殺到して殲滅された。市内では私服に着がえて便衣隊となった敗残兵の摘発が厳しく行われた」と書くだけです。
これについて笠原氏は、「日本政府は南京事件を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決を受け入れ、外務省ホームページも『日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない』としている。遊就館の記述は日本政府の見解にも反し、国際的にまったく通用しない」と語ります。
南京攻略目前、松井司令官が、軍規風紀の厳粛などを部隊に下達したことは事実ですが、それはまったく空文化していました。
上海で3カ月余の激戦で疲弊し、食料などの補給もないまま南京に進撃させられた日本軍は、戦時国際法も教えられず略奪・暴行・虐殺・放火を日常とする中で南京に突入していったのでした。その責任は松井司令官らにありました。
南京で捕虜や非戦闘員の大規模な殺害が行われたことは、現場にいた日本の将兵の証言や日記に明らかです。
旧陸軍の親睦団体・偕行社の編集した『南京戦史』にも、「大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる」「後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千」(中島今朝吾中将の12月13日付日記)などと捕虜を組織的に殺害した記録が収録されています。
南京事件は直ちに世界に報道され、やがて陸軍中央でもひそかに問題にされるようになり、松井司令官は38年2月に解任。敗戦後、東京裁判で南京事件の責任を問われ、絞首刑に処せられました。
( 2014年08月23日,「赤旗」)
1910年8月22日、「韓国併合に関する条約」によって、日本は韓国から主権国としてのいっさいの統治権を奪い、朝鮮半島の植民地支配を成立させました。明治政府が「帝国百年の長計」(別項)として狙ってきたものです。長い歴史と文化をもち、民族的誇りを培ってきた隣国の独立を軍事力で奪った歴史的暴挙でした。韓国では併合ではなく「強占」と呼ばれています。
(山沢 猛)
日清戦争(1894〜95年)のときから朝鮮支配を狙っていた日本は、日露戦争(1904〜05年)で、こんどこそロシアを追い出して韓国を手中におさめようとしました。
これにたいして韓国は、日本による王宮占領や王妃殺害などの暴虐によって辛酸をなめさせられていたため、日露戦争がはじまる直前に「局外中立」を宣言しました。
「帝国百年」の野望
日本近代史が専門の中塚明氏(奈良女子大名誉教授)はいいます。「韓国政府はフランス領事らの協力で、戦時局外中立宣言を電報で世界に届け、この戦争(日露戦争)にはかかわらないという態度をとりました。中立となると日本は韓国で自由に軍隊を動かすことができなくなる。そこで日本は、日露戦争開戦と同時に、首都・漢城(ソウル)を占拠して、日本が政治全般の『忠告』をする『日韓議定書』を強要した。こうして朝鮮半島が日本軍の占領下に置かれたのです」
併合に先立ってやったもう一つは、韓国の植民地化に向けた段取りをすすめたことでした。日露戦争後には「第2次協約」(05年)=韓国「保護条約」をおしつけて外交権を完全にとりあげ、韓国が独自に諸外国と条約を結ぶことを禁じました(協約第2条)。日本政府の出先機関である「統監府」を首都を見下ろす南山におきました。
この「保護条約」の締結にあたっては、枢密院議長だった伊藤博文が特派全権大使となって出向きました。韓国政府は自国の植民地化を必然化させるとして受け入れをためらいましたが、伊藤は日本軍の憲兵を引き連れて閣議にのりこみ、「あまりに駄々をこねるようなら殺してしまえ」と大声で脅しつけながら、強盗的なやり方で従属国化をはかりました。
韓国ではこの条約を「乙巳条約」とよび民族屈辱の象徴となりました。
日本では戦後になっても、「これ(併合条約)は両者の完全な意思、平等の立場において締結された」(佐藤栄作首相の1965年国会答弁)などという見解が根強くあります。
中塚氏はこの問題について次のように話します。
「対等平等などというのは作り話です。併合前からの日本軍の占領が、その後も継続されたというのが実態です。初代の朝鮮総督となった現職の陸軍大臣・寺内正毅は条約締結のときに反乱が起きないよう、東北・仙台の第二師団を動員して厳戒態勢のなかで条約を結びました」
さらに「皇帝・高宗(コジョン)は日清戦争開戦のとき王宮(景福宮)を占領されて、翌年には日本公使の指揮で王妃(明成皇后、閔妃=ミンピ)を殺されるという目にあっているのに、統治権をすべて日本に譲りますなどと自分からいうはずがありません」と指摘します。
〈小早川、加藤、小西が世にあらば、今宵の月をいかに見るらむ〉
朝鮮総督・寺内が「韓国併合」の祝宴で得意満面で詠んだ歌です。
16世紀末、豊臣秀吉が起こした朝鮮侵略戦争の主力となり、朝鮮の人びとの耳や鼻をそぎおとしたり捕まえて奴隷にしたりするなど残虐のかぎりをつくしながら、最後には敗れて引き揚げた小早川隆景、加藤清正、小西行長らの武将たち。彼らがもし、きょうのこの月をどう見ただろうか、きっと喜んで見てくれただろう、という自画自賛の歌です。ここに当時の明治政府の首脳たちの意識を見ることができます。(吉岡吉典『「韓国併合」100年と日本』、新日本出版社)
東学農民革命と義兵
日本の韓国侵略は、韓国に広がった民衆運動の高揚と、それにたいし牙をむいた軍国日本による弾圧・せん滅の戦争の歴史でした。
まず1894年に起きた東学農民革命(甲午農民戦争)です。当時の朝鮮で、官吏の腐敗と重税に反対して農民革命運動がおこります。鎮圧に向かった政府軍を破り、地方の中心都市(全州)を農民軍が占領するほどの力をもちます。その後、王宮占領をはじめとした日本軍の侵攻にたいして抗日の旗印を鮮明にした運動になりました。
この農民運動は以前「東学党の乱」などとよばれていましたが、現在、韓国では最初の民主革命運動であり、反帝反封建の先駆的運動だったという歴史の見直しが定着しています。(2001年東学農民革命107年記念大会への金大中大統領メッセージ)
これにたいし日本は韓国政府から頼まれてもいないのに派兵し、農民軍の大殺りくをおこないました。その犠牲者は3万人、あるいは5万人に迫るといわれています。
この農民軍のせん滅作戦に従軍した兵士の「陣中日誌」に、井上勝生氏(北海道大学名誉教授)が、徳島県の郷土史家の協力で出会いました。
「本日(1895年1月31日)、東徒の残者、七名を捕え来り、これを城外の畑中に一列に並べ、銃に剣を着け、森田近通一等軍曹の号令にて、一斉の動作、これを突き殺せり、見物せし韓人及び統営兵(朝鮮の政府軍兵士)等、驚愕最も甚だし」。日中戦争で多発した、捕虜を銃剣でいっせいに突き殺すという事例は日清戦争ですでに始まっていたのです。(中塚明・井上勝生・朴孟洙著『東学農民戦争と日本』高文研)
1906〜11年には「抗日義兵闘争」が起こります。上部階級出身者やキリスト教徒、解散させられた韓国軍隊の兵士などからなる武装闘争でした。これにたいする日本の「鎮圧」戦争で4万人といわれる人びとを殺し韓国を血の海に沈め、「併合」を行いました。
こうした抗日のたたかいは押さえつけることができず、「併合」後も「三・一独立運動」などに引き継がれます。
(下につづく)
「帝国百年の長計」 明治政府の閣議決定(1909年7月6日)
韓国を併合しこれを帝国版図の一部となすは、わが実力を確立するための最確実なる方法たり。帝国が内外の形成に照らし適当の時期において断然併合を実行し、半島を名実ともにわが統治の下に置き、諸外国との条約関係を消滅せしむるは帝国百年の長計なりとす
(一部現代文に)
日本による韓国・朝鮮侵略と独立運動
1875 江華島事件(ソウルに近い島を日本軍艦が攻撃)
94 東学農民革命(甲午農民戦争)起こる(2月)
日本軍が朝鮮王宮占領、日清戦争始まる(7月)
95 王妃・閔妃(明成皇后)殺害事件(10月)
97 国号を朝鮮から大韓に(10月)
1904 日露戦争始まる(2月)
05 韓国に「保護条約」を強制(条約締結の禁止)(11月)
日本が韓国に統監府設置(12月)
抗日義兵闘争が激化
10 「韓国併合」(8月)、国号を朝鮮に変え総督府設置
19 三・一独立運動広がる
31 「満州事変」37日中全面戦争、韓国で「皇国臣民の誓詞」制定
40 「創氏改名」を実施
45 日本敗戦(8月)
( 2014年09月23日,「赤旗」)
韓国の民衆の独立運動は、日本による「併合」後も、地殻変動のエネルギーが蓄えられるように消すことはできませんでした。
全半島に三・一運動
その頂点に位置するのが、1919年3月1日にソウルで始まり、全半島にひろがった「三・一独立運動」です。1917年のロシア革命の成功、その指導者レーニンやアメリカ大統領ウイルソンが民族自決の理念を主張したこともこの三・一(サミル)独立運動や中国での抗日の五・四運動に影響しました。
19年1月、日本の侵略にさまざまな抵抗を試みた前皇帝・高宗(コジョン)の死を一つのきっかけとして、朝鮮民族あげての独立運動が一挙に湧き起こりました。民族宗教ともいうべき天道教、キリスト教、仏教の指導者が「独立宣言」を起草。ソウル市街の中心部にあるタプコル公園で、学生代表がその宣言文を朗読、読み終えると「独立万歳」(トンニップ・マンセー)の声が高々と上がり、太極旗を持った人びとが隊列を組んで街中に出て行ったといいます。
同公園の石碑に刻まれた宣言文は次のように始まります。
「われわれはここにわが朝鮮国が独立国であること、および朝鮮人が自主の民であることを宣言する。これをもって世界万邦に告げ、人類平等の大義を明らかにし、子孫万代に教え、民族自存の正当なる権利を永遠に有せしむるものである」
在日韓人歴史資料館館長で歴史家の姜徳相(カン・ドクサン)氏はいいます。「三・一運動は憲兵政治の支配のもとで、いわば入れ物の水がいっぱいになってあふれでるようにして起きたもの。同時に、第1次世界大戦末期のロシア革命や中国革命の進行、ウイルソンの民族自決権の宣言にも影響をうけています。被抑圧民族の解放という世界史の歩調と足並みをそろえる方向に展開したのです」
非暴力・女性の活躍
三・一独立運動は非暴力の運動でした。当初、この動きを察知できなかった総督府はうろたえましたが、にわかに軍隊を出動させ、武器を持っていない行進者に銃剣を向け発砲しました。なかでも凄惨を極めた事件の一つに堤岩里(チェアムニ)事件があります。ソウルの南にあたる水原(スウォン)地方の運動を鎮圧するために派遣された日本軍は独立運動に参加した人びとを「訓示する」といってキリスト教会に集め、建物に火を放ちいっせい射撃で皆殺しにしました。29人が犠牲になりました。
三・一独立運動では女性がめざましく活躍しました。その一人、柳寛順(ユ・グァンスン)は朝鮮のジャンヌ・ダルク≠ニいわれます。当時、梨花学堂(現梨花女子大学校)に在学中の16歳の少女でしたが、休校にされると郷里の天安(チョナン)にもどって市場で人びとと独立行進をしてその先頭に立ちました。憲兵の発砲で両親は死亡、彼女は首謀者として逮捕され懲役刑に。しかし「日本人にわれわれを裁く権利はない」と法廷・獄中闘争をやめず、度重なる拷問がもとで、西大門(ソデムン)刑務所で18歳の生涯を閉じました。
タプコル公園では各地の独立運動の群像が10枚のレリーフになり、その姿を伝えています。
三・一運動後のたたかいは、朝鮮と国境を接する「満州国」間島での独立運動、中国・上海での臨時政府などに引き継がれます。
「戦時動員」「皇民化」
民族あげての三・一独立運動などによって、日本の植民地支配は一歩後退を余儀なくされ、従来の「憲兵警察政治」(武断統治)を、親日派の育成を含む「文化政治」に改めることになります。
しかし、1931年の「満州事変」、37年の日中全面戦争が起きるとその文化政治も続けられなくなり、「戦時動員体制」、野蛮なファシズム体制へと転換します。この体制は、日本への米輸出を増大させ韓国の人びとを疲弊に追いやった「産米増産計画」などの物資面にとどまらず、労働力・兵士の確保に及びました。労働力不足になった日本の炭鉱、鉱山、軍事施設などに多数の朝鮮人労働者を強制的に動員したこともその一環です。その数は百万人以上といわれます。
ソウルの「朝鮮神宮」をはじめ各地に2000以上の神社をつくり天皇崇拝の参拝を要求するなど「皇民化政策」をすすめました。その具体化として日本語の「国語常用」、「創氏改名」、「色衣奨励」(韓国の伝統的な白い衣装から色の着いた衣装に替える)をすすめました。
1936年に関東軍司令官から朝鮮総督になった陸軍大将・南次郎(のちにA級戦犯)は、朝鮮での徴兵制実施、昭和天皇の行幸を目標にかかげ、小学校での朝鮮語の廃止など「内鮮一体化」の名で民族抹殺政策を推進しました。
姜徳相氏は「日中全面戦争の開始以降はとくに、『校門は営門(兵営の門)につうじる』として小学校での日本語教育を徹底して、長ずれば日本の兵士になれるようにした。私も中学生で日本の必勝を疑わなかったし陸軍幼年学校を希望していた。少国民教育は恐ろしい効果を持っていました」といいます。
韓国・朝鮮では徴兵制によって44年から終戦まで、40万人の青年が日本の軍人・軍属としてアジア・太平洋戦争に動員され、そのうち2万人が犠牲になりました。(樋口雄一『戦時下朝鮮の民衆と徴兵』総和社)
また、日本軍の統制と監督下で「慰安所」がつくられ多くの朝鮮人女性が本人の意思に反して軍「慰安婦」となることを強制されました。日本政府が慰安婦制度の真実を正面から認め、「河野談話」が表明した痛切な反省と心からのおわびにふさわしい行動をとることが求められています。
1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し連合国に降伏した日、韓国にとっては植民地支配から解放され、民族の独立を回復する「光復」の日を迎えました。ソウルの街は歓喜に沸き、「万歳」(マンセー)、「万歳」の声が響きわたりました。
(山沢猛)
( 2014年10月01日,「赤旗」)
1941年12月8日未明、日本陸軍がイギリス領マレー半島に上陸、その約1時間後、日本海軍がアメリカ・ハワイの真珠湾に奇襲攻撃をかけました。中国大陸への侵略を続けてきた日本が、東南アジア全域と太平洋地域に向けて侵略的野望を発動した瞬間≠ナした。シリーズ第5回は、国内外におびただしい犠牲と被害をもたらしたアジア・太平洋戦争への道です。
(宮澤毅)
日中戦争からの連続
日本が米英などとの開戦に踏み切ったのは、日本の中国侵略戦争の行き詰まりと、それをさらなる対外領土拡張で打開しようとする危険な野望が重なり合ったものでした。
37年からの日中全面戦争は中国の激しい抵抗で長期化していました。39年9月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によって第2次世界大戦が勃発。オランダ、フランスなどに勝利しイギリスに迫る勢いのドイツに日本は「幻惑」されます。
40年に入り、日本は「新たな領土拡張」計画を国策として練り上げます。ドイツ・イタリアと結び、石油資源などがある東南アジアにある欧米諸国の植民地を「生存圏」(40年9月、大本営政府連絡会議の決定など)として確保する―。
この直後の北部フランス領インドシナ(現在のベトナム北部)進駐、それに続く日独伊三国同盟の締結は、武力による「南進路線」と、日独伊による「世界再分割」の危険な具体化だったのです。
対米英関係は急激に悪化します。41年からの日米交渉では、武力進出路線を変えようとしない日本にたいしアメリカは制裁措置を次第に強めます。侵略戦争を美化する靖国神社の軍事博物館・遊就館は、この交渉過程を「平和を模索する日本」(『遊就館図録』)などと、日本がまるでアメリカの「対日制裁の強化」で戦争に追い込まれたかのように描き出しています。
「日米関係だけを意図的に切り離して論じている点に根本的な誤りがあります。日本の中国侵略との関係を言わない。事実を矮小化した、非歴史的なとらえ方です」。一橋大学の吉田裕教授(日本近現代史)の指摘です。
「日米交渉の核心は、日本の中国からの撤兵問題です。しかし、東条英機陸相は『撤兵問題は心臓だ』などとして、譲れば中国だけでなく朝鮮支配までも危うくすると強硬に主張した。妥協の姿勢はありませんでした」
日米交渉さなかの7月末、日本は南部フランス領インドシナにも兵を進め、南進の基地を確保します。アメリカは日本への石油輸出全面禁止に踏み切ります。日本では「このままではジリ貧になる」と早期開戦論が勢いを増し「自存自衛」論が台頭します。軍事力による資源獲得のための対米英戦へ向け大きく舵をきったのです。
ハル・ノートを口実に
対米英開戦は41年7〜12月にかけて開かれた、天皇出席による4回の「御前会議」を通じて決定されていきます。7月2日は「対英米戦を辞せず」と確認。続く9月6日に「10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」と踏み込みます。
「決定的なのは11月5日の御前会議です。12月上旬の開戦が確定されたのです。『武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す』と明記しました。陸海軍の準備は加速します。引き続き『外交交渉』は行うとはしたものの、その目的は日本の開戦決意を悟られないようにするための『欺へん外交』でした。あの戦争を『自衛』と言いたい人たちは12月1日の御前会議を最終決定と強調しますが、形式的決定でしかありません」(吉田教授)。
遊就館などが「12月1日」にこだわるのは、11月26日にハル米国務長官から「半年間の交渉を無意味にするような最強硬案(『ハル・ノート』)」を示された日本が「開戦やむなし」となったとするストーリーを崩したくないからです。
しかし、ハル・ノートはあくまで米政府の「試案」であり、「最後通牒」ではありません。その内容も、中国からの撤兵とともに、国の領土・主権の尊重や内政不干渉など当時の国際的な世論を一定反映したものでした。ハル・ノートに反発した日本の姿勢は、中国侵略と南進政策が、いかに世界の流れに逆らっているかを際立たせています。
ハル・ノートが日本に示された26日、日本海軍の機動部隊はすでに真珠湾攻撃のためにひそかに停泊地(択捉島)を出港していたのでした。
虚構の「大東亜共栄圏」
「日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることなく…」。遊就館は、こう述べ日本の戦争が第2次大戦後のアジア諸国の独立を早めたかのように主張します。
「歴史の正確な記述ではありません。日本による旧宗主国打倒や占領統治がこれらの国の独立の必須条件ではなかったからです。第1次大戦直後から独立の動きは始まっていました」。慶応大学の倉沢愛子名誉教授(東南アジア社会史)はこう語ります。
開戦直前の41年11月に大本営政府連絡会議が決めた「南方占領地行政実施要領」は東南アジアを軍政下に置く目的を「重要国防資源の急速獲得」などとし、むしろ独立運動などは「誘発せしむることを避くる」などと明記しました。
米英軍の反撃が本格化してきた43年11月、対日協力を得る狙いで「満州国」をはじめ、フィリピンやビルマなどの代表を東京に招き「大東亜会議」を開いて、「自主独立の尊重」などを掲げます。しかし、同年5月の御前会議で決めた「大東亜政略要綱」は次のように明記しました。
「『マライ』『スマトラ』『ジャワ』『ボルネオ』『セレベス』は帝国領土と決定し、重要資源の供給源として極力之が開発並びに民心の把握に努む」。重要資源をおさえる日本の本心は不動でした。
「大東亜共栄圏」で日本が行った資源・食糧などの収奪強化は、それまでの現地の生産や流通体制の仕組みを崩壊させ、食糧がいきわたらず、ベトナムで200万人など各地で多くの餓死者も生む事態を引き起こしました。インドネシアで詳細な調査を実施した倉沢名誉教授はいいます。
「コメ増産を要求しながら、働き手を『ロームシャ』として強制的に動員する。日本の占領は耐え難い矛盾と犠牲を強いたのです。戦後しばらく生産が回復せず深い傷を残しました」「善意で独立の助けをした個々の日本人はいました。しかし日本国家の意思は違いました。都合のいい事実だけつなぎ合わせても真実にはなりません」
(このシリーズおわり)
( 2014年11月01日,「赤旗」)