【この人に聞きたい】

2016年】

中村梅之助さん 益川敏英さん 那須正幹さん 山川静夫さん 樋口陽一さん 大石芳野さん 前進座嵐圭史さん 俳優市村正親さん 渡辺美佐子 画家野見山暁治さん山本おさむ 俳優鳳蘭さん

2015年】

脚本家倉本聰さん 俳優・作家・歌手高見のっぽさん 俳優鈴木瑞穂さん 作家佐藤愛子さん 写真家田沼武能さんコメディアン萩本欽一さん 料理家、文筆家辰巳芳子さん 脚本家橋田壽賀子さん 101歳日本初の女性報道写真家笹本恒子さん女優香川京子さん 映画監督山田洋次さん 那須正幹さん 

 

*     2016

*        1

*        中村梅之助さん

*        中村梅之助さんをしのぶ/「金さん」は庶民とともに/お客さんの喜びが私の喜び

*        ノーベル賞物理学者益川敏英さん

*        その1/「二足のわらじ」を継いで

*        その2/勉強嫌いの小学校時代/勘違い≠ナ理科好きに

*        その3/素粒子研究の巨人たちと/自称「いちゃもんの益川」

*        その4/益川・小林理論にお墨付き/うれしすぎて飲みすぎた

*        那須正幹さん

*        この人に聞きたい/児童文学者那須正幹さん/その1/『ズッコケ』は平和の申し子

*        この人に聞きたい/児童文学者那須正幹さん/その2/広島で被爆、生き抜いた人たち

*        この人に聞きたい/児童文学者那須正幹さん/その3/誰もやっていないものを/戦闘に加わった子ども描く

*        山川静夫

*        この人に聞きたい/エッセイスト・元NHKアナウンサー山川静夫さん/その1/歌舞伎にのめり込んだ学生時代

*        この人に聞きたい/エッセイスト・元NHKアナウンサー山川静夫さん/その2/アナウンサーの修業時代

*        この人に聞きたい/エッセイスト、元NHKアナウンサー山川静夫さん/その3/科学番組「ウルトラアイ」

*       

*        この人に聞きたい/エッセイスト・元NHKアナウンサー山川静夫さん/その4/「紅白」白組を9年

*        樋口陽一

*        東京大学・東北大学名誉教授樋口陽一さん/憲法は厳然としてある

*        作家原田マハさん/新作長編『暗幕のゲルニカ』/絵画をメディアにピカソが変えた

*        2016今言わなければ/早稲田大学名誉教授鹿野政直さん/沖縄史研究で見過ごせぬ

*        6月

*        写真家大石芳野さん/第1話/想像力かきたてる一枚に挑む

*        写真家大石芳野さん/第2話/写真人生の原点はベトナム

*        写真家大石芳野さん/第3話/やっと渡れた沖縄

*        7月

*        この人に聞きたい/前進座嵐圭史さん/第1幕/代表作「怒る富士」の真っ最中/今も変わらぬ棄民政治問う

*        この人に聞きたい/前進座嵐圭史さん/第2幕/苦難の中の子ども時代/巡演の先々でされた交歓会

*        この人に聞きたい/前進座嵐圭史さん/第3幕/「子午線の祀り」/戦前新劇の風≠ノ触れた

*        この人にききたい/俳優市村正親さん/第1幕/親子の情、反戦の思い、すべて舞台から

*        8

*        この人に聞きたい/俳優市村正親さん/第2幕/正道の歩み示した2人の師匠/「自分の時計で生きろ」

*        この人に聞きたい/俳優市村正親さん/第3幕/「舞台に市村は見えなかった」/鬼気迫るゴッホ

*        女優渡辺美佐子

*        この人に聞きたい/女優渡辺美佐子さん/第1話/ドラマ、朗読劇、反戦の思い込めて

*        9

*        この人に聞きたい/女優渡辺美佐子さん/第2話/俳優座養成所からデビュー/尾行きっかけに女優の道へ

*        この人に聞きたい/女優渡辺美佐子さん/第3話/一人芝居「化粧」/井上ひさしさんの挑戦状

*        10

*        この人に聞きたい/画家野見山暁治さん/第1回/世界制覇を信じ込んだ時代

*        この人に聞きたい/画家野見山暁治さん/第2回/恩師と出会った中学時代/絵は不思議、手品のようだ

*        この人に聞きたい/画家野見山暁治さん/第3回/「無言館」創設、戦没画学生の遺族訪ねて

*        11

*        この人に聞きたい/漫画家山本おさむさん/第1話/福島暮らし10年/みんな原発事故忘れてない、それが希望

*        この人に聞きたい/漫画家山本おさむさん/第2話/デビュー目指した長崎時代/理解ある恩師、思わぬ

*        この人に聞きたい/漫画家山本おさむさん/第3話/タブーに反発、障害者を描く/差別を知り身もだえた

*        12月)

*        この人に聞きたい/漫画家山本おさむさん/第4話/ろう重複児描く「どんぐりの家」/意思通じなくても主人公

*        俳優鳳蘭さん

*        第1回/反対押し切り宝塚入団/「ここにおるでー!」舞台に届いた父の声

*        第2回/トップ就任「復員兵」役で単独初主演/稽古では「へたくそ!」

*        第3回/心で演じる夢の世界の男性/客席を甘く抱きしめて

 

*     2015

*        1月

*        脚本家倉本聰さん

*        1回/人々のふるさと奪った原発事故/罪負う気あるのか

*        1回/浪費が善≠ニいう不思議な思想/原点から考え直すとき/

*         第2回/「北の国から」考えたこと/一寸ずつ動かせば必ず動く

*         第3回/「創」と「作」は違う/金がないなら智恵しぼれ

*        第4回/おやじから受け継いだもの/損得考えず真っすぐ生きる

*        3月

*        俳優・作家・歌手高見のっぽさん

*        前編/「できるかな」無言の20年余

*        後編/漱石から谷崎まで/本ほど楽しいものはない

*        俳優鈴木瑞穂さん

*        第1幕/軍国主義から目覚めた平和/憲法は愛情に満ちていた

*        第2幕/初舞台から63年/自分を磨き抜けば個性が残る

*        第3幕/僕が出会った監督たち/役者の膨らみ見逃さない

*        4月

*        作家佐藤愛子さん

*        いっせい地方選後半戦26日投票/共産党が伸びるのはうれしい/作家佐藤愛子さん

*        第1話/個性派ぞろいの家族/父が認めた「おもしろい悪口」

*        第2話/借金地獄の日々描き直木賞に/「お金が入る」と聞き受賞

*        最終話/小説を書くことの意味/人の生き様を受け入れる

*        「赤旗」読んで戦争法案阻止しよう/本質をズバリ/共同の新聞/多彩な識者

*        6月

*        写真家田沼武能さん

*        その1/66年、肖像を撮り続けて/顔は本質、人生写したい

*        その2/わが師・木村伊兵衛の言葉/被写体にほれろ、語らせろ

*        その3/ユニセフ親善大使・黒柳徹子さんと30年

*        7月

*        コメディアン萩本欽一さん

*        第1回/74歳の大学生/母ちゃんとの約束果たしに

*        第2回/高校時代/食事抜いてチャップリン

*        第3回/運≠ヘ必ずやってくる

*        第4回/やっと親孝行できました

*        8月

*        料理家、文筆家辰巳芳子さん

*        第1回/父に作った「いのちのスープ」

*        第2回/生活はいのちの現場/家事を通して自立する

*        第3回/日本人の根幹お米/風土が人を生かし育てる

*        10月

*        脚本家橋田壽賀子さん

*        第1話/終戦後食糧難で山形へ/20歳で出合ったおしんの原点

*        第2回/結婚しなきゃ書けなかった/嫁姑の関係は実体験

*        第3回/自分の脚本、演技で変化/思いもかけない新鮮さ

*        11月

*        101歳日本初の女性報道写真家笹本恒子さん

*        上/明治生まれの女性たちを取材して

*        下/96歳で大ブレーク/何が起こるか分からない

*        女優香川京子さん

*         その1/「ひめゆりの塔」の使命感/台本で知った沖縄戦の悲劇

*        この人に聞きたい/女優香川京子さん/その2/独立プロと出合って/社会の矛盾に気づかされた

*        この人に聞きたい/女優香川京子さん/その3/小津、溝口、黒澤監督と/今になってわかることも

*        12

*        映画監督山田洋次

*        この人に聞きたい/映画監督山田洋次さん/その1/新作「母と暮せば」への思い

*        この人に聞きたい/映画監督山田洋次さん/その2/寅さん的な生き方/笑いと涙は裏腹

*        この人に聞きたい/映画監督山田洋次さん/その3/監督デビューの頃/観客の笑いに背中押された

*         

                     

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2016

1月】

中村梅之助さん

中村梅之助さんをしのぶ/「金さん」は庶民とともに/お客さんの喜びが私の喜び

 劇団前進座代表で、テレビ時代劇「遠山の金さん捕物帳」(1970〜73年)の初代金さん役で知られる中村梅之助さんが18日、肺炎のため亡くなりました。85歳でした。

 日曜版「この人に聞きたい」で取材したのは2014年3月。ざっくばらんでユーモアたっぷり。豪快に笑う楽しい人でした。
 俳優人生を顧みて、「見て喜んでくれるお客さんがいる。それが一番の喜びでした」としみじみ語りました。
 戦後、自ら舞台装置を作った「アリババ物語」に子どもたちが目を輝かせたこと。橋が落ちた山間の集落に牛車で入り、住民が泣いて喜んでくれたこと。20代の巡業中おばあさんが手を取り、「来年も来ておくれ。それを楽しみにもう1年生きるから」と言ったこと。
 40歳から出演した「金さん」も「誰のために笑い、泣き、怒るのか。これを忘れず、台本を読みました」と。
 テレビ出演800本以上。ロケ現場で草むしりをしていた女性の「有名になってもいいけど偉くなっちゃいけないよ」との言葉を大事にしました。庶民の中で生きた人でした。

教えない教え
 父で名優の三代目中村翫右衛門(かんえもん)が歌舞伎界の封建的体質を批判して松竹を飛び出し、仲間と前進座を創立したのは1歳の時。以来、人生は同座とともにありました。
 初舞台は8歳、「蜂の巣長屋」。翌年、四代目中村梅之助を襲名。空襲が激しかった45年、15歳の時に疎開先の長野から父に呼び戻されて入団しました。
 「わが家には『教えない教え』があります。21歳までは、訳も言われずボカーンとやられました。答えは台本にしかない。行間を読むことを覚えました」
 舞台の合間に抜け出して名人の歌舞伎を見るなど必死で芸を磨き、「勧進帳」の弁慶、「俊寛」の俊寛をはじめ多くの当たり役を持ちました。駒形茂兵衛を演じた「一本刀土俵入」で、同座は文化庁芸術祭賞を受賞。昨年5月、「人情噺(ばなし)文七元結」の家主甚八役が最後の舞台となりました。
 取材の最後に「僕は選挙の資格をもって以来、全部共産党に入れているの。これだけは自信を持っています」と。08年、「赤旗」創刊80周年の時は、戦争に向かう動きを危ぐしつつ、「多くの人々の中に入っていってほしい」と激励を寄せてくれました。
 大塚武治記者
(
2016年01月31日,「赤旗」)

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ノーベル賞物理学者益川敏英さん

ノーベル賞物理学者益川敏英さん/その1/「二足のわらじ」を継いで

学問と平和ともに大事/研究室の外でも大忙し
 素粒子研究で2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さん。未知なる自然の探求とともに、さまざまな社会活動に参加してきました。「二足のわらじ」の半生を聞きました。
 北村隆志記者

 〈8年前にノーベル賞を受賞して、時の人となった益川さん。これまでと、さまざまなことが変わりました〉
 一番変わったのは何だと思います? 新幹線のホームの歩き方ですよ。テレビで顔を知られたでしょう。歩いていると突然、「握手して」と手を出してくる人がいる。ビックリして飛びのいたこともありますよ。ホームの端っこを歩いていたら、落ちちゃう。受賞後は必ず、ホームの中央を歩くようにしています。
 とにかく忙しくなりました。例えば講演ですが、それまでは専門家向けが年数回ぐらい。それが昨年は90回ですよ。計算すると1週間に1・8回。講演の予定が決まるとほかの人が聞きつける。以前、弘前大学にいったんですが、「そこまで来たら、うちにもぜひ」と二つの高校から頼まれました。そうやってどんどん講演が増えちゃうんですよ。

大空襲の記憶
 〈益川さんはストックホルムのノーベル賞受賞講演で戦争体験を話しました〉
 その時、変なことがあったんです。事前に講演原稿を数人の友人に見てもらったんですが、どういうわけかコピーが出回ってしまって、「戦争の話をするのは不謹慎だ」という声が聞こえてきました。学術的な場で戦争の話はすべきでないといいたいのでしょう。でも私は内容を一切変えませんでした。
 受賞講演で戦争について話した人は僕だけじゃないんですよ。1903年に物理学賞を受賞したキュリー夫妻の、夫のピエールもその一人。ピエールは受賞講演で、ラジウムやダイナマイトなどの優れた発見が「諸国民を戦争に引きずり込む大犯罪人の手にかかれば、恐るべき破壊の道具となります」と警告しました。
 〈5歳の時に名古屋で終戦を迎えた益川さん。戦争をかろうじて記憶している最後の世代です〉
 記憶に残っているのは45年3月12日の名古屋大空襲のことです。その時の二つの場面を、スチール写真を見るように鮮明に覚えています。
 一つは、ガラガラと大きな音がしたと思ったら、自宅2階の屋根を突き破って、焼夷(しょうい)弾が土間に落ちてきたこと。たまたま不発弾だったから助かりました。
 もう一つは、両親が家財道具を積んだリヤカーをひきながら、火の海を必死の形相で逃げている姿。リヤカーの上にぼくはちょこんと座っています。
 子どもだったからその時は怖くもなんともなかった。でも中学・高校に入り、新聞や本で戦争を知ると、「焼夷弾が爆発したら、自分は死んだか、大やけどしただろうな」と思い、恐ろしくなりました。

恩師の信念を
 〈戦争体験は科学の道にはいってからも益川さんの生き方の根底にあります。若い人に「科学者は研究室にこもっているだけではだめだ」と語ります〉
 ぼくの恩師は名古屋大学の坂田昌一先生()です。先生の持論が「科学者である前に人間たれ」でした。
 坂田先生は「物理の研究と平和運動は二つとも同じ価値がある」という信念をお持ちでした。研究室には「二足のわらじがはけないようじゃ一人前じゃねえ」という雰囲気がありました。ぼくも末席の一人でその影響を受け、平和運動や労働組合活動をずっとやってきました。
 大学院生だった64年、原子力潜水艦の佐世保寄港が大問題になりました。その時は、原潜の構造をにわか勉強して、地域のお母さん方の集まりを講演して回りました。
 その時、原子力についてレクチャーしてくれたのが、原子核物理が専門の京都大学の故・永田忍先生でした。先生は名古屋大学に出向していたんです。
 永田先生には、ぼくが70年に京都大学の助手になった時にもお世話になりました。隣の研究室が永田先生の部屋だったんです。
 当時、関西電力が京都の久美浜町(現・京丹後市)に原発をつくろうとして、町は賛成派と反対派で真っ二つになっていました。
 永田先生は、赴任したばかりのぼくに、「反対派から講演依頼がきているから、行ってよ」と言うんです。
 行ってみると、テレビや新聞の記者、大勢の警官もいて、大変な騒ぎ。もみくちゃにされ、疲れました。
 家に帰ったら女房が「ちっちゃいけれど、テレビに映っていましたよ」というので、「『ちっちゃい』だけ余計だ」と言い返し、二人して大笑いしました。
 久美浜にはその後も3回、行きました。一度は、いろいろな専門家20人ぐらいの調査団をつくって行った。結局、関電は久美浜の原発建設をあきらめました。坂田先生の教えに従い、若いころから「二足のわらじ」を実践してきたつもりです。
 〈昨年、安倍政権が戦争法案を強行しようとした際には、「安全保障関連法案に反対する学者の会」の発起人となりました〉
 東京の反対デモでは、志位さん(和夫・日本共産党委員長)と腕を組んで歩きました。写真で見るより、実際はすごく背の高い人で驚きましたよ。(笑い)(つづく)

注:坂田昌一(さかた・しょういち、1911―70年) 物理学者、元名古屋大学教授。湯川秀樹、朝永振一郎とともに日本の素粒子研究をリードした。

ますかわ・としひで=1940年、愛知県生まれ。名古屋大学大学院理学研究科博士課程修了。2008年ノーベル物理学賞受賞。現在、京都大学名誉教授、京都産業大学教授、名古屋大学素粒子宇宙起源研究機構長
(
2016年01月31日,「赤旗」)

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【2月】

物理学者益川敏英さん/その2/勉強嫌いの小学校時代/勘違い≠ナ理科好きに

 〈子どものときは近所でも有名なわんぱく。1946年に小学校に入学しました〉
 小学校では全然勉強しない子でした。
 先生の話も全然聞いてない。新学年になって教科書とノートを新しくするときに、母親が前の学年のノートを見たら、何も書いてなかった。怒られましたよ。
 母親があるとき、先生に「うちの子は全然勉強しないので、たまには宿題を出してください」と頼んだことがあります。
 先生が「宿題は毎日出していますよ。やってこないのは益川君だけです」と答えたから、さあ大変。その夜は正座させられて、こってり2時間しぼられました。それでも、一晩寝ておきるとケロッとして、勉強しませんでした。
 話は聞かない。宿題はしない。怒られても反省しない。先生にとってこれほど扱いにくい子どもはいなかったでしょう。
 でも、ぼくはいい先生に恵まれました。
 3年生の担任だった稲垣という男の先生は、どんな子も分け隔てせず、いいところを伸ばそうとしてくれました。図画の授業で先生の肖像画を描いた時の話です。先生がはめていた腕時計の長針と短針まで描き込んだら、「観察眼が鋭い」とほめてくれました。小学校で初めてほめられました。すごくうれしかったのを覚えています。

父の自慢話
 〈そんな益川さんに科学に対する興味を最初に持たせてくれたのは父親でした〉
 ぼくの父親は戦前、洋家具工場を営む職人でした。工場や機械が軍に徴用され、戦後は砂糖の問屋をしていました。
 父は若い時、電気技師になりたくて、早稲田大学の通信教育を受けたりしました。でも三角関数でつまずいて、結局断念しました。
 その後も父は、科学や技術に強い興味があって、いろいろな知識を持っていました。
 その知識を自慢したかったんでしょう。銭湯の行き帰りの夜道で、小学生のぼくに「日食や月食はなぜ毎月起こらないか、わかるか」なんて聞いてくるのです。「わからない」というと、うれしそうに「月の軌道面と地球の軌道面が5度ずれているからだ」と説明してくれました。
 「モーターはなぜ回るのか」「電車のドアは一度閉まると絶対に開かないのはなぜか」…子どもには難しい話も結構ありました。
 おかげで、普通の小学生は知らないような科学的知識を得ることができました。普段の授業は予習してきた子にかないません。でも先生が「こんなこと、知ってますか」と脱線すると、父に仕込まれた知識が役立ったんです。
 そのうち、自分は理系が得意だと勘違いするようになりました。新しい教科書がくると、理科と算数はのぞいてみる。そうやって、勘違いが雪だるま式に膨らんでいく。やっぱり教育はしかるより、ほめて伸ばすことが大切です。
 〈科学をもっと勉強したいと、高3の最後に猛勉強して、みごと名古屋大学に合格。大学ではヘーゲル哲学やマルクス・エンゲルスなどの社会科学に出合いました〉
 当時は、ヘーゲルやマルクスくらい知らないと、ばかにされたものです。自分は理系だからといっても通用しない。
 ヘーゲルは『大論理学』『精神現象学』『法哲学』などを読みましたよ。難しくて、2n読むのに2週間ぐらいかかりました。
 マルクスやエンゲルスもだいたい読みました。マルクスはきちんと読めば分かるから難しくない。
 『資本論』も読みました。「価値」の形成から始まって、「剰余価値」にいたり、搾取の仕組みを明らかにする…。
 文系なんて過去の記憶と知識だけだと思っていたら、ちゃんと法則がある。これはすごいと思いました。(つづく)
(
2016年02月07日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/物理学者益川敏英さん/その3/素粒子研究の巨人たちと/自称「いちゃもんの益川」

 〈大学2年のときに60年安保闘争がありました。益川さんの通った名古屋大学でも大きな運動が起こりました〉
 名古屋の安保反対の統一行動には毎回、参加しました。午前中、市内の団地で署名を集め、夕方、集会にいきました。
 ぼくは署名集めが下手で、出てきた奥さんに「間に合ってます」なんていわれて終わっちゃう。上手な人は世間話しながら、スムーズに署名をしてもらっていました。
 毎日、デモばかりでしたが、結構勉強もしたんです。署名集めと集会の間に、5時間くらい時間がある。その間に、本を読んだり、友達と議論したり。科学、哲学から、政治の問題まで…。集会が終わった後、そのまま友達と喫茶店に入って深夜まで議論することもしょっちゅうでした。
 〈大学院に進学し、そこで生涯の師と仰ぐ、素粒子研究の巨人・坂田昌一さんと出会います〉
 坂田先生は研究者として優秀なだけでなく、研究室の民主的運営と、若手の育成に腐心していました。素粒子研究室を、英語の素粒子(エレメンタリーパーティクルズ)の頭文字をとって、「E研(いーけん)」と呼んで、「議論は自由に、研究室では平等だ」を実践していました。

ぬかるみの靴
 忘れられない体験があります。
 ぼくがドクター(博士課程)1年生のとき、会議の報告のために先生の部屋に行きました。話が終わって、部屋を出てから、忘れ物を思い出し、あわてて戻って、ドアを開けたら、先生がモップで床を掃除しているんです。ハッとして、自分の靴を見たら泥だらけ。
 名大構内は舗装がすすんでなく、ぬかるみを歩いた靴のまま先生の部屋に入ったんですよ。
 先生は「そんな靴で入ってくるやつがあるか!」と怒鳴るようなことはしなかった。大変恐縮しました。
 E研では、みんなあだ名がありました。坂田先生は「へ理屈の坂田」。ぼくは、人に変な名前をつけられるのがいやだから、自分で「いちゃもんの益川」とつけた。いつでも、どんな相手でも議論を吹っかけていたからです。
 先生が東京のお土産をもってきて、「老舗の羊羹(ようかん)だからおいしいよ」とみんなにすすめたときのことです。ぼくは「有名だからおいしいというのは、権威主義じゃないですか」と突っ込みを入れたんです。先生は「一本とられた」という顔をして、笑っていました。
 〈後にいっしょにノーベル賞を受賞する小林誠さんとは、名大大学院で知り合いました〉
 彼は秀才です。大学院に入ったときから、上級の院生のゼミにもぐりこんでいました。そのゼミを、名大の助手だったぼくが指導していたんです。結構高度な内容を議論していても、彼は平気でついてきていました。
 〈「いちゃもんの益川」の名の通り、日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹さんにも議論を吹っかけようとしました〉
 ぼくが名大から、京都大学理学部の助手に移ったとき、湯川先生はもう退官していましたが、月に1回、湯川先生を囲む「混沌会」というセミナーを若手中心にやっていました。助手になって2年目、会の世話役として湯川先生と2人で打ち合わせをしていました。そのとき、先生の研究方法への疑問をぶつけたんです。
 湯川先生の雷は有名で、一度落ちたら大変だ、とみんな恐れていました。ぼくは丁寧に言葉を選んで話をし、最後に「先生のやり方は間違っているんじゃないですか」と言おうとした。その直前に、向こうから「湯川先生、会議です」って。そのまま先生は会議に行っちゃった。おかげで、雷は落ちず、ぼくの首はつながりました。(笑い)(つづく)
(
2016年02月14日,
「赤旗」)

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物理学者益川敏英さん/その4/益川・小林理論にお墨付き/うれしすぎて飲みすぎた

 〈益川さんが京大助手になった2年後の1972年、名大大学院を出た小林誠さんも京大助手に赴任します。自然に「一緒に研究しよう」となりました〉
 そのときの共同研究がノーベル賞の対象になりました。でも当時、ぼくは京大職員組合の理学部支部の書記長をしていて、めちゃくちゃ忙しかったんです。
 午前中に小林君と議論すると、午後は組合の仕事でキャンパスじゅうを走り回っていました。組合の集会があっても、教員はまじめに出てこない。だからちゃんと出て来いと研究室を回らないといけないんです。

雇い止め抗議
 そのころ一番の問題は、非常勤職員の「雇い止め」でした。研究費の支給が減ると、教授たちは真っ先に研究室の非常勤の秘書の首を切っていたんです。
 若い研究者のサポートもしてくれる彼女たちが、そんな目にあうのをぼくは許せませんでした。何度も契約更新した場合、簡単に解雇できないという裁判の判例もありました。
 ぼくは六法を持って教授の部屋に行き、机をバーンとたたいて、「勝手な解雇は許されない!」と怒鳴りつけたこともあります。
 立て看板を書き、夕方は書記局の会議に出る。大学を離れるのは午後7時すぎです。家に帰って妻と一日のことを話し、9時から夜中の1時ごろまで勉強して、翌日また小林君と議論する。2人目の子どもが生まれたばかりでしたし、生涯で最も慌ただしかったですね。
 〈組合の集会で、内職しながら論文を書いた益川さん。「これでノーベル賞をとれるかも」と言っていたと…〉
 それはうそうそ。そのとき、ノーベル賞なんて全然考えていませんよ(笑い)。でも集会で論文のための数式を計算していたのは事実。だから半分は正しい。
 ぼくは内職が大変うまいんです。片耳は集会の発言を聞いていて、質問しなきゃいけないときは、ちゃんと質問していました。

首相許せない
 〈当時発見されていたクォーク(素粒子の最小単位)は三つ。益川・小林両氏の共同論文は六つあると予想しました。しかし、最初はだれも相手にしませんでした〉
 素粒子研究も実証科学ですから、実験で確認されない限り、あくまで仮説の一つです。
 益川・小林理論が実験的にも有望だとお墨付きが出たのが、1978年の素粒子研究の国際会議です。世界中で回り持ちで開かれており、その年は東京で開かれました。
 最終日のサマリートーク(総括講演)をしたのが、のちにノーベル賞を共同受賞したシカゴ大学の南部陽一郎先生でした。ぼくにとっては憧れの大先生。大学院の時に一番勉強したのが南部先生の論文でした。その南部先生が、もっとも有望なのはぼくたちの理論だと話をしました。
 ぼくはうれしさで体が震えました。仲間もお祝いしてくれました。新宿のデパートの屋上のビアガーデンに行って、2g入りの銅のジョッキでビールを飲まされたんです。当時、ぼくは東大助教授で、東久留米に住んでいたんだけど、どうやって家まで帰ったか覚えてません。あれほど飲んだのは、後にも先にもあのときだけです。
 そのとき、クォークは五つまで見つかっていました。最後のトップクォークが94年に発見され、われわれの予想が実証されました。
 〈科学研究とともに平和の問題も大切に考えてきた益川さん。「九条科学者の会」の発起人です〉
 安倍首相は、立憲主義の国の首相とは思えません。憲法違反の戦争法を強行しただけでなく、今度は9条の明文改憲までしようとしている。
 2005年に「九条科学者の会」が発足するときのメッセージに「平和の日本か戦争の日本か最后の攻防の瀬戸ぎわまで来ています。我々がこの戦いには勝たねばなりません」と書きました。今がそのときです。憲法9条を守ろうとする皆さんの最後にくっついて、がんばります。
 (おわり)
(
2016年02月21日,「赤旗」)

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【4月】

この人に聞きたい/エッセイスト・元NHKアナウンサー山川静夫さん/その1/歌舞伎にのめり込んだ学生時代

戦争はしないと誓った以上、文化国家をめざすほかない
 NHKの看板アナウンサーとして人気を博した山川静夫さん(83)。歌舞伎や文楽に造詣が深く、現在はエッセイストとして活躍しています。歌舞伎との出合い、その魅力とは―。
 板倉三枝記者

 〈歌舞伎との縁の始まりは、学生時代です〉
 僕は静岡浅間(せんげん)神社の神主の息子として生まれました。
 父は神主、母は学校の教師という堅い家だったのですが、祖父が芸能好きで柔らかい人でした。僕の胸ぐらをつかみ、「おのれこしゃくな、ヤセ浪人」と。僕は何のことかわからない。「チューシャはええ」というのが口癖でしたが、あんなに痛い「注射」がどうしていいのか不思議でした。それが、香川照之さんが継いだ市川中車の七代目だと知ったのは、ずっと後のことです。
 上京して国学院大学に進んで出会ったのが、歌舞伎好きの2人の友人でした。僕にとっては恩人ですね。
 誘われて、最初に歌舞伎座の立ち見席で見たのは、初代中村吉右衛門と六代目中村歌右衛門という2人の名優による芝居です。正直にいって、名優たちの演技や作品の内容が、このときすぐに理解できたわけではありません。でも、女形の歌右衛門の美しさには、「これが男か」とカルチャーショックを受けました。
 舞台も豪華絢爛(けんらん)で、静岡の公会堂とかでやっている芝居とはケタが違う。それから歌舞伎にのめりこんでいきました。
 問題は金がないことでした。貧乏学生にとって歌舞伎座は高根の花。地下鉄は高いので、都電に徹しました。
 観劇料の安い3階席のてっぺんから「中村屋!」「成駒屋!」と大声をかけるようになったのは、大学2年の時です。この熱意が認められ、「大向うの会」(掛け声をかける同好会)の会員にしてもらいました。会員になると、3階席に自由に出入りできるんです。

義理人情学んだ
 大向うの人々≠ノは温かい人情がありました。芝居がはねると、この会の職人あがりのご隠居さんたちが、よく酒を飲ませてくれました。おでん屋のおばさんも、「学生さん、おなかが減るでしょう」と、茶わんにおでんの汁や茶飯をいっぱい詰めてくれました。
 歌舞伎は義理人情を教えてくれる演劇で、庶民の娯楽です。節約してためたお金で肩を寄せ合いながら、3階席や天井桟敷の一幕見席で見物できたのは幸せでした。義理人情の修業を4年間続けたようなものです。ほとんど大学に行かないで、歌舞伎座が学校みたいなものでした。
 〈下宿先の大家さんが、静岡の両親に手紙を出したのは、その頃です〉
 「お宅の息子さんは歌舞伎に凝っている」と。日曜日は友達が大勢来て、拍子木たたいて「知らざぁ、言って聞かせやしょう」などとやっているものだから、大変迷惑したのでしょう。歌舞伎の暴走族≠ンたいなものでしたからね。
 その下宿を出て、十七代目中村勘三郎に、騒いでもいい下宿を世話してもらいました。
 〈十七代目勘三郎との縁は、ものまね≠ゥら始まります。山川さんは、友人の勧めでラジオの素人ものまねコンクールに出場。勘三郎の声音をまね、「今週のナンバーワン」に選ばれました〉
 1等賞が2000円。ナンバーワンだけが決戦をやる全国大会では、3等になりました。その放送を勘三郎が聞いていました。すぐ歌舞伎座の楽屋に呼ばれて。それが最初の出会いです。
 頼まれて勘三郎が早変わりするときの間を蚊帳や籠の中に隠れた僕が声色でつないだこともあります。「学校があるからやれません」と言ったら、「あんた、学校行ってないだろう」と説得されました。(笑)
 歌舞伎には、江戸時代のあらゆる文化が詰まっています。江戸時代の庶民の情報源、週刊誌≠フような役割もありました。手の届かない武家のお屋敷の奥で何が行われているのか。お家騒動の内情を巧みに仕立て、庶民に披露しました。
 近松門左衛門は、男女の心中事件を世話浄瑠璃につくりかえ、封建社会の理不尽を世に問いました。義理・人情のしがらみや人間の弱さを描くと同時に、巨悪を暴き、不正をただす反骨精神も忘れませんでした。
 だからこそ歌舞伎は庶民の圧倒的な人気を得たのだと思います。
 〈「歌舞伎の芸は一朝一夕にはできない」と言います〉
 だから世界無形文化遺産なんです。先輩の芸を仰ぎみて精進することがなくなれば、歌舞伎は終わりです。
 僕は「稽古照今(けいこしょうこん)」という言葉が好きなのですが、「稽古」というのは古いことをよく考える、という意味です。日本で一番古い『古事記』の序文には、「古(いにしえ)を稽(かんが)へて今に照らす」とあります。時間をかけて芸を磨き、今に照らすことが大事なのです。
 歴史もそうですね。僕らは太平洋戦争で苦しみの中を生き抜いてきた。そういうことをよく考えて、もう戦争はしないと誓う。これも今に照らすということでしょう。
 日本は戦争を放棄した以上、科学技術や伝統文化を基本とした文化国家をめざすほかないと思います。
 (つづく)

やまかわ・しずお=1933年、静岡県生まれ。NHKにアナウンサーとして入局。「紅白歌合戦」「ウルトラアイ」などを司会。『歌舞伎の愉しみ方』『大向うの人々 歌舞伎座三階人情ばなし』など著書多数
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2016年04月10日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/エッセイスト・元NHKアナウンサー山川静夫さん/その2/アナウンサーの修業時代

「のど自慢」の司会を歌舞伎役者の声色で
 〈歌舞伎に明け暮れた学生時代。就職で頭に浮かんだのは、祖父が勧めたアナウンサーの道でした〉
 子どもの頃、チビだった僕は、校庭の松の木によじ登って、草野球の実況≠得意としていました。
 それがとても評判が良かった。祖父に言ったら、「アンナーサーになれ」と。アナウンサーのことですね。
 その頃、放送はラジオからテレビへ静かに移行し始めていましたが、まだまだラジオが主流でした。NHKの第3次試験では、3枚の写真のうちの1枚を選び、その内容を実況させました。1枚目が当時の防衛庁長官が自衛隊を観閲しているもの、2枚目が砂川基地近くの小学校の上空を飛行機が飛んでいるもの。この2枚は学生の思想調査もかねていました。3枚目が優勝力士の鏡里(第42代横綱)が優勝カップをもらうところでした。
 小躍りして鏡里の写真を選びました。友人から鏡里が出るかもわからないぞ、と言われて徹底的に調べていたのです。それがうまくいきました。
 〈3000人を超す応募者の中、受かったのは16人でした〉
 奇跡としか思えませんでした。郷里の静岡へ「ユメデハナイゴウカクシタ」と電報を打ったら母から手紙がきました。「決して心おごるじゃないよ。おまえは幸せ者です。それ以上にお父さんお母さんは幸せ者です」と。
 母の手紙には、初めて父の涙を見たとありました。神主だった父は、僕の合格を祈ってくれていたそうです。
 父が死んだ後、僕の育児日記を見つけました。母が僕を妊娠したときから父が書いていたものです。小さな字でびっしりと。父によれば、神様とは「子を思う親の心」なのだとか。
 仏教では、「慈悲心」の「慈」は父の愛で苦を抜き去ってやる愛、「悲」は母の愛で楽を与える愛だそうです。父は曲がったことが嫌いで厳格な人でしたが、陰で僕の苦を抜き去ってくれていたのですね。母の手紙、父の育児日記は今も大事にしています。宝物です。

観客びっくり
 〈1956年、NHKのアナウンサーとして入局。目標は歌舞伎の舞台中継。新人時代はその無軌道ぶりから、当時はやった「太陽族」をもじり、「太陽」とあだ名をつけられました〉
 初任地の青森では、「のど自慢」の東北地区大会で、歌舞伎役者の声色で司会をしたことがあります。局長に「他局のアナウンサーがまねのできないことをやれ」と言われて、勇んだんですね。
 公開ラジオ放送で仲間のアナウンサーも観客もびっくり仰天。その夜の反省会では真っ先に俎上(そじょう)に載せられました。でも山川のやったことは、前代未聞のことなので…とウヤムヤに。それ以来、青森に変なアナウンサーがいると、良くも悪くも注目されるようになりました。
 〈青森と仙台中央放送局を経て、大阪中央放送局へ転勤。ここで文楽をはじめとする上方芸能と出合います〉
 大阪時代は、エネルギーの大半を文楽に費やしたといってもいい。文楽の放送は、ほとんど僕に任されました。番組の放送は地味な教育テレビです。同期生が総合テレビの芸能番組で、華やかにブラウン管に登場していたのに比べると、仲間に大きく水をあけられていました。
 でも僕は満足で、日曜日や休日になると、おにぎりを持って、京の寺々や大和路を歩きまわりました。文楽の師匠から芸談を聞き、独自に勉強しました。それが知らず知らずのうちに蓄積していました。修業時代は苦しいと言う人が多い中で、楽しみながら修業できたのは幸せでした。
 「多難は強運なり」という言葉がありますが、「難」か「運」かはずっと後になってみないとわからない。僕の場合、幸運づくめで、感謝の気持ちがいっぱいです。(つづく)
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2016年04月17日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/エッセイスト、元NHKアナウンサー山川静夫さん/その3/科学番組「ウルトラアイ」

襲いかかる蚊1000匹
 〈山川静夫さんはNHKに入局して12年後、東京に戻ってきました。「ひるのプレゼント」や「歌謡グランドショー」「思い出のメロディー」などの名司会で人気を集めます。中でも科学番組「ウルトラアイ」は、自ら実験台になる体験リポートで評判を呼びました。「ためしてガッテン」の前身です〉
 「ウルトラアイ」の司会をしてくれないか、と言われた時は、とまどいました。僕は文科系の人間で理科系は全くダメでしたから。そんな時、京都大学の生物学の権威、岡田節人(ときんど)さんにこう言われました。

やってみなきゃ
 「日本では文科系とか理科系と言っているが、外国ではそんなことは言ってられない。どちらも人間です。だからやるべきです」
 それを聞いて、やってみようと番組を引き受けました。番組をつくる過程では、わからないことは「わからない」と言い続けました。
 どこの会社でも、提案会議では一部の優等生の案が採用され、大部分の人はうなずき専門≠ノなることが多いでしょう。たまに面白いことを提案しても「無理だ」と頭から反対され、いつも無難で平凡な結論に達する。
 しかし、「ウルトラアイ」の場合は違いました。提案会議で出るのは珍案奇案ばかり。いつのまにか、三つの申し合わせができました。一、何を言っても笑わない。一、やってみなけりゃわからない。一、みんなでやればこわくない―。
 一見つまらなく見えることでも絶対手を抜かず、生身の人間が体験することで何か一つ教訓を得る。それが僕らの流儀でした。
 〈さまざまな実験にとりくみましたが、極め付きは、蚊に刺される実験でした〉
 酒を飲むと蚊に刺されるというが、本当だろうか。「じゃあ、やってみよう」ということになりました。
 実験台は僕です。僕が酒を飲み、ディレクターがジュースを飲んで、どちらを蚊が好むかを試すわけです。蚊は東京大学の理学部から借りてきました。
 「どれくらい、要りますか」と聞かれたので「100匹ぐらい」と言ったら、「100匹じゃ、テレビの映像には映りませんよ」と言われ、千匹借りることになりました。しかも借りたのは、蚊の中でもどう猛なトウゴウヤブカです。1週間餌をやらず、断食したのを連れてきました。
 まあ、怖かったね。千匹となると音のスケールが違う。ワーンと襲いかかった蚊は、ヒッチコック映画の「鳥」より恐ろしく思えました。約10分間、耐え、300匹近くの蚊に刺され、体はブクブクになりました。
 何がわかったかというと、酒を飲むと人間の血液の温度が上がり、蚊にとってはお燗(かん)がついたように感じられる。それで、刺したくなるのだと。
 そんなことを確かめるのに、何も僕が体を張る必要はなかった。でも、そのプロセスをそのまま画面で見せる番組は、人気が高かったですね。視聴率は一時30%でした。
 さすがに放送総局長からは、「山川をちょっと酷使しすぎる」と言われました。母にも心配されました。

「伝わる」説得力
 〈番組づくりで学んだのは、「伝える」と「伝わる」の違いでした〉
 僕が気をつけたのは、おばあさんにも小学生にもわかるようにすることです。とにかく伝わらなきゃダメだと。
 例えば共産党が良いことを伝えても、それが伝わらなきゃ何にもなりません。そのためには、あれこれやってみることも大事だし、相手にどうしたらわかってもらえるのか、話し合うことも大事です。
 「これ、わからない」と言われたら「そんなの常識」と言わないで、きちんと答えてあげる。手を抜かないということ。実際にやってみるということ。それが説得力、「伝わる」ことだと思います。(つづく)
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2016年04月24日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/エッセイスト・元NHKアナウンサー山川静夫さん/その4/「紅白」白組を9年

おふざけも真剣でした
 〈1974年に「紅白歌合戦」白組初司会以来、9年連続で白組司会を務めました〉
 まさか自分にお鉢が回ってくるとは想像もしませんでした。宮田輝さんが政界に転身したことで、ピンチヒッターみたいな感じで起用されたわけです。
 宮田さんは蒸気機関車≠フような力強い存在でしたから、僕は電車でいこうと思いました。パンタグラフで、電気を取り入れながら走る。技術や映像、ディレクターと連結してチームワークで乗り切る山手線型≠ナす。
 紅組の司会は佐良直美さん。紅組が森昌子、桜田淳子、山口百恵の「花の高一トリオ」なら、白組は野口五郎、郷ひろみ、西城秀樹の「新御三家」で対抗しました。
 当時の「紅白」は、運動会のように選手宣誓までやりました。年の暮れに男と女が白組と紅組に分かれて、「男はダメだ」「女はダメだ」と真剣におふざけをする。僕も佐良さんとサンバを踊りました。昔は遊ぶときは徹底的に遊ぶ、しゃれっ気があったと思います。
 佐良さんとは4年連続、あとは森光子さんと水前寺清子さんが1年ずつ、黒柳徹子さんと3年。82年の「紅白」が最後になりました。このときの視聴率が69・9%。今では考えられないことでしょうが、70%の大台を切った責任を取るかたちで降板させられました。

失語症こえて
 〈アナウンサーでは初めての専務理事待遇となり、94年にNHKを退局。定年後も、NHKBSの「山川静夫の華麗なる招待席」の司会を続けます。そんなとき、66歳で脳梗塞を発症します〉
 フリーになると、自由になったと思うでしょ。それで果てしなく飲む。野放図な生活がたたりました。
 運良く家で倒れ、運ばれた病院にもいい先生がいて、最小限のダメージで食い止められました。でも言葉がしゃべれず、「失語症」と判定されました。名前は書けても口では言えない。アナウンサーにとってしゃべれないことは致命的です。人知れず涙しました。
 でも救急車で病院に運ばれる時、大好きな歌舞伎の「三人吉三」のせりふは、しっかり覚えていました。リハビリをすれば治るかもしれない。自宅から研修時代の『アナウンス読本』を持ってきてもらいました。
 「アエイウエオアオ、カケキクケコカコ」と、一音節一音節をゆっくり発音する訓練を毎朝毎晩繰り返しました。それをテープレコーダーに吹き込んで、怪しい発音を重点的に直しました。病院での週2回のリハビリでは足りない。「リハビリは24時間」のつもりで、病室のテレビでスポーツ中継があると、音声を消して即時描写のまねごとをしました。日記もつけました。
 僕はしゃべりたかった。仕事にも復帰したかった。死んだ細胞は戻らないけれど、リハビリによって周りの細胞が活性化され、それが失った細胞を補ってくれるそうです。
 その後、半年以内に心不全、腸閉そくにもなりました。病気を治すのは、医術と運と気力です。医術と運は人任せ。気力だけは自分次第です。「治りたい」という気持ちで努力したことが、いい結果につながりました。
 〈単線でなく複線の人生を勧めます〉
 僕でいえば、NHKアナウンサーとしての山川静夫のほかに、別の山川静夫で生きるということです。僕には幸い歌舞伎がありました。歌舞伎のおかげでいい友だちにも恵まれました。本当におかげさまでした。人生を豊かにするには貯人≠ェ大事です。
 僕は今、83歳です。どういう人間として死んでいくか、考える時があります。文楽の竹本住大夫さんは、「山川はん、やっぱり人生の最後の勝負は人間性でっせ」と言います。
 僕は「あの人はアナウンスがうまかったね」と言われるよりは「あの人はいい人だったね」と言われる方が尊い気がします。僕はそう言ってもらえないかもしれないけど、そう言ってもらいたいなあ。(おわり)
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2016年05月08日,「赤旗」)

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2016今言わなければ/東京大学・東北大学名誉教授樋口陽一さん/憲法は厳然としてある

 今年の憲法記念日のキーワードを保守≠ニ言いたいと思います。戦前、戦後の日本の歴史の中で培ってきた、立憲主義、民主主義、平和主義など普遍性のある価値を守るという意味です。あえて保守≠ニ言わなければならないほどの危機だと言うことです。

社会を壊す政権
 安倍政権は憲法破壊に象徴されるように社会の構造を破壊しようとしています。それは世界がさまざまな苦難を経ながら作り上げてきた憲法というだけでなく、世界の構造そのものと言う意味でconstitution(構造)を壊そうとしているということです。
 例えば、人事の悪用などで内閣法制局を壊し、日本銀行を壊し、そしてNHKを壊そうとしています。これらの機関は、政治権力から多かれ少なかれ距離をとるべき機関です。そしてそのことで、社会の重要な役割を期待されています。安倍政権は自分の意に沿うよう「政治化」しようとしています。
 かつてヒトラーは、「強制的同一化」と言って、政治や社会を「均質化」しようとしました。組織やシステムを壊し、人々をバラバラの砂粒にし、それを固める。安倍政権がやろうとしていることも同じではないでしょうか。
 安倍政権は、日本国憲法をみっともない≠ニ言い、戦後民主主義を否定しようとしています。歴史への「自虐的な態度」という言葉は、今の政権にこそふさわしいといえます。

抵抗する力ある
 憲法9条について、亡くなった財界人の品川正治さんが「ぼろぼろになっても旗を立て続けることに意義がある」と言っていました。旗が指し示す理念を破壊する動きに抵抗する力が日本社会にはあるのです。解釈改憲によっていかに解釈を膨らませようと、憲法自体は厳然としてあるのです。
 武力による紛争解決の効果が疑わしいことはますます明らかになっています。ロシアはウクライナの一部を支配していますが、安定させることは不可能ではないでしょうか。歴史的にみても、戦後のアメリカのどの武力対応も地域の安定に貢献できていません。
 憲法をみっともない≠ニいう人を政権から引きずり降ろすことが必要です。衆院北海道5区補欠選挙のような市民と野党の共闘を広げていくことが大事です。日本社会の破壊を止める。ストップ・ザ安倍です。
 聞き手 若林明

 ひぐち・よういち 1934年生まれ。
憲法学。東北大学名誉教授、東京大学名誉教授。「立憲デモクラシーの会」の共同代表。著書に『近代立憲主義と現代国家』、『比較のなかの日本国憲法』、『いま、「憲法改正」をどう考えるか――「戦後日本」を「保守」することの意味』、『「憲法改正」の真実』(共著)など多数。
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2016年05月01日,「赤旗」)

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作家原田マハさん/新作長編『暗幕のゲルニカ』/絵画をメディアにピカソが変えた

戦争への怒り伝えた「ゲルニカ」―メッセージ放つ現代アートの始まり
 作家の原田マハさんが、新作長編『暗幕のゲルニカ』を出しました。戦争とファシズムへの怒りが表された、ピカソの名画「ゲルニカ」を軸にしたサスペンスです。作品に込めた思いとは…。
 金子徹記者

 ベストセラーとなった『楽園のカンヴァス』をはじめ、美術を題材にした作品を得意とする原田さん。新作のカギとなるのは巨匠・ピカソです。
 「ピカソは幼いころからのあこがれのアーティストです。人生にずっと寄り添い続けてきた感じがあります。もちろん、私の方から一方的に寄り添ってるんですけど(笑い)」
 物語は二段構え。一つの章ごとに、ピカソの恋人・ドラの視点から描かれる20世紀のパリの話と、21世紀のアメリカでピカソ展の開催をめざす学芸員・瑤子の話が交互に展開します。
 「瑤子は私の化身のような存在です。私の思いを代弁してもらいました。戦争に抗議し、アートの力で世界を変えたいと願うピカソのメッセージを瑶子が現代に伝えようとするわけですが、それは私のメッセージでもある。一言一言、考えぬいて書きました」
 ピカソがどのような経緯で「ゲルニカ」を制作したのか、ドラとともに現場に立ち会うように描かれ、名画の誕生と当時の反応が伝わります。21世紀の章では、「9・11」のテロで夫を亡くした瑤子が、悲しみに打ちひしがれそうになりながらも「ピカソの戦争 ゲルニカによる抗議と抵抗」展の開催に尽力する姿が描かれます。
 「『楽園のカンヴァス』では、アートへのあふれる愛情や、モダン(近代)アートが生まれ落ちる瞬間の神秘を描こうとしました。読まれた方には、モダンアートの誕生の瞬間に立ち会うような思いをしていただいたんじゃないかと思います。今回は、そこから一歩進んで、モダンアートが現代アートにつながっていく段階です。王侯貴族の屋敷の壁を飾った絵以来、絵画は長らく装飾の一部でした。それが、現代アートにつながる瞬間、メッセージ性を放つようになる。その、強いメッセージを発するというミッション(使命)をもつ最初の絵がゲルニカだったのだと思います」
 1930年代後半、ドイツ、イタリアのファシスト政権に呼応しスペインでフランコ将軍が蜂起。反乱軍と共和国軍との内戦になります。37年、スペイン北部の古都ゲルニカをヒトラーとムソリーニの空軍が空爆。世界に衝撃を与えます。スペインで生まれ、パリで活躍していたピカソはこの事件をもとに「ゲルニカ」を描きました。
 「現代アートは『ゲルニカ』以降、アーティストが自分のいいたいことをいう装置になりました。絵画がメディアに変わった瞬間です。ピカソはゲルニカ空爆を伝える新聞を読み、怒りをおぼえて『ゲルニカ』を描いた。新聞というメディアが『ゲルニカ』という新しいメディアを生んだ。現代史のなかでも特殊な作品だと思います。戦争の時代、悲劇の時代が始まる時に、くしくも『ゲルニカ』は新しい絵画の時代の幕開けを担ったのです」

今の時代に
 21世紀のいま、なぜ「ゲルニカ」なのか。
 「『ゲルニカ』のメッセージ性は、古びない。それは人類が愚かなたたかいを繰り返しているということが、残念ながら変わっていないからです。パリの連続テロ事件もありましたけれど、人間が人間を苦しめている。国益や富やイデオロギー≠フために殺しあう生物なんて、すべての種のなかで人間だけです。こんなに愚かな人類を痛烈に批判しながら、ピカソは一方でこういう世の中が変わってほしいという願いをこの作品に込めたのだと思う。いまのこの不穏な世の中にあって、もう一度、『ゲルニカ』の意味を見つめ直してもらいたいという思いがありました。自分たちの行為を反省し、反戦・平和についてしっかり考える。こんな時代だからこそ、『ゲルニカ』をもう一度。そんな思いで書きました」
 巻頭に、ピカソの言葉を掲げます。
 〈芸術は、飾りではない。敵に立ち向かうための武器なのだ〉
 「ピカソは戦後、作品を通して反戦・平和を訴えることを続けました。自分の作品で訴えるべきときには訴えるということをやった人です。第2次大戦後には朝鮮戦争への批判を込めた作品も描いています。49年にパリで開かれた『国際平和擁護会議』では、白いハトのリトグラフ(版画)を作り、そのポスターがパリの街中にはられました。いま、ハトは平和のシンボルだといわれますが、それは実はピカソが起点になっているんです。鳥一羽で平和を象徴するなんて本当に天才的です。こういう人を、私は小説のなかで、自分の筆で生かしてみたかった。筆じゃなくてキーボードですけど(笑い)。あこがれの人をついに、という感じですが、とても御せる相手ではなかった。一生かけて追いかける相手です。とにかくいったん、ここで書けてよかった」

はらだ・まは=1962年東京生まれ。馬里邑美術館、伊藤忠商事を経て、森ビル森美術館設立準備室在籍時、ニューヨーク近代美術館に派遣され勤務。2005年、『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞しデビュー。『楽園のカンヴァス』(12年)で山本周五郎賞などを受賞。『ロマンシエ』『ジヴェルニーの食卓』ほか多数
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2016年05月22日,「赤旗」)

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2016今言わなければ/早稲田大学名誉教授鹿野政直さん/沖縄史研究で見過ごせぬ

 沖縄で20歳の女性が元米兵に殺害されるという痛ましい事件が起きました。沖縄に米軍基地の過剰な負担を背負わせる日本政府の姿勢を転換しない限り、同じことが今後も起きるでしょう。

事件は際限なし
 これまでも基地があるために事件事故は限りなく起きました。6歳の少女を米兵が暴行殺害(1955年)、200人以上が死傷した宮森小学校米軍ジェット機墜落(59年)、ベトナム爆撃のため配備されたB52が嘉手納基地の離陸に失敗し大爆発(68年)。日本に施政権が返還された後も続きました。95年の少女暴行事件、2004年沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落などとどまりません。
 命の危険の根源である基地の負担をなくしていくことが日本政府の使命です。ところが、辺野古への新基地建設を企てています。住宅地の真ん中にある普天間基地を撤去し、新基地も建設しないというのが沖縄の人たちの願いです。
 沖縄の歴史を研究してきた人間として、黙って見過ごせないことがあります。
 普天間基地が戦後米軍に強制接収されたと主張する沖縄県に対し、菅義偉官房長官は昨年9月、「賛同できない。日本全国、悲惨な中で皆さんがたいへんご苦労されて今日の豊かで平和で自由な国を築き上げてきた」と反論しました。

賛同者広げたい
 この発言は沖縄の歴史をまともに見ない安倍政権の認識を示しています。戦後27年間、米軍の占領が続き日本復帰後も米軍基地が集中する沖縄と、日本本土の歴史は違います。私を含む4人の歴史研究者は菅長官に抗議し、発言の撤回を求めるアピールを出しました。現在約2600人が賛同しています。アピールの賛同者をさらに広げたい。
 沖縄は今、翁長雄志知事のもとに保革を超えた県民が結集し、普天間基地撤去と辺野古の新基地反対でスクラムを組んでいます。沖縄の人たちは、自らの主体性を取り戻す転換期を創りだしてきています。
 痛ましい事件をくり返さないためにも、問われているのは日本だということを、しっかり認識してゆくべきだと思います。
 聞き手・隅田哲

 注 「戦後沖縄・歴史認識アピール」の呼びかけ人は鹿野さんと、戸邉秀明東京経済大学准教授、冨山一郎同志社大学教授、森宣雄同志社大学研究員。

 かの・まさなお 1931年生まれ。専門は日本近現代史・思想史。著書に『鹿野政直思想史論集』『沖縄の戦後思想を考える』ほか
(
2016年05月22日,
「赤旗」)

6月】

この人に聞きたい/写真家大石芳野さん/第1話/想像力かきたてる一枚に挑む

伝えたい。戦争が壊した暮らし
 40年にわたりドキュメンタリー写真を撮り続けてきた写真家の大石芳野さん。戦争の傷あとに迫ったり、東日本大震災の被災地に寄り添ったりと、国内外で幅広い仕事を積み重ねてきました。長い写真家人生を支えてきたものは何だったのか。
 金子徹記者

 〈近著は、長年つきあいのあるラジオパーソナリティーの永六輔さんとの対談集『レンズとマイク』(藤原書店)。福島の原発事故後の対談をメインに、1970年代の永さんを撮った写真を50点以上収めています〉
 表紙の写真、かわいいでしょう。永さんはひょうきんなんです。スタジオで撮ったものは、お互いに遊んでいた感じ。忙しい永さんには、息抜きだったのかもしれません。いろいろなアイデアを出して、おもしろがってくださいました。
 〈写真嫌いを自任する永さん。ところが大石さんは、その懐に入り込みました。一時代を築いた才人の、素顔に迫る写真です〉
 学生時代からラジオの永さんが印象的で、とっても気になる人でした。この人に会いたい、この人の写真を撮りたいと。実際に会ったら、もっと知りたくなった。ものすごく知識が深く、判断が早い。それでいて、威張らずさらっとしている。大学を卒業したばかりで駆け出しだった私にはすごい驚きでした。
 〈対談では永さんから「あなたは本当に惜しみなく出かけて…私にとっては何でもなくないんだという写真を撮っている」とほめられました〉
 永さんには、写真と音との関係を指摘されました。「写真には音がないけれど、現場には音がある」と。私も話し声とか笑い声、泣く声とか、音が聞こえてくるような写真を撮りたいと思っています。

土はいのち
 〈同書では、「土はいのち」という大石さんの信条も語られます〉
 福島第1原発の事故以来、私は講演などで土の大切さを語ってきました。でもそれは「3・11」後に気付いたことではありません。私は20代のころから、発展途上国のスラムや田舎を取材することが圧倒的に多かったんです。土と切り離せない田舎の生活をずっと見てきて、土へのこだわりがずっとあった。それが積もり積もっていたところ、2011年5月に福島県へ行って、「ああ、土がやられた」と思った。写真家人生の積み重ねが、「土がやられた」という言葉になりました。それまで世界のいろいろな人に教えられたことが、わーっと噴き出した感じです。土が人間の原点であり、土がいのちであることに気付けたことは、私にとっての宝です。
 〈土や生物を深く傷つけた原発事故の収束が見えないなか、原発の再稼働がすすめられる現状には〉
 この期に及んで再稼働はないだろうと思うのに、「粛々と」すすめられている。自分の国の為政者がこんなことをしているのは、たまらない思いです。
 選挙制度のトリックで、自民党は支持率以上の議席を獲得して、自分たちが民意だと居直っている。安保法制も数の力で強行してしまいました。そんな政治に絶望し、選挙に行かない人も多いのかもしれません。確かに国民ひとりひとりの力は小さい。けれども、束になれば強いんです。
 〈戦争による傷あとを伝える仕事も大きなテーマです〉
 何でもない平和な暮らしがいいに決まっています。そういう暮らしや文化を撮りたいと思っていたんですが、ベトナムやカンボジア、沖縄など、さまざまな国や土地で、戦争は平和な暮らしを一気になぎ倒してしまうと教えられ心に刻んできました。戦争を伝えたい。伝えたいから撮るんです。
 私の願いは、これまで撮ってきた写真を見て、ハッとしてもらうこと。作者(撮影者)のことは忘れていいんですけれど(笑い)、写真は残ってほしい。私は写真で波紋をつくりたいんです。私は大石ですけど、小石をポンと投げ(笑い)、波紋を広げたい。一枚の写真を見た人が、自分の想像力でその一枚に何百枚分もの映像を重ねて見てくれたら、撮影者としていいなと思う。そのためには、こちらが想像力をかきたてるものを撮らないといけない。でもそれは一生に何枚あるか、なかなか撮れないので、挑戦のしがいがあります。
 〈80年、ベトナムのハノイで聞いた話が忘れられません〉
 50年前後、フランスと戦っていたベトナムは、フランス軍が内陸部に兵器を運ぶための線路を、村人の総出の力で一晩で撤去しました。当時のホー・チ・ミン主席の発案です。強力な軍隊を相手に正面からたたかったら負けるかもしれない。でも、みんなが力を合わせれば、敵の使う線路を撤去できた。これは現代の日本に通じる話だと思います。選挙にいく。声をあげる。ひとりの力は小さいけれど、本当は大きいんだと感じ、行動してほしい。いまの為政者という機関車がどんどん内陸に入らないよう、いまここにあるレールをみんなの力で外さないと。
 (つづく)

おおいし・よしの=東京都生まれ。2001年、『ベトナム 凜と』で土門拳賞、『福島 FUKUSHIMA 土と生きる』でJCJ賞。『カンボジア苦界転生』『子ども 戦世のなかで』『戦争は終わっても終わらない』ほか
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2016年06月12日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/写真家大石芳野さん/第2話/写真人生の原点はベトナム

戦場にいく若者みて自分に課した約束
 〈大学時代、1966年のベトナム訪問が人生の転機になりました〉
 ベトナムでの体験は私の写真人生の原点です。ベトナムでは、アメリカのかいらい政権の南ベトナム軍と解放民族戦線の戦闘が激化し、私と同世代の若者が、同胞との戦争に向かわなければならない状態でした。アメリカ軍も直接介入する、複雑な戦争になっていました。ベトナムでは恵まれた境遇である大学生も戦場にいく。同じアジアに生まれた若者がこんなことになっているのに、私は何てのほほんと暮らしていたんだ、と思いました。
 それまで私は、生とは何か、死とは何かを考え、もんもんとしていて、うつ状態でした。それがベトナムで、生きるか死ぬか、殺すか殺されるかの世界を目の当たりにした。自分がとても情けなくなりました。私は写真を学ぼうと思っているけれど、ベトナムの若者は学ぶことも仕事も自由にできず、命さえ危うい。彼らと違い、私はこれから写真の世界に入れる。せっかく入れるんだから、写真をやり続けよう。そう、自分に約束しました。
 この約束は大きかったんですよ。社会人になって、女だからってばかにされたり、女というだけで仕事がもらえなかったりと、イヤなこともありました。でも、ベトナムで自分に約束したよね、ちょっとばかにされたくらいで辞めていいのって自分に聞くわけです。私の写真は、ベトナムから始まったんです。そこから沖縄、広島、カンボジアへ広がっていきました。
 〈アフガニスタンやラオスなどで戦争や内乱で苦しむ多くの市民を取材してきました。その原動力は、「知りたい」という気持ちです〉
 例えば南太平洋にあるパプアニューギニアにしても、私には人々の暮らしが気になります。その暮らしが戦争などで壊されるのをみると、胸がいっぱいになってしまうんです。

暮らしに入る
 例えばコソボです。最初は新聞やテレビで映像をみるんです。武装勢力に追われた難民が国境の町に逃げてくる。みぞれが降るようななか、靴下だけの人がいたり、着の身着のままの人がいたりする。そんな映像をみると、いままで取材してきた人たちと重なってしまうんです。
 これまでに、カンボジアやベトナム、中東などの難民を何年にもわたってたくさん取材してきました。その人たちの言葉がコソボの難民の絶望的な表情にダブる。そうすると、どうしても行って、どうなっているのか知りたい。それで眠れなくなってしまうんです。コソボの時は、1週間くらい眠れなくて。だったらもう、行っちゃおうと。(笑い)
 本当は、シリアとかも行かなきゃ、という気があるんです。でも、福島第1原発の事故をはじめ、熊本の地震など日本も大変なので、シリアにはまだ行けていません。
 〈取材先で、日本のようにトイレやおふろなどが整備されていなくても気にならないといいます〉
 そこにちゃんと人が住んでいるわけだし、滞在先での環境は気になりません。私はその場所に、そこに住む人たちの写真を撮らせていただきに行っているわけですから、その人たちの暮らしのなかに入りたい。だから、食べるものでも寝る場所でも、彼らと同じ状況なら、全然イヤじゃありません。東京と比較すれば差があっても、取材先と東京を比較することはないです。そもそもそういうことが、考えのなかに入っていないから、どんなところでも行けるんでしょうね。(つづく)
(
2016年06月19日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/写真家大石芳野さん/第3話/やっと渡れた沖縄

苦しみを沈殿させ前へ進む姿に感動
 〈ベトナムや広島などと並び、沖縄もライフワークのひとつです〉
 沖縄に初めて行ったのは1972年、アメリカから「返還」された年です。60年代からずっと行きたいと願っていました。でも、返還前は、パスポートのほかに現地での身元引受人が必要で、私は沖縄に知人がいなくて行けませんでした。
 どうしても行きたくて、近くまで行けばなんとかなるのではと、与論島や台湾まで行ったりしましたが、渡れませんでした。沖縄の日々の暮らしや習慣がどうなっているのか、知りたかった。
 72年5月の復帰直後にようやく行けて、1カ月くらい滞在しました。そのころの私、一回行くと、長いんです。飛行機代が高くて、何度も往復できないですから。
 〈初めての沖縄で強い衝撃を受けました〉
 初めは生活を撮りにいくつもりでした。でも、人々と親しくなるなかで、沖縄の人たちの心の中には沖縄戦が生々しくあるということが分かってきた。沖縄の核になるのは、戦争だと。それで、戦争で傷ついた人たちを訪ねていくことにしました。

戦争の傷あと
 当時は戦後30年くらいからの取材でしたから、戦争の傷あとは本当に生々しかった。スパイ容疑で日本軍に家族が殺された人や、集団自決のなかでたまたま生き残った人などがたくさんいました。米軍に投降しようとした住民を日本兵が、「おまえのようなやつがいるから日本が負けるんだ」と惨殺するのを目の前で見た人などもいて、取材もしました。
 渡嘉敷(とかしき)島での集団自決で、首を鎌で切られながら米兵に助けられ生き延びた人、ガマ(洞窟)で子どもの泣き声がうるさく殺せと迫られ、仕方なく殺した人にも会いました。あの子のことが忘れられない、といっていました。貴重な声が聞け、それを写真集『沖縄に活(い)きる』などにまとめることができ、記録となったと思います。
 戦争は、地震などの天災と違い、政治による暴力です。人間が、その気になれば止められる。戦争の傷を抱えた人にしても、難民にしても、苦しんでいる人、震えている人の姿が私には重なってしまう。すると、同時代を生きる者として、どうしても人ごととは思えなくなるんです。
 できることなら、全員を取材したかった。戦争で傷ついた人がこんなにたくさんいるんだと、本土の人に伝えたかった。そして、苦しみを沈殿させながら、前へ進み生きる姿の神々しさ。それは、伝えずにはいられない感動でした。
 〈近年、力を注いできたのは「3・11」後の福島です。福島第1原発の事故により苦しめられる人々の姿が、沖縄と重なってみえるといいます〉
 沖縄は、戦争があり、戦後は米軍基地を押し付けられているから、人々は苦しんでいる。福島は、東京に電力を送るための原発があったから、いまでも多くの人が住む場所を奪われ、仕事を奪われ先がみえない暮らしをしいられている。住民に痛みを押し付ける構図が似ています。住民の声を無視して基地を強化しようとしたり、被災者の不安を無視して補償を打ち切ろうとする政治には、怒りを覚えます。
 〈毎年のように沖縄へ通い、時には年に数回訪れることも。一時は沖縄への移住まで考えました。今月も、19日に行われる、米軍属による女性暴行殺人事件に抗議する県民大会を取材します〉
 長旅は、疲れるけれど、気になることを放ってはおけません。私は伝えたいことがたくさんあって写真家になったのですから。
 若い人には、なるべくじっくり写真を見て想像力を働かせてほしい。これがもし、あなただったら、と。(おわり)
(
2016年06月26日,
「赤旗」)

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【7月】

この人に聞きたい/前進座嵐圭史さん/第1幕/代表作「怒る富士」の真っ最中/今も変わらぬ棄民政治問う

 前進座の看板役者・嵐圭史さん(76)。85年の歴史を持つ同座をけん引してきた一人です。今は文化庁芸術祭賞に輝いた代表作「怒る富士」(新田次郎原作)全国巡演の真っ最中。己の命と引き換えに、被災地農民を救済したお代官さま≠全身全霊で演じます。
 板倉三枝記者

 〈舞台は、5代将軍綱吉の時代。圭史さん演じる伊奈半左衛門は、大噴火を起こした富士山麓で飢えに苦しむ農民たちを助け、幕府の無慈悲な政策に立ちはだかります。実話をもとにした物語です〉
 富士山頂の測候所に関わっておられた新田先生が、歴史的には無名だった半左衛門の存在を知ったのは、御殿場(静岡県)の強力(ごうりき)からでした。頂上への行き帰り、荷物を運ぶ強力が、「はんざむ(半左衛門)さん」と親しみを持って口にするのを聞き逃さなかったのです。
 半左衛門は、関東郡代という代官の最高職にあった人物で、今でいうトップ官僚でした。農民から収奪することが役目のお役人が、なぜ300年近くたっても農民の間で愛情深く語り継がれているのか。先生は、半左衛門のような人物が江戸時代にいた事実に驚きます。よくぞそれをモチーフに小説を書いてくださったと思うんですが、視点のすばらしさをしみじみ感じています。

震災と重なり
 〈初演は1980年。新田氏は劇化に寄せて、「天変地異はわれわれの前に常にある。この劇団なら、政治性と科学性というものの中に生きる人間像をみごとに描いてくれるだろう」と一文を寄せました〉
 先生が、この作品を書かれた動機は、ロッキード事件への義憤だったそうです。政治腐敗に大変、お怒りだった。
 「怒る富士」では、大噴火で焼け砂に埋まった山麓の村々を、幕府は「亡所(ぼうしょ)」にして農民を切り捨てます。露骨な棄民政治です。しかも全国の大名から集めた復興のための義援金48万両は政争の具としてあらぬところに使われ、被災地に下りたのは約16万両。これらは、江戸時代の記録に残る実際の数字です。
 東日本大震災でも、復興予算が別の目的に使用されたり、似たようなことがありましたよね。
 今回の再演は、東日本大震災・復興支援5周年企画として始まったわけですが、公演直前に熊本の大震災もあり、終わった後の拍手の厚みが以前とぜんぜん違う。見てくださる方々が、現実の日本社会と重ねつつ、より深くこの物語を受けとめてくださっているんですね。
 〈「怒る富士」は、前進座創立85周年特別公演でもあります〉
 前進座は、1931年、歌舞伎界の封建制に反旗を翻した少数気鋭の役者たちが、外に飛び出してつくった劇団です。
 創立当時の規約には「広範な民衆の進歩的要求に適合する演劇の創造」が目的とあります。31年といえば、「満州事変」の起きた年です。その3年前には、治安維持法の最高刑が死刑に改悪されました。ファシズムの時代に、よくぞ立ち上げたと感動します。奇跡に近い。前進座の誕生自体が社会史的な意味があると思っています。
 前進座の座歌は、北原白秋作詞・山田耕筰作曲なんですよ。その歌詞の一部に「今朝の露に 貴くも 悲しく行かむ」とあります。この座歌を口にするたび、胸に突き上げるものがあって…。
 「今朝の露」とは「初心」です。「貴くも悲しく」とは限りなく高邁(こうまい)な志を持って、しかし己に常に厳しく、謙虚であれ、というメッセージが込められている、と思っています。
 創立メンバーの中村翫右衛門(かんえもん)や、女形も二枚目も演じた父・五代目嵐芳三郎らを第一世代とするなら、亡くなった中村梅之助や兄(六代目嵐芳三郎)、私は第二世代、もはやごく少数の、生き残りの一人となってしまいました。
 今回の芝居では、現在の劇団を背負って立つ第三世代が要所を固めてくれています。さらに若き農民群像の役々は私にとっての孫世代、なんと第四世代のメンバー。はからずも三世代そろい踏みとなり、劇団が総力をあげて世に問う舞台になったと思います。
 〈圭史さんは主役でありながら全国を駆け回り、観客を組織してきました〉

全国駆け回る
 92年の「怒る富士」上演のときは、北海道の北見から鹿児島の川内まで142もの生協組合員さんの手による実行委員会がつくられたんですよ。1カ所1カ所、それぞれの組合員さんと丁寧な話し合いを重ねる、気の遠くなるような根気仕事でした。
 今回は、来年の4月まで約80カ所で巡演の予定です。それぞれの地域で実行委員会をつくっていただいて、準備を進めています。
 全国津々浦々、老骨にむち打って歩いていますが、いつも自分に言い聞かせています。「一に情熱、二に体力、三、四がなくて五にいささかの知恵」。でも苦労と思いません。
 そこにすばらしいお客さんとの出会いが待っているからです。
 半世紀以上、この仕事をやってきてつくづくとありがたいと思うのは、そうした出会いの多様さなんですね。まず何といっても作品との数々の出会い、その作品を通じての役々(人物)、さらには作家、演出家、俳優さんとの出会い。演劇人生の中での私の財産です。
 (つづく)

あらし・けいし=1940年、東京生まれ。59年、劇団前進座に入座。芸域が広く、二枚目から色悪、高徳の仏僧まで演じる。木下順二作「子午線の祀(まつ)り」平知盛役で紀伊国屋演劇賞個人賞(85年)、「怒る富士」で文化庁芸術祭賞(92年)、真山青果作「江戸城総攻」で芸術選奨文部科学大臣賞(2010年)など。公演の問い合わせは、前進座全国事務所
0422(49)2633まで
(
2016年07月10日,「赤旗」)

この人に聞きたい/前進座嵐圭史さん/第2幕/苦難の中の子ども時代/巡演の先々でされた交歓会

 〈嵐圭史さんは1940年に生まれました。父は前進座の看板役者の一人だった五代目嵐芳三郎。母は花柳界出身で、第1回ミス名古屋≠ノも選ばれた、お嬢さん芸者でした〉
 母は周囲の反対を押し切って、19歳で父のところに嫁ぎました。父は、役者こども¢Rとして、いかにも柔和な、ぼんじゃり(おっとり)とした役者でしたが、家庭ではわがままで典型的な内弁慶でした。そんな父に対して、母は実に献身的でした。
 前進座が芸術共同体≠ニして集団の生活を始めるのは、母が嫁いだ3年後です。当時、前進座は舞台に加え、山中貞雄監督の「人情紙風船」をはじめとする映画に立て続けに出演します。そのおかげで37年には東京・吉祥寺に稽古場と住宅、事務所を併せ持つ研究所を持つことができました。私はそこで生まれ育った第一号です。
 初舞台はまだ敗戦間もない48年。8歳の時。前進座子ども部のお芝居で「ライオンと鷲(わし)と猿」という寓話(ぐうわ)劇で私、鳩ぽっぽの役をやりましてね。母のかっぽう着を着て、鳩のくちばしの帽子をかぶって…。統一君(とういち。のちの河原崎長一郎)がライオン役で、子どもなのに風格がありましたよ。
 〈その後、前進座は苦難のときを迎えます。日本共産党やその支持者が職場などから追放されたレッドパージの時代です〉
 歌舞伎やシェークスピア、モリエール作品を上演していたにもかかわらず、革新的な劇団という理由にもならない理由で、商業劇場から締め出しを食い、やがて学校の講堂でさえ上演できなくなりました。GHQ(連合国軍総司令部)、つまりアメリカ占領軍が日本の政府を通じて「(会場を)貸してはいけない」という通達を全国の教育委員会に出していたんですね。今、そのときの文書が各地で見つかっています。
 この頃、劇団を支えてくれたのが全国津々浦々の支援者でした。「レ・ミゼラブル」という芝居で子役で行った時のことは今でもよく覚えています。行く先々の駅頭で、共産党や労働組合、民医連の人たちが大勢出迎えてくれ、スクラムを組み、労働歌を歌って交歓会をやるんです。子どもの私と父とが腕を組んで歌っている写真が残っていますが、時代の状況がよくわかる風景です。
 中学生の時、やはり弾圧されていた、映画人の独立プロ作品に出演しました。山村聡監督「蟹工船」、家城巳代治監督「ともしび」、今井正監督「ここに泉あり」です。

俳優座養成所
 〈前進座で育った圭史さんですが、いったん俳優座養成所に入ります〉
 15歳の多感な頃、この垣根の中だけでずっといていいのだろうか、一度飛び出して、よその空気を吸ってみたいと思ったのです。
 試験を受けたのは15歳の時。高校卒業以上が受験資格なのだけれど年齢を詐称してね。入った時は、16歳。
 同期の山崎努も私と同じ貧乏青年で、一緒にアルバイトをやったなあ。月2万数千円ほどを稼ぎ、家からはビタ一文もらわなかった。すべて親には相談なし。自分一人で勝手に決めたの。
 養成所では月曜から土曜までカリキュラムがびっしり組まれ、座学は東大や慶応、早稲田、一橋大学の超一流の先生方。3年間、養成所で学んで外から前進座を見た時、その創造活動のすごさがよくわかりました。歌舞伎の批判的継承を掲げながら、現代社会にもメッセージが届けられる歴史大衆劇や現代劇を二本足でやってきた先駆性です。それで19歳で前進座に研究生として入りました。
 その頃には前進座も大劇場に完全復帰していました。駆け出しの私も給料をいただきました。大学初任給が2万円ちょっとといわれた時代に月3500円…。忘れもしません。(つづく)
(
2016年07月17日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/前進座嵐圭史さん/第3幕/「子午線の祀り」/戦前新劇の風≠ノ触れた

 〈圭史さんは、前進座以外の舞台にも出演してきました。その一つが、演劇史に残る木下順二作「子午線の祀(まつ)り」での主演です〉
 『平家物語』を下敷きにした作品です。源氏に追われ、平家が壇ノ浦に滅びていく。己の行く末を見据えつつ、最後まで運命にあらがって生きる平知盛を、初演(1979年)から第5次公演(92年)まで演じました。
 この作品で山本安英、宇野重吉、滝沢修との、宝ともいえる出会いをいただきました。戦前の暗黒の時代にたたかってきた新劇運動の、その一時代を担った「築地小劇場」で共に歴史を刻まれた方々です。「築地小劇場」は歴史のかなたのイメージしかなかったのに、その最後の最後の風≠ノ触れさせていただいていた…。それに気がついたのは実は最近なんですが、改めて感慨が募りました。
 第5次公演の時、知盛の心の恋人・影身を演じた安英先生は89歳。大腸がんの大手術をしたばかりで、本来舞台に立てるような状況じゃあなかった。透明感があって、肉体の常識を超えた精神の存在、その気高さに声を失いました。亡くなられたのはその翌年です。
 〈初演時、木下順二さん、山本安英さんと、山口県下関の「火の山」に登った時のことも忘れられません〉
 木下先生は1枚の地図を取り出して壇ノ浦での潮の流れ、月の引力との関わり、源平の位置関係などを説明してくださった。いったい幾たび、この地図と800年前の現実、天空との想念が行き交ったんでしょうね。地図はボロボロで胸が熱くなりました。誠実でひたむきなお人柄にも感動しました。
 実はね、『平家物語』には庶民がほとんど描かれていない。でも木下先生は、わずかに書かれた人民(にんみん)百姓の叫びを虫眼鏡で見るように引っ張り出し、戯曲に投影しました。今年秋、没後10年を迎えますが、日本の良心ともいえる劇作家です。
 〈4時間を超す舞台でせりふは膨大です〉
 「せりふが出てこなかったらどうしよう」と恐怖心に襲われたことがあります。頭が真っ白になって「えい、どうにでもなれ」と居直ったら、せりふがスラスラと出てきた。
 条件反射ですね。舞台の状況に身を委ね、集中力を高めていけば、一度覚えたせりふは自然に出てくる。優れた戯曲はせりふに必然性があり、人間の生理にも合っていて覚えやすいんです。でも最近は年のせいか、なかなか…。

全巻朗読にも
 その後、『平家物語』の全巻完全朗読にも挑みました。7年がかりでCD29枚。公演、稽古、劇団業務の合間を縫ってほとんどの作業は夜中。七転八倒しましたが、学び発見することの楽しさも味わいました。
 〈前進座に入座して57年。舞台に立った回数は1万回以上です〉
 すさまじいほど、多様な役柄を演じてきました。中でも79年から80年は、私の役者人生にとって重要な年でした。「子午線の祀り」「日蓮」「お夏清十郎」「怒る富士」と4本の大作が集中して…。
 舞台稽古の前夜、私は「怒る富士」のせりふを畳をむしりながら覚えていたと、その時プロンプターをしてくれた、いまやベテラン女優の妻倉和子さんが言っていました。
 今年は前進座創立85年。実にたくさんの方に支えられ、お客様と共に劇団の歴史を築いてこられたと、感謝感謝です。でも今は状況があまりに厳しすぎる。当代にはそれを乗り越え、新たな歴史をぜひつくりあげていってほしい。
 「子午線の祀り」で知盛は「見るべき程のことは見つ」といって、壇ノ浦に身を沈め、人生の幕を閉じました。私もね、一劇団員として残された時間を大切に大切に、さらなる精進と努力を尽くし、見るべき程のことは見つ≠ニいえるような生をまっとうしたいなあ。(おわり)
(
2016年07月24日,「赤旗」)

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【8月】

この人にききたい/俳優市村正親さん/第1幕/親子の情、反戦の思い、すべて舞台から

芝居への熱冷めない
 劇団四季時代から、舞台をメインに第一線を走り続け、さまざまな役で鮮烈な印象を残してきた市村正親さん。俳優43年の歩みを語ります。
 大塚武治記者

〈8月は、ひとり芝居「市村座」に出演します。古典落語「子は鎹(かすがい)」を舞台化し、ひとりで全役を演じる芝居も。子を思う親心、親を思う子の心を描く人情話です〉
 演じる役は、大工の熊五郎とおかみさん、坊や、その他もろもろ。
 落語は座布団一枚の宇宙。噺家(はなしか)が言葉で演じわけ、笑いと涙を誘います。舞台俳優が体を張ってやる「立体版」もいいんじゃない? って。
 僕ひとりの音楽講談「二世たちのコーラスライン」もやります。今まで出てきた「ミス・サイゴン」「オペラ座の怪人」「屋根の上のヴァイオリン弾き」の主役の二世たちがブロードウェーでオーディションに臨む筋です。

息子にパワー
〈共通テーマは「親と子」。忘れがちな人のぬくもりを伝えます〉
 僕も父親になり、日々、2人の息子からパワーをもらっています。それを届けたい。
 歌姫ピアフの生涯を、「愛の讃歌」「水に流して」などの歌でつづる演目もあります。
 加えて、ある作品を見に来てくれたお客さんに「(前回好評だった三波春夫さんの曲)『俵星玄蕃(たわらぼしげんば)』は?」とリクエストされて、やることにしました。本当に、市村正親満載。情熱たっぷりに、お贈りします。
〈「卒業」公演となる10月のミュージカル「ミス・サイゴン」も話題です。24年前の日本初演以来、仏系ベトナム人で、米国での成功を夢みるエンジニアという男を演じてきました〉
 67歳だし、しがみつかずにいたい。僕の「サイゴン」は、これが「最後ん」。(笑い)
 話は「蝶々夫人」のベトナム版といった内容です。ベトナム戦争末期、ベトナム人女性が、僕の演じる男が営むキャバレーで、米兵と出会い恋に落ちる。でもサイゴンが陥落し、米兵は帰国。女性は、米兵の子を宿していて…。曲もすばらしい。
 米軍のナパーム弾投下や枯れ葉剤作戦…。若いころ反対していたベトナム戦争を思い出します。いまだにあの戦争を描く作品に出ているのは、不思議な気がします。
 描かれるのは戦争の悲惨さです。いつも一番苦しむのは一般の人。引き金を引くのは大国です。本当に戦争だけはしない方がいい。
 人間は愚かな生き物です。でも無関心はいけない。それぞれが自覚して、少しでもこの世の中を良くできたらすてきだと思います。

人喜ばせたい
〈「正親」の名は、父親がつけました。父は従軍した中国で戦友と、こう約束しました。「俺たちは戦争に来て親不孝だ。もし生きて帰り、子どもを持てたら、その名前には、親への感謝を込めて親の字をつけよう」と。反骨の父でした〉
 父は戦後、職を転々とし、埼玉・川越市で約5千部のローカル新聞を1人で出すようになりました。いい新聞のために採算は度外視で、小さくても社会に物申すという感じ。それをみんなが応援してくれ、「いっちゃん新聞」と呼ばれました。
 というのも、母が自宅近くで開いた居酒屋が「いっちゃん」だったからです。母に会いたくてお客さんが来るような、みんなが笑顔になる店でした。カウンターの端が、父の指定席。高度経済成長で、追いつけ追い越せの時代でしたが、両親とも争いや競争が嫌いで、人が好き。何より仕事が誇りでした。
 一人っ子の僕は、自分が何かして、人が喜んでくれるのが元気の源という子でした。
 中学の柔道部では、「気持ちのいい投げられ方」を追求しました。僕は弱かったので、どうせ強い相手には歯が立たない。僕を投げた子が「どうだ!」と気分よくなる投げられ方をしようと。「勝ち負け」より大切なものを学んだ気がします。
 母を喜ばせるのもうれしかった。中学時代、夕刊配達でお金をためて、手鏡を贈りました。母が鏡台で後ろ姿を確認する時、合わせ鏡がなくて苦労していたんです。とても喜び、87歳で亡くなるまで、大切に使ってくれました。
〈高3から演劇部。滝沢修主演の劇団民藝「オットーと呼ばれる日本人」(作/木下順二)を見て俳優を志します。戦前の尾崎秀実のスパイ事件がモデルの、日本の無謀な戦争を止めようとする男の話です〉
 まさにズドーンと心を撃ち抜かれた感じ。俳優はわずか2〜3時間で、こんなにも激しい人生を生きられるんだと感動しました。
 ずっと後になって、滝沢先生にすし店で偶然お会いした時、「先生の舞台で役者を決意しました!」と興奮してごあいさつしたんです。先生は一言、「それは悪いことしちゃったね」って。(笑い)
 芝居への気持ちはあの頃と変わりません。
 高校を出て、演劇を学ぶために東京の舞台芸術学院に入った後、高校の同窓会がありました。舞台への思いを熱く語ったら、友達に「そんなの理想だよ」と笑われました。「よーし、ならばその理想を追い続けるぞ!」と。あの時のままです。(つづく)

いちむら・まさちか=1949年、埼玉県生まれ。近年の主な出演舞台は「NINAGAWAマクベス」「スウィーニー・トッド」など。10月から「ミス・サイゴン」、来年4月から「紳士のための愛と殺人の手引き」が控える。今秋、NHK連続テレビ小説「べっぴんさん」にも出演
*市村正親ひとり芝居「市村座」(作・演出/高平哲郎)は、8月11〜21日=東京芸術劇場プレイハウス。
03(3490)4949
(
2016年07月31日,「赤旗」)

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8月】

この人に聞きたい/俳優市村正親さん/第2幕/正道の歩み示した2人の師匠/「自分の時計で生きろ」

〈舞台芸術学院の3年間を無遅刻無欠席で卒業。真剣さが認められ、客員講師の俳優・西村晃さんの付き人になりました〉
 師匠である西村さんはスターというより職人でした。周りには小沢昭一さん、三國連太郎さん、加藤武さんなど、芝居に情熱的な人が集まっていました。
 彼らは、ああでもないこうでもないと演技論をたたかわせました。付き人の僕がいてもお構いなし。一流の俳優はいつも演技のことを考えているんだ、僕も職人気質の役者をめざそうと思いました。
 3年間の付き人時代に一流の人たちの芸を間近で見られたことは、僕の宝です。
 24歳の時、師匠に、「これからは自分を第一に考えたい」と手紙を書き、付き人を辞めたいと申し出ました。師匠は「そうなるのを待っていたんだ」と喜び、「正道を歩みなさい」といってくれました。
 正道とは何か。僕なりに考え、舞台一筋に、演劇の神様に恥ずかしくないようにやっていこうと考えました。

本番中に怒声
〈付き人時代、仕事後バレエ教室に通いました。教室仲間に誘われ、劇団四季のオーディションを受け、合格。73年、「イエス・キリスト=スーパースター」で鮮烈にデビュー。主宰の浅利慶太さんには鍛えられました〉
 浅利さんも芝居の虫です。稽古場で僕は、進んで彼に切り刻まれました。「エクウス」(75年)など思い出深い作品がたくさんあります。
 失敗もしました。
 76年暮れの「青い鳥」の最終日には、本番中の舞台袖から「こんな演出をした覚えはない!」と浅利さんに怒鳴られました。終演後は「君みたいな役者とはやっていけない」と最後通告=Bお客さんにはウケていたのに訳がわかりませんでした。
 思い当たったのは、僕が作品から外れる演技をしていたかもしれないということでした。ほんの味付けのつもりでしたが、小手先の陳腐な演技に見えたのかもしれない…。
 すぐ謝らなければと思い、すでに次の稽古のため長野へたった浅利さんを追い、夜行列車に飛び乗りました。
 車内で謝罪の手紙を書きながら思ったのは、浅利さんの芝居への情熱、それと、僕に小手先の役者になってほしくないという愛情でした。
 稽古場で僕の手紙を読んだ浅利さんは、「よくわかった。また仕事をしよう」といってくれました。そして「寒かったろう」とセーターをくれました。

無名の「ワン」
〈誰のために演じるか≠考えたのは、ミュージカル「コーラスライン」(79年)の地方公演です〉
 新潟の柏崎では、農作業の帰りでしょうか、大きな竹かごを担いだおばあさん、おじいさんが大勢来てくれました。かごを足元に置き、手拍子で合唱■終わって多くの人に「いいものを見せてもらった」と言われました。
 この作品は、それぞれに夢を持ちながら、主役の後ろで踊るダンサーの話。その一人ひとりが、無名だけれども、かけがえのない「ワン」、輝くスターだというテーマです。
 そこが、泥にまみれて働く人たちの胸に響いたんでしょう。うれしかったですね。
〈浅利さんが当時いった言葉の意味を考えてきました〉
 「他人の時計はのぞくな。自分の時計で生きろ」、「役を徹底的に追求すれば、やがて役の仮面が透け、役者の顔が見えてくる」…。深い言葉を、たくさんおっしゃいました。
 「演技はハスの上の水玉のようなものだ」ともいわれました。演技は「こうだ」と決めつけてはいけない。演じるたび、微妙に色を変え、キラキラ光るものでなきゃいけないという意味でしょうか。
 浅利さんは答えを教えてくれません。「考えろ」ということです。それが今の僕を形作ってくれています。
 (つづく)
(
2016年08月07日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/俳優市村正親さん/第3幕/「舞台に市村は見えなかった」/鬼気迫るゴッホ

〈劇団四季退団後、「屋根の上のヴァイオリン弾き」など活動の場をさらに広げます。2009年の「炎の人」(作/三好十郎)では鬼気迫る画家ゴッホ役で紀伊国屋演劇賞などを受賞。役に近づこうと、自分でも油絵や水彩画を描きました〉
 全部で20枚ほど。最初は一番描きたいものをと思ったから息子の油絵です。写真では残せない1枚をと。
 ゴッホの有名な「タンギーじいさん」も模写しました。背景の浮世絵やそこに描かれた雁(かり)の列。彼もこう描いたのかな、と気持ちに近づいていきました。
 ゴッホの人生を学んでいたものだから、制作発表会見で本物の「ひまわり」を見た時には、涙が出ました。花がほとんど散った「ひまわり」。絵の表面が盛り上がって見えるほど、何度も絵の具を重ねている。お金に困っていた男が絵の具を惜しまずにここまでやるか、と…。
 劇中でゴッホは、炭鉱夫や娼婦(しょうふ)など社会の底辺の人々のジャガイモのような人生≠ノ美を見いだします。自分は、しんから生きている人間を描くんだと没頭していきます。
 役者としてここまでできているかと自問しました。芝居だって、真ん中に真実がなければ感動はない。一心に役を生きなければと思いました。
 舞台を見た人に、「舞台に市村は見えなかった。ゴッホしかいなかった」といわれた時はうれしかったです。

蜷川さんの魂
〈舞台への覚悟を教えてくれたのが、今年死去した演出家・蜷川幸雄さんです。彼に「NINAGAWAマクベス」(15年)主演を打診されていた14年、初期の胃がんが発覚。蜷川さんに電話しました〉
 彼は「俺だっていろんな病気を乗り越えてきた。いっちゃんも乗り越えろ。心と体に傷を持った人間がいい芝居をするんだ」と励ましてくれました。それで引き受けました。
 僕の病気が治って稽古に臨んだころ、今度は蜷川さんの体調が悪くなっていました。車いすで稽古場にきて、鼻から酸素の管を入れての演出でした。
 でも甘さはかけらもない。僕に「違う、違う。それじゃゴキブリだよ!」と猛烈なダメを出しました。僕も「もう思いつきません」というほど必死で立ち向かいました。
 若い俳優の多い稽古場でした。彼はこれが最後と思っていたんでしょう。のたうち回る僕の姿を見せて、「これが芝居だ」と教えているかのようでした。
〈シェークスピア戯曲を日本の戦国時代に置き換えた作品。権力者の欲望、戦乱のむなしさを描きました〉
 蜷川さんは、「世の中に多少の怒りがなければ芝居なんかできないよ」といっていました。ダメ出しは、作品と役者への愛でした。
 通し稽古の時、彼は、「ここに座りな」と、僕の小学生の長男を隣に呼びました。終わって、「お父さん、どうだった?」と尋ねました。長男が「かっこよかった!」というと、「よかった〜!」と本当にうれしそうでした。
 もしお元気だったら、90歳の彼はどんな演出をしただろう。亡くなって本当に悔しい。でも、これからも僕のそばには、彼の魂があり続けると思います。

向き合う愛情
〈96歳まで舞台に立ち続けた新国劇の看板俳優・島田正吾さんを尊敬しています。目標は生涯現役です〉
 先輩たちを思えば、弱音なんか吐いちゃいられません。
 ゴッホの役作りの時、絵を描きながら、向き合うことは愛情だと思いました。たとえば日曜大工で本箱を作る時、息子がケガしないようにヤスリをかけます。だんだん角が取れて丸くなる。芝居も、丸くなるまで愛情で磨かなきゃいけないのかもしれません。
 (おわり)
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2016年08月14日,「赤旗」)

この人に聞きたい/女優渡辺美佐子さん/第1話/ドラマ、朗読劇、反戦の思い込めて

初恋の君は原爆の犠牲に
 女優の渡辺美佐子さん(83)。28年間、演じた一人芝居「化粧 二幕」(井上ひさし作)や31年続く原爆の朗読劇が評価され、今年5月、第16回坪内逍遥大賞を受賞しました。NHKスペシャルドラマ「戦艦武蔵」(9月3日放送)では、18歳で夫をなくした妻を万感の思いで演じます。
 板倉三枝記者

〈終戦の前年、レイテ沖海戦で海に沈んだ戦艦武蔵。物語は、乗組員だった夫の最期を知ろうと、渡辺さん演じる妻・ふみが孫娘と旅に出るところから始まります。作・演出は「大地の子」で知られる岡崎栄さん(86)。ふみの役は、渡辺さんを想定して書かれました〉
 岡崎さんとは、何十年も前からのお付き合いです。昨年、まだ台本になっていない準備稿を見せていただいて、「どう思う?」と。
 私は「すごいものを書いたな、でも、あまりにお話が壮大なので実現できるのかしら」と心配していました。だから、できあがって本当にうれしいです。
 ほぼ同じ時代を生きてきた人間としては、岡崎さんのこの作品にかけた思いが、よくわかります。
 戦争は嫌だという思いを、柔らかいもので包んでいる。こんな訴え方もあるんですね。ぜひ多くの皆さんに見ていただきたいです。

助かった命も
〈戦艦武蔵は昨年、フィリピンのシブヤン海で発見されました。ドラマでは、石原さとみさん演じる孫娘が「この国がまた戦争になったら武蔵と一緒に眠っている人たちに顔向けできない」と語ります〉
 「昔、悲しい話があったのよ」でおしまいにせず、現在に結びつけてみんなに考えさせるところがいいですね。
 武蔵が生きていた時代、私は小学生でした。その武蔵のことで今回、初めて知ったことがあります。武蔵が米軍に撃沈された後、半分の人が助かったにもかかわらず、武蔵沈没の事実を隠すために、そのままコレヒドール島の戦場に連れていかれ、大半の方が亡くなったそうです。
 あの戦争では約300万の日本の方が亡くなっています。命令に従って死んでいくのは10代、20代の若い人たちが多かった。年寄りが企画し、おとなが命令し、若者が死んでいく。二度と繰り返したくありません。
〈ドラマで印象に残るのは、石川啄木の「初恋」の歌です。「砂山の砂に腹ばい/初恋の/いたみを遠くおもい出ずる日」。渡辺さんにも幼い頃、胸をときめかせた思い出があります〉
 小学5年の時、龍雄君という転校生がいたんです。ご両親が旧「満州」にいらして、彼一人東京に戻り、官舎で暮らしていました。
 りんごのようなほっぺで、笑った時の白い歯と、きりっとした目が印象的でした。なんとなく恥ずかしく、口を利くこともなく、道の端と端に離れて小学校に通っていました。
 戦後35年の1980年、テレビのご対面番組があり、女優になっていた私は、龍雄君に会いたい一心で、捜してほしいとお願いしました。ご対面の当日、カーテンの陰から出てこられたのは、年取ったご両親でした。
 体が震えました。両親が出てくるということは、彼はもういないということでしょう。そのときのショックは今も覚えていますね。
 龍雄君は原爆で亡くなっていました。東京の空襲が激しくなり、広島のおばあさまのところに預けられたそうです。龍雄君はあの日、勤労作業で建物疎開に出たまま帰ってきませんでした。遺体はもちろん、遺品もなく、目撃者も全滅したので、35年たってもお墓もつくれない、とおっしゃっていました。
 私は立っているのが、やっとでした。お父様たちに「またつらい思いをさせてしまって…」とおわびをすると、こう言われました。
 「龍雄は転校ばかりで友だちもいないし、12年しかこの世にいなかった。あの子のことを覚えているのは家族だけと思っていたのに、35年も覚えていてくださり、ありがとうございます。あの子もさぞ喜んでいるでしょう」と。
 意地でも泣くまい、と頑張りました。泣くことで終わらせてはいけないと思ったからです。

平和の種まく
〈このことをエッセーにした「りんごのほっぺ」は、高校教科書に掲載されています。対面から5年後の戦後40年、原爆で亡くなった子どもたちの手記を読む朗読劇が始まり、渡辺さんも参加します〉
 資料に『いしぶみ―広島二中一年生全滅の記録』があり、もしやと思って巻末を見ると、龍雄君の名前が…。龍雄君が呼んでいると思いました。
 朗読劇はご両親も見にこられ、妹さんは今も見にきてくださるんですよ。31年間、朗読劇を続けてこられたのは、龍雄君のおかげです。
 今年も随分いろんなところで公演しました。いつもその土地の小学生や中学生と一緒に舞台に立つんです。子どもたちが、「何でもない暮らしがどんなに大事かわかった」という感想を言ってくれるとうれしい。それが平和の原点ですもの。少しでも種をまきたい、と毎年続けています。
〈世界では、核兵器を禁止するための条約を実現しようとの世論が広がっています。しかし日本政府は反対の立場です〉
 信じられないです。率先して賛成しなきゃいけないのに。何のために龍雄君たちは亡くなったのでしょうか。
 (つづく)

わたなべ・みさこ=1932年、東京生まれ。俳優座養成所第3期生。53年、「ひめゆりの塔」で映画デビュー。演劇、映画、テレビで活躍。2014年、菊田一夫演劇賞・特別賞など。この秋公開の、映画「続・深夜食堂」に出演
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2016年08月28日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/女優渡辺美佐子さん/第2話/俳優座養成所からデビュー/尾行きっかけに女優の道へ

〈1932年10月、東京・麻布の帽子問屋に生まれました〉
 5人きょうだいの末っ子でしたので、みんなにちょっとひいき≠ウれていて、甘えん坊でした。寝る時には母が足の間に冷え性の私の足を挟んでくれる。楽天的な母が、「寝るより楽はなかりけり。浮世のばかは起きて働け」なんていうのを聞きながら母に包まれていたあの時間は、まさしく極楽でしたね。

自宅に米将校
 終戦の時は12歳。わが家は奇跡的に焼け残り、戦争に行った兄たちも無事戻ってきました。しかし突然、2階の洋間を接収すると通告され、まもなくアメリカ人将校が、日本の女性を連れてやってきました。
 台所とトイレは共有。私たちは毎日一握りの煎った大豆をかじっている時に、向こうは毎日のようにステーキです。その刺激的な音と匂い―。
 ある朝、真っ白な長い食パンがゴミ箱に捨てられていました。その白さに目が離せない私は、でも決して手は出しませんでした。それは絶対にしてはいけないことだったんです。
 1カ月後、父と母は、せっかく焼け残った家をあっという間に手放しました。今となれば当時の両親の気持ちは痛いほどよくわかります。
〈中学、高校ではテニスに明け暮れました。ひょんなことから俳優座付属養成所の門をくぐります〉
 高校生活も終わりに近づいた頃、偶然、電車の中で俳優の信欣三(しん・きんぞう)さんを見かけました。姉がすごいファンだったので、姉を喜ばそうと後をつけた行き先が、俳優座。養成所の受験生と間違われて募集要項を渡されました。それで受けたんです。理由は試験に苦手な数学と物理がなかったから。女優になりたいなんて思ったこともないのに、今考えてもその大胆さにわれながらびっくりです。
 電車の中で信さんに会わなかったら、絶対女優になっていなかったでしょうね。
〈誰にも相談せずに受験し、1次試験に合格。喜んだのは、三つ上の姉でした〉
 姉たちは、あの戦争で目に見えない被害を受けた世代です。女学校という青春真っ盛りに何の勉強もせず、勤労動員で毎日、はちまきを締めて真空管を作らされていました。だから、戦争が終わって、どっとアメリカ映画や、ジャズや演劇など、初めて目にする文化の薫りに酔いしれたんですね。
 OLになっていた姉は、映画や芝居を見に行く時、いつも私を連れていってくれました。その中に信さんが出ていた映画「きけ、わだつみの声」があったのです。すべての原点は姉にあるといっていいかな。
 合格を姉が母に報告し、母は賛成してくれました。でも父の答えは「ノー」で、初めて渋谷の喫茶店でアルバイトをしながら養成所に通いました。

ひめゆりの塔
〈俳優座養成所の3期生に。2年の時、今井正監督の「ひめゆりの塔」でデビュー。役作りでやせるために、しょうゆを飲んだエピソードは有名です〉
 私が演じたのは、17歳で命を奪われた沖縄のひめゆり隊の少女でした。重傷を負い、一人壕(ごう)に残され、自決用の手りゅう弾を胸に遠く離れた母を呼ぶ。でも試写室で見た自分は、イメージとまるで違う。ぽっちゃりとして、死にかけてる女の子の顔じゃない。
 「違う、違う」と泣いている私を見て、今井監督が1週間後にそのシーンを撮り直してくれました。駆け出しの女優の卵のためにです。今思うと、大変なことでした。
 1週間絶食し、しょうゆは一口飲んだだけでむせて、結局水で薄めてなんとか…。やせはしなかったけど、今井監督からは「目の光が良かったね」と。何年かたって、お礼を申し上げたら、「いい女優さんになりましたね」と。うれしかったですね。(つづく)
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2016年09月04日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/女優渡辺美佐子さん/第3話/一人芝居「化粧」/井上ひさしさんの挑戦状

〈1954年に俳優座付属養成所を卒業。先輩の小沢昭一さんらが結成した劇団新人会に入団します〉
 女優さんが少なかったので、最初からいい役がもらえました。でも芝居をやるにはお金がかかります。みんなで外で稼いでくることになり、小沢さんと私は日活と契約を結びました。当時は映画の絶頂期。私も舞台をやりながら1年に12本くらい出ていました。
 契約した5年の前半は作品に恵まれたのですが、後半は石原裕次郎もの≠ホかりでおとなの女優が出る幕はない。裕次郎さんの恋人役を除けば、あとはボスの情婦かバーのマダムか。忍≠フ一字でした。
〈映画「果しなき欲望」でブルーリボン助演女優賞、舞台「小林一茶」「オッペケペ」で紀伊国屋演劇賞。そして82年、井上ひさし作の一人芝居「化粧」と出合います〉
 始まりは、6人の作家、6人の演出家、6人の女優による一人芝居の企画でした。共通テーマは「母」。その中で井上ひさし作、木村光一演出、私という組み合わせが決まり、「化粧」が生まれました。
 私が演じるのは、旅回りの一座の女座長・五月洋子。この役は井上さんから私への挑戦状でもありました。どさ回りの苦境の中で夫に逃げられ、子どもを捨てた大衆演劇の女優を、お堅い新劇女優に演じられるか、という…。

座長から学ぶ
 九州の大衆演劇の女座長・筑紫美主子(ちくし・みすこ)さんに、「おそばにおいてください」と手紙を出しました。ラジオで筑紫さんの半生を朗読したことがあったんです。筑紫さんは、ロシア人と日本人の母との間に生まれ、とても苦労なさっていて、お会いしたかった方でした。
〈筑紫さんが旅回りをしていた九州の温泉センターへ。付き人として10日間、張り付きます〉
 楽屋で化粧をお手伝いしました。とにかく簡便なんです。ドーランなどの化粧品も小さな空き缶に詰めて、古いセルロイドの裁縫箱にピシャッと入っている。
 きりっとしたたたずまいで、芝居の転換が早い。筑紫さんの芝居が始まると、飲み食いしながら横目で見ていたお客さんの手が止まるんです。ホーッと笑っていたおばあさんが、もう次は泣いてる。その迫力と鍛えられた芸にびっくりしました。
 井上さんの推薦で大衆演劇の梅沢武生さんにも教えを乞いました。富美男さんのお兄さんです。梅沢座長は大衆演劇の決まりや習慣を細かく教えてくださいました。毎日が発見の連続で面白くて楽しくて…。昼間、教わったことを夕方、稽古場で演出の木村さんに伝える。どこでどのせりふを言うか、化粧の手順はほとんど私に任せられました。
〈「化粧」は、女座長が化粧をする過程で、赤ん坊だった息子を捨てた過去が語られていきます。一人芝居なのに、あたかも複数の人物がいるかのように。初日は大成功でした。数日後、井上さんが「続きを書く」と宣言。年末に1時間30分の二幕劇が完成します〉
 私は、エーッ!と。一幕でも疲れて、はうように楽屋に戻ったのに、二幕になったらどうなるの、と。井上さんは、「舞台に登場しない人物の存在を、観客の想像が確かなものにしてくれる。それをもう一度、ひっくり返してみたい」と。
 いつからか、おひねりが飛ぶようになりました。サツマイモのふかしたのやピンピンしたタイを頂きました。アメリカ公演の初日では、全員が総立ちで拍手をしてくれました。
 49歳で始めて、終わった時は77歳。28年の間には、状態が良くない時もあります。でもそこはお客さんがエネルギーをくださる。自然に元気になるんです。
 こうなったらカッコつけてもしょうがない。自分をさらけ出してお客様の中に飛び込むしかない、と気づけたのは、長く「化粧」をやってきたからだと思います。(つづく)
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2016年09月11日,「赤旗」)

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10月本文】

この人に聞きたい/画家野見山暁治さん/第1回/世界制覇を信じ込んだ時代

「どうして戦うのか」出征壮行会で叫んだ
 画家の野見山暁治さんは95歳になった今も、毎日、絵を描いています。中国大陸に従軍するも、死と隣り合わせの状況から生還。戦後はフランス留学を経て東京芸大教授に。戦没画学生の絵を集めた「無言館」を創設するなど多方面で活躍してきました。画壇の重鎮の軌跡とは…。
 金子徹記者

〈夏は福岡県ですごし、夕方の海水浴が日課です〉
 この年で泳ぐのかとみんな驚くけれど、僕は浮かんでいるだけです。水風呂に入っているようなもの(笑い)。年相応に体が弱ってきて、もう、足がしっかりと地に付いている感覚がない。でも、かかりつけのお医者さんは、地下鉄で病院に来るなら元気な方だと言っています。
 朝、起きてからはアトリエです。夕方まで絵を描いている。無理に働こうとしているわけではなく、絵を描くことが普通なんです。じっとしているより、絵を描きたい。ほかのことをしろといわれても困るんです。(笑い)

世界の一市民
〈幼少期から絵が好きで、親の反対を押し切り東京美術学校(いまの東京芸大)へ。ところが1943年、戦争で半年繰り上げ卒業し、すぐ軍隊に召集されました〉
 戦争のなかで育ち、当時の日本は軍事力を増やせば世界を制覇できるんだと思い込んでいた。
 おふくろも、僕が生まれた時から、この子は大きくなったら戦争に行って殺されるのだと思っていたそうです。だから、僕が大きくなるのを喜びつつも悲しかった、と戦後になって聞きました。戦死させるために子どもを育んでいる気持ちだったと。あのころの親は、そうだったのでしょう。
〈隣人や軍人を招いた自身の出征祝いの宴席で、思わぬハプニングがおきました〉
 あのころは、みんな「祝出征」と、旗を立てて壮行会をやった。僕は、そんな宴会はやめてほしかった。出征前夜くらいは部屋を片付けたり、ひとりで静かにさせてと言ったけれど、おばあさんやおやじが、「それでは世間が通らない」と。
 壮行会で、おまえもあいさつしろと強いられて、突然、こんな言葉を叫びました。
 私は日本に生まれた世界の一市民です。それなのに、どうして他民族と戦わなければいけないのか。そんなことで死にたくない
 周囲の人があわてて止めようとした。激励の言葉を聞いているうちに、耐えられなくなったんです。「我はドイツに生まれたる世界の一市民なり」とドイツの詩人が書いていて、それが突然、浮かんだんです。将校が、もう一度言ってみろとすごんだけれど、止まらなかった。生きてかえれるとは思っていなかったので、本音が出ました。おやじは怒り、おふくろは泣き出す。大騒ぎになりました。
 僕は弱虫で軍国少年ではない。人と争うのは好きじゃない。
〈陸軍2等兵として中国大陸へ。当時のソ連との国境へ送られます。結核を病み、一時は家族に危篤の報が届く状態に。送還され、傷痍(しょうい)軍人福岡診療所で終戦を迎えました〉
 マイナス20度くらいになる場所で、ソ連軍と向き合っていました。いつ戦闘が始まってもおかしくない雰囲気でした。風呂上がりに、外を歩くとすぐにタオルが凍ってカチンカチンになる。あまりの寒さに、敵も味方もなぜこんな場所に集まっているのだろうと、あきれました。
 僕はもともと肺病を患ったことがあり、戦場でそれが悪化して日本に帰されました。釜山港(韓国)から船で日本へ帰る時、日本から来た兵隊たちとすれ違いました。白衣の僕らに「ご苦労様です」という。まだ子どもみたいな兵隊ばかりでした。僕は立ちふさがって、おまえたち戦場に行くなと言いたかった。日本はそのうち負け、戦争は終わるだろうと実感していましたので。ソ連軍と向き合いながら、なんて無謀な戦争なんだと思いました。

国民脅す首相
〈戦争体験は、長野県上田市に建てられた「無言館」の仕事へとつながっています〉
 あの戦争を体験した者として、いつかまた戦争が始まるかもしれないという恐怖感があります。窪島誠一郎さん(無言館館主)との出会いやテレビ番組への出演など、いろいろなきっかけがありましたが、戦没画学生の家を訪ね、残された絵を集めるようなことをしたのは、戦争が始まるかもしれないという不安があったからです。
〈「九条美術の会」の発起人のひとりです。月刊誌『美術の窓』に連載中の「アトリエ日記」に、この夏、「安倍内閣を倒せないか」という思いで投票してきたと記しました〉
 安保法制や改憲などの動きをみると、安倍(晋三)首相は、敵が攻めてきたらどうすると脅しながら、戦争をする方向で物事を進めている。でも、日本はもう二度と戦争はしない、そういう立場から考えていってほしい。
 平和をまっとうすることは、戦場で血を流すくらい難しいことでしょうが。(つづく)

のみやま・ぎょうじ=1920年福岡県生まれ。文化功労者。2014年、文化勲章受章。著書に『四百字のデッサン』『遠ざかる景色』『アトリエ日記』ほか
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2016年10月09日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/画家野見山暁治さん/第2回/恩師と出会った中学時代/絵は不思議、手品のようだ

 〈95歳の画家・野見山暁治さんは、炭鉱地帯だった福岡県飯塚市の出身です〉
 小さいころは、暴れていたそうです。おふくろはよく、近所に謝ってまわり大変だったと言っていた。でも、僕には記憶がない。近所に君臨したガキ大将時代を覚えていないのが残念です。(笑い)
 いまでも僕は、人と話していても興味のないことだと素通りしてしまい、記憶がないんです。だから疲れないのかもしれない(笑い)。亡くなったカミさんに、よく言われました。「あんたは元気なはず、他人のことを気にしていないんだから」と。僕は決して、気にしていないつもりはないんですが。(笑い)
 〈少年時代から絵が大好きでした〉
 覚えていないくらい小さいころから絵が好きでした。勉強はダメで、学校自体が嫌だった。楽しみは図画の時間だけ。妹には、「絵描きの仕事がなければお兄ちゃんは野垂れ死にしていた」と言われました。
 空襲で燃えたり戦後に父が処分したりして、昔の絵がほとんど残っていないのが悔しいです。
 〈中学の恩師の影響で絵と真剣に向き合うように〉
 先生は、昔の中国の水墨画などを見せながら、「絵は省略の方法なり」と教えました。見えるものの立体性、動き、距離、そのすべてを、どうやってこの平たい画面に押し込むかを、考えろと。絵は不思議なもの、深遠なものだと思いました。
 ここ10年くらい前から、絵は人をだますものだと思うようになりました。絵描きは手品師のように人をだます。絵を見に来る人は、だまされる快感を味わいにくるのではないか。ピカソの絵などを見ると、見事な手品師だなあと思います。
 〈父に頼みこみ東京美術学校(現・東京芸大)へ。父は古い農家の三男坊で商才があり、丁稚(でっち)奉公から炭鉱経営者となった地元の名士でした〉
 おやじは僕が絵描きになることに反対でした。でも、勉強ができないので絵描きしか生きる道がないと諦めた。「学校の月謝は出すが絵描きは嫌いだ」と言われました。

退学するかと
 東京に出たのはうれしかったけれど、学校はつまらない。最初の1年は石膏(せっこう)のデッサンです。自分で工夫して描くのではなく、マニュアルに従って技術を磨き、僕たちになじみのない西洋人の像を絵にするなんておかしい。これなら中学の時の恩師の方がいいと退学を決意しました。ところが、一緒に暮らしていた妹から、「バカね」と。戦争だから若者はすぐに兵隊に行かされますが、学生は徴兵が延期されていた。いま退学するのは死に急ぐことだと言われ、なるほど、と。
 〈結局は卒業繰り上げで従軍し、生還。戦後はパリに留学後、母校の教授になるも、父には息子の画才への不信感が…〉
 60歳で芸大教授を退官し、故郷に帰ったら、おやじが小声で「バレたのか?」と聞いた。おやじは、僕には洋行というハクがあるから教授になれただけで、本当はダメな絵描きだと思っている。ついに下手だと「バレたのか」と(笑い)。「いや、自分から辞めた」と答えても信用されなかった。
 〈物事にとらわれない、ひょうひょうとした物腰です〉
 僕にはね、みんな同い年にみえるんです。だから、教授という職についても、ものを教えるという気持ちにはなれなかった。学園紛争のころは、学生たちが「僕たちの目線でものを言ってくれる」と受け止めてくれたそうです。僕と同年代の日本画家の堀文子さんは、「若いときは、懸命にやるのよ」と、先輩として年齢にふさわしい優しさと、励ましの言葉を忘れません。僕はいつになったらおとならしいもの言いができるのかなあ。(笑い)(つづく)
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2016年10月16日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/画家野見山暁治さん/第3回/「無言館」創設、戦没画学生の遺族訪ねて

生き残った負い目を抱えながら絵集めた
〈画家の野見山暁治さんは、戦没画学生の絵を集めた「無言館」の創設に際しても、大きな役割を果たしました〉
 戦争中、僕はソ連と「満州(中国東北部)」の国境に送られ胸を病み、傷痍(しょうい)軍人療養所で終戦を迎えました。しかし、僕が部隊から離れた2カ月後には、僕のいた部隊は南方に送られ、ほとんどの人が亡くなりました。
 部隊には同郷の友人もいて、終戦後、のこのこ訪ねていったら仏間につれていかれて、「どうしてあなたは生き残っているんだ」とびっくりされた。病気になったと説明したら、「なんでせがれも病気にならなかったんだ」と泣きだしました。
 意図したわけではないけれど、結果的に、自分は器用に生き延びた卑怯(ひきょう)者ではないかと。だから、戦没画学生の絵を集めに遺族の家をまわるのは非常に気が引けました。

レインコート
〈「無言館」の発端は、1974年に放送されたNHK番組「祈りの画集」です。戦没画学生の特集に野見山さんが出演。放送後、大きな反響があり、NHK出版での書籍化が決まります。そのため、戦没画学生の生家を訪ねるよう依頼されたのです〉
 当時、美術系の学校は4校ほどありましたが、戦没学生が記録されていたのは東京美術学校(いまの東京芸大)だけ。それでとりあえず、同番組に出演した3人で手分けしてまわってくれという話でした。ひとり15軒ずつです。自分の出た東京美術学校の人たちのことだし、やることにしました。
〈編集者、カメラマンと一緒の旅が始まります。ところが…〉
 3軒目で、「これはダメだ」と思った。同級生の遺族でした。学生時代は家に遊びにいったこともあり、お母さんも姉さんも知っていた。お母さんに「あなたは兵隊に行かなかったの?」と聞かれ、説明しました。話している間、ずっと罪の意識を感じていました。
 食事をごちそうになり帰る時、お母さんが僕の背中にまわってレインコートを着せてくれました。その、着せ掛けてくれた手が、なかなか離れないんです。お母さんは泣いていたのでしょう。僕の姿に息子が重なってみえたのだと思います。その時、僕は初めて「おれは何てひどい男だ」と気がついた。遺族がようやく忘れようとしている時に、のこのことやってきて、写真や遺品を並べさせ、息子のことを思い出させている。いったい何をやっているんだと。

「これが最後」
〈企画から降りたいと申し出たところ、すでに他の2人は辞めていました〉
 その気持ちも分かりました。辞めた2人は絵とは無縁だったし。編集者は僕に、辞めるなら、誰か僕に代わる友だちを紹介してくれと言う。自分がこんな苦しい思いをして辞めようとしていることを、誰かに押し付けられない。誰にも頼めないな、と思いました。そして、確かにこの仕事は後ろめたいけれど、戦没画学生の鎮魂と記録のために、やる必要があると思い直した。残りは全部、僕がまわることにしました。やめたかったけれど、僕がやらなかったら、誰もやらない。これは生き残った者の使命だと思い直したのです。
〈1977年、絵に野見山さんたちの文を添えた『祈りの画集 戦没画学生の記録』が完成。それを見た作家の窪島誠一郎さんが絵の展示施設を発案。窪島さんが資金集めに奔走し、「無言館」が完成しました〉
 最初は古い、未熟な絵が並んでいると感じましたが、年を重ねるごとに、その絵から、若者の心が伝わってくるようになりました。これから死にに行く若者の、「これを描いてから死ぬんだ」という思いです。これから画壇に出ようとか、うまさをアピールする絵ではなく、最後だから本当に大切なものを見つめ、日々それを描く。美術館は優れた絵を並べる場所ですが、無言館は違います。いわゆるいい作品ではなく、死を予告された若者が、その執行猶予の期間、何を描くか。この絵は、その答えです。(おわり)
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2016年10月23日,「赤旗」)

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11月】

この人に聞きたい/漫画家山本おさむさん/第1話/福島暮らし10年/みんな原発事故忘れてない、それが希望

来年「今日もいい天気」完結編連載
 障害児を描いた「どんぐりの家」で知られる漫画家の山本おさむさん。新年から本紙で「今日もいい天気」第3部がスタートします。連載準備中の山本さんを福島県天栄(てんえい)村の自宅に訪ねました。
 北村隆志記者

 〈10年ほど前、仕事の疲れをいやすため、自然豊かな天栄村に移住しました。ところが、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で生活が一変しました〉
 2011年3月11日、私は埼玉の仕事場に、妻は天栄村の自宅にいました。翌日、福島原発1号機が爆発し、あわてて妻は犬のコタを連れて、埼玉に逃げてきました。
 事故が起きるまで私は、原発に何の関心も持っていませんでした。国の原発推進政策を事実上容認していたんですよ。
 だから事故が起きても最初は、原発のことも放射能のこともまったく知らなかった。
 天栄村についても政府や原発推進派は安全だ≠ニいい、原発に批判的な人たちはここは危ない≠ニいう。私はどっちが正しいのか判断がつかなくて、毎日「帰らないほうがいい」「いや心配しすぎだ」と気持ちが揺れ動いていました。いっそ自宅を売ろうかなと思ったこともあるほどでした。

現在進行中
 〈本紙連載「今日もいい天気」は、2009年にコミカルな第1部「田舎暮らし編」から始まりました。しかし原発事故の翌12年にはじめた第2部は、埼玉に自主避難しながら、「原発事故編」として連載しました。ときに政府や東電への怒りもほとばしり、反響を呼びました〉
 「今日もいい天気」はエッセー漫画です。だから第1部では、自分の田舎暮らしの失敗や発見をネタに、笑える漫画を描きました。
 ところが、原発事故で自分が自主避難することになった。第2部は話が全然変わりましたが、それは意図したわけではなく、原発事故があったからです。原発事故があったのに、なかったような漫画は描けません。
 「原発事故編」を描くのは本当に疲れました。最後は腰痛が爆発して動けなくなった。整骨院にいったら、レントゲン写真を見た先生が、「背骨の変形がひどい」と驚いたほどです。
 でも漫画を描くのに疲れたのではありません。原発事故が現在進行中なので、漫画のラストが見えない。その精神的なストレスで疲れたのです。
 漫画では放射能のこと、食べ物のこと、健康のことなどを扱いました。非常にデリケートな問題で、専門家の意見が分かれていた問題もたくさんありました。しかし当時、私たちはそういうなかで生きていたんです。だからそこから逃げるわけにいきませんでした。
 漫画にも描きましたが、原発事故後、コタの声が出なくなったり、コタが鼻血を出したりしたことがありました。妻が口内炎になったことも。低線量被ばくの影響ではないかと思いましたが、その証拠≠ヘない。だから漫画では、客観的に放射能の影響かどうかは断定できないという意見をつけました。
 それでも漫画を読んだ福島の人から「(被ばくの影響の)証拠を出してみろ」とか「読んで悲しくなった」などの手紙が来ました。事実は譲れないけれど、事故で傷ついている福島の人たちの傷口に塩を塗るようなことをしてはいけない。そこは本当に悩みました。
 〈連載のクライマックスを描く際には、福島第1原発の所在地である大熊町を訪ねました〉
 漫画にも描きましたが、大熊町の田んぼは草ぼうぼう。新築の家には誰も住んでいない。全住民がいまでも町外で避難生活を送っています。町の大半が帰還困難区域に指定されています。
 事故前と違って、私はいま原発再稼働には絶対反対です。原発は事故が起きたら、人々の生活を根こそぎ破壊します。発電方法としては、リスクが大きすぎると思います。

取材もして
 〈「今日もいい天気」は1部・2部を合わせて日本漫画家協会賞特別賞を受賞しました〉
 漫画家が選ぶ賞なので、同業者の仲間に評価してもらえたのはうれしかったですね。
 当時の商業誌は原発問題についてびくびくしていて、とても描ける雰囲気ではありませんでした。「赤旗」日曜版で自由に描かせてもらったのはありがたかったです。日曜版なしには描けなかったと思います。
 〈「今日もいい天気」の連載も、いよいよ来年から第3部がはじまります〉
 来年の「完結編」では、今の福島とわが家の暮らしを報告したいと思っています。自分の体験だけでは狭いので、原発事故の被災者らが国と東京電力に原状回復と完全賠償を求めた裁判の傍聴にも行き、取材をしています。
 4年前に「原発事故編」を描いたときは、みんながすぐ忘れるのではないかと心配していました。だから連載の最後に「今度こそ忘れるな」と書きました。
 でも、最近の鹿児島や新潟の知事選結果を見ると、みんな原発事故のことを忘れていないことがはっきりわかりました。本当に心強く、明るい希望を感じます。(つづく)

1954年長崎県生まれ。79年漫画家デビュー。95年『どんぐりの家』で日本漫画家協会賞優秀賞、2013年『今日もいい天気』(田舎暮らし編、原発事故編)で日本漫画家協会賞特別賞。今年8月『そばもん』全20巻が完結
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2016年11月13日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/漫画家山本おさむさん/第2話/デビュー目指した長崎時代/理解ある恩師、思わぬ縁

〈生まれ育ったのは、長崎県諫早市。漫画が好きで、絵の上手な子どもでした〉
 小学生の時から貸本屋に入り浸って、好きな漫画の絵を書き写していました。
 中学の時に親を拝み倒して、石ノ森章太郎の『マンガ家入門』を買ってもらったんです。漫画の描き方が細かく書いてあって、読みふけりました。それまでは鉛筆で書いていましたが、ペン入れというのも初めて知りました。
 マンガ好きの友達と3、4人で手書き漫画の回覧雑誌をつくって、すごく楽しかった。それで漫画家っていいなあと、中3の時に『COM(コム)』という漫画雑誌の新人投稿コーナーに応募したんです。でも、かすりもしませんでした。
 すぐ上京して漫画家に弟子入りしたかったんですが、親に言われて仕方なく高校へ。普通高校より漫画を描く時間があると思って工業高校に行きました。

定期代を映画に
〈高校では漫画家になることばかり考えていました〉
 『マンガ家入門』に「漫画以外の勉強も大切」「とくに映画を見なさい」と書いてありました。でもお金がありませんでした。うちは母子家庭で、母は一日中、和裁の内職をしていました。お小遣いなんてもらえない。それで映画を見るために、定期券代を使っちゃった。(笑い)
 それで月に映画を2、3本見られたけれど、定期券がないから、学校まで2時間以上歩かなくてはいけない。毎日遅刻して1時間目の授業に間に合わない。1年生の最後に留年しそうになり、追試を受ける羽目になりました。
 2年生になったら奨学金をもらえたので、定期券代を使い込まずに済みました。遅刻せずにすんだのは奨学金のおかげです。
〈思い出に残る先生がいます〉
 学校の先生はだいたい漫画が嫌いなんですよ。中学では回覧雑誌を取り上げられました。でも高3の担任の先生はいい先生で、ぼくの漫画家志望を理解してくれました。「『少年マガジン』新人賞の応募作品を仕上げるために、明日から1カ月学校を休みます」と言ったら、目をつぶってくれました。
 谷川先生といって、共産党の候補者の谷川智行さん(衆院比例東京ブロック)のお父さんです。
 「今日もいい天気」の連載を始めた時、谷川先生から電話がきました。「山本君、日曜版に連載始めたんだね。今度うちの息子が共産党から立候補するんだ」と言われてびっくりしました。ぜひ当選してほしいですね。

少年誌ではダメ
〈高校卒業後上京。しかし、なかなかデビューできませんでした〉
 新人賞は最終選考に残って「意外といけるかも」と。でもそのあとは全然ダメ。少年誌に持ち込んだら「作品になってませんね」と言われ、しばらく少女漫画のアシスタントをしていました。
 アシスタント先で前の妻(漫画家の故久木田律子)と知り合いました。彼女はもうデビューしていて、稼ぎがよかったんです。ぼくは彼女のストーリーの相談相手でした。このまま食べさせてもらいながら、自分は好きな漫画を描くのもいいなと思ったんです。
 ところが彼女が重い膠原(こうげん)病になってしまった。国指定の難病です。ぼくが働かないと干上がってしまう。あせりました。
 少年漫画はダメだといわれたので、少女漫画の編集部に行きました。でも男の漫画家は歓迎されない。「才能ある少女漫画家は20歳までにデビューするもの」といわれ、24歳のぼくは相手にされませんでした。
 もう青年漫画しかないと、『漫画アクション』に持ち込みました。そうしたら、連載作家が急な事情で描けなくなったので、穴埋めに載せてもらえました。
 幸い評判がよかったらしく、短編を数編書いた後、週刊の連載を任されました。でもそれが地獄の始まりでした。(つづく)

「この人に聞きたい」が本に/『人生の流儀』10人にプレゼント
 連載「この人に聞きたい」が本になりました。20日発売の『人生の流儀』(新日本出版社、税別1500円)です。
 萩本欽一、加古里子、高村薫、稲川淳二、降旗康男、市原悦子、倉本聰、鈴木瑞穂、村山斉、田沼武能、山川静夫、橋田壽賀子、益川敏英、那須正幹の14人が語ります。
 本書を10人にプレゼント。〒163-8694新宿郵便局私書箱183号日曜版プレゼント係宛。住所・氏名・年齢を明記。締切11月28日消印。発表は発送をもってかえます。
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2016年11月20日「赤旗」)

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この人に聞きたい/漫画家山本おさむさん/第3話/タブーに反発、障害者を描く/差別を知り身もだえた

 〈デビュー早々の1981年、高校生が主人公の青春漫画「ぼくたちの疾走」の連載を、『漫画アクション』で始めました〉
 いきなり週刊誌の連載で大変でした。アシスタントも3人頼みました。連日泊まり込みです。締め切りに追われ、24時間机にかじりつきっぱなし。たばこを買う時以外、外出もできません。漫画を描く合間に、机でうとうとする程度で、まともに布団で寝られませんでした。
 髪の毛が抜け始めたのもその頃です。
 つらくてつらくて、2年目に逃亡しました。神経が参って、ストーリーが思い浮かばない。アシスタントに「悪いけど、オレ逃げるわ」といって、池袋の安ホテルにひきこもりました。
 妻から電話が来て「編集部の人が『自殺するんじゃないか』と心配しているから、出てきた方がいいよ」といわれ、戻ったんです。
 クビを覚悟していましたが、意外に怒られませんでした。少し休んで、また連載を続けさせてもらったので、今度は逃げずに最後まで描きました。週刊誌は本当にきついんですよ。

スランプに陥り
 〈「ぼくたちの疾走」はテレビドラマにもなる大ヒット。しかし、その後はスランプに陥ります。編集者の提案で高校野球をテーマに描くことになりました。資料を探す中で、1冊のノンフィクションに出合います〉
 戸部良也さんの『遥かなる甲子園』です。沖縄にある、ろう学校高校野球部の実話です。障害児学校であることを理由に、最初、高野連への加盟を認められませんでした。しかし、関係者の粘り強い努力と世論の後押しで加盟を勝ち取り、県大会に出場したんです。
 読み終わって「これはいける」と思いました。ところが漫画界では当時、障害者を描くことはタブーだったんです。『漫画アクション』の編集長の反応も否定的でした。
 なぜ障害者がいけないんだ、とぼくも意地になりました。当時の妻は難病で人工透析をしており、障害者手帳を持っていました。「障害者はいけない」といわれると、妻を否定されたような気がしたんです。
 「ダメなら他誌に行く」とおどし=A1年だけの約束で連載が決まりました。
 難しいテーマであることはわかっていたので、ぼくとしても賭けでした。障害者団体から激しい抗議がきたら、ペンを折らなければいけないかもしれない。背水の陣でのぞみました。

主人公を変えて
 〈連載の準備のため、聴覚障害者のことを一から勉強しました〉
 関連書も普通の書店にはあまりなく、聴覚障害者団体の事務所にも買いに行きました。それらを読みあさってびっくりしました。
 話の輪に一人だけ入れず、結局学校も職場もやめた人。「血が汚れる」と相手の親に結婚を反対された人。耳が聞こえないだけで、どれだけ社会から虐げられてきたか。現代の日本でこんな差別があるのか、と身もだえする思いでした。
 最初は、セリフを手話に変えるだけで、普通の野球漫画と変わらないと思っていました。でも、資料を読んで、これはろうあ者問題を象徴する話だと認識が変わりました。
 原作のノンフィクションは、親や教師、とくに野球部監督の聞き書きでできていました。このまま漫画にすれば主人公は監督になります。
 漫画の「遥かなる甲子園」では、主人公を聴覚障害児たちに変えました。障害者は保護されるかわいそうな人と思っていましたが、そうではないことを知ったからです。状況を変えるために行動するエネルギッシュな人たちでした。
 漫画で手話を描くために、地元の手話サークルにも入りました。
 1988年に連載を始めたら、3回目で映画化の話がきて驚きました。ろうあ者からもたくさんの激励が来ました。おかげで連載も2年半に伸び思う存分描けました。
 (つづく)
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2016年11月27日,「赤旗」)

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12月】

この人に聞きたい/漫画家山本おさむさん/第4話/ろう重複児描く「どんぐりの家」/意思通じなくても主人公

〈代表作「どんぐりの家」は、1993年から『ビッグコミック』(小学館)に連載されました。ろう重複障害児とその親たちの苦悩と喜びを描き、大変な反響を呼びました〉
 きっかけは、地元の手話サークル活動で出合った1冊の手記です。ろう重複障害児の親と教師が苦労の末に、小さな共同作業所をつくった体験をまとめたものです。
 ろう重複というのは、聴覚障害だけではなく、知的障害、肢体不自由、自閉症などの障害を、二重、三重に持った重度の障害者です。
 ろう重複障害児は言葉で意思疎通ができません。泣いたり暴れたりしても、その理由がわからない。学校でも問題を次々起こすし、卒業しても働くところがない。そういう子どもを抱えた母親たちの話に大変ショックを受けました。ぜひ漫画にしたいと思ったのです。
 『ビッグコミック』から連載の話があった時に、「いまやるならこれしかない」と提案しました。
 編集部は意外とあっさり認めてくれました。編集長が「ほかの人ならちゅうちょしますが、山本さんには『遥かなる甲子園』の実績もある。どんな作品が出てくるか見てみたい」と言ってくれたのはうれしかったです。

何か足りない
〈第1話。娘の圭子が2歳になり、病院で聴覚障害と知的障害があることがわかる。両親が圭子に振り回され、母親が「なぜ私にだけこんな子が…」と苦しむ姿を描きました〉
 「どんぐりの家」の最大のポイントはこの第1話でした。
 締め切りに追われて書ける作品ではないので、シナリオも練りに練って、30nの完成原稿を、2週間以上前に編集担当者に渡しました。
 2、3日して担当者から電話が来て、「何か足りない気がする」というんです。でも具体的にどこかというと、「伝わる力が弱い」とか「お父さんの気持ちが伝わりづらい」とかあいまいなんです。ぼくもプロとして自信があるから「読み方が間違っているんじゃないの」と最後はけんかになりました。
 翌日、あらためて読み直したら、確かに物足りないんです。全然インパクトがない。でもどこが悪いのかわからない。これには困りました。
 はっと思ったのは、圭子ちゃんが全然描けていない。障害当事者を主人公にするのが、僕のこれまでのコンセプトでした。でも圭子ちゃんは意思疎通ができないから、と主人公にしませんでした。苦しむお母さんやお父さんのアップばかりで、当事者の圭子ちゃんの絵は小さい。やっぱり主人公を圭子ちゃんにしなければと思いました。
 急きょスタッフを招集して、後半10nを全部描き直しました。ぜんそくに苦しむ圭子ちゃんの顔を大きく描き、お母さん、お父さんが娘の言いたいことを必死に理解しようとする。全然違うシーンに変わりました。

いま超忙しい
〈重いテーマを漫画にする上で心掛けていることがあります〉
 商業誌で障害者問題を描くためには、漫画として成功しなければなりません。でも、問題を告発して訴えるという姿勢では、成功の可能性が低いんです。
 大事なのは普遍性をどう持たせるかです。
 聴覚障害児教育を描いた「わが指のオーケストラ」は、学園漫画をめざしました。「どんぐりの家」は子育て漫画です。障害者に関心を持つ人は少なくても、子育ては誰もが体験する普遍的なテーマですから。
〈いま東日本大震災での障害者を描く映画に取り組んでいます〉
 震災の時「障害者が消えた」と言われたんです。自閉症や知的障害の人は集団に入るとパニックになるとか、いろいろな理由で避難所に行けなかったからです。
 アニメ「どんぐりの家」と同じプロデューサーです。ぼくはシナリオを引き受け、取材も何度もいきました。新年から「赤旗」日曜版の連載もあるし、いま超忙しいんですよ。(おわり)
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2016年12月04日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/俳優鳳蘭さん/第1回/反対押し切り宝塚入団/「ここにおるでー!」舞台に届いた父の声

 宝塚歌劇団の伝説的な男役トップスター、鳳蘭さん。今もミュージカルを中心に、第一線を走ります。52年の俳優人生を聞きました。
 大塚武治記者

〈全国ツアー中のミュージカル「天使にラブ・ソングを〜シスター・アクト〜」で修道院長を演じています。ギャングに追われる黒人歌手デロリス(森公美子、蘭寿とむ=Wキャスト)を院内にかくまいますが、破天荒な彼女に大弱り…〉
 ご覧になりました? とても好評で、お客様から「泣き通し、笑い通しで、疲れたわ」「修道院長はあなたしかいない」なんて光栄なお言葉をいただいています。
 私が演じている修道院長は世間知らずの純粋な人です。平穏だった修道院にデロリスが来て、最悪なことばかりが起きます。でも困難に立ち向かう中、感情が触れ合って、「こんな生き方もあるんだ」と心がほどけていくんです。
 演じていてとても楽しいです。各地で回を重ねてきましたから、「このせりふを言ったら、これくらい笑いが来る」とわかる。指揮者みたいに、劇場の笑いを操れる感じ。
 私、「お客様は神様です」と心底思っています。だってわざわざ時間をつくり、チケットを買って来てくださるんですから、それ以上の喜びをさしあげたい。その思いは宝塚時代、いいえ、子どものころから変わりません。

ガレージで誕生
〈1946年、神戸市の外国人居留区、通称「ジェームス山」で生まれました。名前は「荘芝蘭(ツエン・ツーレン)」。中国人の父母が芝のように強く、蘭のように美しく≠ニ願い、付けました。愛称「ツレちゃん」。家族は両親と兄、妹でした〉
 ジェームスさんという英国人貿易商が開発した山で、外国人ばかりが住む高級住宅街でした。父は、彼らのお世話をする洋服の仕立屋さんでした。
 もともとは山のふもとの海辺に住んでいましたが、私が母のおなかにいる時、枕崎台風で家を流され、お客様宅のガレージに間借りしたんです。ガレージは元馬小屋。そこで生まれたから、宝塚時代は「キリスト」と呼ばれていました。(笑い)
 愛嬌(あいきょう)いっぱいの子だったらしく、笑顔の写真ばかりが残っているの。カメラを向けられると、いつもニコニコ。相手が喜ぶことを何かしたいと考えている子でした。
 父は戦前、兄弟で日本に来て、徒弟奉公で洋裁の修業をしました。でもお兄さんが帰国する時、父は「残る」と言ったんです。戦争で国交は断絶。お兄さんとはその後二度と会えませんでした。
 父の中で、遠い祖国はいつも美しかった。子どもの私によく言いました。「中国は広いんだぞ。畑のキャベツも、あっちの地平線から太陽が昇り、向こうの地平線に沈むまでずっと、日の光を浴びているんだ」って。
 父も、日本生まれの母も日本語は片言でした。貧しくて、苦労したと思います。家の2本の蛍光灯を1本外して倹約していました。家族旅行などなく、年に一度、クリスマスのころ、神戸の街へ肉まんを食べに行くだけ。私が初めて映画をみたのは小学5年生でした。

母が重ねた青春
〈中国人の小中学生が通う中華同文学校の最終年、友達の話で宝塚音楽学校の存在を知ります。父に内緒で受験し合格〉
 友達が「2年間勉強したら、舞台に立てる学校なの」と話すのを聞いて、いいなあって。宝塚を見たこともないのに、受けたんです。
 合格を打ち明けたら、父はすぐ「やめろ」と言いました。日本社会で苦労した父は、「目立ってはいけない」が口癖でした。
 その時、普段は父に絶対服従だった母が私に味方してくれたんです。10代で結婚して以来、ずっといろいろなことに耐えてきた母。小学1〜2年生の時、私を連れて須磨の海に行き、「この海みたいな広い心を持つんやで」と静かに泣いたことがありました。母は失った青春を、私に重ねて見ていたのかもしれません。
 父も最後には折れて、たばこを吸わない、髪を染めない≠条件に、往復3時間かけて宝塚音楽学校へ通うようになりました。
 入学すると、ショパンをすらすら弾く子や、日舞の名取など優秀な子ばかりでした。私はピアノの「ド」の位置もわからない。スターになんてなれるわけがない、とすぐあきらめて遅刻ばかりでした。歌劇団に入っても、すぐ退団して結婚しようと思いました。
〈64年、宝塚歌劇団入団。同年の「花のふるさと物語」が初舞台です〉
 私、初舞台の時に自分の眉を塗りつぶし、描き直して出ました。彫りの深い顔が嫌で仕方なかったんです。小さい時は日本人の子どもたちに「アイノコ」といじめられました。だから宝塚でも、とにかく目立たず、みんなと同じでなければと…。平面的な顔で出たかったんです。
 その初舞台の時、客席から、「ここにおるでー! ツレちゃーん!」と声が聞こえました。父でした。あんなに反対していたのに、見に来てくれたんです。うれしかった。
 私は宝塚を退団するまで、お給料袋の封を切らずに、全部父に渡しました。父はそのお金をためて、私が退団する年に家を建ててくれました。毎日外に出ては、うれしそうに家を眺める父。私は、がんばってよかったと思いました。
 父は99年に、母は2005年に亡くなりました。私は2人の子に生まれて、親孝行できて、本当に良かったと思っています。
 (つづく)

おおとり・らん=1964年、宝塚歌劇団入団。70年、星組トップスター就任。「ベルサイユのばら」で黄金時代を築く。79年の退団後も、「シカゴ」などミュージカルを中心に活躍。菊田一夫演劇大賞ほか受賞多数。今年、旭日小綬章受章。ミュージカル「天使にラブ・ソングを〜シスター・アクト〜」(演出/山田和也)は、1月7〜28日=福岡・博多座
092(263)5555。浜松、長野を巡演
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2016年12月11日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/俳優鳳蘭さん/第2回/トップ就任「復員兵」役で単独初主演/稽古では「へたくそ!」

〈宝塚歌劇団入団2年目。自分は落ちこぼれだと思っていた鳳さんに転機が訪れます。ある公演で、同級生が準主役に抜てきされたことです〉
 彼女は良い成績でしたが、一番ではない。一番の成績でなくてもいい役がつくんだと思って、変わりました。
 歌劇団のレッスンは無料です。その人のやる気次第。私は公演の稽古の合間をぬって、バレエ、ピアノなどいろんなレッスンに出るようになりました。ダンスは、シャツをしぼると汗がしたたるほど練習しました。
 そんな3年生(入団3年目)の公演です。舞台下からせり上がって登場する場面で、私がパッと振り向いて「サニー!」と歌った瞬間、客席がウォーッとどよめいたんです。一瞬何が起きたのかわかりませんでした。もしかして私に歓声? 信じられませんでした。
 後に知りましたが、以前から菊田一夫先生は、群集の中で踊る私を客席から指さして、「次の宝塚を背負うのはあの子だ」とおっしゃっていたそうです。同じように後に「トップになると思っていたよ」といってくださる方が何人もいました。早くいってほしかった。(笑い)

顔を真っ黒に
〈入団6年目の70年、星組トップスターに。翌年1月末から、単独初主演の「星の牧場」で記憶を失った復員兵を演じます。戦争の痛みを伝える異色作です〉
 当時、児童文学の『星の牧場』がちょっとしたブームで劇団民藝も公演していました。宇野重吉先生にお会いして役づくりを教わりました。お話は難しくてよくわからなかったのですが…。(苦笑)
 普段なら年明けから稽古が始まりますが、復員兵の話は宝塚でも経験がないため、稽古は12月後半からでした。
 初めての台本読み合わせの時です。私がせりふを読むと、演出の高木史朗先生が「へたくそ!」と、台本をたたきつけて帰ってしまわれました。私は真っ青。お正月は、ひとり台本を読みながら、真っ暗な気持ちで過ごしました。
 「星の牧場」は、戦争で心を病んだ復員兵モミイチの物語です。大切に世話した愛馬は戦争で死にますが、まだ生きていると彼は思っています。町の人は頭がおかしくなったといいます。でも彼は山の中で幻想を見て、本当はいない愛馬と幸せな再会を果たします。
 もし「戦争の悲惨さを表せ」といわれていたら、体験のない25歳の私には無理でした。でも傷ついたモミイチが大好きな馬といっしょにいられる幸せな気持ちはわかる気がしました。
 モミイチのことを考え続け、顔を真っ黒に塗って舞台に出ることにしました。そんな顔の男役は、宝塚始まって以来じゃないかと思います。公演は好評でした。もしうまくいっていなかったら、トップを続けられなかったかもしれません。

ベルばら出演
〈宝塚歌劇団は74年、池田理代子さんの少女漫画「ベルサイユのばら」を舞台化。仏革命を背景に、王妃アントワネットと貴公子フェルゼン、架空の人物である男装の麗人オスカルとアンドレが愛の物語をくり広げます〉
 75年、私たちが1カ月のパリ公演から帰国すると舞台版「ベルばら」が大ブームになっていて驚きました。
 これを逃すなと、私も出演することになりました。ただ、私がオスカルをやると、より男らしい役のフェルゼンをやる人がいない。そこで私がフェルゼンを演じ、アントワネットとの恋を描く「ベルばら
V」(76年公演)の脚本が書かれました。
 74年から2年にわたる一連の「ベルばら」は、宝塚の歴史を変えました。(つづく)
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2016年12月18日,「赤旗」)

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第3回/心で演じる夢の世界の男性/客席を甘く抱きしめて

〈今は世界に知られる宝塚歌劇団ですが、舞台「ベルサイユのばら」以前は日本でも知らない人がいました〉
 北海道公演でのことです。駅で降りて宿に向かう最中、ひとりが先頭を歩く人に「(星組の)組長!」と声をかけました。それを聞いた町の人がびっくり。別の意味の「組長」と思ったんです。
 旅館ではいくら私たちが「全員女性です」と話しても、受付の人が信じてくれない。たばこを吸っている組長を見て、「絶対、男だ」と。それくらい知られていませんでした。

ファンが殺到
〈状況を一変させたのが約2年間の「ベルばら」公演です。当日券を求める行列は1`に及び、2日間の徹夜組がいたほど。終演後は、700〜800人のファンが楽屋口に殺到したといいます〉
 家に帰るのも大変でした。外に出る前に指輪を回して宝石を手の内に隠し、毛皮のコートの前をぎゅっと閉める。6人くらいが私をガードして、「行くよっ!」の掛け声でダーッと車へ走りました。
 「ギャーッ」と声が上がり、ファンにもみくちゃにされました。差し出される色紙に何とかサインしますが、急いで書くので、ただの線。それでも涙を流すほど喜ばれました。毛皮の毛は引き抜かれ、車のサイドミラーは折られ
〈「ベルばら」に出演したトップスター4人は「ベルばら4強」と呼ばれ大人気に〉
 おもしろいことに、4人のファンは年齢が分かれていました。
 安奈淳さんが小〜中学低学年、汀(みぎわ)夏子さんが中高生、榛名由梨さんが高校生から新人OLくらい。私は主婦でした。
 これだけ人気になったのは、池田理代子先生が描いた「ベルサイユのばら」の世界に、宝塚がぴったりだったからでしょう。
 「ベルばら」は、男装の麗人オスカルが登場する夢の世界。そこが、女性が男性を演じる夢の世界=宝塚に合った。宝塚の男役って、絵のように美しいですからね。
 再演のたび、お客様が自分の子どもや孫を連れて来てくださり、ファンが2倍、3倍と増えていきました。「ベルばら」は宝塚の歴史を変えた宝です。

脚組むポーズ
〈77年、「風と共に去りぬ」で、ヒロインを一途に愛するレット・バトラー役。男役の真骨頂を見せます〉
 「鳳さんをみた後は、家でなるべく夫の顔を見ないようにする」という人がたくさん生まれ、「人妻殺し」なんて呼ばれました。
 演じる上で大事にしたことはただ一つ、心です。心がレット・バトラーになれば、自然と存在すべてが彼になる。相手を心から愛し、骨が折れそうなほど抱きしめました。多くの洋画で男優を見ていたからか、無意識に脚も組んで座っていました。脚を組む男役はたぶん私が最初です。
 お客様は、娘役に自分を重ねて見ています。私が彼女を優しく抱擁すると、自分がそうされているように幸せに感じるのです。
 だから男役は、自己中心的じゃだめ。いつも自分は陰になり、娘役をきれいに見せる。相手のすべてを受け入れ、客席全体を愛で包むから、すてきなんじゃないでしょうか。
〈宝塚歌劇団は創立102年です〉
 女性が男性を演じる宝塚と、男性が女性を演じる歌舞伎は似ている、とよくいわれます。でも違います。歌舞伎は一生続けられるけれど、宝塚はいつか辞めなきゃいけない。
 私は18歳から15年在籍し退団しました。ただお客様を幸せにするために青春をささげ、次の青い芽を育てようと考えました。先輩たちから続く、そんな努力の積み重ねが、宝塚の歴史なんだと思います。
 (つづく)
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2016年12月25日,「赤旗」)

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2015

【1月】

脚本家倉本聰さん

この人に聞きたい/脚本家倉本聰さん/1回/人々のふるさと奪った原発事故/罪負う気あるのか

 脚本家・倉本聰さん(80)。代表作のドラマ「北の国から」が東日本大震災後、再び注目されています。10日からは、東京電力福島第1原発事故を題材にした舞台「ノクターン―夜想曲」を再演。倉本さんが今、言いたいこととは―。
 板倉三枝記者

 3・11の後、僕は福島をずっと見て歩きました。事故後、患者さんを置いて逃げ、また戻ってきた看護師さんに、そのときの心境を追跡取材しました。原発労働者や地元の新聞記者にも話を聞きました。看護師さんは、「逃げている間の後ろめたさといったらなかった」とおっしゃっていました。
 今回、僕がこの芝居で書きたかったのは、天災と人災に巻き込まれた人間たちの、その中で必死に生きようとしたすばらしさなんです。利己的なことのために仲間を裏切ったり自分の正義を捨てた人間が、そのことに悩み苦しみ、人間として生き直す姿なんです。
 わずか4年前の原発事故。当時、世界をあれだけ震撼(しんかん)させた悲劇の記憶が、当事国である日本で、こんなにも早く風化し始めていることに、僕は激しい憤りと悲しみを感じます。
 東京オリンピックを招致したいために、この国の宰相が、「(原発は)コントロールされている」と笑顔でぬけぬけと言い放つ。メルトダウンの始末もつかないまま、政府や財界が原発再稼働へ舵(かじ)を切り、原発輸出さえしようとしています。
〈今も12万人が避難生活をしています〉
 事故の後、立ち入り禁止である双葉、大熊、浪江、富岡の各町を歩かせてもらいました。人っ子一人いない中、道路にイノシシや牛が歩いていました。
 ローンを払いだしたところだな、という真新しい家もありました。古い家だと先祖の写真が掛かっていました。家があるのに帰れない悲惨さを思うと胸がしめつけられます。
 僕は前に「昨日、悲別(かなしべつ)で」というドラマで炭鉱の棄民を書きました。今度は原子力の棄民です。賠償金では償いきれない記憶や思い出、感情の集積。それが「ふるさと」です。
 「ふるさと再生」と口では言いながら、東北被災地の始末もつけないで原発再稼働などと言っている政界・財界のお歴々は、「ふるさと」という言葉の重みが本当にわかっているのでしょうか。
 それを奪い取った戦犯の罪は、それに加担した政治家、財界人、科学者たちが、個人名を明らかにして負うべきものだと思います。
 「ノクターン」は福島でも公演します。彼らに寄り添っている人間がいるんだ、ということを見せたくて、何度も改稿を重ねながら3年がかりでつくりました。

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この人に聞きたい/脚本家倉本聰さん/1/浪費が善≠ニいう不思議な思想/原点から考え直すとき/

〈3・11には、天災と人災の二つの側面があるといいます〉
 昨年、福島第1原発を回りました。とにかく大変です。核のゴミがどんどん増えています。作業員が脱ぐ防護服、手袋、マスク。これ全部、低レベルの放射性廃棄物なんですね。汚染水のタンクも行くたびに増えています。間に合わなくて新たに森を切っています。
 最終的に出てくる使用済み核燃料は、高レベル放射性廃棄物で、これに至っては処理方法も引き受け手もない。そのことは、最初からわかっていたはずなんです。だけど、そのうち誰かが考えるだろうと、「未来」というゴミ箱に捨てた。そこに一番の矛盾と無理があると思うんです。
〈北海道・富良野が舞台のドラマ「北の国から」(1981〜2002年)は、東京で挫折した黒板五郎が子どもたちを連れ、故郷の電気も水道もない廃屋で暮らす物語です〉
 五郎は沢から水を引き、風力発電を作ります。五郎が、わざわざ不便を求めるように何でも自分でしようとするのは、座標軸の問題です。子どもたちに真の生き方を教えてやりたい。そういう強固な意志の表れなんです。
 こんな一節があります。息子の純が「電気がなかったら暮らせませんよッ」というと、おやじが「夜になったら、眠るンです」という。単純明快です。
 60年代には子どもは夜8時には寝ていました。それが今は、11時ぐらいでしょう。おとなにいたってはもっとですよ。だけど日の出や日の入りの時間は、古代から変わっていないのです。

需要仕分け≠
〈大量生産、大量消費、大量廃棄の社会に警鐘を鳴らします〉
 終戦直後、皮肉屋の学校の先生に「これからは壊れない物は作ってはいけないのだ」といわれ、心底とまどいました。「壊れないと新しい商品が売れない。壊れやすい物を作って、壊れたらすぐ捨て、新しい物をどんどん買う。そうすればみんなが幸せになる。それが資本主義の時代だ」と。
 節約が善で浪費が悪であるという思想は、浪費が善で節約が悪という不思議な思想に取って代わられました。思想というより、資本家たちの陰謀ですね。
 「北の国から」の中で、純にゴミ収集の仕事につかせるため、取材で何日間か、廃棄物収集車に乗りました。そのとき仰天したのが粗大ゴミなるものの正体でした。
 2、3年前の新品同様の電化製品。ソファにベッド。どう見てもゴミとはいえない。富良野塾の塾生にもらいに行かせました。
 ことの元凶は不要な物を作ることです。需要があるから供給する、というのが物事の原則のはずなのに、今は供給が先にある。「腹がいっぱいでも食え」というわけです。
 原発も同じです。供給する側からの議論ばかりで、需要する国民側からの議論はされていない。今、一番大事なのは、需要仕分け≠セと思います。例えばコンビニは深夜まで営業する必要があるのか。ネオンはどうか。テレビは24時間放送しなくちゃいけないのか。
 あらゆることを海抜ゼロの原点から、もう一度考え直す必要があると思います。
〈「北の国から」では、離農する農家や自然の厳しさを余すところなく描きました〉
 借金漬けで夜逃げした農家をたくさん見てきました。初霜が10日早く降りただけで、ホウレンソウ500万円分がパーになる。自然の営みに右肩あがりはありません。大規模化などで経済成長のシステムに合わせようとすると、たちまち破たんに追い込まれます。
 「食」は、ほとんどすべて農業・漁業という自然からの贈り物によっています。いくらITが発達しても、コンピューターで食料は作れないですからね。
 しかし、農業人口はどんどん減り、高齢化しています。だから僕は徴兵制じゃなくて「徴農制」をやるべきだといってるんです。(つづく)

舞台「ノクターン―夜想曲」(作・演出/倉本聰)は、10〜18日=北海道・富良野演劇工場。以後、全国巡演。2月4〜8日=東京・新国立劇場、
0570(00)3337

くらもと・そう=1935年、東京生まれ。脚本家、作家、劇作家、演出家。代表作は「北の国から」「前略おふくろ様」「風のガーデン」など。富良野塾の卒業生と「富良野GROUP」を立ち上げ、現在は舞台公演中心に活動
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2015年01月11日,

(Go2Top)

この人に聞きたい/脚本家倉本聰さん/第2回/「北の国から」考えたこと/一寸ずつ動かせば必ず動く

〈倉本聰さんは1974年、東京を離れ、北海道に移住します〉
 39歳の時、NHKと衝突して大河ドラマ(「勝海舟」)を途中降板しました。気が付いたら札幌に来ていました。テレビ界から干されたと半分ヤケクソになっていたから、トラックの運転手でもやろうかと思って、自動車教習所に通おうとしたこともありました。
 ススキノで1人暮らしをしていた2年半は一番勉強になりましたね。ホステス、おっかない人、右翼…。そういう連中と付き合っていると、面白いんですよ、話が。
 東京にいたときは、利害関係のある人間としか付き合ってなかったことに気づいて、がくぜんとしましたね。それでどうしてものが書けたんだろうと。
 1週間だけでしたが、北島三郎さんの付き人もやらせてもらいました。僕のドラマ「幻の町」のロケに来た時の人気がすごかった。この人気はなんだ、と思いました。
 サブちゃんの興行は田舎の体育館なんかを回るんです。感動したのは、サブちゃんと観衆のやりとり。職業とか年齢とか学歴とか何の差別もない。裸の人間と人間がぶつかり合うんです。テレビドラマを書こうとするなら地べた目線で書かなくちゃいけないと、猛反省しました。

時計の速度
〈42歳で札幌から富良野へ〉
 おおもとには、めざましく変わる都会への不安があったような気がします。姉貴分だった向田邦子さん(故人)には止められましたけどね。「バカなことをやっちゃだめよ」と。
 富良野に暮らして一番ショックだったのは時計の回る速度でした。僕は時々、「森の時計はゆっくり時を刻む」と色紙に書くんだけど、遅いんです。最初はイラつきました。
 例えば家に上る林道にでかい岩が頭を出していて、どかしたいけど、どうにもならない。農家の青年に相談したら、ちょっと考えて、こうすれば1日3aぐらい動くんでないかい、と。ショックを通り越して感動しました。
 僕らの感覚では、1日3aというと、動かないと同じ。簡単にあきらめ、金を払って誰かに解決してもらおうとします。かなわないなと思いました。
 その頃、「一寸引き」という言葉を教わりました。手に負えない重い物は、一寸ずつ動かせ。そうすりゃ、いつかは必ず動く。哲学だと思いました。人が生きる「座標軸」ってものを意識しだしたのはこの頃からです。
〈「北の国から」は、地方の農村を拠点に、本当の幸福とは何かを一つの家族の物語を通して問いかけます〉
 テレビ局(フジテレビ)の命題は、「小さな家族の大きな愛の物語」でした。その命題に従いつつも、こっそり自分の思いを忍び込ませました。
 テレビドラマは、第一に面白くなきゃいけない。もう一つ大事なこととして、日本人として言うべきことを言わなくちゃいけない。できればそれと気づかれないように涙や笑いにまぶしながらです。薬でいうと「糖衣錠」。本当に言いたいこと、苦いところは砂糖で隠しちゃう。そういうやり方を志向しました。

五郎の心境
〈五郎役には田中邦衛さんが決まります〉
 「北の国から」では座標軸のぶれない男を書きたかった。それが黒板五郎でした。
 高倉健さんから始まって、緒形拳、藤竜也、中村雅俊、西田敏行、田中邦衛、いろんな名前があがりました。その中で誰が一番情けなく見えるかってことになって、満場一致で邦さんになりました。
 情けない男にしたのは、僕自身が情けないから。イジイジしたり、ひきょうなものの考え方をしたり、反省するところは山ほどあるわけですよ。自分の中にね。
 東京で挫折し、富良野でゼロからやり直そう、という五郎の心境は、そのまま僕の心境でした。(つづく)
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2015年01月18日,
「赤旗」)

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この人に聞きたい/脚本家倉本聰さん/第3回/「創」と「作」は違う/金がないなら智恵しぼれ

〈1000本近くの脚本を書いてきました。第1作は、東大時代に書いたラジオドラマ「鹿火」(かび)です〉
 脚本や小説は、中学・高校時代からノート何冊分も書いていました。大学時代は、大学に行かないで、劇団「仲間」に通っていました。
 授業はまったく出ていません。先生の顔を知らないぐらいですから、試験どころの話ではありません。少し前まで、この当時の夢を年中見てました。「ああ、ノートがない」っていう…。(笑)
 夢の中で真面目な女子大生に「ノートを貸してください」とお願いするんですが、冷たく断られてしまう。それが吉永小百合さんだったり、竹下景子さんだったり…。
 劇団では、中村俊一という演出家の脇について演出を四六時中、見ていました。公演の時は、劇場で切符のもぎりです。毎回、芝居を見ていましたから、せりふも覚えちゃう。見て習う。大学時代に丁稚(でっち)に出てたみたいなもんです。

会社員の傍ら
〈大学卒業後、ラジオのニッポン放送に入社。倉本聰のペンネームでこっそり脚本を書き続けました〉
 ある日、部長が呼んでいるといわれ、内職がばれたか、と青くなって出向いたら、「最近、テレビでクラモトソウという若い作家が目立ってきた。おまえ、会いにいって、どんなやつか見て来い」と。
 ばれているわけでもないようです。原稿を書きながら時間をつぶし、局に戻って「たいしたやつじゃありませんでした」と報告すると、「そうか」と。なんとか切り抜けました。
 4年ほど勤めたうち最後の2年間は、2時間睡眠が続きました。テレビのレギュラーを2本持ってましたからね。精神がおかしくなって、ノイローゼになりました。
 シナリオライター一本でいこうと決めたのは、28歳の時です。まずはどんな注文にもこたえられるシナリオ技術者になろうと思いました。僕が、自分なりの表現にたどりついて作家になったといえるのは、50代後半から60代だと思います。
〈シナリオライターと俳優を養成する私塾・富良野塾をたちあげたのは、1984年。49歳の時です〉
 この世界に憧れる若者は多い。でも若者は金を持っていない。生活費も受講料も不要なシステムはないか、考えました。
 受講料は教える側が取らなきゃいい。問題は暮らすことでした。
 富良野市街地から東に二十余`のところに布礼別(ふれべつ)という小さな村落があります。その山間に20年ほど前に農家が見捨てた孤絶した谷がありました。この谷から富良野塾を始めました。
 住むところは自分たちで建てます。まず、崩れかけた農家の廃屋を直して住めるようにしようと思いました。
 でも塾生たちが遠慮がちに言うんです。
 「金がなくちゃあ、何もできません。壁材がいるし、窓のガラスだって、はめなくちゃなりません。第一、くぎがありません」
 僕は言いました。
 「創作という言葉を知ってるな。創も作もつくるという意味だ。しかし、創のつくると作のつくるは違う。知識と金で前例にならってつくるのが作だ。金をかけないで前例がないものを智恵(ちえ)で生みだすのが創だ。俺たちは創をめざそう。金がないなら智恵をしぼれ」
 その結果、取り壊し中の家を探し、家の持ち主と解体屋さんに頼みこみ、使えそうな材料をいただきました。
 塾生に言ったときはお金もなく、苦し紛れの面もありました。でも「創」と「作」は違うという考えは、ずっと変わりませんね。
 塾生には、農繁期に農家に手伝いに行ってもらい、その稼ぎを生活費にあてました。「第1次産業的労働を通じて人間の原点に立ち戻る」ことが目的でした。
 われわれ物づくりの道とは、すそ野の末端から一歩一歩と、時を惜しまず歩くことです。地に足のついたシナリオライター、俳優を育てたいと思ったのです。
 (つづく)
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2015年01月25日,
「赤旗」)

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【2月】

この人に聞きたい/脚本家倉本聰さん/第4回/おやじから受け継いだもの/損得考えず真っすぐ生きる

 〈富良野塾は26年続き、375人が巣立ちました。講義で力を入れたのは登場人物などの履歴づくりです〉
 「木は根によって立つ。されど、根は人の目に触れず」と教えます。物語の根っことは登場人物の創造です。
 年齢、生年月日、出身地及び育った場所の具体的なイメージ。初恋から始まる恋愛歴。失恋、破恋の一つずつの理由。住んでいる町の地図、部屋の間取り。窓から見える景色…。
 ドラマを1本の木とするならば、一人ひとりの役を掘り下げてつくることが木の根を深くします。特に欠点を拡大することで個性が光ります。チャーミングに見えてくるんですね。だから「北の国から」の五郎の履歴は欠点だらけにしました。
 履歴は物にも必要です。例えば純が北海道から東京に出る際に、トラックの運転手から渡された1万円札には泥がついていました。この札には泣きたいほどの履歴があります。そういうことの積み重ねがリアリティーをつくるのだと思います。
 〈ライターも俳優も情報の受信が大事、そうしなければ発信はできないといいます〉
 乾いたスポンジをいくら絞っても水は出ない。それと同じです。ただし、本やテレビからの情報は、誰かの頭を通過した第二次情報です。自分が直接見、聞き、嗅ぎ、触り、体験することを通して発見することです。
 「今日、悲別(かなしべつ)で」という閉山した炭鉱を芝居にしたときは、稽古に行き詰まると、深夜1時間かけて炭住の廃屋群に行きました。真っ暗な空き家に入り、懐中電灯の光で稽古するんです。すると、生活していたときの匂いがわかるんです。
 土間から「父チャンオツカレサマ。レイゾーコニ、チャーハン ハイッテマス」という紙を見つけた時は、涙があふれそうになりました。リアルな生々しさは第一次情報でしか得られないんです。
 〈せりふを書く時、語尾を大切にします〉
 俳優の多くは、意味が伝わればいいと思っているから、語尾を自分流に変えちゃうんです。そうすると、キャラクターの性格が変わるんですね。
 「倉本は、役者が一言一句変えてもいけない」っていう悪評が立ちましたけど、違うんです。これは一気呵成(かせい)に言ってほしいから点を打っていないとか、全部意味があるんです。

僕の行動理念
 〈倉本さんのせりふは、韻を踏んでいてリズム感があります〉
 4、5歳の頃、おやじに宮澤賢治の音読をさせられました。リズム感は大きくなってからは身に付きません。すごくメリットになっていると思います。
 僕が自然に興味を持つようになったのも、おやじの影響ですね。東京で医学の出版社を経営していたおやじは俳人でした。中西悟堂さんという日本野鳥の会の創設者と仲が良くて、僕が4歳ぐらいのときから山歩きに連れて行ってくれました。4歳にして鳥の名前と鳴き声を全部覚えたときは、神童と呼ばれましたね。去年、東京新聞から知らされたのですが、クリスチャンだったおやじは戦時中、反戦のことを書いて、特高につかまったこともあったようです。
 亡くなった時には借金しか残さなかったんですが、年を取れば取るほど、おやじから残してもらったものが多かったなと思います。僕らが自然の一部であること。損得を考えずにまっすぐ生きること。たたかうことを恐れないこと。自分の価値観は自分で決めること。ありとあらゆるものを生前贈与されていたなと気づきました。
 9年前、閉鎖されたゴルフ場を森にかえそうと、NPO法人富良野自然塾を設立しました。「まず跳ぶ―。しかる後、考える」というのが僕の行動理念です。やれるかやれないか、なんて考えていると、結局、跳べないで終わっちゃうんですよ。
 (おわり)
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2015年02月01日,
「赤旗」)

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【3月】

俳優・作家・歌手高見のっぽさん

この人に聞きたい/俳優・作家・歌手高見のっぽさん/前編/「できるかな」無言の20年余

「小さいひと」に敬意をこめて
 NHK教育テレビの子ども向け工作番組「できるかな」で、おなじみの高見のっぽさん(80)。ライフワークのひとり芝居「ノッポさんの宮沢賢治〜ぼくは賢治さんが大好き!」が4月、東京で公演されます。作品にかける思いや子どもとの付き合い方を聞きました。
 小川浩記者

〈演目は、「狼森と笊森、盗森(オイノもりとざるもり、ぬすともり)」「注文の多い料理店」などです〉
 宮沢賢治さんの作品は10代後半から読み始め、その頃は言いたいことがわかりませんでした。あの方の作品は、童話のスタイルを取っているけれど、読んでもわからないものばかり。『銀河鉄道の夜』は、おとなが読んだってわかりませんよ。
 作品から伝わってくるのは、書いているご本人がとても優しい人だということと、文学的才能がすごいということです。例えば「雨ニモマケズ」は詩だといわれていますが、私にとっては歌です。
 『狼森〜』の中に、「狼森のまんなかで、火はどろどろぱちぱち火はどろどろぱちぱち、栗はころころぱちぱち、栗はころころぱちぱち」と狼さんたちが歌う場面があります。私が読むと節がついてきます。宮沢賢治さんも、これを書きながら歌を歌ったに違いありません。だから4月の公演では作品に曲をつけました。全部自分で作曲しました。
 宮沢賢治さんの作品だけは、みんなに声を出して読んでいただきたいですね。あの方の作品は、今の世の中にちょうどいいですよ。自然との共存、人間は森と仲良くしなきゃいけない、と呼びかけていますからね。

最終回で…
〈「できるかな」(1967〜90年)のノッポさんは、音楽にのって無言でモノをこしらえる、しゃべらない人≠ナ有名でした。ところが最終回、初めてしゃべります〉
 最後までしゃべらない方がいい、という人もいました。でも、私はいい声をしてるんだから、お客様をびっくりさせたい、という思いがありました。本当にいい声かは知らないけどね。ふふふ…。
 気分は良かったけど、しゃべった後に、ちょっと気がとがめました。おどかしちゃったんだろうなあと。それで最後に「あ〜あ、しゃべっちゃった」とおわびのしるしを付け加えました。
 番組終了後、たくさんのお手紙を受け取りました。どれも「長い間、ご苦労さまでした」とありました。その後に「ほんとにありがとうございました」と書かれていたのには、びっくりしました。お礼を言われるとは思っていなかったのでね。自分で思っていたよりも、良い仕事をしてきたみたいです。

自分と同じ
〈ノッポさんの絵本シリーズ≠ネど作家としても活躍中のノッポさん。子どもに敬意を表し、「小さいひと」と呼びます〉
 小さいひとに敬意を払うのは、案外、自分が年を取ってると思ってないからかもしれません。5、6歳の小さいひとたちが、自分と同じに思えるんです。
 だから、小さいひとと相まみえるとき、「こやつも私と同じ…、いや、ひょっとすると俺よりも賢いかもしれないぞ」と考えます。言葉づかいも接し方も、自分の持っているうちの最高の礼義正しさで敬意を表します。
 「どうして子どもの心を知っているんですか」とよく聞かれます。僕は子どもの心を知っているわけではありません。子どもに受けようと思ったことも、これっぽっちもありません。僕は、自分が面白いと思うようにやってきました。
 幼稚園の子どもたちに紙芝居を書くとき、せりふをおとなの言葉で書いたことがあるんです。そのとき幼稚園の園長さんから「せりふもやさしくしてほしい」と言われました。
 でも僕は、「登場人物が子どもに合わせてしゃべるばっかりではありませんよ」と言いました。わからない言葉があれば、そばにいる大きいひとが説明してあげればいい。だって、新しい言葉を覚えた時、うれしくありませんでしたか。
〈著書『五歳の記憶〜ノッポ流子どもとのつき合い方』には幼い頃のノッポさんが鮮やかに描かれています〉
 幼い頃の私は鋭くて賢くて…。私を悲しませたり痛めつけたり無作法で思い上がったりするようなおとなにはなりたくない、と思ってきました。
 子どもの頃、おとなたちとのつき合いの中で味わった悲しい記憶は、楽しかった記憶よりずっと鮮明です。
 自分の小さい頃を記憶していれば、小さいひとを尊敬することは可能だと思います。悪い思い出でいいんです。そのとき自分はどう対処したか。それを思い出せば、小さいひとが何を考えているか想像できます。どういう場面で喜ぶのか、怒るのか、悲しむのか、理解できると思いますよ。(つづく)

ひとり芝居「ノッポさんの宮沢賢治」
 4月4日=東京・港区、青松寺観音聖堂ホール。1回目「こうまは はながすき」「おおかみガロとあさがお」開演=11時30分。2回目「注文の多い料理店」開演=13時30分。3回目「狼森と笊森、盗森」開演=15時30分
 各回定員は120人。入場無料。申し込みは先着順。観覧希望者全員のお名前と年齢、代表者の住所、電話番号、見たい演目のタイトルを記入し、ファクス03(3431)3536へ

たかみ・のっぽ=1934年、京都市生まれ。著書は、『ノッポさんがしゃべった日』など多数。第58回放送文化賞など受賞
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2015年03月01日,
「赤旗」)

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この人に聞きたい/俳優・作家・歌手高見のっぽさん/後編/漱石から谷崎まで/本ほど楽しいものはない

〈ノッポさんは東京・向島の長屋で生まれました。父は、チャプリンのモノマネで、日本のチャーリー・チャプリン≠ニいわれた元芸人でした〉
 戦争が始まって、岐阜に疎開しました。
 戦後、疎開先で父親が押し入れからチャプリンのふん装道具を出してきて、町の人の前でショーをしたことがあります。子どもの僕は、父親に向かって「お父さん、恥ずかしいからやめてよ」と言いました。そしたら父は、「私がやるとみんなが喜びます」と答えました。良い意味で、憎らしいほど芸人でした。

間がそっくり
 父が28歳の頃、出演した無声映画を見たことがあります。庄屋の道楽息子役でした。主役の男女がいて、主役の女性に懸想(けそう=恋い慕うこと=)するんですよ。だけど受け入れられない。野原で絵を描いてハアとため息をついたり、ふられた女性が帰る夜道に縄でわなを仕掛けたり…。
 びっくりしたのは、お芝居の間が私にそっくりなんです。おやじから芝居を習ったことはないですよ。でもそっくりなんです。やっぱり遺伝ですね。
〈2005年、NHK「みんなのうた」で、おじいさんバッタにふんして「グラスホッパー物語」を歌いました。71歳の歌手デビューです。脚本、作詞、振付、主演はノッポさん。タップダンスを披露しました〉
 おじいさんバッタは若い頃、街に飛び出し、一人の女性に助けられます。その昔話を孫バッタに語り、若いうちにどんどん挑戦しなさいと諭すミュージカル仕立てのお話です。
 タップダンスの基本は、吉田タケオ先生から学びました。でも、不肖の弟子です。(アメリカ人ダンサーの)フレッド・アステアのタップダンスに夢中だった僕は、先生が教えてくれることよりも、彼のようなダンスがやりたいと言いました。
 先生は怒りませんでした。アステアとビル・ボージャングル・ロビンソン、ものすごいタップダンサーのレコードを出してきて、ステップを教えてくれました。レコードを回しては止めながらリズムを自分の足に移して…。本当にいい先生でした。

幼いころから
〈長年、子ども向けにお話や絵本をつくってきたノッポさんは、読書を何より大切に思っています〉
 幼稚園の頃、僕が買ってもらったものといえば、月ぎめの幼年雑誌1冊でした。本は買ってもらえませんでした。配達は毎月同じ日で、その日は朝からソワソワしていました。
 家には岩波文庫がそろっていました。当時は岩波文庫をそろえることが、ステイタスだったんですね。
 小学校3年生の時に一回り、年が離れていた兄貴の本棚から岩波文庫をおろし、夏目漱石から有島武郎、石川啄木、島崎藤村まで、何から何まで読みました。『坊っちゃん』と『或る女』は愛読書です。子どものくせに2、3回は読んでます。
 中学生の頃は、同級生の女の子のおやじさんの本を借りて読みました。おやじさんは、早稲田大学文学部の先生を退官した人で、その家の書庫には本がたくさんあったんです。得意そうに見せるから、僕にも貸してくれと頼みました。
 すると谷崎潤一郎の『細雪』を出してきてこれが読めるか、という顔をする。仕方ないから読んでみると、面白くて面白くて、中学3年までに、その書庫の本を全部、読み終えました。
〈子どもを本好きにするには、おとなが本好きになることだといいます〉
 いまの小さいひとは本に恵まれています。しかし、恵まれ過ぎているからか、本を読むことが軽んじられています。本はゲームやテレビと比べ物にならない大切なものだし、本の楽しさがわかったら、ゲームに夢中になるわけがない。読み聞かせも、大きいひとが面白いと思って読めば、必ず伝わりますよ。(おわり)
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2015年03月08日,
「赤旗」)

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俳優鈴木瑞穂さん

この人に聞きたい/俳優鈴木瑞穂さん/第1幕/軍国主義から目覚めた平和/憲法は愛情に満ちていた

 鈴木瑞穂さん、87歳。劇団銅鑼公演「はい、奥田製作所。」で全国巡演中です。63年の俳優人生で、戦争や差別を問う数々の作品に出演してきました。原点は、戦争体験と日本国憲法との出あいです。
 大塚武治記者

「満州」の実態
〈1927年、中国との国境の町、北朝鮮の龍岩浦(りゅうがんぽ)で生まれました。父は、日本から赴任した朝鮮人中学校の教師でした〉
 僕が4歳になる直前、「満州事変」(31年)が始まりました。45年の敗戦まで、青春時代は全部、十五年戦争と重なるわけです。
 物心ついた頃から、徹底した軍国主義教育を受けて育ちました。
 日本人のための尋常高等小学校では、「諸君は天皇陛下にその身をささげているんだ」と言われ、死を美しいものと考えていました。
 家に17歳くらいの朝鮮人女性のお手伝いさんがいて仲良くしていましたが、「この人を一等国民=日本人にしてやらねば」と考えていました。
 朝鮮人は毎朝、天照大神をまつった神社に整列させられ、「皇国臣民の誓詞」、「我等は皇国臣民なり、忠誠以て君国に報ぜん」を日本語で唱えさせられます。「五つの民族が協和して満州をつくる」という「五族協和」の実態がこれでした。
 旧制中学は、鴨緑江(おうりょくこう、中国と北朝鮮の国境の川)を渡った「満州」の安東市にありました。
〈43年、旧制中学を4年で修了し、単身日本へ。広島・江田島の海軍兵学校に入りました。そこで原爆投下を目撃しました〉
 45年8月6日朝、教室でモールス通信の準備をしていたら、突然、真っ白な光線に包まれました。「なんだ?」と思ったら、ズーンという地鳴りと震度3ほどの揺れ。山に登ると、海を隔てて約10`先の広島が、ダークオレンジの炎と煙に包まれている。見る見る煙は盛り上がり、キノコ雲になりました。
 「市民はみんな大やけどだ」とうわさが流れました。状況がわからないまま、夕方、水兵がカッター(手こぎ舟)に水と消毒薬を積んで出ましたが、途中から戻ってきました。「広島港は死体だらけで、オールが引けない」と言うんです。風に乗り、島にも広島の腐臭が漂いました。
 怒りに震えました。当時の日記に〈人間がここまで人間をおとしめることができるのか!〉と書いています。
 敗戦を境に、「若者よ、大義のために死ね」と言っていたおとなたちがコロッと「民主主義者」になりました。復員した兵隊は目的を失い、自殺者や犯罪者が大勢出ました。
〈敗戦後、岩手・陸前高田の伯父宅へ。漁を手伝い、「なぜ自分は生き残ったのか」と悩みました。引き揚げてきた父はすぐに亡くなり、伯父の勧めで京都大学入学。その46年、憲法が公布されます〉
 新憲法は、ザラザラの紙パンフレットのようなものに印刷されていました。読み始めて、強烈な衝撃を受けました。日本は戦力を放棄する、もう二度と戦争しない。なぜこんな優しい言葉で、一人ひとりの人間に愛情を注げるのか? 殺すか殺されるかだけを考えた僕の人生は何だったのかと思い、涙が出ました。

色彩豊かな生
〈マルクス経済学者・河上肇著『貧乏物語』を読み、衝撃を受けました。1950年、京都で劇団民藝の演劇、チェーホフ作「かもめ」を見ました〉
 これも衝撃でした。チェーホフは戦争中、敵性文学だったのでまるで知りません。でも芝居を見るうち涙があふれました。人間の喜び、怒り、憎しみ、愛。生きるとはこんなにも色彩豊かなものか。死ばかり見つめていた僕は初めて、人間らしい感情というものを知ったのです。
 見終わってどうしてもそのまま帰れなくて楽屋を訪れたら、宇野重吉さんに「よかったら来年うちを受けに来ないか」と誘われました。東京・青山の稽古場で受験したのが、俳優の始まりでした。
〈「現在の日本の状況は、戦前とそっくりだ」と危ぶみます〉
 故ワイツゼッカー元独大統領は、「過去に目を閉ざす者は、現在も見えなくなる」と言いました。日本の為政者は、歴史に学ばず、未来への想像力を欠いています。加害の歴史をはっきり認識し、何を生み出していくかを考えなきゃいけないと思います。
 僕は二度と戦争を味わいたくないし、自衛隊員や若者に、あのせい惨な戦場を味わわせたくない。原爆を見た者として原発を許せない。
 世界から戦争や核兵器をなくすのは、憲法が追い求める夢です。もっとも軽蔑すべきは「現実」に合わせ、夢を地べたに引きずり下ろすことでないのか。
 共産党はいつも夢に向かって現実を変えようとしてきた。僕はそこを信頼します。現政権が戦争に向けた法案づくりをはじめ、戦争参加が現実の危機になりつつある今、これに対抗する共産党にもっと強くなってほしい。 (つづく)

すずき・みずほ=1927年生まれ。劇団民藝を経て、72年、演劇集団銅鑼(どら、現・劇団銅鑼)創立に参加。創立10周年まで代表、現在、団友。主な出演作に、舞台「炎の人」、「ヘンリー六世」、映画「戦争と人間」(山本薩夫監督)など。
2006年、紀伊国屋演劇賞個人賞受賞。日本共産党文化後援会代表委員
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2015年03月29日,「赤旗」)

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【4月】

この人に聞きたい/俳優鈴木瑞穂さん/第2幕/初舞台から63年/自分を磨き抜けば個性が残る

〈初舞台は1952年、空襲の跡が残る東京・新橋演舞場の劇団民藝公演「五稜郭血書」(作・演出/久保栄)。稽古場にはセットもなく、床にテープが張りつけてあるだけ。想像力を駆使しました〉
 軍艦の甲板の雪を払う場面なんですが、どこまで甲板かさっぱりわからない。「鈴木君、そこは空です!」と久保さんに怒られてね。
 一人で8役。せりふは一言。役の間に舞台転換までやり、初舞台というより障害物競争でした。
 厳しかった久保さんが千秋楽に、「よくやったじゃないか」と著書『新劇の書』をくださいました。裏表紙に達筆で、〈編み笠を脱げばはるけし夏の空〉と書いてありました。治安維持法で投獄された久保さんが、解放され、囚人の編み笠を脱いだ時の感動をよんだ句です。うれしくて、一発で芝居から抜けられなくなりました。
〈60年安保闘争の直後、70人からなる第1次訪中新劇団に参加。帰国後、アーサー・ミラー作「るつぼ」の主人公プロクターを演じました〉
 僕は野球で言えば、直球で勝負するタイプ。でもこの役には、くせ球がいる。無実の罪で死刑宣告を受けて叫ぶ場面は、体の力を全部抜き、柔らかい中にビーンと立ち上がるもので高揚感を出さなきゃダメ。滝沢修さんに、「ほらほら、力が入ってる」と小突かれ、稽古しました。
 この役で芸術祭奨励賞をもらい、宇野重吉さんに背広を借りて表彰式に出ました。そこでやっと、「何とか役者をやっていけるかな」と思いました。
 外国では、俳優は肉体や発声の訓練を約6年受け、初舞台に立つといいます。自分のイマジネーション(想像)を演ずるには技術が必要。僕は民藝の先達にもまれ、育てられました。

変化が面白い
〈71年、民藝を退団し、翌年、故・早川昭二氏らと演劇集団銅鑼を創立。社会派作品を多く創造してきました〉
 民藝時代以上に大変でした。公演期間中もチラシを持って、学校や労働組合回り。何十軒も歩き、観客を集めてから楽屋入りです。でもおかげで、芝居を一緒に作る仲間が全国にできました。
 思い出深い作品がたくさんあります。
 「炎の人」のゴーギャン役、「橙色の嘘」は看護師に淡い恋心を抱く老医師、俳優座劇場プロデュース公演「夜の来訪者」では、戦争で財を成した一家の主人。八木柊一郎さんが英国の戯曲を戦争前夜の日本に翻案し、誰もがこの社会に責任を負って生きているのだと問いかけました。
〈現在、町工場の奮闘記、「はい、奥田製作所。」で巡演しています。人情厚い老社長役です〉
 若い劇作家が今の生産現場を取材して書いた作品です。テーマは物づくりは人づくり=B下請けで苦しい中、町工場が横につながり、何かを作ろうと探る。
 どこでも、お客さんの拍手が温かいんです。隣の工場を見る感じで、共感してもらっているんじゃないかな。
 東日本大震災で思い知らされました。中小企業の生産が止まれば、僕たちの生活は、缶ジュースのプルトップ一つさえ立ち行かなくなります。日本を底辺で支えているのは、中小企業なんです。
〈初舞台から63年〉
 芝居も演技も、変わり続けるから面白い。
 新国立劇場で「ヘンリー六世」に出演した時、演出の鵜山仁さんが終演後、楽屋に来て、「あの場面、こう変えたらどう?」と熱っぽく語るんです。でもその日は千秋楽。翌日はない。そう言ったら、彼は照れていました。そんな、今日より少しでもいいものをという人が好きです。
 俳優は、「その人に非(あら)ずして、その人を憂う」と書く。役に近づこうともがくのが演技だと思います。役者は、その中で自分の狭い人生体験を超え、変化できる。個性とは、自分を磨き抜いてなお残るものだと思います。(つづく)

 劇団銅鑼公演「はい、奥田製作所。」(作/小関直人、演出/山田昭一)に出演中(右から2人目)。27日午後6時半=東京・大田区民プラザ。рO3(3937)1101
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2015年04月05日,
「赤旗」)

(Go2Top)

この人に聞きたい/俳優鈴木瑞穂さん/第3幕/僕が出会った監督たち/役者の膨らみ見逃さない

〈劇団民藝時代から数多くの映画に出演してきました〉
 幸せなことに、僕はたくさんの優れた監督と出会ってきました。いい監督は一つの場面を撮るにも本質をつかんでいる。ダメを出すのもうまい。お釈迦(しゃか)様の手の上にいるみたいに、気分よく演じてきました。

山本、熊井…
 一番多く仕事した山本薩夫監督もそうでした。松川事件がモデルの「にっぽん泥棒物語」では被告の鈴木信さん、「白い巨塔」は医療ミスを訴える庶民派弁護士、「戦争と人間」は全3部のナレーションもしました。
 山本さんはダイナミックでした。何回とちっても、「いいよ、大丈夫」と決して俳優を責めませんでした。
 「戦争と人間」で飲んべえの先輩役者がいました。関東軍の作戦会議の約20秒の場面ですが、何回やっても地名や師団名を間違えて午前中をつぶしちゃった。でも監督はあくまでカットを割らず、一つなぎで撮ろうとする。休憩を取り、監督が彼とゆっくり話して午後一発でOKになったことがありました。
 役者の気持ちの膨らみを大事にする人でした。よく役者を見ていて、膨らんできたと見るや、「さあ、本番だ!」と、その瞬間を逃しませんでした。
 京大の同級生で、地味だけど良い作品を撮った松尾昭典監督、「くじけないで」の深川栄洋監督。すばらしい監督たちです。
〈3歳下の熊井啓監督は友人でした。「帝銀事件 死刑囚」、「日本列島」、「地の群れ」。えん罪や米軍、差別をテーマにした作品に多く出演しました〉
 ある時、僕が「あなたの映画は暗いものが多いね」と話したら、熊井さんが言ったんです。「暗さをまっとうに見ない人間に、本当の明るさは見えないよ。本当の暗さを突き抜けなければ、本当の明るさは見えないんだよ」って。
 最後にシナリオまで書いて撮れなかった映画も、渡辺謙さん主演の脱獄囚の話。よく「俺はまだまだだ」と言っていました。本当に惜しい人でした。
〈自身も演技を通して、「なぜ」をくり返してきました〉
 人生87年、芝居63年。振り返れば、「人間って何だろう?」という問いをくり返してきました。
 人間とは、本来すばらしいものだと思います。でもあの日広島に原爆を投下し、一瞬で十数万人の命を奪ったのも人間、東京大空襲で人々を焼き尽くしたのも人間。人間はこんなに愚かで残虐なものかという場面に何度もあいました。もし人間がすばらしいものなら、それをゆがめるものの正体を知りたい。
 俳優は、常に時代に敏感でなきゃいけないと思います。犯罪者の役が来れば、なぜ彼が罪を犯したか、救う仲間はいなかったか、と問い続ける。ただ漫然と台本の活字を言葉にするだけでなく、「なぜ」と問う中でこそ、役の向こうに社会と時代が見え、監督や作者の描こうとした人間像が出てくるのだと思います。
 そうは言うものの、僕もまだまだわからないことだらけです。チェーホフが書いたように、「今日は天気がいいね。お茶を飲もうか、首をつろうか」という不思議な存在が人間です。一生、わからないのかもしれません。

えっちら行く
〈来年も舞台出演が決まっています〉
 周りは、「まだまだ当分いけます」と言っています(笑い)。足腰が割と強いのが支えです。健康法は、ほぼ毎朝2時間、8`くらいのウオーキング。川沿いをすたすた歩きながら、四季の移ろいを感じるのが、また楽しいんです。
 一つ役が終われば、翌日からまた「頂上」めざして、えっちらおっちら行く。それが俳優です。そうやって死ぬまでに何か一つ、成し遂げられたらと思うんでしょうね。
 (おわり)
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2015年04月12日,
「赤旗」)

(Go2Top)

作家佐藤愛子さん

いっせい地方選後半戦26日投票/共産党が伸びるのはうれしい/作家佐藤愛子さん

「この人に聞きたい」3面
 作家の佐藤愛子さんが、インタビュー「この人に聞きたい」に登場。戦争中の不自由さと、戦後の解放感を振り返りながら、憲法について「改憲は、しない方がいいに決まっています。憲法の平和主義、9条がいい」と語りました。
 日本共産党について「党利党略や私利私欲がない」「共産党は、まじめでウソがない。そこに好感をもっています。私も投票していますが、共産党が伸びるのをみるとうれしい」と話しました。
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2015年04月26日,
「赤旗」)

この人に聞きたい/作家佐藤愛子さん/第1話/個性派ぞろいの家族/父が認めた「おもしろい悪口」

 作家の佐藤愛子さんは今年で91歳。大衆作家の紅緑(こうろく)が父、詩人・サトウハチローが兄という個性派ぞろいの家庭に生まれました。戦中・戦後の生活と2度の結婚、巨額の借金に追われた日々、直木賞受賞…。波乱の人生を語りました。
 聞き手・金子徹記者

〈父親の佐藤紅緑は、戦前、『ああ玉杯に花うけて』や『英雄行進曲』などで有名な人気作家でした〉
 私は父が50歳の時の子です。父は陽気な人で、食事の時などひとりでしゃべっていました。
 昔の父親はどの家でも権威をもっていましたが、うちの父はなかでも特別でした。父が家にいるとうっとうしくて。父が旅行に出かけると、みんなでバンザーイと喜び、のびのびとできました。
 「満州事変」は小学2年生の時です。当時の日本人には当たり前でしたが、本当に軍国少女でした。家でも学校でも「覚悟を決めろ」とよく言われました。
 母親からは「男にも女にも一番の苦労がある。女はお産、男は兵隊」だと。それは覚悟しておけと、繰り返し言われました。

激情と理性
 あのころは、将来なんて考えられません。とにかく戦争に勝たなければ。「欲しがりません、勝つまでは」です。世の中が暗くなってきて、言いたいことが言えないのです。
 真珠湾攻撃(1941年)で、日本はアメリカをやっつけた、やっつけたとわきたちました。友だちと電車に乗っている時に、私が「勝った、勝ったというけれど、不意打ちしているんだから勝つの当たり前じゃないの」と言ったら、友達が「しーっ、憲兵に聞かれたら連れていかれるよ」と。
 母も「戦争したって日本が負けるに決まっている」というような人でした。父は、「大和魂の日本の兵隊が負けるわけがない」と。私はこういう両親の影響が半々だと思います。普段は父のように怒りっぽいけれど、時々、母のような理性的なところが出てくるんです。
〈43年に見合い結婚。終戦の玉音放送は、岐阜県大井町(現恵那市)の夫の実家で聞きました〉
 それまで家の電気も(空襲警戒のため)覆って暗くしていたのが、8月15日の夜からパーッと明るくなった。その解放感というのは、なんともいえなかったですね。
 ところが、復員してきた夫はモルヒネ中毒になっていました。自分で何とかできるものでもないですから、困りました。亭主の出来不出来に人生を左右されるのはごめんだ、夫に頼らず自分で生きていく方法を考えるしかないと思いました。
 49年に父が病気で亡くなります。その最期をみとるために東京に帰ったら、佐藤家の連中はみんな「別れろ、別れろ」と。世間体を気にする人はひとりもいなくて、それで離婚したんです。
 ただ母は、私の生活を心配しました。協調性がないから会社勤めなんかしても1週間ももたないだろうと(笑い)。結局、母が考えたのは、小説家です。父も激情家で新聞記者などいろいろやったけれど小説家になった。小説はひとりの作業です。母に「おまえはお父さんにそっくりだから、ものを書く以外にない」といわれました。
 私は両親への手紙で結婚生活のぐちや、しゅうとめの悪口をさんざん書いていたんです。父がそれを読んで、「愛子は文才がある。悪口がおもしろい。嫁にやらず、物書きにした方がよかった」と言っていたらしい(笑い)。それを母が思いだしたのです。
 それで25歳で作家を目指すことになりました。

9条がいい
〈戦争中のことを思えば、最近の改憲の動きは気になります〉
 改憲なんて、しない方がいいに決まっています。憲法の平和主義、9条がいい。戦争中は軍人が威張って自由もない、とんでもない世の中でした。もしも日本が戦争に勝って、あの状態が続いたらと思うと、やはり負けてよかった。
 私は作家だから、人間はどうなるか、日本人はどうなるかを考えてしまいます。ところが、安倍首相は経済最優先で、目先の損得ばかり。金のことばかりを国をあげて考えるようになってしまった。こういう精神性の乏しさが問題だと思います。
 選挙で日本共産党が伸びているのは、安倍首相に対する不安や失望があるからでしょう。そうかといって民主党ではしようがない。
 共産党には党利党略や私利私欲がないことは、はっきりしている。その信頼感があるんじゃないですか。
 日本共産党は、まじめでウソがない。そこに好感をもっています。私も投票していますが、共産党が伸びるのをみるとうれしい。自民党だけが強いのでなく、いろいろな党がしのぎを削るのがいいと思います。(つづく)

さとう・あいこ=1923年大阪府生まれ。69年、『戦いすんで日が暮れて』で直木賞、79年、『幸福の絵』で女流文学賞、2000年、『血脈』で菊池寛賞を受賞。
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2015年04月26日,
「赤旗」)

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【5月】

この人に聞きたい/作家佐藤愛子さん/第2話/借金地獄の日々描き直木賞に/「お金が入る」と聞き受賞

〈モルヒネ中毒となって戦争から戻ってきた最初の夫。離婚後は自立のため、作家をめざします〉
 私は文学少女でもなかったし、小説を書けるとも思っていませんでした。他にできることがないから仕方なく始めました。こんな作家、あまりいないでしょうね。(笑い)
 25歳で作家をめざすことになり、まずは万巻の本を読めと母にいわれ、ドストエフスキーだトルストイだと読み始めました。そういう時、『文芸首都』という同人誌があると聞き、入ってみたんです。

お金は紙くず
〈『文芸首都』には、北杜夫、なだいなだなども。そのなかで、2度目の結婚相手の田畑麦彦さんと出会いました〉
 基礎の勉強ができていないから、劣等感がありました。みんなの話がまったく分からない。麦彦に傾倒したのも、彼が文学の先輩としてものすごく優れた人だと思えたからです。彼には文学のことをたくさん教わりました。
 そこからの道のりは長かったです。でも、これにかじりつくしかないと。読みたくない本も随分読んで、寝ても覚めても文学で、10年くらいは売れない小説を書いていました。
〈63年、「ソクラテスの妻」が同年上半期の芥川賞候補になり、続けて「二人の女」が下半期の候補に。ようやく仕事が充実してゆきます。資産家の息子だった夫は教材会社を始めますが、67年、倒産。翌年、離婚しますが、数億円の負債を抱えた夫を救おうと、借金の一部を肩がわりします〉
 夫から、「おれはこのまま野垂れ死にはしない、必ず次の会社を作る」と言われ、後で返すという言葉を最初は信じていました。
 そのうち私は、お金は紙くずみたいなものだと考えなければやっていけなくなり、お金に対する価値観を変えたんです。そうしないと、とても生きていけなかった。金より大事なものがある。借金から逃げず、正々堂々と生きていきたい。だからせっせと返しました。

次から次へと
〈佐藤さんが背負った借金は、3千万円以上。消費者物価指数で換算すると、現在の1億円余りになります〉
 高利で借りていたから返しても返しても無くならなくて。はっきりした金額を出すと、気分が悪くなるから自分でもよく知らないんです。数字に敏感な人だったら絶望して自殺を考えたかもしれません。数字が分からないのにも、いい面がありました。(笑い)
〈借金返済のため、執筆、講演、テレビ出演などで全国を駆けまわる日々でした〉
 昼間はずっと原稿を書き、夕飯の後は、くたくたになってベッドにしばらく寝ている。すると小学校2年生だった娘が学校のことなどをいろいろ話し掛けてきます。だけど、夜10時になったら「夜の部」として、また原稿です。子どもを振り切り書斎に入り、深夜3時まで。よく病気にならなかったと思います。
 また、そういう時は、次から次へと書けたんです。切羽詰まると、人間、力が出るものだと思いました。まさに「火事場のばか力」です。
〈69年、編集者のすすめで、夫の会社の倒産と借金地獄の日々を描いた、「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞しました〉
 発表の日は、入院していた川上宗薫さん(作家、故人)のお見舞いで病院にいて、そこへ受賞の知らせがありました。
 ちょうど借金とりとの攻防の最中で、それだけでも大変なのに、受賞したら原稿依頼が増えてしまう。これは死んでしまうなと。それで受けるかどうか迷ったら、川上さんが「しかし、ゼニは入るぞ」と。その一言で、「お受けします」となりました。(つづく)
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2015年05月10日,
「赤旗」)

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この人に聞きたい/作家佐藤愛子さん/最終話/小説を書くことの意味/人の生き様を受け入れる

〈代表作『血脈』は、個性豊かな佐藤家の人々を描いた全3巻の大河小説です〉
 考えてみると、佐藤家は変な人間ばかりなんです(笑い)。父・紅緑の父の弥六は、津軽藩の下級武士で福沢諭吉に弟子入りしました。そこで外国の文化に関心をもち、輸入したランプなどをあつかう店を開きました。
 ところがお客さんが来てこれはいくらかと聞くと、うるさい、ほしけりゃ勝手にゼニを置いて持っていけとどなる。そんな人だから、店はすぐつぶれました。

極端な多面性
〈「ちいさい秋みつけた」や「おかあさん」で有名な詩人のサトウハチローは、異母兄です〉
 ハチローと私は20歳違いです。私は関西で育ち、ハチローはずっと東京で不良をやっていました。ふざけてこっけいなことを言ったりして人を笑わすのが生きがいみたいでした。ハチロー兄ちゃんが来るのをみんな楽しみにしていました。
 そのうち、ハチローの極端なくらいの多面性がみえてきました。エゴイスティックで冷酷な面と、優しくセンチメンタルで人間好きな面とが共存しているんです。
 『血脈』を書くなかで、ハチローのなかに二つの面が共存しているのだということが、ようやく理解できました。
 それまでは、身内なのでエゴイスティックな面ばかりがみえがちでした。「おかあさん」の詩を書く優しい人、という世間の認識との落差が大きかった。私はハチローが詩を書くときは、ウソを書いているのだと思っていました。でも、優しさと冷酷さの両方をもっているのが本当のハチローなんです。
〈最新作は昨年秋に出した『晩鐘』(文芸春秋)。あの借金地獄をもたらした2番目の夫との日々を描きます〉
 『晩鐘』は、私の人生の総括です。これを本にしたいとか、たくさんの人に読んでほしいとかではなくて、私には、これを書くこと自体に意味があったのです。
 私の人生が、夫との関係によってつくられてきたという感じがあります。夫にだまされたり、私も夫に水をぶっかけたりしました(笑い)。お互いに一生懸命の付き合いだった。穏やかな、常識的な結婚生活だったら、細かいことなど忘れてしまっていたかもしれません。
 書きながら考える。字を書くことで、次の言葉が導き出されてきます。頭のなかで思っているだけでは、次の言葉は出てきません。デッサンをするように書いていくと、人間が動くようになる。事前に私のなかに小説全体の筋がまとまってあるわけではありません。私が興味をもっておもしろいと思う人間そのものを書いているうちに、時の流れとともに登場人物が動いていく。私が書いてきたのはそういう小説です。
 『晩鐘』で、私にとって小説を書くことの意味が分かりました。それは、人間が、かく生きたと受け入れることです。どうしようもない夫を、私はいまは憎んでいません。彼は彼なりに、一生懸命に生きたんだな、という思いだけです。

反社会的一族
〈世相を憂い、本音をずばりと記したエッセーも人気。「怒りの佐藤」と呼ばれたこともあります〉
 紅緑もハチローもそうでしたが、佐藤家では怒りを表に出すことが当たり前でした。でも、世間では怒りをあからさまにするのは、してはならないこと。うちは、反社会的に生きた一族なんです。やっぱり、どうしようもないものが作家になるんですかね。(笑い)
 私は怒ることによっていろいろな苦難をしのいできたという感じです。私の怒りやわがままを容認できるのは、あの夫しかいなかったのかもしれません。大概が途中で逃げ出す(笑い)。そういう意味では似合いの夫婦だった。彼がいなければ、私は作家としてやってこれなかったでしょうから感謝しています。(おわり)
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2015年05月17日,
「赤旗」)

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「赤旗」読んで戦争法案阻止しよう/本質をズバリ/共同の新聞/多彩な識者

本質をズバリ/多角的追及に反響
 「『平和安全法制』なんてふざけている」「戦後最悪の法案だ。さっそく街頭宣伝で問題を訴えた」―安倍政権が今国会成立を狙う戦争法案のニュースや特集記事を読んだ読者の方から「何としても廃案を」の決意が次々寄せられています。
 「赤旗」は、政府・与党による戦争法案づくりの段階から「徹底批判! 戦争立法」と題しキャンペーンをはってきました。全国紙の一部が政府の言い分に立って法案解説するなか、「米国の起こすあらゆる戦争に自衛隊がいつでも、どこでも参戦・軍事支援する戦争法案がその正体だ」と多角的に告発。たとえば、武力行使をしている米軍などへ自衛隊が弾薬提供や発進準備中の戦闘機への給油まで軍事支援できるようにする問題を取り上げた連載には、国会関係者から「法案で『武力行使の一体化』がここまで変質しているとは思わなかった。法案の見方を変えざるをえなかった」との感想も寄せられています。
 弁護士、憲法学者の取材を通じ、戦争法案が、憲法9条破壊の戦後最悪の法案であることを鮮明にし、党派を超えた解釈・明文改憲反対の論陣をはっているのも「赤旗」。戦争法案の国会審議で安倍首相らが持ち出すごまかしも鋭く批判しています。
 5月20日付の「いつでも どこでも 米のどんな戦争にも参加 日本の若者の血を流す」の見開き特集は、「これでわかる戦争法案」のタイトルで学習用パンフレットとして発行されることになりました。

共同の新聞/広がりを継続的に
 日増しに高まる「戦争法案阻止」の声。国会周辺や全国各地でおこなわれる集会やデモ、抗議行動を継続的に報道して、国民的な共同とたたかいを呼びかけているのが、「しんぶん赤旗」です。24日付は1面トップで、戦争法反対の世論と運動が広がっていることを報道。戦後最悪の法案を打ち砕く国民共同の新聞として役割を果たそうとしています。
 全国版・地方版に各種の行動計画を掲載。「戦争法案の審議入りに抗議する国会前行動を『赤旗』の告知記事で知って、奈良県から駆けつけた」という人もいます。審議入り当日、NHKは本会議の代表質問を放送しませんでした。「赤旗」は衆議院のホームページからネット中継されることを報道。読者から「『赤旗』に感謝です」のメールが寄せられました。
 国会周辺では、毎週木曜日の午後6時半から国会前行動が設定されているほか、6月15日から24日までの平日は連続座り込み行動が計画されています。6月13日には「STOP安倍政権!大集会」が東京都内でおこなわれます。
 若者たちも立ち上がっています。6月14日に都内でおこなわれる若者憲法集会の成功に向け、全国で宣伝・対話行動がおこなわれています。「赤旗」は若者の声を取材して、「韓国の友人に『日本は徴兵制がなくていいな』といわれた。9条を変えたくない。戦争はイヤ」などの声を紹介。「『赤旗』を読むと元気になる」と、うれしい反響も編集部に届いています。

多彩な識者/思いの丈を紙面で
 「若い人たちが戦場に行かされる、殺し殺されるということを自分の問題として真剣に考えてほしい」「戦争するための法整備を進めることは、憲法9条形骸化を決定的なものにします」
 女優の高田敏江さん、イラク支援ボランティアの高遠菜穂子さんなど、各界の多彩な識者が戦争法案反対で思いの丈を語る「『戦争法案』 今言わなければ」が好評です。
 法案の構造的問題を明らかにした憲法学者の山内敏弘さんや青井未帆さん、憲法裁判をたたかってきた若手とベテランの弁護士・川口創さんと新井章さんなど、それぞれの立場から戦争法案とのたたかいを呼びかけています。これからも多彩な方に登場してもらう予定で、朝から法案反対の熱い思い、たたかう勇気をお届けします。

日曜版/党派を超えて続々登場

 国会審議が始まった「戦争法案」。危険な問題点を分かりやすく伝えるとともに、反対の一点で党派を超えた人が続々、登場します。31日号では、問題点をズバリついた志位和夫委員長の代表質問を詳しく紹介するとともに、ジャーナリストの鳥越俊太郎さんなどが登場。これまでも、自民党千葉県連元会長の実川幸夫さんや民主党顧問の藤井裕久さんなどが反対の声を上げています。
 党首討論で大問題となった安倍首相の歴史認識問題。シリーズ「インタビュー 戦後70年」では、美術家の奈良美智さんや元官房長官の武村正義さん、臨済宗相国寺派管長の有馬頼底さん、俳優の加藤剛さんなどが過去の戦争などについて語っています。
 毎号の「ひと」には、NHK連続テレビ小説「まれ」で主演する女優の土屋太鳳さんなど話題の人が登場。シリーズ「この人に聞きたい」や同「私と介護」も好評です。

多彩な話題役立つ情報
 暮らしに役立つ情報も充実。行政が国民に知らせないお得情報≠お届けする「お役立ちトク報」は、読者から「本当に助かった」などのハガキが寄せられています。
 政治や社会の焦点の問題から、料理や健康、暮らしのことまで読み応えある記事が満載です。
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2015年05月28日,
「赤旗」)

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【6月】

写真家田沼武能さん

この人に聞きたい/写真家田沼武能さん/その1/66年、肖像を撮り続けて/顔は本質、人生写したい

 日本写真家協会会長を20年間務めるなど、日本を代表する写真家のひとりで、日曜版では、黒柳徹子さんとのユニセフ活動報告でおなじみの田沼武能さん(86)。66年の写真家人生です。
 大塚武治記者

〈このほど人物写真の集大成となる写真集『時代を刻んだ貌(かお)』(クレヴィス)を出版。
横山大観、高村光太郎、岡本太郎、黒澤明、森光子…。21歳から撮り続けた文化・芸能人ら240人の肖像です〉
 肖像写真を撮るようになったきっかけは、師・木村伊兵衛の紹介です。1950年に『芸術新潮』が創刊され、先生が僕を推薦してくれたんです。嘱託社員になり、文芸誌『新潮』のグラビアも撮り始め、著名な作家や文化人のご自宅やアトリエを訪ねました。
 志賀直哉さんのお宅は、東京・青山にありました。先生は部屋で奥さんに注射を打ってもらうと庭に出て、スズメにエサをやり始めました。撮ろうとすると、心優しい先生は、「待ってくれたまえ」。スズメがエサを食べて完全にいなくなるまで待たされました。
 永井荷風さんのお宅は質素そのものでした。三畳間の畳は擦り切れ、小さな手あぶり用火鉢が一つ。ズボンのボタンが外れたままで、正座されていました。奥の部屋に万年床が見えて、背景に入れようとしたらハッと気づかれ、ふすまをパンと閉められちゃった。

寝る間惜しんで
〈後に、世界の子どもや武蔵野の写真で有名になる田沼さん。20代半ばで人気写真家となったのは、著名人の素顔が見えるような肖像写真でした〉
 古代ローマの哲学者キケロは、「顔は精神の門にしてその肖像」と言っています。僕は顔を撮ることで、その人の本質―考えや心構え、人間史というものを写したいと考えてきました。撮影が決まると、寝る間を惜しんで著書を読み、作品を見ました。その人のことを何も知らずに、本質には迫れませんものね。
 素顔といえば、雪の研究者、中谷宇吉郎教授には撮影を重ねる中で仲良くしていただき、正月は毎年お宅で一杯やるのが楽しみになりました。先生の水墨画展に行った時、一高の同窓生、十河信二さん(元国鉄総裁)や安倍能成さん(元文部相、学習院院長)らが現れ、肩を組んで校歌を歌う場面が撮れたこともあります。
〈撮影では、合間にしてくれる話が面白かったと振り返ります〉
 浅草のつげぐし職人のおやじさんは、「自分が親から習ったのは、職人が一人前だと思ったらそこで終わり≠ニいうことだ」と言いました。今でも大事にしている言葉です。
 思えば、先生方にとって、僕は孫世代。まるで孫に語るようにしてくれた話は、人生の宝、教科書です。僕の10代は戦争一色。勤労動員でほとんど学べませんでしたから。

戦争は狂った世界
〈29年、東京・浅草の写真館の6人きょうだいの4番目に生まれました。建築家志望で大学予科受験の浪人中だった45年3月10日未明、ドドド、ドーンと地響きがして向かいの家に焼夷(しょうい)弾が落ち、火を噴きました。数時間で10万人が死亡した東京大空襲です〉
 家族を先に逃がし、おやじと僕はバケツで消火にあたりました。でも火の手が強過ぎ、強風で、かけた水が戻ってくるんです。
 おやじと自転車に2人乗りで逃げました。周りは全部火の海。隅田川の白鬚橋を渡ると、鐘紡の工場がすごい勢いで燃えていました。
 これ以上進もうにも熱風で息ができない。隅田川そばの空き地で夜を明かしました。
 地獄絵でした。川にたくさんの死体が浮き、道端に焼け焦げた死体がゴロゴロ転がる。焼死臭が漂う。背中に死んだ子どもをおぶったまま女性が倒れていましたが、どうすることもできませんでした。
 たどり着いたわが家は全焼でした。家の前の防火用水桶にお地蔵さん≠ェ…。目を凝らすと、焼け死んだ子どもでした。猛火の中、母親がどうしようもなくて、水に入れたんでしょう。水が蒸発し、手を合わせるように…。今も思うんです。お地蔵さんは、子どもの化身なんだろうと。
 あの時の光景が、僕のジャーナリストの原点になっているのかもしれません。
 戦後70年がたち、戦争が美化され、何か格好いいものに思わされています。ゲームでは死んだ人間がパッと生き返る。でも現実は違う。戦争は殺し合いです。大勢殺した人間が勲章をもらう狂った世界です。そんなことが起きては困るんです。
 8月、日本写真保存センターが、原爆投下から3カ月間に撮った写真約60点で写真展を開きます。写真でこそ伝わる真実があります。写真は人間の記録遺産です。(つづく)

たぬま・たけよし=1949年にサンニュースフォトに入社し、木村伊兵衛に師事。72年フリーに。日本写真著作権協会会長。90年、紫綬褒章、2003年、文化功労者に顕彰される。写真集に『武蔵野』、『人間万歳』、『トットちゃんと地球っ子たち30周年 黒柳徹子ユニセフ親善大使訪問記録』ほか
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2015年06月14日,
「赤旗」)

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この人に聞きたい/写真家田沼武能さん/その2/わが師・木村伊兵衛の言葉/被写体にほれろ、語らせろ

〈敗戦後、写真の専門学校に進みました〉
 やるならフォトジャーナリズムだ、いずれは世界的な写真週刊誌『ライフ』に載りたい。それが夢でした。
 それで、写真家・名取洋之助が「日本のライフ」を掲げて創刊した「週刊サンニュース」の会社に入りましたが、休刊になってしまいました。
 ニュース部門に配属されましたが、給料遅配の赤字会社でした。みんな出社すると、仕事そっちのけで電話をかけてアルバイトの口を探し、会社側も「それは助かる」という調子。社員全員が自分で食いぶちを探すという不思議な会社でした。
〈社に日本を代表する写真家、木村伊兵衛がいました〉
 僕は「押しかけ助手」になりました。木村が休日、ライカ(ドイツ製高級カメラ)片手に下町へスナップ撮影に出る情報をかぎつけて、付いて行ったもんです。

居合い切り
 助手といっても給料なし。技術も一切教えてくれません。でも師が何をどう撮るかをそばで見るだけで、大変勉強になりました。
 師のスナップはまるで「居合い切り」でした。道の向こうから人が歩いてくる。その人と背景を見て瞬時に構図を考え、バッと2〜3枚撮る。すれ違った時には勝負は決していて、相手は撮られたことにも気づかない。撮り損なって追いかけるなど、絶対しません。
 しかも何気ない日常を撮っただけなのに、そこには、人間のドラマと時代が切り取られている。天才でした。
 いい写真が撮れた日は、どじょう屋で一杯飲みながら、「粋なもんだ」「おつなもんだよ」と上機嫌でした。
 木村との差を思い知らされたのは、舞台「どん底」に出る女優を一緒に撮った時でした。
 写真を見比べ、がくぜんとしました。僕の写真にはただ人が写っているだけ。木村の写真には役の空気が写っている。芝居の中身など知らずに撮った僕と違い、木村は、ちゃんとテーマと役の意味をとらえていたんです。
 「相手にほれなければ撮れない」、「被写体に語らせろ。自分≠ェ出ちゃだめだ」という木村の言葉が身に染みました。
〈20代半ば、人物写真で売れっ子に〉
 ある日、木村が言いました。「おまえは頼まれた仕事をこなしているだけだ。すぐ飽きられ、ガムみたいにはき捨てられるぞ」と。「自分の写真を撮れ!」という言葉が胸に刺さり、僕は自分のテーマを探し始めました。

テーマ発見
〈テーマがひらめいたのは1966年、「ライフ」の契約写真家になった37歳の時。パリ郊外の森でした〉
 日曜で親子が遊びに来ていました。車から降りると、一目散に森へ走っていく子どもたち。その姿を見るうち、僕は夢中でシャッターを切っていました。
 その時ひらめきました。「ザ・ファミリー・オブ・チルドレン」。世界の子どもたちの素顔を通して、世界の現状を伝えられないかと。きっとできる、やろうと撮り始めました。
 当時、子どもをテーマにした写真は珍しく、ばかにされたこともあります。でも信念がありました。撮りたかったのは人生です。ゆりかごから墓場まで、人生はドラマ。とくに子どもは喜怒哀楽をレンズにぶつけてくる。彼らが何に笑い、泣いているかを撮ろうと。
 個展「すばらしい子供たち」を開いたのは、9年後でした。
〈木村はその前年、個展を見ることなく、亡くなりました〉
 生前、木村に子どもたちの写真を見せた時はいつもと同じ、無反応でした。でも死後、人づてに、木村が「田沼はいい仕事をしているよ」と話していたと聞き、本当にうれしかった。
 写真を撮り続けて六十数カ国を訪ねた84年、オランダ航空の機上で新聞記事を読みました。「黒柳徹子さん ユニセフ親善大使に任命される」。帰国後すぐ、彼女に連絡を取りました。(つづく)
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2015年06月21日,
「赤旗」)

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写真家田沼武能さん/その3/ユニセフ親善大使・黒柳徹子さんと30年

夢語る戦禍の子どもたち
〈ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんに同行取材して30年。32カ国を訪れました〉
 彼女との付き合いはもう70年近く。「テレビ女優第1号」としてデビューした時に撮影して以来です。ユニセフに同行したいと申し出た時も、「いいんじゃない」と。1回目の1984年のタンザニア訪問から、一度も欠かさず同行してきました。全部自費です。
 親善大使が行くのは、緊急援助をまさに今、必要としている国々。その事実を少しでも多くの人に伝えることが目的です。僕はそれまで19年間、世界の子どもの写真を撮っていましたが、ユニセフの取材では、1人の時には行けなかった現場まで入れました。
〈1回目の同行から、惨状に直面しました〉
 タンザニアでは「二十世紀最悪」といわれる飢餓で、多くの人命が失われていました。6歳の男児は栄養失調で脳障害を起こし、立つことも話すこともできず、「ギーヨン、ギーヨン」と声を上げていました。
 黒柳さんは必死でした。50度を超える猛暑の中を歩き回り、話を聞く。「飲み水がこんなに汚れている」とわかってもらうために、服のまま泥水に入り、ビーカーにすくって見せる。白い服を着ていても、泥だらけの子どもを抱きしめます。
 一生懸命な心が相手に伝わるのがわかりました。彼女は戦争中の疎開で食糧難を体験しています。気持ちが重なったんでしょうね。
〈年をへるごとに、訪問先として紛争国が増えていきます〉
 ほとんどが地下資源をめぐっての内戦、大国の代理戦争です。
 一つの国の内戦が収まると、すぐ隣で起きる。武器商人が暗躍し、戦争をあおっているんです。武器を売る国がなくならない限り、戦争はなくならない。
 戦争は、とりわけ子どもや女性たちに、むごい犠牲を与えます。

学校行きたい
〈戦禍に言葉を失いながらも、必死に生きる彼らに胸を打たれると話します〉
 リベリア(2000年)では、多くの子どもたちが兵士にされていました。
 16歳の少年は、村の自衛に駆り出された時、ゲリラに捕まり、なたで両腕を切り落とされて道路に捨てられました。少年は、「いい義手があったら、学校に行きたい。技術を身に付け、仕事をしたい」と訴えていました。
 コンゴ民主共和国(04年)の19歳の女性は、武装した男たちに両親を目の前で殺されました。自分はレイプされ、両目をえぐられ、失明しました。彼女は「将来の夢は歌手です」と美しい声で歌い、にっこりと笑いました。
 自殺を考える子なんて一人もいない。子どもたちは、どんな過酷な状況でも前向きに生きようとします。私たちおとなが絶望してはいけないんです。
 黒柳さんはよく言います。「私が大使に任命された時は、この地球上で5歳を前に死ぬ子が年間1400万人いた。でも今は、予防接種の普及や各国の援助で、620万人に減った。確実に状況は良くなっている。でもまだ、620万人が死んでいるんです」と。
 命ある限り、撮って伝えたいと思います。
 13年、2度目に南スーダンへ行った時、みなさんの募金で建てられた、傷ついた子どもたちのための施設「トットちゃんセンター」を訪ねました。
 28歳の青年が体験を話してくれました。
 彼は11歳の時、反政府武装勢力に誘拐されましたが、脱走し、センターに逃げ込んだのです。彼の通報で16人の仲間が救出されました。彼は「センターがなければ、自分たちの人生も命もありませんでした」と語りました。
 今では大学を出て、警備員となった彼の話に、黒柳さんは涙し、僕も30年間一緒にやってきて良かったなと心から思いました。
 大変なことも多いですが、私自身の写真人生、案外採算は取れているのかも、と思います。
 (おわり)
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2015年06月28日,
「赤旗」)

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【7月】

コメディアン萩本欽一さん

コメディアン萩本欽一さん/第1回/74歳の大学生/母ちゃんとの約束果たしに

 世代を超えた人気タレント欽ちゃん≠アと萩本欽一さん。その行動力には、いつも驚かされます。この春からは大学1年生。どんな学生生活なのか。いつも元気≠フ根っこにある人生哲学とは―。授業を終えたばかりの欽ちゃんを訪ねました。
 板倉三枝記者

〈74歳の新入生。同級生はもちろん、教員もみんな年下です〉
 何よりうれしいのは誰一人、「萩本さん」っていう人がいないのね。先生までみんな「欽ちゃん」。何年頃前からかな、僕は「欽ちゃん」が「萩本さん」になった時、ああ、年取ったなあって思いました。再び「欽ちゃん」と呼ばれる時代が来たのが最高ですね。

失敗≠ノ期待
〈この日は英語の授業がありました〉
 みんな失敗しちゃいけないと緊張しているのに、僕だけは失敗を待たれている。女の子なんか失敗を予測して、クックと噴いてるからね。みんなが笑いを待っているという感じ。だから期待にこたえて失敗します。
 英語で先生に「あなたの家族は?」と質問された時も、みんなは「father(父)、mother(母)」と答えているのに、僕は「secret(秘密)」。先生が「次の質問もシークレットですか」というから「イエス」。みんな笑ってましたよ。先生の話にもついツッコミを入れちゃう。それで先生の言ったことを落としちゃうんだ。この癖はやめないとダメだね。
 家に帰ったら帳面を整理します。授業中、じゃんじゃん書くでしょ。でも書いてあることが自分で理解できない。ドイツ語なんか、みんな辞書ひいて全部カタカナ振ってます。
 まるで10b先にある勉強を一生懸命追っかけてる感じ。「ちょっと勉強、先に行かないで」って。ゴールデンウイークは朝7時から夜12時まで家で帳面の整理でした。1日あと6時間ほしいぐらい。人生でこんなに忙しいこと、ないね。
〈入学したのは駒沢大学仏教学部です〉
 たまたま僕が大学に呼ばれて話したのが駒沢大学だったんです。だってうれしいでしょう。僕、大学も出ていないのに学生を前に話してくれって。こんなありがたい話、ないじゃないですか。ですからそのとき言ったの。「僕、うれしいから駒沢大学受けちゃおうかな」って。
 大学って面白いところだね。インドから中国に伝えられたブッダの言葉が「疑わしい」と今でも先生たちは、研究している。大学は高校と違って教えたものを覚えるんじゃないのね。自分で疑って資料で調べて自分なりの考えをしなきゃならない。だから僕はしょっちゅう疑ってる。でもギャグで疑ってるからどうにもなんないね。
〈仏教の本を1冊読んで感想文を書く課題がありました〉
 本には、民衆の中に飛び込んで、いろいろなことを説いたすてきなお坊さんがいて、立派だというので権力側が大僧正(僧侶の最高位)にしたとありました。でも僕には、本にはなかったお坊さんのその後が見える。大僧正の就任式の次の日には、大僧正の衣装を脱いでまた町へ戻って行った。そうあってほしいと書きました。僕としては、その地位に収まったというんじゃ嫌だったの。先生が赤ペンで、「不思議なところに目を留めましたね」とコメントしてくれました。

楽はダメだよ
〈より高みを目指すのが欽ちゃん流=B軽演劇の舞台出演を引退したのが昨年3月、翌月から大学受験の猛勉強を始めました〉
 一つ仕事がなくなったことで「楽になった」と思う欽ちゃんはダメだよって、自分で思ったの。だとしたら何か足さなきゃいけない。足すんなら今一番大変なことを足した方がいいよ、と。夢はでかいほど実現するからね。今一番大変なことってなあに? と考えたの。人間年を取ると、少しずつボケが始まるでしょ。それなら答えは簡単。ボケに負けないで大学受験に挑戦してみようと。
 社会人入試の受験科目は英語と小論文と面接で英語の試験に必要なのは英単語3000語。家庭教師に来てもらったけど最初の4カ月は何も覚えられない。年を取ると、自分の生活と近いものは覚えるけど、そうじゃないものは、はじくんです。僕にとって、英語ってのは相当遠いところにありますからね。
 これはダメだというのでよーし、全部、絵が浮かぶようにしてやろうと英単語を自分なりに分解しました。笑いや芝居のせりふにしたり、暗号を入れてイメージをつくるの。自分で参考書を作ったら14冊になりました。それからは一気に覚えた。
 僕は40代にも予備校で勉強したことがあります。自分に限界を感じちゃったの。ボキャブラリーが少ない。歴史も知らない。40代でやるテレビは、そこを補わないと無理かなと思った。
 僕の家は貧乏だったから高校を出てコメディアンになりました。母ちゃんには「大学には将来、お金を稼げるようになってから行けばいいさ」と言ってね。大学の志望動機にもそのことを書こうとしたけど、読み返してるうちに子どもっぽいな、と思ってやめました。僕にとって大学に行くことは、母ちゃんとの約束でもあるんです。(つづく)

はぎもと・きんいち=1941年、東京生まれ。浅草・東洋劇場を経て、軽演劇仲間の坂上二郎とコント55号を結成し、一世を風靡(ふうび)。「欽ドン」「欽どこ」など伝説的な大ヒット番組を数々手がける。著書に『続ダメなときほど運はたまる』など
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2015年07月05日,
「赤旗」)

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コメディアン萩本欽一さん/第2回/高校時代/食事抜いてチャップリン

〈欽ちゃんは、6人きょうだいの5番目に生まれました〉
 僕は競争に弱い子だったのね。小学校や中学校の修学旅行なんかで駅に列車が着くと、みんな一気に乗るわけね。あの勢いがダメな子だったの。
 みんなが乗るまでずっと待ってて、座れずデッキに立つ僕を先生が「またここか。ちょっと待ってろ」と呼びにきてくれる。そんな子ども時代でした。
〈幼い頃は、お手伝いさんが2人もいる裕福な家庭でした。ところが父親の事業が失敗。中学3年のとき、欽ちゃんは借金取りに土下座して謝る母親の姿をまのあたりにします〉
 そのとき初めて貧乏なんだと気付いたの。涙が出て「お金を稼いで母親に楽をさせたい」と強烈に思った。
 高校時代もお弁当を持って行ったことは、なかったね。だって僕が高校に入った頃、家で食べてたのは、ほとんどおかゆ。おかゆじゃ、こぼれちゃいますから。昼休みは一人で屋上に行って、空に好きな天丼を描いていました。おとなになったら天丼を食おうか、かつ丼が先かなあ、なんてね。でもちっとも嫌じゃなかったな。
 あの頃、母親がお弁当の代わりに50円くれた。「それでパンを買って」と言われたけど、これで3本立ての映画が見られるなあ、なんて。
〈それがチャップリンの映画でした〉
 おかしかったなあ、おかしかったなあって思い出しながら歩いているうちに、いつのまにか家に着いちゃう。ごはんも食べてないのに満たされてるの。
 そのときにチャップリンってすげえなあ、と思った。30分か40分、ひとつも歩いてるってことを意識させないのに感激しましたね。
〈母親の土下座を見て以来、うちの借金を返すためにコメディアンになろうと決意した欽ちゃん。高校卒業後、東京・浅草の東洋劇場に入りました〉
 先輩に「いつ一人前になれますか」と聞いたら、「なるヤツ少ないから、順番。修業してジッと待っていれば、順番が来るから」と。いい仕事を選んだなと思いました。
 才能があるとかではなくて順番なんです。だって僕のような、あがり症で間抜けなヤツが、どう考えても運が良かった。偶然、いい人に出会って、その人が運を運んできてくれたんです。人と出会うってのは、大きな運ですよね。
〈師匠の池信一さんとの出会いも、その一つです〉
 劇場に入って3カ月目、演出家の緑川史郎先生に「コメディアンの才能ないから辞めろ」って言われたんです。そのとき池さんが、「いまどきあんなにいい返事する子いないから、下手だけど置いてくれ」って掛け合ってくれたの。
 高校時代、レストランで働いていたとき、「チャーハン!」って言われると、「はい〜っ!」っていつも怒鳴ってたのね。それが生きた。緑川先生が、「この世界で大事なのは、うまいとか下手じゃない。あいつを応援したいって、劇場トップの師匠に思わせたんだから、おまえ、きっと一人前になるよ」と言ってくれました。
〈欽ちゃんが家庭の事情で休業しようとしたときも池さんは、みんなのカンパで窮地から救ってくれました〉
 この日が人生で一番泣いたかもしれない。師匠は、「おまえにあれこれ教えてもわかんないから10年間、デカイ声出しとけ」とだけ言って劇場を去りました。次にトップに立つ東八郎さんに「欽坊を頼む」と託してね。
 「コント55号」がウケなかったとき、やけくそで師匠が言ったように怒鳴りました。「なんでそーなるの!」って。ハッと気がついたら跳んでたんですよ。それがウケた。大きな声を出すと体がついてくる。師匠のたった一言が、大きな運を運んでくれたんです。
 (つづく)
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2015年07月12日,
「赤旗」)

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コメディアン萩本欽一さん/第3回/運≠ヘ必ずやってくる

大失敗後にコント55号結成
〈高校時代から運≠意識するようになった欽ちゃん。運≠ノついては一家言持っています〉
 僕の書いた運の本に、女の子から手紙が来たの。新入社員でいつも上司に怒られて会社に行くのが嫌になっていたそのとき、たまたま僕の本を読んだんだって。そこに「怒られるごとに運がたまっている」とあって、今は運をためてる時期なんだと思ったら、会社が楽しくなってきたっていうの。
〈欽ちゃん自身、こんな経験があります〉
 僕は、ひどい目に遭ったとき、 「次、でっかい運がやってくるかな」と思うんです。現にテレビでコマーシャルの生放送を19回トチる大失敗をして、ションボリして熱海に行っていたときがそうでした。2カ月たって、やり直そうと浅草の下宿に帰って来たら、その日に(坂上)二郎さんから電話があったの。それがコント55号の結成につながったのね。
 奇跡だね。一日遅れて帰って来てたら二郎さんとコンビになってないんだもんね。負けは負けのまま終わらない。人生ってうまくできているね。
〈20代半ばだった欽ちゃんは、二郎さんとこんな話をしました〉
 二郎さんに「コマーシャルで失敗してさ。テレビはもう永久にないね」って言ったら、二郎さんも「俺も永久にないよ」と言うの。
 2人で「テレビなんか、もう出ることないさ」と思ってやりだしたら、今度はテレビの方から「出したい」って声がかかった。テレビに出るつもりないから、「マイクの前でやってくれ」っていうのを無視して、舞台の端から端まで走り回ったの。それが評判になった。
〈以来、コント55号は人気絶頂に〉
 わかんない世界だよね。テレビに出たいときは、せりふ一つしかくれなかったのに。大体頭の後ろしか映ってなくて、顔が映ってないんだもん。
 だからずっと後になって自分の名前がついた番組を始めたときには、無名の子たちをアップで撮ってあげた。この悲しい体験があったからね。その子たちが、みんな有名になって僕の番組を(視聴率)30%に持って行ってくれた。全部、運。そういう目に遭ったってことが、ちゃんとチャラになってるんです。
〈自分の名前がついた番組の誕生は、弟子の一言がきっかけでした〉
 僕はチャップリンを目指してたのでアメリカに行こうと思ったの。そしたら弟子の車だん吉が「そうですか。残念ですね」って言うのね。「コント55号≠チて名前は日本中で有名になったけど、萩本欽一≠チて名前は、とうとう有名ではなかったですね」と。
 この野郎、ムッとすること言うなあ。悔しいなあ。じゃあ、1本だけ「欽ちゃんの」という番組をつくってから行く、と言ったのね。これが、「萩本欽一ショー 欽ちゃんのドンとやってみよう!」につながるわけです。

「恩人」と「人恩」
〈「欽ドン!」「欽どこ」と次々大ヒットを飛ばした欽ちゃん。そこから多くの芸人、放送作家が巣立ちました〉
 ダメなヤツは俺の仲間だと思うから、ダメなヤツほど応援したくなるね。小堺一機は最初にテレビに出た時、ガタガタ震えていたからね。後になって小堺が、「(欽ちゃんから)『あがるヤツ、好きなんだよ』と言われたのが励みになった」って言ってたけど、違うの。俺と互角のあがり症のヤツがいるんだ、スゲーッて、バカにうれしかったの。この子がもし有名になったら、この子も俺もすごい幸せに思うだろうなあって。
 ですから師匠でも何でもないの。教えたこと1回もないんだもの。テレビに出るきっかけをつくってあげただけでね。でも面白いよね。僕を師匠みたいに言うんだもんね。関根勤も僕のことを恩人っていうけど、僕からするとその逆。アイツが活躍していることで、僕は随分恩恵を受けていると思うの。辞書にはないけど「人恩」。「恩人」と「人恩」は裏表。だから恩返しなんかいらない、っていうの。(つづく)
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2015年07月19日,
「赤旗」)

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コメディアン萩本欽一さん/第4回/やっと親孝行できました

五輪司会に母、うれし泣き
〈日本を代表するコメディアンになった欽ちゃんは、これで母親孝行ができると思いました。でも母親の反応は意外なものでした〉
 家を訪ねると、「昼間、ここに来るんじゃありません。近所の人にわかったら、どうするの!」って怒るの。母親はコメディアンというのは恥ずかしい、人様に笑われる職業と思ってたんですよ。
 テレビと現実の区別がつかないのね。「欽どこ」で真屋順子さんと夫婦役をやったときも、俺が二つ家族をつくったと思っている。それで毎週、放送が終わると、うちの奥さんを電話で慰めるの。
 「がっかりするんじゃないよ。あっちに家庭つくっちゃったけど、おまえの方にいい子がいて、あっちには見栄晴(欽どこファミリーの長男)ってバカがいるから」って。すべて本気なの。
〈そんな母親に欽ちゃんが親孝行できたのは、長野冬季オリンピックで閉会式の総合司会をやったときでした〉
 兄貴が「おまえ、いい仕事したな。母親がテレビの前で泣いているよ」と言うの。「ごめんよ。ごめんよ。欽一。何も悪いことしてきたんじゃないんだね」って。それからは、「欽一に会いたい、会いたい」って言ってね。
 すると兄ちゃんが「母ちゃん、入院しよう」と病院に連れていくわけ。それで俺には「母ちゃん、死にそうだよ」と言うの。俺がすっ飛んでいくと、「ああ、欽一が来た。欽一に会えたね」と喜んで退院するんだよ。
 俺にとっちゃ、すべてがギャグ母さん=B本当に面白い人だったね。

教えません
〈常に夢を追い続けてきた欽ちゃん。「僕の人生は、みんなが寄るところには行かない」というものだったと言います〉
 子どもたちに僕が言ったのは、「みんなが右を向いていたら、とにかく1回左を見ろ。左にいいことがある。たくさん人が集まっているところには運がない」とね。
 それと「嫌だ」と思ったことも、とりあえずやってみた。8年前、24時間テレビでチャリティーマラソンのランナーになってくれ、と言われたときも、本当はすごい嫌だったの。66歳という年齢ではキツイよ。でも嫌なことには運がある。
 夢は大きければ大きいほど実現するんです。デカイと周りの人も気にするの。もし実現するなら、そこにいた方がいいかな、とどんどん人間が増えてくる。逆に夢が小さいと誰も寄ってこないね。
〈テレビでも舞台でも、大切なのは勇気≠セと言います〉
 一番いけないのは、間違えないように、っていう神経なの。失敗するかもしれない。成功するかもしれない。でもそれを思い切ってやったときに、ウケるの。
 それと人に何かを教える立場になったら、正解は教えないほうがいい。明治座の舞台でも、小倉(久寛)ちゃんが、こうやったらもっとウケるのにな、というときがあったの。誘導しても、なかなか気がつかなくて。
 みんなからは、「小倉ちゃんに言ってあげたら」って言われたけど、僕はあえて言わなかった。僕に言われてウケても、幸せ感がなくなるからね。
 あるとき、小倉ちゃんが自分で正解にたどりついた。お客さんがワーッと笑ってダーッと拍手が来た。そのときに俺、小倉ちゃんのところへ行って、「小倉ちゃん、おめでとう。100点」と言ってパッと握手したわけ。そのあと小倉ちゃん、泣いてたって。
 そういう物語が大事なの。失敗したら、もう1回やらせ、できたとき丸ごと相手の手柄になるようにした方がいいんです。時間はかかるけど、相手に「自分の力でここまで到達した」っていう達成感を持ってもらうことが大事なの。そうすれば、その人はグイグイ伸びる。辛抱の上に花が咲くんです。(おわり)
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2015年07月26日,
「赤旗」)

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【8月】

料理家、文筆家辰巳芳子さん

料理家、文筆家辰巳芳子さん/第1回/父に作った「いのちのスープ」

生きる尊厳、食≠ナ向き合う
 「いのちのスープ」で知られる料理家で文筆家の辰巳芳子さん(90)。食の意味や国のあり方も、「いのち」から説きおこします。今、最も言いたいことは―。鎌倉の自宅を訪ねました。
 板倉三枝記者

〈辰巳さんは料理研究家の母・浜子さんと8年間、嚥下(えんげ)障害がある父に、季節を感じさせる日替わりスープを飲ませ続けました。父をみとったスープは「いのちのスープ」として全国に広がり、映画「天のしずく」にもなっています〉
 父は半身不随の病を患い、最期の3年はスープが支えでした。病床の父が好んだものは、セロリのポタージュでした。
 スープがなぜ良いか。まず吸収が良い。とろみがあるものは、嚥下困難な方にも差し上げられます。
 食事が無事にのどを通らない病人に、慈味(じみ)あふれるスープを一口でも味わっていただいて「ああ、おいしい。生きていて良かった」と感じてもらいたい。そんな思いでいのちのスープを教え始めて20年ほどになります。
 人間の尊厳の一つは最期まで「おいしい」と思うものに養われること。スープはその手助けができるのです。

食料自給率39%
〈食といのちの関わり。「この国は食の基本理念となる生命観が欠如している」と。その一例が39%という食料自給率です〉
 TPP(環太平洋連携協定)は、大問題です。農業者を失望させてはなりません。自分で食べていけない人がどんな高説を唱えても、誰も言うことを聞かない。国際関係も同様です。
 大豆の自給率は約5%です。将来、大豆が輸入できなくなることも考えられます。安全性の問題もある。外国から来るものは、どんな農薬をどのくらい使っているか、わからない。
 お豆腐屋さんは、日本の大豆をつけた水と外国の大豆をつけた水は違うと言います。外国の豆で豆腐を作っていると、手が荒れてくると。そのようなものを体に入れてよいでしょうか。
 何よりも傷つきやすい幼い生命である子どもたちのいのちを守るには、自分たちの食べるものは自分たちで作るのが、一番確か。自衛の手段です。
〈辰巳さんは2004年、80歳の時、子どもたちが手のひら一杯分の大豆をまいて収穫する「大豆100粒運動」を始めました〉
 現在、2万人余の小学生がまいています。私が特に喜んでいるのは、青森県内七つの農業高校が有機農業で大豆を作るようになったことです。大豆をまいたら豆腐を作る。納豆もみそも作る。そこに喜びがあるようです。
 そのうえ近隣の小学校に高校生が自主的に作り方を教えにいくようになった。近年にない「朗報」です。この流れが全国に広まったら、すばらしい。国の立て直しは、こういうところから始まると思っています。
 ここで大切なことは農業高校の生徒が作ったものを私たちが買い支えることです。それがないと、高校生は自分たちの将来に見通しが立たない。農業高校の生徒たちが、あとあと農業者になることは少ない。農業では暮らしが立たないことが、若くてもわかるのです。

地下足袋の出征
〈いのちを軽んずるのが戦争といいます〉
 国会で、集団的自衛権行使や米軍への「後方支援」(兵たん)が問題になっています。自衛隊の人が死ぬか、死なないか。死ぬに決まっています。同盟国の「後方」にも武器を届けてよいという。
 武器の輸出が解禁されましたが、日本で武器をつくってそれを届けるとなれば、この国は壊滅する。大手メーカーは、絶対損をしないから、皆、武器をつくりますよ。相手の国は、一番先に武器をつくっているところをつぶしにくる。前の戦争がそうでした。
〈1944年に19歳で結婚。3週間の結婚生活で夫は出征し、戦死。出征の様子を『食に生きて 私が大切に思うこと』の中で書いています〉
 昭和19年(44年)6月、私は名古屋にいました。南方へ行くらしいと連絡があり、指定された時間に兵舎の門のところで待っていたのです。そうしたら兵営から隊列が出てきた。みんな元気がなくてね。
 あの姿は忘れられない。背のう(軍人などが使う背に負うカバン)ではなくネットの袋のごときものをしょって、剣もなく棒のごときものを提げていました。履いていたのは軍靴ではなく地下足袋です。地下足袋でジャングルが歩けますか。
 昭和12年(37年)、日中戦争で父が出征した時とは、全然違いました。あのときは、のぼりを立て、皆「万歳」をして、兵隊は完全装備だった。
 兵隊を地下足袋で出さなきゃならない。亡くなった日本兵の大半が餓死ともいわれている。これが「英霊」の実態です。拙劣としかいいようのない作戦です。
 帰ってこない人を待ち続けることが、どれほどのことか。日本国はそのことについて、まだ詫(わ)びていない。それをやっていないから、また戦争をしよう、となる。一度でも腹の底から謝ったら、戦争はやめようってことになるでしょう。
 (つづく)

たつみ・よしこ=1924年、東京生まれ。料理研究家の草分けであった母・浜子のもとで家庭料理を身につける。宮内庁大膳寮で修業を積んだ加藤正之氏にフランス料理を学び、イタリア、スペインなどで研さんを積む。著書40冊以上。「確かな味を造る会」最高顧問。「良い食材を伝える会」会長。「大豆100粒運動」会長
(
2015年08月23日,
「赤旗」)

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料理家、文筆家辰巳芳子さん/第2回/生活はいのちの現場/家事を通して自立する

〈自分たちの命は自分たちで守る。その志は、料理研究家の草分けである母・浜子さんから受け継ぎました。戦時中、母が焼いてくれたパンは、忘れられない記憶です〉
 母は疎開先で急こう配の土地を借り、くわの持ち方も知らなかったのに、小麦、サツマイモ、ソバを順繰りに作りました。その小麦を馬糧屋へ持って行き、ひいてもらうのです。
 全粒粉はざらざらで粗い。皆さんはそれを延ばして、すいとんみたいなものを作って食べていました。でも母は、その粉で何ができるかと値踏みしながら、見たこともないパンを焼き上げました。今でいうパン・ド・カンパーニュ(フランスパンの一種)です。
 この大きなパンが生死を分かつことになるのよ。空襲時、火など使えない。保存のきくパンをいつも防空壕(ごう)に置いてあったから、空襲でも食べていられた。幸不幸の境目。何とかして生き抜こうとした母の心意気のおかげでした。
〈家事は、いのちを整えるライフキーピング≠ニいいます〉
 生活とは、いのちの現場だと思います。教育の最大の目的は、自分のいのちを守っていける人間を育てることです。お料理を教えるのも、お掃除の仕方を教えるのも、すべて生きて自律し、自立できる人格をつくるため。
 それには当たり前のことを、きちんとさせる訓練をすることです。家では親がなんでもないことを完全な形でやってみせて、それを手伝わせる。母は、きちんとできていないものは、「使いものになりません」といって、私に突っ返してきました。
 繰り返し練習することで、いわゆる直観力が育つのです。小さい時、そういうふうに指し示されたことは、一を聞いて十に敷衍(ふえん)できます。
 子どもを教え導くには、親は何かを知っている人ではなく、何かを実際にできる人でなきゃいけない。言葉の世界だけでは、生き生きとした示唆はできません。
〈辰巳さんが、料理を本格的に学んだのは、40代からです〉
 宮内庁の大膳寮(食事や饗宴=きょうえん=を担当する部局)で修業された加藤正之先生に13年間、フランス料理を教えていただきました。それを基礎にイタリアの国立技能研修機関で、イタリア料理を学びました。
 グループで勉強に行ったのだけど、日本人は真面目だから、小さな字でノートを取り、写真を撮って、みんなおとなしく素直に勉強し、イタリア人は感心していました。
 でも私はそれをやらなかった。見て感じることの方が大事だと思ったから。あの人たちは、いずれ日本に帰って本を出す。そのときそれを見ればいいのであって、今ここではイタリア料理の雰囲気をつかむことだな、と思ったのです。
〈イタリアでは6種類のソースを系統だてて教わりました〉
 個々の料理をいきなり教わっても、本質は理解しにくい。基本から勉強しないと、おいしさも面白みもない料理になります。
 スペインにも遊びに行きました。そこの奥様がとてもお料理上手でね。普通の家庭に滞在したから、コックさんから習ったのではわからない民族的な流れで料理を理解することができました。
 私は外国へ行ったら、その民族が生きてきた道筋にあった料理を探して歩きます。どの民族も、その人々が暮らす風土の中で、生きやすいように食べてきていますからね。それを一つのお手本として、日本の食べ方の不足を訂正するのです。つまり異国の考え方を取り入れて、もう一つ、日本料理を進歩させる。
 例えば、今なら暑さに耐えている民族が、何をどのように食べているかを研究しなければなりません。季節をしのぐのみでなく、これからは季節を迎え撃つ食べ方が必要になってくるでしょう。(つづく)
(
2015年08月30日,
「赤旗」)

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【9月】

料理家、文筆家辰巳芳子さん/第3回/日本人の根幹お米/風土が人を生かし育てる

〈鎌倉浄明寺にある辰巳さんの自宅の庭には、フキ、セロリ、ウメ、ミョウガ、ユズ…と四季折々の植物があふれています。こうした身近な自然で食まわりを整えてきました〉
 人間は、土地柄のものでいのちを守り育てられ、人格さえも形成されてきた。そういう意味で、私は「風土は親より縁が深い」と考えています。
 日本には、季節ごとの食材があり、それを生かす知恵の蓄積があります。日本列島は南北に長いことから、その土地ならではの工夫もある。
 蒸し暑い時期、お米を炊くときに梅干しを1個入れ、ほぐしてご飯に混ぜると、ほのかな酸味が食欲をそそるし腐敗も防ぐ。根菜に干しシイタケ、豆腐、油揚げ、コンニャク、植物油少々を添え、だしで一わんの中にまとめたけんちん汁は、体をしんから温め、冬をしのぎます。人間の体調を自然に整えてくれるのが、風土に根差した食べものです。
 しかし都会で生活していると「自分が自然の一環である」と自覚することを忘れます。風土への敏感さは否応なく細っていく。何か一つでも旬の食材を意識して求める。この学習は、教養の源です。
 いのちを守る食事をできるのは、家庭においてです。食材の栄養についての知識と、食文化の体験の両方を謙虚に受け止め、現在の生活の中で、つくりやすく食べやすいように工夫する。それが家庭料理だと思います。

愛で「仕え合う」
〈加えて人との関わりでは互いに「仕え合う」ことを重んじます〉
 「仕え合う」ことの稽古の一つが料理です。母は、番茶一つ入れるにも、真心を込めることを自分自身に課した人でした。
 料理は愛の表現です。スープの良いところは、つくって差し上げる相手のいのちだけでなく、つくる人自身をも支えることです。病気の悩み、つらさは代わってあげられないけれど、心をしずめ、いのちを傾けてスープをつくる。それがつくる人自身を支え、救うのです。
〈日本の食文化の中心は米です〉
 スープの材料にもなるお米は、日本人のいのちの根幹をなすものです。武士の給料も石、俵、扶持(ふち)など米を単位にしていました。私たちのご先祖が日本の気候風土に合わせて選択し、過酷な自然と折り合いをつけながら作り続けてきた。10`6300円のお米としたら、1杯50円。私たちの生命活動を支える主食の値段です。
 玄米や胚芽米ご飯、かゆ、炊き込みご飯、すし、餅…と、さまざまに変化できる多様性にも改めて驚きます。稲作という観点から捉え直すと、田植えから刈り入れまで百三十五手間。この手間が日本人の資質をつくったといえるのではないか。
 日本人はもともと風土に根ざして、分をわきまえ、慎みのある生活をしてきました。主食の米にしても、わらで縄をない、草履を作り、くたくたになった草履さえ堆肥として畑に入れ、米ぬかも、ぬか床にしたり、洗いものに使って無駄なく使い尽くしました。合理的で、ものの循環と平衡を大切にする生活態度だったといえます。
 それが戦後になって大きく変わりました。高度経済成長の中で大量にものをつくり、使い捨て、エネルギーを消費する一方です。
 「その日暮らし」では生活は立ち上がりません。地球規模で分をわきまえて生きる。そこからいのちを見つめ直し、早急に生活を立て直さなければならない時期にきています。
 (つづく)
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2015年09月06日,
「赤旗」)

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料理家、文筆家辰巳芳子さん/第4回/食べることの根源的意味/進化した命、次世代に渡す

〈食を通していのちと向き合い、いのちを慈しんできた辰巳さん。戦死した夫に思いをはせ、憲法9条の大切さを説きます〉

戦争は絶対ダメ
 昭和19年(1944年)、地下足袋でフィリピンに向かった夫の部隊3800人のうち、生還したのは8人のみ。
 50年以上たった2000年、私はフィリピンのセブ島へ行きました。夫が自分の死んだところを見てほしい、と繰り返し、呼びかけたからです。彼が出征したときは、すでに制海権も制空権も全くなかった。地下足袋でまともな武器も食べものもなく出征し、餓死した3700人余の方々の魂は、無念のあまり、靖国神社には行っていないと思う。
 戦争に類することだけは絶対にダメです。憲法は解釈次第というほど恐ろしいことはありません。憲法9条は、当時の若者のいのちの代償だということを忘れてはなりません。
〈いま一つ、原発再稼働は、重大問題だと言います〉
 日本人は、農耕民族であるとともに、貝塚が存在するほど海産物に頼ってきた海の民です。これを無言で示すのが、だしの存在。昆布やかつお節、煮干しなどの海の恵みによるだし汁は、お米と同格の風土食です。ゆえにわれわれの生命体は、海産物で形成されている、ともいえます。
 その海を脅かしているのが原発事故などによる放射能汚染です。たとえ政府や企業が言うように希釈拡散されようと、食物連鎖の仕組みでまた何千倍にも濃縮されてかえってくる。食べものから取り込まれた放射能は、半永久的に残って細胞、遺伝子を傷つけます。
 汚染された自然を次世代に残すようなことは絶対にしてはならない。海の命脈が尽きるときは、この国の命脈が尽きるときです。
 経済の発展とか利便性を超えて、一番大切なものは、いのちです。原発再稼働を進めようとする人たちは、根本的にわからなければなりません。原発再稼働は大問題です。
〈辰巳さんは、70歳で「良い食材を伝える会」を立ち上げ、80歳で「大豆100粒運動」を始めました〉
 EU(欧州連合)は、かつて食の安全の国際会議で「われわれのアイデンティティーは食である」と明言しました。それに対して日本はどうか。食料自給率は無から有を生まねばならぬほど、ひ弱になっています。
 私は食べることの根源的意味を、ずっと考えてきました。人は食べなくては生きていけない。最終的に行き着いたのは、食べるということは呼吸と等しく「生命の仕組み」に組み込まれているということでした。
 それを科学的に教わったのは、分子生物学者の福岡伸一先生の本からです。ナチズムから逃れてアメリカに亡命した科学者・シェーンハイマーの学説を紹介したものでした。つまり食べものは、単なる油さしではない。食べることは、他のいのちの分子をもらって代謝回転すること、他のいのちとつながることにほかならない、と。
 同時に、人間の食の歴史は、先人の「食べ分け」から始まっています。私たちのご先祖は、一つのものでも体に害があるものを排除して、自分の力になるように整えて食べてきました。

先人とつながる
 クリやトチの実のアクを抜く方法をどのように見つけたのか。その過程で体を壊した人や死んだ人もいたでしょう。そのいのちがけの営みのおかげで、私たちはこうして食べることができるのです。
 食を通じて私たちは地球環境の一環としてつながっている。同時に長い時間軸にわたって先人とつながっている。自分のいのちは自分のものであって、自分のものではない。私たちは、すべての生命現象をよりよい方向に進化させて、次の世代に渡していく責任があるのです。(おわり)
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2015年09月13日,
「赤旗」)

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脚本家橋田壽賀子さん

脚本家橋田壽賀子さん/第1話/終戦後食糧難で山形へ/20歳で出合ったおしんの原点

 「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」などの国民的ドラマを生み出してきた脚本家の橋田壽賀子さん。大の旅好きで、エッセー集『旅といっしょに生きてきた』(祥伝社)を出しました。90歳のいま、旅とドラマと人生を振り返り思うことは…。
 聞き手・金子徹記者

〈戦争一色に染められた少女時代でした〉
 私には、青春を楽しんだ経験が無いんです。終戦が20歳の時。日本女子大の学生でしたが、戦中、戦後と、全然遊べませんでした。女学校の修学旅行が皇居の清掃だったような時代でした。空襲でだれかが死んでも、焼け野原の死体を見ても、明日にでも私も同じことになるのだから、と特別悲しくはなかった。アメリカ兵が上陸してきたら死ぬのだと思っていました。
 戦争で、そんな気持ちになってしまうんです。怖いですね。洗脳≠ウれたような北朝鮮の軍隊が行進する映像を見ると、私たちもああだったのだと思います。
 私は、人殺しや戦闘場面を書くのは本当にダメなんです。ドラマで戦争の悲惨さを書く責任はあると思うのですが、どうしても書けない。戦争を描くのは他人様にお願いして、私は逃げたい。戦争を体験していると、かえって書けません。
〈終戦の「玉音放送」を聞いた後も、しばらくは、「竹やりで米兵を一人でも殺して死にたい」と思い込み…〉
 本当にそう思っていたんです。日本人は全員、負けたら死ぬのだと思っていました。源平合戦の平氏みたいに、負けたらみんな、海に沈むのだと。とにかく食べる物がなく、苦労しました。終戦を大阪の実家で迎え、その年の10月に日本女子大の授業が再開されるというので東京へ行きました。焼け野原で食べ物がない。どうしようもなく、山形へ疎開していた伯母のところへ行きました。山形に着き、おはぎをおなかいっぱい食べさせてもらい、やっと希望が持てました。ここにはこんなにお米がある! 日本はまだ滅びていないと。
〈「おしん」の発想の原点も、この時に〉
 山形で過ごしたのは1カ月ほどでした。住まわせてもらった材木屋さんが話してくれました。「昔は舟でなく、いかだに乗せられ、子どもが奉公に行ったんだよ」と。当時はまだ作家になろうとは思っていませんでしたが、すごく印象に残る話でした。

松竹の脚本部
〈数年後、山形県の最上川沿いを再訪。「おしん」の名場面の原型が出来ました〉
 最上川の上流から下流へと、なるべく歩きまわりました。私は当時、映画会社・松竹の脚本部に勤めていました。1000人の応募者のなかから選ばれた6人の一人で、女性は私だけでした。当時の映画界は完全な男社会。思うようにならない毎日でした。最初は「初の女性シナリオライター」と雑誌のグラビアで紹介されたりもしましたが、実際はお茶くみあつかいで脚本を書かせてくれませんでした。
 そういうなかでの、山形の再訪でした。「最上川を、いかだに乗って子どもが奉公へ」。これはいつか、ドラマにできると感じました。
〈仕事でも私生活でも、「二流でいい」が信条です〉
 私は二流、三流でたくさんです。そう思うと本当に楽ですよ。脚本も、いくらでも早く書けるし、疲れない。一流の方は、ひとつのセリフにこだわって、何時間もかけた、とか聞くことがありますが、私はそんなことはないです。一流だと、ここから落ちたら大変だという気持ちになるでしょう。私にはそれがないんです。
 二流だから、見る方に分かってもらえるドラマを書こうと努力してきました。一流の方なら一言ですむようなセリフを、私は10行かけて伝えてきました(笑い)。そのなかで、ちょっとでも分かってくれることがあればいい。
 お店なんかも、気をつかうので一流のところは行きません。二流が一番楽です。

常に二流主義
〈二流主義を意識したのは学生時代から〉
 競争したり、焼きもち焼いたりするのはやめようと思っていました。イライラすると、損でしょう。
 女学校ではバレー部でした。試合に出場するのは12人。私は13番目の選手でいつも試合を無責任に見ていました。練習はちゃんとやりました。でも、試合に出て、もし球を受けられなかったらどうしよう、と気をつかうじゃないですか。レギュラーになりたいとは全然思わなかった。むしろ、自分は責任がなくて、いいなあと思っていました。
 試合に出なくても、自分はバレー部の一員だというだけで満足していました。
〈脚本家の仕事は、橋田さんの性格にぴったりでした〉
 小説だと、活字になっていつまでも残る。でもテレビなら、流れていっちゃう。これはすごい気が楽です。テレビなら、明日になったら忘れちゃうでしょう(笑い)。いいメディアだと思いました。そのうえ、いろんな人が見てくれる。旅先で、「あのドラマおもしろかったよ」と言ってくれる。そういう世界で仕事をさせてもらえたのは幸せでした。(つづく)

はしだ・すがこ=1925年ソウル生まれ。日本女子大卒業後、早稲田大学に入学・中退。松竹を経てフリーの脚本家に。手掛けたテレビドラマは200作以上。「となりの芝生」「おんな太閤記」「おしん」「春日局」「渡る世間は鬼ばかり」ほか
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2015年09月27日,
「赤旗」)

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【10月】

脚本家橋田壽賀子さん/第2回/結婚しなきゃ書けなかった/嫁姑の関係は実体験

〈女性べっ視が横行する映画界で、10年間がまんしました〉
 先輩が「書けるようになるには10年かかる」と。それを信じたけれど、脚本を書く機会はきませんでした。それで、松竹を退職し、テレビの脚本や小説で生計を立てようと思ったんです。でも、テレビ局の意向を押し付けられることばかりで、収入も不安定で自信を失いました。
〈近著『旅といっしょに生きてきた』では結婚をめぐる裏話も率直に披露しました〉
 私は40歳まで独身でした。TBSのプロデューサーの岩崎嘉一と結婚したのは、彼が仕事に情熱をもちながら服装には無頓着だったからです。この人なら神経質ではないだろうと。それで「あの人が好きで脚本が書けない」と、プロデューサーの石井ふく子さんに言い、思いを伝えてもらいました。

後ろ盾できた
〈最初に夫に言った言葉は「月給は全部ください」でした〉
 本当にお金がほしかった。彼の返事は、「俺はシナリオライターと結婚したわけではないから、俺の前では原稿用紙は広げないでくれ」でした。その約束は守りました。
 独身のころは、仕事を続けるためにプロデューサーの言うままでした。でも結婚したら、夫の月給があるので、いざとなったらケツをまくれる。「文句を言うなら降ります」と。「あいつにはバックがついている」と、扱いが変わった(笑い)。それから急に作品が当たり出したんです。主人にはすごく感謝しています。
〈結婚により、「家族」が増えたことがドラマづくりの転機になりました〉
 お姑(しゅうとめ)さんとの関係とか、すごい勉強になりました。主人はマザコンで、「休みの日は、おふくろのそばへ行きたい」と実家の近くに家を建てた。そしたらお母さんが上がってくるんです。これは失敗したと思いました。料理も辛いとか薄いとか、いろいろ言う。こっちが「私たちは塩分控えめにしています」と言うと、「口答えするね」と言われちゃう。発見がたくさんあって、おもしろかったです。
 取材してるわけじゃありませんでしたが、後でその話を書いちゃった(笑い)。夫婦が家を建てたらお母さんが来てしまったというドラマ「となりの芝生」(1976年)もそのひとつです。お嫁にいかなきゃ、絶対に書けませんでした。
 「おしん」(83〜84年)のお姑さんを書くときも参考になりました。お姑さんにはお姑さんの価値観があり、間違っていない。でも、嫁にとっては頭にくる。「おしん」でそういう関係を書いたら、私のお姑さんは自分がおしんのつもりでいてくれた。おしんをいじめるお姑さんのモデルだとは思わず、「あのお姑さんはひどい。私のお姑さんも口のうるさい人だった」と(笑い)。放映後、家族で問題になると思い心配していたのですが、まさかお義母さんが、おしんのつもりになるなんて。(笑い)

夫に守られて
〈社会現象となった「おしん」。おしんを助けて、とNHKにお米や現金を送った人もいました〉
 テレビドラマって、すごいな。うっかりしたことは書けないなと思いました。だから私は人殺しと不倫は書かなかった。だけど、自分がテレビを見る時は、毎日のように、殺人や不倫だらけのミステリーを見ています。(笑い)
 変なものは書けないというのは、亡き主人が後ろにいて、変なものを書くと怒られるのでは、という恐怖があるからです。主人には、監視されていると同時に、守ってくれているな、という思いもあります。(つづく)
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2015年10月04日,
「赤旗」)

(Go2Top)

脚本家橋田壽賀子さん/第3回/自分の脚本、演技で変化/思いもかけない新鮮さ

〈近著『旅といっしょに生きてきた』では、若いころからいかに旅好きだったかを記しています〉
 旅は一番の癒やしです。旅のために一生懸命仕事をしてきたようなものです。(笑い)

孤独ペンギン
 一番の思い出は、2004年に行った南極です。今年の暮れは、また南極へ行く予定です。南極の魅力は氷です。氷山もすてきで、他には絶対ない風景。変化に富んでいます。
 ペンギンもかわいかった。つくだ煮にできるくらい(笑い)、たくさんのペンギンがいました。そのなかに、一羽だけ群れから離れ、孤独に歩いているペンギンがいて、何だか私みたいだと思えました。
 大阪の実家から勘当同然で、東京の大学へ進み、25歳の時に母を、30歳の時に父を亡くしました。41歳で結婚するまで、ひとりで生きてきた。夫が亡くなり、またひとりです。そんな自分と、孤独なペンギンが重なって見えました。
〈近年は身辺を片付ける「終活」に熱中〉
 みっともなくないように、いろんなものを整理しています。お墓も建て直しました。
 去年の秋から仕事をしていません。締め切りに追われていた人生でしたから、締め切りのない人生がいかに幸せかを味わっています。
 ひとりの時間は、テレビ漬けです。午後はいろいろな再放送を見ています。昔は忙しくて見ていなかった番組を、楽しんでいます。昔のドラマはしっかりしているなあと思う。目や肩が痛くなるくらいテレビを見ています。
 昔の映画もテレビで見ることができて、おもしろい。忙しかった人生の、抜けているところを今、埋めています。見ていると、古いドラマも映画もなかなかおもしろいので、また書く意欲がわいてくるかもしれません。
 いまは、あれも見たい、これを片付けたいと、毎日忙しいです。

「戦争と平和」
〈印象に残る俳優は沢村貞子さんです〉
 沢村さんは「となりの芝生」に出てくれました。私が想像していたお姑(しゅうとめ)さん役よりもはるかにインテリで、びっくりしました。もっと低次元のお姑さんのつもりで書いたんですけれど(笑い)。思ってもみなかったくらい上品で、この人の言っていることは納得できる、という感じ。すごい俳優さんだと思いました。
 杉村春子さんは、他の女優さんがセリフの語尾の「ね」を飛ばした時に、「作家はちゃんと意味をもたせて書いているんだから、ちゃんとおっしゃい」と注意してくれました。胸がスッとしました。
〈長いキャリアを振り返り…〉
 仕事で後悔はないですね。書きたいものは全部書いてきました。
 俳優さんの演技によっては、自分の作品ではないような、思いがけないものが立ち上がってくることがあります。それを見るのが楽しみで、自分の脚本にはこだわりませんでした。俳優さんによって、自分の脚本が変化していくことにすごい新鮮さを感じました。これは小説にはないことです。
 自分の脚本がドラマになったのを見て、がっかりしたことは一度もありません。
〈「戦争と平和」が一貫したテーマだったといいます〉
 青春時代が戦争だった私にとって、「戦争と平和」はずっと書きたいものでした。戦闘場面は描きませんが、「戦争と平和」は私が書いてきたドラマの底に流れるテーマだと思います。
 「おしん」だけでなく、「春日局」や「おんな太閤記」でも、合戦が終わり早く平和がくることを祈る、そんな思いを込めて書きました。戦争になったらすべてが壊れてしまう。本当に、平和っていいなと思います。
 (おわり)
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2015年10月11日,
「赤旗」)

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101歳日本初の女性報道写真家笹本恒子さん

101歳日本初の女性報道写真家笹本恒子さん/上/明治生まれの女性たちを取材して

男にできる仕事、女にだって
 写真家の笹本恒子さんは101歳。日本初の女性報道写真家として、戦前からさまざまな現場を取材してきました。新刊『好奇心ガール、いま101歳』(小学館文庫)の刊行を機に、現在暮らしている鎌倉市内の老人ホームを訪ねました。
 金子徹記者

〈いま取材したいのは、官邸前での安保法制や原発再稼働への抗議行動です〉
 足が元気だったら、きっと官邸前へ行っているわ。ああいうことがあると、居ても立ってもいられないんです。60年安保のときも、ほとんど毎日通っていましたから。やじ馬なんですね。(笑い)

心はピカピカ
〈長らく病気知らず。初めての入院は90歳のときでした〉
 初めての入院がうれしくて、一等室に入っちゃいました(笑い)。バカみたいなことをしましたね。でも、この1年は、転んで足を骨折して病院を転々。ひとり暮らしを諦め、老人ホームで暮らすことにしました。自分の足で歩いて写真を撮りに行きたいので、リハビリをしています。
〈代表作は「明治生まれの女性たち」のシリーズ。1990年の春から、強い決意で取り組み始めました〉
 戦後に参政権を得るまで長い間、女性にはずっと権利も何もなかったでしょう。そうしたなか、いまのように便利な家電製品もなしに家事や子育てをしながら、絵を描いたり社会事業をしたり、いろいろな仕事をしてきた明治生まれの女性たちがいた。その努力を、大正生まれの私がどうしても残しておかなければ、と思い98人の女性たちを自力で取材しました。
 櫛田ふきさん(日本婦人団体連合会会長)や壺井栄さん(作家)など、第一線の方たちにも会えました。壺井さんは飾り気のない方で、戦災孤児を2人も引き取ったりして偉いと思いました。養老孟司さんのお母さんの静江さん(小児科医)もすてきな方でした。
 画家の三岸節子さんからは、「男のまねをしなくてもいい。女性には女性特有のセンスがあるのだから」と教わりました。自分の感動を、自分の感性と視点で素直に撮ろうと思いました。
 女は最後まで枯れてはいけません。明治生まれの女性たちには、最後まで枯れない&がたくさんいらっしゃいました。年齢に臆することなく恋もして、それをパワーに仕事をして。私も最後まで、心をピカピカさせていたいです。

戦争はきらい
〈生まれは1914年。子どものころから戦争は嫌いでした〉
 学齢前のころです。近所で子ども向けの「日曜学校」というものがあり、楽しみにしていました。後から考えると、村山知義さん(美術家、劇作家)などの帝大(現・東京大学)の左翼の人たちが開いていた学校です。
 「イエスさま」のお話を聞いたり、賛美歌を歌ったりしました。でも、ある日突然、先生たちが警察につかまったと聞かされ、学校は終わりになりました。先生たちは何も悪いことをしていない、いいことをしていたのに、と不審に思いました。
 小学何年生だったか、ある朝、外に出ると家の垣根に「戦争反対」と書いた小さい紙がべたべた張ってありました。一枚はがして母に見せると、「みんなはがして捨てなさい。主義者のしたことだから」と言われました。
 おとなたちは、「社会主義者は怖い、悪い」と言っていました。でも、私は教えられなくても戦争は人殺しで悪いんだと思っていましたから、その戦争に反対するのはいいことなのに、どうして「主義者」を悪いというのかと。これが人生で初めての「?」です。疑問がいつまでも頭に残りました。
〈学生時代は、画家、作家、新聞記者を志望していました〉
 女学校を卒業するころ、絵描きか小説家、それがだめなら新聞記者になりたいと言ったら受け持ちの先生が驚いていました。そういう仕事は男のものという、当時の男尊女卑の風潮に納得がいかなかった。男にできる仕事を女ができないはずはないと思っていました。
 絵の勉強がしたくて高等専門学校を中退し、新聞のカットを描くアルバイトをしていたときです。家に下宿していたことのある新聞記者の方に勧められ、新しくできた「写真協会」へ行ってみました。海外に写真を配信する会社で、「日本にはまだ女性の報道写真家がいない」と聞き、「それならば、私がやってみようか」と思いました。
〈入社は1940年。報道写真を一から教わり、グラフ誌もむさぼるように見て学び、取材に出向きましたが1年で退職します〉
 父と兄に猛反対されて気弱になり、体調をくずしました。断腸の思いで退職しました。
 (つづく)

ささもと・つねこ=1914年東京都生まれ。日本写真家協会名誉会員。戦後は千葉新聞の記者、婦人民主新聞の嘱託を経てフリー。2011年、吉川英治文化賞、日本写真協会功労賞、2014年、ベストドレッサー賞特別賞を受賞。著書に『99歳、現在進行形ね。』ほか多数
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2015年10月25日,「赤旗」)

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【11月】

報道写真家笹本恒子さん/下/96歳で大ブレーク/何が起こるか分からない

〈戦後、再び写真家として働き始めます。宮本百合子らが結成した婦人民主クラブの機関紙の嘱託になりました〉
 長くお付き合いさせていただいた画家の三岸節子さんから、「婦人民主新聞」というものが出ると聞き、入りたいと思いました。フリーでの仕事もありましたので嘱託にしていただき、戦後の焼け野原を歩き回りました。スタッフは女性ばかりで、みなさん、長かった社会の抑圧から立ち上がろうという気持ちで仕事をしていました。
 婦人民主クラブの初代書記長で後に委員長となる櫛田ふきさんは、憲法の本を懐に入れて歩き、誰にでも第9条を見せて、「私はこれを死守します」と言ってらした。筋金入りの方でした。
〈マッカーサー元帥夫妻から炭鉱の様子まで、さまざまな対象を撮影。なかでも政治家や芸能人、作家など、第一線の人々の素顔をとらえた写真は後々も生きる「財産」に〉
 歌手の淡谷のり子さんやバレリーナの谷桃子さんなど、いろいろな方を取材しました。ジャーナリストの徳富蘇峰さんの秘書の方からは、先生のこんな穏やかな表情の写真は初めてみたと言われました。
 女性の力が強いという新聞記事を読み、三井三池炭鉱でのストライキの取材へも行きました。婦人部を組織して、後方でたたかう男たちを支えるたくましい女性の姿が印象的でした。

花の先生に
〈1960年代に入り、雑誌の廃刊が相次ぎ、仕事が激減。オーダー服のサロンを開いたり、当時ブームになったフラワーデザインの講師になって本を出したり、写真から遠ざかった時期もありました〉
 娘時代、画家の福沢一郎先生に絵を習っていたころ、勅使河原蒼風(てしがはら・そうふう)生花展に連れて行ってもらったことがありました。ダイナミックな生け花にびっくりし、これは絵にも役に立つと思い、草月流を習ったんです。それが役に立ちました。
〈転機は71歳。遠縁の人に求められ、50年代の写真をみせたところ、ぜひ写真展を、という話に。85年に渋谷で実現した個展は好評で…〉
 夫が他界し、心身ともに疲れ果てていた時でした。写真展の開催で、私自身もネガもよみがえり、写真の世界に帰ってきたのだと思いました。多くの同世代がリタイアする年での再スタートでした。
〈以来、「明治生まれの女性たち」のシリーズなど、独自の仕事を手掛けました。そして、2010年に、再び転機が訪れます〉
 それまでは、年齢は明かさず仕事をしてきました。10年ぶりに会った人に、「今年9月で96歳になる」と言ったら、みんなにびっくりされて。「誕生日に展覧会をやろう」という話になり、9月に開催しました。会場は超満員で、取材も次から次へと。人生、いつ何が起きるかわからない、というのが実感です。
〈96歳での「大ブレーク」。時の人となり数々の賞も受賞。脚光をあびますが…〉
 昨年11月、ベストドレッサー賞の授賞式で女優の宮沢りえさんや卓球の福原愛さんと表彰式に立ちました。その翌日、自宅で転倒し右足と左手首を骨折してしまいました。病院を転々として、家へ帰れなくなって…。
〈いまも、取材したい人が何人も〉
 画家の野見山暁治さんや、解剖学者の養老孟司さんにもお会いしたい。命短いから、あんまり欲張れないんですけれど。(笑い)
〈新しい本を準備中です〉
 タイトルは『花あかり』にしようと思っています。祖母の書いた、「花あかり つえをたよりに 死出の旅」という句からとりました。野の草花の写真に、作家の室生犀星さんなど、これまで取材した方たちや祖母、両親の思い出を書いた文章を添えたい。いまは、22人の思い出を書いているところです。(おわり)
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2015年11月01日,「赤旗」)

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女優香川京子さん/その1/「ひめゆりの塔」の使命感/台本で知った沖縄戦の悲劇

戦争はアッという間に始まる…何か言わねば
 女優・香川京子さん。邦画黄金期の1950年にデビューし、黒澤明、小津安二郎、溝口健二ら日本を代表する巨匠のもとで、多くの名作に出演してきました。代表作の一つが、今井正監督の「ひめゆりの塔」です。平和への思いや巨匠たちとの思い出を聞きました。
 板倉三枝記者

〈戦後70年の今年、香川さんは、さまざまな場面で近づく戦争の恐怖について語ってきました。8月30日の戦争法案廃案を求める国会10万人・全国100万人行動にも賛同人として名を連ねました〉
 通信社の記者の方には自分から話をしたいとお願いしました。初めてですよ、こんなこと。何か言わずにはいられない。そんな気持ちになったのですね。
 PKO(国連平和維持活動)法が国会で審議されていた92年、『ひめゆりたちの祈り』という本で、平和の大事さを書かせていただきました。そのとき、もしまた戦争になるような時代が来たら、ちゃんと言わなくてはいけないと。まさかこんなに早く来るとは思わなかったです。
〈31年、満州事変の年に生まれました〉
 小学校に入る前年の37年に日中戦争が、4年生の時にアメリカとの戦争が始まり、子どもの頃はずっと戦争でした。でも私は、家も焼けなかったし、申し訳ないくらい無事でした。44年12月、東京から母の実家があった茨城に疎開しました。田舎道をのんびり歌をうたいながら女学校に通う毎日で、怖い目に遭ったことはありませんでした。
 同じ頃、沖縄では私とほぼ同世代の女学生たちが、想像を絶する悲惨な体験をしていたことは、「ひめゆりの塔」の台本で知りました。ショックでした。
 学業半ばの女学生が、戦争末期に軍の看護師として動員され、激しい地上戦の中、米軍の攻撃にさらされながら島の南端に追い詰められ、多くの犠牲を出した。映画で描かれた話は、撮影の7年前に実際にあったことです。
 でも映画公開(53年)当時、沖縄はアメリカ占領下でしたから沖縄の悲劇を本土の人は知りませんでした。今井監督は、この悲劇を日本中の人に知ってもらいたい、という気持ちで撮ったと伺いました。私たち出演者も同じ気持ちでした。

監督の宿題
〈撮影は、52年の10月半ばから正月にかけて東京・練馬区の大泉撮影所などで行われました。21〜22歳だった香川さんは、ひめゆり学徒の上原文を演じました〉
 撮影前に今井監督から宿題を出されました。自分が演じる役がどんな生い立ちで、なぜひめゆり部隊に加わることになったのか、自分なりに考えて作文を書くように、と。一つの役を演じるということは、そこまで考えなくてはいけないのかと教えられました。
 撮影は寒さとのたたかいでした。ひめゆり学徒隊が軍と一緒に移動するのは、アメリカ軍の攻撃がやんだ夜間です。12月の厳しい底冷えの中、撮影も連日、夜中の2時頃まで行われました。
 今でこそ大泉にはたくさん家が立っていますが、その頃は畑があるだけで、吹きさらしでした。衣装も半袖シャツ1枚に、もんぺ。雨にぬれるシーンが多かったので、母がビニールで上下の下着を作ってくれました。ビニールが出始めた頃で、厚くてごわごわしたものだったんですけど、すごく助かりました。
 沖縄なのに白い息が出てはおかしいというので、テストの間、口の中に氷をふくんで冷たくしていました。あんな大変な撮影は、後にも先にもなかったですね。
 緊張していたのか、風邪もひきませんでした。つらいけれど、ひめゆりの方たちが戦場で経験した命がけの苦労に比べたら、泣きごとを言っては申し訳ない、と自分に言い聞かせながらやっていた記憶があります。一つの使命感でした。
〈映画は空前の大ヒット。経営難だった東映も持ち直します。79年、香川さんは、ひめゆり学徒隊の34年ぶりの卒業式に、NHK番組のリポーターとして出席しました〉
 一人ひとり、お名前呼んでも返事がないわけですね。お年を召したお母様たちが娘の遺影を持って卒業証書を受け取る。見ていて本当につらかったです。
 それがきっかけで、「ひめゆり同窓会東京支部」にも参加させていただくようになりました。皆さん、亡くなったお友達に対して自分だけ生き残って申し訳ない、という気持ちで何十年も暮らしていらっしゃいます。心の傷というのは、いつまでも癒えない。戦争が始まるのはアッと言う間だけど、何十年たっても終わらないのが戦争だと、嫌というほど教えられました。

ママに共感
〈戦争法反対で立ち上がった若いママたちに共感を寄せます〉
 すごく頼もしいことです。戦場に行かされ、犠牲になるのは若い人たち。これからの日本を背負っていかなければならない若い人たちの命をどうして大事にしないのか。私には理解できません。平和で、誰もが自由に生きられる世の中が続いてほしいと願っています。
〈日本共産党は、戦争法廃止の国民連合政府をつくるための大同団結を呼びかけています〉
 みんなで努力しなければいけませんね。(つづく)

かがわ・きょうこ=東京都出身。1950年に映画デビュー以来、数々の名作に出演し、テレビや舞台でも活躍。キネマ旬報助演女優賞、日本アカデミー最優秀助演女優賞、田中絹代賞、国際フィルム・アーカイブ連盟賞など数多く受賞
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2015年11月15日,「赤旗」)

(Go2Top)

この人に聞きたい/女優香川京子さん/その2/独立プロと出合って/社会の矛盾に気づかされた

〈13歳のとき、終戦を迎えました〉
 戦後、初めてバレエ「白鳥の湖」を見て、バレリーナに憧れました。戦争中は、きれいなものが何もなかったでしょう。こんな美しい世界があるのかと、心を奪われました。でも、年齢的にスタートが遅いと言われ、あきらめました。
 女優になるなんて思ってもみませんでした。隣に住む叔父が映画界で宣伝の仕事をしていたんです。その叔父に作家や映画関係の方が、「君のめいを女優にしたらどうだ」と言っていたようです。でも私はからかわれていると思って、真面目に取りあいませんでした。
 女学校の卒業間近になり、家庭の事情で働くことになりました。そのとき就職するなら何か自分の仕事といえるような仕事をしたい。そんな思いが突き上げてきました。
 東京新聞に「ニューフェイス募集」という映画会社の新人募集の記事が掲載されたのは、そんなときです。それを見て、突然「これだ」と。おさげ髪の卒業アルバム用に取ってもらった写真()を送りました。並行して銀座の服部時計店(現・和光)も受験しました。1949年、17歳でした。

自由への憧れ
〈5400人の応募者の中から、東宝、松竹、新東宝(現・国際放映)が3人ずつ採用。香川さんは、叔父がいた新東宝に入社が決まりました〉
 家庭的な雰囲気の会社で、毎日、撮影所に行くのが楽しくて。おさげ髪のニューフェイスが入ってきたというので、皆さん珍しがって、かわいがってくれました。
 上の人に「早く現場を覚えなさい」と言われたので、撮影所に行き、スタジオの隅の方に立って監督さんのお仕事やスタッフの方の動き、先輩の俳優さんたちのお芝居を何時間も見ていました。それが私にとっての勉強でした。
〈入社から半年後、本格デビュー。20作近く出演しますが、52年、フリーになります〉
 あの頃は、撮影所が新人を育てようと企画から宣伝まで考えてくれる恵まれた時代でした。でも私は、何でも自分で決めないと嫌な性格で…。
 新人のくせに生意気なのですけれど、成瀬巳喜男監督の「おかあさん」で田中絹代さんの娘役を演じた時、「私はこういう明るい庶民的な娘役が向いているのかな」と初めて意識してからは、自分が出る作品は自分で選びたい、と思うようになりました。
 でもフリーになったからといって、いい仕事ができるとは限らない。怖いもの知らずで、ただ自由になりたい一心でした。
〈53年、所属俳優の他社作品への出演を封じる「五社協定」が結ばれましたが、フリーだったので縛られませんでした〉
 運が良かった。今井正監督の「ひめゆりの塔」は、「良い作品を」という意欲に燃えていたときに出合いました。「青い山脈」や「また逢う日まで」を撮られた今井監督は、当時の女優さんたちの憧れでした。
 この後、小津安二郎監督の「東京物語」、溝口健二監督、黒澤明監督の作品に出演することができました。フリーになって、たくさんの良いお仕事をさせていただいて、本当にありがたかったですね。

熱気を感じて
〈香川さんは、商業主義と一線を画す独立プロの作品にも積極的に出演。貧しい農村を舞台にした家城巳代治(いえき・みよじ)監督の「ともしび」(54年)では、弟のために身を粉にして働く農家の娘を演じました〉
 栃木の部屋村(現・栃木市)で撮影しました。普通の農家に泊まらせていただいて、みんなで合宿のように過ごすんです。そんな経験は初めてでした。
 男の俳優さんも一緒になってカメラやライトを運んだりして、予算はなくても自分たちのめざすいいものをつくろうという熱意が感じられて、気持ちの良い現場でした。若かった私は大変刺激を受けました。
 独立プロの監督さんは、今井監督にしても山本薩夫監督にしても決してご自分の信念を曲げないところがすばらしいですね。世の中には、一生懸命働いても豊かになれない人たちがいるのだという社会の矛盾にも気づかされました。女優も社会の一員として社会に関心を持たなければいけない、と。大きい会社の仕事だけをしていたのでは、わからなかったと思います。
〈山本監督の「人間の壁」(59年)では小学校教師役でした〉
 私は学校の先生にぴったりというイメージがあるらしいのですが、子どもたちとどうやって仲良くなればいいか、わからない。それが一番の課題でした。でも、列車にはねられて亡くなる悲しい役を演じた男の子が、中学生になって一人で家に遊びに来てくれたんです。あのときは、うれしかったですね。(つづく)
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2015年11月22日,「赤旗」)

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この人に聞きたい/女優香川京子さん/その3/小津、溝口、黒澤監督と/今になってわかることも

〈125作以上に出演。巨匠たちが香川さんを起用した理由の一つが清潔感でした。小津安二郎監督も「洗いたての感じ」と言い、代表作「東京物語」(1953年)で香川さんを末娘に起用しました。2012年の英国映画協会による映画監督が選んだ映画史上ベストテンの1位になった不朽の名作です〉
 小津監督とお仕事をさせていただいたのは「東京物語」だけです。1本だけなのに、世界的に評価される作品に参加できたのは、なんて幸せなのでしょう。でも、その頃は憧れの原節子さんとご一緒できることの方がうれしくて…。(笑)
 当時は若かったので、両親に冷たい兄や姉を許せない末娘に共感しました。でも、自分も結婚して家庭を持つようになると、親を思う気持ちがあっても、生活に追われて思うようにできない姉たちの立場がわかるようになって…。今は笠智衆さんと東山千栄子さんが演じた両親の心境です。
 世界中で「東京物語」が評価されるということは、国は違っても、人間のそういう姿、気持ちは共通のものがあるのでしょうね。何度見ても、見る年代で違う感動を覚える。だからいつまでも愛され続けるのだと思います。
〈印象に残る小津監督の言葉があります〉
 撮影の合間に「僕は社会のことに関心がないんだよね」とおっしゃったことがあったんです。私は「ひめゆりの塔」が終わったばかりだったので、どういう意味だろうと。それから何十年もたって、監督さんが「人間を描けば社会が出てくる」という言葉を残されているのを見つけました。
 小津監督は、「感情過多はドラマの説明にはなるが表現にはならない」とも、おっしゃっています。「人間はうれしくて泣くこともあるし、悲しくて笑うこともある。大切なのは、人格をつくりあげることなのだ」と。教えられました。

「反射して」と
〈さらに溝口健二監督の「近松物語」(54年)が転機になりました〉
 溝口監督の撮り方は小津監督と正反対でした。小津監督が、俳優が座る場所や、うちわをあおぐ回数まで決めて撮るのに対して、溝口監督は演技指導を一切なさらない。
 俳優というのは、セットに入った時にその役の気持ちになっていれば、自然に動けるはずだとおっしゃるんですね。それで、できるまでじっと待っていらっしゃる。だけど人妻役も京都の言葉もすべて初めてで、どうしていいかわからない。本当に苦しかったですね。
 今でも頭から離れないのは、「反射してください」というお言葉です。芝居というのは、自分の番が来たからせりふを言うのではなくて、相手の動きや言葉に反射して初めて言葉や動きが出るのだ、と。芝居の根本を教えていただいたから、黒澤組でもやっていけたのだと思います。黒澤明監督も細かい指導はなさらず、自分で考えなければなりませんでしたから。

声まで動物に
〈「どん底」「まあだだよ」など黒澤監督の5作品に出演。色情狂を演じた「赤ひげ」(65年)では、鬼気迫る演技を見せました〉
 すごいメークでしょう。こめかみの生え際を3カ所ぐらい三つ編みにして、(かつらの下につける)羽二重(はぶたえ)で止めるのね。すると目がつり上がるの。青いシャドーをつけて、自分でも鏡を見るのが嫌でした。でも不思議。ああいう扮装(ふんそう)をすると、声まで動物的になるんです。
〈「赤ひげ」の公開後、新聞記者の夫と3年間ニューヨークへ。子どもが3歳と2歳の時に帰国します〉
 アメリカでは普通の主婦の生活をして、お友だちがいっぱいできました。自分の仕事、芸能界を外の視点から見ることもできるようになりました。どんなことも無駄にはならないものですね。
 モットーは無理をしない。仕事と家庭の両立にはそれが大切でした。
 それにしても、こんなにたくさんの監督さんと仕事をさせていただいて、優れた方たちに出会えたことは本当に幸せだったと感謝しています。私なんて無口で地味で、人とのつき合いも上手じゃないのに、どうして偉い監督さんたちが指名してくださったのか、いまだにわからないんです。
 いいお話をいただいても、「うれしい」というよりも、私が出たことで作品を壊したら大変だと。もうそれだけでした。喜びよりも不安と緊張の方が大きかったですね。
 今は若い頃と違って少ない出番でも、そこにいるだけで過去を感じさせなければならない、という難しさがあります。
 女優になって65年になりますが、今でも華やかなところは好きではありません。これでも女優かしら、と自分で感じることがあります。普通にバスにも乗りたいし、自由に動きたい。電車の中で、赤旗記者の方とバッタリお会いしたこともありますよ。(笑)
 (おわり)
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2015年11月29日,「赤旗」)

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12月

映画監督山田洋次

この人に聞きたい/映画監督山田洋次さん/その1/新作「母と暮せば」への思い

戦争の罪悪を繰り返さない/生き残った僕らの責務です
 映画監督・山田洋次さん(84)が、長崎を舞台にした新作映画「母と暮せば」を完成させました。監督生活54年。「生涯で一番大事な作品をつくろうという思いで臨んだ」という監督に、作品に込めた思いや監督人生について聞きました。
 板倉三枝記者

〈井上ひさし作「父と暮せば」と対をなす作品です。映画化のきっかけは、題だけが決まっていた作品の映画化を、三女の井上麻矢さん(こまつ座社長)から相談されたことでした〉
 戦後70年という節目の年に、こういう話が来るのは運命的です。どうしてもやらなければいけないと思いました。「父と暮せば」が、原爆で死んだ父親と残った娘の物語だったから、「母と暮せば」は、生き残った母と死んだ息子の物語にしよう、その息子は900人近くが犠牲になった長崎医科大学の学生で恋人がいたという設定も、割にスッと思い浮かびました。
 息子はユーモアを愛する青年で、お母さんはそんな息子が大好きだった。いつも二人で面白い話をしてはゲラゲラ笑っている。母親は、息子に半分恋してるっていうのかな。その息子を失ったお母さんが、どんなに悲しいか。亡霊でもいいから出てきてほしいと願っていたら、それが本当に出てきたという話です。

原爆テーマに
〈母・伸子役は吉永小百合さん、息子・浩二役は二宮和也さん。映画全体を包むのは、明るいトーンです〉
 二人はよく演じてくれました。原爆というのは重いテーマですが、僕は、この映画を重苦しい映画にしたくなかった。二宮君は、寅さんと同じ東京・葛飾の出身で、下町の若者らしい軽快さがあって、それがとても良かった。
 浩二のキャラクターは、「骨のうたう」という詩で有名な詩人・竹内浩三をヒントにしました。漫画を描くのが大好きで映画監督になりたかったというユーモアを愛する青年。僕はそんな竹内がとても好きでね。
 竹内は、23歳でフィリピンで戦死しました。南方戦線で死んだ人たちには、骨も帰らなかった人が多い。石ころ一つ入った遺骨箱をもらっても、遺族は到底あきらめられませんよね。
 ナガサキ原爆の死者は7万人。浩二はその一人です。太平洋戦争では数百万の兵隊が死んだ。数百万の母親が子どもを奪われたということです。一人ひとりの死がどんなに悲しいか。それが何百万という数になったとたん、悲劇性が消えていく。戦争を知る世代が、繰り返し繰り返し、伝えていかなきゃいけないと思いました。
〈戦後生まれのスタッフや役者に求めたのは想像する力です〉
 恋人役の黒木華君のせりふに「真っ白い湯気のたつご飯に生卵をのせて、おしょうゆをタラ〜と垂らす。ああ、唾の出る」というのがあります。僕の少年時代は、ほとんど飢餓状態で、さつま芋すら有り難かったから、白いご飯なんて夢でした。
 どうすればそのような戦争の時代の空気を体感してもらえるか。二人には小説や詩集、膨大な体験記を読んでもらいました。みんなで長崎に足を運び、被爆者に会って話を聞きました。

戦争の主語は
〈苦心したのは原爆が落ちた瞬間をどう描くかです〉
 浩二がこの世で最後に見た風景は何だったのか。キノコ雲の写真ではなかったはずだ。そのイメージにたどりつきたいと思いました。その意味では長崎で被爆した美輪明宏さんの話は、すごい迫力と生々しさで落ちた瞬間をイメージさせてくれました。やはり美輪さんは表現者なんですね。
 長崎大学の原爆記念碑には、この地で原子爆弾が破裂したとは書いていますが、誰が落としたということは書いていない。
 井上ひさしさんが、戦争が起きたというけど戦争は主語じゃない≠ニ語っています。津波や地震は主語になるけど、戦争は主語になりえない。戦争を起こしたのは人間にほかならない≠ニ。だから起こさずにすますこともできたということです。
〈加害の事実にも思いを巡らせます〉
 僕は子どもの頃、旧「満州」にいました。満州の日本人は、当時、中国人に対して恥ずかしいぐらい威張っていました。
 中国の瀋陽には918記念館という巨大な建物があります。918というのは、1931年9月18日、満州事変、中国でいえば15年戦争の始まった日のことで、中国では重要な記念日です。
 実は僕の誕生日はその5日前で、しかも満州の、その瀋陽や長春で少年時代を過ごしているのです。だから、あの時代のことを罪の意識なしに思い返すことはできません。戦争という罪悪を再び起こさないということは、生き残った人々の責務です。
 映画の最後は、戦後自死された作家で詩人・原民喜の「鎮魂歌」を歌詞にした合唱で終わります。「良き明日が来るに違いない」という希望で締めくくりたかったからです。
 (つづく)

やまだ・ようじ=1931年生まれ。61年、監督デビュー。「男はつらいよ」シリーズ48作、「家族」「故郷」「幸福の黄色いハンカチ」「学校」「たそがれ清兵衛」「母べえ」「小さいおうち」など。来年3月には「家族はつらいよ」を公開

12日から東京・丸の内ピカデリーほか全国で公開
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2015年12月13日,
「赤旗」)

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この人に聞きたい/映画監督山田洋次さん/その2/寅さん的な生き方/笑いと涙は裏腹

 〈1931年に大阪で生まれた映画監督の山田洋次さん。「満鉄」(南満州鉄道)技師だった父親の仕事の関係で、幼少期を旧満州で過ごしました。敗戦から2年後、満州から引き揚げ、家族5人で山口県宇部の親せきの家に身を寄せます〉
 引き揚げ者というのはリュックサックひとつが全財産、布団も食器もない、いわば難民≠セから、家族全員で働くしかない。
 中学生の僕は兄貴と一緒に闇屋まがいの行商や、炭鉱の坑木(こうぼく)運びといった肉体労働をやりました。あの当時、宇部には中小零細の炭鉱がいっぱいあり、坑夫のおじさんたちが、かわいがってくれた。思春期の僕にどぎついワイ談を聞かせ、大口あけてゲラゲラ笑う。それが不思議に嫌じゃない。苦しい労働の疲れから回復するには、笑いが必要なんだということを僕は肌で感じていた。
 トロッコを押して海岸を埋め立てる労働をしたときは、一日の仕事が終わると在日韓国人の親方にドブロクを勧められ、僕が目を白黒させて飲み込む姿を見て、仲間たちと楽しそうに笑い声をあげたものです。
 〈つらい時、笑わせてくれた闇屋のあんちゃんは、寅さんの原型ともいえる人です。「母と暮せば」にも闇屋で稼ぐ上海のおじさん≠ェ登場。冗談を飛ばしながら何かと母・伸子の世話を焼きます〉
 戦後の大混乱の時代、昔の秩序や権威の中で月給をもらっていたインテリは生活力を失ってしまった。

混乱時の英雄
 その点、加藤健一さんが演じた上海のおじさん≠ニいう人物は戦前の社会秩序の中では落ちこぼれの無力な存在だったが、戦後になると闇屋になって急に親せきたちから頼りにされ始める。混乱の時代を生き抜いた、ある種の英雄です。
 「男はつらいよ」の最終編(第48作)で僕は、寅さんが阪神・淡路大震災を体験した話をつくりました。寅があのとき神戸にいて、大混乱の中で力を発揮する。秩序が混乱した時に、寅のようなもともと秩序と無縁な男が役に立つということはあるんじゃないか。だけど秩序が回復すると、再び邪魔者扱いされる。上海のおじさん≠ヘ、そういう人です。
 〈「母べえ」や「おとうと」では鶴瓶さんが演じた役が、寅さん的存在でした〉
 見ている人は、バカなやつだな、と笑いながらも少し悲しくもある。「そんなに笑えないな、俺にもそういうところがある」。人間ってそうなんだ、という共感でつい身につまされる。笑いと涙は裏腹なんです。
 寅さんが故郷柴又の団子屋の裏手にある印刷工場にノコノコ出向いては「よう、労働者諸君。君たちは貧しいなあ」とからかう。そこで観客がドーッと笑う。そのおかしさは何だろうと思った。
 寅が口にする「労働者諸君」という言葉は、おまえよく、そんな地味な暮らしを辛抱しているね、というからかいであると同時に、この世の中の主人公は君たちなんだよ、という尊敬の念も含めている。
 つまり寅次郎という男は、自分が正業をもたない、いいかげんな人間であることをよく知っている。道を歩くときは、遠慮して軒下をチョコチョコッと歩かなきゃいけないぐらいの気持ちがある。それが寅なんですね。
 だから労働者諸君≠ナあるところの観客は、寅の悪口を許して大笑いする。「労働者諸君」というのは渥美清さんのアドリブですが、渥美さんじゃないと言えないせりふでしたね。これは渥美清という人の思想、感性に関わることだと思います。(つづく)
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2015年12月20日,
「赤旗」)

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この人に聞きたい/映画監督山田洋次さん/その3/監督デビューの頃/観客の笑いに背中押された

〈東大法学部を卒業し、1954年に松竹に就職。監督としての本格的なデビュー作は、倍賞千恵子さんと初めて組んだ「下町の太陽」(63年)でした〉
 倍賞さんの歌が大ヒットして、歌謡映画を作れという、これは会社の企画でした。倍賞さんは下町出身だから、当然舞台は下町。あの時代の日本人にとって「下町」は労働者の町でした。労働者がやがてこの国の主人公になるのだという考えを僕たちは持っていたし、労働組合がこの国の政治の主導権を握っていたような気がします。
 だから主人公の町子は工場労働者。当時、東京・墨田区の曳舟に化粧品会社の工場があり、せっけんを作っていたので、あの辺に行くと、せっけんのいい匂いがする。町子は、そのせっけん工場で働いているというシチュエーションにしたんです。せっけんの匂いがするさわやかな娘を、若かった倍賞さんが生き生きと演じてくれました。
〈下町娘の町子は、出世を夢見るサラリーマンの恋人に疑問を抱き、結局、鉄鋼所で働く良介を選びます。幸せとは何か、どう生きるかを考えさせる作品です〉
 フェデリコ・フェリーニやデ・シーカといったイタリアの監督が活躍していた時代で、僕たち若い映画人はネオレアリスモ(新写実主義)に憧れていて、デ・シーカのような映画を撮りたいと夢見ながらつくったのが、この作品です。
 今思うと作り方が観念的で、そんなにヒットしませんでした。「下町の太陽」の歌もあまり出てこない。もっと歌を出せと会社から文句を言われたりして。
 でも、今見てみると本当に懐かしい。「僕は若かったな」「でも若いときでなければ描けないものだったな」と。
 不思議なもので、自分がつくった映画というのは、うまくいったものも失敗作もあるけど、あとになって見てみると、作った当時の僕の姿が映っている。僕自身の後ろ姿をスクリーンで見るような、とても不思議な気持ちですね。そんな思いで見ているのは、作者の僕だけだと思うんだけど。
 〈48作続く「男はつらいよ」の出発点は、テレビドラマでした〉
 ハナ肇さんと喜劇をいろいろつくった後、渥美清さんを主人公にしてテレビドラマを書いてくれという依頼がきました。渥美さんに会って話を聞くと、名人の落語を聞いているように面白い。話を聞いているうちに、落語に登場する熊さん、八っつぁんの姿が浮かびました。
 頭はよくないけど、腹にイチモツもない。心底では妙に真面目で、やることは失敗ばかり。そんな間抜けな男をこの人なら演じられる、と思いました。
 テレビドラマから映画になって、できあがったものを試写室でスタッフと一緒に見るんだけど、それがちっとも面白くない。渥美さんは日本を代表するコメディアンだから、当然喜劇でないといけないのに、何もおかしくない。誰も笑わず、シーンとして見終わってね。

しょんぼり
 スタッフは仕事として見ているんだから別におかしくないのは今思えば当然なのですが、当時は「これで僕の監督生命もおしまいだな」と、スタッフルームでしょんぼり座っていました。後でキャメラマンに聞いたのですが、僕は1時間ぐらい何も言わないで黙っていたそうです。
 2カ月後、封切りになってプロデューサーから電話がかかってきました。「新宿の映画館に今いる。とにかくすぐ来い」と。そうしたらお客さんがいっぱい入っていて、やたらと笑ってるんです。僕はびっくりしました。
 もう一度、見ました。このときは僕も落ち着いているから、少しおかしいところがわかる。気が付いたら自分でフフフと笑ったりなんかして…。僕は真面目な映画をつくったと思っていたけど、もしかしたら僕のつくる映画、おかしいのかな、と。同時に僕の映画がおかしいか、おかしくないかを決めるのは僕じゃない、観客なんだと教えられました。
 僕は一生懸命、人間を描き、その人間を取り巻く社会と人間の関係について語ればいい。そこで試されるのはつくり手の思想や感性で、つくり手の「意図」ではないんだと。「この調子でもっとつくればいいよ」と、観客にポンと背中をたたかれた気持ちがしました。
〈来年3月公開の「家族はつらいよ」を含め、84作製作。一貫して描いてきたのは家族です〉
 松竹の大先輩の小津安二郎監督は、日常の中での家族の微妙な気持ちのやりとりを丁寧に描いた人です。松竹で育った僕も必然的にその影響を受けているわけですね。
 でも小津さんの映画は例えば「東京物語」の原節子さんが演じた役は、夫が戦争で死んでいる。重い歴史的な背景抜きに、あの名作はできていない。実は小津さんの映画はみんな背景に戦争があります。
 箸の上げ下げのような日常を丁寧に描くその向こうに、戦争という重い悲劇があるのが小津映画なのです。(おわり)
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2016年01月03日,「赤旗」)

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