【東日本大震災5年】
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「11・13ふくしま集会」発言から/1/後世に味わわせまい/不満解消まで支援を
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子どもの笑顔が町を元気に/新田新一郎/1/復興へ、おとな励ます
子どもの笑顔が町を元気に/新田新一郎/2/若者の参画が夢届ける
子どもの笑顔が町を元気に/新田新一郎/3/表現して思い解き放つ
子どもの笑顔が町を元気に/新田新一郎/4/子の発想で商店街再
子どもの笑顔が町を元気に/新田新一郎/5/九州の熱いメッセージ
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被災者いま言いたい/過労で夫亡くなった/賠償を続けてほしい
東日本大震災・原発事故5年/「原発と人権」研究・交流集会から/被害者支援/メディア
本と人と/『隅井孝雄のメディアウォッチ』隅井孝雄さん/育てる視点からの批評
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被災地の共産党―5年間の軌跡/福島・南相馬市小高支部/上/地域結ぶ通信、毎週2150部
被災地の共産党―5年間の軌跡/福島・南相馬市小高支部/下/住民に心寄せる党の歴史に誇り
被災地の共産党―5年間の軌跡/宮城・石巻市/上/党員として生き方問われた
被災地の共産党―5年間の軌跡/宮城・石巻市/下/苦労と模索「手をつながないと」
被災地の共産党―5年間の軌跡/岩手・陸前高田市/上/翌日、党員宅を救援センターに
被災地の共産党―5年間の軌跡/岩手・陸前高田市/中/ネットワーク再建、青年が奔走
被災地の共産党―5年間の軌跡/岩手・陸前高田市/下/住民の生の声を届けて
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東日本大震災・福島原発事故5年/志位和夫委員長が談話/被災者の生活再建に国が責任を
東日本大震災5年/両親と祖母・姉亡くし伯母と暮らす辺見佳祐くん(12)宮城・石巻/さびしいけど、大丈夫
風の色/高橋真理子/星つむぎの村
震災・原発事故5年で声明/支援策縮小、政府を批判/日本被団協
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東日本大震災・原発事故5年/仮設住宅、民医連の調査/入居者の困難くっきり/宮城
東日本大震災5年・原発事故5年/被災者いま言いたい/コメもう作れない
命と尊厳守る/金田峰生参院兵庫選挙区候補/上/震災21年の神戸で、東北で/被災者に寄り添う
東日本大震災・原発事故5年/被災者いま言いたい/前向きに頑張ろう
大震災5年300人調査から/被災者の願い/1/住まいの再建/仮設住宅出たいけど…
大震災5年300人調査から/被災者の願い/2/健康と医療/免除継続・再開は切実
大震災5年300人調査から/被災者の願い/3/災害公営住宅/つながり集まって
大震災5年300人調査から/被災者の願い/4/雇用と生業/再建困難浮き彫りに
大震災5年300人調査から/被災者の願い/5/福島原発事故/戻りたい、戻れない…
大震災5年300人調査から/被災者の願い/6/冷たい政治に怒り/私たち置いてきぼり
東日本大震災5年/住まい難民¥oすな/紙氏が強調/参院予算委
東日本大震災5年/災害公営住宅、笑顔広がった/炊き出しと相談会/宮城・石巻
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東日本大震災5年/被災3県議団長語る/1/岩手・斉藤信さん/復興が二極化、生業で苦闘
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東日本大震災5年/被災3県議団長語る/2/宮城・遠藤いく子さん/県が役割放棄、医療がピンチ
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東日本大震災5年/被災3県議団長語る/3/福島・神山悦子さん/関連死2000人超、深刻な原発被害
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東日本大震災5年/被災3県議団長語る/4/座談会
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東日本大震災5年/被災地はいま/1/いつまで続く住まい難民
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東日本大震災5年/被災地はいま/2/公営住宅遅れ入居後も不便
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東日本大震災5年/被災地はいま/3/存続が危うい医療費免除
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東日本大震災5年/被災地はいま/4/店舗再建、業者の岐路
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東日本大震災5年/被災地はいま/5/引っ越し代が払えない
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東日本大震災5年/被災地はいま/6/故郷返せ≠スたかい全国に
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震災5年/放送の現場から/福島中央テレビの苦悩と奮闘/上/不安あおる誤解ぬぐいたい
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試写室/バリバラ 東日本大震災5年A福島は今?/NHKEテレ後7・0/ほったらかしに異議申し立て
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震災5年/放送の現場から/福島中央テレビの苦悩と奮闘/下/丸淳也報道部長語る
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震災5年/放送の現場から/福島中央テレビの苦悩と奮闘/取材を終えて
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震災5年/放送の現場から/NHK仙台大森淳郎ディレクターに聞く/原発事故、絶望に寄り添い
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東日本大震災5年について/高橋千鶴子衆院議員に聞く/被害ある限り賠償・支援が必要
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東日本大震災5年/希望と笑顔、子どもたちに/その1/冒険遊び場/岩手・釜石・こすもす公園
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東日本大震災5年/希望と笑顔、子どもたちに/その2/学びの部屋/岩手・陸前高田
子どもとママ守る/災害時のメンタルケア/NPO法人ママプラグ副代表冨川万美さんに聞く
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「11・13ふくしま集会」発言から/1/後世に味わわせまい/不満解消まで支援を
13日に福島市で行われた「11・13ふくしま集会」での各分野・地域・団体からの発言を紹介します。
後世に味わわせまい/飯舘村から福島市に避難する渡辺とみ子さん
現在飯舘村から福島市に避難しています。私は福島市の休耕地を借りて飯舘の特産品「いいたて雪っ娘」というカボチャの品種の種つなぎをしています。「いいたて雪っ娘」の栽培は放射能汚染の土壌検査をし、カボチャの放射線量が基準値を超えていないかと検査をして消費者に届けているのが現状です。こういう苦しい思いは後世の子どもたちに味わわせたくありません。
不満解消まで支援を/南相馬市小高区の渡部チイ子さん
7月の避難指示解除後、小高に戻った方は938人です。帰還できない理由の一つは、国が避難指示解除の要件の年間被ばく線量を勝手に20_シーベルトに変更し、低線量被ばくへの不安が増していることです。裏山は自宅から20bしか除染しません。国は徹底した除染をすべきです。小高区には入院できる病院がなく、特養などの入所施設は再開していません。国は原発事故以前の医療や介護の状態に戻るまで、健康や介護に対する不満を解消するまで支援を続けるべきです。
(2016年11月16日,「赤旗」)
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子どもの笑顔が町を元気に/新田新一郎/1/復興へ、おとな励ます
東日本大震災から5年の月日が経過した。私は仙台市内で子どもの創造表現の場「アトリエ自遊楽校」を開設していて、「あの日」の午後2時47分は、ちょうど幼児クラスの真っ最中。ただならぬものを感じとった子どもたちは、みんな口を真一文字に結び、誰も泣く者はいなかった。
私が宮城教育大や保育士の養成校で長年教えていた経緯もあり、被災した子どもの現場を支援しようと「子どもの笑顔元気プロジェクト」を4日後には立ち上げ、5年間ずっと支援活動を続けてきた。
この間「復興」とはどういうことなのかをずっと考えてきたのだが、そのことを改めて検証したい。
そもそも熱しやすく冷めやすい日本人気質もあり、日本全体としては「あの日」は記憶の彼方になってしまった感がある。確かに毎年マスコミがこぞって特集を組み「あの日」に向けて番組をつくるが、年に一度のお祭りのようなもので日常的には支援に来てくれたNGO、NPOの方々は引き上げ、復興の予算は5年という区切りで先細り…。要するに未来に光が見えてこないのである。そんな中、「笑顔バス」(現在はクオカードの支援で運行、ホスピタルクラウンのパフォーマーたちが毎週のように被災地を訪問し、大人気の支援となっている)のスタッフから次のような報告があった。
訪問した町の方々が、口々に「ああ子どもはいいなあ。子どもの元気な姿を見るとこっちまで元気になる。笑い声を聞いているだけでこっちもうれしくなる」とお話しになるというのだ。そうか、コンクリートで町を再生させても人びとがいきいきと生きる営みが戻らなければ意味がない。そう、子どもそのものが未来! その子どもたちの元気パワーでまちが再生するのである。復興は子どもたちの笑顔から始まる。まちの子どものためなら、おとなたちもみんな気持ちを寄せるのではないだろうか。
(アトリエ自遊楽校主宰)
(金曜掲載)
( 2016年04月01日,「赤旗」)
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子どもの笑顔が町を元気に/新田新一郎/2/若者の参画が夢届ける
私たちの被災地支援で「ふれあい遊びコンサート」をする活動があった。岩手県の陸前高田市を皮切りに子どもたちの元気と笑顔の再生へ向けて公演活動を始めた。その際、どこの避難所に行っても中学生・高校生がイキイキと小さい子どもたちをまとめ、お世話する姿に目が止まった。
「兄弟なの?」と私が何気なく声をかけたら、「いいえ今回初めて知った子どもたちばかりです。おとなの人たちが大変なので私たちが避難所の子どもたちと遊んでいます。私たちは、ジュニアリーダー(以後JL)ですから」と言う。
JLとは子ども会のリーダー役の中高生のこと。1971年宮城県が全国に先駆けて第1回のJL研修会を開催したとき、当時高校生だった私も参加していた。今から44年も前の話である。時を超えてJLの後輩たちが大活躍している。
うれしくなってしまい、被災地3県のJLに声をかけ、「子ども未来サミット」を企画した。
集まってくれた被災地の未来を担う若者たちが55人。「中高生として自分たちにできること」―SNSで情報を伝えること、安否をまとめる、今回の経験を私たちの世代からその下の世代にどう引き継げるか―など、次々に発言するJLたち。私は、この熱いうねりを体で感じ、身が震えるほど感動したのを今でも覚えている。
このJLたちは地元に帰り、さまざまな活動を展開していき、大きな話題となり、その活動を世界に紹介しようという動きになった。
なんと2013年3月には、ニューヨークの国連本部で宮城県南三陸町のJLがその活動についてスピーチをしたのだ。
スピーチは「私たちが新しいまちをつくり、JLとしてまちの人たちに夢と感動を届けていきます」の言葉で結ばれた。各国の国連大使は皆、涙ながらのスタンディングオベーションだったという。改めて思う。「子ども・若者の参画がこれからのまちをつくる」と。
(アトリエ自遊楽校主宰)
(金曜掲載)
( 2016年04月08日,「赤旗」)
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子どもの笑顔が町を元気に/新田新一郎/3/表現して思い解き放つ
今年、福島県の会津若松市、相馬市、いわき市で復興支援に向けて「子どもミュージカル」を企画運営した(主催は福島県とこども環境学会)。これはプロの役者とともに地元の子どもたち(30人)がステージに上がり、一緒にミュージカルをつくりあげていくというもの。
大地震などの被災地で子どもの表現活動を通して復興へ向けていく活動はインドネシアのアチェ州での活動が有名。2004年に20万人を超える犠牲者が出たスマトラ沖大地震・津波の被災地アチェ州において、子どもたちが自らの感情を表現し、演劇や表現活動を行うプログラムは、その後の子どもたちの心の発達を促し支えたとして世界的に評価されている。
福島で参加してくれた子どものなかには現在も東電福島第1原発事故の影響で自分たちの町に帰れない子や、復興住宅で暮らしている子どもたちもたくさんいた。
演劇のワークショップ当日、あっという間に打ち解け、堰を切ったように表現していく子どもたちを見るにつけ、抑えつけられている思いが解き放たれていくパワーを感じざるを得なかった。
ワークショップが終わって、あるお母さんがお子さんを着替えさせながら首をひねっている。聞けばおなかに精神性の吹き出物が出ていたのが消えているというのだ。「こんなこともあるんですね」と親子で喜んでいる。
「歌う」の語源は「うったえる」だというが、歌うことで開放される子どもたち。まばゆい光のステージで「演じる」ことでまっすぐ前を向く子どもたち。そして本番当日、どの会場でも万雷の拍手を浴びて演じる子どもたち。
会場のお客さまは目にいっぱい涙をためながら「感動したよー! 子どもたちの一生懸命表現する姿に元気が出たよ。ありがとう」と話すのである。
子どもが表現することの大切さとその一途なステージから感動へ、そしてまちの再生へとの道筋が垣間見えた活動だった。
(アトリエ自遊楽校主宰)
(金曜掲載)
( 2016年04月15日,「赤旗」)
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子どもの笑顔が町を元気に/新田新一郎/4/子の発想で商店街再生
子どもの参画で商店街を活性化しようという取り組みが昨年から福島県で始まった。
地震、津波、そして東電福島第1原発事故と三重苦の中でそれぞれの「まち」の復興を考える時、そのまちの商店街が重要なポイントの一つになると誰もが思っている。
しかし被災する前から商店街は疲弊し、空き店舗や高齢化等の問題は何も解決することなく、被災したことをきっかけに店を閉めざるを得ない方々がたくさんいたのである。
そういう意味では、福島県で始まった子どもたちの商店街プロデュース事業は注目に値する。
会津若松市では空き店舗を利用して子どもたちがカフェを開設した。その名も「よみがえる」。商店街がよみがえることを願い子どもたちが命名した。
カエルのニット帽をかぶりながら笑顔で応対する子どもたち。「あの店に行くと元気になる」と評判になり、地元の高齢者のたまり場となった。人気メニューは「かえるの卵ジュース」だったのだが、その発想に脱帽してしまう。
本宮市では商店街全部を使った「すごろく」を子どもたちが発案して実施された。
町の金物屋さんでは鍵束を渡され、金庫を見事開けることができたら次へ進むことができ、うなぎ屋さんではどじょうを1匹手でつかまえられたら次へ進むことができるなど、奇想天外なプログラム。話題を呼び予想を超える親子連れが参加した。「どんなテーマパークに行くより楽しかった」との意見もあり、大成功の企画となった。
冬のイベントでは、子どもたちがイルミネーションを樹木や店舗に飾るのはありがちなので、自分たちがイルミネーションをまとってパレードしようという企画が採用となり、市長さんまでがピカピカをつけてパレードに参加するというイベントになった。
そう、子どもたちの発想と元気と笑顔は、まちを再生させる原動力となり得るのである。
(アトリエ自遊楽校主宰)
(金曜掲載)
( 2016年04月22日,「赤旗」)
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子どもの笑顔が町を元気に/新田新一郎/5/九州の熱いメッセージ
このコーナーにおいて子どもの参画で復興する活動を1カ月間書いてきた。
日本では、子どもの自殺は毎日1・5人(警察庁統計資料)、孤独を感じている子どもは3人に1人(ユニセフ調査)、疲れを感じている高校生は5人のうち4人(日本青少年研究所)いる。今の子どもたちは何をしたいのかを問われて「寝たい、休みたい」と答えるのだという。
未来を託する子どもたちが元気がないとするならば、それは大問題である。
被災地の子ども会のリーダー(ジュニアリーダー、以後JL)である中高生が大活躍だった話は前に書かせていただいた。日本の子どもたちの元気再生のために被災地の中高生の活動を参考にしてはどうだろう。
彼らは、復興のために力を発揮し、おとなから「ありがとう」「すごいねえ」「助かる」の三つの言葉をもらった。それこそシャワーのように。
中高生にとって日常生活でどんなに自分の勉強をがんばってもまわりのおとなから「ありがとう」も「助かる」も言われない。
地域のためにがんばったことで、初めて地域から必要とされ、自らの元気がわいてきたのである。ちなみに仙台市の子ども会のJLは震災前に300人だったのが、今年度は500人にも達している。
全国各地で子どもの参画のムーブメントを起こすことで、日本の子どもの元気が再生されていくのではないかと思っている。
今、熊本の地震による被災状況を知るにつれ、何ができるか考えている。私は昨年の夏、九州全県から集まったJLの大会でお話しさせていただいた。先日、その大会を手伝ってくれた若者から連絡があった。「九州の若者の力を結集して復興にあたります」との熱いメッセージだった。
「明けない夜はないから」という思いが私たち東北の復興の支えになってきた。いま、その言葉を九州に送りたい。
(アトリエ自遊楽校主宰)
(おわり)
( 2016年04月29日,「赤旗」)
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被災者いま言いたい/過労で夫亡くなった/賠償を続けてほしい
過労で夫亡くなった
過労で夫を亡くした岩手県宮古市の坂下フミさん(82)
東日本大震災当時は、夫が宮古市で自宅を兼ねた店舗で魚屋を営んでいました。津波が来ることは、魚市場の放送で知り、高台になっている磯鶏小学校まで車で避難しました。2、3日後に自宅に戻ると、2階部分は住める状態でしたが、1階部分は津波や下水が流れ込み、足の踏み場もない状態。店の冷蔵庫などの機材は全て使えなくなりました。
夫は、郵便で全国にサンマを配送する小売り組合の組合長もしていました。自宅とあわせて、組合事務所のがれきの片付けもしていたので、それがこたえたのだと思います。震災から1年後に夫は亡くなりました。急な出来事でした。
共産党の市議にも相談し、震災関連死の申請を役所の福祉課に出しました。夫は糖尿病を患って治療を受けていたため病院側が関連死を認めず、認定されませんでした。
震災から1年間はうつ状態に陥り家から出られませんでしたが、長野や東京などから来たボランティアの助けを借りて「それではいけない」と思うようになりました。今でも手紙のやり取りが続いています。
今は年金だけで生活しています。消費税は上げられたくありません。
津波と震災がなければ夫は生きていたし、営業を続けていたと思います。
賠償を続けてほしい
福島県広野町から避難し、いわき市の仮設で暮らす堀本みい子さん(61)
震災の時、生まれたばかりの孫を抱えて着の身着のまま逃げました。津波で自宅は流され、避難生活で精神的に不安定になり、「もう死にたい」と何度も考えました。「心労が重なって糖尿病になったのだろう」と医者に言われました。
東電からの精神的賠償は打ち切られ、生活が厳しくなり、追い打ちをかけるように消費税が孫たちの食費や生活必需品にのしかかってきます。医療費免除がなくなったら、もう病院にかかれないと皆口々に言います。
親戚の一人は仮設で孤独死しました。政府や東電が責任を果たすと言うのであれば、賠償を続け、仮設で暮らす人たちの悩みを聞きに来てほしい。
( 2016年03月28日,,「赤旗」)
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東日本大震災・原発事故5年/「原発と人権」研究・交流集会から/被害者支援/メディア
「『原発と人権』全国研究・交流集会in福島」(19〜20日)の6分科会のうち、2分科会の内容を紹介します。
苦境「何も変わらず」/被害者支援
分科会「原発被害者・支援者交流集会」では、全国公害被害者総行動実行委員会の大石利生代表委員(水俣病不知火患者会会長)が「水俣病は加害者の1人である国が被害を小さく見せようとするなど原発事故と共通点が多くある。ともにたたかおう」とあいさつ。
4人の被災者が福島の状況を報告。全町避難が続く浪江町津島地区の三瓶春江さん(福島原発事故津島被害者原告団)は、4世代10人で暮らしていた自宅が帰還困難区域になり6カ所に分散して避難するなど5年間の苦境を述べ、「被害者の生活は何も変わっていません。国と東電に責任をとらせるために力を貸してください」と呼びかけました。
南相馬市の国分富夫さん(ふるさとを返せ・福島原発避難者訴訟原告団代表世話人)は、生活インフラの整備も不十分なまま避難指示だけが解除されたことへの不安や、帰還を断念した仲間の思いを話し、「福島第1原発建設時から反対運動をしてきた。建設を阻止できていたらこんな苦しみはなかった。全国の原発をなくすために、命ある限りたたかう」と訴えました。
人に共感する目必要/メディア
日本ジャーナリスト会議が主催の「原発とメディア」分科会では、福島民友、朝日新聞の記者とフリージャーナリストが議論しました。
福島民友の小泉篤史氏は「事故報道が日常業務化して、脱原発などを前提に『こう書けばいいだろう』という部分が目立ち、以前に書いた記事と同じようなものがあるなどの問題意識は各記者が持っている」としました。
フリージャーナリストの藍原寛子氏は、原発事故での専門性の高い問題は一方的な情報提供になりがちで、科学的に確定できない部分には政治的な思惑が入る余地があることを指摘。「風評被害という言葉もあいまいなまま使えば政府や東電の不作為を見逃しかねない。問題の本質を問わないと、安全神話の再構築に手を貸すことになる」と話しました。
南相馬市で生活している朝日新聞の本田雅和氏は、被災者の思いについて話し「必要なのはそこにいる人間に共感する目だ」と訴えました。
会場からは甲状腺がん増加などの客観性について質問があり、健康調査の結果や、見解が異なる専門家の意見の取り上げ方について議論しました。
(2016年03月27日,「赤旗」)
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本と人と/『隅井孝雄のメディアウォッチ』隅井孝雄さん/育てる視点からの批評
東日本大震災から昨年の戦争法強行成立までの5年間、「しんぶん赤旗」やJCJ(日本ジャーナリスト会議)機関紙などに書いたメディア批評のコラムは150本を超えます。99本を選んで1冊にまとめました。憲法や原発をはじめ、米国人歌手の歌詞の日本語字幕が不十分だったことにもふれて多彩な内容です。
「安倍政権や自民党から圧力が強まり、多くの人がメディアに関心を寄せています。そのあり方をどう考えるか、僕の書いたものがお役に立てばいいですね」
1958年に日本テレビ入社。テレビを街頭で見る時代でした。広報部などを経て、外報部記者としてニュースリポートも。本書にメディアを育てる視点があるのは、テレビの内側を知っているからこそです。戦争法に鋭く迫った大阪・毎日放送制作のドキュメンタリーに光を当てた論評もその一つです。
「一生懸命やっていますね。放送労働者はジャーナリストとして覚悟を持って臨まなければいけません。ひるまないでほしい」
30歳代で民放労連(日本民間放送労働組合連合会)の副委員長など執行委員を歴任しました。「勇ましかった。僕も若かったです」
「視聴者がはっきりものを言い、市民運動が急速に盛り上がっています。労働組合が積極的に発言し、動くことが必要です。とくにNHKの組合は」
現在は京都市に暮らし、市民と共に放送問題に取り組んでいます。
(渡辺俊江)
(リべルタ出版・1800円)
36年生まれ。86〜99年ニューヨーク赴任。元京都学園大教授。JCJ共同代表委員
( 2016年03月27日,「赤旗」)
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被災地の共産党―5年間の軌跡/福島・南相馬市小高支部/上/地域結ぶ通信、毎週2150部
分断はねのけ住民守る立場で
東日本大震災、福島原発事故から5年。福島県では今も、約10万人が県内外で避難生活を余儀なくされています。党員も多くが避難し、活動が困難になっている支部もあります。支部員の半数が避難している南相馬市小高(おだか)支部は、ネットワークを大切に、被災者の命と暮らしを守るため奮闘を続けています。
(寺田可奈)
シャッターが閉まり、更地が目立つ商店街。一方で改修中の店や、営業を再開した店もあります。「小高の商店街で再開を予定しているのは44軒。小高区に週3日以上戻っているのは100世帯です。みんな戻りたい思いはありますが、市民も党員も、足を踏み出しかねています」。小高町議時代から30年にわたり原発の危険を指摘し続け、東日本大震災後も原発被害対策に全力をあげてきた、渡部寛一南相馬市議(63)は語ります。
全住民が避難
福島第1原発から20`圏内に位置する、南相馬市小高区。沿岸から約40平方`bは津波で流されたうえ、区の全域が原発事故による警戒区域に指定され、全住民が避難しました。現在は大半が避難指示解除準備区域と居住制限区域で、宿泊はできないものの、日中には帰宅準備をする人の姿もあります。
国は、放射線量は健康に影響する水準ではないとして、今月中に避難指示を解除する方針です。一方、同市は「除染の完了を確認の上、判断する」として、6月以降の解除を見込んでいます。
2月に市が開いた説明会には多くの市民が参加しました。「宅地除染が完了したというが宅地の周囲20bまでだけだ」「農地、ため池、水道、側溝の除染は終わっていない。いつやるのか」「病院や商業施設がなければ帰れない」などの声が噴出。「避難指示解除は時期尚早」との意見が相次ぎました。
「宅地の除染が完了したということは、家のなかに閉じこもってりゃ安全だっていう話です。農地の除染はこれから。農業をやるとか、子どもを育てられるレベルじゃないと、多くの住民が感じています」と渡部市議。渡部市議は現在は同市原町区に避難し、今年中に小高区に戻る予定です。
小高区民1万3千人の半数は市内の原町区、鹿島区に避難し、残る半数が市外に避難しています。区民へのアンケートでは、避難指示が解除されても6割の人が「戻らない」と答えています。原発事故による、ふるさと喪失の被害は「夫婦や親子で受け止め方の違いがあります。夫婦でも、帰るか帰らないかという話になると、口きかねえって聞きます。つらいですね」。
小高区内の二つの地域支部の党員たちも避難しました。現在は支部を合併し、渡部市議の妻、チイ子さんが小高支部長です。支部員の半数は市内の仮設住宅などに暮らし、半数は市外や県外に避難しています。
バラバラになった支部の人たちを結ぶのは、渡部市議が毎週発行し、ブログでも発信する議会報告、「なじょしてる かんいち通信」です。
直後から奔走
渡部市議は荒木千恵子市議とともに、震災直後から被災者救援に奔走。議会で国と東京電力の責任を追及し、震災と原発事故に伴うさまざまな市民要求の実現へ奮闘してきました。
原発から20`圏内、30`圏内と線引きされ、義援金や精神的賠償、医療費一部負担などあらゆる面で分断されたことで、「市民がお互いにいがみあう構図がつくられた」と渡部市議。党は国や県、市に対し、「距離で差別するのでなく、具体的な対応を」と、分断をはねのけ住民を守る立場でたたかってきました。毎週の通信で、議会と地域の様子を詳しく報告し、自身の日常もつづっています。
通信は、小高区の人が住む仮設住宅を中心に2150部を、党員や支持者ら25人で配布しています。被災後に入党した、農家の滝本武廣さん(69)もその一人。妻と2人で入る仮設の120世帯に、通信を配っています。
「ふるさとも何もなくなってしまった」と滝本さん。集落で生産組合をつくり、圃場(ほじょう)を整備し農機具も買い、軌道に乗り始めたばかりでした。屋敷は一部損壊。「原発事故さえなければ復活できた。5年もほっとけば家は荒れて、壊すしかねえ」。自宅近くに、放射性廃棄物の中間貯蔵施設ができ、「米作っても、売れっかって言ったらわかんねえしな。それもこれも原発のせいだ」。
(つづく)
( 2016年04月09日,「赤旗」)
被災地の共産党―5年間の軌跡/福島・南相馬市小高支部/下/住民に心寄せる党の歴史に誇り
京都出身の宮前利明さん(65)も震災後、福島県南相馬市の小高支部に所属しました。震災・原発事故直後の2011年に、京都から3カ月交代の予定で同市にある党ボランティアセンターに派遣されましたが、「事態が落ち着くまで10年はかかる。責任を持って当たりたい」と自ら延期を申請、移住しました。「5年はあっという間でした。でも復興はこれから。片付けなどボランティアも足りません。今後も支部と一緒にがんばりたい」
「ほんま、涙出る」
センターでは全国からの視察を受け入れ、仮設住宅の被災者を訪問しています。仮設は高齢化が進み、将来に希望を持てない苦悩を抱え、精神的な苦痛による心の病におちいる人が急増。「仮設で話を聞くのも大事な活動です」と宮前さん。「『孫が20歳になるまで帰ってくるな』と言うて、子どもや孫と別れたと泣くお年寄りもいて、ほんま、涙出ますよ」
支部会議には必ず参加して、情報を共有。次々と原発再稼働を狙う安倍政権に「町そのものが消えているということを考えれば、再稼働なんて絶対にできんはずです」と、怒りをこめます。
JR小高駅近くで建具屋を営んでいた支部員の吉田正夫さん(78)は、福島市内の仮設住宅から、小高区に戻る準備を進めています。久しぶりに小高に戻り「小高はいい。気分的には本当に違うよ」と目を細めます。
あの日、「ドーン」という爆発と振動を感じました。すぐに避難し、5カ所を転々としました。福島市の民間借り上げ住宅では、地域支部に所属しました。
第8回党大会にも参加したというベテラン党員の吉田さん。被災地を視察に来た人のガイドを務め、渡部寛一市議の選挙活動でも力を発揮しました。
自由民権運動の影響を強く受けた小高の党組織は、昭和初期に干拓事業に伴う小作争議を主導するなどし、その後も住民を守る大きな役割を果たしてきました。戦後すぐに民間の「憲法草案要綱」の起草にかかわった憲法学者、鈴木安蔵の生家は小高駅前に今もあり、近所に住んでいた吉田さんは「安蔵の墓守をしてるんだ」と胸を張ります。
14年の市議選で、支部は渡部市議の勝利へ奮闘しました。「9回目の選挙で、なじょすっかとしたが、大変な選挙でした。小高の町には誰もいねえし、仮設をぐるぐる回って、携帯電話のわかる人にはかけて、つながりのある人に広げてもらいました」と渡部市議。
みんなわかってる
支部員の根本洸一さん(79)は、「仮設での反応はよかったですよ。議会報告の通信も出してっから、みんなわかってんだな。国にうそ言われて、安全神話を振りまかれて、この際は共産党しかないと思って入れてくれたんでしょう」と語ります。前回の1・36倍の得票で4位で当選し、荒木千恵子市議と2議席を維持しました。
「避難指示が解除されて、『赤旗』の配達・集金体制が組めるのかが、目下の悩みです」と渡部市議。原発再稼働を阻止し、戦争法を廃止にするため、参院選での勝利は支部の強い願いです。住民の苦しみに心を寄せてきた小高の党の歴史を誇りに、支部のたたかいは続きます。
被災地でこそ党建設が重要/福島県委員会常任委員、被災者救援対策本部事務局長、野口徹郎さん(40)の話
原発事故の被害は終わっていません。国と東電の責任は重く、強引に復興を進めるのでなく、県民に寄り添った形で支援する政権に変えなければなりません。被災地でこそ党建設が重要だと実感しています。
今、被災者救援対策本部として、県内外に避難している党員の実態をつかむプロジェクトを進めています。新たに入党した人や、県外に避難している人、避難先で生活再建した人など党員の実態もさまざまです。一人ひとりの思いをよく聞き、党活動を保障できるようにしたいと考えています。
参院選は、日本のどこにいても共産党に投票することができます。立ち上がりを広げぬき必ず勝利したい。
福島復興共同センターが、原発廃炉、賠償、除染などを求めて署名を国会に提出しましたが、福島県選出の国会議員はだれも紹介議員になりませんでした。原発事故を経験した福島で、党の役割、値打ちを語り広げ、得票目標を必ず実現する決意です。
( 2016年04月10日,「赤旗」)
被災地の共産党―5年間の軌跡/宮城・石巻市/上/党員として生き方問われた
3月11日。宮城県石巻市の海に近い喫茶店で、東日本大震災の犠牲者を追悼する集い「鎮魂のひろば」が開かれました。会場には、多くの日本共産党員の姿もありました。あの日から、5年。同市の党は、自ら被災するなかで、住民の救援・復興に力を尽くし、党の再建へ粘り強い努力を続けています。
(伊藤 幸)
石巻市は、東日本大震災による死者・行方不明者3705人(他に震災関連死270人)、地方自治体で最大の犠牲者を出しました。日本共産党員も4人が犠牲になり、多くの「赤旗」読者が亡くなりました。
「鎮魂のひろば」の会場は、海岸から200b。震災時は4bの津波に襲われました。今は土色の更地が広がり、再建した家が点々と建っています。建設中の高さ7・2bの防潮堤にさえぎられ、その先の海は見えません。
入党して40年の青沼ユミ子さん(83)は、震災発生時刻の午後2時46分、他の参加者とともに海に向かって黙とうしました。津波で30年住んだ自宅を流されました。仮設住宅での生活をへて、現在は災害公営住宅で1人暮らしです。「孫は、お骨になって帰ってきた。長女はまだみつかっていないんだ」とぽつり。
「5年前のあの頃は、毎日泣いていた。今も夜になると、さみしいね。でも、泣いてばかりいられない」。公営住宅での新たなコミュニティーづくりが課題になるなか、自治会の班長として、隣近所に「ばぁちゃん大丈夫?」と声をかけて歩いています。暫定的に仮設団地の党支部に所属しながら、最近は、地域の蛇田支部のメンバーと一緒に、2000万署名も呼びかけています。
救援活動に奔走
5年前。市内にある党東部地区委員会の周囲は津波で一面浸水しました。事務所も水没するなか、党は直後から救援活動を開始。10日後には、党災害・救援対策センターを開設しました。被害を免れた自宅に避難者を受け入れた党員や、町内で避難誘導や救援、民主団体のボランティアに奔走した党員もいました。
「それぞれの党員が、それぞれの場所で、『国民の苦難軽減』という立党の精神でがんばり抜いた。党員としてどう生きるのかが問われた。必死でした」と、庄司慈明市議(65)は当時を振り返ります。
庄司市議も自宅を流され、避難所の責任者として、運営、被災者支援に力を尽くしました。自宅が無事だった水沢冨士江市議(56)も、救援活動に駆け回りました。
救援対策センターは、米、衣料品、日用品などの支援物資で埋め尽くされ、全国から駆けつけたボランティアが、センターを拠点に避難所や仮設住宅をくまなくまわりました。日本共産党のノボリを立てた無料バザーや炊き出し、泥だしや物資の配布があちこちでおこなわれ、被災者から要望が次つぎ寄せられるようになりました。
その年の11月、当時市議団長だった三浦一敏東部地区委員長(65)は、震災によって延期されていた県議選(石巻・牡鹿選挙区)に立候補します。同選挙区から党の県議候補が立つのは、10年ぶりでした。
救援対策センターの責任者として、被災者の要求を聞き、実現の先頭に立ってきた三浦さん。被災者、漁業関係者、保守・無党派の人など従来の枠を超えた共感と支持が広がり、結果は、5人区で3位当選。同区初の党県議が誕生しました。
当選した三浦県議は、党国会議員や市議団とともに被災者の声を代弁し、カビ対策など仮設住宅の改善や、災害公営住宅への引っ越し費用支援拡充などを実現。市議団も亀山紘市政を支える与党として、被災者の切実な要求をとりあげてきました。
地をはう努力で
救援・復興とともに津波で大きな打撃を受けた党組織の再建は急務でした。
震災当日に地区事務所から自宅に戻って波にのまれた党員、町内の避難誘導をしながら亡くなった党員…。「赤旗」読者、支持者も犠牲になりました。名簿やデータの入ったパソコンも水につかり、当初は多くの党員、読者がどこに避難したのかも分からない状況でした。バラバラになった党のネットワーク再建は手探りで進みました。
県議選後、三浦県議に代わり救援対策センターの責任者になった蛇田支部の阿部兼幸支部長(77)は、「物資を公平に届けたい」と、市内137カ所ある仮設団地を全て訪問しました。ボランティアとともに一軒一軒まわって支援物資を届け、被災者の要望をつぶさに聞き取りました。
地をはうような活動のなかで読者や支持者だった人たちとも再会しました。「よかった」と喜び合い、「赤旗」の再購読を呼びかけました。それぞれの党員が、配達や集金を担当していた読者と再び結びつくように努力しました。(つづく)
( 2016年03月22日,「赤旗」)
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被災地の共産党―5年間の軌跡/宮城・石巻市/下/苦労と模索「手をつながないと」
宮城県石巻市の党再建の大きな力になったのは、県議選後、仮設団地で連続的に開いた三浦一敏県議を囲む「集い」でした。県議選で応援してくれた入居者たちが、次つぎ入党し、五つの仮設団地支部が誕生しました。
仮設団地の支部は、「政策と計画」に「仮設団地の住民運動の推進力となる」と掲げました。「石巻住まいと復興を考える会連絡協議会」(石巻住まい連)の結成に努力し、すべての被災者の住まいと生活再建のための運動を続けています。
並大抵ではない
石巻市を含む党東部地区は、震災前の約6割にまで減らした「赤旗」読者を、この間の努力で7割台後半まで回復しました。それでも、三浦県議が再選を果たした昨年10月の県議選は、日曜版読者で有権者比1%に届かないなかでのたたかいでした。鈴木実地区副委員長は、「支部をつくってこなければ、勝てなかった」と語ります。「党生活確立の3原則」の実践には並大抵ではない苦労をしながら努力を重ね、当月納入で75〜80%の党員が党費を納めています。
仮設団地で新しくつくった支部とともに、被災し傷ついていた既存の支部が、徐々に力を発揮し始めました。
震災で党員がバラバラになった西南支部は、転籍してきた党員など3人で再結成。選挙の支持拡大では、周りを励ます奮闘をしました。他の支部に頼っていた日曜版を支部のメンバーで分担して配るようになりました。
県議選後も、住吉支部では、「アベ政治を許さない」のプラスターを掲げ、2000万署名と女川原発再稼働反対署名で全戸訪問を開始。蛇田支部は、署名を持って公営住宅を訪問し、入居者の要望の聞き取りを進めています。被災者の救援・復興活動を、「支部が主役」で進めていこうと模索しながら動き始めています。
門脇支部が開いた13日の支部会議では、震災5年を迎え、これまでの活動を振り返りました。自宅が無事だった支部員は、党や民主団体のボランティアに奔走した経験を語りました。自宅が全壊し、今も仮設住宅に住む地区役員の日野大輔さん(62)は、仕事仲間と一緒に車に乗り、津波から命からがら逃げた経験を語りました。支部員たちは、「日野さんの話、初めて聞いたべ」と驚きます。
読者や支持者がバラバラになるなか、選挙戦で奮闘してきた経験も話し合いました。宮城県で参院選の統一候補が実現したことに、「昨年の県議選で8人に躍進した力は大きいね」という声も出ました。
参院選の得票目標、2000万署名の目標も決めています。3月から、支部会議の開催数を増やしたばかりです。「がんばってやっぺっちゃ」。参院選勝利へ向け、2000万署名や宣伝、党勢拡大などで行動を始めています。
「前向きに進む」
仮設団地支部は、転換期を迎えていました。新たな住まいを決めて仮設を出る党員が生まれ、支部の規模は縮小しています。
10日、仮設団地の開成東支部の支部会議が開かれました。1200戸近い大きな仮設団地ですが、現在入居しているのは半数ほど。支部員も、自宅再建を果たすなどして、現在は最大時の半数になりました。
集まったメンバーの議論の中心は、復興の状況や、これからの住まいの問題について。お茶を飲みながら話はつきません。
鈴木副委員長が、5野党合意を受けて宮城県でも統一候補が実現したことを報告すると、「よかった」「んだよな、まとまらないと」の声が上がりました。参院選にむけて、「若い人にも関心を持ってもらえるようにしたい」などの意見もだされました。
佐藤国子支部長(72)は「安倍さん(首相)は何であんなにワンマンなんだべ。もっと国民の声を聞いてほしい」と話し、参院選へ向け「みなさんとがんばって、なんとかしたい」と語りました。
震災後、党の救援活動に出会い、「米粒ほどでも役に立てれば」と入党した佐藤さん。「手をつないでいかないと、生きていけない。津波で何にもなくなったけど、みなさんと笑って暮らしたい」と仮設に住む人たちに声をかけて歩きます。以前は、政治を深く考えたことはありませんでした。「共産党と出会って、いろんな勉強できて、感謝しています」。選挙のときは「共産党だからね」と周りに支持を広げました。仮設で5人の新入党員を迎えてきました。
昨年、大きな病気で入院しましたが、少しずつ回復しています。「月2回の支部会議が楽しみ」。この春、災害公営住宅に転居します。「共産党に入って、よかった。これからも周りに声をかけて、前向きに進んでいきたい」
( 2016年03月23日,「赤旗」)
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被災地の共産党―5年間の軌跡/岩手・陸前高田市/上/翌日、党員宅を救援センターに
全国の支援、流された事務所再建
岩手県陸前高田市。2011年3月11日の大津波によって、死者1552人、行方不明者205人の犠牲者を出しました。日本共産党員は、及川一郎党市議団長をはじめ21人が犠牲になりました。被災直後から「国民の苦難軽減」の立党の精神を掲げ、自ら被災しながらも、必死に救援活動に奔走し、党の再建に苦闘してきた同市の党を訪ねました。
(大星史路)
津波は、市の中心部13平方`bを建物ごと押し流しました。3月初め、震災から5年目を迎える同市は、浸水地のかさ上げ工事のためダンプカーが土ぼこりを上げながらひっきりなしに行き交っていました。海岸沿いには、「奇跡の一本松」がそびえ立ち、献花台に花束が供えられています。
ガレキの中から
高田町にある党市委員会事務所は小さなプレハブの2棟。1棟は「しんぶん赤旗」のポスト(集配所)になっています。ちょうど、米崎支部の佐藤吉郎支部長(78)が支部の配達分の「赤旗」日曜版を取りに来ていました。今年1月から支部を基礎にした「赤旗」の配達・集金活動が始まったということでした。
震災時、党市委員会の事務所は津波にのみ込まれました。プレハブ事務所を再建したのは1カ月後。大阪の支援者が資材を持ち込み、1日で設置しました。
藤倉泰治(たいじ)市議団長(66)=気仙地区委員長=が「これを見て」と、事務所の棚から党市委員会発行の「陸前高田民報」のスクラップブックを取り出しました。ガレキの中に二十数冊が残っていました。ページの間には砂と泥が付着しています。「これで、かろうじて陸前高田の党の歴史が残った」と話します。
「震災当時、どこに行っても問題があった。私たちの行かなければならないところがいっぱいあり、対応しきれないほどだ。党そのものが津波の被害を受けていた」。藤倉市議は、振り返ります。被災者の声を聞き、あちこちの避難所を駆け回る藤倉市議は、多忙を極めました。妻の藤倉啓子さん(64)は、「夫は毎日、死にそうだと言って帰ってきていました」と話します。
大坪涼子市議(65)は、今も仮設住宅で生活しています。米崎町の自宅を津波に流されました。91歳の父親をせきたてながら、着の身着のままで逃げました。身内が津波の犠牲になりました。
米崎地域の避難所には約500人が身を寄せました。避難所の代表を決めることになり、「涼子ちゃんがいいんじゃないか」と女性たちから声があがり、「よし、やるべ」と気持ちを奮い起こしました。大坪市議は「私は最後に避難所を出よう」と思い定め、全員が退去したその年の6月30日、4カ月に及ぶ避難所生活を終え、仮設住宅に移りました。
伊勢純さん(48)は震災時、市議候補に予定されていました。高田町から十数`、東側の広田半島の高台に自宅があります。電気、電話も通じず、情報が途絶えるなか、地元の避難所で被災者の対応に没頭しました。
被災から1週間後、藤倉市議が伊勢さんを訪ねて来ました。同市の党組織は震災の翌日に前市長で党員の中里長門さんの自宅に救援センターを開き、ガソリンや食料・衣料を運び入れ被災者に届ける支援活動を開始したといいます。党員の安否も知らされました。災害の全体像さえわからないままだった伊勢さんは「こんなに大勢の人、一緒に活動してきた党員が犠牲になった。どうすればいいのか」とショックを受けました。翌日、山中の迂回(うかい)路をたどり中里宅に向かいました。「オー、生きていたか。大丈夫だったんだな」と中里さんから声をかけられました。その年の9月に実施された市議選で伊勢さんは当選しますが、それを知らないまま中里さんは8月16日に逝去しました。
無料の「青空市」
大震災から10日後の3月21日。党は、戸羽太市長を支援する「あたらしい陸前高田市をつくる市民の声」と協力して共同支援センターを立ち上げました。無料青空市を毎日開催し、軽トラックで市内を回り、全国から寄せられる食料、衣類、靴、食器などの支援物資を被災者に届けました。このとりくみは、人づてに広まり、支援と情報を求める多くの市民が集まりました。「あんた、大丈夫だったんだな」「よかった」―。こんな会話が青空市で交わされました。
全国の党組織は、ただちに救援活動に乗り出しました。44都道府県が分担して被災地の支援体制をつくりました。救援募金、救援ボランティアを募り、各地でトラックに支援物資を満載して被災地に駆けつけました。こうした全国の支援活動は陸前高田市の被災者と党を励ましました。
(つづく)
( 2016年03月10日,「赤旗」)
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被災地の共産党―5年間の軌跡/岩手・陸前高田市/中/ネットワーク再建、青年が奔走
綱領学び、支援活動にとりくむ
岩手県陸前高田市の党市委員会は、東日本大震災の翌月の4月には早くも「陸前高田民報」を発行しています。「未曽有の大震災に、政治的な立場をこえて力をあわせ、これまで培ってきた協働の力をいかしてこの困難を乗り越えていく」と、市と連携しながら全力をあげる党市災害対策本部の決意が書き込まれていました。
4月14日には、党災害対策本部が戸羽太市長を訪問し、被災者から聞き取った声を41項目の要望書にまとめ市長に手渡しました。
市役所は、4分の1の市職員が犠牲となり、被災した庁舎を給食センターに移して、残された職員が懸命に災害復旧にとりくんでいました。
わずかの時間を割いた市長の面談は、給食センターの駐車場でおこなわれました。不眠不休で職務に専念する戸羽市長は、必死の形相で要望書を受け取り、「ぜひ、こういう声を届けてほしい」と語ったといいます。
このとき要望した地元業者の事業再開のための補助金(50万円)は、7月から実施されることになり、約350件に適用されました。津波ですべてを失った人への補助金は、その金額以上の価値がありました。大工さんが仕事を再開するための電動のこぎりの購入にあてるなど、使途はさまざま。小さな町の互いによく知る間柄の地元自治体だからこそ、すぐに補助することができました。
社会変えるため
大震災から3カ月、党市議や党員たちが寝食を忘れて、救援活動に奔走している最中、一人の青年が入党しました。藤倉市議の次男、了介さん=当時30歳=です。
中学・高校時代の友人が何人も津波の犠牲になりました。「目の前で苦しんでいる人を放っておけない」。党の救援ボランティア活動に参加し、「党を大きくすることが社会を変えることになる」と、入党を決意しました。
了介さんは、被災者支援を続けながら、被災し壊された党のネットワークの再建を担うようになります。
母親の啓子さんは「了介が日刊紙の配達から帰ってくると1時間近くお風呂で党の本を読んでいるんです。活動が終わって夜、家でもよく本を読んでいた。こんなに勉強する子だとは思わなかった」と当時をふり返ります。
ボランティア活動で結びついた青年など3人を相次いで党に迎え、青年支部を再建しました。
青年支部は、綱領を学び、支援活動にとりくみました。
職場支部の党員は、「及川市議や中心的な党員が津波の犠牲になり、了介の存在は大きかった。希望です」と話します。
「先を見通す党」
現在、青年支部の支部長をしている千場光さん=仮名=は、了介さんと一緒に救援ボランティアに参加。4年前、了介さんに誘われて入党しました。「何よりも、早い被災地の復興が必要だ」と強く感じています。「共産党は、世の中をよくするという信念の党だ。民主連合政府や国民連合政府など国民と共同して政治を変えるという、先を見ているところがすごい」と話します。支部の綱領学習で感じたことです。
「まだまだ勉強不足。若い人を党に迎えたい」と話す千場さん。今、了介さんが読んでいたマルクスの本を借り挑戦しています。「仕事でくたくたになって、少しずつしか進まないんですけど」とはにかみます。
2年前に4人の青年党員が講師資格試験に挑戦し、合格しました。悩みは、仕事などで毎週の支部会議になかなかそろわないことです。
現在、4人の青年党員が「赤旗」日刊紙の配達に加わり、党と「赤旗」のネットワークの再建を支えています。
(つづく)
( 2016年03月12日,「赤旗」)
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被災地の共産党―5年間の軌跡/岩手・陸前高田市/下/住民の生の声を届けて
党の再建は「おらほの責任」
岩手県陸前高田市の党事務所の近くにプレハブ2階建て4棟の市役所があります。戸羽太市長は、前中里長門市政を受け継ぎ、震災の直前の市長選で市政を担いました。
3月初旬、このプレハブ庁舎で陸前高田市議会が開かれ、震災復旧・復興の課題が議論されていました。
3人の党市議の議会質問は、防災集団移転、仮設店舗、災害公営住宅、介護保険料の負担問題など住民の生の声を取り上げたものです。
津波で被災した県立高田病院の再建では、党が大きな力を発揮しました。地元と連携し、市田忠義参院議員が国会でとりあげ、被災した施設を同じ場所に同じ規模の復旧≠ニいう国の枠組みを打ち破りました。
独自の支援制度
市独自の被災者支援を次つぎと打ち出しました。住宅再建・生活再建の市の独自支援制度の創設もその一つです。津波で家屋を流失し、多くの親族を失った津田照子さん(63)は、家を再建し、仮設住宅から転居することができました。「この支援制度があったから家を建てられた」と話します。
藤倉泰治市議は、「中里市政以来、今に続く住民が主人公の支援活動だ」と胸を張ります。
昨年、被災者の医療費免除の継続を求めて住民が署名にとりくみ、市長に要望した結果、今年12月まで継続になりました。
被災者の代表が署名を提出したとき、戸羽市長は、住民自身が声をあげたことを喜び、満面の笑みで受け取りました。
仮設住宅で署名運動の代表者となった若鮎支部の吉田正さん(79)は、「震災後、3回入院した。仮設に入って衣食住ゼロからの出発だから非常に助かっている。地域の人の共産党の評価は高い」と話します。
5日夜、職場支部の支部会議が開かれました。昨年9月、3市議の再選を勝ち取った市議選前後から支部の活動を再開しました。昨年10月には、青年労働者を党に迎えました。
会議では、職場の状況や、2000万署名、党建設にどうとりくむかを話し合いました。
「震災前の水準に党員でも読者でも回復するというのがおらほの責任だ」。支部の2人の党員が津波の犠牲になりました。
「世代的継承しなければね。5年もすればおらほもいなくなる」「青年が生きいき活動できるようにしないといけないね」「あの青年はまじめで立派だ」―。これから入党を働きかける労働者についても話し合いました。
震災後の5年間で同市では、大坪涼子市議が住む仮設住宅で党の活動に共感して6人が入党するなど、36人の新入党員を迎えています。
震災直後、党員と党事務所が被災し、「赤旗」読者への配達が一時途絶えました。読者自身も被災し読者数は約5割まで減りました。救援活動を進めながら党事務所を再建し、1カ月後には読者ニュースを発行し、「赤旗」読者のネットワークづくりを開始しました。現在、読者のネットワークは、震災前の約7割にまで回復しています。
市委員会は昨年9月の市議選を機に、会議を定期的に開き、党の再建をどうするか、真剣な議論を続けてきました。
会議では、「支部が主役」の党活動になっていないことを重大な問題として直視しました。「きびしいことを言い合い、腹を割って話し合った」。会議で議論することで、誤りが正され、どうしていくかを意思統一することができました。
再建の方向は、週1回の支部会議を開くこと、支部を基礎に「赤旗」の配達・集金体制を築くこと、支部長会議を開いてその役割を果たせるようにすること―などです。
ようやく笑顔も
今年に入ってから、7割の支部が月1回以上の支部会議を開くようになり、「支部を主役」にした「赤旗」の配達・集金体制ができつつあります。
6日、米崎支部の党員たちが久しぶりに支部会議に集まりました。大坪、藤倉の両市議から市議会の様子を聞き、5野党合意や沖縄の新基地建設をめぐる情勢などについて討議しました。
党員の近況も交流した会議中、藤倉市議が「ようやく笑顔も出るようになった」と顔をほころばせました。
( 2016年03月13日,「赤旗」)
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東日本大震災・福島原発事故5年/志位和夫委員長が談話/被災者の生活再建に国が責任を
日本共産党の志位和夫委員長は11日、東日本大震災・福島原発事故から5年にあたり談話を発表しました。
談話は、被災者支援の打ち切り、縮小は絶対に許されないとして、被災者の生活と生業(なりわい)の再建に最後まで国が責任を果たすことを強く求めています。
原発再稼働を強引におし進める一方、除染と賠償の打ち切りなど「福島県民切り捨て」を露骨にすすめようとしていると安倍政権を批判。国と東京電力が責任をもってすべての被害者に支援することを強く要求しています。
そのうえで、国民の命と財産を守るために、5年間の真摯(しんし)な総括で国の責任を明らかにし、今後の教訓とすることが必要だと強調。大災害を憲法改定に利用する動きも厳しく批判しています。
(2016年03月20日,「赤旗」)
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東日本大震災5年/両親と祖母・姉亡くし伯母と暮らす辺見佳祐くん(12)宮城・石巻/さびしいけど、大丈夫
思い出つまった家から転居、小学校卒業…/二人三脚で一歩一歩、未来に
東日本大震災の津波で両親、姉、祖母を亡くした辺見佳祐(けいすけ)くん(12)=宮城県石巻市=。伯母の日野玲子さん(56)と一緒に暮らし始めて5年を迎えます。この春、佳祐くんは小学校を卒業し、新たな一歩を踏み出します。
藤川良太記者
記者が初めて佳祐くんに会ったのは震災から3カ月後でした。まだ、小学校2年生になったばかり。その後も節目ごとに佳祐くんに会いました。2年ぶりに再会した佳祐くんの身長は155aをこえ、日野さんの背を抜きました。そして初めて、震災直後の心情を明かしてくれました。
座布団をパンチ
5年前のあの日、佳祐くんは小学校の学童クラブにいました。父の正紀さん(当時42歳)は避難所だった小学校に佳祐くんをいったん確認しに来た後、自宅へ戻りました。
自宅には、母のみどりさん(当時49歳)、姉の佳奈ちゃん(当時10歳)、祖母がいました。家族全員が車に乗り込み、家を出たところで津波にのみ込まれました。
そして、小学校で待ち続けた佳祐くんを両親が迎えに来ることはありませんでした。
佳祐くんは仙台市で1人暮らしをしていた日野さんが、引き取ることになりました。日野さんは母・みどりさんの姉です。日野さんの実家でもある佳祐くんの自宅で、2人の生活が始まりました。
震災直後は、うつむいたり、何も言わずに目に涙を浮かべたりしたこともあった佳祐くん。姉が残した携帯ゲームソフトで繰り返し、繰り返し遊んでいました。
「独りぼっちになった。さびしい」
そんな気持ちは、時と場所を選ばず、佳祐くんを襲いました。浮かんでくるのは、火葬場で両親らをおくった時のことだったりしたと振り返ります。
「悲しくなったら、クッションとか座布団を、パンチした」と佳祐くん。
持っていき場のない思いと格闘していました。
「私も支えられ」
あれから5年―。
佳祐くんと日野さんの2人に転機が訪れました。
自宅近くにある河川の堤防工事のため、自宅を取り壊さざるをえなくなったのです。自宅から約4`内陸に一軒家を新築し、2人は昨年夏に引っ越しました。
日野さんは心配でした。家族の思い出の詰まった家を佳祐くんが離れなければならなくなるからです。小学校の友だちと別の中学校に通うことになるのも気がかりでした。
しかし、心配した日野さんに佳祐くんはこういいました。
「大丈夫だよ」
佳祐くんはそのときの思いを語ります。
「さびしい思いもあったけど、新しい友だちができるかなと思ったし、おばちゃんと一緒に楽しく過ごしたかったから」
堤防建設による立ち退きという現実を受け入れ、日野さんを思いやる佳祐くん。3月18日には小学校の卒業式があります。この5年間で、身長が伸びただけでなく、声変わりもしました。日野さんは最近、佳祐くんに頼もしさも感じるといいます。
「妹たちは、佳ちゃんの成長を見られなかった。小学校の卒業式も見たかっただろうに…」
佳祐くんを引き取り、初めて子育てを経験した日野さん。当初は、嫌われることを恐れ、佳祐くんのわがままに何も言えないでいました。いまではちゃんと、悪いことをすれば叱っています。
佳祐くんは最近、日野さんとケンカになった時、「クソばばあ」と言いました。でも、すぐに「おばちゃん言いすぎた。ごめんね」と謝りました。思春期を迎えた難しい年ごろになった佳祐くん。日野さんは、成長した佳祐くんを信頼し、本人の考えに任せることを増やしていこうと考えています。
佳祐くんを支えてきただけでなく、日野さん自身も佳祐くんに支えられてきた、と振り返ります。
「私も母(佳祐くんの祖母)と妹を亡くし家族がいなくなりました。佳ちゃんが何事もなく育ってくれて、本当に心強かった。佳ちゃんはよく頑張った。そんな佳ちゃんに、私も支えられた」
(2016年03月20日,「赤旗」)
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風の色/高橋真理子/星つむぎの村
「星を介して人と人をつなぐ」は、私の仕事のキーワードです。その想いをともにできる仲間たちと「星つむぎの村」という活動体を運営しています。
この名前は「星つむぎの歌」からとりました。「みんなで星を見上げ、その想いを言葉にし、それをつむいで歌をつくろう」と全国に呼びかけ、延べ2690名が関わり半年かけてつくりあげた歌です。歌手の平原綾香さんが歌っています。星を見上げるということが、これほどまでに人々に力を与え、互いに共感を生むものなのだ、と教えてくれた大きなプロジェクトでした。
その想いを受け継ぎ、なかなか本物の星空に触れることのできない方たちに移動プラネタリウムや音楽を携えて会いにいったり、星に関する情報を発信したりすることが主な活動です。この5年ほどは東日本大震災の被災地にも年に数回ずつ出向きました。ともに上を見上げることで、普段なかなか言えないことが言葉になることもあり、心の解放にもつながっていきます。見えない、聞こえないなどの障がいを持つ人たちとも、宇宙を知ることの素敵さを共有してきました。
「星と人をつなぐ」のは、現代の宇宙観を共有することが、生きるよりどころをつくるだろう、と思うから。そのことが、よりよく生きたいと願う人と人をつないでいくのだろう、と思っています。「星つむぎの村」の新しいサイトができました。ぜひ「村民」登録していただき、ともに見上げ、ともに幸せをつくっていく仲間になっていただければ幸いです。
(宙先案内人)
(2016年03月20日,「赤旗」)
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震災・原発事故5年で声明/支援策縮小、政府を批判/日本被団協
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)はこのほど、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から5年にあたり、政府と東電に被災者救援と復興に全力をあげるよう求める声明をだしました。
政府による支援策の縮小・打ち切りは「絶対にやってはなりません」と批判。被災者への健康管理手帳の交付、原子力発電に依存するエネルギー・電力政策の転換、原発事故の深刻さに学び核兵器を廃絶するなど、真に安全を守る政策への大転換に向け、「被爆者も力を尽くす」と表明しています。
( 2016年03月15日,「赤旗」)
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東日本大震災・原発事故5年/仮設住宅、民医連の調査/入居者の困難くっきり/宮城
38%が1人暮らし/「仕事ない」5割
宮城県では、東日本大震災から5年経つ現在も、プレハブ仮設住宅に2万人を超える被災者が暮らしています。宮城県民主医療機関連合会(民医連)が七ケ浜町、多賀城市、塩釜市で行った訪問調査の結果から、入居者が抱える困難や不安の一端が明らかになっています。
同調査は、プレハブ仮設住宅を昨年末に戸別訪問し150人から生活、健康状況や今後の見通しなどを聞いたものです。回答者は70歳以上の高齢者が53%を占め、全体の38%が1人暮らしでした。
転居先決まらず
仮設住宅後の住まいの予定について、全体の約20%が決まっていないと回答。自治体ごとにばらつきが大きく、塩釜市では半数近くがまだ決まっていないとしました。
仮設住宅を供与している12市町のうち5市町の被災者は、特段の理由がない限り、5年の入居期間満了時に仮設住宅を退去せざるを得ない状況です。仙台市では、仮設住宅からの転居先が決まらない被災者に対しても退去通知が出されています。
震災による自宅の被害について、全体の約80%が全壊と答えました。多賀城市では半壊が24%を占めており、半壊は災害公営住宅申し込みの対象外であることから、同市では災害公営住宅に申し込めないでいる被災者が相当いることが懸念されます。
仕事の有無については、震災時も現在も仕事がない人が最も多く約50%。震災時に仕事をしていて現在は仕事がない人が約20%でした。震災時に仕事がなかったが現在はあるとした人は全体で1人と、震災後に仕事に就くことの困難さが示されました。
仮設住宅で不便に感じることは、プライバシーが約40%、住居の寒暖の問題が25%、買い物の不便が約20%でした。
生活上で心配なことについて聞くと、仕事、収入、医療費、通院、買い物がそれぞれ20%前後で並び、仮設住宅の被災者の共通した不安であることがわかりました。
相談相手いない
質問項目以外にも、「耳が遠い高齢者や相談相手がいない高齢者など、災害公営住宅の入居手続きが大変そうな人もいる」「災害公営住宅に入ったあとの家賃が心配」という災害公営住宅への入居にかかわる問題や、「被災者医療費の免除は続けてほしい」「仮設から出て行ったあとの医療費と生活費の負担が大きい」という医療にかかわる問題など、さまざまな不安が寄せられました。
(2016年03月18日,「赤旗」)
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東日本大震災5年・原発事故5年/被災者いま言いたい/コメもう作れない
木幡仁さん(65)=福島県会津若松市=
大熊町では田んぼを5f耕してきた。もうコメ作りはできない。
年内には自分の家を建てる計画ですが、資材の高騰や人手不足などで遅れていて、メドはたっていません。
コメを作れないので収入は減りました。一方で、避難生活になって消費支出は増えている。そんな私らに消費税10%の増税は影響が大きいです。
これだけ苦しめられているのだから、原発の再稼働には絶対に反対です。
( 2016年03月18日,「赤旗」)
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命と尊厳守る/金田峰生参院兵庫選挙区候補/上/震災21年の神戸で、東北で/被災者に寄り添う
「兵庫から新しい日本をつくる」―。今夏の参院選兵庫選挙区(改選数3)に立候補する金田峰生さん(50)。大沢辰美さん以来12年ぶりの党議席獲得に全力で挑んでいます。
(安岡伸通)
「寒暖の差が激しいので体調に気をつけてください」と、借り上げ復興住宅に住む丹戸郁江さん(72)らの健康を気遣う金田さんの姿がありました。神戸市が借り上げ期限を理由に、兵庫区の借り上げ復興市営住宅の入居者に退去を求めて提訴した問題で、3月8日に訪問しました。
救援活動に全力
家屋全半壊(焼)が約47万世帯など大きな被害を出した阪神・淡路大震災(1995年1月17日)。金田さんは震災直後から、炊き出しや物資の輸送・配給に奔走。その後は、仮設住宅が集中する西区で党震災対策本部事務局長をつとめ、生活相談など救援活動に全力を挙げました。
今、借り上げ住宅で、震災で家を奪われた被災者が今度は政治によって家を追われようとしている理不尽さに金田さんは憤ります。「住宅は人権です。国民の権利を忘れた政治は、もはや政治ではありません」
「病気で買い物に行くのも大変」「父の介護がある」など、それぞれ転居できない事情があります。丹戸さんは「金田さんは私たちの立場に立ってくれる。国会でも取り上げてほしい。頼りにしています」と期待を寄せます。
東日本大震災の被災地からも応援の声が届いています。福島県郡山市の支援センターの大橋利明さん(66)もその一人です。
金田さんは兵庫のボランティア隊の責任者として福島の被災者の支援を続けてきました。福島に11回赴き、自ら支援物資を積んだ2dトラックを運転していくこともありました。
大橋さんが金田さんと初めて会ったのは2012年3月末。金田さんがいう「住宅は人権」の意味がわからなかったといいます。しかし、月日がたつにつれ、生活の基盤として住宅がどれほど大切かを実感しました。
「阪神・淡路大震災を経験している金田さんだからいえる。誠実な人柄と、阪神でも東北でも被災者に寄り添う金田さんこそ、国会に行くべき人だ」とエールを送ります。
悲劇は繰り返す
「命と尊厳を大切にする社会」を掲げる金田さんの政治の原点は大学時代にあります。
運転手の過労から、日本福祉大学の友人を含む25人が亡くなった「犀川(さいがわ=長野市)バス転落事故」があり、「理不尽に若い命を奪われた友人の分も生きるために、命より儲(もう)けを優先する社会を変えるために生きよう」と誓って日本共産党に入党しました。
しかし、いまだ悲劇は繰り返されています。今年1月15日、長野県軽井沢町で大学生13人を含む15人が死亡するスキーツアーバス事故がありました。
またか、という思いでニュースを見たと金田さん。「05年はJR福知山線脱線事故がありました。犀川事故と同じ年の夏に日航機墜落事故。今も昔も根底には、企業の儲けを優先し、命を軽んじる政治があります」
「最も命と尊厳を粗末に扱うのが戦争。戦争法は何としても廃止しなければなりません」と奮闘しています。(つづく)
(2016年03月18日,「赤旗」)
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東日本大震災・原発事故5年/被災者いま言いたい/前向きに頑張ろう
もっと支援をと話す平山美帆さん(42)=福島県新地町=
南相馬市の借家に家族3人で住んでいました。「緊急時避難準備区域」とされました。2011年9月に解除となり、12年8月までで精神的賠償(1人月10万円)は打ち切られました。精神的にまいった時期もあるけれど、自力でやるしかない、前向きに頑張ろうと思っています。でも、「自主避難者」にもっと支援してほしい。被災者への医療費免除措置は続いています。「ここぐらいはやってよ」という思いです。消費税10%の影響も深刻ですよね。
迷っていたけど、戻ることをあきらめ、別の町に住居を建築中です。原発再稼働は絶対反対です。人の制御のきかないもの、放射性廃棄物をきちんと処理できないようなものを動かしてはだめです。
( 2016年03月17日,「赤旗」)
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大震災5年300人調査から/被災者の願い/1/住まいの再建/仮設住宅出たいけど…
東日本大震災から5年。本紙の被災者300人実態調査では、いっそう苦境に追い込まれた状況が鮮明になりました。実態調査で寄せられた復興と生活再建への願いは―。
(東日本大震災取材班)
家を失った被災者にとって、仮設住宅から、再建した自宅や災害公営住宅に移ることは、避難生活から脱却するうえで重要なステップです。
見通しなし半数
しかし、仮設住宅を出られる展望が「半年以内」29%、「1年以内」22%で合わせて51%。残り49%はそれよりかかると回答し、「わからない・めどが立たない」と答えた人が33%に上ります。
福島県内では、1年以内に仮設住宅をでる展望をもてない人が63%、「わからない、めどが立たない」が45%を占め、東京電力福島第1原発事故の影響の深刻さを示しています。
仮設を出るのに時間がかかる理由を尋ねると(複数回答)、トップは「その他」75人。福島県内で「その他」が多いのですが、放射能汚染の影響と考えられます。
福島県楢葉(ならは)町からいわき市の仮設住宅に避難している67歳の女性は、「10年前に亡くなった娘の墓が故郷にあるので帰りたい気持ちはあるが、放射能が心配なので戻る展望はほとんどない」と語っています。
次いで「災害公営住宅建設の遅れ」42人、「土地造成の遅れ」35人、「建設資材・人手不足」22人となっています。
岩手県宮古市の仮設住宅に住む山根貴子さん(46)は、「自宅再建の予定が昨年8月だったのに、延び延びになっている。大工さんの人手の問題」と嘆きます。
老朽化の対策を
多くの仮設住宅が、建設から4年以上たちます。仮設住宅の本来の入居期間は約2年間とされており、老朽化も進んでいます。
多いのは「床がミシミシする」という声です。「基礎部分が木造で簡単な造りだから」と住民は半ばあきらめています。
「2月になって雨漏りがあり、市に連絡して直してもらいました。こんなことは初めて」というのは、石巻市の仮設住宅に住む会社役員の女性(58)です。
「結露が多く、カビがすごい」という声もあります。宮古市の仮設で暮らす40代の女性は、「母のせきが止まらない。病院で仮設のカビによるアレルギーといわれた」と訴えました。
老朽化が「起きている」と回答した人は44%で、昨年の55%よりは改善しています。
各自治体による不具合の点検・修理が一定行われていること、仮設住宅から移る予定が決まっている人の場合、「多少の不具合は我慢する傾向」も指摘されています。
今後1年以上暮らす被災者も少なくないことから、仮設住宅の老朽化対策がいっそう求められます。
(つづく)
( 2016年03月12日,「赤旗」)
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大震災5年300人調査から/被災者の願い/2/健康と医療/免除継続・再開は切実
「被災した時は『がんばらねば』と必死になっていたと思う。3年目ころから、疲れが出てきた。この前は顔に炎症が起きて、手術を受けたの」
治療痕を見せながら語るのは、岩手県宮古市田老の仮設住宅で暮らす女性(57)=水産加工会社勤務=です。
生活と住宅の再建が長引くもとで、体調の悪化を自覚する被災者が少なくありません。
また、自宅の建設費用や引っ越し費用など多額の出費を予定する被災者が多くいます。
出費はこれから
こうした中、医療費の窓口負担などの免除措置の継続・再開を望む声が圧倒的です。
アンケートで「必要なので継続・再開してほしい」が92%を占めました。
免除措置は、国民健康保険(国保)加入者が診療や介護保険を受けるときの窓口負担や介護保険の利用料を免除する被災者支援のひとつです。
アンケートでは、国保に加入していない被災者からも「継続・再開してほしい」と、免除措置を支持する声が寄せられました。
冒頭の女性は「私は国保ではないから、免除されてないけど。災害公営住宅に入るお年寄りも多い。これからお金もかかってくるのでサポートが必要」といいます。
免除費用は震災直後、国の全額負担でした。しかし2012年10月から国の負担は8割に。
岩手では県と自治体が負担することで継続し、今年12月末まで行われることになっています。
仮設で健康悪化
宮城では、一度は打ち切られましたが、国保加入者で所得が低い人などに対象を限って14年4月から再開しました。しかし、国の支援継続が不透明なうえ、県が財政負担をしないため、今年度で免除を打ち切る予定の自治体も出ています。福島では、原発事故の避難区域などで免除措置を行っています。
アンケートに答えた宮城県石巻市の今野八重子さん(83)は病院に月2回通院し、週1回ヘルパーの訪問を受けています。
「免除は必要なので継続してほしい。助かっています。妹が住む岩手県は免除を全県で続けているんですね。岩手はいいなと思います」と語ります。
岩手県山田町の災害公営住宅に暮らす女性(85)は、隣の大槌町の病院に通院しています。「バスでは不便なので、タクシーで行くのに3000円もかかる。病院代がかからないのが救い」といいます。
宮城県気仙沼市の年金生活の女性(66)は訴えます。
「仮設で長く暮らしている間に高血圧や腰痛になった。仮設で健康を悪くした被災者は多い。だから免除はもっと対象を広げてほしい」
(つづく)
( 2016年03月13日,「赤旗」)
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大震災5年300人調査から/被災者の願い/3/災害公営住宅/つながり集まって
被災地では、自力での自宅再建が困難な人や高齢者などのために災害公営住宅の建設がすすみ、順次入居が始まっています。今回は災害公営住宅でも実態調査をしました。
「困っていること、不安なこと」で一番多かったのは「近所づきあいが疎遠になった」ことでした。
災害公営住宅では、仮設住宅や震災前に暮らしていた地域でのつながりがバラバラになる場合がほとんどです。
宮城県石巻市の災害公営住宅に昨年4月から入居している清川たちよさん(82)は、「近所付き合いがあまりなくなりました。仮設住宅にいるときは、近所に若い人もいて、いろいろやってもらいました。雪が降ったときの雪かきもしてもらいましたが、ここでは自分でしなくてはいけない」と話します。
1995年に起きた阪神・淡路大震災のときも、誰にもみとられずに亡くなる「孤独死」は、災害公営住宅に入居してから急増しました。
災害公営住宅では、住民の孤立を防ぐ努力が始まっています。
「お茶っこ」開く
岩手県山田町のある災害公営住宅では、毎週月曜の午前中に、集会所で「お茶っこ」(お茶を飲みながらのおしゃべり会)を開いていました。
この住宅で暮らす鈴木康子さん(67)は、「このお茶っこにも初めは来なかったけど、誘われて来てみてよかった」と話し、別の78歳の女性も「ここでお茶っこをするのが一番の楽しみ」と笑顔を見せました。
家賃・交通の便
「困っていること、不安なこと」の2番目は「家賃」の問題でした。少ない年金が頼りなど経済的に苦しい人にとって家賃負担は重く、次第に引き上げられる家賃に不安を募らせる人が少なくありません。
「困っていること、不安なこと」の3番目は「交通の便が悪い」ことです。
前出の清川さんは、「仮設住宅にいたときよりも買い物が遠くなりました。車に乗せてくれる人がいればいいけど、そういう人がいない私のようなものにとって交通は不便」と話しました。
「災害公営住宅に移っても車がないので足に困る。バスを増やすか、コンビニかスーパーを近くにつくってほしい」と話す61歳の男性(石巻市の仮設住宅)もいました。
災害公営住宅に限らず、自動車の運転ができない高齢者などにとって、移動手段の確保は重要な課題になっています。
(つづく)
( 2016年03月14日,「赤旗」)
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大震災5年300人調査から/被災者の願い/4/雇用と生業/再建困難浮き彫りに
「運送業をしていたが、津波でトラックも事務所も自宅も全て流された。なんとか再建したかったが、資金難のうえに体をこわしてあきらめた」。宮城県石巻市の仮設住宅に暮らす男性(63)は、無念そうに語りました。
被災者が立ち上がる基盤となるのが雇用と生業(なりわい)の再建です。しかし、震災から5年をへて、さらに厳しい状況になっていることが被災者300人実態調査でも浮き彫りになりました。
農業、漁業、自営業などだった人に再建状況をたずねると「めどがたたない」(72%)、「あまりすすんでいない」(7%)で計79%に。同様の質問では、「めどがたたない」「すすんでいない」という回答が震災1年時から7割以上のままで、生業再建の困難さを物語っています。
再建途上にある自営業者も、仮設店舗から本店舗に移る時期をむかえて岐路に立たされています。
店舗再建白紙に
岩手県宮古市の仮設商店街で菓子店を夫と営む田中和氣子さん(59)は、「本店舗再建を昨年10月に着工して今年3月に完成予定で進めていましたが、資材価格の高騰で、いったん建設を白紙に戻しました。売り上げも震災前と比べて大幅に減ってしまっています」と話します。
東京電力福島第1原発事故の被害に苦しむ福島県では、再建困難と答えた人は89%にのぼり、さらに深刻です。
福島県大熊町から会津若松市の仮設住宅に避難している渡部ヒサ子さん(71)は、こう訴えます。「8町歩(約8f)の田んぼを耕作していましたが、農業が再建できるめどはたちません。国と東電は古里に戻れるまで賠償に責任をもってほしい」
震災前に給与所得者だった人に「現在、仕事についていますか」とたずねたところ、「(震災前と)同じ仕事」が17%、「転職」が21%で就労している人は41%と半分以下。一方、失業中は29%にのぼります。
福島県浪江町出身で福島市の仮設住宅で生活する高野優太さん(21)は、「震災前は水産加工の会社に勤めていましたが、今は失業しています。子どもが生まれたので、家計は苦しくなっています」と話しました。
転職で給料減り
夫が働いていた水産加工会社が津波で流され倒産したという宮城県女川町の女性(44)も、苦しい胸のうちを語りました。「夫は、やっと転職できたけど、給料は大幅に減り、家計は本当に厳しくなっています。子どものことを考えて自宅を再建したいのですが、消費税も上げられそうだし、先のことを考えるとつらい気持ちになってしまいます」
(つづく)
( 2016年03月16日,「赤旗」)
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大震災5年300人調査から/被災者の願い/5/福島原発事故/戻りたい、戻れない…
「安倍政権は原発を再稼働しようとしていますが、どう思いますか」。反対74%で、賛成はわずか5%です。「原発ゼロ」の民意ははっきりしています。
再稼働反対次々
福島県伊達市内の仮設住宅に飯舘村から避難している安斎徹さん(68)。「原発事故直後、屋内退避をさせられている間に実態を知らされることなく、相当被ばくさせられたと思う。原発事故の真相を隠し再稼働するのは反対。暴走する安倍首相を阻止するために野党は共闘して頑張ってほしい」
「福島第2原発も廃炉に決めてほしい」というのは、同県楢葉町からいわき市の仮設住宅に避難する女性(76)。「(避難指示が解除され)町には戻れることになったが、戻っても水を口に含めるのか不安だし、畑ができるのか心配です」
いわき市の仮設住宅に避難する立花静子さん(68)は「安倍首相は『原発は大丈夫』というが、また事故があったときでは遅い。誰が責任をとるのか。これだけの事故を起こしながら再稼働なんて信じられない」と語りました。
東北電力女川原発に近い宮城県石巻市の仮設団地に暮らす女性(58)はいいます。「原発再稼働には反対です。福島の原発事故で身にしみました」
石巻市内の別の仮設団地の男性(66)は「廃棄物の処分もできないものを進めるのはいかがなものか。いったん事故を起こしたらとんでもないものだから『想定外』なんていっていてはだめ」と話しました。
「あきらめ」最多
福島の被災者に聞いた「原発事故前に住んでいた地域に戻る展望はありますか」。「展望はない・戻ることはあきらめた」が最多で53%。「展望はあまりない」も19%で計72%にものぼりました。
福島市の仮設住宅に避難する吉田耕作さん(75)=浪江町=は「1、2カ月で帰れるつもりで急いでサンダルで避難した。そしたらもう5年もずっとここにいる。もう戻ることはあきらめた」と話しました。「帰還困難区域」に自宅があり、「再稼働は絶対だめ」という福島市の仮設住宅に避難する女性(84)=浪江町=。「帰るのはあきらめた。いま息子夫婦と別々に暮らしていて孫にも会えない」
原発事故の被害者の困難は深刻です。戻りたい、戻れない、戻らない、被災者一人ひとりに事情があります。
福島県伊達郡桑折町の仮設住宅内に置かれた縁台に座っていた男性(77)は「毎日ここでたばこをふかしているだけ。南相馬市で農業をしていた。新しい母屋もあった。今その家はすべてサルやイノシシ、ネズミにとられてしまった。生業(なりわい)の再建が進まず、やる気力がでない。国や東電は口だけで『復興』といっていてもだめだ」と怒りをあらわにしました。
(つづく)
( 2016年03月17日,「赤旗」)
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大震災5年300人調査から/被災者の願い/6/冷たい政治に怒り/私たち置いてきぼり
300人実態調査で被災者を訪ね歩いて実感するのは、政治に対する怒りが調査の回を重ねるたびに語気鋭くなっていることです。
「安倍さんは悪いなあ。自分たちのことしか考えてないんじゃないのか」というのは岩手県宮古市の仮設住宅で暮らす若山壽雄(としお)さん(66)。「消費税は8%でもゆるくない。家計が苦しくて、貯蓄を取り崩しているんだ」
増税が追い打ち
7割の被災者が家計が震災前より苦しくなったと訴える状況。消費税増税は「2品食べられていたおかずが1品に」(同県釜石の災害公営住宅の女性=75=)と追い打ちをかけます。「被災者は、自宅再建や家具購入で消費税を逃れられない」(宮城県気仙沼市の女性=66=)という声が相次ぎ、9割もが被災者の暮らしに影響があると答えました。
安倍首相が売り物にする経済政策「アベノミクス」も、被災地の復興に役立っているかを問うと、7割が「思わない」と回答。「思う」はわずか5%でした。
福島市の仮設住宅で避難生活をおくる金沢一喜さん(78)は「アベノミクスで富裕層がもうけて、私たちは置いてきぼり。被災者を無視したやり方に怒りを感じています」と語ります。同市の建設業手伝いの女性(49)も「美辞麗句を並べたてて、私たちと向き合いたくないだけでしょう」と憤ります。
一方、被災者の生活再建に力を注ぐ日本共産党への期待や激励の言葉が取材先で寄せられました。
宮城県石巻市の仮設住宅で暮らす今野八重子さん(83)は「共産党の人はみんな親切。被災直後の大変なときから支援してくれた」と振り返ります。
今回の実態調査では、避難生活が長期化するなか、被災者の苦境がいっそう深まっていることが浮かび上がりました。ところが安倍政権は、被災者への支援策を次々と後退させようとしています。
公的支援が必要
日本共産党が求めている被災者生活再建支援金の上限300万円から500万円への引き上げなど、「再建するまで必要な公的支援を実施してほしいですか」と問うと、「大いに思う」66%、「少し思う」18%で、計84%に上りました。
同県南三陸町でカキ、ワカメの養殖と自宅の再建をめざす漁師の男性(66)は、こう力を込めて訴えました。「おれたちは復興に向けて、これ以上できないと思うほど必死でがんばってきたつもりだ。町も一生懸命やってくれている。でも東日本大震災の被害はあまりにも大きい。被災者が立ち上がれるところまで国に応援してもらいたい」
(おわり)
(東日本大震災取材班)
( 2016年03月18日,「赤旗」)
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東日本大震災5年/住まい難民¥oすな/紙氏が強調/参院予算委
日本共産党の穀田恵二国対委員長は16日、国会内で会見し、野党5党が戦争法廃止法案を国会提出(2月19日)してから1カ月近く審議が行われていない状況について問われ、「本当にけしからん」と与党を厳しく批判するとともに、審議入りのため全力を尽くす決意を表明しました。
穀田氏は、「野党が提出した法案を与党の妨害をはねのけて審議に持ち込むのはなかなか難しい」としつつ、実現のためには次の3点が重要だと強調しました。
第1は、国会内で野党5党が結束して与党に対する働きかけを強めること、第2は、南スーダンPKO(国連平和維持活動)での自衛隊の任務拡大など戦争法の現実の危険を国会論戦でひきつづき明らかにすること、第3は、戦争法廃止法案の提出自体が国民の後押しを受けて実現したものであり、さらにこれを強めることだと指摘。「私たちは以上の点でこれまでも一貫して努力してきたが、さらに努力して打開したい」と述べました。
( 2016年03月17日,「赤旗」)
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いま言いたい/金子謹吾さん(86)名古屋市/元特攻隊員の思い/野党共闘で勝利を
安倍さんが首相になって、戦争につながる安保関連法案を通し、はらわたが煮えくりかえる思いになりました。
ほかに適当な政党がないと、ずっと自民党を支持してきたのですがやめました。教え子の自民党県議には、年賀状で「君は支持するが自民党は支持しない」と書きましたよ。
高校生に初講演
そんなとき、以前教べんをとっていた東邦高校の生徒会から、戦中の体験を話すよう呼ばれました。今年から18歳選挙権が始まりますし、生徒が勉強し考えた上で投票してほしいと思って引き受けました。
私は特攻隊員として終戦を迎えましたので、軍隊のひどさや、戦争が悲劇的でまったく無謀なことだと知っていますから。でも、家族以外には特攻隊の話をしたことはありませんでした。私は、海軍の横須賀第十一特別攻撃隊に配属されたのですが、出撃命令も出ずに終戦を迎え、「恵まれた特攻隊員」だったのです。ほかの方の悲劇的な体験を見聞きしてきたので、ちょっと引け目もありました。
私は中3の途中から、町役場の説得もあり、海軍甲種飛行予科練習生(予科練)に行くことになりました。見送られるとき、父が「こんな小さな子が死にに行くとは」と初めて涙を見せました。
恵まれたと言いましたが、ここでの生活はつらかった。優しい上官もいたのですが、厳しい人は、何かあれば全体責任だと軍人精神注入棒という野球のバットを大きくしたようなもので尻をたたいたり、あごを拳で殴ったりしました。
中には耐えられなくなってトイレで首つり自殺した練習生もいました。
特攻隊に配属となり、外が見えない鉄道に乗せられました。着いた先は山口県大竹町(現在は市)の潜水学校でした。
乗ることになったのは特殊潜航艇「海龍」です。2人乗りで1人は潜望鏡を見て、私は操縦かんを握りました。飛行機のように翼をつけた潜航艇です。魚雷を2発装備し、先端に600`の爆薬を詰めて、魚雷発射後は敵艦に特攻攻撃します。
50回ほど乗って訓練しました。物資が不足していて、私が出撃する艇はできずに、本土決戦用兵器ということもあって、そのまま終戦となりました。
反戦の党選んで
先日、名東区の朝市前で戦争法廃止の署名をやっていたので書いてきました。野党5党が選挙協力で合意したことも聞きました。参院選で野党が連合して自公を上回ろうとしているのは結構なことです。ぜひ勝利してほしいと思っています。
そのために共産党はもっと活発に活動してほしい。市民には旧ソ連のイメージから、極端な感情を持っている人もいますが、言っていることは正しいと思います。平和を希求する反戦の党を選んでほしいですね。
(聞き手 今村一路)
(2016年03月12日,「赤旗」)
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東日本大震災5年/災害公営住宅、笑顔広がった/炊き出しと相談会/宮城・石巻
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ぺったん、ぺったん―。きねと臼での餅つきが始まると災害公営住宅の住民に笑顔が広がります。仮設住宅などから転居した被災者を励まそうと宮城災対連・東日本大震災共同支援センターは27日、宮城県石巻市の新立野第1復興住宅の集会所前で「炊き出し&なんでも相談会」を催しました。
近隣の災害公営住宅から約250人が訪れ、つきたての餅や温かい豚汁などを楽しみました。農民連の協力でおコメや野菜も配られました。
会場では、久しぶりに会えて喜び合う姿が目立ちました。おいしそうに餅をほおばっていた木村光一さん(72)は「仮設のとき以上に団地では近所付き合いが少なくなった。一人暮らしなので、にぎやかなのはうれしい」と話します。
弁護士や医師の協力を得て法律や健康の相談会も開催。住まいの問題などで相談が相次ぎました。戦争法廃止の2000万署名も呼びかけられました。
宮城災対連が震災後に仮設住宅などで行ってきた「炊き出し&なんでも相談会」は今回で42回目。鈴木新代表(宮城一般労組委員長)は「被災者の出会いの場もつくれるこの催しを3、4月も計画しています。私たち自身も元気になれる取り組みを引き続きやっていきたい」と語りました。
( 2016年02月28日,「赤旗」)
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東日本大震災5年/被災3県議団長語る/1/岩手・斉藤信さん/復興が二極化、生業で苦闘
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東日本大震災と福島第1原発から間もなく5年になりますが、いまだに17万人以上が避難生活を余儀なくされ、震災関連死も後を絶ちません。特に被害の大きかった岩手、宮城、福島3県の斉藤信、遠藤いく子、神山悦子・日本共産党県議団長に、現状と課題を聞きました。
(4回で掲載します)
岩手県の被災者は今も応急仮設住宅に1万7000人、みなし仮設住宅を含めると2万2000人おり、ピーク時の約50%が仮設暮らしから抜け出せない状況です。一方で、約1万4000人が住居を確保したことになり、被災者の二極化が進んでいます。
支援も情報も
在宅被災者の生活は深刻です。簡易的な補修で住み続けている人や、親類のお宅に身を寄せている人など県で約1万5000人いるとされていますが、実態が十分把握できず、支援も情報も届いていない。被災者は一人ひとり状況が違い、それに応じた支援を強めていくことが必要です。
県北と県南でも復興状況に差があります。県北は公営住宅もほぼできており、自立再建も進んでいます。しかし大槌町や山田町や陸前高田市など県南では、半分以上の人たちが仮設に取り残されているという、地域的な二極化が起きています。
災害公営住宅は今年度末までに計画の58%(3334戸)が整備される予定で、来年度までには約88%が整備されます。
一方で、土地のかさ上げによる中心部の区画整理事業は遅れています。宅地造成が遅れているため、自立再建の進ちょくは6割弱。4割以上の人が、家を建てたくても建てられない状況です。商店街の人たちも店を再建できない。ここに復興事業の最も大きな遅れがあります。待ち切れずに、バス路線もない不便な土地に無理に家を建てる人もいます。
販路も漁獲も
生業(なりわい)の再生も重要です。岩手県は基幹産業である水産加工業にグループ補助を優先してあて、8割程度は再建できました。しかし再建まで1年経過していたので、販路が断たれてしまいました。
もうひとつの問題は魚が獲れないことです。この1年、サケもサンマも漁獲量が半分に落ち、価格が高騰しています。再建して新しく導入した水産加工の機械も、例えば釜石市では6割程度しか稼働していません。
従業員不足も深刻です。販路も原材料も人も確保できない三重苦に直面しています。
生業再生のもう一つの焦点は商店街の再生です。被災地では仮設店舗が大きな役割を果たし、多くの商店が再建できました。しかし5年たち本設展開の時期になってきたのに、土地がまだ造成されていない。さらに資金問題もあります。
テナントで被災した事業者は大家が再建にのりださなくては再建できません。設備以外はグループ補助金の対象にもならない。大家への支援やテナント業者への家賃補助などが必要です。釜石市や陸前高田市などの自治体では具体的な支援の動きが出ていますが、国も県もしっかり対応すべきです。
復興は被災者の生活再建と生業の再生の両面で正念場をむかえています。被災者の孤立やテナント業者の再建など、新しい課題にも機敏に対応できる復興の取り組みが求められています。
( 2016年02月28日,「赤旗」)
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東日本大震災5年/被災3県議団長語る/2/宮城・遠藤いく子さん/県が役割放棄、医療がピンチ
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宮城県の被災者の応急仮設住宅入居戸数は現在、ピーク時の42・9%。ただし、プレハブ仮設でみると51・5%と、半分以上の2万3763人が入居しています。災害公営住宅の整備が遅れているところと、プレハブ仮設住宅にいる人が多いところは、ほぼ相関していると思います。1万5918戸建てる計画の災害公営住宅は完了しているのが49・9%です。
仮設住宅の供与期間が6年に延長された市町と、5年までという市町があります。
5市町終了へ
仙台市などの5市町では、5年になる今年の4〜6月に仮設住宅の供与が基本的に終わります。残れるのは「特定延長」といって、再建先が決まっていてその建設が間に合わないという人だけで、「再建方法が決まらない人は出ていって」という、おかしなことになっています。県に被災者の住むところが追われるようなことはするな、と力を込めて主張しています。
仮設住宅にいるのに災害公営住宅の「入居資格がない人」はどうするかという問題もあります。
1月末に行った党県議団の政府交渉の中では、「実際に困っている人は切り捨ててはならない」との回答は得ていますが、市町によっては、税金を滞納しているから資格がない、というところもあります。
生活が大変で税金を払えないという人が、災害公営にも入れないとなると、行くところがありません。
コミュニティーづくりに関しては、災害公営住宅の支援員は巡回型です。プレハブ仮設のように常駐しての支援がないのも課題です。
財政負担せず
石巻市のプレハブ仮設住宅の調査では、半分以上の世帯で収入が減る一方で支出が増え、暮らしが苦しいという結果がでています。県のプレハブ仮設での調査では主婦や学生を含まない無職が40代で14・3%、50代で15・6%もいました。
防災集団移転の土地売却益が収入にみなされ、介護保険で補助が受けられる「補足給付」対象から外された人が出ていた問題は、ようやく改善の方向に踏み出したそうです。
宮城県は苦しい被災者の生活を助ける役割を放棄しています。国保医療費の免除について被災3県で宮城県だけが財政負担をしていません。市町村の努力で対象を限定して何とか今年度は行いましたが限界があり、来年度は継続する自治体と、しない自治体に分かれてしまいました。
災害公営住宅についても、当初、県は1000戸建てるといっていた計画をほごにし、全て市町村に任せて、県営としては1戸も建てていません。被災者への住宅の自立再建への支援もゼロです。
「創造的復興」の名のもとで結局、被災者支援でなく、大型開発中心の「復興」を進めています。
その中でも東松島市が防災集団移転の移転先の土地を30年間無償貸与することを国が認め、他の自治体でも同様の取り組みが広がっています。被災者支援の声をあげ続けることが大切だと思います。
( 2016年02月29日,「赤旗」)
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東日本大震災5年/被災3県議団長語る/3/福島・神山悦子さん/関連死2000人超、深刻な原発被害
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昨年12月で福島県の避難者が10万人を切ったということがニュースになりました。しかし、5年になるのに、なお約10万もの人が避難を余儀なくされているという原発事故の重みをかみしめる必要があります。(県内避難5万5463人=2月8日現在、県外避難4万3270人=1月14日現在)
災害関連死は2016人と2千人を超えました。津波などによる直接死1604人を大きく超える数です。
切り捨ての施策
その中で、国と東京電力が進めようとしているのが県民切り捨ての施策です。
政府は2017年3月までに帰還困難区域以外の地域の避難指示を一律解除し、それに伴い賠償も打ち切る方向を示しています。東電は避難区域外の営業損害については、7月分まで合意すれば、直近の年間逸失利益の2倍相当を払うとしていましたが、将来分は出せないと値切りにかかってきました。いま、それを許さない運動の真っ最中です。農業損害賠償は避難区域も区域外も今年12月以降の指針はなく、打ち切りが懸念されます。
賠償が早期に打ち切られた地域の経済苦は深刻です。1月、川内村の自治会長さんらと東電交渉を行ったのですが、会長さんは「震災前まで年金だけで生活してこられたのは、自分の食べる分の野菜を作り、山菜を取り、自給自足的な暮らしだったからで、放射能で自然が破壊され、今は何でも買わなくてはいけない。とても暮らしていけない。せめて生活費の支援を」と話していました。
除染について、環境省は昨年12月に森林全体を対象としては行わない方針を出しましたが、県民の要望もあり「里山」については行う方向に見直しが始まっています。
避難解除には、ライフラインや医療機関、商業施設、生業(なりわい)の再建などとのリンクが必要です。地域により実情は異なるのに、一律解除はおかしい。
全町民避難自治体で最初の解除が15年9月の楢葉町だったのですが、事故前の人口8000人に対して町に戻ったのは440人くらい、わずか5%程度です。
政府指示によらない自主避難者≠ヨの住宅無償提供が17年3月で終わりとなり、県は独自予算で低所得者(母子避難者など二重生活世帯への収入要件緩和有り)を対象に2年間の家賃の一部を補助します。
避難者置き去り
被災者支援が縮小されるなかで、国と県が打ち出しているのが福島県浜通りに、ロボット開発拠点などを建設する福島・国際産業都市(イノベーション・コースト)構想です。避難者を置き去りにして、大企業だけに恩恵があるものになるのではないか、今後のチェックが必要です。
福島第1原発の事故収束、県内原発全基廃炉、完全賠償、除染の徹底、県民の健康対策など「オール福島」の願いを前に進めるために奮闘したいと思います。
( 2016年03月01日,「赤旗」)
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東日本大震災5年/被災3県議団長語る/4/座談会
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500万円へ支援金増は急務・斉藤/交流つくる柔軟な施策を・遠藤/復興へ安倍悪政転換必要・神山
岩手、宮城、福島の斉藤信、遠藤いく子、神山悦子3県議団長に話し合ってもらいました。
斉藤 住まいの問題でいうと、住宅再建が進まない大きな理由が建設費の高騰です。2014年4月の消費税8%増税もダメージになっています。震災前から坪単価が20万円上がって、70万円以上となっています。30坪の家なら600万円くらいの負担増です。国が住宅再建の支援金を300万円から、せめて500万円に引き上げるのは急務です。
遠藤 宮城県の災害公営住宅の行政コストは1戸あたりにすると約1800万円。自宅再建が被災者にとってベストだし、コスト面でも重要です。国の支援金が500万円になれば「よし、自分で頑張って建てよう」ということにもなると思います。
神山 長年の自民党政治が「個人の財産形成になるようなことはできない」という施策を続けてきましたが、阪神・淡路大震災以降、住民の運動でそれを変えさせてきたわけで、さらなる前進が必要ですね。
遠藤 1月下旬の宮城県地方議員の政府交渉で一般のアパートなどに入居している「みなし仮設住宅」を、そのまま「みなし災害公営住宅」としての扱いに移行させることは可能だという回答を得ました。コミュニティーの維持という点で柔軟な住宅選択が大切ですね。
斉藤 災害公営住宅に移った後のコミュニティーをどう作るかは課題ですね。陸前高田の自治会長さんがいっていましたが120戸を超える入居者の20人くらいしか知らないとのことでした。集会所はあるが、肝心なのは支援員の配置です。巡回型でなく常駐する支援員を配置しないと、孤独死が増えていくのではないか。
神山 福島の場合は避難地域とそれ以外の人で賠償や、行政施策に格差があります。両者が同一地域で暮らしているので、住民や避難者同士のあつれきもあり、多様な原子力災害特有の問題があります。
遠藤 津波で被災し内陸の仮設で暮らしている人から相談を受けました。上の子が学校になじめず、朝4時におきて友人のいる沿岸部の学校に送り迎えしている。夫の仕事の関係もあり沿岸部で自宅再建する方向だが、下の子はPTSD(心的外傷後ストレス障害)がひどく、海が見たくないという。震災から5年たちますが、こうした問題を抱えてみんな必死で生きている。住まいと日常を取り戻す生活の再建こそ復興の柱だと思う。
斉藤 なぜ復興が遅れているか。「千年に一度の災害」といいながら、復興予算の遅れ、縦割り行政、使い勝手の悪い交付金など、従来の枠組みでの対応となりました。そして5年たったから集中復興期間は終わり、財源も被災地の一部負担ということで、被害の大きい市町村ほど重い負担となるシステムを持ち込むとはもってのほかです。被害の大きい自治体では被災者支援のためやりたい施策はあるが、財源の不安から二の足を踏むというものが、まだ多くあります。
神山 安倍政権の悪政の転換の必要性をつくづく感じます。福島の原発事故から何を学んだのか。全国で原発再稼働に突き進む姿勢に県民は怒っています。農業は県の基幹産業です。原発事故での放射能汚染で苦しめられ、何とか再生しようとの動きもあるなかで、TPPで苦しめられる。県民切り捨ての安倍暴走政権とのたたかいは、復興を進める上でも重要課題です。(おわり)
( 2016年03月02日,「赤旗」)
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東日本大震災5年/被災地はいま/1/いつまで続く住まい難民
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未曽有の被害をもたらした東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から5年を迎えようとしています。いまだに多くの人が生活再建もままならない現実。被災地のいまに迫ります。
「私たちはブルーシートで野外生活するようになるのでしょうか。やっと落ち着いた生活ができると思ったのに。なんで苦しみが続くのか」。宮城県石巻市の仮設住宅で暮らす吉田博史さん(65)、孝子さん(66)=ともに仮名=は、不安と怒りをにじませて訴えました。
少ない年金で生活する2人は災害公営住宅への入居を希望していますが、市の担当者から「無理です」と言われました。
「入居資格」の壁
災害公営住宅の入居資格は▽自宅(賃貸も含む)が全壊▽大規模半壊、半壊で解体した、という場合です。
吉田さんは、住んでいた賃貸アパートが津波で大規模半壊になり、住めなくなりました。「まわりの住人も災害公営住宅に入居が決まりだし、自分たちも当然、移れるものだと信じて疑わなかった」(博史さん)
しかし、思いもよらぬ事態になります。現在でもアパートが解体されていないので、「(入居資格を得るために)市の担当者から『自己都合ではなく大家の都合』でアパートを出たという添え書きを大家さんからもらうようにいわれたが、もらえていない」(孝子さん)というのです。
石巻市では、災害公営住宅を希望しながら、さまざまな理由で入居資格がないとされた世帯は400世帯以上に。ところが復興庁は「(被災3県の)具体的数は把握していない」状況。入居資格についても「国は細かい規定はしていない。自治体の判断にまかせる」と関与を避ける姿勢です。
宮城県内の仮設住宅入居者は今年1月時点で4万5000人以上。それにもかかわらず災害公営住宅整備の進行を理由に仮設の閉鎖を急ぐ一部自治体の動きが出ています。
吉田さんの相談にのっている「石巻住まいと復興を考える会連絡協議会」の佐立昭代表委員は「無資格だけでなく経済的理由で次の住まいが決められない被災者が多数いる。このままでは、『住まい難民』が相次いでしまう深刻な事態になる」と危惧します。
同会は、市にたいして「『住まい難民』を絶対につくらない支援を」と▽災害公営住宅の希望者全員の入居▽民間賃貸住宅に移るための家賃補助、などを申し入れました。
国の支援が必要
被災者の要望を受けて石巻市は、低所得者を対象に公営住宅に入居できるまで民間賃貸住宅の家賃を助成する事業を検討しています。しかし、家賃補助制度には数億円の予算が必要です。市生活再建支援課の今野善浩課長は「市単独では厳しい。財源は復興事業として国、県にお願いした」。国は「現時点では検討に時間がかかる」(復興庁担当者)と消極的な態度です。
佐立代表委員は、こう強調します。「生活再建の要となる住まいの復興は、自治体の力だけでは困難です。被災者の立場に立って、もっと国に応援してもらいたい」
(森近茂樹)
(つづく)
( 2016年03月03日,「赤旗」)
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東日本大震災5年/被災地はいま/2/公営住宅遅れ入居後も不便
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「こんなにかかるとは思わなかった。去年(2015年)には入居できる計画だったのに、完成が来年(17年)に延びたんだもの。夫とは『仮設住宅で死にたくないね』と話し合っている」
岩手県釜石市の大久保律子さん(70)は、災害公営住宅の完成を心待ちにしています。
夫婦で漁業を営む大久保さんが暮らしている仮設住宅は、船のある港まで車で30分かかる場所にあります。
「今の仮設か、海近くの公営住宅かで、自宅を出る時間が全然違ってくる。私はまだまだ働きたい。働ける年齢のうちに、早く海の近くに住みたい」
岩手、宮城、福島の3県では、今なお6万人近い被災者がプレハブづくりなどの応急仮設住宅で暮らします。
各県が公表した災害公営住宅の完成状況(1月末時点)は、1万4000戸余り。計画戸数の2万9562戸の半分ほどとなっています。
完成率が2割以下だった昨年と比べると、一定の前進はありましたが、資材高騰や人手不足などが完成を遅らせています。
一方、完成した災害公営住宅でもさまざまな問題も生まれています。
釜石市内の災害公営住宅に昨年、入居した佐々木トシさん(83)が驚いたのは、流し台の照明のスイッチがとても高い場所にあることでした。
つま先立ちで、目いっぱい背伸びしながら、手に持ったオタマの柄でスイッチを入れます。
さらに、この住宅では電源の場所が2bほどの高さにあるなど高齢者には不便な造りが目立ちます。
「イスや踏み台で高いところに登ると転倒やケガが怖い。壁にくぎを打つのが禁止されていて、棚も付けられず、とにかく不便」と語る佐々木さん。
同じ公営住宅に住む柏山セツさん(82)も「部屋の中があまりに不便で、仮設住宅の方がまだよかったと思うときがあるくらい…」と言います。
150戸余りの災害公営住宅ですが、住民の3割超が高齢者。
市内各地の被災者が集まっており、住民同士の関係はまだ希薄です。1人暮らしの高齢者が多く、孤独死などへの不安を抱える住民も少なくありません。
佐々木さんらは、周囲に異変を知らせる「非常呼び出しブザー」を配布することなどが必要だと考えています。
佐々木さんは言います。「住んでみて、いろんな問題があることがわかった。改善してほしいし、これから造る公営住宅を、もっと快適で使い勝手が良いものにしてほしい」
(矢野昌弘)
(つづく)
( 2016年03月04日,「赤旗」)
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震災5年/放送の現場から/福島中央テレビの苦悩と奮闘/上/不安あおる誤解ぬぐいたい
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東日本大震災・福島第1原発事故からまもなく5年。震災直後から、原発事故災害に集中的に向き合ってきた福島中央テレビ(FCT)。地元のテレビ局として現在も原発関連報道、全国放送の「NNNドキュメント」(日本系)などの制作に継続的に取り組み、3月中はローカルニュースの中で毎日特集を組むほか、11日には特別番組を放送します。同局の報道人は、いまどんな思いでいるのか。郡山市の本社を訪問し、番組の取材現場に密着しました。
(木薮健児)
FCTは、震災の翌日に発生した福島第1原発爆発の瞬間を、唯一とらえることのできたテレビ局。1号機爆発の4分後には映像を地元の電波に乗せました。原発から数`以内に設置されていた各局の情報カメラは地震の影響で電源を喪失、しかし17`地点、富岡町の山中にFCTがバックアップのために残していた旧式の情報カメラが生きていました。
この報道は、原発事故という「未知の領域」の災害が発生した事実を、強烈な記憶として人々の心に刻みました。
事故直後、FCT記者たちは、東京電力や県、オフサイトセンター(原子力災害対策施設)が発表する聞きなれない専門用語と格闘しながら状況把握に尽力。そのもとで一刻一刻と変化する事態を県民にどうわかりやすく伝えるかに骨を折ったといいます。
不眠不休の取材
報道部長の丸淳也さん(当時=報道部デスク)は、「事故直後、『まず現場に向かえ』という報道の鉄則とは逆の状況に陥り、局内も混乱していました。津波の現場にいた記者たちへの指示も適切ではなかったと思うし、無用な被ばくをさせてしまったのではとのじくじたる思いもありました。報道人であると同時に一福島県民であり、自分の生活や人生はどうなるのかとさいなまれながらの不眠不休の取材でした。今も現場の記者には頭が上がりません」と振り返ります。
以後5年間、FCTは帰還の問題や除染、賠償、空間や食品の放射線量、避難者の望郷の思いなど、多岐にわたる取材に奮闘を続けてきました。
将来の技術者は
これまで子どもの消えた市町村を取材し、「福島の復興には住民の帰還こそ必要ではないか」と話す、廃炉問題担当の山内了太記者は、2月25日、5年目の特集番組制作に向けて、いわき市の福島工業高等専門学校を取材に訪れました。この日、廃炉に向けた授業カリキュラムを持つ同校は、セシウム吸着装置を製造する米企業との技術者育成に向けた協定を締結。山内記者は「将来の技術者」たちにマイクを向けました。
30〜40年かかるといわれる廃炉への道。「負の遺産」に対峙(たいじ)することを選んだ渡邉隆也さん(物理工学科4年)は、「復興に役立ちたいし、怖さはあるけど誰かがやらないといけないと思う」。海原陽菜子さん(機械工学科3年)には迷いがあります。「避難でみんなバラバラになった町を元通りにしたいけど事故は怖かったし、原発も怖いです…」
継続的な管理に向けた覚悟を後世に迫る、原発という存在。しかし全国の原発の廃炉も見据えた技術の確立は不可欠だというジレンマ。その中で若い技術者が生まれれば悩みも含めて報道し、励ましていきたいと山内記者はいいます。
「敷地内の線量は、今は除染によってほぼ小数点以下の値です。でも『作業員が大量被ばくした』などのネットの情報によって必死で働く彼らのイメージが悪くなるのが本当につらい。正確な報道をして払しょくしたいんです。魚や食品についても同じで、間違った情報のままで関心が薄れるとイメージはそこで止まってしまう。東京の記者のみなさんには福島にもっと足を運んでもらって、現状を見て正確な事実を発信してほしいのです」
◇
日本系できょう(深夜0・55)、FCTが宮城・岩手の同系列局と共同制作した「ドキュメント’16・ふるさと」が放送されます。震災シリーズ70作目。3県の5年間とこれからを見つめます。
( 2016年03月06日,「赤旗」)
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試写室/バリバラ 東日本大震災5年A福島は今?/NHKEテレ後7・0/ほったらかしに異議申し立て
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被災地から届けるシリーズの2回目。障害者の視線が原発事故に沈むものを浮かび上がらせます。今回は福島県南相馬市から。原発事故の放射能汚染の中での障害者の現実を取材、現地で話し合います。
小高地区は避難指示地区で住民は主に他区の仮設住宅で暮らします。仮設住宅は段差がきつい、トイレは狭く車いすで入れない、台所は不便…障害者にとってバリアーだらけ。「今ではヘルパーさん頼り、自宅ではできていたことが仮設に取り上げられた」。取材を受けた女性はくやしさを隠しません。小高地区は4月にも避難指示が解除される予定。女性はバリアフリーの自宅に帰りたい、しかし帰る希望者は2家族。コミュニティー復活は困難です。
ヘルパー不足も深刻。若い世代の県外転居が大きな原因です。特別養護老人ホームを増設しても、介護従事者がいないため部屋は空いたまま。精神障害を持つ人々が置かれた矛盾だらけの現状も示されます。
障害者の人生を奪う原発事故の底知れなさ。悲鳴が聞こえる取材です。この責任を誰かが取れるのか。レギュラー出演者が言いました。「ほったらかしにされている」。「弱い立場の者」が後回しにされるこの国の在り方への精いっぱいの異議申し立てがありました。
(荻野谷正博 ライター)
( 2016年03月06日,「赤旗」)
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震災5年/放送の現場から/福島中央テレビの苦悩と奮闘/下/丸淳也報道部長語る
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避難うながした爆発映像
震災発生以来、地元メディアとして原発関連報道に取り組み続けてきた福島中央テレビ。丸淳也報道部長は当時、郡山市の本社で報道部デスクとして現場から集まってくる断片的な情報を整理・集約し、ニュース原稿の作成にあたっていました。事故当時のことや現在の思いを聞きました。
3月11日、とてつもない揺れに襲われた後、これからどんな現実に直面するのかと恐怖しました。その夜、県から空間線量が異常な値になっていると情報が入りました。まさかと思いましたが、どこかで「放射能が大量に漏れることはないだろう」と希望的に考えていました。しかし翌12日、爆発は起きました。
記者時代から十数年、原発に関わってきました。トラブルが発生するたびに厳しくやってきたつもりではいましたが、過酷事故が起こるはずはないと、東電の言う「5重の壁」を過信していたのです。
事故直後、記者たちは東電側が専門用語を口にするたび「どういう意味だ」と食い下がり、知識を蓄積していきました。
事故の瞬間は、原発から17`離れた情報カメラがとらえました。直後に映像を繰り返し流したことで政府発表を待たずに避難した人もおり、あの瞬間を映像でとらえた意義はあったと思っています。
この映像には音声がありませんが、海外で加工され、爆発音を後付けされた映像が出回りました。「この音からすると核爆発だ」と述べた専門家≠烽「て、非常に悲しい思いでした。オーバーに伝えるためのネタのような扱い。しかしそうしたことに抗議するにもキリがない状況でした。
ネットなどで食品や被ばくの過激な情報を見聞きしたことで福島に対する壁をつくり、事実を知ろうとするところまでいかない人は多いと思うのです。そうした人たちに事実を伝えるには工夫が必要ですし、全国の記者の方にもぜひ福島の今を伝えに来てほしい。
各地で再稼働に向けた議論がされています。その是非は当該自治体の判断によりますが、福島第1のような状況になり得る、その覚悟を決めた上での決断を望みたい。原発が本当に必要なのかという議論も広がってほしいと思います。(6日付14面に)
( 2016年03月09日,「赤旗」)
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震災5年/放送の現場から/福島中央テレビの苦悩と奮闘/取材を終えて
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今回、福島中央テレビへの同行取材で郡山市の本社といわき市、浪江町を訪ねました。沿岸部には朽ちたままの家屋がまだ残るものの、がれきは片付き道路も整備されていました。
驚いたのは、福島第1原発から北に6`地点の浪江町中心部で、手元の線量計が0・08〜0・1マイクロシーベルトを示していたことです。これは関東地方などに比べわずかに高い値。現在は避難解除の準備に工事車両が行き交っています。この地域は、内陸から帰還困難区域(確認した値は2・5マイクロシーベルト)を抜けた海岸沿いにあり、原発災害は同心円状には広がらないことを実感しました。
課題はまだ多く、除染がすすむ半面、東京の国立競技場建設などに人手をとられ、公的施設などの建設が遅れていると聞きました。
地元の記者たちが皆、風評被害が放射能と並ぶ復興の障害になっていると語ったことも印象的でした。ネットで得た「らしい」「だろう」の情報によって見えにくくなる実態。しかし県内と県外の間にはもともと壁も憎しみもなく、正確な実態の伝達の広がりが、両者の橋渡しとなる役割を果たせるのではないか。そう感じた取材でした。
(木薮健児)
( 2016年03月09日,「赤旗」)
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東日本大震災5年/被災地はいま/3/存続が危うい医療費免除
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宮城県では現在、被災者の医療費免除は被災3県で唯一、県が財政負担しないなかで、住民税非課税世帯の国民健康保険加入者に限定して行われています。しかし、2016年度からの国の支援継続が明示されず、継続する市町村と打ち切る市町村に分かれています。
仙台市の災害公営住宅で1人暮らしをする年金生活の女性(66)は避難生活のなかで持病が悪化し、二つの病院に通っています。仮設住宅から昨年移転し、家賃も発生。新聞をやめ、洗濯も週に1回にまとめています。「今もなんとか暮らしているのに、医療費の支払いが加われば生活していけるかどうか…。病院に行く回数を減らすことになると思う。子どもは県外に住んでいるし仮設住宅の仲間とも離ればなれだから、部屋で倒れでもしたらどうなってしまうのか本当に怖い」といいます。
多賀城市の災害公営住宅に夫婦で入居している小山誠さん(74)は「多賀城は継続が決まったけど対象も広げて、県内全市町村で継続してほしい」と話します。
宮城県保険医協会が昨年11月〜1月に実施したアンケートでは、負担免除が終了した場合、30%が「受診回数を減らす」、7・8%が「受診をやめる」と回答するなど、受診抑制の懸念が大きくなっています。
宮城県民医連が11月に仮設住宅を訪問して行ったアンケートでも「震災で仕事を失い、今はパート。健診でがんが見つかり手術を受ける。1人暮らしで医療費、療養費が心配」など不安の声が寄せられています。
後期高齢者については、県後期高齢者医療広域連合は15年度で免除を終了することを決めています。
塩釜市で海産物の問屋を営む吉田勝義さん(77)は「塩釜市は医療免除を継続するので家族の医療費は一安心だが、自分は後期高齢者で胃の全摘の手術を受けた身なので、今後が不安です」と話します。
4日現在で16年度以降の医療費免除を決めているのは、石巻、気仙沼、東松島、塩釜、多賀城、名取の6市と七ケ浜、松島の2町にとどまっています。
東日本大震災復旧・復興支援みやぎ県民センター、県社保協、県民医連など市民団体や日本共産党が減免措置の継続の申し入れを行っています。
継続を表明した自治体でも、石巻市の菅原秀幸副市長が日本共産党の小池晃副委員長と党県議団との懇談で「継続しますが、財政的には厳しい」と述べるなど、県の支援再開が重要となっています。
日本共産党の遠藤いく子県議団長は2月の代表質問で免除継続へ県の財政負担をするよう県に求めましたが、村井嘉浩知事は「県が口をはさむべき問題ではない」と答弁し、支援を否定しています。
(高橋拓丸)
(つづく)
( 2016年03月06日,「赤旗」)
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東日本大震災5年/被災地はいま/4/店舗再建、業者の岐路
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かさ上げした中心街に戻るか、集団移転先の高台で新たな出発か―。岩手県宮古市田老地区の店主らは、仮設商店街「たろちゃんハウス」を出て、本設の店舗をどこに構えるか岐路に立っています。再建を目指す自営業者の悩みは尽きません。
「ここから田老の人間として力量が試される。本設に向け、次世代に恥じないものをつくらなければ」。かりんとうなど菓子製造販売「田中菓子舗」代表の田中和七さん(61)が意気込みます。
県内のスイーツなど、58ブースが出店したイベントが2月の土日、滝沢市で開かれました。田中菓子舗のかりんとうのファンの女性(39)は「黒糖とパリパリの食感が忘れられません。かりんとうと言えばこれだと思って育ちました」と、早期再建を期待します。
田中さんの祖父が1923年に創業した店は33年の昭和三陸地震の津波で被災しましたが、翌年に店を再開。「その時30代だった祖父にできて、自分にできないわけがない」と自身を鼓舞しました。
田老地区は2011年の大震災で死者・行方不明者180人超。初盆を前に、多くの人から「田中さんの菓子を供えたい」と言われました。移転も考えましたが「季節の行事に欠かせない地元のお菓子を絶やしてはいけない」。田老地区での再建を決意しました。
仮設商店街に入った22店の多くは、国道沿いの中心街で再建を計画。「人の動きがある土地に店を出した方が、飲食店や菓子店などは売り上げを期待できる」と田中さん。
時計・カメラ店が昨年11月、中心街に初オープンし、今後は、施設の復旧費用を国と県が補助する「グループ補助金」を受け、本設店舗が続きます。
一方、日用品や理容店など固定客が多い業種は、中心街から約1`離れた集団移転先の高台の団地に、店舗兼住宅の再建を目指します。当初、店舗を一カ所に集めようとしましたが、経費などが課題になり、結局、分散して再建することに。
食品・雑貨店の店主の女性(64)は「店舗兼住宅だったので、長く商売することを考えるとこの形を続けたい」と言います。団地住民に「店を早く出して」と切望され、「高齢者にとって、歩いて行ける距離に店があった方が良い。絶対やめるわけにはいかない」。
(唐沢俊治)
(つづく)
交通の充実必要/国・県は支援を/田中尚・日本共産党宮古市議団長の話
人口減少により、地方都市は震災前から、商店街の維持・存続が課題でした。住まいと商店街を結ぶバスなど公共交通の充実も必要です。国や県に、引き続き支援を求めたい。
( 2016年03月07日,「赤旗」)
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東日本大震災5年/被災地はいま/5/引っ越し代が払えない
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仮設住宅から、ようやく災害公営住宅に移れる―。夢の実現を目前に、引っ越し代金を捻出できないために希望を絶たれそうな被災者がいます。
宮城県南三陸町内の同じ仮設住宅団地に住む菅原治さん(67)と今野正さん(69)=ともに仮名=は一人暮らしです。災害公営住宅への入居が決まっていますが、2人とも浮かない表情です。菅原さんは9カ月仕事がなく、今野さんは月約5万円の年金収入。約20万円の引っ越し代が捻出できません。
仮設住宅から災害公営住宅への引っ越し代金は、国からの復興交付金を使い補助をうけることができます(上限80・2万円)。ネックは引っ越し代金を被災者がいったん負担しなくてはならないことです。補助金が振り込まれるまで1カ月から2カ月かかります。
被災者の生活相談に乗ってきたボランティア組織「ライフワークサポート響(ひびき)」代表の阿部泰幸さん(54)が実情を知り、南三陸町への要請を重ねてきました。
阿部さんは県内の東松島市で昨年12月から救済制度が始まっていることをつかんでいました。同様の相談を受けていた同市では、市が登録業者を定め、引っ越し代の請求を市にしてもらい、市が業者に直接支払う「引っ越し費用の受領委任払制度」をつくりました。
県内では、仙台市、気仙沼市、七ケ浜町でも、制度は若干異なりますが、引っ越し費用支払いが困難な被災者を救済する制度があります。
「東日本大震災復旧・復興支援みやぎ県民センター」世話人でもある阿部さんから情報提供と相談を受けた日本共産党の小野寺久幸南三陸町議は、4日の町議会でこの問題を取り上げ、「仮設住宅で大変な生活をしてきた被災者が、ようやく災害公営住宅に移れると思ったときにつまずき、『いっそ津波に流されていたらよかった』などとひどく落ち込んでいる」と救済制度を求めました。
佐藤仁町長も「引っ越し代金の一時的な負担が困難な人に対しては、受領委任払制度の構築をしていきたい」と答弁。復興事業推進課長は、4月の新年度から開始する意向を表明しました。
菅原さん、今野さんと同じ仮設団地でまとめ役を果たしてきた佐藤由和さん(68)が喜びます。「仲間で車を出して引っ越しするしかないかとも考えたけど、前例にされても困ると悩んでいた。恥だと思ってみんな口に出さないが、助かる人はいっぱいいると思う」
(原田浩一朗)
(つづく)
( 2016年03月08日,「赤旗」)
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東日本大震災5年/被災地はいま/6/故郷返せ≠スたかい全国に
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東京電力福島第1原発事故による避難者は今も10万人余。家族をバラバラにされ、故郷を奪われ、人生を狂わされた人たちは沈黙を拒み、国と東京電力に損害賠償と原状回復を求めて裁判に立ち上がっています。
たたかいの火は全国に広がり、北海道から九州まで18都道府県の20地方裁判所・支部に31原告団が提訴。約1万2千人の原告数になっています。2月13日には「原発被害者訴訟原告団全国連絡会」が結成され、連帯してたたかいを強めることを誓いあいました。
全国連絡会に結集した「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の原告団には、浪江町津島住民の半数近くにあたる224世帯が参加。今野秀則団長は「原発事故のために不条理にも平穏な生活を突然断ち切られ、異郷の地で避難生活を強いられる苦痛は言葉に言い表せない」と告発します。
同原告団の三瓶学さん(30)は、5年前の3月11日、福島原発の免震棟のなかでフィルターの交換作業に就いていました。大きな揺れと停電。真っ暗闇のなかで「死んじゃうのではないか」と恐怖が襲いました。
東京電力で一生働いていくつもりだった三瓶さんにとって「3・11は人生の大きな分かれ道だった」と振り返ります。
「納得いくような津島にもどしてほしい」と昨年、原告団結成の当初から加わった三瓶さん。「新たな人生の始まりです。エンジンはかけられました。死ぬまでたたかう」
両親らと暮らしていた三瓶早弓さん(25)は、東京など転々と避難所を移動し、バラバラになった家族が一緒に暮らせるようになったのは昨年4月。4年間かかりました。
早弓さんは「結婚できるだろうか。子どもに害がないのだろうかと、不安でいっぱいです。津島に帰れるのは親の代では無理です。若い人たちも一緒に動かないと次の世代に残せない」と原告になりました。「私たちと同じつらい思いをする人をつくりたくありません。原発はいらない」
「原発被害者訴訟原告団全国連絡会」の佐藤三男事務局長は「各地の原告団が一つに団結してたたかっていく母体ができた」と、こう力を込めて語りました。「年内にも結審する訴訟もあり、勝訴のために全力をあげます。また、避難住宅打ち切りの撤回を求める署名に取り組みます。福島切り捨ては絶対に許さない」
生業訴訟原告団の中島孝団長も、「再稼働反対、国のエネルギー政策を転換させる運動は国民的課題。ともに立ち上がりたたかいの共通土台を築いていきます」と語りました。
(菅野尚夫)
(おわり)
( 2016年03月10日,「赤旗」)
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震災5年/放送の現場から/NHK仙台大森淳郎ディレクターに聞く/原発事故、絶望に寄り添い
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きょう13日、NHKBSプレで放送するドキュメンタリー「赤宇木(あこうぎ)」(後2・0)。福島県浪江町の小さな集落・赤宇木は「帰還困難区域」に指定されています。100年は人が住めないと言われる中、住民の手で始まった村の歴史の掘り起こし。2時間の特集番組はその取り組みを糸口に古里を見つめます。NHK仙台放送局の大森淳郎ディレクターが担当しました。
(渡辺俊江)
2011年3月15日。大森さんらNHKのETV特集チームは、原発取材で福島へ。事故が起きてから4日後でした。30`圏内の実態を克明に記録していきます。
2日後、大森さんは赤宇木へ足を向けます。「浪江町の住民に『あこうぎ』と聞きましたが、どんな字を書くのかもわからなかったです」。放射能を測定すると80マイクロシーベルト。以来、日本でもっとも放射線量が高い地域として「赤宇木」の名があがるようになります。「ネットワークでつくる放射能汚染地図」(5月15日)として放送しました。
13年には「放射能汚染地図3」を制作。福島で増え続ける自殺の問題や、阿武隈高地の生き物への放射能の影響を研究する科学者の研究を追います。命を絶った男性は赤宇木に住み、鳥や魚は赤宇木のものでした。
「何をやっても赤宇木に行きつく。僕にとっては特別な場所になったんです」
歴史を子孫にと
仙台へ転勤し、取材を継続。福島市で開かれたシンポジウムで、赤宇木の歴史を編纂(さん)したいという村民に出会います。
「ポツリと発言するんです。『子々孫々になんとか残したい』と。その気持ちに寄り添いながら、今回の取材を進めていきました」
天明の飢饉(ききん)、藩の過酷な取り立て。明治政府が進めた国家神道で村の素朴な信仰は否定されます。日露戦争、太平洋戦争で村の若者が出征。戦後は出稼ぎに追われ、ゴルフ場開発にも翻弄(ほんろう)されます。
「そしてとどめの原発事故ですよ。戦争、過疎、疲弊していく地方。そこにつくられる原発。一つの力の下、深いところでつながっている気がします」
汚染地図を作る
原発事故でちりぢりになった住民。110世帯すべてに大森さんは接触しました。「働くばっかだったよ。牛を育て畑仕事」(女性)、「田んぼだけじゃ、まんま食えない」(原発誘致に同意していった男性)、「原発はたいへんなもの。村に帰りようがないんだもの」(男性)。番組に登場する人々の声です。便利なところでも、豊かなところでもない。生き抜いてきた先人たちの姿、労働の痕跡を伝えます。
大森さんは1957年生まれ。東海村の原子炉が臨界に達した年でした。82年、NHKに入局しドキュメンタリー制作を続けますが、原発の問題を自分の仕事として考えたことはありませんでした。そこへ福島の原発事故。ETV特集「戦争とラジオ」(09年放送)を手がけ、先輩に取材する中で戦時の「大本営発表を信じていたわけではなかったが、局でそれを口にはできなかった」話を聞きます。
「大震災が起きて、戦後の日本の間違っていたところが変わらざるをえないだろうという見方がありました。でも、5年たって忘れられたようになっていないでしょうか」
番組は、村に通って放射能を測定し放射能汚染地図≠作ろうとする村人の姿も追います。大森さん自身が5年前に取り組んだ活動でもあります。
「負けないぞ、絆がある。世の中にあふれているのはそんな情報です。原発事故がもたらした絶望、死ぬほどの苦しみ、根こそぎ奪われた人間の気持ちってどんなものなのかと思います。まず希望ありきという番組の作り方は、僕はしたくなかったです」
( 2016年03月13日,「赤旗」)
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東日本大震災5年について/高橋千鶴子衆院議員に聞く/被害ある限り賠償・支援が必要
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政府は4月からの5年間を「復興の総仕上げ」としています。しかし、被災者の暮らしと生業(なりわい)が再建されなければ、真の復興とは言えません。
全壊、大規模半壊の被災者のうち、約35%が自宅を再建できていません。県や自治体の中には独自に住宅再建支援策を設けているところもあります。被災者も「子や孫に対する責任だから」と定年を過ぎてもローンを背負って再建に踏み切っています。
こうした努力に国が応えるべきです。最大300万円の支援金を500万円に拡充し、対象を一部損壊まで広げ、後押しする必要があります。
生業について日本共産党は被災事業者たちとグループ補助金の実現などに取り組んできました。仮設店舗の解体費用や本設への補助などあらたな課題も、のりこえてきました。効果的な支援のため現場の方たちと連携していくことが大切です。
私は震災直後、「被災地特例」として仮設住宅と商店街、病院を結ぶコミュニティーバスを国会で要求し実現しました。国はこの特例を5年間延長しましたが「仮設住宅を経由する」という条件をつけています。高台移転後や災害公営住宅に移った後も利用できるよう柔軟な対応をすべきです。
災害公営住宅に移り、誰とも話さなくなって孤独死した方も。政府はまず孤独死の定義を定め、実態を把握すべきです。
原発事故被害では、国は帰れる状況ではないのに、避難指示解除をすすめ、賠償を打ち切ろうとしています。期限を区切った帰還や賠償打ち切りではなく、被害の実態がある限り、賠償や支援が必要です。
福島原発では海側遮水壁が完成した後も汚染水の発生量が増加しており、汚染水もれが問題になった組み立て型タンクを再び使っています。福島の実態をみれば再稼働などもってのほかです。
日本共産党は地元議員や党組織が被災者の状況を継続的につかみ、国会とむすんで制度改善など、前進をつくってきました。被災者の暮らしと生業を取り戻すまで全力を尽くします。
(2016年03月13日,「赤旗」)
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東日本大震災5年/希望と笑顔、子どもたちに/その1/冒険遊び場/岩手・釜石・こすもす公園
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手づくり「心癒やす」
東日本大震災の被災地・岩手県釜石市につくられた冒険遊び場が大人気です。完成して3年、子どもの歓声が広がる「希望と笑顔のこすもす公園」を訪ねました。
(武田祐一)
震災後、校庭や公園にたくさんの仮設住宅が建てられ、遊び場所がなくなりました。
農地を開放
「子どもたちには遊び場が必要だと痛感したんです」という農家の藤井了さん(69)。コスモス畑だった農地(3千平方b)を開放して2012年11月にできました。
平日は近所の子どもたちが毎日遊びに来ます。休日には遠くから車で親子づれが来ます。沿岸部の保育園児が遠足で来ることもあります。子どもたちは「もっと遊びたい」「帰りたくない」と保護者を困らせます。
「広いから、鬼ごっこや、かくれんぼ、陣とりとか、いろんな遊びをします。広場が楽しい」。近くに住む小学校6年生の黒澤樹里さん(12)は話します。
震災後、藤井さんの住む甲子町地域には17カ所1045戸の仮設住宅ができました。そのうち5カ所は公園だった場所でした。
近くの集合住宅で避難生活を送っている子のなかに、被害が大きかった市内の鵜住居地区からきた岩鼻紗希さん(当時小学校3年生)がいました。藤井さんは紗希さんが持っていたノートを見せてもらいました。どのように津波から逃れたかや心情が克明に書かれていました。「9年で、しんじゃうのかあと思いました」という文を見て藤井さんは「本当に怖い思いをしたこの子たちを励ましたい。心を癒やすには遊びが一番だと思ったんです」。
遊具は手作り。多くの人の協力を得ました。ピノキオのような木の滑り台や土管のトンネル、人工的な突起を頼りに壁をよじ登るフリークライミングボードなどがあります。このボードは視覚障害のある人のフリークライミングに取り組む団体が協力しました。
「禁止」なし
公園の特徴は禁止事項がないことです。使った遊具を片付けるなどのルールはありますが遊びは球技でも何でも自由にできます。電話ボックスのような木造の小屋には、自分の夢を書けるノートがあり、願いをこめて鳴らせる「希望の鐘」があります。ピザづくりの体験ができる本格的なピザ窯もあります。
14年には「希望の壁画」ができました。もともとは普通のスレート壁でした。ある日、紗希さんは雨にぬれた隣の工場の壁を見ました。津波のような模様になって怖いと感じ「津波に追いかけられる夢を見た」という話を藤井さんは紗希さんの母親から聞きました。それで壁に絵を描くことにしたのです。壁画は、知人に紹介されたタイ在住の画家、阿部恭子さんが原画と下絵を描きました。のべ500人の市民が参加して、色塗りや等身大の自分の絵を描いて完成させました。
公園では、夏至の「キャンドルナイト」やコンサート、クリスマスなど四季折々のイベントも行っています。運営は数人のスタッフとボランティアが当たっています。ボランティアには、公園の前で農家レストランを営んでいる藤井さんの妻、サヱ子さん(71)が食事を提供しています。
私設の公園のため、運営は大変です。「これまで民間の基金を利用してきました。この春から公園を支えてくれるサポーターの募集をはじめたところです」(了さん)
問い合わせ0193(27)3366
( 2016年03月12日,「赤旗」)
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東日本大震災5年/希望と笑顔、子どもたちに/その2/学びの部屋/岩手・陸前高田
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東日本大震災の被災地の子どもたちは、仮設住宅暮らしで狭くて机も置けない環境など多くの困難を抱えています。震災で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市では、安心して学べる場を提供して学習支援をする「学びの部屋」や、子ども、保護者、教職員の悩みにこたえるスクールカウンセラーによる相談活動に取り組んでいます。
狭い仮設から中学生次々/たっぷり2時間
明かりのともった陸前高田市立第一中学校の校舎。「おばんです」。夜7時すぎ、勉強道具を持った中学生がやってきます。ドアには「学びの部屋」の看板。教室内はストーブがたかれ、周りに机が並べられています。子どもたちは2時間たっぷり、この場で学びます。
自習が基本ですが、わからないところは元教員の支援員に質問します。
第一中学校の会場に登録している子どもは約100人。校庭の仮設住宅から通う子も少なくありません。遠くの子どもは親が車で送迎しています。
「学びの部屋」を陸前高田市から委託されているのは一般社団法人「子どものエンパワメントいわて」。市内3カ所の小中学校が会場です。
元教員で支援員の男性(65)は震災直後から携わっています。「仮設住宅は狭く、勉強に集中できません。ここは子どもたちが安心して学べる場所です。わからないところは支援員が教えますが、声を掛けて見守るのが役目です」
夏期や受験期には大学生がボランティアで参加します。これまで、東京大、早稲田大、立教大、奈良教育大、岩手県立大の学生が来ました。「現役の大学生と学ぶことは子どもにとって、学ぶ目標になり意欲も増す感じです」といいます。
支援員の女性(62)は「以前は仮設から来る子が多かったのですが、仮設を出る子も増えてきました。通うのが難しくなったり、家を再建して自分の部屋ができ、こなくなる子もいる」といいます。同じく支援員の男性(67)は「最近は塾に行く子もいますが、もっとこの場を活用してほしいですね」と話します。
スクールカウンセリング/なんでも相談
スクールカウンセラー(以下、SC)事業は、県や市から派遣されるSC計7人が子ども、保護者、教職員の相談に乗っています。
市教育委員会のSCからの聞き取りによると、子どもたちの相談の特徴は、震災後のストレスなどもありますが、学業や親・友人関係、自分の容姿・性格など一般的な相談も少なくありません。
学校の現場では、いまになって子どもが震災当時のことを話すようになってきたといいます。市教委の千葉賢一さんは「これはいい傾向だとSCは見ています。これまで心にふたをしてきたことを、ようやく表現できるようになったということです」と話します。
一方で何かをきっかけに当時を思い出し感情的になる子どももいます。
SCは子どもが相談しやすいように、授業を見たり、一緒に遊んだりしています。いつでも、何でもいえる関係が大切だといいます。思い出や好きな子の話など、何でも受け止めて聞くことが癒やしにつながると考えているからです。
保護者・教職員も
SCの取り組みで、もう一つの柱は保護者、教職員の相談です。震災で親、教職員が悩みや困難を抱え、それが子どもにも影響しているからです。今年度すでに330件以上の相談が寄せられています。
◇
日本共産党陸前高田市議、伊勢純さんの話
震災の影響と、子どもたちの悩みやトラブルは無関係ではないとSCからうかがっています。まちも子どもの気持ちも復興はまだまだです。事業の継続を求めていきます。
( 2016年03月12日,「赤旗」)
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子どもとママ守る/災害時のメンタルケア/NPO法人ママプラグ副代表冨川万美さんに聞く
震度7の地震が2度襲った熊本地震の被害は大きく、多くの人が避難生活を送っています。子どもとママを守る災害時のメンタルケアについてNPO法人ママプラグ副代表の冨川万美さんに聞きました。
(染矢ゆう子)
心のリフレッシュ/一人になれる時間を
避難生活が長引くことで心配なのは、肉体的にも精神的にも疲れている方が多いことです。特に小さい子どもがいるお母さんや介護をされている方は自分のことが二の次になり、ご自身のリフレッシュが盲点になります。
東日本大震災のときは半年後の2011年9月11日に一枚の布に色を塗るワークショップを行い、同時に保育も行いました。
「自分の時間が持てたのは震災後初めて」「3・11以来、初めて泣けた自分がいました」と今まで抑えていた感情を出すママが多くいました。不安や恐怖をためこんでいたことに本人も周囲も気がつかなかったのです。
避難生活が長引くときは、ご家族や友人、親戚に子どもを預けてお母さんが一人になれる時間をとってほしいと思います。消防など災害救援のプロの方も必ず気持ちをリフレッシュする時間を設けています。
子のケアどうする/話を聞き安心させて
子どものケアの大原則は受け止め、見守ることです。
災害時の子どもの異常な行動は、非常時の正常な反応です。乱暴なことを言ったり、大きな声を出したり、無口になったり、普段と違う行動をとることがありますが、たしなめたり、叱るのではなく、抱きしめながら安心できる言葉をかけ、話を聞いてあげましょう。
「怖い」という気持ちに寄り添うことが大切です。そのうえで「もう大丈夫よ」「一緒にいるからね」と安心できる言葉をかけてあげてください。
「手当て」という言葉があるように手を当ててさすったり、なでたりしてあげるだけでも安心でき、心が落ち着きます。
「もう少しがんばって」「もっと強くなろうね」というような「自分が弱いからダメなんだ」という言葉はできるだけ使わないようにします。
子どもは子どもなりにおとなの気持ちを理解して対応しようとします。上の子ほど親に心配をかけない傾向があるといわれています。無理して元気にふるまい、がんばっているようにみえる子がいたら一層話しかけるようにし、ぎゅっと抱きしめてあげましょう。
被災地外でもテレビで見た映像にショックを受け、症状が出る子もいます。
地震ごっこなどもやめさせないのは大事です。強いショックを受けるような体験をしたときにその体験を再現する遊びを通して無意識に心のバランスを取り戻そうとする子は多いそうです。温かく見守ってあげてください。
いつもの友だちと遊べないこともストレスになります。遊びたい友だちの名前を聞いて、一緒に遊んだり、ビデオ通話をしたりするだけで心の均衡がとれます。
なるべく生活のリズムを日常に合わせて、お風呂やトイレがない状況は早めになくしてあげてほしいと思います。
声をかけ合って必要なものをそろえ、体を動かしましょう。
過去の被災体験をまとめた資料をホームページで公開しています。ぜひお役立てください。(http://www.active−bousai.com/oshirasemental/)
( 2016年04月29日,「赤旗」)
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