2001年 ファシズム関連情報】

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2001年(ヘッドライン)

*                     山田和夫の映画案内/チャップリンの独裁者/ファシズムに真正面から挑戦

*                     停戦協定後も戦争継続/米大統領 アフガン越え拡大/真珠湾攻撃60周年で演説

*                     「アフガン空爆やめよ」/世界各地で行動/高校生2000人空爆反対デモ/イタリア南部

*                     映画展望/児玉由紀恵/「蝶の舌」「魔王」「今日から始まる」「こどもの時間」/時代と社会を映像に刻む子ら

*                     ナチとのたたかい伝える/ローマ解放歴史博物館/年1万人の訪問者 欧州各国からも

*                     ローマ 戦争と平和の足跡を訪ねて

*                     ユダヤ人虐殺計画、ここで立案/館が告発するナチス犯罪/ドイツ・ベルリン郊外のワンゼー

*                     日本占領下 飢餓・爆撃の犠牲者悼む/記念碑 一家が守り通した/ベトナム8月革命56周年を機に ハノイ市が修復決定

*                     第2次世界大戦終結56周年 8・15を前に 中国、イタリアの識者に聞く

*                     歴史教科書 靖国参拝/好戦主義、ファシズムを鼓舞/日本の侵略で200万人餓死/歴史の真実変えられない

*                     旧日本軍占領下の惨事――餓死者追悼の記念碑建設を/ベトナムの歴史家が訴え

*                     おはようニュース問答/この夏、話題の映画がいっぱいだね

*                     朝の風/ロシア映画界の良心

*                     加害の歴史にむきあう青年たち/オーストリア/ナチス強制収容所解放式典 36カ国から7千人参加

*                     中道左派への批判の強さ示す/イタリア総選挙

*                     ファシズムの過ち忘れない/イタリア解放記念日 全国でデモ、ミラノで5万人

*                     侵略の史実伝えるイタリアの教科書/“国際社会の常識を子どもらに”と教師

*                     ドイツにおける歴史教科書ナチスへの明確な批判

*                     パルチザン協会の全国大会が閉幕/歴史の真実を次の世代に伝える教育の重要性強調/イタリア

*                     歴史をどう記憶するか/日本人、オランダ人、インドネシア人―日本占領下のインドネシアの記憶展をふり返って/岩崎稔

*                     知識人と大衆/ジョン・ケアリ著、東郷秀光訳/不安の中で醸成されたファシズム

*                     反ファシズム誓う欧州/アウシュビッツ解放から56年/各地で追悼式典、デモ

*                     矛盾の向こうに探るユートピア/没後5年ハイナー・ミュラーが語りかけるもの/市川明

*                     朝の風/希望ひらく哲学を

*                     シリ−ズ「21世紀の課題」/進展する東アジア協力(上)/望まれる国際秩序の一つのあり方を示す

2001年(本文)(Page/Top

山田和夫の映画案内/チャップリンの独裁者/ファシズムに真正面から挑戦

 「チャップリンの独裁者」(一九四〇年)は真正面からファシズムに挑戦した傑作。チャップリンはユダヤ人の理髪屋とヒンケル=ヒトラーの二役を演じ、天才的至芸でファシストを痛罵(つうば)、ラストの名演説で自由へのたたかいを訴える。
 「ザ・ターゲット」(九六年)は米大統領暗殺陰謀とたたかう補佐官(チャーリー・シーン)と女性記者(リンダ・ハミルトン)。米支配層内部の陰湿な権力抗争があばき出される。
 「エクソシスト」(七三年)。少女にとりついた悪魔と悪魔ばらいの神父の対決を特撮で刺激的に。リンダ・ブレア、マックス・フォン・シドー主演、ウィリアム・フリードキン監督。
 「ホーム・アローン3」(九七年)はファミリー・コメディーの人気シリーズ。アレックス・D・リンツ少年の主演、ラージャ・ゴスネル監督。「007 リビング・デイライツ」(八七年)はティモシー・ダルトン主演のジェームズ・ボンド物。ジョン・グレン監督。
 NHK衛星はJ・フォードの「荒野の決闘」、黒沢明「静かなる決闘」、蔵原惟繕「愛と死の記録」、山本嘉次郎「馬」その他。(映画評論家)
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2001年12月21日『赤旗』)(Page/Top

停戦協定後も戦争継続/米大統領 アフガン越え拡大/真珠湾攻撃60周年で演説

 【ワシントン7日遠藤誠二】ブッシュ米大統領は七日、バージニア州ノーフォークを訪問し、日本軍による真珠湾攻撃六十周年記念の演説をおこないました。同大統領は、アフガニスタンへの軍事攻撃を改めて正当化し、対テロ戦争はアフガニスタンを越えて継続すると述べました。
 ブッシュ大統領は七日午後、アフガニスタンへの軍事攻撃に参加し、母港ノーフォーク基地に帰還した空母エンタープライズに乗り込み海軍兵士ら約一万人を前に演説。六十年前の真珠湾攻撃について言明した後、「アフガニスタン解放にむけわれわれの軍隊は現地に派遣され、そしてそれは成功している」と軍事報復を正当化しました。
 さらに同大統領は、「ファシズムの後継者であるテロリストを打ち負かす戦いは、停戦協定によって終結されるべきではない」とも言明、ウサマ・ビンラディンの拘束やその組織アルカイダの壊滅をあくまでも戦闘行為によって終わらせることを強調しました。
 同時に、「われわれの戦争は一人のテロリスト指導者、一つのテログループにたいするものではない」と指摘し、「対テロ戦争はアフガニスタンを越えて継続される。テロリストをかばい支持する国家には罰が下される」と述べ、アフガン以外へ戦争を拡大する意思があることを再確認しました。
 ブッシュ大統領は最後に、「(過去に)敵だった日本が現在、最良の友人であることを誇りとする。現在、われわれ(日米の)二つの海軍が並んでテロとのたたかいに従事している」と語り、対アフガン軍事行動に協力した日本政府を高く評価しました。
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2001年12月09日 『赤旗』)
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「アフガン空爆やめよ」/世界各地で行動/高校生2000人空爆反対デモ/イタリア南部

 【カイロ17日島田峰隆】イタリアからの報道によると、同国南部の都市バリで十七日、テロに反対し米英両国によるアフガニスタン空爆の停止を求めるデモ行進が行われ、約二千人(主催者発表)の高校生が参加しました。反ファシズム組織などさまざまな高校生団体がよびかけ、近郊の町の高校生も集まりました。
 デモ隊は「戦争にノー」「戦争でなく、テロには外交、対話、テロの資金源の根絶で」などの横断幕を掲げて市内を行進しました。主催者らはANSA通信に、「(テロ首謀者である)ウサマ・ビンラディンは逮捕されて国際法廷で裁かれなければならない」という原則を強調。「平和はアフガン空爆ではなく、武器を製造する多国籍企業をなくし、テロリストも米国も非軍事化することで手に入れられる」と語りました。
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2001年10月19日『赤旗』)(Page/Top

映画展望/児玉由紀恵/「蝶の舌」「魔王」「今日から始まる」「こどもの時間」/時代と社会を映像に刻む子ら

ファシズムの時代生き抜く
 八月初旬に東京と横浜の二館だけで公開され、その後十二万人鑑賞の大ヒットとなったスペイン映画「蝶の舌」(ホセ・ルイス・クエルダ監督)は、子どもを題材にした映画の秀作の一つである。
 一九三六年、スペイン・ガリシア地方の小さな村を舞台に、ぜんそく持ちの八歳の少年モンチョが体験する六カ月が描かれる。音楽好きの兄の恋や仕立職人の父の不品行などを織り込みながら、人生のとば口に立ったモンチョと老教師グレゴリオのかかわりが写されていく。グレゴリオは、モンチョの学校への恐怖をぬぐい去り、子どもたちに、(蝶の舌は渦巻き状であるといった)自然の秘密、原理を説き、引退の日には、人々の前で、自由スペインをたたえる。だが、反ファシズムの人民戦線とフランコの率いるファシストとのたたかいの波が、この田舎にも押し寄せ、村人一人ひとりが、(ファシストの基盤であった)教会の教えを信じるのか、不信心者の“アカ”か、といった踏み絵にも似た信条の表明を迫られる時が来る。八歳のモンチョさえも。
 のどかな時が変ぼうしていく時代の過酷さを鮮明に伝える映像に胸を揺さぶられながらも、少年の叫び―それは、老教師と彼の教えを胸に刻んだ少年との堅いきずなを示す―には、ファシズムの時代を生き抜く希望さえ抱かされるのだ。子どもたちを思いやる高潔な老教師に深い感銘を受けるが故に。
ナチズムの残酷伝える主人公
 フォルカー・シュレンドルフ監督の「魔王」(フランス、ドイツ、イギリス合作)は、無垢(むく)な少年の心を持ったままおとなになった自動車修理工アベル(ジョン・マルコビッチ)の波乱の一生に、ナチズムの盛衰が重ね合わせてたどられていく。ここでは、アベルの人生を左右する存在として子どもたちが描かれている。
 アベルは、フランス人でありながら、捕らわれたドイツ軍のために働くことで自分を生かす。ナチの青少年組織ヒトラー・ユーゲントを思わせる「幼年学校」で少年たちの世話をするアベルは、彼らに慕われる。しかしソ連軍が迫ってきた時、アベルは彼らに投降することを呼びかけるが、少年たちに逆に殴り倒される。そしてナチス収容所から逃げてきた少年を命懸けで救おうとする。
 七九年の話題作「ブリキの太鼓」の監督作品らしく、屈折した主人公によって、ナチズムの残酷さを伝える。
 とりわけ、興味を引かれたのは、「幼年学校」で訓練を受ける子どもたちの描かれ方である。彼らは集団行動に顔を輝かせ、ソ連軍から命を救おうとするアベルに「僕らの命は総統のもの」と言って逆らう。ナチズムの“魔力”に誘われながら、結局は、全滅していく、時代の中のあまりに悲惨な子どもたちだった。
 「魔王」も「蝶の舌」も、ファシズム下とその前夜を生きる子どもたちを描き出した。その姿を通して今に続く戦争と平和の問題が突きつけられ、描かれた時代と社会の真実が感動を呼ぶ。
子どもたちをまもるために
 フランス映画「今日から始まる」は、現代の幼稚園の子どもたちに焦点を当てている。
 牧歌的な田舎の風土のなかの家族の姿を描いた「田舎の日曜日」で知られるベルトラン・タヴェルニエ監督の、それとはまるで異なるタッチの描き方に驚かされる。
 舞台は、かつて栄えた炭鉱もさびれたフランス北部の街。福祉に四割以上の予算を当てる革新的行政だが、限界もある。行き届いた保護を進められない行政のもとで、子どもたちを守ろうと幼稚園長が奮闘する。
 燃料費さえ事欠く貧しい家庭、シングルマザー、親からの虐待等々、子どもたちをめぐる環境は厳しい。熱血漢の園長は、現実の重みに打ちのめされそうな時、愛する女性や仲間の女性教師たちに助けられる。
 たたかいなしに、そして、ともに歩む力の存在なしに、子どもたちの命が守られることはないのだ、と痛感させられる。
 一方の「こどもの時間」(野中真理子監督)は、埼玉県桶川市にある、私立いなほ保育園の子どもたちを描くドキュメンタリー映画である。
 手づかみでの食事や泥んこ遊び。まきでたき火をし、なべでおこげを作り、夏には、畑にできたスイカをほおばり、親たちの手づくりのプールで遊ぶ―。そうした子どもたちの姿を六年間、カメラがひたすら追った貴重な記録である。あくまで子どもたちに寄り添い、「風のにおいを感じて遊ぶ」子どもたちをとらえる。八〇年代のシリーズ「さくらんぼ坊や」(山崎定人監督)を思い出しながら、この女性監督の描く子どもたちの世界に引き込まれていった。
 ここには、おとなの肉声は出てこない。だが、子どもたちの生き生きした姿に胸を打たれながら、彼らを守っている力の存在を強く感じさせられる。
 子どもたちに大きな焦点を当てて描いたいくつかの作品をたどってみたが、アメリカの報復爆撃を怖れて避難するアフガニスタンの子どもたちのいたいけな映像に、目は引き寄せられていく。子どもたちの「受難」の時代を過去のものとするために、これらの映画が提起する問題に深く考えさせられるのだ。(こだま ゆきえ)
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2001年10月12日『赤旗』)(Page/Top

ナチとのたたかい伝える/ローマ解放歴史博物館/年1万人の訪問者 欧州各国からも

 第二次世界大戦末期のイタリアでは、ムソリーニの失脚後に同国を占領したドイツ軍に対し、幅広い市民が共同して反ファシズムのたたかい(レジスタンス)を繰り広げました。ローマでのたたかいを伝える「ローマ解放歴史博物館」を訪れました。
 (ローマで島田峰隆写真も)
 「ここはローマのレジスタンスを振り返るにはもってこいの場所ですよ」―博物館運営委員のアントニオ・パリゼッラ教授(56)は強調します。
 ローマ中心部のテルミニ駅から地下鉄で二駅。博物館の建物はもともと、逮捕されたレジスタンス戦闘員のろう獄として使われていたものです。一九五五年に博物館としてオープンしました。
 建物内の窓はドイツ軍によって通気孔だけを残してすべてれんがでふさがれました。薄暗く、重い空気が漂います。
 この日はちょうど、「ローマ・ドイツ人学校」の先生たちが見学にきていました。その一人、イバナ・シモネッリさんは「人権を尊重し、平和を愛する人間を育てるには、過去の過ちを学ぶことが大切です。イタリアとドイツで協力して歴史を学べるのは良いことですね」と語ります。
 博物館には戦闘員の所持品やドイツ軍の目を盗んで衣服の裏などに書かれた家族からの手紙、ナチの通達文書、非合法で出版されたレジスタンスのビラなどが展示されています。付属図書館には約二万冊の専門書が収められ、大学生や市民が研究に利用しています。
 「訪問者が一番衝撃を受けるところ」(パリゼッラ教授)というのが、戦闘員を閉じ込めていた独房です。
 幅わずか一・二メートル、奥行き三メートル。壁一面には入獄者がくぎを使って彫り込んだカレンダーや暗号、詩やメッセージが残されており、当時のたたかいの壮絶さを今に伝えます。中にはいまだに解明できない暗号もあるといいます。
 博物館を訪れる人は教師や生徒を中心に毎年約一万人。イタリアだけでなくドイツやオランダなど欧州諸国からの訪問者も大勢います。
 パリゼッラ教授は「レジスタンスには軍人だけでなく女性や修道士なども多く加わり、仕事のボイコットなどの形でたたかいました。今後はコンピューター画像も使ってローマでのたたかいの全体像をより詳しく紹介したい」と話していました。
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2001年10月06日 『赤旗』)(Page/Top

ローマ 戦争と平和の足跡を訪ねて 

サン・ロレンツォ地区の空爆跡

観光名所であふれる「永遠の都」ローマ。一見すると中世からの変わらぬ風景が残るこの街にも、第二次世界大戦の傷跡やファシズムと戦った人々の足跡が数多く残されています。戦争の記憶を語りつぐもう一つのローマを訪ねました。中心部のテルミニ駅とローマ大学(サピエンツァ)に挟まれたサン・ロレンツォ地区は、ムソリーニの独裁体制が倒れる直前の一九四三年七月、連合軍による激しい空爆を受けました。
 同地区へ入ると、建物の半分をえぐり取られたようなアパートに出くわしました。「空爆で壊されたんだよ。午前十一時半ごろから三時間近く次々と爆弾が降ってきた。その恐ろしさは今でも忘れないよ」―空爆を経験したモッチ・セルジョさん(72)は当時の様子を説明します。空爆では約一万人が負傷し三千人が死亡したといわれます。
 これらの建物はレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)を描いたロッセリーニ監督の名画「無防備都市」の撮影にも使われました。

無数の銃弾跡残る建物

 一九四三年夏にムソリーニが失脚した後、ヒトラーは北イタリアにナチスのかいらい政権を樹立、ドイツ軍がローマにも進駐します。有名な「トレビの泉」からほど近いラゼッラ通りの一角には、ドイツ軍の蛮行を今に伝える六階建ての建物がありました。
 当時、ドイツ軍が建物の前を行進している最中、レジスタンス(反ファシズム抵抗運動)の戦闘員が仕掛けた爆弾が爆発。戦闘員が建物内にいると考えたドイツ軍は、建物に向かって機関銃を連射しました。このため建物の三階から上の部分は無数の銃弾跡で覆われてしまったのです。
 戦後、建物の一部は壁の塗り替えなど修復が行われましたが、銃弾跡の穴だけは記憶の風化を防ぐために当時のまま残されています。

アルデアティーネ洞くつの虐殺

 ドイツ軍占領時代の最も悲劇的な事件はローマのはずれにあるアルデアティーネ洞くつでの大虐殺でした。
 一九四四年三月二十三日。ドイツ軍はレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)の戦闘員による反撃で、一度に三十三人のドイツ軍兵士を失いました。知らせを聞いて憤激したヒトラーは、ドイツ兵の死者一人につき十人の割合でイタリア人を処刑せよと命令を下しました。
 翌二十四日、アルデアティーネ洞くつには拘留されていたユダヤ人や共産党員に加え、一般市民など合計三百三十五人が集められ次々と銃殺されました。中にはわずか十四歳の少年もいました。
 現在、洞くつには犠牲者の墓と博物館が置かれ(写真)、全国から人々が献花に訪れています。

尊敬されるレジスタンス (Page/Top

 連合軍の到着でドイツ軍から解放されたローマでも、レジスタンス(反ファシズム抵抗運動)は大規模に繰り広げられました。市内にはその記念碑を無数に見ることができます。
 下院の建物から西へ十分程度歩いたスクローファ通り三九番地もその一例。ここには熱心なレジスタンス活動家、アルベルト・マルケージが住んでいました。居酒屋を経営していたマルケージは一九四四年三月、ナチスに逮捕され銃殺されます。
 戦後、彼の自宅入り口には記念碑が作られ、花輪が飾られました。
 「真の同志であり、国民の友であったことの永遠に続く記憶として、同志たちはこの掲示を据える」
 反ファシズムの伝統が市民に脈々と受け継がれていることが感じられます。(

 (ローマで島田峰隆)

( 2001年09月02日『赤旗』)(Page/Top

ユダヤ人虐殺計画、ここで立案/館が告発するナチス犯罪/ドイツ・ベルリン郊外のワンゼー

 ドイツの首都ベルリンは暑い日が続いています。南西郊外のワンゼーは湖や森、高級住宅地が広がる地域。その一角に立つ建物が今、静かにナチスの犯罪を糾弾しています
 ワンゼー会議場記念館。ここに一九四二年一月二十日、ナチスの参謀が集合し、欧州規模でのユダヤ人殺害計画を決めました。
 同館は、ナチス犯罪を多数の写真、文献で告発しています。
 この会議参加者は十五人。ユダヤ人虐殺計画を立てたラインハルト・ハイドリヒ。すでに六万人を殺していた「殺人エキスパート」ルドルフ・ランゲ。アウシュビッツ(現オシフィエンチム)強制収容所への移送・殺害の責任者アドルフ・アイヒマン…。かれらの末路は、死刑、自殺、逃亡など戦犯にふさわしいものでした。
 この会議直前の四一年十二月、日本は連合国に宣戦しています。展示は、他民族を虐殺した両ファシズムが打倒されたところで結ばれています。
 (ベルリンで坂本秀典)
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2001年08月22日『赤旗』)(Page/Top

日本占領下 飢餓・爆撃の犠牲者悼む/記念碑 一家が守り通した/ベトナム8月革命56周年を機に ハノイ市が修復決定

 ベトナム八月革命(一九四五年八月十九日)の五十六周年を機に、首都ハノイの人民委員会(行政機関)はこのほど、日本占領下で飢餓と爆撃のために死亡した市民の記念碑を修復することを決定しました。
時代が移る中で忘れられていた
 この記念碑は、ハノイ市街地南部の入り組んだ住宅地の一角にあります。民家の庭のような狭い敷地で木立に囲まれた記念碑には、「一九四四―四五年、爆撃と飢餓によって死去した同胞の千年の安息の地」と記されています。
 第二次世界大戦末期、日本占領下で、日本軍による食糧の強制徴発と飢きんのために、ベトナム全土で当時の人口の一割に当たる二百万人が餓死したとされます。ハノイ市内の餓死者と、日本軍に対する連合軍の爆撃に巻き込まれて死亡した市民を追悼するため、五一年に記念碑が建立されました。
 しかし、第二次大戦後三十年にわたる抗仏、抗米の戦争を経て、ドイモイ(刷新)の時代へと移り変わる中で、記念碑の存在は多くの市民から長く忘れられていました。
 その記念碑を一つの家族が守り続けていました。隣家のグエン・ティエン・タンさん(41)、チャン・ホン・ニュンさん(44)夫婦と三人の子どもたちです。夫のタンさんのシクロ(人力三輪タクシー)の稼ぎで生計を立てる貧しい家族です。
骨つぼ200個分も人骨が散乱して
 妻のニュンさんは北部デルタのタイビン省の出身です。幼いころ、祖父母や両親から日本占領下で起きた餓死の話を聞かされていました。穀倉地帯のタイビン省でも多くの餓死者が出ました。「飢えた人々は馬ふんに混じったトウモロコシの粒まで食べたそうです」
 「十二年前にこの家に引っ越してきた時、掘り返された敷地に人骨が散乱していました。市場で骨つぼを買ってきて納めました。骨つぼは二百個も必要でしたが、いったい何体あったかは分かりません」(ニュンさん)
 一家は、犠牲者供養の線香を絶やしませんでした。「子どもたちも記念碑の掃除を手伝ってくれます」(タンさん)
 ベトナムと日本の歴史学者が九五年に共同で行った「四五年の二百万人餓死」調査でこの記念碑を訪れたことのあるバン・タオ教授は、雑誌『スアナイ(古来)』七月上旬号への寄稿文の中で、この記念碑が放置されていることを批判しました。さらに、「ファシズムの台頭を断固阻止するわが民族と人類の意思を示そう」と、二百万人の餓死者を追悼する記念碑を新たに建立することを訴えました(本紙七月三十日付既報)。
多くの人々が訪れるように
 バン・タオ教授の訴えに各紙やテレビも呼応して、この記念碑の保存が一家族の善意にまかされている現状を批判しました。こうした世論の高まりの中で、ハノイ市人民委員会も記念碑修復を決定しました。
 「私自身は日本軍の支配を体験していません。こんなに多くの同胞が亡くなったことに心を痛め、供養しなければと思っただけなんです」。ニュンさんは、ハノイ市人民委員会の幹部など多くの人々が記念碑を訪れるようになったことを喜んでいます。(ハノイで鈴木勝比古 写真も)
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2001年08月22日 『赤旗』)(Page/Top

第2次世界大戦終結56周年 8・15を前に 中国、イタリアの識者に聞く

ローマ解放歴史博物館 アントニオ パリゼッラ教授/ファシズムとのたたかいこそ尊敬される
 第二次世界大戦中にレジスタンス(注)に参加した戦闘員の遺品などを展示する「ローマ解放歴史博物館」のアントニオ・パリゼッラ教授(56)に、レジスタンスの意義とその精神を次世代に伝える重要性について聞きました。(ローマで島田峰隆)
 第二次世界大戦では、ドイツとイタリアが人種差別の概念に基づいてファシズムを欧州諸国に押しつけ、自由と平和を破壊しました。アジアでも日本ファシズムが「共存・繁栄」といううたい文句で侵略を進めました。
 レジスタンスはこれらファシズムに対し、文化や人種の多様性を掲げ、自由と平和、民主主義を求めて対抗しました。そして戦後、レジスタンスの掲げた要求は社会の基礎、原点に据えられました。
 つまり、歴史を振り返ると、レジスタンスによってファシズムは敗北させられ、誤りが明確にされたのです。自由や平和が尊いたたかいによって得られたものだということも分かります。
 イタリアにも右派から左派までさまざまな政治勢力がありますが、反ファシズムこそが正しかったという認識は一般的です。ファシズムとたたかった人々こそが本当に尊敬されるし、ファシズムの誤りを認識することこそが国際社会の基本だという認識です。
 もちろん、極右や一部の右派政治家からは「レジスタンスは権力闘争的な内戦だった」とか、「ファシズムにも積極面があった」と歴史を「見直す」動きも出ています。
 しかし、これは結局はレジスタンスの歴史的意義を過小評価することでしかありません。その根本には、事実にもいろんな側面があるという考えがあるのです。
 しかし、例えばこの博物館にあるレジスタンス戦闘員の遺品や写真が物語るのは、ドイツ占領軍とたたかって勝利し、それが戦後の原則になったという一つの事実です。ここには「見直し」のできる余地は何もありません。
 歴史の「見直し」が世間に通用しないから、最近は極右などが、「ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)はなかった」とする「否定主義」を持ち出しているのです。
 昨年、レジスタンスの歴史を書いた学校教科書が偏っていると右派政党から攻撃がありました。しかし、今日のイタリアではファシズム時代のように国が統制した教科書を一方的に押しつけるというシステムはありません。党派本位の偏った記述などはありえないのです。
 当然ながら、この攻撃はあぶくのように消え去りましたが、教科書の内容は今後の社会にかがみのように映し出されます。
 幸い、博物館には毎年約一万人程度の人が訪れ、その八割が若者です。ドイツや米国からの訪問者も多く、一度訪問した子どもが親を連れて再度くることもあります。レジスタンスの歴史を学ぶ若者が多いことは、心強いことです。
 (注) レジスタンスとは、ムソリーニの失脚後、一九四三年九月から四五年四月にかけてドイツ軍がイタリアを占領した際に、中北部の都市を中心に広がった反ファシズム抵抗運動。共産党員や自由主義者、カトリック関係者など合計で約二十五万六千人の市民が参加しました。うち犠牲者は約七万人にのぼりました。
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2001年08月11日 『赤旗』)(Page/Top

歴史教科書 靖国参拝/好戦主義、ファシズムを鼓舞/日本の侵略で200万人餓死/歴史の真実変えられない

ベトナム歴史学者 バン・タオ教授が語る
 ベトナムの近代史研究の第一人者で、日本・ベトナム共同調査による著作『ベトナムにおける一九四五年の餓死』の共同著者であるバン・タオ教授はこのほど、小泉首相の靖国神社参拝、歴史教科書問題、ベトナムの二百万人餓死などについて本紙に語りました。(ハノイで鈴木勝比古)
 (小泉首相の靖国神社参拝問題について)
靖国神社へ懸念
 小泉首相が靖国神社を八月十五日に参拝しようとしているといいます。私はかつて日本を訪問し、多くの美しい寺や史跡を訪れて、その素晴らしさに感動しました。しかし、靖国神社を訪れたときには次のような懸念を覚えました。
 この神社にはアジア各国を侵略し、アジア諸民族にたいして血にまみれた罪悪を犯した犯罪者が祭られている。この戦争では日本の国民も犠牲となり、死亡している。ここに参拝するのは、この侵略者を追悼することになるのではないか、日本の国民や子どもたちにたいして、好戦主義、ファシズムを鼓舞することになるのではないかと。
 日本の首相が靖国神社を参拝すると聞いて、世界各国の人々も、日本の指導者が過去のファシズムを鼓舞する行為だと懸念するでしょう。日本の首相は靖国神社を参拝すべきではありません。
 (歴史教科書問題について)
 日本は軍隊をアジア各国に派遣して、侵略し、征服し、奴隷にしようとしました。その中にベトナムも含まれます。ベトナム民族は決起して、八月革命を成功させ、日本ファシズムをインドシナとベトナムで打ち破ることに貢献しました。
 この事実は、この戦争が日本の一部の歴史学者が主張するような「正しい戦争」ではなかったことを示しています。これらの学者は、日本はアジアの諸民族を白人植民地主義者から解放しようと意図したと言っていますが、日本軍のベトナム侵略を見てもこれは間違っています。日本は一九四五年三月九日にクーデターでインドシナのフランス植民地主義者から権力を奪いました。これはベトナム民族を解放するためではありませんでした。日本の劣勢のなかで、フランス軍が背後から攻撃することを恐れたからです。
 (四五年のベトナムでの二百万人の餓死について)
食糧収奪の結果
 日本とベトナムの歴史学者の共同調査の結果が『ベトナムでの一九四五年の餓死』にまとめられ、日本語にも翻訳されています。日本政府に賠償を要求するために調査したのではありません。科学者として歴史の真実を明らかにするためです。
 クアンチ省以北の二十三地点で数年間にわたり、数回にわたって調査しました。村村で家族から聞き取り調査をしました。その結論として、二百万人以上の餓死を確認しました。それ以下ではありません。その後、多くの日本の学者や記者に会いましたが、この真実に疑問を挟む人はいませんでした。
 問題はこの惨禍を引き起こした原因は何かです。フランスの長期にわたる植民地支配の結果か、それとも飢きんによるものか、米国の爆撃による食糧輸送の途絶か。あるいは当時のチャン・チョン・キム政権(日本のかいらい政権)による食糧売買の禁止のせいか。さまざまな原因はあるにしても、日本ファシズムによる食糧収奪が主因であるというのが私たちの結論です。
 日本軍は食糧を収奪するとともに、ベトナム独立を主張する「ベトミン」の抵抗力をそぐために、その胃袋を攻撃したのです。食糧が農村に運ばれれば、「ベトミン」が力を得ると考えたのです。
 (過去の真実についてのアジア各国の交流について)
 ホー・チ・ミン主席はアジア各国人民の連帯を常に強調していました。ベトナムはすべての国や国民と友人になることを望んでいます。二十一世紀は科学技術の発展の世紀であり、歴史の真実を覆い隠すことは不可能です。日本が歴史の真実を認めることは世界の評価を高めます。平和、友好、協力のもとに両国がともに発展することが望ましいのではないでしょうか。
 バン・タオ教授の略歴一九二六年四月二十九日、ベトナム北部ハイズオン省の生まれ。七十五歳。七二年から八〇年までベトナム歴史学会副会長、八〇年から八九年まで同会長。日本訪問は三回。ハイズオン省で、近隣の家族が餓死するのを直接、目撃しました。「私の家の隣のチュンさんの家族は一家四人が死亡、向かいのキンさんの家族は五人のうち一人だけ生き残った」と語りました。
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2001年08月08日『赤旗』)(Page/Top

旧日本軍占領下の惨事――餓死者追悼の記念碑建設を/ベトナムの歴史家が訴え

 【ハノイで鈴木勝比古】ベトナムの歴史家バン・タオ教授が、雑誌『スアナイ(古来)』(月二回刊)最近号に「一九四五年同胞餓死記念碑を建設しよう」と題する巻頭文を寄稿し、旧日本軍占領下のベトナムで餓死した二百万人といわれる犠牲者を追悼する記念碑の建設を提起し、「ファシズムの台頭を断固阻止するわが民族と人類の意思を示そう」と訴えました。
 バン・タオ教授は、東京大学の古田元夫教授などとの日越歴史家の「一九四五年のベトナムにおける餓死」についての共同調査を紹介しています。
 タイビン省ティエンハイ県のタイルオン集落で三分の二が死亡、ハイズオン省トゥーキー県のニューティン集落では三百五十一人が餓死、そのうち百二人が未成年であったことなど、中部のクアンチ省から北部のカオバン省までの二十三の地点での調査結果を示し、「六カ月間で二百万人の生命が奪われた」と結論づけています。
 同教授は、「すでに五十六年が経過し、最も若い世代も『古希』の年齢に達している」として、今後の世代にこの記憶を伝えるために記念碑の建設を呼びかけています。
 バン・タオ教授はこの巻頭文で、最近、韓国の歴史家による、日本の歴史教科書の史実わい曲にかんするシンポジウムに参加したことに言及し、「(韓国の)同僚は真実のために勇敢にたたかい、同胞の生命にたいする責任を果たしている」と述べています。
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2001年07月30日『赤旗』)(Page/Top

おはようニュース問答/この夏、話題の映画がいっぱいだね

 みどり 夏休みを前に、映画の話題作が並んでるわね。日中合作のNHKドラマ「大地の子」で主人公の父親を演じた俳優さんが、銭湯のおじさんを演じてる映画「こころの湯」を見たけど、北京の大衆浴場を舞台にした人々の心の通い合いが胸に染み通ったわ。
 はるか 中国映画ね。私は、「山の郵便配達」を見たけど、山道を踏み分けて郵便を届ける仕事をしてきた配達人の父親の誠実さが、とても印象的だった。
技巧にはしらず
 みどり 最近の中国映画では、若い監督たちが、良い仕事をしているのが目につくわね。
 はるか 技巧にはしるのではなくて、人間をじっくり描いて見せてくれる。
 みどり 技巧といえば、アメリカ映画「パール・ハーバー」は、日本軍の真珠湾攻撃シーンの特撮が呼び物だったわね。
 はるか ええ。四一年十二月八日、アメリカでは七日の日本軍の真珠湾奇襲が、特撮を駆使して描かれる。三人の男女の愛をからめているんだけど、ドラマがあまりにも薄くて―。
 みどり 中国への侵略戦争を進めていた日本軍が、新たな侵略の活路を封じられ、真珠湾を攻めて米英との戦争を始めた。アメリカ側から見れば、ファシズムに対する反ファシズムのたたかいだったんだけど、そういう肝心の戦争の骨格がここではぼやけてるわ。
 はるか アメリカ映画といえば、スピルバーグ監督の「A・I・」が観客を集めているわね。
 みどり 愛をインプットされた少年ロボットの数奇な歩みが、愛らしさをもよおしたり、悲哀感を抱かせたり。人間と機械の関係、地球の未来など、いろいろ考えさせられる。
 はるか 冗漫な部分もあって、私には、ちょっと期待はずれで残念だったわ。
親子で楽しめる
 みどり 親子一緒に楽しめる作品としては、ケストナーの原作を映画化したドイツ映画の「点子ちゃんとアントン」。子ども同士の友情に泣かされちゃった。日本映画では、宮崎駿監督の四年ぶりのアニメ作品「千と千尋の神隠し」の上映が始まるね。
 はるか 映画館での出会いが楽しみね。〔2001・7・18(水)〕
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2001年07月18日『赤旗』)(Page/Top

朝の風/ロシア映画界の良心

 新しいファシズム容認の動きに、ロシア映画界でもきびしい告発が起きた。六月にサンクトペテルブルグで、「人間へのメッセージ」をモットーに国際ノンフィクション映画祭が開かれたとき、レニ・リーフェンシュタール女史の悪名高いナチ・プロパガンダ映画が公開上映されようとしたからである。
 女史はヒトラーお気に入りの女性記録映画作家として知られ、一九三四年ニュルンベルクで開かれたナチス党大会の記録「意志の勝利」、一九三六年のベルリン・オリンピック大会の「オリンピア」二部作(「民族の祭典」「美の祭典」)がとくに有名。今回上映されようとしたのも、この二作だが、女史自身は九十歳を超えた今日も健在で、自分の過去について一切反省も謝罪も拒否していて、世界の映画人の批判を受け続けている。
 今年は一九四一年六月、ナチス・ドイツがソ連に侵攻してから六十周年、しかもサンクトペテルブルク(旧レニングラード)は九百日の包囲下で五十万の犠牲を出した。その街でナチスを賛美した女史の記録映画が一般上映されるなど、絶対に許せないという声が起きて当然である。ミハイル・グレヴィチやナウーム・クレイマンら批評家を中心とした抗議の結果、映画祭は公開上映を中止、非公開試写にとどめた。
 現代ロシア映画の市民的良心の勝利だ。(映)
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2001年07月17日 『赤旗』)(Page/Top

加害の歴史にむきあう青年たち/オーストリア/ナチス強制収容所解放式典 36カ国から7千人参加

  オーストリアで昨年、ナチスを賛美するハイダー氏を指導者とする極右の自由党が政権入りしました。そのオーストリアで近年、一九三八年から四五年までのナチス・ドイツによる併合時代に少なくない国民がユダヤ人迫害に加わった歴史にも目が向けられるようになっています。(マウトハウゼンで岡崎衆史 写真も)
 死の階段
 オーストリア中北部のマウトハウゼン・ナチス強制収容所で六日、解放五十六周年記念式典が行われ、三十六カ国から約七千人が参加しました。今年は、特に若者の参加者が多く、元収容者の話を熱心に聞く姿があちこちで見られました。
 この日、バスや自家用車で詰め掛けた人たちが朝早くから追悼記念碑や旧収容所内を見学しました。
 中でも、同収容所で最も有名な「石切り場」と「死の階段」に人々が殺到しました。石切り場は、収容所がある高台より低い場所にあり、高さ約四十―六十メートルの花こう岩の壁に囲まれ、長径四百メートルほどのだ円形をしています。百八十六段ある「死の階段」は、石切り場から収容所まで行く道の一部を構成しています。収容者たちは当時、建物などに使う重さ五十キロ前後の切り出した石を背負って階段を上りました。夏は十二時間も働かされました。石を落としたり、疲れて運べなくなれば、死が待っていました。
 生き証人
 この急な階段を元収容者が一歩ずつゆっくり上る姿が見られました。若い人でも、八十歳に達しています。途中休みながらも自力で上っていきます。気を使いながら付き添う若者たちは、彼らの説明に熱心に耳を傾けていました。
 会場で特に目立ったのは、歴史の「生き証人」から学ぼうとするこのような若者たちでした。
 その中の一人、ウィーン大学で歴史を学ぶ男子学生トービッシュ・ユルゲンさん(22)。「初めて収容所を訪ねました。今まで写真を見たことはありますが、実際に来て見て、あまりにひどい…。ドアを開けて収容所に入るとなんともいえない空気が流れていました」と一気に語りました。
 同級生のサルモホーファ・アンドレアスさん(22)も「僕は三回目ですが、決してホロコースト(民族皆殺し)を繰り返してはならないという思いを新たにしました」と語りました。
 ナチス賛美
 犠牲者追悼式典では、シュトラッサー内相(国民党)が政府を代表してあいさつし、「ナチズムは予期せぬところに現れる」とのべると、若者から失笑とともに抗議が起きました。国民党が連立している自由党の指導者ハイダー・ケルンテン州知事(前党首)が「第三帝国の雇用政策には秩序があった」とのべるなど、ナチス賛美を繰り返し、国の内外でひんしゅくを買っているからです。
 元収容者の一人で、ロシアから参加したティグラン・ドラムビアン氏(80)は身体に押された収容者番号を見せながら、「極右のことが本当に心配です。あのひどい時代に逆戻りしてはなりません。ファシズムを繰り返してはなりません」と訴えました。そして「こんなに多くの若い人たちが追悼式典に集まってくれて安心した」と付け加えました。
  マウトハウゼン強制収容所 オーストリア第三の都市リンツから東方約二十二キロに位置する強制収容所で、本部と四十七の小収容所から成ります。ナチス・ドイツがオーストリアを併合直後の一九三八年八月に建設。
 収容者はユダヤ人や抵抗運動の活動家、共産党員、他の政治囚、ソ連軍捕虜、一般市民など多岐にわたり、国籍は四十カ国を超えます。解放日の四五年五月五日までに収容された人は男性約十九万二千人、女性約八千五百人で、うち十万三千人以上が処刑や重労働で殺されました。
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05月25日 『赤旗』)(Page/Top

中道左派への批判の強さ示す/イタリア総選挙

  [解説]イタリア総選挙開票で、野党・右派連合が上下両院で過半数を制する勢いを見せていることは、欧州単一通貨ユーロ参加を理由に国民サービスを切り捨ててきた中道左派政権への国民批判の強さを示すとともに、その不満、批判を巧みに利用して支持を取り付けたベルルスコーニ氏の戦略が一定成功したことを示しています。
 中道左派政権が増税や財政支出抑制などを続けたことをベルルスコーニ氏は「非民主的」だと批判し、「課税には市民の同意が必要だ」と強調しました。
 またバルカン地域などからの不法移民の増加に伴い犯罪が増えていることにも「五年前と比べて不法移民は少なくなりましたか」「あなたは道路で安全に感じますか」と有権者の不安をあおり、中道左派政権の移民対策の“弱腰”を批判しました。
 こうした宣伝を自らの支配するテレビ局なども通じて大規模に行い、国民に浸透させていったことも勝利の一因といえます。
 しかし右派連合が政権についたとしても内部矛盾を抱え、前途多難という見方も出ています。
 その一つが連携政党間の主張の違いです。連携を組む「炎の三色旗」はもともと国民同盟がムソリーニのファシズム路線を放棄したことに反発して結成された党で国民同盟とは立場が異なります。国民同盟も内部にネオ・ファシストをかかえています。また北部同盟は北部地域の分離・独立を主張する政党で、国民同盟の主張する「統一国家」や「炎の三色旗」の掲げるナショナリズムとは矛盾します。
 英字紙インターナショナル・ヘラルド・トリビューンは「彼らの落ち着かない政府協力は、勝利してどんな政府を作ろうとも、それが短期間のものになることを示している」と指摘しました。(ローマで島田峰隆)
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05月15日 『赤旗』)(Page/Top

ファシズムの過ち忘れない/イタリア解放記念日 全国でデモ、ミラノで5万人

  【ミラノ25日島田峰隆】イタリアの「解放記念日」にあたる二十五日、恒例のファシズムとのたたかいを振り返る催しが全国で行われました。ネオナチの動きや右派政党の「歴史見直し」攻撃も目立つなか、過去の過ちを直視し、反ファシズムの伝統を後世に正しく伝える大切さが強調されました。
 イタリア北部の都市ミラノでは約五万人の市民が参加。「ファシズムは許さない」「歴史の真実と記憶を守ろう」などと書いた横断幕を手に、パルチザンの歌を歌いながら市内を行進しました。
 妹と参加した大学生のアッズッラ・セナトーレさん(24)は、「民主主義と自由を勝ち取った歴史を伝えることが大切になっていると思います。歴史を踏まえないと、また同じ過ちを犯すことになりかねません」と語ります。
 伊最大の労働組合、イタリア労働総同盟(CGIL)のコッフェラーティ書記長は、「よりよい社会をつくろうと思えば、過去の出来事の道徳的、政治的責任を免罪しないことが必要だ」と強調し、歴史改ざんの動きを批判しました。
 首都ローマでは五千人がデモ行進しました。◇
 一九四五年四月二十五日、連合軍の到着に先立ってイタリア北部の諸都市が国民の手によって解放されました。戦後、この日は「解放記念日」として祝日に指定されました。
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04月27日『赤旗』)(Page/Top

侵略の史実伝えるイタリアの教科書/“国際社会の常識を子どもらに”と教師

  イタリアは第二次世界大戦中、日独とともに枢軸国として侵略戦争を推進しました。日本では侵略戦争を美化する教科書が検定を合格しましたが、イタリアの教科書は自国の侵略も正確に描き、子どもたちが国際社会の常識を身に着けられるようにしています。(ローマで島田峰隆記者 写真も)
 「植民地政策は誤ったもので糾弾されるべきものだということは、もはや常識です。史実をゆがめたり、隠すことはイタリアではできません」―イタリア現代史が専門で学校教科書も執筆しているローマ大学のビドット教授(60)は語ります。
 証言で学ぶ
 イタリアの高等学校(五年間)では最終学年に一年間、一九〇〇年代を学びます。第二次大戦については最低でも数カ月かけて授業が行われます。
 ローマ市内の高校で歴史を教えるエウジェニア・ブランコさんは、「授業ではビデオも使って侵略やユダヤ人虐殺の歴史を教えます。当時のイタリア人将校の日記も資料にしています。実在の証言が重要ですし、ファシズムの反省にたった思想、常識を身に着けることが国際社会で生きる子どもたちには必要ですから」といいます。
 教科書も明快です。
 国立高校で使われる教科書(九九年)は、「イタリアは一九三五年十月初め、エチオピアへの侵略を開始した」と自国の侵略を明記。国内では反ユダヤ主義キャンペーンや出版物の検閲を行ったことにもふれています。
 共産党員らが中心となりレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)を繰り広げたことなど、章をたてて抵抗運動を説明していることも、日本と大きく違う点です。
 日本の侵略
 日本の侵略はどうでしょうか。
 「日本は国境の事故から口実を引き出して、満州を侵略した」
 日本軍が機関車の前で万歳をしている写真も載っています。「中国の都市漢口の鉄道駅を征服した後、歓喜する日本軍」と説明があり、「満州事変」を契機に中国への支配を拡大したことをのべています。
 さらにフィリピンやマレーシアなどに支配を拡大し、「オーストラリアとインドにも脅威を与えた」ほどの侵略ぶりだったと指摘。「アジアの独立」に役立つどころか、明らかな「侵略」だったことを資料をもとに立証しています。
 歴史家の責務
 ビドット教授は、反ファシズム、戦争拒否の思想は「新しい民主主義の基本的思想」とし、「正しい記憶がなければ理不尽な思想もはびこる」とのべ、教科書を書く歴史家の役割にふれました。
 「子どもたちが、過去の歴史を踏まえて現在を考え、行動できるようにすることが必要です。史実を隠さずありのままに記述することが、教科書を書く歴史家の不可欠の責務です」
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04月08日『赤旗』)(Page/Top

ドイツにおける歴史教科書ナチスへの明確な批判

//真実を伝える責任がある

 
 日本軍国主義の侵略戦争を正当化する歴史教科書が文部省の検定を通過しようとし、内外から強い危ぐと非難の声が起きています。第二次大戦中、日本と同様の戦争犯罪を引き起こしたドイツの歴史教育はどうでしょうか。教育現場や教科書作りの関係者に聞きました。(ベルリンで坂本秀典記者写真も)
 ドイツでは、言論・出版はもちろん自由。しかし、ナチスのユダヤ人大量殺害や近隣諸国への野蛮な侵略という歴史を持つ同国では、過去への真剣な反省にたち、そうした行為の賛美や正当化には厳しい姿勢をとっています。
 基本法(憲法)第一条は「ドイツ国民は、侵すことのできない、かつ譲り渡すことのできない人権を世界のあらゆる人間社会、平和および正義の基礎として認める」とのべています。刑法は、この基本法の精神を受け、ナチス政権下での行為を公然と「是認、否定、美化する」とか、刊行物で排外的な宣伝をすることを処罰するとしています。(百三十条など)
 
広く国民に根を下ろす
 こうした考えは、法文上だけでなく、広く国民に根を下ろしています。昨年十一月九日、極右暴力に抗議して全国で三十万人がデモを行いました。ナチスによるユダヤ人襲撃六十二周年にあわせたこの行動に、連邦政府閣僚、与野党や労組指導者、各界著名人が賛同し参加しました。
 首都ベルリンのシャルロッテンブルク・ウィルマースドルフ区のルドルフ・ディーゼル高校。
 歴史教師は五人。その一人、ノベルト・ワイテル氏はナチス時代について、ファシズムの政治体制、議会否定と野党弾圧、テロと暴力、経済的背景、ユダヤ人迫害、戦争と大量殺りく、そして抵抗運動の項目に分けて、詳しく教えているといいます。「十七歳で抵抗運動に参加した青年もいます。どうしてそうだったのか。いまの青年にも理解できるよう説明しています」と語ります。
 
弾圧の史跡に生徒が学ぶ
 また教室の授業だけでなく、首都北東三十キロにある「ザクセンハウゼン強制収容所」跡や市内各地の弾圧・迫害の史跡を生徒に見せることで、歴史への認識が深まるよう努めています。
 ワイテル氏はいいます。「この時代の歴史に力を入れるのは、生徒に罪の意識を植え付けるためではないのです。ドイツの過去にそうした事実があったことをきちんと伝えなければならないからです。新しい世代にも真実を引き継いでいくことです」
 「ドイツでも、『ほかの国にもあったじゃないか』などと犯罪の相対化を試みる人や、歴史の事実への無知もあります。こうした弱点克服のためには学校の場だけでなく、家庭あるいは政治など、社会全体で取り組むことが必要です」

//法と民主主義にてらして

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 ドイツの歴史教科書は、どんな基準で作られているのでしょうか。
 
想像できない侵略戦争肯定
 「ナチス時代を美化したり、侵略戦争を肯定する教科書出版は、ありえないし、想像もできません。許可されることはありません」
 ベルリンの学校青年スポーツ省のヨアヒム・トマ学校監督官は即座に断言しました。
 ベルリンでは、毎年約三十の教科書出版社から百五十の検定申請が行われています。数学などの自然科学では検定はありませんが、社会科学にはあります。
 三人の学校の先生で専門委員会がつくられ、教科書を鑑定、州当局に勧告します。問題があれば、出版社と相談します。
 ドイツは連邦制をとっていることもあって、教科書の選定を含め教育行政は各州の管轄。しかしばらばらではなく全国的に教育内容の調整を図る常設文化相会議が定期的に開かれます。
 一九九五年九月の常設文化相会議の指針は、ナチスの項で次のようにのべています。
 「ナチスは民族と社会的な理念を悪用し、民主主義の伝統を乱暴かつ計画的に破壊した。この犯罪的な政策は、第二次世界戦争と大量殺りくに導いた。四十年以上にわたるドイツ分断はその結果である」
 また近隣諸国との関係での教育課題として、「東西分け隔てなく接して関係を大切にする」「真の和解をもたらし、偏見やわだかまりをなくし、相互に先入観なく対応する」よう教えるとのべています。
 
抵抗運動にも多くのページ
 首都の学校で使用されているいくつかの教科書を見ると、説明文のほか写真、地図、絵画、あるいは、ナチス幹部の発言も多数紹介されています。ナチスが何を主張し、何をしたかを冷静に判断する資料です。日本では、ほとんど無視されているか、軽視されている共産党や労組運動家、宗教者、自由主義者、学生などの抵抗運動にも多くのページが割かれています。
 大手教科書出版社コルネルセンのゲーツ・シュバルツロック社会科編集長は、「教科書検定制度は各州さまざまですが、原則はどこも同じ。基本法、刑法および常設文化相会議の指針にかなうかどうか、ドイツ民主主義社会の基本的価値と一致するかどうか、新しい研究成果が生かされているかどうかです」とのべました。(ベルリンで坂本秀典記者写真も)

//共通した認識育てる対話

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 歴史教科書をめぐって日本とドイツとの大きな相違は、ドイツの歴史家や教育者自身が、戦後早くから近隣諸国の研究者と対話をすすめてきたことです。
 この対話は、中央や州政府の協力・支援ともあいまって、国民相互の共通した歴史認識を育てるために大きな役割を発揮してきました。欧州では東西の歴史家による共著「欧州の歴史」も発行されています。
 この対話の中核となってきたのがドイツのゲオルク・エッカート国際教科書研究所です。
 この研究所は、ニーダーザクセン州ブラウンシュワイク市にあり、世界百カ国以上十五万冊の教科書がそろっています。
 
国際会議開き意見を交換
 研究所は、世界の教科書を比較・研究しており、毎年研究者の国際会議を開いて意見を交換、勧告を発表します。この勧告に拘束力はありませんが、研究所理事にドイツ十六州のうち十三州の文化省代表が参加していることから、教科書作成上欠かせない意見です。
 国際間協力では、特に英、仏、ポーランドが先行してきました。
 ライナー・リーメンシュナイダー研究所員は「歴史教育は国際親善をはかり、他民族への理解を助け、世界平和に役立たねばならない。そのためにも、教科書には真実が書かれる必要がある」と研究所の勧告や活動の意義をのべます。
 ドイツが侵略し、国境問題もかかえ、長くわだかまりのあったポーランドとの間で、双方の歴史家たちは七七年に両国の「歴史と地理の教科書に対する勧告」を公刊しました。七二年から四年間にわたった協議をへてまとめたものです。歴史教育のあり方によっては当事国間の敵対感情を再生産しかねません。侵略した側とされた側が共通の歴史認識に立つことによって、過去の克服をめざしたのです。
 近く「二十世紀のドイツ・ポーランド関係史」が発行されます。リーメンシュナイダー氏は「こうした発展も、対話の積み重ねがあったからこそ可能になったのです」と語ります。
 
堂々と議論し批判を広げて
 「日本での歴史教科書をめぐる最近の動きも聞いています。ドイツでも、ここまで来るには長い時間がかかりました。誤った主張を押さえつけるのでなく、堂々と議論をたたかわせ、批判を広げることが大切です」
 若い世代は、どう考えているでしょうか。
 ベルリン・フンボルト大学の学生は語ります。
 「ナチスの犯罪行為は、高校の授業のほか、映画や文学を通じてよく知っています。迫害、大量虐殺行為があったと確信します」(国民経済学を学ぶヤスミさん)。「学校では反ナチ運動を勉強しました。『虐殺がなかった』という主張には説得力はありません」(哲学を学ぶインゴ・ドライリッヒ君)。
 主張は明快でした。(ベルリンで坂本秀典記者写真も)

(04月03日 『赤旗』)(Page/Top

パルチザン協会の全国大会が閉幕/歴史の真実を次の世代に伝える教育の重要性強調/イタリア


 イタリア北部の都市パドバとアバノ・テルメで開かれていた「イタリア全国パルチザン協会」の第十三回全国大会は三十一日、三日間の日程をすべて終えて閉幕しました。最近、右派の政治家などから反ファシズムの伝統を抹殺しようとする動きがあるもと、大会では歴史の真実を次世代に正しく伝える重要性が強調されました。(ローマで島田峰隆記者写真も)
 同協会は、第二次世界大戦中にパルチザンとしてレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)に参加し、ナチス・ドイツ軍とたたかった人々が結成したものです。
 イタリアは戦争中、枢軸国の一員として侵略戦争に加わった一方、一九四三―四五年には約二十五万人もの市民がレジスタンスを繰り広げた歴史を持ちます。戦後は一貫して、レジスタンスの精神が民主主義の原点とされてきました。
 ところが最近は右派政党などからこの「原点」の「見直し」を狙った策動も出ています。
 このため、大会の決議も「ファシストやナチズムとの闘争の経験の記憶は、自由を求めるたたかいを直接経験した世代だけでなく、次世代、子どもの世代やさらに孫の世代にまで生き続けなければならない」と強調。歴史の改ざんを許さず、反ファシズム教育を怠ってはならないことを指摘しました。
 
右派が教科書攻撃
 大会で取り上げられた問題の一つが右派政党の学校教科書攻撃です。
 昨年十一月、ラツィオ州の議会で、右派政党「国民同盟」はレジスタンス運動などが記述された歴史教科書が偏っており、「イタリア人すべてに共通のナショナル・アイデンティティーの再建を妨げている」と攻撃。教科書内容を検討する「専門家委員会」の設置を求める決議を提案し、採択されました。
 こうした歴史の“見直し”に対し大会の報告は、ナチスの蛮行やレジスタンス運動など「石に刻まれた事実を消し去ろうと試みる」もので、「自由や人間社会の深い価値が決定的に有罪だとしたことを再評価するもの」だとして厳しく批判しました。
 さらに「過去の大きな出来事の認識は社会の基礎であり、過ちを正し、過ちの繰り返しを避けることを可能にするものだ」として、真実を教育することの重要性も強調しました。
 こうした批判や懸念は発言者に共通しており、ルチアーノ・ビオランテ下院議長も教科書攻撃はそれを教える教師への攻撃にもつながるものだとして懸念を表明しました。
 
教育分野が中心点
 大会報告はイタリアだけでなく欧州レベルで反ファシズムの運動を広げる必要性を指摘しました。またこのほど行われたウィーン市議選での極右政党・自由党の敗北やパリでの左翼の勝利を挙げて、「民主的勢力の勝利は可能」であることも確認しました。
 大会報告は「今後も学校がすべてのイニシアチブの中心点になる」とのべ、教育分野での取り組みの重要性を指摘。四月二十五日の「解放記念日」を結節点にさらに各分野で運動を継続することを決めました。
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04月02日『赤旗』)(Page/Top

歴史をどう記憶するか/日本人、オランダ人、インドネシア人―日本占領下のインドネシアの記憶展をふり返って/岩崎稔

 
 昨年十二月、女性国際戦犯法廷が実現し、これを「ETV2001」が取り上げようとするや、右翼団体の脅迫やNHKの自己規制によって、放送内容が直前に差し替えられるという事件がおきました。
 私たち、東京外国語大学に勤務する研究者は、一月九日から十七日まで、「日本人、オランダ人、インドネシア人―日本占領下のインドネシアの記憶」展を受け入れましたが、この決断をめぐっても、同じ集団から「国立大学での反日的展示は絶対に許さん」といった脅迫を受けたことがあります。
 この展覧会については、右翼団体の攻撃とはまったく別の次元で、私たちとオランダの企画者とのあいだに、重要な批判と応答がありました。この企画は、日本、オランダ、インドネシアのそれぞれの体験者の記憶を、ひとつの編み物のように編むことで、過去の出来事を立体的に表現しようというものでした。しかし、日本占領期の「オランダ領東インド」に問題を限定したこともあり、軍政期の日本軍の加害行為はある程度明らかにすることはできても、オランダがこの地を長く植民地化してきたことについて、いくらか省察が甘いものになっていたのです。
 私たちはその点について検討し、またその批判をオランダ側に伝えながら、むしろ戦争の記憶と歴史叙述をめぐる知的交流のきっかけとして、あえてこの展覧会を引き受けたのでした。
 
抱える多層性
 記憶というものは、その体験当事者の社会的位置によって異なってきます。「ロームシャ」という語彙(ごい)として今日もインドネシアに残っている日本軍による強制労働の記憶。「軍の慰安所」に閉じこめられた未成年者をも含む多くの女性たちの性暴力被害の記憶。抑留所内外での日本軍による虐待の記憶。
 そうした日本軍政期の被害者の記憶に対し、当時の日本軍人や在留日本人たちの一部のなかで凝結しているのは、エキゾチックな外地体験の記憶であったり、みずからを白人支配からの「解放者」となぞらえる自己陶酔的な快感の記憶であったり、さらには敗戦後に逆の立場でオランダ軍の俘虜(ふりょ)としての生活を送らざるをえなかった苦難の記憶であったりします。戦争直後、オランダはふたたびこの地にその植民地支配を再確立しようと試みましたが、インドネシアの人々は、日本軍政期の抑圧に引き続いて、この暴力にも抗して過酷なゲリラ戦を闘わなくてはならなかったのです。
 この脱植民地化の痛みの記憶も含めて、戦争の記憶というものが抱える多層性を、その複雑さを縮減することなしに、しかもあらゆる加害行為に繊細であることを忘れずにどのように考察するのか。私たちはこの展覧会を機会に、そうしたことを考えさせられました。
 
無反省と通底
 注意する必要があるのは、右翼の主張と私たちの批判とがけっして混同されてはならないということです。右翼の攻撃は、「大東亜戦争はインドネシアを解放しようとしたのであり、それにもかかわらず『反日学者』たちは日本軍による戦争被害を描くことでヨーロッパの植民地支配を隠している」というものでした。彼らの事実認定が粗雑であるのは今に始まったことではありませんが、これはヨーロッパの植民地支配が存在したということをもって、日本軍の戦争犯罪をすべて否認しようとする、まことに厚かましいものです。
 私たちが、展示のなかにあった「オランダの植民地支配によってインドネシアの近代化は促された」かのような叙述を問題にしたのは、それがポジションを変えれば、日本による三十六年間におよぶ朝鮮半島の植民地支配を「遅れた朝鮮の近代化と啓蒙に寄与した」という形で正当化する、過去に対しておよそ無反省な姿勢と直ちに通底してしまう論理だったからです。
 ある暴力の記憶は、攻守を転じた別の暴力の記憶によって互いに相殺されたりするわけではありません。オランダの植民地支配の不当性を語ることによって、日本軍がもたらした被害の記憶や戦争犯罪が免罪されてはなりません。逆もまた同じです。オランダの人々が日本軍政期の行為を批判することによって、自らの植民地支配の歴史に鈍感であってもよいかのような文脈が作られるとすれば、それはまさしく不幸なことです。
 
問いかけに…
 展覧会には予想を上回る観覧者があり、また一月十三日には特別ワークショップも実現しました。ワークショップ会場に押しかけて騒ぎ立て、報告者に「死刑判決を下す」下劣な脅迫ビラを配るという右翼の妨害行為にもかかわらず、この日、対話は実質的な端緒を切ることができました。
 なによりも私たちの問いかけに応える形で、歴史家レムコ・ラーベンさんが、オランダにおいていかに植民地主義の問題が忘却されてきたのかを報告してくださったことは、とても印象的でした。
 こうした実質的な関係は、異なった地域と文脈のなかから生まれる差異をナショナルなステレオタイプで塗りつぶし、かえって二つの加害を相殺するだけの右翼の攻撃を、私たちが毅然(きぜん)として退けたことによって、はじめて可能になったものでした。
 「日本人、オランダ人、インドネシア人―日本占領下のインドネシア(オランダ領東インド)の記憶」展=一月九日から十七日まで東京外国語大学海外事情研究所が主催し、同大で開催、二千人以上が観覧しました。オランダの戦争資料研究所が一九九九年夏にアムステルダムで公開した展示の巡回展。日本では、昨年から立命館大学平和ミュージアムなどを巡回し、一部の自治体も受け入れを予定していましたが、右翼団体の「抗議」で計画が撤回されたところもありました。
 いわさきみのる=東京外国語大学助教授、哲学・政治思想専攻。1956年生まれ。共著に『ナショナル・ヒストリーを超えて』『ファシズムの想像力』ほか
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03月16日 『赤旗』)(Page/Top

知識人と大衆/ジョン・ケアリ著、東郷秀光訳/不安の中で醸成されたファシズム

 
 本書は、十九世紀末から二十世紀初頭の大衆文化という新しい現象に対して、イギリス知識人がどのように反応したかに焦点を当て、大衆社会における知識人の役割を問い詰め、批評界に激しい論争を巻き起こした注目の書である。
 著者の基本的見解は、当時のイギリスのモダニズム文学と大衆文化との関係を論じた第一部の「論題」に提起されている。モダニズム文学・芸術は、十九世紀末の教育改革によって生み出された大読者層(大衆)に対する敵対的な反応であり、モダニズム文化が形成される中心原理は、大衆の排除、大衆の力の敗北、人間性の否定、大衆教育への憎悪、読み書き能力の除去、反民主主義である。
 以上の命題を論証するために、第一部では、V・ウルフ、ジョイス、T・S・エリオット、D・H・ロレンス、E・M・フォースター、A・ハックスレィ等の膨大な著作を対象に、知識人の大衆文化に対する反応がどのように描かれているかを、著者の視点から全面的に検証している。さらに第二部の「事例研究」では、G・ギッシング、H・G・ウェルズ、A・ベネット、P・W・ルイスの四人の作家を取り上げ、著者の考えが個々の作家にどのように当てはまるか、詳細に分析・検討している。
 二十世紀初頭に隆盛を極めた新聞・映画・広告など大衆文化に対する知識人の憎悪、人口の爆発的増加や「大衆の反逆」への不安の中で、ファシズム台頭の思想的土壌が醸成された、という著者の指摘は注目に値する。
 P・W・ルイスやE・パウンドがヒトラーを自己の理想の芸術家・独裁者として称揚したように、ファシズムの思想的潮流が二十世紀初頭の知識人の著作に顕著に見られるようになった。著者は、ヒトラーの『我が闘争』が、多くの点で当時の知的・精神的風土から逸脱したものではなく、「ヨーロッパの知識人の正統派の中に固く根を張った著作」であると指摘し、当時の知識人の言説とヒトラーの言説がいかに類似しているかを鋭くえぐりだしている。安藤勝夫・福島大学教授著者=一九三四年生まれ。英オックスフォード大学教授。
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02月12日『赤旗』)(Page/Top

反ファシズム誓う欧州/アウシュビッツ解放から56年/各地で追悼式典、デモ

 
 【ウィーン27日岡崎衆史記者】六百万人ともいわれるユダヤ人の命を奪ったナチス・ドイツによるホロコースト(民族皆殺し)―。なかでもポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所では、約百五十万人の命が奪われました。同強制収容所を旧ソ連軍が解放してから五十六周年を迎えた二十七日、欧州各地で追悼式典やネオナチ、極右に反対するデモがおこなわれました。
 現地からの報道によると、オシフィエンチム(旧アウシュビッツ)では、元収容者やその遺族など五百人を超える人々が、アウシュビッツから約一・五キロ離れたビルケナウ強制収容所に集まり、アウシュビッツ収容所まで追悼のデモ行進をしました。
 ドイツでは、ベルリンにあるホロコースト記念館の建設予定地で中央追悼式典がおこなわれ、ろうそくなどを持った二千人が参加しました。ハンブルクなど各地でも「(ネオ)ナチは出て行け」をスローガンに数千人規模のデモが行われました。
 
イタリア/写真展など共同で開催
 【ローマ27日島田峰隆記者】アウシュビッツ強制収容所の解放記念日にあたる二十七日、イタリアでもナチス・ドイツの蛮行を糾弾し、反ファシズムのたたかいを誓い合う催しが全国で実施されました。
 ローマでは野党のイタリア共産主義再建党や労働組合、文化団体など幅広い団体がライブハウスを会場に、虐殺証言ビデオの上映会、写真展、収容所生存者の証言を聞く会などを共同で開きました。会場には「過去のない現在はない。過去の記憶のない未来も存在しない」と書かれた横断幕が掲げられました。
 「ドイツの収容所へと向かう列車にはまだ年端もいかない子どもたちの姿もたくさんあった」―当時の証言をもとにユダヤ人虐殺を再現したビデオ上映が始まると、スクリーンの前には次々と人が集まりました。
 真剣な表情でビデオに見入っていたアンナさん(34)は「ユダヤ人虐殺やファシズムのことはいつも関心をもってきました。イタリアでもこうして全国でホロコーストを振り返るとりくみをするのはとても大切なことだと思うわ」と話します。友達のシルビアさん(39)も「オーストリアのハイダー(極右政党・自由党の前党首)とかもいるし、人種差別やナチズムの危険は現代の問題だと感じるわ」と語っていました。
 北部の都市ミラノでは三大労組やユダヤ人団体などが主催するデモ行進がおこなわれ、一万人が参加しました。集結集会であいさつしたイタリア労働総同盟(CGIL)のコッフェラーティ書記長は「たとえ遠い昔のことでも悲劇的な事実を記憶することは、若い世代のためによりよい将来を築くために重要だ」とのべ、子どもたちにホロコーストの歴史を伝えていく必要性を強調しました。
 イタリアの国会は昨年七月、毎年一月二十七日をホロコースト「記憶の日」とすることを決めました。
 
英国/ホロコースト国の記念日に
 【ロンドン27日田中靖宏記者】英国では今年初めて、ホロコーストが国の記念日に指定されました。二十七日、公式行事がおこなわれ、ナチの蛮行を糾弾し、人種差別や民族排外主義とたたかう決意を新たにしました。
 ウェストミンスター・センターでの記念行事には、アウシュビッツの生存者や各界指導者が出席。ブレア首相が「悲劇を二度と起こさないため記憶を新たにしていくことが大切だ」と強調しました。
 英国でも移民の増大で人種主義や差別にからむ犯罪が相次ぎ、問題になっています。英ユダヤ教会のジョナソン・サックス博士はBBC放送で、「この日はユダヤ人のためだけではない。人種や宗教、信条の違いをこえ、自分と異なった他人の人間性を認めることによってのみ人間は人間たりえるのだということを再確認する日にしたい」と強調しました。

(01月07日『赤旗』) (Page/Top

矛盾の向こうに探るユートピア/没後5年ハイナー・ミュラーが語りかけるもの/市川明

 
 ブレヒトやベケットと並んで二十世紀最大の劇作家と称せられるハイナー・ミュラー。東ドイツの歴史を体現し、東ドイツの歴史とともに生きたミュラーは一九九五年十二月三十日、がんで亡くなっている。晩年はベルリーナー・アンサンブルの総監督、演出家として自作の上演に力を注ぎ、演劇界の期待を一身に背負っていただけに、その早すぎた死が惜しまれる。「ワイマール共和国、ファシズムの国家、そして東ドイツ、一度の人生で三度も国家の没落を見ることができたのは作家として幸せでした。ドイツ連邦共和国の没落は、おそらくもう体験できないでしょうが」。ミュラーは自伝にこう書き残し、世を去った。
 □■……□「お金万能」に
 九〇年夏に来日したとき、ミュラーは大阪の演劇人とのワークショップで「社会主義は私の夢だった。なぜならそれはお金が第一ではない世界だからだ」と述べた。東ドイツが「お金万能」の国でなかったことは事実で、貨幣は交換手段としての機能しか果たしていなかった。このことは統一前に通貨同盟が発足し、六千マルク(当時のレートで約五十万円)までは西ドイツマルクと一対一で交換できるという有利な条件(ふつうは十対一)が提示されても、その額に預金が達しなかったオシー(東ドイツ人)がたくさんいたことからも明らかである。彼らにはお金をためこむという習慣はなかったのである。ましてや株や土地の投機などは考えられないことだった。東ドイツマルクは、資産・資本の機能を持たない(しかも生活必需品には政府の援助金が内包された)いわば地域通貨・クーポンのようなものだったといえる。地域限定的な東ドイツマルクを、地域を越えて西ドイツマルクと競争させようとしたところに東ドイツ政府の大きな誤りがあったように思う。九〇年三月ドイツ劇場で『ハムレット/マシーン』がミュラー演出で上演されたとき、彼は「ハムレットの父の亡霊はスターリニズムではなく、ドイツ銀行だ」と述べた。忍び寄る「ジャーマ・ネー」の影をはっきりと彼は見ていたのだろう。一九五一年、革命家であったミュラーの父は西ドイツに去り、家族もその後を追うが、ミュラーだけが東ベルリンに残った。ミュラーがファシズムの対極としての東ドイツに大きな期待を寄せ、社会主義を選択したのも容易に理解できる。だが東ドイツを正当化するものが反ファシズムでしかなくなったとき、それは現実問題から目をそらさせる役割しか果たさなくなってしまった。ミュラーは八七年、国際作家会議の演説で「社会の不正を永久にヒトラーのせいにすることはできない」と語り、マルクス、レーニンに立ち返り、新しい道を探る必要性を説いている。彼は「資本主義にあったのは平等なき自由であり、一方社会主義にあったのは自由なき平等だった」と分析し、「今私たちに必要なのは西側諸国に擦り寄ることではなく、資本主義の対極にあるものを考え出すことだ」と述べている。ミュラー作品の西ドイツ批判(ヨーロッパ批判)も反ファシズムから次第に反文明という観点に移っていく。アドルノ、ホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』で述べた「文明批判」が、ミュラー作品のはしばしに表れる。ミュラーはマクドナルドに風穴をあけられ、コカ・コーラにおぼれ死ぬヨーロッパ、処理不能になったごみや放射性廃棄物をまき散らす「世界の尻(しり)」となったヨーロッパを鋭く批判し、「早くくたばれヨーロッパ」という。『ハムレットマシーン』の第一景は「ヨーロッパの廃虚」と名づけられ、『メデイア』改作劇の冒頭では、木が枯れ、魚が死に、糞(ふん)尿の山、コンドームとたばこの箱が散乱した黙示録的光景を現出させている。『拾い子』に現れる西ベルリンも「お金とコカ・コーラがあふれる町」なのである。
 □■……□前世紀を越え
 ミュラーが描こうとしたのは「現存社会主義」や「文明」社会の矛盾であり、それによって彼は観客にアンチモデルとしてのユートピアを探らせようとしている。複雑化した現実を見せるために、ミュラーは観客に一つの筋を追わせるのではなく、「一時には処理できそうにない多くのものを与え、選ばせようとする」。時間と空間が何の関連もなく交錯するドラマ、断片、夢や幻想シーン、引用・注釈などが組み合わされたテキスト、詩・散文・ドラマのクロスオーバー、モンタージュとコラージュ。ミュラーはまったく新しいドラマをヨーロッパ演劇界にもたらした。だが忘れてはならないのは、ミュラーのポストモダンは彼の思想や、彼が生き、格闘した東ドイツ抜きには語れないということである。「生涯矛盾を引きずり続けたまま」亡くなったミュラー。「勝者はいず、敗者だけが存在した」前世紀を越え、ミュラーは今『ハムレットマシーン』のオフィーリアのように、深海でじっと新しい歴史を待っているのかもしれない。(ミュラーが生きていれば七十二歳の誕生日=一月九日を前に)(大阪外国語大学教授、ドイツ文学)
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01月07日『赤旗』)(Page/Top

朝の風/希望ひらく哲学を

 
 雑誌『思想』の昨年十二月号(通巻九一九号)がニーチェ特集を組んでいる。没後百年ということもあるようだが、二十世紀前半にはナチスドイツが大いにもてはやしたこのニヒリズム(虚無主義)の哲学者の特集で、この雑誌が二十世紀の最後を締めくくることになっているところに現代イデオロギーの混迷が象徴されているように思われる。
 さすがにニーチェのエリート主義や貴族主義的な差別感情や「強者の道徳」など、ファシズムに利用された傾向を露骨に肯定・賛美する論調の影は薄いが、むしろニーチェのこの側面に触れることを回避しながら、ニーチェが近代文明の総否定をやっていることを意義あることのように取り上げる論稿が多い。
 ニーチェの近代文明の総否定とは、「何ものも真理ではない。全てが許されている」という発言に表現されているように、真理の認識可能性を否定する根深い不可知論あるいは相対主義に基づくもので、反科学・反理性・反哲学の傾向であり、その意味でのニヒリズムであるが、十九世紀の世紀末気分を色濃く反映したこの思想が、二十世紀の世紀末にも影を落としていることは見逃せないことだ。
 世界的な資本主義の行き詰まり、わが国の自公保政権の悪政のありさまをみていると、ニヒルな気持ちになる人がいるのも理解できないことではないが、新しい二十一世紀にはこの状況を打開して前進する希望の哲学こそふさわしいというべきであろう。(西)
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01月06日 『赤旗』)(Page/Top

シリ−ズ「21世紀の課題」/進展する東アジア協力

望まれる国際秩序の一つのあり方を示す
 二つの大戦、繰り返された侵略戦争、地域紛争、ファシズムとジェノサイド(大量虐殺)、環境破壊、植民地支配とその崩壊、民族と国家の分断と統一……。二十世紀は、こうした出来事を通じて民族の主権と独立、自由、平和、人権、民主主義、環境保護の大切さを人類に教えました。そして、資本主義の矛盾を明らかにしたのもこの世紀です。二十一世紀の人類の課題とは、これらの教訓を一つ一つ明らかにし、新たな希望と未来を現実のものにしてゆくことではないでしょうか。転換する世界とその課題をシリーズで追います。
 
発展格差や体制の違いのなかで
 二十世紀最後の年、二〇〇〇年に、東南アジア諸国連合(ASEAN)十カ国と日本、中国、韓国(ASEANプラス3)は外相会議の定期開催を決め、東アジア地域の協力関係を一歩前進させました。二十一世紀初頭の二〇〇一年には、「東アジア首脳会議」の制度化を展望した協力の枠組みを検討することにしています。
 推進力は、各国の独立・主権、非核兵器、紛争問題の平和解決、ともに助け合う経済協力などに集約されるASEANの経験です。「ベトナム戦争時代の対立を克服したASEANの進んだ経験は全アジアによい影響をあたえ」(テイ・シンガポール国際問題研究所長)、今世紀望まれる国際秩序に一つのあり方を示しています。
 もちろん、ASEAN十カ国の国内と各国間に利害の対立する問題があり、各国間の発展格差があります。人口五億の東南アジアと十数億の北東アジアとの間にも、発展格差があります。非同盟が基調の東南アジアにたいし、北東アジアには米国を盟主とする米日、米韓の軍事同盟が存在します。
 さらに東アジアには多くの民族、宗教が共存し、各国の体制も多様です。
 ASEAN流の協力の積み上げは、制度的には緩やかにみえます。
 
平和・自由・中立と非核、友好協力
 地域の現実に即したこうした取り組みかたとあわせ、ASEANの一連の基本文書には、今世紀の国家・国際関係、さらには国民間の関係にとって意味あるものが示されています。
 一九七一年の東南アジア平和自由中立地帯宣言は、アメリカのベトナム侵略戦争に加担させられた国もあるなか、大国の覇権主義にほんろうされない自主的な国づくりと協力関係を求めて策定されました。
 七六年の東南アジア友好協力条約は、アメリカのベトナム敗退後のアジア各国との関係改善を大きな狙いとしてつくられました。
 九五年の東南アジア非核兵器地帯条約には、核兵器の脅威、核保有国の圧力を退けて、平和な環境のもとで、発展と協力をはかろうとする決意がこめられています。
 ASEAN各国は、それぞれの立場を守りながらも、こうした一致点を確認しながら、各国が発展し、経済協力をすすめる実績を積み重ねてきました。そのうえに、友好協力条約への参加を域外国に呼びかけ、非核地帯条約の実効性の保証を核保有国に求めて、積極的な協力関係を広げようとしています。
 
朝鮮半島の情勢、中国の変化と呼応
 北東アジアには、朝鮮半島の平和と協調、自主的統一への劇的な動きが出てきました。ASEAN地域フォーラム(ARF)には、北朝鮮も加わりました。
 中国も、平和自由中立地帯宣言、友好協力条約への支持、非核地帯条約議定書署名の用意を表明し、「ASEANが主導的役割を果たす東アジアの対話と協力への支持」(朱鎔基首相)を明確にするようになりました。東南アジア諸国ではまだ、中国の核兵器と軍事力、興隆する経済力への警戒感を聞くことがあります。
 しかし、中国は南シナ海での領有権問題でも、「行動規範」の作成交渉に加わり、その一方で、平和解決を図る姿勢をはっきりさせています。こうした、最近の中国対外政策は、東アジア協力への新たな条件をつくりだしています。
 
どこを向くのか日本外交
 「日本との同盟関係強化」をうたうブッシュ次期米大統領のアジア政策は、近く明らかにされるでしょう。その中であらためて問われるのが、日米安保重視を強調する日本政府の外交姿勢です。
 「地域安全保障の構造がアメリカとの軍事同盟に依拠するものであってはならない」(スサストロ・インドネシア戦略国際問題研究センター所長)―東アジア諸国は、日本軍国主義の侵略、支配を受けた歴史を持ち、旧宗主国、帝国主義国からの侵略、干渉に抗して独立し、それぞれの国づくりをしてきた歴史を共有しています。その苦難に満ちた体験に根差して、軍事同盟によらない平和的な協力関係をこの地域に築きあげようとしています。
 かつてアジアを侵略した日本が、過去の反省を明確にし、このアジアの本流とともに力を尽くすのか、それとも日米軍事同盟中心にこの流れに逆らうのか―それは、二十一世紀の日本の進路を左右し、アジアの平和と安定の行方に大きく影響する選択です。(志村徹麿記者)(Page/Top

ASEAN賢人会議議長チン・テト・ユン氏に聞く

 中立・平和のアジアを/固い決意と情熱で前進
 ASEANをここまで発展させてきた第一の力は、中立、平和の地域をつくりだそうという創設者たちの固い決意であり、情熱でした。
 第二に重要なのは、加盟各国の内政問題への不干渉原則です。東ティモール、ミャンマー、ASEAN加盟前のカンボジアの問題などで不干渉の立場をとってきたことに批判もありました。しかし、この原則は各国相互に争う余地を少なくし、ASEANが平和な地域に存続し、多くの成功を収めてきた原則です。
 第三の要素は、例えば(ASEANの未来像を描いた「ASEANビジョン二〇二〇」を実現してゆく第一段階として二〇〇四年までの)ハノイ行動計画、メコン開発計画など、世界のこの地域の全般的経済発展のために協力してきたことです。
 以上がこれまでのASEANに成功をもたらした三つのエンジンだと思います。これからは、この三連エンジンだけでは不十分です。加盟国が十カ国になり、経済的格差、文化的違いなどが広がったからです。
 ですからASEAN賢人会議は、経済的、政治的側面だけでなく、社会的、文化的な面でも、各国の人々がもっと近しくなるための取り組みを提言しました。
 
「隣国同士が信頼しあう」
 ますますグローバル(地球規模)化する世界にあっても、地域協力は重要な役割を演じると思います。経済的統合、補い合う経済、「隣国同士信頼しあう」政策は、より広い地域協力の基盤としても有益ではないでしょうか。
 世界貿易機関(WTO)の高官が「そうした地域化は貿易自由化の義務履行に反する」とみる分析に、私は同意しません。実際には、世界のさまざまな地域が補い合い、より貧しい国々を助けることで、貿易自由化を助けているのです。例えば二〇〇〇年十一月のASEAN首脳会議議長国としてシンガポールはベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーを援助するイニシアチブをとりました。
 
平和保つため注意深く行動
 さらに、ASEANには幾つもの条約類がありますが、その中身を特定することには、非常に注意深くあたってきました。例えば東南アジア友好協力条約をふまえて予防外交の必要性が提起されるようになり、ASEANトロイカ(前、現、次期議長国による三者の協議体制)という構想がでてきました。ただ現段階で、このトロイカがどう機能するかを特定してはいません。言い換えれば柔軟性があります。
 西側はいつもASEANが適時、敏速に動かないと批判します。東南アジアは平和な地帯であり、平和を保つためには性急に動くことにたいして注意深くなければならないということを、理解していないのですね。
 
話しあいの道筋あれば
 ASEANはパラダイス(天国)ではなく、いろいろな二国間問題があります。しかし、地域全体にとって役立つことを話し合うASEAN首脳会議が、二国間の懸案で振り回されてはなりません。
 東アジアが自らの問題、とりわけ中台、朝鮮半島の問題を解決できれば、東アジア全体が二十一世紀に平和と繁栄の時代を迎えることができるでしょう。もちろん、さまざまな不測の事態があれば、まちがいなく東南アジアが影響を受けます。だから、ASEANは東アジア諸国の首脳会議を提起しました。ともに話し合うため、例えば北朝鮮と中国をASEAN地域フォーラム(ARF)に招きました。仲間づきあいの雰囲気を作り出し、そこには話し合いの道筋があります。話し合いと外交があれば、紛争の危険の余地が狭まります。
 各国は対等でなければなりません。ARFはASEANが設定し形成したフォーラムです。ASEAN各国は、他の参加国と対等なパートナーとして扱われ、ASEANが考えているやり方で対話を進めるように努力する必要があります。私たちはともに、平和自由中立地帯宣言(ZOPFAN)、東南アジア非核兵器地帯条約などASEANが決め、追求している方向を世界に提示すべきだからです。(シンガポールで志村徹麿記者)
 ASEAN各国ひとりずつの有識者から構成され、二〇〇〇年以降の活動提言をまとめた「ASEAN賢人会議」議長(シンガポール代表)。国立シンガポール大学法学部長。国会議員でもあり、米州関係議員グループ副会長。欧州、中東関係議員グループでも活動。

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インドネシア戦略国際問題研究センター所長ハジ・スサストロさん


 軍事同盟によらない安全保障/米軍事力は地域に適合していない
 
 インドネシアが直面している挑戦はきわめて大きい。変化と改革が人々の生活の全分野にわたっているからです。経済危機は一分野にすぎません。政治的、社会的転換、一元的で高度に中央集権的な国家構造をもっと地域的で自治的な構造に変えていくことが同時にすすんでいます。
 インドネシアは開かれた、かなり自由な国になり、報道の自由、政治的自由がもたらされた一方で、なお変化のさなかにあります。だから、いくらか混とんとしてみえることがあります。
 
新たな国づくりはじまっている
 わが国は長く権威主義的体制のもとにあり、とってかわる指導者が育つのを許しませんでした。したがって、民間人が政府を補う役割でイニシアチブを発揮する必要があります。
 この過程が成功裏にすすみ、広大なインドネシアがその多様さを生かすことができるなら、新たな世紀にすばらしい国になると私は確信しています。
 もちろん二十年後も、インドネシアは国内外からのさまざまな圧力に直面しながら、新たな独自のあり方をみいだそうとたたかっているでしょう。グローバリゼーション(経済の地球規模化)による社会の分裂、IT(情報技術)革命により地球規模の情報や市場にアクセスできる中産階級ととり残される他の社会の構成部分という分裂がつくりだされるでしょう。
 インドネシアは広大な国であり、拡大する格差を克服することはきわめて重要です。いまわが国は非中央集権化、自治などによって、そのための新たな機構をつくりだそうと試みはじめています。
 対外関係で、まず中国はいまのところ経済発展などよい方向にうごいています。しかし、まだどうなっていくかわからないという懸念があります。ひきつづき発展し続けるなら、この地域によい影響をあたえるでしょう。だから、私たちはより広い地域協力の枠組みで中国と共同してゆく必要があります。
 私の祖父母はジャワで日本軍支配の被害を経験しました。私の母が日本軍人の犠牲にならないよう、家のなかに閉じ込めておいたという話を聞かされたものです。たいへん不幸な時期でした。他方で、日本の占領支配が、官僚制度、軍などインドネシア近代国家の基礎をつくったことも事実です。オランダは既存の体制を通じて植民地支配をしていましたから。
 いま、日本は長引く経済停滞のなか、体制を改革できないでいる老いた国のようにみえます。もちろん、インドネシアが多くの援助を受けているこの地域の気前のよい国です。しかし、私たちは日本にダイナミズムを保持する力量があるのか懸念しています。
 日本はアメリカの単なる付属物だとみるものもいます。私は、日本が徐々に変化しているのではないかと思うのですが。すくなくとも日本の側に、独自の構造、見取り図、発想をもつためのアジアの構想と必要性に理解を示す動きがでていると。それでもまだ日本は指導性を発揮してはいません。
 
アメリカには依存できない
 アメリカは一方で、インドネシアにとってつねに不確実さをもたらす源でした。戦略的立場からひとびとは、アメリカをバランサーとみています。もちろん、アメリカはこの地域で唯一の超大国です。しかし私たちは、米軍事力がこの地域に適合しているとは思いません。この地域のさまざまな問題は、軍事的なやり方では解決できません。
 たしかにアメリカはこの地域の経済発展に重要な役割を演じています。ひとびとはアメリカを資本、技術、投資、そして発想の源とみています。しかし、インドネシアでは依然として、アメリカには依存できないという気持ちが非常に強いと思います。アメリカは地域問題への適法的な参加者ではありえても、われわれはアメリカを頼りにできないということです。
 インドネシアは、東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)を強く支持してきました。私たちは、地域安全保障の構造がアメリカとの二国間軍事同盟に依拠するものであってはならない、と考えています。米日、米韓等の軍事同盟はしばらくは必要なのかもしれませんが、私たちの地域は政治、安全保障問題を扱うみずからの地域構造をもたなければなりません。それは軍事同盟によらない多国間機構であって、発展させる困難はあるにせよ、われわれに必要なものだと確信しています。
 (インドネシア・バタム島で志村徹麿記者)
 日本軍に占領された戦時下の1945年4月、東部ジャワ生まれ。産後1時間で、かごにいれられ防空壕(ごう)に。63年から71年まで、西独で工学を学ぶ。帰国後、戦略研創設に加わる。74年から78年まで、米ランド研究所に派遣され、経済学を研究。帰国以来、戦略研に。

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タイ安全保障国際問題研究所長プラニー・ティラパットさん


 国民参加のASEANを/問題解決に軍事力は不要
 
 二〇〇〇年七月にバンコクで開催されたASEAN定期閣僚会議とASEAN地域フォーラム(ARF)の画期的な意義は、北朝鮮が初めてARFに参加したことです。ARFは安全保障にかんするフォーラムであり、安全保障にかんするアイデアや意見を交換する場です。南シナ海の問題を除けば、この地域の最大の問題は朝鮮半島問題でした。
 すでにARFに参加していた韓国に加えて、北朝鮮が加わったことで、朝鮮半島における平和創設のプロセスをARFに加えることができました。北朝鮮の参加で、アジア・太平洋地域のほぼすべての国の外相が一堂に会することになりました。それは、この地域の平和と安定にとってきわめて重要で象徴的なできごとでした。
 
戦略研と外相会議定期化など必要
 バンコクで初めてASEANプラス3(日中韓)の外相会議が開催され、ほぼ機構的に確立されたことは重要です。十一月にはシンガポールでASEANプラス3の非公式首脳会議も開催されました。
 ASEANプラス3の発足は、ASEANの経済回復にとっても、将来のASEAN経済にとっても必要なことです。しかし私たちが懸念しているのは、日中韓中心の3プラスASEANになることです。
 日本、中国、韓国の参加は、われわれの選択の幅を広げ、この地域にある別のパワーを与えてくれます。同時に各国と三国との個別の関係も重要であり、同時に促進すべきです。
 ASEANが克服すべき課題はもとからの加盟国とカンボジア、ラオス、ミャンマーなどの新規加盟国との格差です。情報技術(IT)にしても、その格差は歴然としています。
 十一月下旬にASEAN非公式首脳会議にあわせ、シンガポールに近いインドネシアのバタム島で各国の戦略研が中心になって、国民レベルの会議を初めて開催しました。非政府組織(NGO)や学界のメンバー約三百人が参加しました。インドネシアのワヒド大統領も参加しました。各国のすべての首脳に参加してほしかったのですが、実現しませんでした。
 この会議はASEANが各国政府に属するだけでなく、各国国民に属することを各国政府に示すために開催されました。
 定例の七月のASEAN外相会議のさい、戦略研とASEAN外相の会合がもたれていますが、年一回の会合ではきわめて不十分です。戦略研とASEAN外相の独自の会議を定期的に開催するほか、各国でも戦略研と外相の会合を開催すべきだと考えます。
 各国間の紛争や地域紛争の解決や防止に民間レベルの交流が大いに貢献できると思います。一月にバンコクで戦略研が主体となり、タイ政府、国連の協力も得て「民主化と紛争防止」をテーマにシンポジウムを開催します。
 平和と安定への役割を日本に期待
 ASEAN各国の国防費を見ると、たとえばタイは小火器や戦闘機を中心とした軍事力を強化しようとしています。シンガポールは国防費を削減したことがありません。ソ連崩壊後、この地域への特別の脅威は存在しません。なぜ各国が軍事力を強化するのか、私には理解できません。
 二十一世紀の脅威は、難民、麻薬などです。これらの解決に軍事力が必要とは思いません。対話の方がより重要です。
 二〇〇一年には、朝鮮半島の平和がさらに前進すると思います。唯一の問題は、在韓米軍の撤退問題です。ブッシュ次期政権がどのような政策を示すか、注目しています。もちろん中国の関与も重要です。
 朝鮮半島情勢よりも、南沙諸島問題をかかえる南シナ海の情勢の方が心配です。東南アジア非核兵器地帯条約の具体化を楽観していません。米政府などの核保有国が、みずからの手をしばる条約への関与をしぶるからです。
 日本には、第二次世界大戦や冷戦の時代の時のような軍事的な役割を減らし、この地域の平和と安定のための政治・安全保障上の役割を果たすよう期待します。
 (バンコクで鈴木勝比古記者)
 タイ国立チュラロンコン大学卒業後、オーストラリア国立大学(キャンベラ)、米国のプリンストン大学に留学。2000年2月、タイの安全保障国際問題研究所の所長に就任。

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01月03日 『赤旗』)

 

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