2003年 ファシズム関連情報】

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2003(ヘッドライン)

*                     アテネからアテネへ/オリンピックの軌跡/平和と五輪の灯が消える

*                     アテネからアテネへ/オリンピックの軌跡/=15=/人民オリンピックを準備

*                     アテネからアテネへ/オリンピックの軌跡/ナチが誇示した民族の祭典

*                     スターリングラード/ロシア国民が批判する描写も/山田和夫の映画案内

*                     第三帝国と音楽家たち 歪められた音楽/マイケル・H・ケイター著 明石政紀訳/不遇、順応、抵抗…生々しい実態が

*                     伊首相 ムソリーニ美化を弁明したが…/さらに広がる国民の批判/反ファシズムは戦後の基本理念

*                     「ムソリーニは寛容」/イタリア首相暴言に批判の嵐

*                     潮流 (記録映画「真実のマレーネ・ディートリッヒ」)

*                     この人と きき手・大内田わこ編集局次長/イエーナさん。ヌスバウムの絵との出会いは/ナチに殺された彼、いまも多くを語る

*                     チュニジアの七日間/中央委員会議長/

*                     伊首相の暴言/EUの基本理念―反ファシズム/踏みにじったことに怒り

*                     団結の教訓は生きる/対独戦勝記念日にロ大統領

*                     世界でメーデー多彩に/福祉、平和掲げ独では100万人

*                     イタリア/58回目の解放記念日/各地で催し 式典欠席の首相に批判

*                     イタリア あす「解放記念日」/先制攻撃の拡大を阻止/憲法の価値守れ焦点に

*                     ドイツ/すべての民族に平和を/復活祭平和行動に1万人余

*                     美術/黒人の信仰にじむモダン/ヴィフレド・ラム展

2003年(本文)(Page/Top

アテネからアテネへ/オリンピックの軌跡/平和と五輪の灯が消える

 東京オリンピックの返上は、世界の暗転を加速させる出来事でした。それからの「オリンピック号」は、戦火逆巻く大海原で立ち往生を余儀なくされます。
ロンドン大会中止
 39年9月1日、ヒトラーのドイツ軍がポーランド侵攻を開始。第2次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)です。3日にはイギリスとフランスがドイツに宣戦布告、イタリアもドイツと同盟して参戦し、戦火は欧州全土に拡大しました。
 日本も40年9月に日・独・伊三国同盟に調印、侵略戦争を中国からインドシナへと南進させます。そして、41年(昭和16)10月に成立した東条英機の軍事内閣は、同年12月8日にハワイ真珠湾を襲撃、米・英両国に宣戦布告して太平洋戦争に突入しました。
 世界を巻き込んだ大戦争の勃発に、天を仰いだのが国際オリンピック委員会(IOC)でした。36年のIOC総会(ベルリン)で、40年の第12回大会は東京、44年の第13回大会はロンドンで開催することを早々と決めていたからです。ロンドン大会こそ、軍事色に染まったオリンピックを修正する機会だと念じていたのでした。しかし、ドイツ軍はロンドンを空爆、戦禍にまみれた都市での五輪開催など不可能となりました。
スポーツ不在の時代
 不幸は重なるものです。クーベルタンの後を継いだバイエ・ラツールIOC会長が42年1月、飛行機事故で急死したのです。しばらく会長職は空席となり、オリンピックは舵(かじ)取り人を失ってしまいました。
 中止となった第13回大会。オリンピックの灯が消えるとともに、その他のスポーツの国際交流もストップします。戦前、日本の活躍で沸いたテニスのデビスカップ選手権は40年には中止されています。
 東京大会返上後の日本のスポーツ界はいちだんと統制が強められ、「スポーツは米英の敵性文化」だと敵視されていきました。野球やテニスなどの用語は日本語化を強制され、プロ野球の興行では手りゅう弾投げを強要されます。球場の鉄製イスなども軍事器材用に供出させられる始末でした。
 すべてのスポーツ団体が翼賛体制に組み込まれ、大日本体育協会は42年4月に東条首相を会長とする「大日本体育会」に改組されてしまいました。「昭和12年(37年)から20年(45年)までは、真の意味でスポーツ不在の時代であった」(『日本スポーツ百年の歩み』 日本体育学会編)――。
嵐に耐えたマスト
 45年5月にドイツが降伏、8月15日に日本が連合軍に無条件降伏してポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦はようやく終結をみます。大戦の惨禍はきわまり、犠牲者は数千万人にものぼりました。広島と長崎への原子爆弾投下は核兵器の最初の犠牲となりました。
 戦争は多くのスポーツマンの命を奪い、反ファシズム・レジスタンス闘争に身を投じたオリンピック選手が少なくありませんでした。フランス労働者スポーツ・体操連盟(FSGT)は、いまでも会員証に犠牲選手の名前を記して平和のスポーツ活動を進めています。
 日本でも侵略戦争に徴用されたオリンピック選手やプロ野球選手も多く、棒高跳びの大江季雄(第11回大会銅)、馬術の西竹一(第10回金)、プロ野球の怪腕投手・沢村栄治(巨人)などの選手が命を落としました。
 草創の困難と戦争にほんろうされたオリンピックの50年。世界の若人が平和のもとに集う≠ニの理想の旗を掲げたマストは、幾度も強風で折れそうになりました。しかし、その都度、マストを支える人びとが増え、荒波に持ちこたえていった半世紀でもありました。
 (オリンピック研究者 広畑成志)
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2003年12月11日 『赤旗』)(Page/Top

アテネからアテネへ/オリンピックの軌跡/=15=/人民オリンピックを準備 

 ヒトラー・ナチスの宣伝に利用された1936年のベルリン大会。それに抗して人種差別と拡張主義に反対する世論と運動が起こりました。
五輪の理想を守れ
 その急先ぽうとなったのはアメリカのスポーツ界でした。ニューヨークの「スポーツのフェア・プレイに関する委員会」が、「オリンピックの理想を守ろう」とよびかけ、35年12月7日に国際会議を開催、「オリンピック理念擁護委員会」を結成してボイコットを訴えます。
 米国体育協会(AAU)もユダヤ人排撃に抗議して、「オリンピックをベルリンから移そう」と主張します。35年12月のAAU総会は参加・不参加でかんかんがくがくの議論となりましたが、最終的には「大会参加はナチス体制の承認を意味しない」との意見がまさり、ベルリン行きが決定されました。
 イギリス国内ではサッカーなどでドイツとの交流中止の声があがり、フランスのパリでは共産党や労働団体からスポーツ団体まで立ち上がって、早くも34年8月に反ファシズム・スポーツマンの大行進を挙行します。オーストリアの女子水泳、ユダヤ人のユディット・ドイチュ選手は「同胞に恥ずべき迫害を行っている土地での競技には参加しない」と表明、内外から共鳴の声が殺到したといいます。
バルセロナから発信
 こうした大きな流れのなかで、ベルリンに対抗したもう一つのオリンピック≠フ開催が計画されたのでした。発信地はかつてベルリンと開催都市を競ったバルセロナ(スペイン・カタルーニャの州都)でした。
 36年2月にスペインでは人民戦線政府が樹立され共和制(第二次)に移行します。6月23日、スペイン政府は20カ国のスポーツ代表を招いて会議を開き、7月末にバルセロナで「人民オリンピック(オリンピアダ・ポプラール)」を開催すると決めたのです。
 開催趣旨は、「国々の平和と友好という真のオリンピック精神を守る大衆的なスポーツ・フェスティバルで、ベルリン大会に対抗する」というもの。参加資格はただ、「真のスポーツ精神と、ファシズムに対する率直な反対の意志の持ち主」となっていました。
 すでに、カナダ、米国、ポーランド、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、オランダ、ソ連が参加を表明。これに英国労働者スポーツ協会が40人、6月に人民戦線政府を樹立したフランスは1500人を派遣すると伝えられました。
開会は宣言された
 開会式は7月19日午後4時。モンジュイックの丘のメーンスタジアムをめざして、世界から平和の友好に燃えたスポーツマンがぞくぞくとやってきました。カタルーニャ音楽堂では、世界的なチェロ奏者、パブロ・カザルスが開幕記念コンサートで演奏するベートーべンの第9交響曲「歓喜」のリハーサルに余念がありません。
 19日の朝がまさに明けようとしていました。突如、バルセロナ市街に静寂を破って銃声が響きわたりました。共和制打倒≠叫ぶファシスト、フランコ軍の一部が襲撃、市民との市街戦がぼっ発したのです。
 バルセロナ大会組織委員会(COOP)は、予定通りの午後4時にコンバニス州政府首相の開会宣言を発したものの、戦火が拡大し、翌日からの競技は中止せざるを得なくなりました。参集した外国選手の多くは慌てて帰国の途につきますが、一部は残ってレジスタンスに合流したといいます。
 開会宣言だけに終わった人民オリンピック。スペイン内戦は長期化し、フランコが39年に専制支配をしきます。しかし、その後も「カタルーニャの鳥はピース(平和)、ピースと鳴く」(カザルス)との声はやむことはありませんでした。
 (オリンピック研究者 広畑成志)
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2003年11月20日 『赤旗』)(Page/Top

アテネからアテネへ/オリンピックの軌跡/ナチが誇示した民族の祭典

 1936年8月1日の、どんよりと暮れかかるベルリンの空。10万人をのみ込んだ大競技場に、ヒトラー総統の声が響きわたりました。「第11回オリンピアードを祝し、ベルリン・オリンピックの開会を宣言する」
ユダヤ人を排斥
 ベルリン開催が決まったのは31年、まだヒトラーが政権をとる(33年1月)前でした。それまではオリンピックを「ユダヤ主義に汚れた芝居」とけなしていたヒトラーですが、政権をとると、「アーリア民族の優生を誇示する祭典」に位置づけてとりこみます。
 まずヒトラーが大会組織委員会の総裁に就任(33年2月)、「ユダヤ人は寄生虫」との排斥をスポーツにも持ち込みました。34年までに、ユダヤ人のプール使用が禁止され、「ユダヤ人お断り」の看板を掲げるスポーツ施設が全国に広がります。ボクシング、テニス、体操、陸上競技などのスポーツ団体からも非アーリア人≠ェ排除されました。
 ヒトラーは、五輪準備に専心してきた大会組織委員会の会長、テオドル・レヴァルト氏を「ユダヤの血が混ざっている」との理由で更迭しようとします。これには国際オリンピック委員会(IOC)が反発、「大会をベルリンから引き揚げる」と抗議し撤回させました。
聖火リレーを敢行
 世界の冠たる第三帝国≠豪語するナチス政権は、オリンピックに巨費を注ぎ込みます。10万人収容の巨大スタジアム、1万6千人の観客席をもつ水泳競技場、2万人のホッケー競技場、3500人収容のオリンピック村、400人が宿泊できる女子選手専用の施設…。
 圧巻は聖火リレーでした。古代のオリンピアで採火された聖火を700cのトーチにともして、ベルリンまでの2075`の走路を3075人がリレーしました。オリンピック初登場の壮大なイベントも、ルート・走路をナチ隊員が調査、整備、伴走したことから、侵略へののろし≠ニ酷評されました。
 技術の粋もつくされました。メーン・スタジアムには60台の放送用マイクが設置され、ラジオの実況放送は日本まで届きました。ベルリン市内では初のテレビ放映も試みられています。陸上競技ではピストルと連動して1000分の1秒まで計時できる特製カメラが登場しています。女性監督レニ・リーフェンシュタールによる記録映画、「民族の祭典」「美の祭典」は傑作≠セと評判でしたが、ナチズムの宣伝(プロパガンダ)に二役も三役もかいました。
ヒーローは黒人
 しかし、ヒトラーの「アーリア人の勝利」のもくろみは、1人の黒人選手によって打ちのめされます。アメリカのジェシー・オーエンス選手です。178a、72`の均整のとれた体つきで、百b10秒3、二百b20秒7、走り幅跳び8b06、四百bリレーと、いずれも世界新記録を樹立して4個の金メダルを獲得、大会の超ヒーローになりました。
 ベルリンの子どもたちは「ジェシー、ジェシー」と夢中になり、サインを求め、ラジオにしがみついてヒーローのニュースに聞き入ったといいます。きっと、オーエンスの格好にまねて走りまわる子どもたちの姿が、あちこちの街角で見かけられたに違いありません。
 オーエンスの活躍に苦虫を噛みつぶしたのが、黒人を「下等人類」とみなすナチスでした。ヒトラーは一度も大会のヒーローをたたえることはありませんでした。
 オリンピックが終わった直後の9月、ナチスはニュールンベルクで党大会を開催、ファシズムと侵略戦争への道を突き進みます。ナチ・オリンピックはその序曲になったのです。ベルリンの空は急激に暗転します。
 (オリンピック研究者 広畑成志)
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2003年11月13日 『赤旗』)(Page/Top

スターリングラード/ロシア国民が批判する描写も/山田和夫の映画案内

 ジャン・ジャック・アノー監督の「スターリングラード」(二〇〇一年)は、独ソ戦の勝敗を決めた大会戦で英雄≠ニなったソ連軍狙撃兵(ジュード・ロウ)の物語。スターリン体制下の戦争を描こうとして、とりわけ冒頭の戦闘シーンはソ連軍の非情(退却する兵を射殺する)をこれでもか、これでもかと強調。四十万の犠牲を出してドイツ・ファシズムの敗北に道を開いたロシア国民から、この映画に強い批判があったのも無理からぬ描き方だ。レイチェル・ワイズの共演。
 「大逆転」(八三年)は億万長者とサギ師が入れかわる逆転コメディー。ダン・エイクロイド、エディ・マーフィ主演、ジョン・ランディス監督。
 「絶体×絶命」(九八年)は白血病の息子を救おうとする刑事(アンディ・ガルシア)と終身囚(マイケル・キートン)のかっとう。バーベット・シュローダー監督。「インビジブル」(〇〇年)は特撮を駆使した透明人間物。エリザベス・シュー、ケビン・ベーコン主演、ポール・バーホーベン監督。
 NHK衛星はM・カルネ「天井桟敷の人々」、W・ワイラー「偽りの花園」、L・ビスコンティ「若者のすべて」、野村孝「いつでも夢を」。(映画評論家)
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2003年10月24日 『赤旗』)(Page/Top

第三帝国と音楽家たち 歪められた音楽/マイケル・H・ケイター著 明石政紀訳/不遇、順応、抵抗…生々しい実態が

 本書はナチス統治下のドイツ・クラシック音楽界で、音楽家たちがどのように活動し、どのように生きたのかについて詳述したものである。それも通り一遍の記述ではなく、かれらが、いつ、どこで、何を言い、どう行動したのかを詳しく紹介し、さらにはヒトラーやゲッベルス、ゲーリングなどのナチ高官が音楽と音楽家たちに対してどのような態度をとったかについてもふれている。
 それらは膨大な資料を渉猟した著者の根気強い調査によって新たに掘り起こされた事実と、関係者へのインタビューに基づくもので、本書によってナチ時代の音楽と音楽家たちの生々しい実態が浮かびあがってくる。
 興味深いのは、ナチ体制への忠誠が出世の鍵を握っていたことは事実だが、むしろ権力者たちの思惑と、駆け引きの巧みな音楽家の野心とが複雑にからみあって音楽界でのポジションが決まっていった点である。
 たとえば超保守派の作曲家でナチ体制に大きな期待を寄せていたプフィッツナーは、その期待に報われるどころか結局不遇をかこつことで終わった。いっぽう指揮者のフルトヴェングラーは、これまで伝えられていた以上に権威崇拝心が強く、専制政治に順応しナチ体制の存続を助けていったのである。
 本書で注目されるのは、第四章「生活のなかの音楽」で紹介されているナチ体制のもとでの音楽活動である。特にハウスムジーク(家庭音楽)の奨励やヒトラーユーゲントでの音楽活動重視、またプロテスタント教会における宗教音楽の変質については、これまであまりふれられてこなかっただけに貴重である。
 本書を読むと、あらためてファシズム体制下での音楽と音楽家のありかたを考えさせられる。その意味でも、終章で紹介されている作曲家ハルトマンの沈黙によって抵抗を貫いた姿勢には深い感銘を受ける。
小村公次・音楽評論家
 MiChAel H.KAter 一九三七年生まれ。カナダの歴史学者。トロント・ヨーク大学教授。
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2003年09月29日 『赤旗』)(Page/Top

伊首相 ムソリーニ美化を弁明したが…/さらに広がる国民の批判/反ファシズムは戦後の基本理念

 イタリアのベルルスコーニ首相は17日、ローマにあるシナゴーグ(ユダヤ教礼拝堂)を訪問してユダヤ人協会のアモス・ルツァト会長と会見、ファシスト独裁者のムソリーニを美化する発言をしたことを「謝罪」しました。しかし反ファシズムという戦後の基本理念を否定する発言への根本的な反省はみられず、怒りと批判は広がる一方です。(島田峰隆記者)
傷は癒やされない
 同首相は最近の雑誌インタビューで、「ムソリーニは寛容でだれも虐殺していない」と発言し、反発を受けていました。「謝罪」したとはいえ、シナゴーグ訪問はごく短時間で、内容も「首相は私に対して特に謝罪したのでありイタリア国民にではない」(ルツァト会長)というものです。さらに首相府が発表した声明は「発言が不正操作されて解釈された」ことが問題の原因とするなど、真摯(しんし)な反省の色はみえません。
 このため歴史家や芸能人など五百人を超える著名人は同日、「これでは傷は癒やされない」とする声明を発表し、形式的「謝罪」で解決を図ろうとする首相に抗議しました。
 レプブリカ紙は「首相はホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を否定するほかの誰よりも粗野である」と断定しました。ロイター電によると、ムソリーニ時代にイタリアに併合されたエチオピアでも「独裁者支持の口を開く前に歴史文書を見るべきだ」(人権審議会会長)との声が出ています。
並外れた無知
 首相の発言がこれほどまでに批判と反発を招くのは、それが反ファシズムという戦後の基本理念を根本から踏みにじる行為だからです。
 ムソリーニが支配したイタリアはアルバニアやエチオピアなどを侵略、併合しました。ナチス・ドイツと同盟を組み、一九三八年には人種差別法を制定。国内のユダヤ人約七千人を強制収容所へ送り、うち約六千人が死亡しました。ムソリーニが支配した約二十年間、抑圧によるユダヤ人と被支配国の死者は少なくとも百万人に上るとされます。
 一方、第二次世界大戦末期には北部を中心に大規模なレジスタンス(反ファシズム闘争)が広がり、国民は自らの手でファシスト体制を倒しました。
 戦後はこうした歴史を踏まえ、ファシズムへの反省とレジスタンスの精神を根本に据えた憲法を制定し、戦争放棄を宣言するとともにファシスト党の再建を禁止しました。この姿勢は、欧州諸国はもちろん、かつての被侵略国とも友好な関係を再建する土台となってきました。
 首相の発言はこの歴史の流れを逆行させる暴言で、イタリアの野党や全国パルチザン協会がそろって「並外れた無知」だと非難しました。
真の謝罪を
 著名人による声明は、首相の「謝罪」は「歴史の真実に対してもファシズム独裁時代のユダヤ人とすべてのイタリア国民がなめた辛酸に対しても無礼なものである」と指摘しました。
 ユダヤ人協会も「すべてのイタリア国民に謝罪することを期待する」としており、真摯な謝罪を求める声はいっそう強まっています。
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2003年09月22日『赤旗』)(Page/Top

「ムソリーニは寛容」/イタリア首相暴言に批判の嵐

 イタリアのベルルスコーニ首相は十一日発行の英誌とイタリア地方紙に掲載されたインタビューで、戦前のファシスト独裁者ムソリーニを美化する発言を行いました。ユダヤ人団体や野党などからは、政治家としての資質が問われると、批判が一斉にあがっています。
 首相の発言は、ムソリーニの独裁は「寛容」で「彼はだれも虐殺しなかった」などという内容。しかしこれまでの歴史研究で、ムソリーニの独裁下で植民地国の国民など少なくとも百万人が殺害され、人種差別法で約七千人のユダヤ人が強制収容所に送られたことが明らかになっています。
 イタリアのユダヤ人協会は直ちに「激しい心痛を引き起こした」と首相を糾弾。野党の共産主義再建党と中道左派連合「オリーブの木」に属する各党の下院議員団長は連名で声明を出し、「首相はファシズムとのたたかいから生まれた民主主義、ナチスファシズムとのたたかいから生まれた欧州を代表する品位を持ち合わせていないことを示した」と批判しました。
 イタリア全国パルチザン協会と強制収容被害者の団体も共同声明で「ばかげた発言」だと指摘、「並外れた無知と不誠実からしか起こり得ない首相発言を憤慨をもって拒否する」と強調しました。
 ベルルスコーニ首相のこの種の暴言は繰り返されており、七月にも欧州議会のドイツ人議員をナチス呼ばわりして外交問題を引き起こしています。
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2003年09月18日『赤旗』)(Page/Top

潮流(記録映画「真実のマレーネ・ディートリッヒ」)

 記録映画「真実のマレーネ・ディートリッヒ」が近く公開されます。ドイツからハリウッドに移って数々の話題作に出演した、女優の素顔に迫ります▼十一年前に亡くなったマレーネは、筋金入りの反ナチスで知られます。映画でも、ドイツとたたかうアメリカ軍を慰問するだけではありません。従軍し、欧州の戦場を転々と回ります▼恋人だったフランスの俳優ジャン・ギャバンも、反ナチスの抵抗軍に加わります。彼女は、解放されたパリの街角で、進軍してきたギャバンとの再会を果たします。戦後は、反戦歌の「花はどこへ行った」や「風に吹かれて」も歌いました。生きていれば、2001年9・11以後の米軍を、果たして支援したでしょうか▼よく彼女と比べられるドイツ人女性が、レニ・リーフェンシュタールです。生まれもマレーネの一年だけ後。俳優から監督に転じ、ナチ党大会の模様を映した「意志の勝利」やベルリン五輪の記録「オリンピア」を撮ります▼目新しい大胆な映像が、世を驚かせます。ナチスの要人にも気に入られます。当然ながら人々の目には、宣伝映画をつくったナチスの美の女神と映りました。しかし彼女は、「ヒトラーにだまされた」「美を追求しただけ」と語ってきました▼だとしても、ナチスが宣伝効果をあげる「美」を欲していたのは、事実です。戦後、彼女の美意識を「魅惑的なファシズム」と評した人もいます。百一歳の死が伝わりましたが、レニの残した謎は、いまにも通じる問いかけです。
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2003年09月11日『赤旗』)(Page/Top

この人と きき手・大内田わこ編集局次長/イエーナさん。ヌスバウムの絵との出会いは/ナチに殺された彼、いまも多くを語る

 ひとりの画家が私の心をとらえて離しません。第二次世界大戦の末期、ナチスドイツの手によってアウシュビッツのガス室で消されたユダヤ人画家、フェリックス・ヌスバウムです。ドイツを訪れた機会に彼を記念する美術館を、生まれ故郷の町オスナブリュック市に再度訪ね、館長のインゲ・イエーナさんにインタビューしました。
 大内田 ヌスバウムの絵に会いたくて、またやってきました。
 イエーナ ほんとうにようこそ。最近は日本からの方も増えているのですよ。
 大内田 ヌスバウムの絵とは、いつどこで?
 イエーナ 私はこの町で生まれ、この町の大学で美術史を学びました。一九七一年、町のドミニカーナ教会で初めて彼の絵の展覧会があったんです。それを見たときの感想はなんと変な絵だろうということでした(笑い)。というのも、当時流行の、既成の観念や流派を否定し新しい芸術を模索するというアバンギャルドの考え方を、素晴らしいものと思い込んでいたからです。
 もちろん今では彼の作品の素晴らしさを高く評価しているひとりです。今でも美術鑑定などをする人のなかには、彼がユダヤ人でなかったら、アウシュビッツで殺されていなかったらここまでもてはやされなかったろうといった意地悪な見方をする人がいます。でも、そうではないと思います。あのファシズムの時代にヌスバウムが命懸けで描き続けた絵は、今も多くの人々の胸にたくさんのことを語りかけ揺り動かしているんですから。
 大内田 昨夏初めてここへきたとき駅前で「ヌスバウムのことを知っている人はいませんか」と、尋ねたら、タクシーの運転手のモハメドさんがすぐに案内を買って出てくれたんです。そのとき彼の言った言葉がとても感動的でした。われわれには平和のためにヌスバウムのことを若い人に伝える義務があるといったんです。
 イエーナ おおぉ、そうなんですか。オスナブリュックではいまやお客さんがくると、だれでもまず、ヌスバウムを見に行こうと、こうなるのが普通なんですよ。(笑い)

絵を描くことは、ヌスバウムの生きた証し「私が死んでも作品は死なないように」と…

 イエーナ 館内を案内していると、彼の亡命生活時代の説明をきいて涙を流す人、耐えきれなくなって外へ出てしまう人もいます。彼は芸術家として出発した一九二四年ごろ、ゴッホを愛し、作風的にも同時代の芸術家と同じような道を歩こうとしていました。しかしヒトラー政権の誕生によって、政治的にその道は阻まれ、亡命という特殊な道を歩かざるを得なくなります。そしてこれは、当時、ユダヤ人としては決して特殊な道ではなかったのです。
 (一九三三年、政権についたヒトラーは、反ユダヤ人政策を推し進めるとともに芸術・文化の面でも「文化政策上のテロリズム」を実行に移し、ユダヤ人芸術家はもちろんナチに同調しないものすべてが堕落芸術、退廃芸術の烙印(らくいん)を押されます。それはゴッホ、シャガールなどの作品にも及んで…)
 イエーナ あのナチスの時代にどんなことが行われたかを現代の人びとに説明するのに、数字や事柄で示すだけでなく、ヌスバウムというひとりの人間を通して、なぜ彼がこういう目に遭わなければいけなかったのかを知ってもらうことで、より具体的に分かっていただけるのではないかと考えているんです。
 大内田 ほんとうにそう思います。結局彼は、隠れ家で絵を描き続けることに。
 イエーナ 私がとても驚いたのはそういうなかで彼が油絵をかいていることです。四四年六月、彼が逮捕された後、グラットリー通りのアトリエに残されていた「死の勝利」という作品などは、びっくりするほど大きいものです。油絵はいくらひそかに描いていても、においでわかるんです。わかれば逮捕される。その危険を冒してまでなぜ…。彼の絵を前にして、いつも自問自答してしまうんですよ。
 絵を描くということはヌスバウムにとってイコール自分の人生、生きる理由だった。その時代に自分が生きたという証明をなんとしても残したかったのですね。
 大内田 「私の絵を死なせないで」と友人に。
 イエーナ ええ。ヌスバウムはまだ若いころにアトリエが火事になり、絵のほとんどを無くしてしまった。そのため亡命先でも描いた絵は持ち歩いていました。ナチの目を逃れて引っ越しするわけですけれども、それでも全部持って行く。でも、「オルガンまわし」の絵(一九四三年)を描きあげたとき、それらを額から外して紙に巻き、グロスフィルスという友人の歯医者に「私が死んでも作品は死なないように」と、託すんです。
 大内田 そうだったんですか。
 イエーナ この館ではヌスバウムが生きた時代を九つに分けて百七十点を展示していますが、彼の作品にはナチスのかぎ十字の印は一度も出てこないんです。迫害される側の心のうちを描き続けた画家だったといえます。ユダヤ人にはもう未来はない、自分も近いうちに死ぬかもしれないという恐れを持ちながら、忍び寄る不安を絵にしたのです。それだけに彼の自画像の問いかけるような目は、見る人の心をとらえて離さないのです。
 大内田 年間どれぐらいの人々が?
 イエーナ 五、六万人ぐらいでしょうか。ドイツ各地はもとより、オランダやベルギーなどの近隣諸国、夏休みの旅行者としてはアメリカから訪れてくれています。
 大内田 市民の運動でできた美術館だと。
 イエーナ ここにある絵の一部も市民のカンパを集めて買ったものなんですよ。それはこの町で生まれ育った才能ある芸術家がアウシュビッツで殺されなければならなかったという事実を、戦後になって初めて知った市民たちが、その存在を今日に紹介したいと運動が広がったからです。地元の新聞で「だれがヌスバウムをおぼえているのか?」と呼びかけ、国内はもちろんベルギー、イタリア、フランスなど多くの国から情報が寄せられました。この館の設計も公募したんですよ。
 大内田 それであの著名な建築家リベスキントさんが。
 イエーナ ええ。私たちは最初とても心配しました。こんなに変わった建物ではヌスバウムの絵はそっちのけになるのではないかと思ったんです(笑い)。でもオープン(九八年)してみたら、リベスキントの建物とヌスバウムの絵が、マッチして人々に受け入れられ、ほっとしました。
 大内田 来年は生誕百年ですってね。
 イエーナ はい。これを機会に二十世紀の芸術との関連や、同時代の画家、あるいはゴッホのように前の時代に生きた画家との関係など、ヌスバウムを多くの人々に知ってもらえる企画を考えたいと思っています。この館で働くみんなの一致した思いは、過去を学ばずして将来に向けて平和を守ることはできないということです。偶然にも館長という仕事をしている私も、ほんの少しのお手伝いができていることを誇りに思っています。
 フェリックス・ヌスバウム 1904年、北ドイツの裕福な金物商の二男として生まれる。18歳で画家修業のためハンブルクへ。その後ベルリンに移り後に妻となるポーランド出身のユダヤ人画家フェルカ・プラテックと出会う。32年ローマのドイツ・アカデミーに留学。翌年ナチが政権をとったためベルギーへ亡命。40年ドイツ軍の侵攻で南仏のサン・シプリアン収容所に抑留されるが脱出。フェルカの待つブリュッセルに戻り、ナチの追及から身を隠しながら絵を描く。44年6月、2人はドイツの親衛隊に捕らえられ、7月末日最後の輸送列車で、両親、兄も殺されたアウシュビッツに送られ命を絶たれる。

 インゲ・イエーナ 1956年オスナブリュック生まれ。74年オスナブリュック大学に入学美術史を学ぶ。82年から同市の「博物館と芸術の協会」、85年には市立文化史博物館で展覧会担当の監督(CURATOR)を務める。92年以後はヌスバウムコレクションの監督もかねる。2000年4月からフェリックス・ヌスバウム館の館長。90年発行のカタログ『F・ヌスバウム 追放された芸術―亡命芸術―抵抗の芸術』の執筆者の一人。
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2003年09月07日『赤旗』)(Page/Top

チュニジアの七日間/中央委員会議長/

民族独立の闘争史が国づくりの活力に
 実際、七十五年にわたるフランスの植民地支配とたたかって、独立チュニジアをかちとった民族独立闘争の歴史は、この国と国民の活力の大きな源泉となっている。
 大会でも、演説の要所要所で、代議員の全員が立ち上がって国歌を歌うが、これは民族独立闘争のなかで歌われてきたものを、国歌として採用したのだとのこと。ハマム氏の解説によると、ブルギバ大統領の時代の国歌はブルギバ礼賛が露骨だったので、ベンアリ大統領に代わってから、その国歌を廃止し、独立闘争時代のチュニジア賛歌をあらためて国歌にするよう、国会で決定したのだという。
 独立闘争といえば、その指導者だったブルギバ前大統領にたいする評価も、興味ある点だった。ブルギバは、政権党・立憲民主連合の創立者であり、三〇年代からチュニジアの民族独立闘争の先頭に立ってきた、いわゆる「建国の父」である。一九五六年に独立をかちとり、一九五七年に王制を廃止して共和制に転換した時、初代大統領になり、三十年にわたってこの地位にあった。最後の時期には、制度的にも自分を「終身大統領」に位置づけたうえ、個人的な権力に固執する専横の傾向が強まった、と言われている。
 そのブルギバ氏に任命された最後の首相がベンアリ氏だったが、ベンアリ氏が首相就任の一カ月後に、「執務不能」という医師の診断書をブルギバ大統領につきつけて「終身」大統領の退陣を実現したのが一九八七年、それによってベンアリ大統領を中心とする現体制が実現したのである。一九八七年のこの政変は、論者によっては「無血革命」とも呼ばれるが、公式にも、国と党を破滅から救った歴史的な「改革」と位置づけられている。
「建国の父」の評価をめぐって
 興味深いのは、ブルギバを強引に退陣させた一九八七年が、現在のチュニジア政治の出発点になっているにもかかわらず、歴史の見方がブルギバ時代の全否定とはなっていないことである。ブルギバ前大統領は、退陣後に亡くなったが、首都チュニスの中心をつらぬく幹線道路は、いまでもブルギバ道路である。この大会でのベンアリ演説でも、ブルギバをはじめとする先人たちの建国の功績への感謝と、ブルギバ体制を終結させた一九八七年「改革」への礼賛とが並列して強調され、ブルギバへの評価を述べた時には、ひときわ大きな拍手が起こる、という情景があった。
 この評価は、表面だけの儀礼的なものではないようだ。私たちの世話役ハマム氏の解説によれば、ブルギバは民族独立闘争で大きな賢明さを発揮した指導者で、その賢明さは、たとえば、第二次大戦の時、反フランス路線に固執することなく、反ファシズムの立場でフランスをふくむ連合国に協力する立場をとったところにも、表れたのだという。
 第二次大戦中に世界の反植民地独立運動がとった路線の問題では、インドにこれとは対照的な実例があった。国民会議派をはじめとするインドの独立運動が、反イギリス路線を根拠に、第二次大戦に「中立」の立場をとり、一部には日本軍に協力する流れさえ生まれたのである。ハマム氏が、世界の大局を見るブルギバの賢明さを評価するのは、納得できる話だった。
 こういうことを含めて、「建国の父」ブルギバにたいする高い評価と、晩年のブルギバ専横を終結させた一九八七年「改革」への礼賛とが、合理性をもって共存しているのだとすると、ここに、独立運動の歴史にたいするとらえ方のチュニジア的な柔軟さがあるのかもしれない。
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2003年09月01日『赤旗』)(Page/Top

伊首相の暴言/EUの基本理念―反ファシズム/踏みにじったことに怒り

 ストラスブールは十九世紀から独仏両国が奪い合いを繰り返してきた町。第二次大戦後、反ファシズムと恒久平和実現の決意を込めてここに欧州連合(EU)の議会、欧州議会が置かれました。ベルルスコーニ・イタリア首相の発言はおよそこの町にふさわしくないものといえます。
 免責特権法を急きょ可決させて汚職での訴追から逃げ切ろうとする同首相。これを批判したドイツ人議員をナチ呼ばわりしたことは、「ジョークだった」(同首相)と受け取られず、こともあろうにEU議長としての就任演説の場で、戦後欧州の基本理念を踏みにじった行為として糾弾されています。
 EU基本条約はEUが自由、民主主義、人権の尊重、法の支配を原則とし、これに反した加盟国に制裁を科すことを定めています。ファシズムが欧州全土を戦場にし、数千万人の犠牲をもたらした大戦を引き起こしたことへの反省から、その復活を未然に防止するためです。二〇〇〇年にはナチを賛美した極右政党を政権入りさせたオーストリアに制裁が発動されました。
 ドイツではナチのシンボルマークであるかぎ十字が法で禁止され、公然と掲げれば逮捕、訴追は免れません。ナチが行ったユダヤ人などに対する迫害は犯罪とされ、国家として謝罪の意思を明確にしています。まったく根拠のないナチ呼ばわりはドイツ人に対する最大の侮辱です。
 イタリア国内でベルルスコーニ暴言が厳しく批判されていることにも同様の理由があります。イタリアは第二次大戦でナチス・ドイツの同盟国でしたが、米英など連合軍と呼応した国民自らの決起でファシスト政権を倒しました。戦後の憲法はファシスト党の再建を禁止しました。
 ベルルスコーニ氏自身はファシズムを賛美する政治勢力に支えられ、その政治姿勢に欧州各国から強い警戒感が向けられていました。「本性あらわる」というのが各国の実感でしょう。イタリアが輪番制のEU議長を務める今年後半には欧州憲法草案の審議が行われます。ベルルスコーニ氏の適格さが問われるのは必至です。(山田俊英記者)
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2003年07月05日『赤旗』)(Page/Top

団結の教訓は生きる/対独戦勝記念日にロ大統領

 【モスクワ9日北條伸矢】ロシアは九日、五十八回目の対ドイツ戦勝記念日を迎えました。モスクワ中心部・赤の広場では軍事パレードが行われ、プーチン大統領が演説。米英ソなど連合国の団結が反ファシズム戦争の勝利を導いた教訓を振り返り、「今日でも貴重な団結の教訓は生きている。国際テロという新しい世界的な脅威が生まれ、それに対抗するためにはすべての文明国が力を合わせなければならない」と強調しました。
 ロシアでは、メーデー、十月革命記念日など旧ソ連時代の祝日の名称が変更され、国家的な式典は中止されました。しかし対独戦勝記念日だけは軍事パレードが実施され、盛大に祝うならわしです。旧ソ連諸国でも同日、多彩な式典が開かれました。
 ソ連は第二次大戦で二千万人を失ったとされるだけに、近親者に従軍・被災経験者がいる国民がほとんど。学校教育でも対独戦が重視されており、若い世代を含め、戦争経験の風化≠ヘあまり見られません。ただ、指導者スターリンの役割については、粛清や戦争指揮の誤りなど否定的な評価も教えられるようになりました。ソ連時代に「大祖国戦争」と呼びならわされてきた対独戦の呼称は現在も使われていますが、報道機関や一部の国民には「第二次世界大戦」が浸透しつつあります。
 快晴に恵まれた九日。モスクワ市内の戦勝公園には午前中から家族連れの市民が多数訪れ、勲章を胸にした男女の戦争経験者に「おめでとう」と声をかけ、花束を手渡していました。
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2003年05月11日 『赤旗』)(Page/Top

世界でメーデー多彩に/福祉、平和掲げ独では100万人

 【ベルリン1日片岡正明】一日のドイツの今年のメーデーにはドイツ政府が提案している社会保障制度の改悪や米英によるイラク戦争という情勢を反映し、各地で昨年の倍の約百万人が参加しました。
 ドイツ労働総同盟(DGB)のメーデースローガンは「改革はイエス、社会保障制度の解体はノー」。シュレーダー首相が打ち出した失業保険給付期間の大幅削減、病気休業補償金の削減、小規模企業での解雇規制緩和など、労働者・国民の負担を重くする「改革案」に全面的に反対するものとなっています。
 フランクフルトの近くのノイアンシュパッハでのメーデー中央集会(約六千人が参加)では「シュレーダー退陣せよ」というプラカードも掲げられ、シュレーダー首相が演説で「将来の世代に負担をかけてはならない」と「改革案」擁護を述べると抗議の笛が鳴り響きました。一方、ゾンマーDGB議長はこの集会で「いつも改革の名のもとで社会保障制度の解体が進められてきた、改革は社会的公正を基礎とすべきだ」と反論しました。
 ベルリンでは「失業・社会保障切り捨て・ファシズムに反対」「社会福祉切り捨てで雇用は増やせない」などの横断幕を掲げて約二万人が行進。市庁舎前の集会では「米国のイラク戦争・占領に反対」「社会保障制度の解体反対」が呼びかけられました。
 シュウェリンでは三万人、ボン、ハンブルク、ハノーバーなどでも数万人が参加しました。
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2003年05月03日 『赤旗』)(Page/Top

イタリア/58回目の解放記念日/各地で催し 式典欠席の首相に批判

 【パリ25日浅田信幸】イタリアのファシズムからの解放と自由、民主主義の回復を記念する五十八回目の「解放記念日」を祝い、ローマでの記念式典、ミラノでのデモをはじめイタリア各地で二十五日、多彩な催しが行われました。
 イタリアからの報道によると、チャンピ大統領は今年、第二次大戦後の歴史で初めて大統領官邸クィリナーレ宮殿で記念式典を催し、この日が「未来にとっての記憶と希望」の祝日であると、反ファシズム・レジスタンス(抵抗運動)の勝利をたたえる演説を行いました。
 イタリアでは近年、レジスタンスの意義を否定し、歴史教科書の書き換えを進めるなど反動的な動きが強まっています。この風潮に迎合するように、ベルルスコーニ首相が記念式典をボイコットしたことに、強い批判の声があがっています。
 デモと集会が行われたミラノで、中道左派勢力の新たな指導者と目されているコフェラーティ前労働総同盟(CGIL)書記長は「民主主義と自由の価値を理解する圧倒的多数のイタリア人の感情に背く選択だ」と首相の欠席を批判しました。
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2003年04月27日『赤旗』)(Page/Top

イタリア あす「解放記念日」/先制攻撃の拡大を阻止/憲法の価値守れ焦点に

 イタリアでは二十五日、五十八回目の「解放記念日」を迎えます。ミラノで全国から集まるデモ行進が行われるほか、レジスタンス活動家の記念碑に遺族や自治体関係者が献花し、記念式典を開きます。レジスタンス経験者との対話集会も各地で開かれます。
米英軍がイラク占領続ける中で
 今年は、米英両国が国連憲章を踏みにじってイラクを攻撃し、占領を続ける中での記念日です。米英軍のイラクからの撤退、先制攻撃の拡大阻止が主要テーマになる予定です。
 イタリア全国パルチザン協会や労働組合、文化団体、イタリア共産主義再建党など二十団体は九日、共同アピールを発表し、催しへの参加を呼び掛けました。
 アピールは「国際的な合法性の規則を破り、予防的かつ一方的な方法で決定づけられた戦争で荒廃させられた今日、解放記念日の価値と意義は全面的に浮き上がる」と強調しています。また「イラクの再建と政治行政の未来に関しては、国連に中心的役割を認めることを求める。イラクの未来はイラク人民の完全な自主決定で決められなければならない」と指摘しました。
国民世論の大多数と対立
 ベルルスコーニ右派政権はイラク戦争を支持し、米軍の占領支援策として治安維持や医療にあわせて二千五百−三千人の部隊派遣も決定しました。これに対し、国際紛争の解決手段としての戦争を放棄した憲法に反するとして、国民から強い批判が出ています。アピールも、政府の姿勢を「憲法違反であり国民世
論の大多数と対立している」と非難しています。
 イタリアでは近年、レジスタンスの意義を否定したり、レジスタンスや憲法を詳述した学校教科書が「偏っている」とする攻撃が右派勢力から出ています。
 ベルルスコーニ首相も十二日、憲法の一部が「ソビエト的」で経済発展を阻んでいるなどと語りました。
 右派政権の一部にあるこうした歴史修正主義を克服し、憲法の価値を守ることも大きな課題です。
 アピールは、レジスタンスが平和と民主主義をもたらした歴史的事実をふり返りながら「(攻撃の)潮流に対しては、巨大で捨て去ることのできない価値、また真実と歴史記憶の価値の名において、強力かつ断固として反撃しなければならない」と表明し、憲法を守るたたかいへの参加を訴えています。(島田峰隆記者)
 (注)レジスタンスと解放記念日 第二次大戦末期の一九四五年四月二十五日、ドイツ軍に占領されていたイタリア北部の諸都市が、連合軍の到着に先だって国民のレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)によって解放されました。この運動は戦後、戦争放棄や民主主義を明記した憲法に実りました。この日はファシズムからの解放を祝う日として休日に指定されました。
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2003年04月24日『赤旗』)(Page/Top

ドイツ/すべての民族に平和を/復活祭平和行動に1万人余

 【ベルリン19日片岡正明】ドイツの復活祭平和行動二日目の十九日、ドイツ六十カ所以上で一万人以上が参加しました。
 シュツットガルトでは、約四千人が「米国の国際法違反の戦争が次の戦争の先例となってはならない」をスローガンに行進。ミュンヘンでは「すべての民族に平和と正義を、戦争ノー」などの横断幕が掲げられました。
 ケルンではイラクからの亡命者を含め約千二百人が戦争と人権侵害に抗議してデモを行いました。またデュッセルドルフで約千人、ブレーメンで約六百人、カールスルーエで約七百人が参加しました。
 一方ハイデルベルクでは、ネオナチが集会を計画したのに対し、「ファシズムを許すな」と約二千人が集まり、百人ほどが集まったネオナチ集会を圧倒しました。
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2003年04月21日 「赤旗」)(Page/Top

美術/黒人の信仰にじむモダン/ヴィフレド・ラム展


 キューバの作家ヴィフレド・ラムの生誕百年回顧展は、一九三七年の作「スペイン内戦」で始まる。バルセロナでスペイン共和国のためにファシズムとたたかった画家の、記念碑的作品である。パリに移り、黒人彫刻にひかれるピカソから激励を受けるなど近代表現になじみ、後年はフランス、イタリアで独自の表現を展開した。それは土俗宗教の世界観を色濃く反映している。
 ラムはアフリカとスペインの血をひく母、中国人の父をもつ。一九四一年に帰国したキューバで植民地支配下に進行した物質崇拝と精神的荒廃に直面して、黒人の聖霊信仰に改めて目を向けた。人間的な精神の救済には、連鎖する自然の生命を生きた古来の人間観を近代に融合させる必要があったのである。それは母親から受け継いだ、内からわき出る欲求であった。
 そうした独自表現の形成過程がうかがえる一九四〇年代はとくに興味深い。マチス風の人物やキュビスムから、運命の神・雷神・母神・愛の神などをモティーフにしたシュールレアリスム風表現に移行する。聖霊が鳥や獣の顔をもって宙を飛び、男でもあり女でもあるデフォルメされた人体と絡まる。線描が大きな比重を持ち、濃彩の色面分割が消え、モノクロームの背景にモティーフが浮かび上がる。土俗臭を押し殺しながら人間の普遍性をつくのである。彫刻は縄文土器を連想させる強い表現だ。
 ラムは人種と民族、伝統と現代の複雑な交差点に身を置き、黒人奴隷の売買と殺りくと文化破壊の歴史の上にある人間の営みを描いた。グローバリゼーションが進む今日を先取りしたかのようである。(山口泰二・美術評論家)13日まで、横浜美術館(木曜日休み)
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2003年01月07日 「『赤旗』」)(Page/Top