2004年 ファシズム関連情報】

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2004(ヘッドライン)

*         潮流

*         文芸時評/三木朋子/円熟に背を向ける晩年のスタイル

*         「アカシアの街に」を終えて/戦争ノーのよすがに/右遠俊郎

*         ドイツの平和活動家集う/イラク占領反対の運動推進へ/欧州憲法の軍事条項には反対

*         どうみる独労働者のたたかい/ミュンヘンの専門家分析/工場の国外移転に規制が必要

*         平和活動強化を訴え/ポルトガル共産党大会閉幕

*         独民主的社会主義党大会おわる/総選挙での躍進訴え

*         山田和夫・世界映画の発見/山田和夫著/永年の旅からの作家・現代史論

*         過去の意匠の厚み/ヴィスコンティ監督と「山猫」/矢島翠

*         朝の風/ヴィスコンティ映画祭

*         イラク撤兵が共通要求/欧州社会フォーラム/戦争が福祉削る原因/国際戦犯法廷設置を

*         独・州議選躍進のPDS(民主的社会主義党)/州政策責任者にきく

*         日本共産党知りたい聞きたい/独ソ不可侵条約をどう考える?

*         映画時評/記録映画が真実に迫る衝撃力とは/マイケル・ムーアの「華氏911」/山田和夫

*         独東部2州議会選挙/民主的社会主義党が前進/福祉後退、失業増で2大政党に批判/極右政党が議席獲得

*         戦争のないアジア、戦争のない世界をめざして/アジア政党国際会議/日本共産党代表団長不破哲三

*         ナチの犯罪繰り返すな/シンティ・ロマ強制移住68周年で集会

*         朝の風/ベン・シャーンのメッセージ

*         フィリピンで何が…/「教えられなかった戦争」高岩仁監督がフリートーク

*         激動/中南米をゆく/第1部革命のベネズエラ/21/メディア・ファシズム

*         文化/戦場写真家/キャパ/光と陰/「没後50年」展によせて/中村梧郎

*         イタリア平和のテーブル/グッビョッティさんに聞く

*         番組をみて/新日曜美術館/国吉康雄 アメリカを生きる

*         ナチスの国の過去と現在 ドイツの鏡に映る日本/望田幸男著

*         国吉康雄展/田中 淳/アメリカに生きた画家の「いのち」の表現

*         潮流

*         04米大統領選 移民弾圧/「愛国」の名で

*         映画/独裁者に至る前の顔/「アドルフの画集」

*         朝の風/ベン・ニコルソンが吸った空気

*         ピカソの戦争 《ゲルニカ》の真実/ラッセル・マーティン著木下哲夫訳

*         財閥と帝国主義 三井物産と中国/坂本雅子 著

*         研究ノート/スポーツ運動史/上野卓郎/スポーツとコミンテルン

*         背表紙/『茶色の朝』… 忍び寄るファシズムの不気味さ

2004年(本文)(Page/Top

潮流

 年末に振り返るこの一年。日本も世界も戦争への態度を問われました。考えさせられたのはドイツと日本の違いです▼両国とも米国の同盟国ですが、米国が始めたイラク戦争への対応は正反対でした。ドイツは反対して派兵を拒否し、日本は支持して自衛隊を送りました。かつて植民地を支配し、第二次世界大戦では侵略側となって断罪された歴史も両国は同じです。でも過去に向き合う姿勢が大きく異なりました▼六月六日はファシズムにたいする民主主義陣営の反抗開始となったノルマンディー上陸作戦六十周年でした。同地での記念式典にシュレーダー首相がドイツ首相として初めて参加。米英仏ロ首脳と並んで平和の誓いをしました▼八月一日の「ワルシャワ蜂起」六十周年は、連合軍の進攻に呼応してポーランド市民が立ち上がった日。ドイツ軍に大量殺害されましたが、シュレーダー首相は記念式典に足を運び、「ドイツ軍の犯罪」を謝罪しました▼ユダヤ人大虐殺の象徴アウシュビッツ強制収容所の解放六十周年は来年一月二十七日です。記念式にドイツは大統領が出席の予定です。欧州では侵略戦争の否定と過去の反省が常識となり、国際関係の基準になっています▼アジアでも来年、日本の植民地支配と侵略からの解放六十周年を記念する行事が各国で予定されています。そんななか首相や閣僚が戦争否定の九条を邪魔者扱いし、靖国神社に参拝する日本の異様さ。世界の流れに逆らうこんな動きに来年こそストップをかけたい。
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2004年12月29日,「赤旗」) (Page/Top

文芸時評/三木朋子/円熟に背を向ける晩年のスタイル

 創刊百一年目、千二百号記念となる『新潮』一月号に、E・サイードの遺稿「晩年のスタイルに関する考察」と、これを受けて、亡き人への手紙という形で書かれた大江健三郎の「『後期の仕事』に希望がある(か?)」が掲載されている。
 サイードは、「円熟にわざと背を向ける」芸術家の晩年にひきつけられると述べ、音楽から詩、小説にわたる幾つかの作品にその魅力を探っていく。
 一方、大江は晩年を自覚し、「後期の仕事」に取り掛かったところであり、この手紙の執筆により、カタストロフィー(破局)を書くことを恐れなくなったとしたためる。大江がここで、もう一作やる覚悟を決めたと言う作品が、「むしろ老人の愚行が聞きたい―『さようなら、私の本よ!』第一部」(『群像』同)である。
 作家の自画像をパロディにしたような長江古義人は、集中治療室に入院するほどの深手を負い(前作『憂い顔の童子』の結末)、ひと夏、軽井沢の別荘で療養することになる。奥には別の大きな家があるのだが、そこは地所もろとも、古い知り合いで長く音信のなかった椿繁が買い取ることになる。これには作家の経済事情もからんでいた。
 主にアメリカの大学で建築家として働いてきた繁には、少々いかがわしい履歴もあり、そもそも少年時代の出会いからして、古義人には因縁めく釈然としないわだかまりがあった。しかし、老いた今、次々と友人に先立たれるなかで、繁がロシアと中国の若い仲間を引き連れ隣に住むというのは、心強く思われ歓迎した。
 互いの家を行き来しつつ、当初四人は英語と日本語でエリオットやミシマを論じたりしていたが、繁の提案で、古義人の独り語りや繁との対話をビデオに撮ることになる。ともすれば亡くなった人たちと対話をしている古義人は、ひとりでビデオを回すこともできるというシステムに、いたく心動かされる。このビデオがきっかけとなり、老小説家は波乱万丈の冒険物語を構想し、古義人自身の運命も動き出すところで第一部は終わる。
 作家の晩年を、川端、三島は自殺で締めくくり、谷崎は円熟へ向かったと言えるだろう。大江は、賞賛に比例する誹謗(ひぼう)中傷や批判を浴び、ひんしゅくを買っても、円熟の道を選ばず、「新たな作風の獲得」で晩年を燃焼させる決意のようだ。快挙をたたえずにはいられない。
 ここに、もう一人、「虚構性を否定する、小説の自殺行為」ともいえる方法で、連載を終えた作家がいる。「アカシアの街に」(本紙)の右遠俊郎である。今や、老いと病が道連れの小説家に、「自殺行為」をさせたものは何か。「私の少年時代と似たような雰囲気、ファシズムの温暖化現象を日々肌身に覚える」「時代の流れに危機を感じるからだ」と作家は言う。
 こう書くと悲壮めくが、作品の基調はユーモアにあると私は読んだ。作家は「時の流れに流された、平凡な少年」右遠俊郎が生まれた一九二六年から敗戦まで、二十年ほどの大連での歳月を記録する。平凡とはいえ、戦時とはいえ、幼児は少年そして青年へと成長する。その発達の節目節目がどこかこっけいな逸脱行為、失敗談で記されていく。
 再び、サイードを引用すれば、喜劇、笑いは「時間との不適合」によって生じる。たしかに、右遠少年の数々の失敗は、時代や環境との齟齬(そご)が生み出したものだ。そして、これが喜劇であるからこそ、読者は口元をほころばせつつ、はてさて、おかしいのは少年か、時代か、と考えることになる。このおかしな時代にも引き付けて。
 このおかしな現代を、星野智幸「在日ヲロシヤ人の悲劇」(『群像』同)は、平均的サラリーマン家庭の親子四人が、進行形の世界情勢にかかわり、家族の崩壊に至るドタバタ悲喜劇に仕立て上げている。時は二〇〇六年へと進み、「露連」では独裁的大統領が再選され、対抗する人権擁護と平和運動が世界中の亡命ヲロシヤ人とその支援者によって展開されている。内部矛盾から目をそらそうと大統領はテロ撲滅をうたい「米合」軍の派遣を要請、「アナメリカ」はこれに応じる。日本にはすでに国軍があり、支援と称して軍隊を派遣、派兵をあおったのは何と日本のメディアだった。日露戦争勝利の栄光再びと血気にはやる日本社会で、在日ヲロシヤ人は身に危険を覚える。彼らを支援する運動の先頭に立っていた娘は、メディアに雷同する人々のみだらな言葉で陵辱され、殺される。
 作品には、昨今の社会問題がごった煮のように詰め込まれているが、その猥雑(わいざつ)さが明日の世界の姿とも思わせ、小説に現実感、切迫感をもたらしている。
 『民主文学』(同)には「時代の危機」に作家それぞれの声で応える十三編が並ぶ。
 宮寺清一「弾(たま)」は、自力では身動きもできぬ老人が、体の深いよどみからしぼりだすような声で、痛切な人生の悔いを語る。戦友は無論、空襲で新婚の妻を、さらに震災で老妻を亡くし、自分だけが生き延びている。そんな老人に、最近の報道は、封印していた加害の記憶を呼び覚ます。戦争を知らない者たちが戦争をあおっているのだ。何とかしなければ。贖罪(しょくざい)の思いで鎖骨の裏にある弾は取り出さなかった。その弾が、動かぬ体を突き動かす。何かをなさねばならぬ、と。
 表題にテーマを凝縮させ、すきっとした短編の手本となるような小説である。他にも心に残る作品が多い四十周年記念短編特集だが、燈山文久「暮色の街」は心に焼きつく佳編である。暮れなずむ街の十二年の変化と僕の願い。その描写は必要最小限にとどめ、「祈り」と題された一枚の絵に焦点を絞る。その絵は高給ではない僕にも買えない値段ではなかった。しかし、「祈り」を金で買い、個人で所有していいものだろうか。否。僕は思う。
 (みき ともこ)
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2004年12月22日,「赤旗」) (Page/Top

「アカシアの街に」を終えて/戦争ノーのよすがに/右遠俊郎

 私の「アカシアの街に」は二カ月半の連載で終わった。新聞の連載小説としては短く、マラソンでいえばハーフ・マラソンという感じだ。初めからそのつもりだった。前回の中絶から七年で、まだ脳の力に自信がなかった。素材も自伝的なものに絞り、描写はなるべく省くことにした。
 何もかもが不安だったが、意外なことに始まってすぐから励ましの声が届いた。けれども、私の失語症は厄介(やっかい)で、気をつけていてもどこかに記憶や思考の欠落が生じる。果たして読者から二、三の落度が指摘された。
 その一つは、「ペタン元帥」の記述を間違えたことだ。仙台市のAさんをはじめ多くの方から懇切に教示されてすぐに訂正した。船橋市のIさんからは、特急「亜細亜号」の機関車「パシナ型」(私は「ダブサ型」と誤って書いた)を教えられた。
 そして、「関東軍軍歌」が分からないと書いたら、十人に近い読者からさっそく歌詞が送られてきた。その親切と同時に、多くの人の関心が有り難かった。「しんぶん赤旗」の威力をも感じた。読者との交流は、現在の危機を共有している証だった。仙台市のSさんからは、『関東軍コンクリート船回想記』のコピーまで送ってもらった。
 執筆の途中二、三度、私は脳に微震を感じて、ぐらっとすることもあったが、見えない読者の顔を想像して耐えた。渡辺皓司さんの挿絵も、毎日が工夫されていて楽しく、励みになった。いつものことだが、今度もみんなに助けられて終わりに辿(たど)り着いた。
 私は自分のささやかな小説が、何程のことを為(な)し得たともつゆ思わないが、現代の「王政復古」の企みに、戦争を知るものも知らないものも、戦争はノーだ、ファシズムはノーだと、もう一度胸の内を確かめる、せめてそのよすがになって欲しいと願っている。
 かつて日本は、「王道楽土」を呼称し、匪賊(ひぞく)討滅を図り、偽「満洲国」を建設した。今はアメリカだが、似たような形がイラクで行なわれようとしている。思い比べれば「殷鑑(いんかん)遠からず」、銃剣で守られた民主主義は育たないだろう。この小説を書き終わってそんなことを考えた。(作家)
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2004年12月20日,「赤旗」) (Page/Top

ドイツの平和活動家集う/イラク占領反対の運動推進へ/欧州憲法の軍事条項には反対

 【カッセル=片岡正明】ドイツ中部ヘッセン州のカッセルで四、五の両日、ドイツの百以上の平和団体が参加する第十一回平和政策懇談会が開かれ、イラク占領反対の運動を大きく進めていくことを盛り込んだ集会宣言を採択しました。
 平和政策懇談会は一九九四年から毎年開催され、ドイツ各地と欧州諸国の平和運動家の交流の場となっています。十一回目の懇談会の主要なスローガンは「戦争を通じての平和はありえない」で、平和運動家約三百五十人が参加。海外代表もフランス、スイス、ベルギー、ギリシャ、オーストリア、オランダ、ポルトガル、スペインの八カ国から参加しました。
 採択された集会宣言は「戦争の日常化、軍備拡大、社会保障解体、人種差別的なファシズム的思想の復活に反対し、ファシズムと戦争を二度と許さない歴史的な警告をしよう」と呼びかけ。「戦争とファシズムからの解放六十年に向けて平和的、民主的、社会的に公正な欧州の歴史的未来像をいだこう」と訴えました。行動提起では、来年三月十九日のブリュッセルでの社会保障解体・軍事化反対デモにドイツからも参加するほか、三月二十七日にはドイツでイラク戦争・占領反対の大規模なデモを計画していくことを明記。五月八日のナチス解放六十周年や広島・長崎への原爆投下六十周年、ニューヨークで開かれる核不拡散条約(NPT)再検討会議に向けた取り組みを提起しました。
 今回の大きなテーマはイラク戦争・占領反対、第二次世界大戦終結・ナチス支配からの解放六十周年、欧州憲法の三つです。
 イラク戦争・占領反対では、主催者、平和政策懇談会のペーター・シュトルティンスキ氏が「イラクでは市民が十万人以上殺された。ファルージャなどで多くの子どもが殺されている」と告発。また二期目を迎える米国のブッシュ政権が「新たな戦争を起こす危険がある」と指摘しました。核戦争防止国際医師会議(IPPNW)ドイツ支部のアンゲリカ・クラウセン副会長は「これまでのイラク戦争・占領反対運動では大きな成果があった。世界で数百万人が参加し、世界を結ぶ反戦のネットワークができ、欧州規模でも運動が進んでいる」とこれまでの成果を確認しました。
 ナチスからの解放六十周年では、ドイツでネオナチの流れをくむ極右政党が台頭していることへの警戒を表明しました。
 欧州憲法では、憲法の軍事条項で、欧州連合(EU)が世界各地へ部隊を投入することが可能になるとして、欧州憲法に反対を表明。欧州憲法についての徹底した国民レベルの討論と国民投票での批准決定を求めました。
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2004年12月07日,「赤旗」) (Page/Top

どうみる独労働者のたたかい/ミュンヘンの専門家分析/工場の国外移転に規制が必要


国、企業超えたネットワークを
 ドイツではグローバル化(経済の地球規模化)や欧州連合(EU)の旧東欧への拡大、景気停滞の中で企業側による工場閉鎖や外国移転、労働時間延長の攻撃が強まっています。戦後の歴史のなかで勝ち取られてきた労働者の諸権利を守るたたかいの現状と展望についてミュンヘンの社会環境経済研究所(ISW)のレオ・マイヤー研究員に聞きました。同研究所は経済、社会研究者や労働組合活動家らによって一九九〇年に設立され、労働者の立場に立ち経済、社会、政治問題を分析、政策提言を行っています。
 (ミュンヘン=片岡正明)
 今、ドイツ政治週刊誌『シュピーゲル』の特集記事にもなった「バイバイ、メード・イン・ジャーマニー」という言葉が話題になっています。第二次大戦後、ものづくりで繁栄を築いてきたドイツの工場が次々に外国に移っているからです。九〇年代後半以降、ドイツのものづくりの現場で企業は二百二十万の職を減らしてきました。
 シーメンスは十五年前からチェコ、スロバキア、ハンガリーなどに移転を進めてきました。米自動車のゼネラル・モーターズの子会社オペルはドイツの工場を閉めてポーランドに移転しようと脅しをかけています。

自動車や家電基幹産業も
 工場移転の第一波は繊維産業などでした。現在の第二波の特徴は自動車や家電などの基幹産業です。管理、会計部門やソフトウエア開発部門などの職場も外国に移っています。半導体企業インフィネオンは会計部門を丸ごとポルトガルに移し、シーメンスはチェコのプラハに会計事務所があります。シーメンスのソフトウエア開発計画では予算の30%、人員の50%を中国、インド、東欧などの賃金の安い国で行うとする方針を打ち出しています。

話し合い解決ルールを軽視
 ドイツ国内では大企業は労働時間延長、賃金削減、労組の弱体化を求めています。ドイツなどで第二次大戦後発展してきた社会モデル、資本を十分に規制しながら社会を発展させてきた「ライン型資本主義モデル」が大きな危機にひんしているといえます。資本の側は話し合いで解決するというルールを軽視し、悪条件を押しつけようとしています。残念ながら労働組合としては明確な対抗戦略はまだ打ち出せていません。
 これからの労働者側の一つの方向は欧州諸国の労組の中で企業と国を超えたネットワークをつくることです。多国籍企業なら各国の支社、工場間で情報を交換して、各国の労働者同士を競わせ利益を得ようとする企業側の計画を防ぐことが可能でしょう。労働時間の延長には反対し、労働生産性の上昇率を下回る賃金契約を結ばないなどの欧州労連で決めた最低限の線は各国で守っていくことも大切です。
 欧州では国ごとの個々の問題で大きなたたかいがありました。解雇規制法改悪問題ではイタリア、スペイン、ギリシャで大きな闘争がありましたが、国レベルのたたかいにとどまりました。欧州レベルでの統一したたたかいがこれからは求められます。
 問題は政治のレベルです。資本の移動・国境を越えた投資を規制する政治的枠組みをつくらなくてはなりません。問題を根本から解決するには欧州全体での政治的枠組みをつくる必要があります。「企業の最大の高利益のため」ではなくて、投資される国の労働者・国民の利益になるような投資基準を定めることが必要です。新自由主義の政治的枠組みではない政治的代案が必要です。
 米国や日本、中国、インドなどの労働者との連帯も大事ですが、多国籍企業の横暴に対しては欧州が突破口を切り開かなくてはなりません。欧州、少なくとも西欧には、戦後の反ファシズムを基礎にした社会モデルの共通項があります。欧州で新自由主義への新たな代案ができれば、世界でのたたかいに大きな刺激となるでしょう。
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2004年12月01日,「赤旗」) (Page/Top

平和活動強化を訴え/ポルトガル共産党大会閉幕

 【リスボン=浅田信幸】リスボン近郊で開かれていたポルトガル共産党第十七回大会は二十八日、特別決議「平和と諸国人民との連帯をめざして」に続いて政治決議を採択、百七十六人からなる新中央委員会を選出し、新たに選ばれたジェロニモ・デソーサ書記長の閉会演説で三日間の幕を閉じました。
 満場一致で採択された特別決議は、「帝国主義の侵略性の拡大が人類を未曽有の危険に直面させている」とのべ、アフガニスタンやイラクへの米軍の介入を批判。ポルトガル政府が米国の要請に従ってイラクに派遣している部隊の「即時撤退」を要求。また来年が第二次大戦でのナチスとファシズムに対する勝利の六十年であるとともに「広島、長崎の核ホロコーストの六十年」にあたることにふれ、「平和、軍縮、戦争反対のための行動」に立ち上がるよう広く国民に訴えています。
 政治決議は、来年四月に国民投票の実施が予定されている欧州憲法について「連邦主義、新自由主義、軍事化」の三点から批判し、批准反対の立場を鮮明にしています。
 今大会では党建設が重要課題と位置づけられ、代議員からも各分野での党員の拡大と党による働きかけの必要性を訴える発言が相次ぎました。前大会以来、新入党者が六千人に達し、このうち四割が三十歳以下。その一方、党との接触が切れた党員名簿の整理で党員数は約十万と、四年前に比べて三万人減少したといいます。
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2004年11月30日,「赤旗」) (Page/Top

独民主的社会主義党大会おわる/総選挙での躍進訴え

 【ベルリン=片岡正明】ブランデンブルク州ポツダムで十月三十日から開かれていた独民主的社会主義党(PDS)第九回大会第一回会議は三十一日、ビスキー党議長が「二〇〇六年の総選挙で再び連邦議会に強固な議席を築こう」と結語で呼びかけて閉幕しました。
 大会二日目の三十一日には、台頭するナチス政権下でたたかった革命の伝統を受け継ぎ、極右・ネオナチとたたかおうと訴える「ファシズム解放六十周年」決議と、「この内容では平和の欧州、社会的、民主的欧州は実現できない」と欧州憲法を批判する決議を採択しました。
 ギジ元党議長が大会で特別に演説し、「PDSが連邦議会で二議席に後退し会派資格を失ってから、東独部の問題を取り上げる会派はなくなった」と強調し、二〇〇六年総選挙での党の躍進を訴えました。
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2004年11月02日,「赤旗」) (Page/Top

山田和夫・世界映画の発見/山田和夫著/永年の旅からの作家・現代史論

 著者が映画を求めて歩む旺盛な脚力と知的な探求心にはかねがね感服していたが、本書はその永年にわたる映画の旅の中から、一九七三年初出の「ふたりの巨人―チャップリンとエイゼンシュテイン」から今年の『前衛』八月号の「韓国映画ブームに読み取るもの―民族の記憶と南北統一への悲願」まで、時代と向き合ってきた米欧での、アジアでの、中南米での、アフリカでの、ほとんど全世界の映画と映画作家たちへの分析と論評を試みた、いわば世界映画の歴史を旅する書である。
 人間の存在を圧迫するもの、ファシズム、現代世界を暗い闇の中へ引きずりこもうとするアメリカの独善的グローバリズム、それに盲従するのみの日本政府。これらデモクラシーの根底を脅かすものたちへの決然とした姿勢をただの一度も崩したことのない著者の心底が各章ごとに、作家論となり、現代史論となって展開される。
 神戸港からナホトカ港へ、鉄道、国内線航空機へと乗りついでおよそ五日間、第二回モスクワ国際映画祭にたどりつくところから著者の映画の旅は始まる。この映画祭で新藤兼人監督の「裸の島」がグランプリを獲得することになるのだが、著者にとっての最大の収穫はモスクワ郊外にある世界最大級のフィルムアーカイブ「ゴスフィルモフォンド」でエイゼンシュテインの全作品をその試写室で観つくしたことだった。氏の映画発見の旅の原点である。
 書評と離れるが、それから二十二年後の一九八三年、第十三回モスクワ映画祭に私の「ふるさと」が出品された。毎回参加の著者のほか、東映の岡田茂社長、松竹の奥山融副社長、川喜多かしこ氏、今村昌平監督、浦山桐郎監督ら錚々たる代表団だった。私はまだ四十三歳だった。終映後劇場は満場総立ちのスタンディング・オベーションとなり、主演の加藤嘉さんが主演男優賞を獲得。深夜、ホテルの電話に受賞の一報を入れてくれたのも山田和夫氏だった。
 神山征二郎・映画監督
 やまだ かずお 一九二八年生まれ。映画評論家。
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2004年10月31日,「赤旗」) (Page/Top

過去の意匠の厚み/ヴィスコンティ監督と「山猫」/矢島翠

 自分たちの文化財のいのちを守ろうとする姿勢は、イタリアの場合、建築や美術に限られず、映画の領域でも著しい。ことにルキーノ・ヴィスコンティ(一九〇六―七六年)の作品は、共同監督と短編をふくめた全十九本の修復作業が、ローマの国立映画学校兼映画保存機関であるチネテーカ・ナツィオナーレで完成に近づいた。現段階で望み得るそれら最良の復元版が「ヴィスコンティ映画祭」で上映され、そのうち「山猫」(六三年)は一般公開されている。
 なにしろ、後にも先にも類例のない監督だった、と思う。よく知られているように、大貴族(ダンテの「神曲」煉獄編にも一門の人物が出てくる)の血筋。二十世紀初めのヨーロッパ上流階級の物質的・精神的なゆたかさのなかで育った。優雅な遊び人になりかねなかった青年は、しかし一九三〇年代半ば、人民戦線時代のパリでルノワールの助手についたことから、映画とマルクス主義に接近する。ファシズム政権下の四三年に自己資金で撮影した第一作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は、ロッセリーニの「無防備都市」(四五年)に先立って、イタリア映画のネオリアリズムを先導する画期的なしごとになった。その後映画だけでなく演劇とオペラを合わせた三つのジャンルの演出家として活躍し続けた点でも、まれに見る人だった。
 シチリアの貴族ランペドゥーサが書いた小説「山猫」は、まさにヴィスコンティによる映画化を待っていたような素材だった。
 一八六〇年代、イタリアの国家統一運動が最終局面にさしかかったころのシチリア。貴族の最後の純血種といえるサリーナ公爵(バート・ランカスター)は、自己の階級の没落を見定めて、国民投票では統一を支持する一方、才覚のあるおい(アラン・ドロン)と新興資産家の娘(クラウディア・カルディナーレ)の恋愛結婚をあと押しして、血脈の持続をはかる。
 有名な大舞踏会の場面では、貴族たちの夜会服、女たちのレースと絹、北部から来た統一軍の制服が入りまじり、ほとんど芋を洗うようだ。マズルカやワルツの合い間に、転換期に直面した人間の真情と思惑が交錯する。貴族の心性に対する洞察はさすが、と思わせる一方、血族結婚が猿のような娘たちをつくっている、と公爵にいわせているような痛烈な批判がある。そして宴(うたげ)の果てに、結局は古い王制から新しい王制へと移行した国家統一の過程で、ガリバルディに象徴される革命の夢が裏切られたことが示される。異常なまでに長い舞踏会の描写への執着は、単なる郷愁からではないことは明らかだ。
 ヴィスコンティは舞台経験を積んで成熟した演出力を、さまざまな人間像の造型に生かしている。では舞台では実現できないどんな表現の側面が、最後の「イノセント」(七六年)に至るまで、彼を映画にひきつけていたのだろうか。それは人間の置かれた環境―特定の時代と状況と文化―の、細密な再現にあったと思われる。貴族の広壮な屋敷。年代を経た家具調度。異なる階層の男女の衣服、髪かたち、装飾品。大人数のスタッフに号令して完成させた、途方もなく厚みのある過去の意匠。そのなかに人間を置いてこそ、彼が望んだリアリズムは成立し、イタリア近代史の一時期が目に見えるものとなる。
 (やじま みどり・翻訳・評論家)
「山猫」は、東京・新宿・テアトルタイムズスクエアで上映中
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2004年10月29日,「赤旗」) (Page/Top

朝の風/ヴィスコンティ映画祭

 イタリア映画の巨匠ルキノ・ヴィスコンティ(一九〇六―一九七六)の映画祭が東京で行われた。映画のすばらしい力、巨匠が貫いた生きざまを知る貴重な機会だ。
 ヴィスコンティは一九三〇年代フランスでジャン・ルノワール監督に学び、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(一九四三)で戦後ネオリアリズムの先駆とされ、ムッソリーニ政権に上映を禁止されたが、反ファシズム抵抗運動に参加、逮捕されて処刑前夜に脱走という経験を持つ。今回日本初公開の記録映画「栄光の日々」(一九四五、共同監督)は抵抗運動のドキュメント、そしてシチリアの漁民を描く「揺れる大地」(一九四八)はイタリア共産党の協力で製作するなど、終生反戦反ファシズム、進歩への姿勢を崩さなかった。
 彼は由緒ある貴族の家に生まれ、熟知する出身階級の克明な描写に抜群の腕を見せるが、常に滅びゆく階級の運命を見すえる科学的な史観を堅持。「夏の嵐」(一九五四)は祖国を裏切った貴族夫人の崩壊、「山猫」(一九六三)はシチリア貴族の赤裸々な生態、「地獄に堕ちた勇者ども」(一九六九)はナチスを支えた財閥クルップの退廃を直視するなど。その濃密な映像美に目を奪われるだけではなく、見失ってはならないのはこのような作家の眼。そして「若者のすべて」(一九六〇)などには労働者階級に寄せる信頼が生きていた。(反)
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2004年10月20日,「赤旗」) (Page/Top

イラク撤兵が共通要求/欧州社会フォーラム/戦争が福祉削る原因/国際戦犯法廷設置を

 【ロンドン=片岡正明、浅田信幸、西尾正哉】「もう一つの世界は可能だ」のスローガンでロンドンで開催されている欧州社会フォーラムでは十六日、米国のイラク先制攻撃戦争反対と米英軍など外国軍隊の即時撤退が共通した議題となりました。イラク問題を直接に扱う討論会だけでなく、各分野での討論会でも、この戦争が「福祉切り捨ての原因となる最大の無駄遣いだ」と反対意見が相次ぎました。
 十六日の「戦争、社会運動と政党」についての全体討論会では、イラク戦争開戦前にロンドンで二百万人の反戦デモを組織した英国の「戦争ストップ連合」のアンドリュー・マレー議長が、反戦運動は「英国史上、最も強力な社会運動となった」と指摘。「最も鮮明な課題は占領反対、即時撤兵だ」と述べ、多くの拍手を受けました。
 この全体討論会で、ベルティノッティ欧州左翼党議長(イタリア共産主義再建党書記長)は、「テロとの戦争」への対案は「平和の政策でしかありえない」と強調。ファシズムが一九二〇年代から三〇年代にかけてイタリアからスペインへと広がったのとは逆に「スペインから始まったイラク撤退をイタリア、そして英国へと実現するときだ」と指摘しました。
 また同氏はイラク侵略戦争は「人類に対する犯罪」だと告発し、「戦争犯罪国際法廷の設置を欧州社会フォーラムの意思としたい」と訴えました。
 また同日の「米帝国主義へのチャレンジ」についての全体討論会ではアイルランドの平和団体の代表、リチャード・バレット氏が、米国の対イラク戦争と占領の状態を許しつづければ、次にはイラン、シリアへの戦争、ひいては第三次世界大戦の可能性もあると警告し、「米国のイラク占領を終結させることは社会フォーラムの最優先課題だ」と提起しました。
 社会福祉削減問題や公共サービス切り捨て・民営化などの分科会討論でも、イラク戦争がとりあげられ、「英国はイラク戦争で五十億ポンド(約一兆円)も無駄にした。そのお金があれば公共サービス切り捨てをしなくてすむ」(英公務員労組ユニゾン)、「われわれは積極的にイラク戦争反対、占領反対に取り組んでいる」(ポーランド医療労組)との表明がありました。
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2004年10月18日,「赤旗」) (Page/Top

独・州議選躍進のPDS(民主的社会主義党)/州政策責任者にきく


政策と対話で支持獲得/党員の8割が活動参加
 先の旧東独二州の州議会選挙で、ドイツの民主的社会主義党(PDS)は大きく前進しました。同党は東独時代に政権党だった社会主義統一党(SED)からSEDの非民主主義的性格を厳しく批判しながら再出発し、社会主義を提唱する党です。得票率28%を獲得したブランデンブルク州の政策責任者、ハンスユルゲン・シャルフェンベルク氏(州議会議員)に聞きました。(ポツダム〈ドイツ・ブランデンブルク州〉=片岡正明)
 今回は、選挙前からシュレーダー政権の進める社会保障削減政策に対し、PDSは「社会的公正」をアピールしました。特に失業保険手当給付期間の短縮に続き、失業手当の切れた後に税金で支払われている失業扶助の大幅な削減問題がありました。われわれは社会の底辺の弱者からお金をとるのではなく、資産税などを導入して富裕者からお金を社会に再分配する明確な代案を提示してきました。ブランデンブルク州では他の旧東独諸州と同様、失業率が20%近くあり仕事をつくることが重要問題でした。しかし、前回州議会選挙から五年間、社民党(SPD)とキリスト教民主同盟(CDU)の連立政府は雇用拡大の公約をはたせずにきました。
 この中で、われわれの政策と市民との対話が大きな役割をはたしました。もともとPDSはブランデンブルク州では25%近く得票している党でしたが、今回の選挙で唯一、大きく票を伸ばした政党となりました。

新綱領が力に
 今回の選挙では、二〇〇三年十月の党の新綱領採択が重要な役割を果たしました。またPDSは指導部の対立を乗り越えました。社会主義をめざしながら、まず今日の条件の中でも社会的公正を追求していくという党綱領は党内外で受け入れられました。
 ブランデンブルク州政府は財政難を理由に幼稚園・保育園の費用負担を地方自治体と両親に肩代わりさせました。お金のあるなしにかかわらず、すべての子どもに保育は保障されるべきです。われわれは州負担の復活を要求しています。失業問題では失業扶助給付改悪に反対するとともに、州に密着した中小企業の育成と中小企業が人を雇う場合の雇用援助金を提唱しました。

出店で宣伝し
 選挙運動では、州の党員一万二千人のうち80%が活動に加わったことが重要です。われわれは社民党やキ民同盟の数分の一しか選挙資金はありません。またマスメディアの中でのわれわれの扱いも限られています。われわれは各地の街頭に毎日、選挙宣伝の出店を出し、候補者や党員が直接、市民に訴えることを重視しました。出店にはプラカードや横断幕を飾り、選挙のパンフレットやビラを配りながら人々と対話しました。他のどの党よりも市民との直接対話を多くやりました。党員は高齢者が多く、出店には出られない人もいます。その人はポスターを身近なところにはるだけでもいい。そうして党員の活動率も増やしていきました。
 対話の中で、一番多くぶつけられた質問は、「ではPDSは今の州政府と違ったことができるのか」というものでした。これには客観的に答えなければなりません。社会福祉が完全に保障されるという約束はできません。しかし、弱者の立場に立った政策、社会的公正を求め社会のあり方を変えようとしていると訴えました。具体的には失業扶助削減反対などの政策にいい反応がありました。
 選挙戦の中で、マスコミやキ民同盟、社民党の一部の政治家から極右とPDSを同じ極端主義の流れと中傷する意見が大きく流されました。PDSは反ファシズムで一貫した党で極右と比較されるべきでありません。すべての民主主義政党が極右と対抗することが必要です。われわれは社民党出身の州首相に、このことを確認してもらいました。極右のドイツ国民連合(DVU)の本質を市民にわかってもらうことが必要だと思っています。

小選挙区で最多議席
 九月十九日に行われたブランデンブルク州議会選挙では、民主的社会主義党(PDS)は五年前の一九九九年前回州議会選挙を4・7ポイント上回る28・0%を獲得、議席を七議席増やし八十八議席中二十九議席を獲得、キリスト教民主同盟(CDU)から第二党の座を奪いました。
 ドイツの州議会選挙は連邦議会選挙と同じく小選挙区比例併用制で、議席の半数は小選挙区で選出されますが、最終的には比例区で5%以上を獲得した政党に総議席数が比例配分される仕組みです。
 PDSは前回小選挙区での当選は五議席にとどまりましたが、今回は社民党から議席を奪う形で四十四議席中二十三議席を獲得しました。これは社民党の十七議席、キ民同盟の四議席を超えるものです。
 今回の選挙では、極右政党のドイツ国民連合(DVU)が前回を0・8ポイント上回る得票で一議席を増やしました。
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2004年10月05日,「赤旗」) (Page/Top

日本共産党知りたい聞きたい/独ソ不可侵条約をどう考える?

 〈問い〉 1939年の独ソ不可侵条約について、ヒトラーとたたかうレジスタンスなどへ衝撃を与えたけれどソビエトを守るためには必要だったという話をかつて聞いたことがあります。日本共産党はいま、どういう見方をしているのでしょうか?
 (和歌山・一読者)
 〈答え〉 第二次世界大戦前夜の1939年8月、ソ連の指導者だったスターリンはヒトラー・ドイツとのあいだに相互不可侵条約を結びました。条約には、ソ連とドイツがポーランドを分割し、バルト三国をソ連の勢力圏に含めることなどを決めた秘密議定書が付属していました。
 ユダヤ人や共産主義者らを弾圧し、周辺諸国への侵略をすすめるドイツと不可侵条約を結んだことは、ソ連をファシズムに断固対決する国家だと信じていた人々に衝撃を与えました。同時に、このソ連外交を、英仏の対独融和政策のもとでソ連の安全を保障するための手段だったとする見解も存在しました。
 しかし、どういう事情があったとしても、他国の領土に勝手に境界線を引き、分割占領を取り決めることは、民族自決権の擁護をかかげていたソ連自身の立場に矛盾する、許されないものでした。
 1939年9月1日、ドイツはポーランドへの侵略を開始、ポーランドの西半分を占領すると、ソ連は、同国領内のソ連系住民の「保護」を理由に東半分を占領しました。その後もソ連は、ドイツとの取り決めにしたがって、バルト三国を自らの勢力圏に組み入れていきました。
 さらにスターリンは、反ファシズム政策を一八〇度転換させ、ドイツを美化したソ連の外交方針を、当時の革命運動の国際組織だったコミンテルンをつうじて各国の共産党に強制しました。このことは、反ファシズム戦線の発展のために全力をあげていたヨーロッパ諸国の共産党を政治的苦境に立たせました。
 条約は1941年、ドイツのソ連侵略によって破られます。ソ連はその後反ファッショ連合で米英などと共同し、連合国は勝利しましたが、スターリンは最後まで対独政策での自らの誤りを反省することはありませんでした。     (知)
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2004年09月22日,「赤旗」) (Page/Top

映画時評/記録映画が真実に迫る衝撃力とは/マイケル・ムーアの「華氏911」/山田和夫

 二〇〇一年九月十一日朝、米大統領ジョージ・W・ブッシュはフロリダ州の小学校にいた。女教師が子どもたちに絵本を読み聞かせている教室に彼はいて、秘書官がそっと近寄ってささやいた。大統領は一瞬呆然(ぼうぜん)とし、しばしその場を動かなかった。

「記録映画」の存在
 たまたま小学校の教師が撮っていたビデオの映像。画面の時刻表示も残り、同時多発テロとリアルタイムな臨場感がきわ立つ。マイケル・ムーアの長編記録映画「華氏911」のシーンだが、偶然何の意図もなしに撮られたなまの現実、その断片が全体の展開で生きてくる。ブッシュが深い関係を持つ軍需会社や石油企業、その重役に入り込んでいたビン・ラディン一族、すべての航空機の出発が停止されたなか、大統領の特命で一族はアメリカを脱出した。ブッシュとイラク戦争のウサンくささを徹底的に痛罵(つうば)するとき、前記ブッシュの映像は超大国の最高権力者の空虚な存在感をあぶり出す。
 そのブッシュ批判の非妥協性の故に、ヨーロッパやアメリカ、そして日本の多くの観客から喝采(かっさい)を受け、カンヌ国際映画祭は最高賞を贈ったが、同時に「政治的に偏っているから見ない」と宣言した小泉純一郎首相のような妄言は論外とし、「ブッシュ批判」には賛成だが、ドキュメンタリー(記録映画)はもっと客観的であるべきで、これではプロパガンダだと言う意見が聞こえる。しかし本来「記録映画」とは何だろう?
 記録映画は、なまの現実=アクチュアリティー(事実)と向かい合い、カメラのとらえた映像の集積と選択、編集(モンタージュ)と構成によって作家は自分を表現し、自己を主張する。フィクション(実写の劇や造型のアニメーション)は人工の対象を創造の手段とする。デジタル化やCG(コンピュータ・グラフィックス)などの技術革新によって、両分野の相互浸透が進み、どちらも「表現」「創造」だと共通性だけを押し出し、「事実」を撮ることを軽視する意見さえある。その反面、記録映画の客観性の故に強烈な自己主張を「プロパガンダ」としりぞける声が出る。

「偶然を必然に」
 本来記録映画は「事実」から出発する。前記9・11朝のブッシュはなまの映像であればこそ、映画全体で生きてくる。哲学者の中井正一は、対物レンズがとらえた事実の映像は、さまざまな物理的化学的プロセスを経て、フィルムに定着されるが、さかのぼれば、二度とくり返されることのない瞬間の事実に到達する、その「聖なる一回性」に記録映画のユニークな特質を見た。映画理論家の今村太平は、それ自体では偶然の事実にとどまる映像から出発し、必然的な法則を表現することこそ記録映画の任務であり、「偶然を必然に」と言う有名な言葉を残した。その作業について、イギリスの記録映画作家で理論家のポール・ローサは、「アクチュアリティー(事実)の創造的劇化」と表現したし、オランダ出身の世界的な記録映画作家ヨリス・イヴェンスは、「記録映画作家は第一の眼(め)で対象を見つめ、第二の眼で対象の周囲に目をくばり、第三の眼で未来を見なければ」と説く。
 そして記録映画の歴史をたどれば一九二〇年代ソ連のジガ・ヴェルトフは革命と社会主義を唱道し、前記イヴェンスは反帝反ファシズムのたたかいを広める、強力なプロパガンダの記録映画作家として尊敬をあつめた。要は何をどう「プロパガンダ」するかが問題であり、またその「プロパガンダ」がどれほど芸術的に昇華され、真実を訴える衝撃力を持つかだ。

ウソに気づいた時
 ムーアは第一回作品「ロジャー&ミー」(一九八八年)で、自分の故郷フリントの街がGM(ゼネラル・モータース)の大量リストラで衰退に追い込まれた実態を鋭く追い、ラストはクリスマス・パーティを開くGMのロジャー・スミス会長に突撃インタビューを試みた。そして「華氏911」では後半再びフリントに戻り、実質40%を超す失業になやむ実態を語り、軍に志願すれば学歴もとれるし、就職にありつけると、善意に若者たちにすすめた母親ライラ・リップスコムさんを追う。彼女は自分の息子がイラクで戦死したとき、ようやくイラク戦争のウソに気づきはじめる。ムーアとともにホワイトハウスの前に立ったとき、「はじめて怒りをぶつける相手を見つけた」と告白する。
 ブッシュにだまされて戦争に協力した一人の母親は、いま反戦運動に参加する女性に変わっている。ムーアはイヴェンスの言う第一、第二の眼だけでなく、「未来を見る」第三の眼を備えていることに私たちは気づくのである。
 (やまだ かずお)
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2004年09月22日,「赤旗」) (Page/Top

独東部2州議会選挙/民主的社会主義党が前進/福祉後退、失業増で2大政党に批判/極右政党が議席獲得

 【ベルリン=片岡正明】ドイツの旧東独地域のブランデンブルク州とザクセン州の州議会選挙が十九日、投開票され、社会民主党と保守のキリスト教民主同盟(CDU)の二大政党が後退し、民主的社会主義党(PDS)が得票率、議席を増やして前進しました。旧東独政権党・社会主義統一党の後継政党であるPDSにとり、一九九〇年のドイツ統一後で最大の前進となりました。
 一方、両州で極右政党が5%の足切り条項を超えて議席を獲得。公共放送ARDは「民主主義にとって危険な兆候だ」とコメントしました。

社民の得票率減
 ブランデンブルク州(人口二百五十万人)では、社民党は第一党をかろうじて維持したものの、得票率は前回(一九九九年)より7・4ポイント減らし31・9%でした。同州での連立相手のCDUも、前回より7・1ポイント減らし得票率19・5%。初めて20%を割りました。PDSは前回より4・7ポイント伸ばし28・0%。極右のドイツ国民連合は得票率6・1%で、前回に引き続き州議会で議席を得ました。
 ザクセン州(人口四百三十万人)では、これまで単独過半数を握っていたCDUが前回比15・8ポイント減と大幅に後退し、得票率41・1%。PDSが前回比1・4ポイント増の23・6%で、第二党となりました。社民党は0・9ポイント減の9・8%。90年連合・緑の党、自由民主党はいずれも5%を超え議席を獲得しました。

「改革」は不人気
 一方、極右のドイツ国家民主党が前回比で7・8ポイントも伸びて9・2%となり、州議会入りを果たしました。
 今回の州議選挙は、シュレーダー政権が進めてきた社会・労働政策の大幅な改編策である「アジェンダ二〇一〇」が問われた選挙でした。同政権は健康保険の一部窓口有料化、年金支給額引き上げの凍結、失業扶助の減額など一連の社会福祉後退を実施。失業率が旧西独の二倍以上となっている旧東独部を中心に大きな反対デモが毎週実施されています。
 国政与党の社民党は「改革」の不人気で後退。CDUは社民党よりさらに大幅な社会福祉削減を主張していることから旧東独部では受け入れられず、支持を後退させました。PDSは一貫して失業扶助削減に反対し「社会的弱者の立場にたつ」と訴え得票を伸ばしました。
 一方、極右は現実政治への不満のはけ口となり、支持を拡大しました。PDSのビスキー議長は、極右は「社会的デマをふりまくファシズム」だが、他党がPDSに攻撃を集中した結果、極右が伸びたと批判しています。

ドイツの極右政党 
 移民排斥などを主張する極端な人種差別主義に基づく諸政党で、そのルーツはナチス残党にあるといわれます。一九六四年結成のドイツ国家民主党、七一年結成のドイツ国民連合、八三年結成の共和党などがあります。連邦議会には議席はありませんが、東西ドイツ統一前後から失業者増加などの社会情勢を背景に地方議会で勢力を伸ばしています。
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2004年09月21日,「赤旗」) (Page/Top

戦争のないアジア、戦争のない世界をめざして/アジア政党国際会議/日本共産党代表団長不破哲三

 一面所報、第三回アジア政党国際会議での日本共産党代表団長・不破哲三議長の演説は次の通りです。

アジア史上はじめての諸政党の包括的な会合――マニラ、バンコク、そして北京
 尊敬する議長ならびに親愛なるすべての代表のみなさん。
 私は日本共産党を代表して、第三回アジア政党国際会議の開催を祝福するものです。この会議は、四年前のマニラで始まり、バンコクに続き、そして今回の北京へとつながりました。その足取りは、アジア史上はじめての諸政党の包括的な会合として、すでに歴史に刻まれています。私は、敵対と戦争、断絶、侵略と植民地化などの多くの歴史をもつこの大陸を、平和と主権、友好と協力の輝く大陸に発展させ、「戦争のないアジア」をつくりあげることは、ご出席の各国代表の共通の願いであることを確信しています。
 日本共産党は、その八十二年の歴史のなかで、反戦平和の立場を一貫して貫いてきたことを、なによりの誇りとしています。第二次世界大戦とそれにいたる時期には、日本軍国主義の侵略戦争と植民地支配に反対し、多くの犠牲を払いながらも、アジアの諸国民と連帯してたたかいました。第二次世界大戦後も、アメリカのベトナム侵略戦争であれ、ソ連のアフガニスタン侵略戦争であれ、また最近のイラク戦争であれ、国連憲章にそむき大義をもたない不正不義の戦争には確固として反対する態度を堅持してきました。

世界に広がる「国連を中心に平和の国際秩序を」の声 おおもとには世界政治の構造的な変化がある
 みなさん。
 いま、アジアの平和の問題を考えるとき、私は、「戦争のない世界」――平和を保障する国際秩序をきずきあげることが、世界的な課題となっていることに注意を向ける必要がある、と考えます。
 歴史的に言えば、第二次世界大戦が反ファシズム連合国の勝利のうちに終結し、国際連合が創設された一九四五年、「戦争のない世界」をめざす大きな流れが世界をおおいました。「自衛」以外には各国の勝手な戦争を認めず、戦争を防止するルールを定めた国連憲章は、その流れのなかから生み出されたものでした。しかし、この流れは、五大国の協調が破れ、米ソ対決≠ェ決定的となる情勢変化のなかで、中断を余儀なくされました。
 私はいま、二十一世紀を迎えて、国連を中心に平和の新しい国際秩序をきずき、「戦争のない世界」をめざそうという流れが、半世紀前とは違った新しい状況のもとで、新たな力強さをもって発展していることに、みなさんの注意を引きたいと思います。
 イラク戦争をめぐる経過は、そのなによりの実証でした。戦争が始まる前に、戦争の是非の問題が、国連安全保障理事会であれだけ真剣に議論されたのは、歴史上かつてないことでした。また、ほぼ三千万人と推定される市民が集会やデモを組織して戦争反対の意思表示をしました。この運動のなかで「国連憲章にもとづく平和の国際秩序を守れ」のスローガンが、各国で共通してかかげられたことも、歴史上かつてないことでした。
 戦争が始まって以降のイラク問題の経過も、重要です。それは、世界で唯一の「超大国」を自認するアメリカであっても、世界を自分の思うままに動かすことはできず、軍事力の強大さをもって他国民を支配することはできない、ということを示しています。
 今日では、平和の国際秩序をきずき、まもる力にも大きな変化が起きています。一つの数字を示しましょう。私たちの計算では、国連加盟百九十一カ国のうち、その国の政府がイラク戦争に賛成した国は四十九カ国、人口約十二億人にたいし、戦争反対ないし不賛成の国は百四十二カ国、人口約五十億人でした。その根底には、世界政治の構造的な変化、すなわち、植民地体制の崩壊によって、かつては、世界政治の外におかれていた諸民族が、主権独立の諸国家として世界政治で大きな比重を占めるようになったという、大変化があります。

平和の事業へのアジア諸国の先駆的な役割 流れは広がる、東南アジアから北東アジアへ
 みなさん。
 ここで想起したいのは、世界の平和秩序をきずくという問題では、アジア諸国の先駆的な役割が歴史に記録されていることです。一九五五年、インドネシアで開かれたアジア・アフリカ会議で発せられた「バンドン宣言」は、諸民族の独立という新しい条件のもとで、世界の平和秩序の柱となる諸原則を提起したもので、今日の情勢のもとで、新しい輝きを増しています。
 地域的な安全保障の問題では、私は、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国が結んでいる東南アジア友好協力条約(一九七六年)および非核兵器地帯条約(一九九五年)に注目しています。
 北東アジアは、この点では、もっとも遅れた地域でしたが、私たちは、北朝鮮の核問題についての六カ国協議が始まり、共同して問題を解決する努力がおこなわれていることを、日本にとってもこの地域にとっても重要な意義をもつものとして歓迎しています。この枠組みのなかで北朝鮮の核問題が解決するならば、それは必ずこの地域の諸国間に安定した平和的関係をきずく上で一つの画期をなすでしょう。

アジア諸国の政府・政党といっそうの協力の関係を
 みなさん。
 日本共産党は、政権党ではありませんが、アジアと世界の平和をめざす立場から、国際的な外交活動に力をいれてきました。この会議に、私たちの外交活動の状況を紹介したい、と思います。
 この会議の主催者である中国共産党とは、歴史的な事情から三十二年にわたる関係の中断がありましたが、一九九八年に党関係を正常化しました。また、この間に、党の代表団が、多くのアジア、アフリカ諸国を訪問し、各国の政府と会談し、平和の問題について有意義な意見交換をおこなってきました。
 私たちはまた、非同盟諸国会議やイスラム諸国会議機構とは密接な関係をもっています。非同盟諸国会議との関係では、昨年二月のクアラルンプール(マレーシア)での首脳会議にも、先月のダーバン(南アフリカ)での外相会議にも参加しました。
 イスラム諸国会議機構では、昨年十月の首脳会議に招待され参加しました。
 こういう活動のなかで、いよいよ痛感するのは、アジアの多くの政府・政党、そして国民が、日本に、アジアの一員としての立場をふまえた自主的な平和外交の展開を強く切望している、という事実です。
 私たちの考えでは、日本政府が現に展開している外交は、残念ながら、多くの点で、この願いに応えるものとはなっていません。私たちは、日本の外交を、世界の平和の流れに合致させる方向で転換させるために努力することは、野党として日本の国政にたずさわっている私たちの重要な責任である、と考えています。
 私たちは、国際政治にのぞむ私たちの基本的な姿勢を党の綱領のなかに明記しました。いくつかの内容をここで紹介することをお許しください。
 ―日本が過去におこなった侵略戦争と植民地支配の反省を踏まえ、アジア諸国との友好・交流を重視する。
 ―国連憲章に規定された平和の国際秩序を擁護し、この秩序を侵犯・破壊するいかなる覇権主義的な企てにも反対する。
 ―社会制度の異なる諸国の平和共存および異なる価値観をもった諸文明間の対話と共存の関係の確立に力をつくす。
 日本共産党は、これらの立場を活動の根底にすえながら、ひきつづき、アジアの諸党との対話と協力の関係を、より広く発展させるために力をつくすつもりです。

来年二〇〇五年は国連憲章六十周年、バンドン会議五十周年の年 「戦争のないアジア」めざす声を世界に発信しよう
 議長ならびに代表のみなさん。
 最後になりますが、私は、アジアの諸政党の兄弟・姉妹が一堂に会したこの機会に、こういう交流の場をさらに多面的に発展させたいという思いに立って、議長に一つの提案をおこないたいと思います。
 来年は、第二次世界大戦の終結六十周年、国際連合の創設と国連憲章策定六十周年、そしてバンドン会議五十周年にあたります。世界の平和とその規範にとって重要な意味をもつこの年に、アジアの政党として、なんらかのイニシアチブをとられることを提案するものです。
 アジアは、世界の総人口の六割を占め、世界の経済の上でも、政治の上でも、二十一世紀にますますその比重を高めてゆくことは間違いありません。また、その歴史には、古代以来の豊かな文明の成果とともに、戦争の惨禍や植民地支配の多くの傷跡が刻まれています。さらに、アジアは、文化的・宗教的な価値観の多様性という点でも、世界でもっとも代表的な地域の一つです。そのアジアが「戦争のないアジア」をめざし、地域内の安定と平和の国際秩序の確立につとめるとともに、平和の国際秩序の建設を求める共通の意思を世界に発信することは、二〇〇五年という歴史的な年にふさわしい事業となるのではないでしょうか。
 このことを提案して、発言を終わるものです。ご清聴ありがとうございました。
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2004年09月05日,「赤旗」) (Page/Top

ナチの犯罪繰り返すな/シンティ・ロマ強制移住68周年で集会

 ナチス・ドイツによるシンティ・ロマ(ジプシー)の迫害・大量殺りくなど「ナチの犯罪を繰り返すな」とベルリンのマルツァーン区の記念碑前で十三日、シンティ・ロマ強制移住六十八周年の集会が開かれ、約三百人が参加しました。
 集会では、シンティ・ロマ協会のベルリン・ブランデンブルク支部長のペトラ・ローゼンベルクさんが「一九三六年の夏の日の朝、千人以上のシンティ・ロマがナチスにより家を追われ、ここの収容所に移住させられました。このような人種差別主義はもう二度と許してはならない」と訴えました。
 ベルリン市議会のワルター・モンパー議長は「当時のナチスの犯罪は、一緒に暮らしていた隣人への犯罪だ。民族差別がないよう目を光らせ若い世代に伝える責任があります」と強調しました。
 ナチス・ドイツは一九三六年のベルリン・オリンピックを前に、シンティ・ロマをベルリン各地からマルツァーンに強制移住させました。一九四五年五月の解放の日まで数千人が収容所に移住させられました。
 人々は軍需工場などで強制労働を強いられ、四三年には多数がアウシュビッツ絶滅収容所送りとなり命を落としました。
 インターネットで集会のあることを知って、ベルリンのシュパンダウ区から来たというスウェンさん(29)は「ナチスに反対することはますます大事になっています。二度とファシズムがないように集会に参加しました」と語っていました。
(ベルリン=片岡正明 写真も)

シンティ・ロマ 
 インド北西部に起源をもつアーリア系民族で、言語のロマニー語はインド・ヨーロッパ語の一つ。「ロマ」は人間の意味。欧州、西アジア、北アフリカなどに移住。総人口は五百万―八百万人と推定されています。多くは定住を好まずテントや馬車を使っての移動生活をするため、人々に受け入れられず、迫害されてきました。現在は定住者が増えています。
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2004年06月21日,「赤旗」) (Page/Top

朝の風/ベン・シャーンのメッセージ

 大川美術館(群馬県桐生市)のベン・シャーン展は、この画家の勇気を振り返るいい機会だ。フランスにおけるユダヤ人差別の冤罪「ドレフュス事件」を描き、アメリカ同時代のアカ狩り冤罪「サッコとバンセッティ事件」を描いて、一九三〇年当時から明確な自由の思想を表明していた。
 一九三〇年代アメリカは、反ファシズム運動の高揚をみたかと思うと、ナショナリズムの猛烈な巻き返しがあった。シャーンは労働組合指導者トム・ムーニーへの弾圧にも激しく怒り、絵で抗議した。社会的弱者の権利を守る彼の表現は熱烈な支持を受けたが、権力の側は有力な攻撃の標的として記憶した。
 戦後になると、マッカーシズムのもと、議会と右派マスコミは口汚く彼を攻撃し、FBIは転居先でも外国旅行先でも彼を監視した。ブラックリストには、彼の描いたクリスマス・カードを平和委員会が売っていることや、彼の車は一九四八年式のクライスラー・コンパーティブルで色はブルーだとまで記された。
 一九八〇年代までの冷戦体制が崩壊し、ようやく冷静な目が彼に向けられるようになった。戦後の代表作ラッキー・ドラゴン(福竜丸)シリーズは人類の悲しみを語る。ファシズムと戦争の二十世紀に政治にほんろうされた画家は多いが、シャーンは屈服することも迎合することもなく、自己表現への底知れぬ確信を示した画家だった。(葡)
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2004年05月28日,「赤旗」) (Page/Top

フィリピンで何が…/「教えられなかった戦争」高岩仁監督がフリートーク


鳥取で「戦争と平和」考えてみる集い
 「教えられなかった戦争」上映委員会は二十二日、鳥取市の鳥取県民文化会館で「せんそうとへいわ」について考えてみるつどいを開きました。
 約五十人が参加し、高岩仁監督の「教えられなかった戦争―フィリピン編」を見た後、元共同通信記者の土井淑平さんが聞き手となり、高岩監督と「テロと戦争」と題してフリートークしました。
 高岩さんは、フィリピンの共産党と社会党が合同してつくった反ファシズム統一戦線・フクバラハップのたたかいについて紹介。「日本の侵略戦争で百十万人のフィリピン人が犠牲となったが、戦後のアメリカ・日本の経済侵略でその倍の人が犠牲となっている。一九八五年以降、日本の資本進出が目覚ましく、開発独裁政権によって農・漁民が土地から追い出され、日本の大企業の下請け企業に用地と港が提供されている。マニラの人口八百万人の半数の四百万人がホームレスとなり、仕事がないためにごみ捨て場で生活している。労働運動の活動家や難民支援者らが毎年二千人以上不当に逮捕され数百人が虐殺されているが、実態はその何倍にもなる」と告発し、映画作製に協力した現地の三人が不審な死を遂げたことを告げました。
 会場から「資本家が暴力を用いて利潤を追求している実態はわかったが、どういう社会構造がいいのか」などの質問が寄せられていました。
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2004年05月27日,「赤旗」) (Page/Top

激動/中南米をゆく/第1部革命のベネズエラ/21/メディア・ファシズム

 首都カラカスのホテルで開かれた非同盟諸国十九カ国の首脳会議を取材中のことです。周辺が騒がしくなったので外にでると、会議の警備にあたっている国家警備隊に反革命派のデモ隊数百人が近づき投石しています。覆面やガスマスクをかぶった若者もいました。

■正反対の報道
 警備隊の側は催涙ガスやゴム弾を発射して規制を始めていました。前日、警備当局は「市内のデモは自由だが、首脳会議の会場一`以内は進入禁止にする」と警告していました。デモ隊はこの規制を破って挑発的な攻撃を仕掛けていました。
 驚いたことに反革命派が牛耳る三つの民間テレビは事態をまったく逆に報道しました。「首脳会議に要請書を提出しようとした平和的なデモが国家警備隊によって暴力的に弾圧されている」というのです。
 三局とも一般番組を中止して実況中継に切り替え、警備隊がデモ隊を排除する場面と救急車で運ばれる負傷者の姿だけを繰り返し放映しました。番組には反革命派の指導者や学者が出席して「政府の違法な武力行使だ」と非難をなげつけます。デモをあおりたて「一にフセイン、二にアリスティド(ハイチ大統領)、三はチャベスだ」と、米国の介入による政権打倒を呼びかけるジャーナリストもいました。
 反革命派の民間放送は、政府の見解や警備当局の公式発表は何も伝えません。伝えないどころか記者会見にも現れません。反革命派の会見にはマイクが林立するのに、副大統領や閣僚の会見には国営テレビの一本だけです。
 日刊と週刊合わせて十数紙ある新聞もほとんどが反革命派で、テレビと同様の編集で政府批判を繰り返します。
 政府の立場を伝えるのは国営放送だけです。一応全国で見ることができますが、どちらかというと編集が地味で穏健です。圧倒的な反革命宣伝に包囲された「メディア・ファシズム」を目の当たりにした思いでした。

■「国民的新聞を」
 こうしたなか昨年末、革命派の日刊紙ベアが創刊されました。発行責任者のガルシア・ポンセ氏は古くからの共産党幹部で長く国会議員を務め、チャベス政権になってから大統領の政策顧問として働いてきました。
 「憲法と言論の自由は守らなければなりません。そのなかで革命の過程をわい曲して伝える大新聞と民間テレビに対抗するには、国民的な新聞がどうしても必要で、国民が待ち望んでいました」と同氏は強調します。
 確かに他の大新聞が無視する政府の見解や内外のニュースと短い論評が毎日新鮮に紙面を飾っています。革命派に大歓迎され、創刊数カ月で販売部数は第二位を占めるようになっています。記者が毎朝、新聞を買いに行くキオスクの母娘は熱烈な革命派です。ベア紙を差し出しながら、「〇〇ページにすばらしい記事が載っているよ」と薦めてくれます。
 (カラカス=田中靖宏 写真も)(つづく)
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2004年05月17日,「赤旗」) (Page/Top

文化/戦場写真家/キャパ/光と陰/「没後50年」展によせて/中村梧郎

 キャパが死んでから50年がたった。「戦場フォトグラファー」として世界の賞賛を浴びてきたキャパは、1954年5月25日、北ベトナムのタイビンで地雷に触れて40歳の生涯を閉じた。足をもがれての即死。戦場での死は彼の宿命だったともされる。だがそれを単なる運命と見るべきか否か、私は迷っている。もしかしたら「キャパによるキャパの思想との決別」が悲劇をひきよせたのではないかという思いが生じているからである。彼が戦場写真家としての評価を得たのは1935年、スペイン内戦で人民戦線派の兵士が銃弾に斃(たお)れる瞬間を撮ったのが契機だった。38年には中国に飛んで、日本軍の侵略に抵抗する国共合作時代の中国民衆の戦いをレポートする。第2次世界大戦では、反ナチ・レジスタンス運動や連合軍のノルマンディー上陸の写真で確たる地位を得てゆくことになる。キャパの特徴はまた、必ず反ファシズム・反侵略の側に身を置いて撮る、という断固たる姿勢にあった。そしてどの戦場でも、踏みにじられる民衆や弱者への共感を表現した。今回の写真展でも、はじめて公開された写真の多くにそうした人間的温かさがにじんでいる。
 謎は、仏領インドシナの地でだけ、なぜ彼が侵略軍のフランス(仏)軍と行動をともにしたのか、という点にある。もちろん、どこに従軍しようが、確固たる眼差しさえあれば良い写真は生まれる。問題は何をどう撮ったかにあるのは言うまでもない。毎日新聞の招待で来日していたキャパのもとに、ライフ誌からインドシナ派遣の電報が届いたのは1954年の4月末のことだった。しかしキャパは第2次大戦が終わった後にこう宣言していた。「私はこれから一生、戦争写真家としてはずっと失業のままでいたい」(「弟キャパ、兄キャパを語る」日本写真家協会報86)。そして「出発前、キャパは――俺はバカだ、どうしてインドシナにゆくといったんだろう…」(『ちょっとピンぼけ』―亡き友キャパ―川添浩史)。そうボヤきつつキャパは日本を発(た)っている。
 彼の大きな混迷はしかしその点でもなかった。当時、アメリカ政府は敗退を続けるフランスを支援していた。「結局のところ(ライフ誌は)極東における共産主義の拡大に激しく反対していたのだ。それどころか、キャパは生涯で初めて、自分の主義とは敵対する側に立たねばならなかった」(近刊のA・カーショウ『血とシャンパン』野中邦子訳)のである。キャパがベトナムに入ったのは、仏軍の敗北を決定的にした5月7日のディエンビエンフー陥落から2日後のことだった。しかし「まだフランス軍の士気は高い」と言うために、彼はタイビンに飛ぶ。「キャパは、そんな写真が『ライフ』の政治的な立場にぴったりだと承知していた。『ライフ』はフランス軍優位の記事を歓迎したのだ」(同)。いかにも唐突に見える。キャパはいつ変節したのだろうか。「アーウィン・ショーはのちに書いている。『いつも思っていたのだが、キャパがあの仕事を引き受けたのは、コミュニストのシンパだという根強い疑いを否定するためだったのではないだろうか』」(同)。マッカーシズムのもと、キャパは1952年からFBIによる執拗(しつよう)な詮索(せんさく)を受けていたのであった。脅迫と懐柔、供述と宣誓―戦場には行きたくないが、チャンスかもしれない―キャパを血迷わせ、死に追いたてたのは彼自身の宿命というより、まさしくアメリカの反共旋風だったとみるべきなのではあるまいか。ハノイ滞在中の研究者からのメールによれば、タイビンではキャパという写真家の死を知っている人はいないようだという。抗仏のベトミン(ベトナム独立同盟の略称)側にとっては、埋めた地雷に仏軍が引っかかったという、日常的な出来事のひとつにすぎないのである。
 キャパの死がこうしたものだったとすればあまりにも寂しい。歴史の数々を切り取ってきた男は、やはり最期まで時代に翻弄(ほんろう)される悲劇を背負っていたというべきなのだろうか。 (元岐阜大学教授・フォトジャーナリスト)
     ◇
 16日まで東京都写真美術館рO3(3280)0099(恵比寿ガーデンプレイス内、2階展示室) 

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2004年05月09日,「赤旗」) (Page/Top

イタリア平和のテーブル/グッビョッティさんに聞く


EU憲法に戦争拒否条項をと運動/9条守る国民の意思感じた/日本の運動、世界に発信を
 三日に都内で開かれた「5・3憲法集会」に海外代表として参加した、イタリアの平和団体「平和のテーブル」のマウリツィオ・グッビョッティさんに、イタリアでの憲法をめぐる状況や平和運動についてききました。「平和のテーブル」は同国の有力平和団体で、昨年から欧州連合(EU)憲法に戦争拒否条項を盛り込む運動に取り組んでいます。(島田峰隆・党国際局員)

■日本に来て
 憲法集会に参加し、憲法第九条を守ろうという日本国民の強い意思を感じました。私たちは、欧州連合(EU)憲法にイタリア憲法の第一一条のような戦争拒否条項を盛り込むことを求めて運動しています。たたかいの共通性を感じ、日本の運動を身近に感じました。
 世界社会フォーラムや各大陸の社会フォーラム、そして東京の憲法集会と、反戦運動は世界中で起き、もはや抗しがたい流れとなっています。武器を用いた外交や調停が機能しないことに世界の人々が確信を深めている証拠です。
 イタリアと日本の政府は、米国のイラク戦争を支持し、派兵も強行しました。ただ異なる点は、イタリアでは幸い第一一条を変えようという策動が出ていないことです。しかし実際には、政府は「戦争に行くのではない」と国民をごまかし、憲法を無視しています。

■伊の共通点
 両国で共通する点は、国民の意思と政府の考えがまったく乖離(かいり)してしまっていることです。イタリアではイラク戦争に反対して三百万人がデモ行進しましたが、政府は戦争に加担しました。日本の小泉首相の発言を新聞で読みましたが、憲法集会に参加した人々や派兵に反対する国民の声とはまったくかけ離れた立場で話していることに驚きました。
 これまでイタリアはユーゴスラビア空爆(一九九九年)、アフガニスタン攻撃(二〇〇一年)、昨年のイラク戦争に加わり、残念ながら第一一条は徹底されてきませんでした。
 しかし第二次世界大戦のレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)を通じて生まれた憲法は、戦後、敵対した周辺国との関係修復で力を発揮してきたし、その精神は今でも国民の大部分に共有、支持されています。イラク戦争や派兵に反対が強いのも、それが一つの理由です。

■若者が参加
 EU憲法に戦争拒否条項を盛り込む署名には、昨年秋に行われたペルージャ・アッシジ平和行進の日だけで三十万筆が集まり、今も増え続けています。
 特に若い人々が、この運動に取り組み始めています。研究者や知識人だけでなく、若い世代が憲法に注目するようになったことは重要です。背景には、インターネットを通じて運動への参加が容易になったことと同時に、国連憲章を無視した戦争が相次ぎ、世界が平和のルールのない時代に逆戻りしていることへの懸念があると考えます。
 「平和のテーブル」は先日、野党中道左派連合「オリーブの木」を構成する全政党の党首と会見し、EU憲法に戦争拒否条項を入れ、イラクからの撤兵を求める立場を取るように訴えました。
 提案には全政党が賛成し、「オリーブの木」は来週にも、イラク撤兵を求める決議案を国会に提出するといいます。上下両院とも右派与党が過半数なので可決は困難でしょうが、重要な動きです。(注=イタリア下院は五日、この決議案を採択した)
 イタリアでも日本でも、憲法を守るには学校での教育が最も重要だと思います。歴史を学び、戦争の悲劇と平和の尊さを伝えることが欠かせません。
 日本では与党と最大野党が憲法改定に賛成する重大な状況です。私はイタリアの運動を代表して、日本で憲法を守ってたたかっている方々に全面的な連帯を表明します。みなさんがたのたたかいを世界にも発信していただき、憲法を守る運動の交流を続けていきたいと思います。

イタリア憲法第11条
 全文は次の通りです。
 「イタリアは、他国民の自由を侵害する手段としての戦争、および国際紛争を解決する手段としての戦争を否認する。他国と同等の条件のもとで、国家間の平和と正義を保障する体制に必要ならば主権の制限に同意する。この目的をもつ国際組織を促進し支援する」
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2004年05月09日「赤旗」) (Page/Top

番組をみて/新日曜美術館/国吉康雄 アメリカを生きる


(NHK教育 18日放送)/進歩と反動の波を泳ぎぬいた画家
 二つの大戦の時代を画家としてアメリカで生きた国吉康雄を描いた。国吉が美術界で得た評価の絶大さ、教師として受けた信望の大きさも語られた。
 一九三〇年代のアメリカ美術といえばアメリカン・シーンと呼ばれる画家群に日本人が連なることだけだった。国吉は社会の現実を見る彼らの態度に共感しつつも、平俗なメッセージ性には同調せず、繊細な色調、緻密な構成の独自スタイルに、心情を描きこんだ。
 番組で作品解釈に立ち入ったのは愁いある女性像の「デイリー・ニュース」のみで、代表作の一つ「跳び上がろうとする頭のない馬」には、深い意味がありそうだという漠然とした言葉だけだった。しかし国吉作品には、明確にファシズムに反対する自分がいる。その実像の発見こそ絵と人に愛情を深める瞬間である。
 大戦を通じてアメリカは世界の覇権を握り、内にはナショナリズムを強め民主主義を形がい化する。国吉の戦後の絵には独立宣言の精神に立ち返れという願いが暗号のように込められている。アメリカ文化史の側から国吉を研究してきた小澤善雄氏が、リベラルが受けた順風と逆風を印象深く語ったのは、国吉の苦悩を理解する大事な前提だ。
 国吉がマッカーシズムのアカ攻撃に屈せず、美術家の全米規模職能団体を設立させ初代会長を務めたのも画業と並ぶ偉業だ。進歩と反動の波を泳ぎぬいた画家の実像に正面から、半歩手引きする好番組だった。
 (山口泰二 美術評論家)
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2004年04月27日,「赤旗」) (Page/Top

ナチスの国の過去と現在 ドイツの鏡に映る日本/望田幸男著


60年代「第二の戦後改革」に彼我の差
 ドイツ近現代史研究者の著者は、ドイツと日本の戦争責任・戦後責任の比較研究をおこなってきた。少なからぬ日本国民が小泉政権や石原都政の右からの「現状変革論」に幻想を抱いている状況に、かつてワイマール共和国下のドイツ国民が、ヒトラーとナチ党が掲げた現状打破と経済的困苦からの救済といった「現状変革論」に幻惑されて、ナチス政権の成立を支持した歴史とを二重映しに感じたという。本書の執筆動機の一つである。
 副題のとおり、「ナチスの国の過去と現在」と「天皇制ファシズムの国の過去と現在」とを比較史的に検討する。ドイツと日本の現在が、「過去の克服」においても、アメリカのイラク侵略戦争に対する政府の対応においても「日本のはるか先を走っているドイツ」といわれるような落差がついてしまったのはなぜか、両国の民主主義の制度・意識・運動の歴史過程の異同を洞察しながら、分かりやすく分析している。
 ワイマール・デモクラシーと大正デモクラシー、ナチス政権と天皇制ファシズム政権、米英ソ仏四カ国分割占領とアメリカ単独占領、ドイツ(西独)と日本の国家と社会にみる戦前・戦後の連続と非連続、「過去の克服」の基本的達成と未達成等々、本書には「ドイツの鏡に映る日本」の過去と現在の問題が豊富に叙述されている。読者はそこから日本の現代史の新たな側面に気づき、さまざまな歴史の教訓を学ぶことができる。
 「過去の克服」「市民社会の成熟」などに見られるドイツと日本の落差は、一九六〇年代後半の学生運動世代が重要な役割を担った教育改革や「フェミニズムの波」に代表されるドイツの「第二の戦後改革」の実行にあったという分析は説得的である。現在の日本にこそ「第二次戦後改革」が要請されているという著者の想(おも)いが、広く日本人に共有されていくことの大切さを痛感する。
 笠原十九司・都留文科大学教授
 もちだ ゆきお 一九三一年生まれ。同志社大学名誉教授。
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2004年04月25日,「赤旗」) (Page/Top

国吉康雄展/田中 淳/アメリカに生きた画家の「いのち」の表現

 今、さまざまなニュースに接するにつけ、世の中、いや世界中のバランスがくずれかけている、と感じている人は少なくないのではないだろうか。かつて同じように、いや「太平洋戦争」というさらに過酷な状況の中にいて、不安を抱き、悲しみ、悩み、考え、それを表現に昇華することができた画家が半世紀前にいた。その画家の名は国吉康雄、そして画家がいた場所は、アメリカだった。
 わたしは、一九九九年九月に愛知県美術館にて、「危機の時代と絵画 一九三〇―一九四五」という展覧会を見た。同展は、暗転する時代と真摯(しんし)に、そしてひたむきにむきあい、自分の表現を模索した画家たち十三人の作品によって構成されていた。靉光、松本竣介など、彼らと同世代の画家に交じって、彼らが日本という国で体感し、表現した作品群を相対化するように国吉康雄の作品がならべられていたことが、強烈な印象として残っている。会場では、それほどの存在感があったことをおぼえている。

「いのち」を語る言葉を探る生涯
 さて、今回の国吉の展覧会であるが、単なる回顧展ではない。企画者は、今、この画家を回顧する意義を鋭く問いかけている。まるで、ひとつの国が世界中を支配しているような錯覚、その国自身も、そう錯覚しているような状況の中で、かつて理想、違和感、批判、恭順、諦観(ていかん)といった、重層的な内面をもちつづけたアメリカにいたひとりの日本人画家として、とらえなおそうとしているからだ。企画者は言う、個人の立場からの「いのち」へのまなざしとして、「国吉の画家としての生涯は、まさにこの『いのち』という存在をいかに表現できるか、社会に向けて『いのち』を語るべき言葉を探る、まさに芸術家の生涯であった。」(市川政憲氏・現愛知県美術館)と。岡山県に生まれ、十七歳で単身渡米し、画家として地位を築いていった国吉康雄の初期から晩年までの作品を精選し、「いのち」をもとに見つめなおそうという内容である。

明るい赤の裏にひろがる悲しみ
 初期の素朴な表現、ザラザラとした土や砂といった「自然」や都会の片隅に暮らす「人間」に対する感覚、モデルをはなれて、あるドラマを連想させるような「女性」像、ものがズドンとある「存在」に対する感覚、誰かが画家自身を壊そうとしたことを冷静に見つめる「自分」に対するドライな感覚、これらが画家の生涯のなかで幾重にも重なり、その内面が複雑な闇となって表現されていたことを確認する。
 「誰かが私のポスターを破った」(一九四三年)では、大戦中、反ファシズムのポスターを前にした女性は、憂いをひめているようにみられる。また、「跳び上ろうとする頭のない馬」(一九四五年)は、日米の間で引き裂かれた心情が、象徴的に描かれている。これらが同じ壁面に並んだ会場は、見るものを、厳粛にさせるし、晩年の明るい赤の色の裏にひろがる深い悲しみに共感させられた。会場の構成もよく計算されていて、企画者の意図が、十分にあらわれた展覧会である。
 (東京文化財研究所研究員)
 国吉康雄展=5月16日まで東京国立近代美術館、5月29日〜7月19日・富山県立近代美術館、8月6日〜9月26日・愛知県美術館
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2004年04月20日,「赤旗」) (Page/Top

潮流

 二日前、イスラエルの侵攻でこの三年間に命を失ったパレスチナ人は約九百五十人、と書きました。申し訳ないことに、これはガザ地区だけの死者数でした▼実は二〇〇〇年九月以降、約二千八百人。イスラエル市民も九百五十人近く、テロの犠牲になりました。事実を確かめるうちに、痛ましさとともに怖さを覚えました▼死者数をたんなる数字とみていなかったか。アメリカは、イラクの米軍兵士の死者は数えるが、現地の人々がいくら死のうと知ったことかといわんばかり。そんな流血が日常化し、命の重さに対する記者の感覚もまひしていないか…▼ところで東京新聞二十四日付に、横浜で開かれた同社の「移動編集局・読者と対話の日」の報告が載りました。読者が問います。「休日に共産党のビラを配っていた公務員が逮捕起訴された。…共産党だけの問題とせず新聞自身の問題として、突っ込んだ報道がほしい」▼他の読者からも、言論・思想の自由を脅かす「戦前回帰」への心配が相次いだようです。新聞社側が答えます。「記事の中に『きわめて異例』とコメントすることで、権力側の意図を示したつもりだ」と。しかし、「きわめて異例」な事件がまかり通ると、既成事実が積み重なっていきます。「きわめて異例」と書くだけではすまないのです▼同社の坂井克彦編集局長は、「『気が付いたらみんな茶色(ファシズム)になっていた』と言うことになりかねない」と語ります。この人権感覚まひのいましめも、肝に銘じたい。
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2004年03月27日「赤旗」) (Page/Top

04米大統領選 移民弾圧/「愛国」の名で

/上/9・11で劇的に変わった

 二〇〇一年秋の同時多発テロ以来、米国では「テロ対策」の名のもとにイスラム系住民への弾圧が続き、十一月投票の大統領選挙の大きな争点の一つとなっています。とくに二〇〇一年十月に成立した「愛国者法」によって、特定の宗教信者や民族出身者への迫害がまかり通っています。中西部のミネソタ州にある米国最大のソマリア人居住地域を訪れました。(ミネアポリス=遠藤誠二 写真も)
 ミネソタの州都セントポールに住むソマリア人男性のモハメドさん(25)(仮名)は二月下旬、一年二カ月ぶりに当局から釈放され、自宅に戻りました。同氏は、今もって長期拘束された理由がわかりません。
突然の拘束
 モハメドさんをソマリア本国に帰したいと願う家族が地元の移民帰化局(INS)に相談したところ、当局が突然、モハメドさんを連行したのです。
 東アフリカのイスラムの国の一つであるソマリアでは、一九九一年のバーレ政権崩壊後、内戦状態が続いています。米国のミネアポリス周辺に住む四万―六万人のソマリア人の大部分は、内戦を逃れた人々で、市民権を取得していない人も数多くいます。モハメドさんも九〇年代初め、十代前半で米国に渡ってきました。
 ところが、二〇〇一年九月の同時多発テロを機に、アラブ系や南アジア系の住民同様、ソマリア人居住者をめぐる環境は劇的に変わりました。
 同時テロを起こした国際テロ組織アルカイダが、ソマリアでも活動しているとされたからです。当局は、成立した「愛国者法」を理由に住民への監視、拘束を実行、一部の市民からは暴力や嫌がらせを受けるようになりました。
 ミネアポリスとその周辺では、年老いた男性が人種差別主義者に撲殺され、十五歳の少年が警備員に銃で撃たれ重傷を負いました。住民の心のよりどころとなってきたイスラム寺院の壁には「ソマリア人は出て行け」などの落書きが見られました。
 三月一日夜、ミネアポリス市内で「ソマリア人権擁護センター」(SJAC)主催の集会が開かれました。集会では、悲痛な訴えが相次ぎました。
一家は離散
 「ブッシュ政権になって家族を呼び寄せる手段が断ち切られてしまった。テロの後は、そんなことを考えるのも夢となった。一家離散のまま将来の見通しがつかない」(両親と兄弟姉妹をケニアの首都ナイロビに残したまま暮らす三十歳の男性)
 「米国に来る前、この国は世界で一番良い国だと思った。テロ事件後、それが百八十度変わった」(おいが連行されて戻ってこない四十代の男性)
 「生まれ故郷のソマリアに帰りたい。でも、それがかなうのは私の次の世代でしょうか」(息子を連行された五十代の女性)(つづく)
 愛国者法 二〇〇一年九月の米国での同時多発テロのすぐあと、連邦議会で成立しました。既存の対テロ関連法の改定ですが、捜査機関に強大な権限が与えられています。
 捜査を名目にして自宅や職場の電話・通信の盗聴、家宅捜索などが、事前通告なしに行えます。図書館や病院などあらゆる機関からも個人情報が入手できます。
 司法長官がテロ容疑者と断定した無国籍者に対する身柄拘束が審議なしに行われ、容疑者がテロに関与していないことを立証できない場合には国外追放もありえます。
 国務長官が特定するテロ組織に「物質的援助」をした者は処罰の対象となります。
 アラブ系米国人差別反対委員会(ADC)によれば、同時テロ後、三千人規模のイスラム教徒が拘束されました。国外追放になった人も数多く、今でも約百人が拘留されています。
 ブッシュ大統領は、今年一月の一般教書演説で、この「愛国者法」をさらに強化すると表明しています。

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/下/迫害を恐れ、息ひそめる

 「テロ後、若い男性がある日こつぜんといなくなるケースが増え、令状なしの秘密連行が続いています。多数の拘束者のうち、分かっているだけで十人のソマリア男性が本国に追放され、うち一人はソマリアで殺されました」―ソマリア人権擁護センター(SJAC)のオマール・ジャマル執行委員長は語ります。
国外追放まで
 「コミュニティー全体が、差別、偏見と暴力、不当逮捕などの迫害を恐れ息をひそめて暮らしているのが実情」といいます。
 ジャマル氏自身も、ちょうど一年前に当局に連行されました。訪ねようとしていた弁護士の家の前で連邦捜査当局(FBI)の車が突然近寄り、有無をいわさず連れ去られました。逮捕の理由は、米国への亡命申請をした際、質問への回答に偽りがあったというもの。
 同氏によると、「米国訪問以前に他国に立ち寄ったか否か」の質問で誤った答えをしたのは事実です。とはいえ、七年前の亡命申請時の軽微なミスを今になって持ち出す事自体、異常です。現在進行中の裁判で有罪となれば、妻と幼児三人を残して国外追放という、最悪のケースも考えられます。
教育組織も標的
 二月二十三日、ページ教育長官はホワイトハウスで開かれた各州知事との懇談で、米最大の教育組織である米国教育協会(NEA)を、政府のやることをあらゆる手段を使って妨害する「テロリスト団体」だと語りました。同長官はその後、この発言について「一般的にワシントンを拠点に活動する団体を引き合いにしたもの」と表明。教育組織のみならず政権にとって好ましくない組織、団体は「テロリスト」だとの暴論を展開しました。
 国家権力による特定の宗教、人種、団体への偏見、干渉と迫害。本来、自由であるべき教育の場にも及んでいます。二月上旬、テキサス大学の学生が討論集会を開いた数日後、国防総省の情報機関が主催者と懇意にしている別の学生に接触し、集会参加者の名簿提出を要求しました。
 討論集会の主催者はイスラム教徒、議題は「イスラム法と女性差別」。その後、人権擁護の活動を続ける法律家組織であるナショナル・ローヤーズ・ギルドや地元人権団体の代表と共同記者会見を開いた主催者の一人は、「われわれイスラム教徒が行うことは世俗的なものであれ何であれ、すべて捜査の対象となる」と憤ります。
 「ブッシュ政権は、愛国者法を制定し、キューバのグアンタナモ米軍基地で大量のテロ容疑者を超法規的に拘束している。これにみられるように、法を超え、自身の権力で何でもできる構造をつくりだしている。軍事分野での先制攻撃戦略とあわせ、いきつくところはファシズム。これは移民の枠を超えた米国民全体の問題だ」―ナショナル・ローヤーズ・ギルド元議長で、不当に逮捕されたソマリア系住民の弁護活動をしているピーター・アーリンダー弁護士は語ります。
自治体が反対
 国民は静観しているわけではありません。人権擁護団体、全米市民自由連合(ACLU)は一月下旬、同時テロ後、イスラム教徒の移民を多数、極秘に拘束したのは国際人権法に違反するとして、ジュネーブの国連人権委員会に審査を申し立てました。
 米国内では、愛国者法に反対する地方自治体の決議が二百六十以上となりました。ロサンゼルス、シカゴ、フィラデルフィア、デトロイト、ボルティモア、サンフランシスコなどに続き、二月四日には米最大都市ニューヨークの市議会が決議を採択しました。
 州レベルではハワイ、アラスカ、バーモントの州議会が同趣旨の決議を採択。合計四千五百万人が住む、三十八州の自治体が、愛国者法に異議を唱えています。
 ACLUのロメロ会長は、「保守派、リベラル、どちらにも属さない人々が、政府の決定と行動により、表現、結社の自由に深刻な影響を及ぼすことを懸念している」と指摘します。(ミネアポリス=遠藤誠二 )
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2004年03月16日「赤旗」) (Page/Top

映画/独裁者に至る前の顔/「アドルフの画集」

(ハンガリー・カナダ・イギリス)
 悪の権化、独裁者アドルフ・ヒトラーにも、人間の顔をもつ青年の時代がたしかにあった。「カラーパープル」の脚本家で知られるメノ・メイエスはそこに着目。運命や偶然といったものが、はたしてヒトラーのその後の生き方や、歴史を変えることができたのかどうか。その探求の旅をたどった脚本をもとに、監督として初めてメガホンをとったのが本作。ファシズムの根源を見逃さず、みずからの問いかけに「ノー」の解答を与えているところが救い。
 一九一八年、第一次世界大戦後のドイツ・ミュンヘン。三十歳のアドルフは、戦場から帰還した画家志望の若者として登場。暗く鋭い眼光、偏屈で陰うつな雰囲気をノア・テイラーが熱演。浮浪者同然の貧しいアドルフが親交を結ぶのは、戦場で片腕を失った裕福なユダヤ人の画商マックス・ロスマン(ジョン・キューザック)。絵画に情熱を傾けるアドルフに、宣伝のための演説をすれば生活の保証をすると、巧みに誘う陸軍将校がからむ。
 暴漢に襲われるマックス。大々的な個展の打ち合わせをするため、カフェで待つアドルフ。やがて憤然として立ち上がり、雑踏の街のなかに消えていく後姿。皮肉な運命の岐路として解釈されかねないその終局。だが反ユダヤ演説で熱狂的な支持を受けたあとの、アドルフの表情にひそやかに漂う自信と歓喜の漣(さざなみ)。監督が提示した結論の核心は、そこにあるのではないか。権力の座を志向する彼の野望の帰結と、新たな起点を物語る鮮烈な場面だ。(山形暁子・作家)
東京・テアトルタイムズスクエア、大阪・テアトル梅田で上映中
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2004年03月07日「赤旗」) (Page/Top

朝の風/ベン・ニコルソンが吸った空気

 二十世紀イギリス絵画を代表するベン・ニコルソンは、造形の詩人と呼ぶのにふさわしい画家の一人だ。ピカソやモンドリアンの影響を受け、幾何学的抽象と具象との間で、二つの世界大戦の時代を生きた。神奈川県立近代美術館の新館(葉山)で開催中の展覧会は、その足跡を日本で初めて詳細に見せる。
 輪郭のはっきりした、人やカップやボトルらしき単純な形。その簡素な直線と曲線。単調だがぬくもりのある色彩。あるいは削り取られ、キャンバスに残った絵の具のかすれ。そうしたものに、生きているものの体温と臭いがある。ヨーロッパ・モダニズムのじつに冷静な消化がある。
 ニコルソンが美術史的に大きな評価を受けるのは、一九三〇年代半ばのホワイト・レリーフと呼ばれる作品だ。白は清潔で明るく公平な社会を象徴する。ファシズムと戦争への危機感から、建築・絵画・彫刻が相互に関係する白の構成に腐心したという。色もデザインも、時代の空気の中で意味をもったのだ。
 ニコルソンは、彫刻の巨匠ヘンリー・ムーアとも親しかった。イギリス美術はフランスの陰に隠れがちだが、この二人によって断固たる存在を主張する。ムーアやニコルソンの活躍は、ロンドンがアメリカへの亡命基地となり、アートの最新動向が集中したことと無関係でない。作品に感動すると、背後にある時代の空気も見えてくる。()
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2004年03月02日「赤旗」)

ピカソの戦争 《ゲルニカ》の真実/ラッセル・マーティン著木下哲夫訳

政治的力をもった芸術の苦痛の道
 ピカソの《ゲルニカ》はマドリードのレイナ・ソフィア芸術センターで、四bの距離から生のまま見られる。これが一九八一年当時は防弾ガラスのケースに収められ両脇に銃を持った警備員がいたし、その数年前までは素晴らしい作品だと話すことが即投獄となった。現地のスペインでそうだった。民主政治への反乱者フランコの手引きでナチスが行ったゲルニカ空襲の事実については、一九八〇年代まで、共産主義者のでっち上げだったという出版物が世界に出回った。
 本書はゲルニカの悲劇の歴史的事実とそれへの怒りを描いた《ゲルニカ》が、戦争の擁護と批判の世論の中で生きたようすをたどっている。《ゲルニカ》がルイ・アラゴンやル・コルビュジェにさえ好かれず、決して最初から名作と認められたわけではないことや、ニューヨークの近代美術館が一日も長くこの名作を手元に置くためにとった態度や駆け引きも描かれる。さまざまな攻防をくぐって、ピカソが「再び人民の自由が確立した時点で」と願ったスペインに、一九八一年九月、《ゲルニカ》はついに戻った。
 だがこのドラマはなぜ起きたのだろう。現代戦争が起こす無差別殺りくの始まりを、ゲルニカ空襲に見抜いたピカソの直観が、天才的な造形力とともに原点にあった。優れた芸術であればこそ、作品は政治的な影響力も持つ。これをファシズムの罪業に続く冷戦時代の政治が嫌悪したのだった。戦争はじつに政治のあらゆる側面を凝縮するが、それを描いた芸術への評価を政治的利害からすることによって荒波が生じたのだ。《ゲルニカ》にはそれに耐える強さがあったが、名作がなぜこれほどの苦痛を経なければならなかったのか、考えざるを得ない。芸術がいかに政治的な力を持とうが、それは表現の自由の範疇であり、政治には芸術評価への不介入という原則を断固守らせる必要があるのだ。
山口泰二・美術評論家
 Russell Mrtin 一九五二年生まれ。アメリカの作家、ジャーナリスト。
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2004年03月01日「赤旗」) (Page/Top

財閥と帝国主義 三井物産と中国/坂本雅子 著

資本家階級の主体的かかわりを実証
 一八七六年(明治九年)に設立された三井物産は、日本の総合商社のはしりであり、敗戦前の日本では一貫して最大規模の商社であった。それだけに、今にいたるまで多面的な研究が続けられ、研究者も多い。本書は、一九七○年代はじめから三十年にわたり、中国とのかかわりで同社を研究してきた坂本さんが、その成果をはじめて一冊にまとめた手がたい研究書である。
 戦後の日本近代史研究を主導したマルクス主義歴史学、なかでも天皇制ファシズム論(絶対主義天皇制が戦時下に天皇制ファシズムに転換したとする説)では、近代日本の支配勢力である地主と資本家の二階級に対し、官僚と軍部を支柱とする天皇制国家機構が相対的な自律性をもって専制支配をおこなったと主張した。
 しかしこの説では、ファッショ化の過程に見られた暗殺やクーデターなど、支配階級内のはげしい対立・抗争を説明できないとして、昨年急逝した江口圭一さんが一九七○年代のなかばに二面的帝国主義論を提唱し、いまでは多くの研究者の賛同をえている。日本帝国主義には、英米に対する協調路線と、アジアでの膨張を図る独自路線の二面性があり、軍部をにない手とする後者の路線が一九三○年代に勝利して、日本はファシズム国家になったとする説である。
 本書で明治期から敗戦までの三井物産と中国との関係、日本の対中国政策に対する三井財閥の関与を分析した著者は、財閥を中心とする資本家階級の侵略と戦争への主体的なかかわりを実証し、天皇制ファシズム論と二面的帝国主義論をともに批判している。帝国主義と財閥の関係を解明するには三井の研究だけでは不十分だが、本書が力作であることはまちがいない。
 財閥とはなにか、東アジアにおける近代日本とはなにかについて、有意義な論争のおこることが期待される。
 岡部牧夫・日本近現代史研究家
 さかもと まさこ 一九四五年生まれ。名古屋経済大学教授。『現代日本経営史』ほか。
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2004年02月02日「赤旗」) (Page/Top

研究ノート/スポーツ運動史/上野卓郎/スポーツとコミンテルン

 モスクワのロシア現代史記録保管研究センター(略称RGASPI)のコミンテルン・アルヒーフの中にスポルチンテルン・アルヒーフがある。
 スポルチンテルンは一九二一年創立、一九三七年解散の赤色スポーツインターナショナル(RSI)のこと。昨年日本の研究者として初めて訪問。所蔵史料点数が予想以上に多く(六万枚強)、一九三〇年代の史料に焦点を絞った調査・収集に限定した。史料の言語は大部分ドイツ語。
 この中で最大の成果は、一九三七年RSI解散に関する史料と、一九三五年―三六年のベルリン・オリンピック反対運動の高揚を反映する刊行物・文書の中からの『スポーツプレス』全三十号の発見。三七年解散をめぐるコミンテルンの内部文書とRSIのコミンテルンへの報告文書は、三七年「コミンテルン・スポーツ決議」(『コミンテルン資料集』所収)の形成過程を初めて跡づけることができ、「コミンテルンのスポーツ情報部門」として自立性をなくすRSIの「秘密の」解散との平行性も明らかにすることができる。
 スポーツインターナショナルとコミンテルンの関係のスポーツ運動史的総括は、政治的要請による変質とそれへの抵抗の歴史像を示すことになるが、それだけに反戦・反ファシズム運動の中でのスポーツ運動の自立性の発揮に光を当てる必要がある。(うえの たくろう・一橋大学社会学研究科教授)
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2004年01月23日「赤旗」) (Page/Top

背表紙/『茶色の朝』… 忍び寄るファシズムの不気味さ

 二〇〇二年、フランス大統領選挙で極右政党党首ルペンが18%を取ったことへの危機感から、五十万部のベストセラーとなったフランク・パヴロフ著のぐう話。日本語版『茶色の朝』(大月書店・一〇〇〇円)が、「戦争をする国」に向かう日本で警鐘を鳴らしています。
 「またぐう話か」と思うことなかれ。テーマはファシズムです。
 コーヒーを飲みながらおしゃべりする「俺」と友人シャルリー。シャルリーは飼犬を安楽死させたと話します。理由は犬が「茶色」でなかったこと。政府は茶色以外の犬も猫も認めない法律を制定し、毒だんごを配って犬猫の処分を始めました。批判的な新聞は廃刊、本も図書館や書店から撤去されました。次第にその状況に慣れてくる人間たち。でも以前黒い犬を飼っていたシャルリーは国家反逆罪で逮捕され…。
 哲学者の高橋哲哉さんが解説で、ファシズムの不気味さを説きます。茶色はナチスのシンボル。国中が一色に染められても、人々の日常は破局を迎えるまで続き、「抵抗すべきだった」とさとるのはすべてが手遅れになってからだと。
 映画監督、俳優として活躍するヴィンセント・ギャロが、本書のために描いた絵が不安を繊細に表しています。展覧会を二十五日まで東京芝浦・ピラミッドビルで開催中。(絹)
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2004年01月05日、「赤旗」) (Page/Top