2005年 ファシズム関連情報】

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2005(ヘッドライン)

*                     05年世界/揺らぐ米一国支配/広がる平和と共同

*                     朝の風/ハルトマンの「葬送協奏曲」

*                     12・8太平洋戦争開始64年/戦後60年/世界の決意/侵略戦争否定の原点再確認

*                     05年総選挙私の願い/ドイツ語翻訳家市村由喜子さん(54)/平和な世界へ憲法高く

*                     ポルトガル/共産党がアバンテ祭開く/反戦の歴史に立脚

*                     胡主席/平和、協力の道強調/北京の戦勝60年式典で演説

*                     独立60周年記念式典開催/ベトナム

*                     スポーツで平和の尊さ伝える/反核平和マラソン参加の仏労働者スポーツ・体操連盟ムーユッソウ会長に聞く

*                     ベトナム/200万餓死者を追悼/60年前の日本軍占領下で発生

*                     抗日勝利60周年/各地で記念行事/中国

*                     イタリアという国/大久保昭男

*                     ベネズエラの世界青学祭典へ/日本代表団が出発

*                     時の音/作家米谷ふみ子/米空軍士官学校の下院聴聞会/政教分離の無視とファシズム的行動の芽生え

*                     過去と向き合う/ドイツの場合

*                     私は言いたい/宮崎大学教育文化学部教授河野富士夫さん(64)/ファシズムの放つ「魔力」

*                     女性の目アラカルト/キューバ/横並びに30人6時間半デモ

*                     靖国史観≠ニアメリカ

*                     記憶と和解の日/世界が刻む戦後60年

*                     果敢に反戦ハリウッド/チャプリン・スーザン・サランドン・ムーア監督…/いま進歩の第三の波が

*                     憲法問題/海外の目/戦争放棄したイタリア憲法/伊共産主義再建党ニコトラ氏に聞く

*                     スターリンの横暴批判/リトアニアとポーランド代表

*                     女性の目アラカルト/キューバ/ハバナっ子たちよ旗はどこ?

*                     ファシズムへの勝利/戦勝60周年シンポ/ベトナム

*                     侵略戦争反省行動で示せ/人民日報

*                     独ソ不可侵条約を批判/元ソ連兵を前に/ポーランド大統領

*                     ナチスの与えた苦しみ/「記憶風化させない」/ドイツ大統領が演説/第2次大戦終結記念日

*                     EUとロシアのレセプション/志位委員長が出席

*                     第2次大戦終結60年「記憶と和解の日」/モスクワで式典

*                     ドイツで光の鎖33`/戦争・極右・人種差別許さず/終戦60年行動始まる

*                     抗日戦勝利60周年で通達/中国共産

*                     ナチスからの解放記念/独で集会・行事活発に

*                     主張/記憶と和解の日/戦後平和秩序の原点に立って

*                     ベトナム/ニャンザン紙が特集/戦争被害忘れない

*                     強制収容所を記念碑に/次世代に体験を継承/独ハンブルク郊外/文化担当相が決意

*                     5月8・9日第二次世界大戦終結/「記憶と和解の日」/ドイツ/反省、謝罪で近隣と信頼

*                     5月8・9日第二次世界大戦終結/「記憶と和解の日」/国連総会で全会一致決議

*                     各国でメーデー/労働現場を人間らしく/ドイツ/メキシコ/イギリス

*                     独首長/反核の声/ベルリン市クレット区長/反ファシズムが基盤/国内の核信じられなかった

*                     「記憶と和解の日」/5月8、9日は世界の記念日/戦後60周年で国連よびかけ

*                     伊解放60周年に10万人、大統領演説/反ファシズムの精神引き継ごう

*                     チェコ・モラビア共産党と欧州議会左翼会派/国際会議を共催/「社会主義の将来」議論

*                     世界社会フォーラム/世界資本主義の分裂のきざしと非暴力による社会変革の可能性/藤岡惇

*                     戦後60年/ドイツの歴史教育

*                     抗日戦争勝利60年9月に記念集会/中国

*                     朝の風/イェリネクのノーベル文学賞

*                     朝の風/ファシズムと文化

*                     歴史の逆流許さぬ欧州/独政治家/ナチスの象徴禁止を/全欧州に存在の余地なし

*                     ナチスからの解放60年/ロシア/併合や虐殺の歴史/バルト三国など反応複雑

*                     ナチスからの解放60年/欧州で記念行事活発に/27日のアウシュビッツからスタート

*                     ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトを追悼/ドイツ/反戦訴え1万4千人行進

*                     芸能テレビ/スポット/映画「キャロルの初恋」主演クラララゴさん/あどけなさも魅力

2005年(本文)(Page/Top

05年世界/揺らぐ米一国支配/広がる平和と共同

その1
戦後60年
 今年はファシズムからの解放六十周年。ナチスドイツ降伏の五月八、九日を「記憶と和解の日」とし記念するとの国連総会決議の呼びかけなどを受け、各国で行事が取り組まれました。
 シュレーダー独首相は、四月、ブーヘンワルト収容所解放の日に「ナチスの犯罪を心に刻むことは国民的なアイデンティティー」と語りました。米下院は七月十四日の決議で、東京裁判の判決を再確認。中国の胡錦濤国家主席は九月、北京の大集会の演説で「過去を忘れず教訓を銘記する」よう日本の右派勢力に警告しました。

対米自主
 かつて「米国の裏庭」と呼ばれた中南米では、三月に南米ウルグアイで左翼のバスケス政権が発足。十二月にはボリビア大統領選挙で、左派の社会主義運動党(MAS)エボ・モラレス党首が過半数の票を得て当選しました。
 両政権は、米国に押し付けられた新自由主義の経済政策を拒否、米国から自立した経済再建をめざしています。
 同じ路線を掲げる南米の政権はベネズエラ、ブラジル、アルゼンチンなど、いまや南米人口の八割を占めるまでになっています。

共同体へ
 十二月十四日に開かれた初の東アジア首脳会議は、同会議が今後「この地域の共同体構築に重要な役割を果たす」との宣言を採択しました。東アジアで平和の共同体を築く重要な一歩です。
 集まった十六カ国の人口は三十一億人。世界の半分です。
 ASEAN主導で、国際紛争の平和的解決などを盛り込んだASEANの東南アジア友好協力条約に参加する国で共同体づくりをめざします。

貧困問題
 英スコットランドで七月に開催された主要八カ国首脳会議(G8サミット)で、アフリカの貧困問題が主要議題として取り上げられ、対アフリカ支援倍増が合意されました。サミットに先立って開かれたG8財務相会議は重債務貧困国十八カ国の債務帳消しを決めました。貧困問題解決をG8に迫るコンサートが世界八都市で行われ、「貧困を過去の歴史にしよう」と訴えました。九月には貧困半減など八項目のミレニアム開発目標達成に向けた国連首脳会議が開かれました。

50周年で
 インドネシアの首都ジャカルタで四月二十二―二十三日、バンドンでの第一回アジア・アフリカ会議(二十九カ国)五十周年を記念してアジア・アフリカ首脳会議が開かれ、五十カ国以上の首脳を含む百カ国余の政府代表が出席しました。首脳会議は、第二次世界大戦後の植民地支配からの解放と民族独立の世界的な流れをつくり出したバンドン会議の精神をふまえ、戦争のない恒久平和と繁栄の世界をめざし、異なる文明間の対話や経済協力への「新パートナーシップ宣言」を採択しました。

共同声明
 北朝鮮の核問題解決に向けた六カ国協議(日本、韓国、北朝鮮、米国、中国、ロシア)は九月の第四回協議で初めての共同声明を採択しました。
 「朝鮮半島の非核化」の目標と原則を確認し、六カ国協議の場を「北東アジア地域の永続的な平和と安定のための共同の努力」をはかる舞台として発展させることを明記。国連憲章など国際規範の順守を約束、米朝、日朝間の国交正常化に言及しています。

2005年 世界の流れ

中東・アフリカ
 1・9 パレスチナ自治政府の議長選挙でアッバス・パレスチナ解放機構(PLO)議長が当選
 1・30 イラクで暫定国民議会選挙
 2・8 パレスチナ・イスラエル首脳が停戦を宣言
 2・14 レバノンの首都ベイルートで爆弾テロ。ハリリ前首相が暗殺される
 2・28 レバノン内閣が総辞職
 3・22−23 アラブ連盟首脳会議、イスラエルのアラブ占領地からの完全撤退、イラクの主権と独立の必要性を確認する声明採択
 3・27 パレスチナの音楽家とイスラエルの歌手が和平を願い共同で作詞作曲した歌が双方のラジオで同時放送
 4・26 シリア兵がレバノンを出国。1976年以来のレバノン駐留に終止符
 5・3 イラク移行政府が発足
 5・23 米・アフガニスタン首脳会談。米軍の長期駐留に関する共同宣言に調印
 5・29 イラクの首都バグダッドで米軍1万人とイラク軍4万人が大規模軍事作戦開始
 6・12 イラク駐留米軍が西部のカイムで空爆。40人を殺害したと発表
 6・27 イラク世界民衆法廷がイラク侵略戦争を糾弾
 7・5 アフリカ連合(AU)首脳会議、全アフリカ諸国への債務免除を主要国に要求
 7・11 ジュネーブ高等国際問題研究所、イラク戦争開始以来のイラク民間人の死者が3万9000人に達したと発表
 7・17−18 テヘランでイラク・イラン首脳会談。和解と関係改善を確認
 7・23 エジプトの保養地シャルムエルシェイクで連続爆弾テロ、88人死亡
 8・15−22 イスラエルがガザ地区のユダヤ人入植地から入植者を退去
 8・28 イラク駐留米軍がバグダッドでロイター通信の音声担当スタッフを銃撃し殺害
 8・31 バグダッドのイスラム教シーア派信徒、自爆テロのうわさによるパニックで、圧死や水死。約1000人が死亡
 9・5 イラク駐留米軍がイラク北部のタルアファルを猛爆
 9・12 イスラエル軍がガザ地区から撤退
 9・18 アフガニスタンで36年ぶりの国会議員選挙
 10・15 イラク憲法国民投票。憲法草案を承認
 11・8 国連安全保障理事会、イラク多国籍軍の駐留の1年延長(06年末まで)を決議
 11・9 ヨルダンの首都アンマンの3つの欧米系高級ホテルで同時爆破テロ。死者57人
 12・15 イラクで国民議会選挙
 12・18−19 湾岸協力会議(GCC)首脳会議、中東の非核地帯化を呼びかける声明
 12・22 イラクのスンニ派、世俗派の35政党、選挙で不正があったと声明

欧州・ロシア
 2・20 スペインで国民投票。賛成多数で欧州憲法を批准
 2・20 ポルトガル総選挙で野党・社会党が勝利
 3・7 ブルガリア国防相、イラクで米軍の銃撃によりブルガリア兵が死亡したとし、責任者の処罰を要求
 3・10 フランスで週35時間労働制擁護、雇用を求め全国スト
 3・15 伊首相が、イラクからの段階的撤兵を表明
 3・24 欧州連合(EU)首脳会議、域内での事業活動を自由化するEU指令案の抜本的見直しを決定
 3・25 中央アジア・キルギスで政変。バキエフ前首相が大統領代行兼首相代行に就任
 4・2 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が死去
 4・3−4 イタリアの13州の知事選挙で、ベルルスコーニ首相の与党・右派連合が大敗
 4・13 ウクライナ、大統領令で年末までのイラク撤兵を決定
 4・17 ナチス・ドイツの3つの強制収容所跡で記念集会
 4・18 ドイツで130の首長が核廃絶と同国からの米軍核兵器撤去を要求
 4・19 新しいローマ法王にドイツ人のラツィンガー枢機卿(78)が選出され、ベネディクト16世として即位
 5・6 英下院総選挙で労働党が辛勝。ブレア政権が3期目に
 5・8 第2次大戦終結記念日でケーラー独大統領がナチスの与えた苦しみの記憶を風化させない責任があると演説
 5・9 モスクワでロシア政府主催の第2次世界大戦終結60周年記念式典
 5・29 フランスで国民投票。欧州憲法条約を否決
 6・1 オランダの国民投票でも欧州憲法条約を否決
 6・6 ストロー英外相が、欧州憲法条約批准の国民投票の棚上げ表明
 7・7 ロンドンで同時テロ。死者50人余
 7・21 ロンドンの地下鉄3カ所と路線バスで連続して爆破または爆破未遂事件
 9・11 イタリア中部ウンブリア州で「貧困・戦争なくそう」と20万人が平和行進
 9・12 ノルウェー総選挙で、中道左派連合が勝利
 9・18 ドイツで総選挙。左翼党が得票率を倍加
 9・27 米国務次官補、ウズベキスタン南部のハナバード基地からの米軍撤退を表明
 10・4 フランスで「雇用、賃金、労働者の権利」の拡大を求め全国スト
 10・5 EU外相会議、トルコの正式加盟を目指す加盟交渉開始を決定
 10・10 ドイツの社会民主党(SPD)とキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)が大連立政権擁立で合意。メルケルCDU党首が初の女性独首相に
 10・27―11・17 フランスの300の都市で暴動、逮捕者2500人
 10・30 欧州左翼党がアテネで第1回大会
 11・30 EU議長国・英国のストロー外相が米中央情報局(CIA)による秘密収容所設置問題での調査を米に要求
 12・6 メルケル独首相、ライス米国務長官と会談。CIAの秘密収容所疑惑で米国を批判
 12・8 米国とルーマニア、ルーマニアでの米軍基地開設協定に調印
 12・23 伊ミラノ地裁、同国内でエジプト人を拉致した容疑でCIA要員22人にEU共通逮捕状発行
 12・26 ブルガリア駐留部隊がイラクから撤退完了
 12・27 ウクライナ駐留部隊がイラクから撤退

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その2

撤兵要求
 「テロとのたたかい」と「小さな政府」推進を掲げて二期目に入ったブッシュ政権。イラクでは占領への批判、抵抗がやまず、米兵の死者も二千百人を大幅に超過。開戦の根拠のなさが明らかになり、撤兵要求が広がるにつれ、秋には支持率最低記録を次々に更新。十二月には自ら「誤情報で開戦した」と認めざるを得ませんでした。9・11同時テロ事件後の不法な盗聴・監視問題でも追及されています。各個人に投資リスクを負わせる「公的年金改革」も異論続出で頓挫しています。

印パ往来
 カシミール地方のインド側とパキスタン側を結ぶバスの運行が四月始まりました。五十七年ぶりで、両国民は大歓迎。同地方の帰属をめぐり両国が六十年近く対立していたため、住民の往来が禁じられていました。十月にはカシミールで大地震が発生。住民の救援のため停戦ライン五カ所が解放され、住民は徒歩で往来が可能となりました。

国民投票
 イラクでは米英の軍事占領と、抵抗勢力に対する米軍の掃討作戦が続きテロと暴力の悪循環のなか、多くの民間人が犠牲になりました。
 一月の選挙で選出された暫定議会が十月に憲法を制定、国民投票で承認されました。これに基づき正式政府を選出する議会選挙が十二月に実施されました。この選挙での不正をめぐり混乱が続いているものの、イラクは主権回復への歩みを進めています。

欧州憲法
 中・東欧諸国を加え二十五カ国に拡大した欧州連合(EU)の欧州憲法条約の批准作業が各国で始まりました。しかし、フランスが五月、オランダが六月の国民投票で否決したことで、EUの将来への不安が高まりました。
 EUが拡大を続けるなか、旧加盟国内では、減らない失業率など暮らしに対する懸念が増大。福祉や権利を重視する「社会的欧州」を求める市民の声が強まっています。

ガザ撤退
 イスラエル軍は九月十二日、一九六七年の第三次中東戦争以来、占領を続けてきたパレスチナ自治区ガザ地区から全面的に撤退しました。これに先立って八月二十四日には、ガザ地区にあったユダヤ人入植地をパレスチナ側に返還しました。
 占領を続けるヨルダン川西岸では、百二十四カ所、約二十二万三千五百人のユダヤ人入植地を温存し、全体の41%を占めるパレスチナ自治区を包囲するコンクリートの壁を建設。パレスチナ独立国家建設をめぐる和平交渉は進展していません。

災害猛威
 一九九七年に誕生した地球温暖化防止のための京都議定書。世界最大の温暖化ガス排出国・米国が二〇〇一年に離脱したことで、存続が危ぶまれました。
 地球と人類の未来を守れの声が世界中に広まるなか、今年二月、ついに発効しました。
 八月末に米南部を襲ったハリケーンも地球温暖化の影響だともいわれました。
 年末に開かれた温暖化防止の国際会議では、議定書の運用規則を決め、一三年以降、米国も含め長期的共同行動についての論議を開始することが合意されました。

感染拡大
 鳥インフルエンザの被害は、東南アジアを中心に、中国、モンゴル、トルコ、ロシア、クロアチア、ルーマニアなど欧州にまで広がりました。
 〇三年以来、人への感染は百四十二人、死者はカンボジア、中国、インドネシア、タイ、ベトナムで七十四人にのぼっています。
 十一月に開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議や十二月の東南アジア諸国連合(ASEAN)+3、それに続く東アジア首脳会議でも対策が話し合われました。

2005年 世界の流れ     

国際一般
 1・24 アウシュビッツ強制収容所の解放60周年を記念し、国連が特別総会
 1・26−31 ブラジルのポルトアレグレで第5回世界社会フォーラム
 2・3 国連調査委、イラクへの「石油・食料交換計画」で計画責任者がわいろを受け取っていたことを報告書で認定
 2・16 地球温暖化防止のための京都議定書発効
 3・10 列車爆破テロから1年を機にマドリードで反テロ国際会議
 3・20 アナン国連事務総長、安保理の構成変更を含む国連改革報告書を公表
 4・13 国連総会が核・放射性物質の不法所持・不正使用の犯罪化を定めた条約案を採択
 4・22−23 バンドン会議50周年を記念、アジア・アフリカ首脳会議
 4・28 メキシコ市で世界の4つの非核地帯条約加盟国による非核地帯国際会議
 5・1 ニューヨークで核兵器廃絶を求めるデモに4万人
 5・2−27 核不拡散条約(NPT)再検討会議
 5・9−10 クアラルンプールで非同盟運動史上初の「女性の進歩に関する閣僚会議」
 7・7−8 ロンドンで主要国首脳会議(G8サミット)
 9・14 貧困半減、国連改革を議論する国連首脳会議
 10・20 国連教育科学文化機関(ユネスコ)第33回総会、「文化多様性条約」を採択
 11・28 バルセロナでEU・地中海諸国が首脳会議。テロ根絶で国連憲章を順守するとした行動規範を採択
 11・28−12・10 モントリオールで気候変動枠組み条約締約国会議と京都議定書締約国会合
 12・13−18 香港で世界貿易機関(WTO)閣僚会議

アジア
 2・1 ネパールのギャネンドラ国王が事実上のクーデター
 3・8−14 中国全国人民代表大会、経済の安定的発展や社会保障、国有企業改革、農民重視の方針を決め、反国家分裂法を採択
 4・7 インドとパキスタンの紛争地カシミール地方で、両国をつなぐバスが運行開始
 4・9 北京で反日デモ
 4・11 中国とインド、国境画定のための基本理念文書に調印
 4・16 上海で反日デモ
 4・29 中国共産党と台湾の野党・国民党が60年ぶりに首脳会談
 7・5 上海協力機構首脳会議、キルギスとウズベキスタンからの米軍の撤退を要求
 7・21 中国政府が人民元を切り上げ
 8・14−16 韓国と北朝鮮が、日本による植民地支配からの解放60周年を記念し、ソウルで共同行事
 8・15 インドネシア政府と同国ナングロアチェ州の武装組織「自由アチェ運動」(GAM)が和平合意に調印
 9・14−19 北京で北朝鮮の核問題をめぐる第4回6カ国協議
 10・8 パキスタンで大地震。死者7万5千人
 10・12 中国が2度目の有人宇宙船「神舟6号」の打ち上げに成功
 11・9−11 北京で第5回6カ国協議
 11・12−13 バングラデシュの首都ダッカで、南アジア地域協力連合(SAARC)首脳会議
 11・17 スリランカで大統領選挙。統一人民自由連合(UPFA)の候補ラジャパクサ首相が当選
 11・18−19 韓国の釜山で、アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議
 12・4 中国外務省、東南アジア諸国連合(ASEAN)プラス3首脳会議にあわせた日中韓3カ国首脳会議の開催延期を発表
 12・12 クアラルンプールでASEAN首脳会議
 12・14 クアラルンプールで初の東アジア首脳会議
 12・23 韓国ソウル大学、黄禹錫教授の胚(はい)性幹細胞(ES細胞)研究論文をねつ造だったと結論

南北アメリカ
 1・20 ブッシュ米大統領が2期目に就任
 2・2 ブッシュ大統領が一般教書演説
 2・24 カナダのマーティン首相が米国のミサイル防衛システムへの不参加を発表
 3・1 ウルグアイで「拡大戦線」のタバレ・バスケス新大統領が就任し、新政権が発足
 3・1 米バーモント州の約50の町での住民投票で、39町がイラクからの撤兵要求
 3・31 大量破壊兵器に関する米独立調査委員会、米情報機関の判断が「完全に誤っていた」と結論
 5・8 ウルグアイの地方選挙で社会党、共産党を含む与党の革新統一戦線が躍進。人口の約4分の3が革新自治体に
 5・10−11 ブラジルの首都ブラジリアで南米・アラブ連合首脳会議
 6・7 米州機構(OAS)年次総会が米国の内政不干渉盛り込んだ最終宣言を採択
 6・28 ブッシュ大統領がイラクへの「主権移譲」1周年で演説。米軍は「勝利するまで」イラクにとどまると言明
 7・4 中南米の左翼政党と進歩勢力によるサンパウロ・フォーラム第12回会議
 7・24 ベネズエラ、アルゼンチン、キューバ、ウルグアイが共同出資した新テレビ局「テレスル」が放送を開始
 8・17 イラクで戦死した息子についてブッシュ大統領に説明を求めるシーハンさんへの連帯行動、全米1600カ所以上で実施、約5万人が参加
 8・29 ハリケーン「カトリーナ」が米南部を直撃、死者は数千人
 8・30 米国でイラクから撤退求める反戦バスツアー
 10・23 アルゼンチンで下院選挙。キルチネル政権与党・正義党が圧勝
 10・26 全米49州600カ所以上でイラク反戦行動
 11・30 米大統領、メリーランド州の海軍士官学校での演説でイラク撤退予定表の提示を拒否
 12・4 ベネズエラで国会議員選挙。チャベス政権の与党連合が圧勝
 12・12 ブッシュ大統領、イラク戦争以来のイラク民間人の死者を約3万人と認める
 12・14 ブッシュ大統領がイラク開戦の責任認める
 12・17 ブッシュ大統領、9・11同時テロ後に米国民の盗聴を許可していたと認める
 12・18 ボリビアで大統領選、モラレス社会主義運動党党首が勝利
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2005年12月31日,「赤旗」) (Page/Top

朝の風/ハルトマンの「葬送協奏曲」

 作曲家カール・アマデウス・ハルトマンは一九〇五年、ドイツのミュンヘンに生まれた。今年はその生誕百年にあたる。
 先月、新日本フィルの定期演奏会で思いもかけず、彼の「独奏ヴァイオリンと弦楽合奏のための葬送協奏曲」を聴く機会を得た。ヴァイオリン奏者イザベル・ファウストの強い希望により、他の作曲家の協奏曲から演目が変更されたからだ。
 ハルトマンは一九三〇年代、ナチズムへの抵抗を込めた音楽をつくり続けた。マイケル・H・ケイター『第三帝国と音楽家たち』(アルファベータ)によると、ドイツ共産党員の兄リヒャルトは三三年、反ナチ宣伝に参加の後、スイスに亡命した。彼も逮捕こそされなかったが、国内では作品の演奏が禁じられた。
 「葬送協奏曲」もそうした作品の一つ。一九三九年につくられ、ずばり「アンチ・ファシズム」の副題をもつ。曲は三部からなる。哀調を帯びた美しい前半部。一転して強烈なリズムを叩きつける中間部。さらに後半では、独奏と弦楽五部が静かで悲しげな旋律を受け渡す。それは変形が加えられているが、明らかに「同志は倒れぬ」として有名な労働歌の引用だ。
 当夜の後半は、「悲劇的」の標題をもつマーラーの交響曲。このユダヤ系作曲家の音楽もナチスは忌避した。独奏者と指揮者アルミンクの意思により、くしくもファシズムのつめ跡に思いをはせる機会となった。(弩)
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2005年12月08日,「赤旗」) (Page/Top

12・8太平洋戦争開始64年/戦後60年/世界の決意/侵略戦争否定の原点再確認

 今年は、かつて侵略戦争を推進した日本、ドイツ、イタリアのファシズム勢力が国際的な反撃で敗北し断罪されて六十年の節目でした。
 日本では小泉首相の靖国神社参拝はじめ戦争美化、侵略正当化の動きが強まる中、世界では、戦争を二度と許さない決意をこめた催しが行われました。
 国連総会は昨年十一月、「第二次世界大戦終結六十周年を記念する決議」を全会一致で採択し、ナチス・ドイツが無条件降伏した五月八、九両日を「記憶と和解の日」として毎年記念するよう各国に呼びかけました。
 これに応えて各地で行事が行われ、モスクワの記念式典には世界五十カ国以上の元首が集まって平和の誓いを新たにしました。
 一連の行事を通じて、ファシズムと侵略戦争の否定という戦後の原点が改めて確認され、戦争の責任が明確にされたのが特徴でした。

米下院が決議
 米下院は七月十四日、世界大戦終結六十周年の決議を採択し、「東京における極東国際軍事裁判での判決、また人道に対する罪を犯した戦争犯罪人としての特定の個人への有罪判決を再確認する」と明記しました。ブッシュ米大統領も八月三十日、対日戦勝六十周年記念演説で、かつての日本の行動を「西側植民地主義をもっと過酷で抑圧的なバージョンに置き換えただけだった」と指摘。日本の一部の人たちが主張する「アジア解放のためだった」とする侵略戦争正当化論を批判しました。
 中国では九月三日、抗日戦争をたたかった元兵士など六千人が参加し、「抗日戦争勝利六十周年記念大会」が北京で開催されました。胡錦濤国家主席が記念演説で、「中国人民の抗日戦争と世界の反ファシズム戦争の勝利は、中国人民と世界各国人民の徹底的勝利として歴史に刻まれた」「過去を忘れることなく、教訓を銘記しなければ、歴史の悲劇の再演は避けられない」と強調しました。

独・伊の反省
 日本とともに侵略戦争の責任を問われたドイツやイタリアでは、国の指導者が過去の侵略への真剣な反省を表明し、抵抗した人々に賛辞を贈りました。
 ドイツのシュレーダー首相はフランスやチェコ、ポーランドなど各国の首都で行われた解放六十周年記念行事に出席し、ナチスの犯罪を謝罪しました。同首相は四月十日、ワイマール郊外にあるブーヘンワルト強制収容所解放六十年式典で次のように述べています。
 「過去を元に戻すことはできないし、克服することは実際にはできない。しかし、歴史から、わが国の最悪の恥辱の時代からわれわれは学ぶことができる。不法と暴力、反ユダヤ主義、人種主義、外国人排斥がわが国でふたたび好機を得るようなことは決して許さない。ナチスの時代、そして戦争と民族虐殺と犯罪を胸に刻むことは、私たちの国民的アイデンティティーの一部となっている」
 イタリアのチャンピ大統領は四月二十五日、ミラノで開かれたファシズムからの解放六十周年記念集会で次のように述べました。
 「ナチスによる占領、ファシズム独裁とのたたかいは、万人のための平等な諸権利に基づく新しい国家の礎を確立するたたかいでもあった」「戦争や悲劇の記憶、自由のために命を落とした人々の記憶を決して失ってはならない」
 (坂本秀典)
ナチス・ドイツの降伏
 第二次世界大戦でナチス・ドイツは1945年5月7日、連合軍総司令部があるフランスのランスでソ連代表も同席して降伏文書に調印しました。文書は8日午後11時1分に発効しました。ソ連軍の希望で9日にベルリンのソ連軍本部で再度ドイツ軍代表が降伏文書に調印しました。このためドイツ政府は正式に8、9両日を降伏の日としています。
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2005年12月08日,「赤旗」) (Page/Top

05年総選挙私の願い/ドイツ語翻訳家市村由喜子さん(54)/平和な世界へ憲法高く

 被爆者が呼びかけた七月の「ノーモア ヒロシマ・ナガサキ国際市民会議」で、世界的音楽家ヘルヴィック・ライター氏を招いて開いた記念コンサートは、大成功でした。原民喜の詩「水ヲ下サイ」を先生が作曲、演奏したのです。核廃絶に向けた世界の連帯を示すことができました。先生とは、私がオーストリアに留学していたときに交流が始まり、その縁で今回もボランティアで協力していただきました。
 先生も私も世界中の人々が寛容と連帯によって友人同士になれば、戦争はなくなると考えています。友人に銃を向けることはできないからです。非現実的だという人もいますが、平和な世界をつくるということでは、これこそ現実的です。武力では暴力の連鎖を断ち切ることはできません。このことを理想として掲げているのが日本の憲法です。
 今回の選挙では、私たち国民が憲法をどう守り、どういう国をつくっていくのかを、国民一人ひとりが真剣に考えて、選択する機会です。ところが、小泉首相は郵政を民営化すれば、日本はバラ色になるようなことだけをいっています。強力なキャラクターを全面にして、攻撃的な手法で、これを進めています。民主主義とは正反対のやり方で、ファシズムのような恐ろしさを感じます。
 小泉首相は、郵政民営化のためには、非情になるといってますが、だから、国民に対しても非情になれるのですね。
 そもそも、民営化すれば何でもいいというふうには実感として、とても思えません。身近な例では、荒川区の学校給食の民間委託化があります。三年ごとの一般競争入札で業者が変わってしまい、給食を通じての食育をする余裕などなくなっているのが実態です。
 「官から民へ」といっている自民党やその他の政党は、逆に政党助成金に頼っていて、国営の政党みたいで、なんだか変です。私が荒川区長選に立候補したときには、資金も人手も、それこそ住民、民の力でたたかいました。だからこそ、住民の立場で頑張ることができたんだと思っています。それはまた、お互いの思想信条を認めあう寛容さと連帯を実践する場でした。
 いっしょに選挙運動した若い人から、共産党の人たちと出会って、それまでのイメージと違って人間味があって日本のことを真剣に考えている人たちなんだなという感想も聞きました。日本共産党は、政党助成金を唯一受け取らず、住民の立場で頑張っていると思います。郵政民営化法案反対で、国会共闘を呼びかけたのもいいですね。ぜひ、こういうポジティブな提案や役割を発揮してほしい。
 いちむら・ゆきこ 一九五一年、東京都生まれ。国立ウィーン大学博士課程卒。区立第九中学校PTA副会長、荒川区学童保育クラブ連絡協議会副会長などを歴任。二〇〇四年荒川区長選に無所属で立候補。現在、「荒川の英語教育を考える会」「区民の声を区政にとどける会」世話人
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2005年09月09日,「赤旗」) (Page/Top

ポルトガル/共産党がアバンテ祭開く/反戦の歴史に立脚

 【リスボン=西尾正哉】ポルトガル共産党の第二十九回アバンテ祭が二―四日の三日間、首都リスボンの近郊で開かれ、のべ二十万人以上が参加しました。晴れ渡り強い日差しの降り注ぐ会場には、家族連れや多数の若者が参加。十月には全国で地方選挙があることから、会場には地方選挙に向けた特別の展示やスローガンが掲げられ、各地方の党組織が地方の特産物店やレストランを構えました。
 デソーザ書記長の政治演説は、四日午後。会場中央の広場は一万人以上の聴衆で埋まり、赤旗を抱えた支持者や上半身裸の若者が共感の拍手を送って聞き入りました。
 デソーザ書記長は、今年が第二次世界大戦終結六十周年であることに触れ、当時のポルトガル政府がドイツ、イタリアのファシズムと協力したことを批判。レジスタンスでたたかった同党の歴史を強調し、「党の立場はファシズムの戦争に反対して断固たたかうことだ」と表明しました。
 書記長は、「米国は地球的な覇権を広げる野望をもっている」と指摘。ポルトガル政府が米国と協力し、アフガニスタン、イラクに派兵していることを批判、撤退を呼びかけました。
 ポルトガル共産党は二月の総選挙で緑の党と連合した統一民主同盟(CDU)で得票、議席数とも前進し、二十二年ぶりとなる十四議席(定数二百三十議席)を獲得しました。この選挙で返り咲いた社会党政権について、前政権の新自由主義・右翼的政策を一切変えることなく経済社会問題を悪化させていると批判しています。
 十月の地方選挙では、CDUとして五万二千人の候補者を擁立する方針です。この中には、一万五千人の無所属候補もいます。アバンテは同党の機関紙です。アバンテ祭には四十七の海外来賓も参加。西尾正哉「しんぶん赤旗」ロンドン特派員が日本共産党代表として参加しました。
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2005年09月06日,「赤旗」) (Page/Top

胡主席/平和、協力の道強調/北京の戦勝60年式典で演説

 【北京=菊池敏也】中国の抗日戦争と世界の反ファッショ戦争勝利六十周年の記念式典が三日、北京の人民大会堂で開催されました。中国共産党、中国政府、中国人民解放軍、民主党派などの指導者とともに、約六千人の市民が出席。日本を含む海外二十二カ国から千五百人を超える抗日戦争関係者も参加しました。壇上には、江沢民前国家主席ら元指導者も並びました。
 胡錦濤国家主席が演説し、中国人民は「世界の反ファシズム勢力の勝利のために不滅の歴史的貢献を行った」と指摘。世界各国からの抗日戦争への参加をあげ、その勝利は「平和と正義を愛好する世界のあらゆる国々と人民の共感や支持と切り離せない」と述べました。
 また、ニュルンベルク裁判と東京裁判の判決は「国際正義を発揮し、人類の尊厳を守った」と述べ、「これらの判決の正義は揺るがすことができず、それに挑戦することは許されない」と強調しました。
 胡氏は、抗日戦争の今日的意義に触れ、「われわれは平和、発展、協力の旗を高く掲げ、確固として平和発展の道を歩まなければならない」と強調し、「独立自主の平和外交政策」の堅持を表明しました。
 記念式典に先立ち、天安門広場の人民英雄記念碑の前で、党・政府指導者をはじめ、約一万人が参加して献花式が行われました。
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2005年09月04日,「赤旗」) (Page/Top

独立60周年記念式典開催/ベトナム

 【ハノイ=鈴木勝比古】ハノイのバディン広場で二日午前、ベトナム独立六十周年を祝う記念式典とパレードが行われ、二万三千人が参加しました。ベトナム人民は、同国を占領支配していた日本軍が一九四五年八月十五日に降伏した機会をとらえ全国で蜂起して九月二日に独立を達成し、ベトナム民主共和国を樹立しました。
 チャン・ドク・ルオン国家主席が記念演説し、「八月革命の勝利と新ベトナムの誕生は一世紀近くにわたる残酷な植民地主義、ファシズムのくびきを打ち破って、独立と自由の時代を切り開いた歴史的な意義を持っている」と述べ、「抑圧された諸民族の解放闘争を鼓舞し、全世界の植民地主義体制の崩壊への道を切り開いた」と強調しました。
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2005年09月03日,「赤旗」) (Page/Top

スポーツで平和の尊さ伝える/反核平和マラソン参加の仏労働者スポーツ・体操連盟ムーユッソウ会長に聞く

 フランス労働者スポーツ・体操連盟(FSGT)の代表7人が、今夏の反核平和マラソン・広島―長崎コース(8月6―8日)を走りました。新日本スポーツ連盟の招待で実現したものです。責任者のジャン・ポール・ムーユッソウFSGT会長(59)に同マラソンに参加した感想や同連盟の活動について話を聞きました。
(青山俊明)
 走りながら、広島や長崎で起こったことをすごく考えさせられました。60年前、幸せに生活していた人が突然原爆の被害を受けた…。疲れているときもありましたが、そういうことに思いをめぐらせることが走る力になりました。
 広島・長崎の被爆から60年もたったのに、いまだに世界中に核兵器が存在しています。それに立ち向かうために人々が団結すること、そして、戦争そのものを拒否することが大事です。

互いに共有する
 スポーツは健康、教育、人間性の発展に貢献するものです。相手と自分が対立しあうものではなく、お互いに共有するもの。戦争とはまったく正反対のものなのです。
 FSGTは約70年前に生まれ、設立当初から平和貢献の活動に取り組みました。当時のフランスでは1936年ベルリン・オリンピックに参加するかどうか国内で意見が分かれました。FSGTはファシズムに反対する立場から、選手にベルリンではなく人民戦線政府が樹立されたスペイン・バルセロナにいこうと呼びかけ、人民オリンピック成功のために努力しました。

戦争に反対する
 91年の湾岸戦争のときも反対しました。戦争とは違った解決の手段があると主張し、戦争が終わってからはイラクのスポーツ関係者をフランスに招く交流を続けています。最近も体操指導者を育成する研修にイラクのコーチが参加しました。もちろん、2003年に米英が始めたイラク戦争でもFSGTはデモ行進に参加するなど戦争に反対しています。
 そのほかにも、南アフリカとは人種隔離政策がまだ知られていなかったころから、その問題を告発するために同国の選手らとスポーツ交流を進め、それは今も続いています。FSGTの歴史の中では不平等、不正義とのたたかいが共通しています。
 残念ながら、フランスでもイラク戦争などに、はっきりと「ノン」というスポーツ選手は多くありません。個人的に反対の意思を表明する人はいても、それを運動として取り組んでいるのはFSGTだけです。しかし、平和への貢献を掲げるスポーツ団体が、自分たちだけでなく、日本でも活動していることを知って勇気づけられました。
 反核平和マラソンは、走ることによって平和に貢献でき、同時に次の世代に平和の尊さを伝えていくことにもなります。平和な世界をつくるために、この経験を生かしていきたいと思います。

フランス労働者スポーツ・体操連盟(FSGT)
 1934年12月に創立。フランス国民のスポーツの普及に力を入れている自主的なスポーツ団体。会員数は約20万人。
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2005年08月29日,「赤旗」) (Page/Top

ベトナム/200万餓死者を追悼/60年前の日本軍占領下で発生

 【ハノイ=鈴木勝比古】ベトナム・ホーチミン市のビンギエム寺(永厳寺)で二十六日、六十年前に日本軍占領下で発生した飢餓による大量の死者を追悼する式典が行われました。
 ホーチミン市仏教会が主催しました。同仏教会によると、ベトナムの仏教寺院で当時の餓死者の追悼式をこのように盛大に行ったのは初めてのことです。
 ベトナム北部・中部では一九四五年の冬から春にかけて大飢餓が発生し、ベトナム政府の推定によると約二百万人が餓死しました。日本軍によるコメの強制買い付け、食用作物の軍需作物への転換強制、連合軍の爆撃の激化と前年秋作の凶作が重なって起こりました。
 追悼式の委員長をつとめたホーチミン市仏教会のチー・クアン師は、「二百万人の餓死は日本ファシズムが引き起こしたものです。当時、南部にはコメがありましたが、北部に輸送できませんでした。北部で起こったこの大惨事を南部の住民も共有するべきです」と語りました。そして、「すべての人が歴史で何が起こったかを理解し、平和と独立の尊さを理解すべきです。二度とこのようなことを起こさないために、六十年前のできごとを私たちは忘れるべきではありません」と語りました。
 ベトナム仏教会のドゥック・ギエップ師が開会のあいさつをおこない、一九四五年の八月革命、九月二日の独立宣言とともに、「この年に二百万人の同胞が餓死したことも記憶にとどめるべきです」と語りました。
 当時、ベトナム北部で飢餓の惨状を写真に撮った写真家のボー・アン・ニン氏は「六十年前の光景を今までずっと忘れることができませんでした。この式典に参加して胸のつかえが少しとれました」と語りました。北部のハイズオン省出身で現在、ホーチミン市在住の女性(73)は「私は当時、十三歳でした。今でも多くの人が倒れて死んでいた光景を覚えています」と語りました。
 式典には約四百人の僧侶が参列、一般参加者を加えれば参加者は七百人を超えました。同市人民委員会や共産党の代表も参列しました。ホーチミン市の他の寺院でも追悼式が行われ、全体で約千人の僧侶が追悼行事を行いました。
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2005年08月27日,「赤旗」) (Page/Top

抗日勝利60周年/各地で記念行事/中国

 【北京=菊池敏也】第二次世界大戦終結六十周年の十五日、中国各地では抗日戦争と反ファシズム戦争の勝利六十周年で、記念行事などが行われました。
 北京では、盧溝橋の中国人民抗日戦争記念館や、天安門広場にある国家博物館で大型展覧会が開催中で、連日、多数の市民が訪れています。
 十四日には、胡錦濤国家主席が抗日戦争記念館での展覧会を見学。抗日戦争勝利六十周年にあたり開かれた特別展について、「たいへん意義のあること」とのべました。
 中国のテレビや新聞も、抗日戦争勝利六十周年の特集を組みました。十五日付の人民日報は、抗日戦争のなかで中国共産党が激流に抗して全民族の団結の要となり、勝利に導いたことを示した長文の論評を掲げました。
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2005年08月16日,「赤旗」) (Page/Top

イタリアという国/大久保昭男

 金貨であれ銅貨であれ、一面だけ描いたのではその実像は理解されない。イタリアについて記すときにも、その一面だけを、しかも表の面だけを語ったのでは公正なイタリア像は描けない。
 イタリアはどういう国なのか、どういう地域であったのか。イタリアはまず古代ローマの中心に位置した地であり、下ってはヨーロッパの地で最初にルネサンスの華開いたところであり、ダンテ、ペトラルカ、ダヴィンチ、ミケランジェロ、ガリレオ等、近代に通じる芸術、文学、科学の祖を生んだ土地であった。フィレンツェは十二世紀から十六世紀の初めまで、沸き返るような躍動の中にあって、世界の幸福を代表する土地であった。北のヨーロッパの地のアンデルセンやゲーテがイタリアに憧(あこが)れてこの地を訪ね、そこで出合った風光や人間に感動して記したのが、『即興詩人』であり、『イタリア紀行』であったことはいうまでもない。ゲーテは、「私がこのローマに足を踏み入れた時から、第二の誕生が、真の再生が始まるのだ」(『イタリア紀行』)とまで述べている。今次の戦後においては、当時の多くの若者にとって、独特の、強力で魅力的な左翼勢力の存在する国であり、俄(にわか)にと見えた文学や映画が興隆し、活発な政治的・社会的発言をする作家、社会の現実をリアルな眼(め)でとらえる映画人たちの出現した国であった。
 だが、それがイタリアのすべてではない。イタリアはアルプス以北の諸国に比して近代化に立ち遅れ、ネーション国家としての成立に遅れをとり、ために各国の侵略と支配に喘(あえ)ぐという過去をもち、おそらくはそれらの事も遠因となってあのファシズムを生んだ国であった。
 イタリアが一応の統一を果たしたのが一八六一年であり、ローマを首都としてともかくも近代国家としての体裁を整えたのが一八七一年であるとすれば、たとえば一七八九年に大革命を成し遂げ、市民社会の緒を開いた隣国フランスに較(くら)べれば大へんな立ち遅れようである。鎖国にこだわり開国の遅れた日本の明治維新でさえもが一八六八年である。
 ここで触れなければならないのは、「イタリアとは地理的概念に過ぎない」と公言して憚(はばか)らなかったメッテルニヒのことはこの際措くとしても、イタリア遅滞の原因の過半をなしたのが、カトリックの総本山ヴァチカンが幸か不幸かローマに位置したということである。ヴァチカンはイタリアの近代統一国家としての成立を一貫して阻害し、抑止しようとした。アルプス以北の地でルターやカルヴァンの宗教改革運動が起きた時にも、イタリアではヴァチカンを主軸とする反宗教改革勢力がこれを圧殺した。結果として、健全な市民社会、統一国家は生まれなかった。
 小説という、市民社会の所産である文学形式が十八、九世紀のイギリスやフランスで隆盛を見た時に、これがイタリアでは細々としか生まれなかったのも、この国での市民社会の不在もしくは未成熟ということが深く関わっている。
 このような負の遺産は国民語としての言語形成にも影響を及ぼした。ほんの一例だが、呼びかけの二人称に、女性三人称の代名詞レイ(lei,彼女)を用いるのが一般である。日本語のあなた(彼方)に近いもので、本来、あなた(彼方)の高い位置にある人への尊称なのである。市民革命を経なかったイタリアでは、市民的な、youに当たる呼称が生まれなかったのだと言わなければならない。以上はイタリアというコインの裏面である。
 (おおくぼ あきお・イタリア文学)
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2005年08月09日,「赤旗」) (Page/Top

ベネズエラの世界青学祭典へ/日本代表団が出発

 南米のベネズエラで第十六回世界青年学生祭典が八日(現地時間)から始まります。祭典に参加する日本代表団(団長・姫井二郎日本民主青年同盟委員長、団員二十三人)が六日、日本を出発しました。
 祭典は、十五日まで。第二次世界大戦での反ファシズム勝利六十年、広島・長崎原爆投下六十年にあたり開かれます。
 日本代表団は、「広島、長崎から六十年、核兵器のない世界のために」の企画に参加。雇用を守り学費値上げに反対するたたかいなど日本の青年の現状を紹介し、各国の青年と交流します。
 結団式で姫井団長は、ベネズエラの変革に直接触れ、交流することは日本社会を変える活動の力になると述べ、「広島、長崎の体験を僕らが世界に発信し、ベネズエラから持ち帰った社会変革の息吹を日本の青年に語ろう」とあいさつしました。
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2005年08月07日,「赤旗」) (Page/Top

時の音/作家米谷ふみ子/米空軍士官学校の下院聴聞会/政教分離の無視とファシズム的行動の芽生え

 六月二十七日にカットなしのC・spanテレビ放映で下院議員の三時間の聴聞会が開かれているのを観た。コロラドの空軍士官学校は二年前にレイプや性虐待のスキャンダルを汚名とした(十二月にペンタゴンが下した判断はこの学校の最高位の人々がそういうことに甘い風潮を創っていたということだった)ばかりのところ、今度はあろうことか校内で一宗教の押し付けをしていて、政教分離を守る会が訴訟に持っていくと言っている。
 発端はこの学校で他宗教に対する寛大さを教えていたモートン空軍大尉(キリスト教のルーテル派)が、上官が不当にキリスト教を生徒に奨励していると文句をいうと、違う部署に異動させると言われ彼女は辞職したということからなのだ。もちろんこの学校の総元締めはペンタゴンで、国税で経営されているから政教分離していなければならない。それで下院議員の聴聞に持ち込まれたのだ。
 ブッシュ大統領がそうなので彼が大統領になってからエバンジェリカル(伝道派)のキリスト教が権力を持つようになった。この学校でも90%がキリスト教信者であり、そうなると若い人々の間では、特権階級となり他宗教の者は二流市民となる。その上、エール大神学部の人々が昨年訪れた時、キリスト教の学生たちは異教徒を改宗させるのを勧められていたし、同じ宗教でもあまり信じていない者には信仰を新たにボーンアゲイン(生まれ変わり)しないと煉獄に行くぞと脅かしていたという。
 アメリカの社会は多くの異民族の集まりであり、従って無神論者も含む異宗教の集まりでもある。だからブッシュ政権以前は他宗教の人々を平等に扱うことを公の集まりや公立学校でも強調してきたのが、今は無視され、キリスト教会に国民の税金が福祉としてそそがれたり、憲法で唱えられている政教分離が無視されている。
 未だに宗教裁判があるかのように聴聞に出ている下院議員達は腫れ物に触るような質問の仕方で、やれ士官学校の中にチャペル(礼拝堂)があるかとか他宗教でもユダヤ教(ユダヤ系の学生も文句を言っていたので)のお寺が有るかとかと訊ねていたが、ついぞイスラム教の、仏教の、ヒンズー教のお寺があるのかとは訊かなかった。ましてや無神論者の存在も。下院議員たちの頭の中にはそんな宗教は存在していない。議員たちは一人一人が質問する前に自分の宗教は何で、こういう風に育てられたと話した。ほとんどがカトリックを含むキリスト教で無宗教という人はいなかったのにも驚いた。アメリカでは宗教がないと政治家になれないようだ。まあどこの国でも宗教団体が後ろに付いていると票集めに都合がよいのは周知のことだが…。
 質問されている学校の上部の士官(彼自身ボーンアゲイン)は彼の上の者が他宗教に対して明瞭な取り扱い法を指導していないので曖昧になっていたことを認めた。
 この学校で教えている教官の中にもエバンジェリカルやボーンアゲインが多いし、この宗派は伝道に力をいれる宗派なので当然生徒には何の良心の呵責も無く他宗教者を改宗させることに努力するだろう。この多くの学生は地方のどちらを向いても同じ宗派の人が住んでいる村からきているので上官が教えない限り他宗教の存在も知らないと思う。その上官も知らない人が多い。日本の戦中のように仏教と神道以外の宗教の存在を無視したのと似ている。軍国主義の政権下では権力者は彼らの宗教で国民を統率し先導しようとする。彼らが主張する宗教(日本の場合は神道でドイツの場合はキリスト教)を信じよと命令されて信じられるものではない。要領のよいものは信じている振りをする。神なんていないと宣言しようものなら投獄されるからだ。
 この学校の究極の訓練の目的は人殺しであるのを自覚しているのかどうか知らないが、聴聞会で政治家もお祈りの終わりにキリストの名を言わないなんて落ち着かないとか延々と教会での形式の話をしていても肝心の宗教の教えの内容には一切触れていない。90%がキリスト教であるというのに、誰も「汝殺すなかれ」という言葉が聖書にあるのを指摘しなかった。一神教のユダヤ・キリスト教、イスラム教の信者が従うべき「モーゼの十戒」の中のこの戒めだけは昔の社会を治める人間の英知として、日本の平和憲法のように誰にでも広めるべきだと思うのだが…。
 全く上辺だけの形式と非論理的な教えを押し付けまわり、私のような無神論者にはいたたまれない状況を作っている無神経な今のアメリカ社会を象徴している。世論調査では80%の人口が神の存在を信じているという。ブッシュ政権が主張する神の思し召しで平和のため民主主義のために戦争をし、人を殺すという論理を信じている。
 幸いにしてこの聴聞会に出席していたエール大学神学部の教授達が士官学校に見学に行って何十年とこんな現象をみたことがないと警告し、また政教分離を守る会の会員が訴えると脅しているので、空軍の上官は宗教を教室に持ち込まないこと、そして生徒に五十分間の他宗教に対する理解を教える教官を雇うといっているので、空軍士官学校でのファシズム的行動の芽生えが阻止されるのではないかと願う。
 (ロサンゼルス郊外在住)
 ( 2005年07月20日,「赤旗」) (Page/Top

過去と向き合う/ドイツの場合

1/歴史博物館/若者に問う被害と加害

 戦後六十年の今年、ベルリンのドイツ歴史博物館で「一九四五年―戦争とその結果」と題する展覧会が開かれています。期間は四月末から八月末の四カ月。中高生のグループが大勢訪れています。
 まず目につく展示はポーランド侵攻やユダヤ人虐殺などナチスの戦争犯罪の写真。それに、連合軍によるドレスデン空襲、戦後の貧しい生活などドイツの惨状の展示と説明が続きます。

■討論を喚起
 ナチス・ドイツの敗北がほぼ決定的になった一九四五年二月十三―十四日、ドイツ東部の古都ドレスデンを米英など連合軍が無差別に空爆し、三万五千人が犠牲になりました。大半は一般市民です。
 ドレスデン空襲は、ナチスの戦争犯罪を正当化する極右勢力によってしばしば利用されています。連合軍もひどいことをした、ドイツの加害ばかり批判するのはまちがっている―というように。これをあえて展示することで戦争を知らない若い世代に討論を喚起する試みです。
 展示責任者のブルクハルト・アスムス氏はいいます。
 「ドレスデン空襲は戦略的には必要のない作戦でした。多くの市民が殺されました。しかし、だからといってナチスの犯罪を帳消しにできるかということです」
 展示は、戦後ドイツ国民がどう戦争を受けとめたか、三つの段階に区切ります。まず、敗戦直後は自国の犠牲者と苦しみ。米英とソ連の協定で、ポーランドに割譲された旧ドイツ領やチェコなどから追放されたドイツ人のことが主要テーマです。
 六〇年代はアイヒマン裁判。ナチス親衛隊中佐でユダヤ人絶滅を直接指揮した人物です。六〇年五月、潜伏先のアルゼンチンでイスラエル秘密警察に逮捕され、エルサレムに護送されて戦犯裁判の結果、死刑になりました。ユダヤ人六百万人を殺しながら「わたしは命令に従ったにすぎない」という彼の主張は、「命令に従って」この時代を生きたドイツ人全体に突き刺さるものでした。
 第三の画期は八五年、戦後四十年のワイツゼッカー大統領による「過去を心に刻もう」という演説です。
 「ドイツでなぜ犠牲者が出たのかということから、ドイツが始めた戦争に原因があるということに討論がいきつきます。極右などの逆流もあります。歴史の論争では、新たな世代が自分の歴史観を持つため常に考える必要があるのです。過去の克服の広い社会的基礎が出てきました」とアスムス氏。

■感謝の記録
 「政治の授業で発表をしなければなりませんでしたが、たいへん助かりました」(七年生=日本でいう中学校一年生=リザ)
 「今日と未来のために過去から学べる機会を提供してくださったことに感謝します」
 歴史博物館のホームページには感謝の書き込みが相次いでいます。
    ◇
 ドイツではナチスによるユダヤ人虐殺や侵略戦争が厳しく裁かれ、国として反省の意思を示しています。国民が過去に対する歴史認識を共有するまでには長い時間をかけた論議が必要で、「正当化」の逆流ともたたかわなければなりませんでした。ドイツ人が戦後どのように過去と向きあったか、検証してみました。

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2/抵抗運動/裏切り者から良心の証へ

 ミュンヘンのルードウィヒ・マキシミリアン大学の構内にナチス・ドイツに対する抵抗グループ「白バラ」の記念館があります。同大学の学生六人が処刑されました。いまはドイツ人の良心のあかしとして知られていますが、敗戦直後には「祖国の裏切り者」と非難すらされました。市民の運動がこの評価を改めさせました。

■独裁に抗し
 白バラは一九四二年、ハンス・ショル、ゾフィー・ショルの兄妹らが同大学でつくったグループです。ゲーテやシラーを引用しながらナチスの独裁に対する抵抗を呼びかけ、命がけで六種類のビラを郵送し大学構内で配布しました。
 グループはハンブルク、ウルム、フライブルクにも広がりましたが、ナチスはこの小さな抵抗運動を次々に弾圧し、ショル兄妹をはじめ六人が処刑されました。
 戦後、白バラの生き残りの人たちを待っていたのは冷たい仕打ちでした。実刑を受けた学生は元の大学に復学することも許されませんでした。多くの元活動家が黙らざるを得なかったといいます。
 その一人、マリールイーゼ・シュルツヤーンさん(87)は「ナチ時代の政治裁判、民族裁判所の判決が有効とされたため、復学できませんでした。戦後よく裏切り者といわれ、自分の体験を語れるようになるまで三十年以上かかりました」と語ります。

■白バラに光
 この雰囲気は次第に変わっていきます。一九六三年、西独ヘッセン州の検察当局はアウシュビッツ強制収容所長の副官を務めたロベルト・ムルカら同収容所の運営に携わったナチ親衛隊員二十四人を起訴しました。戦犯をねばり強く追っていた在野の「ナチス追及センター」の努力が実りました。
 二十二人が有罪となったこの裁判では強制収容所の生存者ら三百人以上が証言台に立ち、ホロコースト(大量虐殺)の残虐さが白日の下にさらされました。
 レジスタンスの闘士だったブラント氏が六九年に首相になったことは抵抗闘争への評価にとって決定的でした。
 八五年、当時のレーガン米大統領が西独を訪れ、戦後の和解のあかしとしてビットブルクにあるドイツ将兵の墓地にコール独首相とともに参拝した際、大きな問題が持ちあがりました。そこにナチ親衛隊員の墓があったのです。
 白バラ記念館のマチアス・ロウシュ館長はいいます。
 「この事件はドイツ国内や米国のユダヤ人団体から大きな怒りを買い、政治的に大問題となりました。では逆にナチスとたたかった抵抗者の墓や記念碑はどうかと注目を集めました。しかし白バラのまともな記念碑や展示はなかったのです」
 白バラの生存者や家族、政治家が集まり、八七年に基金を創設。八九年に記念館をオープンします。以来、隣国ポーランドとの共同展示会、生徒や教師の交流会などさまざまな催しに取り組みます。
 八二年に映画「白バラは死なず」(ミハエル・フェルヘーベン監督)が公開され、抵抗運動活動家に対する有罪判決がいまだに有効であると訴えたことも反響を呼びました。連邦議会議員と結んだ粘り強い市民運動で九五年に判決は無効とされました。

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3/反ナチ/兄妹の志、語り継いで

 ナチス支配下のドイツで勇気ある抵抗闘争に立ち上がった学生グループ「白バラ」。支持者として投獄されながら生き延びたマリールイーゼ・シュルツヤーンさん(87)にミュンヘンで聞きました。

「白バラ」支持者シュルツヤーンさんに聞く
 戦後もよく国家の裏切り者といわれました。元の大学には実刑を受けているからと復学を拒まれ、テュービンゲン大学で医学を学びました。体験を語り始めたのはネオナチや極右、反ユダヤ主義がまた出てきたからです。抵抗運動の生き残りは数少ない。若い人たちに当時、何があったのかを語るのは義務だという思いで始めました。

衝撃のビラ
 一九四三年二月のことでした。私は恋人のハンス・ライペルトとミュンヘンのルードウィヒ・マキシミリアン大学で化学を学ぶ学生でした。ハンス・ショルとゾフィー・ショルの兄妹がナチスに対する抵抗を呼びかけるビラを配って逮捕されたと聞きました。ハンス・ショルは同じ大学の医学生でした。
 二人は逮捕されて五日目の午前に死刑判決を受け、その日の午後には処刑されてしまいました。
 私たちは白バラが何なのか最初は知りませんでした。しかし、その後、ビラをライペルトが受け取り、白バラの活動を知りました。特に、スターリングラードでドイツ軍が敗北しナチスの終わりは近いというビラは衝撃的でした。
 兄妹とクリストフ・プロブストの三人が処刑された後、ライペルトがいいました。
 「もうナチス反対と訴える人が誰もいなくなってしまった。僕たちが後を継がなければならない」
 彼には半分ユダヤ人の血が流れ、私たちはナチスのひどさを痛切に感じていました。しかし、誰に密告されるかわからない。少ない友人と行動するしかありませんでした。
 ライペルトと私は誰にも知られないように、以前に受け取ったビラをタイプし、化学実験室で学友に配りました。ライペルトはハンブルクの大学でもビラを広めることに成功しました。
 ショル兄妹に影響を与えたとして、医学部のクルト・フーバー教授も逮捕されました。大学を解雇され、子どもが二人いるのに収入がなくなりました。私たちは教会で募金活動をし、そのお金を奥さんに手渡しました。しかし、この活動が密告されたのです。

死刑を求刑
 私とライペルトはゲシュタポ(ナチ秘密警察)に逮捕されました。四四年十月に始まった裁判で死刑が求刑されました。早く戦争が終わってくれないかと思いました。
 ライペルトは自分は助からないからと、すべてをかぶったようです。私は「半ユダヤ人に誘惑されたばかな娘」ということになって十二年の実刑判決を受けました。ライペルトには死刑判決が言い渡され、四五年一月二十九日、戦争が終わるわずか三カ月前に処刑されました。二十三歳でした。
 私は刑務所に入れられました。そのうち貨車で政治囚の移動が始まりました。どこへ移されるかわからない恐怖がありました。しかし、私の場合、ある日曜日の朝、米軍兵士が刑務所のドアを開けて自由になりました。
 六八年の学生運動の高揚のときから次第に抵抗活動家も認められ、八〇年代には国からわずかですが補償金をもらいました。白バラの活動は幅広く、いまだに全容がわかっていません。生存者と遺族は白バラ研究所をつくって隠された活動の研究も始めています。

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4/教科書/国をあげた討論の末に

 一九七〇年代に西ドイツがポーランドと歴史教科書について共同研究したことはよく知られています。しかし、その成果を国民が受け入れるまでの道は決して平たんではありませんでした。歴史の見方について違いを乗り越えるには国をあげた討論が必要でした。
 一九七六年、ドイツ・ポーランド歴史教育委員会がナチスの犯罪とドイツの戦争責任を明確にした「歴史と地理の教科書に関する勧告」を発表すると、教育行政を管轄する各州当局からさまざまな意見が出ました。反対もありました。
 最も大きな問題になったのは第二次世界大戦後のドイツ人追放でした。追放されたドイツ人の組織「追放者連盟」はその不当さを非難し、ポーランドはこれをドイツ人による戦後の復しゅうと反論しました。

■追放と移住
 勧告は「追放」でなく「移住」「避難」という言葉を使いました。「ポーランド側は『追放』という言葉を認めませんでした」―共同歴史研究を推進したゲオルク・エッカート国際教科書研究所(ニーダーザクセン州ブラウンシュワイク)のロベルト・マイヤー研究員はいいます。
 追放者連盟が強いバイエルン州やバーデン・ビュルテンベルク州では州議会や行政当局が勧告に反対しました。
 新聞紙上やテレビ番組で意見がたたかわせられました。「ナチスの犯罪同様、追放も犯罪だ」とポーランドを批判する主張もありました。歴史学者の賛否も分かれました。
 「共同研究が徹底した国民的討論の触媒となり、その結果ドイツ国民の間で『ドイツには戦争犯罪を始めた責任がある』という理解が進みました」とマイヤー氏は振り返ります。
 教員労組にあたるドイツ教育科学労組(GEW)はバイエルン州で平和・民主教育の実践とネオナチ・極右とのたたかいを進めてきました。『ドイツ民主教育』という雑誌を発行し、多くの教材や実践リポートを提供しています。
 GEWバイエルン州高校担当のハンナ・ポハルノクさんは「確かに『追放者連盟』の政治力は強いのですが学校の授業にまでは口出しできません。教科書以外のどんな教材を使うかは教師の判断です」と断言します。

■戦後すぐは
 しかし、戦後ただちにというわけではありませんでした。ミュンヘン近郊の高校で歴史を教えるアクセル・モイゼスさん(59)は「敗戦直後には軍や行政、司法機関の中に多くの元ナチス党員がいました。歴史の授業が年表に沿って行われたため現代史が後回しになり、ナチスの犯罪は教えられなかった」といいます。
 六〇年代から学生運動や平和、環境運動などさまざまな市民運動が発展し、ナチスの戦争犯罪追及の授業も自由にできるようになったのです。
 残っていたのが国防軍の戦争犯罪問題でした。独裁政権の政党だったナチスの断罪は戦後ただちに始まりましたが、軍の犯罪に究明の手が及んだのはかなり後のことでした。戦後、米国の同盟国となった西ドイツで軍が再建された際、アデナウアー首相が議会演説で旧軍の名誉を回復したことも影響しました。
 モイゼスさんに今も鮮明に残る記憶があります。
 八三年、ナチスの政権獲得五十年にあたって、当時のドイツ国防軍の実態はどうだったのか、生徒の親や祖父母に体験を話してもらう授業をしようとしたら、横やりが入り中止になりました。第二次大戦以来の軍人だった同僚教師の父親が圧力をかけたのです。
 国民的討論を経て国防軍の責任も問うようになったのは九五年ごろでした。
 ドイツ人追放
 米英とソ連は第二次世界大戦後のドイツ領土について、オーデル・ナイセ川を東部国境とし、それより東にあった領土をポーランドとソ連で分け合うことを決めました。そこに住んでいたドイツ人は川の西側に追放。ほかの東欧諸国に昔から住んでいたドイツ系少数民族も追放されました。その数は約一千万人といわれ、多くの人が移動の途中で行き倒れになりました。

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5/隣国への謝罪/ひざまずいた首相

 一九六八年十一月七日、当時の与党、キリスト教民主同盟の大会でキージンガー首相が、「ナチ」と叫びながら駆け寄った女性に平手打ちされる珍事が起きました。
 「隠れた犯罪を明るみに出したとされるこの行為は、若者みんなに勇気を与えました。ボンの学生組織では『平手打ち』のポスターを張っていました」―当時学生だったマーブルク大学のハンス・カール・ルップ教授はこう振り返ります。著作に邦訳もあるドイツ現代史学者です。
 首相を平手打ちし、その場で逮捕された女性は当時二十九歳のベアーテ・クラースフェルト。ホロコーストを研究していたジャーナリストでした。作家のギュンター・グラスが花を贈って支持を表明するなど、事件は国民が歴史認識を問い直す機会になりました。
 戦後のドイツ政界でナチ指導者が復活することはありませんでしたが、キージンガー首相にはナチス党員の前歴がありました。
 三三年に入党し、外務省に勤務。ナチスの思想を広めた宣伝省との連絡係を務めました。戦後、連合軍に拘束されました。指導的地位になく、ユダヤ人虐殺に加担しなかったとして復権しました。しかし、その経歴は常に問題になりました。

■苦しい過程
 第二次世界大戦後、ニュルンベルク国際法廷は「平和に対する罪」と「人道に対する罪」でナチスの最高指導部にいた者のうち十九人を有罪(死刑十二人)としました。西独で四九年に制定された基本法(憲法)は、世界平和と統一欧州への貢献、侵略戦争禁止を基本理念としました。
 敗戦直後の国民が直面したのは膨大な戦争被害でした。ドイツ人の犠牲者は死者、行方不明者あわせて三百万人以上。捕虜となったのは二百万人。主要都市では半分から七割の家屋が連合軍の攻撃で破壊されました。
 こうしたなかで自国の戦争犯罪に思いをめぐらせた人は少数でした。戦争中ナチス党員は全人口の7%も占めていました。しかも「急速に進む冷戦の中で非ナチ化は徹底されなかった」(ルップ教授)といいます。
 過去について国民全体が反省を深めるには「ゆっくりとした苦しい過程、概して世代間の対立が必要だった」―シュレーダー首相は今年五月、南ドイツ新聞に寄せた論文で述べました。
 六〇年代から活発化した学生運動は、米国のベトナム侵略戦争への政府の協力を糾弾するとともに、「祖父や父はナチの時代に何をしたのか。なぜナチスに抵抗しなかったのか」と問い、「ドイツの過去への責任を認める」広範な市民運動を発展させていきました。そして過去にほおかむりして社会の中枢部に居座る者の存在に批判を向けました。シュレーダー首相もこの運動の活動家でした。

■条約に調印
 六九年九月の総選挙では社会民主党が第一党となり、反ナチの闘士だったウィリー・ブラントが首相になります。ナチスが政権に就いた三三年から四五年までノルウェーなどに亡命。欧州各地でたたかいを組織した人物です。
 七〇年十二月、ポーランドのワルシャワを西独首相として初訪問したブラントはゲットー(強制居住区)のユダヤ人犠牲者の碑の前にひざまずいて謝罪しました。反ナチの闘士がナチスの犯罪を謝罪したのです。
 この訪問で西独はポーランドと、相互不可侵、国境の現状維持を内容とする条約に調印しました。大戦後ポーランドに編入された旧ドイツ領をポーランド領と正式に認めたことで、西独とソ連、東欧諸国との緊張緩和が大きく進みました。かつて侵略された国々がブラント首相の真剣な反省を受け入れたからです。

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6/強制労働/訴訟の嵐が世論起こす

 ドイツでは戦後、ナチスによる迫害の犠牲者に対する補償がさまざまな形で進められてきました。長期間の運動を経て二〇〇一年六月、「記憶・責任・未来」基金によってようやく始まったのが、ナチ占領下のソ連・東欧諸国から連れてこられた強制労働者への補償です。
 過酷な労働と不衛生・栄養不足で命を落とす人、健康を損なった人は約千二百万人にものぼりました。
 ナチスによる迫害を「不法」とし被害者に対する個人補償を定めたのが一九五六年に西独で制定された連邦補償法です。連邦財務省によると、支給額は対象者がいなくなる二十一世紀初めまでに十兆円以上と予想されています。

■敗訴が続く
 しかし、対象を「人種、信仰、世界観を理由に迫害された人たち」としたことで、除外される被害者が出てきました。兵役拒否で強制収容所送りになった人、身体障害を理由に不妊手術を強制された人などです。西独政府は強制労働を「戦争と占領にともなう一般的現象」とし、戦争犯罪とは認めませんでした。
 しかも、五二年末時点で西ドイツに住んでいるか、あるいは以前旧ドイツ帝国領内に住んでいたことが条件とされたため、戦後ドイツからイスラエルに移住したユダヤ人を除けば大半の外国人は対象外でした。東西対立はソ連・東欧の被害者の補償請求を困難にしました。
 「五〇年代、強制労働に補償を求める訴訟が相次ぎましたが、裁判所は戦争被害に対する個人の賠償請求権はないという態度をとり、敗訴が続きました」
 かつてナチスに迫害された人たちの相談所長を務め、現在「記憶・責任・未来」の理事であるギュンター・ザートホフ氏はこう語ります。

■連立協定に
 潮が変わり始めたのが七〇年代末から八〇年代です。ザートホフ氏は「ナチスの犯罪に対する国民の認識が深まり、補償を受けられない被害者がいるのは不道徳だという議論が巻き起こったのです」と強調します。
 八九年から九〇年にかけてソ連・東欧の旧体制崩壊で東西対立がなくなりました。東西統一したドイツはポーランド、ロシア、ベラルーシ、ウクライナと協定を結び、独政府が出資する基金をつくってナチスの迫害被害者に補償を始めました。
 しかし、ここでも強制労働は対象外でした。政府も、強制労働者を使った企業も責任をとろうとはしませんでした。
 ドイツの金属産業労組(IGメタル)やプロテスタント教会の一部は積極的に被害者を応援しました。多くのメディアが被害者のインタビューを掲載しました。
 九四年、ドイツ連邦議会は旧ソ連・東欧の強制労働被害者の救済を要求する決議を採択し、ドイツ企業に基金への出資を求めました。九六年には憲法裁判所が強制労働に対する個人の賠償請求権を認めたため、企業を相手どった訴訟が相次ぎました。米国在住の強制労働被害者も集団訴訟を起こしました。
 訴訟の嵐は、個別の企業による対応でなく、国家が責任を負うことが必要だという世論を呼び起こしました。
 強制労働被害者の運動を支援していた90年連合・緑の党は、ザートホフ氏に対策の立案を依頼。同氏は基金方式を提案しました。九八年、キリスト教民主同盟を中心とする保守連立政権にかわって社会民主党と緑の党が政権についた際、政府と独企業が共同出資する基金で強制労働被害者に補償するという項目が連立協定に明記されたのです。
 九九年二月、政府と企業十二社との間で、政府と企業が折半で資金を出し合う「記憶・責任・未来」基金設立が合意されました。
 ザートホフ氏はいいます。
 「ナチスによる戦争犯罪では市民個人が犠牲になりました。戦勝国が賠償請求権を放棄していても関係ありません。重要なのは政治的意思です」

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(続)上/国防軍の犯罪も追及/マーブルク大学ルップ教授に聞く

 第二次世界大戦後のドイツは国民的論議を経て国をあげて戦争犯罪を追及してきました。その徹底ぶりをドイツの二人の識者に聞きました。マーブルク大学のハンス・カール・ルップ教授は邦訳『現代ドイツ政治史』(彩流社)もある現代史研究者です。(マーブルク=片岡正明 写真も)
 「過去の克服」はドイツの中心的な課題です。国やナチスの指導者だけでなく、いろいろな階層の人が戦争犯罪を犯したという見解がいまは中心です。少数のナチスにすべての罪があるという議論は誤りであることが証明されてきました。
 第二次世界大戦で残虐行為を行い、強制収容所を運営したのはナチ親衛隊(ナチスの武装組織)だけではない。管理していたのは親衛隊ですが、要員には普通のドイツ人がいたのです。
 当時のドイツ国防軍の将兵には王政復古主義、権威主義、反ユダヤ主義だった人がたくさんおり、ユダヤ人を虐待しました。対ソ連戦線やセルビア征服作戦で大量射殺など残虐行為をしました。その罪は長いこと隠されてきました。
 この世代の歴史家は国防軍の犯罪について書きませんでした。自分の友人や肉親がどういう罪を犯したのかということは聞きにくく、避けていたからです。一九八〇年代以降に研究職についた若い歴史家が軍の犯罪について調べて発表するようになったのです。

徐々に浸透
 民間のハンブルク社会研究所が「国防軍による犯罪」という歴史展を九五年に開きました。地方自治体の首長や大学から支援を受け、ドイツ、オーストリア各地で開催しました。ネオナチだけでなく、保守の政治家から激しい攻撃がありました。支援した市長や州議会議員、大学の学長が批判の的になりました。開催をめぐって衝突があり負傷者が出たことさえありました。しかし、国防軍も戦争犯罪を犯したという事実は徐々に社会に受け入れられました。
 戦前、共産党員など一部の人を除いて、一般の人たちもユダヤ人を根こそぎにするのに賛成したのです。残念ながら信じられないほど多くのドイツ人がユダヤ人を虐待した。ナチス時代のドイツ人で反ユダヤ主義者ではなかったという人は少ないのです。
 アウシュビッツ強制収容所で虐殺などなかったと主張するとドイツでは刑法で罰せられます。アウシュビッツでの犠牲者ははるかに少なかったという主張も同じです。相対化されてはならない問題だからです。
 虐殺されたユダヤ人の数については研究家の調査を通じて証明されています。個人的には疑いをもっている人はいるでしょうが、公には異論はありません。

掲載を拒否
 「ナチスはソ連から犯罪の方法を習った」という主張が七〇年代後半から新聞をにぎわせたことがありました。その一人がこのマーブルク大学で歴史学教授だったエルンスト・ノルテです。彼は「ドイツはこの犯罪以外の歴史を誇りに思うべきだ」といいました。
 フランクフルター・アルゲマイネ紙によく投稿していましたが、九〇年に同紙の若い編集者から掲載を拒否されました。同紙の編集者は「歴史をわい曲する者に自分たちの態度をはっきり示さなければならない」とわたしに語っていました。
 ドイツでは公的立場で戦犯の墓に参ることなど考えられません。
 八五年に当時のコール独首相とレーガン米大統領がナチ親衛隊員の墓があるビットブルク墓地に参りました。親衛隊員が葬られていることをコールが知らなかったためでした。コールはその後、ホロコースト記念碑の建設を進めるなど努力しました。
 極右組織以外では、保守政党のキリスト教社会同盟(CSU)やキリスト教民主同盟(CDU)の中でも親衛隊員の墓参りをしようなどという声はない。親衛隊はナチスの中でも最悪の犯罪組織、とみられているからです。

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(続)下/マーブルク大学キューンル元教授/国を動かす反ナチ運動

 第二次世界大戦後、連合軍がナチスの戦争犯罪人を裁き、十二人の指導者が絞首刑になりました。ドイツの国民はこの判決を承認しました。ネオナチや極右勢力は「勝者の裁判だ」と主張しましたが、国民は受け入れませんでした。戦争を体験した国民の大部分が、戦争犯罪は勝利国によって偽造されたものでなく、実際に取り組まなければならない真実だと受け止めたからです。
 ナチスが強制収容所でどんなひどい犯罪を犯したか、戦後白日のもとにさらされました。反ファシズム勢力、政党や労働組合が新しく組織され、反ファシズムのドイツを形成するためのテーゼをはっきりと打ち出しました。そして、過去とも取り組まなければならないということも。何がなぜ起きたのかという討論は今も続いています。
 現在、極右の意見は政治的に弱く、ドイツ国家民主党(NPD)のようなファシスト政党は大きな支持を受けていません。

占領軍の選択
 一九五〇年代以降、ドイツ連邦共和国では反ファシズムの声が多数意見です。これには、労働組合や労働者政党が重要な役割を果たしています。
 しかし戦後、米占領軍にとって一番の危険はソ連であり、それとたたかうために西独で元ナチスのエリートと同盟を結びました。ナチス時代の裁判官、国防軍将校が戦後再任され、ナチスに協力した大学教授の大部分はそのまま教授職を続けました。大統領になったカルステンス、首相に選ばれたキージンガーはナチ党員でした。
 これに対して大きな反対運動が起きました。労働組合、左翼政党、学生運動などです。
 ドイツの降伏から十年の五五年五月八日、西独は静寂に包まれていました。政治集会などは行われませんでした。六五年も同じでした。これに対し、七五年五月八日にはフランクフルトで、反ファシズム集会が開かれ、六万人が集まりました。新しい世代が育ってきたからです。当時二十歳から四十歳代の人たちは民主主義のためにファシズムとたたかわなければならないという意識を持っていました。

EU基礎築く
 (ポーランドに謝罪して国交を正常化した)ブラント政権(六九―七四年)は正しい道を選んだといえます。ポーランドとドイツの戦後の国境は、欧州で平和の確立を望むなら承認されなければなりません。(ポーランドとソ連に割譲された)旧領土の回復をドイツが望めば、戦争が再び始まることになります。
 旧領土の放棄を認めたことは西独内で批判を受けましたが、長い目で見ると欧州協調の基盤となり、欧州連合(EU)の基礎にもなりました。
 国境を承認すること、元敵国と平和的な関係を築くことは、学生運動や労働組合も要求していたことでした。ブラント首相やワイツゼッカー大統領(八四―九四年)の言動は、広い意味でドイツ世論の土台となっています。ワイツゼッカー演説は、欧州統合という観点からも受け入れられました。
 演説は東西ドイツ統一に関する論議にも影響を与えました。ドイツが再統一されれば再び欧州の最大勢力となるという警戒感がありました。当時のイタリア首相は「二つのドイツにとどまるべきだ」と述べました。ワイツゼッカー演説はドイツ再統一が国際的に支持されることにつながりました。
 (マーブルク=片岡正明 写真も)

ワイツゼッカー演説
 一九八五年五月八日、ドイツ敗戦四十年にあたってワイツゼッカー西独大統領が連邦議会で行った演説。「過去に目をつぶる者は未来も見えなくなる」と述べ、ナチスの戦争犯罪に国として責任を負うことを明確にしました。「心に刻む」という表現で過去を忘れないよう国民に呼びかけました。
 (ベルリン=片岡正明 )
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2005年07月14日-23日,「赤旗」) (Page/Top

私は言いたい/宮崎大学教育文化学部教授河野富士夫さん(64)/ファシズムの放つ「魔力」


いま幻想砕くとき
 すぐれた知性とは、支配層の思想と対決してこその知性なんです。過去も、現在も。世界でも、日本でも。
 私が長年研究してきたドイツ文学、ドイツ現代史で言うならば、進歩的女流作家、アンナ・ゼーガースも、そうです。
 一九三〇年代のドイツ社会は、ヒトラーを神様のように崇拝し、熱狂的に支持していました。
 しかし、彼女は、文学の立場から民衆の力を追求し、ナチスの専制政治に反対。そのため、逮捕され、亡命生活を余儀なくされ、作品は禁書となりました。
 そのゼーガースが、当時のドイツの状況について、次のように分析しています。
 「なぜ人々は、ヒトラーに熱狂するのか。それは、政治的にも経済的にも貧困だからだ。貧しく、いまの生活に希望を見いだせない。そうすると人間は、ヒトラーのような独裁者に幻想を抱くようになる」と。
 私は、当時のドイツから学ぶべきことがあると思うんです。
 大切なのは、ファシズムが放つ「魔力」の正体を明らかにすることです。「ファシズムは危険だ。ファシズム反対」と叫ぶだけでは、ファシズムを食い止めるには不十分だと思います。
   ◇
 ファシズムには、人々を魅了する魔力のようなものがあるんです。だから、その幻想をうち砕く必要があるのです。
 例えば、「祖国」という言葉ですね。失業して自分の未来が見えないと、自分を国の運命と重ねてしまうのです。「強大な祖国」が自分だと思い込んでしまうのです。そういう場合、あくまでも自分自身の未来と夢を見つけさせることが大切です。
 まわりの学生たちに、そういう風に話すんです。すると、学生は冷静に考えるようになるんですね。
 ファシズムに熱狂する根本には政治的・経済的貧困があります。
 人々の中には「この望みのない状況を何とかしたい。この現実を変えてくれる強力な勢力を待ち望んでいる」んです。
 そういう人たちには、政治的・経済的貧困を生み出す原因についてわかってもらうことが大切です。日本が大企業優先政治のもとで、企業の税金はまけてやる一方で、医療費など国民負担は、ますます増えていること。自民党も民主党も多額の政党助成金や企業献金を受け取り、その分が増税や商品の価格、賃金カットに転嫁されていること。しかし、そのような「黒い金」に手をつけていない政党があること、日本共産党があること。貧困は、政治の「貧しさ」が生み出していることを丁寧に話すんです。
 やはり、人々が何を必要としているのか、どういう状況にあるのか、相手の目線に立って語らないと、相手の心には響かないんです。
 私はそうした思いで新聞などにも随分、投書してきました。一方的な押しつけではなく「ともに考える」という姿勢で。最近発行したエッセー集『光る風』にも収録しました。
   ◇
 最近、自由にものが言いにくい風潮を感じます。もし、日本が戦争する国になったら、「戦争反対」を口にするのはもっと困難になるでしょう。でも、いまならまだ間に合います。後世の人たちから「なぜ戦争に反対しなかったのか」と言われないように。もっと声を大にして言わなければなりません。
 かわの・ふじお
 一九四〇年十月、北海道伊達市生まれ。主な著書に『アンナ・ゼーガースの文学―時代と文学』東洋出版(夫人の河野正子さんと共著)。エッセー集『光る風』宮崎県教育会館印刷所。
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2005年07月14日,「赤旗」) (Page/Top

女性の目アラカルト/キューバ/横並びに30人6時間半デモ

 先月半ば、ファシズムとテロリズムに反対する大デモがハバナで行われました。参加者は、キューバ民間機の爆破で殺されたキューバやガイアナなどのスポーツ選手、パイロットやスチュワーデスなど七十三人の写真を掲げて行進しました。(写真)
 これまでで最高の百二十万人以上が参加したということです。横に三十人以上が並ぶ隊列の行進が六時間半続きました。
 写真を撮るために行進の横に立っていると、写してくれとポーズをとったり、私に旗をくれたり、また私の持っている旗を自分のものと交換していったり。「テロ反対! 真実と正義のために。犯人を、テロリストを処罰せよ! ブッシュ(米大統領)よ、ファシスト、テロリストを逮捕せよ!」と書いた紙を私に渡してくれた人が二人もいました。かわいい女の子が私にベシート(ほほキス)をしにきたり。手書きのプラカードやさまざまな国の旗に交じって星条旗があったので不思議に思い、尋ねると、キューバが無償援助している米国の貧しい留学生たちだということでした。
 友人の一人が私に言いました。「どうだい? キューバ人はあまり仕事しないとか規律を守らないとか言われるけど、集会やデモは整然としてるだろう」。確かに、明け方から延々と待たされて大通りいっぱいに座り込んだり寝転んだりしていたのに、行進が始まると、圧倒されるシュプレヒコールで拳を突き上げています。
 帰宅後、キューバ機爆破犯の一人ポサダ・カリレスが米連邦捜査局(FBI)に逮捕されたというニュースが届きました。
 (ハバナ在住 宮本眞樹子)
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2005年06月11日,「赤旗」) (Page/Top

靖国史観≠ニアメリカ

 靖国神社の問題というと、中国や韓国・北朝鮮など、アジアの近隣諸国との関係がすぐ問題になりますが、日本の戦争を賛美する靖国神社の戦争観――靖国史観≠ナ問題になるのは、アジア諸国だけではありません。その攻撃の矛先は、日本と戦ったすべての国ぐに――アメリカをはじめ、反ファッショ連合国の全体に向けられています。

「大東亜戦争」を引き起こした責任はアメリカにあった
 「日本は明治開国以来、欧米列強の植民地化を避け、彼らと同等の国力をやしなうべく努力してきました。日本をじゃまもの扱いにし始めた米英の抑圧と、中国の激烈な排日運動にもがまんを重ねてきました。
 でも、日本民族の息の根を止めようとするアメリカの強硬な要求は、絶対に受け入れることはできなかったのです。
 戦争を避ける道がなかったわけではない。すべての権益を捨てて、日清戦争以前の日本にもどるという道もあったのではないかという人もいます。しかし、それは戦争をしなくても、戦争に負けたと同じことです。
 ……
 極東の小国・日本が、大国を相手に立ち上がった大東亜戦争、これは国家と民族の生存をかけ、一億国民が悲壮な決意で戦った、自存自衛の戦争だったのです」。
 これは、戦争のさなかに、軍の統制下にあったラジオ放送の解説報道ではありません。いま靖国神社の展示館「遊就館(ゆうしゅうかん)」の一室で、毎日上映しているドキュメント映画「私たちは忘れない」のナレーションの一節、なぜ日米戦争が始まったかについての解説です(この映画は、靖国神社の後援のもと、「日本会議」と「英霊にこたえる会」が作成したもの)。
 太平洋戦争をひきおこし、アジア・太平洋地域にあれだけの大惨害をもたらした元凶は、アメリカだった――こういう宣伝が、靖国神社では、毎日繰り返されているのです。

ルーズベルトが日本に「開戦」を「強要」した
 「遊就館」というのは、靖国神社が靖国史観≠フ宣伝のために最近大増築した展示館で、そこでは日清・日露、中国侵略戦争、太平洋戦争などの戦争史の全体が、二十の展示室を使って展示されています。その展示に、日本がおこなった侵略戦争や他国への植民地支配にたいする反省は一かけらもありません。
 日本がやった戦争のすべてが、日本の「自存自衛」と欧米勢力からアジア諸民族を「解放」するための戦争として描きだされています。そこには、「侵略」という言葉さえなく、戦争の呼び名も、侵略戦争の実態をごまかすために日本の政府・軍部が使った呼び名――「満州事変」「支那事変」「大東亜戦争」という呼び名が、そのまま使われています。
 「遊就館」が展示でとくに力を入れているのは、「大東亜戦争」で、五室にわたっています。最初の部屋は、開戦事情に当てられていますが、表題はなんと「避けられぬ戦い」です。
 そこで説明されている「開戦事情」とは、アメリカのルーズベルト大統領が、不況から脱出できないことと、ドイツと戦争する計画が「米国民の反戦意志」にはばまれていたことに悩み、そこから抜け出す活路を、日本に「開戦を強要する」ことに求めた、ということです。こうして、日米開戦の責任は、あからさまな形で、アメリカ政府に押しつけられます。
 「大不況下のアメリカ大統領に就任したルーズベルトは、昭和十五(一九四〇)年十一月三選されても復興しないアメリカ経済に苦慮していた。早くから大戦の勃発を予期していたルーズベルトは、昭和十四年には、米英連合の対独参戦を決断していたが、米国民の反戦意志に行き詰まっていた。米国の戦争準備『勝利の計画』と英国・中国への軍事援助を粛々と推進していたルーズベルトに残された道は、資源に乏しい日本を、禁輸で追い詰めて開戦を強要することであった。そして、参戦によってアメリカ経済は完全に復興した」(「遊就館」展示)。

アメリカの陰謀の場となった「日米交渉」
 「遊就館」展示では、この立場から、「日米交渉」の内容にかなり多くのスペースをあてていますが、この問題についても、靖国史観≠フ本音は、映画「私たちは忘れない」の解説の方により分かりやすく出ているでしょう。
 日米交渉は一九四一(昭和十六)年四月から始まりました。戦争の回避に努力する日本と、対日戦争準備の時間稼ぎだけをねらうアメリカ、映画のナレーションは、こういう図式で、日米交渉のなりゆきを解説します。
 そして、この解説によると、開戦への最後の引き金を引いたのは、日本を戦争に追い込むアメリカの陰謀だったのです。
 「アメリカのルーズベルト大統領は、いかにして日本に最初の一発を撃たせるかを考えていました。それはイギリスのチャーチル首相の要請でもあったのです。
 十一月二十七日、ハル国務長官〔日米交渉のアメリカ代表〕からアメリカ側の回答がよせられました。運命のハル・ノートです。
 ハル・ノートは、中国やフランス領インドシナから、いっさいの日本軍隊および警察の撤退、日本、ドイツ、イタリアの三国同盟の破棄、中国における蒋介石政府以外の政権の否認などを要求する強硬なものでした。
 このハル・ノートに日本政府は絶望しました。中国大陸には多くの権益があり、わが同胞も多数生活している。それを残して軍隊、警察を撤退させることはできない。ことに満州には、日清、日露の戦いで多くの将兵の犠牲のもとに取得した合法的な権益がある。それを捨てることはとうていできない」(映画ナレーション)
 要するに、日本が望んだのは、中国を侵略・支配する権利をアメリカが認め、その戦争に必要な石油などの軍需物資の供給をアメリカが保障することだった。ところが、アメリカは、中国侵略の中止、日本軍の撤退を要求してきた。これは、日本を開戦に追い込むためのアメリカの無法な要求だ、こんな強硬な要求を出してきたのは、「日本に最初の一発を撃たせる」ためのアメリカの謀略だったのだ、これが「日米開戦」についての、靖国史観≠フ解説です。
 これは、日本の歴史的な権利だとして、中国への侵略と支配の権利≠ノ固執した日本の帝国主義者のかつての議論の蒸し返しにすぎません。
 それは、靖国史観≠フ鼓吹者たちが、いかに戦前の日本の膨張主義の亡霊にとりつかれているか、それをさまたげた中国の抵抗闘争やそれを援助した世界の諸勢力をいかに恨み続けているかを、浮きぼりにしているだけです。

「適切な判断」をくだすべき焦点はここにある
 靖国神社が、あらゆる宣伝物を通じて、日本国民のあいだにもちこもうとしている日本の戦争の「真実」とは、こういうものです。
 靖国史観≠ノよれば、この戦争は日本国民にとっても、アジア諸民族にとっても「避けられぬ戦い」だったのです。「正義」は戦争に決起した日本の側にあり、この日本と戦った国ぐには、中国であれ、アメリカ、イギリスであれ、「正義」にそむく不正不義の勢力なのです。この靖国史観≠フ矛先は、日本が侵略した中国などのアジア諸国だけでなく、日独伊のファシズム・軍国主義の侵略陣営とたたかった反ファッショ連合国のすべてに向けられています。
 そして、この立場から、「避けられぬ戦い」での戦没者を、正義の戦争に生命を捧(ささ)げた英雄と位置づけ、その「武勲」をたたえるところに、靖国神社の特別の役割があります。
 この戦争観は、日本の戦争にたいする国際社会の審判に、完全に背を向けたものです。しかも、この神社は、自分たちの戦争観を日本国民のあいだに宣伝することが、靖国神社の固有の「使命」だと宣言しています。
 日本共産党の不破哲三議長は五月十二日の時局報告会で、靖国神社を「日本の戦争は正しかった」論を広める「運動体」だと呼び、そのよってたつ精神は、ヨーロッパでいえば、ネオ・ナチの精神に匹敵する、と特徴づけました。
 これは、この「神社」の、宗教施設の領域を越えた特別の役割を指摘したものでした。
 小泉首相は、自分の靖国参拝の弁明として、「戦没者への追悼」以外に他意はない、という意味の言葉を繰り返しています。しかし、戦争で命を落とした多くの戦没者・犠牲者を追悼する場として、侵略戦争の美化を使命とするこの神社を選ぶことが、「過去の植民地支配と侵略」への反省の言葉と両立するでしょうか。
 国を代表する政府の責任者として「反省」の言葉を口にする以上、小泉首相が、いま真剣に考え、「適切な判断」を下すべきは、まさに、この点にあるのではないでしょうか。
 (北条 徹)
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2005年05月27日,「赤旗」) (Page/Top

記憶と和解の日/世界が刻む戦後60年

 60カ国が交戦し、数千万人の死傷者を出した第2次大戦は、60年前、日独伊3国の降伏で終結しました。ヒトラーのナチス・ドイツが無条件降伏した5月8、9日を「記憶と和解の日」とするように、国連がよびかけました。侵略と殺りくを想起し、犠牲者を追悼しながら、互いに許しあい、再び繰り返さないことを誓い合おうという行事が、世界各地でおこなわれました。

元収容者の体験を聞き/ドイツ
 「われわれには(ナチス・ドイツが与えた)すべての苦しみと苦しみの原因について記憶をあせさせない責任がある。苦しみを二度と起こさないようにしなければならない。ナチスのもとでおこなわれたことへの責任は終わりのないものだ」
 ケーラー独大統領の独連邦議会での記念演説(8日)です。
 ドイツはこれまで、ワルシャワのゲットー跡地でひざまずいて過去の侵略・虐殺を謝罪(1970年、ブラント首相)、「過去に目を閉ざすものは現在にも盲目になる」と歴史の真実を見つめ謝罪(85年、ワイツゼッカー大統領)するなど、過去への反省をくりかえし表明してきました。
 しかし、今年は極右が地方議会で進出する中で、改めて「ナチスやファシズムを二度と許さない決意」「若い世代にどう教訓を伝えていくのか」が問われた戦後60年でした。
 8日に、極右のドイツ国家民主党(NPD)が、ベルリンでデモを計画。連邦議会と連邦参議院が7、8の両日を「民主主義の日」と決め、ベルリンのブランデンブルク門の前で式典を開催。強制収容所の元収容者やレジスタンスの闘士が体験を語りました。
 NPDのデモには3千人が集まりましたが、数万人の反ナチ・デモ隊に囲まれ、警官隊が割って入って中止となりました。
 トリッティン環境相は「歴史の中のもっとも多数の大量殺人を賛美しようとするネオナチはドイツで決して重要な役割をはたさせてはならない」と語りました。
 市民の中に「二度とファシズム、戦争を許さない」強い意識があります。ドイツ国内の各強制収容所跡でも解放60年行事がおこなわれ、元収容者から話を聞く若者の姿が目立ちました。
 ベルリンで片岡正明記者

交戦した50カ国首脳が/ロシア
 ロシアの首都モスクワには9日、第2次大戦で敵味方でたたかった、日独伊の旧枢軸国、米英仏などの連合国の双方から、50カ国以上の元首らが集まりました。
 赤の広場で開かれたロシア政府主催の式典でプーチン露大統領は、「安全と公正、相互依存の新たな文化を基礎にした世界秩序を守り、冷戦も熱戦も繰り返してはならない」と演説しました。
 アナン国連事務総長は「大戦ではすさまじい犠牲が出た。紛争の平和解決と一人ひとりの権利の擁護という課題を忘れてはいけない」「人々が希望を持ち団結し、これからの世代が戦争の惨禍から逃れられるようにすることが教訓だ」とロシアの通信社に語りました。
 もう一人の主役はドイツでした。シュレーダー首相はロシアの新聞に「ドイツ人の名において、ロシアその他の民族が(ナチスの侵略で)受けた苦難への許しを請いたい」と寄稿しました。
 同首相は、戦後のドイツが侵略の反省から人権の尊重、平和と正義を基本に近隣諸国との関係を改善してきたと説明しました。
 プーチン大統領は式典の演説で、独ロの「歴史的和解」が「戦後欧州でのもっとも貴重な達成の一つ」と応じました。
 モスクワで各国首脳らは、無名戦士の墓への献花など式典行事に参加する一方、活発な二国間会談も行いました。
 モスクワで田川実記者

憲章の理念確認し合う/国連
 5月8、9日を「記憶と和解の日」とするようよびかけた国連は9日、総会特別会合を開き、19カ国代表が演説しました。
 EUを代表して演説したルクセンブルクのオシェイト国連大使は「(大戦終結)60周年を記念することは、国連創設の基礎となる価値観を新たに呼び起こす機会となる」とのべ、「いまほど国連憲章に記された原則が平和と安全、発展を確保し、基本的人権を保障する基盤となっているときはない」と強調しました。
 アジアからは中国、韓国、日本の3カ国が演説しました。過去の歴史認識をめぐって、日本を名指しこそしなかったものの、中国、韓国が批判を展開しました。
 中国の王光亜国連大使は、「戦後60年たっても、ナチズムと軍国主義の亡霊は消え去らず、極右勢力の信奉者がいまもしきりに過去の犯罪をわい曲し、否定しようとしている」と指摘。「犠牲者を追悼するだけでなく、歴史を記憶し、それに向き合い、教訓を学ぶことが重要だ。そのようにしてこそ、次の世代は戦争の災難から逃れられる」と述べました。
 韓国の金三勲国連大使は「第2次大戦中に大きな被害をこうむった国の市民として、平和を乱した者が真摯(しんし)で誠実な償いをする必要があることを強調したい」と表明。「真の償いには、単なる言葉の謝罪だけでは不十分だ。真摯な謝罪は行動に移されねばならない」と指摘しました。
 ニューヨークで山崎伸治記者
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2005年05月15日,「赤旗」) (Page/Top

果敢に反戦ハリウッド/チャプリン・スーザン・サランドン・ムーア監督…/いま進歩の第三の波が


米国民の映画史出版
 ぎっしりと並んだ顔、顔…。映画ファンでなくとも、わくわくするような絵です。
 絵の左上から右下へと進むデモ。最後尾にはチャプリン。中ほどにジェーン・フォンダ。さらに前をスーザン・サランドンら。オリバー・ストーン監督もいます。先頭を行くのは、ひげ面のマイケル・ムーア監督。多くが戦争反対のプラカードを掲げています。
 「この絵が私の本の中身を示している」とエド・ランペル氏。五月発売予定の『進歩のハリウッド―米国人民の映画史』の表紙です。ロサンゼルスを拠点に、フリーのジャーナリストとして活動する同氏。ハリウッドの映画史も研究しています。
 ランぺル氏と出会ったのは、四月二十三、二十四の両日、ロサンゼルスで開かれた米国最大規模の書籍見本市の場で。ワシントンから来たと言うと、「ワシントンとハリウッドは、この国の『権力』の二つのセンターだ。ワシントンは政治の、ハリウッドは文化のね」。
 「イラク侵略に直面して、ハリウッドの進歩的な映画人たちが次々に反戦運動の顔となった」。同氏の言葉に二〇〇三年三月、イラク開戦四日後のアカデミー賞授賞式を思い出しました。「戦争するとは何事だ。恥を知れ、ブッシュ!」。マイケル・ムーア監督の声が授賞式の舞台から全米に響きました。
 表紙の絵には、デモを右上からにらんでいる対照的な一団も描かれています。ブッシュ、ニクソン、レーガンの歴代大統領。シュワルツェネッガー・カリフォルニア州知事もいます。手には米国国旗や「十字軍」のたて…。
 ランペル氏が続けます。「ハリウッドのアーティスト、マイク・ファーレルとロバート・グリーンワルドは、戦争の足音に憤慨していた。とくに当時(〇二年十月)、民主党が多数を占めていた上院が戦争決議に賛成したことにだ」
 「ファーレルらは戦争反対の声明に、ハリウッド・スターの名前を数人でも書くことができれば、と立ち上がった。結果は、六人との予想に反して百人近くに上った」
 戦争直前、世界中で何千万人という巨大な反戦デモが繰り広げられました。ハリウッド大通りでのデモでは、スターたちが先頭に立ち、演説しました。
 「スクリーン上ではどうか」とランペル氏。「進歩的な映画が次々に作られた。マイケル・ムーアの『華氏911』はその代表だ。ドキュメンタリー映画として最高の成功を収めた」
 ランぺル氏は、ロバート・レッドフォードが制作総指揮を務めた『モーターサイクル・ダイアリーズ』、米国が京都議定書への署名を拒否したなかで地球温暖化を警告した『ザ・デイ・アフター・トゥモロー』も挙げます。
 本の表紙の絵は、「三つの進歩の波」を描いていると言います。
 「チャプリンの活躍した一九三〇―四〇年代には、大恐慌とファシズム、世界大戦があった。そして、ハリウッドの進歩主義に大打撃を与えたマッカーシズム。しかし六〇―七〇年代には、ベトナム戦争の中でジェーン・フォンダが登場する。そしていま、進歩的ハリウッドの第三の波を目にしている」
 ハリウッドが政治に敏感なのには、理由があると同氏。
 「俳優とは、他人の靴をはき、他人がどう感じるかを感じとることだ。それは作家にも共通する。他人への、人間としての共感、思いやりだ」
 その一言に力がこもっていました。
 (ロサンゼルス=浜谷浩司)
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2005年05月15日,「赤旗」) (Page/Top

憲法問題/海外の目/戦争放棄したイタリア憲法/伊共産主義再建党ニコトラ氏に聞く


守る運動いっそう重要
 イタリア共産主義再建党の平和運動担当者であるアルフィオ・ニコトラ氏にイタリア憲法の「戦争放棄」条項(第一一条)をめぐる状況などを聞きました。(ローマ=浅田信幸 写真も)
 国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄したイタリア憲法第一一条は、憲法の中でもっとも重要な条項の一つです。
 それはイタリアのファシズムとドイツのナチズムとの激烈なたたかいのたまものであり、抵抗運動(レジスタンス)の犠牲と勝利のうえに獲得されたものです。
 ただ残念なことに、この条項はアフガニスタンやイラクへの派兵という形で何度も「裏切られ」てきました。政府はこれを「戦争ではない」といい、「平和の任務」だとか「人道援助」などと称して、実態として米国のイラク戦争に加担しています。
 つまり憲法の条項としてこれを修正したり、削除したりするのではなく、実質的に別の名による軍の動員でこれを侵害する事態が繰り返されているのです。
 イタリアでは来年春までに総選挙が実施されますが、先の地方選挙でも示されたように、私たちも参加する中道左派連合「ユニオン」が勝利する可能性は高い。そして勝利すれば、スペインのサパテロ政権のように真っ先にイラクからの撤退を実現することを公約の中心課題に掲げるよう私たちは努めているところです。
 先日、イラクで拉致されたイタリア人記者が、解放された直後に米軍の銃撃を受け、情報機関員が殺される事件がありました。ちょうど共産主義再建党がベネチアで大会を開いていたときです。これで世論は沸騰≠オました。圧倒的多数の国民がイラクから手を引くべきだと考えていますし、この声はカトリック勢力の間でも大きく広がっています。
 いまのベルルスコーニ政権もこれを無視できず、「段階的撤退の計画がある」などと言い始めました。しかし彼には自主的な外交政策がありません。ウクライナなど自主的にイラク撤退を決めた国と比べてもその姿勢は際立っており、米国の言いなりです。
 憲法一一条に話を戻すと、これは国連憲章、日本国憲法第九条とともに、人類の歴史の進歩に重要な一歩を印したものであり、新時代を画した条項だと思います。いまブッシュ米政権を先頭にして戦争の復権≠ェ進められているだけに、これを守るたたかいはいっそう重要です。
 「戦争放棄」の思想は国民の間に深く根付いています。私たちは、イラク戦争反対のデモでは世界でもっとも大規模な動員に成功したことを誇りに思っています。
 現在、平和を守る課題はあらゆるたたかいに共通する問題になっています。「別の世界は可能だ」をスローガンにした世界社会フォーラムでも、戦争反対、平和擁護が掲げられています。私たちはその地域版である欧州社会フォーラムを二〇〇二年に初めてフィレンツェで開催しました。
 私は再建党の平和運動責任者として、イラク戦争反対のネットワーク「戦争を止めよう」委員会に参加していますが、ここではいま運動の「地域化」をはかることが論議されています。つまり、ラマダレーナ(サルデーニャ島の北部)の原潜基地撤去とか、アビアノ(北イタリア)米軍基地の撤去を求める運動を進めようという計画です。
 ファシズムに対する勝利と広島被爆六十年の今年、平和運動の発展と国際的な連帯の輪を広げる活動を進めたい。
 アルフィオ・ニコトラ氏(43) イタリア共産主義再建党の平和運動担当者。イラク戦争反対で大きな力を発揮したネットワーク「戦争を止めよう」委員会のメンバー。
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2005年05月14日,「赤旗」) (Page/Top

スターリンの横暴批判/リトアニアとポーランド代表

 【ニューヨーク=山崎伸治】九日開かれた第二次世界大戦終結六十周年を記念する国連総会の特別会合では、大戦後もソ連のスターリンによる抑圧にさらされた諸国から、そのことへの批判もありました。
 リトアニアのシェルクシュニス国連大使は、「第二次世界大戦の終結はファシズムという一つの全体主義イデオロギーの終結を記したが、もう一つの全体主義的共産主義はその支配を拡大した」とのべ、ソ連によるバルト三国の併合を批判。「第二次大戦中に命を落とした人々を追悼する際には、両方の全体主義政権が犯した人道に対する犯罪を忘れてはならない」とのべました。
 ポーランドのロートフェルド外相は、同国の頭越しにおこなわれた一九四五年のヤルタ会談の結果、「ポーランドはスターリンの独裁に征服された。同じ運命は他の中欧、東欧諸国にも及んだ」と指摘。「自由の回復を喜ぶ日が訪れたのは、これらの国々が四十五年にわたって、人間の尊厳を踏みにじり、スターリンのソ連の支配に全面的に従属した暴力と無法の政権を押し付けられた後のことだった」とのべました。
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2005年05月11日,「赤旗」)

女性の目アラカルト/キューバ/ハバナっ子たちよ旗はどこ?

 前夜から場所確保に泊まり込み、寝込んでいる人たちを踏まないようにすき間を探しながら歩く深夜三時すぎ、既にハバナの革命広場は百万人の人でびっしり。スピーカーから「キューバ」や「イマジン」の曲が流れ、集まってくる人たちが曲に合わせ歌い踊っています。
 突然マイクから「ハバナっ子たちよ旗はどこ?」の声。眠っていた人たちが起き上がり、みんな国旗を振って「ウオー」と応えました。まだ真っ暗だというのに。夜明けが待ちきれないのでしょう。
 ハバナのメーデー、今年も五十八カ国団体と百三十万人の参加者で圧巻でした。華やかなダンスや歌が彩りを添えます。
 カストロ議長が「ベトナム解放三十周年に敬意を。ベネズエラとの共同、ラテンアメリカの連帯と相互援助、植民地主義・ファシズム・テロ反対」と演説。参加者が手に手に国旗を振って応え、あちこちから「自由のキューバ! ヤンキー・ノー!」が唱和されます。
 印象的だったのは、「フィデル(カストロ議長)、神はあなた方を愛している」と書いた手づくりのプラカードを掲げて遠い演壇のフィデルをじっと見つめていた黒人と白人の家族の表情でした。
 スペインの植民地時代、百万人の黒人が奴隷としてアフリカから連行されたキューバ、人種差別の少ない国を実現させ半世紀近くたった今では、黒人・白人どこでも一緒です。
 (ハバナ在住 宮本眞樹子)
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2005年05月11日,「赤旗」) (Page/Top

ファシズムへの勝利/戦勝60周年シンポ/ベトナム

 【クアラルンプール=鈴木勝比古】ベトナムの青年紙タインニエン(青年の意)九日付によると、ベトナム社会科学院は八日、ハノイで対ファシズム戦勝六十周年記念のシンポジウムを開催しました。
 同報道は、二十五人が発言し、「ファシズムに対する闘争の偉大な勝利は全世界のすべての民主、進歩勢力に属するものであることを確認し、ベトナム共産党とベトナム人民がファシズムせん滅という人類の共通の戦勝に貢献したことを確認した」と伝えています。
 そして、「反ファシストの戦闘で、ソ連と被侵略諸国を支援し、連合諸国と直接共同し、日本ファシストとフランス植民地主義者の支配のくびきに反対する武装闘争を実行し、民族独立をかちとった」ことが紹介されたとしています。
 同紙によると、各歴史学者はとくに、一九四〇年から四五年にかけて、ベトナムには常時三万から三万五千、最高時六万の日本軍が駐屯し、ベトナムが一つの戦場になったことを強調しました。
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2005年05月11日,「赤旗」) (Page/Top

侵略戦争反省行動で示せ/人民日報

 【北京=菊池敏也】九日付の人民日報(中国共産党機関紙)は、反ファシズム戦争勝利六十周年を記念して、「世界平和を擁護し、共同発展を促進しよう」と題する社説を掲載しました。反ファシズム闘争を称賛するとともに、名指しこそしませんでしたが、日本が侵略戦争への反省を行動で示すよう求めました。
 社説は、反ファシズム戦争で人類の平和と正義のために献身した人々に「崇高な敬意」を表しました。
 日本の侵略戦争に対して、中国人民が早くから反ファシズムの旗を掲げ、中国は第二次世界大戦の「東方の主戦場」となったと指摘。抗日戦争は、反ファシズム戦争の「重要な構成部分」であり、中国人民は勝利のために「巨大な民族的犠牲と重要な歴史的貢献を行った」と強調しました。
 また、「歴史をかがみとして、はじめて未来に向かうことができる」と主張。歴史を正しく認識し、対応することは「侵略戦争に対する反省を実際の行動に示し、被害国の人民の感情を傷つけることを二度としないことだ」と指摘し、日本政府に具体的な行動を求めました。
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2005年05月10日,「赤旗」) (Page/Top

独ソ不可侵条約を批判/元ソ連兵を前に/ポーランド大統領

 【モスクワ=田川実】戦勝六十年式典への出席で訪ロしたポーランドのクワシニエフスキ大統領は八日、「一九三九年にポーランドを襲ったのはヒトラーだけでなくスターリンの全体主義だった」「ロシアは、両国関係にこれ以上過去が立ちはだからないよう、歴史の事実を認めるよう望む」と述べました。
 モスクワのポーランド大使館で行われた元ソ連兵らへの記念メダル授与式であいさつした同大統領は、ポーランド分割を決めた三九年の独ソ不可侵条約の秘密議定書を「中東欧の国民に敵対した二つの全体主義の手打ち」と批判。現ロシア西部カチンでのソ連軍によるポーランド将校大量虐殺などを挙げ、「われわれは、ファシズムとたたかったロシア、ポーランド兵の勇敢さを記憶するとともに、過去の両国関係の不幸な経験を克服したい」と呼びかけました。
 ポーランド側は今もカチン事件の資料の全容公開をロシア側に求めています。
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2005年05月10日,「赤旗」) (Page/Top

ナチスの与えた苦しみ/「記憶風化させない」/ドイツ大統領が演説/第2次大戦終結記念日

 【ベルリン=片岡正明】ドイツで第二次世界大戦終結とナチスからの解放記念日にあたる八日、ケーラー大統領がベルリンの連邦議会で演説し、「われわれには(ナチス・ドイツが与えた)すべての苦しみと苦しみの原因について記憶を風化させない責任がある。苦しみを二度と起こさないようにしなければならない。責任は終わりのないものだ」と訴えました。
 大統領はナチスの与えた「災いは今も影響を及ぼし続けている」と強調、「殺された両親を持つ娘や息子は今も嘆いており、当時の苦痛の体験を持つ人々は今も苦しんでいる」と語りました。
 また「われわれドイツ人は、ドイツが引き起こした第二次世界大戦とホロコーストを恐ろしさと恥をもって振り返る。悪魔のようなエネルギーで殺された六百万のユダヤ人を忘れはしない」と述べました。
 ティールゼ連邦議会議長は「暴力による支配と戦争の犠牲者への記憶を保つことは、われわれに今日の民主主義を擁護し、積極的な平和政策への義務を課す」と呼びかけました。
 ベルリンでは同日、極右のドイツ国家民主党(NPD)が「解放六十年のウソと罪の崇拝を終わらせよ」とのスローガンを掲げデモを計画。三千人が集まりましたが、数万人の反ナチ・デモに囲まれました。
 反ナチ・デモはドイツ労働組合総同盟(DGB)、民主的社会主義党(PDS)や平和左翼組織がそれぞれ呼びかけたもので、「茶色の瓶(極右・ネオナチ)はゴミ箱に」などのプラカードを掲げました。両デモ隊の中に割って入った警官隊によってNPDのデモは中止させられました。
 反ナチ・デモに参加したトリッティン環境相は「歴史の中のもっとも多数の大量殺人を賛美しようとするナチスに、ドイツで決して重要な役割を果たさせてはならない」と語りました。
 ドイツ連邦議会と連邦参議院が「民主主義の日」と決めた五月七日と八日、各地で式典やデモ、さまざまな催しがありました。中央式典はベルリンのブランデンブルク門の前で開催され、強制収容所の元収容者やレジスタンスの闘士が体験を語ったほか、民主主義のためのコンサートなどが開かれました。
 親子三人で訪れたラルフさん(39)は「とても大切な集会だから家族三人できました。昨日も反ファシズムの『光の鎖行動』に参加しました」と語っていました。
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2005年05月10日,「赤旗」) (Page/Top

EUとロシアのレセプション/志位委員長が出席

 日本共産党の志位和夫委員長は九日、EU(欧州連合)ならびにロシア大使の主催で開かれたレセプションに出席しました。

EUレセプション
 「ヨーロッパ・デー」といわれるこのレセプションは、ドイツ・ファシズムが打倒され、今日のEUの出発点となった日を記念しておこなわれました。
 志位氏が、ベルンハルト・ツェプター駐日欧州委員会代表部大使に「独仏の和解が今日のEUの土台にあり、その根本にはドイツが過去の侵略戦争への徹底的な反省をおこなったという事実があることに深い歴史の教訓を感じます」とのべると、同大使は「その通りです。それが重要なのです」と答えました。

ロシアのレセプション
 志位氏があいさつのなかで、「ドイツ・ファシズムを打倒するうえで、ロシア国民が果たした大きな役割を評価します」とのべたのにたいし、ロシュコフ駐日ロシア大使は「あたたかい言葉をありがとうございます」と応じました。
 志位委員長は、両レセプションで内外の参加者と懇談。そのなかで、第二次世界大戦終結六十周年国連決議にものべられているように、国連を中心とした世界の平和秩序の重要性などについて、各国大使らと話しあいました。
 また志位氏は、ドイツがかつて侵略した国々への謝罪と反省を通じて和解をすすめているように、日本も東アジアで同様の責任を果たさなくてはならないと強調しました。
 レセプションには、日本共産党の緒方靖夫、西口光両国際局長、田代忠利同次長も出席しました。
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2005年05月10日,「赤旗」) (Page/Top

第2次大戦終結60年「記憶と和解の日」/モスクワで式典

 【モスクワ=田川実】ロシアの戦勝六十周年を記念する式典が九日、ロシア・モスクワの赤の広場で開かれました。プーチン大統領は第二次世界大戦の教訓として、「安全と公正、相互依存の新しい文化を基礎にした世界秩序を堅持し、冷戦も熱戦も繰り返してはならない」と演説しました。
 第二次世界大戦終結六十周年にあたって、ナチス・ドイツが降伏した八、九日を「記憶と和解の日」として毎年祝うと国連総会が全会一致で決議したことを受けてのものです。
 大戦で多数の犠牲をだしたロシアの政府主催の式典には、日独伊の旧枢軸国側、米英仏の連合国側、旧ソ連各国、ソ連の影響・支配下にあった諸国など、かつての立場を超えた世界五十カ国以上の元首と国連事務総長らが出席。元ソ連兵らの軍事パレードを観覧し、クレムリン横の無名戦士の墓にも献花しました。
 演説でプーチン大統領は、「国際的な対話と協力の新たな道」を追求してきたと強調。かつてソ連が侵略を受けたドイツとの「歴史的和解」をあげ、「戦後欧州でのもっとも貴重な達成の一つ」と述べました。
 演説はファシズム打倒に果たしたソ連国民と同盟国の役割を強調しました。(7面に関連記事)
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2005年05月10日,「赤旗」) (Page/Top

ドイツで光の鎖33`/戦争・極右・人種差別許さず/終戦60年行動始まる

 【ベルリン=片岡正明】ドイツでは七日から第二次世界大戦終結とナチスからの解放記念のさまざまな催しや行動が始まりました。
 連邦議会と連邦参議院は五月七、八の両日を「民主主義の日」と決め、二日間にわたる中央式典がベルリンのブランデンブルク門の周辺で開催されました。七日夜には、「二度と戦争、極右、人種差別を許さない」をスローガンにベルリン東西三十三`をキャンドルサービスで結ぶ「光の鎖」行動がおこなわれ、約二万五千人の市民が参加しました。
 ベルリン市のウォーベライト市長は七日、式典開幕にあたって「五月八日はベルリン、ドイツ、欧州がナチ独裁から解放された日。二度と戦争、テロ、大量殺人を許してはならない」と訴えました。また同市長は「ナチの支配のもとで起こったことを否定する極右に対抗するためにわれわれは立ち上がった。ホロコースト(ユダヤ人皆殺し)を決して忘れないことが必要で、若い世代も肝に銘じてほしい」と語りました。
 七日夕には雨と気温五、六度の寒さの中、民主主義のためのコンサートが開かれ、歌手グループが「ナチスとファシズムにノー」と歌うと、多くの市民が「ファシズムにノー」と唱和。会場には市民が「反ナチ、反ファシズム」を自分の言葉でアピールする一言メッセージの展示場や各政党や労組のテントが出され、民主主義の大切さを訴えていました。
 八日にはケーラー大統領が演説。極右政党の国家民主党(NPD)が八日にベルリン市内で計画していたデモは市当局、裁判所が許可を与えませんでしたが、極右の動きに対抗する「ヒトラー・ファシズム解放デモ」も計画されています。
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2005年05月09日,「赤旗」) (Page/Top

抗日戦勝利60周年で通達/中国共産党

 【北京=菊池敏也】中国共産党は、抗日戦争勝利六十周年の記念活動について通達を出しました。七日の新華社電が報じました。
 通達は、中国人民の抗日戦争は「世界の反ファシズム戦争の重要な構成部分」で、中国人民は戦争勝利のために「巨大な民族的犠牲」を払うとともに、「重要な歴史的貢献」をおこなったと強調しています。
 また、中国共産党、全国人民代表大会、国務院、政治協商会議、中央軍事委員会が共催して、「抗日戦争・反ファシズム世界戦争勝利六十周年記念大会」を開催するとしています。この記念大会は九月に北京で開かれます。このほか、大型展覧会や文芸の夕べ、学術討論会なども計画されています。
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2005年05月08日,「赤旗」) (Page/Top

ナチスからの解放記念/独で集会・行事活発に

 【ベルリン=片岡正明】第二次世界大戦を思い起こす八日を前に、ドイツ各地では七日から解放記念の集会や行事が活発におこなわれます。ドイツでは七、八日を連邦議会と連邦参議院が「民主主義の日」と決議し、国民各層に「民主主義の日」を祝おうと呼びかけました。
 中央式典は七、八の両日にベルリンのブランデンブルク門の前で開催され、民主主義のためのコンサートやキリスト教会のミサ、献花などがおこなわれ、ケーラー大統領がナチス解放六十年の訴えをします。
 連邦政府以外の催しも多彩です。七日にはベルリンで午後十時から戦争犠牲者をしのび、ベルリンの中心部をキャンドル・サービスで囲む、「光の鎖」行動が。ハノーバーでも七日夜に戦争犠牲者をしのぶレクイエムコンサートを開催。
 また、ファシズム解放六十年での野外討論集会(ミュンヘン、八日)など強制収容所の元収容者、旧連合軍の兵士、レジスタンスの活動家などを囲む集いが各地で多く予定されています。
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2005年05月08日,「赤旗」) (Page/Top

主張/記憶と和解の日/戦後平和秩序の原点に立って

 国連総会決議(昨年十一月)が、五月八日と九日を第二次世界大戦の終結を記念する日にしようとよびかけています。六十年前の一九四五年五月、ベルリンが陥落してナチス・ドイツが崩壊。欧州では、三九年九月からの第二次大戦が終わりました。「ドイツ軍司令部」が七日に連合軍への無条件降伏文書に調印し、翌八日に発効しました。九日には、ドイツ軍がソ連軍に対し改めて降伏文書に調印しました。
 日本軍と連合軍との戦争は続いていましたが、二カ月後に国連が創設されたことなどから、国連総会決議は、五月八日と九日を「記憶と和解の日」にすることを宣言しました。

侵略への反省を明確に
 九日には、国連総会の特別会合が開かれます。欧州で最大の犠牲を出した旧ソ連―ロシアのモスクワでは、記念式が行われ、五十カ国以上の首脳が出席を予定しています。
 「記憶」とは、ファシズム、軍国主義が引き起こした第二次世界大戦の悲惨さに目を向け、各国が、二度と侵略戦争を引き起こさない決意と体制を固めることです。そうしてこそ、分断や対立、矛盾があっても克服し、未来に向けた協力への「和解」を進めることができます。
 国連は、「二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救」(国連憲章前文)うため、一九四五年六月二十六日に創設されました。国連憲章は、侵略戦争を許さず、あらゆる紛争を平和的な手段で解決することを原則にしています。
 侵略戦争への反省をはっきりさせることは、戦後国際平和秩序への原点です。いま各国がこの原点にたちかえり、平和の進路を誤らないようにする必要があります。
 ナチスを生み出したドイツは敗戦後、東西に分断され「米ソ対決」の最前線にされた戦後史の苦難と戦争の危機を乗り越え、再統一と欧州統合への参画を果たしてきました。過去の侵略戦争を徹底して反省することによって、フランスや旧ソ連との「和解」を進め、国際社会の理解を得たことが、決定的な要因です。
 一方、日本は敗戦後、憲法第九条で「二度と戦争はしない」「戦力はもたない」と定めたことにより、国連憲章と重ねて戦後の国際平和秩序に貢献できるもっとも確かな足場をつくりました。米国によって憲法違反の自衛隊を押しつけられ、朝鮮戦争やベトナム戦争では米軍の補給、出撃拠点にされたものの、自衛隊が海外で戦争することはできません。日本国民の世論と運動が、改憲策動を食い止め、第九条を守ってきたからです。

侵略美化でなく憲法を
 九条を変えようとする人々は、自衛隊が海外で武力行使できるようにすることを狙っています。現実にはイラクのような戦争で、米軍指揮下に戦闘行動ができるようにすることです。そのうえ、国会議員が群れを成して靖国神社に参拝し、小泉首相は参拝をやめるといわず、侵略美化の歴史教科書を検定合格させるなど、政府と与野党の一部政治家の間に侵略戦争を美化し肯定する動きが続いています。
 これは、何千万人もが日本軍の犠牲になったアジアの国々、人々との「和解」に背を向ける態度です。アジアと世界で強まる平和、協力の大きな流れに逆行しています。
 いま日本にもっともふさわしい「記憶」と「和解」への行動は、国民の世論と運動で憲法九条を生かし、侵略美化の言動を克服することです。
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2005年05月08日,「赤旗」) (Page/Top

ベトナム/ニャンザン紙が特集/戦争被害忘れない

 【ハノイ=鈴木勝比古】ベトナム共産党中央機関紙ニャンザン六日付は「ベトナム人民は勇敢にファシズムとたたかった」とのタイトルで一n特集を組みました。その中で、ベトナム歴史院のグエン・バン・ニャット院長署名の「ベトナム共産党は人民を指導し、ファシズムとたたかった」と題する論評を掲載しています。
 論評は「ファシズムは歴史上、かつてなかった痛苦を人類にもたらした。その典型は、ドイツ、イタリア、日本のファシストが引き起こした第二次世界大戦であった」と述べ、「ベトナムは世界の他の多くの国家、民族と同様に、ファシズムの圧迫と搾取の重大な被害を被り、彼らが引き起こした戦争による悲惨な被害を被った」と指摘しています。
 論評は、「(一九四五年の)八月革命を頂点とするベトナム人民の反ファシズムの闘争は、全世界人民の反ファシズムの共通のたたかいの不可分の一部となり、このたたかいの重要な勝利の一つとなった」と述べています。
 そして、「今日、ベトナム人民は平和の中で生活し、祖国を建設することを切望している。ベトナム人民は、歴史を忘れず、過去を閉じて、未来を志向し、世界のすべての民族、国家と友人となり、平和、協力、社会進歩の世界のために協力する」と述べています。
 この論評には、ベトナムの民衆が日本軍のコメの倉庫を破壊し、貧しい人々に分配する写真を付け、「一九四五年に日本ファシストがインドシナ(現在のベトナム、カンボジア、ラオス)のフランス植民地主義者から権力を奪った。その三日後に、党中央は抗日の闘争推進を指示した」との説明を付けています。
 特集には、ホー・チ・ミン主席の独立宣言の抜粋や当時のベトナム共産党書記長チュオン・チン氏が一九四二年と四五年に党機関紙に発表した二つの論文が掲載されています。
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2005年05月07日,「赤旗」) (Page/Top

強制収容所を記念碑に/次世代に体験を継承/独ハンブルク郊外/文化担当相が決意

 【ハンブルク=片岡正明】ナチス・ドイツにより五万五千人もの収容者が殺された独ハンブルク郊外のノイエンガンメ強制収容所で四日、解放六十年記念集会がおこなわれ、生存者二百四十人を含め二千人の市民が参加しました。ドイツ政府を代表して発言したワイス文化担当国務相は「犠牲者を忘れることは新たなファシズムの勝利の一歩」と訴え、体験継承への強い決意を語りました。
 ノイエンガンメ強制収容所は一九三八年に建設され、連合軍捕虜やユダヤ人など二十カ国計十万六千人を収容し、うち五万五千人が飢えと寒さなどで亡くなりました。子どもへの生体医学実験をした収容所として知られています。戦後、ハンブルク市の刑務所が収容所跡に建設されたため、収容所跡をメモリアルとして部分的に再建したのは最近になってから。四日には、同収容所の新展示場がオープン。収容所の歴史や収容所内の武器工場などでの強制労働の状況などの資料が展示され、生存者のビデオ証言も視聴できます。
 記念集会ではワイス氏が「生き残っている最後の元収容者の人たちの証言を若い世代が引き継いでいかなければなりません。犠牲者を忘れることは古いファシズムの最後の勝利であり、新たなファシズムの勝利への一歩になる」と語りました。
 ハンブルクのフォンボイスト市長は「ほとんど忘れられた強制収容所になっていたノイエンガンメを新たに思い起こす資料展示が完成したことは大事だ」と強調しました。
 収容所生存者としてデンマークからきたトーマス・バルンセンさん(80)は「デンマークの国境警備員をしていたときに、ナチス・ドイツ軍が侵攻し捕らえられてここにきました。レンガ工場で強制労働をさせられましたが、飢えと寒さの生活は地獄のようでした」と語っていました。
 記念集会には学校のクラスぐるみで参加した若い人たちの姿も多く、あちこちで生存者から体験を聞く小さな輪ができていました。
 ハンブルクからきたクリスティーナ・ラムボーさん(21)は「収容者の人から直接、個人的な体験を聞くことはテレビで見ることとは違います。多くの生存者がまだ生きている今だからこそ、青年がその体験を継承しなくては」と話していました。
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2005年05月07日,「赤旗」) (Page/Top

5月8・9日第二次世界大戦終結/「記憶と和解の日」/ドイツ/反省、謝罪で近隣と信頼


百都市以上で数百の記念行事
 【ベルリン=片岡正明】「ナチの戦争犯罪を決して繰り返さない課題を世代を超えて伝えていく」。シュレーダー独首相は四月十日のブーヘンワルト収容所解放記念日で強調しました。ノルマンディーからワルシャワ、アウシュビッツまで、同首相や大統領はこの一年、戦後六十年を記念する欧州各地の式典に出席して同じ誓いを繰り返してきました。
 第二次世界大戦終結の記念日がナチス打倒の日とされたこと自身、戦後ドイツが過去の反省を徹底して深め、被害者への謝罪、国家補償を繰り返しおこなってきたことが近隣諸国との和解をすすめ、それが世界全体で認められたことを示しています。
 この和解に不可欠であったのがドイツの反省でした。ワイツゼッカー大統領(当時)が「過去に目をとざすものは現在にも盲目になる」と歴史を直視することを呼びかけたのは二十年前でした。戦争の誤りとそれを繰り返さないという徹底した歴史認識を深める道こそが、ドイツの存立を可能にし、欧州で生きる道をつくりだした力となりました。独仏枢軸といわれる信頼関係を築き、今日の欧州連合(EU)をつくりあげてきました。
 それだけに「記憶と和解の日」は、連邦レベルでも各自治体レベルでも多くの催しがあり、合わせると五月だけで少なくとも百都市以上で数百の記念行事が予定されています。
 連邦議会と連邦参議院が五月七日、八日を「民主主義の日」と決議し、国民各層に「民主主義の日」を祝おうと呼びかけました。
 中央式典は七、八の両日にベルリンのブランデンブルク門の前で開催。民主主義のためのコンサートやキリスト教会のミサ、献花などがおこなわれ、ケーラー大統領が訴えます。政府レベルの式典として十日にホロコースト・メモリアルの完成式典が催されます。
 地域のナチスとレジスタンスの歴史をたどる集会(ダルムシュタット、七日)やファシズム解放六十年での野外討論集会(ミュンヘン、八日)、「強制収容所生存者と家族の話を聞く会」(ブレーメン、一日)など草の根に根付いた催しが多くあります。「反ファシズム・ロックコンサート」(フライブルク、六日)、「戦争レクイエム演奏会」(ボン、ブレーメンなど八日)の音楽会や、「ヒロシマを繰り返すな、二〇二〇年までに核兵器廃絶を」集会(レバークーゼ、九日)と第二次世界大戦終結と核兵器廃絶の課題を結び付けた集会も開催される予定です。
 ベルリンでは五月七日の午後十時に戦争犠牲者をしのんでベルリンの中心部をキャンドル・サービスで囲む「光の鎖」行動もおこなわれます。
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2005年05月05日,「赤旗」) (Page/Top

5月8・9日第二次世界大戦終結/「記憶と和解の日」/国連総会で全会一致決議

 国連総会は昨年十一月、「第二次世界大戦終結六十周年を記念する決議」を全会一致で採択しました。決議は、一九四五年にナチス・ドイツが連合軍に無条件降伏した五月八日と九日を、欧州での戦争終結だけではなく、アジアでの戦争をふくめ第二次世界大戦終結の「記憶と和解の日」にすると宣言しました。
 その上で、「すべての加盟国と国連諸組織、非政府組織、個人」が「第二次世界大戦の犠牲者に敬意を表するために、適切なやり方で、この両日の一方もしくは両日を、毎年、祝う」よう呼びかけました。今年ばかりでなく今後「毎年」、この日を記念しようとの訴えです。
 また、五月の第二週(八―十四日)に国連総会が記念の特別会合をおこなうことも決めました。
 どうしてこの日を「記憶と和解の日」とするのか。「記憶」とは、まず歴史認識であり、ファシズム、軍国主義を明確に否定する共通の認識と決意に立ってこそ、未来に向けた協力を可能にする「和解」がすすむものだと、決議は前文で次のように端的に説明しています。
 まず第二次世界大戦の終結が「国連創設の条件をつくった」ものだとし、現在の国連がナチスとファシズム、軍国主義の否定の上に成り立っていることを「記憶」にとどめる意義を強調し、加盟国が国連憲章にしたがって「あらゆる紛争を平和的手段で解決するために全力を傾けること」を求めています。
 同時に、第二次大戦以来、各国が過去の遺物を克服して、民主的な価値や自由を促進する成果をあげたとして「和解」の意義を強調、ドイツを含む「すべての戦争犠牲者」を弔うよう求めています。
 この決議にもとづいて、国連と世界各国で、政府主催をはじめさまざまな記念行事がおこなわれます。
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2005年05月05日,「赤旗」) (Page/Top

各国でメーデー/労働現場を人間らしく/ドイツ/メキシコ/イギリス

 経済のグローバル化(地球規模化)、国際競争力強化の名のもとに、労働者の権利・生活条件を掘り崩そうとする動きをはね返そう―。一日、世界各地のメーデーでは、「週三十五時間労働制への攻撃を許すな」「労働時間短縮、残業なしに雇用増を」「不安定雇用を強いるな」などと要求する声があがりました。また「イラク戦争反対、米軍撤退」の唱和が響き、第二次世界大戦終結六十周年を反映して「ファシズム反対」のスローガンが掲げられました。

公正と尊厳掲げ連帯
 【ベルリン=片岡正明】ドイツのメーデーは中央集会の南部マンハイムをはじめ、首都ベルリン、フランクフルト、ミュンヘン、エッセン、コトブスなど各地でドイツ労働組合総同盟(DGB)などのデモ・集会が開かれ、数万人が参加しました。
 今年のテーマは「労働者を数字やコスト要因とだけ見るな。労働者には尊厳がある」。背景には昨年来のドイツ企業の労働者攻撃があります。
 ドイツでは一部の大企業が記録的な利益を更新している一方で、国際競争力強化を理由に、週労働時間三十五時間(金属産業労働者)など労働者が築いてきた権利を攻撃し、賃下げか労働時間延長をのまなければ工場の海外移転をするとの脅しをかけています。
 このため、国内雇用は停滞し、失業者も五百万人を超えました。また、企業の中で労働者が労働条件などでの共同決定権を持つことにも財界や保守野党は否定の姿勢を強めています。
 マンハイムの中央集会で、ゾンマーDGB議長は「企業の中での労働者の共同決定権が脅かされているが、この権利こそ労働現場を人間らしくさせてきた。企業の脅しやグローバル(地球規模)化した資本主義と徹底してたたかい、社会的公正と人間の尊厳のために連帯していこう」と訴えました。
 ベルリンではブランデンブルク門前から市内中心部を「社会保障削減の代わりに労働時間を少なくし残業なしで職をつくれ」「賃金ダンピング反対」などのプラカードや横断幕を掲げ約五千人がデモ行進しました。
 シュレーダー首相の鼻を長くした絵のある手製のプラカードをもっていたアーヒムさん(62)は「シュレーダーはうそつきという意味。私は前の会社が倒産してから十四年間も失業者だった。失業手当の削減や年金の凍結など腹の立つことばかり。シュレーダー首相は辞任すべきだ」と語りました。
 ダイムラークライスラーのベルリン工場で働くマーティン・フランクさん(24)は「ダイムラークライスラーは去年、南ドイツの工場で四十時間以上働くよう要求してきた。大企業は賃下げや労働時間延長に応じないと工場移転をすると脅してくるが、市民に労働者の現状を広く政治的に理解してもらい、一緒にたたかいたい」と話していました。

大統領選挙も視野に
 【メキシコ市=松島良尚】「メキシコの空を売り渡すな」の声が響き渡りました。「政府は米系資本を国内路線に参入させようとしている」とメキシコパイロット組合連合のアルフレッドさん。ユニフォームが目立ちます。
 メキシコ市の憲法広場でおこなわれたメーデー集会には、同国第二の労働組合センター・全国労働者同盟(UNT)などから十万人以上が集結。期限付き短期雇用の認可や解雇規制の緩和などをねらいとする労働法「改革」への反対が中心テーマです。
 「オブラドル・メキシコ市市長支持」というプラカードもかかげられていました。公共事業にかかわる裁判所命令を無視したとする同市長の免責特権はく奪問題はいま、国民最大の関心事。来年の大統領選挙から市長を排除するためとみられています。
 市長の免責特権はく奪と労働法「改革」。これら二つをめぐり、市長の首を切りたい与党・国民行動党が労働法改悪で前政権党・制度的革命党の主張を取り入れるという密約が交わされているのではないか―日本共産党第二十三回大会に民主革命党代表として参加したフランコ下院議員が国会で追及しています。

鉄道民営化に批判も
 【ロンドン=西尾正哉】ロンドンのメーデーでは一日、数千人が参加し市内を行進しました。デモの終着地点のトラファルガー広場では「ファシズムに反対して団結しよう」と銘打ったロックコンサートが開催されました。参加者は、「年金改悪反対」「ブレア首相はうそつきだ」などと書いたプラカードを持って行進しました。
 参加者の一人、鉄道海員組合(RMT)の組合員で地下鉄労働者のジェラード・ビッカーズさんは、鉄道の民営化をこれ以上進めず、再国有化を訴えてメーデーに参加しました。
 英国では二〇〇二年五月に七人の死者を出す脱線事故、〇三年一月にロンドン地下鉄で脱線事故が起きるなど、鉄道サービスが民営化されたもとで、安全性は労働者・国民の切実な要求の一つとなっています。
 ビッカーズさんは、地下鉄、鉄道の再国有化こそ国民の税金を節約し安全性も高めると強調し、目前に迫る総選挙でも「民営化に反対する候補者の応援をする」と語りました。
 メーデーの行進には、労働組合だけでなく、ロンドンで活動するイランやトルコなどの政治組織も多数動員し国際色の豊かなものになりました。
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2005年05月03日,「赤旗」) (Page/Top

独首長/反核の声/ベルリン市クレット区長/反ファシズムが基盤/国内の核信じられなかった

 二日開幕の核不拡散条約(NPT)再検討会議を前に、ドイツの自治体首長が核兵器廃絶の声をあげています。核兵器廃絶条約の締結を求め、ドイツ政府にも積極的に関与するよう訴えているベルリン市マルツァーン・ヘラースドルフ区のウーエ・クレット区長に話を聞きました。
 (ベルリン=片岡正明)
 私は民主的社会主義党(PDS)所属の区長として、核兵器廃絶を主張し、NPT再検討会議の開かれるニューヨークにも行きます。現地ではドイツの六人の首長とともに、世界の人と交流し、核兵器廃絶を訴えます。
 前回のNPT再検討会議では、核保有国が核兵器廃絶をすると約束しましたが、核保有国は義務をはたさず、核兵器は削減されませんでした。これでは、NPTに入らず、自前で核兵器をつくろうとする国を増やすだけです。

命もてあそぶ
 核保有五カ国の特権はあってはなりません。核兵器をもてあそぶことは、全人類の命をもてあそぶことです。米国は、使いやすい小型核兵器を製造しようとしていて、特に危険です。核保有国の中では、特に中国やロシアの核兵器削減のイニシアチブを期待しています。
 私は旧東独に育ち、旧東独で軍役も三年間、経験しました。旧東独は核兵器廃止と言っていました。その実、ベルリンの近くにもソ連軍の基地があり、核弾頭を持つソ連のミサイルが配備されていました。私はPDSの党員として、また軍役をへて核兵器の脅威を知る者として、平和を主張します。
 昨年の秋、平和市長会議の呼びかけがあり、私も昨年十月にメンバーになりました。実は、それまでは、ドイツにまだ核兵器があることを知りませんでした。信じられない思いでした。これは一般に広く知られていません。ドイツ統一で、東も西も核兵器は撤去されたものと思っていました。これは大変なことだと思いました。統一ドイツには米国の核兵器もロシアの核兵器も必要ありません。ドイツの地に核兵器があること自体、憲法やモラルに照らせば違法だと思います。
 二〇二〇年までに核兵器廃絶を求める平和市長会議の集まりが今年三月にベルリンであり、多くの旧東独出身の首長が参加しました。旧東独部分でも運動は急速に広まっています。

市長に提案へ
 ドイツではPDSに限らず、すべての党派の市長が、この平和市長会議に参加しています。また、マルツァーン・ヘラースドルフ区でも社民党、キリスト教民主同盟、PDSが、一致協力してナチス解放六十年の五月八日のとりくみを進めるなど、反ファシズムや反核平和には共通の基盤があります。私は、ベルリン市が音頭をとって、年に一回、核兵器廃絶を求める全ドイツ規模の会議を開くようボーベライト・ベルリン市長に提案するつもりです。
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2005年05月02日,「赤旗」) (Page/Top

「記憶と和解の日」/5月8、9日は世界の記念日/戦後60周年で国連よびかけ

 5月8日は、ヒトラーのナチス・ドイツが無条件降服した日です。60年前の1945年、日本は戦争継続中でしたが、欧州大戦はこの日で終結しました。人々がファシズムの抑圧から解放された日として記念されています。
 国連総会は昨年11月、「戦後60周年にあたっての決議」を採択し、この5月8日と翌日の9日を「記憶と和解の日」にすると宣言。戦争の惨禍から解放された記念日として祝うよう各国の政府や人びとによびかけました。
 欧州では昨年から各都市や村でドイツ軍から解放された記念の催しが地域ごとにおこなわれています。4月25日はイタリアのファシスト政権の首都があったミラノがレジスタンスのほう起で陥落したイタリア解放記念日です。数十万人のデモ行進が予定されています。
 ドイツでも民主的な勢力が行動を予定、10日にはベルリンのホロコースト・メモリアルで記念式がおこなわれます。戦後60年の世界は、戦争の否定と過去の記憶、反省が流れです。
 「記憶と和解の日」をよびかけた国連総会の決議は、「(第2次世界大戦でナチスを打ち破った)あの歴史的出来事が国連創設の条件をつくりだした」とのべています。国連憲章を基礎にした現在の国際社会がナチスとファシズム、軍国主義の否定のうえに成り立っていることを改めて強調したものです。
 アジアを侵略し、ナチス・ドイツと軍事同盟をむすんで断罪された日本が過去の戦争にどういう態度をとるか問われています。
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2005年05月01日,「赤旗」) (Page/Top

伊解放60周年に10万人、大統領演説/反ファシズムの精神引き継ごう

 【パリ=浅田信幸】イタリアのファシズムからの解放六十年を記念する集会とデモが二十五日、北イタリアのミラノで行われ、イタリアの解放に功績のあった都市やパルチザン協会、労組、左翼諸党の指導者をはじめ十万人が参加しました。
 六十年前のこの日、ナチス・ドイツの占領と独裁者ムッソリーニかいらい政権(サロ共和国)の支配下にあった北イタリアで、ファシズム・ナチズムの支配に反対するレジスタンス組織「国民解放委員会」が国民的蜂起を決行。連合軍の到着に先立って自力で北部諸都市を解放しました。この運動は戦後、戦争放棄や民主主義を明記したイタリア共和国憲法に実りました。
 現地からの報道によると、ミラノ大聖堂前広場での集会で演説したチャンピ大統領は、反ファシズム抵抗運動に多くの国民が参加した意義を強調しました。
 同大統領は、「甚大な犠牲を払ってイタリア全土を解放したのは連合軍だけではなかった。解放にはイタリア国民の貢献が決定的だった」と指摘。反ファシズム抵抗運動にあらゆる階層の国民が命をかけて加わったことは、「われわれの民主主義的良心を示したものだ」と述べました。
 その上で、「ナチスによる占領とファシズム独裁とのたたかいは、万人のための平等な諸権利に基づく新しい国家の礎を確立するたたかいでもあった」と強調しました。
 同大統領は最後に、「われわれが経験した戦争や悲劇の記憶、自由のために命を落とした人々の記憶を決して失ってはならない」と述べ、反ファシズム運動の精神を将来も引き継ぐよう国民に呼びかけました。
 同日午前中にはローマで公的な記念式典がおこなわれましたが、右派連合与党の国民同盟と北部同盟は出席を拒否。またベルルスコーニ首相はこれには出席しましたが、午後のミラノの大衆集会には参加せず、野党や集会デモ参加者から強い批判の声があがっています。中道左派連合ユニオンの指導者プローディ前欧州委員長(元首相)は「与党の主要勢力が解放と民主主義のこの祝日を認めないというのは、まさに懸念すべきことだ」とのべました。
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2005年04月27日,「赤旗」) (Page/Top

チェコ・モラビア共産党と欧州議会左翼会派/国際会議を共催/「社会主義の将来」議論

 【プラハ=浅田信幸】ファシズムからの解放六十年を記念し、チェコ・モラビア共産党と欧州議会の会派「欧州統一左翼・北欧緑左翼連合」が共催する国際会議が二十三、二十四の両日、プラハで開かれました。会議は「社会主義の将来」と「欧州の安全保障と防衛政策」をテーマとし、出席した三十三カ国・一地域の四十二党・組織の代表がそれぞれ意見をのべました。
 初日の冒頭に発言したチェコ・モラビア共産党のグレベニーチェク議長は、チェコスロバキアにおける第二次大戦後の「社会主義」の経験を詳細に総括。米国と旧ソ連との「冷戦」が始まる状況下で、「ソビエトの影響下にあった諸国で共産党は革命的方法で権力を独占し、いかなる代価を払っても維持することを余儀なくされた」と指摘しました。
 同議長は、押し付けられた「ソビエト社会主義モデル」のために「その後の発展の性格は実質的に制限された」と指摘。チェコスロバキアにおける「現実の社会主義」の倒壊について、「決定的な理由は、平等な権利を持つ自由な人々の社会主義社会というマルクスの人道的な構想を物質化できなかったソビエト社会主義モデルの崩壊にある」と断定しました。
 そのうえで、社会主義への接近については「真の民主主義が深まれば深まるほど、社会主義への門口にますます接近する」と説明。「このような目標は、国民の多数がそれをみずからのものにする場合にのみ、確固とした基礎の上で達成されるだろう」と多数者革命の見地を明らかにしました。
 もう一つのテーマ「安全保障と防衛政策」では、二日目に発言したドイツ民主的社会主義党のモドロウ名誉議長が「地上の安全保障を望むのであれば、冷戦によって背後に放置された核兵器も解体されるべきだ」と強調。八千メガトンの核兵器がいまなお貯蔵されているとし、「この貯蔵には論理も根拠もない」と核兵器廃絶に向けた取り組みの必要性を訴えたことが注目されました。
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2005年04月26日,「赤旗」) (Page/Top

世界社会フォーラム/世界資本主義の分裂のきざしと非暴力による社会変革の可能性/藤岡惇

 一月二十六日から三十一日まで、ブラジル南東端のポルトアレグレという街で、第五回世界社会フォーラムが開かれました。私は「アタック・ジャパン」の一員として参加してきました。アタックとは、マネーの投機的な国際移動を規制するため為替取引への課税を要求しているNGO(非政府組織)で、世界社会フォーラムの開催を最初によびかけた団体の一つです。
 グアイバ川に面して弓状に広がる会場では、大小五百七十のセミナーが開かれ、参加者は十五万五千人とこれまでの最高を記録。会場内に「国際青年キャンプ」という巨大なテント村が出現し、三万五千人の若者たちが泊まり込みました。彼らが持ち込んだ若者文化とグアイバ川の野生湿原に没する夕日の美しさが、会場にしなやかな生命力を与えてくれました。
 社会フォーラム運動で、いまもっとも影響力ある理論家といえば、アタックの副会長でもあるスーザン・ジョージでしょう。彼女は、新著『オルター・グローバリゼーション宣言』のなかで、@進行中の資本主義モデルをめぐる「欧米間の内戦」で、もし欧州モデル派が勝利するならば、Aもし私たちが非暴力のたたかいを完遂できるならば、「もう一つの世界は可能だ」と論じています。事態は、彼女の予見どおりに進んでいると実感しました。
 なぜなら第一に、民衆のたたかいに押されて、ブッシュの新帝国主義の道とは異なる道を欧州が提起し、非同盟諸国がこれを支持するという構図が明瞭(めいりょう)になってきたからです。
 じつは国連は、五年前のミレニアム総会で、世界の貧困者数の半減、全児童への初等教育の実施といった「ミレニアム開発目標」を決めていたのですが、米国などが協力せず、たなざらしにされてきました。ようやく欧州と非同盟諸国が主導するかたちで、今年の九月十四日から三日間、「ミレニアム開発目標」の実現策を討議する国連主催の特別サミットを開くことが決まりました。
 問題は、富を世界的規模でどう再配分したらよいかです。フランスのシラク大統領やブラジルのルラ大統領は、社会フォーラム運動に結集するNGOの提案から学び、為替取引税や武器取引税、国際通運への炭素税の導入を提言し始めています。ルラ大統領は、世界社会フォーラムに参加した足で世界経済フォーラム(ダボス会議)に乗り込み、シラク氏とともにポルトアレグレの声を「ダボス・マン」(世界資本主義のリーダーたち)に伝える役割をはたしました。
 このような情勢をふまえて今回の世界社会フォーラムでは、今年を「貧困とたたかう地球規模のとりくみ」の年にしようという呼びかけが行われ、「ダボス・マン」にいっそう強力な圧力をかけようと、さまざまな行動計画が練られました。
 第二に、ブッシュの戦争政策の手をしばる非暴力・市民的不服従の創意ある運動が盛り上がってきたことです。「米軍基地撤去の地球的ネットワーク」の創設をめざすセミナーでは、沖縄の辺野古への米軍基地移設のための工事を非暴力直接行動という方法で三百日以上も阻止しえているという報告があり、国際的な反響を呼びました。
 コカコーラなど、ブッシュ政権をささえる米国製品をボイコットしようという運動も、大きな反響を呼びました。かつてマハトマ・ガンジーの提唱した英国製品のボイコット運動は、民族経済を発展させ、インドを独立に導きました。同様の運動を世界中で展開し、米国国債のボイコット運動や石油を欧州通貨で買う運動に発展させていけば、「アメリカ帝国」は大きな打撃を受けるでしょう。
 一九三〇年代に、民衆のたたかいの圧力をうけて、世界資本主義が二つの陣営――ファシズム陣営と反ファシズム陣営に分裂したことがあります。今日進行しているのは同様の事態であり、非暴力にもとづく社会変革の運動に新しい可能性を開いているのではないかという感想を抱いて帰国しました。
 (ふじおか あつし・立命館大学教授)

世界社会フォーラム
 世界の政財界トップを集めて開かれる「世界経済フォーラム」(ダボス会議)に対抗して、二〇〇一年から始まったNGOの国際会議。世界各地の市民団体、労働団体などが集まる。
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2005年03月11日,「赤旗」) (Page/Top

戦後60年/ドイツの歴史教育/

上/被害国との共同研究/共通認識子どもたちへ

 戦後60年の今年、戦争責任をどうみるか改めて問われています。第2次世界大戦で日本と同様に戦争犯罪をおかしたドイツではナチスの犯罪をどう教えているのでしょうか。被害国ポーランドとともに共通の認識をつくってきた歴史学者や教科書出版社、教育現場を訪ねました。
 (ブラウンシュワイク〈独ニーダーザクセン州〉=片岡正明)
 「欧州の諸国民は二度と戦争を経験してはいけないというのが原点です。国民間の敵意をなくすために共通の認識をつくり、まず子どもに教えていこうとしたのです」―連邦、州が後援する民間研究機関、ゲオルク・エッカート国際教科書研究所のロベルト・マイヤー氏はこう語りました。
 ドイツの歴史教育は第二次世界大戦中、ドイツが侵略した近隣諸国との共同の歴史研究から始まりました。ドイツ北部ニーダーザクセン州のブラウンシュワイクにある同研究所がその中心になりました。研究所には、現在、百カ国十五万冊以上もの教科書があります。研究所が中心となって大戦直後からフランス、オランダ、スカンジナビア諸国と共同研究にとりくみました。

責任認めて隣国と共同
 残されていたのが東西対立下にあったソ連・東欧諸国との共同研究でした。チェコスロバキアとは一九六七年の「プラハの春」の時期に歴史と歴史研究の共同研究を進めることで合意しましたが、ソ連によるチェコスロバキアへの武力干渉で中断しました。
 ポーランドとは、ブラント独首相がポーランドを訪問し戦争責任を認めて謝罪したことで、一九七二年、共同研究の門が開かれました。歴史と歴史教育を共同で研究するドイツ・ポーランド歴史教科書委員会が設けられたのです。
 同委員会の委員でもあるマイヤー氏はいいます。
 「ドイツの東欧歴史研究は当時、現実政治の動向にかなり影響される面がありました。また戦前は東欧に大きな影響を与えてきたという優越史観というべきものもありました。でもドイツの歴史家は戦争への責任を強く感じたのです。優越史観はもはや通用しない」
 ドイツ・ポーランド歴史教科書委員会は七六年にナチスの犯罪と戦争責任を明確にした「歴史と地理の教科書に関する勧告」をまとめます。

教師同士の交流盛んに
 八九年以降は歴史研究の成果を生かして教科書の中身をどう具体化するかに論議は移りました。委員会成立約三十年後の二〇〇一年には歴史研究報告「二十世紀のドイツとポーランド」を出版して、両国の歴史教師のハンドブックとして愛用されています。
 また記述の一部がドイツの歴史教科書にも引用されています。同書にはこれまでになかった「ドイツとポーランドのユダヤ人」など、ポーランド側によるユダヤ人迫害の問題まで掘り下げたユダヤ人の項や第一次大戦以降の両国における「ドイツ人少数民族」「ポーランド人少数民族」などの項もあります。韓国の歴史家も興味を示し、二〇〇二年にはハングル版も出ました。
 今では「第二次世界大戦を子どもたちに伝えるために欧州的展望で作業しよう」と独テューリンゲン州とポーランドのクラクフ、独ブランデンブルク州とポーランドのルブリンなど地域同士の歴史教師の交流も盛んになっています。

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中/各州が教科書検定/ホロコーストは中心点

 「ナチスのホロコースト(大量虐殺)がなかったというような見解が教科書に載ることはありえません。ナチスの戦争犯罪は必ず扱わなくてはなりません」
 ベルリンの大手教科書出版社、コルネルセンのゲーツ・シュワルツロック社会科編集長は即座に断言しました。
 「歴史教育では、すべての州の教育課程の中心点はナチスのホロコーストにあるからです」
 連邦制をとるドイツでは、教育は州の管轄です。教科書は州ごとに検定があります。しかし、教科書で教える教育課程はばらばらではなく、各州の文化相で構成される文化相会議が何をどう教えるのか基本的な教育課程を決めています。ここで「ホロコーストはすべての専門を超え理解すべき対象」として扱われているのです。

市民の証言盛る
 州ごとの教科書検定では、まず州政府から独立した三人の専門家委員会が各教科書についての意見を州に勧告。州は勧告を参考に教科書として適当かどうかを判断します。教科書検定で合格となっても、ナチスのテーマはユダヤ人協会などさまざまな団体から点検され意見が出されます。
 コルネルセンの歴史教科書を見ると、ナチス独裁下の市民生活が詳細に描かれています。ヒトラーの演説やナチスのユダヤ人迫害の命令書、当時の平凡な主婦はどう考えていたかなどの手記。写真、ポスター、地図や図解入りで、何よりも市民の証言が多く盛り込まれているのが特徴です。
 ワイマール時代からなぜファシズムが台頭してきたのか、ナチスが何をしたのかを、子どもたちに史料で科学的に教える内容です。コルネルセンは州別と学校の種類別に二十六種類の歴史の教科書を出していますが、基本は変わらず、州別にナチスの歴史などが書かれます。
 ナチスへのレジスタンス(抵抗運動)の項には共産主義者のレジスタンスもしっかり扱われていました。「皇帝の時代と現在の中国」という補助教材では当時、南京の独企業シーメンス代表であったジョン・ラーベの目を通した南京大虐殺の証言も入っていました。

少数者への寛容
 いくつかの教科書ではドイツ・ポーランド歴史教科書委員会に入っているゲオルク・エッカート国際教科書研究所の所員も書き手です。
 「最近は、コンピューターを利用する教材も発達。CD―ROMでアウシュビッツなどの絶滅収容所・強制収容所に収容された被害者が直接、証言する姿も見られるようになってきました」(シュワルツロック氏)
 ベルリンではナチスの人種優越主義や排外主義の反省から、小学校の社会科では「少数者(少数民族・宗教での少数者など)への寛容」が大きなテーマとして扱われます。中学校にあたる学年の国語(ドイツ語)ではナチス時代にベルリンで当局の弾圧を逃れながら暮らしたユダヤ人青年の手記を読みます。九、十年生(十五―十七歳)では「社会科」として、十二年生(十八―十九歳)では「政治教育」として週に四時間、ナチス時代などの現代史を学びます。

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下/世論が動かす/変わってきた教師

 ベルリン市シュパンダウ区にあるマルティン・ブーバー高校。日本の高校三年にあたる十二年生の教室では、これまでの歴史の授業についての率直な討論がおこなわれていました。
 「授業では毎年のようにナチスのことをやって、テレビ・新聞にも情報が多すぎる。はっきり言って私たち若い世代の罪ではないのだし、もうここまで勉強しなくてもいいのでは」
 女子生徒アリアーネさんの問題提起に議論がはずみました。
 「ナチの時代を学ぶことはあの時代を二度と繰り返さないことを身につけることだ。極右・ネオナチが伸びている時こそ、真実を学ぶべきだ」。男子生徒ゼンケ君の反論です。

収容所跡を見て
 続いて、十年生のときザクセンハウゼン強制収容所跡を見学したこと、両親らと他の収容所跡に行ったことなどが話題になりました。
 「ザクセンハウゼンには拷問の場所や銃殺場があった。わりと小さな収容所なのに、あんなに多くの人が苦しみ、殺されたことは信じられない」(パスカル君)
 「ブーヘンワルトではパワーショベルで遺体を運んで焼いた。医学実験もされていた。とても想像がつかないようなばかげたことが、映画の中ではなく実際にやられていた」(マルビナさん)
 「授業も最初は面白かったけど、だんだんあきてきてショックを感じることが鈍くなったような気がしていた。そんな私に強制収容所跡見学は新鮮な感覚を与えてくれた」(ズージーさん)
 最後は「先生、もっと見学にいこうよ」という要望になりました。
 十二年生に歴史を教えるトーマス・イーゼンゼー教諭は、「生徒たちにとっては、強制収容所・絶滅収容所や展示会といった現場を訪ねる方が印象が深いのです。以前はアウシュビッツ(ポーランド)への学習旅行もやっていました」と語りました。

60年代まで問題
 「ドイツは戦後の最初からナチスの戦争犯罪の責任を問う授業をやっていたかというと、そうではないのです。一九六二年に高校を卒業した私たちの年代を教える教師には、元ナチの人が多くいました。私が歴史教師になった一九六八年からしばらくしても大きな問題がありました」。イーゼンゼー教諭は話を続けます。
 ベルリンの高級住宅街ツェーレンドルフでは祖父母や父母がナチスの幹部や高級将校だった家庭が多く、授業でナチスの戦争責任の話などをすると、親たちから「あの教師は共産主義者だ」と非難されました。
 その雰囲気が変わったのは、みずからもナチスに追われた経験のあるブラント首相が一九六九年に政権についてから―イーゼンゼー教諭の感想です。国際社会からの要求だけでなく、ナチスの責任を問うドイツ国内の労組や社民党、左翼の声のもと、教師や授業も変わっていったのです。
 (ベルリン=片岡正明)
 (おわり)
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2005年02月26日,「赤旗」) (Page/Top

抗日戦争勝利60年9月に記念集会/中国

 【北京=菊池敏也】新華社によると、中国の抗日戦争(一九三七―四五年)勝利六十周年を記念して、今年九月、北京で大規模な集会が開催されることになりました。
 新聞弁公室が五日公表。同室報道官は、「中国人民の抗日戦争は世界の反ファシズム戦争の重要な構成部分で、中国人民は反ファシズム戦争勝利のために大きな民族的犠牲を払い、重要な歴史的貢献をした」とその意義を強調しました。
 集会には抗日戦争をたたかった老兵や、香港、マカオ、台湾の同胞代表、抗日戦争勝利に貢献した世界の友人、その遺族が招かれるといいます。
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2005年02月07日,「赤旗」) (Page/Top

朝の風/イェリネクのノーベル文学賞

 昨年度のノーベル文学賞が、オーストリアのイェリネクに与えられ、驚きをもって、わが国に報じられた。越部暹が『悲劇喜劇』二月号に書いた「エルフリーデ・イェリネク小論」が、参考になる。
 「化学者としてナチスに協力させられたユダヤ人」の父と、「オーストリア・ジーメンス社の人事部長」であった母との間に生まれたイェリネクは、その創作活動の原点を「第三帝国との『併合』以来の祖国」のなかで「生きのびるファシズムの温床」を「暴露」することに向けた、と越部はとらえる。
 マルクス主義者と自称するイェリネクはノーベル賞を受賞する一年前に「現実のイラク戦争に依拠」した『バンビの国』を書いているが、この作品のなかにも、創作活動の原点が見事に生きつづけている。「イルカ(地雷探知機)の飛び交う『バンビの国』(イラク)は、アイスキュロスの『ペルシアの人々』を天地逆にして描いたかのような壮大なルポルタージュ劇」なのだと越部はいう。この作品で「暴かれるのは(傀儡)ブッシュではなく、黒幕チェイニー」などの「ネオコン(新保守主義)シオニスト」とみなされる「言動」なのだ。アメリカの危険な潮流が、洞察されているのである。「イェリネクの劇を、完成作品として翻訳・上演するのは不可能に近い」といわれているのだが、意欲的な演劇人が上演に挑戦することをのぞみたい。(直)
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2005年01月28日,「赤旗」) (Page/Top

朝の風/ファシズムと文化

 「政治が芸術であることは疑いない。もちろん科学ではない。だから芸術なのである」―ムッソリーニは一九二六年、文化行事「ノヴェチェント展」で、こうのべた。この「政治=芸術」という論法は、芸術は政治に奉仕しなくてはならないという論理にすりかわっていったという。
 最近読んだ田之倉稔『ファシズムと文化』(山川出版社)は、イタリア・ファシズム期の政治と芸術との関係を、文学・演劇・音楽・映画・美術・建築の各分野で概観しており、得る所が多い。
 たとえば、歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」で知られる作曲家マスカーニは二三年、政権について間もないムッソリーニに、オペラは国家が支援すべきだと進言。政府は音楽家たちに「見返りとしてプロパガンダ活動を含め絶対的な服従」を要求した。
 ところが、指揮者トスカニーニは、コンサート開演前にファシスト党歌を演奏することを拒否し続けた。三一年、ボローニャでこの態度を貫いてファシストに殴打され、亡命をよぎなくされた。
 他方、マスカーニはファシスト政府に追従。最後の歌劇「ネローネ」に「ムッソリーニへの感謝の意」を込めた。政府も「ファシズムの威光を放つオペラ」として宣伝したが、音楽史に残る傑作にはならなかった。
 戦後六十年。芸術・文化をゆがめたファシズムの歴史を省みることは重要な課題だ。(弩)
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2005年01月25日,「赤旗」) (Page/Top

歴史の逆流許さぬ欧州/独政治家/ナチスの象徴禁止を/全欧州に存在の余地なし

 【ベルリン=ロイター】英国のヘンリー王子が仮装パーティーでカギ十字の腕章とナチスの服装を着用して批判を浴びたことで、ナチスを象徴するものの着用を欧州全体で禁止するようドイツの政治家が呼びかけました。
 欧州議会自由党会派のジルファナ・コッホメリン議員は独紙ビルト日曜版十六日号に掲載されたインタビューで「かつて全欧州がナチスの犯罪の被害を受けた。そのシンボルを全欧州で禁止することは意味がある」と述べました。
 保守政党、キリスト教社会同盟(CSU)のマルクス・セーダー幹事長は同紙に対し、「平和と自由を基礎とする欧州にナチスのシンボルが存在する余地はない。ドイツで行われているのと同じように全欧州で禁止すべきだ」と述べました。また、「ドイツ政府は欧州の友人である英国政府に歴史の授業でナチス時代からのドイツの歴史に重点を置くように求めるべきだ」と訴えました。
 ドイツには厳格な反ファシズム法があり、カギ十字や「ハイル・ヒトラー」式敬礼などナチスを象徴するものの使用は禁止されています。
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2005年01月17日,「赤旗」) (Page/Top

ナチスからの解放60年/ロシア/併合や虐殺の歴史/バルト三国など反応複雑

 【モスクワ=田川実】ロシア政府は戦後六十年の今年、五月九日の対ナチス・ドイツ戦勝記念日に欧米各国の元首などをモスクワに招き、大々的に式典を行います。すでに昨年初めから国営通信社を含む一部マスコミは、対独戦に参加した元兵士・将校のインタビューや国民の戦争体験記の募集などを連発。ソ連時代からもっとも重要な祝日だったこの日にかける今年の意気込みは、格別です。しかし、第二次大戦を機にソ連に「占領された」バルト三国などの反応は複雑。歴史問題をめぐる論争がロシアとの間で続いています。
 「二〇〇五年はわれわれすべてにとり特別な、大祖国戦争勝利六十周年の年である。われわれと、そして運命を共有し結ばれた諸国民すべてにとり偉大な祝日である」
 大みそかの国民へのメッセージで、プーチン大統領はこう強調しました。各国に駐在するロシアの大使をモスクワに集めた昨年七月の会議では、外国でのロシアの「好ましいイメージの形成」のために、今年の祝賀行事を活用すべきだとも訓示しています。
 五月の式典は、米ロ、欧州各国の元首が参加し行われた、昨年六月の仏ノルマンディー連合軍上陸六十周年式典と同様の、国際的行事となりそうです。

異を唱える
 この国をあげてのロシアの動きに異を唱えるのが、昨年欧州連合に加盟した旧ソ連のバルト三国です。
 ラトビアのビケフレイベルガ大統領は昨年十二月、同国の新聞でこう訴えました。
 「五月九日は、ラトビアが世界地図から消え、ソ連となった日。私たちは祝日とは考えない。ファシズムが打倒されたことは喜ぶことができるが、この日はバルト三国にとり二重の意味を持っている」
 同国とリトアニア、エストニアは一九三九年の独ソ不可侵条約の秘密議定書により、翌四〇年、ソ連に併合されました。
 三国は「占領」時代の損失に対する補償を、ソ連の法的継承国家であるロシアに求める構えを見せていますが、ロシアは三国のソ連編入が「当時の国際法に違反していない」とし、「補償要求は根拠がない」(昨年十二月の外務省声明)と反発しています。
 両者の対立は続いており、バルト側は、三月に行う三国の首脳会合で、ロシアの戦勝記念行事の招待への対応を決める予定です。

ポーランドも
 対独戦におけるソ連の役割をめぐっては、ポーランドも、ロシアへの補償要求を視野にカチン事件の再調査を行っています。ポーランド将校、兵士ら多数が一九四〇年五月、ロシア西部カチンの森でソ連軍と内務人民委員部(秘密警察)に虐殺された事件です。
 ロシアにとり戦後六十周年は、お祝いと国威発揚ばかりとはいかないようです。

対ナチス・ドイツ戦勝記念日
 ソ連軍代表のジューコフ元帥が一九四五年五月、ベルリンでドイツ軍代表と降伏文書に署名し、公式に独ソ間の戦争が終結した日。英米の代表は前日の八日に署名していますが、ソ連代表はその場に招かれず、一日遅れの署名となり、記念の祝日も他国とは一日違いになりました。
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2005年01月13日,「赤旗」) (Page/Top

ナチスからの解放60年/欧州で記念行事活発に/27日のアウシュビッツからスタート


ユダヤ人、元捕虜など約1万人出席
 【ベルリン=片岡正明】ナチスからの解放六十年を迎える欧州では各国で解放記念の集会や行事が活発におこなわれます。
 その開始を告げるのがポーランドのオシフィエンチム(旧アウシュビッツ)で行われる一月二十七日の解放六十年式典です。式典にはアウシュビッツ絶滅収容所を解放したソ連の後継国、ロシアのプーチン大統領が招待されるほか、イスラエルのカツァブ大統領、シラク仏大統領、ケーラー独大統領、バローゾ欧州委員会委員長などが出席予定で、主催者側のポーランドからはクワシニエフスキ大統領が出席します。
 式典は絶滅収容所についた収容者たちの思いを込めて同日午後二時半に、汽車の到着音で始まります。式典にはユダヤ人、シンティ・ロマ(ジプシーのこと)、旧連合軍捕虜の元収容者など約一万人が出席します。

独でも計画
 ドイツでは同日に、ドレスデン、ドルトムント、ニュルンベルクで集会・行事があります。ドレスデンではナチスの暴虐の犠牲者をしのび、同日からワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人居住区)の写真や資料の展示会がおこなわれます。ニュルンベルクとドルトムントではプロテスタントの教会グループが中心となり、「ユダヤ博物館の館長とアウシュビッツ解放の意義についての話し合い」(ニュルンベルク)「ホロコースト追悼の集会」(ドルトムント)をおこないます。
 ドイツの平和団体は「戦争とファシズムからの解放六十年で平和的、民主的、社会的に公正な欧州の歴史的未来像をいだこう」(カッセルで開かれた平和政策懇談会の宣言=昨年十二月)と掲げ、今年をナチス解放六十年としてナチスが降伏した五月八日の記念日を中心に三十七の催しを計画しています。
 バイエルン州のダッハウ強制収容所跡では五月一日の解放記念日に元収容者が参加して六十年解放式典を開くほか、三月には教師向けのセミナーを開催。ワイマール近郊のブーヘンワルト強制収容所跡では四月六日、オーストリアのマウトハウゼン強制収容所では五月八日に解放六十年の行事が盛大におこなわれます。
 ベルリンでは五月十日に巨大ホロコースト(大量虐殺)・メモリアルの完成式典が催されます。
 チェコではチェコ・モラビア共産党が五月一日のメーデーを今年はナチスからの解放六十年行事とも位置づけ、各地で二度と戦争を許さない集会・デモを開催します。
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2005年01月13日,「赤旗」) (Page/Top

ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトを追悼/ドイツ/反戦訴え1万4千人行進

 【ベルリン=片岡正明】ファシズムと戦争に反対して殺されたローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの追悼行事とデモが九日、ベルリン市内でおこなわれ、デモだけで一万四千人(警察発表)が参加しました。ルクセンブルクとリープクネヒトはドイツ共産党(KPD)の創設者ですが、党結成大会(一九一八年十二月)直後の一九年一月十五日に反革命勢力により惨殺されました。
 今年はナチスからの解放六十年を迎え、戦争を二度と許さないという決意がデモにも見られました。「米国はイラクから出て行け」のプラカードや「ルクセンブルクとリープクネヒトのたたかいと抵抗を忘れない」と書かれた横断幕が掲げられ、参加者はフリードリッヒフェルデの「社会主義者の碑」前までベルリン市内を行進しました。
 ベルリンに住むローランドさん(46)は「リープクネヒトは当時の帝政議会で勇気をもって唯一、戦争に反対した。二人を追悼してわれわれも戦争に反対だということを示すことが必要です」と語ります。
 ベルリン自由大学に通うヨハネスさん(20)は「二人は戦争に反対してファシズムに殺された。今も戦争の危機はあるし、二人を思い出すことはナチスからの解放六十年の今年こそ重要です」と話しました。
 民主的社会主義党(PDS)からはビスキー議長などが参加。同党のベルリン州政府の閣僚の一人、ウォルフ氏は「二人は平和と社会的公正のために行動したことで踏みつけられ、信念のために殺された」と追悼の重要性を指摘しました。
 ポーランド、チェコなど海外からも参加しました。チェコ・モラビア共産党選出のコーリチェク欧州議会議員は「五年前から毎年、追悼には参加しています。今年はナチスからの解放六十年で、若い人たちに当時、何が起こったのか、ファシズムとは何なのか知らせることが大事です」と語りました。
 ノルトラインウェストファーレン州のミュンスターからきたというステファン・ニーホフさん(36)は「デモに参加することは、社会主義を掲げたために殺された二人を決して忘れない、社会主義者の殺害は決して受けいれないということを示すためです。毎年、このデモに参加すると元気をもらっています」と力強く話していました。
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2005年01月11日,「赤旗」) (Page/Top

芸能テレビ/スポット/映画「キャロルの初恋」主演クララ・ラゴさん/あどけなさも魅力

 スペイン・マドリード生まれ。子役として経験を重ね、映画「キャロルの初恋」(22日公開)で初主演をはたしました。
 物語は、1938年、ファシズムと反ファシズム勢力による内戦下のスペインが舞台。少女・キャロル(クララ・ラゴ)が、母の故郷・スペインで暮らした1年間を描いています。戦争で引き裂かれた小さな恋。悲しい結末。投げかけているメッセージが重く胸に響く作品です。
 「戦争もファシズムも、ばかげたことです。戦争でいつも犠牲になるのはまったく罪のない人たちだということを感じてほしい」
 撮影終了後、すでに3本の映画に出演している新進女優。「撮影に出かける前の日は、つらかったらどうしようとか、意地悪な人がいたらどうしようと考えて、眠れないんです」。あどけなさも魅力の14歳。(忠)
 *東京・シブヤ・シネマソサエティほか全国順次公開
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2005年01月09日,「赤旗」) (Page/Top

2004(ヘッドライン)

*         潮流

*         文芸時評/三木朋子/円熟に背を向ける晩年のスタイル

*         「アカシアの街に」を終えて/戦争ノーのよすがに/右遠俊郎

*         ドイツの平和活動家集う/イラク占領反対の運動推進へ/欧州憲法の軍事条項には反対

*         どうみる独労働者のたたかい/ミュンヘンの専門家分析/工場の国外移転に規制が必要

*         平和活動強化を訴え/ポルトガル共産党大会閉幕

*         独民主的社会主義党大会おわる/総選挙での躍進訴え

*         山田和夫・世界映画の発見/山田和夫著/永年の旅からの作家・現代史論

*         過去の意匠の厚み/ヴィスコンティ監督と「山猫」/矢島翠

*         朝の風/ヴィスコンティ映画祭

*         イラク撤兵が共通要求/欧州社会フォーラム/戦争が福祉削る原因/国際戦犯法廷設置を

*         独・州議選躍進のPDS(民主的社会主義党)/州政策責任者にきく

*         日本共産党知りたい聞きたい/独ソ不可侵条約をどう考える?

*         映画時評/記録映画が真実に迫る衝撃力とは/マイケル・ムーアの「華氏911」/山田和夫

*         独東部2州議会選挙/民主的社会主義党が前進/福祉後退、失業増で2大政党に批判/極右政党が議席獲得

*         戦争のないアジア、戦争のない世界をめざして/アジア政党国際会議/日本共産党代表団長不破哲三

*         ナチの犯罪繰り返すな/シンティ・ロマ強制移住68周年で集会

*         朝の風/ベン・シャーンのメッセージ

*         フィリピンで何が…/「教えられなかった戦争」高岩仁監督がフリートーク

*         激動/中南米をゆく/第1部革命のベネズエラ/21/メディア・ファシズム

*         文化/戦場写真家/キャパ/光と陰/「没後50年」展によせて/中村梧郎

*         イタリア平和のテーブル/グッビョッティさんに聞く

*         番組をみて/新日曜美術館/国吉康雄 アメリカを生きる

*         ナチスの国の過去と現在 ドイツの鏡に映る日本/望田幸男著

*         国吉康雄展/田中 淳/アメリカに生きた画家の「いのち」の表現

*         潮流

*         04米大統領選 移民弾圧/「愛国」の名で

*         映画/独裁者に至る前の顔/「アドルフの画集」

*         朝の風/ベン・ニコルソンが吸った空気

*         ピカソの戦争 《ゲルニカ》の真実/ラッセル・マーティン著木下哲夫訳

*         財閥と帝国主義 三井物産と中国/坂本雅子 著

*         研究ノート/スポーツ運動史/上野卓郎/スポーツとコミンテルン

*         背表紙/『茶色の朝』… 忍び寄るファシズムの不気味さ

2004年(本文)(Page/Top

潮流

 年末に振り返るこの一年。日本も世界も戦争への態度を問われました。考えさせられたのはドイツと日本の違いです▼両国とも米国の同盟国ですが、米国が始めたイラク戦争への対応は正反対でした。ドイツは反対して派兵を拒否し、日本は支持して自衛隊を送りました。かつて植民地を支配し、第二次世界大戦では侵略側となって断罪された歴史も両国は同じです。でも過去に向き合う姿勢が大きく異なりました▼六月六日はファシズムにたいする民主主義陣営の反抗開始となったノルマンディー上陸作戦六十周年でした。同地での記念式典にシュレーダー首相がドイツ首相として初めて参加。米英仏ロ首脳と並んで平和の誓いをしました▼八月一日の「ワルシャワ蜂起」六十周年は、連合軍の進攻に呼応してポーランド市民が立ち上がった日。ドイツ軍に大量殺害されましたが、シュレーダー首相は記念式典に足を運び、「ドイツ軍の犯罪」を謝罪しました▼ユダヤ人大虐殺の象徴アウシュビッツ強制収容所の解放六十周年は来年一月二十七日です。記念式にドイツは大統領が出席の予定です。欧州では侵略戦争の否定と過去の反省が常識となり、国際関係の基準になっています▼アジアでも来年、日本の植民地支配と侵略からの解放六十周年を記念する行事が各国で予定されています。そんななか首相や閣僚が戦争否定の九条を邪魔者扱いし、靖国神社に参拝する日本の異様さ。世界の流れに逆らうこんな動きに来年こそストップをかけたい。
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2004年12月29日,「赤旗」) (Page/Top

文芸時評/三木朋子/円熟に背を向ける晩年のスタイル

 創刊百一年目、千二百号記念となる『新潮』一月号に、E・サイードの遺稿「晩年のスタイルに関する考察」と、これを受けて、亡き人への手紙という形で書かれた大江健三郎の「『後期の仕事』に希望がある(か?)」が掲載されている。
 サイードは、「円熟にわざと背を向ける」芸術家の晩年にひきつけられると述べ、音楽から詩、小説にわたる幾つかの作品にその魅力を探っていく。
 一方、大江は晩年を自覚し、「後期の仕事」に取り掛かったところであり、この手紙の執筆により、カタストロフィー(破局)を書くことを恐れなくなったとしたためる。大江がここで、もう一作やる覚悟を決めたと言う作品が、「むしろ老人の愚行が聞きたい―『さようなら、私の本よ!』第一部」(『群像』同)である。
 作家の自画像をパロディにしたような長江古義人は、集中治療室に入院するほどの深手を負い(前作『憂い顔の童子』の結末)、ひと夏、軽井沢の別荘で療養することになる。奥には別の大きな家があるのだが、そこは地所もろとも、古い知り合いで長く音信のなかった椿繁が買い取ることになる。これには作家の経済事情もからんでいた。
 主にアメリカの大学で建築家として働いてきた繁には、少々いかがわしい履歴もあり、そもそも少年時代の出会いからして、古義人には因縁めく釈然としないわだかまりがあった。しかし、老いた今、次々と友人に先立たれるなかで、繁がロシアと中国の若い仲間を引き連れ隣に住むというのは、心強く思われ歓迎した。
 互いの家を行き来しつつ、当初四人は英語と日本語でエリオットやミシマを論じたりしていたが、繁の提案で、古義人の独り語りや繁との対話をビデオに撮ることになる。ともすれば亡くなった人たちと対話をしている古義人は、ひとりでビデオを回すこともできるというシステムに、いたく心動かされる。このビデオがきっかけとなり、老小説家は波乱万丈の冒険物語を構想し、古義人自身の運命も動き出すところで第一部は終わる。
 作家の晩年を、川端、三島は自殺で締めくくり、谷崎は円熟へ向かったと言えるだろう。大江は、賞賛に比例する誹謗(ひぼう)中傷や批判を浴び、ひんしゅくを買っても、円熟の道を選ばず、「新たな作風の獲得」で晩年を燃焼させる決意のようだ。快挙をたたえずにはいられない。
 ここに、もう一人、「虚構性を否定する、小説の自殺行為」ともいえる方法で、連載を終えた作家がいる。「アカシアの街に」(本紙)の右遠俊郎である。今や、老いと病が道連れの小説家に、「自殺行為」をさせたものは何か。「私の少年時代と似たような雰囲気、ファシズムの温暖化現象を日々肌身に覚える」「時代の流れに危機を感じるからだ」と作家は言う。
 こう書くと悲壮めくが、作品の基調はユーモアにあると私は読んだ。作家は「時の流れに流された、平凡な少年」右遠俊郎が生まれた一九二六年から敗戦まで、二十年ほどの大連での歳月を記録する。平凡とはいえ、戦時とはいえ、幼児は少年そして青年へと成長する。その発達の節目節目がどこかこっけいな逸脱行為、失敗談で記されていく。
 再び、サイードを引用すれば、喜劇、笑いは「時間との不適合」によって生じる。たしかに、右遠少年の数々の失敗は、時代や環境との齟齬(そご)が生み出したものだ。そして、これが喜劇であるからこそ、読者は口元をほころばせつつ、はてさて、おかしいのは少年か、時代か、と考えることになる。このおかしな時代にも引き付けて。
 このおかしな現代を、星野智幸「在日ヲロシヤ人の悲劇」(『群像』同)は、平均的サラリーマン家庭の親子四人が、進行形の世界情勢にかかわり、家族の崩壊に至るドタバタ悲喜劇に仕立て上げている。時は二〇〇六年へと進み、「露連」では独裁的大統領が再選され、対抗する人権擁護と平和運動が世界中の亡命ヲロシヤ人とその支援者によって展開されている。内部矛盾から目をそらそうと大統領はテロ撲滅をうたい「米合」軍の派遣を要請、「アナメリカ」はこれに応じる。日本にはすでに国軍があり、支援と称して軍隊を派遣、派兵をあおったのは何と日本のメディアだった。日露戦争勝利の栄光再びと血気にはやる日本社会で、在日ヲロシヤ人は身に危険を覚える。彼らを支援する運動の先頭に立っていた娘は、メディアに雷同する人々のみだらな言葉で陵辱され、殺される。
 作品には、昨今の社会問題がごった煮のように詰め込まれているが、その猥雑(わいざつ)さが明日の世界の姿とも思わせ、小説に現実感、切迫感をもたらしている。
 『民主文学』(同)には「時代の危機」に作家それぞれの声で応える十三編が並ぶ。
 宮寺清一「弾(たま)」は、自力では身動きもできぬ老人が、体の深いよどみからしぼりだすような声で、痛切な人生の悔いを語る。戦友は無論、空襲で新婚の妻を、さらに震災で老妻を亡くし、自分だけが生き延びている。そんな老人に、最近の報道は、封印していた加害の記憶を呼び覚ます。戦争を知らない者たちが戦争をあおっているのだ。何とかしなければ。贖罪(しょくざい)の思いで鎖骨の裏にある弾は取り出さなかった。その弾が、動かぬ体を突き動かす。何かをなさねばならぬ、と。
 表題にテーマを凝縮させ、すきっとした短編の手本となるような小説である。他にも心に残る作品が多い四十周年記念短編特集だが、燈山文久「暮色の街」は心に焼きつく佳編である。暮れなずむ街の十二年の変化と僕の願い。その描写は必要最小限にとどめ、「祈り」と題された一枚の絵に焦点を絞る。その絵は高給ではない僕にも買えない値段ではなかった。しかし、「祈り」を金で買い、個人で所有していいものだろうか。否。僕は思う。
 (みき ともこ)
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2004年12月22日,「赤旗」) (Page/Top

「アカシアの街に」を終えて/戦争ノーのよすがに/右遠俊郎

 私の「アカシアの街に」は二カ月半の連載で終わった。新聞の連載小説としては短く、マラソンでいえばハーフ・マラソンという感じだ。初めからそのつもりだった。前回の中絶から七年で、まだ脳の力に自信がなかった。素材も自伝的なものに絞り、描写はなるべく省くことにした。
 何もかもが不安だったが、意外なことに始まってすぐから励ましの声が届いた。けれども、私の失語症は厄介(やっかい)で、気をつけていてもどこかに記憶や思考の欠落が生じる。果たして読者から二、三の落度が指摘された。
 その一つは、「ペタン元帥」の記述を間違えたことだ。仙台市のAさんをはじめ多くの方から懇切に教示されてすぐに訂正した。船橋市のIさんからは、特急「亜細亜号」の機関車「パシナ型」(私は「ダブサ型」と誤って書いた)を教えられた。
 そして、「関東軍軍歌」が分からないと書いたら、十人に近い読者からさっそく歌詞が送られてきた。その親切と同時に、多くの人の関心が有り難かった。「しんぶん赤旗」の威力をも感じた。読者との交流は、現在の危機を共有している証だった。仙台市のSさんからは、『関東軍コンクリート船回想記』のコピーまで送ってもらった。
 執筆の途中二、三度、私は脳に微震を感じて、ぐらっとすることもあったが、見えない読者の顔を想像して耐えた。渡辺皓司さんの挿絵も、毎日が工夫されていて楽しく、励みになった。いつものことだが、今度もみんなに助けられて終わりに辿(たど)り着いた。
 私は自分のささやかな小説が、何程のことを為(な)し得たともつゆ思わないが、現代の「王政復古」の企みに、戦争を知るものも知らないものも、戦争はノーだ、ファシズムはノーだと、もう一度胸の内を確かめる、せめてそのよすがになって欲しいと願っている。
 かつて日本は、「王道楽土」を呼称し、匪賊(ひぞく)討滅を図り、偽「満洲国」を建設した。今はアメリカだが、似たような形がイラクで行なわれようとしている。思い比べれば「殷鑑(いんかん)遠からず」、銃剣で守られた民主主義は育たないだろう。この小説を書き終わってそんなことを考えた。(作家)
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2004年12月20日,「赤旗」) (Page/Top

ドイツの平和活動家集う/イラク占領反対の運動推進へ/欧州憲法の軍事条項には反対

 【カッセル=片岡正明】ドイツ中部ヘッセン州のカッセルで四、五の両日、ドイツの百以上の平和団体が参加する第十一回平和政策懇談会が開かれ、イラク占領反対の運動を大きく進めていくことを盛り込んだ集会宣言を採択しました。
 平和政策懇談会は一九九四年から毎年開催され、ドイツ各地と欧州諸国の平和運動家の交流の場となっています。十一回目の懇談会の主要なスローガンは「戦争を通じての平和はありえない」で、平和運動家約三百五十人が参加。海外代表もフランス、スイス、ベルギー、ギリシャ、オーストリア、オランダ、ポルトガル、スペインの八カ国から参加しました。
 採択された集会宣言は「戦争の日常化、軍備拡大、社会保障解体、人種差別的なファシズム的思想の復活に反対し、ファシズムと戦争を二度と許さない歴史的な警告をしよう」と呼びかけ。「戦争とファシズムからの解放六十年に向けて平和的、民主的、社会的に公正な欧州の歴史的未来像をいだこう」と訴えました。行動提起では、来年三月十九日のブリュッセルでの社会保障解体・軍事化反対デモにドイツからも参加するほか、三月二十七日にはドイツでイラク戦争・占領反対の大規模なデモを計画していくことを明記。五月八日のナチス解放六十周年や広島・長崎への原爆投下六十周年、ニューヨークで開かれる核不拡散条約(NPT)再検討会議に向けた取り組みを提起しました。
 今回の大きなテーマはイラク戦争・占領反対、第二次世界大戦終結・ナチス支配からの解放六十周年、欧州憲法の三つです。
 イラク戦争・占領反対では、主催者、平和政策懇談会のペーター・シュトルティンスキ氏が「イラクでは市民が十万人以上殺された。ファルージャなどで多くの子どもが殺されている」と告発。また二期目を迎える米国のブッシュ政権が「新たな戦争を起こす危険がある」と指摘しました。核戦争防止国際医師会議(IPPNW)ドイツ支部のアンゲリカ・クラウセン副会長は「これまでのイラク戦争・占領反対運動では大きな成果があった。世界で数百万人が参加し、世界を結ぶ反戦のネットワークができ、欧州規模でも運動が進んでいる」とこれまでの成果を確認しました。
 ナチスからの解放六十周年では、ドイツでネオナチの流れをくむ極右政党が台頭していることへの警戒を表明しました。
 欧州憲法では、憲法の軍事条項で、欧州連合(EU)が世界各地へ部隊を投入することが可能になるとして、欧州憲法に反対を表明。欧州憲法についての徹底した国民レベルの討論と国民投票での批准決定を求めました。
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2004年12月07日,「赤旗」) (Page/Top

どうみる独労働者のたたかい/ミュンヘンの専門家分析/工場の国外移転に規制が必要


国、企業超えたネットワークを
 ドイツではグローバル化(経済の地球規模化)や欧州連合(EU)の旧東欧への拡大、景気停滞の中で企業側による工場閉鎖や外国移転、労働時間延長の攻撃が強まっています。戦後の歴史のなかで勝ち取られてきた労働者の諸権利を守るたたかいの現状と展望についてミュンヘンの社会環境経済研究所(ISW)のレオ・マイヤー研究員に聞きました。同研究所は経済、社会研究者や労働組合活動家らによって一九九〇年に設立され、労働者の立場に立ち経済、社会、政治問題を分析、政策提言を行っています。
 (ミュンヘン=片岡正明)
 今、ドイツ政治週刊誌『シュピーゲル』の特集記事にもなった「バイバイ、メード・イン・ジャーマニー」という言葉が話題になっています。第二次大戦後、ものづくりで繁栄を築いてきたドイツの工場が次々に外国に移っているからです。九〇年代後半以降、ドイツのものづくりの現場で企業は二百二十万の職を減らしてきました。
 シーメンスは十五年前からチェコ、スロバキア、ハンガリーなどに移転を進めてきました。米自動車のゼネラル・モーターズの子会社オペルはドイツの工場を閉めてポーランドに移転しようと脅しをかけています。

自動車や家電基幹産業も
 工場移転の第一波は繊維産業などでした。現在の第二波の特徴は自動車や家電などの基幹産業です。管理、会計部門やソフトウエア開発部門などの職場も外国に移っています。半導体企業インフィネオンは会計部門を丸ごとポルトガルに移し、シーメンスはチェコのプラハに会計事務所があります。シーメンスのソフトウエア開発計画では予算の30%、人員の50%を中国、インド、東欧などの賃金の安い国で行うとする方針を打ち出しています。

話し合い解決ルールを軽視
 ドイツ国内では大企業は労働時間延長、賃金削減、労組の弱体化を求めています。ドイツなどで第二次大戦後発展してきた社会モデル、資本を十分に規制しながら社会を発展させてきた「ライン型資本主義モデル」が大きな危機にひんしているといえます。資本の側は話し合いで解決するというルールを軽視し、悪条件を押しつけようとしています。残念ながら労働組合としては明確な対抗戦略はまだ打ち出せていません。
 これからの労働者側の一つの方向は欧州諸国の労組の中で企業と国を超えたネットワークをつくることです。多国籍企業なら各国の支社、工場間で情報を交換して、各国の労働者同士を競わせ利益を得ようとする企業側の計画を防ぐことが可能でしょう。労働時間の延長には反対し、労働生産性の上昇率を下回る賃金契約を結ばないなどの欧州労連で決めた最低限の線は各国で守っていくことも大切です。
 欧州では国ごとの個々の問題で大きなたたかいがありました。解雇規制法改悪問題ではイタリア、スペイン、ギリシャで大きな闘争がありましたが、国レベルのたたかいにとどまりました。欧州レベルでの統一したたたかいがこれからは求められます。
 問題は政治のレベルです。資本の移動・国境を越えた投資を規制する政治的枠組みをつくらなくてはなりません。問題を根本から解決するには欧州全体での政治的枠組みをつくる必要があります。「企業の最大の高利益のため」ではなくて、投資される国の労働者・国民の利益になるような投資基準を定めることが必要です。新自由主義の政治的枠組みではない政治的代案が必要です。
 米国や日本、中国、インドなどの労働者との連帯も大事ですが、多国籍企業の横暴に対しては欧州が突破口を切り開かなくてはなりません。欧州、少なくとも西欧には、戦後の反ファシズムを基礎にした社会モデルの共通項があります。欧州で新自由主義への新たな代案ができれば、世界でのたたかいに大きな刺激となるでしょう。
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2004年12月01日,「赤旗」) (Page/Top

平和活動強化を訴え/ポルトガル共産党大会閉幕

 【リスボン=浅田信幸】リスボン近郊で開かれていたポルトガル共産党第十七回大会は二十八日、特別決議「平和と諸国人民との連帯をめざして」に続いて政治決議を採択、百七十六人からなる新中央委員会を選出し、新たに選ばれたジェロニモ・デソーサ書記長の閉会演説で三日間の幕を閉じました。
 満場一致で採択された特別決議は、「帝国主義の侵略性の拡大が人類を未曽有の危険に直面させている」とのべ、アフガニスタンやイラクへの米軍の介入を批判。ポルトガル政府が米国の要請に従ってイラクに派遣している部隊の「即時撤退」を要求。また来年が第二次大戦でのナチスとファシズムに対する勝利の六十年であるとともに「広島、長崎の核ホロコーストの六十年」にあたることにふれ、「平和、軍縮、戦争反対のための行動」に立ち上がるよう広く国民に訴えています。
 政治決議は、来年四月に国民投票の実施が予定されている欧州憲法について「連邦主義、新自由主義、軍事化」の三点から批判し、批准反対の立場を鮮明にしています。
 今大会では党建設が重要課題と位置づけられ、代議員からも各分野での党員の拡大と党による働きかけの必要性を訴える発言が相次ぎました。前大会以来、新入党者が六千人に達し、このうち四割が三十歳以下。その一方、党との接触が切れた党員名簿の整理で党員数は約十万と、四年前に比べて三万人減少したといいます。
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2004年11月30日,「赤旗」) (Page/Top

独民主的社会主義党大会おわる/総選挙での躍進訴え

 【ベルリン=片岡正明】ブランデンブルク州ポツダムで十月三十日から開かれていた独民主的社会主義党(PDS)第九回大会第一回会議は三十一日、ビスキー党議長が「二〇〇六年の総選挙で再び連邦議会に強固な議席を築こう」と結語で呼びかけて閉幕しました。
 大会二日目の三十一日には、台頭するナチス政権下でたたかった革命の伝統を受け継ぎ、極右・ネオナチとたたかおうと訴える「ファシズム解放六十周年」決議と、「この内容では平和の欧州、社会的、民主的欧州は実現できない」と欧州憲法を批判する決議を採択しました。
 ギジ元党議長が大会で特別に演説し、「PDSが連邦議会で二議席に後退し会派資格を失ってから、東独部の問題を取り上げる会派はなくなった」と強調し、二〇〇六年総選挙での党の躍進を訴えました。
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2004年11月02日,「赤旗」) (Page/Top

山田和夫・世界映画の発見/山田和夫著/永年の旅からの作家・現代史論

 著者が映画を求めて歩む旺盛な脚力と知的な探求心にはかねがね感服していたが、本書はその永年にわたる映画の旅の中から、一九七三年初出の「ふたりの巨人―チャップリンとエイゼンシュテイン」から今年の『前衛』八月号の「韓国映画ブームに読み取るもの―民族の記憶と南北統一への悲願」まで、時代と向き合ってきた米欧での、アジアでの、中南米での、アフリカでの、ほとんど全世界の映画と映画作家たちへの分析と論評を試みた、いわば世界映画の歴史を旅する書である。
 人間の存在を圧迫するもの、ファシズム、現代世界を暗い闇の中へ引きずりこもうとするアメリカの独善的グローバリズム、それに盲従するのみの日本政府。これらデモクラシーの根底を脅かすものたちへの決然とした姿勢をただの一度も崩したことのない著者の心底が各章ごとに、作家論となり、現代史論となって展開される。
 神戸港からナホトカ港へ、鉄道、国内線航空機へと乗りついでおよそ五日間、第二回モスクワ国際映画祭にたどりつくところから著者の映画の旅は始まる。この映画祭で新藤兼人監督の「裸の島」がグランプリを獲得することになるのだが、著者にとっての最大の収穫はモスクワ郊外にある世界最大級のフィルムアーカイブ「ゴスフィルモフォンド」でエイゼンシュテインの全作品をその試写室で観つくしたことだった。氏の映画発見の旅の原点である。
 書評と離れるが、それから二十二年後の一九八三年、第十三回モスクワ映画祭に私の「ふるさと」が出品された。毎回参加の著者のほか、東映の岡田茂社長、松竹の奥山融副社長、川喜多かしこ氏、今村昌平監督、浦山桐郎監督ら錚々たる代表団だった。私はまだ四十三歳だった。終映後劇場は満場総立ちのスタンディング・オベーションとなり、主演の加藤嘉さんが主演男優賞を獲得。深夜、ホテルの電話に受賞の一報を入れてくれたのも山田和夫氏だった。
 神山征二郎・映画監督
 やまだ かずお 一九二八年生まれ。映画評論家。
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2004年10月31日,「赤旗」) (Page/Top

過去の意匠の厚み/ヴィスコンティ監督と「山猫」/矢島翠

 自分たちの文化財のいのちを守ろうとする姿勢は、イタリアの場合、建築や美術に限られず、映画の領域でも著しい。ことにルキーノ・ヴィスコンティ(一九〇六―七六年)の作品は、共同監督と短編をふくめた全十九本の修復作業が、ローマの国立映画学校兼映画保存機関であるチネテーカ・ナツィオナーレで完成に近づいた。現段階で望み得るそれら最良の復元版が「ヴィスコンティ映画祭」で上映され、そのうち「山猫」(六三年)は一般公開されている。
 なにしろ、後にも先にも類例のない監督だった、と思う。よく知られているように、大貴族(ダンテの「神曲」煉獄編にも一門の人物が出てくる)の血筋。二十世紀初めのヨーロッパ上流階級の物質的・精神的なゆたかさのなかで育った。優雅な遊び人になりかねなかった青年は、しかし一九三〇年代半ば、人民戦線時代のパリでルノワールの助手についたことから、映画とマルクス主義に接近する。ファシズム政権下の四三年に自己資金で撮影した第一作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は、ロッセリーニの「無防備都市」(四五年)に先立って、イタリア映画のネオリアリズムを先導する画期的なしごとになった。その後映画だけでなく演劇とオペラを合わせた三つのジャンルの演出家として活躍し続けた点でも、まれに見る人だった。
 シチリアの貴族ランペドゥーサが書いた小説「山猫」は、まさにヴィスコンティによる映画化を待っていたような素材だった。
 一八六〇年代、イタリアの国家統一運動が最終局面にさしかかったころのシチリア。貴族の最後の純血種といえるサリーナ公爵(バート・ランカスター)は、自己の階級の没落を見定めて、国民投票では統一を支持する一方、才覚のあるおい(アラン・ドロン)と新興資産家の娘(クラウディア・カルディナーレ)の恋愛結婚をあと押しして、血脈の持続をはかる。
 有名な大舞踏会の場面では、貴族たちの夜会服、女たちのレースと絹、北部から来た統一軍の制服が入りまじり、ほとんど芋を洗うようだ。マズルカやワルツの合い間に、転換期に直面した人間の真情と思惑が交錯する。貴族の心性に対する洞察はさすが、と思わせる一方、血族結婚が猿のような娘たちをつくっている、と公爵にいわせているような痛烈な批判がある。そして宴(うたげ)の果てに、結局は古い王制から新しい王制へと移行した国家統一の過程で、ガリバルディに象徴される革命の夢が裏切られたことが示される。異常なまでに長い舞踏会の描写への執着は、単なる郷愁からではないことは明らかだ。
 ヴィスコンティは舞台経験を積んで成熟した演出力を、さまざまな人間像の造型に生かしている。では舞台では実現できないどんな表現の側面が、最後の「イノセント」(七六年)に至るまで、彼を映画にひきつけていたのだろうか。それは人間の置かれた環境―特定の時代と状況と文化―の、細密な再現にあったと思われる。貴族の広壮な屋敷。年代を経た家具調度。異なる階層の男女の衣服、髪かたち、装飾品。大人数のスタッフに号令して完成させた、途方もなく厚みのある過去の意匠。そのなかに人間を置いてこそ、彼が望んだリアリズムは成立し、イタリア近代史の一時期が目に見えるものとなる。
 (やじま みどり・翻訳・評論家)
「山猫」は、東京・新宿・テアトルタイムズスクエアで上映中
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2004年10月29日,「赤旗」) (Page/Top

朝の風/ヴィスコンティ映画祭

 イタリア映画の巨匠ルキノ・ヴィスコンティ(一九〇六―一九七六)の映画祭が東京で行われた。映画のすばらしい力、巨匠が貫いた生きざまを知る貴重な機会だ。
 ヴィスコンティは一九三〇年代フランスでジャン・ルノワール監督に学び、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(一九四三)で戦後ネオリアリズムの先駆とされ、ムッソリーニ政権に上映を禁止されたが、反ファシズム抵抗運動に参加、逮捕されて処刑前夜に脱走という経験を持つ。今回日本初公開の記録映画「栄光の日々」(一九四五、共同監督)は抵抗運動のドキュメント、そしてシチリアの漁民を描く「揺れる大地」(一九四八)はイタリア共産党の協力で製作するなど、終生反戦反ファシズム、進歩への姿勢を崩さなかった。
 彼は由緒ある貴族の家に生まれ、熟知する出身階級の克明な描写に抜群の腕を見せるが、常に滅びゆく階級の運命を見すえる科学的な史観を堅持。「夏の嵐」(一九五四)は祖国を裏切った貴族夫人の崩壊、「山猫」(一九六三)はシチリア貴族の赤裸々な生態、「地獄に堕ちた勇者ども」(一九六九)はナチスを支えた財閥クルップの退廃を直視するなど。その濃密な映像美に目を奪われるだけではなく、見失ってはならないのはこのような作家の眼。そして「若者のすべて」(一九六〇)などには労働者階級に寄せる信頼が生きていた。(反)
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2004年10月20日,「赤旗」) (Page/Top

イラク撤兵が共通要求/欧州社会フォーラム/戦争が福祉削る原因/国際戦犯法廷設置を

 【ロンドン=片岡正明、浅田信幸、西尾正哉】「もう一つの世界は可能だ」のスローガンでロンドンで開催されている欧州社会フォーラムでは十六日、米国のイラク先制攻撃戦争反対と米英軍など外国軍隊の即時撤退が共通した議題となりました。イラク問題を直接に扱う討論会だけでなく、各分野での討論会でも、この戦争が「福祉切り捨ての原因となる最大の無駄遣いだ」と反対意見が相次ぎました。
 十六日の「戦争、社会運動と政党」についての全体討論会では、イラク戦争開戦前にロンドンで二百万人の反戦デモを組織した英国の「戦争ストップ連合」のアンドリュー・マレー議長が、反戦運動は「英国史上、最も強力な社会運動となった」と指摘。「最も鮮明な課題は占領反対、即時撤兵だ」と述べ、多くの拍手を受けました。
 この全体討論会で、ベルティノッティ欧州左翼党議長(イタリア共産主義再建党書記長)は、「テロとの戦争」への対案は「平和の政策でしかありえない」と強調。ファシズムが一九二〇年代から三〇年代にかけてイタリアからスペインへと広がったのとは逆に「スペインから始まったイラク撤退をイタリア、そして英国へと実現するときだ」と指摘しました。
 また同氏はイラク侵略戦争は「人類に対する犯罪」だと告発し、「戦争犯罪国際法廷の設置を欧州社会フォーラムの意思としたい」と訴えました。
 また同日の「米帝国主義へのチャレンジ」についての全体討論会ではアイルランドの平和団体の代表、リチャード・バレット氏が、米国の対イラク戦争と占領の状態を許しつづければ、次にはイラン、シリアへの戦争、ひいては第三次世界大戦の可能性もあると警告し、「米国のイラク占領を終結させることは社会フォーラムの最優先課題だ」と提起しました。
 社会福祉削減問題や公共サービス切り捨て・民営化などの分科会討論でも、イラク戦争がとりあげられ、「英国はイラク戦争で五十億ポンド(約一兆円)も無駄にした。そのお金があれば公共サービス切り捨てをしなくてすむ」(英公務員労組ユニゾン)、「われわれは積極的にイラク戦争反対、占領反対に取り組んでいる」(ポーランド医療労組)との表明がありました。
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2004年10月18日,「赤旗」) (Page/Top

独・州議選躍進のPDS(民主的社会主義党)/州政策責任者にきく


政策と対話で支持獲得/党員の8割が活動参加
 先の旧東独二州の州議会選挙で、ドイツの民主的社会主義党(PDS)は大きく前進しました。同党は東独時代に政権党だった社会主義統一党(SED)からSEDの非民主主義的性格を厳しく批判しながら再出発し、社会主義を提唱する党です。得票率28%を獲得したブランデンブルク州の政策責任者、ハンスユルゲン・シャルフェンベルク氏(州議会議員)に聞きました。(ポツダム〈ドイツ・ブランデンブルク州〉=片岡正明)
 今回は、選挙前からシュレーダー政権の進める社会保障削減政策に対し、PDSは「社会的公正」をアピールしました。特に失業保険手当給付期間の短縮に続き、失業手当の切れた後に税金で支払われている失業扶助の大幅な削減問題がありました。われわれは社会の底辺の弱者からお金をとるのではなく、資産税などを導入して富裕者からお金を社会に再分配する明確な代案を提示してきました。ブランデンブルク州では他の旧東独諸州と同様、失業率が20%近くあり仕事をつくることが重要問題でした。しかし、前回州議会選挙から五年間、社民党(SPD)とキリスト教民主同盟(CDU)の連立政府は雇用拡大の公約をはたせずにきました。
 この中で、われわれの政策と市民との対話が大きな役割をはたしました。もともとPDSはブランデンブルク州では25%近く得票している党でしたが、今回の選挙で唯一、大きく票を伸ばした政党となりました。

新綱領が力に
 今回の選挙では、二〇〇三年十月の党の新綱領採択が重要な役割を果たしました。またPDSは指導部の対立を乗り越えました。社会主義をめざしながら、まず今日の条件の中でも社会的公正を追求していくという党綱領は党内外で受け入れられました。
 ブランデンブルク州政府は財政難を理由に幼稚園・保育園の費用負担を地方自治体と両親に肩代わりさせました。お金のあるなしにかかわらず、すべての子どもに保育は保障されるべきです。われわれは州負担の復活を要求しています。失業問題では失業扶助給付改悪に反対するとともに、州に密着した中小企業の育成と中小企業が人を雇う場合の雇用援助金を提唱しました。

出店で宣伝し
 選挙運動では、州の党員一万二千人のうち80%が活動に加わったことが重要です。われわれは社民党やキ民同盟の数分の一しか選挙資金はありません。またマスメディアの中でのわれわれの扱いも限られています。われわれは各地の街頭に毎日、選挙宣伝の出店を出し、候補者や党員が直接、市民に訴えることを重視しました。出店にはプラカードや横断幕を飾り、選挙のパンフレットやビラを配りながら人々と対話しました。他のどの党よりも市民との直接対話を多くやりました。党員は高齢者が多く、出店には出られない人もいます。その人はポスターを身近なところにはるだけでもいい。そうして党員の活動率も増やしていきました。
 対話の中で、一番多くぶつけられた質問は、「ではPDSは今の州政府と違ったことができるのか」というものでした。これには客観的に答えなければなりません。社会福祉が完全に保障されるという約束はできません。しかし、弱者の立場に立った政策、社会的公正を求め社会のあり方を変えようとしていると訴えました。具体的には失業扶助削減反対などの政策にいい反応がありました。
 選挙戦の中で、マスコミやキ民同盟、社民党の一部の政治家から極右とPDSを同じ極端主義の流れと中傷する意見が大きく流されました。PDSは反ファシズムで一貫した党で極右と比較されるべきでありません。すべての民主主義政党が極右と対抗することが必要です。われわれは社民党出身の州首相に、このことを確認してもらいました。極右のドイツ国民連合(DVU)の本質を市民にわかってもらうことが必要だと思っています。

小選挙区で最多議席
 九月十九日に行われたブランデンブルク州議会選挙では、民主的社会主義党(PDS)は五年前の一九九九年前回州議会選挙を4・7ポイント上回る28・0%を獲得、議席を七議席増やし八十八議席中二十九議席を獲得、キリスト教民主同盟(CDU)から第二党の座を奪いました。
 ドイツの州議会選挙は連邦議会選挙と同じく小選挙区比例併用制で、議席の半数は小選挙区で選出されますが、最終的には比例区で5%以上を獲得した政党に総議席数が比例配分される仕組みです。
 PDSは前回小選挙区での当選は五議席にとどまりましたが、今回は社民党から議席を奪う形で四十四議席中二十三議席を獲得しました。これは社民党の十七議席、キ民同盟の四議席を超えるものです。
 今回の選挙では、極右政党のドイツ国民連合(DVU)が前回を0・8ポイント上回る得票で一議席を増やしました。
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2004年10月05日,「赤旗」) (Page/Top

日本共産党知りたい聞きたい/独ソ不可侵条約をどう考える?

 〈問い〉 1939年の独ソ不可侵条約について、ヒトラーとたたかうレジスタンスなどへ衝撃を与えたけれどソビエトを守るためには必要だったという話をかつて聞いたことがあります。日本共産党はいま、どういう見方をしているのでしょうか?
 (和歌山・一読者)
 〈答え〉 第二次世界大戦前夜の1939年8月、ソ連の指導者だったスターリンはヒトラー・ドイツとのあいだに相互不可侵条約を結びました。条約には、ソ連とドイツがポーランドを分割し、バルト三国をソ連の勢力圏に含めることなどを決めた秘密議定書が付属していました。
 ユダヤ人や共産主義者らを弾圧し、周辺諸国への侵略をすすめるドイツと不可侵条約を結んだことは、ソ連をファシズムに断固対決する国家だと信じていた人々に衝撃を与えました。同時に、このソ連外交を、英仏の対独融和政策のもとでソ連の安全を保障するための手段だったとする見解も存在しました。
 しかし、どういう事情があったとしても、他国の領土に勝手に境界線を引き、分割占領を取り決めることは、民族自決権の擁護をかかげていたソ連自身の立場に矛盾する、許されないものでした。
 1939年9月1日、ドイツはポーランドへの侵略を開始、ポーランドの西半分を占領すると、ソ連は、同国領内のソ連系住民の「保護」を理由に東半分を占領しました。その後もソ連は、ドイツとの取り決めにしたがって、バルト三国を自らの勢力圏に組み入れていきました。
 さらにスターリンは、反ファシズム政策を一八〇度転換させ、ドイツを美化したソ連の外交方針を、当時の革命運動の国際組織だったコミンテルンをつうじて各国の共産党に強制しました。このことは、反ファシズム戦線の発展のために全力をあげていたヨーロッパ諸国の共産党を政治的苦境に立たせました。
 条約は1941年、ドイツのソ連侵略によって破られます。ソ連はその後反ファッショ連合で米英などと共同し、連合国は勝利しましたが、スターリンは最後まで対独政策での自らの誤りを反省することはありませんでした。     (知)
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2004年09月22日,「赤旗」) (Page/Top

映画時評/記録映画が真実に迫る衝撃力とは/マイケル・ムーアの「華氏911」/山田和夫

 二〇〇一年九月十一日朝、米大統領ジョージ・W・ブッシュはフロリダ州の小学校にいた。女教師が子どもたちに絵本を読み聞かせている教室に彼はいて、秘書官がそっと近寄ってささやいた。大統領は一瞬呆然(ぼうぜん)とし、しばしその場を動かなかった。

「記録映画」の存在
 たまたま小学校の教師が撮っていたビデオの映像。画面の時刻表示も残り、同時多発テロとリアルタイムな臨場感がきわ立つ。マイケル・ムーアの長編記録映画「華氏911」のシーンだが、偶然何の意図もなしに撮られたなまの現実、その断片が全体の展開で生きてくる。ブッシュが深い関係を持つ軍需会社や石油企業、その重役に入り込んでいたビン・ラディン一族、すべての航空機の出発が停止されたなか、大統領の特命で一族はアメリカを脱出した。ブッシュとイラク戦争のウサンくささを徹底的に痛罵(つうば)するとき、前記ブッシュの映像は超大国の最高権力者の空虚な存在感をあぶり出す。
 そのブッシュ批判の非妥協性の故に、ヨーロッパやアメリカ、そして日本の多くの観客から喝采(かっさい)を受け、カンヌ国際映画祭は最高賞を贈ったが、同時に「政治的に偏っているから見ない」と宣言した小泉純一郎首相のような妄言は論外とし、「ブッシュ批判」には賛成だが、ドキュメンタリー(記録映画)はもっと客観的であるべきで、これではプロパガンダだと言う意見が聞こえる。しかし本来「記録映画」とは何だろう?
 記録映画は、なまの現実=アクチュアリティー(事実)と向かい合い、カメラのとらえた映像の集積と選択、編集(モンタージュ)と構成によって作家は自分を表現し、自己を主張する。フィクション(実写の劇や造型のアニメーション)は人工の対象を創造の手段とする。デジタル化やCG(コンピュータ・グラフィックス)などの技術革新によって、両分野の相互浸透が進み、どちらも「表現」「創造」だと共通性だけを押し出し、「事実」を撮ることを軽視する意見さえある。その反面、記録映画の客観性の故に強烈な自己主張を「プロパガンダ」としりぞける声が出る。

「偶然を必然に」
 本来記録映画は「事実」から出発する。前記9・11朝のブッシュはなまの映像であればこそ、映画全体で生きてくる。哲学者の中井正一は、対物レンズがとらえた事実の映像は、さまざまな物理的化学的プロセスを経て、フィルムに定着されるが、さかのぼれば、二度とくり返されることのない瞬間の事実に到達する、その「聖なる一回性」に記録映画のユニークな特質を見た。映画理論家の今村太平は、それ自体では偶然の事実にとどまる映像から出発し、必然的な法則を表現することこそ記録映画の任務であり、「偶然を必然に」と言う有名な言葉を残した。その作業について、イギリスの記録映画作家で理論家のポール・ローサは、「アクチュアリティー(事実)の創造的劇化」と表現したし、オランダ出身の世界的な記録映画作家ヨリス・イヴェンスは、「記録映画作家は第一の眼(め)で対象を見つめ、第二の眼で対象の周囲に目をくばり、第三の眼で未来を見なければ」と説く。
 そして記録映画の歴史をたどれば一九二〇年代ソ連のジガ・ヴェルトフは革命と社会主義を唱道し、前記イヴェンスは反帝反ファシズムのたたかいを広める、強力なプロパガンダの記録映画作家として尊敬をあつめた。要は何をどう「プロパガンダ」するかが問題であり、またその「プロパガンダ」がどれほど芸術的に昇華され、真実を訴える衝撃力を持つかだ。

ウソに気づいた時
 ムーアは第一回作品「ロジャー&ミー」(一九八八年)で、自分の故郷フリントの街がGM(ゼネラル・モータース)の大量リストラで衰退に追い込まれた実態を鋭く追い、ラストはクリスマス・パーティを開くGMのロジャー・スミス会長に突撃インタビューを試みた。そして「華氏911」では後半再びフリントに戻り、実質40%を超す失業になやむ実態を語り、軍に志願すれば学歴もとれるし、就職にありつけると、善意に若者たちにすすめた母親ライラ・リップスコムさんを追う。彼女は自分の息子がイラクで戦死したとき、ようやくイラク戦争のウソに気づきはじめる。ムーアとともにホワイトハウスの前に立ったとき、「はじめて怒りをぶつける相手を見つけた」と告白する。
 ブッシュにだまされて戦争に協力した一人の母親は、いま反戦運動に参加する女性に変わっている。ムーアはイヴェンスの言う第一、第二の眼だけでなく、「未来を見る」第三の眼を備えていることに私たちは気づくのである。
 (やまだ かずお)
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2004年09月22日,「赤旗」) (Page/Top

独東部2州議会選挙/民主的社会主義党が前進/福祉後退、失業増で2大政党に批判/極右政党が議席獲得

 【ベルリン=片岡正明】ドイツの旧東独地域のブランデンブルク州とザクセン州の州議会選挙が十九日、投開票され、社会民主党と保守のキリスト教民主同盟(CDU)の二大政党が後退し、民主的社会主義党(PDS)が得票率、議席を増やして前進しました。旧東独政権党・社会主義統一党の後継政党であるPDSにとり、一九九〇年のドイツ統一後で最大の前進となりました。
 一方、両州で極右政党が5%の足切り条項を超えて議席を獲得。公共放送ARDは「民主主義にとって危険な兆候だ」とコメントしました。

社民の得票率減
 ブランデンブルク州(人口二百五十万人)では、社民党は第一党をかろうじて維持したものの、得票率は前回(一九九九年)より7・4ポイント減らし31・9%でした。同州での連立相手のCDUも、前回より7・1ポイント減らし得票率19・5%。初めて20%を割りました。PDSは前回より4・7ポイント伸ばし28・0%。極右のドイツ国民連合は得票率6・1%で、前回に引き続き州議会で議席を得ました。
 ザクセン州(人口四百三十万人)では、これまで単独過半数を握っていたCDUが前回比15・8ポイント減と大幅に後退し、得票率41・1%。PDSが前回比1・4ポイント増の23・6%で、第二党となりました。社民党は0・9ポイント減の9・8%。90年連合・緑の党、自由民主党はいずれも5%を超え議席を獲得しました。

「改革」は不人気
 一方、極右のドイツ国家民主党が前回比で7・8ポイントも伸びて9・2%となり、州議会入りを果たしました。
 今回の州議選挙は、シュレーダー政権が進めてきた社会・労働政策の大幅な改編策である「アジェンダ二〇一〇」が問われた選挙でした。同政権は健康保険の一部窓口有料化、年金支給額引き上げの凍結、失業扶助の減額など一連の社会福祉後退を実施。失業率が旧西独の二倍以上となっている旧東独部を中心に大きな反対デモが毎週実施されています。
 国政与党の社民党は「改革」の不人気で後退。CDUは社民党よりさらに大幅な社会福祉削減を主張していることから旧東独部では受け入れられず、支持を後退させました。PDSは一貫して失業扶助削減に反対し「社会的弱者の立場にたつ」と訴え得票を伸ばしました。
 一方、極右は現実政治への不満のはけ口となり、支持を拡大しました。PDSのビスキー議長は、極右は「社会的デマをふりまくファシズム」だが、他党がPDSに攻撃を集中した結果、極右が伸びたと批判しています。

ドイツの極右政党 
 移民排斥などを主張する極端な人種差別主義に基づく諸政党で、そのルーツはナチス残党にあるといわれます。一九六四年結成のドイツ国家民主党、七一年結成のドイツ国民連合、八三年結成の共和党などがあります。連邦議会には議席はありませんが、東西ドイツ統一前後から失業者増加などの社会情勢を背景に地方議会で勢力を伸ばしています。
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2004年09月21日,「赤旗」) (Page/Top

戦争のないアジア、戦争のない世界をめざして/アジア政党国際会議/日本共産党代表団長不破哲三

 一面所報、第三回アジア政党国際会議での日本共産党代表団長・不破哲三議長の演説は次の通りです。

アジア史上はじめての諸政党の包括的な会合――マニラ、バンコク、そして北京
 尊敬する議長ならびに親愛なるすべての代表のみなさん。
 私は日本共産党を代表して、第三回アジア政党国際会議の開催を祝福するものです。この会議は、四年前のマニラで始まり、バンコクに続き、そして今回の北京へとつながりました。その足取りは、アジア史上はじめての諸政党の包括的な会合として、すでに歴史に刻まれています。私は、敵対と戦争、断絶、侵略と植民地化などの多くの歴史をもつこの大陸を、平和と主権、友好と協力の輝く大陸に発展させ、「戦争のないアジア」をつくりあげることは、ご出席の各国代表の共通の願いであることを確信しています。
 日本共産党は、その八十二年の歴史のなかで、反戦平和の立場を一貫して貫いてきたことを、なによりの誇りとしています。第二次世界大戦とそれにいたる時期には、日本軍国主義の侵略戦争と植民地支配に反対し、多くの犠牲を払いながらも、アジアの諸国民と連帯してたたかいました。第二次世界大戦後も、アメリカのベトナム侵略戦争であれ、ソ連のアフガニスタン侵略戦争であれ、また最近のイラク戦争であれ、国連憲章にそむき大義をもたない不正不義の戦争には確固として反対する態度を堅持してきました。

世界に広がる「国連を中心に平和の国際秩序を」の声 おおもとには世界政治の構造的な変化がある
 みなさん。
 いま、アジアの平和の問題を考えるとき、私は、「戦争のない世界」――平和を保障する国際秩序をきずきあげることが、世界的な課題となっていることに注意を向ける必要がある、と考えます。
 歴史的に言えば、第二次世界大戦が反ファシズム連合国の勝利のうちに終結し、国際連合が創設された一九四五年、「戦争のない世界」をめざす大きな流れが世界をおおいました。「自衛」以外には各国の勝手な戦争を認めず、戦争を防止するルールを定めた国連憲章は、その流れのなかから生み出されたものでした。しかし、この流れは、五大国の協調が破れ、米ソ対決≠ェ決定的となる情勢変化のなかで、中断を余儀なくされました。
 私はいま、二十一世紀を迎えて、国連を中心に平和の新しい国際秩序をきずき、「戦争のない世界」をめざそうという流れが、半世紀前とは違った新しい状況のもとで、新たな力強さをもって発展していることに、みなさんの注意を引きたいと思います。
 イラク戦争をめぐる経過は、そのなによりの実証でした。戦争が始まる前に、戦争の是非の問題が、国連安全保障理事会であれだけ真剣に議論されたのは、歴史上かつてないことでした。また、ほぼ三千万人と推定される市民が集会やデモを組織して戦争反対の意思表示をしました。この運動のなかで「国連憲章にもとづく平和の国際秩序を守れ」のスローガンが、各国で共通してかかげられたことも、歴史上かつてないことでした。
 戦争が始まって以降のイラク問題の経過も、重要です。それは、世界で唯一の「超大国」を自認するアメリカであっても、世界を自分の思うままに動かすことはできず、軍事力の強大さをもって他国民を支配することはできない、ということを示しています。
 今日では、平和の国際秩序をきずき、まもる力にも大きな変化が起きています。一つの数字を示しましょう。私たちの計算では、国連加盟百九十一カ国のうち、その国の政府がイラク戦争に賛成した国は四十九カ国、人口約十二億人にたいし、戦争反対ないし不賛成の国は百四十二カ国、人口約五十億人でした。その根底には、世界政治の構造的な変化、すなわち、植民地体制の崩壊によって、かつては、世界政治の外におかれていた諸民族が、主権独立の諸国家として世界政治で大きな比重を占めるようになったという、大変化があります。

平和の事業へのアジア諸国の先駆的な役割 流れは広がる、東南アジアから北東アジアへ
 みなさん。
 ここで想起したいのは、世界の平和秩序をきずくという問題では、アジア諸国の先駆的な役割が歴史に記録されていることです。一九五五年、インドネシアで開かれたアジア・アフリカ会議で発せられた「バンドン宣言」は、諸民族の独立という新しい条件のもとで、世界の平和秩序の柱となる諸原則を提起したもので、今日の情勢のもとで、新しい輝きを増しています。
 地域的な安全保障の問題では、私は、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国が結んでいる東南アジア友好協力条約(一九七六年)および非核兵器地帯条約(一九九五年)に注目しています。
 北東アジアは、この点では、もっとも遅れた地域でしたが、私たちは、北朝鮮の核問題についての六カ国協議が始まり、共同して問題を解決する努力がおこなわれていることを、日本にとってもこの地域にとっても重要な意義をもつものとして歓迎しています。この枠組みのなかで北朝鮮の核問題が解決するならば、それは必ずこの地域の諸国間に安定した平和的関係をきずく上で一つの画期をなすでしょう。

アジア諸国の政府・政党といっそうの協力の関係を
 みなさん。
 日本共産党は、政権党ではありませんが、アジアと世界の平和をめざす立場から、国際的な外交活動に力をいれてきました。この会議に、私たちの外交活動の状況を紹介したい、と思います。
 この会議の主催者である中国共産党とは、歴史的な事情から三十二年にわたる関係の中断がありましたが、一九九八年に党関係を正常化しました。また、この間に、党の代表団が、多くのアジア、アフリカ諸国を訪問し、各国の政府と会談し、平和の問題について有意義な意見交換をおこなってきました。
 私たちはまた、非同盟諸国会議やイスラム諸国会議機構とは密接な関係をもっています。非同盟諸国会議との関係では、昨年二月のクアラルンプール(マレーシア)での首脳会議にも、先月のダーバン(南アフリカ)での外相会議にも参加しました。
 イスラム諸国会議機構では、昨年十月の首脳会議に招待され参加しました。
 こういう活動のなかで、いよいよ痛感するのは、アジアの多くの政府・政党、そして国民が、日本に、アジアの一員としての立場をふまえた自主的な平和外交の展開を強く切望している、という事実です。
 私たちの考えでは、日本政府が現に展開している外交は、残念ながら、多くの点で、この願いに応えるものとはなっていません。私たちは、日本の外交を、世界の平和の流れに合致させる方向で転換させるために努力することは、野党として日本の国政にたずさわっている私たちの重要な責任である、と考えています。
 私たちは、国際政治にのぞむ私たちの基本的な姿勢を党の綱領のなかに明記しました。いくつかの内容をここで紹介することをお許しください。
 ―日本が過去におこなった侵略戦争と植民地支配の反省を踏まえ、アジア諸国との友好・交流を重視する。
 ―国連憲章に規定された平和の国際秩序を擁護し、この秩序を侵犯・破壊するいかなる覇権主義的な企てにも反対する。
 ―社会制度の異なる諸国の平和共存および異なる価値観をもった諸文明間の対話と共存の関係の確立に力をつくす。
 日本共産党は、これらの立場を活動の根底にすえながら、ひきつづき、アジアの諸党との対話と協力の関係を、より広く発展させるために力をつくすつもりです。

来年二〇〇五年は国連憲章六十周年、バンドン会議五十周年の年 「戦争のないアジア」めざす声を世界に発信しよう
 議長ならびに代表のみなさん。
 最後になりますが、私は、アジアの諸政党の兄弟・姉妹が一堂に会したこの機会に、こういう交流の場をさらに多面的に発展させたいという思いに立って、議長に一つの提案をおこないたいと思います。
 来年は、第二次世界大戦の終結六十周年、国際連合の創設と国連憲章策定六十周年、そしてバンドン会議五十周年にあたります。世界の平和とその規範にとって重要な意味をもつこの年に、アジアの政党として、なんらかのイニシアチブをとられることを提案するものです。
 アジアは、世界の総人口の六割を占め、世界の経済の上でも、政治の上でも、二十一世紀にますますその比重を高めてゆくことは間違いありません。また、その歴史には、古代以来の豊かな文明の成果とともに、戦争の惨禍や植民地支配の多くの傷跡が刻まれています。さらに、アジアは、文化的・宗教的な価値観の多様性という点でも、世界でもっとも代表的な地域の一つです。そのアジアが「戦争のないアジア」をめざし、地域内の安定と平和の国際秩序の確立につとめるとともに、平和の国際秩序の建設を求める共通の意思を世界に発信することは、二〇〇五年という歴史的な年にふさわしい事業となるのではないでしょうか。
 このことを提案して、発言を終わるものです。ご清聴ありがとうございました。
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2004年09月05日,「赤旗」) (Page/Top

ナチの犯罪繰り返すな/シンティ・ロマ強制移住68周年で集会

 ナチス・ドイツによるシンティ・ロマ(ジプシー)の迫害・大量殺りくなど「ナチの犯罪を繰り返すな」とベルリンのマルツァーン区の記念碑前で十三日、シンティ・ロマ強制移住六十八周年の集会が開かれ、約三百人が参加しました。
 集会では、シンティ・ロマ協会のベルリン・ブランデンブルク支部長のペトラ・ローゼンベルクさんが「一九三六年の夏の日の朝、千人以上のシンティ・ロマがナチスにより家を追われ、ここの収容所に移住させられました。このような人種差別主義はもう二度と許してはならない」と訴えました。
 ベルリン市議会のワルター・モンパー議長は「当時のナチスの犯罪は、一緒に暮らしていた隣人への犯罪だ。民族差別がないよう目を光らせ若い世代に伝える責任があります」と強調しました。
 ナチス・ドイツは一九三六年のベルリン・オリンピックを前に、シンティ・ロマをベルリン各地からマルツァーンに強制移住させました。一九四五年五月の解放の日まで数千人が収容所に移住させられました。
 人々は軍需工場などで強制労働を強いられ、四三年には多数がアウシュビッツ絶滅収容所送りとなり命を落としました。
 インターネットで集会のあることを知って、ベルリンのシュパンダウ区から来たというスウェンさん(29)は「ナチスに反対することはますます大事になっています。二度とファシズムがないように集会に参加しました」と語っていました。
(ベルリン=片岡正明 写真も)

シンティ・ロマ 
 インド北西部に起源をもつアーリア系民族で、言語のロマニー語はインド・ヨーロッパ語の一つ。「ロマ」は人間の意味。欧州、西アジア、北アフリカなどに移住。総人口は五百万―八百万人と推定されています。多くは定住を好まずテントや馬車を使っての移動生活をするため、人々に受け入れられず、迫害されてきました。現在は定住者が増えています。
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2004年06月21日,「赤旗」) (Page/Top

朝の風/ベン・シャーンのメッセージ

 大川美術館(群馬県桐生市)のベン・シャーン展は、この画家の勇気を振り返るいい機会だ。フランスにおけるユダヤ人差別の冤罪「ドレフュス事件」を描き、アメリカ同時代のアカ狩り冤罪「サッコとバンセッティ事件」を描いて、一九三〇年当時から明確な自由の思想を表明していた。
 一九三〇年代アメリカは、反ファシズム運動の高揚をみたかと思うと、ナショナリズムの猛烈な巻き返しがあった。シャーンは労働組合指導者トム・ムーニーへの弾圧にも激しく怒り、絵で抗議した。社会的弱者の権利を守る彼の表現は熱烈な支持を受けたが、権力の側は有力な攻撃の標的として記憶した。
 戦後になると、マッカーシズムのもと、議会と右派マスコミは口汚く彼を攻撃し、FBIは転居先でも外国旅行先でも彼を監視した。ブラックリストには、彼の描いたクリスマス・カードを平和委員会が売っていることや、彼の車は一九四八年式のクライスラー・コンパーティブルで色はブルーだとまで記された。
 一九八〇年代までの冷戦体制が崩壊し、ようやく冷静な目が彼に向けられるようになった。戦後の代表作ラッキー・ドラゴン(福竜丸)シリーズは人類の悲しみを語る。ファシズムと戦争の二十世紀に政治にほんろうされた画家は多いが、シャーンは屈服することも迎合することもなく、自己表現への底知れぬ確信を示した画家だった。(葡)
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2004年05月28日,「赤旗」) (Page/Top

フィリピンで何が…/「教えられなかった戦争」高岩仁監督がフリートーク


鳥取で「戦争と平和」考えてみる集い
 「教えられなかった戦争」上映委員会は二十二日、鳥取市の鳥取県民文化会館で「せんそうとへいわ」について考えてみるつどいを開きました。
 約五十人が参加し、高岩仁監督の「教えられなかった戦争―フィリピン編」を見た後、元共同通信記者の土井淑平さんが聞き手となり、高岩監督と「テロと戦争」と題してフリートークしました。
 高岩さんは、フィリピンの共産党と社会党が合同してつくった反ファシズム統一戦線・フクバラハップのたたかいについて紹介。「日本の侵略戦争で百十万人のフィリピン人が犠牲となったが、戦後のアメリカ・日本の経済侵略でその倍の人が犠牲となっている。一九八五年以降、日本の資本進出が目覚ましく、開発独裁政権によって農・漁民が土地から追い出され、日本の大企業の下請け企業に用地と港が提供されている。マニラの人口八百万人の半数の四百万人がホームレスとなり、仕事がないためにごみ捨て場で生活している。労働運動の活動家や難民支援者らが毎年二千人以上不当に逮捕され数百人が虐殺されているが、実態はその何倍にもなる」と告発し、映画作製に協力した現地の三人が不審な死を遂げたことを告げました。
 会場から「資本家が暴力を用いて利潤を追求している実態はわかったが、どういう社会構造がいいのか」などの質問が寄せられていました。
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2004年05月27日,「赤旗」) (Page/Top

激動/中南米をゆく/第1部革命のベネズエラ/21/メディア・ファシズム

 首都カラカスのホテルで開かれた非同盟諸国十九カ国の首脳会議を取材中のことです。周辺が騒がしくなったので外にでると、会議の警備にあたっている国家警備隊に反革命派のデモ隊数百人が近づき投石しています。覆面やガスマスクをかぶった若者もいました。

■正反対の報道
 警備隊の側は催涙ガスやゴム弾を発射して規制を始めていました。前日、警備当局は「市内のデモは自由だが、首脳会議の会場一`以内は進入禁止にする」と警告していました。デモ隊はこの規制を破って挑発的な攻撃を仕掛けていました。
 驚いたことに反革命派が牛耳る三つの民間テレビは事態をまったく逆に報道しました。「首脳会議に要請書を提出しようとした平和的なデモが国家警備隊によって暴力的に弾圧されている」というのです。
 三局とも一般番組を中止して実況中継に切り替え、警備隊がデモ隊を排除する場面と救急車で運ばれる負傷者の姿だけを繰り返し放映しました。番組には反革命派の指導者や学者が出席して「政府の違法な武力行使だ」と非難をなげつけます。デモをあおりたて「一にフセイン、二にアリスティド(ハイチ大統領)、三はチャベスだ」と、米国の介入による政権打倒を呼びかけるジャーナリストもいました。
 反革命派の民間放送は、政府の見解や警備当局の公式発表は何も伝えません。伝えないどころか記者会見にも現れません。反革命派の会見にはマイクが林立するのに、副大統領や閣僚の会見には国営テレビの一本だけです。
 日刊と週刊合わせて十数紙ある新聞もほとんどが反革命派で、テレビと同様の編集で政府批判を繰り返します。
 政府の立場を伝えるのは国営放送だけです。一応全国で見ることができますが、どちらかというと編集が地味で穏健です。圧倒的な反革命宣伝に包囲された「メディア・ファシズム」を目の当たりにした思いでした。

■「国民的新聞を」
 こうしたなか昨年末、革命派の日刊紙ベアが創刊されました。発行責任者のガルシア・ポンセ氏は古くからの共産党幹部で長く国会議員を務め、チャベス政権になってから大統領の政策顧問として働いてきました。
 「憲法と言論の自由は守らなければなりません。そのなかで革命の過程をわい曲して伝える大新聞と民間テレビに対抗するには、国民的な新聞がどうしても必要で、国民が待ち望んでいました」と同氏は強調します。
 確かに他の大新聞が無視する政府の見解や内外のニュースと短い論評が毎日新鮮に紙面を飾っています。革命派に大歓迎され、創刊数カ月で販売部数は第二位を占めるようになっています。記者が毎朝、新聞を買いに行くキオスクの母娘は熱烈な革命派です。ベア紙を差し出しながら、「〇〇ページにすばらしい記事が載っているよ」と薦めてくれます。
 (カラカス=田中靖宏 写真も)(つづく)
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2004年05月17日,「赤旗」) (Page/Top

文化/戦場写真家/キャパ/光と陰/「没後50年」展によせて/中村梧郎

 キャパが死んでから50年がたった。「戦場フォトグラファー」として世界の賞賛を浴びてきたキャパは、1954年5月25日、北ベトナムのタイビンで地雷に触れて40歳の生涯を閉じた。足をもがれての即死。戦場での死は彼の宿命だったともされる。だがそれを単なる運命と見るべきか否か、私は迷っている。もしかしたら「キャパによるキャパの思想との決別」が悲劇をひきよせたのではないかという思いが生じているからである。彼が戦場写真家としての評価を得たのは1935年、スペイン内戦で人民戦線派の兵士が銃弾に斃(たお)れる瞬間を撮ったのが契機だった。38年には中国に飛んで、日本軍の侵略に抵抗する国共合作時代の中国民衆の戦いをレポートする。第2次世界大戦では、反ナチ・レジスタンス運動や連合軍のノルマンディー上陸の写真で確たる地位を得てゆくことになる。キャパの特徴はまた、必ず反ファシズム・反侵略の側に身を置いて撮る、という断固たる姿勢にあった。そしてどの戦場でも、踏みにじられる民衆や弱者への共感を表現した。今回の写真展でも、はじめて公開された写真の多くにそうした人間的温かさがにじんでいる。
 謎は、仏領インドシナの地でだけ、なぜ彼が侵略軍のフランス(仏)軍と行動をともにしたのか、という点にある。もちろん、どこに従軍しようが、確固たる眼差しさえあれば良い写真は生まれる。問題は何をどう撮ったかにあるのは言うまでもない。毎日新聞の招待で来日していたキャパのもとに、ライフ誌からインドシナ派遣の電報が届いたのは1954年の4月末のことだった。しかしキャパは第2次大戦が終わった後にこう宣言していた。「私はこれから一生、戦争写真家としてはずっと失業のままでいたい」(「弟キャパ、兄キャパを語る」日本写真家協会報86)。そして「出発前、キャパは――俺はバカだ、どうしてインドシナにゆくといったんだろう…」(『ちょっとピンぼけ』―亡き友キャパ―川添浩史)。そうボヤきつつキャパは日本を発(た)っている。
 彼の大きな混迷はしかしその点でもなかった。当時、アメリカ政府は敗退を続けるフランスを支援していた。「結局のところ(ライフ誌は)極東における共産主義の拡大に激しく反対していたのだ。それどころか、キャパは生涯で初めて、自分の主義とは敵対する側に立たねばならなかった」(近刊のA・カーショウ『血とシャンパン』野中邦子訳)のである。キャパがベトナムに入ったのは、仏軍の敗北を決定的にした5月7日のディエンビエンフー陥落から2日後のことだった。しかし「まだフランス軍の士気は高い」と言うために、彼はタイビンに飛ぶ。「キャパは、そんな写真が『ライフ』の政治的な立場にぴったりだと承知していた。『ライフ』はフランス軍優位の記事を歓迎したのだ」(同)。いかにも唐突に見える。キャパはいつ変節したのだろうか。「アーウィン・ショーはのちに書いている。『いつも思っていたのだが、キャパがあの仕事を引き受けたのは、コミュニストのシンパだという根強い疑いを否定するためだったのではないだろうか』」(同)。マッカーシズムのもと、キャパは1952年からFBIによる執拗(しつよう)な詮索(せんさく)を受けていたのであった。脅迫と懐柔、供述と宣誓―戦場には行きたくないが、チャンスかもしれない―キャパを血迷わせ、死に追いたてたのは彼自身の宿命というより、まさしくアメリカの反共旋風だったとみるべきなのではあるまいか。ハノイ滞在中の研究者からのメールによれば、タイビンではキャパという写真家の死を知っている人はいないようだという。抗仏のベトミン(ベトナム独立同盟の略称)側にとっては、埋めた地雷に仏軍が引っかかったという、日常的な出来事のひとつにすぎないのである。
 キャパの死がこうしたものだったとすればあまりにも寂しい。歴史の数々を切り取ってきた男は、やはり最期まで時代に翻弄(ほんろう)される悲劇を背負っていたというべきなのだろうか。 (元岐阜大学教授・フォトジャーナリスト)
     ◇
 16日まで東京都写真美術館рO3(3280)0099(恵比寿ガーデンプレイス内、2階展示室) 

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2004年05月09日,「赤旗」) (Page/Top

イタリア平和のテーブル/グッビョッティさんに聞く


EU憲法に戦争拒否条項をと運動/9条守る国民の意思感じた/日本の運動、世界に発信を
 三日に都内で開かれた「5・3憲法集会」に海外代表として参加した、イタリアの平和団体「平和のテーブル」のマウリツィオ・グッビョッティさんに、イタリアでの憲法をめぐる状況や平和運動についてききました。「平和のテーブル」は同国の有力平和団体で、昨年から欧州連合(EU)憲法に戦争拒否条項を盛り込む運動に取り組んでいます。(島田峰隆・党国際局員)

■日本に来て
 憲法集会に参加し、憲法第九条を守ろうという日本国民の強い意思を感じました。私たちは、欧州連合(EU)憲法にイタリア憲法の第一一条のような戦争拒否条項を盛り込むことを求めて運動しています。たたかいの共通性を感じ、日本の運動を身近に感じました。
 世界社会フォーラムや各大陸の社会フォーラム、そして東京の憲法集会と、反戦運動は世界中で起き、もはや抗しがたい流れとなっています。武器を用いた外交や調停が機能しないことに世界の人々が確信を深めている証拠です。
 イタリアと日本の政府は、米国のイラク戦争を支持し、派兵も強行しました。ただ異なる点は、イタリアでは幸い第一一条を変えようという策動が出ていないことです。しかし実際には、政府は「戦争に行くのではない」と国民をごまかし、憲法を無視しています。

■伊の共通点
 両国で共通する点は、国民の意思と政府の考えがまったく乖離(かいり)してしまっていることです。イタリアではイラク戦争に反対して三百万人がデモ行進しましたが、政府は戦争に加担しました。日本の小泉首相の発言を新聞で読みましたが、憲法集会に参加した人々や派兵に反対する国民の声とはまったくかけ離れた立場で話していることに驚きました。
 これまでイタリアはユーゴスラビア空爆(一九九九年)、アフガニスタン攻撃(二〇〇一年)、昨年のイラク戦争に加わり、残念ながら第一一条は徹底されてきませんでした。
 しかし第二次世界大戦のレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)を通じて生まれた憲法は、戦後、敵対した周辺国との関係修復で力を発揮してきたし、その精神は今でも国民の大部分に共有、支持されています。イラク戦争や派兵に反対が強いのも、それが一つの理由です。

■若者が参加
 EU憲法に戦争拒否条項を盛り込む署名には、昨年秋に行われたペルージャ・アッシジ平和行進の日だけで三十万筆が集まり、今も増え続けています。
 特に若い人々が、この運動に取り組み始めています。研究者や知識人だけでなく、若い世代が憲法に注目するようになったことは重要です。背景には、インターネットを通じて運動への参加が容易になったことと同時に、国連憲章を無視した戦争が相次ぎ、世界が平和のルールのない時代に逆戻りしていることへの懸念があると考えます。
 「平和のテーブル」は先日、野党中道左派連合「オリーブの木」を構成する全政党の党首と会見し、EU憲法に戦争拒否条項を入れ、イラクからの撤兵を求める立場を取るように訴えました。
 提案には全政党が賛成し、「オリーブの木」は来週にも、イラク撤兵を求める決議案を国会に提出するといいます。上下両院とも右派与党が過半数なので可決は困難でしょうが、重要な動きです。(注=イタリア下院は五日、この決議案を採択した)
 イタリアでも日本でも、憲法を守るには学校での教育が最も重要だと思います。歴史を学び、戦争の悲劇と平和の尊さを伝えることが欠かせません。
 日本では与党と最大野党が憲法改定に賛成する重大な状況です。私はイタリアの運動を代表して、日本で憲法を守ってたたかっている方々に全面的な連帯を表明します。みなさんがたのたたかいを世界にも発信していただき、憲法を守る運動の交流を続けていきたいと思います。

イタリア憲法第11条
 全文は次の通りです。
 「イタリアは、他国民の自由を侵害する手段としての戦争、および国際紛争を解決する手段としての戦争を否認する。他国と同等の条件のもとで、国家間の平和と正義を保障する体制に必要ならば主権の制限に同意する。この目的をもつ国際組織を促進し支援する」
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2004年05月09日「赤旗」) (Page/Top

番組をみて/新日曜美術館/国吉康雄 アメリカを生きる


(NHK教育 18日放送)/進歩と反動の波を泳ぎぬいた画家
 二つの大戦の時代を画家としてアメリカで生きた国吉康雄を描いた。国吉が美術界で得た評価の絶大さ、教師として受けた信望の大きさも語られた。
 一九三〇年代のアメリカ美術といえばアメリカン・シーンと呼ばれる画家群に日本人が連なることだけだった。国吉は社会の現実を見る彼らの態度に共感しつつも、平俗なメッセージ性には同調せず、繊細な色調、緻密な構成の独自スタイルに、心情を描きこんだ。
 番組で作品解釈に立ち入ったのは愁いある女性像の「デイリー・ニュース」のみで、代表作の一つ「跳び上がろうとする頭のない馬」には、深い意味がありそうだという漠然とした言葉だけだった。しかし国吉作品には、明確にファシズムに反対する自分がいる。その実像の発見こそ絵と人に愛情を深める瞬間である。
 大戦を通じてアメリカは世界の覇権を握り、内にはナショナリズムを強め民主主義を形がい化する。国吉の戦後の絵には独立宣言の精神に立ち返れという願いが暗号のように込められている。アメリカ文化史の側から国吉を研究してきた小澤善雄氏が、リベラルが受けた順風と逆風を印象深く語ったのは、国吉の苦悩を理解する大事な前提だ。
 国吉がマッカーシズムのアカ攻撃に屈せず、美術家の全米規模職能団体を設立させ初代会長を務めたのも画業と並ぶ偉業だ。進歩と反動の波を泳ぎぬいた画家の実像に正面から、半歩手引きする好番組だった。
 (山口泰二 美術評論家)
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2004年04月27日,「赤旗」) (Page/Top

ナチスの国の過去と現在 ドイツの鏡に映る日本/望田幸男著


60年代「第二の戦後改革」に彼我の差
 ドイツ近現代史研究者の著者は、ドイツと日本の戦争責任・戦後責任の比較研究をおこなってきた。少なからぬ日本国民が小泉政権や石原都政の右からの「現状変革論」に幻想を抱いている状況に、かつてワイマール共和国下のドイツ国民が、ヒトラーとナチ党が掲げた現状打破と経済的困苦からの救済といった「現状変革論」に幻惑されて、ナチス政権の成立を支持した歴史とを二重映しに感じたという。本書の執筆動機の一つである。
 副題のとおり、「ナチスの国の過去と現在」と「天皇制ファシズムの国の過去と現在」とを比較史的に検討する。ドイツと日本の現在が、「過去の克服」においても、アメリカのイラク侵略戦争に対する政府の対応においても「日本のはるか先を走っているドイツ」といわれるような落差がついてしまったのはなぜか、両国の民主主義の制度・意識・運動の歴史過程の異同を洞察しながら、分かりやすく分析している。
 ワイマール・デモクラシーと大正デモクラシー、ナチス政権と天皇制ファシズム政権、米英ソ仏四カ国分割占領とアメリカ単独占領、ドイツ(西独)と日本の国家と社会にみる戦前・戦後の連続と非連続、「過去の克服」の基本的達成と未達成等々、本書には「ドイツの鏡に映る日本」の過去と現在の問題が豊富に叙述されている。読者はそこから日本の現代史の新たな側面に気づき、さまざまな歴史の教訓を学ぶことができる。
 「過去の克服」「市民社会の成熟」などに見られるドイツと日本の落差は、一九六〇年代後半の学生運動世代が重要な役割を担った教育改革や「フェミニズムの波」に代表されるドイツの「第二の戦後改革」の実行にあったという分析は説得的である。現在の日本にこそ「第二次戦後改革」が要請されているという著者の想(おも)いが、広く日本人に共有されていくことの大切さを痛感する。
 笠原十九司・都留文科大学教授
 もちだ ゆきお 一九三一年生まれ。同志社大学名誉教授。
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2004年04月25日,「赤旗」) (Page/Top

国吉康雄展/田中 淳/アメリカに生きた画家の「いのち」の表現

 今、さまざまなニュースに接するにつけ、世の中、いや世界中のバランスがくずれかけている、と感じている人は少なくないのではないだろうか。かつて同じように、いや「太平洋戦争」というさらに過酷な状況の中にいて、不安を抱き、悲しみ、悩み、考え、それを表現に昇華することができた画家が半世紀前にいた。その画家の名は国吉康雄、そして画家がいた場所は、アメリカだった。
 わたしは、一九九九年九月に愛知県美術館にて、「危機の時代と絵画 一九三〇―一九四五」という展覧会を見た。同展は、暗転する時代と真摯(しんし)に、そしてひたむきにむきあい、自分の表現を模索した画家たち十三人の作品によって構成されていた。靉光、松本竣介など、彼らと同世代の画家に交じって、彼らが日本という国で体感し、表現した作品群を相対化するように国吉康雄の作品がならべられていたことが、強烈な印象として残っている。会場では、それほどの存在感があったことをおぼえている。

「いのち」を語る言葉を探る生涯
 さて、今回の国吉の展覧会であるが、単なる回顧展ではない。企画者は、今、この画家を回顧する意義を鋭く問いかけている。まるで、ひとつの国が世界中を支配しているような錯覚、その国自身も、そう錯覚しているような状況の中で、かつて理想、違和感、批判、恭順、諦観(ていかん)といった、重層的な内面をもちつづけたアメリカにいたひとりの日本人画家として、とらえなおそうとしているからだ。企画者は言う、個人の立場からの「いのち」へのまなざしとして、「国吉の画家としての生涯は、まさにこの『いのち』という存在をいかに表現できるか、社会に向けて『いのち』を語るべき言葉を探る、まさに芸術家の生涯であった。」(市川政憲氏・現愛知県美術館)と。岡山県に生まれ、十七歳で単身渡米し、画家として地位を築いていった国吉康雄の初期から晩年までの作品を精選し、「いのち」をもとに見つめなおそうという内容である。

明るい赤の裏にひろがる悲しみ
 初期の素朴な表現、ザラザラとした土や砂といった「自然」や都会の片隅に暮らす「人間」に対する感覚、モデルをはなれて、あるドラマを連想させるような「女性」像、ものがズドンとある「存在」に対する感覚、誰かが画家自身を壊そうとしたことを冷静に見つめる「自分」に対するドライな感覚、これらが画家の生涯のなかで幾重にも重なり、その内面が複雑な闇となって表現されていたことを確認する。
 「誰かが私のポスターを破った」(一九四三年)では、大戦中、反ファシズムのポスターを前にした女性は、憂いをひめているようにみられる。また、「跳び上ろうとする頭のない馬」(一九四五年)は、日米の間で引き裂かれた心情が、象徴的に描かれている。これらが同じ壁面に並んだ会場は、見るものを、厳粛にさせるし、晩年の明るい赤の色の裏にひろがる深い悲しみに共感させられた。会場の構成もよく計算されていて、企画者の意図が、十分にあらわれた展覧会である。
 (東京文化財研究所研究員)
 国吉康雄展=5月16日まで東京国立近代美術館、5月29日〜7月19日・富山県立近代美術館、8月6日〜9月26日・愛知県美術館
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2004年04月20日,「赤旗」) (Page/Top

潮流

 二日前、イスラエルの侵攻でこの三年間に命を失ったパレスチナ人は約九百五十人、と書きました。申し訳ないことに、これはガザ地区だけの死者数でした▼実は二〇〇〇年九月以降、約二千八百人。イスラエル市民も九百五十人近く、テロの犠牲になりました。事実を確かめるうちに、痛ましさとともに怖さを覚えました▼死者数をたんなる数字とみていなかったか。アメリカは、イラクの米軍兵士の死者は数えるが、現地の人々がいくら死のうと知ったことかといわんばかり。そんな流血が日常化し、命の重さに対する記者の感覚もまひしていないか…▼ところで東京新聞二十四日付に、横浜で開かれた同社の「移動編集局・読者と対話の日」の報告が載りました。読者が問います。「休日に共産党のビラを配っていた公務員が逮捕起訴された。…共産党だけの問題とせず新聞自身の問題として、突っ込んだ報道がほしい」▼他の読者からも、言論・思想の自由を脅かす「戦前回帰」への心配が相次いだようです。新聞社側が答えます。「記事の中に『きわめて異例』とコメントすることで、権力側の意図を示したつもりだ」と。しかし、「きわめて異例」な事件がまかり通ると、既成事実が積み重なっていきます。「きわめて異例」と書くだけではすまないのです▼同社の坂井克彦編集局長は、「『気が付いたらみんな茶色(ファシズム)になっていた』と言うことになりかねない」と語ります。この人権感覚まひのいましめも、肝に銘じたい。
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2004年03月27日「赤旗」) (Page/Top

04米大統領選 移民弾圧/「愛国」の名で

/上/9・11で劇的に変わった

 二〇〇一年秋の同時多発テロ以来、米国では「テロ対策」の名のもとにイスラム系住民への弾圧が続き、十一月投票の大統領選挙の大きな争点の一つとなっています。とくに二〇〇一年十月に成立した「愛国者法」によって、特定の宗教信者や民族出身者への迫害がまかり通っています。中西部のミネソタ州にある米国最大のソマリア人居住地域を訪れました。(ミネアポリス=遠藤誠二 写真も)
 ミネソタの州都セントポールに住むソマリア人男性のモハメドさん(25)(仮名)は二月下旬、一年二カ月ぶりに当局から釈放され、自宅に戻りました。同氏は、今もって長期拘束された理由がわかりません。
突然の拘束
 モハメドさんをソマリア本国に帰したいと願う家族が地元の移民帰化局(INS)に相談したところ、当局が突然、モハメドさんを連行したのです。
 東アフリカのイスラムの国の一つであるソマリアでは、一九九一年のバーレ政権崩壊後、内戦状態が続いています。米国のミネアポリス周辺に住む四万―六万人のソマリア人の大部分は、内戦を逃れた人々で、市民権を取得していない人も数多くいます。モハメドさんも九〇年代初め、十代前半で米国に渡ってきました。
 ところが、二〇〇一年九月の同時多発テロを機に、アラブ系や南アジア系の住民同様、ソマリア人居住者をめぐる環境は劇的に変わりました。
 同時テロを起こした国際テロ組織アルカイダが、ソマリアでも活動しているとされたからです。当局は、成立した「愛国者法」を理由に住民への監視、拘束を実行、一部の市民からは暴力や嫌がらせを受けるようになりました。
 ミネアポリスとその周辺では、年老いた男性が人種差別主義者に撲殺され、十五歳の少年が警備員に銃で撃たれ重傷を負いました。住民の心のよりどころとなってきたイスラム寺院の壁には「ソマリア人は出て行け」などの落書きが見られました。
 三月一日夜、ミネアポリス市内で「ソマリア人権擁護センター」(SJAC)主催の集会が開かれました。集会では、悲痛な訴えが相次ぎました。
一家は離散
 「ブッシュ政権になって家族を呼び寄せる手段が断ち切られてしまった。テロの後は、そんなことを考えるのも夢となった。一家離散のまま将来の見通しがつかない」(両親と兄弟姉妹をケニアの首都ナイロビに残したまま暮らす三十歳の男性)
 「米国に来る前、この国は世界で一番良い国だと思った。テロ事件後、それが百八十度変わった」(おいが連行されて戻ってこない四十代の男性)
 「生まれ故郷のソマリアに帰りたい。でも、それがかなうのは私の次の世代でしょうか」(息子を連行された五十代の女性)(つづく)
 愛国者法 二〇〇一年九月の米国での同時多発テロのすぐあと、連邦議会で成立しました。既存の対テロ関連法の改定ですが、捜査機関に強大な権限が与えられています。
 捜査を名目にして自宅や職場の電話・通信の盗聴、家宅捜索などが、事前通告なしに行えます。図書館や病院などあらゆる機関からも個人情報が入手できます。
 司法長官がテロ容疑者と断定した無国籍者に対する身柄拘束が審議なしに行われ、容疑者がテロに関与していないことを立証できない場合には国外追放もありえます。
 国務長官が特定するテロ組織に「物質的援助」をした者は処罰の対象となります。
 アラブ系米国人差別反対委員会(ADC)によれば、同時テロ後、三千人規模のイスラム教徒が拘束されました。国外追放になった人も数多く、今でも約百人が拘留されています。
 ブッシュ大統領は、今年一月の一般教書演説で、この「愛国者法」をさらに強化すると表明しています。

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/下/迫害を恐れ、息ひそめる

 「テロ後、若い男性がある日こつぜんといなくなるケースが増え、令状なしの秘密連行が続いています。多数の拘束者のうち、分かっているだけで十人のソマリア男性が本国に追放され、うち一人はソマリアで殺されました」―ソマリア人権擁護センター(SJAC)のオマール・ジャマル執行委員長は語ります。
国外追放まで
 「コミュニティー全体が、差別、偏見と暴力、不当逮捕などの迫害を恐れ息をひそめて暮らしているのが実情」といいます。
 ジャマル氏自身も、ちょうど一年前に当局に連行されました。訪ねようとしていた弁護士の家の前で連邦捜査当局(FBI)の車が突然近寄り、有無をいわさず連れ去られました。逮捕の理由は、米国への亡命申請をした際、質問への回答に偽りがあったというもの。
 同氏によると、「米国訪問以前に他国に立ち寄ったか否か」の質問で誤った答えをしたのは事実です。とはいえ、七年前の亡命申請時の軽微なミスを今になって持ち出す事自体、異常です。現在進行中の裁判で有罪となれば、妻と幼児三人を残して国外追放という、最悪のケースも考えられます。
教育組織も標的
 二月二十三日、ページ教育長官はホワイトハウスで開かれた各州知事との懇談で、米最大の教育組織である米国教育協会(NEA)を、政府のやることをあらゆる手段を使って妨害する「テロリスト団体」だと語りました。同長官はその後、この発言について「一般的にワシントンを拠点に活動する団体を引き合いにしたもの」と表明。教育組織のみならず政権にとって好ましくない組織、団体は「テロリスト」だとの暴論を展開しました。
 国家権力による特定の宗教、人種、団体への偏見、干渉と迫害。本来、自由であるべき教育の場にも及んでいます。二月上旬、テキサス大学の学生が討論集会を開いた数日後、国防総省の情報機関が主催者と懇意にしている別の学生に接触し、集会参加者の名簿提出を要求しました。
 討論集会の主催者はイスラム教徒、議題は「イスラム法と女性差別」。その後、人権擁護の活動を続ける法律家組織であるナショナル・ローヤーズ・ギルドや地元人権団体の代表と共同記者会見を開いた主催者の一人は、「われわれイスラム教徒が行うことは世俗的なものであれ何であれ、すべて捜査の対象となる」と憤ります。
 「ブッシュ政権は、愛国者法を制定し、キューバのグアンタナモ米軍基地で大量のテロ容疑者を超法規的に拘束している。これにみられるように、法を超え、自身の権力で何でもできる構造をつくりだしている。軍事分野での先制攻撃戦略とあわせ、いきつくところはファシズム。これは移民の枠を超えた米国民全体の問題だ」―ナショナル・ローヤーズ・ギルド元議長で、不当に逮捕されたソマリア系住民の弁護活動をしているピーター・アーリンダー弁護士は語ります。
自治体が反対
 国民は静観しているわけではありません。人権擁護団体、全米市民自由連合(ACLU)は一月下旬、同時テロ後、イスラム教徒の移民を多数、極秘に拘束したのは国際人権法に違反するとして、ジュネーブの国連人権委員会に審査を申し立てました。
 米国内では、愛国者法に反対する地方自治体の決議が二百六十以上となりました。ロサンゼルス、シカゴ、フィラデルフィア、デトロイト、ボルティモア、サンフランシスコなどに続き、二月四日には米最大都市ニューヨークの市議会が決議を採択しました。
 州レベルではハワイ、アラスカ、バーモントの州議会が同趣旨の決議を採択。合計四千五百万人が住む、三十八州の自治体が、愛国者法に異議を唱えています。
 ACLUのロメロ会長は、「保守派、リベラル、どちらにも属さない人々が、政府の決定と行動により、表現、結社の自由に深刻な影響を及ぼすことを懸念している」と指摘します。(ミネアポリス=遠藤誠二 )
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2004年03月16日「赤旗」) (Page/Top

映画/独裁者に至る前の顔/「アドルフの画集」

(ハンガリー・カナダ・イギリス)
 悪の権化、独裁者アドルフ・ヒトラーにも、人間の顔をもつ青年の時代がたしかにあった。「カラーパープル」の脚本家で知られるメノ・メイエスはそこに着目。運命や偶然といったものが、はたしてヒトラーのその後の生き方や、歴史を変えることができたのかどうか。その探求の旅をたどった脚本をもとに、監督として初めてメガホンをとったのが本作。ファシズムの根源を見逃さず、みずからの問いかけに「ノー」の解答を与えているところが救い。
 一九一八年、第一次世界大戦後のドイツ・ミュンヘン。三十歳のアドルフは、戦場から帰還した画家志望の若者として登場。暗く鋭い眼光、偏屈で陰うつな雰囲気をノア・テイラーが熱演。浮浪者同然の貧しいアドルフが親交を結ぶのは、戦場で片腕を失った裕福なユダヤ人の画商マックス・ロスマン(ジョン・キューザック)。絵画に情熱を傾けるアドルフに、宣伝のための演説をすれば生活の保証をすると、巧みに誘う陸軍将校がからむ。
 暴漢に襲われるマックス。大々的な個展の打ち合わせをするため、カフェで待つアドルフ。やがて憤然として立ち上がり、雑踏の街のなかに消えていく後姿。皮肉な運命の岐路として解釈されかねないその終局。だが反ユダヤ演説で熱狂的な支持を受けたあとの、アドルフの表情にひそやかに漂う自信と歓喜の漣(さざなみ)。監督が提示した結論の核心は、そこにあるのではないか。権力の座を志向する彼の野望の帰結と、新たな起点を物語る鮮烈な場面だ。(山形暁子・作家)
東京・テアトルタイムズスクエア、大阪・テアトル梅田で上映中
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2004年03月07日「赤旗」) (Page/Top

朝の風/ベン・ニコルソンが吸った空気

 二十世紀イギリス絵画を代表するベン・ニコルソンは、造形の詩人と呼ぶのにふさわしい画家の一人だ。ピカソやモンドリアンの影響を受け、幾何学的抽象と具象との間で、二つの世界大戦の時代を生きた。神奈川県立近代美術館の新館(葉山)で開催中の展覧会は、その足跡を日本で初めて詳細に見せる。
 輪郭のはっきりした、人やカップやボトルらしき単純な形。その簡素な直線と曲線。単調だがぬくもりのある色彩。あるいは削り取られ、キャンバスに残った絵の具のかすれ。そうしたものに、生きているものの体温と臭いがある。ヨーロッパ・モダニズムのじつに冷静な消化がある。
 ニコルソンが美術史的に大きな評価を受けるのは、一九三〇年代半ばのホワイト・レリーフと呼ばれる作品だ。白は清潔で明るく公平な社会を象徴する。ファシズムと戦争への危機感から、建築・絵画・彫刻が相互に関係する白の構成に腐心したという。色もデザインも、時代の空気の中で意味をもったのだ。
 ニコルソンは、彫刻の巨匠ヘンリー・ムーアとも親しかった。イギリス美術はフランスの陰に隠れがちだが、この二人によって断固たる存在を主張する。ムーアやニコルソンの活躍は、ロンドンがアメリカへの亡命基地となり、アートの最新動向が集中したことと無関係でない。作品に感動すると、背後にある時代の空気も見えてくる。()
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2004年03月02日「赤旗」)

ピカソの戦争 《ゲルニカ》の真実/ラッセル・マーティン著木下哲夫訳

政治的力をもった芸術の苦痛の道
 ピカソの《ゲルニカ》はマドリードのレイナ・ソフィア芸術センターで、四bの距離から生のまま見られる。これが一九八一年当時は防弾ガラスのケースに収められ両脇に銃を持った警備員がいたし、その数年前までは素晴らしい作品だと話すことが即投獄となった。現地のスペインでそうだった。民主政治への反乱者フランコの手引きでナチスが行ったゲルニカ空襲の事実については、一九八〇年代まで、共産主義者のでっち上げだったという出版物が世界に出回った。
 本書はゲルニカの悲劇の歴史的事実とそれへの怒りを描いた《ゲルニカ》が、戦争の擁護と批判の世論の中で生きたようすをたどっている。《ゲルニカ》がルイ・アラゴンやル・コルビュジェにさえ好かれず、決して最初から名作と認められたわけではないことや、ニューヨークの近代美術館が一日も長くこの名作を手元に置くためにとった態度や駆け引きも描かれる。さまざまな攻防をくぐって、ピカソが「再び人民の自由が確立した時点で」と願ったスペインに、一九八一年九月、《ゲルニカ》はついに戻った。
 だがこのドラマはなぜ起きたのだろう。現代戦争が起こす無差別殺りくの始まりを、ゲルニカ空襲に見抜いたピカソの直観が、天才的な造形力とともに原点にあった。優れた芸術であればこそ、作品は政治的な影響力も持つ。これをファシズムの罪業に続く冷戦時代の政治が嫌悪したのだった。戦争はじつに政治のあらゆる側面を凝縮するが、それを描いた芸術への評価を政治的利害からすることによって荒波が生じたのだ。《ゲルニカ》にはそれに耐える強さがあったが、名作がなぜこれほどの苦痛を経なければならなかったのか、考えざるを得ない。芸術がいかに政治的な力を持とうが、それは表現の自由の範疇であり、政治には芸術評価への不介入という原則を断固守らせる必要があるのだ。
山口泰二・美術評論家
 Russell Mrtin 一九五二年生まれ。アメリカの作家、ジャーナリスト。
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2004年03月01日「赤旗」) (Page/Top

財閥と帝国主義 三井物産と中国/坂本雅子 著

資本家階級の主体的かかわりを実証
 一八七六年(明治九年)に設立された三井物産は、日本の総合商社のはしりであり、敗戦前の日本では一貫して最大規模の商社であった。それだけに、今にいたるまで多面的な研究が続けられ、研究者も多い。本書は、一九七○年代はじめから三十年にわたり、中国とのかかわりで同社を研究してきた坂本さんが、その成果をはじめて一冊にまとめた手がたい研究書である。
 戦後の日本近代史研究を主導したマルクス主義歴史学、なかでも天皇制ファシズム論(絶対主義天皇制が戦時下に天皇制ファシズムに転換したとする説)では、近代日本の支配勢力である地主と資本家の二階級に対し、官僚と軍部を支柱とする天皇制国家機構が相対的な自律性をもって専制支配をおこなったと主張した。
 しかしこの説では、ファッショ化の過程に見られた暗殺やクーデターなど、支配階級内のはげしい対立・抗争を説明できないとして、昨年急逝した江口圭一さんが一九七○年代のなかばに二面的帝国主義論を提唱し、いまでは多くの研究者の賛同をえている。日本帝国主義には、英米に対する協調路線と、アジアでの膨張を図る独自路線の二面性があり、軍部をにない手とする後者の路線が一九三○年代に勝利して、日本はファシズム国家になったとする説である。
 本書で明治期から敗戦までの三井物産と中国との関係、日本の対中国政策に対する三井財閥の関与を分析した著者は、財閥を中心とする資本家階級の侵略と戦争への主体的なかかわりを実証し、天皇制ファシズム論と二面的帝国主義論をともに批判している。帝国主義と財閥の関係を解明するには三井の研究だけでは不十分だが、本書が力作であることはまちがいない。
 財閥とはなにか、東アジアにおける近代日本とはなにかについて、有意義な論争のおこることが期待される。
 岡部牧夫・日本近現代史研究家
 さかもと まさこ 一九四五年生まれ。名古屋経済大学教授。『現代日本経営史』ほか。
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2004年02月02日「赤旗」) (Page/Top

研究ノート/スポーツ運動史/上野卓郎/スポーツとコミンテルン

 モスクワのロシア現代史記録保管研究センター(略称RGASPI)のコミンテルン・アルヒーフの中にスポルチンテルン・アルヒーフがある。
 スポルチンテルンは一九二一年創立、一九三七年解散の赤色スポーツインターナショナル(RSI)のこと。昨年日本の研究者として初めて訪問。所蔵史料点数が予想以上に多く(六万枚強)、一九三〇年代の史料に焦点を絞った調査・収集に限定した。史料の言語は大部分ドイツ語。
 この中で最大の成果は、一九三七年RSI解散に関する史料と、一九三五年―三六年のベルリン・オリンピック反対運動の高揚を反映する刊行物・文書の中からの『スポーツプレス』全三十号の発見。三七年解散をめぐるコミンテルンの内部文書とRSIのコミンテルンへの報告文書は、三七年「コミンテルン・スポーツ決議」(『コミンテルン資料集』所収)の形成過程を初めて跡づけることができ、「コミンテルンのスポーツ情報部門」として自立性をなくすRSIの「秘密の」解散との平行性も明らかにすることができる。
 スポーツインターナショナルとコミンテルンの関係のスポーツ運動史的総括は、政治的要請による変質とそれへの抵抗の歴史像を示すことになるが、それだけに反戦・反ファシズム運動の中でのスポーツ運動の自立性の発揮に光を当てる必要がある。(うえの たくろう・一橋大学社会学研究科教授)
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2004年01月23日「赤旗」) (Page/Top

背表紙/『茶色の朝』… 忍び寄るファシズムの不気味さ

 二〇〇二年、フランス大統領選挙で極右政党党首ルペンが18%を取ったことへの危機感から、五十万部のベストセラーとなったフランク・パヴロフ著のぐう話。日本語版『茶色の朝』(大月書店・一〇〇〇円)が、「戦争をする国」に向かう日本で警鐘を鳴らしています。
 「またぐう話か」と思うことなかれ。テーマはファシズムです。
 コーヒーを飲みながらおしゃべりする「俺」と友人シャルリー。シャルリーは飼犬を安楽死させたと話します。理由は犬が「茶色」でなかったこと。政府は茶色以外の犬も猫も認めない法律を制定し、毒だんごを配って犬猫の処分を始めました。批判的な新聞は廃刊、本も図書館や書店から撤去されました。次第にその状況に慣れてくる人間たち。でも以前黒い犬を飼っていたシャルリーは国家反逆罪で逮捕され…。
 哲学者の高橋哲哉さんが解説で、ファシズムの不気味さを説きます。茶色はナチスのシンボル。国中が一色に染められても、人々の日常は破局を迎えるまで続き、「抵抗すべきだった」とさとるのはすべてが手遅れになってからだと。
 映画監督、俳優として活躍するヴィンセント・ギャロが、本書のために描いた絵が不安を繊細に表しています。展覧会を二十五日まで東京芝浦・ピラミッドビルで開催中。(絹)
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2004年01月05日、「赤旗」) (Page/Top

2003(ヘッドライン)

*                     アテネからアテネへ/オリンピックの軌跡/平和と五輪の灯が消える

*                     アテネからアテネへ/オリンピックの軌跡/=15=/人民オリンピックを準備

*                     アテネからアテネへ/オリンピックの軌跡/ナチが誇示した民族の祭典

*                     スターリングラード/ロシア国民が批判する描写も/山田和夫の映画案内

*                     第三帝国と音楽家たち 歪められた音楽/マイケル・H・ケイター著 明石政紀訳/不遇、順応、抵抗…生々しい実態が

*                     伊首相 ムソリーニ美化を弁明したが…/さらに広がる国民の批判/反ファシズムは戦後の基本理念

*                     「ムソリーニは寛容」/イタリア首相暴言に批判の嵐

*                     潮流 (記録映画「真実のマレーネ・ディートリッヒ」)

*                     この人と きき手・大内田わこ編集局次長/イエーナさん。ヌスバウムの絵との出会いは/ナチに殺された彼、いまも多くを語る

*                     チュニジアの七日間/中央委員会議長/

*                     伊首相の暴言/EUの基本理念―反ファシズム/踏みにじったことに怒り

*                     団結の教訓は生きる/対独戦勝記念日にロ大統領

*                     世界でメーデー多彩に/福祉、平和掲げ独では100万人

*                     イタリア/58回目の解放記念日/各地で催し 式典欠席の首相に批判

*                     イタリア あす「解放記念日」/先制攻撃の拡大を阻止/憲法の価値守れ焦点に

*                     ドイツ/すべての民族に平和を/復活祭平和行動に1万人余

*                     美術/黒人の信仰にじむモダン/ヴィフレド・ラム展

2003年(本文)(Page/Top

アテネからアテネへ/オリンピックの軌跡/平和と五輪の灯が消える

 東京オリンピックの返上は、世界の暗転を加速させる出来事でした。それからの「オリンピック号」は、戦火逆巻く大海原で立ち往生を余儀なくされます。
ロンドン大会中止
 39年9月1日、ヒトラーのドイツ軍がポーランド侵攻を開始。第2次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)です。3日にはイギリスとフランスがドイツに宣戦布告、イタリアもドイツと同盟して参戦し、戦火は欧州全土に拡大しました。
 日本も40年9月に日・独・伊三国同盟に調印、侵略戦争を中国からインドシナへと南進させます。そして、41年(昭和16)10月に成立した東条英機の軍事内閣は、同年12月8日にハワイ真珠湾を襲撃、米・英両国に宣戦布告して太平洋戦争に突入しました。
 世界を巻き込んだ大戦争の勃発に、天を仰いだのが国際オリンピック委員会(IOC)でした。36年のIOC総会(ベルリン)で、40年の第12回大会は東京、44年の第13回大会はロンドンで開催することを早々と決めていたからです。ロンドン大会こそ、軍事色に染まったオリンピックを修正する機会だと念じていたのでした。しかし、ドイツ軍はロンドンを空爆、戦禍にまみれた都市での五輪開催など不可能となりました。
スポーツ不在の時代
 不幸は重なるものです。クーベルタンの後を継いだバイエ・ラツールIOC会長が42年1月、飛行機事故で急死したのです。しばらく会長職は空席となり、オリンピックは舵(かじ)取り人を失ってしまいました。
 中止となった第13回大会。オリンピックの灯が消えるとともに、その他のスポーツの国際交流もストップします。戦前、日本の活躍で沸いたテニスのデビスカップ選手権は40年には中止されています。
 東京大会返上後の日本のスポーツ界はいちだんと統制が強められ、「スポーツは米英の敵性文化」だと敵視されていきました。野球やテニスなどの用語は日本語化を強制され、プロ野球の興行では手りゅう弾投げを強要されます。球場の鉄製イスなども軍事器材用に供出させられる始末でした。
 すべてのスポーツ団体が翼賛体制に組み込まれ、大日本体育協会は42年4月に東条首相を会長とする「大日本体育会」に改組されてしまいました。「昭和12年(37年)から20年(45年)までは、真の意味でスポーツ不在の時代であった」(『日本スポーツ百年の歩み』 日本体育学会編)――。
嵐に耐えたマスト
 45年5月にドイツが降伏、8月15日に日本が連合軍に無条件降伏してポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦はようやく終結をみます。大戦の惨禍はきわまり、犠牲者は数千万人にものぼりました。広島と長崎への原子爆弾投下は核兵器の最初の犠牲となりました。
 戦争は多くのスポーツマンの命を奪い、反ファシズム・レジスタンス闘争に身を投じたオリンピック選手が少なくありませんでした。フランス労働者スポーツ・体操連盟(FSGT)は、いまでも会員証に犠牲選手の名前を記して平和のスポーツ活動を進めています。
 日本でも侵略戦争に徴用されたオリンピック選手やプロ野球選手も多く、棒高跳びの大江季雄(第11回大会銅)、馬術の西竹一(第10回金)、プロ野球の怪腕投手・沢村栄治(巨人)などの選手が命を落としました。
 草創の困難と戦争にほんろうされたオリンピックの50年。世界の若人が平和のもとに集う≠ニの理想の旗を掲げたマストは、幾度も強風で折れそうになりました。しかし、その都度、マストを支える人びとが増え、荒波に持ちこたえていった半世紀でもありました。
 (オリンピック研究者 広畑成志)
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2003年12月11日 『赤旗』)(Page/Top

アテネからアテネへ/オリンピックの軌跡/=15=/人民オリンピックを準備 

 ヒトラー・ナチスの宣伝に利用された1936年のベルリン大会。それに抗して人種差別と拡張主義に反対する世論と運動が起こりました。
五輪の理想を守れ
 その急先ぽうとなったのはアメリカのスポーツ界でした。ニューヨークの「スポーツのフェア・プレイに関する委員会」が、「オリンピックの理想を守ろう」とよびかけ、35年12月7日に国際会議を開催、「オリンピック理念擁護委員会」を結成してボイコットを訴えます。
 米国体育協会(AAU)もユダヤ人排撃に抗議して、「オリンピックをベルリンから移そう」と主張します。35年12月のAAU総会は参加・不参加でかんかんがくがくの議論となりましたが、最終的には「大会参加はナチス体制の承認を意味しない」との意見がまさり、ベルリン行きが決定されました。
 イギリス国内ではサッカーなどでドイツとの交流中止の声があがり、フランスのパリでは共産党や労働団体からスポーツ団体まで立ち上がって、早くも34年8月に反ファシズム・スポーツマンの大行進を挙行します。オーストリアの女子水泳、ユダヤ人のユディット・ドイチュ選手は「同胞に恥ずべき迫害を行っている土地での競技には参加しない」と表明、内外から共鳴の声が殺到したといいます。
バルセロナから発信
 こうした大きな流れのなかで、ベルリンに対抗したもう一つのオリンピック≠フ開催が計画されたのでした。発信地はかつてベルリンと開催都市を競ったバルセロナ(スペイン・カタルーニャの州都)でした。
 36年2月にスペインでは人民戦線政府が樹立され共和制(第二次)に移行します。6月23日、スペイン政府は20カ国のスポーツ代表を招いて会議を開き、7月末にバルセロナで「人民オリンピック(オリンピアダ・ポプラール)」を開催すると決めたのです。
 開催趣旨は、「国々の平和と友好という真のオリンピック精神を守る大衆的なスポーツ・フェスティバルで、ベルリン大会に対抗する」というもの。参加資格はただ、「真のスポーツ精神と、ファシズムに対する率直な反対の意志の持ち主」となっていました。
 すでに、カナダ、米国、ポーランド、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、オランダ、ソ連が参加を表明。これに英国労働者スポーツ協会が40人、6月に人民戦線政府を樹立したフランスは1500人を派遣すると伝えられました。
開会は宣言された
 開会式は7月19日午後4時。モンジュイックの丘のメーンスタジアムをめざして、世界から平和の友好に燃えたスポーツマンがぞくぞくとやってきました。カタルーニャ音楽堂では、世界的なチェロ奏者、パブロ・カザルスが開幕記念コンサートで演奏するベートーべンの第9交響曲「歓喜」のリハーサルに余念がありません。
 19日の朝がまさに明けようとしていました。突如、バルセロナ市街に静寂を破って銃声が響きわたりました。共和制打倒≠叫ぶファシスト、フランコ軍の一部が襲撃、市民との市街戦がぼっ発したのです。
 バルセロナ大会組織委員会(COOP)は、予定通りの午後4時にコンバニス州政府首相の開会宣言を発したものの、戦火が拡大し、翌日からの競技は中止せざるを得なくなりました。参集した外国選手の多くは慌てて帰国の途につきますが、一部は残ってレジスタンスに合流したといいます。
 開会宣言だけに終わった人民オリンピック。スペイン内戦は長期化し、フランコが39年に専制支配をしきます。しかし、その後も「カタルーニャの鳥はピース(平和)、ピースと鳴く」(カザルス)との声はやむことはありませんでした。
 (オリンピック研究者 広畑成志)
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2003年11月20日 『赤旗』)(Page/Top

アテネからアテネへ/オリンピックの軌跡/ナチが誇示した民族の祭典

 1936年8月1日の、どんよりと暮れかかるベルリンの空。10万人をのみ込んだ大競技場に、ヒトラー総統の声が響きわたりました。「第11回オリンピアードを祝し、ベルリン・オリンピックの開会を宣言する」
ユダヤ人を排斥
 ベルリン開催が決まったのは31年、まだヒトラーが政権をとる(33年1月)前でした。それまではオリンピックを「ユダヤ主義に汚れた芝居」とけなしていたヒトラーですが、政権をとると、「アーリア民族の優生を誇示する祭典」に位置づけてとりこみます。
 まずヒトラーが大会組織委員会の総裁に就任(33年2月)、「ユダヤ人は寄生虫」との排斥をスポーツにも持ち込みました。34年までに、ユダヤ人のプール使用が禁止され、「ユダヤ人お断り」の看板を掲げるスポーツ施設が全国に広がります。ボクシング、テニス、体操、陸上競技などのスポーツ団体からも非アーリア人≠ェ排除されました。
 ヒトラーは、五輪準備に専心してきた大会組織委員会の会長、テオドル・レヴァルト氏を「ユダヤの血が混ざっている」との理由で更迭しようとします。これには国際オリンピック委員会(IOC)が反発、「大会をベルリンから引き揚げる」と抗議し撤回させました。
聖火リレーを敢行
 世界の冠たる第三帝国≠豪語するナチス政権は、オリンピックに巨費を注ぎ込みます。10万人収容の巨大スタジアム、1万6千人の観客席をもつ水泳競技場、2万人のホッケー競技場、3500人収容のオリンピック村、400人が宿泊できる女子選手専用の施設…。
 圧巻は聖火リレーでした。古代のオリンピアで採火された聖火を700cのトーチにともして、ベルリンまでの2075`の走路を3075人がリレーしました。オリンピック初登場の壮大なイベントも、ルート・走路をナチ隊員が調査、整備、伴走したことから、侵略へののろし≠ニ酷評されました。
 技術の粋もつくされました。メーン・スタジアムには60台の放送用マイクが設置され、ラジオの実況放送は日本まで届きました。ベルリン市内では初のテレビ放映も試みられています。陸上競技ではピストルと連動して1000分の1秒まで計時できる特製カメラが登場しています。女性監督レニ・リーフェンシュタールによる記録映画、「民族の祭典」「美の祭典」は傑作≠セと評判でしたが、ナチズムの宣伝(プロパガンダ)に二役も三役もかいました。
ヒーローは黒人
 しかし、ヒトラーの「アーリア人の勝利」のもくろみは、1人の黒人選手によって打ちのめされます。アメリカのジェシー・オーエンス選手です。178a、72`の均整のとれた体つきで、百b10秒3、二百b20秒7、走り幅跳び8b06、四百bリレーと、いずれも世界新記録を樹立して4個の金メダルを獲得、大会の超ヒーローになりました。
 ベルリンの子どもたちは「ジェシー、ジェシー」と夢中になり、サインを求め、ラジオにしがみついてヒーローのニュースに聞き入ったといいます。きっと、オーエンスの格好にまねて走りまわる子どもたちの姿が、あちこちの街角で見かけられたに違いありません。
 オーエンスの活躍に苦虫を噛みつぶしたのが、黒人を「下等人類」とみなすナチスでした。ヒトラーは一度も大会のヒーローをたたえることはありませんでした。
 オリンピックが終わった直後の9月、ナチスはニュールンベルクで党大会を開催、ファシズムと侵略戦争への道を突き進みます。ナチ・オリンピックはその序曲になったのです。ベルリンの空は急激に暗転します。
 (オリンピック研究者 広畑成志)
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2003年11月13日 『赤旗』)(Page/Top

スターリングラード/ロシア国民が批判する描写も/山田和夫の映画案内

 ジャン・ジャック・アノー監督の「スターリングラード」(二〇〇一年)は、独ソ戦の勝敗を決めた大会戦で英雄≠ニなったソ連軍狙撃兵(ジュード・ロウ)の物語。スターリン体制下の戦争を描こうとして、とりわけ冒頭の戦闘シーンはソ連軍の非情(退却する兵を射殺する)をこれでもか、これでもかと強調。四十万の犠牲を出してドイツ・ファシズムの敗北に道を開いたロシア国民から、この映画に強い批判があったのも無理からぬ描き方だ。レイチェル・ワイズの共演。
 「大逆転」(八三年)は億万長者とサギ師が入れかわる逆転コメディー。ダン・エイクロイド、エディ・マーフィ主演、ジョン・ランディス監督。
 「絶体×絶命」(九八年)は白血病の息子を救おうとする刑事(アンディ・ガルシア)と終身囚(マイケル・キートン)のかっとう。バーベット・シュローダー監督。「インビジブル」(〇〇年)は特撮を駆使した透明人間物。エリザベス・シュー、ケビン・ベーコン主演、ポール・バーホーベン監督。
 NHK衛星はM・カルネ「天井桟敷の人々」、W・ワイラー「偽りの花園」、L・ビスコンティ「若者のすべて」、野村孝「いつでも夢を」。(映画評論家)
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2003年10月24日 『赤旗』)(Page/Top

第三帝国と音楽家たち 歪められた音楽/マイケル・H・ケイター著 明石政紀訳/不遇、順応、抵抗…生々しい実態が

 本書はナチス統治下のドイツ・クラシック音楽界で、音楽家たちがどのように活動し、どのように生きたのかについて詳述したものである。それも通り一遍の記述ではなく、かれらが、いつ、どこで、何を言い、どう行動したのかを詳しく紹介し、さらにはヒトラーやゲッベルス、ゲーリングなどのナチ高官が音楽と音楽家たちに対してどのような態度をとったかについてもふれている。
 それらは膨大な資料を渉猟した著者の根気強い調査によって新たに掘り起こされた事実と、関係者へのインタビューに基づくもので、本書によってナチ時代の音楽と音楽家たちの生々しい実態が浮かびあがってくる。
 興味深いのは、ナチ体制への忠誠が出世の鍵を握っていたことは事実だが、むしろ権力者たちの思惑と、駆け引きの巧みな音楽家の野心とが複雑にからみあって音楽界でのポジションが決まっていった点である。
 たとえば超保守派の作曲家でナチ体制に大きな期待を寄せていたプフィッツナーは、その期待に報われるどころか結局不遇をかこつことで終わった。いっぽう指揮者のフルトヴェングラーは、これまで伝えられていた以上に権威崇拝心が強く、専制政治に順応しナチ体制の存続を助けていったのである。
 本書で注目されるのは、第四章「生活のなかの音楽」で紹介されているナチ体制のもとでの音楽活動である。特にハウスムジーク(家庭音楽)の奨励やヒトラーユーゲントでの音楽活動重視、またプロテスタント教会における宗教音楽の変質については、これまであまりふれられてこなかっただけに貴重である。
 本書を読むと、あらためてファシズム体制下での音楽と音楽家のありかたを考えさせられる。その意味でも、終章で紹介されている作曲家ハルトマンの沈黙によって抵抗を貫いた姿勢には深い感銘を受ける。
小村公次・音楽評論家
 MiChAel H.KAter 一九三七年生まれ。カナダの歴史学者。トロント・ヨーク大学教授。
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2003年09月29日 『赤旗』)(Page/Top

伊首相 ムソリーニ美化を弁明したが…/さらに広がる国民の批判/反ファシズムは戦後の基本理念

 イタリアのベルルスコーニ首相は17日、ローマにあるシナゴーグ(ユダヤ教礼拝堂)を訪問してユダヤ人協会のアモス・ルツァト会長と会見、ファシスト独裁者のムソリーニを美化する発言をしたことを「謝罪」しました。しかし反ファシズムという戦後の基本理念を否定する発言への根本的な反省はみられず、怒りと批判は広がる一方です。(島田峰隆記者)
傷は癒やされない
 同首相は最近の雑誌インタビューで、「ムソリーニは寛容でだれも虐殺していない」と発言し、反発を受けていました。「謝罪」したとはいえ、シナゴーグ訪問はごく短時間で、内容も「首相は私に対して特に謝罪したのでありイタリア国民にではない」(ルツァト会長)というものです。さらに首相府が発表した声明は「発言が不正操作されて解釈された」ことが問題の原因とするなど、真摯(しんし)な反省の色はみえません。
 このため歴史家や芸能人など五百人を超える著名人は同日、「これでは傷は癒やされない」とする声明を発表し、形式的「謝罪」で解決を図ろうとする首相に抗議しました。
 レプブリカ紙は「首相はホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を否定するほかの誰よりも粗野である」と断定しました。ロイター電によると、ムソリーニ時代にイタリアに併合されたエチオピアでも「独裁者支持の口を開く前に歴史文書を見るべきだ」(人権審議会会長)との声が出ています。
並外れた無知
 首相の発言がこれほどまでに批判と反発を招くのは、それが反ファシズムという戦後の基本理念を根本から踏みにじる行為だからです。
 ムソリーニが支配したイタリアはアルバニアやエチオピアなどを侵略、併合しました。ナチス・ドイツと同盟を組み、一九三八年には人種差別法を制定。国内のユダヤ人約七千人を強制収容所へ送り、うち約六千人が死亡しました。ムソリーニが支配した約二十年間、抑圧によるユダヤ人と被支配国の死者は少なくとも百万人に上るとされます。
 一方、第二次世界大戦末期には北部を中心に大規模なレジスタンス(反ファシズム闘争)が広がり、国民は自らの手でファシスト体制を倒しました。
 戦後はこうした歴史を踏まえ、ファシズムへの反省とレジスタンスの精神を根本に据えた憲法を制定し、戦争放棄を宣言するとともにファシスト党の再建を禁止しました。この姿勢は、欧州諸国はもちろん、かつての被侵略国とも友好な関係を再建する土台となってきました。
 首相の発言はこの歴史の流れを逆行させる暴言で、イタリアの野党や全国パルチザン協会がそろって「並外れた無知」だと非難しました。
真の謝罪を
 著名人による声明は、首相の「謝罪」は「歴史の真実に対してもファシズム独裁時代のユダヤ人とすべてのイタリア国民がなめた辛酸に対しても無礼なものである」と指摘しました。
 ユダヤ人協会も「すべてのイタリア国民に謝罪することを期待する」としており、真摯な謝罪を求める声はいっそう強まっています。
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2003年09月22日『赤旗』)(Page/Top

「ムソリーニは寛容」/イタリア首相暴言に批判の嵐

 イタリアのベルルスコーニ首相は十一日発行の英誌とイタリア地方紙に掲載されたインタビューで、戦前のファシスト独裁者ムソリーニを美化する発言を行いました。ユダヤ人団体や野党などからは、政治家としての資質が問われると、批判が一斉にあがっています。
 首相の発言は、ムソリーニの独裁は「寛容」で「彼はだれも虐殺しなかった」などという内容。しかしこれまでの歴史研究で、ムソリーニの独裁下で植民地国の国民など少なくとも百万人が殺害され、人種差別法で約七千人のユダヤ人が強制収容所に送られたことが明らかになっています。
 イタリアのユダヤ人協会は直ちに「激しい心痛を引き起こした」と首相を糾弾。野党の共産主義再建党と中道左派連合「オリーブの木」に属する各党の下院議員団長は連名で声明を出し、「首相はファシズムとのたたかいから生まれた民主主義、ナチスファシズムとのたたかいから生まれた欧州を代表する品位を持ち合わせていないことを示した」と批判しました。
 イタリア全国パルチザン協会と強制収容被害者の団体も共同声明で「ばかげた発言」だと指摘、「並外れた無知と不誠実からしか起こり得ない首相発言を憤慨をもって拒否する」と強調しました。
 ベルルスコーニ首相のこの種の暴言は繰り返されており、七月にも欧州議会のドイツ人議員をナチス呼ばわりして外交問題を引き起こしています。
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2003年09月18日『赤旗』)(Page/Top

潮流(記録映画「真実のマレーネ・ディートリッヒ」)

 記録映画「真実のマレーネ・ディートリッヒ」が近く公開されます。ドイツからハリウッドに移って数々の話題作に出演した、女優の素顔に迫ります▼十一年前に亡くなったマレーネは、筋金入りの反ナチスで知られます。映画でも、ドイツとたたかうアメリカ軍を慰問するだけではありません。従軍し、欧州の戦場を転々と回ります▼恋人だったフランスの俳優ジャン・ギャバンも、反ナチスの抵抗軍に加わります。彼女は、解放されたパリの街角で、進軍してきたギャバンとの再会を果たします。戦後は、反戦歌の「花はどこへ行った」や「風に吹かれて」も歌いました。生きていれば、2001年9・11以後の米軍を、果たして支援したでしょうか▼よく彼女と比べられるドイツ人女性が、レニ・リーフェンシュタールです。生まれもマレーネの一年だけ後。俳優から監督に転じ、ナチ党大会の模様を映した「意志の勝利」やベルリン五輪の記録「オリンピア」を撮ります▼目新しい大胆な映像が、世を驚かせます。ナチスの要人にも気に入られます。当然ながら人々の目には、宣伝映画をつくったナチスの美の女神と映りました。しかし彼女は、「ヒトラーにだまされた」「美を追求しただけ」と語ってきました▼だとしても、ナチスが宣伝効果をあげる「美」を欲していたのは、事実です。戦後、彼女の美意識を「魅惑的なファシズム」と評した人もいます。百一歳の死が伝わりましたが、レニの残した謎は、いまにも通じる問いかけです。
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2003年09月11日『赤旗』)(Page/Top

この人と きき手・大内田わこ編集局次長/イエーナさん。ヌスバウムの絵との出会いは/ナチに殺された彼、いまも多くを語る

 ひとりの画家が私の心をとらえて離しません。第二次世界大戦の末期、ナチスドイツの手によってアウシュビッツのガス室で消されたユダヤ人画家、フェリックス・ヌスバウムです。ドイツを訪れた機会に彼を記念する美術館を、生まれ故郷の町オスナブリュック市に再度訪ね、館長のインゲ・イエーナさんにインタビューしました。
 大内田 ヌスバウムの絵に会いたくて、またやってきました。
 イエーナ ほんとうにようこそ。最近は日本からの方も増えているのですよ。
 大内田 ヌスバウムの絵とは、いつどこで?
 イエーナ 私はこの町で生まれ、この町の大学で美術史を学びました。一九七一年、町のドミニカーナ教会で初めて彼の絵の展覧会があったんです。それを見たときの感想はなんと変な絵だろうということでした(笑い)。というのも、当時流行の、既成の観念や流派を否定し新しい芸術を模索するというアバンギャルドの考え方を、素晴らしいものと思い込んでいたからです。
 もちろん今では彼の作品の素晴らしさを高く評価しているひとりです。今でも美術鑑定などをする人のなかには、彼がユダヤ人でなかったら、アウシュビッツで殺されていなかったらここまでもてはやされなかったろうといった意地悪な見方をする人がいます。でも、そうではないと思います。あのファシズムの時代にヌスバウムが命懸けで描き続けた絵は、今も多くの人々の胸にたくさんのことを語りかけ揺り動かしているんですから。
 大内田 昨夏初めてここへきたとき駅前で「ヌスバウムのことを知っている人はいませんか」と、尋ねたら、タクシーの運転手のモハメドさんがすぐに案内を買って出てくれたんです。そのとき彼の言った言葉がとても感動的でした。われわれには平和のためにヌスバウムのことを若い人に伝える義務があるといったんです。
 イエーナ おおぉ、そうなんですか。オスナブリュックではいまやお客さんがくると、だれでもまず、ヌスバウムを見に行こうと、こうなるのが普通なんですよ。(笑い)

絵を描くことは、ヌスバウムの生きた証し「私が死んでも作品は死なないように」と…

 イエーナ 館内を案内していると、彼の亡命生活時代の説明をきいて涙を流す人、耐えきれなくなって外へ出てしまう人もいます。彼は芸術家として出発した一九二四年ごろ、ゴッホを愛し、作風的にも同時代の芸術家と同じような道を歩こうとしていました。しかしヒトラー政権の誕生によって、政治的にその道は阻まれ、亡命という特殊な道を歩かざるを得なくなります。そしてこれは、当時、ユダヤ人としては決して特殊な道ではなかったのです。
 (一九三三年、政権についたヒトラーは、反ユダヤ人政策を推し進めるとともに芸術・文化の面でも「文化政策上のテロリズム」を実行に移し、ユダヤ人芸術家はもちろんナチに同調しないものすべてが堕落芸術、退廃芸術の烙印(らくいん)を押されます。それはゴッホ、シャガールなどの作品にも及んで…)
 イエーナ あのナチスの時代にどんなことが行われたかを現代の人びとに説明するのに、数字や事柄で示すだけでなく、ヌスバウムというひとりの人間を通して、なぜ彼がこういう目に遭わなければいけなかったのかを知ってもらうことで、より具体的に分かっていただけるのではないかと考えているんです。
 大内田 ほんとうにそう思います。結局彼は、隠れ家で絵を描き続けることに。
 イエーナ 私がとても驚いたのはそういうなかで彼が油絵をかいていることです。四四年六月、彼が逮捕された後、グラットリー通りのアトリエに残されていた「死の勝利」という作品などは、びっくりするほど大きいものです。油絵はいくらひそかに描いていても、においでわかるんです。わかれば逮捕される。その危険を冒してまでなぜ…。彼の絵を前にして、いつも自問自答してしまうんですよ。
 絵を描くということはヌスバウムにとってイコール自分の人生、生きる理由だった。その時代に自分が生きたという証明をなんとしても残したかったのですね。
 大内田 「私の絵を死なせないで」と友人に。
 イエーナ ええ。ヌスバウムはまだ若いころにアトリエが火事になり、絵のほとんどを無くしてしまった。そのため亡命先でも描いた絵は持ち歩いていました。ナチの目を逃れて引っ越しするわけですけれども、それでも全部持って行く。でも、「オルガンまわし」の絵(一九四三年)を描きあげたとき、それらを額から外して紙に巻き、グロスフィルスという友人の歯医者に「私が死んでも作品は死なないように」と、託すんです。
 大内田 そうだったんですか。
 イエーナ この館ではヌスバウムが生きた時代を九つに分けて百七十点を展示していますが、彼の作品にはナチスのかぎ十字の印は一度も出てこないんです。迫害される側の心のうちを描き続けた画家だったといえます。ユダヤ人にはもう未来はない、自分も近いうちに死ぬかもしれないという恐れを持ちながら、忍び寄る不安を絵にしたのです。それだけに彼の自画像の問いかけるような目は、見る人の心をとらえて離さないのです。
 大内田 年間どれぐらいの人々が?
 イエーナ 五、六万人ぐらいでしょうか。ドイツ各地はもとより、オランダやベルギーなどの近隣諸国、夏休みの旅行者としてはアメリカから訪れてくれています。
 大内田 市民の運動でできた美術館だと。
 イエーナ ここにある絵の一部も市民のカンパを集めて買ったものなんですよ。それはこの町で生まれ育った才能ある芸術家がアウシュビッツで殺されなければならなかったという事実を、戦後になって初めて知った市民たちが、その存在を今日に紹介したいと運動が広がったからです。地元の新聞で「だれがヌスバウムをおぼえているのか?」と呼びかけ、国内はもちろんベルギー、イタリア、フランスなど多くの国から情報が寄せられました。この館の設計も公募したんですよ。
 大内田 それであの著名な建築家リベスキントさんが。
 イエーナ ええ。私たちは最初とても心配しました。こんなに変わった建物ではヌスバウムの絵はそっちのけになるのではないかと思ったんです(笑い)。でもオープン(九八年)してみたら、リベスキントの建物とヌスバウムの絵が、マッチして人々に受け入れられ、ほっとしました。
 大内田 来年は生誕百年ですってね。
 イエーナ はい。これを機会に二十世紀の芸術との関連や、同時代の画家、あるいはゴッホのように前の時代に生きた画家との関係など、ヌスバウムを多くの人々に知ってもらえる企画を考えたいと思っています。この館で働くみんなの一致した思いは、過去を学ばずして将来に向けて平和を守ることはできないということです。偶然にも館長という仕事をしている私も、ほんの少しのお手伝いができていることを誇りに思っています。
 フェリックス・ヌスバウム 1904年、北ドイツの裕福な金物商の二男として生まれる。18歳で画家修業のためハンブルクへ。その後ベルリンに移り後に妻となるポーランド出身のユダヤ人画家フェルカ・プラテックと出会う。32年ローマのドイツ・アカデミーに留学。翌年ナチが政権をとったためベルギーへ亡命。40年ドイツ軍の侵攻で南仏のサン・シプリアン収容所に抑留されるが脱出。フェルカの待つブリュッセルに戻り、ナチの追及から身を隠しながら絵を描く。44年6月、2人はドイツの親衛隊に捕らえられ、7月末日最後の輸送列車で、両親、兄も殺されたアウシュビッツに送られ命を絶たれる。

 インゲ・イエーナ 1956年オスナブリュック生まれ。74年オスナブリュック大学に入学美術史を学ぶ。82年から同市の「博物館と芸術の協会」、85年には市立文化史博物館で展覧会担当の監督(CURATOR)を務める。92年以後はヌスバウムコレクションの監督もかねる。2000年4月からフェリックス・ヌスバウム館の館長。90年発行のカタログ『F・ヌスバウム 追放された芸術―亡命芸術―抵抗の芸術』の執筆者の一人。
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2003年09月07日『赤旗』)(Page/Top

チュニジアの七日間/中央委員会議長/

民族独立の闘争史が国づくりの活力に
 実際、七十五年にわたるフランスの植民地支配とたたかって、独立チュニジアをかちとった民族独立闘争の歴史は、この国と国民の活力の大きな源泉となっている。
 大会でも、演説の要所要所で、代議員の全員が立ち上がって国歌を歌うが、これは民族独立闘争のなかで歌われてきたものを、国歌として採用したのだとのこと。ハマム氏の解説によると、ブルギバ大統領の時代の国歌はブルギバ礼賛が露骨だったので、ベンアリ大統領に代わってから、その国歌を廃止し、独立闘争時代のチュニジア賛歌をあらためて国歌にするよう、国会で決定したのだという。
 独立闘争といえば、その指導者だったブルギバ前大統領にたいする評価も、興味ある点だった。ブルギバは、政権党・立憲民主連合の創立者であり、三〇年代からチュニジアの民族独立闘争の先頭に立ってきた、いわゆる「建国の父」である。一九五六年に独立をかちとり、一九五七年に王制を廃止して共和制に転換した時、初代大統領になり、三十年にわたってこの地位にあった。最後の時期には、制度的にも自分を「終身大統領」に位置づけたうえ、個人的な権力に固執する専横の傾向が強まった、と言われている。
 そのブルギバ氏に任命された最後の首相がベンアリ氏だったが、ベンアリ氏が首相就任の一カ月後に、「執務不能」という医師の診断書をブルギバ大統領につきつけて「終身」大統領の退陣を実現したのが一九八七年、それによってベンアリ大統領を中心とする現体制が実現したのである。一九八七年のこの政変は、論者によっては「無血革命」とも呼ばれるが、公式にも、国と党を破滅から救った歴史的な「改革」と位置づけられている。
「建国の父」の評価をめぐって
 興味深いのは、ブルギバを強引に退陣させた一九八七年が、現在のチュニジア政治の出発点になっているにもかかわらず、歴史の見方がブルギバ時代の全否定とはなっていないことである。ブルギバ前大統領は、退陣後に亡くなったが、首都チュニスの中心をつらぬく幹線道路は、いまでもブルギバ道路である。この大会でのベンアリ演説でも、ブルギバをはじめとする先人たちの建国の功績への感謝と、ブルギバ体制を終結させた一九八七年「改革」への礼賛とが並列して強調され、ブルギバへの評価を述べた時には、ひときわ大きな拍手が起こる、という情景があった。
 この評価は、表面だけの儀礼的なものではないようだ。私たちの世話役ハマム氏の解説によれば、ブルギバは民族独立闘争で大きな賢明さを発揮した指導者で、その賢明さは、たとえば、第二次大戦の時、反フランス路線に固執することなく、反ファシズムの立場でフランスをふくむ連合国に協力する立場をとったところにも、表れたのだという。
 第二次大戦中に世界の反植民地独立運動がとった路線の問題では、インドにこれとは対照的な実例があった。国民会議派をはじめとするインドの独立運動が、反イギリス路線を根拠に、第二次大戦に「中立」の立場をとり、一部には日本軍に協力する流れさえ生まれたのである。ハマム氏が、世界の大局を見るブルギバの賢明さを評価するのは、納得できる話だった。
 こういうことを含めて、「建国の父」ブルギバにたいする高い評価と、晩年のブルギバ専横を終結させた一九八七年「改革」への礼賛とが、合理性をもって共存しているのだとすると、ここに、独立運動の歴史にたいするとらえ方のチュニジア的な柔軟さがあるのかもしれない。
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2003年09月01日『赤旗』)(Page/Top

伊首相の暴言/EUの基本理念―反ファシズム/踏みにじったことに怒り

 ストラスブールは十九世紀から独仏両国が奪い合いを繰り返してきた町。第二次大戦後、反ファシズムと恒久平和実現の決意を込めてここに欧州連合(EU)の議会、欧州議会が置かれました。ベルルスコーニ・イタリア首相の発言はおよそこの町にふさわしくないものといえます。
 免責特権法を急きょ可決させて汚職での訴追から逃げ切ろうとする同首相。これを批判したドイツ人議員をナチ呼ばわりしたことは、「ジョークだった」(同首相)と受け取られず、こともあろうにEU議長としての就任演説の場で、戦後欧州の基本理念を踏みにじった行為として糾弾されています。
 EU基本条約はEUが自由、民主主義、人権の尊重、法の支配を原則とし、これに反した加盟国に制裁を科すことを定めています。ファシズムが欧州全土を戦場にし、数千万人の犠牲をもたらした大戦を引き起こしたことへの反省から、その復活を未然に防止するためです。二〇〇〇年にはナチを賛美した極右政党を政権入りさせたオーストリアに制裁が発動されました。
 ドイツではナチのシンボルマークであるかぎ十字が法で禁止され、公然と掲げれば逮捕、訴追は免れません。ナチが行ったユダヤ人などに対する迫害は犯罪とされ、国家として謝罪の意思を明確にしています。まったく根拠のないナチ呼ばわりはドイツ人に対する最大の侮辱です。
 イタリア国内でベルルスコーニ暴言が厳しく批判されていることにも同様の理由があります。イタリアは第二次大戦でナチス・ドイツの同盟国でしたが、米英など連合軍と呼応した国民自らの決起でファシスト政権を倒しました。戦後の憲法はファシスト党の再建を禁止しました。
 ベルルスコーニ氏自身はファシズムを賛美する政治勢力に支えられ、その政治姿勢に欧州各国から強い警戒感が向けられていました。「本性あらわる」というのが各国の実感でしょう。イタリアが輪番制のEU議長を務める今年後半には欧州憲法草案の審議が行われます。ベルルスコーニ氏の適格さが問われるのは必至です。(山田俊英記者)
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2003年07月05日『赤旗』)(Page/Top

団結の教訓は生きる/対独戦勝記念日にロ大統領

 【モスクワ9日北條伸矢】ロシアは九日、五十八回目の対ドイツ戦勝記念日を迎えました。モスクワ中心部・赤の広場では軍事パレードが行われ、プーチン大統領が演説。米英ソなど連合国の団結が反ファシズム戦争の勝利を導いた教訓を振り返り、「今日でも貴重な団結の教訓は生きている。国際テロという新しい世界的な脅威が生まれ、それに対抗するためにはすべての文明国が力を合わせなければならない」と強調しました。
 ロシアでは、メーデー、十月革命記念日など旧ソ連時代の祝日の名称が変更され、国家的な式典は中止されました。しかし対独戦勝記念日だけは軍事パレードが実施され、盛大に祝うならわしです。旧ソ連諸国でも同日、多彩な式典が開かれました。
 ソ連は第二次大戦で二千万人を失ったとされるだけに、近親者に従軍・被災経験者がいる国民がほとんど。学校教育でも対独戦が重視されており、若い世代を含め、戦争経験の風化≠ヘあまり見られません。ただ、指導者スターリンの役割については、粛清や戦争指揮の誤りなど否定的な評価も教えられるようになりました。ソ連時代に「大祖国戦争」と呼びならわされてきた対独戦の呼称は現在も使われていますが、報道機関や一部の国民には「第二次世界大戦」が浸透しつつあります。
 快晴に恵まれた九日。モスクワ市内の戦勝公園には午前中から家族連れの市民が多数訪れ、勲章を胸にした男女の戦争経験者に「おめでとう」と声をかけ、花束を手渡していました。
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2003年05月11日 『赤旗』)(Page/Top

世界でメーデー多彩に/福祉、平和掲げ独では100万人

 【ベルリン1日片岡正明】一日のドイツの今年のメーデーにはドイツ政府が提案している社会保障制度の改悪や米英によるイラク戦争という情勢を反映し、各地で昨年の倍の約百万人が参加しました。
 ドイツ労働総同盟(DGB)のメーデースローガンは「改革はイエス、社会保障制度の解体はノー」。シュレーダー首相が打ち出した失業保険給付期間の大幅削減、病気休業補償金の削減、小規模企業での解雇規制緩和など、労働者・国民の負担を重くする「改革案」に全面的に反対するものとなっています。
 フランクフルトの近くのノイアンシュパッハでのメーデー中央集会(約六千人が参加)では「シュレーダー退陣せよ」というプラカードも掲げられ、シュレーダー首相が演説で「将来の世代に負担をかけてはならない」と「改革案」擁護を述べると抗議の笛が鳴り響きました。一方、ゾンマーDGB議長はこの集会で「いつも改革の名のもとで社会保障制度の解体が進められてきた、改革は社会的公正を基礎とすべきだ」と反論しました。
 ベルリンでは「失業・社会保障切り捨て・ファシズムに反対」「社会福祉切り捨てで雇用は増やせない」などの横断幕を掲げて約二万人が行進。市庁舎前の集会では「米国のイラク戦争・占領に反対」「社会保障制度の解体反対」が呼びかけられました。
 シュウェリンでは三万人、ボン、ハンブルク、ハノーバーなどでも数万人が参加しました。
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2003年05月03日 『赤旗』)(Page/Top

イタリア/58回目の解放記念日/各地で催し 式典欠席の首相に批判

 【パリ25日浅田信幸】イタリアのファシズムからの解放と自由、民主主義の回復を記念する五十八回目の「解放記念日」を祝い、ローマでの記念式典、ミラノでのデモをはじめイタリア各地で二十五日、多彩な催しが行われました。
 イタリアからの報道によると、チャンピ大統領は今年、第二次大戦後の歴史で初めて大統領官邸クィリナーレ宮殿で記念式典を催し、この日が「未来にとっての記憶と希望」の祝日であると、反ファシズム・レジスタンス(抵抗運動)の勝利をたたえる演説を行いました。
 イタリアでは近年、レジスタンスの意義を否定し、歴史教科書の書き換えを進めるなど反動的な動きが強まっています。この風潮に迎合するように、ベルルスコーニ首相が記念式典をボイコットしたことに、強い批判の声があがっています。
 デモと集会が行われたミラノで、中道左派勢力の新たな指導者と目されているコフェラーティ前労働総同盟(CGIL)書記長は「民主主義と自由の価値を理解する圧倒的多数のイタリア人の感情に背く選択だ」と首相の欠席を批判しました。
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2003年04月27日『赤旗』)(Page/Top

イタリア あす「解放記念日」/先制攻撃の拡大を阻止/憲法の価値守れ焦点に

 イタリアでは二十五日、五十八回目の「解放記念日」を迎えます。ミラノで全国から集まるデモ行進が行われるほか、レジスタンス活動家の記念碑に遺族や自治体関係者が献花し、記念式典を開きます。レジスタンス経験者との対話集会も各地で開かれます。
米英軍がイラク占領続ける中で
 今年は、米英両国が国連憲章を踏みにじってイラクを攻撃し、占領を続ける中での記念日です。米英軍のイラクからの撤退、先制攻撃の拡大阻止が主要テーマになる予定です。
 イタリア全国パルチザン協会や労働組合、文化団体、イタリア共産主義再建党など二十団体は九日、共同アピールを発表し、催しへの参加を呼び掛けました。
 アピールは「国際的な合法性の規則を破り、予防的かつ一方的な方法で決定づけられた戦争で荒廃させられた今日、解放記念日の価値と意義は全面的に浮き上がる」と強調しています。また「イラクの再建と政治行政の未来に関しては、国連に中心的役割を認めることを求める。イラクの未来はイラク人民の完全な自主決定で決められなければならない」と指摘しました。
国民世論の大多数と対立
 ベルルスコーニ右派政権はイラク戦争を支持し、米軍の占領支援策として治安維持や医療にあわせて二千五百−三千人の部隊派遣も決定しました。これに対し、国際紛争の解決手段としての戦争を放棄した憲法に反するとして、国民から強い批判が出ています。アピールも、政府の姿勢を「憲法違反であり国民世
論の大多数と対立している」と非難しています。
 イタリアでは近年、レジスタンスの意義を否定したり、レジスタンスや憲法を詳述した学校教科書が「偏っている」とする攻撃が右派勢力から出ています。
 ベルルスコーニ首相も十二日、憲法の一部が「ソビエト的」で経済発展を阻んでいるなどと語りました。
 右派政権の一部にあるこうした歴史修正主義を克服し、憲法の価値を守ることも大きな課題です。
 アピールは、レジスタンスが平和と民主主義をもたらした歴史的事実をふり返りながら「(攻撃の)潮流に対しては、巨大で捨て去ることのできない価値、また真実と歴史記憶の価値の名において、強力かつ断固として反撃しなければならない」と表明し、憲法を守るたたかいへの参加を訴えています。(島田峰隆記者)
 (注)レジスタンスと解放記念日 第二次大戦末期の一九四五年四月二十五日、ドイツ軍に占領されていたイタリア北部の諸都市が、連合軍の到着に先だって国民のレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)によって解放されました。この運動は戦後、戦争放棄や民主主義を明記した憲法に実りました。この日はファシズムからの解放を祝う日として休日に指定されました。
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2003年04月24日『赤旗』)(Page/Top

ドイツ/すべての民族に平和を/復活祭平和行動に1万人余

 【ベルリン19日片岡正明】ドイツの復活祭平和行動二日目の十九日、ドイツ六十カ所以上で一万人以上が参加しました。
 シュツットガルトでは、約四千人が「米国の国際法違反の戦争が次の戦争の先例となってはならない」をスローガンに行進。ミュンヘンでは「すべての民族に平和と正義を、戦争ノー」などの横断幕が掲げられました。
 ケルンではイラクからの亡命者を含め約千二百人が戦争と人権侵害に抗議してデモを行いました。またデュッセルドルフで約千人、ブレーメンで約六百人、カールスルーエで約七百人が参加しました。
 一方ハイデルベルクでは、ネオナチが集会を計画したのに対し、「ファシズムを許すな」と約二千人が集まり、百人ほどが集まったネオナチ集会を圧倒しました。
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2003年04月21日 「赤旗」)(Page/Top

美術/黒人の信仰にじむモダン/ヴィフレド・ラム展


 キューバの作家ヴィフレド・ラムの生誕百年回顧展は、一九三七年の作「スペイン内戦」で始まる。バルセロナでスペイン共和国のためにファシズムとたたかった画家の、記念碑的作品である。パリに移り、黒人彫刻にひかれるピカソから激励を受けるなど近代表現になじみ、後年はフランス、イタリアで独自の表現を展開した。それは土俗宗教の世界観を色濃く反映している。
 ラムはアフリカとスペインの血をひく母、中国人の父をもつ。一九四一年に帰国したキューバで植民地支配下に進行した物質崇拝と精神的荒廃に直面して、黒人の聖霊信仰に改めて目を向けた。人間的な精神の救済には、連鎖する自然の生命を生きた古来の人間観を近代に融合させる必要があったのである。それは母親から受け継いだ、内からわき出る欲求であった。
 そうした独自表現の形成過程がうかがえる一九四〇年代はとくに興味深い。マチス風の人物やキュビスムから、運命の神・雷神・母神・愛の神などをモティーフにしたシュールレアリスム風表現に移行する。聖霊が鳥や獣の顔をもって宙を飛び、男でもあり女でもあるデフォルメされた人体と絡まる。線描が大きな比重を持ち、濃彩の色面分割が消え、モノクロームの背景にモティーフが浮かび上がる。土俗臭を押し殺しながら人間の普遍性をつくのである。彫刻は縄文土器を連想させる強い表現だ。
 ラムは人種と民族、伝統と現代の複雑な交差点に身を置き、黒人奴隷の売買と殺りくと文化破壊の歴史の上にある人間の営みを描いた。グローバリゼーションが進む今日を先取りしたかのようである。(山口泰二・美術評論家)13日まで、横浜美術館(木曜日休み)
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2003年01月07日 「『赤旗』」)(Page/Top

2002(ヘッドライン)

*                     土曜インタビュー/ドイツ文学者/北條元一さん/文学・芸術の真実を追い求めて/状況が人間性失わせる中 表現のもつ回復力信じて

*                     ノーベル賞作家の記念館/独・リューベック/ギュンター・グラス トーマス・マン

*                     ブレヒトは20世紀の「出来事」/尽きぬ面白さ 3つの発見/関きよし

*                     歴史と向きあう 戦争責任と現在 識者に聞く/ファシズムとの決別は EUとイタリアの基本フィレンツェ大学 マリオ・ロッシ教授

*                     イタリア/反ファシズム記念式典/大統領もメッセージ 「歴史の記憶は義務」

*                     土曜インタビュー/ナチスの犯罪告発に現代への暗い喩/虐殺という破局、悲劇に 沈黙、無関心でいいのか

*                     ナチス併合と連合軍占領を同一視/オーストリア/自由党護民官の発言に批判

*                     独 93歳ナチ戦犯に禁固7年

*                     記者ノート/外信部 山田俊英記者/極右進出の仏大統領選を取材して/実感した民主主義の強さ 底辺の不満解決が課題

*                     第2次大戦中にイタリア人虐殺/元ナチス隊長裁判を開始/ドイツ

*                     2002 仏大統領選/極右に警戒緩めぬ欧州

*                     仏大統領選 あす決選投票/自由・平等・友愛、反ファシズム/党派超え広がる

*                     極右の大統領当選阻止訴え/芸術家103団体が集会/パリ

*                     ファシズム復活させない

*                     ワールドリポート/ヒンズー過激派の暴力続く/宗教・民族共存の危機/アーメダバードにみる/インド西部

*                     4月25日は「解放記念日」 イタリア/反ファシズムは民主主義の基本価値、市民参加で継承を

*                     「ありふれたファシズム」/17日に長編記録映画を上映/今日への警告はらむ

*                     戯曲「ロボット」の作家/カレル・チャペック 多彩な魅力/強烈な好奇心/独特の語り口/豊富な語彙/田才益夫

*                     イタリア/「北部同盟」のEU攻撃 右派政権に不協和音

*                     断面/カナダの「銃後」を描く/「パレードを待ちながら」

*                     「建国記念の日」とアジアのまなざし/笠原十九司

*                     一九三〇年代の大恐慌時/時短で雇用の拡大を実施−−対応分かれたフランスとイタリア

*                     アウシュビッツ解放57周年 欧州各地で式典・集い/民族排外とのたたかい誓う/歴史から学び悲劇繰り返さない

*                     「パードレ・ノーストロ 我らが父よ」/父との葛藤えぐる

*                     “日本軍旗は侵略の象徴” 中国・北京日報

*                     エンターテインメント/ポケットから出てきたミステリ−/カレル・チャベック著、田才益夫 訳

2002年(本文)(Page/Top

土曜インタビュー/ドイツ文学者/北條元一さん/文学・芸術の真実を追い求めて/状況が人間性失わせる中 表現のもつ回復力信じて


 「捨て石になりたい」―このほど『北條元一 文学・芸術論集』(本の泉社)をまとめた北條元一さんは、自分の仕事を評してこう語りました。来月卒寿を迎えます。先週、「出版を祝う会」ももたれ、多くの友人から祝福された北條さんは、成城(東京・世田谷区)の自宅で、文学・芸術論への関心を語りました。

☆虚構の不思議さ
 「芸術とは何か」「文学における真実」「創作方法におけるリアリズム」など、一九四〇年代から近年までの論考が収録されていますが、キーワードは「文学的真実」です。
 「文学はフィクションでしょう。虚構つまりうその中に、だますつもりでないうそがあり、そこに真実があるということ自身が、ある意味で不思議なことなんですね。みんなが当たり前みたいに、リアリティーとか文学的真実とか、文学・芸術は真実を追求するとかいっているけれど、それぞれ人によって意味が違うんですね」
 ゆったりと、かみくだくような口調に研究の深さがうかがわれます。
 「マルクスを知って芸術も科学的に研究することができるんだという信念を得たものですから、みんなが勝手につかっている真実とかリアリティーとかいっていることを交通整理して、各人が芸術的真実とは何かということについて論争するための、土台をつくる捨て石になりたいというのが、僕の念願なのです」
 論考では、ホメーロス、アリストテレス、シェークスピア、トルストイ、ヘミングウエー、芥川龍之介、志賀直哉など古今東西の文学作品を材料に縦横無尽に論じ、後進には貴重な贈り物です。
 小学生のときに親にねだって『プラトン全集』を配本してもらい、議論のやりとりの面白さに夢中になったといいますから、「理屈」好きは生来のもの。その北條さんの科学的社会主義への接近は、軍国主義の深まりと重なりあっています。

★目の前で特高が
 「東大の学生のころ、京大の滝川教授追放糾弾集会があり、その他大勢でいったんですが、そのとき二十六番教室の上の方から天皇制打倒と書かれた垂れ幕がおりたんですよ。胸のつかえがおりたような気持ちでしたね。そのあと、本郷の喫茶店で集会があって、七、八人が集まったんだけど、すぐさま特高がきて集会届けをだした二人を連れて行った。僕や西口克己、大学にはいったばかりの田宮虎彦なんかもいたんだけれど、ぼうぜんと見送るのみでしたね」北條さんが大学で学んだころには、改造社の『マルクス・エンゲルス全集』が刊行され、文学芸術についてのマルクス・エンゲルスの書簡などが岩波文庫などで紹介されるようになります。そしてファシズムに抗して、政治的立場、思想、信条の違いをこえて手をつなごうという人民戦線が世界的に提唱されたことが、思想的変化に拍車をかけたといいます。
 「僕は山本宣治を生んだ京都の出身ですから、左翼の友人が多いんです。でも政治的には共感できても、文学的にはしっくりしなかった。寛容というか他の思想を一概に排除しないという気持ちがレッシングなどの影響で非常に強かったからです。それがマルクス・エンゲルスの手紙にふれたり、人民戦線の提唱によって解消されたんです」

☆世界文学会一途に
 戦後、民主主義科学者協会(民科)の芸術部の運営を引き受け、民科の中に作った世界文学研究会を発足させ、その後独立した世界文学会の中心を担います。ここには、見解の相違を前提に、自由な討論で互いの理解を深め文学の発展を願うという、人民戦線の精神が息づいているようです。
 「小さな会ですが、戦後分裂や抗争もなく今日まで継続してきたのはめずらしいことですね」
 部屋には四年前に亡くなった夫人のさなえさんがつくったファウスト劇の操り人形が飾ってあります。
 「戦前に滝沢修のファウストを妻とみたとき、非常に感激しましてね、それでゲーテのファウスト劇を人形をつかって八ミリでとる夢を持ったんです。戦後になったら忙しくてそれどころじゃなかった」
 玄関には叔父である津田青楓(せいふう)の絵や画家で詩人であったさなえさんの絵が飾ってあります。紅茶にウイスキーを少したらして口に含み、悠揚迫らぬ感じの話はつきません。
 「資本主義というものは文学・芸術に敵対的であるとマルクスはいったけれども、資本主義が人間らしさを失わせる、そういう状況はますます進行しているのだけれども、逆に文学・芸術はそれを回復させる力を一番持っている。だからこれをなんとかみんなで推進していかなければいけないんじゃないでしょうか」牛久保建男記者
 ほうじょう もとかず=一九一二年、京都市生まれ。世界文学会名誉会長。東京大学文学部ドイツ文学科卒業。東京工業大学教授、名古屋工業大学教授などを歴任。著書に『芸術認識論』『ハムレット論』『文学・芸術とリアリズムをめぐって』『文学の泉へ』など。
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2002年11月23日『赤旗』)(Page/Top

ノーベル賞作家の記念館/独・リューベック/ギュンター・グラス トーマス・マン


 バルト海沿岸にあり、ハンザ同盟時代の面影を残すドイツの都市リューベック。ここにはノーベル文学賞作家のトーマス・マンとギュンター・グラスの記念館があります。

市文化基金で10月20日開館
 「ブリキの太鼓」(一九五九年)を書きノーベル文学賞(九九年)を受賞したギュンター・グラス(一九二七年―)の記念館は、十月二十日に開館しました。同市の文化基金による創設です。
 同館は、グラス氏の原稿約百点と、芸術家としての同氏の絵画、彫刻約百点を保存、展示しています。図書室、資料室もあります。同氏自身による作品の朗読をテープで聞くこともできます。館の一部がグラス氏の所有で、氏自身はリューベックに近いベーレンドルフに住んでいます。
 絵画、彫刻にはヒラメ、ネズミをモチーフとしたものがたくさんあります。
 カイ・アルティンガー館長は「文学とともに芸術家としても才能を発揮しているグラス氏を紹介するために記念館が建てられました。スケッチは三千枚、版画は四百五十点もあります。文学作品の挿絵は執筆が中断しているさい、構想を練るために描いたそうです」と言います。

「ブッデンブロークハウス」
 そこから徒歩五分の所に、文豪トーマス・マン(一八七五年―一九五五年)ゆかりの「ブッデンブロークハウス」があります。トーマスの祖父が一八四二年に購入、トーマス家が一八九一年まで住んだ所。ここも市の文化基金が管理しています。
 トーマス・マンは「ブッデンブローク家の人々」(一九〇一年)で二九年にノーベル文学賞を受賞しました。三三年、ナチスの迫害を逃れて米国へ亡命、兄のハインリヒとともに、ファシズムとたたかいました。
 館内には、家族史を示す多数の写真や当時の調度品が「ブッデンブローク家の人々」の舞台になぞらえて置かれています。この家は四二年の空襲で破壊され、戦後再建されました。九三年、リューベック市が記念館とするため買い取ったものです。
 ここでは、著作やその朗読テープ、トーマス・マンが英BBC放送を通じ、ドイツ国民にナチスへの抵抗を呼びかけたテープなども販売されています。同館はマン兄弟の交友関係者の展示シリーズを計画。来年は一九一八年のミュンヘン革命運動に参加し、ナチス政権のもと三四年七月、オラーニエンブルク強制収容所で死亡した作家エーリヒ・ミューザムが紹介されます。

ブラント氏の記念館建設へ
 文化基金は二〇〇五年には、同市出身の社会民主党の元西独首相で一九七一年にノーベル平和賞を受賞したウィリー・ブラント(一九一三年〜九二年)記念館を建設する予定です。(リューベックで坂本秀典写真も)
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2002年11月22日『赤旗』)(Page/Top

ブレヒトは20世紀の「出来事」/尽きぬ面白さ 3つの発見/関きよし


多面的な活動 思想家の面も
 ブレヒトは一九二〇年代に活動を始め、日本にも戦中から紹介され注目されていたが、本格的にはやはり戦後一九五、六〇年代の“政治の季節”からであった。「三文オペラ」「肝っ玉おっ母とその子供たち」「コーカサスの白墨の輪」「セチュアンの善人」などなどの作が今日まで半世紀以上繰り返し上演されつづけている。翻訳の劇としてはシェイクスピアやチェーホフに次ぐ人気の高さ、その面白さとは、なぜいまブレヒトなのだろう。
 「ブレヒト」を辞書でよむと、「ドイツの作家」とあり「ナチス時代アメリカなどに亡命し、第二次大戦後東ドイツで活躍、表現主義から出発し、次第に社会主義に向かう。また叙事的演劇を唱えて自然主義的な伝統演劇の改革を志した」と表記される。いきなり、時代・戦争・ファシズム・分裂国家・冷戦・社会体制…。二十世紀の総体が、よむ者の意識にかかわってくる。
 ブレヒトは、生涯詩人として生きた。小説を書き、戯曲を創るだけでなく演出もする実際家で、一九五六年に亡くなるまで自らの劇場・劇団を統率した。それだけではない、「演劇のための小思考原理」をはじめとする膨大な量の演劇理論を展開した。なおさらに彼には「二十世紀の偉大な思想家」という評価も定着しているのだ。手っとり早く全体を捉えられるはずがない。

“詩”として「よむ」ことば
 今はあまり聞かないがいっとき「ブレヒトよみのブレヒト知らず」と警句が流行(はや)った。専門家には失礼な文句であるが、ぼくは自分のことのように聞くたび首すじが冷やっとした。実は、六〇年代のひところ戦後日本の新劇がひどくつまらなく思え、疎ましい気分であった。そんな時に頭をかすめるのが千田是也演出の「第三帝国の恐怖と貧困」や「ガリレイの生涯」の舞台だった。前者は秋田雨雀生誕七十年記念公演で、ぼく自身その一場の演出を受けもった。そのころ演出の仕事とは、ひたすらに観客を劇の中にみちびくイメージを創ることだ、と思いつづけていた。だが劇の場面は不調和に変形したり、不安の中で変質するものとして、観客に示すべきものだ、と後になってから気づかせられるのだ。
 それから、ブレヒト知らずのよみてのぼくは、訳された日本語で、演劇理論の側から戯曲をよみ、劇作の側から評論をよむことを繰り返す。その間にある微妙なずれとくいちがいのすき間を捜す実践は、必ずしも楽しいものではなかったが、誤解と反発がつづくうちに一つの発見があった。それはブレヒトのことばは理論も作品もすべて“詩”としてよまねばならぬ、そこには表現者のもつ精神の高揚が内にある。

変革への意志 既成演劇の批判
 やがて実践はけいこ場にもちこまれ俳優たちとの仕事に応用されることとなる、それは生物学の実験にも似て、木を見て森を見ずの恐れもあったが、集中力による単純な行動と簡潔なひと言は、それ自体が一つの“演劇的な出来事”であること、これが発見の第二。
 ブレヒトの命題のはじめは、有名な“今日の演劇は世界を再現できるか”である。彼は「もしそれを変化するものとして捉えさえすれば」と明快に答える。これは確かな社会変革の意志の表れであり、同時にそれまでの演劇への本質的批判であった。一九二〇年代、既成演劇に果敢に挑んだ「夜打つ太鼓」の初演を見た劇評家は「二十四歳のベルト=ブレヒトは、ドイツ文学の相貌(そうぼう)を一夜にして変えた。…彼の戯曲は新しい詩的な世界像である」(岩淵達治氏訳)と激賞し、演劇の新しい時代が始まった。そしていまにつづく。
 八十年後のいまも、ブレヒトは世界に対し挑発しつづける。三つ目の発見は“真の変革への教育者=挑発者”ということ。いま問われているのは、発表された時どきのブレヒトが観客の心や感覚をつきうごかしたように――どうしたらできるか、であろう。ブレヒトは「君がもしつきうごかすならば」というにちがいない。(せき きよし・演出家)
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2002年11月01日『赤旗』)(Page/Top

歴史と向きあう 戦争責任と現在 識者に聞く/ファシズムとの決別は EUとイタリアの基本フィレンツェ大学 マリオ・ロッシ教授


 第二次世界大戦中に日本と同盟関係にあったイタリアが戦後、ファシズムと決別した意義や、現代の歴史修正主義とのたたかいについて、フィレンツェ大学のマリオ・ロッシ教授(62)に聞きました。同教授は国立イタリア解放運動史研究所が発行する雑誌『イタリア・コンテンポラネア』の編集長も務めています。(フィレンツェで島田峰隆)

日本との明確な違い
 イタリアと日本は国の発展局面で多くの共通点もありますが、明確な違いが一つあります。それは戦争と国家主義的伝統に対して支配階級が持つ姿勢です。
 日本では今年も八月十五日に閣僚が靖国神社を参拝しましたが、ファシズム戦争の賛美を意味するこうした行為はイタリアでは絶対にできません。
 戦後、イタリアを含む欧州連合(EU)がとった道は、ファシズムの影響力を消し去るための決定的な要素を取り入れることです。イタリアの憲法もファシスト党の再建禁止の条項を持ちます。これは反ファシズムを「イタリアの民主主義の刷新」と位置付け、イタリアの歴史と密接にかかわってきたファシズムの原因を根本から消し去るという考えです。
 同条項の存在は、イタリア国民が戦争中にレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)に参加したことと並んで、戦後、ギリシャや旧ユーゴスラビアのような侵略を受けた国と正常な関係を確立するのに機能しました。一九四五年を境にファシズムを拒否したことが周辺諸国との関係確立を助けたのです。
 ところが今、レジスタンスに対してもさまざまな攻撃が出ています。中でも大変危険なのが、戦後五十年以上たった今ではみんな同じ権利を持っているし、もう過去の分断を乗り越えて「共通の記憶」をもとうじゃないか、戦争中はそれぞれがそれぞれの理想を持っていたんだ、こういう修正主義の論理です。左翼の一部にもこの種の混迷が見られます。

基本原理を打ち消す攻撃
 しかし、今でこそだれもが同じ権利を持っていますが、戦争当時はその権利を奪ったファシストたちがいたのです。一方でそれに対抗した反ファシズム勢力があり、彼らが掲げた原則や理想が国を治めるようになったのです。
 みんなそれぞれ理想を持っていたという議論は結局、この事実をあいまいにし、ファシズムも正しかった、道理があったという議論にまで導くものです。
 こうした攻撃の政治的目的は、レジスタンスの成果を消し去ることで、レジスタンスのたまものとして生まれ、市民や労働者の権利や社会国家の保護を定めた憲法の基本原理を根こそぎなくしてしまおうということです。真の目的は反ファシズムが勝ち取った結果を消すことなのです。
 今重要なのは、修正主義とのどんな政治的、文化的なたたかいも放棄しないことです。一つはテレビや新聞など情報面でのたたかいです。もう一つの決定的な分野は教育システムです。意図的にゆがめられた情報が入らないよう、公教育を守ることです。
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2002年09月08日『赤旗』)(Page/Top

イタリア/反ファシズム記念式典/大統領もメッセージ 「歴史の記憶は義務」


 【ローマ12日島田峰隆】イタリア中部トスカーナ州のスタッツェマ村で十二日、五十八年前に起きたナチス・ドイツ軍による住民虐殺事件の犠牲者を追悼し、反ファシズムを誓う記念式典が行われ、生存者や市民、自治体関係者が多数参加しました。式典は同村が毎年主催しています。
 一九四四年の八月十二日、トスカーナ州でドイツ占領軍に対するレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)が広がる中、ナチス親衛隊(SS)はスタッツェマ村で子ども、老人、女性など約五百六十人の住民を集めて虐殺しました。直接の責任者を特定する調査が今も続いていますが、不明のままです。
 チャンピ大統領も式典にメッセージを送り「歴史の記憶は義務である」と強調しました。ナチの糾弾は「自由と正義」の認識を深めることであり、それとのたたかいで亡くなった人々に敬意を表すためにも「平和の連帯と結束、平等、人権と民主主義の原則の尊重」を保障する政治を進めようと訴えました。
 レジスタンスの伝統の強いトスカーナ州政府は五日、反ファシズムとレジスタンスの記憶を国の基本的価値と再確認し、関連する歴史、政治、文化的遺産を保護する内容の条例案を決定しました。
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2002年08月14日 『赤旗』)(Page/Top

土曜インタビュー/ナチスの犯罪告発に現代への暗い喩/虐殺という破局、悲劇に 沈黙、無関心でいいのか


映画監督 C・コスタ=ガブラスさん
 左翼政治家の暗殺事件を糾明した「Z」(六九年)やチリの軍事クーデターに材を得た「ミッシング」(八二年)をはじめ、社会や権力の不正を告発する映画で知られるC・コスタ=ガブラスさん。先に開かれた「フランス映画祭」代表団の一員として来日し、披露した最新監督作品「アーメン」は、時代の中で人はいかに生きるべきかを真摯(しんし)に問い、社会派の巨匠の力をまざまざと示しました。横浜での映画祭の合間に話を聞きました。 「ファシズムの被害者を描いたものはたくさんありますが、その反対側、虐殺に携わった側では、何が起きていたのか。ドイツのような文明国でどのようにしてヒトラーや周囲の者が統治をしていったのか、それを知りたいと思っていました」
 そうしたことを示唆してくれるストーリーを探していたというコスタ=ガブラス監督が出合ったのが、ドイツの作家ロルフ・ホーホフートの「神の代理人」。六三年にベルリンで初演されたこの戯曲の映画化権をやっと手に入れ、映画「アーメン」はそれを元にしています。

組織内部で抵抗
 ヒトラーがドイツで政権を握って以後のヨーロッパが舞台。ナチスのユダヤ人虐殺を目撃し、その阻止のため力を尽くしたナチス親衛隊員の実在の化学者クルト・ゲルシュタインと、彼に力を合わせる教皇庁の若い修道士リカルドを描きます。
 「このストーリーに興味を持ったのは、このストーリーが、まさに現代われわれが生きている社会のメタファー(暗喩)になり得るからです」
 虐殺を阻止しようと奔走する二人は、ローマ教皇の協力をあおぎます。が、善良な人徳者ではありながらも、教皇ピウス十二世は、結局ナチスの非道を世に訴えることもなく沈黙を守ってしまいます。
 「ドイツ軍が、強制収容所をつくったことを、ヨーロッパの政治指導者たちは知っていたし、宗教指導者、とりわけローマ教皇は知っていた。けれど驚くべきことに誰も反対行動を起こさなかったし、非難の声明も出していないのです。虐殺という人間への破局がもたらされているというのに」
 「世界のさまざまな所で悲劇が起きているのに政治指導者たちが、それに対して沈黙を守り、あるいは無関心である」という現代への問題提起。「単なる歴史的映画をつくりたいと思ったのではない」と言葉を重ねます。
 「私が興味を持ったのは、二人の登場人物の行動です。二人ともシステムの内部にいながら困難を乗り越え抵抗を続けます。彼らのレジスタンスの基盤になっていたのは、キリスト教哲学です。彼らの態度は当時の宗教指導者の態度とかけ離れたものでした」
 「僕は祖国を離れない」と、惨劇の目撃者としての証言を生かそうとするゲルシュタイン。収容所に送られるユダヤ人とともに列車に乗り込む誠実なリカルド。命懸けの行動を貫く彼らを中心に運ばれる重厚なドラマが、見る者に鮮烈な問いかけを発します。人は、あるがままの人生を生きるのか、あるべき理想の人生を求めて生きるのか、と。
 「個人的には、私は、常識的なことさえ受け入れられない人間だが」と前置きしながら、「より良い人生のために闘争を続けるべきだと考えています」と語るコスタ=ガブラスさん。映画監督としての半生がその言葉に重なります。

自分の信念で
 「第一作(六四年「七人目に懸ける男」)を撮った時から、私は社会的な内容の映画に興味を持っていました。六〇年代に、ヌーベル・バーグが流行した時、それらが、人間、夫婦、家族を扱いながらも、そこに社会全体からの提起が無いと思いました。権力や抑圧、また自由が欠けている問題、そういうことを扱った映画が無い、と」
 ギリシャの貧しい家庭に育ちました。父は、反独レジスタンスに携わり、そうした活動家の子どもは、ギリシャでは大学入学を許されず、フランスの大学に進み、パリのイデック(高等映画学院)を卒業。ルネ・クレール、ルネ・クレマン、ジャック・ドゥミらの監督たちに就き「多大な幸運」に恵まれたと言います。
 「映画は発明された時から、世界を変えることに貢献してきたと言えるでしょう。人間同士、よく知り合い、接近させる。大衆的で人気のある、まれな芸術だと思います。一番アクセスが容易な芸術であるからこそ、社会のなかで重要な役割を持っていると思います。もちろん映画には人を変える力があります。でも、私は、つくる時は、監督として、自分自身の個人的な信念に基づいてつくりたいと思っています」

日本映画で育つ
 十五年ぶり、三度目の訪日。
 「日本が変わったので驚いています。私たちの世代の監督は、日本映画で育ってきました。五〇年代、六〇年代の日本映画をよく見ましたし、日本から来る映画に魅了されたものです。私がシネマテックの館長に就任した時、最初にやったのは、日本映画の特集でした。一年間にわたって四百五十本近い日本映画を上映したのです。日本映画から受けた教育は、映画の教育であり人間教育でもありました。私が一番影響を受けた外国映画は、ジョン・フォード監督の『怒りの葡萄(ぶどう)』と黒沢明監督の『七人の侍』です」
 「Z」「戒厳令」「ミッシング」…、感銘を受けた作品を挙げると「何千キロも離れた国で私の作品を見てもらっていることがわかること以上に監督としてうれしいことはありません」。両手を重ね、端然として語る監督の笑顔が印象的です。文・児玉由紀恵記者写真・滝沢 清次記者C・コスタ=ガブラス
 一九三三年ギリシャ生まれ。五六年、パリのイデックを卒業。六九年「Z」でカンヌ映画祭審査員特別賞、米アカデミー外国語映画賞。七三年「戒厳令」でルイ・デリュック賞、八二年「ミッシング」でカンヌ映画祭パルムドール、八九年「ミュージック・ボックス」でベルリン映画祭グランプリほか。
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2002年07月20日 『赤旗』)(Page/Top

ナチス併合と連合軍占領を同一視/オーストリア/自由党護民官の発言に批判

 【ウィーンで岡崎衆史】一九三八―四五年までのナチス・ドイツによるオーストリア併合と第二次大戦後の連合軍による占領時代を同一視する自由党指名の護民官発言に対し、オーストリアの各方面から批判が高まっています。
 護民官は、国民議会(下院)の第一党から第三党までが指名する三人で構成され、行政に対する国民の不満解決に尽力する、憲法が定める機関です。
 与党で国民党と並んで議会第二党の自由党が指名するシュタッドラー氏は六月末、「オーストリアは一九四五年にファシズムと独裁から解放され、次の独裁に移行したとされる」と発言しました。
 これに対し、野党の社民党と緑の党は「まったく受け入れられない」(フィッシャー下院議長=社民党)「ナチ的な人種差別主義者のための護民官だ」(緑の党のペトロビッチ下院議員)と反発し、シュタッドラー氏の辞任を要求。クレスティル・オーストリア大統領も八日、「歴史の改ざんとたたかわなければならない」と強調しました。
辞任を拒否
 相次ぐ批判に対して、当のシュタッドラー氏は改めて「ナチスのテロも共産主義のテロも同じだ」(スタンダード紙五日付インタビュー)と述べ、辞任を拒否しました。一方、リースパッサー自由党党首(オーストリア副首相)は、「発言は党の方針ではない」と述べつつも、辞任は求めないとしています。
 しかし、与党の国民党や自由党内からさえ「ナチの第三帝国の無法の軽視」(国民党のラウホ・カラット書記長)、「四五年前後の歴史の比較は許されない」(ゴルバッハ自由党党首代行)といった声が出、批判は強まる様相です。今後、リースパッサー副首相やシュッセル首相(国民党)に対して、シュタッドラー氏の辞任を促すなど何らかの対策を求める声が広がりそうです。
37万人の犠牲
 ナチス・ドイツは一九三八年―四五年までオーストリアを併合。その間に犠牲となった国民は三十七万人近いともいわれます。四五年の連合軍による解放後、米国、ソ連、英国、フランスの戦勝四カ国が五五年まで分割占領。同年の主権回復条約(国家条約)で独立を回復しました。
 欧州で台頭する他の極右政党の先駆け、二〇〇〇年に政権入りしたオーストリア自由党は、ハイダー前党首がナチス時代の雇用政策を評価するなど、これまでもナチスの犯罪に対する反省の不徹底が問題になってきました。
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2002年07月12日 『赤旗』)(Page/Top

独 93歳ナチ戦犯に禁固7年

 【ベルリン5日坂本秀典】ドイツ・ハンブルク地方裁判所は五日、第二次大戦中イタリアのジェノバで五十九人の捕虜殺害に関わったとして当時現地のナチス・ドイツ軍秘密情報機関(SD)隊長でナチス親衛隊(SS)将校だったフリードリヒ・エンゲル(93)に禁固七年(求刑は終身刑)の判決を言い渡しました。高齢のため実際に収監されるかどうかは未定です。
 判決によるとエンゲル被告は、一九四四年五月、ドイツ兵のための映画館が襲撃され五人が死んだ事件の報復として、逮捕していたパルチザンの青年らの銃殺を命じました。ゼードルフ裁判長は判決で、「銃殺を指示した被告の行為は冷血で残忍」と述べています。
 エンゲルは、四つの虐殺事件で少なくとも二百四十六人の捕虜を殺害したとされ、九九年トリノの軍事法廷は欠席裁判で終身刑を言い渡しました。エンゲルは故郷のハンブルクに隠れ住んでいましたが、九八年以来、検察当局の追跡捜査が進み、逮捕されました。
判決を歓迎/イタリア人権団体
 【ローマ5日島田峰隆】イタリアの反ファシズム団体や人権団体、ジェノバの自治体は、ドイツ・ハンブルク地方裁判所が五日、元ナチス親衛隊(SS)のフリードリヒ・エンゲル被告に禁固七年の判決を下したことを歓迎しています。
 イタリア全国パルチザン協会(ANPI)のリッチ副会長はマスコミに対し「裁判は大虐殺とその残虐性におけるエンゲルの全面的な責任を確認した」と「満足」を表明しました。ただし当初検察側が要求していた終身刑とならなかったことについて「人々は別の決定を期待していた」(ジェノバ市長)という意見も出ています。
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2002年07月07日『赤旗』)(Page/Top

記者ノート/外信部 山田俊英記者/極右進出の仏大統領選を取材して/実感した民主主義の強さ 底辺の不満解決が課題

 まもなく始まるサッカー・ワールドカップ。フランス代表チームのジダンやデサイーは大統領選挙で極右を阻止するたたかいでも一流のプレーヤーでした。「フランスのすべての価値に反する政党」―ジダン選手は国民戦線をこう批判し、人種差別反対の世論をリードしました。
 仏代表チームのようにフランスそのものが多様な出身民族からなる社会です。移民は全人口の7・5%。道路工事の現場ではさまざまな言語が飛びかいます。日曜日でも開いている食料品店はたいていアラブ系仏人の商店です。厳しい労働条件の職を引き受けているのが移民です。
 極右、国民戦線は徹底した差別とフランスの孤立を主張します。不法移民は即時追放。合法的に定住している移民も出身国と協定を結んで送還する。イスラム教の活動禁止。社会保障や雇用に移民と仏人家系で差をつける。欧州連合(EU)から脱退し、自国最優先の保護主義経済に。犯罪対策では国境管理の強化と死刑復活。最近勢力を伸ばしている欧州の極右の中でも極端さが際立っています。移民出身者の間で「ルペン党首が大統領になったら出て行くしかない」と声があがったほどです。
 四月二十一日の大統領選挙一回目投票でルペン氏の決選投票進出が決まった直後、国民の決起は実に見事でした。連日のデモ。携帯電話で仲間を呼び集める若者。誰に言われるでもなく、“極右大統領”阻止の運動が広がりました。頂点となったのが全国百数十万人のメーデー行進でした。
 「人種差別反対」「共和国を救え」。パリのバスチーユ広場は五十万人のデモ隊列に埋め尽くされ、二キロ半の行進を終えるのに六時間かかりました。ラマルセイエーズの歌声には、自由・平等・友愛、フランス革命の精神を守れ、という強い思いがこもっていました。元レジスタンス戦士の老人が周りの人たちに大事にされている姿からは、第二次大戦後フランスが反ファシズム勢力によって再建されてきた歴史がうかがえました。
 私自身、巨大な人波に感動しました。しかし、他方でこれほどの民主的エネルギーがありながら、社会党や仏共産党はなぜ選挙でその力を結集できなかったのかと疑問が募りました。
 「環境問題が大事だと思ったから緑の党のマメール候補に入れた」(教員)、「電力民営化に反対だから、国家主権を重視する候補に入れた」(電力会社労働者、労働総同盟組合員)―一回目投票で過半数得票者がいなければ上位二人で決選という選挙制度のため、多くの左派支持者が、まさか一回目で社会党のジョスパン氏は落選しまいと思い込み、一回目は第一希望の候補に投票しました。この人たちのように現政権の原発維持政策や国有企業の民営化推進など批判はさまざまですが、ジョスパン氏は第二の選択でした。仏共産党のユ議長も得票率3・4%と不振でした。
 ルペン氏に投票した有権者は五百五十万人。十人に一人以上。一九七〇年代泡まつ候補だったルペン氏は八八年大統領選挙で14%、前回九五年15%、今回17%(一回目投票)と支持を伸ばしてきました。「われわれは最大の労働者政党だ」とルペン氏は自負します。投票者の職業別調査ではルペン氏は失業者の三割、低賃金労働者の四分の一の支持を得て一位です。
 「イスラム教徒はまったく異質な人々でフランスに同化できない。グローバル化で雇用は外国へ逃げ、入ってくるのはくいつめた者ばかりだ」(月収十八万円で低所得者向け住宅に住む事務労働者)。「多くのフランス人が失業しているのだから移民はいらない。移民が安い賃金で働くから私の給料も安いままだ」(建設労働者)―一回目投票後、ルモンド紙に載ったルペン支持者の声です。
 労働総同盟は「少子高齢化の中、移民労働が社会保障の財源に貢献している」と反論しました。国立統計経済研究所によると、労働者の中で移民の比率はここ数年減っています。移民の数も一九七五年からほぼ変わりません。移民が職を奪っているという見方は非現実的です。
 デモ参加者に話を聞く中で「ルペンを忘れていた」という声がありました。国民戦線の内輪もめによる分裂。大統領選では立候補に必要な推薦人集めに苦労し、一時は出馬も危ういほどでした。しかし十数年来の極右現象は社会の奥深い所で起きている現象でした。
 社会の中で最も苦労している人たちにたいして、移民、エリート政治家、EUなどを「悪人」として描き出し、それとたたかうのが自分だと売り込むのがルペン氏の手口です。パリ政治研究所のギ・エルメ名誉教授は「かれらは問題を戯画的に単純化し、悪人をやっつければ満足だ」(ルモンド五月十九日付)と指摘します。
 ジョスパン政権の五年間、週三十五時間労働法の施行、低所得者向けの医療保険新設、青年失対事業などさまざまな新しい施策が実行され、国民に歓迎されました。その中で政治の手が届かず、不満のはけ口を極右に求めた人が多かったのも事実です。その不満にこたえ、本当の解決策を実行する政治が今求められています。それがこの国の進歩勢力の課題のようです。
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2002年05月27日『赤旗』)(Page/Top

第2次大戦中にイタリア人虐殺/元ナチス隊長裁判を開始/ドイツ

 【ローマ10日島田峰隆】ドイツ北部の都市ハンブルクでこのほど、第二次世界大戦中にイタリア北部で起きた大量虐殺事件にかかわったとされる元ナチス親衛隊(SS)隊長エンゲル・フリードリヒ(93)の裁判が始まりました。
 同裁判はナチスの犯罪の真相解明につながる「最近の大裁判の一つ」(イタリア紙)として、イタリアでも注目されています。
 エンゲルはイタリア北部がドイツ軍の占領下にあった一九四四―四五年、ジェノバにSS親衛隊長として赴任、警察署長も兼任しました。その間に四件の虐殺事件に関与し、反ファシズム運動の活動家や市民ら合計二百四十六人のイタリア人を殺害しました。昨年四月にドイツのテレビ局が、ハンブルクで暮らしているところを発見しました。
 七日に行われた一回目の裁判でエンゲルは、「まったく覚えていない」、虐殺現場には「目撃者としていっただけだ」と、直接的関与を否定。虐殺対象者のリストを作成したことは認めました。
 エンゲルは昨年、高齢と健康状態の悪化、時間の経過を理由に裁判拒否の意図も語っていました。裁判は被害者団体や真相解明を求める世論を背景に実現したものです。
 イタリア全国パルチザン協会(ANPI)の幹部は、「裁判は個人責任と同時にナチスの罪の具体的事実も明らかにするもの。戦争を直接知らない若い世代にとってもナチスの蛮行を知る機会になる。大切なのはどんなに時間がたっても歴史の真実と教訓を明確にすることだ」と語っています。
 イタリアのウニタ紙は事件から半世紀以上たっても裁判を行う意義について、「国民の意識と現在・過去の関係への重要な貢献である」と論評しました。
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2002年05月12日『赤旗』)(Page/Top

2002 仏大統領選/極右に警戒緩めぬ欧州

多くの票反ルペン/英各紙
 【ロンドン6日田中靖宏】仏大統領選挙で極右のルペン候補が敗退したことに欧州各国の政界、マスコミは一様に安どするとともに、今後のフランス政局に注目し極右の伸長に引き続き警戒を示しています。
 各国首脳は「民主主義の勝利」(英ブレア首相)、「過激主義と孤立主義が否定された」(欧州委員会プローディ委員長)などと歓迎。新聞も「ほっと一息」「やれやれ」といった見出しで、仏国民が圧倒的多数で民主主義を擁護したと報じました。
 ただ巨大な反撃キャンペーンにもかかわらず、六百万人近い人がルペン候補に投票したのも事実。ロンドンの各紙は「決して気持ちを緩めることはできない」と警戒を呼びかけ、背景にある経済、社会の不安定化にどう取り組むかが政治の課題だと強調しています。
 また、シラク票の多くは反ルペン票であり、シラク大統領への信任が深まったわけではないと強調しています。
左翼の政策再建必要/各党指摘/イタリア
 【ローマ6日島田峰隆】フランス大統領選の結果について、イタリアの野党・中道左派連合(オリーブの木)内の主要政党、左翼民主(党)のファッシノ書記長は六日、「高い投票率とシラク氏承認はフランスが人種差別主義を拒否したことを示した」と指摘。同時に、欧州左翼が労働や治安など市民の懸念に対して応えるだけの「戦略を再定義する能力を持たねばならない」と語りました。オリーブの代表者ルテッリ氏もフランス社会党の敗北の原因は「社会正義や連帯のような固有の価値の提案」が不十分だったことだとして、「左翼のアイデンティティー」を強調することが重要だと述べました。
 オリーブ内の政党、緑の党のスカーニオ党首は、人種差別やナチズムの防止がいっそう求められているとして、「イタリアのあらゆる民主主義勢力が反ファシズムのイニシアチブを組織すること」を呼び掛けました。
 イタリア共産主義再建党のベルティノッティ書記長は五日、「(極右、国民戦線の)ルペンの脅威が市民と新しい主人公である若者の運動を巻き起こし、ルペンを阻止した」と強調。同時に「左翼の政策の再建が必要だということを示している」と述べました。
 ベルルスコーニ首相(右派フォルツァ・イタリア党首)は、結果は「極右に反対した投票」だったと評価する一方、「過去に左翼に振れた振り子が今ではさらに中道右派へ向かって方向を定めている」と語りました。
潜在的極右票より少ない/人権団体SOSミットメンシュ コッホ氏語る/オーストリア
 極右とたたかうオーストリアの人権団体「SOSミットメンシュ」スポークスマンのマックス・コッホ氏はフランス大統領選決選投票結果について本紙に次のように語りました。(ウィーンで岡崎衆史)*
 ルペン国民戦線党首が獲得した約18%という得票率は、欧州の潜在的極右票である20―25%を考慮すれば、思ったよりも少ないと言える。
 欧州でいうと、極右の支持者は経済・社会のグローバル化の結果、アイデンティティー喪失を感じている人々や欧州連合(EU)に失望し、その拡大で敗者となることに不安を感じている人々だ。これをナショナリズムに依拠する極右政党がうまく利用し、メディアが支えてきた。
 しかし、経済状況が良くなり、EUの機構が積極的な方向で改革されれば、こうした状況も変わる。
 オーストリアのように極右政党が政権に就いた場合も、その「魔法」は消えよう。政権に就いた極右は、妥協せざるを得ず、そのことは支持層を失望させるからだ。オーストリアでは、極右・自由党の加わる政権によって、社会福祉制度が破壊されることに国民が恐れを感じ始めている。
 欧州右傾化の振り子は揺り戻される。
“たたかいは続く”/仏の労組、人権団体、左翼政党
 【パリ6日山田俊英】五日夜、フランス大統領選挙で極右ルペン氏の落選が決まると、パリの共和国広場に一万人、近くのバスチーユ広場にも数千人が集まり、勝利を喜びました。「ルペン、ノン」「シラク、あなたに白紙手形を渡したのではない」というプラカードが人々の気持ちを代表しています。
 反極右の声を全国百数十万人のメーデー行進に結集した労働総同盟(CGT)は「決選投票の結果は人種差別、排外主義、ファシズムを拒否するかつてないたたかいの成果だ」と声明を発表。「極右進出をもたらした政治、社会の難局がなくなったわけではない。新政府はまず労働者、労組の声に耳を傾けよ」と訴えました。
 人権同盟のミシェル・トゥビアナ会長は「五百万人もルペン氏に投票したことは重大だ。わが国の行方について討論を巻き起こしていかなければならない」と語り、たたかいの継続を表明しました。
 連日デモを行った全国学生連合は「国民議会選挙で国民戦線の議席獲得を阻止する」と宣言。社会党のオランド第一書記は「青年と労働者の自由を守るための運動が勝因だ。シラク氏は政策を支持されて当選したわけではない。民主主義を守る信任状を託されたのだ」と強調しました。仏共産党のユ議長は、六月の国民議会選挙で極右の議席獲得を阻止するための共同を他の左翼政党に呼びかけました。
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2002年05月08日 『赤旗』)(Page/Top

仏大統領選 あす決選投票/自由・平等・友愛、反ファシズム/党派超え広がる

 【パリ3日山田俊英】フランス大統領選挙の決選投票が五日、行われます。保守現職のシラク候補と極右、国民戦線党首ルペン候補の一騎打ちとなったため、一回目投票で敗れた左翼政党をはじめ、各界の広範な人たちが政治的主張の違いを超え、極右大統領阻止で大同団結。シラク氏の名をあげないものも含め、同氏への投票を呼びかけています。
労組から、宗教界まで
 「反ルペン」は労働組合、市民団体、文化・スポーツ界から財界、大学学長会、農業団体、宗教界まで広がっています。主要新聞もこの問題に関しては中立の立場はないと、極右批判に徹しています。ルモンド紙三日付は、極右を当選させないためシラク氏に投票するよう社説で呼びかけました。
 記録的な百数十万人の反極右デモとなったメーデー行進のほか、黒い喪章を腕に巻いて試合をしたサッカークラブ、有権者証を提示すれば入場無料にしたディスコなど、創意的行動が広がっています。
 合言葉は「フランスの価値を守れ」。「価値」とは仏革命のスローガンであり、現憲法にも書き込まれている「自由、平等、友愛」の意味です。
 もう一つの意味は、第二次世界大戦後の国家再建の基礎になった反ファシズムの理念です。シラク大統領ら保守主流派は反ナチスのドゴール元大統領が源流。左翼も仏共産党をはじめレジスタンス勢力が中心になりました。
国の理念に反する主張
 人種差別、移民排斥や死刑復活などルペン氏の主張は国の理念に反します。「民主主義の陣営内ではシラク氏が対決相手だが、ルペン氏の当選は国の危機だ」(オランド社会党第一書記)という声があがるのはこのためです。
 支持基盤ではシラク候補が圧倒的に有利ですが、国民的なたたかいで極右支持票をどれだけ抑えられるかが注目されています。ルペン氏と、一回目投票で落選したもう一人の極右候補メグレ氏の得票はあわせて五百四十七万票、得票率19・2%でした。
 六日には、一回目投票での落選の責任をとって社会党のジョスパン首相が辞任し、左翼連立内閣も総辞職します。シラク氏が当選した場合、同氏はただちに保守の首相、内閣を指名します。国民議会では左翼が多数派ですが、仏大統領は国会の同意なしに首相、閣僚を任免できるため、今回はこの大統領権限を行使します。
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2002年05月04日 「赤旗」)(Page/Top

極右の大統領当選阻止訴え/芸術家103団体が集会/パリ

 【パリ28日山田俊英】二十八日パリ市内で極右ルペン氏の大統領当選阻止を訴え、百三の芸術家団体がコンサートを兼ねた集会を開きました。
 ギリシャの軍事独裁政権を描いた映画「Z」やチリ・ピノチェト政権と米国のつながりを告発した映画「ミッシング」をはじめ、今上映中の「アーメン」でバチカンの対ナチ協力を暴露して衝撃を与えたギリシャ出身の映画監督コンスタンチン・コスタガブラス氏、映画「美しきいさかい女」で日本でも話題をよんだ女優エマニュエル・ベアールさん、舞台から刑事もの、渋い父親役のテレビドラマで人気抜群の俳優ロジェ・アナン氏ら、フランスを代表する芸術家が集まりました。
 最初にあいさつしたパリ管弦楽団のジョルジュフランソワ・イルシュ音楽監督は、「ナチスからの解放以来初めて百三もの芸術団体が極右反対のために集まった。決選投票では棄権も白紙投票もルペン氏を利することになる」と、対立候補のシラク現大統領への投票でルペン氏を落選させるよう呼びかけました。
 会場は五千人を超える芸術愛好者でいっぱい。歌、演奏、演説など著名な芸術家が自分の芸でファシズム反対を訴えました。
 中東・アフリカなど幅広い文化が集まるフランス。ルペン氏は選挙政策の中でラップなど「好ましくない」文化があるとして、文化・芸術分野でも排外主義をとり、批判が高まっています。
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2002年04月30日 『赤旗』)(Page/Top

ファシズム復活させない

イタリア 「解放記念日」でデモ
 【ミラノ25日島田峰隆】イタリアの「解放記念日」にあたる二十五日、今年も全国で反ファシズム抵抗運動(レジスタンス)を振り返る催しが行われました。一部にレジスタンスの価値をゆがめる議論もみられる中、民主主義と自由を勝ち取ったたたかいの歴史を正しく認識する重要性が広く強調されました。
 ミラノでは午後、自治体関係者や労働組合員、学生など約二十万人(主催者発表)がデモ行進、「新旧のあらゆるファシズムに反対」「自由、民主主義」などと書いた横断幕や風船を持って歩きました。レジスタンスに参加した人の隊列には沿道から大きな拍手が沸き起こりました。
 高校生のイザベラさん(18)は「レジスタンスは今の社会の出発点。欧州では今でも極右の動きがあるので、自由と民主主義を勝ち取った歴史をよく考えたい」と語っていました。
 集結集会で演説したイタリア労働総同盟(CGIL)のコッフェラーティ書記長は「より良い未来を本当に建設したい人は歴史を知り、それを尊敬することから出発しなければならない」と強調。反ファシズムは「日常的に守られるべき価値」であり、「今日の政治目的を支えるために歴史を書き換えようとする人々のあらゆる修正主義を打ち破る必要がある」と訴えました。
 ローマ、フィレンツェ、ナポリなど主要都市でデモや集会、パネル展示会などが開かれました。◇
 第二次世界大戦末期の一九四五年四月二十五日、レジスタンス勢力の総蜂起によりイタリア北部の諸都市が連合軍の到着に先立ってドイツ軍から解放されました。戦後、この日は祝日に制定されました。
フランス 行動の中心に高校生
 【パリ25日山田俊英】極右、国民戦線のルペン党首の大統領選決選投票進出に抗議するデモは連日絶えることがなく、二十五日には全国主要都市で合わせて三十数万人が参加、二十一日の一回目投票後、最大の規模に達しました。
 主力は六月に大学入学資格試験を控えた最上級生を含む高校生。「みんな先祖はどこかの移民。私たちは二世、三世、四世だ」「よく考えて投票しよう。これが最後かもしれないぞ」とのスローガンが全国に広がり、各地で唱和されました。
 この日最大のデモが行われたのは中部の中心都市リヨン。第二次大戦中、反ナチ・レジスタンスが活発だった町です。主催者発表で二万五千人が行進し、「私たちは歴史を忘れない」「一九三三年(ドイツでのナチス政権確立の年)を二度と許すな」などと書いたプラカードを掲げて極右台頭に抗議しました。
 フランス通信(AFP)の集約によると、西部のナントで一万五千人、北部のカーンで一万二千人など五つの都市で一万人以上がデモ行進し、他地方でも千人から数百人の規模で行動。数年来最大規模のデモに発展しました。
 ルペン氏が30%近い全国最多得票をしたニースでも数千人の学生が市内を行進。「FN(国民戦線)はファシスト・ナチスの頭文字」とシュプレヒコールしました。
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2002年04月27日 『赤旗』)(Page/Top

ワールドリポート/ヒンズー過激派の暴力続く/宗教・民族共存の危機/アーメダバードにみる/インド西部

 非暴力主義を掲げたインド独立の父、マハトマ・ガンジーの拠点だったアーメダバードは、死と暴力で覆われていました。二月二十八日以来続く、ヒンズー過激派によるイスラム教徒虐殺。多宗教・多民族が共存するインドそのものが破壊されようとしています。(インド西部グジャラート州アーメダバードで竹下岳 写真も)
 「これはインド版民族浄化運動だ」。避難民の支援活動をしているアブドラ・ファリークさんは断言しました。
イスラム居住区次つぎに襲撃
 二月二十七日、ヒンズー至上主義を掲げる過激派組織「世界ヒンズー協会」(VHP)の活動家が乗っていた列車の車両がグジャラート州ゴドラ駅で何者かに放火され、五十八人が焼死した事件が発端でした。
 翌日、怒り狂った暴徒が次々にイスラム居住区を襲撃しました。都市部を中心に、州政府が確認しただけで八百人以上が死亡。実際は二千人近くに達しているとみられています。家を失った避難民は十五万人以上。今なお連日死者が発生しており、市内の方々に外出禁止区域が設けられています。
 市内中心部のモスク(イスラム教寺院)の中庭に設けられたシャー・アラム避難民キャンプ。一万五千人を超える避難民でごった返しています。ファティマ・ビビさんは二十四人家族のうち、十九人が殺害されました。
 二月二十八日午前。突如、数万人の暴徒がビビさんの居住区域を襲撃しました。家の中にいた家族はそのまま押し込められ、生きたままガソリンをかけられ、焼き殺されました。外にいた家族は「サムライが使っているような」長い剣でくし刺しにされました。
 ムハマド・ハニーフさんは七人家族のうち、十四歳の娘を失いました。公道で十数人の男たちに暴行され、最後に焼き殺されたといいます。
 逃れた住民たちも家財のほとんどを破壊され、略奪されました。イスラム居住区は黒焦げになり、がれきや家財の燃えかすが散乱していました。完全に無人化した地域も少なくありません。
若者たちあおる至上主義組織
 暴徒たちはなぜ、ここまで残虐な行為を繰り返したのか、彼らは何者で、誰が彼らを組織したのか。
 VHPの事務所の壁には、ゴドラで犠牲になった活動家の写真と、判別不明の黒焦げの死体の写真が張り付けられていました。幹部の一人は訴えます。「ゴドラを忘れるな。われわれは、わが国民をイスラムの手から守らなければならない」
 彼らにとってイスラム教徒は憎むべき敵なのです。
 インドはヒンズー教徒が80%以上を占めますが、イスラム教徒も10%を超え、その数は一億人に達します。多くの国民は各宗派の共存を望んでいますが、インドとパキスタンが分離・独立した際に両教徒が殺し合い、約百万人が犠牲になったためヒンズー教徒の側に反イスラム感情も残っています。今回の事件でも、扇動された貧しい若者たちが抑圧のはけ口のために虐殺に参加したといわれています。
 VHPは反イスラム感情を利用してヒンズー至上主義をあおり、組織を拡大してきました。
 ヒンズー至上主義を掲げる与党・人民党もこうした動きを利用しているのです。
インド全土に広がる危険性も
 今回の虐殺事件で住民たちは「警察が住民を守らなかっただけでなく、私たちに発砲してきた」と証言しています。記者が訪れていたときもヒンズー、イスラム両教徒の衝突を鎮圧するために警察が発砲。イスラム教徒四人だけが死亡する事件が発生しました。
 人民党に属するモジ州政府首相に対し野党各派と与党の一部から辞職要求が出されていますが、バジパイ中央政府首相は一貫して拒否。早期の州政府解散・選挙という作戦を打ち出したのです。
 地元記者は「いま選挙を行えば、人民党は宗教感情を最大限利用して住民を扇動し、反与党勢力を暴力で抑え込んで圧勝するだろう。そしてイスラム教徒を虐殺した体制を継続する。まさにファシズムだ」と警鐘を発しました。
 深刻なのは、同様の事態がインド全土に広がる危険性を帯びていることです。人民党はヒンズー至上主義を掲げて勢力を拡大し、一九九八年以降政権を維持しています。しかし昨年来、国民の支持を失い、地方選挙で連敗を重ねています。追い詰められた人民党にとって、最後の切り札が「宗派カード」です。多くの宗教・民族が共存するインドはいま、深刻な危機に直面しています。
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2002年04月24日『赤旗』)(Page/Top

4月25日は「解放記念日」 イタリア/反ファシズムは民主主義の基本価値、市民参加で継承を

 イタリアでは毎年四月二十五日が「解放記念日」(注)とされ、全国各地で反ファシズムのたたかいを振り返る催しが行われます。いま反ファシズムのたたかいを振り返る意義について、ローマ大学(サピエンツァ)文学部のアレッサンドロ・ポルテッリ教授に聞きました。(ローマで島田峰隆 写真も)
ローマ大学/ポルテッリ教授に聞く
 ドイツ、日本と同盟を組んだイタリアは、第二次世界大戦中にアルバニアやエチオピアを侵略し、現地の人々に強制労働をさせたり、多数の市民を殺害するなど多くの犯罪を行いました。この根底には日本と同様、「優越した」民族が他の地域に恩恵をもたらすという人種差別的なファシズム思想がありました。
 一方、戦後の社会は国民がファシズムとたたかい、それを打ち破ることから生まれました。反ファシズムは戦後の民主主義の基本価値であり、それはイタリアの憲法にも反映されています。
 しかし今、反ファシズムとのたたかいの意義をあいまいにし、否定し、忘れさせようとする動きも見られます。一例が、ファシズムの協力者は間違っていたけれども「祖国のために善意を尽くしたい」という信条や願望があった、戦没者としては反ファシズム運動を行った人と同じだという議論です。右派勢力は「解放記念日」も戦没者全体にささげる日として、その性格を変えたいと考えています。
 しかしこれは、ファシズムを退け、民主主義を打ち立てたたたかいの重要性を不明りょうにする議論です。
 この議論にたつと、ヒトラーも彼自身は「ドイツのために善を行う」という確信があった、最近でいえばニューヨークでのテロを起こしたビンラディンさえも「第三世界の利益のための行動」という「信条」をもっていたということになります。
 結局、「それぞれ信条があった」という議論は、実際には最悪の戦犯、犯罪者の罪も放免することにつながるのです。
 こうした修正主義的な動きがあるからこそ、今年の「解放記念日」も歴史の中での反ファシズムのたたかいの役割を再確認し、戦後民主主義の基本的価値を改めて踏まえる機会にするべきです。
 過去を記憶することは現在の活動、作業そのものであり、現在と過去をつなぐものです。学校でも町でも反ファシズムの問題を取り上げ、市民が運動に参加することで過去の教訓を常識にし、継承することが必要です。この観点から、今年の「記念日」が労働組合のストライキなど国民的運動の中で行われることは重要です。
 また国も反ファシズムのたたかいの価値をふまえて、その精神が入った憲法の守り手となるべきだと考えます。
 (注)解放記念日 第二次世界大戦末期の一九四五年四月二十五日、ドイツ軍に占領されていたイタリア北部の諸都市が、連合軍の到着に先立って国民の反ファシズム抵抗運動(レジスタンス運動)によって解放されました。戦後この日はファシズムからの解放を記念する祝日に制定されました。
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2002年04月21日『赤旗』)(Page/Top

「ありふれたファシズム」/17日に長編記録映画を上映/今日への警告はらむ

 日本記録映画作家協会は、十七日に開く第四十回記録映画を見る会で、長編記録映画「ありふれたファシズム―野獣たちのバラード」(写真)を上映します。
 おもにナチス・ドイツの記録フィルムを使い、二時間九分に構成・編集した、一九六五年のモスフィルム作品で、脚本・監督は、ミハイル・ロンム。日本語版の解説を宇野重吉が務めています。涙ぐましいけいこを重ねて、総統らしい振る舞いを研究し、本番を迎えるヒトラー。彼が政権を握るや、人々は夢中でたいまつ行進をし、ゲッベルスの演説に興奮した学生たちは、書物を炎に投げ入れます。
 カール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクら革命家は虐殺され、労働者のたたかいは、徹底的に弾圧されます。
 侵略する兵士の人間性が壊されていることを示す記念写真。爆撃で廃虚となる都市。芸術作品と見まがうような兵士のパレード…。
 “大衆と接するには女に接するごとくせよ”と豪語するヒトラーは、どのようにしてのしあがったのか? 民衆が思考を停止したときファシズムは? 膨大なフィルムを駆使し、風刺とユーモアをたっぷり込めながら考えさせ、今日への警告をはらんでいます。ライプチヒ国際映画祭でグランプリを受賞。
 上映とあわせ、映画評論家・石子順氏が「映像はファシズムをどう描いたか」を講演します。
 会場は、東京・中野・なかのゼロ小ホール。午後六時十五分開場。料金=千円。
 問い合わせは、TEL03(3746)7847日本電波ニュース野田。
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2002年04月06日 『赤旗』)(Page/Top

戯曲「ロボット」の作家/カレル・チャペック 多彩な魅力/強烈な好奇心/独特の語り口/豊富な語彙/田才益夫

 一九八〇年にカレル・チャペックが晩年を過ごしたストルシュ(プラハの南三〇キロ)にある別荘を訪ねたことがあります。そこはチャペック記念館になっていて、本や絵はがきなどを売っていました。当時のチェコではチャペックの本が欲しいと思ってもなかなか買えないころでした。そこで私は偶然一冊だけ売れ残っていた『クラカチット』という破天荒な作品に出合ったのです。まだろくにチェコ語も読めなかった私ですが夢中になって読んだ記憶があります。そして私が翻訳して最初に出版したのもこの本でした(一九九二年)。いま思うと、この作品のなかにはチャペックのすべての要素が含まれているように思えます。そう、チャペックの多彩な魅力が、です。
SF的作品も
 その多彩さはきっと彼の強烈な好奇心によるものだと思います。たとえば園芸という対象を見つけると園芸にかんするあらゆる本を読みあさり、専門的知識をものにしました。その結果『園芸家十二カ月』というユーモアあふれる楽しいエッセー集ができあがったのです。
 『ポケットから出てきたミステリー』(拙訳・晶文社刊)には「サボテン泥棒」の話や、権威ある外科のお医者さんが世にもまれな貴重なじゅうたんを発見して、どうしても欲しくなり、盗みにはいるが失敗するという話もあります。しかも、サボテンにしろじゅうたんにしろ、その知識は並大抵のものでなかったことがうかがわれます。
 チャペックを世界的に有名にしたのは『ロボット』という戯曲でした。これは人間の代わりに働くロボット(機械ではなく生体)を大量に作り出して人間は労働からは解放されはしたものの子どもを産めなくなってしまいます。やがてロボットの反乱によって人類が滅亡するという話です。いま、この話はなんとなく「クローン人間」のことを連想させます。
 そのほかにも原子爆弾や原子力発電を暗示した『クラカチット』、『絶対子工場』などのSF的な作品も書きました。晩年(一九三六年)に出版された『山椒魚戦争』は明らかにアドルフ・ヒトラーを揶揄(やゆ)した作品です。
 彼の作品の魅力のなかに加えなければならないのは、読者の関心をそらさない独特の語り口と、語彙(ごい)の豊富さです。その文体はとくに新聞の「コラム」で発揮され、売れ行きにも影響を与えたほど人気があったそうです。
 それには幼少のころをともにすごした天衣無縫、天真爛漫(らんまん)な童女のごとき祖母の影響を無視することはできません。チェコ語には早口言葉や、なぞなぞ、ことわざ、金言といった類の文句が非常に豊かで、子どものころからそれらの言葉が口伝えに教え込まれてきたという伝統があります。チャペックにとってまさにその言葉の教師がおばあさんだったのです。
「反ファシズム」
 チャペックがジャーナリスト作家として活躍したのは、前衛芸術がさかんだった半面、経済不況に象徴される一九二〇年代と、ヒトラー・ナチスの台頭による新たなる戦争への恐怖の三〇年代というきわめて多難な時代でした。反ファシズム戦線のリーダーの一人としても活躍しましたが、一九三八年のクリスマスの日に、風邪をこじらせて肺炎になり四十八歳の若さで亡くなりました。その翌年、チェコはナチス・ドイツに占領され、そのまま第二次世界大戦へと歴史は進んでいったのです。(たさい ますお・チェコ文学翻訳家)
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2002年03月08日『赤旗』)(Page/Top

イタリア/「北部同盟」のEU攻撃 右派政権に不協和音

 【ローマ5日島田峰隆】イタリアのベルルスコーニ右派政権の連携政党「北部同盟」のボッシ書記長(制度改革相)がEU(欧州連合)を攻撃する発言をし、政権内に不協和音が広がっています。
 同書記長は二日、EUは国民主権を認めない「新たなファシズム」と発言。同党はこれまでも反欧州的な主張を繰り返してきましたが、ベルルスコーニ首相は四日、「変化に富んだ言葉」などとして発言を擁護しました。
 しかしキリスト教民主センター(CCD)党首で欧州協議会のイタリア代表も務めるフォリーニ氏は、発言は「無分別」と批判。カジーニ下院議長も、欧州批判は「政治的自殺行為」と述べるなど、連立内にも戸惑いを広げています。
 一方、欧州委員会の報道官も五日、発言は「遺憾」であり「繰り返されないことを望む」と強調しました。
 ベルルスコーニ政権発足以来、同政権のEU政策の不明確さなどのため、イタリアは伝統的「欧州主義」から離脱しつつあるといわれます。今年初めにはEUとの唯一のパイプ役だったルジェロ前外相も辞任、同政権とEUの距離はさらに広がったと指摘されています。しかし国民の多くは欧州の一員としての立場を望み、同政権との違いを見せています。
 全国紙レプブリカの世論調査でも六割以上がボッシ発言を「損害」と回答。同紙は「北部同盟の反欧州主義はイタリアをもはや我慢できない状況に置いている」と指摘しました。
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2002年03月07日『赤旗』)(Page/Top

断面/カナダの「銃後」を描く/「パレードを待ちながら」

 昨年の今ごろは、忘れえぬ(あるいは、思い起こすべき)戦争を題材にした芝居が次々と上演され(文化座、新国立劇場など)、演劇人の心意気が感じられました。今年は、戦争を撃つ作品があまり目立ちません。再演では「瞽女(ごぜ)さ、きてくんない」(文化座)や「泰山木の木の下で」(民芸)などがありますが、新作が続出といった状況ではありません。もちろん演目は前々から決められているもので、時局にぴったりだとしてもそれは偶然のことなのですが。
抑圧と戦後の解放感
 そんななかで印象的だったのは、「東京演劇集団 風」の「パレードを待ちながら」(ジョン・マレル作、吉原豊司訳、和田喜夫演出)。カナダの「銃後」に生きる庶民の姿を鮮やかに描き出し、「珠玉」という表現の似つかわしい佳品でした。
 第二次大戦末期のカナダ・カルガリー。五人の女たちが、待っています。戦争の終結、夫の帰還、それから、自由で平和な生活を。
 前線の兵士への慰問袋づくり、停電時に備えた訓練、そして、本当は悲しいのに笑顔で旗振りの、出征見送り。細かく積み重ねたエピソードの端々で、官僚的で高圧的な「銃後」の戦争推進者にたいしてくすぶる庶民の不満が浮き彫りにされます。戦争推進とはいえ、彼女とて末端の、それも、日独伊のファシズムとたたかう「正義」の側ですが、それでも、戦争を遂行すること自体が人間性の否定をはらまずにはおれない、その非情さが、説得的に描出され、戦争のもたらす抑圧と終戦の解放感とが、舞台にみなぎっていました。
個性的なキャスト
 キャストも個性的。平田オリザ風に“特異なコンテクスト(文脈)をもつ俳優”と呼びたくなる稲葉礼恵や斉藤清美のキャラクターがユニークでした。コンスタントに充実した作品を上演してきたこの劇団の魅力が発揮された舞台でしたが、上演は二月のはじめの三日間だけ。これはぜひとも再演してほしい。(生)
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2002年02月20日『赤旗』)(Page/Top

「建国記念の日」とアジアのまなざし/笠原十九司

 昨年は「新しい歴史教科書をつくる会」の中学校歴史・公民教科書ならびに小泉首相・閣僚の靖国神社参拝が近隣アジア諸国民から強い批判を受けた。その後小泉首相は、中国・韓国に「謝罪」に行き、さらに東南アジア諸国を歴訪して日本政府の「誠意」をアピールしようとしたが、日本を見るアジアのまなざしは小泉首相の「口先」ではなく、小泉内閣が国内政治で何をしようとしているのかに厳しく注がれている。
 こうしたアジア諸国民の注視の中で、二月十一日を「建国記念の日」とする奉祝行事が、今年も政府・官庁の肝いりで行われようとしている。
天皇制の強化を図った明治政府
 「建国記念の日」は、戦前の紀元節を復活させるかたちで一九六七年から実施されてきた。紀元節は、天皇制強化をはかった明治政府が、「日本書紀」で日本建国の天皇とされた神武天皇が即位した年を日本の紀元(皇紀元年、西暦紀元前六六〇年に相当)とし、即位した同年の元日が西暦に換算して二月十一日であったとして、国家の祝日に定めたのである。それは、「万世一系」の天皇の権威を臣民(国民)に宣伝し、受容させるための重要な国家行事であり、大日本帝国憲法の発布(一八八九年)、日露戦争の宣戦の詔勅の新聞発表、御真影の下賜(かし)、金鵄(きんし)勲章の設定などもこの日を選んで行われた。
独立、解放を記念するアジア
 現在の日本が、このような「建国記念の日」を奉祝することは、天皇制ファシズムの侵略と支配により甚大な被害と損失を被ったアジア太平洋地域の諸国民からすれば、耐えられないことである。
 近隣アジア諸国もそれぞれ建国記念日にあたる祝日を設けている。
 韓国では、八月十五日を光復節としている。日本がアジア太平洋戦争で降伏し、韓国が三十五年間にわたった日本の植民地支配から解放され、独立を回復した日である。中国では、日本が連合国に対して降伏文書に調印した九月二日を抗日戦争勝利記念日とし、一九四九年に中華人民共和国の建国を宣言した十月一日を国慶節として祝賀している。台湾では、十月十日を国慶節(辛亥革命が起こされた日)とし、さらに十月二十五日を光復節と定めている。一九四五年十月二十五日に日本の台湾総督が中国政府代表に降伏文書を手渡した日で、五十年間にわたった日本の植民地統治から台湾が解放された日である。
 フィリピンをはじめ他の東南アジアの国々でも、日本の侵略、占領支配からの独立、解放を記念する日を設けている。
 このように、近隣アジア諸国が天皇制ファシズムの侵略や支配と戦い、独立、解放を勝ち取った日を記念していることと対比すれば、日本の「建国記念の日」が、アジアに「敵対」する歴史的性格を有していることが分かる。
日本の未来選択にかかわる問題
 日本の侵略戦争の被害を被ったアジア太平洋地域の諸国民にとって、日本国憲法の前文と第九条は、戦後日本が侵略戦争の過去を反省・謝罪し「戦争をしない国」になることを誓約し、保証する意味をもっていた。しかし今や日本は紛れもなく「日本軍」をもち、アメリカで発生した国際テロ事件に便乗するかたちでアメリカのアフガン報復戦争に「参戦」し、「日本軍」を戦場に派遣してしまった。
 現在、日本政府は、戦前の「非常時体制」「戦争総動員体制」に模した有事法制の整備を進め、日本を「戦争できる国」にする政治体制の総仕上げとして、平和憲法を「破棄」する準備を憲法調査会を中心に進めている。
 EAEC(東アジア経済会議)、APEC(アジア太平洋経済協力会議)、ASEAN(東南アジア諸国連合)プラス3、ASEAN地域フォーラムなどの開催に見られるように、歴史の流れは、東アジア経済圏、アジア太平洋経済圏の形成に向かっており、昨年末の中国のWTO(世界貿易機関)加盟はその流れをさらに促進させるものだった。二十一世紀を展望すれば、日本は東アジア共同体、さらに広域のアジア太平洋共同体の中で平和的に共生する努力をしなければ、アジアから孤立し、やがては経済崩壊にいたるであろう。
 「建国記念の日」に対して奉祝か、不承認か、あるいは無関心による黙認か、それは、日本国民の総意が日本の未来をどう選択するかにかかわっている重要な問題である。 かさはら とくし=都留文科大学教授。専門は東アジア近現代史。一九四四年生まれ。著書に『南京難民区の百日』『南京事件と日本人』ほか。
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2002年02月06日『赤旗』)(Page/Top

一九三〇年代の大恐慌時/時短で雇用の拡大を実施−−対応分かれたフランスとイタリア

 労働時間を短縮して仕事を分かち合い雇用を拡大するワークシェアリングを国際的に政府が実施しはじめたのは、一九三〇年代の世界恐慌の時にさかのぼります。このとき、民主主義国家とファシズム国家では対応が対照的だったことが注目されます。
 大恐慌のさい、資本家は労働者の犠牲で恐慌を切り抜けようとして首切りと賃金引き下げを強行しました。このため、一九三二年の失業率は、イギリス22%、アメリカ32%、ドイツ44%にも達しました。
 失業に反対する労働者のたたかいが広がり、首切り反対、失業救済、失業保険の改善などとともに、労働時間の短縮の要求が掲げられました。 このような情勢の下で、ILO(国際労働機関)は、一九三五年に労働時間を週四十時間に短縮する条約(第四七号条約)を採択しました。
 この条約は前文で「失業が広範かつ持続的となったため自分に責任がなくてかつ当然救済せらるべき困苦と窮乏に悩んでいる幾百万の労働者が世界をつうじて存在すること」にかんがみて時短が必要だとしています。
 第一条では「生活水準の低下をきたさないように適用さるべき」とうたい、賃下げなしの時短を原則としています。
 フランスでは、労働者のたたかいと労働運動の統一を背景に、一九三六年の総選挙で共産党、社会党、急進社会党などでつくる人民戦線が勝利しました。人民戦線政府は、共同綱領を実現するために週四十時間労働制や最低十五日間の年次有給休暇などを実施しました。時短は労働者の賃金の減額なしでおこなわれ、二年間で完全失業者が約六万人減少しました。 一方、ムソリーニが政権についていたイタリアでは、一九三四年にファシストの経営者団体と労働団体の間で、時短で就業者数を増やすことを目的に週四十時間労働制の一般協定が結ばれ、一九三七年から法制化されました。これは労働時間短縮に比例して賃金を減額するものでした。このとき労働時間は月平均二十時間(12%)減少しており、賃下げは大幅です。
 民主的政権のフランスで、時短が労働者の減収の理由となってはならないことをうたい、時間賃金は平均20%の引き上げとなり、減収をさせなかったのとは大違いです。(沢村)
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2002年01月30日『赤旗』)(Page/Top

アウシュビッツ解放57周年 欧州各地で式典・集い/民族排外とのたたかい誓う/歴史から学び悲劇繰り返さない

 アウシュビッツ(現ポーランド・オシフィエンチム)のナチス強制収容所解放五十七周年記念日にあたる二十七日、欧州各地で記念式典や行事、集会が行われ、歴史から学び、悲劇を繰り返さないこと、今もある人種差別や排外主義とたたかうことを誓いあいました。
元収容者、遺族ら300人/現地で追悼式典/「死の壁」に花束/ポーランド
 【オシフィエンチム(旧アウシュビッツ)27日岡崎衆史】ユダヤ人を中心に、ポーランド人、ロマ人、ロシア人、チェコ人、ユーゴスラビア人、フランス人など欧州各地から収容された約百五十万人の罪のない人々が虐殺されたアウシュビッツ・ナチスドイツ強制収容所―。ナチが設立した強制収容所のなかで最大規模の同収容所を旧ソ連軍が解放してから五十七周年となる二十七日、元収容者や遺族など約三百人がポーランド南部のオシフィエンチム(旧アウシュビッツ)の収容所跡に集まり、追悼式典を行いました。
 式典は「囚人」数千人が銃殺された「死の壁」の前で実施。冷たい風雨のなか、元収容者たちは、壁の前で正面を見つめながらしばらく立ち止まり、その後ゆっくりと花束を供えていました。
 バンダ・サウキエビチさん(75)は、収容された当時、十五歳の少女でした。囚人を助けたことが収容の理由でした。「一緒につかまった少年は壁の前で殺されましたが、私はおとなが労働させられている間狭い場所で耐える生活を続けて生き残った」と高ぶる気持ちを抑えながら話しました。
 バンダさんは、テロや戦争、民族紛争などが絶えない世の中を例に「他人を理解する寛容の精神を失えば再び同じような惨劇が起こりかねない」と危ぐし「収容所での体験を伝えることで、悲劇を減らすことに貢献したい」と語りました。
 式典では、若者や子どもの姿も目立ちました。地元オシフィエンチムで歴史の先生をしているマルタさん(28)は「収容所を訪れ、人間に起きた惨状を知るのは私たち若者、とりわけ地元に住むものの義務だと思っている」と語り、歴史の事実を語り継いでいくことの意味を強調しました。また「さまざまな人たちと悲劇について話し、理解を深め合うことが、結局これを繰り返さないことにつながるのではないか」と話しました。一緒に訪れた二人の友人もその答えにうなずいていました。
 アウシュビッツ強制収容所が設立されたのは一九四〇年。収容者の多くはナチのホロコースト(民族皆殺し)政策の対象にされたユダヤ人で、ルドルフ・ヘス元所長によると、列車などで運ばれてきた人々の70―75%がガス室に送られ殺害されたといいます。
極右暴力への警戒を/ドイツ
 【ベルリン27日坂本秀典】ドイツ各地でも集会、記念行事が行われました。
 ベルリン北方三十キロのザクセンハウゼン強制収容所跡では、州当局や関係者、市民多数が式典に出席しました。同収容所は十万人以上のユダヤ人などが死に追いやられた場所です。地元ブランデンブルク州のヘルム文化担当相は「この収容所での大量殺りくが、後のホロコースト(民族皆殺し)につながっていった」と強調しました。
 テューリンゲン州のミッテルバウ・ドラ収容所跡の集会では、フォーゲル同州首相が「人種差別主義、排外主義、反ユダヤ主義への警戒が常に必要だ」と主張しました。
 今年の追悼の日は、ドイツ国内では「外国人排斥」を掲げる極右の活動が続くなかで迎えられました。イエナ(テューリンゲン州)では二十七日、ロシア人の研究者が極右とみられる三人から暴行を受けました。同地では、一週間前にも中国人が襲われています。
 ドイツのユダヤ人中央評議会のシュピーゲル会長は、極右暴力にたいし多くのドイツ市民が「見ぬふりをして行動しようとはしない」と指摘しました。
 ドイツ連邦議会は二十八日に公式追悼行事を予定しています。
“ナチス犯罪”振返る/イタリア
 【ローマ27日島田峰隆】イタリアでもナチスの犯罪を振り返り、反ファシズムを誓う催しが全国で行われました。
 ローマで開かれたイタリア共産主義再建党などが主催した集会には、約百五十人の市民が参加しました。
 「アウシュビッツ収容所に運ばれた千人のうち、五百人がその日のうちにガス室へ。他の人も空腹や重労働に苦しんだ」―参加者はギターの音楽をバックに朗読される元収容者の証言にじっと聞き入りました。記録ビデオの上映や芸術家による反戦絵画展も行われました。
 発言した市民らは、「イタリアもムソリーニのもとで人種差別法を制定しナチスと協力した。歴史から学ぶ姿勢は日々われわれに問われている」「大虐殺は人類技術の誤った利用。過去を忘れないことが現在の正しい判断につながる」など、過去の歴史から学ぶ重要性を強調しました。
 ローマでの公式式典ではチャンピ大統領があいさつし、「記憶の力は世界を変える力を持つ」「多様な民族の世界がお互いに平和に統治できる仕組みを作る」と訴えました。
 このほか、北部のミラノでは約一万人がデモ行進し、南部のカラブリア州でも生徒が強制収容所跡を見学しました。
人種偏見とたたかう/イギリス
 【ロンドン27日田中靖宏】英国各地の記念行事には、多くの参加者が人種偏見や排外主義とたたかう決意を新たにしました。
 マンチェスターでの記念集会には市民千人が参加し、元収容者の証言や詩の朗読に耳を傾けました。ブランケット内相は「宗教や人種、政治への偏見と排外主義は今の英国にもある。これを警戒してたたかうことは国民の義務だ」と強調しました。
 北アイルランドのベルファストでの行事にはトリンブル首相ら自治政府の閣僚が参加しました。同首相は「若い人たちにホロコーストの教訓を伝えていくことが大事だ。公正で寛容な社会をめざして努力を強めなければならない」とのべました。
 各地の討論会では、反ナチ闘争の教訓をいまのテロリズムとのたたかいにどう生かすかをめぐって活発な討論がおこなわれました。二十七日のITVテレビの討論番組では、米国の対テロ戦争支持者と、国際法にのっとった法の裁きを重視する人たちが激しく意見をたたかわせました。
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2002年01月29日 『赤旗』)(Page/Top

「パードレ・ノーストロ 我らが父よ」/父との葛藤えぐる

“読めば読むほど深い” 毬谷友子さん/“新作で自分試したい”
 白井晃さん
 俳優の毬谷(まりや)友子さんと白井晃さんが、初顔合わせでイタリアの現代劇「パードレ・ノーストロ/我らが父よ」(佐藤信演出・美術)に挑戦します。特異な設定のスリリングな二人芝居。深遠なテーマを追究した作品の魅力などを二人に聞きました。
 毬谷さんはこの作品を、「読めば読むほど深くなる、ざくざく宝がでてくるような作品」といいます。
 大富豪と革命家という、対照的な父をもつ若い男女の出会いを描いた「パードレ・ノーストロ/我らが父よ」。主人公は、金にものをいわせて息子を大統領にまでさせた父をもち、使用人に囲まれ育ったアメリカ人のローズマリー。そして、ファシズムとたたかうイタリア人の闘士を父にもち、モスクワへの亡命生活を余儀なくされたアルド。
 それぞれ、「偉大な父」(パードレ)の存在に押しつぶされるような幼少期をすごし、傷つき、心を病んで、治療を施されていることが暗示されます。はじめはぎこちなく、やがて徐々に心を開き、互いの心の痛みの源を語り合いますが…。
 二人はどうなるのか、ついついひき込まれます。
 毬谷さんは、「ローズマリーはちょっと知恵遅れだけれど、哀しいくらいに透明で、私にはよく分かる人物像です。実在の(モデルがある)人間だから、お客さんに彼女の透明な魂をきちっと理解してもらえるようにしないと」と話します。
 人気劇団「遊〓機械/全自動シアター」を率いる白井さんは、「アルドの葛藤(かっとう)のひとつひとつが分かり、自分に痛い。全部自分にかえってくる感じです。家族の話はぼくもこだわってきたし、アルドにどこまで近づけるか、とてもおもしろい」といいます。「遊〓機械」の、昨年好評だった「食卓の木の下で」や「ラ・ヴィータ」などの作品の持ち味に通じるものが、台本から読み取れます。
 白井さんは、翻訳劇も二人芝居も、そして演出家・佐藤信氏や毬谷さんとの仕事も初めて。「年取ってきたせいか、新しいものがやりたくて(笑)。一役者として、自分がどこまでできるか試したい」といいます。
 作者のルイージ・ルナーリは、イタリア現代劇を代表する脚本家。
 劇作家の故・矢代静一氏が父親の毬谷さんは、「原稿用紙に向かい、ゼロから一を生む大変さは見ているので、作家は崇高な仕事だと感じています。役者は、作家の魂をお客さんに届ける、手渡しの郵便屋さんだと思う」と語ります。
 「二人芝居は、一人芝居の四倍くらい苦労します。そのかわり、うまくいったら喜びも大きい。文字で書かれてるものが、(舞台で)泳ぎ出すんです。父と子の関係は、みんなが乗り越えないといけないもの。この作品は、いまの人間が求めている演劇のひとつに違いないと思います。こういう作品に出会うと、やっぱり役者はやめられません」◇
 2月3日〜10日、東京・世田谷パブリックシアター。TEL03(5432)1515
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2002年01月27日 『赤旗』)(Page/Top

“日本軍旗は侵略の象徴” 中国・北京日報

 【北京14日小寺松雄】十四日付の北京日報は「日本ファシストの軍旗の下で」という一ページ特集を掲載しました。
 記事は冒頭、中国の人気若手女優が日本軍旗をデザインにしたファッションで批判された、日本の本格的中国侵略のきっかけとなった盧溝橋事件を有名スポーツ選手が知らなかった―といった事例を引いて、「日本の軍事ファシズムは侵略戦争の大もとであり、日本軍旗は侵略の象徴である」として、かつての日本軍の実態、軍旗、日本の軍国主義の昔と今について解説しています。
 「日本右翼の邪悪な理論」と題する論評では、とくに新保守主義といわれる潮流について「侵略戦争を反省せず、極端な民族主義感情をかきたて、軍国主義史観をよみがえらせるとともに、右翼勢力台頭の政治的条件をつくり出している」と厳しく批判。
 軍国主義史観、右翼勢力、新保守主義の「三つが一体となって特異な戦争観を生み出し、憲法改悪、靖国参拝、侵略戦争肯定の教科書など、中国とアジアの人々の感情を傷つけるという重大な政治問題を引き起こしている」と警戒を呼びかけています。
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2002年01月15日『赤旗』)(Page/Top

エンターテインメント/ポケットから出てきたミステリ−/カレル・チャベック著、田才益夫 訳

 謹賀新年。
 のっけから物騒な書物というのもなんだから、今回はしみじみくすくすと楽しめるものを選んでみた。読者を血なまぐささとは対極の世界に導く、遊び心いっぱいの短編ミステリー集だ。
 死体なき殺人(!)の犯人(?)の悲哀あふれる話、じゅうたんの収集家が貴重な品を盗み出そうと犬を相手に苦闘する話など、経験者が自分の“とっておき”の事件を順番に語るというスタイルをとった二十四の物語。憎めない悪人や市井の人々の騒動をユーモアたっぷりに描く、その語り口が絶品だ。いずれもが、ほんわか和む読後感。注文の多い読者もきっと、満腹させてもらえるだろう。
 著者は、日本でもファンの多いチェコの国民的大作家。愛情たっぷりの愛犬エッセー『ダーシェンカ』や童話から、ファシズムを予見したハードSF『山椒魚戦争』や、時代を先取りした『ロボット』まで、実に多彩な作品を残して一九三八年に亡くなった。
 近年、日本でも著者の、哲学的テーマの長編が続けて出版されたりエッセーが文庫化されたりして、チェコの偉人がぐっと身近になった。ソ連の誤りを通じて社会主義への偏見ももっていた人だけど、こんな気の利いたミステリーをきっかけに、もっと読まれてほしい作家だ。(本多恵)
 (晶文社・二四〇〇円)
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2002年01月07日『赤旗』)(Page/Top

2001年(ヘッドライン)

*                     山田和夫の映画案内/チャップリンの独裁者/ファシズムに真正面から挑戦

*                     停戦協定後も戦争継続/米大統領 アフガン越え拡大/真珠湾攻撃60周年で演説

*                     「アフガン空爆やめよ」/世界各地で行動/高校生2000人空爆反対デモ/イタリア南部

*                     映画展望/児玉由紀恵/「蝶の舌」「魔王」「今日から始まる」「こどもの時間」/時代と社会を映像に刻む子ら

*                     ナチとのたたかい伝える/ローマ解放歴史博物館/年1万人の訪問者 欧州各国からも

*                     ローマ 戦争と平和の足跡を訪ねて

*                     ユダヤ人虐殺計画、ここで立案/館が告発するナチス犯罪/ドイツ・ベルリン郊外のワンゼー

*                     日本占領下 飢餓・爆撃の犠牲者悼む/記念碑 一家が守り通した/ベトナム8月革命56周年を機に ハノイ市が修復決定

*                     第2次世界大戦終結56周年 8・15を前に 中国、イタリアの識者に聞く

*                     歴史教科書 靖国参拝/好戦主義、ファシズムを鼓舞/日本の侵略で200万人餓死/歴史の真実変えられない

*                     旧日本軍占領下の惨事――餓死者追悼の記念碑建設を/ベトナムの歴史家が訴え

*                     おはようニュース問答/この夏、話題の映画がいっぱいだね

*                     朝の風/ロシア映画界の良心

*                     加害の歴史にむきあう青年たち/オーストリア/ナチス強制収容所解放式典 36カ国から7千人参加

*                     中道左派への批判の強さ示す/イタリア総選挙

*                     ファシズムの過ち忘れない/イタリア解放記念日 全国でデモ、ミラノで5万人

*                     侵略の史実伝えるイタリアの教科書/“国際社会の常識を子どもらに”と教師

*                     ドイツにおける歴史教科書ナチスへの明確な批判

*                     パルチザン協会の全国大会が閉幕/歴史の真実を次の世代に伝える教育の重要性強調/イタリア

*                     歴史をどう記憶するか/日本人、オランダ人、インドネシア人―日本占領下のインドネシアの記憶展をふり返って/岩崎稔

*                     知識人と大衆/ジョン・ケアリ著、東郷秀光訳/不安の中で醸成されたファシズム

*                     反ファシズム誓う欧州/アウシュビッツ解放から56年/各地で追悼式典、デモ

*                     矛盾の向こうに探るユートピア/没後5年ハイナー・ミュラーが語りかけるもの/市川明

*                     朝の風/希望ひらく哲学を

*                     シリ−ズ「21世紀の課題」/進展する東アジア協力(上)/望まれる国際秩序の一つのあり方を示す

2001年(本文)(Page/Top

山田和夫の映画案内/チャップリンの独裁者/ファシズムに真正面から挑戦

 「チャップリンの独裁者」(一九四〇年)は真正面からファシズムに挑戦した傑作。チャップリンはユダヤ人の理髪屋とヒンケル=ヒトラーの二役を演じ、天才的至芸でファシストを痛罵(つうば)、ラストの名演説で自由へのたたかいを訴える。
 「ザ・ターゲット」(九六年)は米大統領暗殺陰謀とたたかう補佐官(チャーリー・シーン)と女性記者(リンダ・ハミルトン)。米支配層内部の陰湿な権力抗争があばき出される。
 「エクソシスト」(七三年)。少女にとりついた悪魔と悪魔ばらいの神父の対決を特撮で刺激的に。リンダ・ブレア、マックス・フォン・シドー主演、ウィリアム・フリードキン監督。
 「ホーム・アローン3」(九七年)はファミリー・コメディーの人気シリーズ。アレックス・D・リンツ少年の主演、ラージャ・ゴスネル監督。「007 リビング・デイライツ」(八七年)はティモシー・ダルトン主演のジェームズ・ボンド物。ジョン・グレン監督。
 NHK衛星はJ・フォードの「荒野の決闘」、黒沢明「静かなる決闘」、蔵原惟繕「愛と死の記録」、山本嘉次郎「馬」その他。(映画評論家)
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2001年12月21日『赤旗』)(Page/Top

停戦協定後も戦争継続/米大統領 アフガン越え拡大/真珠湾攻撃60周年で演説

 【ワシントン7日遠藤誠二】ブッシュ米大統領は七日、バージニア州ノーフォークを訪問し、日本軍による真珠湾攻撃六十周年記念の演説をおこないました。同大統領は、アフガニスタンへの軍事攻撃を改めて正当化し、対テロ戦争はアフガニスタンを越えて継続すると述べました。
 ブッシュ大統領は七日午後、アフガニスタンへの軍事攻撃に参加し、母港ノーフォーク基地に帰還した空母エンタープライズに乗り込み海軍兵士ら約一万人を前に演説。六十年前の真珠湾攻撃について言明した後、「アフガニスタン解放にむけわれわれの軍隊は現地に派遣され、そしてそれは成功している」と軍事報復を正当化しました。
 さらに同大統領は、「ファシズムの後継者であるテロリストを打ち負かす戦いは、停戦協定によって終結されるべきではない」とも言明、ウサマ・ビンラディンの拘束やその組織アルカイダの壊滅をあくまでも戦闘行為によって終わらせることを強調しました。
 同時に、「われわれの戦争は一人のテロリスト指導者、一つのテログループにたいするものではない」と指摘し、「対テロ戦争はアフガニスタンを越えて継続される。テロリストをかばい支持する国家には罰が下される」と述べ、アフガン以外へ戦争を拡大する意思があることを再確認しました。
 ブッシュ大統領は最後に、「(過去に)敵だった日本が現在、最良の友人であることを誇りとする。現在、われわれ(日米の)二つの海軍が並んでテロとのたたかいに従事している」と語り、対アフガン軍事行動に協力した日本政府を高く評価しました。
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2001年12月09日 『赤旗』)
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「アフガン空爆やめよ」/世界各地で行動/高校生2000人空爆反対デモ/イタリア南部

 【カイロ17日島田峰隆】イタリアからの報道によると、同国南部の都市バリで十七日、テロに反対し米英両国によるアフガニスタン空爆の停止を求めるデモ行進が行われ、約二千人(主催者発表)の高校生が参加しました。反ファシズム組織などさまざまな高校生団体がよびかけ、近郊の町の高校生も集まりました。
 デモ隊は「戦争にノー」「戦争でなく、テロには外交、対話、テロの資金源の根絶で」などの横断幕を掲げて市内を行進しました。主催者らはANSA通信に、「(テロ首謀者である)ウサマ・ビンラディンは逮捕されて国際法廷で裁かれなければならない」という原則を強調。「平和はアフガン空爆ではなく、武器を製造する多国籍企業をなくし、テロリストも米国も非軍事化することで手に入れられる」と語りました。
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2001年10月19日『赤旗』)(Page/Top

映画展望/児玉由紀恵/「蝶の舌」「魔王」「今日から始まる」「こどもの時間」/時代と社会を映像に刻む子ら

ファシズムの時代生き抜く
 八月初旬に東京と横浜の二館だけで公開され、その後十二万人鑑賞の大ヒットとなったスペイン映画「蝶の舌」(ホセ・ルイス・クエルダ監督)は、子どもを題材にした映画の秀作の一つである。
 一九三六年、スペイン・ガリシア地方の小さな村を舞台に、ぜんそく持ちの八歳の少年モンチョが体験する六カ月が描かれる。音楽好きの兄の恋や仕立職人の父の不品行などを織り込みながら、人生のとば口に立ったモンチョと老教師グレゴリオのかかわりが写されていく。グレゴリオは、モンチョの学校への恐怖をぬぐい去り、子どもたちに、(蝶の舌は渦巻き状であるといった)自然の秘密、原理を説き、引退の日には、人々の前で、自由スペインをたたえる。だが、反ファシズムの人民戦線とフランコの率いるファシストとのたたかいの波が、この田舎にも押し寄せ、村人一人ひとりが、(ファシストの基盤であった)教会の教えを信じるのか、不信心者の“アカ”か、といった踏み絵にも似た信条の表明を迫られる時が来る。八歳のモンチョさえも。
 のどかな時が変ぼうしていく時代の過酷さを鮮明に伝える映像に胸を揺さぶられながらも、少年の叫び―それは、老教師と彼の教えを胸に刻んだ少年との堅いきずなを示す―には、ファシズムの時代を生き抜く希望さえ抱かされるのだ。子どもたちを思いやる高潔な老教師に深い感銘を受けるが故に。
ナチズムの残酷伝える主人公
 フォルカー・シュレンドルフ監督の「魔王」(フランス、ドイツ、イギリス合作)は、無垢(むく)な少年の心を持ったままおとなになった自動車修理工アベル(ジョン・マルコビッチ)の波乱の一生に、ナチズムの盛衰が重ね合わせてたどられていく。ここでは、アベルの人生を左右する存在として子どもたちが描かれている。
 アベルは、フランス人でありながら、捕らわれたドイツ軍のために働くことで自分を生かす。ナチの青少年組織ヒトラー・ユーゲントを思わせる「幼年学校」で少年たちの世話をするアベルは、彼らに慕われる。しかしソ連軍が迫ってきた時、アベルは彼らに投降することを呼びかけるが、少年たちに逆に殴り倒される。そしてナチス収容所から逃げてきた少年を命懸けで救おうとする。
 七九年の話題作「ブリキの太鼓」の監督作品らしく、屈折した主人公によって、ナチズムの残酷さを伝える。
 とりわけ、興味を引かれたのは、「幼年学校」で訓練を受ける子どもたちの描かれ方である。彼らは集団行動に顔を輝かせ、ソ連軍から命を救おうとするアベルに「僕らの命は総統のもの」と言って逆らう。ナチズムの“魔力”に誘われながら、結局は、全滅していく、時代の中のあまりに悲惨な子どもたちだった。
 「魔王」も「蝶の舌」も、ファシズム下とその前夜を生きる子どもたちを描き出した。その姿を通して今に続く戦争と平和の問題が突きつけられ、描かれた時代と社会の真実が感動を呼ぶ。
子どもたちをまもるために
 フランス映画「今日から始まる」は、現代の幼稚園の子どもたちに焦点を当てている。
 牧歌的な田舎の風土のなかの家族の姿を描いた「田舎の日曜日」で知られるベルトラン・タヴェルニエ監督の、それとはまるで異なるタッチの描き方に驚かされる。
 舞台は、かつて栄えた炭鉱もさびれたフランス北部の街。福祉に四割以上の予算を当てる革新的行政だが、限界もある。行き届いた保護を進められない行政のもとで、子どもたちを守ろうと幼稚園長が奮闘する。
 燃料費さえ事欠く貧しい家庭、シングルマザー、親からの虐待等々、子どもたちをめぐる環境は厳しい。熱血漢の園長は、現実の重みに打ちのめされそうな時、愛する女性や仲間の女性教師たちに助けられる。
 たたかいなしに、そして、ともに歩む力の存在なしに、子どもたちの命が守られることはないのだ、と痛感させられる。
 一方の「こどもの時間」(野中真理子監督)は、埼玉県桶川市にある、私立いなほ保育園の子どもたちを描くドキュメンタリー映画である。
 手づかみでの食事や泥んこ遊び。まきでたき火をし、なべでおこげを作り、夏には、畑にできたスイカをほおばり、親たちの手づくりのプールで遊ぶ―。そうした子どもたちの姿を六年間、カメラがひたすら追った貴重な記録である。あくまで子どもたちに寄り添い、「風のにおいを感じて遊ぶ」子どもたちをとらえる。八〇年代のシリーズ「さくらんぼ坊や」(山崎定人監督)を思い出しながら、この女性監督の描く子どもたちの世界に引き込まれていった。
 ここには、おとなの肉声は出てこない。だが、子どもたちの生き生きした姿に胸を打たれながら、彼らを守っている力の存在を強く感じさせられる。
 子どもたちに大きな焦点を当てて描いたいくつかの作品をたどってみたが、アメリカの報復爆撃を怖れて避難するアフガニスタンの子どもたちのいたいけな映像に、目は引き寄せられていく。子どもたちの「受難」の時代を過去のものとするために、これらの映画が提起する問題に深く考えさせられるのだ。(こだま ゆきえ)
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2001年10月12日『赤旗』)(Page/Top

ナチとのたたかい伝える/ローマ解放歴史博物館/年1万人の訪問者 欧州各国からも

 第二次世界大戦末期のイタリアでは、ムソリーニの失脚後に同国を占領したドイツ軍に対し、幅広い市民が共同して反ファシズムのたたかい(レジスタンス)を繰り広げました。ローマでのたたかいを伝える「ローマ解放歴史博物館」を訪れました。
 (ローマで島田峰隆写真も)
 「ここはローマのレジスタンスを振り返るにはもってこいの場所ですよ」―博物館運営委員のアントニオ・パリゼッラ教授(56)は強調します。
 ローマ中心部のテルミニ駅から地下鉄で二駅。博物館の建物はもともと、逮捕されたレジスタンス戦闘員のろう獄として使われていたものです。一九五五年に博物館としてオープンしました。
 建物内の窓はドイツ軍によって通気孔だけを残してすべてれんがでふさがれました。薄暗く、重い空気が漂います。
 この日はちょうど、「ローマ・ドイツ人学校」の先生たちが見学にきていました。その一人、イバナ・シモネッリさんは「人権を尊重し、平和を愛する人間を育てるには、過去の過ちを学ぶことが大切です。イタリアとドイツで協力して歴史を学べるのは良いことですね」と語ります。
 博物館には戦闘員の所持品やドイツ軍の目を盗んで衣服の裏などに書かれた家族からの手紙、ナチの通達文書、非合法で出版されたレジスタンスのビラなどが展示されています。付属図書館には約二万冊の専門書が収められ、大学生や市民が研究に利用しています。
 「訪問者が一番衝撃を受けるところ」(パリゼッラ教授)というのが、戦闘員を閉じ込めていた独房です。
 幅わずか一・二メートル、奥行き三メートル。壁一面には入獄者がくぎを使って彫り込んだカレンダーや暗号、詩やメッセージが残されており、当時のたたかいの壮絶さを今に伝えます。中にはいまだに解明できない暗号もあるといいます。
 博物館を訪れる人は教師や生徒を中心に毎年約一万人。イタリアだけでなくドイツやオランダなど欧州諸国からの訪問者も大勢います。
 パリゼッラ教授は「レジスタンスには軍人だけでなく女性や修道士なども多く加わり、仕事のボイコットなどの形でたたかいました。今後はコンピューター画像も使ってローマでのたたかいの全体像をより詳しく紹介したい」と話していました。
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2001年10月06日 『赤旗』)(Page/Top

ローマ 戦争と平和の足跡を訪ねて 

サン・ロレンツォ地区の空爆跡

観光名所であふれる「永遠の都」ローマ。一見すると中世からの変わらぬ風景が残るこの街にも、第二次世界大戦の傷跡やファシズムと戦った人々の足跡が数多く残されています。戦争の記憶を語りつぐもう一つのローマを訪ねました。中心部のテルミニ駅とローマ大学(サピエンツァ)に挟まれたサン・ロレンツォ地区は、ムソリーニの独裁体制が倒れる直前の一九四三年七月、連合軍による激しい空爆を受けました。
 同地区へ入ると、建物の半分をえぐり取られたようなアパートに出くわしました。「空爆で壊されたんだよ。午前十一時半ごろから三時間近く次々と爆弾が降ってきた。その恐ろしさは今でも忘れないよ」―空爆を経験したモッチ・セルジョさん(72)は当時の様子を説明します。空爆では約一万人が負傷し三千人が死亡したといわれます。
 これらの建物はレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)を描いたロッセリーニ監督の名画「無防備都市」の撮影にも使われました。

無数の銃弾跡残る建物

 一九四三年夏にムソリーニが失脚した後、ヒトラーは北イタリアにナチスのかいらい政権を樹立、ドイツ軍がローマにも進駐します。有名な「トレビの泉」からほど近いラゼッラ通りの一角には、ドイツ軍の蛮行を今に伝える六階建ての建物がありました。
 当時、ドイツ軍が建物の前を行進している最中、レジスタンス(反ファシズム抵抗運動)の戦闘員が仕掛けた爆弾が爆発。戦闘員が建物内にいると考えたドイツ軍は、建物に向かって機関銃を連射しました。このため建物の三階から上の部分は無数の銃弾跡で覆われてしまったのです。
 戦後、建物の一部は壁の塗り替えなど修復が行われましたが、銃弾跡の穴だけは記憶の風化を防ぐために当時のまま残されています。

アルデアティーネ洞くつの虐殺

 ドイツ軍占領時代の最も悲劇的な事件はローマのはずれにあるアルデアティーネ洞くつでの大虐殺でした。
 一九四四年三月二十三日。ドイツ軍はレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)の戦闘員による反撃で、一度に三十三人のドイツ軍兵士を失いました。知らせを聞いて憤激したヒトラーは、ドイツ兵の死者一人につき十人の割合でイタリア人を処刑せよと命令を下しました。
 翌二十四日、アルデアティーネ洞くつには拘留されていたユダヤ人や共産党員に加え、一般市民など合計三百三十五人が集められ次々と銃殺されました。中にはわずか十四歳の少年もいました。
 現在、洞くつには犠牲者の墓と博物館が置かれ(写真)、全国から人々が献花に訪れています。

尊敬されるレジスタンス (Page/Top

 連合軍の到着でドイツ軍から解放されたローマでも、レジスタンス(反ファシズム抵抗運動)は大規模に繰り広げられました。市内にはその記念碑を無数に見ることができます。
 下院の建物から西へ十分程度歩いたスクローファ通り三九番地もその一例。ここには熱心なレジスタンス活動家、アルベルト・マルケージが住んでいました。居酒屋を経営していたマルケージは一九四四年三月、ナチスに逮捕され銃殺されます。
 戦後、彼の自宅入り口には記念碑が作られ、花輪が飾られました。
 「真の同志であり、国民の友であったことの永遠に続く記憶として、同志たちはこの掲示を据える」
 反ファシズムの伝統が市民に脈々と受け継がれていることが感じられます。(

 (ローマで島田峰隆)

( 2001年09月02日『赤旗』)(Page/Top

ユダヤ人虐殺計画、ここで立案/館が告発するナチス犯罪/ドイツ・ベルリン郊外のワンゼー

 ドイツの首都ベルリンは暑い日が続いています。南西郊外のワンゼーは湖や森、高級住宅地が広がる地域。その一角に立つ建物が今、静かにナチスの犯罪を糾弾しています
 ワンゼー会議場記念館。ここに一九四二年一月二十日、ナチスの参謀が集合し、欧州規模でのユダヤ人殺害計画を決めました。
 同館は、ナチス犯罪を多数の写真、文献で告発しています。
 この会議参加者は十五人。ユダヤ人虐殺計画を立てたラインハルト・ハイドリヒ。すでに六万人を殺していた「殺人エキスパート」ルドルフ・ランゲ。アウシュビッツ(現オシフィエンチム)強制収容所への移送・殺害の責任者アドルフ・アイヒマン…。かれらの末路は、死刑、自殺、逃亡など戦犯にふさわしいものでした。
 この会議直前の四一年十二月、日本は連合国に宣戦しています。展示は、他民族を虐殺した両ファシズムが打倒されたところで結ばれています。
 (ベルリンで坂本秀典)
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2001年08月22日『赤旗』)(Page/Top

日本占領下 飢餓・爆撃の犠牲者悼む/記念碑 一家が守り通した/ベトナム8月革命56周年を機に ハノイ市が修復決定

 ベトナム八月革命(一九四五年八月十九日)の五十六周年を機に、首都ハノイの人民委員会(行政機関)はこのほど、日本占領下で飢餓と爆撃のために死亡した市民の記念碑を修復することを決定しました。
時代が移る中で忘れられていた
 この記念碑は、ハノイ市街地南部の入り組んだ住宅地の一角にあります。民家の庭のような狭い敷地で木立に囲まれた記念碑には、「一九四四―四五年、爆撃と飢餓によって死去した同胞の千年の安息の地」と記されています。
 第二次世界大戦末期、日本占領下で、日本軍による食糧の強制徴発と飢きんのために、ベトナム全土で当時の人口の一割に当たる二百万人が餓死したとされます。ハノイ市内の餓死者と、日本軍に対する連合軍の爆撃に巻き込まれて死亡した市民を追悼するため、五一年に記念碑が建立されました。
 しかし、第二次大戦後三十年にわたる抗仏、抗米の戦争を経て、ドイモイ(刷新)の時代へと移り変わる中で、記念碑の存在は多くの市民から長く忘れられていました。
 その記念碑を一つの家族が守り続けていました。隣家のグエン・ティエン・タンさん(41)、チャン・ホン・ニュンさん(44)夫婦と三人の子どもたちです。夫のタンさんのシクロ(人力三輪タクシー)の稼ぎで生計を立てる貧しい家族です。
骨つぼ200個分も人骨が散乱して
 妻のニュンさんは北部デルタのタイビン省の出身です。幼いころ、祖父母や両親から日本占領下で起きた餓死の話を聞かされていました。穀倉地帯のタイビン省でも多くの餓死者が出ました。「飢えた人々は馬ふんに混じったトウモロコシの粒まで食べたそうです」
 「十二年前にこの家に引っ越してきた時、掘り返された敷地に人骨が散乱していました。市場で骨つぼを買ってきて納めました。骨つぼは二百個も必要でしたが、いったい何体あったかは分かりません」(ニュンさん)
 一家は、犠牲者供養の線香を絶やしませんでした。「子どもたちも記念碑の掃除を手伝ってくれます」(タンさん)
 ベトナムと日本の歴史学者が九五年に共同で行った「四五年の二百万人餓死」調査でこの記念碑を訪れたことのあるバン・タオ教授は、雑誌『スアナイ(古来)』七月上旬号への寄稿文の中で、この記念碑が放置されていることを批判しました。さらに、「ファシズムの台頭を断固阻止するわが民族と人類の意思を示そう」と、二百万人の餓死者を追悼する記念碑を新たに建立することを訴えました(本紙七月三十日付既報)。
多くの人々が訪れるように
 バン・タオ教授の訴えに各紙やテレビも呼応して、この記念碑の保存が一家族の善意にまかされている現状を批判しました。こうした世論の高まりの中で、ハノイ市人民委員会も記念碑修復を決定しました。
 「私自身は日本軍の支配を体験していません。こんなに多くの同胞が亡くなったことに心を痛め、供養しなければと思っただけなんです」。ニュンさんは、ハノイ市人民委員会の幹部など多くの人々が記念碑を訪れるようになったことを喜んでいます。(ハノイで鈴木勝比古 写真も)
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2001年08月22日 『赤旗』)(Page/Top

第2次世界大戦終結56周年 8・15を前に 中国、イタリアの識者に聞く

ローマ解放歴史博物館 アントニオ パリゼッラ教授/ファシズムとのたたかいこそ尊敬される
 第二次世界大戦中にレジスタンス(注)に参加した戦闘員の遺品などを展示する「ローマ解放歴史博物館」のアントニオ・パリゼッラ教授(56)に、レジスタンスの意義とその精神を次世代に伝える重要性について聞きました。(ローマで島田峰隆)
 第二次世界大戦では、ドイツとイタリアが人種差別の概念に基づいてファシズムを欧州諸国に押しつけ、自由と平和を破壊しました。アジアでも日本ファシズムが「共存・繁栄」といううたい文句で侵略を進めました。
 レジスタンスはこれらファシズムに対し、文化や人種の多様性を掲げ、自由と平和、民主主義を求めて対抗しました。そして戦後、レジスタンスの掲げた要求は社会の基礎、原点に据えられました。
 つまり、歴史を振り返ると、レジスタンスによってファシズムは敗北させられ、誤りが明確にされたのです。自由や平和が尊いたたかいによって得られたものだということも分かります。
 イタリアにも右派から左派までさまざまな政治勢力がありますが、反ファシズムこそが正しかったという認識は一般的です。ファシズムとたたかった人々こそが本当に尊敬されるし、ファシズムの誤りを認識することこそが国際社会の基本だという認識です。
 もちろん、極右や一部の右派政治家からは「レジスタンスは権力闘争的な内戦だった」とか、「ファシズムにも積極面があった」と歴史を「見直す」動きも出ています。
 しかし、これは結局はレジスタンスの歴史的意義を過小評価することでしかありません。その根本には、事実にもいろんな側面があるという考えがあるのです。
 しかし、例えばこの博物館にあるレジスタンス戦闘員の遺品や写真が物語るのは、ドイツ占領軍とたたかって勝利し、それが戦後の原則になったという一つの事実です。ここには「見直し」のできる余地は何もありません。
 歴史の「見直し」が世間に通用しないから、最近は極右などが、「ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)はなかった」とする「否定主義」を持ち出しているのです。
 昨年、レジスタンスの歴史を書いた学校教科書が偏っていると右派政党から攻撃がありました。しかし、今日のイタリアではファシズム時代のように国が統制した教科書を一方的に押しつけるというシステムはありません。党派本位の偏った記述などはありえないのです。
 当然ながら、この攻撃はあぶくのように消え去りましたが、教科書の内容は今後の社会にかがみのように映し出されます。
 幸い、博物館には毎年約一万人程度の人が訪れ、その八割が若者です。ドイツや米国からの訪問者も多く、一度訪問した子どもが親を連れて再度くることもあります。レジスタンスの歴史を学ぶ若者が多いことは、心強いことです。
 (注) レジスタンスとは、ムソリーニの失脚後、一九四三年九月から四五年四月にかけてドイツ軍がイタリアを占領した際に、中北部の都市を中心に広がった反ファシズム抵抗運動。共産党員や自由主義者、カトリック関係者など合計で約二十五万六千人の市民が参加しました。うち犠牲者は約七万人にのぼりました。
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2001年08月11日 『赤旗』)(Page/Top

歴史教科書 靖国参拝/好戦主義、ファシズムを鼓舞/日本の侵略で200万人餓死/歴史の真実変えられない

ベトナム歴史学者 バン・タオ教授が語る
 ベトナムの近代史研究の第一人者で、日本・ベトナム共同調査による著作『ベトナムにおける一九四五年の餓死』の共同著者であるバン・タオ教授はこのほど、小泉首相の靖国神社参拝、歴史教科書問題、ベトナムの二百万人餓死などについて本紙に語りました。(ハノイで鈴木勝比古)
 (小泉首相の靖国神社参拝問題について)
靖国神社へ懸念
 小泉首相が靖国神社を八月十五日に参拝しようとしているといいます。私はかつて日本を訪問し、多くの美しい寺や史跡を訪れて、その素晴らしさに感動しました。しかし、靖国神社を訪れたときには次のような懸念を覚えました。
 この神社にはアジア各国を侵略し、アジア諸民族にたいして血にまみれた罪悪を犯した犯罪者が祭られている。この戦争では日本の国民も犠牲となり、死亡している。ここに参拝するのは、この侵略者を追悼することになるのではないか、日本の国民や子どもたちにたいして、好戦主義、ファシズムを鼓舞することになるのではないかと。
 日本の首相が靖国神社を参拝すると聞いて、世界各国の人々も、日本の指導者が過去のファシズムを鼓舞する行為だと懸念するでしょう。日本の首相は靖国神社を参拝すべきではありません。
 (歴史教科書問題について)
 日本は軍隊をアジア各国に派遣して、侵略し、征服し、奴隷にしようとしました。その中にベトナムも含まれます。ベトナム民族は決起して、八月革命を成功させ、日本ファシズムをインドシナとベトナムで打ち破ることに貢献しました。
 この事実は、この戦争が日本の一部の歴史学者が主張するような「正しい戦争」ではなかったことを示しています。これらの学者は、日本はアジアの諸民族を白人植民地主義者から解放しようと意図したと言っていますが、日本軍のベトナム侵略を見てもこれは間違っています。日本は一九四五年三月九日にクーデターでインドシナのフランス植民地主義者から権力を奪いました。これはベトナム民族を解放するためではありませんでした。日本の劣勢のなかで、フランス軍が背後から攻撃することを恐れたからです。
 (四五年のベトナムでの二百万人の餓死について)
食糧収奪の結果
 日本とベトナムの歴史学者の共同調査の結果が『ベトナムでの一九四五年の餓死』にまとめられ、日本語にも翻訳されています。日本政府に賠償を要求するために調査したのではありません。科学者として歴史の真実を明らかにするためです。
 クアンチ省以北の二十三地点で数年間にわたり、数回にわたって調査しました。村村で家族から聞き取り調査をしました。その結論として、二百万人以上の餓死を確認しました。それ以下ではありません。その後、多くの日本の学者や記者に会いましたが、この真実に疑問を挟む人はいませんでした。
 問題はこの惨禍を引き起こした原因は何かです。フランスの長期にわたる植民地支配の結果か、それとも飢きんによるものか、米国の爆撃による食糧輸送の途絶か。あるいは当時のチャン・チョン・キム政権(日本のかいらい政権)による食糧売買の禁止のせいか。さまざまな原因はあるにしても、日本ファシズムによる食糧収奪が主因であるというのが私たちの結論です。
 日本軍は食糧を収奪するとともに、ベトナム独立を主張する「ベトミン」の抵抗力をそぐために、その胃袋を攻撃したのです。食糧が農村に運ばれれば、「ベトミン」が力を得ると考えたのです。
 (過去の真実についてのアジア各国の交流について)
 ホー・チ・ミン主席はアジア各国人民の連帯を常に強調していました。ベトナムはすべての国や国民と友人になることを望んでいます。二十一世紀は科学技術の発展の世紀であり、歴史の真実を覆い隠すことは不可能です。日本が歴史の真実を認めることは世界の評価を高めます。平和、友好、協力のもとに両国がともに発展することが望ましいのではないでしょうか。
 バン・タオ教授の略歴一九二六年四月二十九日、ベトナム北部ハイズオン省の生まれ。七十五歳。七二年から八〇年までベトナム歴史学会副会長、八〇年から八九年まで同会長。日本訪問は三回。ハイズオン省で、近隣の家族が餓死するのを直接、目撃しました。「私の家の隣のチュンさんの家族は一家四人が死亡、向かいのキンさんの家族は五人のうち一人だけ生き残った」と語りました。
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2001年08月08日『赤旗』)(Page/Top

旧日本軍占領下の惨事――餓死者追悼の記念碑建設を/ベトナムの歴史家が訴え

 【ハノイで鈴木勝比古】ベトナムの歴史家バン・タオ教授が、雑誌『スアナイ(古来)』(月二回刊)最近号に「一九四五年同胞餓死記念碑を建設しよう」と題する巻頭文を寄稿し、旧日本軍占領下のベトナムで餓死した二百万人といわれる犠牲者を追悼する記念碑の建設を提起し、「ファシズムの台頭を断固阻止するわが民族と人類の意思を示そう」と訴えました。
 バン・タオ教授は、東京大学の古田元夫教授などとの日越歴史家の「一九四五年のベトナムにおける餓死」についての共同調査を紹介しています。
 タイビン省ティエンハイ県のタイルオン集落で三分の二が死亡、ハイズオン省トゥーキー県のニューティン集落では三百五十一人が餓死、そのうち百二人が未成年であったことなど、中部のクアンチ省から北部のカオバン省までの二十三の地点での調査結果を示し、「六カ月間で二百万人の生命が奪われた」と結論づけています。
 同教授は、「すでに五十六年が経過し、最も若い世代も『古希』の年齢に達している」として、今後の世代にこの記憶を伝えるために記念碑の建設を呼びかけています。
 バン・タオ教授はこの巻頭文で、最近、韓国の歴史家による、日本の歴史教科書の史実わい曲にかんするシンポジウムに参加したことに言及し、「(韓国の)同僚は真実のために勇敢にたたかい、同胞の生命にたいする責任を果たしている」と述べています。
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2001年07月30日『赤旗』)(Page/Top

おはようニュース問答/この夏、話題の映画がいっぱいだね

 みどり 夏休みを前に、映画の話題作が並んでるわね。日中合作のNHKドラマ「大地の子」で主人公の父親を演じた俳優さんが、銭湯のおじさんを演じてる映画「こころの湯」を見たけど、北京の大衆浴場を舞台にした人々の心の通い合いが胸に染み通ったわ。
 はるか 中国映画ね。私は、「山の郵便配達」を見たけど、山道を踏み分けて郵便を届ける仕事をしてきた配達人の父親の誠実さが、とても印象的だった。
技巧にはしらず
 みどり 最近の中国映画では、若い監督たちが、良い仕事をしているのが目につくわね。
 はるか 技巧にはしるのではなくて、人間をじっくり描いて見せてくれる。
 みどり 技巧といえば、アメリカ映画「パール・ハーバー」は、日本軍の真珠湾攻撃シーンの特撮が呼び物だったわね。
 はるか ええ。四一年十二月八日、アメリカでは七日の日本軍の真珠湾奇襲が、特撮を駆使して描かれる。三人の男女の愛をからめているんだけど、ドラマがあまりにも薄くて―。
 みどり 中国への侵略戦争を進めていた日本軍が、新たな侵略の活路を封じられ、真珠湾を攻めて米英との戦争を始めた。アメリカ側から見れば、ファシズムに対する反ファシズムのたたかいだったんだけど、そういう肝心の戦争の骨格がここではぼやけてるわ。
 はるか アメリカ映画といえば、スピルバーグ監督の「A・I・」が観客を集めているわね。
 みどり 愛をインプットされた少年ロボットの数奇な歩みが、愛らしさをもよおしたり、悲哀感を抱かせたり。人間と機械の関係、地球の未来など、いろいろ考えさせられる。
 はるか 冗漫な部分もあって、私には、ちょっと期待はずれで残念だったわ。
親子で楽しめる
 みどり 親子一緒に楽しめる作品としては、ケストナーの原作を映画化したドイツ映画の「点子ちゃんとアントン」。子ども同士の友情に泣かされちゃった。日本映画では、宮崎駿監督の四年ぶりのアニメ作品「千と千尋の神隠し」の上映が始まるね。
 はるか 映画館での出会いが楽しみね。〔2001・7・18(水)〕
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2001年07月18日『赤旗』)(Page/Top

朝の風/ロシア映画界の良心

 新しいファシズム容認の動きに、ロシア映画界でもきびしい告発が起きた。六月にサンクトペテルブルグで、「人間へのメッセージ」をモットーに国際ノンフィクション映画祭が開かれたとき、レニ・リーフェンシュタール女史の悪名高いナチ・プロパガンダ映画が公開上映されようとしたからである。
 女史はヒトラーお気に入りの女性記録映画作家として知られ、一九三四年ニュルンベルクで開かれたナチス党大会の記録「意志の勝利」、一九三六年のベルリン・オリンピック大会の「オリンピア」二部作(「民族の祭典」「美の祭典」)がとくに有名。今回上映されようとしたのも、この二作だが、女史自身は九十歳を超えた今日も健在で、自分の過去について一切反省も謝罪も拒否していて、世界の映画人の批判を受け続けている。
 今年は一九四一年六月、ナチス・ドイツがソ連に侵攻してから六十周年、しかもサンクトペテルブルク(旧レニングラード)は九百日の包囲下で五十万の犠牲を出した。その街でナチスを賛美した女史の記録映画が一般上映されるなど、絶対に許せないという声が起きて当然である。ミハイル・グレヴィチやナウーム・クレイマンら批評家を中心とした抗議の結果、映画祭は公開上映を中止、非公開試写にとどめた。
 現代ロシア映画の市民的良心の勝利だ。(映)
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2001年07月17日 『赤旗』)(Page/Top

加害の歴史にむきあう青年たち/オーストリア/ナチス強制収容所解放式典 36カ国から7千人参加

  オーストリアで昨年、ナチスを賛美するハイダー氏を指導者とする極右の自由党が政権入りしました。そのオーストリアで近年、一九三八年から四五年までのナチス・ドイツによる併合時代に少なくない国民がユダヤ人迫害に加わった歴史にも目が向けられるようになっています。(マウトハウゼンで岡崎衆史 写真も)
 死の階段
 オーストリア中北部のマウトハウゼン・ナチス強制収容所で六日、解放五十六周年記念式典が行われ、三十六カ国から約七千人が参加しました。今年は、特に若者の参加者が多く、元収容者の話を熱心に聞く姿があちこちで見られました。
 この日、バスや自家用車で詰め掛けた人たちが朝早くから追悼記念碑や旧収容所内を見学しました。
 中でも、同収容所で最も有名な「石切り場」と「死の階段」に人々が殺到しました。石切り場は、収容所がある高台より低い場所にあり、高さ約四十―六十メートルの花こう岩の壁に囲まれ、長径四百メートルほどのだ円形をしています。百八十六段ある「死の階段」は、石切り場から収容所まで行く道の一部を構成しています。収容者たちは当時、建物などに使う重さ五十キロ前後の切り出した石を背負って階段を上りました。夏は十二時間も働かされました。石を落としたり、疲れて運べなくなれば、死が待っていました。
 生き証人
 この急な階段を元収容者が一歩ずつゆっくり上る姿が見られました。若い人でも、八十歳に達しています。途中休みながらも自力で上っていきます。気を使いながら付き添う若者たちは、彼らの説明に熱心に耳を傾けていました。
 会場で特に目立ったのは、歴史の「生き証人」から学ぼうとするこのような若者たちでした。
 その中の一人、ウィーン大学で歴史を学ぶ男子学生トービッシュ・ユルゲンさん(22)。「初めて収容所を訪ねました。今まで写真を見たことはありますが、実際に来て見て、あまりにひどい…。ドアを開けて収容所に入るとなんともいえない空気が流れていました」と一気に語りました。
 同級生のサルモホーファ・アンドレアスさん(22)も「僕は三回目ですが、決してホロコースト(民族皆殺し)を繰り返してはならないという思いを新たにしました」と語りました。
 ナチス賛美
 犠牲者追悼式典では、シュトラッサー内相(国民党)が政府を代表してあいさつし、「ナチズムは予期せぬところに現れる」とのべると、若者から失笑とともに抗議が起きました。国民党が連立している自由党の指導者ハイダー・ケルンテン州知事(前党首)が「第三帝国の雇用政策には秩序があった」とのべるなど、ナチス賛美を繰り返し、国の内外でひんしゅくを買っているからです。
 元収容者の一人で、ロシアから参加したティグラン・ドラムビアン氏(80)は身体に押された収容者番号を見せながら、「極右のことが本当に心配です。あのひどい時代に逆戻りしてはなりません。ファシズムを繰り返してはなりません」と訴えました。そして「こんなに多くの若い人たちが追悼式典に集まってくれて安心した」と付け加えました。
  マウトハウゼン強制収容所 オーストリア第三の都市リンツから東方約二十二キロに位置する強制収容所で、本部と四十七の小収容所から成ります。ナチス・ドイツがオーストリアを併合直後の一九三八年八月に建設。
 収容者はユダヤ人や抵抗運動の活動家、共産党員、他の政治囚、ソ連軍捕虜、一般市民など多岐にわたり、国籍は四十カ国を超えます。解放日の四五年五月五日までに収容された人は男性約十九万二千人、女性約八千五百人で、うち十万三千人以上が処刑や重労働で殺されました。
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05月25日 『赤旗』)(Page/Top

中道左派への批判の強さ示す/イタリア総選挙

  [解説]イタリア総選挙開票で、野党・右派連合が上下両院で過半数を制する勢いを見せていることは、欧州単一通貨ユーロ参加を理由に国民サービスを切り捨ててきた中道左派政権への国民批判の強さを示すとともに、その不満、批判を巧みに利用して支持を取り付けたベルルスコーニ氏の戦略が一定成功したことを示しています。
 中道左派政権が増税や財政支出抑制などを続けたことをベルルスコーニ氏は「非民主的」だと批判し、「課税には市民の同意が必要だ」と強調しました。
 またバルカン地域などからの不法移民の増加に伴い犯罪が増えていることにも「五年前と比べて不法移民は少なくなりましたか」「あなたは道路で安全に感じますか」と有権者の不安をあおり、中道左派政権の移民対策の“弱腰”を批判しました。
 こうした宣伝を自らの支配するテレビ局なども通じて大規模に行い、国民に浸透させていったことも勝利の一因といえます。
 しかし右派連合が政権についたとしても内部矛盾を抱え、前途多難という見方も出ています。
 その一つが連携政党間の主張の違いです。連携を組む「炎の三色旗」はもともと国民同盟がムソリーニのファシズム路線を放棄したことに反発して結成された党で国民同盟とは立場が異なります。国民同盟も内部にネオ・ファシストをかかえています。また北部同盟は北部地域の分離・独立を主張する政党で、国民同盟の主張する「統一国家」や「炎の三色旗」の掲げるナショナリズムとは矛盾します。
 英字紙インターナショナル・ヘラルド・トリビューンは「彼らの落ち着かない政府協力は、勝利してどんな政府を作ろうとも、それが短期間のものになることを示している」と指摘しました。(ローマで島田峰隆)
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05月15日 『赤旗』)(Page/Top

ファシズムの過ち忘れない/イタリア解放記念日 全国でデモ、ミラノで5万人

  【ミラノ25日島田峰隆】イタリアの「解放記念日」にあたる二十五日、恒例のファシズムとのたたかいを振り返る催しが全国で行われました。ネオナチの動きや右派政党の「歴史見直し」攻撃も目立つなか、過去の過ちを直視し、反ファシズムの伝統を後世に正しく伝える大切さが強調されました。
 イタリア北部の都市ミラノでは約五万人の市民が参加。「ファシズムは許さない」「歴史の真実と記憶を守ろう」などと書いた横断幕を手に、パルチザンの歌を歌いながら市内を行進しました。
 妹と参加した大学生のアッズッラ・セナトーレさん(24)は、「民主主義と自由を勝ち取った歴史を伝えることが大切になっていると思います。歴史を踏まえないと、また同じ過ちを犯すことになりかねません」と語ります。
 伊最大の労働組合、イタリア労働総同盟(CGIL)のコッフェラーティ書記長は、「よりよい社会をつくろうと思えば、過去の出来事の道徳的、政治的責任を免罪しないことが必要だ」と強調し、歴史改ざんの動きを批判しました。
 首都ローマでは五千人がデモ行進しました。◇
 一九四五年四月二十五日、連合軍の到着に先立ってイタリア北部の諸都市が国民の手によって解放されました。戦後、この日は「解放記念日」として祝日に指定されました。
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04月27日『赤旗』)(Page/Top

侵略の史実伝えるイタリアの教科書/“国際社会の常識を子どもらに”と教師

  イタリアは第二次世界大戦中、日独とともに枢軸国として侵略戦争を推進しました。日本では侵略戦争を美化する教科書が検定を合格しましたが、イタリアの教科書は自国の侵略も正確に描き、子どもたちが国際社会の常識を身に着けられるようにしています。(ローマで島田峰隆記者 写真も)
 「植民地政策は誤ったもので糾弾されるべきものだということは、もはや常識です。史実をゆがめたり、隠すことはイタリアではできません」―イタリア現代史が専門で学校教科書も執筆しているローマ大学のビドット教授(60)は語ります。
 証言で学ぶ
 イタリアの高等学校(五年間)では最終学年に一年間、一九〇〇年代を学びます。第二次大戦については最低でも数カ月かけて授業が行われます。
 ローマ市内の高校で歴史を教えるエウジェニア・ブランコさんは、「授業ではビデオも使って侵略やユダヤ人虐殺の歴史を教えます。当時のイタリア人将校の日記も資料にしています。実在の証言が重要ですし、ファシズムの反省にたった思想、常識を身に着けることが国際社会で生きる子どもたちには必要ですから」といいます。
 教科書も明快です。
 国立高校で使われる教科書(九九年)は、「イタリアは一九三五年十月初め、エチオピアへの侵略を開始した」と自国の侵略を明記。国内では反ユダヤ主義キャンペーンや出版物の検閲を行ったことにもふれています。
 共産党員らが中心となりレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)を繰り広げたことなど、章をたてて抵抗運動を説明していることも、日本と大きく違う点です。
 日本の侵略
 日本の侵略はどうでしょうか。
 「日本は国境の事故から口実を引き出して、満州を侵略した」
 日本軍が機関車の前で万歳をしている写真も載っています。「中国の都市漢口の鉄道駅を征服した後、歓喜する日本軍」と説明があり、「満州事変」を契機に中国への支配を拡大したことをのべています。
 さらにフィリピンやマレーシアなどに支配を拡大し、「オーストラリアとインドにも脅威を与えた」ほどの侵略ぶりだったと指摘。「アジアの独立」に役立つどころか、明らかな「侵略」だったことを資料をもとに立証しています。
 歴史家の責務
 ビドット教授は、反ファシズム、戦争拒否の思想は「新しい民主主義の基本的思想」とし、「正しい記憶がなければ理不尽な思想もはびこる」とのべ、教科書を書く歴史家の役割にふれました。
 「子どもたちが、過去の歴史を踏まえて現在を考え、行動できるようにすることが必要です。史実を隠さずありのままに記述することが、教科書を書く歴史家の不可欠の責務です」
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04月08日『赤旗』)(Page/Top

ドイツにおける歴史教科書ナチスへの明確な批判

//真実を伝える責任がある

 
 日本軍国主義の侵略戦争を正当化する歴史教科書が文部省の検定を通過しようとし、内外から強い危ぐと非難の声が起きています。第二次大戦中、日本と同様の戦争犯罪を引き起こしたドイツの歴史教育はどうでしょうか。教育現場や教科書作りの関係者に聞きました。(ベルリンで坂本秀典記者写真も)
 ドイツでは、言論・出版はもちろん自由。しかし、ナチスのユダヤ人大量殺害や近隣諸国への野蛮な侵略という歴史を持つ同国では、過去への真剣な反省にたち、そうした行為の賛美や正当化には厳しい姿勢をとっています。
 基本法(憲法)第一条は「ドイツ国民は、侵すことのできない、かつ譲り渡すことのできない人権を世界のあらゆる人間社会、平和および正義の基礎として認める」とのべています。刑法は、この基本法の精神を受け、ナチス政権下での行為を公然と「是認、否定、美化する」とか、刊行物で排外的な宣伝をすることを処罰するとしています。(百三十条など)
 
広く国民に根を下ろす
 こうした考えは、法文上だけでなく、広く国民に根を下ろしています。昨年十一月九日、極右暴力に抗議して全国で三十万人がデモを行いました。ナチスによるユダヤ人襲撃六十二周年にあわせたこの行動に、連邦政府閣僚、与野党や労組指導者、各界著名人が賛同し参加しました。
 首都ベルリンのシャルロッテンブルク・ウィルマースドルフ区のルドルフ・ディーゼル高校。
 歴史教師は五人。その一人、ノベルト・ワイテル氏はナチス時代について、ファシズムの政治体制、議会否定と野党弾圧、テロと暴力、経済的背景、ユダヤ人迫害、戦争と大量殺りく、そして抵抗運動の項目に分けて、詳しく教えているといいます。「十七歳で抵抗運動に参加した青年もいます。どうしてそうだったのか。いまの青年にも理解できるよう説明しています」と語ります。
 
弾圧の史跡に生徒が学ぶ
 また教室の授業だけでなく、首都北東三十キロにある「ザクセンハウゼン強制収容所」跡や市内各地の弾圧・迫害の史跡を生徒に見せることで、歴史への認識が深まるよう努めています。
 ワイテル氏はいいます。「この時代の歴史に力を入れるのは、生徒に罪の意識を植え付けるためではないのです。ドイツの過去にそうした事実があったことをきちんと伝えなければならないからです。新しい世代にも真実を引き継いでいくことです」
 「ドイツでも、『ほかの国にもあったじゃないか』などと犯罪の相対化を試みる人や、歴史の事実への無知もあります。こうした弱点克服のためには学校の場だけでなく、家庭あるいは政治など、社会全体で取り組むことが必要です」

//法と民主主義にてらして

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 ドイツの歴史教科書は、どんな基準で作られているのでしょうか。
 
想像できない侵略戦争肯定
 「ナチス時代を美化したり、侵略戦争を肯定する教科書出版は、ありえないし、想像もできません。許可されることはありません」
 ベルリンの学校青年スポーツ省のヨアヒム・トマ学校監督官は即座に断言しました。
 ベルリンでは、毎年約三十の教科書出版社から百五十の検定申請が行われています。数学などの自然科学では検定はありませんが、社会科学にはあります。
 三人の学校の先生で専門委員会がつくられ、教科書を鑑定、州当局に勧告します。問題があれば、出版社と相談します。
 ドイツは連邦制をとっていることもあって、教科書の選定を含め教育行政は各州の管轄。しかしばらばらではなく全国的に教育内容の調整を図る常設文化相会議が定期的に開かれます。
 一九九五年九月の常設文化相会議の指針は、ナチスの項で次のようにのべています。
 「ナチスは民族と社会的な理念を悪用し、民主主義の伝統を乱暴かつ計画的に破壊した。この犯罪的な政策は、第二次世界戦争と大量殺りくに導いた。四十年以上にわたるドイツ分断はその結果である」
 また近隣諸国との関係での教育課題として、「東西分け隔てなく接して関係を大切にする」「真の和解をもたらし、偏見やわだかまりをなくし、相互に先入観なく対応する」よう教えるとのべています。
 
抵抗運動にも多くのページ
 首都の学校で使用されているいくつかの教科書を見ると、説明文のほか写真、地図、絵画、あるいは、ナチス幹部の発言も多数紹介されています。ナチスが何を主張し、何をしたかを冷静に判断する資料です。日本では、ほとんど無視されているか、軽視されている共産党や労組運動家、宗教者、自由主義者、学生などの抵抗運動にも多くのページが割かれています。
 大手教科書出版社コルネルセンのゲーツ・シュバルツロック社会科編集長は、「教科書検定制度は各州さまざまですが、原則はどこも同じ。基本法、刑法および常設文化相会議の指針にかなうかどうか、ドイツ民主主義社会の基本的価値と一致するかどうか、新しい研究成果が生かされているかどうかです」とのべました。(ベルリンで坂本秀典記者写真も)

//共通した認識育てる対話

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 歴史教科書をめぐって日本とドイツとの大きな相違は、ドイツの歴史家や教育者自身が、戦後早くから近隣諸国の研究者と対話をすすめてきたことです。
 この対話は、中央や州政府の協力・支援ともあいまって、国民相互の共通した歴史認識を育てるために大きな役割を発揮してきました。欧州では東西の歴史家による共著「欧州の歴史」も発行されています。
 この対話の中核となってきたのがドイツのゲオルク・エッカート国際教科書研究所です。
 この研究所は、ニーダーザクセン州ブラウンシュワイク市にあり、世界百カ国以上十五万冊の教科書がそろっています。
 
国際会議開き意見を交換
 研究所は、世界の教科書を比較・研究しており、毎年研究者の国際会議を開いて意見を交換、勧告を発表します。この勧告に拘束力はありませんが、研究所理事にドイツ十六州のうち十三州の文化省代表が参加していることから、教科書作成上欠かせない意見です。
 国際間協力では、特に英、仏、ポーランドが先行してきました。
 ライナー・リーメンシュナイダー研究所員は「歴史教育は国際親善をはかり、他民族への理解を助け、世界平和に役立たねばならない。そのためにも、教科書には真実が書かれる必要がある」と研究所の勧告や活動の意義をのべます。
 ドイツが侵略し、国境問題もかかえ、長くわだかまりのあったポーランドとの間で、双方の歴史家たちは七七年に両国の「歴史と地理の教科書に対する勧告」を公刊しました。七二年から四年間にわたった協議をへてまとめたものです。歴史教育のあり方によっては当事国間の敵対感情を再生産しかねません。侵略した側とされた側が共通の歴史認識に立つことによって、過去の克服をめざしたのです。
 近く「二十世紀のドイツ・ポーランド関係史」が発行されます。リーメンシュナイダー氏は「こうした発展も、対話の積み重ねがあったからこそ可能になったのです」と語ります。
 
堂々と議論し批判を広げて
 「日本での歴史教科書をめぐる最近の動きも聞いています。ドイツでも、ここまで来るには長い時間がかかりました。誤った主張を押さえつけるのでなく、堂々と議論をたたかわせ、批判を広げることが大切です」
 若い世代は、どう考えているでしょうか。
 ベルリン・フンボルト大学の学生は語ります。
 「ナチスの犯罪行為は、高校の授業のほか、映画や文学を通じてよく知っています。迫害、大量虐殺行為があったと確信します」(国民経済学を学ぶヤスミさん)。「学校では反ナチ運動を勉強しました。『虐殺がなかった』という主張には説得力はありません」(哲学を学ぶインゴ・ドライリッヒ君)。
 主張は明快でした。(ベルリンで坂本秀典記者写真も)

(04月03日 『赤旗』)(Page/Top

パルチザン協会の全国大会が閉幕/歴史の真実を次の世代に伝える教育の重要性強調/イタリア


 イタリア北部の都市パドバとアバノ・テルメで開かれていた「イタリア全国パルチザン協会」の第十三回全国大会は三十一日、三日間の日程をすべて終えて閉幕しました。最近、右派の政治家などから反ファシズムの伝統を抹殺しようとする動きがあるもと、大会では歴史の真実を次世代に正しく伝える重要性が強調されました。(ローマで島田峰隆記者写真も)
 同協会は、第二次世界大戦中にパルチザンとしてレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)に参加し、ナチス・ドイツ軍とたたかった人々が結成したものです。
 イタリアは戦争中、枢軸国の一員として侵略戦争に加わった一方、一九四三―四五年には約二十五万人もの市民がレジスタンスを繰り広げた歴史を持ちます。戦後は一貫して、レジスタンスの精神が民主主義の原点とされてきました。
 ところが最近は右派政党などからこの「原点」の「見直し」を狙った策動も出ています。
 このため、大会の決議も「ファシストやナチズムとの闘争の経験の記憶は、自由を求めるたたかいを直接経験した世代だけでなく、次世代、子どもの世代やさらに孫の世代にまで生き続けなければならない」と強調。歴史の改ざんを許さず、反ファシズム教育を怠ってはならないことを指摘しました。
 
右派が教科書攻撃
 大会で取り上げられた問題の一つが右派政党の学校教科書攻撃です。
 昨年十一月、ラツィオ州の議会で、右派政党「国民同盟」はレジスタンス運動などが記述された歴史教科書が偏っており、「イタリア人すべてに共通のナショナル・アイデンティティーの再建を妨げている」と攻撃。教科書内容を検討する「専門家委員会」の設置を求める決議を提案し、採択されました。
 こうした歴史の“見直し”に対し大会の報告は、ナチスの蛮行やレジスタンス運動など「石に刻まれた事実を消し去ろうと試みる」もので、「自由や人間社会の深い価値が決定的に有罪だとしたことを再評価するもの」だとして厳しく批判しました。
 さらに「過去の大きな出来事の認識は社会の基礎であり、過ちを正し、過ちの繰り返しを避けることを可能にするものだ」として、真実を教育することの重要性も強調しました。
 こうした批判や懸念は発言者に共通しており、ルチアーノ・ビオランテ下院議長も教科書攻撃はそれを教える教師への攻撃にもつながるものだとして懸念を表明しました。
 
教育分野が中心点
 大会報告はイタリアだけでなく欧州レベルで反ファシズムの運動を広げる必要性を指摘しました。またこのほど行われたウィーン市議選での極右政党・自由党の敗北やパリでの左翼の勝利を挙げて、「民主的勢力の勝利は可能」であることも確認しました。
 大会報告は「今後も学校がすべてのイニシアチブの中心点になる」とのべ、教育分野での取り組みの重要性を指摘。四月二十五日の「解放記念日」を結節点にさらに各分野で運動を継続することを決めました。
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04月02日『赤旗』)(Page/Top

歴史をどう記憶するか/日本人、オランダ人、インドネシア人―日本占領下のインドネシアの記憶展をふり返って/岩崎稔

 
 昨年十二月、女性国際戦犯法廷が実現し、これを「ETV2001」が取り上げようとするや、右翼団体の脅迫やNHKの自己規制によって、放送内容が直前に差し替えられるという事件がおきました。
 私たち、東京外国語大学に勤務する研究者は、一月九日から十七日まで、「日本人、オランダ人、インドネシア人―日本占領下のインドネシアの記憶」展を受け入れましたが、この決断をめぐっても、同じ集団から「国立大学での反日的展示は絶対に許さん」といった脅迫を受けたことがあります。
 この展覧会については、右翼団体の攻撃とはまったく別の次元で、私たちとオランダの企画者とのあいだに、重要な批判と応答がありました。この企画は、日本、オランダ、インドネシアのそれぞれの体験者の記憶を、ひとつの編み物のように編むことで、過去の出来事を立体的に表現しようというものでした。しかし、日本占領期の「オランダ領東インド」に問題を限定したこともあり、軍政期の日本軍の加害行為はある程度明らかにすることはできても、オランダがこの地を長く植民地化してきたことについて、いくらか省察が甘いものになっていたのです。
 私たちはその点について検討し、またその批判をオランダ側に伝えながら、むしろ戦争の記憶と歴史叙述をめぐる知的交流のきっかけとして、あえてこの展覧会を引き受けたのでした。
 
抱える多層性
 記憶というものは、その体験当事者の社会的位置によって異なってきます。「ロームシャ」という語彙(ごい)として今日もインドネシアに残っている日本軍による強制労働の記憶。「軍の慰安所」に閉じこめられた未成年者をも含む多くの女性たちの性暴力被害の記憶。抑留所内外での日本軍による虐待の記憶。
 そうした日本軍政期の被害者の記憶に対し、当時の日本軍人や在留日本人たちの一部のなかで凝結しているのは、エキゾチックな外地体験の記憶であったり、みずからを白人支配からの「解放者」となぞらえる自己陶酔的な快感の記憶であったり、さらには敗戦後に逆の立場でオランダ軍の俘虜(ふりょ)としての生活を送らざるをえなかった苦難の記憶であったりします。戦争直後、オランダはふたたびこの地にその植民地支配を再確立しようと試みましたが、インドネシアの人々は、日本軍政期の抑圧に引き続いて、この暴力にも抗して過酷なゲリラ戦を闘わなくてはならなかったのです。
 この脱植民地化の痛みの記憶も含めて、戦争の記憶というものが抱える多層性を、その複雑さを縮減することなしに、しかもあらゆる加害行為に繊細であることを忘れずにどのように考察するのか。私たちはこの展覧会を機会に、そうしたことを考えさせられました。
 
無反省と通底
 注意する必要があるのは、右翼の主張と私たちの批判とがけっして混同されてはならないということです。右翼の攻撃は、「大東亜戦争はインドネシアを解放しようとしたのであり、それにもかかわらず『反日学者』たちは日本軍による戦争被害を描くことでヨーロッパの植民地支配を隠している」というものでした。彼らの事実認定が粗雑であるのは今に始まったことではありませんが、これはヨーロッパの植民地支配が存在したということをもって、日本軍の戦争犯罪をすべて否認しようとする、まことに厚かましいものです。
 私たちが、展示のなかにあった「オランダの植民地支配によってインドネシアの近代化は促された」かのような叙述を問題にしたのは、それがポジションを変えれば、日本による三十六年間におよぶ朝鮮半島の植民地支配を「遅れた朝鮮の近代化と啓蒙に寄与した」という形で正当化する、過去に対しておよそ無反省な姿勢と直ちに通底してしまう論理だったからです。
 ある暴力の記憶は、攻守を転じた別の暴力の記憶によって互いに相殺されたりするわけではありません。オランダの植民地支配の不当性を語ることによって、日本軍がもたらした被害の記憶や戦争犯罪が免罪されてはなりません。逆もまた同じです。オランダの人々が日本軍政期の行為を批判することによって、自らの植民地支配の歴史に鈍感であってもよいかのような文脈が作られるとすれば、それはまさしく不幸なことです。
 
問いかけに…
 展覧会には予想を上回る観覧者があり、また一月十三日には特別ワークショップも実現しました。ワークショップ会場に押しかけて騒ぎ立て、報告者に「死刑判決を下す」下劣な脅迫ビラを配るという右翼の妨害行為にもかかわらず、この日、対話は実質的な端緒を切ることができました。
 なによりも私たちの問いかけに応える形で、歴史家レムコ・ラーベンさんが、オランダにおいていかに植民地主義の問題が忘却されてきたのかを報告してくださったことは、とても印象的でした。
 こうした実質的な関係は、異なった地域と文脈のなかから生まれる差異をナショナルなステレオタイプで塗りつぶし、かえって二つの加害を相殺するだけの右翼の攻撃を、私たちが毅然(きぜん)として退けたことによって、はじめて可能になったものでした。
 「日本人、オランダ人、インドネシア人―日本占領下のインドネシア(オランダ領東インド)の記憶」展=一月九日から十七日まで東京外国語大学海外事情研究所が主催し、同大で開催、二千人以上が観覧しました。オランダの戦争資料研究所が一九九九年夏にアムステルダムで公開した展示の巡回展。日本では、昨年から立命館大学平和ミュージアムなどを巡回し、一部の自治体も受け入れを予定していましたが、右翼団体の「抗議」で計画が撤回されたところもありました。
 いわさきみのる=東京外国語大学助教授、哲学・政治思想専攻。1956年生まれ。共著に『ナショナル・ヒストリーを超えて』『ファシズムの想像力』ほか
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03月16日 『赤旗』)(Page/Top

知識人と大衆/ジョン・ケアリ著、東郷秀光訳/不安の中で醸成されたファシズム

 
 本書は、十九世紀末から二十世紀初頭の大衆文化という新しい現象に対して、イギリス知識人がどのように反応したかに焦点を当て、大衆社会における知識人の役割を問い詰め、批評界に激しい論争を巻き起こした注目の書である。
 著者の基本的見解は、当時のイギリスのモダニズム文学と大衆文化との関係を論じた第一部の「論題」に提起されている。モダニズム文学・芸術は、十九世紀末の教育改革によって生み出された大読者層(大衆)に対する敵対的な反応であり、モダニズム文化が形成される中心原理は、大衆の排除、大衆の力の敗北、人間性の否定、大衆教育への憎悪、読み書き能力の除去、反民主主義である。
 以上の命題を論証するために、第一部では、V・ウルフ、ジョイス、T・S・エリオット、D・H・ロレンス、E・M・フォースター、A・ハックスレィ等の膨大な著作を対象に、知識人の大衆文化に対する反応がどのように描かれているかを、著者の視点から全面的に検証している。さらに第二部の「事例研究」では、G・ギッシング、H・G・ウェルズ、A・ベネット、P・W・ルイスの四人の作家を取り上げ、著者の考えが個々の作家にどのように当てはまるか、詳細に分析・検討している。
 二十世紀初頭に隆盛を極めた新聞・映画・広告など大衆文化に対する知識人の憎悪、人口の爆発的増加や「大衆の反逆」への不安の中で、ファシズム台頭の思想的土壌が醸成された、という著者の指摘は注目に値する。
 P・W・ルイスやE・パウンドがヒトラーを自己の理想の芸術家・独裁者として称揚したように、ファシズムの思想的潮流が二十世紀初頭の知識人の著作に顕著に見られるようになった。著者は、ヒトラーの『我が闘争』が、多くの点で当時の知的・精神的風土から逸脱したものではなく、「ヨーロッパの知識人の正統派の中に固く根を張った著作」であると指摘し、当時の知識人の言説とヒトラーの言説がいかに類似しているかを鋭くえぐりだしている。安藤勝夫・福島大学教授著者=一九三四年生まれ。英オックスフォード大学教授。
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02月12日『赤旗』)(Page/Top

反ファシズム誓う欧州/アウシュビッツ解放から56年/各地で追悼式典、デモ

 
 【ウィーン27日岡崎衆史記者】六百万人ともいわれるユダヤ人の命を奪ったナチス・ドイツによるホロコースト(民族皆殺し)―。なかでもポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所では、約百五十万人の命が奪われました。同強制収容所を旧ソ連軍が解放してから五十六周年を迎えた二十七日、欧州各地で追悼式典やネオナチ、極右に反対するデモがおこなわれました。
 現地からの報道によると、オシフィエンチム(旧アウシュビッツ)では、元収容者やその遺族など五百人を超える人々が、アウシュビッツから約一・五キロ離れたビルケナウ強制収容所に集まり、アウシュビッツ収容所まで追悼のデモ行進をしました。
 ドイツでは、ベルリンにあるホロコースト記念館の建設予定地で中央追悼式典がおこなわれ、ろうそくなどを持った二千人が参加しました。ハンブルクなど各地でも「(ネオ)ナチは出て行け」をスローガンに数千人規模のデモが行われました。
 
イタリア/写真展など共同で開催
 【ローマ27日島田峰隆記者】アウシュビッツ強制収容所の解放記念日にあたる二十七日、イタリアでもナチス・ドイツの蛮行を糾弾し、反ファシズムのたたかいを誓い合う催しが全国で実施されました。
 ローマでは野党のイタリア共産主義再建党や労働組合、文化団体など幅広い団体がライブハウスを会場に、虐殺証言ビデオの上映会、写真展、収容所生存者の証言を聞く会などを共同で開きました。会場には「過去のない現在はない。過去の記憶のない未来も存在しない」と書かれた横断幕が掲げられました。
 「ドイツの収容所へと向かう列車にはまだ年端もいかない子どもたちの姿もたくさんあった」―当時の証言をもとにユダヤ人虐殺を再現したビデオ上映が始まると、スクリーンの前には次々と人が集まりました。
 真剣な表情でビデオに見入っていたアンナさん(34)は「ユダヤ人虐殺やファシズムのことはいつも関心をもってきました。イタリアでもこうして全国でホロコーストを振り返るとりくみをするのはとても大切なことだと思うわ」と話します。友達のシルビアさん(39)も「オーストリアのハイダー(極右政党・自由党の前党首)とかもいるし、人種差別やナチズムの危険は現代の問題だと感じるわ」と語っていました。
 北部の都市ミラノでは三大労組やユダヤ人団体などが主催するデモ行進がおこなわれ、一万人が参加しました。集結集会であいさつしたイタリア労働総同盟(CGIL)のコッフェラーティ書記長は「たとえ遠い昔のことでも悲劇的な事実を記憶することは、若い世代のためによりよい将来を築くために重要だ」とのべ、子どもたちにホロコーストの歴史を伝えていく必要性を強調しました。
 イタリアの国会は昨年七月、毎年一月二十七日をホロコースト「記憶の日」とすることを決めました。
 
英国/ホロコースト国の記念日に
 【ロンドン27日田中靖宏記者】英国では今年初めて、ホロコーストが国の記念日に指定されました。二十七日、公式行事がおこなわれ、ナチの蛮行を糾弾し、人種差別や民族排外主義とたたかう決意を新たにしました。
 ウェストミンスター・センターでの記念行事には、アウシュビッツの生存者や各界指導者が出席。ブレア首相が「悲劇を二度と起こさないため記憶を新たにしていくことが大切だ」と強調しました。
 英国でも移民の増大で人種主義や差別にからむ犯罪が相次ぎ、問題になっています。英ユダヤ教会のジョナソン・サックス博士はBBC放送で、「この日はユダヤ人のためだけではない。人種や宗教、信条の違いをこえ、自分と異なった他人の人間性を認めることによってのみ人間は人間たりえるのだということを再確認する日にしたい」と強調しました。

(01月07日『赤旗』) (Page/Top

矛盾の向こうに探るユートピア/没後5年ハイナー・ミュラーが語りかけるもの/市川明

 
 ブレヒトやベケットと並んで二十世紀最大の劇作家と称せられるハイナー・ミュラー。東ドイツの歴史を体現し、東ドイツの歴史とともに生きたミュラーは一九九五年十二月三十日、がんで亡くなっている。晩年はベルリーナー・アンサンブルの総監督、演出家として自作の上演に力を注ぎ、演劇界の期待を一身に背負っていただけに、その早すぎた死が惜しまれる。「ワイマール共和国、ファシズムの国家、そして東ドイツ、一度の人生で三度も国家の没落を見ることができたのは作家として幸せでした。ドイツ連邦共和国の没落は、おそらくもう体験できないでしょうが」。ミュラーは自伝にこう書き残し、世を去った。
 □■……□「お金万能」に
 九〇年夏に来日したとき、ミュラーは大阪の演劇人とのワークショップで「社会主義は私の夢だった。なぜならそれはお金が第一ではない世界だからだ」と述べた。東ドイツが「お金万能」の国でなかったことは事実で、貨幣は交換手段としての機能しか果たしていなかった。このことは統一前に通貨同盟が発足し、六千マルク(当時のレートで約五十万円)までは西ドイツマルクと一対一で交換できるという有利な条件(ふつうは十対一)が提示されても、その額に預金が達しなかったオシー(東ドイツ人)がたくさんいたことからも明らかである。彼らにはお金をためこむという習慣はなかったのである。ましてや株や土地の投機などは考えられないことだった。東ドイツマルクは、資産・資本の機能を持たない(しかも生活必需品には政府の援助金が内包された)いわば地域通貨・クーポンのようなものだったといえる。地域限定的な東ドイツマルクを、地域を越えて西ドイツマルクと競争させようとしたところに東ドイツ政府の大きな誤りがあったように思う。九〇年三月ドイツ劇場で『ハムレット/マシーン』がミュラー演出で上演されたとき、彼は「ハムレットの父の亡霊はスターリニズムではなく、ドイツ銀行だ」と述べた。忍び寄る「ジャーマ・ネー」の影をはっきりと彼は見ていたのだろう。一九五一年、革命家であったミュラーの父は西ドイツに去り、家族もその後を追うが、ミュラーだけが東ベルリンに残った。ミュラーがファシズムの対極としての東ドイツに大きな期待を寄せ、社会主義を選択したのも容易に理解できる。だが東ドイツを正当化するものが反ファシズムでしかなくなったとき、それは現実問題から目をそらさせる役割しか果たさなくなってしまった。ミュラーは八七年、国際作家会議の演説で「社会の不正を永久にヒトラーのせいにすることはできない」と語り、マルクス、レーニンに立ち返り、新しい道を探る必要性を説いている。彼は「資本主義にあったのは平等なき自由であり、一方社会主義にあったのは自由なき平等だった」と分析し、「今私たちに必要なのは西側諸国に擦り寄ることではなく、資本主義の対極にあるものを考え出すことだ」と述べている。ミュラー作品の西ドイツ批判(ヨーロッパ批判)も反ファシズムから次第に反文明という観点に移っていく。アドルノ、ホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』で述べた「文明批判」が、ミュラー作品のはしばしに表れる。ミュラーはマクドナルドに風穴をあけられ、コカ・コーラにおぼれ死ぬヨーロッパ、処理不能になったごみや放射性廃棄物をまき散らす「世界の尻(しり)」となったヨーロッパを鋭く批判し、「早くくたばれヨーロッパ」という。『ハムレットマシーン』の第一景は「ヨーロッパの廃虚」と名づけられ、『メデイア』改作劇の冒頭では、木が枯れ、魚が死に、糞(ふん)尿の山、コンドームとたばこの箱が散乱した黙示録的光景を現出させている。『拾い子』に現れる西ベルリンも「お金とコカ・コーラがあふれる町」なのである。
 □■……□前世紀を越え
 ミュラーが描こうとしたのは「現存社会主義」や「文明」社会の矛盾であり、それによって彼は観客にアンチモデルとしてのユートピアを探らせようとしている。複雑化した現実を見せるために、ミュラーは観客に一つの筋を追わせるのではなく、「一時には処理できそうにない多くのものを与え、選ばせようとする」。時間と空間が何の関連もなく交錯するドラマ、断片、夢や幻想シーン、引用・注釈などが組み合わされたテキスト、詩・散文・ドラマのクロスオーバー、モンタージュとコラージュ。ミュラーはまったく新しいドラマをヨーロッパ演劇界にもたらした。だが忘れてはならないのは、ミュラーのポストモダンは彼の思想や、彼が生き、格闘した東ドイツ抜きには語れないということである。「生涯矛盾を引きずり続けたまま」亡くなったミュラー。「勝者はいず、敗者だけが存在した」前世紀を越え、ミュラーは今『ハムレットマシーン』のオフィーリアのように、深海でじっと新しい歴史を待っているのかもしれない。(ミュラーが生きていれば七十二歳の誕生日=一月九日を前に)(大阪外国語大学教授、ドイツ文学)
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01月07日『赤旗』)(Page/Top

朝の風/希望ひらく哲学を

 
 雑誌『思想』の昨年十二月号(通巻九一九号)がニーチェ特集を組んでいる。没後百年ということもあるようだが、二十世紀前半にはナチスドイツが大いにもてはやしたこのニヒリズム(虚無主義)の哲学者の特集で、この雑誌が二十世紀の最後を締めくくることになっているところに現代イデオロギーの混迷が象徴されているように思われる。
 さすがにニーチェのエリート主義や貴族主義的な差別感情や「強者の道徳」など、ファシズムに利用された傾向を露骨に肯定・賛美する論調の影は薄いが、むしろニーチェのこの側面に触れることを回避しながら、ニーチェが近代文明の総否定をやっていることを意義あることのように取り上げる論稿が多い。
 ニーチェの近代文明の総否定とは、「何ものも真理ではない。全てが許されている」という発言に表現されているように、真理の認識可能性を否定する根深い不可知論あるいは相対主義に基づくもので、反科学・反理性・反哲学の傾向であり、その意味でのニヒリズムであるが、十九世紀の世紀末気分を色濃く反映したこの思想が、二十世紀の世紀末にも影を落としていることは見逃せないことだ。
 世界的な資本主義の行き詰まり、わが国の自公保政権の悪政のありさまをみていると、ニヒルな気持ちになる人がいるのも理解できないことではないが、新しい二十一世紀にはこの状況を打開して前進する希望の哲学こそふさわしいというべきであろう。(西)
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01月06日 『赤旗』)(Page/Top

シリ−ズ「21世紀の課題」/進展する東アジア協力

望まれる国際秩序の一つのあり方を示す
 二つの大戦、繰り返された侵略戦争、地域紛争、ファシズムとジェノサイド(大量虐殺)、環境破壊、植民地支配とその崩壊、民族と国家の分断と統一……。二十世紀は、こうした出来事を通じて民族の主権と独立、自由、平和、人権、民主主義、環境保護の大切さを人類に教えました。そして、資本主義の矛盾を明らかにしたのもこの世紀です。二十一世紀の人類の課題とは、これらの教訓を一つ一つ明らかにし、新たな希望と未来を現実のものにしてゆくことではないでしょうか。転換する世界とその課題をシリーズで追います。
 
発展格差や体制の違いのなかで
 二十世紀最後の年、二〇〇〇年に、東南アジア諸国連合(ASEAN)十カ国と日本、中国、韓国(ASEANプラス3)は外相会議の定期開催を決め、東アジア地域の協力関係を一歩前進させました。二十一世紀初頭の二〇〇一年には、「東アジア首脳会議」の制度化を展望した協力の枠組みを検討することにしています。
 推進力は、各国の独立・主権、非核兵器、紛争問題の平和解決、ともに助け合う経済協力などに集約されるASEANの経験です。「ベトナム戦争時代の対立を克服したASEANの進んだ経験は全アジアによい影響をあたえ」(テイ・シンガポール国際問題研究所長)、今世紀望まれる国際秩序に一つのあり方を示しています。
 もちろん、ASEAN十カ国の国内と各国間に利害の対立する問題があり、各国間の発展格差があります。人口五億の東南アジアと十数億の北東アジアとの間にも、発展格差があります。非同盟が基調の東南アジアにたいし、北東アジアには米国を盟主とする米日、米韓の軍事同盟が存在します。
 さらに東アジアには多くの民族、宗教が共存し、各国の体制も多様です。
 ASEAN流の協力の積み上げは、制度的には緩やかにみえます。
 
平和・自由・中立と非核、友好協力
 地域の現実に即したこうした取り組みかたとあわせ、ASEANの一連の基本文書には、今世紀の国家・国際関係、さらには国民間の関係にとって意味あるものが示されています。
 一九七一年の東南アジア平和自由中立地帯宣言は、アメリカのベトナム侵略戦争に加担させられた国もあるなか、大国の覇権主義にほんろうされない自主的な国づくりと協力関係を求めて策定されました。
 七六年の東南アジア友好協力条約は、アメリカのベトナム敗退後のアジア各国との関係改善を大きな狙いとしてつくられました。
 九五年の東南アジア非核兵器地帯条約には、核兵器の脅威、核保有国の圧力を退けて、平和な環境のもとで、発展と協力をはかろうとする決意がこめられています。
 ASEAN各国は、それぞれの立場を守りながらも、こうした一致点を確認しながら、各国が発展し、経済協力をすすめる実績を積み重ねてきました。そのうえに、友好協力条約への参加を域外国に呼びかけ、非核地帯条約の実効性の保証を核保有国に求めて、積極的な協力関係を広げようとしています。
 
朝鮮半島の情勢、中国の変化と呼応
 北東アジアには、朝鮮半島の平和と協調、自主的統一への劇的な動きが出てきました。ASEAN地域フォーラム(ARF)には、北朝鮮も加わりました。
 中国も、平和自由中立地帯宣言、友好協力条約への支持、非核地帯条約議定書署名の用意を表明し、「ASEANが主導的役割を果たす東アジアの対話と協力への支持」(朱鎔基首相)を明確にするようになりました。東南アジア諸国ではまだ、中国の核兵器と軍事力、興隆する経済力への警戒感を聞くことがあります。
 しかし、中国は南シナ海での領有権問題でも、「行動規範」の作成交渉に加わり、その一方で、平和解決を図る姿勢をはっきりさせています。こうした、最近の中国対外政策は、東アジア協力への新たな条件をつくりだしています。
 
どこを向くのか日本外交
 「日本との同盟関係強化」をうたうブッシュ次期米大統領のアジア政策は、近く明らかにされるでしょう。その中であらためて問われるのが、日米安保重視を強調する日本政府の外交姿勢です。
 「地域安全保障の構造がアメリカとの軍事同盟に依拠するものであってはならない」(スサストロ・インドネシア戦略国際問題研究センター所長)―東アジア諸国は、日本軍国主義の侵略、支配を受けた歴史を持ち、旧宗主国、帝国主義国からの侵略、干渉に抗して独立し、それぞれの国づくりをしてきた歴史を共有しています。その苦難に満ちた体験に根差して、軍事同盟によらない平和的な協力関係をこの地域に築きあげようとしています。
 かつてアジアを侵略した日本が、過去の反省を明確にし、このアジアの本流とともに力を尽くすのか、それとも日米軍事同盟中心にこの流れに逆らうのか―それは、二十一世紀の日本の進路を左右し、アジアの平和と安定の行方に大きく影響する選択です。(志村徹麿記者)(Page/Top

ASEAN賢人会議議長チン・テト・ユン氏に聞く

 中立・平和のアジアを/固い決意と情熱で前進
 ASEANをここまで発展させてきた第一の力は、中立、平和の地域をつくりだそうという創設者たちの固い決意であり、情熱でした。
 第二に重要なのは、加盟各国の内政問題への不干渉原則です。東ティモール、ミャンマー、ASEAN加盟前のカンボジアの問題などで不干渉の立場をとってきたことに批判もありました。しかし、この原則は各国相互に争う余地を少なくし、ASEANが平和な地域に存続し、多くの成功を収めてきた原則です。
 第三の要素は、例えば(ASEANの未来像を描いた「ASEANビジョン二〇二〇」を実現してゆく第一段階として二〇〇四年までの)ハノイ行動計画、メコン開発計画など、世界のこの地域の全般的経済発展のために協力してきたことです。
 以上がこれまでのASEANに成功をもたらした三つのエンジンだと思います。これからは、この三連エンジンだけでは不十分です。加盟国が十カ国になり、経済的格差、文化的違いなどが広がったからです。
 ですからASEAN賢人会議は、経済的、政治的側面だけでなく、社会的、文化的な面でも、各国の人々がもっと近しくなるための取り組みを提言しました。
 
「隣国同士が信頼しあう」
 ますますグローバル(地球規模)化する世界にあっても、地域協力は重要な役割を演じると思います。経済的統合、補い合う経済、「隣国同士信頼しあう」政策は、より広い地域協力の基盤としても有益ではないでしょうか。
 世界貿易機関(WTO)の高官が「そうした地域化は貿易自由化の義務履行に反する」とみる分析に、私は同意しません。実際には、世界のさまざまな地域が補い合い、より貧しい国々を助けることで、貿易自由化を助けているのです。例えば二〇〇〇年十一月のASEAN首脳会議議長国としてシンガポールはベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーを援助するイニシアチブをとりました。
 
平和保つため注意深く行動
 さらに、ASEANには幾つもの条約類がありますが、その中身を特定することには、非常に注意深くあたってきました。例えば東南アジア友好協力条約をふまえて予防外交の必要性が提起されるようになり、ASEANトロイカ(前、現、次期議長国による三者の協議体制)という構想がでてきました。ただ現段階で、このトロイカがどう機能するかを特定してはいません。言い換えれば柔軟性があります。
 西側はいつもASEANが適時、敏速に動かないと批判します。東南アジアは平和な地帯であり、平和を保つためには性急に動くことにたいして注意深くなければならないということを、理解していないのですね。
 
話しあいの道筋あれば
 ASEANはパラダイス(天国)ではなく、いろいろな二国間問題があります。しかし、地域全体にとって役立つことを話し合うASEAN首脳会議が、二国間の懸案で振り回されてはなりません。
 東アジアが自らの問題、とりわけ中台、朝鮮半島の問題を解決できれば、東アジア全体が二十一世紀に平和と繁栄の時代を迎えることができるでしょう。もちろん、さまざまな不測の事態があれば、まちがいなく東南アジアが影響を受けます。だから、ASEANは東アジア諸国の首脳会議を提起しました。ともに話し合うため、例えば北朝鮮と中国をASEAN地域フォーラム(ARF)に招きました。仲間づきあいの雰囲気を作り出し、そこには話し合いの道筋があります。話し合いと外交があれば、紛争の危険の余地が狭まります。
 各国は対等でなければなりません。ARFはASEANが設定し形成したフォーラムです。ASEAN各国は、他の参加国と対等なパートナーとして扱われ、ASEANが考えているやり方で対話を進めるように努力する必要があります。私たちはともに、平和自由中立地帯宣言(ZOPFAN)、東南アジア非核兵器地帯条約などASEANが決め、追求している方向を世界に提示すべきだからです。(シンガポールで志村徹麿記者)
 ASEAN各国ひとりずつの有識者から構成され、二〇〇〇年以降の活動提言をまとめた「ASEAN賢人会議」議長(シンガポール代表)。国立シンガポール大学法学部長。国会議員でもあり、米州関係議員グループ副会長。欧州、中東関係議員グループでも活動。

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インドネシア戦略国際問題研究センター所長ハジ・スサストロさん


 軍事同盟によらない安全保障/米軍事力は地域に適合していない
 
 インドネシアが直面している挑戦はきわめて大きい。変化と改革が人々の生活の全分野にわたっているからです。経済危機は一分野にすぎません。政治的、社会的転換、一元的で高度に中央集権的な国家構造をもっと地域的で自治的な構造に変えていくことが同時にすすんでいます。
 インドネシアは開かれた、かなり自由な国になり、報道の自由、政治的自由がもたらされた一方で、なお変化のさなかにあります。だから、いくらか混とんとしてみえることがあります。
 
新たな国づくりはじまっている
 わが国は長く権威主義的体制のもとにあり、とってかわる指導者が育つのを許しませんでした。したがって、民間人が政府を補う役割でイニシアチブを発揮する必要があります。
 この過程が成功裏にすすみ、広大なインドネシアがその多様さを生かすことができるなら、新たな世紀にすばらしい国になると私は確信しています。
 もちろん二十年後も、インドネシアは国内外からのさまざまな圧力に直面しながら、新たな独自のあり方をみいだそうとたたかっているでしょう。グローバリゼーション(経済の地球規模化)による社会の分裂、IT(情報技術)革命により地球規模の情報や市場にアクセスできる中産階級ととり残される他の社会の構成部分という分裂がつくりだされるでしょう。
 インドネシアは広大な国であり、拡大する格差を克服することはきわめて重要です。いまわが国は非中央集権化、自治などによって、そのための新たな機構をつくりだそうと試みはじめています。
 対外関係で、まず中国はいまのところ経済発展などよい方向にうごいています。しかし、まだどうなっていくかわからないという懸念があります。ひきつづき発展し続けるなら、この地域によい影響をあたえるでしょう。だから、私たちはより広い地域協力の枠組みで中国と共同してゆく必要があります。
 私の祖父母はジャワで日本軍支配の被害を経験しました。私の母が日本軍人の犠牲にならないよう、家のなかに閉じ込めておいたという話を聞かされたものです。たいへん不幸な時期でした。他方で、日本の占領支配が、官僚制度、軍などインドネシア近代国家の基礎をつくったことも事実です。オランダは既存の体制を通じて植民地支配をしていましたから。
 いま、日本は長引く経済停滞のなか、体制を改革できないでいる老いた国のようにみえます。もちろん、インドネシアが多くの援助を受けているこの地域の気前のよい国です。しかし、私たちは日本にダイナミズムを保持する力量があるのか懸念しています。
 日本はアメリカの単なる付属物だとみるものもいます。私は、日本が徐々に変化しているのではないかと思うのですが。すくなくとも日本の側に、独自の構造、見取り図、発想をもつためのアジアの構想と必要性に理解を示す動きがでていると。それでもまだ日本は指導性を発揮してはいません。
 
アメリカには依存できない
 アメリカは一方で、インドネシアにとってつねに不確実さをもたらす源でした。戦略的立場からひとびとは、アメリカをバランサーとみています。もちろん、アメリカはこの地域で唯一の超大国です。しかし私たちは、米軍事力がこの地域に適合しているとは思いません。この地域のさまざまな問題は、軍事的なやり方では解決できません。
 たしかにアメリカはこの地域の経済発展に重要な役割を演じています。ひとびとはアメリカを資本、技術、投資、そして発想の源とみています。しかし、インドネシアでは依然として、アメリカには依存できないという気持ちが非常に強いと思います。アメリカは地域問題への適法的な参加者ではありえても、われわれはアメリカを頼りにできないということです。
 インドネシアは、東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)を強く支持してきました。私たちは、地域安全保障の構造がアメリカとの二国間軍事同盟に依拠するものであってはならない、と考えています。米日、米韓等の軍事同盟はしばらくは必要なのかもしれませんが、私たちの地域は政治、安全保障問題を扱うみずからの地域構造をもたなければなりません。それは軍事同盟によらない多国間機構であって、発展させる困難はあるにせよ、われわれに必要なものだと確信しています。
 (インドネシア・バタム島で志村徹麿記者)
 日本軍に占領された戦時下の1945年4月、東部ジャワ生まれ。産後1時間で、かごにいれられ防空壕(ごう)に。63年から71年まで、西独で工学を学ぶ。帰国後、戦略研創設に加わる。74年から78年まで、米ランド研究所に派遣され、経済学を研究。帰国以来、戦略研に。

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タイ安全保障国際問題研究所長プラニー・ティラパットさん


 国民参加のASEANを/問題解決に軍事力は不要
 
 二〇〇〇年七月にバンコクで開催されたASEAN定期閣僚会議とASEAN地域フォーラム(ARF)の画期的な意義は、北朝鮮が初めてARFに参加したことです。ARFは安全保障にかんするフォーラムであり、安全保障にかんするアイデアや意見を交換する場です。南シナ海の問題を除けば、この地域の最大の問題は朝鮮半島問題でした。
 すでにARFに参加していた韓国に加えて、北朝鮮が加わったことで、朝鮮半島における平和創設のプロセスをARFに加えることができました。北朝鮮の参加で、アジア・太平洋地域のほぼすべての国の外相が一堂に会することになりました。それは、この地域の平和と安定にとってきわめて重要で象徴的なできごとでした。
 
戦略研と外相会議定期化など必要
 バンコクで初めてASEANプラス3(日中韓)の外相会議が開催され、ほぼ機構的に確立されたことは重要です。十一月にはシンガポールでASEANプラス3の非公式首脳会議も開催されました。
 ASEANプラス3の発足は、ASEANの経済回復にとっても、将来のASEAN経済にとっても必要なことです。しかし私たちが懸念しているのは、日中韓中心の3プラスASEANになることです。
 日本、中国、韓国の参加は、われわれの選択の幅を広げ、この地域にある別のパワーを与えてくれます。同時に各国と三国との個別の関係も重要であり、同時に促進すべきです。
 ASEANが克服すべき課題はもとからの加盟国とカンボジア、ラオス、ミャンマーなどの新規加盟国との格差です。情報技術(IT)にしても、その格差は歴然としています。
 十一月下旬にASEAN非公式首脳会議にあわせ、シンガポールに近いインドネシアのバタム島で各国の戦略研が中心になって、国民レベルの会議を初めて開催しました。非政府組織(NGO)や学界のメンバー約三百人が参加しました。インドネシアのワヒド大統領も参加しました。各国のすべての首脳に参加してほしかったのですが、実現しませんでした。
 この会議はASEANが各国政府に属するだけでなく、各国国民に属することを各国政府に示すために開催されました。
 定例の七月のASEAN外相会議のさい、戦略研とASEAN外相の会合がもたれていますが、年一回の会合ではきわめて不十分です。戦略研とASEAN外相の独自の会議を定期的に開催するほか、各国でも戦略研と外相の会合を開催すべきだと考えます。
 各国間の紛争や地域紛争の解決や防止に民間レベルの交流が大いに貢献できると思います。一月にバンコクで戦略研が主体となり、タイ政府、国連の協力も得て「民主化と紛争防止」をテーマにシンポジウムを開催します。
 平和と安定への役割を日本に期待
 ASEAN各国の国防費を見ると、たとえばタイは小火器や戦闘機を中心とした軍事力を強化しようとしています。シンガポールは国防費を削減したことがありません。ソ連崩壊後、この地域への特別の脅威は存在しません。なぜ各国が軍事力を強化するのか、私には理解できません。
 二十一世紀の脅威は、難民、麻薬などです。これらの解決に軍事力が必要とは思いません。対話の方がより重要です。
 二〇〇一年には、朝鮮半島の平和がさらに前進すると思います。唯一の問題は、在韓米軍の撤退問題です。ブッシュ次期政権がどのような政策を示すか、注目しています。もちろん中国の関与も重要です。
 朝鮮半島情勢よりも、南沙諸島問題をかかえる南シナ海の情勢の方が心配です。東南アジア非核兵器地帯条約の具体化を楽観していません。米政府などの核保有国が、みずからの手をしばる条約への関与をしぶるからです。
 日本には、第二次世界大戦や冷戦の時代の時のような軍事的な役割を減らし、この地域の平和と安定のための政治・安全保障上の役割を果たすよう期待します。
 (バンコクで鈴木勝比古記者)
 タイ国立チュラロンコン大学卒業後、オーストラリア国立大学(キャンベラ)、米国のプリンストン大学に留学。2000年2月、タイの安全保障国際問題研究所の所長に就任。

(
01月03日 『赤旗』)

 

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