2006年 ファシズム関連情報】

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2006年(ヘッドライン)

*                     朝の風/ヒトラー・ユーゲントと野蛮な大皿

*                     近畿の散歩道/異文化への誘惑/市川明/クロアチア、ブレヒト祭、北京、自由の女神

*                     文化/ヴィスコンティ生誕100年/1906−1976/「失われた時」の再現/矢島翠

*                     新しい国際労働組織結成へ/「国際労働組合総連合」来月ウィーンで大会

*                     仏共産党がユマニテ祭/大統領選を最大テーマに

*                     朝の風/ボローニャ市庁舎の外壁

*                     侵略戦争の歴史から何を学びとるか/歴史研究家・前参院議員吉岡吉典さんに聞く

*                     「ナチス親衛隊員だった」/ノーベル賞作家G・グラス氏告白

*                     憲法欧州調査に参加して/笠井衆院議員に聞く/イタリア/ポーランド・・

*                     国会ひととき/吉川春子/白バラはゾフィー・ショルに

*                     東南アジアで初の民主憲法=^ベトナム46年憲法/元司法相、当時を振り返る

*                     シネマ/Vフォー・ヴェンデッタ(米)

*                     日本共産党知りたい聞きたい/「白バラ」の学生とナチの裁判官はどうなったの?

*                     「新自由主義」とは何か/『経済』編集長友寄英隆さんにきく/13/ルーツ、反社会主義

*                     世紀を超えるブレヒト/市川明、木村英二、松本ヒロ子編/積極的評価と叙事的演劇の理論反映

*                     断面/ベン・シャーン展/鋭い権力批判/弱者に寄り添う情念

*                     朝の風/二十世紀のジャンヌ・ダルク

*                     映画「白バラの祈り―ゾフィー・ショル、最期の日々」マルク・ローテムント監督に聞く

*                     文化/「アウシュヴィッツ鎮魂」/迫害された音楽家の曲残したい/ピアニスト田隅靖子さん

*                     絵と私。根の在る処/フルイミエコ/絵は私に影響する

*                     ドイツで革命家追悼行事/社会保障後退に反対∞イランで戦争するな

*                     イラク戦争の終結は戦争廃絶の機運高める/歴史家ハワード・ジン氏が指摘

 

2006年(本文)(Page/Top

朝の風/ヒトラー・ユーゲントと野蛮な大皿

 八日付朝日新聞「写真が語る戦争」の「真珠湾への道」で、「ナチス青少年団、各地で大歓迎」の記事をみた。一九三八年晩夏から初秋にかけての来日。当時東北の小都市で小学校六年生だった筆者にも、駅頭でのヒトラー・ユーゲント歓迎集会に動員された覚えがある。事前に歓迎の歌を盛んに仕込まれた。
 「燦たり 輝くハーケン・クロイツ/ようこそ はるばる西なる盟友/いざ今まみえん 朝日に迎えて/われらぞ 東亜の青年日本/万歳! ヒトラー・ユーゲント /万歳! ナチス」
 作詞者は何と晩年五十三歳の北原白秋。「からたちの花」や「この道」「待ちぼうけ」など童謡でも高名な詩人。思想穏健と見られた人だ。
 前年七月、中国への全面戦争が始まり、十一月に日独伊防共協定締結、三八年五月には国家総動員法が施行された。翌々四〇年には日独伊三国同盟締結。かくて四一年十二月八日の無謀な対米英太平洋戦争となった。
 宮本百合子は敗戦直後「日本の社会と文化が…つまりは戦争遂行という野蛮な大皿に盛りつけられて、あちらこちらと侵略の道をもち運ばれなければならなかった」(歌声よ、おこれ)と書いた。
 ファシズムが世界史的断罪を受けて六十余年。十二月八日は突発事件ではなく、大戦争には助走の時代があった。今、平和憲法改悪の轆轤が回っている。焼きを待つのは野蛮な大皿では―。(陸)
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2006年12月19日,「赤旗」) (Page/Top

近畿の散歩道/異文化への誘惑/市川明/クロアチ、アブレヒト祭、万里の長城、移民

この夏、クロアチアのスプリットという町で二日ほど過ごしたとき、無性にサラエボに行ってみたくなった。いくつもの山を越え、バスに揺られて七時間、そこに戦禍の町があった。
 共同国家ユーゴスラビアが解体され、ボスニア・ヘルツェゴビナでもかつては平和に共存していたセルビア人、クロアチア人、ムスリム人が「民族浄化」の名のもと、領域拡大を求めて激しい戦いを繰り広げた。内戦は九二年から九五年まで続き、二十万の死者と二百万の難民を生み出したという。
 サラエボのスナイパー(狙撃兵)通りの建物には無数の弾痕があり、破壊されたままの建物も多い。国立図書館もその一つだ。九二年に砲撃で外壁を残して全焼、蔵書も灰となり、現在も復旧のめどが立っていない。
 夕暮れどき、墓地を訪れた。オリンピックスタジアムのサブグラウンドだった場所で、死者が多すぎて埋葬できず、ここを墓地にしたという。無数に突き出た白い墓標には、ほぼ同じ年が刻まれている。ベケットの「ゴドーを待ちながら」が上演されたとき、待てども現れないゴドーを人々は平和に見立てたという。
 美しいアーチ形の石橋を見るために、サラエボからバスでモスタルへ。ネレトバ川に架かるこの橋は、西側のクロアチア人と、東側のムスリム人の居住区を結ぶ重要な交通路だったが、九三年に内戦で落とされた。戦後、砕けて川底に沈んだ橋の石を拾い上げ、復元作業が始まった。完成したのは一昨年だ。
 モスタルとはボスニア語で「橋の守人」。今、人々は平和という、形のない宝を、橋のおかげで見ることができる。この橋は「平和の守人」であり、文字通り平和のかけ橋なのだ。

 今年はブレヒト没後五十年にあたる。ファシズムとたたかい、世界の変革を視野に入れて創作を続けたブレヒトをしのび、ベルリンでブレヒト祭が開催された。彼が創設したベルリーナー・アンサンブルを会場に、八月十二日から九月二日まで七十余りの催しが行われた。
 メインは演劇上演で、日本からは東京演劇アンサンブルが「ガリレオの生涯」で参加した。他の外国の劇団が大胆な改作や、視覚的な仕掛けで本家ベルリーナー・アンサンブルに挑んだのに対し、オーソドックスな演出で好感が持てた。
 十字架をかたどった細長い舞台でガリレオが、「英雄を必要とする国は不幸だ」と言うと、一瞬観客席が静まり返った。劇団とともに観客のレベルの高さを感じさせた上演だった。
 ブレヒトソングのコンサートも祭典を盛り上げた。ブレヒトの二千三百の詩のほとんどに曲がつけられている。「三文オペラ」の「マック・ザ・ナイフ」のようにロック、ジャズ、カンツォーネなど多様に受容され、それぞれの国で国民文化として定着したものもある。
 政治家と若手作家によるブレヒト詩の朗読会も面白かった。各人が好きな詩を選ぶのだが、政治家は亡命中の反ファシズム詩、若手作家は若いころのアナーキーな詩といったふうに傾向は二分された。
 各党のそうそうたるメンバーが登壇、ギジ(民主的社会主義党)がアドミラル・パラストで上演されている「三文オペラ」に対し、「銀行を批判した劇のスポンサーにドイツ銀行がなるなんて」とぶつと、聴衆が大いにわいた。
 「銀行強盗なんて銀行の設立に比べれば何のことはない」。盗賊メッキーのせりふが強烈に思い出された。

クロアチアのドブロブニクの旧市街は城壁で囲まれている。城壁の上は遊歩道になっていて、二`ほどで町を一周できる。外は紺ぺきの海が広がり、内はレンガ造りの建物が立ち並ぶ。「アドリア海の真珠」と呼ばれるだけあって、さすがに美しい。
 万里の長城もこんな感じなのかと思い、北京に降り立ったが、スケールが違った。英語の通じないこの国で、身振りを交えながらバスに乗り込み、高速を一時間余り揺られて目的地に着いた。
 そこには山の稜線を切り裂くように長城(グレート・ウォール)が何本も走っていた。紀元前数世紀に、北方の騎馬民族や他国の侵入に対して作られた防塁で、中国を統一した秦の始皇帝が一つにつなぎ合わせたという。数千`にも及ぶ文字通り「万里」の長城だ。
 カフカの小品「万里の長城」では、長城の建設作業の様子が描かれている。東西二つの班に分かれ、五百bの壁を五年かけて築き上げる。分担部分が完了すると、精も根も尽き果てた現場労働者はまったく別の地へと送られるという。
 カフカは石を積む工匠たちについて書く。「故郷から遠く離れた荒涼とした山岳地帯で(…)果てしなく続く労働の空しさ、生存中には完成しないかもしれないという不安、そういったものが彼らを絶望へと追いやり、廃人同様にしかねないのだ」
 無数の名もない労働者の奴隷労働の成果は、ベンヤミンの言うように「文化のドキュメントであると同時に、野蛮のドキュメント」でもある。遠く、アリのように長城を登り続ける観光客を目にしながら、ふと思った。

五月初旬、ニューヨークに滞在した。セントラル・パークでも、「自由の女神」像の島に渡るフェリー乗り場付近でも、デモの隊列に出会った。差別撤廃を求めて、移民が抗議行動を起こしているのだ。
 チャップリンの映画「移民」(一九一七年)を思い出した。自由の女神が近づき、船上の移民たちは歓喜の声を上げる。「自由の大地に着いた」(字幕)と。だが彼らはロープで仕切られ、隔離されてしまう。チャップリンはじめ、みんなの失望の顔…。
 ファシズムの時代、ブレヒトが最後に行き着いたのはアメリカだった。彼は「移民」という呼び名を嫌った。自分たちは自由な意志で移住したのではなく、追放された流浪の民なのだと言う。中国「残留」孤児ではなく、「棄民」だと言うのと同じ理屈だろう。
 トーマス・マンもアメリカに亡命したが、アメリカ国籍をとった。戦後すぐ、国会図書館での講演で彼は、ドイツ的な特色を表す人物としてルター、ビスマルク、ゲーテの名前を挙げている。マンがひかれたのは文豪ゲーテである。
 ゲーテは国粋的な狭さを憎み、時代や国境の区別なく、あらゆる偉大なものに深く共感し、あらゆる宗教に理解を示したからだと言う。ドイツは戦前、なぜゲーテ型の行き方を選ばなかったのか。そこには常に世界との和解の架け橋がありえたのに、とマンは嘆く。
 ニューヨークの魅力は「民族のるつぼ」と言われるほど多くの人種が共生し、多様な文化を花咲かせているところにある。だが九・一一以降、この国は国粋主義的な傾向を強め、それが自由で平和な文化の共存に暗い影を落としている。
 (大阪外国語大学教授)
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2006年11月11日,「赤旗」) (Page/Top

文化/ヴィスコンティ生誕100年/1906−1976/「失われた時」の再現/矢島翠

 ルキーノ・ヴィスコンティほどイタリアの(いや、世界の―といっていいかもしれない)映画監督のなかで、繰り返し回顧上映が組まれる人は稀(まれ)である。生誕百年にあたることしは、その種の上映のほか記念講演などの催しもある。一世紀前には想像もつかなかったようなあらゆる種類の映像の氾濫(はんらん)のなかで、彼がのこした、時には時代錯誤とみえるほど重々しく、豪奢(ごうしゃ)な画面に、いまも私たちを惹(ひ)きつけるものは何だろう。
 ヴィスコンティは、三十四年間の創作活動で十八本の映画をつくった。うちドキュメンタリーが一本、オムニバス映画中のエピソードが三本。監督本数として特に多い方ではないが、並行して数の上では映画を上回る演劇とオペラ(マリア・カラスと組んだ公演で有名)の演出があったことを、忘れてはならないだろう。イタリアでは舞台演出の評価に「劇場革命」という表現さえ使われており、映画と合わせて三つの分野で画期的なしごとを果たした人は、まさに二〇世紀のマエストロ(巨匠)の名にふさわしかった。

名門貴族
 名門貴族の生まれ。二〇世紀初頭のヨーロッパのエリート文化のなかで成長。第二次大戦下に反ファシズムの若い映画人らと知り合い、彼らの協力を得てネオリアリズムの原点となった第一作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」を世に送る。こうした映画作りは必然的にレジスタンス活動につながった。続いて戦後、当時のイタリア共産党の資金援助をうけてシチリアの漁村で撮影した「揺れる大地」については、監督自身、こう断言している。
 「イタリア映画史上最もネオリアリズム的な、最も真実に近い作品。そしてその最後の映画でもある」
 中期の大作「山猫」以後、「地獄に堕ちた勇者ども」「ベニスに死す」「ルートヴィヒ」の〈ドイツ三部作〉を経て晩年に向かうヴィスコンティは、対象を母国イタリアにかぎらず、共通する文化でむすばれていたヨーロッパの過去を再現する作業に驚くべき情熱を傾けた。目に見えるままの現在のなかに土地の人びとを立たせ、彼ら自身のからだとことばで表現させた「揺れる大地」から一転して、〈失われた時〉の感触を細部にわたってよみがえらせようとした。

完璧主義
 偏執的な、といわれるほどのこだわりは、しばしば、十九世紀の小説―たとえばバルザック―の描写のように、息苦しさを感じさせずにはいない。ヌーヴェルヴァーグの世代からはじまった気ままな、軽快な映画のフットワークに慣れ、さらにCG等の技術で一足飛びに過去にはいることを知った今日の観客にとっては、ヴィスコンティの手続きの完璧(かんぺき)主義はわずらわしく思えるだろう。しかし織り目の密な意匠のなかからやがてたしかに、失われた時代と人びとが立ち現れるとき、私たちは二〇世紀をふり返る気持ちになる。小説の描写から身をひき離そうとするあまり、映像表現はますます安易な急ぎ足になってきたのではないか―と。
 ヴィスコンティの後期の主人公たちはつねに敗北者であり、没落する階級を体現していた。彼が車イスに乗って演出し、遺作となった「イノセント」では、二〇世紀初頭の大ブルジョワジーの男が主人公。彼は妻が自分を裏切って愛人とのあいだにもうけた赤ん坊を、直接には手を下さずに、しかし、寒風にさらして殺すのである。他の敗北者たちと違って、品位にも、誇りにも欠けた弱者なのだ。
 それは「揺れる大地」で網元に反逆して敗れた若い漁夫がふたたび裸一貫となって出漁するとき、ギリシャ悲劇の英雄のように描かれていたのとは対照的である。ヨーロッパの近現代史をたどったしごとの果ての監督の絶望を、そこに読み取るべきだろうか。
 (やじまみどり翻訳・評論家)
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2006年10月29日,「赤旗」) (Page/Top

新しい国際労働組織結成へ/「国際労働組合総連合」来月ウィーンで大会

 十一月一―三日、新しい国際労働組織、国際労働組合総連合(ITUC、略称ユニオン・インターナショナル)の結成大会がウィーンで開催されます。新組織は、国際自由労連(ICFTU)と国際労連(WCL)がそれぞれ解散したあと、両組織に加盟するナショナルセンターによって新たに結成されるもの。世界百六十カ国三百八十のナショナルセンターを組織し、約一億七千万人の組合員を擁する、実質的に世界最大の国際労働組織の誕生となります。

「反共主義条項」削除した規約に
 戦後の国際労働組合運動は、一九四五年十月の世界労連(WFTU)結成とともに始まりました。その後、共産主義とファシズムを同列視し「あらゆる全体主義に反対」という表現で反共主義を掲げて世界労連を分裂させ、一九四九年に結成されたのが国際自由労連でした。ところが、この反共主義をめぐって、国際自由労連の内部では五〇年代以降、内部対立が繰り返されてきました。
 また、キリスト教の社会原則を基礎に結成された国際労連も、特定の宗教を掲げることが組織拡大の妨げになったため、六八年になって、宗教的イデオロギーを排除し、その名称からも「キリスト教」を削除し、今日の国際労連へと改称しました。
 ユニオン・インターナショナルは、国際自由労連が結成以来掲げてきた「反共主義条項」を削除した、新しい規約を採択する予定になっています。

グローバル化と職場のたたかい
 「新自由主義」路線に基づく経済のグローバル化は、格差と貧困の拡大、失業と非正規労働者の増大、人権と労働組合権の侵害など、労働者と国民に大きな社会的犠牲を押し付けています。こうした攻撃に対して、職場からのたたかいで反撃し、労働条件の改善など具体的な要求実現に向け奮闘することが、労働組合に求められます。
 ユニオン・インターナショナルがどのような運動を展開するのか、また、世界労連や、いずれの国際組織にも加盟しない労働組合との連帯と共同をどう前進させるのか、注目されます。
 (筒井晴彦 党国民運動委員会)
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2006年10月25日,「赤旗」) (Page/Top

仏共産党がユマニテ祭/大統領選を最大テーマに

 【パリ=浅田信幸】フランス共産党紙のユマニテ祭が十五日から三日間にわたってパリ近郊で開かれ、のべ五十万人が参加しました。来春に実施される大統領選挙が最大のテーマとなり、最終日・十七日の閉会集会でビュフェ全国書記(党首)は、「可能な限り広範な、新自由主義に反対する人民の連合」を呼びかけました。
 ビュフェ氏は、二大政党制の論理に抗して、「大志もなく、社会自由主義や保守に流される候補者を拒否する」「人民的左翼勢力に抗議の役回りだけを押し付けることは容認しない」と強調。昨年、欧州憲法の批准を否決させた活動を念頭に「われわれは多数派だが、それには結集が必要だ」と訴えました。
 共産党、革命的共産主義者同盟、非政府組織(NGO)のATTAC(市民を支援するために金融取引への課税を求めるアソシエーション)など、「左翼の中の左翼」を標ぼうし、新自由主義反対を共通課題に掲げる勢力は、今月十一日に共同選挙綱領案で合意しました。その批准を待って統一候補を押し立てる構えであり、ビュフェ氏は最有力候補の一人にあげられています。
 今年は反ファシズム人民戦線政府樹立七十周年、スペイン市民戦争勃発(ぼっぱつ)七十周年にあたります。祭典では、これらをテーマにした写真展、記録フィルムの上映、討論会が組織され、書籍市でも特設コーナーが設けられました。
 祭典には六十四カ国の八十四党の代表や大使館員ら約百五十人の外国来賓が参加。日本共産党を代表して記者(浅田)が参加しました。
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2006年09月19日,「赤旗」) (Page/Top

朝の風/ボローニャ市庁舎の外壁

 ゲーテ『イタリア紀行』(岩波文庫)と和辻哲郎『イタリア古寺巡礼』(同)をカバンに入れて、八月のイタリアを旅した。印象深い都市は多いが、古都ボローニャは忘れられない。
 エミリア・ロマーニャ州の州都であるこの街は、ヨーロッパ最古の大学の一つボローニャ大学の誕生の地で、第二次大戦後一九四五年以来、共産党員市長がつづいた革新自治体として有名で、中央駅前から出ている何本かの大通りの一つが、イタリア共産党の創立者で書記長だったアントニオ・グラムシの名を冠したグラムシ通りである。
 もっとも私は「イタリアの街路に、ダンテやミケランジェロとともにグラムシの名があたえられるのはイタリア的慣習であるにしても、どんな時代になろうと、日本の街路に著名人の名がつけられるのは私は好まない」(『グラムシへの旅―現代イタリア紀行』大月書店)と記した故島田豊氏に同感するものだが。
 私の見たかったのは、市街の中心ネプチューン広場に面した市庁舎の外壁である。そこには、「ボローニャ・一九四三年九月八日〜一九四五年四月二五日」という日付と、反ファシズム・レジスタンスのたたかいに生命を捧げた老若男女、一人一人の名前と肖像写真が張りつけられてあるのだ。
 この市庁舎の外壁の前に立ち、「靖国」との違いを思い、あらためて戦没者追悼の意味を考えたことだった。(印)
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2006年09月06日,「赤旗」) (Page/Top

侵略戦争の歴史から何を学びとるか/歴史研究家・前参院議員吉岡吉典さんに聞く

 今年七月、中国の清華大学で「日本を破滅に導いた日本軍国主義のアジア侵略とアジア認識」と題して講演した歴史研究家の吉岡吉典さん(日本共産党前参院議員)に話を聞きました。
 私は、明治以来の日本の侵略戦争からいかなる教訓を学び取るかをテーマに話してきました。中国で強調したのは、三つの点です。

アジアを蔑視
 一つは、明治以来の戦争が日本に大国主義、アジア蔑視(べっし)、欧米崇拝をもたらしたという点です。
 明治政府は、欧米に強制された不平等条約の改正という当時の外交課題を、アジアとの連帯ではなく、「脱亜入欧」の路線によって実現しようとしました。おくれたアジア諸国を見捨てて、欧米並みに植民地を保有する「一等国」になることによって実現しようということです。そのために、@アジアでの戦争に勝利するA領土拡張、植民地保有をめざすB不平等条約をアジア諸国におしつける―というやり方をとりました。日朝修好条規(一八七六年)につづいて、日清戦争後、中国に「下関講和条約」で、それまであった平等条約を消滅させて、「現に清国と欧州各国との間に存在する諸条約章程を以て該日清両国間諸条約の基礎と為すべし」と規定し、日清通商航海条約(一八九六年)で税制上、裁判上、欧米と同じ権利を認めさせました。

破滅的戦争へ
 二つ目は、こういう大国主義とアジア蔑視が日本に世界とアジアの変化を見えなくさせ破滅的な戦争へとつきすすんだことです。
 みぞうの惨害をもたらした第一次世界大戦後、世界は大きく変化していました。国際法上の戦争違法化の第一歩を踏み出し、レーニンやウィルソンが提唱した民族自決≠フ考え方が世界に大きな影響を与え、アジアでも民族解放運動の高揚が起きました。
 第一次世界大戦後のパリ講和会議に参加した中国も、大戦中に日本から強要された政治、経済、軍事の「二十一カ条要求」など侵略政策をきびしく糾弾しました。日本は完全に孤立無援となり、「平和会議からの脱退さえも考えたほど」(上村伸一著『日本外交史17 中国ナショナリズムと日華関係の展開』)孤立しました。
 結局、日本は欧州列強との「密約」をたてに要求を押し通しますが、そのことが中国で「五・四運動」の引きがねとなり、中国人民のたたかいが大きく発展する一方、「(欧米)列国の日本に対する猜疑(さいぎ)を深める結果になった」(前掲書)のです。
 大国主義とアジア蔑視にとらわれて大局的判断を誤ったことがどんなに悲劇的事態を招いたかを示したのが、日中戦争であり、太平洋戦争でした。

戦後の出発点
 三つ目は、戦後日本はこれらの歴史の教訓をいかしたかについてです。いかしていないから、靖国神社問題などがおきるのです。日本が起こしたアジア太平洋戦争は、第一次世界大戦後の世界の発展に背を向けた歴史に逆らう反動的な戦争、ファシズム・軍国主義の戦争でした。
 だから、米英中ソなどの連合国だけでなく、世界の反ファシズム勢力が力を出し尽くしてたたかいました。ドイツやイタリアの反ファシズム運動もその一部を構成したし、平和と民主主義を掲げた日本共産党の侵略戦争反対のたたかいもその一翼を担いました。
 戦後の世界の出発点が反ファシズム、反軍国主義であり、それが国連憲章にまとめられ、ポツダム宣言に反映しました。終戦六十一年にあたって、この戦後の原点の意味を再確認することが重要ではないでしょうか。
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2006年08月16日,「赤旗」)

「ナチス親衛隊員だった」/ノーベル賞作家G・グラス氏告白

 【ベルリン=時事】「ブリキの太鼓」などの作品でドイツ現代文学を代表するノーベル賞作家、ギュンター・グラス氏(78)が十二日付のドイツ紙フランクフルター・アルゲマイネとのインタビューで、十七歳だった第二次大戦末期、ナチス親衛隊員になっていたことを初めて告白しました。
 ナチス親衛隊は総統ヒトラーの独裁を支え、第二次大戦中の戦争犯罪の主体となっていた武装組織。グラス氏は反ファシズムと反戦の立場から、自身の戦争体験を赤裸々に語ることで知られていますが、親衛隊員だったことは隠し通していたことになります。
 同紙とのインタビューでグラス氏は「十五歳の時に潜水艦Uボートの乗組員に志願したが、拒否され、十七歳で親衛隊に入り、戦車師団に配属された」と打ち明けました。親衛隊に入隊した動機については「親から逃げたかった」と説明。今になって告白した理由として、「今こそ話さなければならないと思った」と語りました。
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2006年08月13日,「赤旗」) (Page/Top

憲法欧州調査に参加して/笠井衆院議員に聞く

 七月十六日から行われた衆院憲法調査特別委員会の海外派遣(欧州各国憲法及び国民投票制度調査団)に参加した日本共産党の笠井亮議員に話を聞きました。
 今回の視察で私はポーランドとイタリアを訪れました。訪問先では、国民は憲法にどう向き合っているのかという点に問題意識を持ちながら話を聞いてきました。大変参考になる話も聞けたし、日本共産党や「九条の会」にまつわる面白いエピソードもありました。

独裁時代の反省
 イタリアは六月末、戦後の憲法の大本を変えるような大幅な改憲案についての国民投票が行われ、大差で否決したばかりでした。
 その余韻がまだ残る中、与党・野党はじめ大学教授、憲法裁判所長官など多くの方に話を聞くことができました。
 今のイタリア憲法は一九四八年に施行されたもので、ムソリーニ独裁政権時代の反省に基づき、首相への権限集中を改める反ファシズム的な内容をもっています。ところが昨年秋に当時の与党・ベルルスコーニ政権が出した改憲案は、首相権限を強化し、議会の力を縮小するもので、憲法第二部「共和国の組織」の大部分を書き換える内容でした。国民の間には危機感が広がったといいます。
 国民投票は、改憲案を出した与党・ベルルスコーニ政権が四月に行われた総選挙で敗れるという政治的激動の直後に行われました。
 与党となったプローディ首相率いる与党連合は労組・民主団体とともに「憲法を守ろう委員会」をつくり、「首相権限の強化は戦前への逆戻り」「国民サービス切り捨ては許さない」というキャンペーンを展開しました。野党となった右派連合はベルルスコーニ前首相を先頭に、賛成投票を呼びかける委員会をつくり宣伝しました。
 結局、有権者の半数を超える53・6%が投票し、反対61・7%、賛成が38・5%と大差で否決されました。衝撃をもって受けとめられたといいます。
 最初に懇談したキーティ議会関係制度改革大臣の話は印象的でした。

議会の外で議論
 「イタリア国民は現行憲法を基本原則にしていくという選択をした。情勢に合わせて改憲することはありうるが、五十項目という広範囲の改憲に国民のコンセンサス(合意)はないことを示した」
 「憲法改正については、議会の外で、文化人や、社会的レベルで忍耐強く広く議論されることが大事で、それが憲法問題での広い合意形成につながる」
 戦争の反省を踏まえたという点で日本の憲法と共通点があるのですが、憲法を大本から変えてしまうような改憲案にイタリア国民が「ノー」の審判を下したことに、私は深い感銘を覚えました。
 仮に議会で改憲派が多数を占めても、国民的な議論によってはこういう結果を示す――。日本で各地に広がる「九条の会」の取り組みに思いをはせ、私は草の根運動の広がりとその力に確信を強くしました。
 ヴィオランテ下院憲法委員会委員長と議会内の憲法委員会室で懇談する機会を得ました。
 私が自己紹介するとヴィオランテ氏は、「私も元共産党員。あなたとは共通するものがある」と笑顔を見せました。
 ヴィオランテ氏は、イタリア憲法には侵略戦争を放棄する規定(一一条)があると説明。総選挙の後、現政権は、イラクでの戦争は国際法に反した戦争であり、イラク派兵は侵略への加担になるとして撤退を決めたと話してくれました。
ポーランドでは、「いかなる場合に国民が憲法改正を必要とするのか」ということについて改めて深く考えさせられました。

専制支配の崩壊
 ポーランドは一九九七年に新しい憲法をつくったのですが、懇談の中で、多くの方から「ポーランドは一七九一年、ヨーロッパで最初に憲法を作った国だが、そういう国がヨーロッパで最後に新憲法を決議した」と聞かされました。
 それはなぜかと尋ねると「一九八九年に政治体制が変わったからだ」というのです。
 八九年から九一年にかけて一連のソ連・東欧の激変が起こり、社会主義を名乗ってきた専制・覇権の支配体制が崩壊しました。国民が新たな国づくりをするという流れの中で新憲法ができた。体制の転換を国民自らが選択し、新憲法をつくったということです。
 ひるがえって日本を見ると、自民党が新憲法草案をつくり、憲法を大本から変える動きを強めています。しかし、日本では体制の大きな転換があるのでもなく、国民がそれを求めるという内発的な要請もない。私はアメリカの要求と、それに従属・追随する勢力によって民意と離れて改憲がたくらまれている日本の姿を考えさせられました。
 一連の調査・懇談の中で、一九九〇年代の体制転換と新憲法制定にかかわって役割を果たしたマゾビエツキ元首相、ゲレメク元外相、ボルセビッチ上院議長などと食事をしながら懇談したときのことです。
 私が「日本共産党」を名乗ると、かつて社会主義を名乗っていたソ連言いなりの政権にひどい目にあった経験からか、ポーランド側参加者は最初は引き気味≠ナした。
 ポーランド憲法一三条には「自己の綱領においてナチズム、ファシズム及び共産主義の活動の全体主義的方法及び実践に訴える政党その他の団体の存在は…禁じられる」と書いてあるほどです。
 私は、その憲法の規定にかけて「日本共産党のような政党はポーランドで活動できるだろうか」と問いかけ、「私たちはソ連覇権主義とたたかってきた自主独立と民主主義の党だ」と説明しました。すると、「そういう民主的な共産党ならOKだ」という回答があり、一変して打ち解けた雰囲気に変わりました。
 「日本は軍国主義になるか」「北方領土問題をどう見るか」などの質問が次々寄せられ、私は日米同盟に基づく軍国化の危険やスターリン時代の領土拡張主義の清算の重要性を説明しました。ゲレメク元外相は「今日はとても面白かった」と感想を語りました。

九条の会が話題
 憲法九条が話題になる中で、中山太郎・憲法調査特別委員長(自民)が「日本には大江健三郎さんらが呼びかけた『九条の会』が全国にできている」と紹介したのです。ポーランド人の通訳の方が、中山氏の言葉を訳そうとして中山氏に「それは九条を守る会ですか、それとも九条改正を求める会ですか?」と質問したのですが、これには与野党の参加議員が爆笑してしまいました。

ポーランドもイタリアも改憲の国民投票法がすでに存在している国です。その中身を知る中で、日本の改憲派の党利党略ぶりを改めて実感しました。

議席数に応じて
 私たちは先の通常国会で改憲手続き法案の中身の問題について、与党案でも民主党案でも改憲案を通しやすくする仕組みが貫かれていると批判してきました。
 例えば、所属議員の数に応じて新聞や放送が無料で利用できるとされています。改憲発議には三分の二以上の賛成が必要とされている以上、改憲に賛成した政党が圧倒的に有利に大キャンペーンができる仕組みといえます。
 ところが、イタリアでは、そういう党利党略的な、改憲を通しやすくするような仕組みにはまったくなっていません。
 国民投票にかんして賛成・反対の運動を行う個人・団体は、「通信における権利保障独立委員会」に届け出ることが義務付けられています。テレビ・ラジオの討論番組や意見広告の放送では、届け出た賛成派・反対派に均等な放送時間の確保が義務付けられています。それから新聞広告も同様の規定になっています。議席数に応じて利用できるなどという仕組みはあり得ません。
 個人、政党、労組も届け出できるのですが、実際には賛成派・反対派がそれぞれグループをつくって広告を出し、それぞれが半分ずつスペースを取るのだそうです。

平等が当たり前
 こういうルールの根拠について尋ねると、イタリア内務省の選挙部の担当者らは「それはなぜかというまでもなく、当たり前のことだ」という口ぶりでした。
 ポーランドや今回私が訪問できなかったデンマークでも、改憲案にかんする周知・広報活動における新聞や放送の利用にかんして、「所属議員数に応じた利用」などという規定はなく、政党は平等に、賛否意見は平等に扱われるというのが原則とされています。
 この点で、日本でいま出されている法案のよこしまさ、反民主性というものを改めて強く感じました。
 それぞれの国の憲法は成り立ちや経過などさまざまな違いがあるのですが、秋の臨時国会へ向けて、大いに参考にすべき興味深い中身をつかむことができたと感じています。
 同時に、自民、民主、公明など改憲を目指す政党からの参加者は、秋の臨時国会で与野党合意による改憲手続き法の成立に向けて、どうすれば政党間での合意形成ができるか、その参考になることは何かをつかみ取ろうとしているようでした。彼らの改憲への執念を感じた旅でもありました。

( 2006年08月09日,「赤旗」) (Page/Top

国会ひととき/吉川春子/白バラはゾフィー・ショルに

 ドイツで第十八回サッカー・ワールドカップがスタートしました。私は二〇〇二年、埼玉スタジアムでのイングランド・スウェーデン戦を思い出しました。試合は1対1で引き分け、熱烈でしかし、上品な応援、成熟した観客の態度、そして初めて生の(!)ベッカム選手を見た感激を思い出します。
 その年の秋、私は単身で「慰安婦」問題調査のためにオランダに行ったとき、随行した二男の要望で、ロッテルダムで小野伸二選手(今回も代表選手)の所属チームの練習を見学。小野選手は快く息子とのツーショットに応じてくれました。
 九日に開会式がおこなわれるミュンヘンは、実話に基づいた映画「白バラの祈り―ゾフィー・ショル、最期の日々」の舞台になった街です。
 一九四三年二月、二十三歳の彼女はミュンヘン大学構内で医学生の兄と反ナチのビラをまき、ゲシュタポに逮捕され数日後には死刑の判決、即日処刑されました。看守の厚意で一本のたばこを三人で吸って、最後に抱き合うシーン。ファシズムへの怒りがこみあげてきます。学生たちによる白バラの抵抗はドイツ人の誇りです。私たち日本人の誇り、教育基本法も憲法も改悪させてはなりません。
 今月四日、前橋市で群馬県商工団体連合会の総会でのあいさつを終え、利根川のほとりのバラ園に立ち寄りました。マリア・カラス、アンネ・フランクなどと命名された大輪のバラが咲き乱れるなか、白バラはゾフィー・ショルにささげたいと思ったことです。
 (参院議員)
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2006年06月10日,「赤旗」) (Page/Top

東南アジアで初の民主憲法=^ベトナム46年憲法/元司法相、当時を振り返る

 ベトナムが独立後、初めて制定したベトナム民主共和国憲法(一九四六年十一月九日公布)が今年、六十周年を迎えます。その後、五九年、八〇年、九二年、二〇〇二年に改定され、現在のベトナム社会主義共和国憲法となりました。ベトナム初の憲法制定に携わった当時の司法相ブー・ディン・ホエ氏(94)をハノイの自宅に訪ねて、憲法制定に関する思いを聞きました。
 (ハノイ=鈴木勝比古 写真も)
 「当時の東南アジアで初めて主権在民をうたった民主的な憲法でした」―三十三歳の若さで司法相に就任して、憲法草案の審議、公布にたずさわったホエ氏は誇らしげに語りました。
 ホエ氏は日本軍の占領に協力的と見られた雑誌『タインギ』の編集長でした。ホー・チ・ミン国家主席はホエ氏の経歴を問わず、最初、教育相に抜てきし、次いで司法相に指名したといいます。
 当時はインドも独立していません。インドの憲法制定は四九年十一月です。主権在民、戦争放棄をうたった日本国憲法の公布は四六年十一月三日。ベトナムの憲法制定の六日前です。
 「ホー主席は独立以前から独立宣言と憲法制定を準備していました。憲法草案の基礎になったベトナム独立宣言はアメリカの独立宣言を引用しています。ホー主席は独立直前に米軍と連絡を取り、アメリカ独立宣言をパラシュートで根拠地に投下してもらったのです」
 当時のアメリカはファシズムとたたかう連合国の一員として日本の憲法やベトナムの独立宣言作成に協力しました。
 憲法制定のベトナム国会は四六年十月二十八日に開会しました。「国会はフランスの再侵略を控えて緊迫した情勢の下で、短時間ですが大いに民主的に討議し、憲法を採択しました。ホー主席はフランスとの交渉を通じて独立を認めさせようとしていました。ホー主席は独立国家の要となる憲法の制定、しかもフランスが文句を付けようのない民主憲法の制定をめざしたのです」
 「国家のすべての権力はベトナム全人民のものである」(第一条)とうたい、「言論の自由、出版の自由、集会・結社の自由、信仰の自由、居住、国内の移動、出国の自由」(第十条)を認めた民主的憲法制定の背景です。
 フランスはベトナムの独立を認めませんでした。ベトナムは憲法公布直後の四六年十二月にはフランスとの全面的な抗戦に突入したため、この憲法の施行は大きな制約を受けましたが、「四六年憲法の基本的精神は現在の憲法にも受け継がれています」とホエ氏は語りました。
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2006年05月07日,「赤旗」) (Page/Top

シネマ/Vフォー・ヴェンデッタ(米)

 近未来の独裁国家を描いた「マトリックス」グループの新作です。ジェイムズ・マクティーグ監督。132分。
 第3次世界大戦後の絶対恐怖支配のロンドン。仮面の男V(ヒューゴ・ウィービング)が現れ、秘密警察からイヴィー(ナタリー・ポートマン)を救います。さらにTV局をジャックしたVは―。
 ファシズム政治下の英国がすさまじい。異端者は排除され、独裁者はテレビ画面から絶対服従を国民に命令します。仮面をかぶった民衆が市内を埋めつくすシーンに胸が高鳴ります。自由を勝ち取る強さを訴えかけた強烈な政治風刺映画です。
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2006年04月23日,「赤旗」) (Page/Top

日本共産党知りたい聞きたい/「白バラ」の学生とナチの裁判官はどうなったの?

 〈問い〉 映画「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」をみて胸がつぶれる思いでした。「白バラ」グループの学生は戦後、「裏切り者扱い」で判決が取り消されたのはずっとあとだったというのは本当ですか? 死刑判決をくだした裁判官らは戦後どうなったのですか?(千葉・一読者)
 〈答え〉 ナチ抵抗グループ「白バラ」の学生たちは、ミュンヘン、ウルム、ハンブルク、フライブルクなどで活動。このうちミュンヘンのルードウィヒ・マキシミリアン大学の学生6人が処刑されました。
 ゾフィー・ショルなど数百人に過酷な死刑判決を下した裁判官ローラント・フライスラーは、1945年2月3日、ベルリン空爆で死亡しました。しかし、同僚のハンス・ヨアヒム・レーゼは1968年12月、「国民裁判所(ナチの政治裁判所)の裁判官としての職務を法と良心に基づいて正常に果たした」として無罪判決を受けます。
 戦後、多くのナチの裁判官が職に残り、殺人や組織的拷問にも「上官の命令に従っただけだ」と減刑されたり、「反ユダヤ主義の狂気にとりつかれたのであり、罪はそのように教育した者にある」と免責されたりしました。
 背景にはドイツでの不十分な非ナチ化があります。
 ドイツでも戦後、労組や労働者政党が反ファシズムの声をあげました。しかし、米国などは西独をソ連と敵対させるため、元ナチスのエリートを復権させます。アデナウアー政権がナチ高官受け入れを決定し、その後、西独政府は1965年までに100人の将校、828人の検察や裁判官など法関係者、21人の高級官僚、245人の外交官、297人の高級警察官僚を復職させます。
 雰囲気を変えたのが63年からのアウシュビッツ裁判など一連のホロコースト裁判や68年前後の学生たちの運動でした。
 学生たちは「祖父や父はナチの時代に何をしたのか」「ドイツの過去の責任を認めよう」と父親世代に問いかけました。
 レジスタンスの闘士だったブラント首相が69年に首相になったことは抵抗闘争への評価にとって決定的でした。80年代にはナチの被害にあったレジスタンス活動家に補償金が支給されました。
 法的には戦後「白バラ」の関係者にはナチの裁判結果が有効とされ、大学への復学も許されませんでした。
 しかし、82年に映画「白バラは死なず」(ミハエル・フェルヘーベン監督)が公開され、抵抗運動活動家に対する有罪判決がいまだに有効であると訴えたことが反響を呼びました。
 連邦議会議員と結んだ粘り強い市民運動で95年に判決は無効とされました。(片)
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2006年04月20日,「赤旗」) (Page/Top

「新自由主義」とは何か/『経済』編集長友寄英隆さんにきく/13/ルーツ、反社会主義


ソ連崩壊を追い風に
 ――シカゴ学派のような「新自由主義」経済理論が国際的に勢いを増した背景の一つにソ連崩壊があったとは、どういうことですか。
 友寄 第十一回にかかげた系統図を見ていただくとわかりますが、シカゴ学派の系譜をさかのぼると、一九四〇年代から六〇年代にかけて、ケインズ派との論争で中心的役割を果たしていたのはF・A・ハイエクとM・フリードマンでした。
 ハイエクは、もともとはオーストリア生まれで、欧州のウィーンやロンドンで理論活動をしていたのですが、一九四七年に「新自由主義」の世界的な団体であるモンペルラン協会なるものを創立し、初代会長として影響力を広げていました。その後、一九五〇年にシカゴ大に招かれ、フリードマンとともに、文字通りシカゴ学派を「新自由主義」の牙城にしていきました。

◆「計画経済」批判
 ――ハイエクという名前は、反共主義・反社会主義の思想家として知られていますね。
 友寄 ハイエクの主著の一つに『隷従への道』(一九四四年刊)があります。これは、直接には当時のドイツのファシズムとソ連の「計画経済」を批判するために書かれたものでしたが、一般的な理論としても、社会主義は人間性を踏みにじる「奴隷の社会」に行き着くと激しく攻撃し、そうならないためには、資本主義の「市場原理」と「自由主義」を厳格に守らねばならないと主張しています。もちろん、われわれの立場からいえば、ソ連社会は、社会主義とは無縁の人間抑圧型の社会だったわけですから、ソ連批判をもって反社会主義の一般理論を構築したつもりでも、的外れだといわざるをえません。
 しかし、当時の世界のイデオロギー状況からすれば、ソ連社会の矛盾が深まるにつれて、ハイエクらの理論が勢いを得て、さらにソ連崩壊を追い風にして、九〇年代には「新自由主義」が国際的な影響力を広げてきたといえるでしょう。
 ――「新自由主義」は、経済理論のうえではケインズ批判を基本としてきたということでしたが、そのことと反社会主義とは、どのように結びついていたのですか。

◆市場原理主義で
 友寄 ハイエクの「新自由主義」の理論的立場から言わせると、次のようになるわけです。
 ――ケインズ派は、資本主義のもとでの「市場の失敗」を認めて、国家が一定の政策的介入をしなければならないというが、その道をすすむと、結局は社会主義的な「計画経済」へ引きずりこまれて、個人の自由と市場原理にもとづく社会を破滅させることになる。
 このように、ハイエクは、「市場原理」をもとに、ケインズ批判と社会主義的「計画経済」批判を同時にやろうとしたわけです。ただ、ソ連崩壊後の「新自由主義」の理論的関心は、ハイエクが『隷従への道』などであからさまに展開したような反社会主義のイデオロギー的主張はむしろ後景に隠れて、ケインズ経済学の弱点を批判しながら、「市場原理主義の経済理論」をいっそう体系的に展開し、それを世界の経済政策の主流にすることにおかれているようです。
 しかし、私は、「新自由主義」の思想と理論は、もっとも徹底した資本主義の体制擁護派であり、その理論的ルーツの一つは反社会主義イデオロギーであったことを、明確にとらえておくことが大事だと考えています。
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2006年03月23日,「赤旗」) (Page/Top

世紀を超えるブレヒト/市川明、木村英二、松本ヒロ子編/積極的評価と叙事的演劇の理論反映

 ベルリーナ・アンサンブルの来日公演「アルトゥロ・ウイの興隆」は、幕明きのシーンで、ヒトラーをおもわせるウイが、四つんばいになって、犬のようにはいずりまわっていた。ここまで風刺をなしうるのか、と衝撃を与えたこの舞台にたいする評価は、一九九五年のアメリカ初演以来、きわめて高いと、三上雅子は本書でのべている。
 三上は「リチャード三世」と「アルトゥロ・ウイの興隆」を比較することによって、ブレヒトが世紀をさかのぼって先行演劇を摂取するのに意欲的であった、と指摘する。「ブレヒトと二十世紀演劇研究会」のメンバーによってまとめられた本書の特徴を、端的に示している。
 本書は、木村英二、市川明、松本ヒロ子の三人の編者が「ブレヒトと『古典』」「ブレヒトと近代劇」「ブレヒトと同時代人たち」の項目に大別される九つの文章で構成されているが、編者たちの論文が、とくに注目される。
 木村の「『セツアンの善人』と『ヴェニスの商人』」は、ブレヒトとシェイクスピアのドラマツルギーを比較したものであり、マルクスが「経済学・哲学草稿」でとらえた貨幣の二つの側面を引用した分析は、刺激に満ちている。
 市川の「ブレヒトとストリンドベリ」は、ストリンドベリの「令嬢ジュリー」とブレヒトの「プンティラ旦那と下僕マッティ」との類似点を、興味深くとらえており、松本の「ブレヒトとトラー」は、一九三六年という同じ年に亡命したトラーとブレヒトが、それぞれ発表した「寓話劇的作品」を比較する。松本は、有名な「第三帝国の恐怖と貧困」とともに、ファシズム三部作といわれる「丸頭ととんがり頭」の再評価をしているのである。
 このように、自らの生きた世紀を超えても、なお生きつづけるブレヒトを、積極的に評価する意気込みが、ほかの六名の論文にも感じられる。しかも、叙事的演劇の理論が、随所に反映されていることも、注目されてよい。
 菅井幸雄・演劇評論家
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2006年03月12日,「赤旗」) (Page/Top

断面/ベン・シャーン展/鋭い権力批判/弱者に寄り添う情念

 アメリカの暗部に光をあて、告発し続けた画家の展覧会が開かれています。埼玉県立近代美術館で開催中の「ベン・シャーン展」です(三月二十六日まで)。
 「ヒューマニズムの画家」として日本でも親しまれてきたベン・シャーンは、二十世紀のアメリカ美術を代表する画家のひとりです。出品作品は「丸沼芸術の森」(埼玉県朝霞市)が所蔵する約二百点で、ほとんどが初公開。初期の油彩や素描、壁画の下絵などから画家の思想と表現の展開をたどることができます。

震えるような描線
 一八九八年、リトアニアに生まれたベン・シャーンは八歳で家族とともにアメリカに移住。一九三〇年代以降、「ドレフュス事件」や「サッコとヴァンゼッティ事件」など、えん罪や権力によるでっちあげ事件を批判したシリーズを次々と手掛けました。今回の展覧会にも同シリーズの一部が出品されています。
 出品作は素描が中心。独特の震えるような描線が魅力です。労働者やスポーツ選手、鉄格子のなかの「被収容者」(一九四九年)など対象はさまざま。シンプルな画面から、弱者に寄り添う画家の情念と鋭い権力批判のメッセージが伝わってくる作品が並んでいます。温度や空間、感情までもが表現されてしまう、頼りなげでいながら雄弁な、線の力を味わえる展覧会です。
 第二次大戦後の主要な仕事としては、「ラッキー・ドラゴン」シリーズがあります。アメリカによる水爆実験で、漁船「第五福竜丸」が被ばくしたのは一九五四年三月一日。五七年から五八年にかけて、この事件を題材にした連載記事の挿し絵を描いたベン・シャーンは、事件への関心を持続させ、六十二歳になる六〇年に「ラッキー・ドラゴン」シリーズ十一点の制作を開始しました。

久保山愛吉と子を
 今回は、雑誌連載の挿し絵や、後年のテンペラ画につながる習作などが出品されています。第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉と子どもの肖像「父と子」(一九五七年)は、慈愛に満ちて宗教画のような風情も漂います。これと対照的なのが、ベトナム戦争での核使用も辞さない姿勢で大統領選に臨んだ男を描いた「ゴールドウォーターの肖像」(六四年)。痛烈な風刺を込めて、おぞましい思想の持ち主らしい姿として描き出しています。
 レーニンやキング牧師、トルーマン、そして無数の無名の人たち。出品作を見るだけでも、実に多くの人物を描いたことを実感させます。対象への怒りや共感を、繊細なタッチで巧みに描き分け、自分の思想を見る者にはっきり伝えています。
 差別、貧困、ファシズム、核兵器といった重い題材に果敢に取り組んだベン・シャーン。人間の姿から、その背後にあって人間を抑圧するものの存在を浮き彫りにしました。作品に込めた思いを、いま一度見つめ直してみたい画家です。(金子徹)
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2006年02月28日,「赤旗」) (Page/Top

朝の風/二十世紀のジャンヌ・ダルク

 スイス出身、フランスで活躍した作曲家アルテュール・オネゲルの代表作に劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」がある。ポール・クローデルの台本に音楽をつけ、一九三五年に完成した。修道士ドミニクがジャンヌに関する本を読むことを通して、彼女の生涯をたどるというユニークな構成。ジャンヌとドミニクは舞台俳優が語り、これと管弦楽や声楽陣が共演する異色作だ。
 この作品をクリスティアン・アルミンク指揮の新日本フィルが二月のトリフォニー定期で上演した。演奏会形式とはいえ本格的な公演。中央に船首のような舞台を設け、火刑柱がマストのようにそびえ立つ。後ろに合唱団が刑場を柵(さく)越しに見る民衆のように陣取る。
 神の声を信じ侵略軍との戦いに参加、捕らえられ「魔女」として処刑された少女の足跡がドラマチックに表現される。作中では裁判を豚とヤギとロバが担当。音楽はその愚かさを戯画的に描く。これに呼応して火あぶりを求める民衆の姿は、ファシズムの狂気にも見える。一九四四年に補筆されたプロローグには「フランスは永遠に二つに引き裂かれてしまうのか」との歌詞も。百年戦争と第二次世界大戦とが二重写しになってくる。
 とくに今回印象深かったのは、ジャンヌのアンヌ・ベネント、ドミニクのフランク・ホフマンの深みのある語り。アルミンクの棒も巧みに舞台を引き締めていた。(弩)
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2006年02月16日,「赤旗」) (Page/Top

映画「白バラの祈り―ゾフィー・ショル、最期の日々」マルク・ローテムント監督に聞く


ナチに抵抗した学生を記憶に
 第二次大戦中のドイツで、ナチ政権に抵抗した学生グループ「白バラ」。その一員、ゾフィー・ショルは一九四三年、ミュンヘン大学で、ナチへの抵抗を呼びかけるビラをまいて逮捕され、五日後に処刑されました。二十一歳でした。逮捕後の五日間をクローズアップし、信念を貫く勇気を描いた映画「白バラの祈り―ゾフィー・ショル、最期の日々」が公開されています。来日したマルク・ローテムント監督に聞きました。
 シナリオは、ゾフィーの尋問調書、処刑記録、生き証人へのインタビューなど綿密な調査にもとづいて書かれました。なかでも、新たに発見された尋問調書が、映画を撮る大きな動機になりました。

勇気を出し、立つときは
 「私は、間違いにうすうす気づきつつそれにふたをしてきた人は、沈黙し続けるのか、それともどの時点に至れば勇気を出し立ちあがるのか、に関心をひかれました」
 尋問調書にもとづいて再現されたゲシュタポの取調官・モーアとゾフィーの対峙(たいじ)は映画のかなめです。
 モーアは、地方の警察官で、官僚制度にうまくのって中央に出世。一九四三年当時、ナチスの最終勝利≠窿tァシズムに漠然とした疑問を感じていたけれど、口には出さなかった人だといいます。
 「私の祖母も同じタイプでした」。陸上のドイツチャンピオンだった彼女は、ナチから豊かな練習環境を与えられ、ナチ党員でしたが政治には無関心でした。「オリンピックに出たい一心で、他のことは見ないようにしたのです」。当時のドイツ人の大半はそのような人たちだといいます。

取り調べ中、信念を固め
 「モーアが、ゾフィーのように信念を曲げない人物と対峙する尋問の場面には、ゾフィーと、見ないふりをする多くの人との対峙という意味を重ねました」
 モーアは、ゾフィーの強い意思に向き合って、敬意を抱き、彼女を助けたいと思います。三日間の取り調べの最後に彼は「『わけも分からずやりました。後悔しています』とさえ言えば、助けましょう」とゾフィーにいいます。
 しばらく考えた後、ゾフィーは「世界の見方がおかしいのは、あなたの方です。私は国民にとって最善のことをしたと思っているし、機会があれば同じことをするでしょう。後悔していません。結果を受け入れる覚悟があります」と答えます。
 「このセリフは尋問調書そのままです。逮捕直後のゾフィーは、容疑を否認してうそをつきます。彼女は、初めから死を覚悟した殉教者だったわけではありませんでした。取り調べの中で、信念を固めたのです」
 ゾフィーが信念を貫けたのには、父親の影響が大きかったといいます。父はいつも子どもたちに「暴力にくじけず、困難な状況でもき然として生きよ」と話していました。
 白バラの学生たちはビラをまくことで、人々に、考えることを促がし、求めました。「この映画に同じ働きができたらうれしい」といいます。

日本の若者、過去直視を
 「私は一九六八年生まれで、ナチの戦争犯罪に責任は感じません。でも、起きたこと、そしてすばらしい英雄的行動をした人がいたことを、今後の世代の記憶にとどめる責任は大きいと思っています。人間は過去から学ばなければ進歩しません。日本の若い人にも、日本軍が中国で行った戦争犯罪の事実を直視してほしいと思っています」
 言葉には熱がこもり、ためらいがありません。ゾフィーの生き方から学ぶことで一番強調したいこと―「基本的人権、平和と自由のために、たとえ少数派でも、あきらめずにたたかい抜くことです」。
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2006年02月03日,「赤旗」) (Page/Top

文化/「アウシュヴィッツ鎮魂」/迫害された音楽家の曲残したい/ピアニスト田隅靖子さん

 ピアニストの田隅靖子さんは、第二次世界大戦中にナチスドイツから迫害されたチェコのユダヤ人作曲家たちの曲を演奏し、CDとして発表しました。題して、「アウシュヴィッツ鎮魂」(ユニバーサルミュージック)。全14曲の深遠な響きは、戦後60余年を経た今もなお、私たちの胸を揺さぶらずにはおきません。
 西條 正人記者
 アウシュビッツがテーマなら、暗く、重い曲ばかりではないか。そう想像していましたが、聴くと明るくて朗らかな曲もあります。
 田隅さんは言います。
 「たとえば、ハースの『パストラル《組曲》作品13』よりは、彼が結婚した年に作曲したもので、幸せな気持ちがにじみ出ています」
 しかし、幸せは、ナチスによって切り裂かれました。1941年、ユダヤ人というだけでテレジン収容所へ送られ、44年、命を絶たれたのです。彼は、収容所送りが自分だけで済むように離婚し、愛する妻を救いました。
 「ハースはヤナーチェクの弟子で、豊かな才能を持つ作曲家でした。戦争がなければ、素晴らしい曲をたくさんつくっただろうと思います」
 ハースだけではありません。収容所の中で曲を作ったクラインやウルマン、反ファシズムを掲げて病死したシュールホフ……。そんな作曲家たちの運命を知ると、明るい曲からも、未来を奪われた無念、不条理が聞こえてきます。
 「死の2カ月前に作られた曲もあります。練習しながら私の心もまた、闇と死と永遠につつまれていました」
 このCDを作ったきっかけは02年。NHKのテレビ番組で、ナチスにアウシュビッツのガス室へ送られたユダヤ人画家ヌスバウムの絵を見たことでした。
 「ヌスバウムの『死の勝利』という絵です。それを見て、あっと思いました。多くのがい骨が踊りながらバイオリンや笛を奏でている絵ですが、私の持っていたCDのカバーデザインだったのです」
 田隅さんは85年、ピアノの勉強のために旧東ドイツを訪問。そこで、24万人を収容、5万6千人を虐殺したと言われるブーヘンヴァルトの強制収容所跡を目の当たりにしました。
 そのとき受けた衝撃が、まざまざとよみがえったのです。
 「迫害された音楽家たちの作品をCDという形で残したい」。その思いに突き動かされ、資料を収集しました。この分野の権威であるドイツ人、K・リヒター氏の助言も得ました。
 ナチスから攻撃された作曲家には、メンデルスゾーンも含まれます。
 「彼はユダヤ人の上流階級の音楽家でしたが、死後、ナチスによって中傷され、作品は低く評価されました。生家は近年補修されたものの、97年までは荒れ放題だったのです」
 同アルバムには、メンデルスゾーンの《無言歌集》から〈葬送行進曲〉など3曲も収録。平和への願いをこめました。
 演奏会を開く一方で、京都市立芸術大学教授をつとめ、04年に退官。現在は同大学名誉教授です。
 演奏活動をしない指導者も少なくない中で、自ら演奏する姿を見せながら学生たちを導いてきました。
 「学生にはコンクールをすすめませんでした。順位、技術も大切かもしれませんが、音楽家として必要なのは心。昔の巨匠はミスタッチが多くても音楽の本質を感じさせてくれます」
 子どもたちの音楽教育もライフワーク。昨年、自主制作でCD「プーランク‥ぞうのババール」を発売。ピアノと西村孝子さんの語りが交互になり、フランスの名曲を物語感覚で楽しめるように工夫されています。
 音大生の就職難の現状に胸を痛めています。
 「卒業生には、音楽だけが人生だと思ってほしくない。音楽家になれなくても、心の中に音楽を持っていれば、ほかの職についても、いい生き方ができるのではないでしょうか」

たすみ・やすこ=フェリス女学院短期大学音楽科(現フェリス女学院大学)卒。ザグレブ・ソロイスツ・京都市交響楽団、R・ホフマン、P・ダムとの共演などソロ、アンサンブルで活躍。CDに「セザール・フランク ピアノ作品集」他。現在、京都市立芸術大学名誉教授
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2006年01月22日,「赤旗」) (Page/Top

絵と私。根の在る処/フルイミエコ/絵は私に影響する

 絵にかかわるいろんなことが好きだ。描くのはもちろん好きだけども、見ることの楽しみが広がったのが興味が深くなる鍵だったかもしれない。
 子どものころ、百貨店の絵画売り場に並んでいる絵の中でお気に入りを決めるのが、ひそかな楽しみだった。小、中学校では展覧会のポスターが職員室の前に張られていて、先生からちょうだいしてはマイルームの壁を飾った。ミレーの羊飼いの娘を見てその遠近の表現にうっとりし、エルンストの不思議な世界に危険な空想を遊ばせた。「世の中にはこういうすごいものを作る人がいる」という発見は、私の人間観に少なからず影響したと思う。
 二十代のころにピカソの「ゲルニカ」を知った。一九三七年、スペインのゲルニカの無辜(むこ)の市民が、ナチス・ドイツによる空爆で虐殺された事件を描いた有名な絵だ。そこにはファシズムへの怒りと鋭い告発が込められている。絵は人の精神が生み出す仕業であることを、「ゲルニカ」で改めてかみしめた。
 どんな作品でも人の技である限りは、作り手が事象や時代に何を感じたのかがおのずと反映するものだ。そういう眼()で見ると、作品が急に命の塊に見えてきた。また学生運動で平和運動に参加していた私には、ピカソのような芸術家のありようは、絵描きの仕事を考える上で大きな示唆を与えてくれた。
 絵画はもちろん、色や描かれているものの好み等で感覚的に楽しめる。でも、絵は人の人生の流れの一部分。私たちが絵を見るということは、描き手の思いを時空を超えて真新しく受け取る個人的体験だ。そうすると、描き手が昔の人でも外国の人でも、とても近い存在に感じられることがある。一冊の本との出合いがとても貴重なように、一枚の絵が生き方に影響するときもある。とても静かな存在だけどもとても豊か。そういうロマンが、私がこの世界への興味がつきない理由のひとつだ。
 いま教師をしていて残念なのは、本当に絵画を生(なま)で見たことのある生徒が少ないこと。絵画は印刷では分からない。素材である絵の具、絵肌の調子、微妙な筆遣い、すべてが作り手の思いや行為を伝えてくる。是非機会をつくって、美術館や画廊に行ってみてほしい。今日、かけがえのない一枚に出合えるかもしれない。
 (京都市在住・絵描き)
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2006年01月20日,「赤旗」) (Page/Top

ドイツで革命家追悼行事/社会保障後退に反対∞イランで戦争するな

 【ベルリン=片岡正明】ファシズムと戦争に反対し一九一九年に殺されたドイツの革命家ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの追悼行事とデモが十五日、ベルリン市内で行われ、主催者の左翼党の発表で八万五千人が参加しました。左翼党からは連邦議会(下院)会派共同議長のギジ、ラフォンテーヌ両氏やビスキー議長も加わりました。
 今年は独社会民主党(SPD)と保守のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)の連立政府ができてはじめての追悼行事。デモでは「社会保障解体と極右に反対」「青年に正規雇用を」「イランで戦争をするな」などの横断幕、プラカードが目立ちました。
 ベルリンでほぼ毎週、月曜日のデモに参加しているフレッド・シルマッハーさん(43)は「連立政府は労働市場の改革と称して労働者に低賃金を強制しようとしているが、政治は変えられる。左翼党の連邦議会進出がそうだ」と述べます。
 二〇〇五年の連邦議会選挙のなかで左翼党に入党したというシモン・バドイティさん(25)は「資本主義のもとでのグローバル化(経済の地球規模化)で貧富の差はますます開いている。その代案は弱者の立場を代表する左翼党の力を伸ばすしかない」といいます。
 「イラン戦争反対」のプラカードを掲げるクリストフさん(60)は「米国は次にイランを攻撃しようとしている。戦争ノーの声を高めなければ」と強調します。
 ベルリン自由大学政治学部の学生、アンナさん(25)は「戦争に反対し、ファシズムとたたかって殺されたルクセンブルクとリープクネヒトの志は今も生きています。貧富差の拡大の中、ドイツでも極右が伸びています。ナチズム、ネオナチ反対を示すことが必要」と述べました。
 左翼党のギジ共同議長は「東独時代と違い、多くの人がデモに自由意思で参加している。リープクネヒトとルクセンブルクはその思想を共有しない人にとっても誇るべき存在だ」と語りました。
 ルクセンブルクとリープクネヒトはドイツ共産党(KPD)の創設者で、党結成大会直後の一九一九年一月十五日に反革命勢力により惨殺されました。追悼集会・デモは二人が殺された一月十五日の直前か当日に毎年行われています。
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2006年01月17日,「赤旗」) (Page/Top

イラク戦争の終結は戦争廃絶の機運高める/歴史家ハワード・ジン氏が指摘

 イラク戦争の終結は戦争そのものを廃絶する機運を高める―大著『民衆のアメリカ史』で知られる米国の歴史家ハワード・ジン氏が大胆な見通しを示しています。
 同氏は米誌『プログレッシブ』一月号(電子版)に「戦後」と題する論文を発表。「イラクに対する戦争は遅かれ早かれ終結するだろう。その過程はすでに始まっている」として、@米議会での反乱の最初の兆候が現れているAイラクからの撤兵を求める社説が各紙に出始めているB反戦運動が全米で成長している―などの事実を挙げています。
 その上でジン氏は、イラク戦争終結が戦争そのものを廃絶する運動を促す契機になりつつあると指摘。イタリアの市民活動家ジノ・ストラーダ、医師・人類学者で米国の慈善組織創設者のポール・ファーマー、南アフリカ共和国のノーベル賞作家ナディン・ゴーディマの各氏らが、「戦争放棄の運動に数千万の人々の賛同を求める世界規模のキャンペーンを間もなく開始する」ことを紹介しています。
 ジン氏は、第二次世界大戦の際には、ファシズム打倒の「良い戦争」だと考えて空軍に志願したことを回顧。しかし、「広島、長崎、東京とドレスデンに対する焼夷(しょうい)弾爆撃、六十万人の日本国民の死」をきっかけに、戦争の道義性に疑問を持ち始めたとしています。
 同氏は「イラク戦争が『対テロ戦争』の欺まん性を暴露した」と指摘。米政府は9・11同時テロを使って米国民の「ベトナム症候群」(戦争忌避の感情)を克服したが、今度はそれを繰り返すことはできないだろうと予測します。「イラク戦争が終わり、戦争症候群が癒やされれば、その癒やしを恒久的なものにする大きな機会が生まれる」との見方を示しています。
 「戦争廃棄は望ましいだけでなく、地球が救われるために絶対的に必要になった。それは、今が出番の思想だ」―論文は、こう結ばれています。
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2006年01月09日,「赤旗」) (Page/Top