2007年 ファシズム関連情報】

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2007(ヘッドライン)

*                     映画/「パンズ・ラビリンス」(スペイン・メキシコ)/おとなのための寓話

*                     にちようシネマ館/パンズ・ラビリンス(スペイン・メキシコ)

*                     ナチス前夜の「抵抗」/未来を切りひらく歴史の教訓/星乃治彦

*                     日本共産党知りたい聞きたい/軍国主義、ファシズム、ナチズムとは?

*                     日本のシンドラー杉原千畝とユダヤ人逃避行たどる/写真家寿福滋さん(54)大津市

*                     エジプト・エルアラメイン戦場跡を訪ねて/若き兵士らの墓標

*                     国際関係でみる日本の戦争/元NHK解説委員長・評論家山室英男さんに聞く

*                     シーハンさん復帰宣言/首都への反戦デモに

*                     アインシュタイン論文に寄与/物理学者服部鼎のこと/竹内峯

*                     吉岡吉典著『総点検 日本の戦争はなんだったか』/歴史に学び選択の力に/西村美幸

*                     レジスタンスは戦後の出発点/ファシズム解放記念日祝う/イタリア

*                     イラク戦行き詰まり米で議論/トルーマン・ドクトリン60周年/侵略重ねる体制見直せ

*                     憲法施行60年/いま言いたい/東大名誉教授篠原一さん/9条は戦後日本の宝石

*                     背表紙/『不都合な真実』…いま直視すべき衝撃の真実

*                     教えて!!アインシュタイン/ジャン=クロード・カリエール著、南條郁子訳

*                     文化/今日に生きる中原中也/生誕100年/鋭い批評と社会性―その魅力/嶋岡晨

 

2007年(本文)(Page/Top

映画/「パンズ・ラビリンス」(スペイン・メキシコ)/おとなのための寓話

 人民戦線政府を銃の力で打ち倒した一九三九年から、三十六年間もスペインに君臨したフランコ独裁政権。自由を奪われた人々の胸に刻まれた内戦の記憶を、無垢(むく)な少女の瞳を通して描いたビクトル・エリセ監督「ミツバチのささやき」を想起させるギレルモ・デル・トロ監督の意欲作。現実と幻想の両面からせまるファシズムの本質を、おとなのための寓話(ぐうわ)に託し、イメージ豊かに描いている。
 一九四四年のスペイン。優しかった父を内戦で亡くした少女オフェリア(イバナ・バケロ)は、臨月の母親とともに、山奥の軍駐屯地へ。ゲリラ掃討の指揮官である義父ビダル大尉(セルジ・ロペス)が、そこで待っていた。
 真夜中、オフェリアの前に妖精が現れ、庭の奥にあるラビリンス(迷宮)へといざなう。「あなたは魔法の王国のプリンセス」だと告げ、地下の王国へもどるための三つの試練を与えるパン(牧神)。
 不気味な怪物たちが登場する恐ろしい暗黒の世界。だが、それ以上に戦慄(せんりつ)をかきたてるのは、ファシズムの狂気を体現するビダル大尉の残忍さだ。ゲリラ軍に協力する医師は銃殺され、小間使いメルセデスの命も危機一髪に。これでもかという残酷描写が気になる人がいるかもしれない。
 母なき弟を抱いて迷宮に逃げたオフェリアは、ビダルの銃弾に倒れてしまう。が、気づけば、王国のまばゆい光の中に立っている。悲劇と幸福が表裏一体になった結末だが、オフェリアの勇気こそ、自由を求めて倒れていった幾多の人々の永遠の魂を象徴するものであろう。優しく慈しむように流れるのは、メルセデスがオフェリアに聞かせた子守歌の哀切なメロディーである。
 (山形暁子・作家)
 東京・シネカノン有楽町1丁目、大阪・シネ・リーブル梅田ほかで上映中
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2007年10月19日,「赤旗」) (Page/Top

にちようシネマ館/パンズ・ラビリンス(スペイン・メキシコ)

 現実と幻想で暗黒に立ちむかったギレルモ・デル・トロ監督のおとなのための寓話(ぐうわ)です。
 1944年のスペインはフランコの独裁圧政時代。少女オフェリア(イバナ・バケロ)は身重の母と山岳地帯の軍駐屯地にきます。義父ビダル大尉(セルジ・ロペス)はそこでのゲリラ掃討の指揮官でした…。
 軍隊の弾圧の恐怖と抵抗活動の厳しさ。それに地下迷宮を冒険する子どもの逃避感覚が並行して展開します。ビダルが全身にファシズムを体現し冷酷無比。オフェリアは自由追求の象徴。少女とともに医師・小間使いらの勇気ある抵抗像が刻まれます。新しい命はファシストに渡さないというメッセージが明快。ファシストの残酷描写には、一部目を覆う部分も。
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2007年10月07日,「赤旗」) (Page/Top

ナチス前夜の「抵抗」/未来を切りひらく歴史の教訓/星乃治彦


統一の可能性生んだグラスルーツ(草の根)の運動
 「抵抗」は、考えられているほど簡単なことではない。大勢に迎合したり、見てみぬ振りをしたりする方が、どんなに容易なことだろう。ただその時は少数者であっても、未来を見据えた抵抗は、いつかは評価され、未来の人たちに感動を呼びおこす。日本共産党の戦前の抵抗も、ナチス体制下ミュンヒェン大学の学生の「白バラ」抵抗運動も、それがあったが故に、今のわれわれは良心の「救い」を実感できるのである。

党派を問わず一緒に防衛隊
 一九三三年一月三十日、ドイツではナチスが政権を握った。これに対して反ファシズム勢力が無為だったわけでもない。宣伝とテロによってナチスは容易に政権を獲得したかのように誤解されがちだが、この時、議会内のナチスの議席数は三割程度でしかなかった。逆に、この時になっても、ドイツ社会民主党とドイツ共産党をあわせた議席は四割を超えていた。
 では、なぜその二つの労働者政党が統一戦線を作ることができなかったのか、というのが長い間研究者の課題であった。社会民主党側の反共主義、共産党側の、ファシズムと社会民主党を同列視する「社会ファシズム」論が、統一の妨げとなったと言われた。その歴史的過ちを克服したのが、スペインとフランスにおける人民戦線とされた。
 ただ、新しく見ることができるようになった史料を見ていくと、たしかに政党指導部間では確執が激しく続いていても、それに関係なく、ドイツでも草の根(グラスルーツ)の反ファシズム運動が旺盛に展開されていたことが判明する。労働者街にナチスが侵入すると、彼ら反ファシストたちは、党派を問わず一緒になって防衛隊を組んで、ナチスのテロから自分たちの家族や空間を防衛しようとしたし、「九条の会」を想起させる統一委員会の集会で、自分たちの統一の力を実感していた。
 そこでいう統一とは、単に社共という党派の統一だけではなく、階級の統一、運動の組織的形態と自然発生的形態の統一、経営外の運動と経営内の運動の統一等など、実に多様な内容を持つものであった。今風に言うとヤンキーたちも運動に参加していた。彼らの統一した目標は「反ファシズム」。こうした広範な反ファシズムのグラスルーツ運動は、「反ファッショ行動」という名前を持ち、全国大会を開催するまでにいたった。逆に支配層はこうした動きに恐怖を感じ、対抗策の切り札として、ナチス政権樹立に傾斜するようになっていったのである。

がれきの中で真っ先に蘇生
 「人民の子」(トレーズ)であるドイツ共産党にも反ファシズム運動の動きが反映された。党内にも宣伝部を中心にとくにそうしたグラスルーツとの連携に積極的なグループも生み出された。だが、その一方で当時の共産党は、直接的にコミンテルンに指導される立場にあり、モスクワの意向を無視することができなかった。当時のドイツ共産党議長テールマンの目は、やはりモスクワの方を向いていた。統一派の意見は、社会ファシズム論の壁に突き当たって、理論的にも実践的にも十分に展開できなかった。貴重な時間が失われた。
 ファシズムと反ファシズムの激烈な先陣争いの時に、この失われた時間はあまりにも大きかった。その結果、一九四五年まで、恐ろしい十二年間をドイツは経験することになったのである。ただ、「反ファッショ行動」がそれで死に絶えたわけでもなかった。戦後瓦礫(がれき)の中で、真っ先にドイツ人の組織として蘇生(そせい)し、戦後ドイツを再建していく中心となったのは、実は「反ファッショ行動」だったし、その反ファシズムの伝統は、ドイツにおいて現在に至るまで引き継がれているのである。
 ヴァイマル共和国は戦後日本とよく比較される。ファシズムに反対する統一の力強さこそが未来を切り拓(ひら)いたという歴史的教訓を、私たちも憲法を護(まも)りたいという善意の中で生かしたい。
 ほしの・はるひこ 福岡大学教授。一九五五年生まれ。専攻はドイツを中心とした現代史。『男たちと帝国』『社会主義と民衆』ほか。
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2007年09月12日,「赤旗」) (Page/Top

日本共産党知りたい聞きたい/軍国主義、ファシズム、ナチズムとは?

 〈問い〉 軍国主義、ファシズム、ナチズムという用語は、どう使い分けられているのですか?(東京・一読者)
 〈答え〉 「軍国主義」とは、政治・経済・文化のあらゆる面で全国民を侵略戦争やその準備に動員する体制とそのイデオロギーを表す用語ですが、そのあらわれ方は国によって違い、それぞれ特徴があります。戦前の日本の政治体制は、その意味で軍国主義そのものでした。
 「ファシズム」の用語は、その発祥の地であるイタリアだけでなく、暴力的・専制的な政治支配を表す用語として、広くもちいられています。ドイツのナチズムも「ドイツ型のファシズム」と表現されることがあります。1930年代によびかけられた「反ファシズム統一戦線」も、第2次世界大戦の火つけ役となったドイツやイタリアなどのファシズムと侵略戦争の危険に対抗するためによびかけられたものです。
 「ファシズム」が一般的な用語となったのは、イタリアが1922年というもっとも早い段階で、ムソリーニを総裁とする国家ファシスト党がクーデターで支配を確立し、25年以降一党独裁体制をうちたて、そのすさまじさを世界にみせつけたことによります。その後、ドイツやポルトガル、スペインなど、似たような暴力的・専制的な政治支配を表す言葉として使われていきます。
 「ナチズム」は、ヒトラーを指導者とするナチス(国家社会主義ドイツ労働党)によってつくられたドイツのファシズムをさします。ナチスは、テロとクーデターなどをくりかえし、1932年11月の総選挙で第1党となり、33年ヒトラー首班の連立内閣を組織し、共産党の非合法化、さらに社会民主党など他の政党を解散し、一党独裁体制をうちたてました。ゲシュタポ(秘密警察)と強制収容所による残酷な弾圧、議会制度の廃止、極端な人種的排外主義と侵略政策などを特徴としています。
 これにたいして戦前の日本では、1931年の中国侵略戦争開始以降、軍部が発言力を拡大するなかで、軍国主義が強化されました。そして、1940年には日独伊三国同盟を結び、せまりつつある太平洋戦争にそなえて、大政翼賛会発足をはじめ侵略戦争推進のための国民動員体制をつくりあげました。
 しかし、日本の軍国主義体制もファシズムの一種か否かについては議論が分かれています。それは、イタリアとドイツの場合と日本の場合は、大きく異なっていることがあるからです。イタリア、ドイツと日本では、民主主義、議会制度の発展の度合いが違っていて、ムソリーニ、ヒトラーが政権を握るのは、テロやデマゴギーなどの暴力がありますが、それと並行して国会で多数を握るという経過をたどりました。
 これにたいして日本では、天皇が絶対的な権力を握っていて、最初から議会の権限が制限されており、ファシズム政党が政権を奪取するという経過をたどっていません。また、天皇制権力は、独占大企業とともに、封建的な性格の強い地主勢力を基盤にしていたという特徴もあります。(喜)
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2007年08月30日,「赤旗」) (Page/Top

日本のシンドラー杉原千畝とユダヤ人逃避行たどる/写真家寿福滋さん(54)大津市


「命 大切」の感想うれしく
 第二次大戦中、ナチスの迫害を逃れるユダヤ人に、力の限りビザ(旅券)を発行し「日本のシンドラー」といわれる当時リトアニア領事代理の杉原千畝(すぎはら・ちうね、一九〇〇年―八六年)。その業績と苦難の逃避行とその後を写真展で紹介し続けている写真家がいます。滋賀県大津市在住の寿福滋(じゅふく・しげる)さん(54)です。
 (滋賀県・黄野瀬和夫)
 寿福さんは一九九六年、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所を訪問。ナチスの大量虐殺に大きな衝撃を受けました。その写真展で、ゲスト講演のユダヤ人から杉原千畝のことを知りました。「あの時代に、そんな日本人が」。以来、世界を回り、県内を中心に写真展を開いてきました。

ルート追う旅
 「ぼくは写真家だから、とにかく現場にたたないと」と、ポーランド、リトアニア、ロシア、日本、アメリカとユダヤ人の逃避行のルートをたどる旅は大歓迎でした。「抱きつかれたこともありますね。『ぜひあの人の話を』『あそこへ行ってみたら』と、杉原の糸に導かれるように世界を回り、杉原の業績は今も輝いていると思いました」。ときには何もない原野を訪れることを怪しまれ、空港で何日も留め置かれたこともあったのですが―。

立体構成で
 写真展は、ファシズムの住民監視、ぞっとする視線を伝える立体構成です。収容所へのレールの写真が床に。展示の陰には黒い人影。「アウシュビッツに行くと、だれかが後ろから見つめているような気がします」
 取材や写真展の費用は自前です。「世界中で歓迎を受けるのが報酬かな。杉原ビザで六千人が救われ、その子孫は三万人を超える。そのパワーと、写真展を見た人の『命を大切にしたい』という感想が何よりうれしい」
 杉原が約二千枚の日本通過ビザを発行したのは一九四〇年七月。日本がドイツ、イタリアと軍事同盟・日独伊三国同盟を締結した年。四年前にはドイツと日独防共協定も結んでいました。
 杉原は外務省にビザ発行許可を求めますが、ドイツと軍事同盟を結んだ日本からの返事は「ノー」。「人間としての信念」で独断発行を決意した杉原は、戦後その責任を問われ外務省を辞めさせられ、外務省が名誉回復したのは一九九二年。
 杉原の行為はいま、侵略戦争を美化する勢力が「当時の日本の国策にそったもの」「日本の軍人もユダヤ人逃亡に協力」と宣伝しています。「新しい歴史教科書をつくる会」の中学歴史教科書もそのひとつです。寿福さんは「杉原さんは国の方針に反しても、人の命を救いたかったのです。外務省の態度でも明らか」といいます。

横浜、神戸でも
 寿福さんの本職は文化財の撮影。『大津と芭蕉』『平等院調査報告書』『「阪神タイガース展」写真集』などの著書があります。今年はそれに『杉原千畝と命のビザ―シベリアを越えて―』(サンライズ出版、千五百円)が加わりました。
 「ユダヤ人が最後にたどり着いた横浜、神戸でも写真展をやりたい」。それが次の目標です。
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2007年08月22日,「赤旗」) (Page/Top

エジプト・エルアラメイン戦場跡を訪ねて/若き兵士らの墓標

 エジプト北部にあるエルアラメインは、第二次世界大戦の戦局を転換させた戦場の一つとして知られています。一九四二年、ドイツ・イタリア軍と英連邦軍が、地中海の制海権、スエズ運河の確保をめぐり大規模な戦闘を繰り広げました。
 エルアラメインにある英連邦軍の墓地には、北アフリカ戦線やギリシアで死亡した七千三百六十七人の兵士たちが埋葬されています。
 入ってすぐに目立つ場所に、英連邦を構成する国の一つニュージーランドから来た兵士たちの墓標がありました。刻まれた墓銘を目で追うと、ほとんどが二十代前半です。
 当時、ナチス・ドイツは、イタリアのファシスト・ムソリーニ政権を支援するために北アフリカ戦線に介入。エルアラメインで決戦をいどみました。劣勢だった英連邦軍は米国から多大な軍需物資の支援を受けて戦局を挽回。独・伊軍は敗走し、最後の拠点チュニジアも奪われました。その後、連合軍がイタリア領シチリア島に上陸したのを機にファシスト・ムソリーニ政権は倒され、イタリアは降伏しました。
 ファシズム打倒に貢献したとはいえ、遠い母国から離れて英国のためにたたかわされた兵士たちの気持ちはどんなだったろうとふと考えました。
 (エルアラメイン=松本眞志 写真も)
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2007年08月19日,「赤旗」) (Page/Top

国際関係でみる日本の戦争/元NHK解説委員長・評論家山室英男さんに聞く

 終戦六十二周年の8・15をどう考えるのか、元NHK解説委員長で評論家の山室英男さんに聞きました。
 (聞き手 藤田健)
 安倍内閣の歴史認識の中心は、日本の戦争は「アジア解放の戦争」で、戦争の目的はよかったということです。しかし、国際関係のなかで日本の戦争を見直すという作業をやれば、たちどころに日本のやっていたことがわかるはずです。

「ナチ党歌」流れる
 日本は一九三六年に日独防共協定、翌年に日独伊防共協定を結びました。そして、一九四〇年にはドイツ軍によるマジノ線突破とパリ占領を待っていたように、日独伊三国軍事同盟(条約)を結び、第三国の攻撃に対する共同軍事行動を約束しました(第三条)。つまり、ヒトラー・ナチズムとムソリーニ・ファシズムとスクラムを組んだ形で、ソビエトを牽制(けんせい)しながらアジアにおける日本帝国主義の侵略行動を拡大していったということです。
 当時、日独伊の陣営を「枢軸国」と呼び、米英などの「反枢軸」連合国と対置させましたが、この「枢軸」という言葉は「ベルリン・ローマ枢軸」から来ているのです。日独防共協定の一カ月前にヒトラーが「ベルリンとローマを結んだ絆(きずな)がこれからの世界情勢の枢軸になる」と演説しました。日本はこの陣営の一員として領土拡張に乗り出しました。
 当時のJOAK東京放送局(NHKの前身)のラジオ定時番組の中に「ベルリン便り」というのがありました。この番組冒頭のテーマ曲は、威勢のよい「ナチ党歌」でした。まだテレビも民放もない、東京でたったひとつの放送局だったことを想像してみてください。私は今でもこの歌のメロディーを覚えています。ですから、日本の戦争目的だけを切り離して美化しようというのは、はじめから主張が破たんしているのです。
 三国軍事同盟を結んだ外相は松岡洋右でした。松岡は、終戦の秋、肺結核で寝込んでいた静岡県の御殿場でおいの佐藤栄作(のちの首相)の見舞いをうけます。そのときに、佐藤にたいし、「大間違いをしてしまった」と言いました。佐藤が「なにを間違ったんですか」と聞くと、「全部だ」と答えました。これは、私が佐藤さんから直接聞いた話です。

当事者が「間違い」
 松岡はA級戦犯として起訴され、判決を受ける前に病死しますが、当事者が「大間違いだった」といっているのに、「正しい戦争だった」とは、どういうことでしょう。
 日本共産党の宮本顕治さんが亡くなったとき、評論家の加藤周一さんが「宮本顕治さんは反戦によって日本人の名誉を救った」と語りました。国際関係を背景に考えれば、宮本さんの十二年間の獄中生活は世界に通用する輝かしい経歴なのです。(2面につづく)
 やまむろ・ひでお 評論家。1929年東京生まれ。50年NHK入局、政治記者を経て、ソウル、ジュネーブ各支局長、ヨーロッパ総局長(パリ)、解説委員長、大阪放送局長などを歴任。88年フランス政府より「芸術文芸勲章・オフィシェ章」受章。
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2007年08月15日,「赤旗」) (Page/Top

シーハンさん復帰宣言/首都への反戦デモに

 【ワシントン=山崎伸治】反戦運動から「引退」し、「休養」を表明していたシンディ・シーハンさんが三日、反戦キャンプ「キャンプ・ケイシー」関係者にあてたメッセージで運動への「復帰」を宣言しました。
 ブッシュ大統領が中央情報局(CIA)工作員実名漏えい事件で有罪判決が下された元副大統領首席補佐官のリビー被告の実刑を免除すると発表したことに反発したもの。シーハンさんは「ブッシュ一味がこれ以上、この国をファシズムの泥沼に引きずり込むのを見過ごすことはできない」と述べました。
 シーハンさんは五月末の「引退」表明後も、イラクでの犠牲者が増え続け、議会の民主党が大統領の弾劾手続きに踏み切らなかったことに不満を募らせていました。リビー被告の問題が「ラクダの背骨を折る最後に載せたわら=vになったとのべ、運動への「復帰」の決め手となったことを説明しました。
 もともと六日から三日間、最後の「キャンプ・ケイシー」がテキサス州クロフォードで予定されていました。シーハンさんはメッセージの中で、十三日にジョージア州アトランタを出発し、二十三日にワシントンDCに到着する反戦デモ行進に参加することを明らかにしました。
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2007年07月05日,「赤旗」) (Page/Top

アインシュタイン論文に寄与/物理学者服部鼎のこと/竹内峯

 二十世紀最大の物理学者として知られるアインシュタインの研究テーマのひとつに、万有引力と電磁気力を統一する理論はどのようなものかという課題があった。アインシュタインのこの研究に寄与した論文のひとつとして、一九二八年にドイツの物理学雑誌に掲載された服部鼎(かなえ)の論文がある。

思想弾圧うけ
 服部のことは、広島大学の教授であった成相秀一が以前に指摘しており、服部が政治的理由で大学を退職したことも記している。また、杏林大学の横尾広光が、彼の事績を詳しく調べて「服部鼎の統一場理論とその時代」という論文を数年前にまとめ、思想弾圧で研究が中断された経緯を明らかにしている。
 服部鼎は一八九六年三重県に生まれ、東北帝国大学に進み、助教授となった。後に山形大学教授となり、一九五一年に亡くなっている。筆者の先輩にあたるがお会いする機会には恵まれなかった。服部の研究は、東北帝国大学にいた石原純がアインシュタインと統一場理論について共同研究を行っていたことに端を発している。一九二二年のアインシュタイン訪日の際に、仙台でアインシュタインその人と服部の出会いがあったと思われる。服部の統一場についての論文の内容には立ち入らないが、仙台にいた窪田忠彦など数学者の力もあってまとめられたものと思われる。
 服部は全協、全農全会派といった労働組合・農民組合の会合に自宅を提供した容疑で一九三二年十一月検挙され、翌年六月依願免官という形で東北帝国大学を去った。服部は当時、鈴木善蔵(のちに日本共産党宮城県委員長等を歴任)らと連絡を取り仙台消費組合に参加し、家族ぐるみで運動に参加している。一九三四年に、雑誌『唯物論研究』に「相対性理論発展の一方向」という論文が掲載されているが、著者の若生修は服部であるとされている。検挙当時、服部は若手の一柳壽一らと量子力学の研究に取り組んでいたが、戸坂潤の関心との関係で、時間空間についての自己の研究を発表したものであろう。
 話は変わるが、十九世紀フランスにガロアという天才的数学者がいた。彼が十歳代で考えたことは、その後の数学研究の基礎となる重要なものであったが、当時の著名な学者たちには直ちには理解されなかった。彼自身は革命運動に身を投じ二十歳で死んでいる。ガロアを主人公とした「神々の愛でし人」という作品は若い人々に一時期よく読まれた。著者のインフェルトはポーランド出身の物理学者であるが、服部の論文の数式の導出をめぐって批判論文をドイツの雑誌に書いている。二人の間で何か個人的なやりとりがあったかも知れない。

統一場の論文
 このころ、彼らの指導者であるアインシュタインはドイツ共産党の党学校で講義をしたりしているが、服部がこのことを知っていたかどうかは分からない。服部が退職した一九三三年は、アインシュタインがヒトラーの迫害を避けて亡命の旅に出た年である。やがてインフェルトもアメリカに亡命した。服部の研究をも踏まえたアインシュタインの統一場の論文がアメリカの雑誌に発表されたのは一九四五年である。荒れ狂ったファシズムにからんだ研究の空白が感じられる。
 今年は東北大学創立百周年であり、来年は日本天文学会の創立百周年である。著名とは言えない服部鼎のような研究者のことも、忘れないようにしたいと思う。
 (たけうち みね・東北大学名誉教授)
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2007年06月21日,「赤旗」) (Page/Top

吉岡吉典著『総点検 日本の戦争はなんだったか』/歴史に学び選択の力に/西村美幸


戦争違法化に逆らった日本
 旧日本軍によるアジア諸地域への侵略、蛮行について論じ合うとき、「世界中が領土を奪い合う時代だったのだから仕方ない」、または「アジア諸国の独立を導いた」と言う人がいる。当時は強者が弱者を侵略することが当たり前で、日本も他国を侵略しなければ逆にやられていた、しかもそれが結果的にはアジアを欧米列強から解放したと言うのである。露骨な戦争美化論に対しては賛同も少ないだろうが、しかし六十二年前までの戦争の記憶が薄れ、あれが何だったのかを学ぶ機会があまりに少ない現代において、「避けられない戦争だった」という主張が、特に私たちのような若い世代にすっと浸透することがある。

70年戦争で見る
 本書では、日本が起こした数々の戦争の目的と性格を、当時のさまざまな資料を紹介しながら明らかにしている。明治政府は成立六年後の一八七四年、早くも台湾に出兵した。著者は、ここから一九四五年に至るまでの一連の戦争を「七十年戦争」と呼ぶ。
 著者は、日本の戦争を三つに分けて特徴付ける。第一は日清戦争、日露戦争などの双方からの侵略戦争。第二は朝鮮の東学農民革命鎮圧、中国の義和団鎮圧戦争など、自国の侵略に反対する他国人民の闘争を直接鎮圧した侵略・反革命戦争。第三は、ファシズム対反ファシズムの戦争だった第二次世界大戦の一環であるアジア・太平洋戦争。
 「七十年戦争」という括(くく)りで見ると、アジア地域での戦争は時代の流れによって必然的に起きたのではなく、他国領土を我が物にしたいという日本国政府の身勝手な野心によって引き起こされてきたのだということがわかる。その中身はすべて侵略戦争であった。帝国主義ブロック間の戦争だった第一次世界大戦と第二次世界大戦との間にはヴェルサイユ平和条約があり、国際連盟創設があり、パリ不戦条約があった。世界が「戦争は違法」の流れに向かっていた中で、これに逆らって侵略を推し進めたのは日本である。日本の侵略を批判した国はたくさんあったが、日本のおかげで独立したという国は一国もなかったのが実態だった。

抵抗した人々を
 今を生きる私たちにとって私が特に重要だと思うのは、戦争に抵抗する人々のたたかいである。本書では、朝鮮の東学農民や中国の義和団の闘争をはじめ、国内の戦争反対運動・思想を丁寧に綴(つづ)っている。日本の侵略戦争は、他国に侵出しながら、同時にこれら国内外の戦争反対勢力を弾圧することによって展開された。反戦・平和の道を歩めるかどうかは、常に人々の主体的な選択によると思う。その意味で、本書からは人々の選択の歴史を学ぶことができる。
 戦争を起こした指導者らは、敗戦後も一言の謝罪も反省も述べなかった。戦後日本は七十年戦争を総括することなく歩んできてしまった。著者は、「安倍首相の認識は『歴史認識』だけでなく、安保問題の認識においても国連憲章の平和原則の立場に立てない遅れたもの」と指摘している。今後政府によって起こされかねない戦争を私たちが自らの力で避けるためにも、改めて歴史に学び、選択の力にしたい。
 (にしむら みさき・28歳、日本平和委員会事務局)
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2007年06月10日,「赤旗」) (Page/Top

レジスタンスは戦後の出発点/ファシズム解放記念日祝う/イタリア

 ファシズムからの「解放記念日」にあたる二十五日、イタリアでは解放六十二周年を記念する取り組みが全国各地で行われました。レジスタンス(反ファシズム抵抗運動)の意義を否定する一部の右派勢力に対し、ナポリターノ大統領が正面から批判を加えたことが注目されました。
 (党国際局=島田峰隆)
 現地からの報道によると、北部ミラノでは恒例の全国集会に平和団体、労働組合、自治体、文化団体などから約三万人が参加。「記憶を失う国民は未来も失う」などと書いた横断幕や旗を持って市内をねり歩きました。
 ローマではナポリターノ大統領、プローディ首相が参加して記念式典が開かれ、レジスタンスの犠牲者を追悼して献花しました。プローディ首相は「世代が代わっても記憶は維持されなければならない。なぜならそれは今を良く生きる手段だからだ」と述べました。

意義否定の右派
 近年は、右派勢力からレジスタンスの意義を否定したり、反戦運動や侵略の歴史をゆがめる動きが目立っています。
 その急先ぽうが右派政党「フォルツァ・イタリア」のベルルスコーニ前首相です。同氏は首相在任中、「ムソリーニは誰も殺していない」と述べるなど侵略戦争への反省を欠いた言動がたびたびあり、近隣諸国との関係を悪化させてきました。
 同氏は今年の「解放記念日」にあたっても、「左翼の反米イデオロギー」による一部の人々の祭典だなどと発言。自分は在任中に一度も「解放記念日」の式典に参加したことがないと実績≠誇りました。

大統領自ら反論
 これに対して「レジスタンスの偉大な理想は有効性と現実性を失っていない」と厳しく反論したのがナポリターノ大統領です。
 同大統領は、ベルルスコーニ氏の発言の数時間後に演説。レジスタンスは一般市民も参加した国民的性格を持った抵抗だったと強調。「イタリアの解放は方法に違いがあってもその精神と目的において一貫した無数の努力の成果だった」と語りました。
 さらに戦争放棄や基本的人権を定めた戦後の憲法の「出発点」にレジスタンスがあったと言及。反ファシズムの憲法を持ったことが「国連の枠組みのなかでイタリアが相応の国際的な地位を得ることへ道を開いた」「敗北と孤立の後に、西側の社会で役割を回復し、欧州の中心で平和と協力の大事業に参加することを可能にした」と述べました。
 ナポリターノ大統領の演説は、名指しはしないものの、その内容からしてベルルスコーニ氏への批判だと受け止められています。全国紙レプブリカは、「大統領がベルルスコーニ氏に歴史の授業」と大きく報道しました。

解放記念日
 第二次世界大戦末期の一九四五年四月二十五日、ドイツ軍に占領されていたイタリア北部の諸都市が、連合軍の到着に先立って国民的レジスタンスによって自力解放を勝ち取りました。この運動の成果は戦後の民主的な憲法に実りました。戦後、この日は祝日に指定されました。
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2007年04月28日,「赤旗」) (Page/Top

イラク戦行き詰まり米で議論/トルーマン・ドクトリン60周年/侵略重ねる体制見直せ

 イラク戦争が五年目に突入し出口の見えない中、ベトナム戦争を含む侵略戦争繰り返しの根底にある「戦争国家」体制を見直すべきだとの議論が米国で起こっています。
 (坂口明)
 「いま必要なのは、戦術や戦略の調整以上のものだ。批判し、解体さえすべきなのは、トルーマンが一九四七年に開始した『国家安全保障国家』そのものだ」―米国防総省を歴史的に解明した『戦争の館』の著者の米ジャーナリスト、ジェームズ・キャロル氏は指摘します(ボストン・グローブ紙三月十二日付)。

批判矛先根源に
 イラク戦争への批判が米国で広がりつつあるが、その矛先は根源に向けられるべきだ。同様の虚構で侵略戦争を重ねる背景には、今の米国が「安全保障」の名で戦争を繰り返す戦争国家(「国家安全保障国家」)になっている根本問題がある―そう述べてキャロル氏が振り返るのが、三月に六十周年を迎えたトルーマン・ドクトリンです。
 「世界史の現時点で、ほとんどすべての国が、(米国流の「自由」か、ソ連流の「恐怖と圧制」かの)異なる生活様式から一つを選ぶことを求められている」―四七年三月十二日、トルーマン大統領は上下両院合同会議で演説し、ギリシャ紛争への介入を承認するよう求めました。このトルーマン・ドクトリンは、「自由か独裁か」の白黒二分論に立つ、対ソ「冷戦」の開始宣言でした。
 演説の準備過程でアチソン国務次官(四九―五三年に国務長官)は、「たった一つのリンゴが腐ったため、たるの中のリンゴが腐ってしまうように」、ギリシャで左派勢力が勝てば、「イラン以東のすべての国に」、「小アジア、エジプトを通じてアフリカに」、「イタリア、フランスを通じて欧州に」危機が及ぶと訴えました。
 ここで初めて示された「腐ったリンゴ」論は、その後「ドミノ理論」に名前を変え、ベトナム侵略に使われました。キッシンジャー元国務長官が言うように、「ドミノ理論」は「(南)ベトナム防衛を二十年近く支えてきた中心的な安全保障仮説」(『外交』、九四年刊)となりました。

新「ドミノ理論」
 「希望のイデオロギーが憎悪のイデオロギーに打ち勝つには長い時間がかかる。撤退しない限り、われわれは勝利する」―昨年十一月十七日、ベトナムを訪問したブッシュ大統領は、ベトナム戦争の教訓について、こう語りました。国民が撤退を求めても、それを耐え忍んで戦争を続けていれば、ベトナムで勝てたはずだし、イラクでも勝てるというのです。
 ブッシュ政権は、二〇〇一年の9・11対米同時テロ後、「米国を支援しなければテロリストの味方だ」との単純な白黒二分論(ブッシュ・ドクトリン)で「対テロ世界戦争」を強行。それが完全に破たんすると、同戦争は、イラクから広がる「イスラム教ファシズム」の世界支配を阻止するためだとの新たな「ドミノ理論」を持ち出し、戦争の継続、拡大を合理化しています。
 にもかかわらず野党・民主党は、「イラク戦争が最初から間違っていたからではなく、戦争がうまくいかなかったから批判している」、〇八年大統領選の出馬表明者の誰が、侵略戦争繰り返しの根源にある問題を提起しているのか―キャロル氏は問いかけています。
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2007年04月06日,「赤旗」) (Page/Top

憲法施行60年/いま言いたい/東大名誉教授篠原一さん/9条は戦後日本の宝石

 安倍首相は、憲法が「二十一世紀の時代の変化についていけなくなっている」といいました。いったい、ついていけなくなっているのは、どちらなのか。

◆NGOが評価
 彼ら保守の政治家は、中国から戦争中のことを厳しくいわれると、平和の道を歩んだ戦後の日本も見てくれ、という。たしかに、六十年間も、軍隊が海外に出て行って人を殺したことのない国は、サミット諸国では、日本以外にない。それは誇れることだと思います。では、なぜそれが可能だったのか。憲法九条があったからです。彼らが改憲を語るのは、非常に矛盾していると思います。
 イラクへの米軍増派を決めたブッシュ氏的なやり方が「二十一世紀の時代の変化」を代表しているのでしょうか。だれもそうは思いませんよ。アメリカ国民からも見放されています。「集団的自衛権」という古い発想を振りかざす安倍氏も全く時代に逆行しています。
 反対に九条は、二十一世紀を先取りしてきました。世界のNGO(非政府組織)は、一九九九年のオランダ・ハーグで開かれた世界市民会議以来、九条の理念や、地域の平和に果たす役割を評価し続けています。
 欧州諸国は、イラク戦争に反対したり、イラクから軍隊を引き揚げつつあります。二十一世紀は、軍隊を中核とした国民国家といった発想とは違う新しいデモクラシーが、起きてくると思います。二十世紀の「普通の国」は、二十一世紀の「普通の国」ではありえません。
 いまの状況は、一九三一年から四五年までの「十五年戦争」のときと似ています。保守勢力は、小泉前首相が明示した改憲路線を、みこし(首相)が変わっても引き継ぐでしょう。もし仮に安倍氏のねらう改憲が実現したら、次か、その次の首相は戦争をする人です。次々となし崩し的に流れていく勢いを断ち切ることが重要です。だから、さしあたって、私たちは改憲を訴える安倍内閣に選挙で審判を下さなきゃいけない。そうすれば、彼らも簡単には改憲を口に出せなくなります。
 もともと日本の憲法は、簡単に変えられない硬性憲法です。安倍首相は、いみじくも「戦後レジーム(体制)」といいましたが、この六十年間、判例や法律で憲法の実体(コンスティテューション)が肉付けされてきました。だから環境権や新しい人権は、すでに認められています。そのほかにも日本は、子どもの権利条約など六つの国際人権条約を批准しています。これに基づく法令はいつでもつくれます。生きた憲法構造ができあがっているのです。

◆百年は続けて
 九条は現在も、日本の軍拡と戦争への勢いを食い止め、有効に働いています。そして本来、世界に開かれた、未来志向のものです。いい憲法は、六十年とはいわず、百年は続けるべきではないでしょうか。
 一九三〇年代、ファシズムの進出に抗して欧州で人民戦線運動が起こり、多くのインテリが義勇軍としてスペインにいった。あのときの運動には輝きがありました。私はいま「ねりま九条の会」の呼びかけ人をしていますが、「九条の会」の運動にもそうした人たちが出てくる素地があります。九条にはそれだけの価値がある。戦後日本の核にあった、宝石みたいなものだからです。
 聞き手 藤原直
 しのはら・はじめ 1925年東京生まれ。東京大学法学部卒業、東大教授、成蹊大学教授を経て現在、東大名誉教授。専攻は、政治学・ヨーロッパ政治史。主著は『市民参加』(岩波書店)。近著に『市民の政治学』(岩波新書)がある。
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2007年03月04日,「赤旗」) (Page/Top

背表紙/『不都合な真実』…いま直視すべき衝撃の真実

 アル・ゴア著『不都合な真実』(ランダムハウス講談社・二八〇〇円)が売れています。危機的な地球環境の現状と対策を呼びかけた映画の書籍版。いま直視すべき「真実」を伝える、大判カラーの重く衝撃的な本です。
 「世界中の山岳氷河はほぼ例外なく、溶けつつある。しかも、その多くが急速な勢いで」
 数十年前の写真と現状を次々と比較し、「温暖化」が明白であるという「不都合な真実」を暴き出します。「明らかに、私たちのまわりの世界に、ものすごい変化が起きている」というのは多くの人の共通認識でしょう。「京都議定書」への参加を拒んできたブッシュ政権でさえ、環境問題への対策を掲げざるを得ない状況です。
 「将来を守るため、私たちはもう一度立ち上がらなければならない」というのはもっともな主張です。ただし、個人の「節約」だけでは根本的な解決には程遠いようにも思えます。最大の環境破壊である戦争への追及が甘いところも物足りなさが残ります。ともあれ日本でも、環境問題は国をあげてとりくみ「政治問題化」すべきテーマです。
 なお、映画では結末近くで「共産主義」がファシズムや人種差別と同列に人類が「克服」してきた事例として例示されていましたが、書籍版ではカットされています。(金)
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2007年02月11日,「赤旗」) (Page/Top

教えて!!アインシュタイン/ジャン=クロード・カリエール著、南條郁子訳


ファンタジックな珍しい科学入門
 著者は、百三十本を超える映画・テレビ・演劇の脚本家。物理とは畑違いの人であるが、天文学者との対談『平行宇宙についての対話』やテレビ番組「ガリレオ―神の愛」の脚本を書いている。それなりの深い知識を持って書かれていることが、本書に魅力をそえている。
 訳者は本書を「アインシュタインの仕事とその周辺についてやさしく語ったフィクション仕立ての入門書」と紹介している。そのフィクションの「仕立て」方が面白い。
 若い女性が二十世紀前半の中欧の街を急ぎ足に歩いていくところから書き出されている。彼女を追う映画の冒頭シーンが目に浮かぶようである。彼女は古い建物の書斎にアインシュタインを訪ね、物おじせずに感想をぶつけていく。たとえば、本書の「ナチスとファシズムの影」の章にこんな会話がある。
 「それについて話すの、気がすすみませんか」「うーむ…。あなたはご存知だと思いますが(中略)わたしは核兵器の父として非難されたことがあるのです、ヒロシマの張本人だといわれました」「でもそれは本当じゃないんですか」「責任があることは事実です…」。
 また、「『わたしは二度の戦争と二人の妻とヒトラーを生きのびた』と先生が言ったというのは本当ですか」と若い女性がたずねる。「おぼえていません。でも私なら言いそうなことです」―。対話は無論フィクションなのだが、アインシュタインならいかにも言いそうな話が現代の宇宙論まで展開される。そのリアリティーが面白いし、科学に不案内と思われる若い女性の質問で相対性理論や核兵器のかかわり、人柄が浮き彫りにされていく。
 書斎は魔法のドアつきで、そのドアから自分の重力論理がお払い箱にされたと怒るニュートンも登場する。ファンタジックな珍しい「科学入門書」である。
 松橋隆司・サイエンスライター
 Jean−Claude Carriere 一九三一年南フランス生まれ。
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2007年02月11日,「赤旗」) (Page/Top

文化/今日に生きる中原中也/生誕100年/鋭い批評と社会性―その魅力/嶋岡晨

 1937年(昭和12年)、中原中也が死んで間もなく、小林秀雄が書いたエッセーは、この詩人への固定観念を世人にうえつけた。「時代病」や「政治病」の患者がめずらしくない時代に、まれなる「孤独病」を患って死んだ、と小林は中也を評価した。
 戦後になると、孤独病を特権とする反社会的詩人として、中也は、黒田三郎その他に批判された。
 だが、そうとばかりはいえないだろう。
 なるほど、人間的な弱さ・未熟さをたっぷり抱えた孤独病者中也を指摘するのに、手間はかかるまい。それは、詩人独自の青春性の証しでもあったのだから……。しかしその傷つきやすい心情、その過敏さゆえ、作品には個人的哀傷ばかりでなく、じつは微妙に時代・社会が、反映され織りこまれていた。
 28年(昭和3年)、29年、官憲による共産党員の大検挙があった。同31年の「満州事変」につづき翌年には、「上海事変」が起きた。作家・小林多喜二の拷問死の33年には、関東軍が華北(中国北部)へ侵入。36年、皇道派青年将校によるクーデター「二・二六事件」、その翌年いよいよ日中両軍の戦いが本格化し、南京大虐殺も行われた。こうした時代状況を意識しつつ、いま中也の何編かの詩を読み返して、改めて気づくことがある。
 たとえば「正午 丸ビル風景」(37年)――正午のサイレンとともにビルからぞろぞろ出てくるサラリーマン。それは別の詩「屠殺(とさつ)所」(28年ころ)の、無意味に死ぬ牛たち(=民衆)のイメージにたやすく重なる。「夏と悲運」(37年)の私的非運の外的増殖である。
 「正午 丸ビル風景」の曇り空はまた、「曇天」(36年)のうっとうしい曇り空につらなり、この詩にはためく不吉な黒旗は、ファシズムを(ムッソリーニ支持の黒シャツ党をも)連想させる。野原の上、都会の上にひるがえるその旗は、詩人の不幸のニヒルなしるしにとどまるものではあるまい。「幾時代かがありまして……」の時代意識も思い出される。
 そうだ、詩「サーカス」(29年)にある「茶色い戦争」は単なる過去の記憶でなく、いやな予感を孕(はら)み始める。真っ暗な夜は迫りくる大きな死であり、「落下傘奴(らくかがさめ)」が、過去への郷愁どころか近い将来、あてもなく着地し滅びさる共有の夢に見えてくる。詩全体、鰯(いわし)や牡蠣殻(かきがら)のように鈍感で群盲めく大衆への、毒をふくむ警告ではなかったのか。
 しまおか しん・詩人=1932年高知県生まれ。明治大学大学院修士課程修了。専攻は近現代詩歌。日本文芸家協会会員。著書に『嶋岡晨詩集』『現代詩の運命』『ポエジーの挑戦』『愛と反逆の詩人たち』『詩とは何か』『隅田川とセーヌ川』など多数
 中原中也(なかはら・ちゅうや)=1907〜1937年。山口市湯田温泉に生まれる。小林秀雄や大岡昇平らに交わり詩作を始め、30年の短い生涯に350編以上の作品を残す。詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』などで死後に名声が高まる。翻訳『ランボオ詩集』を出すなどフランスの詩人の紹介にもつとめた
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2007年01月07日,「赤旗」) (Page/Top