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2000年活動】

*         11

*         国家賠償法制定を要請/治維法国賠同盟/参院議長に署名提出

*         10

*         国会通信

*         国会通信

*         国家賠償、一日も早く/治安維持法国賠同盟が請願

*         国家賠償法制定を要請/衆院議長に治維法同盟代表

*         9

*         「治維法犠牲者の国家賠償法」/和歌山市長 国に制定要望書

*         治安維持法の弾圧のなか命をかけた若い女性たち/戦争反対、国民主権、女性の地位向上

*         8

*         終戦55周年 侵略戦争2度と繰り返さぬ/これから生きる人たちに戦争の悲惨さ伝え続ける/婦団連が女性のつどい

*         日本政府に戦後賠償勧告を/治維法国賠同盟代表ら 国連人権小委に要請

*         7

*         日本共産党創立78周年記念講演会/日本共産党の歴史と綱領を語る/幹部会委員長 不破 哲三/(治安維持法に関係する箇所抜粋)

*         6

*         治安維持法犠牲者の思い/歴史(とき)に埋もれる前に/ビデオ

*         潮流

*         森首相の「神の国」「国体護持」発言/なぜこんな人が首相に批判続く

*         5

*         神って何?/時代遅れ ニュース見て絶句/怖い/森首相「神の国」発言/新宿など街の声は

*         4

*         きょう野呂栄太郎生誕100年/多喜二の死に香典をおくった/「杉並町 由ある三人」とは/山崎 元

*         3

*         国領五一郎の墓前祭/京都 総選挙での躍進誓う

*         自自公の悪政打破、総選挙勝利/山宣墓前祭で誓う/京都

*         2

*         遺志受け継ぎ総選挙勝利誓う/小樽で「小林多喜二祭」

 

【本文】

国家賠償法制定を要請/治維法国賠同盟/参院議長に署名提出

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の中西三洋会長ら七人と日本共産党吉川春子参議院議員は九日井上裕参議院議長に対し、治安維持法犠牲者に対する国家賠償と謝罪を行うよう要請を行い、一万八千の団体署名を手渡しました。
 同同盟の中西会長は「(当時)同人雑誌を発行しただけで懲役三年の刑になった。国賊と言われたが、戦争に反対した者が本当の愛国者です。ドイツでは、国際法にもとづき犠牲者に謝罪し賠償している。イタリアも国家賠償法を制定し、反ファシスト政治犯に終身年金を支給している。日本も治安維持法犠牲者国家賠償法の制定と謝罪をしていただきたい」と要請しました。
 中西さんは、当時、労働者へ向けて民主的な雑誌『白樺』を約二千部発行していましたが、一九三六年に、いわゆる特高警察に検挙され、三年の兵役もあり、一九四五年十月十日に釈放されました。
 同行した吉川参院議員は「徐々に超党派で紹介議員も増えています。議長の力添えをいただきたい」と要請しました。
 一九二五年に制定された治安維持法は、戦前の絶対主義的天皇制のもとで主権在民を訴え、侵略戦争に反対した民主政党や労働組合などの活動家から宗教家までも弾圧しました。
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11月10日 「赤旗」)

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国会通信

あいさつ 交渉 交流……12日
 木島日出夫衆院議員 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の国会請願集会であいさつ、法務大臣への陳情に同席
 松本善明、赤嶺政賢衆院議員、小泉親司参院議員 安保破棄中央実行委員会の安保破棄一〇・二一成功をめざす街頭宣伝で演説
 矢島恒夫衆院議員、須藤美也子参院議員 日本共産党国会議員団の定例街頭宣伝で演説
 松本善明衆院議員、須藤美也子参院議員 福島県磐梯町の場外馬券場設置に反対する会の代表から要請を受け、懇談
 塩川鉄也、大森猛、瀬古由起子、石井郁子、藤木洋子、春名(直の下にハ)章衆院議員、阿部幸代、井上美代、大沢辰美、畑野君枝、林紀子参院議員 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の各都道府県の代表から、「治安維持法犠牲者への国家賠償法」制定と参議院選挙への「非拘束名簿式」導入反対の要請を受け懇談
 小池晃参院議員 全国保険医団体連合会の鮫島千秋会長と堀場英也顧問より今国会に提出されている健保法・医療法の反対要請を受け、懇談
 塩川鉄也、大森猛、佐々木憲昭、瀬古由起子、穀田恵二、石井郁子、藤木洋子衆院議員、西山登紀子参院議員 各都道府県の保険医協会と歯科保険医協会の代表から、参議院選挙への「非拘束名簿式」導入反対、医療費の高齢者1割負担の中止、介護保険の緊急改善の要請を受け、懇談
 佐々木憲昭衆院議員 「公共事業チェック議員の会」主催のインドネシア国際NGOフォーラム代表団との会合に出席
 大森猛、小沢和秋衆院議員 二〇〇〇年なくせじん肺全国キャラバン実行委員会、全国じん肺原告団・弁護団連絡会議の労働省交渉に同席
 小沢和秋衆院議員 二〇〇〇年なくせじん肺全国キャラバン実行委員会の集結集会であいさつ
 大森猛衆院議員 神奈川県の「私たちの墓地を守る会」の厚生省交渉に同席
 松本善明、中林よし子衆院議員、大沢辰美、須藤美也子参院議員
 全国農業協同組合中央会主催の「第二十二回JA全国大会」に出席
 井上美代、岩佐恵美、小池晃、西山とき子参院議員、山口富男衆院議員 「党障害者の社会参加と平等推進委員会」で狛江市を訪れ、重度知的障害者通所施設などを見学し、高次脳機能障害者問題などで矢野ゆたか狛江市長と懇談……11日
 石井郁子衆院議員、畑野君枝、林紀子参院議員 著作権等管理事業法案について日本音楽著作権協会(jasrac)と懇談
 畑野君枝参院議員 チャイルドライン設立推進議員連盟総会に出席
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10月14日「赤旗」)

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国会通信

あいさつ 交渉 交流……11日
 児玉健次衆院議員 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の衆院議長への陳情に同席
 大幡基夫衆院議員 全国自動車交通労組総連合会の第二十三回定期大会であいさつ
 木島日出夫衆院議員 参議院選挙制度改悪(非拘束名簿式)阻止等国民要求実現をめざす共同国会要請行動を激励し、あいさつ
 瀬古由起子衆院議員 千葉県母親連絡会の森川寿美会長ほかの国会要請団から第四十六回日本母親大会の選挙制度改悪反対決議で要請を受け、懇談
 大森猛衆院議員 神奈川県各界連絡会の「党利党略の参議院選挙制度改悪に反対する」国会議員要請を受け、懇談
 矢島恒夫衆院議員 情報通信の公共性を守り、NTT五万人削減反対共闘会議の代表とともに、NTT大リストラによる営業所等の削減問題で郵政省に要請
 藤木洋子衆院議員 チャイルドライン設立推進議員連盟総会に出席
 中林よし子衆院議員 日本母親大会立石京子事務局次長らより、第四十六回日本母親大会実行委員会決議「参議院選挙制度の改悪、非拘束名簿方式の導入に反対します」を受け取り、懇談
 緒方靖夫参院議員 全国建設労働組合総連合の第四十一回定期大会であいさつ
 小池晃参院議員 全日本民主医療機関連合会の一〇・一一民医連独自集会であいさつ
 吉岡吉典、吉川春子参院議員 日本強制労働補償基金研究会の代表松尾章一氏から強制労働させられた被害者の補償問題に関する提言についての要請を受け、懇談
 須藤美也子参院議員 日本母親大会実行委員会から参院選挙制度の改悪、非拘束名簿式の導入に反対する要請を受け、懇談
 須藤美也子参院議員 国民大運動実行委員会から、党利党略の参院選挙制度改悪に反対する要請を受け、懇談
 須藤美也子参院議員 山形県民主医療機関連合会から社会保障制度の充実を求める要請を受け、懇談
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10月13日「赤旗」)

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国家賠償、一日も早く/治安維持法国賠同盟が請願

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟(治安維持法国賠同盟、中西三洋会長)は十二日、治安維持法犠牲者への国家賠償を実現する国家賠償法の制定を求める国会請願をおこないました。
 この行動には、全国から百人近い会員が参加。戦前の治安維持法による犠牲者が年々高齢化しているなか、一日も早い解決をと集められた国会請願署名は約三十二万人に達しました。
 会員は、国家賠償法の制定を求める請願の紹介議員になってもらおうと各党国会議員を訪問して要請。また、参院選挙制度の非拘束名簿式への公職選挙法改悪案を廃案にするよう求めて要請文を渡しました。
 中西会長はじめ代表十一人は、法務大臣室で保岡興治法務大臣に面会し、国家賠償法制定を要請しました。要請には、日本共産党の木島日出夫衆院議員と橋本敦参院議員が同席しました。
 中西会長は、日本だけが、第二次大戦中に戦争に反対して弾圧された人々に謝罪も補償もしていないことと、これまでの運動の広がりを説明。「日本の侵略に反対したのは真の愛国者だと考えています。日本全体で戦争に反対した人々を真の愛国者として検証してほしい」と訴えました。
 保岡法務大臣は、「歴史上の教訓として、心の中に留め置く」と答えました。
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10月13日「赤旗」)

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国家賠償法制定を要請/衆院議長に治維法同盟代表

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の中西三洋会長など同同盟の代表六人は十一日、衆議院議長公邸で綿貫民輔議長に面会し、治安維持法の犠牲者に国家賠償をおこなう国家賠償法の制定を要請しました。要請には、日本共産党の佐々木憲昭衆院議員と児玉健次衆院議員(代理)が同席しました。
 中西会長は、約二万人の団体署名を提出し、「第二次大戦中に戦争に反対して弾圧された人に謝罪や補償をしていないのは日本だけです。韓国では同じ治安維持法で捕らえられた人に対して、年金を支給しています」と訴えました。「私たちは国家賠償法の制定を求める請願を毎年しているが、ほとんど審議されていない。ぜひ、国会として討議を進めるよう議長として指示してほしい」と求めました。
 松崎濱子顧問は「十八歳のとき、戦争反対者として捕まりました。捕まった人は友達といわず恋人といわず、死んでしまいました。私は生き残りなんです。国としてきちんと謝ってほしい」と訴えました。
 綿貫議長は、関係委員会で対処するよう取り計らうと答えました。
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10月12日「赤旗」)

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「治維法犠牲者の国家賠償法」/和歌山市長 国に制定要望書

 和歌山市の旅田卓宗市長は七日、「治安維持法犠牲者国家賠償法(仮称)の制定について」の要望書を内閣総理大臣、法務大臣と衆・参両院議長に送付しました。
 これは、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟和歌山県本部の代表が八月三十日、大艸主馬日本共産党市議とともに旅田市長に要望したのにたいし、七日付で旅田市長から要望書として政府と衆・参両院議長に提出されました。
 要望書には、治安維持法が国民の思想、信条、信仰の自由や言論、結社の自由を弾圧した法律であること、ポツダム宣言によりこれが廃止され、有罪判決を受けた人びとが無罪となったこと、この治安維持法によって精神的、肉体的被害をうけた人びとにたいし、国家賠償法を制定し、一日も早く謝罪と賠償をおこなうようとの趣旨が表明されています。
 旅田市長は、同盟県本部の要望にたいし、これは人道的問題として重要なことであり、お役にたてればうれしい、と語りました。
 この申し入れには藤沢弘太郎県本部会長、中平喜祥副会長、森下澄子事務局次長が出席しました。
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09月10日「赤旗」)

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治安維持法の弾圧のなか命をかけた若い女性たち/戦争反対、国民主権、女性の地位向上

拷問に耐え、たたかい抜いた信多まちさん(93歳)
 ビデオ「燃やし続けた炎」(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟が制作)が、各地で感動を広げています。戦前、侵略戦争反対と国民主権を主張しただけで、特別高等警察(特高)の拷問(ごうもん)によって多くの日本共産党員が殺されました。そのなかには、当時二十代の若い女性たちも少なくありませんでした(注)。ビデオでは、弾圧体験者の証言をつづっています。「二十二歳のとき、拷問で気絶し一週間後に意識を回復した」という、奈良県生駒市に住む日本共産党員、信多(しのだ)まちさんもその一人です。 生駒山の中腹、急坂を上った平屋建てに、まちさんは一人で暮らしていました。この二十九日で九十四歳の誕生日を迎えますが、まだ食事も買い物もすべて自分でしています。いまは十一月にある治安維持法犠牲者の「女性の集い」に「ぜひ行きたいので」、毎朝、四十七段の石段を上がる散歩をしています。
 質素な部屋の壁には「山宣一人孤塁を守る…」の拓本、机には憲法の前文がはってありました。
 「拷問されたおしりが今もしびれる。生き証人は高齢化し死んでいく。だけど、不屈に戦った人たちのことを忘れてはいけない。私にも忘れられない人がたくさんいる。『神の国』発言を聞くと、暗黒時代への逆行を感じる。平和と主権在民の憲法を絶対に守らなければとつくづく思う」
 まちさんは、岡山県の山村の自作農の子として生まれます。兄、姉、母を肺病で亡くし、継母とあわず、十七歳で家出。「女性が独立するには職業が必要」と看護婦の資格をとります。初めて勤めた近江の療養所。そこで「京都学連事件」(=一九二五年、治安維持法適用第一号となった弾圧事件)で未決となり送られてきた同志社大生の結核患者と出会ったのが社会的な目覚めのきっかけでした。
千六百人ものいっせい検挙
 「ベーベルの『婦人論』なんかを借りて、わからぬまま夢中で読んだ。当時は、女性の地位はきわめて低く、結婚なんかも親のいうまま。それがおかしいと思っていたので、男女平等がすすんでいる国があることを知り、目を開かされた」
 もっと勉強したいと、一九二七年春に上京。保育園で働きながら、無産階級の立場に立つ婦人の結社である関東婦人同盟結成などの運動に飛び込みます。
 しかし、天皇制政府は、翌二八年三月十五日、全国いっせいに千六百人におよぶ日本共産党員と党支持者を検挙します。中国にたいする侵略戦争の「銃後」をかためるためでした。同年四月には、治安維持法が緊急勅令によって最高刑が「死刑もしくは無期懲役」に改悪されます。
 こうした困難ななかで、残った党員たちと支持者は英雄的なたたかいを続けます。三・一五の後、まちさんも関西に戻り、対支非干渉同盟の名前で反戦ビラをまくなど活動。二九年三月山本宣治が殺されたと聞いたときは「手をとりあって泣き、山宣に続けと心に誓った」。翌月、まちさんも働いていた武田製薬淀川工場で逮捕されます。
 「何を聞かれても口を開かないでいると、特高の一人が私を足げりにした。そのあと打て打てと。竹刀を持った男がところかまわず打ちまくる、引き倒す。気づくと身に一糸もまとっていない。そのうち気絶。気がついたら保護室に寝かされ、一週間たっていた」
多喜二さんは兄に似ていた
 その後、まちさんは微熱が続いたため、神奈川・茅ヶ崎の療養所で看護婦として働きながら体を治すことに。待遇改善をもとめた組合づくりのなか、一九三二年夏、日本共産党に入党します。連絡をとっていた党員が逮捕され、小林多喜二が連絡に来たこともありました。「死んだ兄によく似ていた人でした。私が三島の争議支援にいって逮捕され、留置場から逃げた話をすると、体を乗り出して聞いてくれ、『党を大きくしなければ。そのために死を覚悟している』と。それが多喜二さんだったと知ったのは最近になってです」
 数カ月後、まちさんは前橋で逮捕、ふたたび激しい拷問を受け、四年の実刑で栃木刑務所に服役します。
 三年前、まちさんはジュネーブの国連人権委員会にでかけてこう訴えました。
 「治安維持法犠牲者への謝罪、賠償について、日本政府が認めようとしないのは、戦争に反対したものを捕らえ、拷問、虐殺して、国民を戦争にかりたてたことを何一つ反省していないからです」(村瀬喜之記者) (注) 不破委員長は党創立78周年記念講演会で「勇気ある不屈の先輩たちのなかに、党幹部だった夫の裏切りにもめげないで最後まで節を貫いた伊藤千代子さんや、コンパクトに『闘争・死』という言葉を残して獄死した飯島喜美さんなど、多くの若い女性たちがいたことを忘れることはできません。…この二人は、ともに二十四歳の若い命を落としたのであります」と強調しました。
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09月02日「赤旗」)

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終戦55周年 侵略戦争2度と繰り返さぬ/これから生きる人たちに戦争の悲惨さ伝え続ける/婦団連が女性のつどい

 日本婦人団体連合会は十五日、「戦争はごめん女性のつどい」を東京都内で開き、約五十人が参加しました。
 つどいでは、天皇の絶対的な権力を守るためにつくられた治安維持法のもとで虐殺など多くの犠牲者が出たことを告発するビデオ―「燃やし続けた炎」(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟)を鑑賞しました。
 あいさつにたった守谷武子副会長は、「森首相による『神の国』発言など心おだやかではいられない。私たちは、これから生きる人たちに戦争の悲惨さを伝え続けなければ。貧困と暴力に反対し、希望・平等・平和・民主主義を求める世界女性行進を広げ、世界の草の根の女性たちと手をつなげば戦争のない世紀は確立できる」と話しました。
 静岡大学人文学部教授の小沢隆一氏が「日本国憲法―平和への輝きと逆流」と題して講演しました。小沢氏は「押しつけられた」「古くなった」など改憲派の議論がいかに的はずれかをのべ、憲法が女性に多くの解放をもたらしたことにふれながら「こんな憲法を日本の女性が手放すはずはない。日本国憲法を二十一世紀にひきついでほしい」「生命の視点から日本の平和運動に先駆的な役割を果たしてきた女性たちにエールを送りたい」と話しました。
(
08月16日「赤旗」)

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日本政府に戦後賠償勧告を/治維法国賠同盟代表ら 国連人権小委に要請

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の斎藤邦雄事務局長らはこのほど、ジュネーブで開かれた「国連人権促進と保護の小委員会」の会議に出席しました。
 斎藤氏らはNGO(非政府組織)や政府代表などに、治安維持法犠牲者や中国人、朝鮮人などの戦後賠償要求に日本政府が謝罪と賠償をおこなうよう国連人権委員会が勧告するよう要請する文書を手渡し、要請行動を繰り広げました。
(
08月24日「赤旗」)

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日本共産党創立78周年記念講演会/日本共産党の歴史と綱領を語る/幹部会委員長 不破 哲三

党の戦前の歴史から−−宮本名誉議長の1933年事件とは
戦前の日本社会――「天皇を中心とした神の国」の実態は生やさしいものではなかった
 まず日本共産党の戦前の歴史でありますが、反共派はとくに現在名誉議長である宮本顕治さんの戦前の事件にかかわる攻撃に集中しました。
 この問題をよくわかっていただくためには、戦前の日本がどんな社会であったかということを見ていただく必要があります。
 選挙の前に森首相が「日本は天皇を中心とする神の国」だという発言をして、戦前の日本と今の日本との区別もわからないのかと問題になりました。
 「天皇を中心とする神の国」というのは、私どもが戦前の学校で教え込まれた当時の日本の姿そのものでしたが、その実態は、こういう言葉で簡単に表せるような生やさしいものではありませんでした。
 当時の明治憲法には、第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第三条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」、こう規定してありました。天皇は、その言葉がぴったりあてはまるような無条件絶対の支配者であって、それを批判したり反対したりすることは絶対に許されない極悪の犯罪とされていたのが、戦前の日本でした。天皇の名でやられることを批判しようものなら、すべてが「国体を変革する」罪にあたる。中国などアジア諸国への侵略戦争も、日本は「神の国」なのだから、そのもとにアジア諸国を統一するために天皇が起こした「聖戦」だとされました。
 今ではだれでも無法と認めるこの論理が、国家の強権をもって社会全体に強引に押しつけられたのが、戦前の社会だったのであります。
 こういうなかで、日本共産党は一九二二年に創立されました。この国を「天皇を中心とする神の国」から「国民が主権をもつ民主政治の国」にしよう、国民の権利、とくに生活権を保障しよう、侵略戦争と植民地支配をやめさせよう――これが、戦前わが党の先輩たちが最大の任務としてかかげた目標でありました。しかし、この主張――いまでいえば当たり前の民主主義と平和の主張のために、日本共産党は生まれたその時から、その存在自体が弾圧の対象となり、非合法の政党とされたのであります。同じころ、世界各国で共産党は生まれましたが、最初から非合法にされたのは、今沖縄に集まりつつあるサミット諸国のなかでは日本だけのことでした。
 そして、日本共産党が生まれてすぐ、当時の政府は治安維持法というものをつくりました(一九二五年、二八年に死刑法に改悪)。これは、国体、つまり天皇絶対という反民主的な政治の体制を変えようとすることを、「国体の変革」の罪として、最高は死刑にするということを決めた、本当の民主主義弾圧法でした。その法律にもとづいて日本共産党への弾圧がおこなわれましたが、この迫害は一九三一年に中国への侵略が始まった時期からとりわけひどいものとなりました。戦前の弾圧といえば、特高警察――日本共産党などを弾圧することを専門にした特別高等警察の存在がいつも問題になりますが、この警察の活動も、中国侵略の開始とともに、いよいよ本格的になりました。 そして、政党のなかで戦争反対を貫いたのは日本共産党だけでしたから、三〇年代には、とりわけその迫害が激しいものとなったのです。
 共産党員を逮捕したら、その場で死ぬまで拷問する、こういうことも珍しくはありませんでした。わが党の中央委員で上田茂樹さんという人は、一九三二年四月につかまったことまではわかっているのですが、その後の消息は不明で、どこでいつ殺されたかも今日までついにわからないままであります。中央委員の岩田義道さんは、同じ年の十月に逮捕されましたが、逮捕の四日後に拷問で殺されました。作家の小林多喜二さんは翌三三年の二月に逮捕されましたが、七時間後に絶命しました。やはり党の中央委員だった経済学者の野呂栄太郎さんは三三年の十一月に逮捕され、拷問をうけて三カ月後に死亡しました。こういうことが相次いだのであります。
 特高警察はそういうことをやるために、スパイの網の目をはりめぐらせ、党中央にもスパイが潜入しました。今あげた人たちの多くは、そういうスパイの手引きで逮捕され、殺されたのです。その当時の彼らの手口は本当に前代未聞の卑劣なもので、送りこまれたスパイが党の幹部になり、銀行襲撃のような犯罪を自分で計画してそれに党員を動員する、そしてそれによって日本共産党の名誉を傷つけるということまでやったのです。
法廷闘争をただ一人傍聴した宮本百合子の「日記」から
 二十五歳の青年だった宮本顕治さんが中央委員として党中央に入ったのはそういう時期でした。一九三三年であります。そして宮本さんたちが、中央に入りこんでいた二人のスパイの存在に気づいて調査をおこないました。それによって、さっき申しました野呂栄太郎の逮捕も、スパイの手引きによるものであることが証明されました。
 しかし、この過程で不幸な事件が起きたのです。二人のスパイのうちの一人が、調査の途中、急性の心臓死を起こしました。
 宮本さんが逮捕されたあと、この事実を知った特高警察は、これを「指導権争いによるリンチ殺人事件」として大々的な宣伝をおこなったのです。こんどの選挙中にまかれた反共ビラは、このとき特高警察が作り上げたデマ宣伝、「リンチ殺人事件」ということをそのまま蒸し返したものであります。
 しかし、事実は、党内の「指導権争い」などではなく、党に潜入したスパイにたいする調査でした。このことには、後日談があるのですが、そのとき調査の対象になった一人はその後警察に捕らえられて裁判にかけられました。特高警察は、スパイの存在を認めませんから、この人物は自分たちが送りこんだスパイだということを認めないまま、共産党の幹部として起訴したわけです。その当人があわてて、「私はそうじゃないんだ。特高警察の課長の命令で――毛利という課長なんですが――送りこまれてこういうことをやったんだ」と、一生懸命法廷で弁解するのですが、特高警察と通じていた法廷は、そういう証言はとりあげないで有罪にしました。こういうことがあとでおきたぐらい、特高のスパイ政策はスパイのご当人も認めた明瞭(めいりょう)なものだったのです。
 そして当時、スパイにたいするわが党の最高の処分は、除名してそのことを天下に公表し、二度とそういう活動ができないようにする、こう明瞭に規定されていました。そういう中で起こった不幸な事件だったのであります。
 逮捕された宮本さんは、このデマ宣伝を打ち砕くために、獄中でも法廷でもたたかいましたが、私はこの闘争は歴史の記録に残るものだったと思います。
 とくに、当時の党の幹部で、同じくスパイの調査に参加したほとんどの人物が攻撃におびえて党の立場を捨て、警察に迎合的な陳述をする、そういうなかでの、いわば極限的な困難に追い込まれたなかでのたたかいでした。しかし、このたたかいは自分とその名誉を守るというだけでなく、不当な誹謗(ひぼう)・中傷をくつがえして日本共産党の名誉を将来にわたって守るためのたたかいだとして、宮本さんは全力をあげて取り組んだのであります。
 宮本さんはどんな拷問にも屈しないで、密室での取り調べはすべて拒否し、そして法廷に出たときには道理をつくしてたたかうという態度を堅持しました。
 法廷のたたかいは途中で(宮本さんの)病気で中断され、最後の裁判は戦争が終わる前年、一九四四年の十二月まで続きましたが、まさに戦争中の法廷であります。妻の宮本百合子さん以外には、被告の側に立つ傍聴人はだれひとりいない、そういうなかでのそれ自体がきびしい法廷でしたが、そこで、道理をつくす法廷闘争を、諄諄(じゅんじゅん)と事実をとき明かす、こういう態度ですすめたのであります。
 宮本百合子さんは、この法廷に参加して「日記」に記録を残しています。彼女自身、夫の宮本顕治さんの口から事の真相を聞くのは、この法廷が初めてでありました。そこで、初めてそういう事実を耳にしながら、「日記」や手紙にそのときの思いを記録しています。
 そのいくつかを紹介したいと思います。一つは一九四四年九月二日。第四回公判を聞いての日記であります。
 「極めて強烈な印象を与える弁論であった。詳細に亙る弁論の精密適切な整理構成。あくまで客観的事実に立ってそれを明瞭にしてゆく態度。一語の形容詞なく『自分としての説明』も加えず。胸もすく堂々さであった。……リアリズムというものの究極の美と善(正直さ)を感じる。深く深く感動した」
 これが初めて事実を聞いた百合子さんの感想です。
 次の公判では、そのことの文学的な値打ちにも触れて、のべられています。
 九月十四日、第五回公判。「品位にみちた雄弁というものが、いかに客観的具体性に立つものかを痛切に学ぶ。彼は、一つも自分のためには弁明しない。只事実を極めて的確に証明してゆく。こうして、私は、事実はいかに語らるべきものか、ということについて、ねぶみの出来ない貴重な教育をうけつつある。ああ自分もああいう風に語れたら」
 百合子さんは宮本顕治の法廷での陳述を聞いて、自分自身がその事態のなかの人物の一人でありながら、自分のための弁明とか、自分の立場からの説明というものを一切加えないで、客観的に事実をずっと積み上げてゆくなかで、何が真実かを明らかにしてゆく、そのことを重く受け取ると同時に、そのことが自分の文学にとってもつ意味を体でくみとったわけですね。
 私は、百合子さんは、実際、そのとき受けた思いを戦後の作品に生かしたと思います。『播州平野』、『風知草』、『二つの庭』、『道標』など、多くの作品が戦後書かれました。このなかでは、宮本百合子さん自身が「ひろ子」、「伸子」という名前での登場人物でありました。しかし、自分自身がそこに登場していながら、それこそ自分としての説明を一切加えないで、自分を含む社会の展開をリアルに描き出してゆく、これは彼女自身が編み出した創作の方法ですが、宮本百合子さんにこういうところまでの影響を与えるほど、法廷での堂々たる弁論が展開された。私はここに非常に感銘を受けるものです。
 こういう法廷闘争の結果、戦時中のあの無法な法廷でも、「不法監禁致死」などいくつもの罪名をなすりつけはしたが、肝心の「殺人」という罪をなすりつけることはできなかったのであります。治安維持法違反が主で、無期懲役の判決が一九四四年十二月五日に下されました。
 この治安維持法違反については、戦後の民主化のなかで、一九四五年十月、政治犯として釈放されて決着がつきます。当時の政府は、そのほかのことがあるじゃないかとがんばったのですけれども、一九四七年五月には、日本政府がそのすべてについて全面的な復権を認めざるを得なくなり、「復権証明書」を出しました。
 五月に東京地方検察庁の検事正、木内曾益氏の名前で出された「復権証明書」には、先の判決について「将来に向て其の刑の言渡を受けざりしものと看做(みな)す」、要するになかったことにしようということが書かれたわけであります。
 このように、この問題は、戦争中の暗黒裁判の問題として、政治的にも法的にも完全に決着のついた問題であります。
 だからその後、一九七六年に、民社党という反共政党がこれを国会に持ち出したときにも、結局、その攻撃は成功しませんでした。しかし、失敗しても失敗しても、これを反日本共産党という目的のためには繰り返し持ち出す。そのこと自体が、自分が戦前の暗黒政治の後継者であることを告白しているのと同じではありませんか。(拍手)
数十万の人々を弾圧した暗黒政治の決着はまだつけられていない
 私がさらに強調したいのは、この事件は決着済みだが、戦前の暗黒政治そのものの問題はまだ決着がついていないということであります。
 私は、一九七六年に民社党などの反共政党が、この事件を国会に持ち出したときに、(衆院)予算委員会でこうのべました。
 「この治安維持法によってどれだけの人が共産主義者の名をもって逮捕されたか――完全な統計はありませんが、司法省の調査によってみると、検事局に送検されただけでも七万五千六百八十一名です。送検されない段階の逮捕を合わせれば、これが数十万に上ることは容易に察知されることです。
 しかも、治安維持法で逮捕された被告に対してはあらゆる人権が認められませんでした。そのために多くの人びとが共産党員として命を落としました。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟という組織が調査したところによりますと、逮捕されて、現場で、留置場で拷問などによって虐殺された者が六十五名、そういう拷問、虐待が原因で獄死した者が百十四名、病気その他の理由で死亡した者が千五百三名、全部で千六百八十二名が、わかっているだけでも治安維持法によって逮捕され、虐殺され、死亡しているわけです」(衆院予算委員会総括質問、一九七六年一月三十日)
 ここでつけくわえますと、この勇気ある不屈の先輩たちのなかに、党幹部だった夫の裏切りにもめげないで最後まで節を貫いた伊藤千代子さんや、コンパクトに「闘争・死」という言葉を残して獄死した飯島喜美さんなど、多くの若い女性たちがいたことを忘れることはできません。いま名前をあげたこの二人は、ともに二十四歳の若い命を落としたのであります。
 このときの予算委員会で、私がこういう事実をあげて、治安維持法をどうみるかということを質問したのにたいし、当時首相だった三木武夫氏は、“戦前の法律のことだから私がいろいろ価値評価をいたす立場ではない”と逃げました。再度の質問にたいしてもようやく「今日の事態から考えると、好ましい法律であったのではない」というにとどまりました。
 三木武夫氏でさえそうだったわけです。これは、あの暗黒政治が国政を担う政権党としてまったく清算されていないことの現れでありました。
 しかし歴史の審判は、すでに明白であります。日本共産党が多くの犠牲者を出しながら、「主権在民の民主主義の旗」、「侵略戦争反対の平和の旗」をかかげたことは、わが党の誇りある歴史であります。(拍手)
 それは、日本共産党にとってだけ意義を持つことではありません。このたたかいがなかったら、民主主義も、平和も、すべてが敗戦による外国からの輸入品だということになってしまうではありませんか(拍手)。明治初期の自由民権運動以来の、民主主義の伝統をになってのわが党の戦前の活動と役割には、まさにその意味で、国民的な意義があったのであります。
 そのことを強調して、次の問題、戦後の歴史に移りたいと思います。
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07月23日「赤旗」)

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治安維持法犠牲者の思い/歴史(とき)に埋もれる前に/ビデオ

 「燃やし続けた炎」を演出して/港 健二郎
 驚いてしまいました。森首相の「神の国」発言にです。まさか、あの天皇制の時代に郷愁を持つ人が、首相の座に座っているとは、今でも信じられません。
 この五月半ばに完成したビデオ「燃やし続けた炎」は、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の活動を紹介し、その今日的意味を特に若い世代にアピールするために作られました。
 私も、このビデオ作りで初めて知ったのですが、戦前の天皇制支配を守るために制定された治安維持法下の弾圧は、一九六八年の国連決議によって「時効の無い人道上の犯罪」に規定されています。
 それにもかかわらず、日本政府は、未だにこの治安維持法による犠牲者への正式な謝罪や賠償を行っていません。同じ侵略国家だったドイツやイタリアが、ナチスやファシズムの犠牲者を「愛国者」として名誉回復し、国家による保障を行っているのと大きなちがいです。つまり、国賠同盟の「今世紀中に治安維持法犠牲者への国家賠償を」という訴えは、日本の民主主義を守り育てる国民的課題でもあるのです。
若い世代に…
 では、こうした国賠同盟の活動と役割をどのように映像化し、特に若い世代にどう共感を持って見てもらうか…私は、岸田奈央さんをリポーターに起用しました。ミュージシャンとして活動する岸田さんの若く柔らかな感性に寄り添いながら、あの暗黒時代の真実を〓(手へんに国)み取って欲しかったからです。岸田さんは、作家の松田解子さんなど治安維持法犠牲者の方々を取材する中で、みるみる変わっていきました。厳しい弾圧に屈せず生き抜いた人々の穏やかな物腰の底に流れる平和と民主主義への熱い想いに深い感銘を受けたようです。その感動から詩が生まれ、岸田さんが自ら歌い、ビデオに奥行きを与えてくれました。
本当のことを教えてあなたの生きてきた道を過ぎゆく歴史の中にうもれてしまう前に消すことのできない燃やし続けた炎…
「神の国」の仕組み
 それにしても、岸田さんが涙を流しながら聞いていた治安維持法犠牲者の証言が忘れられません。「激しい拷問を加えながら特高が言うのよ。お前たちを殺してもかまわないことになっているって。天皇の名のもとに」…そして、拷問の担い手たちは、それが残虐であればあるほど、当局に評価され、出世の階段を昇って行ったといいます。
 森首相が敬愛してやまない「神の国」が、そうした血みどろの仕組みに支えられていたことを、一人でも多くの人に知ってもらいたい…
 これが、今、ビデオを作り終えた私の切実な願いです。(映像作家)

 ビデオの問い合わせは、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟へ
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06月25日「赤旗」)

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潮流

奈良県生駒市に住む太田まちさんは九十三歳。「共産党ばあさん」とよばれています。ビデオ「燃やし続けた炎」(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟)で、元気な姿をみました▼まちさんは九十一歳のとき、スイスの国連人権小委員会の催しで証言しました。「私が最初に受けた拷問は二十二歳の春。十人ほどの屈強な警官たちに囲まれ、足げりされ、竹刀でところかまわず打ちまくられる…気絶してしまい、一週間たって気がついた」▼そして、「日本政府に謝罪と賠償を勧告してください」、と。まちさんの心の支えは? ビデオで答えています。「自分たちの民主政治(の実現)が近くなっているということは楽しみじゃないの」▼まちさんは岡山県の複雑な家庭に生まれ、十六歳で家出。看護婦になり、やがて人間解放の思想に目覚めました。仕事を転々と変えながら各地の運動に加わり、日本共産党に入党。小林多喜二との連絡役もつとめました▼三回目の逮捕でも失神をくりかえす拷問。「死は覚悟の上。化けて出るからな!」と必死でたんかを切ると、特高も手を止めました。裁判でいいました。「自分は親の教えを守ってきて、今は理想に向かって希望を持って生きております。社会に対して悪い事は何もしていない。悪いのは(私たちを弾圧した)治安維持法です」▼「神の国」発言。政権党による正体を隠した日本共産党攻撃。日本の民主主義が問われる総選挙を、まちさんもたたかっています。「治安維持法はもうないからね。党が大きくなるのをみると、生きていてよかったと思う」
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06月23日「赤旗」)

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森首相の「神の国」「国体護持」発言/なぜこんな人が首相に批判続く

 「神の国」発言に次ぎ、三日には遊説先の奈良で「日本の国体が守れるのか」と発言――。そんな森首相に「やっぱり本音はそこにあったのか」と国民の不信と怒り、首相の資質を問う批判が巻き起こっています。森首相は「神の国」、「国体」両発言を撤回せず、五日には「国体は失言ではない」とまで開き直りました。
政治信条の危険さ裏書き/年配者も
 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟・東京都本部副会長の山崎元さん(70)は、「森首相の『国体護持』発言は『神の国』発言を撤回せず、教育勅語賛美を繰り返す首相の侵略戦争美化の政治信条を裏書きするものだ」と指摘します。
 治安維持法下の日本は、天皇支配の国体を変革するいっさいの結社、言論活動を禁止し、侵略戦争遂行のため国民は「見ざる、言わざる、聞かざる」と無権利状態に置かれたまさに暗黒の時代でした。同法で送検された人は約七万六千人にのぼり、逮捕者を含めれば、厳しい弾圧をうけた日本共産党や、自由主義の考えをもつ人など、数十万人が犠牲になりました。
 森首相の「国体」発言を聞いて山崎さんは、「国体を変えようとしたり、批判するものを死刑という極刑で弾圧した戦前の治安維持法、国体を守るために戦争を引きのばした昭和天皇の『遅すぎた聖断』を思い起こした」といいます。このため、沖縄戦や広島・長崎への原爆投下などによって、日本国民は多大な犠牲がもたらされました。
 山崎さんは「有事立法をつくっていくなかで、ふたたび国民と民主勢力を弾圧する『治安維持法体制』を復活させる意図、危険があるといわざるをえない。昨年強行した戦争法を発動するため、戦争体験もなく、これから二十一世紀の社会の主役になる若者、子どもにたいして思想的なかりたてをしようとしているのではないか」とも指摘します。
国体ってなに?青年に違和感/若者も
 全日本学生自治会総連合(全学連)委員長の遠地靖志さん(25)は、「神の国」発言とあわせ、「国民主権をまったく知らない首相」だと感じたといいます。
 しかし、「国体とは何か、学生の半分ぐらいはわからないと思う」という世代。
 遠地さんは「『国体』や『三国人』などの古い言葉の意味そのものがわからない人も多い」と話しつつ、こう語ります。
 「民主主義の問題として、『天皇を中心とした』という発言についての青年の違和感は大きい。言葉の意味とあわせて、国体思想が過去の侵略戦争の推進力となったことを知らせていきたい」
「天皇バンザイ党」ならわかるけど…/東京の中学生
 いま社会科の授業で日本近代史を学んでいる東京都の男子中学生(14)は「国体」という言葉を知りませんでした。社会科教科書に、この言葉は出てきません。新聞報道で戦前の天皇制の政治形態と知り、驚いたと話します。
 「学校で友達に『森首相の国体発言聞いた?』と話しかけられ、『知らない』と答えた。それで会話は終わったんですが、どうして、こういうことをいう人が『自由』とか『民主』とかつく党の代表なんですか。『大日本帝国党』とか『天皇バンザイ党』とかならわかるけど…。自民党の人たちはこういう人だとわかって首相にしたんですか? 森さん自身は『国体』という意味を知ってていっているんだろうか」 国体とは 戦前における天皇中心の政治・国家体制。明治憲法では「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定し、天皇による軍隊の統帥権、宣戦布告権など強大な大権を天皇に集中していました。この絶対主義的天皇制を支える装置として最高刑は死刑という極刑の治安維持法や不敬罪を設けて国民を弾圧しました。
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06月06日「赤旗」)

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神って何?/時代遅れ ニュース見て絶句/怖い/森首相「神の国」発言/新宿など街の声は

 憲法や国民主権を無視した森喜朗首相の「日本は天皇を中心とする神の国」発言について、市民はどう受けとめているのか。十六日、東京・新宿などで街の声を聞きました。
 一歳半の男の子をベビーカーにのせていた東京・杉並区の女性(30) ニュースを見て絶句しましたね。私たちと次元が根本から違うと思う。森さんの考え方は、教育勅語の復活をとなえたり、昔の戦争と結びついた考え方よ。期待はしてなかったけど、がっかり。首相の資格ないですね。
 二歳の誕生日の孫と娘さん(32)と買い物にきた東京・中野区の主婦(57) 新聞の一面で見たとき、「それはないよ。ああいう立場の人がああいう発言をするべきじゃない」と思いました。神をどう思うかは心のなかの問題で、一人ひとりみな違うでしょう。それを上に立つ人が「日本の国は神の国…」なんて言うものじゃない。ああいう言い方で「天皇のため、お国のために」となるのは絶対にいやですね。
 友達と会うために東京・東村山市からきたという男性(63)まぁ政治家としての資格がないねぇ。やめた方がいい。「神の国」というのは今の時代にあわない。あんなに簡単にボロボロと問題発言を出しているようじゃぁ、政治家失格。内閣も長続きしないんじゃないか。
 宮城県気仙沼から修学旅行で来た中学三年生(14)の男子生徒三人組に、森首相の「日本は神の国」発言を説明すると 「即、やめてほしい」という言葉が返ってきました。「江戸時代みたい」と三人組はあきれ顔。「いったい神って何?と逆に森首相に聞きたい」と。「命は神様からもらうんじゃなくて、両親からもらった」ときっぱり。「こんな発言は時代おくれだと思う」と三人はうなずきました。
 仕事で札幌市からきた会社員(36) あの発言は、宗教のことをいってるようでいて、特別の意味を込めていますね。首相ともあろう人が、政教分離をわきまえないで、むしろ推進する立場で発言している。天皇とか神の国なんて言うと、戦争につながった中身にとれる。そういうの、おかしい。
 都内の大学に通う大津重貴さん(20) 知らなかったけど、これは問題です。天皇は象徴としての存在でしょ。別に、日本が「神の国」ってわけじゃない。それが「神」っていうのは、昔の戦争の時代であって、そんなことをあらためていうなんて。怖いですね。好き勝手やってるって感じ。アジアには反日感情の人もまだいる。せっかく戦後何年もかけて、いい関係をつくってきたのに、台無しになる。
 憲法劇にとりくむ神奈川県の高校二年生・濱〓(山へんに立の下に可)安紀子さん(16) 主権在民、国民が主人公って、憲法の基本じゃないですか。だから「天皇を中心とする神の国だ」なんて言われても、なにいってんのかわかんない。そんなムチャクチャなことをいう人がどうして総理大臣になれるのか不思議だし、やる資格あるのかなって思います。少年犯罪が増えたから、教育勅語を教えようとかいってるけど、結局力でねじ伏せるってことでしょ。そんなんじゃ絶対変わらないですよ。
各団体が決議や声明
 森首相が「日本は天皇を中心とする神の国」と発言したことについて、各団体は十六日、抗議の決議や声明を相次いで発表しました。
 

 全労連は同首相あてに「厳重に抗議し、糾弾する」との申入書を送付。「ただちに辞職し退陣せよ」と求めています。
 全教(全日本教職員組合)は「断じて容認できない。発言の撤回と総理大臣の辞任を強く要求する」との抗議電報を森首相に送りました。
 憲法会議(憲法改悪阻止各界連絡会議)は「日本国憲法制定の歴史的基盤とその基本原則を根本から否定するもの」と抗議し、辞任を要求する声明を発表しました。
 国民大運動実行委員会は、「国民主権を宣言している憲法の原則に照らしても、かかる重大発言は断じて容認できない」と厳重に抗議。
 日本平和委員会は「天皇を『神』とする戦前の皇国史観の立場に立った人物であることを明らかにしたものである」との抗議声明を発表。
 詩人会議常任運営委員会は、「森首相は即刻辞任せよ!」とする声明を発表しました。
 美術家平和会議と第48回平和美術展実行委員会は「首相の発言は、主権在民、信教の自由を理念とする日本国憲法に反する」と抗議文を送りました。
 日本宗教者平和協議会は二〇〇〇年度拡大全国理事会で「憲法を蹂躙(じゅうりん)する森首相は、総理不適格であり、宗教者は反動政治を黙視しない」との特別決議を採択しました。
 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の中西三洋会長は、「首相にあるまじき暴言だ」と抗議し、首相辞任を求める声明を出しました。
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05月17日「赤旗」)

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きょう野呂栄太郎生誕100年/多喜二の死に香典をおくった/「杉並町 由ある三人」とは/山崎 元

 ことし郵便切手の図柄に採用された「蟹工船」はじめ幾多のすぐれた作品や評論とは別に、小林多喜二への理解を深めるための好個な資料が、手塚英孝編『写真集小林多喜二―文学とその生涯』(新日本出版社)と『新潮日本文学アルバム―小林多喜二』(新潮社)。
「控」の写真に…
 その新潮社の方の『アルバム』に、多喜二虐殺時の関連写真として、「香奠、供花、供物控」の写真が例示掲載されています。「控」はあり合わせの原稿用紙に書きこまれていて、逮捕直後の拷問虐殺と、通夜も葬儀もかけつけた弔問者が全員杉並署に検束された治安維持法体制下の弾圧の極限状況を物語っています。この実物は、小樽の文学館の陳列ケースの中でガラス越しに見た記憶があります。
 「控」には、中條(宮本)百合子や田口タキ、志賀直哉などの名が列記されていて、広く信頼、思慕、期待をあつめながら短い青春を燃焼しつくした往時の多喜二がしのばれましたが、その一方で、「金壱円也 杉並町 由ある三人より」の一行の記帳に目を引かれました。「由ある」はよしあると読むのでしょう、名は秘してもいっそう悼む気持ちが共感され、実は長年杉並に住み多喜二の家のあった馬橋にも居た私は、好奇心も手伝って、この「由ある三人」を探究してみました。
 到達した推理の結果、この「由ある三人」とは、野呂栄太郎、山本正美、逸見重雄のいずれも当時の共産党中央幹部の三人(山本、逸見は後に変節)。
 一九三三年二月二十日、多喜二が虐殺された当時、野呂栄太郎ら三人は秘書役の共産青年同盟員の中野新も含めて、多喜二と同じ杉並の馬橋、多喜二の家から七、八軒のところに住んでいたのです。
 逸見重雄が岩波書店勤務ということにして、銀座裏でタバコ屋を営む大家から、杉並馬橋三丁目に一軒家を借り受け、三二年秋、岩田義道が逮捕虐殺され、ただ一人残された中央委員の野呂栄太郎をかくまうとともに、ソ連帰りの山本正美を迎えて、党再建の拠点としたのです。このいきさつは、いずれも非売品ですが、『逸見重雄追悼集』と『逸見千鶴子作品集―薔薇真紅添いとげ得しと』で知ることができます。
 三人のなかでは、「さながら共産党の中央本部が移ってきたようなもの」とも述懐しています。戦後一九四九年二月十九日の野呂栄太郎追悼会の席上、宮本顕治は、野呂は「一九三二年の春、アジプロ部員で中央役員として保存するということだったかも知れませんね」とのべ、一九三二年のころ日本の党は非合法ながら大きくなったので三局制(政治局、書記局、組織局)をとるようになり、「五月以後は野呂君と逸見と私が書記局だったと思います。野呂君が書記局長格でした」と語っています。
互いの近接知らず
 野呂栄太郎は多喜二が虐殺されたのち盲腸炎を再発させ羽仁五郎兄弟の尽力で入院加療します。当時の杉並は関東大震災後急速にひらけた新開地。七、八軒となりとはいえ、非公然活動の鉄則からか、小林多喜二と野呂栄太郎は互いの近接を知ることもなく過ごしていました。
 野呂栄太郎が住む逸見名義の家の窓際に、ふだんは赤い布の玉が「てるてるぼうず」のようにつるされていて遠目からもわかり、周辺に官憲弾圧の危険な気配のときはその合図としてそっとはずすこととなっていました。
 二月二十一日の新聞夕刊で多喜二虐殺が報道されると、その夕刻から多喜二宅周辺は警察の取り締まりで異様な雰囲気に包まれていました。その夜帰宅しようとした野呂栄太郎は窓際に赤い玉のないのに気づき、取り決め通りに帰宅をやめ、義足の音の響きに気を配りながらきびすをめぐらしたといわれます。
 翌日、逸見重雄夫人に幼子を背負わせ多喜二宅あたりを探訪させ多喜二の死と多喜二宅の所在を確認した野呂栄太郎らは弔電を打つことを思い立ちますが、電報では発信地が明るみになることに気づき、弔意の表明は「杉並町 由ある三人より」の香典となったのです。
 野呂栄太郎は、多喜二追悼後一年たった一九三四年二月十九日に東京・品川警察署での病身、障害の身に加えられた拷問・虐待によって重体になり、ようやく北品川病院に収容され、わずか一時間半後に絶命しました。
 二〇〇〇年の四月三十日は、野呂栄太郎の生誕百年にあたります。野呂栄太郎は「杉並町 由ある三人」の一人であったばかりでなく、他の二人のその後のありさまとくらべても、その不屈のたたかいの生涯を通じて、小林多喜二とは互いに「もっとも由ある一人」であったのです。(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟東京都本部副会長)
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04月30日「赤旗」)

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国領五一郎の墓前祭/京都 総選挙での躍進誓う

 日本共産党創立期の幹部で労働運動の指導者として大きな役割を果たした故国領五一郎(一九〇二〜四三)の墓前祭が十九日、京都市左京区黒谷でおこなわれ、京都の革新民主運動や日本共産党の関係者らが出席しました。主催は日本共産党京都府委員会。
 墓前祭では読経につづき、日本共産党京都府委員会の中井作太郎委員長が弔辞をのべました。中井氏は、国領五一郎が西陣織物労働組合や日本共産党の京都の組織の結成に参加し、戦争反対・主権在民をつらぬき、弾圧のなか四十歳の若さで獄死した生涯にふれ、全国的な失業者救済策など、国領を先頭にした運動が、自自公の悪政に抗して今日にも息づいていることを強調。目前に迫った総選挙で「先の京都市長選の教訓を生かし、比例でも小選挙区でも、大きな躍進・勝利をめざし、国民と心が通う新しい政治を実現するため総力をあげます」と墓前に誓いました。
 各界から、国民救援会京都府本部の木嶋浩二会長、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟京都府本部の岡本康会長、全西陣織物労働組合の田中正弘書記長、日本民主青年同盟京都府委員会の成宮真理子委員長が、「国民が主人公」を命をかけて主張した国領の心を現代に生かし、自自公の悪政とたたかう決意を表明。総選挙で革新民主勢力の前進を誓いました。
 墓前祭には、日本共産党の寺前巌衆院議員、井上さとし衆院京都二区候補、本庄たかお同三区候補、京都府議、市議らが出席。こくた恵二衆院議員、西山とき子参院議員がメッセージを寄せました。
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03月20日「赤旗」)

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自自公の悪政打破、総選挙勝利/山宣墓前祭で誓う/京都

 戦前の労農党代議士・山本宣治(山宣)が右翼の凶刃(きょうじん)に倒れた命日にあたる五日、宇治市で山宣の墓前祭が開かれ、全国各地から訪れた山宣会の人たちをふくめ約三百人が参加しました。
 七十一回目を数えた墓前祭では、声楽家の中川幸範さんが戦前戦後の革命歌や民衆歌など七曲を歌い、宇野政征・墓前祭実行委員長が、国政革新と十二月の宇治市長選で市政の転換を表明しました。
 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟京都府本部の岡本康会長、日本民主青年同盟京都府委員会常任委員の竹内圭さんが、山宣の反戦平和・民主主義の思想と行動を現代に伝え、自自公の悪政を打破する決意を込めて弔辞をのべました。
 日本共産党京都府委員会を代表して浜田よしゆき府環境・暮らし住民運動部長(衆院京都六区候補)は、自自公政権が悪政を押しつける一方で、先の京都市長選、八幡市長選で革新民主勢力が相次ぎ健闘したことを強調。解散・総選挙を迫り、日本共産党の躍進と京都の小選挙区で勝利をめざし奮闘することを墓前に誓いました。
 山本家を代表して山本勇治さんがあいさつしました。
 墓前祭には、日本共産党の寺前巌衆院議員、本庄たかお衆院京都三区候補、京都府議や地方議員も多数参加しました。
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03月06日「赤旗」)

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遺志受け継ぎ総選挙勝利誓う/小樽で「小林多喜二祭」

 戦前、絶対主義的天皇制政府の弾圧で虐殺されたプロレタリア作家・小林多喜二の没後六十七周年の「小樽多喜二祭」が二十日、北海道小樽市内で開かれました。同市奥沢墓地で営まれた多喜二の墓前祭には道内各地から約六十人が参加し、「同志はたおれぬ」が流れるなか、参加者は赤いカーネーションを墓前にささげました。
 墓前祭実行委員会の寺井勝夫実行委員長のあいさつにつづいて、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟道本部の高嶋信敏会長は、「絶対主義的天皇制政府の卑劣な弾圧に屈せずにたたかいぬいた多喜二の姿勢が戦後、憲法の平和五原則に息づいている」とのべ、「解散・総選挙で日本共産党の勝利に全力で協力する」決意を語りました。
 日本共産党道委員会の大和田基夫委員長の代理で、道衆院四区の琴坂てい子候補が党を代表してあいさつに立ち、憲法改悪をねらう潮流が台頭してきているなかで、憲法と国民の暮らしを守る日本共産党の役割がますます高まっていることをのべ、総選挙勝利の決意を墓前に誓いました。
 墓前祭には、日本共産党の花岡ユリ子道議や北野義紀、古沢勝則の両小樽市議が参加し、児玉健次衆院議員からメッセージが届きました。
 このあと、小樽市生涯学習プラザ・レピオで「小樽多喜二祭の歩み」が催され、多喜二祭実行委員会の琴坂守尚副実行委員長が講演しました。
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02月21日「赤旗」)

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