2019年レッド・パージ】

【見出し】

   東京弁護士会 レッド・パージ救済勧告

   早急に被害の解決を

   レッドパージ救済せよ

   三鷹事件70年〜戦後の三大謀略事件〜(上)

   三鷹事件70年〜戦後の三大謀略事件〜(下)

    

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東京弁護士会 レッド・パージ救済勧告

元公務員の被害者7人

20191212

 東京弁護士会(篠塚力会長)は10日、レッド・パージ被害者の人権救済申し立てについて、速やかに名誉回復や補償などを行うよう安倍首相に勧告(2日付)したと発表しました。川村百合副会長と人権擁護委員会の古本晴英弁護士が、東京都内で記者会見しました。

 申し立てていたのは、労働基準監督署や郵便局、公立小学校、海上保安庁を解雇などによって職場を追われた田中光春さんら7人。田中さんを含め4人は、申し立て後に亡くなっています。

 勧告では、7人に対する解雇などは共産党員らを排除する目的で行われたレッド・パージと認定。憲法に違反する特定の思想・信条を理由とする差別的取り扱いであり、思想良心の自由、法の下の平等などに違反する人権侵害だとして、生活の糧も失い多大な損害を被ったとしました。

 「思想差別が繰り返されないようにするため、過去の人権侵害の責任を認め、救済していくことは極めて重要」と強調しています。

 古本弁護士は、「職場における思想差別は、今でも多数ある。決して古い歴史ではなく、現代にも通じる重大な問題だ」と述べました。

 レッド・パージは、憲法施行後の1949年から51年、GHQ(連合国軍総司令部)の示唆のもと政府・財界により、推定約4万人の労働者が「共産主義者」「同調者」として職場を追放された事件です。

 日弁連や各弁護士会による勧告は17回目(計111人)になりました。安倍首相に対しては11回目。

国の責任は明白 速やかに解決を

 レッド・パージ反対全国連絡センターの鈴木章治事務局長の話 国の責任は明白であり、名誉回復と補償を行うべきだという流れは、動かしようがありません。レッド・パージは、戦後最大の人権侵害です。本人だけではなく家族も人間の尊厳を奪われました。70年が過ぎ、被害者は高齢化しています。国は速やかに勧告に従うべきです。

 私たちは、名誉回復や補償を実現するため、特別法制定を求める運動に取り組んでいます。弁護士会の勧告を、70周年の記録映画づくりなどの運動の力にしたい。

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早急に被害の解決を

兵庫 レッドパージ70年でつどい

2019924

 日本共産党員と支持者数万人が職場から追放されたレッドパージから70年にあたって、「レッド・パージ70周年記念兵庫のつどい」が22日、神戸市三宮で開かれ、110人が参加しました。

 大橋豊さん(89)ら神戸の3人のレッドパージ被害者による国家賠償訴訟について松山秀樹弁護士が報告。到達点として、▽レッドパージは連合国最高司令官の指示、命令ではなく、日本政府が主導的積極的に推進したことを立証▽講和条約発効後、政府が被害を救済しなかったことは違法とする足がかりを得た―などを指摘。名誉回復と救済を求める運動を強めることを呼びかけました。

 大橋さんは、ともに原告となり既に亡くなった川崎義啓さんと安原清次郎さんにふれ、「安原さんは『絶対に国の世話にならん』と生活保護を拒否していた。パージされた人とその家族の被害は本当に大きい。生きているうちに解決させたい」と語りました。

 父親がレッドパージされた共産党の畑野君枝衆院議員が講演し、「レッドパージ被害を解決できる新しい国会をつくりましょう」と呼びかけました。

 レッド・パージ反対全国連絡センターの鈴木章治事務局長、松田隆彦党兵庫県委員長があいさつしました。

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レッドパージ救済せよ

全国連絡センター集会

2019529

 レッド・パージ反対全国連絡センターは28日、被害者の人権回復と人間の尊厳を守る政治をめざす集会を参議院議員会館で開き、日本共産党の田村智子副委員長・参院議員らに被害者救済と国家賠償を求める1万8499人分の署名を渡しました。

 レッド・パージは、思想・信条の自由を保障した日本国憲法制定後に、GHQ(連合国軍総司令部)の示唆のもと吉田茂内閣の閣議決定(1950年)によって、推定4万人の労働者が「共産主義者」「同調者」として職場を追放された戦後最大の思想差別・人権侵害事件です。

 人間の尊厳をないがしろにする安倍政権に対する怒りとともに、レッド・パージへの関心が若い世代にも広がっています。センター代表の大橋豊さんは、「過去の問題ではありません。憲法にもとづいて基本的人権の回復を求める私たちのたたかいは、市民と野党の共闘とともにある」と語りました。

 北海道、埼玉、神奈川、大阪の代表が運動の広がりを報告し、事務局長の鈴木章治さんが、記録映画の出演や協力を訴えました。

 日本共産党の清水ただし、畑野君枝、藤野保史の各衆院議員、山添拓、仁比そうへいの両参院議員が連帯あいさつしました。

 集会の前には、議員要請を行い、署名の紹介議員がこれまでより増えました。

 

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三鷹事件70年〜戦後の三大謀略事件〜(上)

大詰め迎えた再審請求

2019318

 1949年、東京・三鷹駅(旧国鉄)で「無人電車」が暴走し、6人が死亡した「三鷹事件」から今年で70年になります。GHQ(連合国軍総司令部)の占領下で起きた「国鉄三大謀略事件」の一つです。今、真相解明へむけた再審請求が大詰めをむかえています。(芦川章子)

 墓石に刻まれた文字は「三鷹事件 無實(むじつ) 竹内景助」―。

 東京都八王子市の富士見台霊園。市街を望む高台に三鷹事件の「単独犯」として死刑判決をうけた竹内景助さんの墓があります。

 享年45歳。逮捕から18年、独房に身を置いたまま、妻と5人の子どもを残し脳腫瘍で亡くなりました。最期まで無実を訴え、再審を請求していました。

「謀議」描く検察

 三鷹事件は1949年7月15日午後9時23分、国鉄中央線三鷹駅で起きました。

 車庫にとまっていた「無人電車」が何者かの手によって暴走。駅前の民家に突っ込み、6人が死亡し、二十数人の負傷者を出しました。

 捜査当局は竹内さんをはじめ、国鉄労働組合(国労)の組合員13人を逮捕。12人を起訴しました。竹内さん以外は日本共産党員でした。検察は、国鉄の10万人大量解雇に反対する組合員の「共同謀議」と描きました。

 1950年の一審判決は、共同謀議は「実態のない空中楼閣」として9人を無罪に。竹内さんのみを無期懲役としました。

 51年の二審では事実調べも行わずに竹内さんを死刑判決にしました。55年の最高裁では、無実を訴えていた竹内さんの主張を一切聞かないまま、8対7の一票差で竹内さんの上告を棄却。死刑を確定させました。

「明らかな冤罪」

 「竹内さんは犯人ではあり得ない。明らかな冤罪(えんざい)」と語るのは、三鷹事件の再審請求弁護団団長の高見澤昭治弁護士です。

 高見澤弁護士が事件を知ったのは2008年。事件のモニュメント建立を目指す集会でした。「なぜこんな事件が」。調べるほどに膨らむ疑問。資料をかき集め、調査に奔走しました。

 「組織や思想に対する予断と偏見をもとに、客観的な証拠もなく、竹内さんの“自供”に依拠した判決。その自供も竹内さんは7回も変えている。そもそも竹内さんの供述通りでは電車は走らない」

 「共同犯行」「無実」など供述を7回も変えた理由について高見澤弁護士は、自白の強要、暗示、誘導を指摘します。「認めれば死刑にはならない」などといった検察とのやり取りが竹内さんの文書に克明に残されています。

 「今日まで連綿とつづく冤罪構造の最たるもの。三鷹事件は戦後最大の謀略事件であり、日本の司法の大きな汚点。正す必要があります」

 高見澤弁護士は09年、事件の問題をまとめた『無実の死刑囚 三鷹事件 竹内景助』(日本評論社)を出版。本を手に遺族をたずね「死後再審」を打診しました。11年、竹内さんの遺族が第2次再審を請求。現在、再審請求に対する開始決定判断が近いとされています。(つづく)

 

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三鷹事件70年〜戦後の三大謀略事件〜(下)

GHQ・国の関与明らか

2019319

 GHQ(連合国軍総司令部)占領下の1949年―。「国鉄三大謀略事件」と呼ばれる怪事件が立てつづけに発生しました。下山事件(7月5日)、三鷹事件(7月15日)、松川事件(8月17日)です。

 国鉄総裁(当時)の下山定則氏が、れき死体で発見(下山事件)。福島県松川町で列車が転覆し3人が死亡(松川事件)。ともに真犯人は分からず未解決です。

 そして3事件とも、あたかも労働組合と日本共産党が犯行に関わったかのような大宣伝が行われました。

 三鷹事件では、実質的な捜査が行われていない事件翌日、当時の吉田茂首相は「思想的背景をもつ者による悪質な犯罪」と声明を発表。「不安をあおる共産党」「共産主義者の扇動によるもの」と断定しました。新聞も同様の主張を広げました。

 事件は多くの“異様さ”に包まれています。

国労弱体化狙う

 ▽数日前から「三鷹で何かがおきる」と流れ、駅前交番の警察官は事故前に重要書類とともに避難していた▽現場を初めに仕切ったのは占領軍。日本人は当日、誰も現場に入れず、証拠は占領軍が持ち帰った▽占領軍が裁判にも執ように介入―。

 「GHQと国家権力の関与があったことは明らかです」というのは『三鷹事件の真実にせまる』(光陽出版社)の著者、梁田政方さん(91)です。元日本共産党中央委員で、「三鷹事件の真相を究明し、語り継ぐ会」の呼びかけ人です。

 当時、民族独立や民主主義獲得の統一戦線運動が高揚していました。49年1月の総選挙で日本共産党は国会で4議席から35議席へと躍進。中国では中国共産党が、アメリカが支援する蒋介石政権を追いつめていました。

 危機感をもった占領軍は日本を「反共の防壁」として、大量解雇、レッド・パージを進めようとしていました。

 梁田さんは「事件の狙いは、労働組合運動の先頭に立つ国鉄労働組合を骨抜きにし、戦争に備えて確実な輸送体制を確保すること。そして労働組合や民主勢力の団結を弱めることだった」といいます。

 その後、全土が朝鮮戦争の基地とされ、再軍備へと突き進んだ日本。梁田さんは「戦後日本の大きな転換点となった事件。風化させてはいけない」。「死刑囚」の汚名を着せられたまま獄死した竹内景助さんの無念さも「忘れてはならない」といいます。

権力犯罪の犠牲

 竹内さんは長野県で生まれ、19歳で国鉄へ。運転手から検査掛に。政(まさ)さんと結婚し、5人の子どもが誕生。逮捕時、末っ子は赤ん坊でした。国鉄の整理解雇後、就職先も決まっていました。

 『春を待ついのち』(青春出版社、絶版)では、獄中で妻と交わした手紙や詩が紹介されています。

 みんな優しかったよ/みんな健やかに笑ったよ/春だからまた山羊(やぎ)の仔(こ)を飼おう/本も読みましょう/写生にも行こう/(「イメージ」より)

 子どもたちの名をあげ「元気でいなさい」「胸をはっていなさい」「必ず勝つから」といった言葉が並びます。

 「列車事故でひき殺された6人の犠牲者とともに、竹内さんは7人目の犠牲者です。権力が国民の人生といのちを奪った戦後最大の権力犯罪です。再審請求の結果は、この国の裁判のあり方や、国民の基本的人権や民主主義が問われる試金石です」

 (梁田さん)

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