2002年 ファシズム関連情報】

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2002(ヘッドライン)

*                     土曜インタビュー/ドイツ文学者/北條元一さん/文学・芸術の真実を追い求めて/状況が人間性失わせる中 表現のもつ回復力信じて

*                     ノーベル賞作家の記念館/独・リューベック/ギュンター・グラス トーマス・マン

*                     ブレヒトは20世紀の「出来事」/尽きぬ面白さ 3つの発見/関きよし

*                     歴史と向きあう 戦争責任と現在 識者に聞く/ファシズムとの決別は EUとイタリアの基本フィレンツェ大学 マリオ・ロッシ教授

*                     イタリア/反ファシズム記念式典/大統領もメッセージ 「歴史の記憶は義務」

*                     土曜インタビュー/ナチスの犯罪告発に現代への暗い喩/虐殺という破局、悲劇に 沈黙、無関心でいいのか

*                     ナチス併合と連合軍占領を同一視/オーストリア/自由党護民官の発言に批判

*                     独 93歳ナチ戦犯に禁固7年

*                     記者ノート/外信部 山田俊英記者/極右進出の仏大統領選を取材して/実感した民主主義の強さ 底辺の不満解決が課題

*                     第2次大戦中にイタリア人虐殺/元ナチス隊長裁判を開始/ドイツ

*                     2002 仏大統領選/極右に警戒緩めぬ欧州

*                     仏大統領選 あす決選投票/自由・平等・友愛、反ファシズム/党派超え広がる

*                     極右の大統領当選阻止訴え/芸術家103団体が集会/パリ

*                     ファシズム復活させない

*                     ワールドリポート/ヒンズー過激派の暴力続く/宗教・民族共存の危機/アーメダバードにみる/インド西部

*                     4月25日は「解放記念日」 イタリア/反ファシズムは民主主義の基本価値、市民参加で継承を

*                     「ありふれたファシズム」/17日に長編記録映画を上映/今日への警告はらむ

*                     戯曲「ロボット」の作家/カレル・チャペック 多彩な魅力/強烈な好奇心/独特の語り口/豊富な語彙/田才益夫

*                     イタリア/「北部同盟」のEU攻撃 右派政権に不協和音

*                     断面/カナダの「銃後」を描く/「パレードを待ちながら」

*                     「建国記念の日」とアジアのまなざし/笠原十九司

*                     一九三〇年代の大恐慌時/時短で雇用の拡大を実施−−対応分かれたフランスとイタリア

*                     アウシュビッツ解放57周年 欧州各地で式典・集い/民族排外とのたたかい誓う/歴史から学び悲劇繰り返さない

*                     「パードレ・ノーストロ 我らが父よ」/父との葛藤えぐる

*                     “日本軍旗は侵略の象徴” 中国・北京日報

*                     エンターテインメント/ポケットから出てきたミステリ−/カレル・チャベック著、田才益夫 訳

2002年(本文)(Page/Top

土曜インタビュー/ドイツ文学者/北條元一さん/文学・芸術の真実を追い求めて/状況が人間性失わせる中 表現のもつ回復力信じて


 「捨て石になりたい」―このほど『北條元一 文学・芸術論集』(本の泉社)をまとめた北條元一さんは、自分の仕事を評してこう語りました。来月卒寿を迎えます。先週、「出版を祝う会」ももたれ、多くの友人から祝福された北條さんは、成城(東京・世田谷区)の自宅で、文学・芸術論への関心を語りました。

☆虚構の不思議さ
 「芸術とは何か」「文学における真実」「創作方法におけるリアリズム」など、一九四〇年代から近年までの論考が収録されていますが、キーワードは「文学的真実」です。
 「文学はフィクションでしょう。虚構つまりうその中に、だますつもりでないうそがあり、そこに真実があるということ自身が、ある意味で不思議なことなんですね。みんなが当たり前みたいに、リアリティーとか文学的真実とか、文学・芸術は真実を追求するとかいっているけれど、それぞれ人によって意味が違うんですね」
 ゆったりと、かみくだくような口調に研究の深さがうかがわれます。
 「マルクスを知って芸術も科学的に研究することができるんだという信念を得たものですから、みんなが勝手につかっている真実とかリアリティーとかいっていることを交通整理して、各人が芸術的真実とは何かということについて論争するための、土台をつくる捨て石になりたいというのが、僕の念願なのです」
 論考では、ホメーロス、アリストテレス、シェークスピア、トルストイ、ヘミングウエー、芥川龍之介、志賀直哉など古今東西の文学作品を材料に縦横無尽に論じ、後進には貴重な贈り物です。
 小学生のときに親にねだって『プラトン全集』を配本してもらい、議論のやりとりの面白さに夢中になったといいますから、「理屈」好きは生来のもの。その北條さんの科学的社会主義への接近は、軍国主義の深まりと重なりあっています。

★目の前で特高が
 「東大の学生のころ、京大の滝川教授追放糾弾集会があり、その他大勢でいったんですが、そのとき二十六番教室の上の方から天皇制打倒と書かれた垂れ幕がおりたんですよ。胸のつかえがおりたような気持ちでしたね。そのあと、本郷の喫茶店で集会があって、七、八人が集まったんだけど、すぐさま特高がきて集会届けをだした二人を連れて行った。僕や西口克己、大学にはいったばかりの田宮虎彦なんかもいたんだけれど、ぼうぜんと見送るのみでしたね」北條さんが大学で学んだころには、改造社の『マルクス・エンゲルス全集』が刊行され、文学芸術についてのマルクス・エンゲルスの書簡などが岩波文庫などで紹介されるようになります。そしてファシズムに抗して、政治的立場、思想、信条の違いをこえて手をつなごうという人民戦線が世界的に提唱されたことが、思想的変化に拍車をかけたといいます。
 「僕は山本宣治を生んだ京都の出身ですから、左翼の友人が多いんです。でも政治的には共感できても、文学的にはしっくりしなかった。寛容というか他の思想を一概に排除しないという気持ちがレッシングなどの影響で非常に強かったからです。それがマルクス・エンゲルスの手紙にふれたり、人民戦線の提唱によって解消されたんです」

☆世界文学会一途に
 戦後、民主主義科学者協会(民科)の芸術部の運営を引き受け、民科の中に作った世界文学研究会を発足させ、その後独立した世界文学会の中心を担います。ここには、見解の相違を前提に、自由な討論で互いの理解を深め文学の発展を願うという、人民戦線の精神が息づいているようです。
 「小さな会ですが、戦後分裂や抗争もなく今日まで継続してきたのはめずらしいことですね」
 部屋には四年前に亡くなった夫人のさなえさんがつくったファウスト劇の操り人形が飾ってあります。
 「戦前に滝沢修のファウストを妻とみたとき、非常に感激しましてね、それでゲーテのファウスト劇を人形をつかって八ミリでとる夢を持ったんです。戦後になったら忙しくてそれどころじゃなかった」
 玄関には叔父である津田青楓(せいふう)の絵や画家で詩人であったさなえさんの絵が飾ってあります。紅茶にウイスキーを少したらして口に含み、悠揚迫らぬ感じの話はつきません。
 「資本主義というものは文学・芸術に敵対的であるとマルクスはいったけれども、資本主義が人間らしさを失わせる、そういう状況はますます進行しているのだけれども、逆に文学・芸術はそれを回復させる力を一番持っている。だからこれをなんとかみんなで推進していかなければいけないんじゃないでしょうか」牛久保建男記者
 ほうじょう もとかず=一九一二年、京都市生まれ。世界文学会名誉会長。東京大学文学部ドイツ文学科卒業。東京工業大学教授、名古屋工業大学教授などを歴任。著書に『芸術認識論』『ハムレット論』『文学・芸術とリアリズムをめぐって』『文学の泉へ』など。
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2002年11月23日『赤旗』)(Page/Top

ノーベル賞作家の記念館/独・リューベック/ギュンター・グラス トーマス・マン


 バルト海沿岸にあり、ハンザ同盟時代の面影を残すドイツの都市リューベック。ここにはノーベル文学賞作家のトーマス・マンとギュンター・グラスの記念館があります。

市文化基金で10月20日開館
 「ブリキの太鼓」(一九五九年)を書きノーベル文学賞(九九年)を受賞したギュンター・グラス(一九二七年―)の記念館は、十月二十日に開館しました。同市の文化基金による創設です。
 同館は、グラス氏の原稿約百点と、芸術家としての同氏の絵画、彫刻約百点を保存、展示しています。図書室、資料室もあります。同氏自身による作品の朗読をテープで聞くこともできます。館の一部がグラス氏の所有で、氏自身はリューベックに近いベーレンドルフに住んでいます。
 絵画、彫刻にはヒラメ、ネズミをモチーフとしたものがたくさんあります。
 カイ・アルティンガー館長は「文学とともに芸術家としても才能を発揮しているグラス氏を紹介するために記念館が建てられました。スケッチは三千枚、版画は四百五十点もあります。文学作品の挿絵は執筆が中断しているさい、構想を練るために描いたそうです」と言います。

「ブッデンブロークハウス」
 そこから徒歩五分の所に、文豪トーマス・マン(一八七五年―一九五五年)ゆかりの「ブッデンブロークハウス」があります。トーマスの祖父が一八四二年に購入、トーマス家が一八九一年まで住んだ所。ここも市の文化基金が管理しています。
 トーマス・マンは「ブッデンブローク家の人々」(一九〇一年)で二九年にノーベル文学賞を受賞しました。三三年、ナチスの迫害を逃れて米国へ亡命、兄のハインリヒとともに、ファシズムとたたかいました。
 館内には、家族史を示す多数の写真や当時の調度品が「ブッデンブローク家の人々」の舞台になぞらえて置かれています。この家は四二年の空襲で破壊され、戦後再建されました。九三年、リューベック市が記念館とするため買い取ったものです。
 ここでは、著作やその朗読テープ、トーマス・マンが英BBC放送を通じ、ドイツ国民にナチスへの抵抗を呼びかけたテープなども販売されています。同館はマン兄弟の交友関係者の展示シリーズを計画。来年は一九一八年のミュンヘン革命運動に参加し、ナチス政権のもと三四年七月、オラーニエンブルク強制収容所で死亡した作家エーリヒ・ミューザムが紹介されます。

ブラント氏の記念館建設へ
 文化基金は二〇〇五年には、同市出身の社会民主党の元西独首相で一九七一年にノーベル平和賞を受賞したウィリー・ブラント(一九一三年〜九二年)記念館を建設する予定です。(リューベックで坂本秀典写真も)
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2002年11月22日『赤旗』)(Page/Top

ブレヒトは20世紀の「出来事」/尽きぬ面白さ 3つの発見/関きよし


多面的な活動 思想家の面も
 ブレヒトは一九二〇年代に活動を始め、日本にも戦中から紹介され注目されていたが、本格的にはやはり戦後一九五、六〇年代の“政治の季節”からであった。「三文オペラ」「肝っ玉おっ母とその子供たち」「コーカサスの白墨の輪」「セチュアンの善人」などなどの作が今日まで半世紀以上繰り返し上演されつづけている。翻訳の劇としてはシェイクスピアやチェーホフに次ぐ人気の高さ、その面白さとは、なぜいまブレヒトなのだろう。
 「ブレヒト」を辞書でよむと、「ドイツの作家」とあり「ナチス時代アメリカなどに亡命し、第二次大戦後東ドイツで活躍、表現主義から出発し、次第に社会主義に向かう。また叙事的演劇を唱えて自然主義的な伝統演劇の改革を志した」と表記される。いきなり、時代・戦争・ファシズム・分裂国家・冷戦・社会体制…。二十世紀の総体が、よむ者の意識にかかわってくる。
 ブレヒトは、生涯詩人として生きた。小説を書き、戯曲を創るだけでなく演出もする実際家で、一九五六年に亡くなるまで自らの劇場・劇団を統率した。それだけではない、「演劇のための小思考原理」をはじめとする膨大な量の演劇理論を展開した。なおさらに彼には「二十世紀の偉大な思想家」という評価も定着しているのだ。手っとり早く全体を捉えられるはずがない。

“詩”として「よむ」ことば
 今はあまり聞かないがいっとき「ブレヒトよみのブレヒト知らず」と警句が流行(はや)った。専門家には失礼な文句であるが、ぼくは自分のことのように聞くたび首すじが冷やっとした。実は、六〇年代のひところ戦後日本の新劇がひどくつまらなく思え、疎ましい気分であった。そんな時に頭をかすめるのが千田是也演出の「第三帝国の恐怖と貧困」や「ガリレイの生涯」の舞台だった。前者は秋田雨雀生誕七十年記念公演で、ぼく自身その一場の演出を受けもった。そのころ演出の仕事とは、ひたすらに観客を劇の中にみちびくイメージを創ることだ、と思いつづけていた。だが劇の場面は不調和に変形したり、不安の中で変質するものとして、観客に示すべきものだ、と後になってから気づかせられるのだ。
 それから、ブレヒト知らずのよみてのぼくは、訳された日本語で、演劇理論の側から戯曲をよみ、劇作の側から評論をよむことを繰り返す。その間にある微妙なずれとくいちがいのすき間を捜す実践は、必ずしも楽しいものではなかったが、誤解と反発がつづくうちに一つの発見があった。それはブレヒトのことばは理論も作品もすべて“詩”としてよまねばならぬ、そこには表現者のもつ精神の高揚が内にある。

変革への意志 既成演劇の批判
 やがて実践はけいこ場にもちこまれ俳優たちとの仕事に応用されることとなる、それは生物学の実験にも似て、木を見て森を見ずの恐れもあったが、集中力による単純な行動と簡潔なひと言は、それ自体が一つの“演劇的な出来事”であること、これが発見の第二。
 ブレヒトの命題のはじめは、有名な“今日の演劇は世界を再現できるか”である。彼は「もしそれを変化するものとして捉えさえすれば」と明快に答える。これは確かな社会変革の意志の表れであり、同時にそれまでの演劇への本質的批判であった。一九二〇年代、既成演劇に果敢に挑んだ「夜打つ太鼓」の初演を見た劇評家は「二十四歳のベルト=ブレヒトは、ドイツ文学の相貌(そうぼう)を一夜にして変えた。…彼の戯曲は新しい詩的な世界像である」(岩淵達治氏訳)と激賞し、演劇の新しい時代が始まった。そしていまにつづく。
 八十年後のいまも、ブレヒトは世界に対し挑発しつづける。三つ目の発見は“真の変革への教育者=挑発者”ということ。いま問われているのは、発表された時どきのブレヒトが観客の心や感覚をつきうごかしたように――どうしたらできるか、であろう。ブレヒトは「君がもしつきうごかすならば」というにちがいない。(せき きよし・演出家)
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2002年11月01日『赤旗』)(Page/Top

歴史と向きあう 戦争責任と現在 識者に聞く/ファシズムとの決別は EUとイタリアの基本フィレンツェ大学 マリオ・ロッシ教授


 第二次世界大戦中に日本と同盟関係にあったイタリアが戦後、ファシズムと決別した意義や、現代の歴史修正主義とのたたかいについて、フィレンツェ大学のマリオ・ロッシ教授(62)に聞きました。同教授は国立イタリア解放運動史研究所が発行する雑誌『イタリア・コンテンポラネア』の編集長も務めています。(フィレンツェで島田峰隆)

日本との明確な違い
 イタリアと日本は国の発展局面で多くの共通点もありますが、明確な違いが一つあります。それは戦争と国家主義的伝統に対して支配階級が持つ姿勢です。
 日本では今年も八月十五日に閣僚が靖国神社を参拝しましたが、ファシズム戦争の賛美を意味するこうした行為はイタリアでは絶対にできません。
 戦後、イタリアを含む欧州連合(EU)がとった道は、ファシズムの影響力を消し去るための決定的な要素を取り入れることです。イタリアの憲法もファシスト党の再建禁止の条項を持ちます。これは反ファシズムを「イタリアの民主主義の刷新」と位置付け、イタリアの歴史と密接にかかわってきたファシズムの原因を根本から消し去るという考えです。
 同条項の存在は、イタリア国民が戦争中にレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)に参加したことと並んで、戦後、ギリシャや旧ユーゴスラビアのような侵略を受けた国と正常な関係を確立するのに機能しました。一九四五年を境にファシズムを拒否したことが周辺諸国との関係確立を助けたのです。
 ところが今、レジスタンスに対してもさまざまな攻撃が出ています。中でも大変危険なのが、戦後五十年以上たった今ではみんな同じ権利を持っているし、もう過去の分断を乗り越えて「共通の記憶」をもとうじゃないか、戦争中はそれぞれがそれぞれの理想を持っていたんだ、こういう修正主義の論理です。左翼の一部にもこの種の混迷が見られます。

基本原理を打ち消す攻撃
 しかし、今でこそだれもが同じ権利を持っていますが、戦争当時はその権利を奪ったファシストたちがいたのです。一方でそれに対抗した反ファシズム勢力があり、彼らが掲げた原則や理想が国を治めるようになったのです。
 みんなそれぞれ理想を持っていたという議論は結局、この事実をあいまいにし、ファシズムも正しかった、道理があったという議論にまで導くものです。
 こうした攻撃の政治的目的は、レジスタンスの成果を消し去ることで、レジスタンスのたまものとして生まれ、市民や労働者の権利や社会国家の保護を定めた憲法の基本原理を根こそぎなくしてしまおうということです。真の目的は反ファシズムが勝ち取った結果を消すことなのです。
 今重要なのは、修正主義とのどんな政治的、文化的なたたかいも放棄しないことです。一つはテレビや新聞など情報面でのたたかいです。もう一つの決定的な分野は教育システムです。意図的にゆがめられた情報が入らないよう、公教育を守ることです。
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2002年09月08日『赤旗』)(Page/Top

イタリア/反ファシズム記念式典/大統領もメッセージ 「歴史の記憶は義務」


 【ローマ12日島田峰隆】イタリア中部トスカーナ州のスタッツェマ村で十二日、五十八年前に起きたナチス・ドイツ軍による住民虐殺事件の犠牲者を追悼し、反ファシズムを誓う記念式典が行われ、生存者や市民、自治体関係者が多数参加しました。式典は同村が毎年主催しています。
 一九四四年の八月十二日、トスカーナ州でドイツ占領軍に対するレジスタンス(反ファシズム抵抗運動)が広がる中、ナチス親衛隊(SS)はスタッツェマ村で子ども、老人、女性など約五百六十人の住民を集めて虐殺しました。直接の責任者を特定する調査が今も続いていますが、不明のままです。
 チャンピ大統領も式典にメッセージを送り「歴史の記憶は義務である」と強調しました。ナチの糾弾は「自由と正義」の認識を深めることであり、それとのたたかいで亡くなった人々に敬意を表すためにも「平和の連帯と結束、平等、人権と民主主義の原則の尊重」を保障する政治を進めようと訴えました。
 レジスタンスの伝統の強いトスカーナ州政府は五日、反ファシズムとレジスタンスの記憶を国の基本的価値と再確認し、関連する歴史、政治、文化的遺産を保護する内容の条例案を決定しました。
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2002年08月14日 『赤旗』)(Page/Top

土曜インタビュー/ナチスの犯罪告発に現代への暗い喩/虐殺という破局、悲劇に 沈黙、無関心でいいのか


映画監督 C・コスタ=ガブラスさん
 左翼政治家の暗殺事件を糾明した「Z」(六九年)やチリの軍事クーデターに材を得た「ミッシング」(八二年)をはじめ、社会や権力の不正を告発する映画で知られるC・コスタ=ガブラスさん。先に開かれた「フランス映画祭」代表団の一員として来日し、披露した最新監督作品「アーメン」は、時代の中で人はいかに生きるべきかを真摯(しんし)に問い、社会派の巨匠の力をまざまざと示しました。横浜での映画祭の合間に話を聞きました。 「ファシズムの被害者を描いたものはたくさんありますが、その反対側、虐殺に携わった側では、何が起きていたのか。ドイツのような文明国でどのようにしてヒトラーや周囲の者が統治をしていったのか、それを知りたいと思っていました」
 そうしたことを示唆してくれるストーリーを探していたというコスタ=ガブラス監督が出合ったのが、ドイツの作家ロルフ・ホーホフートの「神の代理人」。六三年にベルリンで初演されたこの戯曲の映画化権をやっと手に入れ、映画「アーメン」はそれを元にしています。

組織内部で抵抗
 ヒトラーがドイツで政権を握って以後のヨーロッパが舞台。ナチスのユダヤ人虐殺を目撃し、その阻止のため力を尽くしたナチス親衛隊員の実在の化学者クルト・ゲルシュタインと、彼に力を合わせる教皇庁の若い修道士リカルドを描きます。
 「このストーリーに興味を持ったのは、このストーリーが、まさに現代われわれが生きている社会のメタファー(暗喩)になり得るからです」
 虐殺を阻止しようと奔走する二人は、ローマ教皇の協力をあおぎます。が、善良な人徳者ではありながらも、教皇ピウス十二世は、結局ナチスの非道を世に訴えることもなく沈黙を守ってしまいます。
 「ドイツ軍が、強制収容所をつくったことを、ヨーロッパの政治指導者たちは知っていたし、宗教指導者、とりわけローマ教皇は知っていた。けれど驚くべきことに誰も反対行動を起こさなかったし、非難の声明も出していないのです。虐殺という人間への破局がもたらされているというのに」
 「世界のさまざまな所で悲劇が起きているのに政治指導者たちが、それに対して沈黙を守り、あるいは無関心である」という現代への問題提起。「単なる歴史的映画をつくりたいと思ったのではない」と言葉を重ねます。
 「私が興味を持ったのは、二人の登場人物の行動です。二人ともシステムの内部にいながら困難を乗り越え抵抗を続けます。彼らのレジスタンスの基盤になっていたのは、キリスト教哲学です。彼らの態度は当時の宗教指導者の態度とかけ離れたものでした」
 「僕は祖国を離れない」と、惨劇の目撃者としての証言を生かそうとするゲルシュタイン。収容所に送られるユダヤ人とともに列車に乗り込む誠実なリカルド。命懸けの行動を貫く彼らを中心に運ばれる重厚なドラマが、見る者に鮮烈な問いかけを発します。人は、あるがままの人生を生きるのか、あるべき理想の人生を求めて生きるのか、と。
 「個人的には、私は、常識的なことさえ受け入れられない人間だが」と前置きしながら、「より良い人生のために闘争を続けるべきだと考えています」と語るコスタ=ガブラスさん。映画監督としての半生がその言葉に重なります。

自分の信念で
 「第一作(六四年「七人目に懸ける男」)を撮った時から、私は社会的な内容の映画に興味を持っていました。六〇年代に、ヌーベル・バーグが流行した時、それらが、人間、夫婦、家族を扱いながらも、そこに社会全体からの提起が無いと思いました。権力や抑圧、また自由が欠けている問題、そういうことを扱った映画が無い、と」
 ギリシャの貧しい家庭に育ちました。父は、反独レジスタンスに携わり、そうした活動家の子どもは、ギリシャでは大学入学を許されず、フランスの大学に進み、パリのイデック(高等映画学院)を卒業。ルネ・クレール、ルネ・クレマン、ジャック・ドゥミらの監督たちに就き「多大な幸運」に恵まれたと言います。
 「映画は発明された時から、世界を変えることに貢献してきたと言えるでしょう。人間同士、よく知り合い、接近させる。大衆的で人気のある、まれな芸術だと思います。一番アクセスが容易な芸術であるからこそ、社会のなかで重要な役割を持っていると思います。もちろん映画には人を変える力があります。でも、私は、つくる時は、監督として、自分自身の個人的な信念に基づいてつくりたいと思っています」

日本映画で育つ
 十五年ぶり、三度目の訪日。
 「日本が変わったので驚いています。私たちの世代の監督は、日本映画で育ってきました。五〇年代、六〇年代の日本映画をよく見ましたし、日本から来る映画に魅了されたものです。私がシネマテックの館長に就任した時、最初にやったのは、日本映画の特集でした。一年間にわたって四百五十本近い日本映画を上映したのです。日本映画から受けた教育は、映画の教育であり人間教育でもありました。私が一番影響を受けた外国映画は、ジョン・フォード監督の『怒りの葡萄(ぶどう)』と黒沢明監督の『七人の侍』です」
 「Z」「戒厳令」「ミッシング」…、感銘を受けた作品を挙げると「何千キロも離れた国で私の作品を見てもらっていることがわかること以上に監督としてうれしいことはありません」。両手を重ね、端然として語る監督の笑顔が印象的です。文・児玉由紀恵記者写真・滝沢 清次記者C・コスタ=ガブラス
 一九三三年ギリシャ生まれ。五六年、パリのイデックを卒業。六九年「Z」でカンヌ映画祭審査員特別賞、米アカデミー外国語映画賞。七三年「戒厳令」でルイ・デリュック賞、八二年「ミッシング」でカンヌ映画祭パルムドール、八九年「ミュージック・ボックス」でベルリン映画祭グランプリほか。
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2002年07月20日 『赤旗』)(Page/Top

ナチス併合と連合軍占領を同一視/オーストリア/自由党護民官の発言に批判

 【ウィーンで岡崎衆史】一九三八―四五年までのナチス・ドイツによるオーストリア併合と第二次大戦後の連合軍による占領時代を同一視する自由党指名の護民官発言に対し、オーストリアの各方面から批判が高まっています。
 護民官は、国民議会(下院)の第一党から第三党までが指名する三人で構成され、行政に対する国民の不満解決に尽力する、憲法が定める機関です。
 与党で国民党と並んで議会第二党の自由党が指名するシュタッドラー氏は六月末、「オーストリアは一九四五年にファシズムと独裁から解放され、次の独裁に移行したとされる」と発言しました。
 これに対し、野党の社民党と緑の党は「まったく受け入れられない」(フィッシャー下院議長=社民党)「ナチ的な人種差別主義者のための護民官だ」(緑の党のペトロビッチ下院議員)と反発し、シュタッドラー氏の辞任を要求。クレスティル・オーストリア大統領も八日、「歴史の改ざんとたたかわなければならない」と強調しました。
辞任を拒否
 相次ぐ批判に対して、当のシュタッドラー氏は改めて「ナチスのテロも共産主義のテロも同じだ」(スタンダード紙五日付インタビュー)と述べ、辞任を拒否しました。一方、リースパッサー自由党党首(オーストリア副首相)は、「発言は党の方針ではない」と述べつつも、辞任は求めないとしています。
 しかし、与党の国民党や自由党内からさえ「ナチの第三帝国の無法の軽視」(国民党のラウホ・カラット書記長)、「四五年前後の歴史の比較は許されない」(ゴルバッハ自由党党首代行)といった声が出、批判は強まる様相です。今後、リースパッサー副首相やシュッセル首相(国民党)に対して、シュタッドラー氏の辞任を促すなど何らかの対策を求める声が広がりそうです。
37万人の犠牲
 ナチス・ドイツは一九三八年―四五年までオーストリアを併合。その間に犠牲となった国民は三十七万人近いともいわれます。四五年の連合軍による解放後、米国、ソ連、英国、フランスの戦勝四カ国が五五年まで分割占領。同年の主権回復条約(国家条約)で独立を回復しました。
 欧州で台頭する他の極右政党の先駆け、二〇〇〇年に政権入りしたオーストリア自由党は、ハイダー前党首がナチス時代の雇用政策を評価するなど、これまでもナチスの犯罪に対する反省の不徹底が問題になってきました。
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2002年07月12日 『赤旗』)(Page/Top

独 93歳ナチ戦犯に禁固7年

 【ベルリン5日坂本秀典】ドイツ・ハンブルク地方裁判所は五日、第二次大戦中イタリアのジェノバで五十九人の捕虜殺害に関わったとして当時現地のナチス・ドイツ軍秘密情報機関(SD)隊長でナチス親衛隊(SS)将校だったフリードリヒ・エンゲル(93)に禁固七年(求刑は終身刑)の判決を言い渡しました。高齢のため実際に収監されるかどうかは未定です。
 判決によるとエンゲル被告は、一九四四年五月、ドイツ兵のための映画館が襲撃され五人が死んだ事件の報復として、逮捕していたパルチザンの青年らの銃殺を命じました。ゼードルフ裁判長は判決で、「銃殺を指示した被告の行為は冷血で残忍」と述べています。
 エンゲルは、四つの虐殺事件で少なくとも二百四十六人の捕虜を殺害したとされ、九九年トリノの軍事法廷は欠席裁判で終身刑を言い渡しました。エンゲルは故郷のハンブルクに隠れ住んでいましたが、九八年以来、検察当局の追跡捜査が進み、逮捕されました。
判決を歓迎/イタリア人権団体
 【ローマ5日島田峰隆】イタリアの反ファシズム団体や人権団体、ジェノバの自治体は、ドイツ・ハンブルク地方裁判所が五日、元ナチス親衛隊(SS)のフリードリヒ・エンゲル被告に禁固七年の判決を下したことを歓迎しています。
 イタリア全国パルチザン協会(ANPI)のリッチ副会長はマスコミに対し「裁判は大虐殺とその残虐性におけるエンゲルの全面的な責任を確認した」と「満足」を表明しました。ただし当初検察側が要求していた終身刑とならなかったことについて「人々は別の決定を期待していた」(ジェノバ市長)という意見も出ています。
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2002年07月07日『赤旗』)(Page/Top

記者ノート/外信部 山田俊英記者/極右進出の仏大統領選を取材して/実感した民主主義の強さ 底辺の不満解決が課題

 まもなく始まるサッカー・ワールドカップ。フランス代表チームのジダンやデサイーは大統領選挙で極右を阻止するたたかいでも一流のプレーヤーでした。「フランスのすべての価値に反する政党」―ジダン選手は国民戦線をこう批判し、人種差別反対の世論をリードしました。
 仏代表チームのようにフランスそのものが多様な出身民族からなる社会です。移民は全人口の7・5%。道路工事の現場ではさまざまな言語が飛びかいます。日曜日でも開いている食料品店はたいていアラブ系仏人の商店です。厳しい労働条件の職を引き受けているのが移民です。
 極右、国民戦線は徹底した差別とフランスの孤立を主張します。不法移民は即時追放。合法的に定住している移民も出身国と協定を結んで送還する。イスラム教の活動禁止。社会保障や雇用に移民と仏人家系で差をつける。欧州連合(EU)から脱退し、自国最優先の保護主義経済に。犯罪対策では国境管理の強化と死刑復活。最近勢力を伸ばしている欧州の極右の中でも極端さが際立っています。移民出身者の間で「ルペン党首が大統領になったら出て行くしかない」と声があがったほどです。
 四月二十一日の大統領選挙一回目投票でルペン氏の決選投票進出が決まった直後、国民の決起は実に見事でした。連日のデモ。携帯電話で仲間を呼び集める若者。誰に言われるでもなく、“極右大統領”阻止の運動が広がりました。頂点となったのが全国百数十万人のメーデー行進でした。
 「人種差別反対」「共和国を救え」。パリのバスチーユ広場は五十万人のデモ隊列に埋め尽くされ、二キロ半の行進を終えるのに六時間かかりました。ラマルセイエーズの歌声には、自由・平等・友愛、フランス革命の精神を守れ、という強い思いがこもっていました。元レジスタンス戦士の老人が周りの人たちに大事にされている姿からは、第二次大戦後フランスが反ファシズム勢力によって再建されてきた歴史がうかがえました。
 私自身、巨大な人波に感動しました。しかし、他方でこれほどの民主的エネルギーがありながら、社会党や仏共産党はなぜ選挙でその力を結集できなかったのかと疑問が募りました。
 「環境問題が大事だと思ったから緑の党のマメール候補に入れた」(教員)、「電力民営化に反対だから、国家主権を重視する候補に入れた」(電力会社労働者、労働総同盟組合員)―一回目投票で過半数得票者がいなければ上位二人で決選という選挙制度のため、多くの左派支持者が、まさか一回目で社会党のジョスパン氏は落選しまいと思い込み、一回目は第一希望の候補に投票しました。この人たちのように現政権の原発維持政策や国有企業の民営化推進など批判はさまざまですが、ジョスパン氏は第二の選択でした。仏共産党のユ議長も得票率3・4%と不振でした。
 ルペン氏に投票した有権者は五百五十万人。十人に一人以上。一九七〇年代泡まつ候補だったルペン氏は八八年大統領選挙で14%、前回九五年15%、今回17%(一回目投票)と支持を伸ばしてきました。「われわれは最大の労働者政党だ」とルペン氏は自負します。投票者の職業別調査ではルペン氏は失業者の三割、低賃金労働者の四分の一の支持を得て一位です。
 「イスラム教徒はまったく異質な人々でフランスに同化できない。グローバル化で雇用は外国へ逃げ、入ってくるのはくいつめた者ばかりだ」(月収十八万円で低所得者向け住宅に住む事務労働者)。「多くのフランス人が失業しているのだから移民はいらない。移民が安い賃金で働くから私の給料も安いままだ」(建設労働者)―一回目投票後、ルモンド紙に載ったルペン支持者の声です。
 労働総同盟は「少子高齢化の中、移民労働が社会保障の財源に貢献している」と反論しました。国立統計経済研究所によると、労働者の中で移民の比率はここ数年減っています。移民の数も一九七五年からほぼ変わりません。移民が職を奪っているという見方は非現実的です。
 デモ参加者に話を聞く中で「ルペンを忘れていた」という声がありました。国民戦線の内輪もめによる分裂。大統領選では立候補に必要な推薦人集めに苦労し、一時は出馬も危ういほどでした。しかし十数年来の極右現象は社会の奥深い所で起きている現象でした。
 社会の中で最も苦労している人たちにたいして、移民、エリート政治家、EUなどを「悪人」として描き出し、それとたたかうのが自分だと売り込むのがルペン氏の手口です。パリ政治研究所のギ・エルメ名誉教授は「かれらは問題を戯画的に単純化し、悪人をやっつければ満足だ」(ルモンド五月十九日付)と指摘します。
 ジョスパン政権の五年間、週三十五時間労働法の施行、低所得者向けの医療保険新設、青年失対事業などさまざまな新しい施策が実行され、国民に歓迎されました。その中で政治の手が届かず、不満のはけ口を極右に求めた人が多かったのも事実です。その不満にこたえ、本当の解決策を実行する政治が今求められています。それがこの国の進歩勢力の課題のようです。
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2002年05月27日『赤旗』)(Page/Top

第2次大戦中にイタリア人虐殺/元ナチス隊長裁判を開始/ドイツ

 【ローマ10日島田峰隆】ドイツ北部の都市ハンブルクでこのほど、第二次世界大戦中にイタリア北部で起きた大量虐殺事件にかかわったとされる元ナチス親衛隊(SS)隊長エンゲル・フリードリヒ(93)の裁判が始まりました。
 同裁判はナチスの犯罪の真相解明につながる「最近の大裁判の一つ」(イタリア紙)として、イタリアでも注目されています。
 エンゲルはイタリア北部がドイツ軍の占領下にあった一九四四―四五年、ジェノバにSS親衛隊長として赴任、警察署長も兼任しました。その間に四件の虐殺事件に関与し、反ファシズム運動の活動家や市民ら合計二百四十六人のイタリア人を殺害しました。昨年四月にドイツのテレビ局が、ハンブルクで暮らしているところを発見しました。
 七日に行われた一回目の裁判でエンゲルは、「まったく覚えていない」、虐殺現場には「目撃者としていっただけだ」と、直接的関与を否定。虐殺対象者のリストを作成したことは認めました。
 エンゲルは昨年、高齢と健康状態の悪化、時間の経過を理由に裁判拒否の意図も語っていました。裁判は被害者団体や真相解明を求める世論を背景に実現したものです。
 イタリア全国パルチザン協会(ANPI)の幹部は、「裁判は個人責任と同時にナチスの罪の具体的事実も明らかにするもの。戦争を直接知らない若い世代にとってもナチスの蛮行を知る機会になる。大切なのはどんなに時間がたっても歴史の真実と教訓を明確にすることだ」と語っています。
 イタリアのウニタ紙は事件から半世紀以上たっても裁判を行う意義について、「国民の意識と現在・過去の関係への重要な貢献である」と論評しました。
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2002年05月12日『赤旗』)(Page/Top

2002 仏大統領選/極右に警戒緩めぬ欧州

多くの票反ルペン/英各紙
 【ロンドン6日田中靖宏】仏大統領選挙で極右のルペン候補が敗退したことに欧州各国の政界、マスコミは一様に安どするとともに、今後のフランス政局に注目し極右の伸長に引き続き警戒を示しています。
 各国首脳は「民主主義の勝利」(英ブレア首相)、「過激主義と孤立主義が否定された」(欧州委員会プローディ委員長)などと歓迎。新聞も「ほっと一息」「やれやれ」といった見出しで、仏国民が圧倒的多数で民主主義を擁護したと報じました。
 ただ巨大な反撃キャンペーンにもかかわらず、六百万人近い人がルペン候補に投票したのも事実。ロンドンの各紙は「決して気持ちを緩めることはできない」と警戒を呼びかけ、背景にある経済、社会の不安定化にどう取り組むかが政治の課題だと強調しています。
 また、シラク票の多くは反ルペン票であり、シラク大統領への信任が深まったわけではないと強調しています。
左翼の政策再建必要/各党指摘/イタリア
 【ローマ6日島田峰隆】フランス大統領選の結果について、イタリアの野党・中道左派連合(オリーブの木)内の主要政党、左翼民主(党)のファッシノ書記長は六日、「高い投票率とシラク氏承認はフランスが人種差別主義を拒否したことを示した」と指摘。同時に、欧州左翼が労働や治安など市民の懸念に対して応えるだけの「戦略を再定義する能力を持たねばならない」と語りました。オリーブの代表者ルテッリ氏もフランス社会党の敗北の原因は「社会正義や連帯のような固有の価値の提案」が不十分だったことだとして、「左翼のアイデンティティー」を強調することが重要だと述べました。
 オリーブ内の政党、緑の党のスカーニオ党首は、人種差別やナチズムの防止がいっそう求められているとして、「イタリアのあらゆる民主主義勢力が反ファシズムのイニシアチブを組織すること」を呼び掛けました。
 イタリア共産主義再建党のベルティノッティ書記長は五日、「(極右、国民戦線の)ルペンの脅威が市民と新しい主人公である若者の運動を巻き起こし、ルペンを阻止した」と強調。同時に「左翼の政策の再建が必要だということを示している」と述べました。
 ベルルスコーニ首相(右派フォルツァ・イタリア党首)は、結果は「極右に反対した投票」だったと評価する一方、「過去に左翼に振れた振り子が今ではさらに中道右派へ向かって方向を定めている」と語りました。
潜在的極右票より少ない/人権団体SOSミットメンシュ コッホ氏語る/オーストリア
 極右とたたかうオーストリアの人権団体「SOSミットメンシュ」スポークスマンのマックス・コッホ氏はフランス大統領選決選投票結果について本紙に次のように語りました。(ウィーンで岡崎衆史)*
 ルペン国民戦線党首が獲得した約18%という得票率は、欧州の潜在的極右票である20―25%を考慮すれば、思ったよりも少ないと言える。
 欧州でいうと、極右の支持者は経済・社会のグローバル化の結果、アイデンティティー喪失を感じている人々や欧州連合(EU)に失望し、その拡大で敗者となることに不安を感じている人々だ。これをナショナリズムに依拠する極右政党がうまく利用し、メディアが支えてきた。
 しかし、経済状況が良くなり、EUの機構が積極的な方向で改革されれば、こうした状況も変わる。
 オーストリアのように極右政党が政権に就いた場合も、その「魔法」は消えよう。政権に就いた極右は、妥協せざるを得ず、そのことは支持層を失望させるからだ。オーストリアでは、極右・自由党の加わる政権によって、社会福祉制度が破壊されることに国民が恐れを感じ始めている。
 欧州右傾化の振り子は揺り戻される。
“たたかいは続く”/仏の労組、人権団体、左翼政党
 【パリ6日山田俊英】五日夜、フランス大統領選挙で極右ルペン氏の落選が決まると、パリの共和国広場に一万人、近くのバスチーユ広場にも数千人が集まり、勝利を喜びました。「ルペン、ノン」「シラク、あなたに白紙手形を渡したのではない」というプラカードが人々の気持ちを代表しています。
 反極右の声を全国百数十万人のメーデー行進に結集した労働総同盟(CGT)は「決選投票の結果は人種差別、排外主義、ファシズムを拒否するかつてないたたかいの成果だ」と声明を発表。「極右進出をもたらした政治、社会の難局がなくなったわけではない。新政府はまず労働者、労組の声に耳を傾けよ」と訴えました。
 人権同盟のミシェル・トゥビアナ会長は「五百万人もルペン氏に投票したことは重大だ。わが国の行方について討論を巻き起こしていかなければならない」と語り、たたかいの継続を表明しました。
 連日デモを行った全国学生連合は「国民議会選挙で国民戦線の議席獲得を阻止する」と宣言。社会党のオランド第一書記は「青年と労働者の自由を守るための運動が勝因だ。シラク氏は政策を支持されて当選したわけではない。民主主義を守る信任状を託されたのだ」と強調しました。仏共産党のユ議長は、六月の国民議会選挙で極右の議席獲得を阻止するための共同を他の左翼政党に呼びかけました。
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2002年05月08日 『赤旗』)(Page/Top

仏大統領選 あす決選投票/自由・平等・友愛、反ファシズム/党派超え広がる

 【パリ3日山田俊英】フランス大統領選挙の決選投票が五日、行われます。保守現職のシラク候補と極右、国民戦線党首ルペン候補の一騎打ちとなったため、一回目投票で敗れた左翼政党をはじめ、各界の広範な人たちが政治的主張の違いを超え、極右大統領阻止で大同団結。シラク氏の名をあげないものも含め、同氏への投票を呼びかけています。
労組から、宗教界まで
 「反ルペン」は労働組合、市民団体、文化・スポーツ界から財界、大学学長会、農業団体、宗教界まで広がっています。主要新聞もこの問題に関しては中立の立場はないと、極右批判に徹しています。ルモンド紙三日付は、極右を当選させないためシラク氏に投票するよう社説で呼びかけました。
 記録的な百数十万人の反極右デモとなったメーデー行進のほか、黒い喪章を腕に巻いて試合をしたサッカークラブ、有権者証を提示すれば入場無料にしたディスコなど、創意的行動が広がっています。
 合言葉は「フランスの価値を守れ」。「価値」とは仏革命のスローガンであり、現憲法にも書き込まれている「自由、平等、友愛」の意味です。
 もう一つの意味は、第二次世界大戦後の国家再建の基礎になった反ファシズムの理念です。シラク大統領ら保守主流派は反ナチスのドゴール元大統領が源流。左翼も仏共産党をはじめレジスタンス勢力が中心になりました。
国の理念に反する主張
 人種差別、移民排斥や死刑復活などルペン氏の主張は国の理念に反します。「民主主義の陣営内ではシラク氏が対決相手だが、ルペン氏の当選は国の危機だ」(オランド社会党第一書記)という声があがるのはこのためです。
 支持基盤ではシラク候補が圧倒的に有利ですが、国民的なたたかいで極右支持票をどれだけ抑えられるかが注目されています。ルペン氏と、一回目投票で落選したもう一人の極右候補メグレ氏の得票はあわせて五百四十七万票、得票率19・2%でした。
 六日には、一回目投票での落選の責任をとって社会党のジョスパン首相が辞任し、左翼連立内閣も総辞職します。シラク氏が当選した場合、同氏はただちに保守の首相、内閣を指名します。国民議会では左翼が多数派ですが、仏大統領は国会の同意なしに首相、閣僚を任免できるため、今回はこの大統領権限を行使します。
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2002年05月04日 「赤旗」)(Page/Top

極右の大統領当選阻止訴え/芸術家103団体が集会/パリ

 【パリ28日山田俊英】二十八日パリ市内で極右ルペン氏の大統領当選阻止を訴え、百三の芸術家団体がコンサートを兼ねた集会を開きました。
 ギリシャの軍事独裁政権を描いた映画「Z」やチリ・ピノチェト政権と米国のつながりを告発した映画「ミッシング」をはじめ、今上映中の「アーメン」でバチカンの対ナチ協力を暴露して衝撃を与えたギリシャ出身の映画監督コンスタンチン・コスタガブラス氏、映画「美しきいさかい女」で日本でも話題をよんだ女優エマニュエル・ベアールさん、舞台から刑事もの、渋い父親役のテレビドラマで人気抜群の俳優ロジェ・アナン氏ら、フランスを代表する芸術家が集まりました。
 最初にあいさつしたパリ管弦楽団のジョルジュフランソワ・イルシュ音楽監督は、「ナチスからの解放以来初めて百三もの芸術団体が極右反対のために集まった。決選投票では棄権も白紙投票もルペン氏を利することになる」と、対立候補のシラク現大統領への投票でルペン氏を落選させるよう呼びかけました。
 会場は五千人を超える芸術愛好者でいっぱい。歌、演奏、演説など著名な芸術家が自分の芸でファシズム反対を訴えました。
 中東・アフリカなど幅広い文化が集まるフランス。ルペン氏は選挙政策の中でラップなど「好ましくない」文化があるとして、文化・芸術分野でも排外主義をとり、批判が高まっています。
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2002年04月30日 『赤旗』)(Page/Top

ファシズム復活させない

イタリア 「解放記念日」でデモ
 【ミラノ25日島田峰隆】イタリアの「解放記念日」にあたる二十五日、今年も全国で反ファシズム抵抗運動(レジスタンス)を振り返る催しが行われました。一部にレジスタンスの価値をゆがめる議論もみられる中、民主主義と自由を勝ち取ったたたかいの歴史を正しく認識する重要性が広く強調されました。
 ミラノでは午後、自治体関係者や労働組合員、学生など約二十万人(主催者発表)がデモ行進、「新旧のあらゆるファシズムに反対」「自由、民主主義」などと書いた横断幕や風船を持って歩きました。レジスタンスに参加した人の隊列には沿道から大きな拍手が沸き起こりました。
 高校生のイザベラさん(18)は「レジスタンスは今の社会の出発点。欧州では今でも極右の動きがあるので、自由と民主主義を勝ち取った歴史をよく考えたい」と語っていました。
 集結集会で演説したイタリア労働総同盟(CGIL)のコッフェラーティ書記長は「より良い未来を本当に建設したい人は歴史を知り、それを尊敬することから出発しなければならない」と強調。反ファシズムは「日常的に守られるべき価値」であり、「今日の政治目的を支えるために歴史を書き換えようとする人々のあらゆる修正主義を打ち破る必要がある」と訴えました。
 ローマ、フィレンツェ、ナポリなど主要都市でデモや集会、パネル展示会などが開かれました。◇
 第二次世界大戦末期の一九四五年四月二十五日、レジスタンス勢力の総蜂起によりイタリア北部の諸都市が連合軍の到着に先立ってドイツ軍から解放されました。戦後、この日は祝日に制定されました。
フランス 行動の中心に高校生
 【パリ25日山田俊英】極右、国民戦線のルペン党首の大統領選決選投票進出に抗議するデモは連日絶えることがなく、二十五日には全国主要都市で合わせて三十数万人が参加、二十一日の一回目投票後、最大の規模に達しました。
 主力は六月に大学入学資格試験を控えた最上級生を含む高校生。「みんな先祖はどこかの移民。私たちは二世、三世、四世だ」「よく考えて投票しよう。これが最後かもしれないぞ」とのスローガンが全国に広がり、各地で唱和されました。
 この日最大のデモが行われたのは中部の中心都市リヨン。第二次大戦中、反ナチ・レジスタンスが活発だった町です。主催者発表で二万五千人が行進し、「私たちは歴史を忘れない」「一九三三年(ドイツでのナチス政権確立の年)を二度と許すな」などと書いたプラカードを掲げて極右台頭に抗議しました。
 フランス通信(AFP)の集約によると、西部のナントで一万五千人、北部のカーンで一万二千人など五つの都市で一万人以上がデモ行進し、他地方でも千人から数百人の規模で行動。数年来最大規模のデモに発展しました。
 ルペン氏が30%近い全国最多得票をしたニースでも数千人の学生が市内を行進。「FN(国民戦線)はファシスト・ナチスの頭文字」とシュプレヒコールしました。
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2002年04月27日 『赤旗』)(Page/Top

ワールドリポート/ヒンズー過激派の暴力続く/宗教・民族共存の危機/アーメダバードにみる/インド西部

 非暴力主義を掲げたインド独立の父、マハトマ・ガンジーの拠点だったアーメダバードは、死と暴力で覆われていました。二月二十八日以来続く、ヒンズー過激派によるイスラム教徒虐殺。多宗教・多民族が共存するインドそのものが破壊されようとしています。(インド西部グジャラート州アーメダバードで竹下岳 写真も)
 「これはインド版民族浄化運動だ」。避難民の支援活動をしているアブドラ・ファリークさんは断言しました。
イスラム居住区次つぎに襲撃
 二月二十七日、ヒンズー至上主義を掲げる過激派組織「世界ヒンズー協会」(VHP)の活動家が乗っていた列車の車両がグジャラート州ゴドラ駅で何者かに放火され、五十八人が焼死した事件が発端でした。
 翌日、怒り狂った暴徒が次々にイスラム居住区を襲撃しました。都市部を中心に、州政府が確認しただけで八百人以上が死亡。実際は二千人近くに達しているとみられています。家を失った避難民は十五万人以上。今なお連日死者が発生しており、市内の方々に外出禁止区域が設けられています。
 市内中心部のモスク(イスラム教寺院)の中庭に設けられたシャー・アラム避難民キャンプ。一万五千人を超える避難民でごった返しています。ファティマ・ビビさんは二十四人家族のうち、十九人が殺害されました。
 二月二十八日午前。突如、数万人の暴徒がビビさんの居住区域を襲撃しました。家の中にいた家族はそのまま押し込められ、生きたままガソリンをかけられ、焼き殺されました。外にいた家族は「サムライが使っているような」長い剣でくし刺しにされました。
 ムハマド・ハニーフさんは七人家族のうち、十四歳の娘を失いました。公道で十数人の男たちに暴行され、最後に焼き殺されたといいます。
 逃れた住民たちも家財のほとんどを破壊され、略奪されました。イスラム居住区は黒焦げになり、がれきや家財の燃えかすが散乱していました。完全に無人化した地域も少なくありません。
若者たちあおる至上主義組織
 暴徒たちはなぜ、ここまで残虐な行為を繰り返したのか、彼らは何者で、誰が彼らを組織したのか。
 VHPの事務所の壁には、ゴドラで犠牲になった活動家の写真と、判別不明の黒焦げの死体の写真が張り付けられていました。幹部の一人は訴えます。「ゴドラを忘れるな。われわれは、わが国民をイスラムの手から守らなければならない」
 彼らにとってイスラム教徒は憎むべき敵なのです。
 インドはヒンズー教徒が80%以上を占めますが、イスラム教徒も10%を超え、その数は一億人に達します。多くの国民は各宗派の共存を望んでいますが、インドとパキスタンが分離・独立した際に両教徒が殺し合い、約百万人が犠牲になったためヒンズー教徒の側に反イスラム感情も残っています。今回の事件でも、扇動された貧しい若者たちが抑圧のはけ口のために虐殺に参加したといわれています。
 VHPは反イスラム感情を利用してヒンズー至上主義をあおり、組織を拡大してきました。
 ヒンズー至上主義を掲げる与党・人民党もこうした動きを利用しているのです。
インド全土に広がる危険性も
 今回の虐殺事件で住民たちは「警察が住民を守らなかっただけでなく、私たちに発砲してきた」と証言しています。記者が訪れていたときもヒンズー、イスラム両教徒の衝突を鎮圧するために警察が発砲。イスラム教徒四人だけが死亡する事件が発生しました。
 人民党に属するモジ州政府首相に対し野党各派と与党の一部から辞職要求が出されていますが、バジパイ中央政府首相は一貫して拒否。早期の州政府解散・選挙という作戦を打ち出したのです。
 地元記者は「いま選挙を行えば、人民党は宗教感情を最大限利用して住民を扇動し、反与党勢力を暴力で抑え込んで圧勝するだろう。そしてイスラム教徒を虐殺した体制を継続する。まさにファシズムだ」と警鐘を発しました。
 深刻なのは、同様の事態がインド全土に広がる危険性を帯びていることです。人民党はヒンズー至上主義を掲げて勢力を拡大し、一九九八年以降政権を維持しています。しかし昨年来、国民の支持を失い、地方選挙で連敗を重ねています。追い詰められた人民党にとって、最後の切り札が「宗派カード」です。多くの宗教・民族が共存するインドはいま、深刻な危機に直面しています。
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2002年04月24日『赤旗』)(Page/Top

4月25日は「解放記念日」 イタリア/反ファシズムは民主主義の基本価値、市民参加で継承を

 イタリアでは毎年四月二十五日が「解放記念日」(注)とされ、全国各地で反ファシズムのたたかいを振り返る催しが行われます。いま反ファシズムのたたかいを振り返る意義について、ローマ大学(サピエンツァ)文学部のアレッサンドロ・ポルテッリ教授に聞きました。(ローマで島田峰隆 写真も)
ローマ大学/ポルテッリ教授に聞く
 ドイツ、日本と同盟を組んだイタリアは、第二次世界大戦中にアルバニアやエチオピアを侵略し、現地の人々に強制労働をさせたり、多数の市民を殺害するなど多くの犯罪を行いました。この根底には日本と同様、「優越した」民族が他の地域に恩恵をもたらすという人種差別的なファシズム思想がありました。
 一方、戦後の社会は国民がファシズムとたたかい、それを打ち破ることから生まれました。反ファシズムは戦後の民主主義の基本価値であり、それはイタリアの憲法にも反映されています。
 しかし今、反ファシズムとのたたかいの意義をあいまいにし、否定し、忘れさせようとする動きも見られます。一例が、ファシズムの協力者は間違っていたけれども「祖国のために善意を尽くしたい」という信条や願望があった、戦没者としては反ファシズム運動を行った人と同じだという議論です。右派勢力は「解放記念日」も戦没者全体にささげる日として、その性格を変えたいと考えています。
 しかしこれは、ファシズムを退け、民主主義を打ち立てたたたかいの重要性を不明りょうにする議論です。
 この議論にたつと、ヒトラーも彼自身は「ドイツのために善を行う」という確信があった、最近でいえばニューヨークでのテロを起こしたビンラディンさえも「第三世界の利益のための行動」という「信条」をもっていたということになります。
 結局、「それぞれ信条があった」という議論は、実際には最悪の戦犯、犯罪者の罪も放免することにつながるのです。
 こうした修正主義的な動きがあるからこそ、今年の「解放記念日」も歴史の中での反ファシズムのたたかいの役割を再確認し、戦後民主主義の基本的価値を改めて踏まえる機会にするべきです。
 過去を記憶することは現在の活動、作業そのものであり、現在と過去をつなぐものです。学校でも町でも反ファシズムの問題を取り上げ、市民が運動に参加することで過去の教訓を常識にし、継承することが必要です。この観点から、今年の「記念日」が労働組合のストライキなど国民的運動の中で行われることは重要です。
 また国も反ファシズムのたたかいの価値をふまえて、その精神が入った憲法の守り手となるべきだと考えます。
 (注)解放記念日 第二次世界大戦末期の一九四五年四月二十五日、ドイツ軍に占領されていたイタリア北部の諸都市が、連合軍の到着に先立って国民の反ファシズム抵抗運動(レジスタンス運動)によって解放されました。戦後この日はファシズムからの解放を記念する祝日に制定されました。
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2002年04月21日『赤旗』)(Page/Top

「ありふれたファシズム」/17日に長編記録映画を上映/今日への警告はらむ

 日本記録映画作家協会は、十七日に開く第四十回記録映画を見る会で、長編記録映画「ありふれたファシズム―野獣たちのバラード」(写真)を上映します。
 おもにナチス・ドイツの記録フィルムを使い、二時間九分に構成・編集した、一九六五年のモスフィルム作品で、脚本・監督は、ミハイル・ロンム。日本語版の解説を宇野重吉が務めています。涙ぐましいけいこを重ねて、総統らしい振る舞いを研究し、本番を迎えるヒトラー。彼が政権を握るや、人々は夢中でたいまつ行進をし、ゲッベルスの演説に興奮した学生たちは、書物を炎に投げ入れます。
 カール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクら革命家は虐殺され、労働者のたたかいは、徹底的に弾圧されます。
 侵略する兵士の人間性が壊されていることを示す記念写真。爆撃で廃虚となる都市。芸術作品と見まがうような兵士のパレード…。
 “大衆と接するには女に接するごとくせよ”と豪語するヒトラーは、どのようにしてのしあがったのか? 民衆が思考を停止したときファシズムは? 膨大なフィルムを駆使し、風刺とユーモアをたっぷり込めながら考えさせ、今日への警告をはらんでいます。ライプチヒ国際映画祭でグランプリを受賞。
 上映とあわせ、映画評論家・石子順氏が「映像はファシズムをどう描いたか」を講演します。
 会場は、東京・中野・なかのゼロ小ホール。午後六時十五分開場。料金=千円。
 問い合わせは、TEL03(3746)7847日本電波ニュース野田。
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2002年04月06日 『赤旗』)(Page/Top

戯曲「ロボット」の作家/カレル・チャペック 多彩な魅力/強烈な好奇心/独特の語り口/豊富な語彙/田才益夫

 一九八〇年にカレル・チャペックが晩年を過ごしたストルシュ(プラハの南三〇キロ)にある別荘を訪ねたことがあります。そこはチャペック記念館になっていて、本や絵はがきなどを売っていました。当時のチェコではチャペックの本が欲しいと思ってもなかなか買えないころでした。そこで私は偶然一冊だけ売れ残っていた『クラカチット』という破天荒な作品に出合ったのです。まだろくにチェコ語も読めなかった私ですが夢中になって読んだ記憶があります。そして私が翻訳して最初に出版したのもこの本でした(一九九二年)。いま思うと、この作品のなかにはチャペックのすべての要素が含まれているように思えます。そう、チャペックの多彩な魅力が、です。
SF的作品も
 その多彩さはきっと彼の強烈な好奇心によるものだと思います。たとえば園芸という対象を見つけると園芸にかんするあらゆる本を読みあさり、専門的知識をものにしました。その結果『園芸家十二カ月』というユーモアあふれる楽しいエッセー集ができあがったのです。
 『ポケットから出てきたミステリー』(拙訳・晶文社刊)には「サボテン泥棒」の話や、権威ある外科のお医者さんが世にもまれな貴重なじゅうたんを発見して、どうしても欲しくなり、盗みにはいるが失敗するという話もあります。しかも、サボテンにしろじゅうたんにしろ、その知識は並大抵のものでなかったことがうかがわれます。
 チャペックを世界的に有名にしたのは『ロボット』という戯曲でした。これは人間の代わりに働くロボット(機械ではなく生体)を大量に作り出して人間は労働からは解放されはしたものの子どもを産めなくなってしまいます。やがてロボットの反乱によって人類が滅亡するという話です。いま、この話はなんとなく「クローン人間」のことを連想させます。
 そのほかにも原子爆弾や原子力発電を暗示した『クラカチット』、『絶対子工場』などのSF的な作品も書きました。晩年(一九三六年)に出版された『山椒魚戦争』は明らかにアドルフ・ヒトラーを揶揄(やゆ)した作品です。
 彼の作品の魅力のなかに加えなければならないのは、読者の関心をそらさない独特の語り口と、語彙(ごい)の豊富さです。その文体はとくに新聞の「コラム」で発揮され、売れ行きにも影響を与えたほど人気があったそうです。
 それには幼少のころをともにすごした天衣無縫、天真爛漫(らんまん)な童女のごとき祖母の影響を無視することはできません。チェコ語には早口言葉や、なぞなぞ、ことわざ、金言といった類の文句が非常に豊かで、子どものころからそれらの言葉が口伝えに教え込まれてきたという伝統があります。チャペックにとってまさにその言葉の教師がおばあさんだったのです。
「反ファシズム」
 チャペックがジャーナリスト作家として活躍したのは、前衛芸術がさかんだった半面、経済不況に象徴される一九二〇年代と、ヒトラー・ナチスの台頭による新たなる戦争への恐怖の三〇年代というきわめて多難な時代でした。反ファシズム戦線のリーダーの一人としても活躍しましたが、一九三八年のクリスマスの日に、風邪をこじらせて肺炎になり四十八歳の若さで亡くなりました。その翌年、チェコはナチス・ドイツに占領され、そのまま第二次世界大戦へと歴史は進んでいったのです。(たさい ますお・チェコ文学翻訳家)
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2002年03月08日『赤旗』)(Page/Top

イタリア/「北部同盟」のEU攻撃 右派政権に不協和音

 【ローマ5日島田峰隆】イタリアのベルルスコーニ右派政権の連携政党「北部同盟」のボッシ書記長(制度改革相)がEU(欧州連合)を攻撃する発言をし、政権内に不協和音が広がっています。
 同書記長は二日、EUは国民主権を認めない「新たなファシズム」と発言。同党はこれまでも反欧州的な主張を繰り返してきましたが、ベルルスコーニ首相は四日、「変化に富んだ言葉」などとして発言を擁護しました。
 しかしキリスト教民主センター(CCD)党首で欧州協議会のイタリア代表も務めるフォリーニ氏は、発言は「無分別」と批判。カジーニ下院議長も、欧州批判は「政治的自殺行為」と述べるなど、連立内にも戸惑いを広げています。
 一方、欧州委員会の報道官も五日、発言は「遺憾」であり「繰り返されないことを望む」と強調しました。
 ベルルスコーニ政権発足以来、同政権のEU政策の不明確さなどのため、イタリアは伝統的「欧州主義」から離脱しつつあるといわれます。今年初めにはEUとの唯一のパイプ役だったルジェロ前外相も辞任、同政権とEUの距離はさらに広がったと指摘されています。しかし国民の多くは欧州の一員としての立場を望み、同政権との違いを見せています。
 全国紙レプブリカの世論調査でも六割以上がボッシ発言を「損害」と回答。同紙は「北部同盟の反欧州主義はイタリアをもはや我慢できない状況に置いている」と指摘しました。
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2002年03月07日『赤旗』)(Page/Top

断面/カナダの「銃後」を描く/「パレードを待ちながら」

 昨年の今ごろは、忘れえぬ(あるいは、思い起こすべき)戦争を題材にした芝居が次々と上演され(文化座、新国立劇場など)、演劇人の心意気が感じられました。今年は、戦争を撃つ作品があまり目立ちません。再演では「瞽女(ごぜ)さ、きてくんない」(文化座)や「泰山木の木の下で」(民芸)などがありますが、新作が続出といった状況ではありません。もちろん演目は前々から決められているもので、時局にぴったりだとしてもそれは偶然のことなのですが。
抑圧と戦後の解放感
 そんななかで印象的だったのは、「東京演劇集団 風」の「パレードを待ちながら」(ジョン・マレル作、吉原豊司訳、和田喜夫演出)。カナダの「銃後」に生きる庶民の姿を鮮やかに描き出し、「珠玉」という表現の似つかわしい佳品でした。
 第二次大戦末期のカナダ・カルガリー。五人の女たちが、待っています。戦争の終結、夫の帰還、それから、自由で平和な生活を。
 前線の兵士への慰問袋づくり、停電時に備えた訓練、そして、本当は悲しいのに笑顔で旗振りの、出征見送り。細かく積み重ねたエピソードの端々で、官僚的で高圧的な「銃後」の戦争推進者にたいしてくすぶる庶民の不満が浮き彫りにされます。戦争推進とはいえ、彼女とて末端の、それも、日独伊のファシズムとたたかう「正義」の側ですが、それでも、戦争を遂行すること自体が人間性の否定をはらまずにはおれない、その非情さが、説得的に描出され、戦争のもたらす抑圧と終戦の解放感とが、舞台にみなぎっていました。
個性的なキャスト
 キャストも個性的。平田オリザ風に“特異なコンテクスト(文脈)をもつ俳優”と呼びたくなる稲葉礼恵や斉藤清美のキャラクターがユニークでした。コンスタントに充実した作品を上演してきたこの劇団の魅力が発揮された舞台でしたが、上演は二月のはじめの三日間だけ。これはぜひとも再演してほしい。(生)
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2002年02月20日『赤旗』)(Page/Top

「建国記念の日」とアジアのまなざし/笠原十九司

 昨年は「新しい歴史教科書をつくる会」の中学校歴史・公民教科書ならびに小泉首相・閣僚の靖国神社参拝が近隣アジア諸国民から強い批判を受けた。その後小泉首相は、中国・韓国に「謝罪」に行き、さらに東南アジア諸国を歴訪して日本政府の「誠意」をアピールしようとしたが、日本を見るアジアのまなざしは小泉首相の「口先」ではなく、小泉内閣が国内政治で何をしようとしているのかに厳しく注がれている。
 こうしたアジア諸国民の注視の中で、二月十一日を「建国記念の日」とする奉祝行事が、今年も政府・官庁の肝いりで行われようとしている。
天皇制の強化を図った明治政府
 「建国記念の日」は、戦前の紀元節を復活させるかたちで一九六七年から実施されてきた。紀元節は、天皇制強化をはかった明治政府が、「日本書紀」で日本建国の天皇とされた神武天皇が即位した年を日本の紀元(皇紀元年、西暦紀元前六六〇年に相当)とし、即位した同年の元日が西暦に換算して二月十一日であったとして、国家の祝日に定めたのである。それは、「万世一系」の天皇の権威を臣民(国民)に宣伝し、受容させるための重要な国家行事であり、大日本帝国憲法の発布(一八八九年)、日露戦争の宣戦の詔勅の新聞発表、御真影の下賜(かし)、金鵄(きんし)勲章の設定などもこの日を選んで行われた。
独立、解放を記念するアジア
 現在の日本が、このような「建国記念の日」を奉祝することは、天皇制ファシズムの侵略と支配により甚大な被害と損失を被ったアジア太平洋地域の諸国民からすれば、耐えられないことである。
 近隣アジア諸国もそれぞれ建国記念日にあたる祝日を設けている。
 韓国では、八月十五日を光復節としている。日本がアジア太平洋戦争で降伏し、韓国が三十五年間にわたった日本の植民地支配から解放され、独立を回復した日である。中国では、日本が連合国に対して降伏文書に調印した九月二日を抗日戦争勝利記念日とし、一九四九年に中華人民共和国の建国を宣言した十月一日を国慶節として祝賀している。台湾では、十月十日を国慶節(辛亥革命が起こされた日)とし、さらに十月二十五日を光復節と定めている。一九四五年十月二十五日に日本の台湾総督が中国政府代表に降伏文書を手渡した日で、五十年間にわたった日本の植民地統治から台湾が解放された日である。
 フィリピンをはじめ他の東南アジアの国々でも、日本の侵略、占領支配からの独立、解放を記念する日を設けている。
 このように、近隣アジア諸国が天皇制ファシズムの侵略や支配と戦い、独立、解放を勝ち取った日を記念していることと対比すれば、日本の「建国記念の日」が、アジアに「敵対」する歴史的性格を有していることが分かる。
日本の未来選択にかかわる問題
 日本の侵略戦争の被害を被ったアジア太平洋地域の諸国民にとって、日本国憲法の前文と第九条は、戦後日本が侵略戦争の過去を反省・謝罪し「戦争をしない国」になることを誓約し、保証する意味をもっていた。しかし今や日本は紛れもなく「日本軍」をもち、アメリカで発生した国際テロ事件に便乗するかたちでアメリカのアフガン報復戦争に「参戦」し、「日本軍」を戦場に派遣してしまった。
 現在、日本政府は、戦前の「非常時体制」「戦争総動員体制」に模した有事法制の整備を進め、日本を「戦争できる国」にする政治体制の総仕上げとして、平和憲法を「破棄」する準備を憲法調査会を中心に進めている。
 EAEC(東アジア経済会議)、APEC(アジア太平洋経済協力会議)、ASEAN(東南アジア諸国連合)プラス3、ASEAN地域フォーラムなどの開催に見られるように、歴史の流れは、東アジア経済圏、アジア太平洋経済圏の形成に向かっており、昨年末の中国のWTO(世界貿易機関)加盟はその流れをさらに促進させるものだった。二十一世紀を展望すれば、日本は東アジア共同体、さらに広域のアジア太平洋共同体の中で平和的に共生する努力をしなければ、アジアから孤立し、やがては経済崩壊にいたるであろう。
 「建国記念の日」に対して奉祝か、不承認か、あるいは無関心による黙認か、それは、日本国民の総意が日本の未来をどう選択するかにかかわっている重要な問題である。 かさはら とくし=都留文科大学教授。専門は東アジア近現代史。一九四四年生まれ。著書に『南京難民区の百日』『南京事件と日本人』ほか。
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2002年02月06日『赤旗』)(Page/Top

一九三〇年代の大恐慌時/時短で雇用の拡大を実施−−対応分かれたフランスとイタリア

 労働時間を短縮して仕事を分かち合い雇用を拡大するワークシェアリングを国際的に政府が実施しはじめたのは、一九三〇年代の世界恐慌の時にさかのぼります。このとき、民主主義国家とファシズム国家では対応が対照的だったことが注目されます。
 大恐慌のさい、資本家は労働者の犠牲で恐慌を切り抜けようとして首切りと賃金引き下げを強行しました。このため、一九三二年の失業率は、イギリス22%、アメリカ32%、ドイツ44%にも達しました。
 失業に反対する労働者のたたかいが広がり、首切り反対、失業救済、失業保険の改善などとともに、労働時間の短縮の要求が掲げられました。 このような情勢の下で、ILO(国際労働機関)は、一九三五年に労働時間を週四十時間に短縮する条約(第四七号条約)を採択しました。
 この条約は前文で「失業が広範かつ持続的となったため自分に責任がなくてかつ当然救済せらるべき困苦と窮乏に悩んでいる幾百万の労働者が世界をつうじて存在すること」にかんがみて時短が必要だとしています。
 第一条では「生活水準の低下をきたさないように適用さるべき」とうたい、賃下げなしの時短を原則としています。
 フランスでは、労働者のたたかいと労働運動の統一を背景に、一九三六年の総選挙で共産党、社会党、急進社会党などでつくる人民戦線が勝利しました。人民戦線政府は、共同綱領を実現するために週四十時間労働制や最低十五日間の年次有給休暇などを実施しました。時短は労働者の賃金の減額なしでおこなわれ、二年間で完全失業者が約六万人減少しました。 一方、ムソリーニが政権についていたイタリアでは、一九三四年にファシストの経営者団体と労働団体の間で、時短で就業者数を増やすことを目的に週四十時間労働制の一般協定が結ばれ、一九三七年から法制化されました。これは労働時間短縮に比例して賃金を減額するものでした。このとき労働時間は月平均二十時間(12%)減少しており、賃下げは大幅です。
 民主的政権のフランスで、時短が労働者の減収の理由となってはならないことをうたい、時間賃金は平均20%の引き上げとなり、減収をさせなかったのとは大違いです。(沢村)
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2002年01月30日『赤旗』)(Page/Top

アウシュビッツ解放57周年 欧州各地で式典・集い/民族排外とのたたかい誓う/歴史から学び悲劇繰り返さない

 アウシュビッツ(現ポーランド・オシフィエンチム)のナチス強制収容所解放五十七周年記念日にあたる二十七日、欧州各地で記念式典や行事、集会が行われ、歴史から学び、悲劇を繰り返さないこと、今もある人種差別や排外主義とたたかうことを誓いあいました。
元収容者、遺族ら300人/現地で追悼式典/「死の壁」に花束/ポーランド
 【オシフィエンチム(旧アウシュビッツ)27日岡崎衆史】ユダヤ人を中心に、ポーランド人、ロマ人、ロシア人、チェコ人、ユーゴスラビア人、フランス人など欧州各地から収容された約百五十万人の罪のない人々が虐殺されたアウシュビッツ・ナチスドイツ強制収容所―。ナチが設立した強制収容所のなかで最大規模の同収容所を旧ソ連軍が解放してから五十七周年となる二十七日、元収容者や遺族など約三百人がポーランド南部のオシフィエンチム(旧アウシュビッツ)の収容所跡に集まり、追悼式典を行いました。
 式典は「囚人」数千人が銃殺された「死の壁」の前で実施。冷たい風雨のなか、元収容者たちは、壁の前で正面を見つめながらしばらく立ち止まり、その後ゆっくりと花束を供えていました。
 バンダ・サウキエビチさん(75)は、収容された当時、十五歳の少女でした。囚人を助けたことが収容の理由でした。「一緒につかまった少年は壁の前で殺されましたが、私はおとなが労働させられている間狭い場所で耐える生活を続けて生き残った」と高ぶる気持ちを抑えながら話しました。
 バンダさんは、テロや戦争、民族紛争などが絶えない世の中を例に「他人を理解する寛容の精神を失えば再び同じような惨劇が起こりかねない」と危ぐし「収容所での体験を伝えることで、悲劇を減らすことに貢献したい」と語りました。
 式典では、若者や子どもの姿も目立ちました。地元オシフィエンチムで歴史の先生をしているマルタさん(28)は「収容所を訪れ、人間に起きた惨状を知るのは私たち若者、とりわけ地元に住むものの義務だと思っている」と語り、歴史の事実を語り継いでいくことの意味を強調しました。また「さまざまな人たちと悲劇について話し、理解を深め合うことが、結局これを繰り返さないことにつながるのではないか」と話しました。一緒に訪れた二人の友人もその答えにうなずいていました。
 アウシュビッツ強制収容所が設立されたのは一九四〇年。収容者の多くはナチのホロコースト(民族皆殺し)政策の対象にされたユダヤ人で、ルドルフ・ヘス元所長によると、列車などで運ばれてきた人々の70―75%がガス室に送られ殺害されたといいます。
極右暴力への警戒を/ドイツ
 【ベルリン27日坂本秀典】ドイツ各地でも集会、記念行事が行われました。
 ベルリン北方三十キロのザクセンハウゼン強制収容所跡では、州当局や関係者、市民多数が式典に出席しました。同収容所は十万人以上のユダヤ人などが死に追いやられた場所です。地元ブランデンブルク州のヘルム文化担当相は「この収容所での大量殺りくが、後のホロコースト(民族皆殺し)につながっていった」と強調しました。
 テューリンゲン州のミッテルバウ・ドラ収容所跡の集会では、フォーゲル同州首相が「人種差別主義、排外主義、反ユダヤ主義への警戒が常に必要だ」と主張しました。
 今年の追悼の日は、ドイツ国内では「外国人排斥」を掲げる極右の活動が続くなかで迎えられました。イエナ(テューリンゲン州)では二十七日、ロシア人の研究者が極右とみられる三人から暴行を受けました。同地では、一週間前にも中国人が襲われています。
 ドイツのユダヤ人中央評議会のシュピーゲル会長は、極右暴力にたいし多くのドイツ市民が「見ぬふりをして行動しようとはしない」と指摘しました。
 ドイツ連邦議会は二十八日に公式追悼行事を予定しています。
“ナチス犯罪”振返る/イタリア
 【ローマ27日島田峰隆】イタリアでもナチスの犯罪を振り返り、反ファシズムを誓う催しが全国で行われました。
 ローマで開かれたイタリア共産主義再建党などが主催した集会には、約百五十人の市民が参加しました。
 「アウシュビッツ収容所に運ばれた千人のうち、五百人がその日のうちにガス室へ。他の人も空腹や重労働に苦しんだ」―参加者はギターの音楽をバックに朗読される元収容者の証言にじっと聞き入りました。記録ビデオの上映や芸術家による反戦絵画展も行われました。
 発言した市民らは、「イタリアもムソリーニのもとで人種差別法を制定しナチスと協力した。歴史から学ぶ姿勢は日々われわれに問われている」「大虐殺は人類技術の誤った利用。過去を忘れないことが現在の正しい判断につながる」など、過去の歴史から学ぶ重要性を強調しました。
 ローマでの公式式典ではチャンピ大統領があいさつし、「記憶の力は世界を変える力を持つ」「多様な民族の世界がお互いに平和に統治できる仕組みを作る」と訴えました。
 このほか、北部のミラノでは約一万人がデモ行進し、南部のカラブリア州でも生徒が強制収容所跡を見学しました。
人種偏見とたたかう/イギリス
 【ロンドン27日田中靖宏】英国各地の記念行事には、多くの参加者が人種偏見や排外主義とたたかう決意を新たにしました。
 マンチェスターでの記念集会には市民千人が参加し、元収容者の証言や詩の朗読に耳を傾けました。ブランケット内相は「宗教や人種、政治への偏見と排外主義は今の英国にもある。これを警戒してたたかうことは国民の義務だ」と強調しました。
 北アイルランドのベルファストでの行事にはトリンブル首相ら自治政府の閣僚が参加しました。同首相は「若い人たちにホロコーストの教訓を伝えていくことが大事だ。公正で寛容な社会をめざして努力を強めなければならない」とのべました。
 各地の討論会では、反ナチ闘争の教訓をいまのテロリズムとのたたかいにどう生かすかをめぐって活発な討論がおこなわれました。二十七日のITVテレビの討論番組では、米国の対テロ戦争支持者と、国際法にのっとった法の裁きを重視する人たちが激しく意見をたたかわせました。
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2002年01月29日 『赤旗』)(Page/Top

「パードレ・ノーストロ 我らが父よ」/父との葛藤えぐる

“読めば読むほど深い” 毬谷友子さん/“新作で自分試したい”
 白井晃さん
 俳優の毬谷(まりや)友子さんと白井晃さんが、初顔合わせでイタリアの現代劇「パードレ・ノーストロ/我らが父よ」(佐藤信演出・美術)に挑戦します。特異な設定のスリリングな二人芝居。深遠なテーマを追究した作品の魅力などを二人に聞きました。
 毬谷さんはこの作品を、「読めば読むほど深くなる、ざくざく宝がでてくるような作品」といいます。
 大富豪と革命家という、対照的な父をもつ若い男女の出会いを描いた「パードレ・ノーストロ/我らが父よ」。主人公は、金にものをいわせて息子を大統領にまでさせた父をもち、使用人に囲まれ育ったアメリカ人のローズマリー。そして、ファシズムとたたかうイタリア人の闘士を父にもち、モスクワへの亡命生活を余儀なくされたアルド。
 それぞれ、「偉大な父」(パードレ)の存在に押しつぶされるような幼少期をすごし、傷つき、心を病んで、治療を施されていることが暗示されます。はじめはぎこちなく、やがて徐々に心を開き、互いの心の痛みの源を語り合いますが…。
 二人はどうなるのか、ついついひき込まれます。
 毬谷さんは、「ローズマリーはちょっと知恵遅れだけれど、哀しいくらいに透明で、私にはよく分かる人物像です。実在の(モデルがある)人間だから、お客さんに彼女の透明な魂をきちっと理解してもらえるようにしないと」と話します。
 人気劇団「遊〓機械/全自動シアター」を率いる白井さんは、「アルドの葛藤(かっとう)のひとつひとつが分かり、自分に痛い。全部自分にかえってくる感じです。家族の話はぼくもこだわってきたし、アルドにどこまで近づけるか、とてもおもしろい」といいます。「遊〓機械」の、昨年好評だった「食卓の木の下で」や「ラ・ヴィータ」などの作品の持ち味に通じるものが、台本から読み取れます。
 白井さんは、翻訳劇も二人芝居も、そして演出家・佐藤信氏や毬谷さんとの仕事も初めて。「年取ってきたせいか、新しいものがやりたくて(笑)。一役者として、自分がどこまでできるか試したい」といいます。
 作者のルイージ・ルナーリは、イタリア現代劇を代表する脚本家。
 劇作家の故・矢代静一氏が父親の毬谷さんは、「原稿用紙に向かい、ゼロから一を生む大変さは見ているので、作家は崇高な仕事だと感じています。役者は、作家の魂をお客さんに届ける、手渡しの郵便屋さんだと思う」と語ります。
 「二人芝居は、一人芝居の四倍くらい苦労します。そのかわり、うまくいったら喜びも大きい。文字で書かれてるものが、(舞台で)泳ぎ出すんです。父と子の関係は、みんなが乗り越えないといけないもの。この作品は、いまの人間が求めている演劇のひとつに違いないと思います。こういう作品に出会うと、やっぱり役者はやめられません」◇
 2月3日〜10日、東京・世田谷パブリックシアター。TEL03(5432)1515
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2002年01月27日 『赤旗』)(Page/Top

“日本軍旗は侵略の象徴” 中国・北京日報

 【北京14日小寺松雄】十四日付の北京日報は「日本ファシストの軍旗の下で」という一ページ特集を掲載しました。
 記事は冒頭、中国の人気若手女優が日本軍旗をデザインにしたファッションで批判された、日本の本格的中国侵略のきっかけとなった盧溝橋事件を有名スポーツ選手が知らなかった―といった事例を引いて、「日本の軍事ファシズムは侵略戦争の大もとであり、日本軍旗は侵略の象徴である」として、かつての日本軍の実態、軍旗、日本の軍国主義の昔と今について解説しています。
 「日本右翼の邪悪な理論」と題する論評では、とくに新保守主義といわれる潮流について「侵略戦争を反省せず、極端な民族主義感情をかきたて、軍国主義史観をよみがえらせるとともに、右翼勢力台頭の政治的条件をつくり出している」と厳しく批判。
 軍国主義史観、右翼勢力、新保守主義の「三つが一体となって特異な戦争観を生み出し、憲法改悪、靖国参拝、侵略戦争肯定の教科書など、中国とアジアの人々の感情を傷つけるという重大な政治問題を引き起こしている」と警戒を呼びかけています。
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2002年01月15日『赤旗』)(Page/Top

エンターテインメント/ポケットから出てきたミステリ−/カレル・チャベック著、田才益夫 訳

 謹賀新年。
 のっけから物騒な書物というのもなんだから、今回はしみじみくすくすと楽しめるものを選んでみた。読者を血なまぐささとは対極の世界に導く、遊び心いっぱいの短編ミステリー集だ。
 死体なき殺人(!)の犯人(?)の悲哀あふれる話、じゅうたんの収集家が貴重な品を盗み出そうと犬を相手に苦闘する話など、経験者が自分の“とっておき”の事件を順番に語るというスタイルをとった二十四の物語。憎めない悪人や市井の人々の騒動をユーモアたっぷりに描く、その語り口が絶品だ。いずれもが、ほんわか和む読後感。注文の多い読者もきっと、満腹させてもらえるだろう。
 著者は、日本でもファンの多いチェコの国民的大作家。愛情たっぷりの愛犬エッセー『ダーシェンカ』や童話から、ファシズムを予見したハードSF『山椒魚戦争』や、時代を先取りした『ロボット』まで、実に多彩な作品を残して一九三八年に亡くなった。
 近年、日本でも著者の、哲学的テーマの長編が続けて出版されたりエッセーが文庫化されたりして、チェコの偉人がぐっと身近になった。ソ連の誤りを通じて社会主義への偏見ももっていた人だけど、こんな気の利いたミステリーをきっかけに、もっと読まれてほしい作家だ。(本多恵)
 (晶文社・二四〇〇円)
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2002年01月07日『赤旗』)(Page/Top