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12月
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俳人・橋本夢道の句を通じて司法の問題を訴える殿岡駿星さん(77)
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11月
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弾圧に屈せず絵筆
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10月
◆ 9月
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8月
◆ 2019焦点・論点 監視社会と国の情報隠蔽に抗して 弁護士 三宅弘さん
◆ きょうの潮流
◆ 月曜インタビュー 考古学者 鈴木重治さん 文化財保存が評価され受賞 土が語る声に耳を傾けて
◆ 7月
◆ きょうの潮流
◆ ひと初のエスペラント訳『蟹工船』を出版 堀泰雄さん(77)
◆ 3分で紹介 共産党(2)1世紀近い不屈の歴史ある党名です
◆ ひと 熊本県の治安維持法犠牲者の名誉回復に取り組む梶原定義さん(93)
◆ 弾圧償う法が必要
◆ きょうの潮流
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2019焦点・論点 安倍政権の言論弾圧 メディアが毅然と対応を
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2019焦点・論点 安倍政権の言論弾圧 憲法21条で許されない
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2019焦点・論点 日本の植民地支配下にあった朝鮮三・一独立運動100年
2019年12月19日
安保破棄中央実行委員会は18日、自衛隊の中東派兵に反対する防衛省への要請を行いました。
要請には、東森英男事務局長をはじめ、全労連、全日本民医連、平和委員会、全日本教職員組合、婦人民主クラブ、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の各代表が参加しました。
東森事務局長は、今回の問題は、アメリカのトランプ政権がイラン核合意から一方的に離脱したことに端を発しており、自衛隊の派兵は「緊迫を軍事的に打開しようとアメリカが『有志連合』を呼びかけたことに対応するもの」であり、「中東の軍事的緊張を高めることは必至」であるとして中止を求めました。
東森氏はまた、「危険性のある派兵を国会審議にかけることもなく閣議決定で行うことは許されない」と述べ、「派兵ではなく、アメリカに核合意復帰を求めるなど、憲法9条にもとづく平和的外交力を尽くすべきだ」と指摘しました。
応対した防衛政策課の担当職員は、「今回の派遣は『調査、研究』で、海外派兵には当たらない」などと述べました。
これに対して参加者から、「なぜ軍事的緊張を高めることをやるのか」「アメリカに核合意復帰を迫るべきだ」などの声があがりました。
2019年12月17日
「戦前、俳句を弾圧した仕組みは、今につながっています」。治安維持法で逮捕され、獄中で300句の俳句を書いた俳人・橋本夢道(むどう)の俳句を紹介し、司法の民主化を訴えています。
橋本夢道は、1903年に生まれ、多くの自由律俳句、プロレタリア俳句を作りました。俳句弾圧事件で41年に逮捕されました。
釈放されるまで、妻の差し入れた紙石板(何度も消せる薄い石板)に多くの獄中句を書きました。
自由律俳句とは、季語や五・七・五などの規則に縛られず、自由に詠む俳句です。
夢道は殿岡さんの義父に当たります。
夢道が自身の思い出を語った内容を2010年に『橋本夢道物語』として出版した際に、東京都中央区で平和企画を行っているメンバーと知り合い、その企画で講演。これがきっかけで俳句や司法について考える「夢道サロン」などを開くようになりました。
新聞記者として冤罪(えんざい)事件を取材してきた殿岡さん。「夢道は保釈されるまで長期間勾留されました。今も警察留置場を『代用監獄』として自白を強要し、冤罪を招く仕組みが残っています。共謀罪も危険です」
「大戦起(おこ)るこの日のために獄をたまわる」。拘置所で日本による米国真珠湾(ハワイ)攻撃を聞いた夢道が「自分たちが捕まったわけが分かった」と作った俳句で、殿岡さんの最もお気に入りの句です。
2019年12月3日
昨年は、侵略戦争と植民地支配に反対したプロレタリア詩人、槙村浩(こう。本名吉田豊道=ほうどう)の没後80周年でした。高知県に生まれ、治安維持法下で非転向を貫き、特高警察の拷問がもとで1938年9月、26歳で没しました。
戦後その作品と生き方が再評価され、詩集、全集が出版され、市民により墓碑と詩碑が建立されましたが、生誕地には何もありませんでした。記念碑があると思って一帯を探したが何もなくて残念だった、との高知県外からの投稿が高知新聞に載ったこともありました。生誕地はその人の原風景に思いを馳(は)せる場所です。
高知市には民立民営の平和資料館「草の家」があり、今年が開設30周年です。その記念事業の一つとして「槙村浩の生誕碑建立」に取り組むことになりました。
戸籍簿に「高知市廿代(にじゅうだい)町89番屋敷」で出生、と記載されているので、生誕地はすぐ分かると楽観していましたが、状況は全く違っていました。
法務局は「番屋敷と現在の地番とを対照するものはない」とのこと、高知市の地籍調査課などでも分かりませんでした。
そこで土地家屋調査士の友人の協力も得て藩政時代の絵図、昭和初期の市街図、土地台帳、同付属図、切図などを検討し場所を確定しました。JR高知駅の南にある高知橋の南西の橋際から約100メートル南です。高知駅からはりまや橋に至る幹線道路に面した民有地です。
顔写真とともに槙村の事跡を紹介したステンレス製のモニュメント(案内板)を高知橋のたもとの緑地(市有地)に設置しました。
11月11日の除幕式では、地元の劇団員が代表作「間島(かんとう)パルチザンの歌」を朗読、青年が決意を述べました。設置に当たって全国から寄付が寄せられ、説明文の最後には「志を継ぐ者たち、これを建てる」と記されています。
いま日本と東アジアの国々との関係は、戦後最悪の状態です。そのようななかで、国際連帯を高らかにうたった槙村のモニュメントが建ちました。多くの人に見ていただき、槙村の詩と生涯を理解するきっかけになれば、と願っています。
(なれた・まさみつ 槙村浩の会代表)
2019年11月28日
「平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会」は27日、和歌山市で全国総会を開きました。
島田初代会長は開会あいさつで「平和を基にする日本の力を世界に広げていくことが大事だ」と力説。安倍晋三首相がトランプ大統領言いなりにF35戦闘機を147機、1兆7052億円も出して購入しようとしていることを批判し、次の世代のためにも平和を守り生活を守るため奮闘しようと訴えました。
和歌山県地方労働組合評議会の琴浦龍彦議長、新日本婦人の会和歌山県本部の満留澄子事務局長、日本共産党の宮本岳志前衆院議員が来賓あいさつ。宮本氏は、シベリア抑留遺骨600人分を取り違え、それを公表しなかった厚生労働省の不誠実な対応を批判。戦争を許さない決意を表明しました。社会民主党と治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟和歌山県本部からのメッセージが読み上げられました。
2019年11月16日
生活感あふれる絵を描いただけで戦前の悪法、治安維持法違反で逮捕、投獄された松本五郎(98)、菱谷良一(98)両氏の「無二の親友展」が大きな評判を呼んでいます。札幌市西区のギャラリー「北のモンパルナス」(地下鉄琴似駅から徒歩5分)で12月21日まで。
「生活図画事件」は1941年9月、特高警察が「共産主義を啓蒙(けいもう)した」とでっち上げ、旭川師範学校(現北海道教育大学旭川校)の教員と生徒を、冬は氷点下30度にもなる極寒の独房に放り込んだ弾圧事件。2人は入浴の際、看守の目が届かない湯の中で互いの足を蹴って励まし合います。「無二の親友」の“第一歩”でした。
自画像や日常を描いた作品、恩師の熊田満佐吾氏の油彩や水彩、版画など60点を展示。「弾圧に屈せず、絵筆を折らなかった作品を見てみたい」と初日から大勢の人たちが訪れました。
「多くの人たちが来てくれ、うれしい」と菱谷さん。治安維持法の現代版「共謀罪」法を強行した安倍政権の動きに、「日本の流れを見ると、当時のことを思い出し、不安になる。若い人たちに私たちの思いを知ってほしい」と話します。
「モンパルナス」の田中みずきさんは、松本さんの「画友―無二の親友」の絵に突き動かされたといい、「二人の絵を紹介することが、きな臭い安倍政権への私たちの抵抗です」と語っています。
2019年11月14日
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟は10、11の両日、第30回全国女性交流集会を静岡・湯河原温泉で開きました。34県から112人が参加。若い人の姿が目立ち、初参加が27人にのぼりました。
増本一彦会長は、戦争遂行のための「治安維持法体制」で虐殺された人93人、獄死した人128人、保釈後間もなく死亡した人208人(同盟調査)にのぼったことなどを指摘。犠牲者の尊厳を破壊した責任を追及し、「一切の差別と分断をなくし、誰もが尊厳をもって自分らしく生きることのできる社会、ジェンダー平等社会の実現を目指そう」と呼びかけました。
平山知子弁護士は記念講演で、治安維持法の犠牲者だった父親への拷問のすさまじさや終戦後の活動について話しました。憲法を掲げてたたかえば政権交代への展望を開くことができると強調し、「過去から現在、未来へたたかいを引き継ごう」と訴えました。
2日目は四つの分科会を開きました。治安維持法犠牲者の遺族は「父への拷問も許せないが、家族の生活、差別もひどく、治安維持法での被害はその家族まで含む」と涙ながらに語りました。
大石喜美恵女性部長は「新しい女性部の発展へむけ、全県・支部に女性部確立をめざそう」とのべました。
2019年11月4日
日本国憲法公布から73年を迎えた3日、安倍政権による改憲阻止などを求めて国会正門前に1万人が駆け付けた「11・3憲法集会」。「改憲反対、9条変えるな」「みんなの力で政治を変えよう」など熱気あふれるコールに包まれました。
親に誘われて参加した高校2年の女子生徒=横浜市=は「9条改憲に反対して高校生が行動していることを、SNSで知っています」といいます。今年6月に沖縄を訪れた修学旅行の平和学習で、同年代が戦争に駆り出され、巻き込まれたことを知り、「ひとごとではない」と感じました。「そんな社会に向かってはいけない。学ばないといけない」と話しました。
再び戦争と暗黒政治を許さないとの思いで「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟」の旗をもっていた榎本よう子さん(68)=埼玉県=。「一緒に頑張ろう、志を継ごうと声をかけられました」と意を強くします。閣僚の連続辞任、教育の機会均等に反する文部科学相の「身の丈」発言などに憤り、「怒 もう無理 安倍やめろ」のポスターを掲げていました。
「安保法制違憲訴訟の原告です」という小野洋さん(68)。東京都葛飾区亀有地域で活動する「かめの子9条の会」ののぼりをもって参加しました。
自衛隊が海外で戦争できるようにするため改憲強行を狙う安倍首相に対し、「9条があるから平和に生活をすることができます。孫のためにも憲法を守る」と話しました。
絵本作家や保育園の保育士、図書館職員などでつくる「子どもの本・9条の会」の岩本和博さん(71)=東京都日野市=は「子どもたちの将来のために絶対に戦争を阻止し、9条を受け渡さなければいけない。改憲発議可能な3分の2を、参院選で押し戻したのは共闘の力です。もっと盛り上げていく必要があります」と語っていました。
2019年10月27日
宇治川(京都府宇治市)上流の白虹橋(はっこうばし)のたもとに建立された韓国の詩人尹東柱(ユン・ドンジュ)の記念碑「記憶と和解の碑」の建立2周年を記念する集いが26日、同市内で行われました。主催は、詩人尹東柱記念碑建立委員会、詩人尹東柱を偲(しの)ぶ京都の会です。
尹東柱は、朝鮮独立運動への関与を理由に治安維持法で逮捕され、1945年2月に福岡刑務所で、27歳で獄死した青年詩人です。尹は京都府に来た時、大学の学友とともに、宇治川に遊びに来たことがありました。
詩人尹東柱記念碑建立委員会の毛利崇弁護士が「日本と朝鮮半島の国々の関係は、必ずしも良好とは言えない状況です。そういう状況だからこそ、私たちはしっかり過去の事実を記憶し、今後に向けて友好の道を歩んでいくことが大変重要な時期にあります」と主催者あいさつ。
日本共産党からは穀田恵二衆院議員、倉林明子参院議員が参加しました。穀田氏は「尹東柱は私たちにとってもとても大切な仲間です。日本がかつて行った侵略戦争と植民地支配の問題を、私たちはしっかり伝えなければならないし、ゆがめさせてはなりません」と語りました。
同集いでは、同志社中学校・高等学校の女子生徒たちが尹東柱の詩を朗読し、誓いの言葉を述べました。
2019年10月24日
日本共産党の藤野保史議員は23日の衆院法務委員会で、入管収容施設の長期収容問題をとりあげ、“治安維持”を理由に仮放免を厳格化しようとする政府の姿勢は許されないと迫りました。
法務省出入国在留管理庁は、2年以上の長期収容者が251人に達していることを明らかにしました。今国会の冒頭で「長期収容者の問題は、わが国の社会秩序や治安に影響を与えることにもなりかねない」と述べた河井克行法相は、仮放免を厳格化し収容を継続する姿勢を示しました。
藤野氏は、「『社会にとって危険だから収容を継続してよい』という論理は危険であり、入国管理法の趣旨からも逸脱している」と批判。「入管法が認める収容は、あくまで送還のための短期収容であり、再犯予防や治安目的の収容は全く予定していない」と政府の姿勢をただしました。
出入国在留管理庁の高嶋智光次長は「あくまでも確実に送還するための収容だ」と強弁しました。
藤野氏は、日本弁護士連合会(日弁連)が収容の実態は「予防拘禁と共通する性質」だと指摘していることを紹介。戦前の治安維持法でさえ、予防拘禁には裁判所の決定などの要件があったのに、現在の入管収容は法務省内の判断だけで行われており「悪名高い治安維持法よりも緩い要件だ」と批判しました。
その上で、「日弁連や東京弁護士会が提案しているように、収容の必要性や相当性の要件化を検討するよう指示すべきだ」と主張。河井法相は「指摘の点が検討対象になるか否かは専門部会で議論いただけるものと考える」と述べ、責任を転嫁しました。
2019年9月23日
「消費税10%増税反対・安倍暴走政治を許さない知多集会&ウオーク」が21日夕、愛知県半田市で行われました。知多半島の市民ら100人が参加し、怒りの声を上げました。地元の民主商工会、国民救援会、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟などでつくる実行委員会の呼びかけ。
知多中央民商の鍵小野敦男会長は「増税されれば景気の悪化は深刻なものになり、複数税率は大きな事務負担と混乱を招く。世界では減税の流れが生まれている。増税されてもあきらめずに声を上げよう」と話しました。
消費税をなくす愛知の会の岸野知子事務局長が情勢報告し「消費税導入後、消費税収の8割が大企業の法人税減税に使われた。混乱が予想される中、安倍政権は増税の議論から逃げている。増税撤回を求めると同時に、野党連合政権を実現しよう」と話しました。
年金者組合の男性(68)は「年金収入が減る中、消費税増税で生活がいっそう厳しくなる。市民と野党の共闘で運動を盛り上げよう」。建築設計業の成田完二さんは「中小業者あっての地域経済。みんなの力を合わせて増税を止めたい」と訴えました。
政党から、知多半島の日本共産党の各市町議、長友忠弘党知多地区委員長、社民党の平山良平県連副代表が参加。国民民主党の伴野豊元衆院議員のメッセージが紹介されました。
2019年9月18日
「いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態」を読んで、東京都台東区在住の五十川チトセさん(88)から「真実を広めなければならないと改めて痛感した」と感想が寄せられました。次に紹介します。五十川さんは日本共産党の元台東区議会議員。
嫌韓・反韓一辺倒の報道のなかで、この連載を載せていただいて、ありがとうございました。
私は2歳で朝鮮、今の韓国に渡り14歳で敗戦により引き揚げてきたので故郷と言えるのは韓国以外にはありません。大本営発表に何の疑問も持たない軍国少女だった私にもあまりにもひどいと思われたことが幾つかありました。
太平洋戦争が始まった頃の朝鮮人小学校の廊下に1メートル置きくらいにステッカーが貼りめぐらされていました。「国語ヲ使イマセウ 朝鮮語ヲ使フ人ハ国賊デス」と書かれていたのです。その頃には1週間に1時間だけあった朝鮮語の時間もなくなって、朝鮮人小学校でも授業は日本語だけでした。
創氏改名で強制的に日本式の姓名に変えさせられていました。教員だった父は、生徒が自分の名前の一字をとって改名したと喜んでいましたが、私は名前を奪われた人々の気持ちを考えていました。
小学校卒業後に入った女子師範学校は、4年卒業で教員資格がとれる尋常科と高等女学校卒業後1年で資格がとれる講習科があり、皇国臣民化教育を担う教員を即席で育てる学校でした。「内鮮一体」を掲げて内地人と朝鮮人を半々に採ると言いながら、実際には内地人を少し余計に採っていました。
授業料も寮費もいらず、月5円の官費が支給されていましたから、経済的に苦しい家庭の子どもが殺到し、朝鮮人の競争率は高く、私の1年上の学年では成績1番から10番までが朝鮮人だと言われていました。
引き揚げてきて乗った山陰本線沿線の山々に真っ赤な柿の実がたわわに実った柿の木がたくさんあるのを見て「ああ内地に帰ったんだ」と実感しました。朝鮮では塀の中以外で柿の実が赤くなったのを見たことがなかったのです。朝鮮の野山にも柿の木はたくさんありました。でも花のうちに食べられてしまうので野山で柿を見ることはなかったのです。
朝鮮には梅雨が無く、干ばつが多いので食料が足りず花でも何でも食べられるものは食べなければ生きていけなかったのです。松葉も粉にして食べ、松の木の堅い皮をはがして柔らかい皮も食べられる、戦争で食料が無くなったら君たちも食べるんだと先生に教わりました。南朝鮮は農業地帯で広い田んぼや畑が多かったので、農作物は内地や戦地に召し上げられたのではないかと思っていました。
毎年3月に東京大空襲資料展を浅草公会堂で開いています。何年か前に来場した70代くらいの男性が「韓国というのはひどい国だ」と声をかけてきたので、「日本が植民地にしてひどいことをしたのですから」と言ったら、「その植民地というのが間違っているんだよ。ちゃんと併合条約で対等に合併したのだから植民地なんて言うのが間違いなんだ」と言われました。「植民地」という言葉さえ否定されたのは初めてだと思っていたら、最近では安倍首相一派の考えなのだと知らされました。
嫌韓・反韓の攻撃に負けないで真実を広めなければならないと改めて痛感しています。
2019年9月19日
人権派の弁護士・布施辰治(1880〜1953年)生誕の地の宮城県石巻市で14日、65人の参加で布施辰治の碑前祭が行われました。
辰治は、国内では治安維持法で弾圧された共産党員らの弁護に走り、朝鮮半島では3・1独立運動や農民運動犠牲者を救援して日本人で初めて韓国の「建国勲章」を授与されたことで知られる弁護士です。碑前祭は、今年5月に再設立した「顕彰する会」の主催です。
松浦健太郎弁護士(39)が、石巻市が建設中の複合文化施設に辰治の「建国勲章」を展示することをめざすなど、今後の活動の決意を語りました。
駐仙台韓国領事館の朴容民(パク・ヨンミン)総領事と斎藤正美宮城県議、石巻市長代理の及川伸一教育委員会事務局長、宮城県国賠同盟の横田有史会長があいさつ。布施家の現当主・布施東吉さんがお礼の言葉を述べました。
「顕彰する会」の三浦一敏副会長(宮城県議)が「辰治の業績を、今後の日韓・日朝友好の懸け橋にしよう」と呼びかけました。
2019年9月8日
「清日戦争、露日戦争、満州事変と中日戦争、太平洋戦争にいたるまで、60年以上にわたる長い戦争が終わった日」。韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、日本の植民地支配から解放されたことを記念する光復節(8月15日)の演説でこう述べました。戦前の日本帝国主義による侵略と36年間の植民地支配は、韓国の人々から国を奪い、人間の尊厳を奪い、言葉や名前すら奪いました。韓国国民の中にその傷痕と怒りは今も消えていません。日韓関係を改善するうえで、加害者である日本が過去の植民地支配にどう向き合うかは決定的です。日本の植民地支配はどのように進められたのか、改めて考えます。
(若林明)
明治維新から10年もたたない1875年、日本は江華島事件を起こしました。軍艦をソウルの入り口の江華島まで行かせて、衝突を挑発し、砲撃戦で砲台を占領し、大砲などを強奪。翌年、日本は朝鮮に不平等条約を押しつけました。これを機に日本は朝鮮への圧迫を続け、本格的な侵略に乗り出したのが日清戦争(94年)でした。
当時、朝鮮では官吏の腐敗と重税に反対して東学農民運動が起こっていました。運動は朝鮮半島の南西部の中心都市・全州を実質的に統治するほど力を持ちました。
そのとき日本は、朝鮮王朝の要請もないのに、東学農民運動への対応を口実に大軍を朝鮮に派兵し、ソウルを制圧。開戦直前の朝鮮王宮を軍事占拠し、国王と王妃を拘禁しました。そして、軍事的脅迫のもとで朝鮮に日本への協力を約束させたのでした。同時に、日本軍は農民軍の大量虐殺を行いました。その犠牲者は3万人、あるいは5万人に迫ると言われています。
日清戦争に勝利した日本は下関講和条約(95年4月)で朝鮮への清国の影響力の排除を約束させますが、同条約で日本へ割譲をきめていた中国の遼東半島を、ロシア・フランス・ドイツの要求で清国に返還せざるを得ませんでした。朝鮮での覇権を失うことを恐れた日本は同年10月、公使の三浦梧楼の指揮のもとに軍人らが王宮に押し入り、日本への抵抗の中心であった明成皇后(閔妃=ミンピ=)を殺害し、遺体を井戸に投げ込むという暴挙を行いました。こうして日本は朝鮮の植民地化への一歩を踏み出しました。
日露戦争(1904年)は、韓国(1897年に大韓帝国に改称)と中国東北部をめぐる日露双方からの侵略戦争=帝国主義戦争でした。
日本は開戦と同時にソウルを軍事占領した上、韓国に「日韓議定書」を強要し、日露戦争への協力を約束させました。さらに、「第1次日韓協約」で、日本政府の推薦する「顧問」を韓国政府に押し付け、財政と外交の事実上の実権を握りました。
日露戦争後、韓国に対する日本の覇権は無制限になっていきました。韓国の外交権を取り上げた第2次日韓協約(韓国保護条約)は、日本による軍事的強圧のもとで締結されました。
特派大使の伊藤博文(初代首相、後に韓国統監)は「もし拒否するのであれば、帝国政府はすでに決心している。その結果はどのようなことになるか」(「伊藤特派大使内謁見始末」)と韓国の国王を脅迫。韓国政府の閣議の場に憲兵を連れて乗り込み、協約締結をためらう韓国の大臣を「あまり駄々をこねるようだったらやってしまえ」とどう喝しました。
さらに、日本の特命全権公使の林権助は回想『わが七十年を語る』で、韓国側の大臣が逃げないように「憲兵か何かを予(あらかじ)め手配しておいて、途中逃げださぬよう監視してもらいたい。勿論(もちろん)名目は護衛という形をとるのです」などと、事実上の拉致・監禁下での交渉であったことを記しています。
この条約で、日本は韓国に「統監府」をおき、属国化を進め、1910年に「韓国併合条約」を押しつけました。
当時の国際法でも国家の代表者を脅迫しての条約は無効でした。しかも第2次日韓協約で韓国から外交権を奪っておいて、条約を締結させたのですから二重三重に「不法・不当」なものでした。
しかし、日本の乱暴な植民地化に朝鮮の民衆は抵抗し、1906〜11年には「反日義兵闘争」が韓国全土に広がりました。これに対して、日本軍は村々を焼き払い、義兵を大量に殺害し、日本軍に非協力的な民衆を見せしめに殺傷しました。
19年3月には、日本の侵略に抵抗を試みた前皇帝・高宗(コジョン)の死をきっかけに、植民地支配からの独立を目指す「三・一独立運動」が起こりました。ソウルで始まった運動は朝鮮全土に拡大。数百万人が参加したと言われています。この運動に対しても日本は徹底的に弾圧を行い、1年間で死者7千人、負傷者4万人、逮捕者は5万人に及びました。
戦後、日韓請求権協定(65年)の交渉で日本代表は「韓国併合」を不法・不当なものとは一切認めませんでした。それは、軍事的強圧のもとに締結したことを正当化する、国際的にも恥ずべき態度でした。
ところが安倍晋三首相は「戦後70年談話」(2015年)で、自らの言葉としては「侵略」「植民地支配」への反省を語らず、朝鮮の植民地化を進めた日露戦争について「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と美化しました。
日露戦争直後に、ロシアの敗北を帝国主義の抑圧に苦しむ諸民族から歓迎を受けたという事実はありますが、すぐに真実は明らかになります。インドの独立・建国の父の一人、ジャワハルラル・ネールは『父が子に語る世界史』で「その(日露戦争)直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をくわえたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった」と指摘しています。
2019年9月11日
1910年8月22日、漢城府(現ソウル)に戒厳令が敷かれ軍と警察が巡回する中、日本と大韓帝国(韓国)は「韓国併合に関する条約」(以下、併合条約)に調印しました。以来36年、朝鮮半島は日本の植民地下に置かれます。その時、日本は朝鮮で何をしたのでしょうか。(栗原千鶴)
併合条約に調印直後、日本は朝鮮にあった結社を解散させ、政治集会を禁止します。29日に併合条約が公布されると呼称を「韓国」から「朝鮮」に変更。司法・行政・立法の三権を握る「朝鮮総督府」(写真1)を新設し、初代総督には現職の陸軍大臣だった寺内正毅が就任しました。
日本は併合条約の前文で、併合は両国の幸福や東洋平和のためだと合理化しました。しかしその約3カ月前には「併合後の韓国に対する施政方針」を閣議決定し、▽朝鮮には当分、憲法を施行せず大権(天皇)により統治する▽総督は天皇に直属し、朝鮮における一切の政務を統括する権限を有する―としていました。
当時の大日本帝国憲法は徴兵制など天皇絶対の専制政治を国民に強いるものでしたが、条件を満たした一部の男子には選挙権を与えていました。日本は朝鮮に対し、憲法のこのわずかな「権利」すら与えず、総督が天皇の代理人として民衆を弾圧できる専制政治を実践しました。
警察と憲兵が一体となった憲兵警察制度は、朝鮮の人々を苦しめました。全国すみずみに憲兵と巡査を配置し、暴力的な支配を行い、「武断政治」と呼ばれました。
10年から18年まで行われた土地調査事業は、多くの農民が書類の提出ができず、土地の所有権を失いました。取り上げた土地の大部分は総督府のものとなり、そのほとんどが日本人に安く払い下げられました。農民の80%が小作人になります。中国東北部や日本へ移住し、低賃金労働者となり苦しい生活を強いられた人もいました。
不満が渦巻く中、19年3月1日に京城(現ソウル)で始まった朝鮮の独立・自主を求めた「三・一独立運動」は、約3カ月にわたり全国に広がりました。総督府は軍隊を動員し無差別に発砲したり、逮捕後も拷問するなどして徹底的に弾圧しました。
独立運動によって、日本は武力一辺倒の政策から転換を迫られることになります。
19年8月、新しい朝鮮総督に海軍大将の斎藤実が就任します。斎藤は「文化政治」の実施を宣言します。一方で憲兵や警官の駐在所の数を3倍に増やすなど、植民地支配体制を強化。治安維持法を朝鮮にも適用し、独立勢力の弾圧を強めていきます。
また一定の条件を満たす団体は結社や集会が認められ、日本の植民地支配に協力する親日勢力を養成します。文化政治の本質は、「親日派」を利用し、独立運動を分裂させることにありました。
日本軍は朝鮮半島を足場に「満州事変」(31年)以来の中国侵略をすすめ、「15年戦争」に突入します。戦況が長引くと、日本は38年に国家総動員法を制定。民衆を戦争に駆り出しました。
そのために日本は朝鮮で、朝鮮民族の誇りや文化、伝統を破壊し、天皇のためにすすんで命を捨てる人間をつくりだす「皇国臣民化政策」を進めました。
私共は大日本帝国の臣民であります。私共は心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします。私共は忍苦鍛錬して立派な強い国民になります―。37年に制定された「皇国臣民ノ誓詞」の一部です。朝鮮では学校の朝礼はもちろん、会社、工場などでも毎日、唱和させられました。
日本は、朝鮮の全ての村に神社をつくり、参拝を強要しました。神社には天照大神や明治天皇をまつり、天皇崇拝を押し付けます。これにはキリスト教徒の抵抗もあり、神社は戦後すぐ、ほとんどが取り壊されました。(写真3)
38年に朝鮮教育令の改定で、朝鮮語の科目が消えます。学校で一切の朝鮮語が禁止され、日本語だけで教育を受けさせました。朝鮮語による新聞や雑誌が発売禁止となり、言論がますます統制されていきます。
朝鮮の人々は一族の系譜を記した「族譜」を大事にしてきた民族です。40年に日本が実施した創氏改名は、名前を日本式に変えさせようというものでした。拒否する人にはさまざまな圧力が加えられました。
30年代後半に入ると日本では成人男性の徴兵により、労働力不足が顕著となりました。日本は国民徴用令を発令。朝鮮の人々も日本の炭鉱や鉄工所、軍需工場などへ、強制的に動員されます。
「募集に応じ、2年働けば戻って工場長になれるといわれた」「学校の呼びかけに、級長だったので率先して応えた。日本では学校に行けるといわれた」―。募集、官斡旋(あっせん)、徴用と時期によって動員された形態は異なりますが、植民地だった当時、最も弱い立場だった人たちが犠牲になったことは明らかです。
日本は、戦況が悪化した44年には、朝鮮に徴兵制を適用。23万人が戦場に送りこまれました。
李春植(イ・チュンシク)さん(95)は41〜43年、旧日本製鉄の鉄工所で強制労働させられました。危険な仕事に従事させられ、熱い鉄材の上に倒れて3カ月のけがを負います。賃金も支払われませんでした。韓国の最高裁は2018年10月、新日鉄住金(当時)に対し慰謝料の支払いを命じました。(写真5)
日本軍は、戦場に「慰安所」をつくり、女性を性奴隷としました。韓国に住む被害者の李玉善(イ・オクソン)さん(93)は、16歳のころ朝鮮半島東南部・蔚山で、日本人と朝鮮人の2人組の男にトラックに押し込められ、中国の慰安所につれていかれました。性奴隷とされ、一日に何人もの軍人を相手にしなければなりませんでした。「あそこは慰安所ではない。死刑場だ」と語ります。
日本軍は、連合国側の捕虜を監視させるために朝鮮人を動員しました。李鶴来(イ・ハンネ)さん(94)は17歳の時、人数を割り当てられた村役場のすすめで試験を受けます。実質的な強制徴用でした。泰緬(たいめん)鉄道建設に使役された捕虜の監視にあたります。2カ月の軍事訓練では、捕虜の待遇に関するジュネーブ条約は知らされませんでした。李さんら朝鮮の捕虜監視員は戦後、国際条約違反で148人がBC級戦犯とされ、そのうち23人が死刑となりました。
被害者らの苦しみは1945年8月15日に解放を迎えたあとも続きました。存命の被害者はほとんどが90歳を超えました。いまも名誉回復、真の謝罪、補償を求めてたたかい続けています。
2019年9月13日
シリーズ第1回では、野蛮な軍事的強圧によって「韓国併合」にいたった歴史、第2回では民族の誇りも、言葉や名前までも奪い、侵略戦争に強制動員していった歴史をみてきました。こうした植民地支配に、戦後、日本政府はどういう態度をとったのでしょうか。(藤田健)
「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈(やが)て朝鮮を自由且(かつ)独立のものたらしむるの決意を有す」
こう宣言したのは、米、英、中華民国の首脳による「カイロ宣言」(1943年)でした。日本が受諾したポツダム宣言(45年)はこのカイロ宣言の「履行」をうたっていたのですから、植民地支配への反省と清算が戦後日本の出発点となるはずでした。
しかし、戦後の日本政府の態度は、正反対のものでした。
2015年、韓国の建国大学で講演した日本共産党の志位和夫委員長は、戦後の日本政府の態度を示す二つの文書を示しました。「割譲地に関する経済的財政的事項の処理に関する陳述」(49年)と「対日平和条約の経済的意義について」(50年)という文書です。いずれもサンフランシスコ講和条約にむけた準備対策として作成された「極秘」文書でした。
二つの文書には、ほぼ同じ表現であからさまな植民地支配美化論が展開されていました。
「日本のこれら地域(朝鮮、台湾、樺太、満州)に対する施政は決していわゆる植民地に対する搾取政治と認められるべきでない…。逆にこれら地域は日本領有となつた当時はいずれも最もアンダー・デヴェロップト(未開発)な地域であつて、各地域の経済的、社会的、文化的向上と近代化はもつぱら日本側の貢献によるものである」「(補助金や資金注入で)日本のこれら地域の統治は『持ち出し』になつていたといえる」(『日本外交文書 サンフランシスコ条約準備対策編』から、カッコ内は編注)
これが当時の日本政府の認識でした。そこには、土地を奪い、「創氏改名」や日本語教育などの「皇国臣民化政策」で民族の誇りを奪い、徴兵制など侵略戦争への人的動員で命まで奪い、日本軍「慰安婦」の強制という性暴力までふるうなど、まさに朝鮮人民を「奴隷状態」においたことへの反省は皆無でした。
それどころか、植民地支配にはあたらないと開き直り、「これら地域はいずれも当時としては国際法、国際慣例上普通と認められていた方式により取得され」(「陳述」)たなどと朝鮮支配は合法だったと強弁しています。
こうした認識は、今日なお日本政府が持ち出す日韓基本条約と請求権協定(1965年)の交渉にも引き継がれました。この交渉は、14年もの異例の長期間にわたりましたが、その要因の一つが日本政府代表団による「妄言」でした。
1953年には、交渉の日本側代表だった久保田貫一郎が「朝鮮36年間の統治は、いい部面もあった」「はげ山が緑の山に変わった。鉄道が敷かれた。港が築かれた。米田が非常にふえた」「カイロ宣言は、戦争中の興奮状態において連合国が書いたもの」などと妄言を連発。交渉は長期にわたって中断しました。
65年1月には、首席代表・高杉晋一が就任当日、「日本は朝鮮を支配したというけれども、わが国はいいことをしようとしたのだ」「敗戦でダメになったが、もう20年朝鮮をもっていたら、こんなこと(はげ山)にはならなかった」「創氏改名もよかった」などと発言。「久保田発言」に匹敵する妄言でした。
このときは、交渉への影響を恐れた外務省がオフレコ扱いを要請。「アカハタ」(現「しんぶん赤旗」)と韓国の東亜日報が暴露したものの、一般紙は沈黙し、その後政府が「事実無根」と否定したことのみを報じたのでした。当時の新聞は、暴言を吐く日本政府を批判するどころか、韓国に対して「弱腰」だと非難さえしていたのです。
結局、日韓基本条約の交渉では、日本側は植民地支配だったとは認めず、「韓国併合」条約も締結当時は合法有効だったとの立場でした。
日韓基本条約も、植民地支配について一切言及していません。第2条で「韓国併合」条約は「もはや無効であることが確認される」と規定されましたが、日韓両国で解釈が分かれました。日本政府は、締結当初は有効・合法だったが、1948年の大韓民国成立時に無効になったと解釈。韓国政府は、当初から無効であると解釈しました。
しかし、条約締結当時の国際法でも国家代表者を脅迫しての条約は無効でした。そのうえ、日本はその直前の第2次日韓協約(1905年)で韓国から外交権を奪っておきながら、併合条約を押し付けたのですから、二重に「不法・不当」でした。それを日本政府は認めなかったのです。
請求権協定では、日本が3億ドルの無償供与と2億ドルの貸し付けを行うことで合意し、請求権問題は「完全かつ最終的に解決されたこととなる」(第2条)と明記されました。しかし、両国間の賠償問題が解決しても個人の請求権は消滅しないことは日韓の政府も最高裁も認めています。また、請求権協定当時、日本は植民地支配の不当性をいっさい認めておらず、経済協力に賠償の性格がないことは明白でした。徴用工問題では、まさにこの点が問題となっています。
90年代に入り、元「慰安婦」が証言し、謝罪と賠償を求めるなど、日本国内外の世論と運動が盛り上がる中で、日本政府も前向きの変化をみせるようになります。
93年には河野洋平官房長官が「慰安婦」問題に関する談話を発表し、日本軍の関与と強制性を認め、「心からのお詫(わ)びと反省」を表明しました。95年には、村山富市首相が戦後50年談話で、日本が「国策を誤り」「植民地支配と侵略」によって多大な損害と苦痛を与えたことを認め、「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明しました。
日韓両国間でも、98年に金大中(キム・
デジュン)韓国大統領と小渕恵三首相の間で「日韓パートナーシップ宣言」に署名。「日本の韓国に対する植民地支配への反省」という表現が初めて盛り込まれました。
こうした前向きの流れを逆転させたのが、歴史を逆流させる勢力の中心で政治家としての歩みをすすめてきた安倍晋三首相だったのです。「村山談話」の核心である「植民地支配と侵略」には言及せず、「慰安婦」問題の強制性を否定する閣議決定を行い、戦後70年談話(2015年)で朝鮮植民地化をすすめた日露戦争を賛美したのでした。
日本共産党の志位和夫委員長は8月26日の記者会見で、日韓関係悪化の根本要因として、安倍首相が「植民地支配への反省」の立場を投げ捨てる態度をとり続けていることがあると指摘。そのうえで次のようにのべました。
「日本軍『慰安婦』問題にせよ、『徴用工』問題にせよ、過去の植民地支配への真摯(しんし)な反省の立場を土台にしてこそ解決の道が開かれる」
2019年9月16日
これまでは植民地支配の歴史と実態を見てきましたが、世界の流れはどうなっているでしょうか。(日隈広志)
安倍首相は、日本軍「慰安婦」問題で「性奴隷」と言われる残酷な実態があったことを認めようとせず、「徴用工」問題でも「解決済み」を繰り返すばかりで被害の救済への努力を拒否しています。
しかし世界に目を向ければ、「被害者の救済」を主眼として、裁判などで植民地支配下での強制労働や政治弾圧といった行為を不正義と認め、被害者への謝罪と補償・賠償を行う動きが生まれています。植民地支配そのものの不法性・不当性について追及が始まっています。
「今日まで、あの恐怖を忘れたことは一度もない」―。8月19日に亡くなったジャン・オハーンさんは1992年に欧州人として初めて日本軍「慰安婦」の体験を語りました。冒頭のように述べて性奴隷の実態を世界に告発し続けました。安倍首相は「解決済み」だと繰り返しますが、被害者にとっては「終わった」問題ではありません。
木畑洋一東大名誉教授(国際関係史)は、植民地支配の責任を含め、国家が過去の加害の事実を反省する重要性を指摘します。
第2次大戦の開戦から80年の欧州では、ナチス・ヒトラーがポーランド侵攻を開始した今月1日に同国の首都ワルシャワなどで記念式典が開催されました。出席したドイツのシュタインマイヤー大統領は「ドイツの暴虐によるポーランドの犠牲者に深くこうべをたれる。許しを請う」と謝罪。ポーランドのドゥダ大統領は「真実に向き合い、犠牲者や生存者と相対する」ためのドイツ大統領の訪問は重要だと語りました。
米国でも88年、レーガン大統領が太平洋戦争中の日系米国人の強制収容について謝罪。「市民の自由法」(日系米国人補償法)の署名に際し「日系米国人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」と表明しました。
木畑氏は加害の歴史を反省してこそ、「将来の安全保障も含めた国の歴史の“重み”に責任を持つことになる」と語ります。
植民地支配の責任に対しては、“過去にさかのぼって非難されるべきだ”との認識こそ国際政治の到達点です。これを示したのは、2001年の南アフリカ・ダーバンでの国連主催「人種主義、人種差別、外国人排斥および関連する不寛容に反対する世界会議」の宣言(「ダーバン宣言」)でした。旧植民地宗主国の英仏なども合意しました。
植民地の歴史は古代ギリシャ・ローマにさかのぼり、15世紀の大航海時代以後の植民地支配はアジア・アフリカ・アメリカの諸民族に対する大規模な暴力として行われました。政治、経済にとどまらず、文化の破壊や人種差別などその被害は現在も続く問題です。
ダーバン宣言は、植民地支配下の奴隷制が人道に対する罪だと断罪し、現在の人種差別、人種主義の最大の要因だと認めました。
米国では今年、黒人奴隷が英植民地から初めて連れてこられてから400年となります。奴隷の子孫への補償を求める声が高まっており、6月には下院司法委員会で過去の奴隷制に対する補償の是非をめぐる初の公聴会が開かれました。
ベルギーでは今年4月、被害者からの訴えに対し、ミシェル首相が初めて19世紀後半から約1世紀続いたアフリカの植民地支配下での人種隔離政策について「基本的人権を侵害した」と認め、謝罪しました。
植民地支配を問う動きは第2次大戦直後から始まります。民族自決と独立、国民主権を勝ち取ってきたアジア・アフリカ・ラテンアメリカの諸国民のたたかいが契機となりました。
木畑氏は「『帝国』が解体し、さらに独立した国々は1990年代に『民主化』が進展した。その中で韓国の元日本軍『慰安婦』による証言など、被害者が直接声を上げる環境がつくられた。ダーバン宣言はそうした一連の動きの集約点だ」と説明します。
植民地支配の責任を問う動きを見る際のキーワードが人権です。ダーバン宣言と同時期に国際人権法では「被害者の救済」の考え方が確立しました。
植民地支配の被害者が声を上げ始めたことを受け、90年代には戦争犯罪や重大な人権侵害に対して、女性の権利や国際的な刑事司法制度を発展させる動きが強まりました。2005年には国連総会が被害者救済のための「基本原則とガイドライン」を採択。個別の裁判を通じた被害者への賠償・補償など救済の方法が確立し、「被害者の救済」が植民地はじめ女性への暴力、拷問など国際的な人権侵害の解決のための中心課題となっています。
こうした動きについて、前田朗東京造形大教授(国際法)は、旧宗主国が補償額の拡大などを恐れて被害者の要求をつぶすなどダーバン宣言に反する中でも、「『被害者の救済』の立場で解決に当たらざるを得なくなっている」と意義を説明します。さらに植民地支配下の個別の人権侵害を国際法で「植民地犯罪」と規定すべきで、その断罪を通じて「植民地支配全体の責任に迫っていくことが可能だ」と指摘します。
「被害者救済」の視点が欠落し、新たな世界の潮流に逆行しているのが安倍政権です。
阿部浩己明治学院大教授(国際法)は5日、日本記者クラブでの講演で「国際的な規範的潮流が、国家中心から人間中心に、過去の不正義を是正する方向に転換している」と述べ、安倍首相が1965年の日韓請求権協定を盾に韓国政府を「国際法の常識に反する」などと発言するのは従来の国家中心主義の考え方だと批判しました。過去につくられた条約であっても現在の人権重視の原則や規範に基づいて解釈するのが現代の解釈の仕方であり、「国際法の常識」だとして「(請求権協定で)人権に反する解釈があってはならない」と強調しました。
阿部氏は昨年10月の韓国大法院(最高裁)判決について、「被害を受けてきた中小国や人間の側にたって国際秩序をつくり直す世界の潮流の表れ」だと指摘しました。
被害者の人権救済の立場でダーバン宣言を生かし、植民地支配そのものの不法性・不当性を問う潮流が生まれています。
朝鮮半島の人々は独立直後から賠償・補償の請求をはじめ日本の過去の植民地支配の不当性・不法性を訴えてきました。現在の世界の潮流の先駆者です。安倍政権は世界の潮流にそって、過去の植民地支配の責任に真摯(しんし)に反省すべきです。
【GoToTop】
2019年9月18日
日韓関係の深刻な悪化が続く中、メディアの異様な報道が目立ちます。TVをつければワイドショーが嫌韓・反韓をあおる、週刊誌を開けば「韓国なんて要らない」「ソウルは3日で占領できる」などという物騒な活字が目を奪う…。こんな無残な姿を見るにつけ、メディアのあり方が問われます。戦前、戦後を通じて、朝鮮植民地支配にどう対応してきたか、検証します。(近藤正男)
今日のメディアの異常な姿が始まったのは、昨年秋の韓国大法院(最高裁判所)による「徴用工」裁判での判決がきっかけです。日本の植民地支配の不法性と反人道的行為を正面から問うた判決に対し、安倍政権は「解決済み」「国際法違反」などと居丈高に判決を拒否し、韓国政府批判を開始しました。これと同一歩調をとるように、日本のメディアもまた、「両国関係を長年安定させてきた基盤を損ねる不当な判決」(「読売」)、「日韓関係の前提覆す」(「朝日」)などと一斉に判決と韓国政府を批判するキャンペーンを展開しました。
徴用工問題は侵略戦争・植民地支配と結びついた重大な人権問題です。日本政府や当該企業はこれら被害者に明確な謝罪や反省を表明していません。被害者の名誉と尊厳の回復という立場から日韓双方が冷静に話し合うことが求められているときに、日本のメディアは政権の強硬姿勢に同調し、解決の糸口を探すのではなく対決をあおるような報道に走っているのです。その根底にあるのは、「韓国併合」に始まる朝鮮植民地支配にどういう態度をとったかという問題です。
戦前の主要メディアによる朝鮮報道の特徴は、植民地支配への批判的視点を欠くだけでなく、国家権力と一体となって朝鮮人差別・抑圧の片棒を担いだことです。
1910年8月の「韓国併合条約」は、日本が韓国に対し軍事的強圧によって一方的に押し付けた不法・不当な条約です。ところが併合に際し日本の主要メディアで反対を主張したものはありませんでした。逆に、古来、日本と朝鮮は同祖同根だったとか、朝鮮王朝の悪政で朝鮮独立が不可能になった、日本の天皇が朝鮮人の幸福増進に手を差し伸べるもの、などといった身勝手な併合正当化論を展開しました。
この時期の有力新聞、総合雑誌の社説・論説のすべてが韓国併合を美化し、こじつけ議論で併合を正当化した―当時の新聞雑誌の論調を精査した歴史学者の姜東鎮元筑波大学教授は指摘します(『日本言論界と朝鮮』法政大学出版局)。メディアが作り上げた「世論」は併合の侵略的本質を隠しただけではありません。韓国併合は朝鮮人にとっても善政を施したという誤った認識を日本人の間に持ち込み、今日も強く残る植民地正当化の居直り・無反省の原点になっています。
天皇制政府による強圧と専制にたいし、韓国・朝鮮人民の怒りが噴き上がったのが、1919年の「三・一運動」に示される一大独立闘争です。日本の新聞はこれをどう報じたか。「日本では、大部分の新聞は政府や軍部の発表に基いて三・一運動を報道した。したがって、朝鮮民衆を『暴徒』『暴民』視するのが一般的であった」と歴史学者の趙景達氏はいいます。(岩波新書『植民地朝鮮と日本』)
三・一運動の参加者を「暴徒」「不逞(ふてい)鮮人」「土民」などと呼び、朝鮮人に対する恐怖や敵対心を日本人に植え込むことになりました。権力と一体となったメディアの朝鮮報道の行き着いた先が、1923年9月、関東大震災での朝鮮人虐殺の悲劇でした。
植民地支配への批判的視点を欠いた日本のメディアの姿勢は、戦後も続きます。
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し、植民地朝鮮を解放しました。しかし、日本政府はその直後から、過去の非を認めず、朝鮮支配は正しかった、日本はいいこともしたという態度を打ち出しました。戦後一貫した日本政府の基本的立場です。これが端的に表れたのが、1950〜60年代にかけての日韓国交正常化交渉における、いわゆる「久保田発言」「高杉発言」でした。
「日本は朝鮮に鉄道、港湾、農地を造った」「多い年で二〇〇〇万円も持ち出していた」。53年10月、日韓会談が長期にわたり中断する原因となった第三次会談の日本側首席代表、久保田貫一郎の発言です。韓国側の激しい反発にあい、会談決裂、中断したのは当然です。ところが、日本のメディアは久保田発言を批判するどころか、「ささたる言辞」「韓国の不条理な威嚇には屈しない」「朝鮮統治には功罪両面がある」などと発言を擁護しました。当時の新聞論調について研究者は「全新聞が韓国に非があるという認識であった」と分析しています。
「日本は朝鮮を支配したというけれども、わが国はいいことをしようとした」「それは搾取とか圧迫とかいったものではない」。交渉最終盤の65年1月、第七次会談首席代表の高杉晋一による妄言は、交渉決着への影響を懸念した日韓両政府によってオフレコ扱いとされ、日本の商業メディアは取材しながら黙殺しました。
同年6月、日韓条約は日本政府が植民地支配の不法性を認めようとしないなか、歴史問題が未決着のまま締結されましたが、この視点から日韓条約・諸協定を批判する日本のメディアはありませんでした。朝日新聞「検証・昭和報道」取材班は、条約調印を受けての自社社説について「…しかし植民地支配に対する日本の責任には触れていない」と指摘しています。(朝日文庫『新聞と「昭和」』)
植民地支配への批判的視点を欠いた日本のメディアの弱点は、その後も日韓間で問題が起きるたびに表面化します。戦後70年に当たっての安倍首相談話でもその体質が現れます。この談話で首相は、暴力と軍事的強圧で朝鮮半島の植民地化をすすめた日露戦争を「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と賛美しました。歴史を乱暴にねじ曲げ、植民地支配への反省どころか韓国併合そのものの美化・合理化にほかなりません。
しかし、日本の主要メディアは、村山談話の否定・後退を批判的に論じたものはあったとしても、韓国・朝鮮人民への配慮を欠いた日露戦争美化・礼賛に言及し正面から批判するものはありませんでした。
今日、異常報道が過熱したのは、安倍政権が徴用工判決への対抗措置として、対韓貿易規制の拡大という政経分離の原則に反する“禁じ手”を強行したためです。ここでも日本のメディアは、被害者の名誉と尊厳を回復する責任を放棄した安倍政権の問題には目を向けず、「文政権は信頼に足る行動とれ」「発端は徴用工判決にある」などとの対韓批判を続けています。
その一方で、メディアの無残な姿を懸念し、他国への憎悪や差別をあおる報道はやめようという世論も広がっています。新聞労連が、戦前の過ちを繰り返さない、かつて商業主義でナショナリズムをあおり立てた「報道の罪」を忘れてはならないとし、「今こそ『嫌韓』あおり報道と決別しよう」と訴えたことは、その表れです。歴史の真実に向き合い冷静な議論への役割を果たせるか、いまメディアも問われています。
【GoToTop】
2019年8月23日
国民が権力に監視される社会へすすむ日本。一方で政府による公文書の改ざん・隠蔽(いんぺい)が横行しています。この問題について、長年、情報公開、公文書管理、個人情報保護の立法と解釈運用に携わってきた弁護士の三宅弘さんに聞きました。(伊藤紀夫)
―共謀罪法が成立し、監視カメラの拡大、インターネット、GPS(全地球測位システム)などの大量情報技術が発展し、国民は知らない間に監視社会の中にのみ込まれていく状況ですね。
そうなっていることを多くの国民はわからない。情報を権力に握られていますからね。顔認証付き監視カメラなどでみんな管理されているのに、監視カメラで犯人が特定されるから、それは有効だと思うだけ。その情報が政府によって蓄えられ、個々人について人物像を描き切ることができるところまでいってしまう危うさを知りません。
コンピューターやスマートフォンを使い、フェイスブックやツイッターでお互いに自己情報を流すわけです。その情報や、民間に流れている情報も、集積してプロファイリング(データをもとに分析し犯人像などを割り出す方法)したりしていくと、この人はこういう人だということを性格付けられる。いわば思想チェックまでいってしまいかねない社会です。
共謀罪については組織的犯罪集団という限定付きですが、要件は無限定で一般市民が捜査の対象になる危険があります。戦前の「壁に耳あり、障子に目あり」の再来です。近くにいる人のプライバシーを暴き、報告していくシステムになったら、大変です。保護されるべき個人情報を警察や情報機関が自由に収集し、利用できる。プライバシー侵害の最たるものです。
―どうしてこんな怖い社会になったのでしょうか?
戦前は治安維持法の下に特別高等警察があって、当時の天皇制を守るためとして軍事機密など重要な機密を国民に知らせないよう目を光らせ、なにか疑わしいことがあれば、「国体の護持」に反すると全部捕まえていました。それは戦後なくなったが、組織としては警視庁公安課や公安調査庁などに受け継がれた。戦前の捜査手法などが反省されず、人権侵害だという感覚もない。監視社会のベースが戦前からつながっていると思います。
日米安保条約ができて日米の同盟関係の下で、安保条約に基づく関係法令ができて、集団的自衛権を容認する安保法制まで成立してしまいました。
その関連で、米国はイギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどと同等に日本に秘密情報を渡したいから秘密保護法をつくってもらわないと困るということになった。米国の国家ぐるみの大量情報監視の実態を内部告発した元NSA(米国家安全保障局)局員のスノーデンは「日本の秘密保護法は米国のものと違っていてはいけない、罰則をもっと厳しくしなければいけないという米国の要求に、安倍政権はこたえたのです」と言っています。「今年(2017年)になって、似たような法律が出てきました。共謀罪、テロ等準備罪です」とも話しています。秘密保護法、安保法制、共謀罪は一体の戦時立法とも言えます。
―公文書の改ざん・隠蔽問題については、どう考えますか。
森友問題では佐川財務省理財局長が国会答弁で「記録にない」「記憶にない」と開き直って大問題になりました。公文書改ざんはひどいものです。交渉記録は1年未満保存として廃棄し、交渉後の売り渡し契約書だけあればよいとした上で、公文書管理法を正しく適用しないで、ファイルされた文書を入れ替えたのです。
森友、加計問題で起こったことは、経緯や意思決定過程を含めた文書の保存義務を定めた公文書管理法4条違反です。市民に公開されるべき公的情報を国会にも公開せず、隠蔽・改ざんする。安倍政権による無法な「知る権利」の侵害でした。
―監視社会から人権を守り、公的情報を公開させていくには?
ドイツでは警察や情報機関によるテロ対策法捜査・情報収集に対し、プライバシーや表現の自由への侵害がないかを調査する組織があります。連邦と州のデータコミッショナーといって、個人情報と情報公開の解釈・運用についてチェックする組織で、2年に1回、組織の中に立ち入り調査し、だれがどういうふうに評価されているかをチェックし、不正があれば収集データの削除を要求することもやっています。ナチス・ドイツの下で、ユダヤ人一人ひとりをデータ化し、虐殺してしまった反省の上につくられた制度です。
ところが、日本は、警察法2条で「公共の安全と秩序の維持」ということで警察は情報収集のためには何でもできます。日本でも、人権侵害が起きていないかをチェックするドイツのような機関を検討し、省庁の組織の中まで入って検証できるシステムが必要です。
個人情報保護法の下での本人情報の開示請求権が民間部門にあります。例えば、米軍辺野古新基地建設反対運動をしている人が、警察の下請けで反対住民側のデータを集めている私企業に対し、自分の情報をどう整理しているのか明らかにさせ、利用停止、個人情報の消去を求めていく訴訟があってもいい。情報公開法や個人情報保護法を使って監視社会を打ち破っていく運動を展開しなければいけないと思います。
公文書については、行政側が文書の不存在を言うところに問題があるから、行政文書管理ガイドラインを変え、役所全体の規則、細則も含めてそういうことがないよう求め、一定変えてもらいました。各省庁が政策決定に関わる意思決定過程の公的情報を記録・保存し、データが残るシステムにし、恣意(しい)的に秘密指定や廃棄を許さないようにすべきです。
ポツダム宣言の受諾で治安維持法も軍機保護法も廃止されたわけですから、秘密保護法や共謀罪法も廃止する希望を捨ててはいけません。日本弁護士連合会が提言しているように、憲法21条の保障する市民の知る権利を具体化して発展させるため、公文書管理を含めた「情報自由基本法」を制定すべきです。
―憲法に反する日米軍事同盟に基づく体制づくりと監視社会の問題は表裏の関係ですね。
そうです。現行憲法は、日本が戦争に負けて本来あるべき平和の究極の姿は「戦力はもたない」「交戦権は行使しない」という、平和をもたらす方向を示しています。その意義を絶えず、問い続けていく。常にたたかい続ければいい、たまには勝つから。そうやって、人々の記憶の中に残していかないといけない。頑固に憲法にこだわっていかなければならないと最近、思うんですよ。
みやけ・ひろし 1953年、福井県生まれ。東京大学法学部卒。獨協大学特任教授。日本弁護士連合会情報問題対策委員会委員長、日弁連副会長、関東弁護士会連合会理事長、内閣府公文書管理委員会委員長代理を歴任。著書は『監視社会と公文書管理』など。
2019年8月17日
新俳句人連盟の機関誌『俳句人』は、この8月号で700号を達成しました▼同連盟は、戦時中に弾圧された新興俳句運動やプロレタリア俳句運動を担った俳人が中心となり1946年5月に結成。11月『俳句人』創刊。民主主義日本と共に進展する現代俳句の確立と表現の自由を掲げ、活動を開始しました▼初代幹事長・栗林一石路(いっせきろ)の代表句〈シャツ雑草にぶっかけておく〉。炎天下、汗みどろになって働く労働者の姿を活写した句からは、不公正な社会への怒りが読み取れます。一石路は「理論がいかに正しくても、作品がこれに伴わなければ文学運動の意義をなさない」と創作と運動を鼓舞し続けました▼〈大戦起るこの日のために獄をたまわる〉の句で知られる橋本夢道(むどう)も創立メンバーの一人。戦前から反戦句を作り、治安維持法違反容疑で検挙された夢道は、東京拘置所で日米開戦を知りました▼55年に第4代委員長に就任した古沢太穂(たいほ)は31年間、その責務を担いました。代表句〈白蓮(しらはす)白シャツ彼我(ひが)ひるがえり内灘へ〉は、石川県内灘の米軍射爆場反対闘争に参加し詠んだ句です。太穂は69年『俳句人』がようやく100号に達した時、レッド・パージなどの厳しい弾圧を乗り越えてきた月日を振り返り、「私たちの歩みのおそさは、一そう深く胸に迫る」と詠嘆しています▼そして2019年、700号では平和特集「ジュゴンが泣いている」を組み、沖縄・辺野古新基地反対を歌う多彩な俳句を掲載。たたかいは引き継がれていきます。
2019年8月16日
原水爆禁止山梨県協議会と山梨県平和委員会が毎年続けている「8・15を考える県民のつどい」が15日、甲府市で開かれ、50人が参加しました。元山梨学院大学非常勤講師の佐藤弘さんが「内閣情報局発行の『週報』に表れた1945年」と題して講演しました。
「週報」は、当時の内閣情報局が上意下達のために発行し、町内会、隣組の常会を通じて、終戦直前まで国民を戦争に総動員する指針とされました。佐藤氏は、1945年発行分について解説し、戦争末期の国民生活の実相と戦争の本質を告発。「政府や軍部がつくった戦争の本質を学ぶことが大切だ」と強調しました。
原水爆禁止2019年世界大会の参加者4人が、大会の模様や活動を報告。広島の国際会議に参加した日本共産党の宮内現県常任委員は「いま多くの人々が被爆者の体験を深く受け止めて立ち上がっている。核容認の世論を突き動かす力は、被爆の実相を知ること、知らせることです」と語りました。
世界大会に参加した山中皐甫(こうすけ)さん(26)は「核兵器廃絶に向けた国際的機運を肌で感じた。被爆者の経験を継承し、廃絶を達成していく運動をこれからも続けたい」と話しました。
東京都台東区で15日、「第2次世界大戦終結74年 第35回歴史の教訓を語るつどい」が開かれました。「上野の森に『広島・長崎の火』を永遠に灯(とも)す会」が毎年開催しているものです。
「アジア・太平洋戦争終結74年 歴史の教訓から何を学ぶか」と題して講演した内藤功弁護士は、自分の軍国少年時代の戦争体験を語るとともに、昭和天皇の戦争責任を指摘。日本が終戦の交渉をする中で、天皇の地位を守るために終戦が遅れ、国民の犠牲を招いたと述べました。
話を聞いた同区の男性(54)が「どうやって軍国思想から抜け出したのか」と質問すると、内藤氏は「なぜ戦争に負けたのか、戦争が起こったのかと考え、友人の力を借りて歴史を学び、戦争に反対した人の話などを聞いて変わった」と答えました。
つどいでは、原水爆禁止世界大会に参加した高校生(17)が報告。資料館での学びや、父親を原爆で失った韓国の人の体験を聞いたことを語り「『すべての核兵器を鉄クズに変えたい』との言葉をいつまでも伝えていきたい。おとなたちの頑張りを見て、私たちの未来、後の世代の未来のためにも頑張りたい」と話しました。
終戦記念日の15日、宮城県では、「ふたたび戦争をくり返させない集い」が仙台市で開かれ、64人が参加しました。猛暑の中、一番町商店街を「平和憲法を守ろう」「戦争法を廃止せよ」「軍事費を削って福祉・教育にまわせ」と訴え、アピール行進しました。
主催は、宮城・革新懇と県平和委員会、安保破棄県実行委員会。10歳で終戦の日を迎え、「戦争が終わり、ほっとした」という青木正芳弁護士があいさつし、最近の日韓関係の悪化を憂慮し、外交、話し合いで解決する必要を強調しました。
集会では、日本平和委員会の千坂純事務局長が講演しました。
千坂氏は、核兵器禁止条約が、すでに核兵器にしがみつく勢力を追い詰める重要な力となっていると強調し、核兵器廃絶をめざす世界の動きを紹介しました。日本のヒバクシャ国際署名など運動の広がりを示し、背を向ける安倍政権が孤立を深めていると述べ、「来年ニューヨークで、核不拡散条約(NPT)再検討会議を前に『原水爆禁止世界大会』の開催が計画されている。世界の核兵器禁止・廃絶の世論と運動を結集しよう」と呼びかけました。
「安倍改憲阻止、安倍内閣退陣」で共同する青森県九条の会、青森ペンクラブ、日本共産党、社民党など11団体は終戦記念日の15日、青森市の青い森公園で「戦争法廃止!憲法改悪許さない!青森平和集会」を開きました。
集会には、「平和を願い、行動し続けることが必ず実を結ぶと信じているので暑いけど頑張ります」(41歳男性)、「改憲阻止に頑張るために来ました。安倍政権は終戦の日に戦争と歴史に向き合い、韓国国民へも謝るべきだ」(77歳男性)と30度を超える暑さをついて、約100人が参加しました。
戦争を経験した門倉昇さん(85)は、安倍首相が改憲案提出に意欲を示していると批判。「私たちは『戦争する国』づくりを許さない。子や孫を戦場へ送らない」と主催者あいさつしました。
日本共産党の高橋千鶴子衆院議員、立憲民主党の鶴賀谷貴幹事長、社民党の斎藤憲雄幹事長、前衆院議員の升田世喜男氏、市民連合の神田健策共同代表が連帯あいさつしました。国民民主党の田名部匡代参院議員がメッセージを寄せました。
集会では、安倍9条改憲反対3000万人署名の成功、市民と野党の共闘をさらに強めることを盛り込んだ宣言を採択しました。
女性団体や労働組合でつくる「さっぽろ平和行動実行委員会」は15日、8・15反戦街頭宣伝を札幌市の繁華街で繰り広げました。
90人以上が歩道を埋め、「花には太陽を子どもらには平和を」と書いた横断幕、「よみがえらせるな戦時体制」のタペストリーが目を引きます。
もんぺ、防空頭巾を身に着けた女性らが、旧日本軍の召集令状「赤紙」を通行人や観光客に手渡しました。
「赤紙」を初めて見たという高校1年の女子生徒(15)は「昔の人たちは戦争に行きたくないのに行ったんですね。何の罪もない人が一部のおとなの勝手な考えだけで殺されたと思うと、もう二度と戦争はしちゃいけない」と力を込めます。
「戦争が終わった日に生まれてきた娘を見ると、戦争はやっちゃだめでしょと思う」というのは、5歳の誕生日を迎えた娘を連れてきた東区の桜田元さん(34)。「9条を変えたら確実に自衛隊員が犠牲になります。次はわれわれの番なら、核兵器も戦争もいりません」
東区の女性(39)は「いまの政治は怖いです。憲法9条を変えて戦争をしようとしている。若者にも、もっと感じてほしい」。
参加した中央区の奥山一枝さん(67)は「9条が改悪されたら自衛隊が海外で殺し殺される。参院選で改憲勢力が減ってほっとしました」と言います。
札幌市被爆者の会の廣田凱則(よしのり)会長が訴え、日本共産党の長屋いずみ市議が参加しました。
日本とアジアで多くの犠牲者を生んだ侵略戦争から74年、戦後まで20年間続いた希代の国民弾圧法、治安維持法が猛威を振るった暗黒政治は二度と許さないと、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北海道本部と札幌支部は15日、札幌市中心街で宣伝しました。
「市民と野党の共同で平和な日本を 9条改憲は戦争への道」の横断幕を掲げ、「9条改憲発議ストップ」のビラを配り、通行人が次々受け取りました。
自由法曹団道支部の齋藤耕弁護士と、日本共産党の畠山和也前衆院議員らが駆け付け、マイクを握りました。
畠山氏は「戦争反対を求めた人たちを弾圧し、言論の自由を根こそぎ奪ってきた歴史を繰り返してはなりません。日本とアジアの2310万人の犠牲を払った侵略戦争の反省の上に立ってつくられた9条をしっかり守るため、力を合わせましょう」と訴えました。
長屋いずみ札幌市議が参加しました。
2019年8月12日
日本文化全体を考古学の目で捉え、全国を飛び回り、地域市民と共に文化財保護を訴えてきた鈴木重治さん。86歳になる今年、文化財保存に尽力した個人・団体に贈られる第20回和島誠一賞(文化財保存全国協議会主催)を受賞しました。京都・京田辺市の自宅を訪ねました。(澤田勝雄)
かつて教壇に立った同志社大学の田辺校舎に近い、本と資料が積まれた書斎で静かに語ります。
「おとなになったら兵隊になり天皇のために命をささげる、と鬼畜米英を敵にして竹やり訓練をした軍国少年でした」。東京の空襲が激しくなり福島に学童疎開、敗戦で戻ってみると一面の焼け野原。「戦後の授業で、『歴史とはこんなに書き換えられるものか』と衝撃を受け、真実を知りたいと痛感しました」
都立中学で受けた「文化国家の建設、平和・自由・平等」という授業は新鮮で、日本国憲法を繰り返し読んだという鈴木さん。同志社大学の文化学科に進学し日本文化史を専攻、考古学と出合います。青春時代の1950年代は、朝鮮戦争、自衛隊の前身・警察予備隊の発足、血のメーデー事件など激動の時代でした。
「大学の恩師・酒詰仲男先生(1965年没)は戦前、治安維持法で逮捕されても主義・思想を曲げない研究者で、口癖は『文字の語らざるところ、土これを語る』でした」
卒業後、宮崎県の博物館などに勤務し18年間、九州各地の発掘現場に立ちました。考古学の先達で和島誠一・岡山大学教授とは酒詰氏を介して何度も会い指導を受けます。
「和島先生が関係された岡山・月の輪古墳の発掘からは、遺跡の調査・研究・保存・活用・整備・継承の一連の作業の大切さを楽しく学びました」
74年に母校・同志社大の教員に。考古学研究室の森浩一教授らと協力し、「大学がまず、その敷地にある遺構を調査し、保存・公開することが大事だ」との理念で全国の大学に先駆け、大学キャンパス(今出川・田辺)内の古墳や都市遺跡の発掘・保存と活用を図りました。研究分野は、出土資料を通して古代・中世の陶磁器研究へと広がり、東アジアの中の日本文化を考察することになります。
70年につくられた文化財保存全国協議会では、結成時からの役員として、奈良県飛鳥池遺跡の保存運動や世界遺産の平城京跡地下に高速道路を通す計画に対し景観保存を求める運動などに取り組んできました。
「宮崎駿監督のアニメ映画『崖の上のポニョ』の舞台にもなった広島県鞆の浦(とものうら)の歴史的景観を守れという住民訴訟を学術の面で支援し、景観保存を実現した運動は画期的でした。地元の名産・保命酒(ほうめいしゅ)容器の布袋(ほてい)徳利を生産した窯跡の調査を担当し、史跡指定を求めました」
最近、文化庁による日本遺産の認定をめぐって、宮崎市や奈良県橿原(かしはら)市などが古代神話の「神武(じんむ)東遷」を新たに申請するという事態が起こっています。「行政側が皇国史観や神話にもとづいた歴史観を観光戦略として推進しようとする動きです。遺跡を貴重な人類の文化遺産として健全な保存・活用をという願いに逆行している」と鈴木さんは警告します。
「憲法9条の安倍改憲を阻止してこそ、文化・歴史遺産は守れる」と意気軒高です。
すずき・しげはる 1933年東京都生まれ。日本考古学協会、東洋陶磁学会、関西近世考古学研究会、日本情報考古学会などの役員を歴任。著書『世界遺産平城京跡を考える』(共著)ほか
2019年7月28日
1923年の関東大震災直後に朝鮮人や中国人、社会運動家が虐殺された問題で、犠牲者の追悼学習会が27日、東京都内で開かれました。「9・1関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典実行委員会」と歴史教育者協議会の共催。約100人が参加しました。
宮川泰彦実行委員長は、朝鮮人虐殺はなかったと主張する人たちについて「歴史に目を背けることこそ、日本人として恥ずかしい」と指摘しました。
ノンフィクション作家の加藤直樹氏が講演。震災後の混乱や不安の中で起きた流言をきっかけに迫害、虐殺が始まったこと、官憲も流言を積極的に流布し、被害が拡大していった経緯を説明しました。背景に、差別の理論、治安の理論、軍事の理論があったと分析。現在、虐殺があったことを否定しようとしている人たちの言動に、差別的言辞に加え、災害対策の中にテロ対策を位置付けるべきだと主張するなど、同様の理論があることを指摘しました。
文化行事として、東京朝鮮中高級学校合唱部が朝鮮と日本の歌を披露しました。
また、小池百合子東京都知事に、9月1日の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典への「追悼の辞」送付を求める署名への協力が呼びかけられました。
2019年7月25日
北海道開拓の苦難を史実に即して描いた長編小説『石狩川』で知られ、小林多喜二とともにプロレタリア作家同盟で活動した本庄陸男(むつお)の没後80周年の墓前祭が23日、北海道紋別市上渚滑(かみしょこつ)の西辰(さいしん)寺境内で行われました。
本庄の研究者、故松田貞夫氏の妻靖子さんや、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北見支部の本間昭一支部長、会員らが本庄の業績をしのびました。
「本庄さんは、青山師範学校(現・東京学芸大学)を卒業後、本郷の名門小学校の教員になりますが、希望して下町の貧しい子どもの多い深川の小学校に移り、特殊学級の担任になりました」と治維法国賠同盟道本部の宮田汎会長。「その体験を元に貧しい子どもたちの無垢(むく)な魂を描いた多くの短編を書き、さらに『資本主義下の小学校』を出版しますが、即日発売禁止になりました」と紹介。その後、「小学校教員連盟という教員組合をつくり免職、日本共産党に入党し、作家同盟の活動をして治安維持法で3回検挙されます」と話しました。
松田さんは「多喜二の『通夜』に本庄さんも駆けつけ、母セキさんの苦悩を小説『団体』に克明に描いています」と語りました。
2019年7月15日
「闘争」「死」と刻まれたコンパクト。肌身離さず持ち歩き、自身の顔を映し出す大切なものにしるした凄烈(せいれつ)な文字。それは、どんな弾圧にも屈せずたたかい抜く覚悟の証しだったのでしょう▼飯島喜美さん。戦前の紡績工場で女工哀史そのままの過酷な労働を強いられ、社会進歩にめざめていきます。16歳の若さで500人の女工たちの先頭に立ち、ストライキを指導。迫害も恐れず、日本共産党に入党しました▼世界中の労働組合が集まった国際会議では日本の女性労働者を代表して演説。より良い働き方や社会をめざすことに情熱を傾けながら、時の暗黒政府によって検挙・獄死させられました。わずか24歳でした▼その短くも誇りある生涯をまとめた『飯島喜美の不屈の青春』が最近、学習の友社から出版されました。喜美と同じ会社に勤めた著者の玉川寛治さんは戦前回帰に動く今の安倍政権にたいする危機感があったといいます▼「人権のかけらもない治安維持法によって多くの国民が犠牲になった。それを反省するどころか適法だと公言し恥じない政権に抗し、喜美たちのたたかいを受け継ぐ決意を込めた」。足跡への反響は大きく、わが身に引き寄せた感想も▼日本の歴史のなかで反戦平和と民主主義の旗を掲げつづけてきた党は、きょう創立97周年を参院選のさなかに迎えました。闇夜につながる勢力とのつばぜり合いのなかで。時代を切り開いてきた先人の声が聞こえてくるようです。いまこそ、日本共産党員魂を呼び起こせと。
2019年7月13日
私は、一夜にして10万人が亡くなった東京大空襲を生き延びました。だからこそ戦争は単なる反対でなく、絶対反対です。作家として10万人の“声なき声の継承”に力を入れてきました。そんな私が選挙のたびに投票してきたのは、戦争絶対反対の党、日本共産党です。そういう政党は残念ながらひとつしかありません。
小林多喜二に代表されるように、日本共産党は戦前・戦中の暗黒の時代に、日本のやっている戦争が侵略戦争だと見抜き、命を張って戦争に反対してきた歴史を持っています。当時は「アカ」と呼ばれ、共産党の名をうかつに口に出すことは危険でした。今もその傾向がなくはないし、戦時中に逆戻りしたかのような危機感に駆られることがあります。
「しんぶん赤旗」によく出てくる中期防衛力整備計画とは、要するにこれから先5年間にどれだけの武器をトランプから買うかということでしょうが、総額が27兆5千億にも上ります。大問題です。護衛艦「いずも」の空母化は自衛と言えるのでしょうか。専守防衛から攻撃型へ移行し、自衛隊を増強し、徴兵制まで行くのではないかと私は不安です。
今度の参院選の結果いかんで、安倍首相は、すぐにでも改憲に動く危険があります。そうなってからでは手遅れです。
最近、テレビ番組で、東日本大震災で生き残ったある青年が、災害救助で働いた自衛隊員のように人のために役立つ仕事がしたいから自衛隊へ入りたいと話すのを聞き、ぞっとしました。「しんぶん赤旗」を読んでいればそういう発想にはならないですよね。子どもや孫たちが平和な社会に生きられるかということでの大きな試練がきていると感じます。
戦争への道を阻止できるのは憲法9条を守り抜くこと。大事でない選挙などありませんが、今回の参院選は日本の命運がかかっています。
さおとめ・かつもと 1932年東京生まれ。71年、『東京大空襲』で日本ジャーナリスト会議奨励賞。75年、東京空襲を記録する会から刊行の『東京大空襲・戦災誌』で菊池寛賞。最新刊『徴用工の真実』ほか著書多数
2019年6月21日
今年は、作家・三浦綾子の没後20年にあたる年です。多くの作家が活躍する中、代表作『氷点』『塩狩峠』などは今なお増刷を続けており、いかに長く愛されている作家であるかがうかがえます。
1998年、全国の方々の募金によって建てられた三浦綾子記念文学館(旭川市)も、昨年で20周年を迎えました。館のメインテーマは「ひかりと愛といのち」ですが、このたび、未来の読者に向けて、新たに三つの「指針」を策定しました。
一つ目は、豊かな心を耕す「人間文学館」。二つ目は、文学と地域をつなげる「地育文学館」。そして三つ目が、愛と平和をつくる「平和文学館」です。
地域に根ざし、人々とともに育んでいく文学館を目指しますが、今いっそう願うことは、三つ目の「平和文学館」であり続けたい、ということです。その願いの根底に、三浦綾子の生涯そのものが深くかかわっています。
自伝4部作『草のうた』『石ころのうた』『道ありき』『この土の器をも』を読み通すと、没年以上に、生年に深い意味があることがうかがえます。
生年は、22年。同年生まれの作家に、瀬戸内寂聴、山田風太郎、中井英夫、漫画家の水木しげるらがいますが、彼/彼女らの作品に共通するものは、戦争に対する絶対的な嫌悪ではないでしょうか。
敗戦時は23歳。10代後半、20代前半のもっとも輝かしい青春期が、戦争の時代と重なった「戦中派」世代です。同時に、敗戦後の被占領期をも鮮明に記憶している世代です。
私は今年、「三浦綾子の小説にみる被占領期」という論考を書きました。三浦作品を注意深く読むと、『氷点』『ひつじが丘』『天北原野』などに、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領期の描写がいくつも見られます。占領軍のジープや、アメリカ兵の姿、「オキュパイド・ジャパン」の文字等々。
約7年にわたる被占領期のうち、当初の4年間はGHQによる検閲も行われていました。けれども、現代の若い世代はそのような歴史をほとんど知らず、関心すら抱いていないようにも思われます。
三浦綾子の小説には、晩年の『銃口』『母』などもそうですが、読みやすい語り口の中に、歴史から学ぶという確固とした姿勢が見られます。若い読者が三浦文学に出合えば、小説の筋を楽しみながら、学校教育よりも一歩深めた歴史を知る機会になるはずです。
また今日、諸外国の動向を見ても、不寛容な時代になってきていますが、その不寛容な時代に対抗しうる言葉の集積こそが、三浦文学の特徴でもあります。三浦文学のキーワードの一つは、「ゆるし」。他者を受け入れ、ゆるすことを経てこそ、真の平和な時間は訪れるはずでしょう。
歴史から学ぶという謙虚な姿勢、そして、寛容な精神世界。「平和文学館」として、次なる世代に手渡すべきことは数多くありますが、まずはこの2点を手渡すべく、ひたむきに努力を重ねていきたいと感じています。
みうら・あやこ(1922〜99) 旭川市生まれ。17歳からの7年間、小学校教師として軍国主義教育に献身したことに戦後、苦悩して退職。その後、結核で13年間療養。闘病中にキリスト教に出合います。64年『氷点』が懸賞小説に入選し、作家活動に。『母』(92年)で小林多喜二の母セキを主人公とし、最後の小説となった『銃口』(94年)では戦争と弾圧に苦闘する青年教師を描きました。
たなか・あや 三浦綾子記念文学館館長、北星学園大教授、歌人
2019年6月20日
「ヘイ! ニ・イラース・アル・ラ・インフェーロ」―日本語原文の冒頭のせりふ「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」と、調子がよく合っています。
カムチャツカ沖での過酷な労働と労働者のたたかいを描いた小林多喜二の小説『蟹工船』を、ユダヤ人の眼科医ザメンホフが1887年に発表した人工言語エスペラントに、日本で初めて翻訳し、このほど出版しました(ホリゾント出版hori−zonto@water.sannet.ne.jp、800円)。岡山県在住の島津泰子さんと共同の翻訳です。
「エスペラントに心酔した島津さんが“『蟹工船』は今の日本にそっくり。翻訳して世界に知らせたい”と。私は戦前の特殊な舞台の話で翻訳は無理と忠告しましたが、聞き入れず、訳文を次々送ってきました。それで私も引き込まれ、手伝うことになりました」
群馬県在住の堀さんは、父親もやっていたエスぺラントにほれ込み、特に40代から熱心に関わり始めました。世界エスペラント大会には欠かさず参加、自分の出版社を立ち上げ、エスペラントの自著などを出すほどに。
その魅力とは「母語話者がいないので、誰もが対等に話せること」だといいます。「私は高校の英語教師でしたが、英語が母語の人々にはかないません。英語で発信するのは気が引けます。エスペラントにはそんな壁がなく、話者も世界中にいる。だから世界を変える力があると思います」
2019年6月17日
「共謀罪」法が強行採決されてから2年となる15日、共謀罪法と表現の自由について考えようと、日本ペンクラブ会長の吉岡忍氏と精神科医の香山リカ氏が「いま『表現』をめぐる危機的現実」と題して対論を都内で開催しました。「共謀罪廃止のための連絡会」「共謀罪NO!実行委員会」「『秘密保護法廃止』へ!実行委員会」の共催です。90人が参加しました。
香山氏は、自身が出演予定の講演会が、右翼団体などの抗議を受けて中止になった経験に触れ、行政の対応を批判。「共謀罪を適用しなくても、少しでも問題があると見ると、行政が予防的に講演会などを中止する現状がある。そこに表現の自由を毀損(きそん)している自覚はない」と話しました。
吉岡氏は、戦前の治安維持法による弾圧や言論統制の歴史を取り上げて「国益や国策は、必ずしも個人や地域を幸せにしない」と述べ、言論に携わる人間と読者の強い信頼関係があることがとても大事だと訴えました。
共謀罪廃止のための連絡会の米田祐子さんが「市民による表現の自由の行使は、民主主義の基盤。共謀罪による表現の自由の弾圧を防ぐには、市民に対する啓発が必要になる」とあいさつしました。
報告では、共謀罪対策弁護団共同代表の海渡雄一弁護士が、ストライキやビラまきなどの労働組合運動に対し、「共謀」を理由に活動者を逮捕するなど、共謀罪型弾圧が始まっていることを説明しました。
2019年6月14日
今月4日の第39回全国大会で選ばれた治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の増本一彦会長(弁護士)、田中幹夫事務局長ら新役員が13日、日本共産党本部を訪問し、法規対策部の柳沢明夫部長らと懇談しました。
田中氏は「共謀罪について“まるで治安維持法だ”と、国民の間で改めてこの問題への関心が起こっている」として、さらに幅広い層に向けて活動を強めていきたいと強調。
犠牲者数の調査や、ユネスコ世界記憶遺産への登録をめざした記憶の掘り起こしなどの取り組みについて報告しました。
大阪府本部の大石喜美恵副会長は「治安維持法には30人弱の女性の犠牲者がおり、特高警察が女性に拷問や性的屈辱を加えていた」と話し、歴史の証人として調査・記録を進める必要があるとしました。
柳沢氏は「犠牲者が高齢化する中、新しい分野を切り開いている。非常に意味ある事業だ」と応じました。
2019年6月5日
「ふたたび戦争と暗黒政治を許さない」を掲げる治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟は4日、東京都内で第39回全国大会を開き、全国から代議員、評議員ら約130人が参加しました。
中央本部の増本一彦会長は、安倍政権が狙う2020年までの9条改憲について触れ「安倍改憲を阻止し市民と野党の共同による政府の実現を目指して同盟運動を次の時代への力強い一歩を踏み出す大会だ」とあいさつしました。
田中幹夫事務局長は「創立50周年記念・同盟運動躍進年間」の到達点など活動報告し、運動方針を提起。「2万人会員を目指し6月1日現在で史上最高の1万6397人」に達したことを発表しました。
2年間で会員を50人拡大した北海道の野瀬義明さんは「文芸活動をしていた叔父が特高警察に捕まり帯広警察で命を落とした。私にとって会員拡大は叔父の弔い合戦。矢臼別演習場ではアメリカ海兵隊が加わり休むことなく戦闘訓練が繰り広げられ戦地そのもの。極めて緊迫した情勢で会員拡大の必須条件となっている」と訴えました。
鳥取県八頭郡八頭町の石川雄光(たかみつ)さんは1人で町長や全町議14人一人ひとりの自宅を訪問し請願署名などの理解を訴えた経験を報告。町議会では「治安維持法犠牲者への謝罪・賠償法の制定を求める」意見書が全会一致で採択されました。
日本共産党の井上哲士参院議員が来賓あいさつしました。大会は5日までの2日間で、会員2万人の同盟建設や国会請願署名、地方議会への陳情・請願の目標達成などの方針を討論します。
2019年6月5日
保守主義の立場の論客からも日本共産党に注目が集まっています。中島岳志東京工業大学教授は、自公政権が、戦後日本の民主主義体制をゆがめる親米・新自由主義へと傾斜する中、それに抵抗する「保守」と日本共産党の立ち位置が限りなく接近していると言います。
中島氏は「安倍政権の政策はどれをとっても保守が共感するものではありません。それに反対している共産党の論理の方が、私のような保守には圧倒的に賛成できます」(2018年9月9日号「赤旗」日曜版)と話しています。
国会で議論を尽くさず、繰り返し行う強行採決、集団的自衛権をめぐる憲法解釈の勝手な変更、安保法制の強行…。憲法に基づいて政治を行うという立憲主義の原則を破壊する安倍政権に、保守の人たちの中からも批判の声があがっています。
日本共産党は民主主義的変革は多くの人たちとの団結によって成し遂げられると考えています。そのため、たとえ思想信条の違う相手であっても、さしあたって共同できる一致点があれば合意づくりに努め、手をつないできました。辺野古の新基地問題をめぐるオール沖縄のたたかいや、国政や地方政治をめぐる市民と野党の共闘でも、その発展に誠実に努力しています。
憲法や立憲主義を守る立場を鮮明にし、安倍政治のゆがみの根本にメスを入れ、改革する展望を示す日本共産党だからこそ、まっとうな保守の人にも共感をもって受け入れられているのです。
2019年6月4日
今回の参院選挙は、2016年6月に、国会議員や地方議員を選挙で選ぶ権利=「選挙権」をもつ対象年齢が「20歳以上」から、「18歳以上」に引き下げられてから、2回目の参院選挙です。
日本共産党は1922年の党創立のときから、この「18歳選挙権」の実現を求めてきました。戦後、46年11月の現行憲法の制定・公布に先立つ同年6月に発表した憲法草案では「代議員(国会議員)として選挙され、かつ代議員を選挙する資格は…18歳以上のすべての男女に与えられる」と定めています。
共産党の憲法草案で、注目してほしいのは選挙で議員を選ぶ「選挙権」とともに、選挙に出る権利=「被選挙権」も「18歳以上」に与えるとしている点です。
海外で「18歳選挙権」が主流となるなか、日本ではやっと3年前からスタートしましたが、「被選挙権」の方は、いまだに衆院議員は「25歳以上」で、参院議員は「30歳以上」のままです。
いま、多くの学生に、高い学費と奨学金返済の不安が重くのしかかり、働く若者のあいだには、低賃金や雇用破壊、長時間労働、若者を使いつぶすブラック企業やブラックバイトの問題がまん延しています。
共産党は、若者が安心して学び、働ける希望ある社会をつくるために、政治や社会の改革に力を尽くしています。その改革の一つとして、若者自身の政治参加の拡大に真剣に取り組んでおり、「被選挙権」の対象年齢の速やかな引き下げなどをめざしています。
2019年6月3日
世界でも日本でも、#MeToo運動をはじめ性暴力やハラスメントを許さないと声をあげる人たちの輪が広がっています。
日本共産党は夏の参院選で重視する争点のひとつとして「差別や分断をなくし、だれもが尊厳をもって自分らしく生きることができる社会をつくること」を掲げています。
日本共産党は創立直後の綱領草案(1922年)に「18歳以上のすべての男女にたいする普通選挙権の実現」を要求として書き込むなど、戦前から「男女同権」をめざしてきた政党です。
戦後も、女性の地位向上と権利の拡大のためにたたかい、個人の尊厳、多様性が尊重される社会をめざして、ジェンダー平等社会(性差による差別のない社会)の推進や性暴力を許さない社会をつくること、ハラスメントに苦しむ人をなくすこと、LGBT/SOGI(性的指向・性自認)への差別を解消するための法制定などを提起し、幅広い人たちと力を合わせています。
そして日本共産党自身が、女性が大きな役割を果たしている政党であることも、ぜひ知っていただきたいと思います。たとえば、4月におこなわれた統一地方選挙では、当選者に占める女性の割合が、日本共産党は道府県議で52%、政令市議で52%、区市町村議では40%でした。引き続き、努力していきたいと考えています。
2019年6月2日
「共産党は良いことを言っているけど名前で損している」「党名を変えた方が、もっと伸びるんじゃない?」
日本共産党の躍進を強く期待する気持ちから言ってくれている場合が多いのですが、こうした声をよく聞きます。共産党の名前には、資本主義時代の高度な発展の成果を踏まえて、社会主義・共産主義へと前進するという未来社会への理想が込められています。
そしてもう一つ、ぜひ知っていただきたいのは、日本共産党がブレずに反戦平和と国民が主人公の政治を貫いてきたという歴史です。
日本共産党は1922年に創立した政党で、もうすぐ結党100年を迎えます。創立の時から天皇制の専制政治にたちむかって、激しい弾圧にも屈せず、国民主権と侵略戦争反対を主張してきました。このなかで、小説「蟹工船」で有名な小林多喜二など多くの先輩が命を奪われました。
戦後も、日米安保条約をなくして米軍基地のない平和な日本をつくることや、長時間労働を規制して人間らしく働ける社会をつくることを綱領に掲げてたたかってきました。旧ソ連や中国の共産党が、日本共産党に乱暴な干渉を加えてきましたが、これにも対決し堂々と打ち破ってきました。
「日本共産党」という名前には、1世紀近く平和と民主主義のために不屈にたたかってきた歴史がギュッと詰まっているのです。
2019年6月1日
昨年、日本共産党を積極的に応援するJCPサポーターになり、今年4月の統一地方選で共産党候補を応援した大学生のAさんに話を聞く機会がありました。Aさんは、喫茶店で周囲を気にすることなく日本共産党の魅力をこう語ってくれました。
「未来を語る党って日本共産党だけだと思います」
では、日本共産党がめざす未来社会とはどんな社会でしょうか。
日本共産党は、まず資本主義のなかで、今の「財界の利益中心」「アメリカいいなり」の政治から、国民のくらし優先の政治へと改革したいと考えています。同時に、共産党の最大の特徴と言えば、資本主義を乗り超えた未来の理想を持っているということです。
人による人の搾取をなくし、労働時間を短くして「自由な時間」を大幅に増やし、誰もが自分の持つ力を自由に全面的に花開かせることのできる未来社会―これが日本共産党がめざしている社会主義・共産主義の社会です。この理想をこめたネーミングが「共産党」なのです。
社会主義・共産主義と言うと、旧ソ連などの国をイメージして“貧しい平等”とか“一党独裁”と思われる人もいるかもしれません。しかし日本共産党は、国民を抑圧したり、他国を侵略したりした旧ソ連は、社会主義とは無縁の社会だったと考えており、党の根本方針を示す綱領でも「旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない」と主張しています。
◇
7月の参院選挙で、日本共産党は、創立以来97年の歴史や活動、日本改革の方針など党の魅力を語り広げて、積極的に支持する人たちを大いに増やして勝利・躍進したいと考えています。本紙では、日本共産党の魅力について3分で読めるコラムをスタートさせることにしました。
2019年5月30日
宮城県石巻市出身の人権派弁護士・布施辰治(1880〜1953年)を顕彰する会の再設立総会が25日、石巻市で開かれました。
呼びかけ人代表の松浦健太郎弁護士が、昨年の辰治没後65年の取り組みの中で、「顕彰活動を続けるために会が必要だ」と声が上がり、再設立に至ったと報告しました。
辰治の生家の現在の当主・布施東吉さんが来賓あいさつ。感謝の言葉を述べるとともに「私の名前は辰治さんが付けてくれた」など逸話を語りました。
駐仙台韓国領事館のキム・ジョンファ領事が、朝鮮半島で独立運動家や農民運動を支援して日本人で初めて韓国の「建国勲章」を授与された辰治の活動を振り返り、今後の韓日の友好促進への期待を語りました。
宮城県治安維持法国賠同盟の横田有史会長は、「治安維持法は国内より韓国で猛威を振るった」などと紹介しました。
総会は、毎年の命日の前後に必ず碑前祭を開くこと、市の文化施設に「建国勲章」を展示するよう市に求めていくことなどを確認しました。
2019年5月27日
治安維持法犠牲者を研究し、名簿作成と足取りをたどる記録づくりに生涯をかけています。現在、約300人の足取りをまとめる作業が終盤に差しかかり、8月の完成=出版を目指します。
1926年に熊本県菊池郡原水村(現菊陽町)で生まれ、15歳で逓信講習所に入り、モールス通信士として働きました。戦後、先輩たちから特別高等警察や憲兵隊の横暴を聞かされて国家権力の実態を知り、戦後は労働運動に傾注。
49年に日本共産党員と支持者を狙い撃ちしたレッドパージで職場を追われ、同年、党熊本県委員会の常任活動家として民主的運動の再スタートを切りました。活動家として出会った犠牲者や関係者から凄惨(せいさん)な実態を聞き、80年代に入り、存命の犠牲者も高齢化や拷問などの取り調べ・拘禁の後遺症がもとで次々に亡くなり、名誉回復の必要性を痛感したことが記録づくりのきっかけになったと語ります。
2016年の熊本地震で益城(ましき)町の自宅は全壊し、集めた資料の3分の1を喪失。毛布1枚で放り出され、熊本市内のめい宅や老人介護施設に身を寄せるなどの避難生活も経験しました。県外も含め転居を考えましたが、「取りかかった仕事は最後までこの熊本の地でやり遂げたい」と自宅を再建しました。
17年に成立した「共謀罪」はまさに「治安維持法」の再来。「一日も早く完成させて今後の民主的運動の教訓としたい」と力を込めます。
2019年5月26日【社会】
戦前、治安維持法に反対し、右翼の凶刃に倒れた京都選出の代議士・山本宣治の生誕130年を記念する講演会が25日、宣治の生家がある京都府宇治市で開かれ、200人が参加しました。山本宣治生誕130年・没後90年記念事業実行委員会の主催。
日本共産党の市田忠義副委員長・参院議員が「山宣の生きた時代と現代」と題して記念講演しました。
市田氏は、安倍政権が民主主義破壊をすすめる今だからこそ、天皇制の暗黒時代にたたかった山宣の生きざまを「山宣の生まれ育った地で活動してきた一人として、語らなければと思った」と述べ、京都にゆかりのある自らの活動と、山宣との「因縁」を紹介。少年時代から、カナダへの留学、産児制限運動や労働者・農民への教育活動、そして国会議員へと、波乱に満ちた山宣の生涯とその思想の発展、山宣の生きた時代を、時にはユーモアも交えながら詳しく語りました。
「山宣は、今では考えられないような過酷な条件の下でも、最後まで住民の立場に立って節を曲げず不屈にたたかい抜いた稀有(けう)の人」と結んだ市田氏は「今は『孤塁を守る』どころか、野党連立政権を見通せる時代。山宣の生きざまを受け継ぎ、未来をひらく生き方に踏み出そう」と呼びかけました。
講演に先立ち、第1部ではシンガー・ソングライターのケイ・シュガーさんが歌を披露しました。
2019年5月20日
共謀罪法や憲法改悪に反対する「自由と平和のための東京芸術大学有志の会」が毎月行う「芸術と憲法を考える連続講座」で14日、1941年に起きた「北海道生活図画事件」の被害者が登壇し、治安維持法の非道さを証言しました。(米重知聡)
登壇したのは菱谷(ひしや)良一さん(97)。41年9月20日、旭川師範(現・北海道教育大学旭川校)の美術部学生の一人だった菱谷さんらは、教師や卒業生などの関係者とともに治安維持法違反容疑で検挙されました。
前年の40年11月20日、北海道旭川で「生活綴方(つづりかた=作文)」に関わった教師らが検挙され、翌41年1月10日には旭川師範や旭川中学の教師や関係者ら「生活図画」関連の53人が一斉検挙されました。この中には、綴方でいつも菱谷さんを褒めていたという小学教師・入江好之(よしゆき)さんや、菱谷さんに絵を教えた旭川師範の美術教師・熊田真佐吾さんもいました。
「生活綴方」「生活図画」は「生活をありのままに描く」とした作文・図画教育です。この活動の関係者や学生らが、国家転覆を企てるものとして全国で逮捕され、実刑や執行猶予の有罪判決を受けました。
「生きている限り自分の経験をたくさん話したい」と登壇した菱谷さん。小学校時代には綴方が得意で、旭川の小学生の作文を集めて発行した文集に毎回登場していたといいます。絵画も得意だった菱谷さんは、旭川師範で小学校の先輩に誘われて美術部に入りました。
「熊田先生は、絵の技術のことはうるさく言わなかった。教育理念として、絵を通じた人間形成に力点を置いていて、ものを正しく見ることを強調していた」
また、美術家や美術史の勉強だけではなく、演劇や音楽など情操教育を重視し、修学旅行では東京の築地小劇場で新劇の舞台を見たといいます。
熊田さんの検挙後、美術部は解散され、美術部員と美術部に出入りしていた学生たちは留年処分になり、校長から「反省」生活を強要されました。早朝と夕方に学内の神社の清掃・参拝、放課後には校長による特別指導がありました。
菱谷さんが検挙されたのは、本を挟んで会話する2人の学生を描いた「話し合う人々」と題する絵で、「描かれている本はマルクスの『資本論』だと当局がでっち上げた」からだといいます。菱谷さんは当時、「マルクスなど何も知らない学生」でした。
菱谷さんの実家は旭川刑務所のすぐ近くで、塀の前を通るたびに母親が「この中で息子が苦しんでいる」と嘆いたそうです。冬は氷点下30度を下回る寒さの中、暖房もない独房で1年3カ月を過ごしました。
釈放後の1943年、菱谷さんは「赤い帽子の自画像」を描きました。
「2月11日の紀元節(現・建国記念の日)だった。天皇は国民を赤子のように慈しむというが、無実の学生を1年も閉じ込めるとはどういうことかと、こみ上げてきたほとばしる怒りを絵に込めた。アカ呼ばわりするなら、アカになってやろうと赤い帽子をかぶった」
2017年に成立した共謀罪法について「治安維持法と同じ、衣を変えただけ。自分は治安維持法でイヤってほど痛めつけられ、生涯消えない傷を負った。法律ができた以上、市民の力でつぶしてほしい」と語りました。
講座では、東京芸術大学ドイツ語非常勤講師の川嶋均さんが「北海道生活図画事件」の概要と、事件と東京芸大関係者について解説しました。
「事件では芸大関係者も4人検挙され、治安維持法違反では全国と植民地で10万1654人が被害者。共謀罪法は『社会運動は制限しない』といっているが治安維持法成立時もそうだった」
菱谷さんたちの写真集を用意している写真家の高橋健太郎さんも登壇し「共謀罪法にある『実行準備行為』には写真を撮ることも含まれる。自分もカメラを武器に政府を批判していれば、菱谷さんのように検挙される可能性がある」と警鐘を鳴らし、言論・表現を抑圧する動きとたたかう決意を示しました。
2019年5月19日
戦前・戦中、多くの弾圧犠牲者を生み出した治安維持法。菱谷良一さん(97)=北海道=は、「左翼絵画で市民を啓蒙(けいもう)している」などとして不当な逮捕・勾留を受けた「生活図画事件」の犠牲者の1人です。菱谷さんは15日、東京都内の集会で自身の体験と「あの時代には絶対逆戻りさせてはならない」と訴えました。発言要旨を紹介します。
私は治安維持法でいやというほどの目に遭いました。まだ20歳前の青年が共産主義も知らない、自分で言うのもおかしいですが、純朴な青年が当時の旭川師範学校に入り、絵が好きで美術部に籍を置いていました。
北海道綴方(つづりかた)教育連盟の事件、恩師の逮捕に関連して、昭和16年(1941年)9月20日に逮捕されました。寄宿舎で寝入りばなに、警察に土足で踏み込まれました。
逮捕状を突きつけられて勾留されて、同級生5人がそれぞれ北海道の警察署に分かれて、取り調べられました。
特別高等警察(特高)刑事に取り調べられるのですが、もともと私は「主義者」ではない。共産党の友達もいない。そういう絵の好きな青年を、当時の特高は逮捕した以上は私を立派な主義者に仕立てあげるために偽りの自白を脅迫で作り上げました。それでもって私は起訴されました。
1年3カ月の勾留生活で、北海道の厳寒零下30度の独居房に閉じ込められ、凍死寸前までいきました。夏は独居房で本も読めない、人とも話せない。いわゆる拘禁症状になる手前までいきました。あと思うのは「家族に申し訳ない」という思いと悲しみの精神的な苦痛で、胸が締め付けられました。裁判で懲役1年6月となり、執行猶予がついて、仮釈放されたものの私は「非国民」にされました。
終戦までの1年は身を潜めてひっそりとしていました。「非国民」だし、一日も早く戦争に行って苦しみから早く逃れたいなんていうことも考えました。
ここ数年、共謀罪とか一連の取締法が出ている。政府は「一般の人には関係ない」と説明しています。
治安維持法が国会で問題になった当時の政府も「一般人には関係ない」と言ってきました。それがどんどんと拡大して、共産党の運動にかげながら影響を与えたり、支えたりすることも処罰する「目的遂行罪」を法律に加えました。
私もその目的遂行罪で逮捕された。こんなことがまたあってはならない。日本がそうならないよう、若いパワーで粉砕してほしい。これが余命いくばくも無い老人の最後のお願いです。
2019年5月16日
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟(増本一彦会長)は15日、治安維持法による弾圧犠牲者への国家賠償法の制定を求めて46回目の国会議員への請願要請行動を行いました。全国42都道府県から過去最多の183人が参加しました。10代をはじめ若い参加者の姿も目立ちました。
要請前の集会で、増本会長が「犠牲者たちの『汚名を着せられたままにされたくない』思いを真正面から受けとめ運動をさらに前進させていく」と決意をのべました。
日常生活を描いた絵が「共産主義を啓発した」などとして逮捕され有罪とされた「生活図画事件」の弾圧被害者である菱谷良一さん(97)が北海道から参加しました。
菱谷さんは「特高は私を立派な主義者に仕立てあげるために偽りの自白を脅迫でつくり上げた」とのべ、過酷な弾圧を告発。共謀罪などの弾圧法が次々と作られる最近の状況について「若いパワーで粉砕してほしい」と呼びかけました。教員らが弾圧された「長野県2・4事件」の被検挙者、故立澤千尋さんの三女、三浦みをさん(74)も発言しました。
集会には、日本共産党の仁比聡平、山添拓の両参院議員と立憲民主党の衆院議員が参加し、あいさつしました。
参加者らは手分けして、議員を訪ね、請願の紹介議員となるよう要請。快諾した議員が数十人いたといいます。昨年は、113人の議員が紹介議員となりましたが、今年は会期末までに130人の紹介議員を目指すとしています。
2019年5月12日【政治総合】
老朽化を理由に廃止が検討されていた国立小樽海上技術学校が一転、来年閉校予定の小樽商業高校跡に移り、2年後に短期大学として存続することが決まりました。小樽市と独立行政法人海技教育機構が発表しました。
中学卒業者を対象に船員の養成を目的とする海上技術学校。全国に4校あり、1976年に現在の場所に移転した小樽校は、老朽化で耐震改修に30億円以上かかるとして、廃止対象にされました。
小樽市や離島航路を抱える自治体は「船員確保に逆行する」と強く反発。昨年7月、日本共産党の、はたやま和也前衆院議員・参院道選挙区候補は、菊地葉子道議らと現地を調査し、小樽市や羽幌町、天売(てうり)、焼尻(やぎしり)両島を結ぶフェリー会社を訪ねて要望を聞いて回り、国に要請しました。
入学生のほとんどが道内で、2018年度までの10年間で道内出身者は9割です。小樽市は「何としても小樽に残したい」と商業高校跡の施設利用を提案しました。
20年3月で閉校する小樽商高は、小林多喜二の母校です。この施設を道から取得、一部を海上技術短期大学校舎として提供。入学資格は中学校卒から高校卒になります。
「海員養成所として開設されてから80年の歴史を持つ小樽校。関係者からは“廃止されれば、道外から船員を探さなければいけない”との不安もあっただけに、存続の道が開けたことはうれしいことです」と語る、はたやま氏。「国が船員雇用を増やす事業を進めながら、老朽化を理由に廃止しようとし、自治体に負担を負わせることは厳しく指摘しなければなりません。国が責任を果たすよう引き続き求めていきます」と語っています。
2019年4月23日【文化】
戦前の洋画から戦後の現代美術へ。ふたつの時代を橋渡しした巨人、福沢一郎の大規模な回顧展が開催中だ。
福沢一郎の功績は、その表現の力量もさることながら、ヨーロッパのシュルレアリスム(超現実主義)をいち早く導入したことがあげられる。彼は1924年に渡仏。そこで古典とともに最新の表現に親しむ。1931年にパリから日本の第1回独立美術協会展に出品し、高い評価を得る。
福沢は本人も否定するように、厳密にはシュルレアリスムの表現とやや異なる。風刺の度合いが強めだからだ。本展は社会との関わりを基軸に、足跡を丹念に検証する。
福沢はシュルレアリスムの重要な要素であるデペイズマン――異なるもの同士が出会うことの違和感――を初期作で多用する。ただし、この違和感を美的な感興にとどまらない、社会風刺的おかしみ(ナンセンス)に昇華したところに特徴がある。状況説明に欠かせない写実的あるいはマンガ的な描写でなく、やや突き放した、無表情で非現実的な描法に徹している。そのため俗っぽさのないモダンな風格がある。この超然さは後年に受け継がれる。
彼の社会風刺は単なる諧謔(かいぎゃく)にとどまらず、時局批判に向かう。1936年に描かれた代表作《牛》は荒涼とした大地にたたずむ穴だらけの牛の姿だ。ここには、「満州」に大義のない虚無の植民地を築いた日本帝国への比喩がある。いわば象徴効果と印象操作で訴える手法だが、彼はこうした作品を幾つか手がけ、展示作《女》もそのひとつだ。
彼は共産主義には好意的でなかったようで、《美しき幻想は至る処(ところ)にあり》(1931年)にはイヤミがある。良くも悪くも超然的な知識人で、ヨーロッパのシュルレアリストのような政治参加とは無縁だった。だが、周囲には「左翼的な画家の卵」が集まったという。福沢絵画研究所からは杉全直(すぎまた・ただし)、山下菊二ら後進が育った。
そんな福沢は戦前の日本政府に目を付けられ、1941年に治安維持法違反で逮捕された。釈放されたものの、戦争画のような時局鼓舞の絵画を描くことを強いられた。
敗戦後、彼は《敗戦群像》を描きあげる。青空には解放感があるが、顔を持たない群像の肉体の堆積に虚無感も透けて見える。この抽象的なヒューマニズム的懐疑に彼の本領と限界が体現されている。
彼の戦後の足跡は多岐にわたっている。メキシコに取材し、アメリカの黒人差別に取り組み、日本の政治腐敗を告発し、神話的世界観の中で人間の業を見つめもした。
彼は絵画の構成力も巧みで、静物画《ひまわり》の技のさえは好例だ。しかしメキシコ作より後は緊張感を欠き、衰えも見られる。だが安穏にとどまらず、果敢に挑む姿にリベラル知識人のひとつの典型がある。
(美術・文化社会批評)
*5月26日まで、東京国立近代美術館 電話03(5777)8600(ハローダイヤル)
2019年3月18日
悲しげで、どこか優しいトランペットの音色が風にのって街に響きました。東京は神田神保町。歴史ある文化の発信地の一角に、まちの記憶をつなぐ新たなプレートが立ちました▼「軍国主義の時代、国民弾圧の治安維持法に反対した唯一の代議士。1929年3月5日夜、定宿の光榮館があったこの地で右翼暴漢の凶刃により、39歳の生涯を閉じる」。きのう除幕されたプレートに刻まれた文字。ここは、命をかけて反戦平和を貫いた山本宣治の終えんの地です▼「花を植えて世の中を美しくしたい」と夢見た心優しき青年は生物学者を志しました。しかし侵略に突き進む時代の激流のなかで、彼は労働者や農民の願いを背に国会の場に。力ずくで民を弾圧していった時の専制政治に立ち向かいました▼戦争や圧政にあらがう民衆の代弁者だった山宣。今年は非業の死を遂げてから90年、生誕130年の節目です。90回目の墓前祭が行われた京都をはじめ、脈々と遺志を継ぐ決意が各地で改めて▼国民の権利や自由を奪い、戦争する国づくりにまい進する安倍政権のもとで、いま私たちが山宣の生き方から学ぶことは尽きない。時代を逆戻りさせない力を結集させる大切さとともに▼「誰とも差別せずに接していた」。医療に携わる孫の山本勇治さんは、祖父は人を愛していたと。〽赤旗をかかげ3月の/嵐を衝(つ)きて進む―。社会の進歩を妨げるものとたたかう人びとを励まし、勇気づけてきた山宣の追悼歌。あとにつづく、われらを見守るように。
2019年3月18日
治安維持法に反対して暗殺された代議士・山本宣治の没後90周年・生誕130年となる今年、「山本宣治終焉(しゅうえん)の地記念プレート」が東京都千代田区神田神保町に設置されました。17日、東京山宣会主催で除幕・献花式が開かれました。
山本宣治(1889〜1929)は、性科学の普及と産児制限運動に取り組んだ生物学者・社会運動家です。第1回普通選挙で労農党から当選した代議士として、治安維持法改悪に反対して活動中、1929年3月5日、右翼暴漢に刺殺されました。
永島民男同会長は、「戦争法や共謀罪成立などに対する危機感を募らせる今だからこそ、山宣の生き方に学び、継承する必要があります」とあいさつ。遺族のほか、各地の山宣会からの代表らが参列し、献花しました。
式の後に行われた記念のつどいでは、荻野富士夫小樽商科大学名誉教授が講演。荻野氏は、山宣の治安維持法とのたたかいをたどり、「時代の激流の中、生物学を出発点に専門外の政治学、法学などを学び、社会はこういう方向に進んでいるという『大まかな進路』をつかみ取った山宣。同様に時代の荒波に生きる私たちにとって、山宣の生き方は指針となるでしょう」と語りました。
遺族を代表して山宣の孫の山本勇治さん(京都民医連九条診療所所長)があいさつしました。
2019年3月13日
産児制限運動から労農運動に踏み出した1925年の山本宣治は、その年施行されたばかりの治安維持法に対して「種を持つてきても育てる土地なくんば繁殖せず、種を亡ぼすとも種のとぶはコスモポリタン。百の大杉を殺し、百の治安維持法を発布するも危険思想の種はつきめえ」(講演用原稿メモ)とあるように、批判的ではあるものの、まだ直接の脅威は認識していない。大杉とは、23年、関東大震災の混乱の中で虐殺された大杉栄のことである。
しかし、26年1月、国内では治安維持法の最初の適用として岩田義道、野呂栄太郎ら学生たちが全国的に検挙され、河上肇らが家宅捜索を受ける京都学連事件が起きると、山宣も関連して家宅捜査を受けるなどその影が及びはじめる。
28年の普通選挙で労農党の衆議院議員となった直後、日本共産党員が一斉検挙される三・一五事件が起きた。労農党も結社禁止となるにともなって、官憲の圧迫は身辺に迫った。事件の関連で5月には京都で検束されるほか、9月には河上肇とともに京都地裁で予審判事による証人訊問(じんもん)を受ける。翌29年1月には山宣を代表とする労農同盟京都府準備会の20人が検挙されたが、おそらく議員ゆえに山宣自身の検挙は見送られていた。
山宣は、労農党解散後の新党準備会の活動とともに、三・一五事件犠牲者の救援運動に奔走した。政府は、最高刑に死刑を導入する治安維持法改正案を第55議会に提出したが、不成立に終わると緊急勅令という形で強行した。第56議会での緊急勅令の事後承諾を控え、治安維持法「改正」の本質を山宣は「これこそは日本に於(お)ける労農大衆の運動を根こそぎに締め付けようとする白色テラーの合法化だ」(「第五十六議会と闘ふ」)と鋭く見抜いた。
具体的には予算委員会の場で、各地の三・一五検挙における警察の拷問や不法監禁に対する糾弾、学生運動取り締り・「思想善導」の追及となって実践される。しかし、各地の演説会で「自分の言論があらゆる手段を以(もっ)て封じられている事」(『日本社会運動通信』29年3月11日)に加えて、議会でも委員会などでの発言を封じられた。
それでも本会議で発言の機会があるかもしれないと準備したのが、遺稿となった「治安維持法にたいする二つの態度」(『山本宣治全集』第5巻)である。同法制定と改悪の意図を「現在のブルヂョア的独裁政治遂行の目的のために計画されたもの」と指摘し、「資本家階級は、外に対する帝国主義戦争の武装をもつて、国内のプロレタリア党にもまた、当らせる必要に迫られた」と断じた。のちに小林多喜二が評論「八月一日に準備せよ!」(1932年8月)で述べる「戦争が外部に対する暴力的侵略であると同時に、国内に於いては反動的恐怖政治たらざるを得ない」を先取りするものといえる。
山宣はこの演説草稿のなかで、国体や私有財産制度、変革という治安維持法の根幹の法文の曖昧さを突いている。とりわけ、国体=天皇制という発想を逆転させ、「国体こそは、その国土の中にある人民である。したがつて、人民の多数が即ち、国体の内的概念であり、要素である」としているのは瞠目(どうもく)に値する。
最高刑を10年から死刑に引き上げることについて「今後ますます兇暴(きょうぼう)なる弾圧に曝(さら)さうといふ意図に過ぎない」と予測しながらも、もう一つの改悪であった目的遂行罪への言及がないのは、それがテコとなって猛威を振るうのは1930年以降だからである。
治安維持法が悪法である由縁は、目的遂行罪の多用や再度の改悪につながる拡張解釈(それは社会民主主義や自由主義・民主主義、宗教にまで弾圧対象を拡大する)にほかならないが、同時に山宣が断言するように「資本家・地主の独裁政治遂行」に抵抗する変革者・運動の弾圧そのものにあった。
山本宣治 1889〜1929。生物学者・社会運動家として性科学の普及、産児制限運動にとりくむ。労働・農民運動に入り第1回普通選挙で労働農民党から当選。治安維持法改悪に反対して活動中、右翼に刺殺された
おぎの・ふじお 1953年生まれ。小樽商科大学名誉教授。『特高警察』『日本憲兵史』『よみがえる戦時体制』ほか
2019年3月6日
戦前、治安維持法に反対し右翼に暗殺された労農党代議士・山本宣治(山宣)の命日となる5日、京都府宇治市の善法墓地で、90回目の墓前祭が行われました。山宣祭実行委員会が主催。
生誕130年、没後90年となる今年、侵略戦争と治安維持法反対に命を賭してたたかった山宣の遺志を継ぎ、安倍政権の9条改憲、国民生活破壊を許さず、統一地方選、参院選で市民と野党の共同を進め、安倍政権退陣へ力を尽くすと「墓前の誓い」を確認しました。
日本共産党を代表して、水谷修宇治市議・府議候補(宇治市・久世郡区)が追悼の言葉を述べ「あなたがたたかった革新の伝統を受け継ぎ、府内で共産党が地方議員の議席第1党を占めるまでになった。今年の選挙を勝ち抜き、安倍政権を退陣に追い込んだと墓前に報告できるよう、力を尽くす」と決意を語りました。
本庄豊実行委員長があいさつ。原田完・治安維持法国賠同盟府本部会長(日本共産党府議)、辺谷本圭祐・民青同盟府常任委員、北村信二・年金者組合宇治久御山副支部長、川原一行・国民救援会府本部会長、池内光宏・新社会党府本部委員長が追悼の言葉を述べました。
山本家を代表して、山宣の孫の山本勇治さん(京都民医連九条診療所所長)があいさつしました。
2019年3月27日
東日本大震災当時、政府の地震調査研究推進本部(地震本部)で長期評価部会の部会長を務めていた地震学者の島崎邦彦さん(73)。いま自ら原発事故裁判の証人に立つなど、東日本大震災前に地震・津波がどう予測され、防災に生かされなかったのかを問い続けています。なぜかを聞きました。(三木利博)
長期評価部会の部会長として、2002年に、東日本大震災が起きた福島沖を含む三陸沖北部から房総沖にかけての範囲で、マグニチュード(M)8クラスの津波地震が30年で20%程度の確率で発生すると予測した「長期評価」をまとめました。しかし、長期評価は生かされませんでした。この経験から、東日本を襲った大地震と津波は「想定外どころではない」と指摘しています。
島崎 3・11では2種類の津波が同時に発生しました。一つは海溝付近の津波地震による非常に高い津波、もう一つは広い震源による貞観(じょうがん)津波(869年)型のもので、海岸から離れた地域まで押し寄せる津波です。前者は02年7月に公表した「長期評価」で警告した津波でした。後者は「長期評価」の第2版として11年3月9日に公表予定だったのが、電力会社と地震本部事務局の秘密会合などによって延期され、警告が間に合わなかった津波です。
震災後の原発事故に関する政府や国会の事故調査委員会により、前者については敷地を超える高さ15・7メートルの津波が、福島第1原発を襲う恐れがあると08年に計算していながら、東京電力は何もしなかったことが判明しました。後者の公表延期については、詳細が明らかになりつつあります。救われたはずの命が救われなかった。こんなことは二度と起こらないようにしなければなりません。そのため自分でも調べて民事・刑事裁判で証言しています。
長期評価の結論を骨抜きにしたり、発表の時期を遅らせたり、津波対策を葬ったり、政府も電力会社も島崎氏らがまとめた結論をおとしめる事態が相次ぎました。なぜなのか、徐々にわかってきました。
島崎 長期評価が生かされなかったのは福島の原発が困るからです。敷地を超える津波を防ぐために多大な費用を要します。これらは東電の文書などでわかってきました。対策の引き延ばし作戦でした。津波堆積物の調査までして、最終的に対策する必要がないというところまで画策しようとしていました。
内閣府の中央防災会議(首相が会長)の事務局からは、長期評価には「限界がある」と文章を追加するなどの動きがあったので、私は反対しました。中央防災会議は、どういう地震に備えるかを考える時に非科学的な予測で長期評価を無視しました。長期評価は「国民や防災関係機関などの具体的な対策や行動に結びつく情報」で、原発はそれより一段と厳しいものにしないといけない。原発を動かしたい側からみれば、決まったら逃れようがないと必死だったに違いありません。でも当時、私は相手の正体を知らなかったから、なぜごちゃごちゃいってくるのかわからなかった。国は、自分たちが間違っていたと責任を認めるべきです。ちゃんとしないと同じ間違いを繰り返します。
11年の長期評価第2版の公表時期も延期されました。2月に事務局からメールが来て3月には公表しないと(実際の公表は11月)。3月の地震本部の会合は議題が多いからという理由でしたが、会議になったら議題が多いどころか早めに終わってしまい、違和感を覚えています。その一方で、事務局は3月3日に電力会社側に説明して、長期評価の修正案まで作っていたのです。私が何かしようと思っても、すでに決まっていたことが最近わかってきました。
島崎さんは刑事裁判の法廷に立って、長期評価に基づいて対策が取られていれば「かなりの命が救われただけでなく、福島原発事故は防げたと思う」と声を詰まらせて証言しました。
島崎 あの時、津波の情景が目に浮かんでしまったのです。被害を受けた現地を知っているんです。02年よりは後だったと思いますが、学生を連れて東北地方に被害をもたらした貞観津波の津波堆積物調査を仙台市の海岸地域でやったことがある。海岸付近の平らな土地に家がたくさん建っており、学生に「この辺まで(貞観)津波の堆積物がある。大変なことだね」と。テレビで3・11の津波の映像を見ると、何が起きたか、身を置くことができるんです。
救えるはずの命が救われなかったことに対する責任の一端は、地震学者である私にあります。西日本に被害をもたらした宝永地震(1707年)の津波の時にも、「亡所」「欠所」といって、集落全体がなくなった。3・11の前から、なんとかしなくちゃいけないと思っていました。地震学は人命と直接かかわることがあるのです。そういう意味で責任がある。
12年から原子力規制委員会の委員長代理を2年間務め、地震・津波分野の審査を担当しました。その体験を踏まえ、原発を推進する勢力の動きに警告を発しています。
島崎 表面ではきれいごとを言っていますが、原発を推進している人は安全意識が低い。全部とはいいませんが、原発が危険だという意識がない。審査のあらゆるところでといっていい。原発がどこまで耐えるかの審査の申請書類を見ると、あらゆる計算をして1ガル(ガルは、揺れの強さを表す加速度の単位)でも小さくしたいと。あきれました。こすっからい。結局、工事になるべくお金をかけずに審査を通したい。最終的に会社の経費を減らしたいのが彼らの使命であって、安全性なんてどこにもない。
(裁判で津波に問題意識がないなどと述べている東電旧経営陣に)原発を運転する資格がないと思います。東電は地震学の専門家が集まる国の機関で決めたことを尊重すべきです。自分たちが資金を提供している学会を使って時間延ばしやごまかしをしようとしただけです。
原発を動かしたい勢力は強大で巧みです。若い人にはそれを伝え、取り込まれないようにしてほしい。3・11でたくさんの人生が途中で切れた。失われた命を取り戻すことはできません。私ができることは、再びこのような悲劇を繰り返さないようにすることです。そのために少しでも力を出せるところがあれば、何が起きたかをみんなに知ってもらうことが大事だと思っています。そこから始めないといけない。
(3・11の教訓は)自然はごまかさないということ。何の駆け引きもしないし、1厘たりともまけてくれない。そういう自然があると学ばなくてはいけません。
しまざき・くにひこ 1946年生まれ。東京大学名誉教授。日本地震学会会長、地震予知連会長などを歴任。
2019年2月27日
安倍政権は、沖縄・辺野古の米軍新基地建設をめぐる東京新聞・望月衣塑子記者の記者会見での質問を「事実誤認」と決めつけ、内閣記者会に排除を申し入れるとともに、閣議決定まで行いました。かつてない、あからさまな言論弾圧をどう見るか。識者に聞きました。(荻野悦子、内藤真己子)
今回の一番の問題は、記者が事実でないことを言っているかのようにして、事実上、記者会見から排除しようとしたということです。
政府の発表が事実かどうかを聞くのは記者の仕事です。権力の監視こそが、ジャーナリズムです。
記者に対する攻撃は、森友問題以降、安倍政権の疑惑の全容を明らかにすることが求められているなかで起きました。
官邸は「事実に反する質問」があると内閣記者会に申し入れています。政府の出したもののみが事実であり、それ以外の事実は認めないという姿勢です。政府とメディア各社、記者の言い分が違うことがあるのは当然です。事実の認定権を政府が独占しているかのようにふるまうのは、政府の在り方として非常に危険です。
もうひとつの問題は、これがハラスメントだということです。
官房長官の直下の公務員が連日、意図的に、特定の記者の質問を1分間に何回も「質問は簡潔に」といって妨害する。権力による女性ジャーナリストへのハラスメントだという点で深刻です。
1人をスケープゴートにして威嚇し、言いたいことを言わせないようにする今回のような手法は、報道の自由に対して、重大な萎縮効果をもたらしています。
この事態に沈黙し、正常化しようとしない記者会の体質も問題です。加盟社全体が、「日本のジャーナリズムはそれでいいのか」と問われています。
記者クラブ自体が閉鎖的だということも根っこにあります。記者会見をなぜ報道官が仕切っているのか。政府から情報をとることが自己目的化しているのでしょう。一記者だけではなく、すべてのジャーナリストにかかわる問題だととらえて、報道各社の横断的な動きがほしいですね。
2019年2月27日
首相官邸が記者クラブに出した望月記者排除の要請文。世界の民主主義国家で、あんなことがまかり通るのは、おそらく安倍政権下の日本だけではないでしょうか。最近は弱くなったがそれでもアメリカなら、キャノン・オブ・ジャーナリズムといって、右も左もなくメディアが砲列を敷き権力を批判します。
いま進行しているのは、政権が認めたこと以外は「事実誤認」で、質問を繰り返すのは「問題行為」だという言論弾圧です。しかもクラブへの申し入れ文書という明確な痕跡を残して白昼堂々行われた。ところがクラブは毅然(きぜん)とした対応をせず手をこまぬいている。官邸の要請から1カ月以上たって雑誌が暴露し、新聞労連が抗議声明を出しました。
政権は批判にさらされると菅義偉官房長官が国会答弁で開き直り、閣議決定して強行突破し既成事実化しようとしている。内閣記者会をはじめ、マスコミ各社は文書や閣議決定の撤回を求めて立ち上がるべきです。
安倍晋三首相は2001年、内閣官房副長官だったとき従軍慰安婦問題を扱ったNHK番組に介入し内容を改変させました。朝日新聞が暴露し、内部告発がありましたが結局、うやむやになってしまっている。それで味をしめたのだと思います。
第2次安倍政権下、2014年の衆院選挙で、当時自民党の筆頭副幹事長だった萩生田光一幹事長代行は、「在京テレビ各社 編成局長 報道局長」あてに「選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い」を出しました。自民党記者クラブに所属する各局の責任者を呼び出して手渡しました。応じなければ情報を出さないという圧力です。ところが個別に呼び出して手渡したと報じたのは当初、西日本新聞だけ。当事者のテレビ各局は沈黙し、NHKは文書の存在すら「ノーコメント」でした。
その総選挙の後、安倍政権が矢継ぎ早に行ったことは特定秘密保護法、戦争法と呼ばれた安保法制、共謀罪、カジノ法の強行でした。報道機関への圧力や弾圧が何をもたらすかは明らかです。
2019年2月27日
国民の「知る権利」や取材・報道の自由は、言論・出版、表現の自由を定めた憲法21条で保障されています。ですから、記者の質問を「問題行為」とし、記者排除を要請する文書を内閣記者会に出した安倍政権の行為は憲法上許されません。安倍政権は要請文書や関連する閣議決定を直ちに撤回するべきです。
取材の自由は国民の「知る権利」に応えるものです。ことは東京新聞の望月記者一人の問題ではなくメディア全体にかけられた抑圧で、「知る権利」を侵害された国民全体に突き付けられた課題です。
安倍政権は自衛隊の南スーダン派遣で日報を隠し、森友問題では公文書を改ざんしました。その政権が言論弾圧に乗り出したのは言論統制を狙っているからです。民主主義社会ではさまざまな情報を自由に流通させ、そのうえで政府に説明責任が求められます。必要な情報をきちんと伝えていかないと民主主義が成り立たない。民主主義が危機に瀕(ひん)しています。
日本には戦前、治安維持法をはじめ出版法や新聞紙法という言論を弾圧する法律があり、政府の大本営発表によって言論統制し、侵略戦争に突き進んだ歴史があります。それは言論・表現の自由に国家の論理で制限をかけた明治憲法のもと、正当化されていました。
その反省を踏まえた日本国憲法では21条で、基本的に人権と人権がぶつかった場合の調整以外に言論・表現の自由が保障されました。ところが自民党の改憲案には、国家の論理で表現の自由を規制する規定が盛り込まれています。それは国家権力を縛る現行憲法の立憲主義を破壊するものです。
安倍政権はすでにこの発想で国民の権利や自由を制限しています。特定秘密保護法や共謀罪、盗聴法などがそうです。今回の言論弾圧もそうした国家観に基づくものです。大きな流れで言えば、憲法9条の明文改憲による戦争する国づくりと一体のものと考えます。平和と民主主義のため、市民が立ち上がるべきときです。
2019年2月5日
日本の植民地支配下にあった朝鮮で1919年3月1日に起きた三・一独立運動から今年、100年を迎えます。それはどんな運動だったのか、今日に何を問いかけているのか―。千葉大学の趙景達教授(朝鮮近代史・近代日朝比較思想史)に聞きました。
(伊藤紀夫)
―この運動はなぜ起きたのでしょうか?
それは日本の植民地支配、当時の武断政治があまりに過酷だったからです。1910年の韓国併合条約によって、大韓帝国は滅亡し、日本帝国に併合されました。朝鮮総督は、天皇直属で、行政・立法・司法・軍事など全権力を行使でき、絶対的権力者として君臨していました。全土に憲兵警察が配置され、朝鮮は兵営半島化し、笞刑(ちけい=むち打ちの刑)も行われました。徴税や賦役は王朝時代よりはるかに過酷になりました。
三・一独立運動の前年、日本では米騒動が起こります。朝鮮では以前にも増して雑穀粗食を強いられ、日本以上に食糧事情は厳しいのに、騒動はほとんど起こりませんでした。
ところが、三・一独立運動のときは、全国で約110万人(3〜4月)が立ち上がり、軍隊や憲兵・警察などによる流血の弾圧、虐殺、拷問で多数の犠牲者を出しました。民族の大義があったから、恐ろしい憲兵警察支配の下でも民衆は立ち上がったのです。
―どんな運動だったのでしょうか?
天道教、キリスト教、仏教の指導者からなる、いわゆる33人の民族代表が3月3日、大韓帝国の皇帝だった高宗の国葬の日に独立宣言をする計画でした。指導者たちは第1次世界大戦の戦後構想としてウィルソン米大統領が発表した14カ条の平和原則、民族自決主義に期待し、同年1月から始まったパリ講和会議に朝鮮の独立を訴えるため、独立宣言しようとしたのです。
ところが、民衆は、高宗の毒殺説が広まる中、その死を悲しみ、人口25万人の京城(現ソウル)は50万人にまで膨れ上がります。そのため、民族代表たちは民衆の動きに恐れをなし、計画を2日前に前倒しします。
学生や民衆は、パゴダ公園(現タプコル公園)に集まりましたが、指導者たちは姿を見せません。彼らは料理屋で独立宣言書の朗読もせずに祝杯を挙げようとした際、事前に自首を告げていたことから官憲に逮捕されたのです。そのため、独立宣言は学生が朗読し、彼らの指導の下に「大韓独立万歳」の示威行進が始まりました。人々は朝鮮がすでに独立したと思い、「万歳」の熱狂は祝祭というにふさわしいものでした。当時上京した19歳のある若者は、陸軍に入りたくて身体検査に来たのに、この運動に参加して捕まってしまい、後に「独立になればうれしい」と言っています。民衆は、「独立万歳」を叫ぶ中で、互いが朝鮮民族であることを実感し喜びをかみしめたのです。
―民衆はどうたたかったのでしょうか?
国葬後、京城に集まった人々が続々と帰郷し万歳運動の様子を伝えるにつれ、運動は各地に広まっていきました。当初民衆は学生や宗教指導者の指導を受けていましたが、次第に自律的な運動をしていきます。5日に1度ある市日に運動が起きるケースが多いのですが、民衆の運動は共同体や民衆固有の文化を背景に行われました。農楽を奏でた行進や松明(たいまつ)行進、山に登って万歳を叫ぶ山呼(さんこ)などです。
武断政治はサーベル行政です。官吏や学校の先生もサーベルをぶら下げ、集会の自由も許しませんでした。だから、「独立万歳」を叫ぶのは大変勇気のいることでした。共同体的に万歳の強制が行われるのが普通でしたが、ひとたび「万歳」を叫ぶや、民衆は反乱=祝祭の主役となり、熱狂のうちに臆病風は吹き飛んでいきました。
憲兵警察や軍隊の弾圧は過酷でした。三・一運動後、上海にできた大韓臨時政府は、死者約7500人、負傷者約1万6000人と見積もっています。虐殺も多く、水原郡の堤岩里(チェアンニ)で二十数人のキリスト教徒と天道教徒が教会に閉じ込められて射殺され、教会もろとも焼かれる事件も起こりました。拷問も過酷で、梨花学堂学生の柳寛順(ユ・グァンスン)は16歳の若さで獄死しました。
植民地支配を嫌悪するが、逆らったら、生活が破綻するという閉塞(へいそく)状況の中で、民衆は生活主義に徹しながらも、いざ事が始まったら、心底から「独立万歳」を叫ぶ。それは、おずおずとした臆病なナショナリズムともいうべきものでしたが、そうした民衆のナショナリズムこそが、知識人はもとより学生などよりも、かえって先鋭なものになったということができます。そういう民衆の精神こそ、三・一精神というべきものではないかと私は思っています。
―この運動が、その後に残したものは?
1945年8月15日、日本の敗戦を告げる天皇の玉音放送が流されるや、1時間後にはソウルの街は白い群衆に埋め尽くされました。白は朝鮮民族の象徴です。日本は朝鮮で色服を奨励し、朝鮮人は白い服を着られなくなった。三・一運動から26年後、独立の象徴である白服を着て、もう一度、誰にも強制されることなく立ち上がり、「朝鮮独立万歳」と叫んだのです。
1894年の日清戦争の際に官軍や日本軍にたたかいを挑んだ甲午農民戦争、1905年ごろから起きた義兵戦争、三・一独立運動などの民衆運動は、韓国の民主主義の基礎にあります。朴槿恵(パク・クネ)大統領(当時)の不正追及・退陣を求めるチョップル(ろうそく)行進は、民乱や三・一運動の作法を受け継いだものです。
―韓国大法院(最高裁)による戦時中の元朝鮮人徴用工への賠償判決や日本軍「慰安婦」問題の根底には、植民地支配についての歴史認識がありますね。
そうですね。日本は天皇の詔勅で“朝鮮の独立のため”と称して日清戦争と日露戦争を起こしましたが、その結果は朝鮮の保護国化でした。保護国とは外交権をはく奪され主権を喪失した国のことで、植民地と同義です。朝鮮はだまされて植民地になったのです。
ところが、日本政府はちゃんと反省せず、心からの謝罪をしたとは思えません。1965年の日韓基本条約のときも、植民地支配の歴史的事実を認めず、経済協力の枠組みで3億ドルを出しましたが、それは賠償金ではなく、被害者個人の請求権は消滅していません。植民地支配についての心からの反省と謝罪をしない限り、この問題を解決することはできません。
隣国なのに、歴史教科書では日本史でも世界史でも朝鮮の記述は少なく、断片的です。日本が過去にやってきたことがわかってしまうので、触れたくないのでしょう。知らないことは罪です。歴史教育をちゃんとしない限り、相互理解は生まれないし、真の友好関係は築けないと思います。
日本の朝鮮植民地支配(略年表)
■武断政治=憲兵警察統治(1910年〜19年)
1910年 韓国併合条約 大韓帝国は滅亡し、朝鮮は日本帝国の一地方に
朝鮮総督府がおかれ、本格的な植民地支配が始まる
11年 朝鮮教育令(第1次)公布
12年 朝鮮民事令・朝鮮刑事令・朝鮮笞刑(ちけい)令公布
19年 高宗死去(1月) 三・一独立運動が起こる(3月)
■「文化政治」(19年〜31年)
19年 斎藤実が第3代総督に就任 「文化政治」の実施を宣言
憲兵警察制度は廃止されたが、普通警察を増員・強化
■植民地ファッショ体制(31年〜45年)
日本の中国への侵略戦争に伴い、軍事力・警察力による統制強まる
38年 陸軍特別志願兵令公布
朝鮮教育令改定(第3次) 朝鮮語教育を廃止
40年 「創氏改名」 朝鮮人の姓名を日本式に変える
43年 陸軍特別志願兵臨時採用施行規則(学徒出陣)公布
44年 徴兵制実施
45年 日本が無条件降伏を受諾 朝鮮解放
チョ・ギョンダル 1954年、東京都生まれ。86年、東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。現在、千葉大学文学部教授。著書は『異端の民衆反乱』『朝鮮民衆運動の展開』『植民地期朝鮮の知識人と民衆』『近代朝鮮と日本』『植民地朝鮮と日本』など。
2019年2月21日
「蟹工船」や「党生活者」などの小説で知られる日本共産党員作家、小林多喜二の墓前祭が没後86周年の命日の20日、北海道小樽市で行われました。
多喜二が眠る奥沢墓地。道内はじめ福岡、大阪、名古屋などから70人が雪を踏みしめて訪れ、赤いカーネーションを供えました。
小樽多喜二祭実行委員会の荻野富士夫共同代表(小樽商科大学名誉教授)は、多喜二を虐殺した特高を告発したいと遺族が弁護士に相談していたと話しました。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟道本部の宮田汎(ひろし)会長は「5月の国会請願で国に謝罪を求めていく。侵略戦争反対を貫いた多喜二の思いを伝え、先人の無念を晴らしたい」と語りました。
日本共産党の、はたやま和也前衆院議員は「市民と野党の共闘で安倍政権を倒す活動に力を尽くします。墓前に選挙勝利の報告ができるよう多喜二の命がけのたたかいに心を寄せ、頑張り抜く決意です」と表明しました。
初めて参加した宮城県の20代女性は「多喜二の小説を多く読んではいませんが、今日話された内容はどれも興味深いものでした。多喜二を改めて学んでみたい」と話します。
記念のつどいには、200人が参加。佐藤博文弁護士が「日本を再び戦争する国にしてはならない」と題して講演しました。
2019年2月20日
戦前の日本共産党の指導者で理論家の野呂栄太郎の没後85年碑前祭と記念講演会が19日、北海道長沼町で開かれました。
「現代と野呂栄太郎の時代」と題して講演したのは野呂のおい、横路孝弘元衆院議長。「小さい頃、お寺に行くと、親戚が集まっていました。それが野呂の納骨だったのではないかと思います」と話し始め、「骨箱は針金でぐるぐるに巻かれていました。所持金から火葬代も引いてあったと親戚が怒っていたのを覚えています」
横路氏は、戦争をするため共謀罪や秘密保護法がつくられ、それは戦前と同じと指摘。「安倍政権そのものが危険です。野呂の生きた時代を二度と繰り返してはいけない」と警鐘を鳴らしました。
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟道本部の宮田汎会長は「2月19日は、2016年に北海道5区補選で初めて市民と野党共闘の調印をした日でもあります。統一戦線を考えていた野呂もきっと喜んでいると思います」とあいさつしました。
高校3年生の男子生徒(18)は「いままで治安維持法の学習はしましたが、野呂についてはほとんど知りませんでした。話を聞けてとても勉強になりました」と語りました。
齋藤良彦長沼副町長があいさつしました。
これに先立ち、札幌市の平岸霊園で墓前祭が行われました。
2019年2月8日
戦争が廊下の奥に立つてゐた
この句は2015年夏、安全保障関連法が強行採決されようとしていた頃、同法に反対する意見広告に引用された。渡邊白泉はこの句の作者である。
◎◎
白泉は1913年東京生まれ。大学生の時に水原秋櫻子(しゅうおうし)の俳論に啓発されて作句を始める。1930年代はじめ、俳壇では『ホトトギス』の「客観写生」「花鳥諷詠(ふうえい)」という作風が支配的であったが、若い俳人たちはそこに息苦しさを感じ、より自由な新しい俳句を目指した。それが新興俳句運動である。新興俳句には若い作者が集まってきた。というのは当時の軍国主義の下で多くの文学・芸術が弾圧される中、若者たちにとって俳句は最後に残された文芸だったからである。白泉もそこに加わり、仲間たちと共に俳句を革新するべく、連作、モダニズム、口語などに挑戦し、さらに無季作品を作った。白泉は新興俳句の中でもとりわけ新鮮な作風を持つ。
街燈は夜霧にぬれるためにある
鶏(とり)たちにカンナは見えぬかもしれぬ
生(せい)続き雪ふる街に立ちどまる
これらには現代人としての鋭い感性と、それゆえの不安や寂寥(せきりょう)が滲(にじ)んでいる。また、白泉はみずみずしい恋の句を作った。
雪の日のそばかすの子を恋ひそめし
一本の道遠ければきみを恋ふ
日中全面戦争が始まると、新興俳句の作者たちは戦争をいかに描くかに苦心した。白泉は都会における戦時色の現れを描いた。かつて昭和の初め、街ではモダニズムが謳歌(おうか)されていたが、同戦争の開始後、街は急激に戦時色を強めてゆく。その様(さま)を白泉は見つめた。
銃後といふ不思議な町を丘で見た
憲兵の前で滑つてころんぢやつた
提燈(ちょうちん)を遠くもちゆきてもて帰る
また、新興俳句運動は戦争を主題とすることにより、無季俳句を確立しようとした。「季節」に代わる大きな主題として「戦争」を見つめた。白泉の〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉はそうした無季作品追求の達成である。何時(いつ)とも何処(どこ)とも知れぬ廊下の奧の闇に、戦争という底無しに不気味なものが浮かび上がっている。
◎◎
1940年、新興俳句運動は治安維持法により弾圧された。白泉も検挙にあい、特高警察に連行される。だが、白泉は明確な反戦思想を持っているわけではなかった。白泉は一市民として、日常の中で感じる戦争への不安や違和感を見つめ、鋭く形象化した。戦争は怖い――そうした一市民の自然な心情さえも、戦時下ファシズムは許さなかった。白泉は起訴猶予となるが、執筆禁止を言い渡される。その後徴兵されて海軍に入隊し、そこでも秘(ひそ)かに作句した。
夏の海水兵ひとり紛失す
戦後、白泉は沼津で高校教員として後半生を過ごす。俳壇とは縁を切った。
気の狂った馬になりたい枯野だった
わが頬の枯野を剃(そ)ってをりにけり
など、孤独と鬱屈(うっくつ)を湛(たた)えた作品がある。白泉は教え子から、なぜ俳人として活動しないのかと問われて、今後また弾圧を受けるのが怖いからだ、と答えている。だが、その一方で、湧き上がる作句意欲を止められず、一人で作句し続けた。その矛盾を抱えて後半生の白泉は生きた。それは弾圧の傷を抱え続けることであった。
わたなべ・はくせん 1913〜69年。新興俳句を代表する一人。戦前は『句と評論』『広場』『京大俳句』『天香(てんこう)』などで活躍。京大俳句事件において弾圧される。戦後は俳壇から離れ、静岡県沼津市立高校の教員として過ごす。没後『渡邊白泉全句集』刊行
いまいずみ・やすひろ 1967年群馬県生まれ。俳人。「円錐」所属。泉句会代表。「エリカはめざむ――渡邊白泉の沼津時代」「地獄絵の賦――地獄絵から戦火想望俳句へ」など新興俳句に関する論文多数
2019年2月2日
告示まで2カ月を切った統一地方選と7月の参院選で日本共産党の躍進を勝ち取ろうと、党京都府委員会は1日、京都市内で小池書記局長を迎えて大演説会を開きました。小池氏が、京都府議選で過去最高の峰を築き、京都市議選で第1党となる躍進を勝ち取るとともに、参院選の比例で井上さとし参院議員をはじめ7人全員の当選、京都選挙区(改選数2)で倉林明子参院議員の再選で「“安倍政治サヨナラ”の選挙にしよう」と訴えると、会場を埋めた聴衆から盛大な拍手が湧き起こりました。
京都府議選・市議選の候補者が登壇し、かみね史朗府議団副団長、加藤あい市議が決意を表明しました。
井上議員は「被爆2世として核兵器のない社会をめざす。京都市の自衛隊への(18歳、22歳の)個人情報提供や安倍9条改憲を許さない」と訴え。倉林議員が「安倍政権の偽造は底なし。消費税増税の根拠も崩れた。共産党が伸びてこそ政治が変わる。定数2で勝ち抜く」と表明しました。
思春期アドバイザーのあかたちかこさん、同志社大学大学院の岡野八代教授、フリージャーナリストの守田敏也さんが共産党への期待を表明しました。
小池氏は、この日の代表質問で毎月勤労統計の不正問題を追及したことに触れて、「ウソのない、当たり前の政治を実現するため、国会で徹底追及する」と表明しました。
府政に関わって、安倍暴走政治が持ち込んだ北陸新幹線の延伸に巨費を投じるのではなく、暮らし・福祉の予算の充実が必要だと強調。京都市政で、ホテルや民泊の建設ラッシュで街並みが壊される下で、党市議団が「民泊問題の見解と呼びかけ」を発表し、市民と共同した運動を前進させていると語りました。
小池氏は、戦前、帝国議会で治安維持法に反対しテロに倒れた山本宣治や「革新自治体」の先頭に立った蜷川虎三元府知事らを生み、戦争とファシズムとたたかってきた京都の歴史が、昨年4月の府知事選での大健闘、大山崎町長選の勝利へと前進していると述べ、「安倍内閣が改憲を狙うもとで、歴史の局面で審判を下してきた京都でこそ底力の発揮を」と呼びかけました。
2019年1月13日
近年、欧米諸国では、反移民や反イスラムを掲げる右翼的政治勢力が支持を伸ばしている。彼らは、「ポピュリズム」と評されることもあるが、むしろ「排外主義」や「自国第一主義」といったほうが、より正確にその本質をとらえることができるだろう。
福祉削減の中で
では、なぜ近年になって排外主義的な主張が政治的な支持を集めるようになったのか。新川敏光編『国民再統合の政治』(ナカニシヤ出版・3600円)で紹介されているイギリスとオーストラリアの事例からは、その一つの背景として、福祉国家の危機と揺らぎがあることがわかる。
両国では、1990年代以降、権利としての福祉の給付が後退させられ、福祉受給者にたいして就労などの義務を果たすことが求められるようになった。そうしたなかで、社会にたいして経済的に貢献できるかどうかという基準で移民を選別する傾向が強まっているという。さらに、全般的に福祉が削減されるなかで、移民向けの予算があるならば自国民向けに回すべきであるという主張が各国で広がりつつある。
また同書では、スウェーデンとドイツを例に、排外主義的な右翼政党がどのように支持を集めるようになったかが考察されている。そこから見えてくるのは、自国民優先の福祉や雇用を重視し、そこから移民を排除しようとする「福祉排外主義」を掲げる右翼政党の姿である。そうした主張の巧妙さによって、排外主義への世論の支持が着実に広がっているのである。
イスラムの排除
今日の排外主義の巧妙さはそれだけではない。樽本英樹編著『排外主義の国際比較』(ミネルヴァ書房・5500円)では、欧州諸国で広がる「イスラム批判」が、文化的排外主義という特徴をもつことが明らかにされている。
たとえば、共和主義的な伝統を掲げるフランスでは、民主主義・男女平等・表現の自由などの普遍的な理念がもちだされ、それらの理念とは相いれない存在としてムスリムへの排除が正当化されている。
ドイツでも、イスラム文化は後進的で暴力的であり人権や民主主義といった西洋的価値観になじまないという論法でイスラム批判が始まり、最近ではユダヤ・キリスト教的伝統やドイツ人の血統といった保守的な観念がムスリム排除の論理に加わっているという。
こうした文化的排外主義は、かつて特定の人種や民族を「劣った」存在とすることで奴隷制や植民地支配を正当化した露骨な人種差別主義と比べて、より「洗練」されており、社会的な支持を得やすい。
また、アメリカやイギリスを中心に、「テロとの戦い」以降、新たに安全保障と治安維持という観点から移民や外国人にたいする規制の強化が各国で行われている。しかし同書も指摘するように、ムスリムをはじめとする移民や外国人を社会の脅威とみなして排除を強めることは、テロなどの過激主義をさらに誘発し、そのことがひるがえって社会の排外的雰囲気をより強化するだけであろう。
中国・韓国に対する否定的な感情が高まっている日本も排外主義と無関係ではない。異なる文化をもつ人びとがいかにして互いに尊重しあい共生していくのか、日本の課題でもある。
二宮元(にのみや・げん 琉球大学准教授)
2019年1月1日
「この5年間、毎月9日には憲法9条を守る署名活動を続けてきました。一度も休んだことはありません」―。上田隆さん(93)=和歌山県湯浅町=は、6年前の5月3日から湯浅九条の会で署名活動をはじめました。66回目の昨年12月9日も、スーパー前で取り組みました。
戦争の体験
しょうゆ発祥の地である湯浅町は海に面した歴史情緒あふれる町。「今日は寒いから、人が少ない」と上田さん。身につけている「平和憲法を守る」と書かれた白いタスキは、自筆だと笑顔で語ります。
「戦前、戦中、戦後と生きてきた者として、9条は変えずにそのままにしておいてほしい。倒れるまで憲法を守る活動を続けていきます。国民の意思も意見も無視した安倍政権の憲法改悪は断じて許さない」
上田さんは1925年に、同町で生まれました。少年時代は戦争真っただ中、食べ物も配給制で大変でした。当時の日本は治安維持法の下、言いたいことも言えない時代だったことが強く心に刻まれていると言います。
「たとえ戦争反対と思っていても、絶対に言えなかったのです。周りで誰が聞いているかもわからず、捕まって殺されることもある時代でした」
18歳で旧制中学校を卒業し、湯浅町のすぐ隣の広川町で国民学校初等科の先生になりました。国民徴用令の下、中学を卒業したらどこかで働くという時代でした。「戦争で、男性の先生がほとんどいなくなってしまいました。私はその時百姓をしていましたが、そんなとき知り合いの校長先生から、先生として来てほしいと誘われました」
その後、徴兵検査を20歳で湯浅町で受けます。45年6月末、大阪駅前に関西から約500人の若者が幹部候補生として集められ、特別列車で青森県弘前市に向かい、弘前の陸軍部隊に入隊しました。「入隊時は、銃も1人一つ無いような状態でした。ひたすら無線機の扱いや空襲からの避難訓練を受ける日々を送っていました」
通信兵だったため、ポツダム宣言受諾もすぐ知ることができました。「敗戦を知ったときは『やれやれようやく終わった』と思いました」
校長として
終戦直後の3年間は農業に携わっていましたが、その後、以前勤めていた小学校から声がかかり、先生に復帰。58歳まで小学校の教頭を18年間、校長を4年間務めました。一貫して子どもたちに戦争の悲惨さや、平和憲法の大切さを語ってきました。「小学校で校長をしていた時の教え子たちも、この署名活動に来てくれたこともあります。平和憲法を守りたいと語ってくれました」。現在は、高校生たちに自身の戦争体験を語り継ぐ活動も続けています。
上田さんと活動してきた岩本多賀子さん(70)は「90歳を超えた今でも、9条と平和を守りたいという強い思いや信念を貫いて、雨の日でも風の日でも絶対に休まずに行動し続けているところをとても尊敬しています。これからもお元気で信念を貫いてください」と話します。
平和憲法を守る活動にとても生きがいを感じていると熱く語る上田さん。安倍政権が改憲に執着する中、「今まで以上に、『憲法を守れ』という世論が増えてきたと感じています。倒れるまで憲法を守る活動を続けていきます」と語ります。