◆ 12月
◆ 2020焦点・論点 学術会議会員の任命拒否と学問の自由 京都大学名誉教授 岡田知弘さん
◆ 11月
◆ 本と人と 『小説 末永敏事』 長洋弘さん 反戦の「小さな巨人」追って
◆ 治維法犠牲者への謝罪・賠償求める 署名 全国で12万3000人分
◆ 韓国の詩人尹東柱の記念碑 建立3周年の集い 京都・宇治 穀田氏あいさつ
◆ 日本国憲法公布74年 奈良達雄 歌人は新憲法をどう受けとめたか
◆ 10月
◆ シリーズ 現代の視点 東京大学大学院教授 阿古智子さんに聞く
◆
◆ 9月
◆
戦前の共産党員 伊藤千代子の志継ぎたい 命かけ社会変革 感動 “入党を真剣に考えています”
◆
きょう敬老の日 93歳「今が楽しい」東京・練馬 姉歯久子さん
◆
核禁止条約参加に転換を 日本原水爆被害者団体協議会代表委員 田中熙巳さんに聞く
◆
青年劇場公演「星をかすめる風」稽古場から 葛西和雄 今をどう生き舞台に立つか 朝鮮の詩人・尹東柱と向き合って
◆
ひと 記録映画「レッド・パージ(仮題)」製作に取り組む鈴木章治さん(81)
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◆ 8月
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証言戦争 特高の拷問から逃れて 岡山県倉敷市在住 朝倉彰子さん(79)
◆
証言戦争 生きて帰らなければ 東京・東久留米 石井孫三郎さん(94)
◆
証言戦争 沖縄占領も原爆投下も知らず 東京・台東区在住 猪狩和子さん(88)
◆
きょうの潮流
◆
香港人権抑圧 弾圧即時中止、国安法撤回を 日本共産党繰り返し要求
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◆ 7月
◆
本と話題 『[新編]日本女性文学全集』完結 近年の進展・再評価を反映
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苦難に応える輪 広げよう 共産党各地でつどい小集会 山形県で高橋氏
◆
きょうの潮流
◆
故大澤豊監督のこと 桂壮三郎 平和・人権…苦労を超え訴え続け
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◆ 6月
◆
◆ 5月
◆ ツルシのぶらり探訪 千葉 市川市「渡政」生誕・墓所の地 労働運動・共産党の指導者
◆
◆ 3月
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月曜インタビュー 俳人 神野紗希さん 俳句は命の肯定の詩型 自由な突破力生かして
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2020焦点・論点 検察官の定年延長めぐる「法解釈変更」元刑法学会理事長 村井敏邦さん
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◆ 2月
◆
2020年度予算案に対する藤野議員の反対討論 衆院本会議
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異常な解釈変更許されない 「職責の特殊性」を無視 検事長定年延長問題 藤野氏が追及
◆
論戦ハイライト 検事長定年延長 法解釈変更を厳しく追及 藤野議員 “三権分立の根幹壊す”
◆
早く政権倒すと決意 北海道・長沼町 野呂没後86年碑前祭
◆
未来へバトン継承 東京 杉並・中野・渋谷 第32回多喜二祭
◆
安倍改憲ノー! 新署名 広く東京・杉並 若者から熱い反応 市民アクションが行動
◆
◆ 1月
◆
どうなる「香港デモ」亜細亜大学アジア研究所所長 遊川和郎さんに聞く
◆
第28回党大会 共闘する野党・会派などからあいさつ 立憲民主党国対委員長 安住淳さん
◆
【本文】
12月
2020年12月2日
京都大学名誉教授の岡田知弘さんは昨年、創立100年を迎えた経済学部百年史の編さん作業に携わりました。「大学の自治と学問の自由が奪われていった戦前戦中の歴史を繰り返してはいけない」と、菅義偉首相による日本学術会議会員の任命拒否を批判します。思いを聞きました。(隅田哲)
―戦前の京大で学問の自由が侵害される事件がたびたび起きています。経済学部はどんな状況だったのですか。
京大の経済学教育と研究は1900年に、前身の京都帝国大学法科大学に講座が設置された時から始まります。当時は大学の自治と学問の自由をめぐって政府の強い干渉がありました。文部省は「天皇が教官を任命する」として、大学の人事や学問内容にたびたび口出しをしてきました。
1913年、澤柳政太郎京大総長が独断で7人の教授を免職しようとする事件が起きます。これに対して、法科大学の教授全員が辞表を書き、文部大臣と交渉するなど行動した結果、澤柳総長は更迭されました。そして教授会による教授任免権と総長任免権を実質的に獲得し、大学の自治を認めさせていきます。
京大経済学部は1919年に創立され、大正デモクラシーの中で研究と教育を充実させていきますが、暗転の時代を迎えます。
1928年3月15日、共産党関係者を治安維持法で大弾圧する事件が起きました。検挙された人の中に、京大をはじめ各大学で自主的につくられた社会科学研究会の会員がいました。このことから文部省は学生の処分や左派教授の辞職を迫ります。京大ではマルクス経済学者の河上肇教授が荒木寅三郎総長から辞職勧告を受けます。理由は、河上が指導教授になっていた社研から治安を乱す会員が出たなどとするものです。しかし指導教授になるよう依頼したのは荒木総長で、いかなる責任も持たせないと言っていたのです。説得性に欠ける勧告理由に河上は反発します。
ところが河上を守るはずの経済学部教授会は、荒木総長の辞職勧告を容認する決議をしてしまったのです。教授会の自治を第一に考えていた河上は、教授会の決議を知らされ、辞職を決意します。
政府・文部省の介入はこれにとどまらず、大学への思想統制を一気に強めます。その圧力に抗しきれず経済学部教授会は、輸入禁止・発売禁止図書の貸し出し禁止を決めました。
そして5年後の1933年に起きたのが滝川事件です。自由主義的な立場で学説を述べていた法学部の滝川幸辰(ゆきとき)教授の著書『刑法読本』に不穏当なところがあるとして、文部省が総長を通して休職を発令しました。法学部教授会は強く抗議して一同辞表を出します。
このとき経済学部教授会は、法学部に連帯することもなく、声明すら出しませんでした。“是非を判断できない”“研究の自由、大学の自治は法律の限度内で認められる”と傍観したのです。
―日本は1930年代、中国への侵略を始めます。戦争の中で経済学部はどうなっていったのですか。
大学の自治と学問の自由を自ら放棄した経済学部は、戦時体制が強まる中で戦争協力をしていきます。「支那経済慣行調査部」をつくり、外務省や海軍省からも研究費をもらって調査研究をするなど国策に協力しました。現在、防衛省が研究資金を出す「安全保障技術研究推進制度」の問題と重なります。
戦争は大学の学問の自由や自治を圧殺しただけではありません。多くの若い学生のかけがえのない命や未来を奪いました。戦争に積極的に協力した京大経済学部からは、多くの学生が戦場に行きました。経済学部の戦没者は少なくとも卒業生で75人、在学生で兵役に服した66人です。全学部の犠牲者の中で経済学部は、卒業生では33%、在学生は25%も占めます。特攻隊だけでなく戦病死も多い。戦没地はフィリピンやビルマなどの激戦地、沖縄戦、原爆が投下された広島です。
1946年1月に河上が亡くなった際、当時の学部長の蜷川虎三をはじめ経済学部教授は総辞職します。河上事件以後、学部が失ったものが大きかったという深刻な反省があったからです。戦争に協力した教授も追放され、民主化が行われました。学部の最高意思決定機関は、教授だけでなく助教授や講師も加わる「教官協議会」になります。職員や学生の自治組織もつくられます。
戦後、憲法に「学問の自由」が明記され、大学の自治が確立し、学術会議が発足した背景には、戦中の悲惨な体験があります。菅首相が学術会議会員の任命を拒否した6人は、人文・社会科学の研究者です。安倍前政権がすすめた安保法制や「共謀罪」法に反対していました。政権にとって都合の悪い研究者だからという理由なら、戦前と同じです。学問の自由を侵害して批判を封じ、為政者による独裁体制を敷く民主主義の破壊であり、絶対に許してはなりません。
学問の自由は基本的人権に関わります。思想・信条や表現の自由と一体です。研究者だけでなく映画人や文学者、宗教者が抗議の声を上げるのは当然です。菅政権が任命拒否を撤回しないのなら、こんな危険な政権は退場してもらいたい。その声を多数派にして、国民が、総選挙で“倍返し”するしかありません。
おかだ・ともひろ 1954年生まれ。2019年3月まで京都大学経済学研究科教授。現在、京都橘大学教授。専門は地域経済学。日本学術会議連携会員(08〜15年)として東日本大震災復興支援の提言づくりなどに携わる。
11月
2020年11月29日
戦中、軍務に就くことを拒否したため、刑務所に収監され行方不明となった長崎県出身の結核専門医師・末永敏事(びんじ=1887〜1945年)。その生き方に感銘を受けた写真家で作家の長洋弘さんが小説に描きました。
「治安維持法の犠牲者にかかわる取材をしたのは初めてのことです。小林多喜二が特高警察に虐殺されたことは知っていましたが、警察署で殺された人が100人近くもいたことには驚きました」。さらに刑務所・拘置所での虐待・暴行・発病などによる獄死者は400人以上にのぼっています。
末永敏事は、長崎県北有馬村(現・南島原市)の医者の家系に生まれました。語学の勉強のため長崎の中学から東京の中学に中途編入し、単身上京。無教会主義のキリスト教伝道者、内村鑑三に出会い弟子となります。卒業後は長崎に戻り、長崎医学専門学校を経て医師に。間もなくアメリカに渡り、シカゴ大学、シンシナティ大学などで結核医学者として活動。帰国後、郷里で診療所を営みました。1938年、茨城県内の結核療養施設の勤務医になります。
「この年、国家総動員法が施行され、医療関係者として職業能力の申告を求められた敏事は、『拙者が反戦主義者なる事及び軍務を拒絶する旨通告申し上げます』と書いたのです。非戦の信条を貫いたのですね」
茨城県特高に逮捕され、陸海軍刑法違反で起訴されました。判決は禁錮3月ですが、戸籍によれば45年、58歳で死亡したことになっています。
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の「犠牲者名簿」作成の取り組みや長崎新聞の連載記事「反戦主義者なる事通告申上げます」(2016年。のちに花伝社から書籍出版)で敏事の足跡が発掘されました。
「死亡日時、場所などあまりにも不明なことが多い。さぞかし無念だったろうな。彼をよみがえらせたいとの思いがつのり、書き上げるのに2年余かかりました」。「歴史の襞(ひだ)に隠された小さな巨人」の一人として描こうと挑みました。日本が「戦争をしたい国」に向かっているような今の政治情勢を、敏事の生きた時代と重ね合わせて考えます。「あのような時代が二度とあってはならない」。
(澤田勝雄)
燦葉出版社・1800円 TEL03(3241)0049
47年生まれ。『帰らなかった日本兵』『バリに死す』ほか。林忠彦賞、土門拳文化賞奨励賞など受賞
2020年11月15日
日本共産党の藤野保史議員は13日の衆院法務委員会で、菅義偉首相による学術会議の会員任命拒否について、戦前の「滝川事件」とそっくりだと指摘し、「任命拒否問題は国民全体の問題。強権で言論を弾圧する政治に未来はない」と主張しました。
滝川事件は、1933年、京都帝国大学の滝川幸辰教授を危険思想の持ち主として文部大臣が休職要求した弾圧事件です。
藤野氏は、滝川事件と任命拒否問題は三つの共通点を持つと主張しました。
第一の共通点は、政府の政策に批判的であったことです。藤野氏は滝川氏が「京都帝国大学新聞」に寄稿した「治安維持法を緊急勅令によって改正する必要?」を紹介。そこで滝川教授は、治安維持法は定義が曖昧で罪刑法定主義に反すること、刑が重すぎることなどを痛烈に批判していました。
一方で、学術会議で任命を拒否されたのは、憲法をじゅうりんする安保法制や共謀罪に反対した研究者です。
第二の共通点は、政府の攻撃の対象が戦争に反対する研究者・団体である点です。
滝川教授は、大学での軍事教練に反対し、日本の中国侵略である「満州事変」に反対し、ヒトラーがドイツで政権を獲得した際はヒトラーに反対する論文を書きました。藤野氏は「侵略戦争遂行に反対していた滝川教授は時の政府には邪魔で仕方ない存在だった。一方、戦争する国づくりを進める今の政権にとって『軍事研究をしない』など戦争目的の研究に協力しない学術会議は邪魔な存在。この点でも似ている」と指摘しました。
第三の共通点は、法制局が法解釈で政府の行為を正当化していることです。
滝川事件当時の規定では「(大学の)総長は高等官(教授など)の進退に関しては文部大臣に具状(具体的な報告)する」とされていますが、滝川教授の処分は「具状」無しに行われました。ところが、滝川氏の処分を審議した帝国議会で政府は「全ての場合において大学総長の具状を要するとなすにあらず」(33年5月25日、文官高等分限委員会議事録)と述べて、違法行為を正当化しました。
一方、学術会議の任命拒否問題では、内閣法制局は、学術会議法のこれまでの解釈を国会にはからず勝手に変更して「必ずしも任命すべき義務があるとまでは言えない」として拒否を正当化しています。
藤野氏は「法制局が法の支配をねじ曲げて無理筋の解釈をするときは、『必ずしも必要ない』という似たような論法をとる」と指摘しました。
滝川事件のきっかけの一つは、滝川教授が罷免される3カ月前の宮沢裕議員の帝国議会での質問でした。宮沢氏は「(大学の)赤化教授に対する罷免を要求したい」と述べ、滝川教授について「国会の禄を食(は)んで(給与をもらって生活する)、教職について天下の青年を指導している」と批判しました。
今回の学術会議問題では、菅首相は人事介入の根拠の一つに「10億円の税金が学術会議に投入されている」ことを挙げています。「国から給料をもらっている者が、政府に盾ついていいのか」という論理も、学術会議問題と同じです。
天皇主権の明治憲法を「立憲主義的」に解釈し当時の学説の主流となっていた「天皇機関説」にかかわって法制局長官を事実上罷免された金森徳次郎は、戦後、憲法問題担当大臣となります。金森氏は、日本国憲法制定に関する国会審議(46年7月16日)で、自らの経験に基づいて「これ(学問の自由)は憲法に掲げ、大いに保障することは独り当然であるばかりではなく、実際的の必要性が多い」(帝国憲法改正案委員会議議事録)と主張しました。
藤野氏は、金森氏の発言について「『実際の必要』という金森の答弁は、今の学術会議問題をほうふつとさせる」と強調しました。
上川陽子法務相は「歴史に学ぶということは未来を考えるうえで極めて大事なこと」と答弁しました。
2020年11月14日
治安維持法犠牲者への謝罪と賠償を求め、13日、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟は国会要請行動を行いました。新型コロナウイルス感染防止の観点から首都圏の参加者ら約70人が143人の議員を訪問し、全国から集まった12万3千人分の署名を届けました。
要請行動の冒頭、10月に亡くなった同法犠牲者で要請行動に参加してきた松本五郎さんをはじめ、志半ばで亡くなった方々に黙とうしました。
増本一彦会長は「一人一人から集めた草の根の地域の思いを届けて、行動を成功させましょう」と呼びかけました。
あいさつした日本共産党の井上哲士参院議員は日本学術会議の任命拒否問題に触れ「憲法や学問・表現の自由を踏みにじる問題。任命拒否撤回まで頑張る」と決意を述べました。
立憲民主党の国会議員も参加し、連帯のあいさつをしました。
2020年11月3日
宇治川(京都府宇治市)上流の白虹橋(はっこうばし)のたもとに建立された韓国の詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)の記念碑「記憶と和解の碑」の建立3周年の集いが10月31日、同地で行われ、50人を超える参加がありました。主催は、詩人尹東柱記念碑建立委員会、詩人尹東柱を偲(しの)ぶ京都の会です。
立命館大学名誉教授で建立委員会代表の安斎育郎氏が主催者あいさつし、「この碑は、詩人・尹東柱を入り口にして、『記憶と和解』という、より普遍的な碑として建てられた。世界的な視野で地域から今後も運動を続けたい」と述べました。
日本共産党の、こくた恵二国対委員長・衆院議員(近畿比例・京都1区候補)があいさつ。菅義偉政権による学術会議への人事介入問題に触れ、「戦前の京都での学問の自由弾圧の歴史を想起し、記憶することが必要な時代にきている。かつて来た道ではなく、新しい道を歩むためがんばりたい」と語りました。
参加者らは「新しい道」などの尹の詩を朗読。朝鮮民謡「アリラン」を全員で合唱しました。
同碑は、同志社大留学中に治安維持法違反で逮捕され、獄死した韓国の国民的詩人を偲び、尹が同大の友人とハイキングに訪れ、生前最後となった写真が撮影された同地に、2017年に建立されました。
2020年11月3日
11月3日は、74年前の1946年に日本国憲法が公布された日である。主権在民の新憲法が、当時の歌人たちにどう迎えられたかを振り返ってみたい。
・火の海ののろひ果てなきヒロシマを人よ再びあらしむな世に 江口 渙(かん)
・ぼろをまとう浮浪児街に佇(た)つみれば戦(いくさ)ふたたびあらしむべからず 渡辺順三
公布後に発行された『平和百人一首』から引いた。二人とも反戦活動が治安維持法による罪に問われ、検挙・投獄された。たくさんの獄中詠を持つ歌人たちである。この二人が、反戦を貫いた大義や誇り、受難の苦しさではなく、被爆者や戦災孤児に心を寄せた一首を詠んでいることに心を打たれた。「九条を力に」の思いであろう。
・思ひきやげに思ひきや一兵も残さぬ国にわれ生きむとは 河上 肇
・たたかひにやぶれて得たる自由もてとはにたたかはぬ国をおこさむ 土岐善麿(とき・ぜんまろ)
この二人にとって、現在の自衛隊の増強、戦争法、共謀罪など、地下で歯ぎしりする思いだろう。
・おのづから史(ふみ)に類なきものとせむ戦はずして興る国なれ 川田 順
・物みなの底に一つの法(のり)ありと日にけに深く思ひ入りつつ 湯川秀樹
川田順は、戦争賛美の歌を多く詠んできた歌人であるが、それだけに深い反省を込め、世界に例のない「戦争放棄」の条項に希望を見いだし、期待を込めたのだろう。
ノーベル賞受賞者の文人短歌は、物理学者らしく国際紛争の平和的解決こそ取るべき唯一の道であり、そこに世界の法則があることを確認している。
・一兵を持たざる国を生かすべき世界機構を希(ねが)ひてやまず 原 三郎
・大国も小国もこころ一つにし永久(とわ)の平和を請いし希はむ 山口茂吉
原三郎の歌は、今こそ日本外交のめざすべき道を指し示している。山口茂吉の歌は、大国は意地の張り合い、自国優先の態度を変えないが、小国と言われる国が、気候変動問題の解決でも、核兵器廃絶運動でも、主役になっているのを見れば、二首ながら先進性を持った歌ととれる。
天皇制に関する条文も大きな衝撃を与えた。
・うれしくも国の掟(おきて)のさだまりてあけゆく空のごとくもあるかな 裕仁
当の昭和天皇は、戦争犯罪を裁くべしとの国際的世論の強まりのなか、マッカーサーの深慮遠謀によって救われた。その喜びをあけすけに歌っている。
しかし、
・巡幸路(みゆきじ)に土下座している写真にて米誌の論評いたく鋭き 三津田 丘
・天皇は人とし生くれ戦ひに死にし若きは還(かえ)ることなし 仲子義人
という歌もある。
・血にくもる/てんのうへいかばんざいを/われらふたたび叫ぶ日なけれ 松岡辰雄
安倍前総理が天皇の前で、臣下よろしく万歳を三唱したのは記憶に新しい。時代錯誤というほかない。
・玄米を瓶(かめ)に搗(つ)きつつみなわれの得し一票を思ひてゐたり 牧野千栄子
・初投票の女性の列は麦青き校庭めぐりてながく続けり 高田房子
初の女性参政権にも強い関心が寄せられた。
・よみがへる一人一人のたましひの強く浄(きよ)らにあらしめたまへ 若山喜志子
・戦ひを好む男が愛さずと世界の女(おみな)みな誓はずや 中河幹子
憲法14条の法の下の平等の規定を得て、女性の歌人たちは強いリズムを刻んでいる。
最後に、後世の我々に託した期待の一首を挙げる。
・平和!平和!/愚かならざる人の子は/夢を現(うつつ)とやがて為(な)しなむ 中原綾子
日本国憲法の理想を現実のものとすべくたたかう我々への、限りない励ましである。
なら・たつお 1932年生まれ。新日本歌人協会元代表幹事。憲法九条を守る歌人の会呼びかけ人。近著『踏み来し路の一つひとつを』(青風舎)
10月
2020年10月23日
ビキニ事件をきっかけに、草の根から行動し、母親・女性の願いを結集する第66回日本母親大会実行委員会は22日、国民のいのちと健康、くらしを守る政治を求めて財務省や内閣府をはじめ、五つの省庁に要請行動を行いました。
財務省では、昨年10月に消費税が10%に引き上げられたうえに新型コロナ感染拡大で商売もくらしも大変になっていると語り、消費税の5%の引き下げや軍事予算を大幅縮小することなどを求めました。日本共産党の大門実紀史参院議員が同席しました。
要請行動に参加した労働組合の代表は「非正規雇用が増え、消費税10%の税金が国民生活の負担になっています。減税をしてください」と話しました。
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の代表は「米軍への思いやり予算をコロナ対策として20人学級の財源に」と訴えました。
家族従業者の「働き分」(自家労賃)を必要経費と認めない所得税法56条改定の要望に対し、応対した中西健治副大臣は「検討中だ」と答えました。
これに対し参加者から「いままで答えてこなかったが、一歩前進だ」との意見も出されました。
このほか、各省庁に対し、医療機関、公的機関職員を含め過労死・過労自殺が発生しないよう労働時間規制の強化▽新型コロナウイルス感染症対策に向け、感染症研究所や公衆衛生の拡充▽ジェンダー視点に立った新型コロナ感染症対策の実施のため、国や自治体のコロナ対策本部など意思決定の場に女性の参画を増やす―などを要請しました。
第66回日本母親大会は11月28、29両日に沖縄県で開催を予定していましたが、1年延期し、来年11月13、14両日に同県で開催することを発表しています。
2020年10月21日
政治的抑圧が急速に強まる香港―。『香港 あなたはどこへ向かうのか』(出版舎ジグ)を9月末に刊行した、東京大学大学院教授の阿古智子さん(現代中国研究、比較教育学)に、香港の現状、中国との関係などについて聞きました。(山沢猛)
私が香港大学の大学院生として、香港に住み始めたのは1996年7月、イギリスから中国に主権が戻る1年前でした。上海で実地調査をした1年を除く3年間、香港で生活しました。だから友人がたくさんいて、昨年来の若者と市民のたたかい、中国が押し付けた「国家安全維持法」後の様変わりは、とても人ごとではありません。
国際金融都市・香港は、「一国二制度」のもとで資本主義が保障されましたが、もともと大きな貧富の格差がありました。中国からは富裕層と低所得層両方の「新移民」が入り、格差拡大を助長しています。
金持ちは山の上や中腹のマンションに住み、不動産を持つ資産家です。私が香港で最後に住んだ小さなマンションは、近接するビルの窓が開いているとお互いに部屋の中が見え、一つの部屋に2段ベッドが三つぐらいあって家族がぎゅうぎゅう詰めで暮らしている、というエリアでした。「棺おけ部屋」と呼ばれていました。自由は自由かもしれませんが過酷な自由で、底辺の人が上に上がっていくのは難しい。弱者の声を反映する民主主義はありませんでした。
就職では、中国から移入してきたエリート層が早く決まる。香港はもともと広東(カントン)省から来た人が多く広東語が主流ですが、広東語ができず英語が流ちょうな欧米の大学を出た新移民が、香港で高額所得を得ます。広東語の文化とか価値観が侵食されています。
ですから、香港政府による逃亡犯条例改定案を葬った昨年からの若者と市民のたたかいは、もちろん自由を求めましたが、同時に民主主義と平等を求める要素も含んだ活動でした。
デモをきっかけにインターネット掲示板から生まれた歌『香港に栄光あれ』(Glory to Hong Kong)の前奏が流れると、デモ参加者に歓声と拍手が沸き上がります。
なぜ涙止まらぬ
なぜ怒りを感じる
顔を上げ、叫びよ届け
自由よ、ここにあれ
……
この時代に正義を、革命を
どうか民主、自由よ朽ちないで
香港に栄光あれ
(著書から)
高校や中学校でいろいろアレンジされて歌われました。今は歌うことを禁止されています。
もちろん「香港の独立」は物理的には無理でしょう。たとえば「水」も中国大陸から運ばれています。
しかし、中国の憲法には民族区域自治という規定があり、少数民族の自治を認めています。香港人の大半は漢民族ですが、特別行政区の「高度な自治」は認めなければなりません。イギリスから中国に主権が移り、2047年までの50年間は「一国二制度」を守るとなっていました。
中国が決めた香港基本法は矛盾を含んでいますが、同法23条で香港議会が国家安全条例を制定するとしています。これを中国全人代が「国家安全維持法」として成立させ香港に押し付けたのです。国歌や軍隊などは中国政府が決めることですが、香港内の治安のことを全人代が直接決めることはやってはいけません。
この法律で事態は一変し、中国政府の出先機関もつくられます。この強制法を国際社会は見逃してはいけません。そもそも「国家安全」というあいまい基準はだれが決めるのか。日本人も香港を「対岸の火事」として見ていていい問題ではありません。戦前の治安維持法で自由と人権が奪われました。安倍政権のもとで「共謀罪」などがつくられました。日本学術会議の任命拒否で菅首相は説明責任を果たしていません。
香港市民は苦しい状況ですが、絶望していません。変えようとしなければ何も変わらない、変えようとする意思に希望があると思います。
あこ・ともこ 1971年生まれ。在中国日本大使館専門調査員、早稲田大学准教授などをへて東京大学大学院教授。著書に『貧者を喰(く)らう国 中国格差社会からの警告』ほか
2020年10月8日
菅義偉首相が日本学術会議の推薦した新会員候補6人の任命を拒否した問題で、7日までに次の3団体が抗議声明を発表しました。
自由法曹団、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟、日本住宅会議。
2020年10月2日
自民党の杉田水脈(みお)衆院議員が「女性はいくらでもうそをつけますから」と発言した問題で治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央本部女性部(大石喜美恵部長)は1日、抗議声明を発表し、同党と杉田議員に送付しました。
問題の発言は、同党本部で開かれた会合の性暴力被害をめぐって発言されたもの。
抗議声明は、杉田議員の発言は「女性の尊厳を真っ向から否定する」と批判。杉田議員によるLGBT(性的少数者)への差別的発言(2018年)などが不問にされてきたことに「これ以上同議員の人権侵害行為を不問に付すことは許されない」とし、発言に断固抗議し、謝罪と撤回、議員辞職を求めています。
9月
2020年9月23日
あす9月24日は、戦前の治安維持法の下、特高警察の拷問で獄中死した日本共産党員・伊藤千代子の命日です。1929年、千代子は24歳でした。千代子のことを知り、「前を向いた」女性がいます。沖縄県南部に住む神谷美咲さん(36)=仮名=です。
神谷さんが千代子を知ったのは10年前。当時、神谷さんは2児の子育て真っ最中でした。父親が労災事故で突然死。その喪失感から抜け出せないうちに、夫が失業という苦境に見舞われていました。
神谷さんは大手食品メーカーに就職。それだけでは一家を支え切れず、夜は弁当屋でアルバイトをしました。
食品メーカーでの低賃金と職場での無権利に苦しむ女性労働者たちに接しながら、どうしてよいかわからず、ただひとり悩む日々だった、と言います。
そんなときに、身近にいた日本共産党員の勧めで手にしたのが、『こころざしつつたふれし少女(おとめ)』(党中央委員会出版局)でした。千代子をはじめ女性たちの志とその生涯を紹介した本です。
「自分が一番苦しい時、人々の苦難に目をむけ、その原因を知らせて社会を変えようとすることに、命をかけた人たちがいたことに感動したのです」
千代子と同じ20代半ばだった神谷さんは、職場に個人加盟労組を結成し、各種選挙で日本共産党を応援するようになりました。「千代子と私たちは、時代を超えて社会を変えるという志を通じて結ばれています。千代子が私の背中を押してくれたのです」
「千代子の生涯」をテーマにした那覇市の講演会での「千代子の志したもの、その崇高なたたかいは、時代閉塞(へいそく)の今を撃つ力になる」との話に神谷さんは「涙が止まらなかった」と。
神谷さんは今、職場の共産党後援会での活動とともに、難関といわれるある国家資格試験に挑戦中です。「私の中で生きている千代子の志を引き継ぎ、よりよい日本と世界をめざすうえで、なくてはならない日本共産党への入党を真剣に考えています」と力をこめました。
2020年9月21日
今日、21日は「敬老の日」。東京都練馬区の姉歯久子さん(93)は「本当に今が楽しいわ。でも、コロナ対策をしない政府に、腹が立ってしょうがない」と気を吐きます。90歳まで「しんぶん赤旗」日曜版を配達していました。元気の秘訣(ひけつ)は「赤旗」の投書欄を読むこと。「共感することが多く、みんな怒っていることがよく分かる」といいます。
楽しみは毎年7月にイギリスのイングランド南東部コルチェスターで暮らす知人宅に行き4カ月間、滞在すること。一昨年まで8年間一人で出かけました。
イギリスでは、イエス・ノーの区別をはっきりさせる国民性に感心し、フランスのパリでは、戦争に反対した犠牲者の墓に一輪ずつ花を手向けるお年寄りに刺激を受け、「ものの考え方が変わってきた」といいます。
1927年、東京都生まれ。女学校卒業後、早稲田大学で開かれていた文学の勉強会に参加。プロレタリア作家の宮本百合子らを読み進め、マルクス『賃労働と資本』、エンゲルス『空想から科学へ』などを少しずつ理解していきました。「『空想から科学へ』が一番よく分かった。世の中がこんなに科学的に動くんだって初めて知った」。
この勉強会を指導していた11歳上の男性が夫になる姉歯三郎(さんろう)さんでした。勉強会は、特別高等警察に弾圧され、三郎さんは検挙、投獄されました。
戦後、20歳になるのを待って日本共産党に入党。数年間、党本部に勤務。党本部では宮本百合子さんとストーブを囲み、話を聞きました。「共産党の婦人は物を書いたり、しゃべりでも、何でもできないといけないのよ」という百合子さんの言葉が印象に残っています。
背筋を伸ばし、滑らかな活舌で久子さんは理路整然と話します。「菅首相は安倍前首相と同じようにやりますっていう。それならだれがなったって同じでしょう。戦争中は、集会や結社の自由も認められず、夫はひどい拷問を受けた。平和憲法を守ることが一番大事。骨身にしみています」(遠藤寿人)
2020年9月15日
核兵器禁止条約に背を向け、安保法制(戦争法)を強行した安倍政権の7年8カ月。核兵器も戦争もない世界の実現を掲げて活動してきた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の田中熙巳代表委員に聞きました。(加來恵子)
日本被団協は、核兵器も戦争もない世界を求めて証言活動や署名活動を行い、世界と世論に訴えてきました。安倍政権はこの二つの願いを踏みにじる最悪の政権でした。
安倍政権が2013年に強行採決した秘密保護法は、戦前の治安維持法と同様な法制定への地ならしです。さらに、集団的自衛権行使容認の閣議決定と戦争法を強行し、自衛隊がアメリカ軍と一緒になって世界中に出かけていくことができるようにしました。
戦争を容認する法律が強行採決されるとき、私は国会前でマイクを握り、強行採決に賛成した議員を次の選挙で選ばぬよう訴えました。
安倍首相がやりたかった憲法改正での自衛隊明記は、多くの国民が反対し、憲法審査会も開かせませんでした。「核兵器なくせ。戦争するな」―これは被爆者の心からの願いであり、次の政権にも求めていきます。
核政策と被爆者援護施策の問題で安倍首相は、広島・長崎の平和記念式典で同じようなスピーチを繰り返しました。2017年に核兵器禁止条約が採択されても、唯一の戦争被爆国にもかかわらず、禁止条約に一言も触れず「いったいどこの国の首相か」と被爆者から怒りを買いました。
2018年の長崎の平和の誓いで私はこう言いました。「日本政府は昨年、禁止条約に署名も批准もしないと、原爆投下の日に公言しました。極めて残念でなりません。紛争解決のための戦力は持たないと定めた憲法9条の精神は、核時代の世界に呼びかける、誇るべき規範です」
禁止条約は現在、44カ国が批准しており、あと6カ国の批准後90日後に条約が発効します。いまこそ被爆国として条約に参加し、リーダーシップを発揮するべきです。
国民の7割が核兵器禁止条約に参加すべきだと言っているのに、参加しないのは、日本政府は米国の「核の傘」にいて、アメリカの顔色ばかりを気にしていることと、国民世論を無視しても政権は大丈夫と思っているからです。
しかし、核兵器禁止条約への参加が、野党共闘の共通政策になる動きが生まれつつあります。「戦争する国づくり」をやめさせ、憲法9条を順守し、平和で核兵器もない世界の実現へ世論を広げ行動していきましょう。
2020年9月10日
第13回伊勢崎多喜二祭が6日、群馬県伊勢崎市の市民プラザで開かれました。同実行委員会が主催し、伊勢崎市、群馬県など13団体が後援しました。
各地の多喜二祭実行委員会などのメッセージ紹介の後、弁護士の平山知子氏が「父・邦作と多喜二」と題して東京都内からリモート講演しました。
平山氏の父親で無産者運動家だった菊池邦作(伊勢崎市出身)は、同市で起きた「多喜二奪還事件」の当事者の一人です。平山氏は、事件をつづった邦作の随筆などを基に講演しました。
「事件」が起きたのは1931年9月6日。国際無産青年デーを記念して伊勢崎で企画された小林多喜二らを講師とする文芸講演会で、会場に入る直前に多喜二や邦作らが特高警察により一網打尽にされ、伊勢崎警察署に連行されました。
講演会場にいた数百人の聴衆は、これを知ると伊勢崎警察署に詰めかけて警察署を一時占拠。双方とも事件を公にしないという「紳士協定」を結び、多喜二らは無事解放されました。同事件については、新聞などに真相が発表されることはありませんでした。
平山氏は「共謀罪や戦争法など、治安維持法の時代に戻りつつあると感じる」と述べ、「多喜二を奪還した民衆のように、私たちも団結して統一戦線を作り、野党連合政権を実現させましょう」と訴えました。
参加者からは「地元群馬の運動に誇りを持てた」「統一の力を確信した」など多くの感想が寄せられました。
2020年9月8日
東京都の日本共産党墨田地区委員会は6日夜、藤野保史衆院議員を招き、「入管法(出入国管理法)問題から今日の日本を考える集い」を開きました。JCPサポーターの要望に応えた企画で、ともに準備して開催しました。
藤野氏は、在留外国人293万人(2019年末)が劣悪な労働環境と細分化された在留資格で権利制限・分断され、コロナ禍で矛盾が増幅している現状を説明。日本の政策には「安価な労働力は欲しい」が「移民政策は取らない」という本音と建前があり、財界の要求優先で雇用の“調整弁”にしていると批判しました。
外国人の収容制度は、悪名高い治安維持法よりひどい要件で運用され、全国の外国人収容施設では5人に1人以上が2年以上収容される異常事態が常態化。茨城・牛久と長崎・大村の入国管理センターを視察した際の様子を詳細に話しました。
藤野氏は、「管理」ではなく「共生」の政策が必要だと述べ、第三者の関与や収容期間の上限設定を提案。「野党共闘で政府の罰則化の狙いをはね返し、共生の政策を具体化したい」と語りました。
講演後は活発な質疑応答になり、藤野氏は、参加者の「自分にできることは何か」という思いに寄り添いながら自治体や献身的な支援者の取り組みを紹介。また外国人を食い物にするブローカーの問題などにも言及しました。
2020年9月4日
「死ぬ日まで空を仰ぎ/一点の恥なきことを…」で始まる詩「序詩」と出合い、朝鮮の詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)を知ったのは、先輩に誘われて見た演劇を通してでした。それからほぼ20年、青年劇場の舞台「星をかすめる風」の稽古場で、なんと彼が獄死した福岡刑務所の所長役として尹東柱と向き合うことになりました。
植民地下、母語を奪われた朝鮮から海を渡り立教大学を経て同志社大学で学んでいた尹東柱は、「朝鮮独立運動に関わった」として治安維持法違反容疑で逮捕され、1944年、懲役2年の刑確定後、福岡刑務所に収監されます。しかし、民族が解放されるわずか半年前、27歳の若さで獄死しました。死因は謎に包まれたままです。
世界各国でも高く評価された韓国の現代作家イ・ジョンミョン氏の小説「星をかすめる風」を脚本化したシライケイタ氏の劇作と演出は、尹東柱と看守の交流を主軸に、絶望の中でも人々の希望をつなぎ継承する文化芸術の力と役割、その営みや知性を阻み圧殺をはかる時代を凝縮して描き、同時に稽古場では「俳優自身が今をどう生き舞台に立つのか」と鋭く突き付けてきます。
コロナ禍で中断され存続の危機に立つ舞台芸術ですが、多くの演劇人が困難を抱えながらも自身の存在をかけ活動を再開しつつあります。青年劇場では7月から8月にかけて、演劇鑑賞団体の念入りな準備と対策のもと、劇団も覚悟を持って臨んだ「キネマの神様」九州40日間のツアーを完走することができました。
再開を心待ちしていた皆さんとつくる劇空間、毎回のカーテンコールでは出演者もスタッフも客席も「演劇は私たちの日常に必要不可欠」の熱い思いを共有することができました。
梅雨明け間もない8月、福岡での公演最終日に、地元「福岡・尹東柱の詩を読む会」の方に福岡刑務所跡地周辺を案内していただきました。なんと、公演会場の「ももちパレス」は、その跡地の一角に建っていたのです。今は慰霊碑や記念碑もない跡地ですが、地元では毎年命日の2月16日、追悼式を行い、尹東柱の生涯と詩が語り継がれてきています。
「族譜」をはじめ、韓国・朝鮮にかかわる舞台を重ねてきた青年劇場ですが、今年初めての東京公演となる「星をかすめる風」に、いま新たな気持ちで挑んでいます。
(かさい・かずお 俳優)
*12〜20日、東京・紀伊国屋サザンシアターTAKASHIMAYA。電話03(3352)7200(青年劇場)
2020年9月2日
「装甲車の公道走行は許さない」―8月31日夜、北海道釧路町の陸上自衛隊釧路駐屯地から釧路港まで、第7師団が国道、市道を使った移動訓練を強行しました。釧路地区労働組合総連合(釧労連)、新日本婦人の会釧路支部、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟釧路支部、釧路平和委員会は、訓練の中止を求めて第7師団に抗議文書を送り、釧路駐屯地に直接抗議文を手渡し、厳重に抗議しました。
釧路市と釧路町にも中止を求めるよう要請行動をしました。
同日午後9時20分から10分間に装甲車11両が通過したのをはじめ、昨年に引き続き90式戦車、さらに初参加の19式装輪自走155ミリりゅう弾砲が、ごう音を響かせて走り過ぎていきました。ごう音は最大で104・6デシベルと、聴覚機能に異常を来すレベルを記録しました。
「おろかな軍事訓練をやめて、被災地支援に全力を」「演習ストップ 税金はコロナに苦しむ国民へ」などと書かれた横断幕を掲げ、70人が抗議行動を繰り広げました。
2020年9月1日
レッド・パージから70年。「過去の話ではありません。職場の人権侵害、思想差別は今も形を変えて存在し、人間の尊厳を奪う安倍政治と根底でつながっています。戦後日本の民主化路線から逆コースへの転換点となったレッド・パージの本質を知ってほしい」
1949〜51年、GHQ(連合国軍総司令部)の示唆のもと政府・財界が労働運動や民主運動の弱体化を狙い、日本共産党員や支持者ら推定4万人が職場から追放されました。被害者は名誉回復と国家賠償を求め今もたたかっています。責任を認めようとしない政府に、日弁連や各弁護士会が救済勧告を出しました。
高卒で就職した東京電力の反共労務政策で「現代のレッド・パージ」かといわれた賃金・昇格差別は、19年余りの裁判闘争の末、95年に勝利和解。「レッド・パージ被害者が自分たちのことのように喜んでくれました。今度はその人たちの笑顔を見たい」と支援に加わりました。レッド・パージ反対全国連絡センター事務局長を務めます。
「レッド・パージは一体何だったのか、今にどうつながっているのか次の世代に伝えたい」と記録映画製作に取り組みます。監督は治安維持法犠牲者を描いた「種まく人びと」の鶴見昌彦氏。上映権付きDVDとして普及します。「親族がパージされた被害者だったと協賛金を託してくれた人もいます。人間の尊厳を守る政治を求める世論を力に記録映画を成功させたい」
8月
2020年8月28日
「『ひたひた』、次第に近づく『ザクザク』という音は、特高警察の足音ではなかったか」。朝倉彰子さん(79)=岡山県倉敷市=は耳に残る記憶を思い起こします。
日本共産党員の父、山本鶴男さんと日本労働組合全国協議会の活動家だった母、みづほさんは当時から戦争に反対し、治安維持法によって幾度も逮捕されました。母は両手を縛られ天井からつり下げられ、父は殴る、蹴るのうえ、そろばんの上に正座させられ、全部の指の間に鉛筆を挟んで手を締め付けられる拷問を受けました。
迫害を逃れ、一家は母の弟を頼って「満州」(中国東北部)に渡りました。1943年11月、朝倉さんが2歳のときでした。父は叔父が経営する奉天のせっけん工場で働き、母は撫順(ぶじゅん)市郊外の牧場で中国人苦力(クーリー)を管理する仕事に就きました。朝倉さんは牧場の牛や馬、豚、アヒル、ロバ、ラバを眺め、大好きな牛乳を食事代わりに飲んで幸せな時を過ごしました。
45年5月に父が召集され、残された母と7人の子どもで8月の敗戦を迎えました。
日本政府が「満州」の日本人を帰国させる措置を取らなかったため、朝倉さんたちは敗戦後も11カ月間、転居した撫順市にとどまりました。
一家が撫順市を出発し、列車に乗り込めたのは46年7月。持ち物が制限される中、母は牧場の豚肉の干物をリュックに入れ、着物をほどいて持ち帰りが許されていた布団に仕立てました。列車は貨物用で屋根がなく、夏の日差しや雨にさらされる帰国の旅でした。
葫蘆(ころ)島からの乗船を待っていた錦州の収容所では、飢えや病気で多くの人が亡くなりました。大きな穴を掘り、遺体を投げ込む仕事に兄も参加させられました。朝倉さんにはこの収容所で忘れられない出来事があります。朝倉さんの隣で同じ年頃の姉妹が見守る中、母親が力尽きたことです。生きている間から体にウジがたかり、だんだんと死んでいきました。泣いていた姉妹がその後どうなったのかわかりません。
一家は収容所を出て葫蘆島から病院船に乗りました。弟の高熱が続き、妹が栄養失調だったためです。一家は船底の遺体安置所近くに雑居し、運ばれる遺体がすぐそばを行ったり来たりしました。いったん安置し、しばらくすると甲板から海に捨てていたのです。朝倉さんは「その臭いが忘れられない」といいます。現在の福岡県博多港沖で2週間ほど停泊し、その間に多くの人が亡くなりました。定員1300人の船でしたが、上陸したときは2割ほどしか生きていませんでした。
母と子ども全員が生還し、翌年1月に父が抑留されていたシベリアから戻り家族がそろっても、生活は厳しいものでした。家業の養鶏は採算が合わず、一家は鶏のエサの菜っ葉の残りを炒めて食べました。布団にして持ち帰った着物も、縫い直して売りました。
父は戦後、党活動を再開します。朝倉さんは小学生の頃、警官から必死に逃げる夢をよく見たと言います。この体験があるため朝倉さんはいま「日本の戦争を止められなかったのは、反対した人を弾圧したから。二度と治安維持法の時代に戻してはいけない」と訴えています。「あの戦争を少しでも記憶している最後の世代として、平和憲法を守り抜きたい」
(小梶花恵)
2020年8月19日
1941年に北海道旭川市で起きた「生活図画事件」。日常の生活を絵に描いただけなのに治安維持法違反で逮捕、投獄された被害者の菱谷良一さん(98)と松本五郎さん(99)の現在の姿を撮った写真展「A RED HAT 赤い帽子」(同実行委員会主催)が24日まで同市で開かれています。
撮影したのは写真家の橋健太郎さん(31)。安倍政権の閣僚が、治安維持法の現代版といわれる「共謀罪」はカメラを持っているだけでも適用されると答弁したことに、「自分の身が危ない」と危機感をもち、同法違反でひどい目に遭った菱谷さんと松本さんが健在だと知って訪ねたのが始まりです。
写真の中には、菱谷さんが風呂に入る姿や布団で就寝する姿が。
15日にはトークイベントを開催。ユーモアを交えて1時間話し、菱谷さんもあいさつしました。
旭川市民ギャラリー(宮下通11丁目、旭川駅から歩いて7分)で午前11時〜午後6時(最終日は午後3時半)。
2020年8月15日
零下40度。凍てつくアムール川。ぶるぶる足の震えが止まらず、足踏みを止められないほどの寒さ―。極寒の地シベリア。敗戦後、旧日本軍兵士は、当時のソ連から、この地に抑留され過酷な労働を強いられました。収容所では、栄養失調、寒さ、発疹チフスがまん延。一冬に半数近くが亡くなり、日本の土を踏むことができませんでした。
東京都東久留米市の石井孫三郎さん(94)は旧「満州」(中国東北部)で、ソ連軍と戦った体験を直接語れる数少ない存在です。「二度と戦争を繰り返してはならない」を自らの「信条」として生きてきました。
石井さんは北海道小樽市生まれ。1942年、17歳で旧「満州」ハルビンの製糖会社に就職。敗色濃厚だった45年5月。ソ連との国境の町、アイ琿(アイグン)にあった、関東軍第6国境守備隊第612部隊に召集されました。軍隊生活は、軍事訓練とソ連軍戦車を落とす壕(ごう)を掘る土木作業でした。
45年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻。天皇が敗戦を宣言した翌日の16日、戦闘になりました。ピュン、ピュンと弾丸が飛び交う中、機関銃の弾運びが担当でした。ソ連軍戦闘機の機銃掃射が、パパパパーと砂ぼこりをあげるなか手も足も出ず、「タコつぼ」(個人用の小さな塹壕(ざんごう))に避難。部隊には反撃する大砲もありませんでした。「生きた気持ちはしなかった」といいます。
21日、全員に集合がかかり、旅団長から初めて戦争が終わったことが告げられました。敗戦から1週間近く、戦闘態勢のままでした。石井さんは「旅団長は停戦といった。敗戦とはいわなかった。それを聞いて『死ななくて良かった。どうしても生きて国へ帰らなければ』という気持ちが湧いた。どの兵士も同じ心境でした」と声に力が入ります。
武装解除され、ソ連軍に投降しました。辺りは日本兵や軍馬の死骸が散らばり、炎天下にものすごい死臭を放っていました。敵戦車に突っ込んだ兵士の死体が散乱していました。「私は戦争のむごたらしさを嫌というほど脳裏に焼き付けられました」と話します。
ソ連兵は日本兵の腕をまくり上げ、腕時計を取り上げました。石井さんたち捕虜部隊は「マンドリン」(自動小銃)を持ったソ連兵に、隊列の前後左右を取り囲まれて北に向かい行進しました。
黒河(コッカ)の町を通り抜け、国境のアムール川(黒龍江)に到着。はしけで対岸のソ連領ブラゴエシチェンスクに渡りました。
ソ連による日本軍兵士のシベリア抑留は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証した、ポツダム宣言に反する不当なものです。
「俺もなんとか死なずにすんだ」―。石井孫三郎さん(94)は、捕虜収容所のあった対岸のロシア領を見ながら、しみじみ思いました。2012年6月、中国を旅行、シベリアに移送される際、渡ったアムール川のほとり、黒河(こっか)を訪ねた時の感慨です。
鉄条網が張り巡らされた、大きな2階建ての建物で、シベリアでの収容所生活が始まりました。収容された日本軍兵士らは約800人。板の間に毛布を敷いて着のみ着のままの雑魚寝でした。朝起きたら死んでいる人、脱走を試み殺された人もいました。
朝暗いうちから夜遅くまで、ソ連兵監視のもと強制重労働に駆り出されました。中国側から川を渡って運ばれてくる、穀物の麻袋や燃料ドラム缶などの陸揚げ作業です。
シベリアの冬は零下40度以下にもなります。敗戦時の夏服と防寒用の外套(がいとう)や帽子、靴だけで、北海道生まれの石井さんでも耐えるのは至難のわざでした。かつて住んでいた中国のハルビンは零下30度程度でした。それより寒い、立っていられない、まつ毛まで凍りつく寒さでした。
食べ物は飯ごうのふたに、うすいアワのおかゆだけ。昼は硬い「レンガ」と呼ばれた黒パン1枚。おかずはなし。月に1回シャワーに入れましたが、シラミの攻撃に遭いました。
“鬼軍曹”だった班長が、敗戦を機に「おまえたち、絶対に死ぬな」とがらりと変わりました。何でも食べられるものを持ち帰ろうと班長が提案。作業中、手に入れたアワや高粱(こうりゃん)、大豆、コメなどを、上着やズボンのポケットに入れて持ち帰りました。
抑留生活が始まって1カ月頃から死者が出始めました。46年1月後半、収容所で発疹チフスが猛威を振るいました。毎日、何人もの死者が出ました。石井さんもかかり、高熱に2週間ほどうなされ、意識もうろうとした状態でした。薬もなく、同僚からのおかゆで一命を取り留めました。チフスで頭が狂い、走ってバタッと倒れて死んだ人もいました。
2月になると凍土が硬く埋葬用の穴を掘ることも不可能でした。収容所の馬小屋に、凍りついた遺体がうずたかく積み上げられていました。ところが一夜にして死体の山がなくなりました。アムール川の氷を割って「水葬」したと聞きました。
石井さんは46年2月、中国に引き渡され何年も強制留用(りゅうよう)され、炭鉱で働かされました。その後60年になって18年ぶりに帰国。和服姿のお母さんが神戸港に迎えに来てくれ、「石井孫三郎おりますか」と叫び再会。抱き合って喜んだことを鮮明に覚えています。
石井さんは「生き延びた命をみんなのために役立てたい」との思いから日本共産党に入党。同郷のプロレタリア作家、小林多喜二の生き方に影響を受けました。
67年、党本部から旧チェコスロバキアのプラハにあった『平和と社会主義の諸問題』誌の編集局に派遣されました。68年、チェコ事件「プラハの春」が起きました。引き続き「赤旗」チェコ常駐特派員として取材活動を続けました。
チェコ事件は、ソ連と東欧4カ国の軍隊がチェコの主権と独立をおかし侵入。政府・党の指導部を逮捕して、全土を占領した事件。日本共産党はソ連の大国主義に断固抗議、不当な干渉の即時中止と軍隊のすみやかな撤退を要求しました。
石井さんは、自主独立の党の立場で真実を伝える記事を堂々と書き続けました。「ソ連の内部資料によるとソ連はわが党の抗議への対策を、書記局会議で正式に決定していました。ソ連の言論弾圧で見張られ、一人で外を歩けない時もあった。にらまれてね。チェコの外務省新聞局から呼び出されて警告を受けたこともあったよ」と振り返り「ソ連は許しがたい存在」とゆっくりと重々しく言葉を吐きました。
石井さんは訴えます。「いまでも戦争映画を見るのは嫌です。人殺しの映画も嫌です。いま戦争を放棄した日本国憲法9条を葬り去り、日本を戦争する国にしようとする動きが、一段と強められていますが絶対に許すことはできません」
(遠藤寿人)
2020年8月14日
5人姉妹の三女に生まれた猪狩和子さん(88)。「女ばかりでお国にささげる命がなく申し訳ない」が祖母の口癖でした。1944年から集団疎開が始まり、妹2人は養護教員として児童を引率する母とともに群馬県へ。猪狩さんは姉2人と祖母と住んでいた東京都北区(当時王子区)豊島1丁目に残りました。
同年、12歳で高等女学校に入学。おとなの仲間入りし「帝都を守る隊列に加わった」と誇りを感じました。まともな授業は行われず、竹やりでの攻撃や負傷者を救護する訓練に明け暮れました。
「女子は兵隊に行けないから看護婦になって従軍するのが憧れ。上級生を相手に三角巾の使い方や止血の仕方を練習しました」
東京への空襲はサイパン島陥落後の44年11月から本格的に始まります。北区域は12月に初の空襲を受け、最大の被害は45年4月13日夜から14日未明にかけての城北大空襲でした。王子区では区役所や陸軍兵器補給廠(しょう)などの官公署、王子製紙など民間工場が焼失しました。
猪狩さんの自宅や女学校も焼けました。建物疎開跡の空き地に避難し、家が燃えるのをただ眺めていたといいます。「それまでバケツリレーや火はたき(火元をたたいて消す大きなはたき)で訓練していた。あんなもので空襲の火が消せるはずがないのに」。祖母は防火訓練ではしごから落下した骨折がもとで終戦直前の7月、「アメリカが憎い」と言って亡くなりました。
自宅を焼けだされてもなお、猪狩さんは日本が戦争に勝つことを疑いませんでした。学徒動員で印刷工場に派遣され紙幣を刷る業務の補助に携わります。
8月15日。おとなたちから「日本は負けたらしい」と聞き、皇居前広場に足を運びました。「私たちの力が足りず神風を呼ぶことができませんでした」と土下座して天皇にわびました。「沖縄の占領も原爆投下も知らない子どもだった。情報の統制と戦前の教育が軍国少女を生みました」
終戦直後は食糧難とのたたかいでした。女学校は休学扱いのまま。すぐ上の姉が音楽大学在学中に「卒業し就職したら復学させる」と約束しましたが、かないませんでした。「だから私の最終学歴は国民学校卒なんです」
生活のために14歳で銀行に就職し、職場結婚して定年まで勤め上げました。
治安維持法でとらわれた人たちの解放をニュース映画で知り、戦争に反対した人がいたのだと驚きました。「二度とお上にだまされたくない」との思いから新憲法が公布・施行されてもすぐ読まず、『あたらしい憲法のはなし』から学び直したのは結婚後でした。
「職場で組合にかかわり労働者の権利を自覚するなかで、実体験と憲法が結びついていったと思います」
今も憲法や安保条約についての学習を怠らない猪狩さん。「国民がよく勉強しないと、あっという間に憲法が変えられてしまう。権力を縛る憲法を理解しない安倍さんにこれ以上任せてはいけないね」
(古荘智子)
2020年8月12日
スポーツや俳句などで親交を深め、仕事を分け合う。そんな活動をしていただけで逮捕され、獄中で拷問をうけた。あるいは、絵を描き、レコードを聴くことも罪に問われた▼「なぜこんな理由で捕まるのかという事例が次々に出てくる」。戦前日本の治安維持法で検挙された人たちの記録をまとめた西田義信さんはいいます。言論や表現、集会や結社。いまでは憲法で保障された、あらゆる自由が取り締まりの対象になったことが記録からもうかがえます▼国や政治を批判し、現状を変えようとする市民や運動は犯罪者、犯罪集団。どんな口実を使ってでも捕まえろ―。狂気の弾圧の後ろ盾となった治安維持法がいま、香港で猛威をふるっています▼民主化運動を象徴する周庭さんや、中国に批判的な香港紙を創刊した黎智英(れい・ちえい)さんらを相次いで逮捕した香港警察。中国政府から押しつけられた国家安全維持法に反したと。影響ある活動家を拘束することで運動を沈め、人権を抑圧する狙いです▼この法のもとでとんでもない恐怖感が今の香港にはある。そういって収監の可能性に言及していた周庭さん。「でも私にとって香港の民主運動に参加することは光栄だと思います」と、日本や世界に支援を呼びかけていました▼なりふり構わぬ大国の暴圧に抗する。あの暗闇の時代、私たちの党をはじめ、いまや当たり前の戦争反対や民主主義を求めて迫害された先人たち。時をこえ、命をかけてたたかう人びとに通じる思い。それは、未来への希望です。
2020年8月12日
日本共産党は、香港の人権抑圧は国際問題であるとの立場から、中国当局に対して、抗議行動弾圧の即時中止、「一国二制度」の尊重、事態の平和的解決を繰り返し要求してきました。
昨年10月15日、志位和夫委員長は孔鉉佑(こう・げんゆう)駐日中国大使と会談。平和的デモを当初から「組織的暴動」とみなし、香港政府の抑圧的措置に支持を与えてきた中国政府の立場を批判するとともに、事態の平和的な話し合いでの解決を求めました。
11月14日には、志位委員長が声明を発表。「重大なことは、香港当局の弾圧強化が、中国の最高指導部の承認と指導のもとに行われていること」と指摘。中国の「対応と行動は、民主主義と人権を何よりも重視すべき社会主義とは全く無縁」と述べ、中国指導部に対して弾圧の即時中止を求めました。
今年1月の日本共産党第28回大会では、中国の大国主義・覇権主義、香港などでの人権問題を重視。中国を「社会主義をめざす新しい探求が開始」された国とみなすこれまでの規定を削除しました。
中国の全人代常務委員会が「香港国家安全維持法」を採択した6月30日には、志位委員長が談話で、「香港での人権抑圧をいっそう強め、中国の国際公約である『一国二制度』を有名無実化する暴挙」だと指摘し、同法の撤回を要求しました。
志位委員長は、同法施行後の7月2日の会見で、「香港独立」という旗を持っているだけで逮捕されていることに触れ、「戦前の治安維持法と同じであり、言語道断の弾圧法」だと指摘し、これを許さない声を国際社会としてあげていくことの重要性を強調していました。
2020年8月5日
戦中、日本の詩人は大政翼賛会の合同詩集に動員された。フランスの抵抗詩と対比されるが、故国をナチスに占領され、地下活動の存在したフランスと、自国がアジア諸国を植民地支配し、戦争の批判者は非国民とされ、治安維持法で徹底的に弾圧された日本では、詩人のおかれた状況がちがっていた。
そんな戦中の日本でひそかに抵抗詩を書いた詩人がいた。階戸(しなと)義雄である。晩年の階戸と交流のあった熊井三郎が『詩人会議』8月号の「戦時下の火喰(ひくい)鳥―階戸義雄の詩と生涯」で経緯と作品を紹介している。
階戸は1908年生まれで、昭和初期のプロレタリア文学運動時代には大阪外国語学校でロシア語を学び、文学運動の機関誌『戦旗』の普及活動をした。詩や小説に親しんでいたが、自分で創作したわけではなかった。
1930年と36年、治安維持法違反で投獄され、腸結核で死にかけて仮釈放。金沢の母にひきとられ、病床で詩作をはじめる。寸分ひるまない抵抗詩だ。作品は大阪のコンニャク屋の樽(たる)倉庫に隠してもらった。62年の詩集『風雪の暦』で日の目を見る。
階戸は戦後、日本共産党の石川県委員長をつとめた。戦中にも屈しない詩魂があったことを多くの人に知ってもらいたい。(槐)
7月
2020年7月26日
『[新編]日本女性文学全集』全12巻は、近代から現代までの女性文学を集成した日本で初めての体系的な女性文学全集である。2007年8月から刊行を開始して第4巻までを菁柿(せいし)堂が、第5巻から第12巻までを六花(りっか)出版が刊行し、2020年3月に完結した。13年かかったが、全集出版が困難な時代に志ある書肆(しょし)2社のお陰で完結までたどりつけたことは感無量である。
従来、女性文学の評価は男性文学に比して極めて低く、例えば筑摩書房『現代日本文学全集 増補決定版 全143巻』(1973〜1975年刊行)で、各巻の表題に名前がある女性作家は、14人しかいない。それも単独で入っているのは6人で、樋口一葉でさえ合本であった。しかし、近年はフェミニズム批評・ジェンダー批評の進展により、女性文学の読み直しと再評価が進み、その位置づけは大きく変容した。
そうした時代状況を背景に刊行した本全集は、埋もれてきた女性文学者と作品の掘り起こしに留意して92名の作家の200点の作品を収録し、女性文学の豊饒(ほうじょう)な全体像と深化を可能な限り周密かつ包括的に浮かび上がらせることをめざした。
また、女性たちが何を考え、表現しようとしたかを通して、男性文学とは異なる女性文学独自のテーマや視点を浮き彫りにし、女性文学が切り拓(ひら)いてきた文化と地平を明らかにした点に特色がある。
各巻には、フェミニズム批評の泰斗や新進気鋭による総解説ならびに各作家の年譜、作品の解説・解題を付し、研究刷新にも寄与したと自負している。
12巻のラインアップについて、大まかに一端を紹介したい。第1巻は、明治20年代前半の三宅花圃(かほ)や清水紫琴たち黎明(れいめい)期の作家。第2巻は、明治20年代後半から30年代にかけて台頭した樋口一葉や田沢稲舟(いなぶね)など。第3巻は、主として明治40年代の大塚楠緒子(くすおこ)や永代美知代など。第4巻は、明治44年9月刊行の『青鞜』を中心にした平塚らいてうや田村俊子たち。
第5巻は、大正初年から昭和初年にかけて登場した宮本百合子や野溝七生子(なおこ)など。第6巻は、昭和初頭から太平洋戦争を背景に頭角を現した林芙美子や佐多稲子など。第7巻は、戦中から敗戦後にかけて活躍した岡本かの子や宇野千代など。
第8巻は、戦後注目された円地文子や幸田文など。第9巻は、石牟礼(いしむれ)道子や林京子など主として社会派的作家たち。第10巻は、本格的な戦後女性文学の出発を印象づけた大庭みな子や富岡多惠子など。第11巻は、さまざまな近代幻想を解体した森瑤子や津島佑子など。第12巻は、現在活躍中の新鋭・山田詠美や小川洋子たちである。
以上のように本全集は、近現代女性文学120余年の全体的な営みと歴史を俯瞰(ふかん)する試みであり、いずれの巻でも、女性が書くことを通して時代の深部に迫る主体となりえたことが証された。こうした女性文学の真価を、多くの読者に感得してもらえることを切に願っている。
(いわぶち・ひろこ 日本女子大学名誉教授)
岩淵宏子・長谷川啓監修 六花出版(各5000円)
2020年7月26日
日本共産党山形県委員会は25日、高橋千鶴子衆院議員を囲んで「なんでも語る会」を山形県米沢市と川西町で開きました。広く参加を呼び掛けた米沢市の会場では、高橋氏の訴えに2人が入党しました。参加者は「奨学金を借りながら仕送りなしでアルバイトを数カ所掛け持ちしてやりくりしていたが、コロナ禍でバイトがまったくなくなった。後に休業補償が支払われたが、来月で終了する」「教科書と通信教育と変わらないオンラインだけの授業でリポートを提出するのは大変。精神的にきつい」と発言。学生の本分の講義や、自粛でバイト先がなくなるという厳しい実態を語りました。
高橋氏は「学生は支援制度を活用するなど行動を起こしていて、もっと制度を知らせる必要があります」と丁寧に答えました。
「中国政府は、香港で戦前の治安維持法と変わらない人権抑圧をしている。日本共産党の姿が誤解されて伝わっていることが心配です」と質問する男性。高橋氏は、「日本共産党は中国共産党とは根本的に違い、人権抑圧にズバリとものを言う政党です」と答えました。
2020年7月21日
「むずかしいことをやさしく/やさしいことをふかく/ふかいことをゆかいに/ゆかいなことをまじめに/書くこと」▼記者として心がけているこのことは、小説家で劇作家の井上ひさし氏の言葉です。氏が55歳だった1989年から75歳で亡くなる2010年まで暮らした鎌倉市の鎌倉文学館で、没後10年を記念した特別展が開かれています▼みずみずしい緑の山並みと、波光きらめく海に囲まれた古都。氏は、この街の緑地保全運動にも力を注いだといいます。「生活者の視点」を掲げ、日本の農業を壊すとして米の輸入自由化に反対し、「平和のために」と叫ばれた時が危ないと自衛隊の海外派遣に警鐘を鳴らし、被爆者の取材を重ねて核廃絶を訴えました▼2004年「九条の会」発足に参加。翌年「鎌倉・九条の会」を立ち上げます。「平和」という言葉が力を失っていると指摘し、「日常」を使いました。「『平和を守る』『憲法を守る』というのは、『私たちのいま続いている日常を守ることだ』と言い直すようにしています」と▼最後の戯曲となった「組曲虐殺」は作家・小林多喜二の評伝劇です。天皇制国家の苛烈な弾圧下、言葉の力で社会を変えるべく奮闘する多喜二が、自らを励ますために歌います。「愛の綱を肩に/希望めざして走る人よ(略)あとにつづくものを/信じて走れ」▼震災後も原発に固執し、核兵器禁止条約に署名せず、憲法改悪を画策する現政権を、氏はどう思うだろう。希望めざして走れ、と励ます声が聞こえます。
2020年7月14日
京都の宇治川を見おろす白虹橋近くに、詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)の「記憶と和解の碑」が立っている。そこは、日本に留学していた尹東柱が同志社大学の同期生らとともに訪れ、彼の人生で最後の写真を撮ったゆかりの地である。
「娘が通り 風が立ち/わたしの道は いつも新しい道」という詩碑に刻まれた文字が詩人のひたむきさと清心さを伝えている。
『尹東柱詩集 空と風と星と詩』を読むと、いつのまにか彼の詩の世界に包まれ、言葉の清烈さに身を洗われる思いになる。戦時中の日本で尹東柱は時局に迎合せず、日本語ではなくハングルで詩を書いた。
1943年、治安維持法に違反したとして実刑判決を受け、福岡刑務所に送られた。45年2月16日、彼の27歳の命は獄中で摘みとられた。
昨年、詩碑のかたわらに韓国の国花、木槿(ムクゲ)の若木が植えられた。ところが、その枝がたびたび折られている。引きちぎられた何本もの枝に胸の痛みを覚えながら、ふと、ある言葉を思い出した。記憶とは過去ではなく、いまの意識である、という言葉だ。
私たちはいまの意識の在りようを問われている。過去のあやまちを繰り返すのか、過去の記憶を生かすのか、と木槿の若木が突きつけている。(莉)
2020年7月7日
日本と朝鮮は歴史的に、違う言葉と慣習、食習慣を作りあげてきました。日本はこの違いを無視して植民地支配を強行、大きな抵抗を生みました。
短期間に朝鮮の民俗・習慣を無視して日本化を進め、朝鮮人と朝鮮文化を差別したこと、日本の利益を前面に朝鮮の土地と人を収奪し、豊富な人材と文化、豊かな土地、資源を持つ国を奪ったことが広範な抵抗を生んだ理由です。
朝鮮人民衆の日本へのさまざまな形での抵抗を取り締まるため、日本は韓国政府に1907(明治40)年、保安法を制定させました。同法は「政治に関し不穏の言論動作または他人を煽動教唆(せんどうきょうさ)」などによって治安を妨害するものに2年以下の懲役などの重い刑を科し、日本の侵略を批判する言動を取り締まりました。
1919年に三・一運動が起きると、その弾圧のために同年4月、「政治に関する犯罪処罰の件」(制令7号)を公布・施行。最高刑を10年以下の懲役または禁錮と大幅に引き上げました。1925年に日本国内で治安維持法が成立すると朝鮮でも同時に施行され、独立運動や社会運動を弾圧しました。
朝鮮民衆は三・一運動のような直接的な行動以外にも、さまざまな抵抗をしました。日本の戦争遂行政策とそれへの抵抗といえる事例を挙げます。
・戦時下の日本と同様に朝鮮でも、天皇誕生日などの祝日に日本国旗を揚げることが強制されていましたが、朝鮮で発行されていた日本語新聞の釜山日報には、朝鮮人が「玉のない国旗」を揚げていたり、はなはだしい時には5日間もぶっ通しで掲げているという嘆きが載っています。「玉のない国旗」とは、赤い「日の丸」のない白い旗のことで、それを何日も揚げているのは不敬だと指摘しているのです。朝鮮人にとって、なんのために挙げるのか理解できなかったのです。
・1942年10月、慶尚北道の警察部長が大邱地方法院の検事正に出した文書には、米を供出した後に自家消費の食がなくなった農民が、配給日をねらい、警察や面事務所(日本の村役場に当たる)に押しかけて配給を要求したという報告があります。そのような行動が広がっているという内容です。
・朝鮮農政の研究者、総督府小作官の久間健一は、『朝鮮農政の課題』(1944年)で、農民は米の収穫直前、あるいは刈り取り、脱穀、小作料納付時などに98の不正な方法で米を盗み取ったと詳細に書いています。食糧難のなかで生命を維持するための農民の抵抗の一つでした。
・強制動員で日本に連れてこられた労働者も、食糧不足などで集団での紛争はめずらしくありませんでした。職場から逃亡したそれらの人は、朝鮮人集住地区や追及されない軍の作業場に入り込みました。そのため工場の現場などでは労働者が不足し、逃亡が見つかるとひどいリンチで死亡することもありました。
抵抗したために、保安法、制令7号、治安維持法の3法が適用された朝鮮人の総計は1907〜1941年末までで1万5032人で、件数は2549件となっています(朝鮮『司法協会雑誌』22巻11号、1943年の掲載論文から)。この数字は、裁判の第1審で有罪となった人のみです。
朝鮮人の多くの人々が朝鮮内の各刑務所に収監されました。現在、観光地のソウルでは、3法が適用された人々が収監されていた西大門刑務所が、当時の様子を伝えるために公開されています。
1945年8月15日を迎えた朝鮮人は、朝鮮全土、外国にいた大半の人々が解放を一斉に祝い行進しました。朝鮮人にとってこの日は「解放」の日で、現在でも祝日です。
(ひぐち・ゆういち 朝鮮史研究者)
2020年7月3日
日本共産党の志位和夫委員長は2日、国会内での記者会見で、国際問題について記者団の質問に答えました。
香港で「国家安全維持法」にもとづく逮捕者が出ていることを問われて、志位氏は、すでに同法による逮捕者が多数出ており、「香港独立」という旗を持っているだけで逮捕されていることに触れ、「戦前の治安維持法と同じであり、言語道断の弾圧法であって、決して許すわけにはいきません。国際社会としても、これを許さないという声をあげていくことが大変重要だと考えています」と強調しました。
志位氏は、日本共産党が中国の人権問題について、1998年の日中両党の関係正常化の際、天安門事件での日本共産党の立場を伝えたことをはじめ、作家・劉暁波氏のノーベル賞受賞に対する中国政府の対応、チベット、ウイグル、香港での人権侵害について、その都度批判してきたと指摘。日本共産党第28回大会の綱領一部改定報告で、中国の覇権主義的ふるまいと香港での人権侵害について厳しい批判を行うとともに、中国側に直接是正を求めてきたことを述べました。
その上で志位氏は「今回の問題で、中国は『一線を越えた』と思います。どこを越えたか。これほどあからさまに人権にかかわる国際的な取りきめをふみ破ったことは、これまでと比べても質的に違います」と強調。「一国二制度」は中国の国際公約であり、言論や表現、集会の自由を認めると世界に約束したものだとして、「国際社会があいまいにせず、その世論と良識でこの暴挙を止めていくことが強く求められています」と述べました。
ロシアの憲法改定で、第2次世界大戦で確定した領土について、交渉の対象にしないとする内容が明記されたことを問われた志位氏は「日本との関係では、国後・択捉を交渉の対象にしないということになります。第2次世界大戦の結果となれば交渉の対象にならない。プーチン政権の覇権主義がむき出しの形であらわれたもので、強く抗議したい」と表明しました。
志位氏は、国内的措置で決めたとしても、国際的には効力がないと指摘。「日本共産党は、かねてから主張してきた全千島の返還を強く求めます。その立場で道理にたった交渉、とくにヤルタ協定、サンフランシスコ条約にもとづく戦後処理の不公正を正すことで、問題解決することを強く求めたい」と語りました。
あわせて、今回の憲法改定は、安倍対ロ外交の大破綻を示すものだと強調。「交渉の対象にしないと憲法で決めてしまえば、安倍首相が語ってきたプログラムは崩壊するわけです。これまでの対ロ交渉、領土交渉のあり方の根本的な見直しが必要だと強くいいたい」と述べました。
2020年7月3日
日本映画復興会議は、代表委員を務めた故大澤豊監督に第37回(2019年度)日本映画復興特別賞を贈ります。5月30日に予定していた贈呈式は新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止し、遺族に記念品を送ることにしています。
大澤監督は1935年(昭和10年)群馬県高崎市に生まれ、映画大好き少年として育ちました。今井正監督の「ここに泉あり」に触発され、群馬大学教育学部を卒業後、映画の世界に美術助手として飛び込み「武器なき斗(たたか)い」(監督山本薩夫)などの独立プロ作品に参加します。「武器なき斗い」は60年安保の年に製作。治安維持法改悪に反対して右翼の凶刃に倒れた山本宣治を描く作品で、映画の完成後に、当時の社会党委員長の浅沼稲次郎が右翼の青年に刺殺される事件があるなど、大澤さんの思想に強い影響を与えます。
勅使河原(てしがはら)宏監督の「おとし穴」(62年)で念願の助監督になり、同監督の数本の作品に参加。
さまざまな撮影現場を経験した大澤さんに監督昇進の話が舞い込みます。東京をはじめ全国に広がっていた親子映画運動高揚期の78年に第1回監督作品「ガキ大将行進曲」がクランクイン。作品は親子映画の枠を超えたと高い評価を得ます。
才能を開花させた大澤監督は平和や人権をテーマに作品を発表し、81年、監督仲間である神山征二郎氏、後藤俊夫氏らと「こぶしプロダクション」を設立し映画界に新風を吹き込みます。
しかし、独立プロの映画製作には常に経済的な困難がつきものです。厳しい状況のなかで「アイ・ラヴ・ユー」や「遥(はる)かなる甲子園」など感動作を発表し監督として成熟度を高めていきます。また憲法シリーズ「日本の青空」では、優れた作家姿勢と創作活動を見せました。苦労を重ねながらも最後まで自由と民主主義と平和を愛した映画監督でした。
(かつら・そうざぶろう 映画製作者・日本映画復興会議代表委員)
6月
2020年6月17日
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟は15日、宇都宮けんじ都知事候補勝利へ、全国の会員に支援を呼びかけました。呼びかけは同中央本部・増本一彦会長と同都本部・吉田万三会長の連名です。
呼びかけ文は、都知事選がコロナ危機の下で都民の命と健康、くらしと営業を守る、生存権の保障をかけた選挙と強調。小池百合子都知事が「築地は守る、豊洲は生かす」とした公約を破ったことなどを批判しました。
市民と野党の統一候補である宇都宮けんじさんの勝利は、安倍政権に痛打を与え、日本の政治を変える大きな一歩になるとし、全国の会員に支援と募金の協力を呼びかけています。
2020年6月2日
野党共闘時代の到来が治安維持法に反対し右翼テロに倒れた代議士・山本宣治の研究に新たな光を当てている。私は長年、戦前の日本共産党系唯一の代議士である山宣について研究し、いつの間にか彼に「悲劇の人」「孤高の人」というイメージを抱くようになっていった。
そのイメージを壊したのが、立憲民主党の安住淳国対委員長だった。1月の日本共産党第28回党大会で来賓あいさつに立った安住氏は、「山本宣治が貫いた、常に大衆とともに生き大衆のために立ち上がる信念を胸に刻み込みながら、皆さんと一緒にたたかっていきたい」と大会参加者たちに話しかけたのである。
議員会館の安住氏の部屋には、労農党の委員長を務めた大山郁夫の書いた墓碑銘「山宣ひとり孤塁を守る だが私は淋(さび)しくない 背後には大衆が支持してゐるから」(山宣の暗殺される直前の演説文)が掲げられているという。日本共産党の穀田恵二国対委員長から贈られたものだそうだ。従来私はこの墓碑銘について、「孤塁を守る」という部分、すなわち、山宣はなぜ孤立しながらも転向せず信念を貫き通せたのかについて問う研究姿勢をとってきた。
安住氏はむしろ「大衆が支持してゐるから」に感銘を受け、山宣は「社会の片隅に追われた人びとのために命を燃やし、政治家としての人生を全うした」と語った。立憲民主党の国対委員長が共感する山宣の生きる姿勢とは何か、今まで私が描いてきた山宣像と違うものがあるのではないか。当時の資料を求め、国会図書館に通った。
1929年3月5日、衆議院本会議では水谷長三郎が反対演説を行っている最中に、与党政友会から打ち切り動議が出され、採決の結果、249対170で治安維持法事後承認案が可決された。じつに、反対170票だった。
山宣は治安維持法そのものに絶対反対の立場だったが、他の議員たちも程度の差はあれ、治安維持法が死刑法になることへの危険性を指摘し、反対したのである。従来、この点の認識が私も含めて不十分だったような気がする。
好戦的な論調で知られた東京朝日新聞の社説でも、「緊急勅令をもって人を死刑に処するということは、前代未聞、而(しこう)して必ず絶後となるべきことである」と治安維持法の死刑法改悪の無謀さを説き、これに反対する論をはった。(松尾洋『治安維持法』)
山宣は選挙戦で圧倒的多数の人びとの支持を得、議会でも一人で治安維持法改悪に反対したのではなかった。
これは先行研究者たちが繰り返し述べた点ではあるが、私は、あの暗黒の時代に無産政党や立憲民政党などが山宣の死を追悼し、右翼テロを立憲主義の危機として訴えていた事実を軽んじてきた気がする。情勢の進展が新しい研究の契機となったのである。野党共闘時代の到来という時代が、歴史研究に新しい光をあてることになった。
山宣は科学の力で政治を考えた先駆者である。新型コロナ肺炎感染が拡大する日本と世界のなかで、山宣生誕(5月28日)131年目のいま、科学的なものの見方で共同する意義を考えたい。(ほんじょう・ゆたか 社会運動史研究者)
山本宣治 京都出身の生物学者・性科学者。1928年第1回男子普通選挙で労農党より立候補し当選。29年東京で暗殺される。39歳
(5月)
2020年5月23日
検察庁法改定案の撤回を求めて、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の吉田万三副会長、東京都本部副会長ら5人が20日、都内のJR御茶ノ水駅頭で宣伝しました。「検察人事へ政権介入を進める『検察庁法』の改定に反対し撤回を求めます」と横断幕を掲げました。
吉田副会長は、「この改悪は、戦前・戦中の治安維持法体制で、特高警察を指揮し国民を弾圧し、拷問・虐殺した『思想検事』体制の再現を狙う。憲法の三権分立を蹂躙(じゅうりん)するものだ」と指摘。「しかし多くの国民の世論と元検察官、弁護士会など法律の専門家の反対で今国会での成立は断念させました。撤回を目指し、国民のみなさんとともに取り組みを強めよう」とよびかけました。
14日には検察庁法改定に反対する声明を安倍晋三首相に送付しました。
2020年5月15日
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央本部(増本一彦会長)は14日、「治安維持法体制下の『思想検察』の復活を狙う検察庁法の改定に断固反対する」と題した声明を発表しました。
安倍政権が衆院内閣委員会で強行採決を狙う検察庁法改定案について、内閣が必要と判断すれば検事長や検事総長の定年延長を認める規定があるとして「政権に奉仕する検察体制を構築しようとしている」と警鐘を鳴らしています。
また、秘密保護法や戦争法、共謀罪法をはじめとする「戦争する国づくり」の一環で「治安維持法体制下で特高警察を指揮して国民を弾圧した戦前・戦中の『思想検事』体制の再現を狙っている」と厳しく指摘。「国民の怒りの声に耳を傾け、ただちに法案の撤回を強く要求する」としています。
主婦連合会(有田芳子会長)は13日、検察官の定年を引き上げる検察庁法改定案に反対する意見書を政府に提出しました。
意見書では、内閣や法務大臣の裁量で検察官の定年延長が可能になることは「不偏不党を貫いた職務遂行が求められる検察の独立性が侵害される」と批判。「憲法の基本原則である三権分立を崩壊させるおそれもあり」「日本の民主主義の根幹を揺るがすことになります」と述べています。
2020年5月14日
千葉県市川市を訪れました。戦前の階級的労働運動や日本共産党の指導者として奮闘した「渡政(わたまさ)」こと、渡辺政之輔(まさのすけ=1899〜1928年)が生誕し、少年時代を過ごし、墓所のある地です。「渡辺政之輔を偲(しの)ぶ会」事務局長の阿部武弘さん、「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟」顧問の藤田廣登さんに案内してもらいました。
京成線・国府台(こうのだい)駅から北に300メートル、松戸街道沿いに立つ4階建てマンションが生家跡です。すぐそばを利根川水系の江戸川が流れ、対岸は東京都です。渡政が卒業した市川小学校はJR総武線・市川駅北口から歩いて数分、国道14号沿いにあります。校庭の大きなプラタナスは、渡政が同校に通っていたころからあるものです。
国道14号から古刹(こさつ)・弘法寺(ぐほうじ)に通じる大門通りを10分ほど歩くと、伝説の美女をまつる手児奈(てこな)霊神堂があります。少年時代の渡政の遊び場でした。
渡辺一家が東京に転居した17年ごろ、渡政は本所亀戸(現江東区)のセルロイド工場に勤務し始めます。以後、南葛(旧南葛飾郡)地域の労働者の組織化をはじめ、日本労働組合評議会などの中心人物として活動しました。
22年には創立直後の日本共産党に入党、中央委員や委員長を務めました。治安維持法による大弾圧下の党存続の危機を救い、最初の綱領的文書「27年テーゼ」の作成に参加し、機関紙「赤旗(せっき)」を創刊。藤田さんは「小学校卒の学歴ながら、労働者出身者として労働者中心の党建設に努力しました。これも渡政の重要な業績です」と指摘します。渡政の不屈の活動を支えていたのは徹底した学習でした。
渡政が党務で上海からの帰路、台湾・基隆(キールン)港で官憲に襲われ、拳銃で自死したのは28年10月6日。29歳でした。
国府台駅から南に徒歩5分、安国院の墓所に渡辺家の墓石と渡政と母・てうさんの墓碑があります。現在の墓碑の建立は渡政の三十三回忌にあたる1960年でした。お墓の管理をしているのが「渡辺政之輔を偲ぶ会」です。「毎年10月、渡政の命日のころ墓前祭を開催しています」と阿部さん。
帰途、市川駅南口に隣接する「アイ・リンクタウン展望施設」へ。地上150メートル、さえぎるものがない360度の眺望が楽しめます。川べりで渡政少年も遊んだだろう江戸川が北から南にゆったりと流れています。ツルシカズヒコ
【交通】都営新宿線新宿駅から本八幡駅、京成線京成八幡駅から国府台駅まで約35分。JR総武線新宿駅から市川駅まで約35分
【問い合わせ】「渡辺政之輔を偲ぶ会」事務局・阿部武弘さん 電話080(5195)3044
2020年3月23日
句作に評論、エッセー、テレビの俳句番組の司会と、幅広く活躍している神野紗希さん。今年1月から本紙「俳壇」の執筆も始めました。現代俳句協会の青年部長も務め、2019年には、優れた女性俳人を表彰する桂信子賞(柿衛〈かきもり〉文庫主催)を受賞しました。(平川由美)
愛媛県松山市の出身です。近代俳句の祖・正岡子規の母校である松山東高校に学び、高校3年の時に俳句甲子園で団体優勝。〈カンバスの余白八月十五日〉が最優秀句に選ばれました。
「俳句と出合って、なんて自由なんだという解放感がありました。無理に個性的になったり飾ったりせず感じたことを表現すればいい。ただの私でいられました。俳句の前では地位や年齢、性別、人間か否かも関係なく、等しく今を生きる命です。蚊も蠅(はえ)も、ごきぶりも夏の季語で、どんな存在も排除しません。俳句は本来、肯定の詩型です」
しかし、俳句界も社会の価値観と無縁ではありません。ある俳句雑誌の若手俳人特集では、女性はピンク、男性は青に色分けされました。「たおやかに、華やいで」「百花繚乱(りょうらん)」などとうたい女性俳人の特集が組まれることもあります。こうした見過ごされがちな問題を雑誌の俳句時評で「俳句とジェンダー」と題して論じ、反響を呼びました。
「性別を区分する必要があるのか、男女に振り分けられない人もいるのにLGBTへの配慮がないのではないか。例えば〈咳(せき)の子のなぞなぞあそびきりもなや 中村汀女(ていじょ)〉を愛情深い母の句と読む必要はなく、育児をしている父でもいいはずです。性別にとらわれた読みは『らしさ』を押し付け、誰かを疎外しかねない。いろいろな読みを提示して、この世界に多様な人たちが生きていることを確認していきたいと思います」
産めよ殖やせよぶらんこの脚閉じよ 紗希
和歌などの古典文学が戦意高揚に政治利用された歴史を踏まえ、俳句を「美しい大和言葉」として賛美する昨今の国粋主義的傾向を警戒しています。
大学院では、昭和初期に始まった新興俳句運動を、治安維持法による弾圧も含めて研究しました。
「新興俳句の特徴は、自由であること、主観を大事にしていることです。従来の俳句にとらわれず、戦争へ向かう社会不安も背景に、俳句で何ができるのかを追求したみずみずしく鋭い作品が生み出されました。表現者として社会との接点をどう持つのかを教えてくれたのも新興俳句でした」
30代に入って、正岡子規の研究に本格的に取り組み始めます。結核に苦しみ痛みで七転八倒しながらも、俳句や短歌を詠み、草花を描き、旺盛に食べ、34歳で亡くなる日まで自分の人生を生き切った子規。
「ちょうどその頃、妊娠して、その小さな命がいつ失われてもおかしくないような切迫した感覚がありました。子規が残り少ない時間を自覚しつつ俳句の革新にも果敢に声を上げ続けた思いが、体の底から実感できるような気がしました」
産み終えて涼しい切株の気持ち 紗希
子育てして買い物して、電車に乗って、そんな日々の生活が俳句にもそのまま反映されるのが自然ではないか、と言います。それぞれの生きる態度が作品になることで、社会が変わっていくのではないか、と。
「社会性俳句というと一種の政治活動のように捉えられがちですが、今、社会の中で生きている私たちが喜んだり苦しんだりしていることを詠もうよ、ということです。自分の心地よい所に閉じこもっているだけではだめで、現実と向き合い、社会と積極的に関わって発信していく。決められたことから逸脱する俳句本来の自由な突破力を生かしていきたいと思います」
細胞の全部が私さくら咲く 紗希
こうの・さき 1983年生まれ。お茶の水女子大学大学院博士後期課程修了。句集『星の地図』『光まみれの蜂』、著書『女の俳句』『もう泣かない電気毛布は裏切らない』ほか。明治大学・聖心女子大学講師
2020年3月20日
藤野保史議員は10日、衆院法務委員会で、黒川弘務・東京高検検事長の定年延長問題をめぐって、法務省が検察官の定年延長の正当化のために戦前の大日本帝国憲法下の法律を参考にした問題をただしました。
藤野氏は、5日の法務委員会理事会に提出された「検察官の勤務延長について」との文書には「検察庁法のいわば前身である裁判所構成法(明治23年法律第6号)」の趣旨と国家公務員法の定年制度の趣旨との間に「差異はない」と書かれており、今回も適用するとの論立てではないかと追及。森雅子法相は「文書は検討過程のものにすぎない」と強弁しました。
藤野氏は、戦前の明治憲法下で司法権は天皇に属し、裁判官や判事の人権、身分保障は司法大臣の監督下にあり、「三権分立がきわめて不十分な法体系だった」と指摘。そのもとで治安維持法や特高警察による弾圧、拷問などが相次いだからこそ、日本国憲法に詳細な刑事手続きの人権保障が明記され、裁判所法と検察庁法が制定されたと指摘し、「定年は身分保障の根幹だ」と強調しました。
藤野氏は「戦前の法律を持ち出して、日本国憲法のもとで積み上げられてきた今の解釈を踏みにじるなど到底許されない」「国民の生活を守る『公僕』を一内閣の『官吏』とするものだ」と迫りました。
2020年3月9日
東京高検の黒川弘務検事長の定年延長をめぐって、安倍晋三首相は「検察官の勤務延長については、国家公務員法の規定が適用されると解釈する」(2月13日、衆院本会議)とし、法解釈の変更を宣言しました。その問題点について、元刑法学会理事長の村井敏邦一橋大学名誉教授に聞きました。(中野侃)
―そもそも検察官の処遇にかかわる法解釈が変更されることがなぜ問題になるのでしょうか。
検察官は「独任官」といって個々の検察官が独立の官庁として検察権行使の権限を持っており、基本的には一人で判断して一人で仕事をすることができます。いわば一人官庁です。一般公務員が必ず上司の了解を取って動くのとは違って、あくまでも判断の基軸は検察官自身です。
そうした独立性の上で、検察官は唯一の公訴提起機関として、時には政治家を捜査・起訴も行います。刑事司法における重要な役割を果たすわけですが、検察官は、戦前と異なり裁判所からも引き離され、刑事裁判は裁判所を中心として検察官と弁護士が相対立する構造になりました。
その過程で、検察官の恣意(しい)的行動が起きないように、検察官の待遇や身分保障が厚くされ、行政官ではあるが一般公務員とは異なる特別な存在とされ、公務員法に対する特別法として検察庁法が制定されました。法律論の基礎として、特別法は一般法の適用を排除するというのが解釈の基本ですが、特に待遇問題については、一般公務員より高い待遇をするのが検察庁法ですから、解釈の問題というより一般の公務員法は検察官に適用されないという基本的構造なのです。それを今回、「解釈を変える」というが、それでは検察庁法の意味がないというのが問題の基本中の基本です。
―待遇や身分保障で検察官が特別な扱いをされる実質的な理由は。
政治的なものから中立的でなければならないというのが検察庁法の趣旨です。戦前の反省もあり、検察が政治権力に支配され公正を失ってはいけないということです。
特に、日本国憲法は31条から10カ条も刑事手続きに関する規定を持っています。これは諸外国と比べても日本国憲法の大変な特色です。戦前、被疑者、被告人の人権が全く無視され、拷問が行われ、自白中心の裁判や取り調べが行われたことへの深い反省の下に作られた規定です。それらの人権を守るのが、裁判所や検察官、弁護士など司法にかかわるものの第一の役割とされたのです。その理念に基づいて検察庁法もつくられたことが重要です。
検察官には強い身分保障があり、検察庁法で、検察官適格審査会の不適格議決があるか職務上の義務違反・非行による懲戒以外では意に反して罷免されません。また、個々の事件についての職権行使については、検事総長を介しての法務大臣の指揮権しか認められていません。そうした憲法的構造からいっても、検察官の人事について内閣が口を出すことはありえないのです。
―戦前の歴史への深い反省があるのですね。
戦前の歴史との比較からいうと、戦前は治安維持法を背景に警察権力が非常に強かった。その当時にも、検察には警察の抑制という役割も期待されたのですが、実際には警察の人権じゅうりんへ十分チェックができないまま戦後を迎えます。
その点が憲法制定論議の中で議論され、検察による警察へのチェック機能を刑事訴訟法上どう定めるかが議論され、そのためには検察庁法という別の法律を設ける必要があるとされたのです。そこが、準司法的と言われる検察の役割です。
また、裁判では、裁判所とも独立した、弁護人と相対する当事者となるという構造の中で、公正に当事者としての役割を果たすものとされたのです。
検察庁法で検察官が「公益の代表者」とされるのはここにかかわります。あえて「公益の代表者」と書かれているのは、訴訟の一当事者であると同時に、「公益の代表者」として公正であれという意味です。
検察官の職務執行が公正に行われるか否かは、刑事裁判の結果に重大な影響を及ぼします。権力的な役割を担っているからこそ私的な振る舞いはしてはいけない。その公益の中には、弱い立場にいる人たちの味方であるというメッセージが含まれ、権力に左右されず公正であることが求められています。
森雅子法相は何よりまず、検察庁法がどういうもので、検察官はどういう立場にあるかを当然認識していなければならない。首相が何と言ったかではなく、法務省としての見解をしっかりと示すべきです。法律問題に極めて疎い法相といわざるを得ません。
―検察官の職務の特殊性が、強い独立性、中立性の根拠なのですね。
「解釈変更」による政権の人事介入は、憲法と検察庁法の趣旨を否定するものです。
検察官の人事を政治権力が恣意的に決めるために、法の解釈を勝手に「変更」しています。
検察は本来、権力の中枢にも迫れる機関です。権力への追及を一生懸命にやられると政権としては困るということで、今回の人事になっているのではないか。もともと、歴代の内閣にとって、言うことを聞く人物を検察庁のトップに据えたいという気持ちはあったと思います。ただ、ここまで露骨にそれをやった内閣は今までありません。
これが常態化すれば、時の権力にしっぽを振る人間しか重要な職務につけないことになってしまいます。これは国の滅亡の兆しです。
特に、司法が政治権力の手先ということになれば、戦前の体制、あるいは戦前以上に独裁的な国家になってしまうかもしれません。
―内閣法制局長官が「解釈変更」を容認する答弁を続けています。
内閣法制局は内閣の一部局ですが、政権が代わっても、専門的総合的立場から法解釈の統一性・一貫性を守る機関です。そうであれば、「解釈変更」の動きに対し、検察庁法は一般の公務員法とは異なるものであり、検察官に国家公務員法は適用されないという基本原則を言わなければならない。ところが政権の追認をしています。
安倍政権は、首相に近い立場の人物を内閣法制局長官に強引に起用して「成果」を上げたと思っています。今回も同じようにやれば、成果が上がると思っているのでしょう。政治権力も検察官も、本来あるべき形とは違った形で運用が進んでいることは本当に重大なことです。
むらい・としくに 1941年、大阪市生まれ。一橋大学法学部卒業。一橋大学教授、龍谷大学教授(刑事法)を歴任。著書に『逐条解説 特定秘密保護法』(共著)など。
2020年3月7日
戦前、治安維持法改悪に反対して右翼に刺殺された労農党代議士、山本宣治(山宣)の91回目の墓前祭が5日、出身地の京都府宇治市の善法(ぜんぽう)墓地で行われました。参加者150人の総意として、山宣の志を継ぎ、市民と野党の共闘を前進させ、安倍政権退陣へ力を尽くすことを確認しました。
山宣は生物学者として産児制限運動などに取り組み、第1回普通選挙で京都2区から当選。1929年3月5日に39歳で暗殺されました。
本庄豊実行委員長があいさつし、日本共産党第28回大会で、立憲民主党の安住淳国対委員長が「山宣ひとり孤塁を守る」の書の写しを議員会館に飾っていると語ったことを報告。山宣の死が当時の立憲野党の危機感を高め、治安維持法改悪に国会議員170人が反対票を投じたとし、「山宣が残した立憲野党の共闘のメッセージが現代に生きる私たちの背中を押している」と強調しました。
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟京都府本部や民青同盟京都府委員会の役員、池内光宏・新社会党府本部委員長、上條亮一・日本共産党京都6区国政委員長らが追悼の言葉を述べました。
山宣の孫、山本勇治さん(九条診療所長)は「昨年から、山宣のことを知りたいと全国からも僕のところに訪問がある。これから新しい人にも加わってもらい山宣会を支えてほしい」と語りました。
2020年3月4日
東京高検の黒川弘務検事長の定年延長問題をめぐり、安倍晋三内閣の矛盾だらけで支離滅裂な対応が際立っています。検事長を含む検察官には国家公務員法が定める定年延長は適用されないとしてきた従来の法解釈を強引に百八十度転換したからです。三権分立が確立した日本国憲法下での検察官の職責の特殊性を顧みず、司法の独立を破壊する無法です。それを押し通すため、つじつま合わせのむちゃくちゃな説明を繰り返す安倍内閣の行き詰まりは明らかです。
焦点の一つは、政府がいつ解釈を変更したかという問題です。
人事院は2月12日の衆院予算委員会で、1981年に国家公務員法(国公法)に勤務延長を含む定年制を導入した際、「検察官については適用除外されていると理解していた」と述べ、「現在までも特にそれについて議論はなかったので、同じ解釈を引き継いでいる」と明言しました。これに対し安倍首相は翌13日の衆院本会議で「検察官の勤務延長については国家公務員法の規定が適用されると解釈することとした」と、解釈の変更を明らかにしました。
しかし、政府が黒川氏の定年延長を閣議決定したのは1月31日です。人事院の答弁通り、2月12日の「現在まで」、従来と「同じ解釈」であれば、閣議決定は違法となります。人事院は19日の衆院予算委で、「現在まで」とは法務省から相談のあった「1月22日まで」のことだと修正し、間違った理由については、驚くべきことに「つい言い間違えた」と答えました。あまりにも不自然な答弁です。
法務省は、解釈変更について1月17〜21日に内閣法制局、翌22〜24日に人事院と協議し、了承を得たと主張しています。人事院と法務省はそのことを示す文書の提出を野党議員から求められます。ところが、提出された文書には肝心の日付が入っていませんでした。
森雅子法相は2月20日の衆院予算委で、法務省の文書は「必要な決裁を取っている」と述べましたが、同省は翌21日の衆院予算委理事会で「口頭で決裁を取った」とし、書面による決裁を取っていないことを明らかにしました。しかし、森法相は25日の記者会見で「口頭の決裁も正式な決裁」とあくまで強弁します。法治国家として不可欠な文書主義さえかなぐり捨てたものです。
重大なのは、法務省が2月26日に衆院予算委理事会に提出した「検察官の勤務延長について」と題するメモの中身です。
メモは、司法の独立のない戦前の大日本帝国憲法下で検事の定年延長を認めていた「裁判所構成法」を持ち出して、趣旨は国公法の定年制度と差異はないとし、今の検察官にも適用することを正当化しようとしています。
戦後の司法制度は、司法権を天皇が握り、治安維持法などによって極めて苛酷な人権弾圧をもたらした戦前の反省に立ってつくられました。メモは、その一環として制定された検察庁法が、時の政権の介入を排し、政治的中立を保つべき検察官の定年延長を削除した経緯を無視するものです。
「国政私物化」のため、でたらめな国会答弁や説明などを繰り返す安倍政権をこれ以上許すことはできません。
(2月)
2020年2月29日
日本共産党の藤野保史議員が28日の衆院本会議で行った2020年度予算案に対する反対討論の要旨は次の通りです。
新型コロナウイルス対策は緊急課題です。治療、検査、相談体制を強化し、命と健康を守る、中小零細業者や非正規雇用、ウーバーイーツなど雇用によらない働き方、共働き、ひとり親家庭、子どもや高齢者、障害者などとくに大きな影響を受ける方々への支援を抜本強化すべきです。
政府は、全国の小中高、特別支援学校に来週から休校を要請すると発表しましたが、全国一律休校の合理的根拠は示されていません。安倍総理は「要請にすぎず、法的拘束力はない」と答弁しました。ならば全国一律要請は撤回し「基本方針」どおり判断は現場に委ねるべきです。
予算案には新型コロナ対策費が1円も計上されていません。必要なのは(1)予算案を組み替え大胆な財政出動を行う(2)感染症専門家等を国会に緊急招致し科学的知見を共有し抜本的打開策に与野党を超え取り組むことです。
「桜を見る会」で総理が問われるのは政治資金規正法違反、公職選挙法違反の重大疑惑で、事実なら総理はもとより国会議員も辞めるべき大問題です。疑惑を晴らすには総理が書面で証拠を提出する以外ありません。
総理が「桜を見る会」で刑事告発されているさなかに、総理に近いとされる東京高検検事長の定年延長の閣議決定が行われました。戦前の治安維持法や特高警察などの人権侵害の反省に立ち、現行憲法は三権分立、司法権の独立を徹底し、そのもとで検察官には高い独立性と身分保障が与えられ、定年制度はその根幹です。一内閣の独断で変えるなど絶対に許されません。
2回も消費税を増税し、13兆円もの負担を家計に押しつけ、景気悪化が明らかでも「景気は緩やかに回復している」と繰り返す安倍政権に経済運営の資格はありません。
世界的景気後退のもと、ドイツやフランスなどは減税に踏み切り、国際社会では安倍政権の10%増税強行に批判が広がっています。消費税率の5%への緊急引き下げなど経済・財政政策の抜本的転換を行うべきです。
新型コロナ対策に全医療機関が総力をあげるべきいま、政府主導の公的・公立病院の統廃合など断じて認められません。
本予算案は、社会保障費の自然増分を抑制し、全世代にわたる社会保障切りすて姿勢を鮮明にしています。他方、456兆円もの内部留保を積み上げる大企業にはさらなる優遇策を設け、富裕層への累進課税強化にも後ろ向きです。
軍事費は8年連続増で過去最大の5兆3133億円にのぼり、後年度負担は5兆4000億円に達しました。FMSに4713億円をつぎこむなど、米国製兵器「爆買い」予算です。憲法違反の大軍拡、戦争する国づくりはやめるべきです。
中小企業対策費は過去最低、文教予算もさらに削減し、先進国で最低レベル。気候変動への対応が早急に求められるのに、石炭火力発電所の新設と輸出を継続しています。関電原発マネー還流の解明も全く進まないまま、原発再稼働推進など到底許されません。野党共同提出の「原発ゼロ基本法案」の実現を強く求めます。
暮らしを応援する政治へ、税金の集め方、使い方を根本的に改めるよう求めます。
2020年2月28日
日本共産党の藤野保史議員が27日の衆院本会議で行った、森雅子法相不信任決議案に対する賛成討論(要旨)は次の通りです。
◇
不信任の理由の第一は、森大臣が憲法に由来する、検察官の職務の特殊性を無視して、検察庁法の解釈をねじ曲げたことです。
検察庁法は、定年について検察官は63歳と定めています。検察官に定年延長制度の適用がないことは、1949年、81年の2度にわたって立法府の意思が明確にされています。ところが森大臣は、東京高検検事長の定年延長をするために強引な解釈を行いました。
検察官は公訴権を独占し、総理大臣の訴追も行う強大な権限と重い職責を負っています。だからこそ検察官には独立性が担保され、特別な身分保障が定められています。63歳定年はその根幹です。
重要なのは、検察官の職責の特殊性が憲法に由来することです。
戦前、治安維持法による弾圧、特高警察などによる人権侵害を二度と起こさないために、憲法に詳細な刑事手続きにおける人権保障規定が置かれ、その具体化として刑事訴訟法、検察庁法が位置づけられています。
ところが、法務省の文書は、大日本帝国憲法下の「裁判所構成法」を持ち出して、定年延長が正当化されるとしています。戦前は、天皇のもとに司法権があり、検察もおかれ、三権分立がきわめて不十分でした。この法律を解釈変更の理由にするなど二重三重に成り立ちません。
第二に、森大臣は、自分の答弁の誤りを認めず、ウソの答弁を繰り返し、国会審議を踏みにじっています。
森大臣は、2月10日の予算委員会で、「定年延長制度は検察官に適用されない」という、1981年の政府答弁について「知らない」旨の答弁を5回も繰り返しました。
「政府の解釈はいつ変わったのか」と質問され、「1月17日には内閣法制局と相談した」「1月22日には人事院と相談した」と答弁しました。にもかかわらず、なぜ2月10日には「そんな議事録は知らない」と繰り返したのか。その後も答弁は二転三転し、「解釈変更の決裁は口頭だ」とまで言い出しました。
今回の異常な人事は、安倍総理自身が「桜を見る会」問題で刑事告発され、東京地検と広島地検によってカジノ疑惑による衆院議員の逮捕・起訴や前法務大臣らの家宅捜索等の最中で行われました。安倍政権に近い人物が検事総長になる道を開くために異常な解釈を強行したのです。三権分立、検察の独立を最も重んじなければならない法務大臣が、時の政権言いなりで検察への政治介入のお先棒を担ぐなど、到底許されません。
憲法をゆがめ、虚偽答弁を繰り返す森大臣は、法務大臣として不適格であることを主張して討論とします。
2020年2月26日
87年前の2月、特高警察に虐殺された作家・小林多喜二の思いを引き継ごうと大阪多喜二祭(実行委員会主催)が24日、大阪市で開かれ、350人が集いました。
作家の田島一さんが「多喜二が描いた支配の構造と文学の今日」と題し講演しました。多喜二の小説「一九二八年三月十五日」「蟹工船」「不在地主」「工場細胞」を紹介。戦前の絶対主義的天皇制の実態と労働者・農民のたたかいを描いた多喜二作品の魅力は「芸術の創造と文学の大衆化にこだわり続け、絶えず挑戦を怠らなかったことだ」と述べました。
多喜二らのプロレタリア文学運動と戦後の民主主義文学とを重ね、現実の矛盾から目をそらさず、社会と人間の真実を描く文学の意味を語りました。
歌手の李政美さんが出演。日本の植民地だった朝鮮の済州島から来た両親のことにふれながら、治安維持法違反で捕らえられ終戦直前に獄死した詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)を描く「序詩」などを歌いました。
2020年2月23日
「蟹工船」や「党生活者」などの小説で知られる日本共産党員作家、小林多喜二の没後87年墓前祭が22日、北海道小樽市で行われました。110人余が奥沢墓地を訪れ、雪を踏みしめて坂を登り、墓前に献花しました。
小樽多喜二祭実行委員会の荻野富士夫共同代表(小樽商科大学名誉教授)は「多喜二がめざした変革の志を改めてこの場で確認したい」とあいさつ。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟道本部の宮田汎会長は「治安維持法犠牲者への国家賠償法を国会で通すために、市民と野党の共闘で新しい政権をつくりましょう」と呼びかけました。
日本共産党の畠山和也前衆院議員があいさつしました。多喜二の小説「一九二八年三月十五日」で逮捕・連行された活動家が「こんなことでいちいち泣いたりほえたりしていた日には俺たちの運動なんかできるもんでないよ」と話すくだりを紹介。「弾圧に屈せず平和と民主主義の旗を掲げ続けたたたかいは、戦後の日本国憲法に実りました。多喜二の遺志を継ぎ、うそがはびこる政治を葬り、国民の声が通る新しい政治を」と力を込めました。
札幌市から来た小林芳香さん(60代)は「多喜二を尊敬しています。墓前祭でいつも新しいこと、知らなかったことに出合えます」と話しました。
2020年2月23日
TBSテレビの「JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス」(2日、深夜1・20)を見ました。北海道放送が制作した「ヤジと民主主義〜警察が排除するもの」です。
番組が取り上げたのは、昨年7月15日、参院選で安倍首相が札幌市で演説中に、「安倍辞めろ」とヤジを飛ばした男性が、北海道警の警察官によって取り押さえられ、現場から排除された事件。男性は警察官を告訴するとともに、北海道に損害賠償を求めて札幌地裁に提訴しています。
番組では、アルバイトで学費をまかなう苦しい生活を送っている女性が「増税反対」と声をあげ、腕をつかんで排除しようとする2人の女性警官に、「大声出すのにも許可がいるの?」と問いかける生々しい映像も。取材で、この日、排除された人は少なくとも9人に上るといいます。
「年金100年 安心プランはどうなった」とプラカードを持った女性も、警官に取り囲まれ100メートルほど連れていかれました。女性は、「無言のプラカードを掲げるというのは、誰にでもある権利。弱者ができる唯一の一人でできることを奪う国は民主主義じゃない」と批判します。
戦前の治安維持法のもとで、市民の言論・思想の自由を抑圧した歴史にもふれ、荻野富士夫小樽商大名誉教授(日本近現代史)に「ヤジ排除をどうみる」と聞きます。荻野氏は、「声をあげれば、今度は自分もやられるという威嚇効果を当然発揮している。むしろそれが(警察の)狙いだろう」と指摘しました。
「声をあげただけでなぜ」―。道警は7カ月たっても、いまだに排除した法的根拠を説明していません。元道警幹部・原田宏二さんは「違法な行為だ」と断言します。
番組は「ヤジすらもいえなくなる社会になっていくのか、意見を自由に言える社会を守り続けるのか。いま民主主義のありようが問われている」と結びました。
NHKはじめ道内の他のテレビ局が、この問題をほとんど取り上げないなかで、警察の違法行為に迫った同局の取材が光ります。
これまで、TBSのほか、MBS(大阪)、テレビ山梨で放送されました。北海道放送は24日(前10・50)に放送しますが、多くのテレビ局で放送してほしい番組です。
2020年2月21日
東京高検検事長の定年延長問題をめぐり、政府が検察庁法により検察官は定年延長を「許されない」としてきた解釈を変更し、国家公務員法の定年に関する規定を使って定年延長を認めたのは、安倍首相が桜を見る会をめぐって刑事告発され、元副大臣も収賄罪で刑事訴追されるなかでの異常なやり方です。日本共産党の藤野保史議員は20日の衆院予算委員会で、検察庁法が現行憲法の司法権独立を鮮明にするために立法されたことを示し、「三権分立に関わる問題だ」「異常な解釈変更は許されない」と迫りました。(論戦ハイライト3面)
藤野氏は、戦前の治安維持法による弾圧など人権侵害が相次いだ痛苦の歴史をふまえて憲法は司法権の独立を規定し、その仕組みをつくるために検察庁法が制定された経緯を、政府の過去の国会答弁などをあげて詳しく提示(3面に表)しました。検察官は刑事事件で唯一公訴を提起する機関で公益の代表者とも言われる「職責の特殊性」があるからこそ、定年制度などは一般の国家公務員とは「おのずから扱いを別にすべき」とされてきたことも紹介し、「一般公務員の定年制度は適用しない、これが確固とした解釈だ」と強調。国公法の適用を認める解釈変更の異常さを批判しました。
森雅子法相は「検察官は司法権の行使と密接不可分で特殊性を持っている」と明言。一方で「行政機関の一員という身分もある」と国公法を適用して定年延長する解釈変更を正当化しました。
藤野氏は「職責の特殊性が変わらないならば、定年制も変えてはいけないのだ」と森法相の答弁の矛盾を指摘。異常な法解釈変更について「徹底的に真相究明していく」と表明しました。
2020年2月21日
安倍晋三首相が刑事告発され、秋元司衆院議員の逮捕・起訴、河井克行前法相への家宅捜索などが相次ぐ中、政府は1月31日に安倍政権に近いとされる黒川弘務東京高検検事長の定年延長を閣議決定しました。黒川氏が次期検事総長に就任する余地を残した人事ではとの疑惑があります。さらに検察官の定年延長ができるように法の解釈変更まで行いました。日本共産党の藤野保史議員は20日の衆院予算委員会で、こうした許されない解釈変更について「まさに三権分立の根幹にかかわる問題で、国会の存在意義も問われる」と追及しました。
藤野氏は、「なぜ検察官に特別な制度があるのか」として、検察庁法の立法趣旨を過去の国会答弁から明らかにしました。(表)
藤野氏は、戦前、治安維持法による弾圧や特高警察などによる人権侵害が相次いだ痛苦の歴史経験を踏まえて現行憲法に世界に類を見ない多くの人権保障規定がおかれたことを指摘し、「まさに憲法の理念に基づいて検察庁法がつくられた由来をしっかり踏まえる必要がある」と強調しました。
その上で藤野氏は、1981年の国家公務員法改正で盛り込まれた公務員の定年制度が検察官に適用されないのは、まさにこの検察の職責の特殊性が理由だと指摘。政府が、国家公務員法の規定が検察官の勤務延長にも適用されると解釈の変更を行った問題を追及しました。
検察官は刑事訴訟法により、「唯一の公訴提起機関」と規定されています。藤野氏は、「検察官の職務執行が公正に行われるかどうかは直接、刑事裁判の結果に重大な影響を及ぼす。だから検察官は公訴権を独占する公益の代表者ともいわれている」と述べ、検察官の「職責の特殊性」を強調しました。
藤野 こうした検察官の公益の代表者としての特殊性は今も変わらないと思うが。基本的な認識を。
森雅子法相 委員のおっしゃる通りだ。
藤野氏は、検察官の「職責の特殊性」があるからこそ、身分保障のあり方も一般の公務員とは違うと指摘し、国家公務員法施行後も検察官の定年延長は一般公務員とは「おのずからその取り扱いを異にすべきもの」(1949年5月11日、参院法務委・高橋一郎法務庁事務官)とされていたことを紹介。「検察官に国家公務員法の定年制度は適用されない。これが確固とした解釈だ」と強調しました。
森法相は「行政官という意味の懲戒処分も裁判官と違って適用される。準司法官という身分を検討した結果、勤務延長制度の趣旨は検察官にも等しく及ぶと解釈をした」と強弁しました。
藤野氏は「大臣が答弁したように検察の職責の特殊性が変わらないからこそ、定年制も変えられない。曲解以外のなにものでもない」と批判しました。
さらに藤野氏は、内閣法制局長官が、1975年2月7日の衆院予算委員会で「行政府が勝手に法律の解釈を変えられるのかどうか」と問われていたことを指摘しました。
藤野 当時の内閣法制局長官は何と答弁しているか。
近藤正春内閣法制局長官 法律の解釈は客観的に一義的に正しく確定されるべきものであり、行政府がこれをみだりに変更することなどはありえない。
藤野氏は、政治の介入による解釈変更の異常さを浮き彫りにしました。
森法相は黒川検事長の定年延長について、職員の定年を規定した人事院規則11の8の7条3号の「業務の性質上」を挙げ、「担当者の交代が当該業務の継続的遂行に重大な障害を生じるときに該当するとして勤務延長させるところとした」と正当化しました。
藤野氏は、公訴権を独占する検察には、全国的につねに一体的な検察事務を行う「検察官一体の原則」があると指摘。「巨大な権限を持っている検察が政府の不当な干渉によって左右されれば、司法の独立が有名無実になる」と強調。「『業務の性質上』は『検察官一体の原則』と矛盾する。黒川氏へのあてはめは制度を乱用するものだ」と批判。「検察人事まで手をつけることは絶対に許されない」と指摘しました。
2020年2月20日
戦前の日本共産党の指導者で理論家の野呂栄太郎没後86年碑前祭(党南空知地区委員会、治安維持法国賠同盟南空知支部共催)が19日、北海道長沼町で開かれました。名著『日本資本主義発達史』をはじめ、弾圧に屈せず果敢にたたかった功績、生き方を引き継ごうと、参列者が碑に花を手向けました。
薮田享国賠同盟支部長(党町議)は「一日も早く安倍政権を倒し思いに応える」とあいさつ。間嶋勉町教育長は「尊い犠牲と労苦の上に築かれた平和と豊かさだと忘れてはならない」と強調。中村千春町農民協議会執行委員長は「農民・市民運動の礎を築いた」とたたえました。
“われらの日常は物質的にも社会的にも苦しみそのものだが、苦しみのうちにこそまた楽しみがある”と野呂の言葉を紹介した畠山和也党前衆院議員・比例候補。「市民と野党の共闘で新しい政治をめざす流れが広がり、野呂の理論的功績、生き方を学び直したい」と力を込めました。
国賠同盟道本部の宮田汎会長があいさつしました。立憲民主党の神谷裕衆院議員、松野哲岩見沢市長、板東知文美唄市長、戸川雅光長沼町長、佐々木学栗山町長がメッセージを寄せました。
2020年2月18日
作家・小林多喜二の没後87年(20日)を前に、杉並・中野・渋谷第32回多喜二祭が16日、東京・中野で開かれ、450人が参加しました。
俳優・青山憲さんの「蟹工船」朗読に続き、作家の雨宮処凛さんが登壇。党都議の原田あきらさんの問いに答えて、右翼活動をしていた20代の頃、批判のために憲法前文を読んで感動し右翼を抜けた経緯や、若者の生きづらさの根底に「自己責任」論の押し付けという社会構造があると気づいたこと、「蟹工船」との出合いなどを語りました。
連帯あいさつをした市田忠義党副委員長は、多喜二の死を知った志賀直哉が「彼らの意図ものになるべし」と日記に記したことを紹介。「彼らの意図」は戦後、憲法に実り世界の公理となったと指摘。その「意図」には、未来社会への理想も含まれ、マルクスの「資本論」とも重なると、多喜二の「工場細胞」を引きながら説きました。弾圧に屈しなかった多喜二らの奮闘をも胸に、希望ある未来をともに目指そうと訴えました。
歌手・きたがわてつさんの「日本国憲法前文」などの熱唱に続き、弁護士の平山知子さんが記念講演。1931年9月、群馬県伊勢崎市で文芸講演会を開こうとして伊勢崎署に捕らえられた多喜二らを、民衆が奪還した事件を語りました。事件の持つ意味として、多喜二が民衆に愛されていたことや、奪還にいたる統一した力の偉大さ、多喜二自身の人生を事件が後押ししたことをあげ、事件で捕らえられた平山さんの父・菊池邦作さんの治安維持法廃止への執念や、いわさきちひろが菊池夫妻に入党推薦者になってほしいと告げたことなどを語り、バトンの継承に確信を持ち、野党連合政権をともにめざしたいと結び、大きな拍手を浴びました。
2020年2月6日
「安倍9条改憲NO!改憲発議に反対する全国緊急署名」(呼びかけ=全国市民アクション)がスタートしています。安倍改憲に反対する世論と運動を大きく広げようと1月から取り組まれているものです。(青柳克郎)
東京都杉並区の「9条変えるな!杉並市民アクション」は、「3の日行動」(毎月3日に『アベ政治を許さない』とアピールする全国いっせい行動)を中心に、年明けから同署名に取り組んでいます。3日には区内6カ所で行動し、71人分の署名を集めました。
若者や現役世代から強い反応が返ってきています。
JR荻窪駅前で対話になった41歳の男性会社員は、「日本は戦後、憲法9条のもとで平和を維持してきたのに、なぜ改憲が必要なのか。新型コロナウイルス対策を口実に緊急事態条項の必要性を叫ぶ与党幹部がいるなど、恐ろしい。安倍政権のもとでの改憲は許せない」と語り、署名に応じました。
JR西荻窪駅前で署名した、NPOで働く31歳の女性は、祖父が日中戦争中、満鉄(南満州鉄道)の職員をしており、中国人の助けを得て帰国しました。「多くの人を犠牲にする戦争には絶対に反対です。9条は、侵略戦争への反省に立った、過ちを繰り返さないという意思表明です。私たちの世代も『9条を守れ』と、声をあげないといけませんね」
「杉並市民アクション」の中心メンバーで、「九条の会・杉並連絡会」でも活動する塩谷公子さん(75)が話します。
「『桜を見る会』疑惑で安倍政権への怒りが高まっているなか、多くの人が積極的に新署名に協力してくれています。取り組みを広げて安倍首相の改憲策動を阻止し、退陣に追い込みたい」
「杉並市民アクション」は、安倍首相による9条改憲阻止の一点で幅広い団体や住民が集まり、2018年に発足。メーリングリストで交流し、「安倍改憲NO!3000万人署名」にも「3の日行動」や団地の全戸訪問を軸に取り組んできました。
新署名にかける思いはさまざまです。
「九条の会・荻窪」の会員でもある岡田良子さん(78)は、叔父の一人が戦中「回天」(人間魚雷)特攻隊で訓練中に事故死。別の叔父は治安維持法違反で特高(特別高等警察)の拷問を受け、終戦直後に亡くなりました。
「戦争と人権弾圧は一体でやってきます。あの時代の再来を許さないため、微力でも街頭に立ち続けたい」
「戦争をさせない杉並1000人委員会」の渡部秀清さん(71)は、安倍政権のもとでの改憲など絶対にダメだ、と力を込めます。
「『桜』や森友、加計学園疑惑など、安倍政権はウソだらけ。あんな首相が憲法を変えようとしていることに黙っていられません。新署名を進め、改憲を食い止めたい」
「安倍9条改憲NO!改憲発議に反対する全国緊急署名」は、内閣総理大臣、衆参両院議長あての請願署名で、▽安倍首相らがすすめる憲法9条などの改憲発議に反対します▽憲法を生かし、平和・人権・民主主義、生活の向上が実現する社会を求めます―の2点を請願事項としています。
「安倍9条改憲NO!全国市民アクション」が呼びかけているもので、作家・僧侶の瀬戸内寂聴さん、ノーベル物理学賞受賞者・京都大学名誉教授の益川敏英さん、元文部科学事務次官の前川喜平さんら著名な22人が呼びかけ人に名を連ねています。
2020年1月28日
昨年6月から本格化した香港政府に対する抗議行動は今年に入っても続いています。今後の香港情勢はどうなるのか、香港の政治や社会を研究する亜細亜大学アジア研究所の遊川和郎所長に聞きました。(聞き手・写真 小林拓也)
香港の抗議行動の終わりは見えていません。その理由は、市民が掲げる真の普通選挙実現などの要求に香港政府が真摯(しんし)に向き合おうとしないからです。中国政府が香港政府に譲歩を許さないのでしょう。そのため、市民や若者は抗議行動をやめません。林鄭月娥(りんてい・げつが)行政長官の支持率はいまや約10%まで落ちています。そもそも解決できない人に解決させようとしても無理があります。
では、抗議行動が終わるのはどういう時でしょうか。市民が納得して活動を終えるのがベストですが、現実には難しそうです。デモの長期化は中国政府にとって望ましいことではありません。中国政府は武力による直接介入は避け、経済面と法律面での圧力をかけながら、収束させることを考えているでしょう。
経済面では、香港・マカオ・深センを一体化させる「大湾区」構想の推進と、香港地場企業や財閥への圧力というアメとムチの使い分けです。
法律面では、「香港基本法の23条に基づく立法」を成立させ、このような過激な活動が不可能となる仕組みづくりに注力するでしょう。香港の憲法とされる香港基本法の第23条は、返還後、国家分裂、反乱扇動などを禁止する法律を制定するよう香港政府に義務付けています。簡単に言えば、日本で1925年に制定された治安維持法に相当する法律です。
香港政府は2003年に、基本法23条に基づく「国家安全条例」を制定しようとしました。しかし、香港市民50万人のデモで断念した経緯があり、まだ立法化されていません。
中国共産党は昨年10月に開いた第4回中央委員会総会で、香港に関し「国家安全を維持する法と執行制度の確立」をコミュニケに明記しました。これをいつ具体化するのかという段階に入っています。
もし制定されれば、香港で今のような抗議行動が可能な空間は二度となくなるでしょう。香港の若手活動家の周庭さんは「あきらめれば次はない」と悲壮な決意を語りましたが、実際にこれが最後のたたかいだと思います。
中国政府は昨年、抗議行動に対する武力鎮圧の選択肢は見送りました。これは米中間が緊張する中、国際社会を敵に回したくないという判断でしょう。しかし、香港の活動家が「独立」をより強く打ち出したり、香港政府が中央の言うことを聞かなくなったりするなどの事態になれば、直接介入もありえます。現時点で可能性は低いですが、「武力鎮圧はない」という前提だけで物事を考えてはいけないと思います。
香港特別行政区は、反逆、国家分裂、反乱扇動、中央人民政府転覆、国家機密窃取のいかなる行為も禁止し、外国の政治的組織や団体の香港特別行政区における政治活動を禁止し、香港特別行政区の政治組織や団体が、外国の政治的組織や団体と関係を持つことを禁止する法律を制定しなければならない。
2020年1月15日
日本共産党第28回大会1日目の14日、共闘する3野党・2会派の代表と特別ゲストが参加してあいさつしました。その要旨を紹介します。
山宣こと山本宣治は治安維持法の改正に反対し、1929年に開催された帝国議会での反対演説を準備していた折、右翼の男に刺殺されました。
山本宣治は1928年の第1回衆議院普通選挙で京都2区から初当選しました。
昭和初期の日本は軍国主義に進み、言論は弾圧され自由は許されず、多くの人々が貧困にあえぎました。山本宣治は、社会の片隅に追われた人々のために命を燃やし、政治家としての人生を全うしたのです。
「山宣ひとり孤塁を守る。だが私は淋(さび)しくない。背後には大衆が支持してゐるから」。この山本宣治の言葉は大山郁夫先生が書き残しました。そして今、日本共産党の国会控室に掲げられております。この書の写しが、穀田国対委員長を経由して私の議員会館にも飾ってあります。
確かに皆さんと私の間に個々の政策、考え方について見解の相違はあります。しかし10年前、5年前、選挙協力が本格的に始まった3年前、さらに今日と、その距離はグンと縮まりました。
失礼を顧みず申し上げるならば、そびえたつ山からようやく皆さんに降りてきていただいた。同時にわれわれも、常に弱者に寄り添う視点を持ち続ける政治姿勢を、皆様から教えられてきました。
今後お互いの距離をさらに縮めていき、国会運営や国政選挙で一体感のある協力をしていきましょう。そうすれば、自然とその先に政権が見えてきます。
今日、安倍1強政権の中で平和憲法の理念が捨て去られ、集団的自衛権の一部行使が容認されました。「桜を見る会」や森友・加計事件に見られるように、長期政権の弊害が見られます。格差社会も進み、都市と地方の格差も拡大しています。
平和で公正で平等な社会が目の前で崩れ落ちていく姿を、われわれは座視するわけにはいきません。山本宣治が貫いた、常に大衆とともに生き大衆のために立ち上がる信念を胸に刻み込みながら、皆さんと一緒にたたかっていきたいと思います。
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