【治安維持法2022年】

【見出し】

t  朝の風 共産党の核にふれる

t  軍拡NO! 大砲よりバター 平和外交に努めて

t  「伊藤千代子の生涯」アンコール上映会 つながる歴史、確信持って 那覇

t  党創立100周年記念講演に寄せて

t  治維法被害知るシンポ 道弁連 高校生「僕らが思い継ぐ」

t  治維法国賠同盟が全国女性交流集会 3年ぶり 田村智子氏が講演

t  尹東柱碑に友情誓う 戦時中獄死の韓国の詩人 京都で集い

t  青年が語りあう「日本共産党創立100周年記念講演」

t  「日本共産党常任活動家の墓」第37回合葬追悼式

t  政府に一歩も引かぬ論戦 「山宣」に近づく生き方を

t  ツルシのぶらり探訪 石川・かほく市反戦川柳・鶴彬の故郷 侵略被害よんだ29年の生涯

t  「奇跡の映画」 上映広げる 伊藤千代子没後93年 碑前つどい

t  違憲の国葬中止を 各地で行動「税金を返せ」怒りの声 和歌山

t  日本共産党創立100周年記念講演会 日本共産党100年の歴史と綱領を語る(1)

t  日本共産党創立100周年記念講演会 4氏のメッセージ

t  千代子の生き方学ぶ 北海道苫小牧 獄中の手紙見る会

t  統一協会 危険な二つの顔 反社会的カルト集団 勝共連合 反共・反動の先兵

t  不戦の誓い 津々浦々 運動広げよう 草の根から @新潟

t  声あげ「平和憲法守る」 終戦記念日 各地で行動

t  平和憲法が輝く日本へ 治維法国賠同盟が終戦記念日宣伝

 

t  朝の風 大弾圧にあっても

t  日本共産党創立100年(下) 治安維持法に抗した親子 1歳11カ月で母と留置所に 四津谷伸子さん(90)

t  治維法国賠同盟と市田副委員長懇談 過去最高の会員数報告

t  日本共産党創立100年(上) 弾圧に屈せず生きた女性 村山ひでさん

t  「国葬」に反対 治維法国賠同盟

t  日本共産党創立100周年に寄せて 武蔵大学教授 永田浩三さん 多様で開かれた党に希望

t  主張 日本共産党100年 立党の原点 いま未来に向けて

t  日本共産党創立100周年に寄せて 東京大学名誉教授 広渡清吾さん 民意・希望実現へ期待

t  日本共産党創立100周年に寄せて 全日本民主医療機関連合会会長 増田剛さん 真摯な活動に信頼寄せた

t  安倍元首相銃撃 テロ「絶対許せない」投票行動変えないで 東京工業大学教授 中島岳志さん

t  与野党の軍拡論めぐる新聞の姿勢 丸山重威 戦争の芽を摘む言論こそ 思い起こすべき戦前の痛恨の歴史

 

t  ひと 初版から67年、『広辞苑』の編者新村出の業績を伝える新村恭さん(75)

t  細谷源二の獄中記『俳句事件』を今こそ マブソン青眼 治安維持法違反で投獄の俳人

t  2020年度決算 市田氏が最後の討論 議場は与野党超えた大きな拍手

t  2020年度決算に対する市田議員の反対討論(要旨)参院本会議

t  「恣意的な権力行使可能」改定刑法成立 山添氏が反対討論

t  改定刑法に対する山添議員の反対討論(要旨)参院本会議

t  戦争・暗黒政治にノー 治維法国賠同盟が全国大会

t  ツルシのぶらり探訪 宮城 仙台市「五日市憲法」草案の碑 起草者・活動家しのぶ

 

5

t  創立100年 若手記者がたどる〜そのとき日本共産党は〜 「革命詩人」 槇村浩編 反戦・植民地解放の訴え 今に

t  水曜エッセー 信州 佐久平から 南木佳士(3) 夢の跡

t  治維法国賠同盟 謝罪と賠償 国会請願 100歳菱谷さん「9条守って」

t  青年劇場公演「眞理の勇氣―戸坂潤と唯物論研究会」 主演 清原達之さん 回り始めた戦争の歯車 止めることできるのか

t  映画「伊藤千代子」に反響 苫小牧市役所にポスターも

t  参院選の躍進で応えよう 北海道 野呂栄太郎碑前祭

4

t  『漫画 伊藤千代子の青春』 ワタナベ・コウさんが講演会 新潟 自由求めた先輩語り継ぐ

t  映画「わが青春つきるとも−伊藤千代子の生涯」を見て 逆境にめげない勇気 行動力

t  映画 わが青春つきるとも 伊藤千代子の生涯 主演 井上百合子さん 戦前に声あげた人たち 今の社会に生きている

t  きょうの潮流

t  創立100年 若手記者がたどる〜そのとき日本共産党は〜女性解放に尽力した飯島喜美 ジェンダー平等へ志継ぐ

t  緊急事態条項 憲法の原則脅かす 赤嶺氏が主張 衆院憲法審

3

t  月曜インタビュー 俳優 安藤聖さん 自分の思想を守り抜く強さ 他者を知ることで心豊かに

t  『子どもたちが綴った戦争体験』シリーズ完結 著者・大東文化大学名誉教授 村山士郎さんに聞く

t  国領五一郎の墓前祭 京都 かじかわ知事候補も参加

t  水曜エッセー 韓国ドラマの旅 日本の役者が巡る 柳生啓介(3)詩人ユン・ドンジュ

t  反戦平和を貫く 京都・山宣墓前祭 たけやま氏決意

t  朝の風 重く響く中村医師の言葉

t  ロシアの軍事行動停止、撤退要求

 

2

t  創立100年 若手記者がたどる〜そのとき日本共産党は〜 小林多喜二編 成長し行動する姿が身近に

t  奈良 ぶれない共産党に期待 大門議員 作家・寮美千子さん訪問

t  増本一彦さんが死去 日本共産党元衆院議員

t  小林多喜二・西田信春 虐殺から89年 若い情熱を社会変革へ 小樽商科大学名誉教授 荻野富士夫さんに聞く

1

t  戦争する国許さない 治維法国賠同盟が新春宣伝

t  「困窮者に寄り添う活動」東京 30歳民青同盟員迎える

t  2022参院選 田村副委員長とワタナベ・コウ氏対談 伊藤千代子 力の源は

 

【本文】

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12月

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朝の風 共産党の核にふれる

20221220

 今年読んだ本の中で広くお薦めしたいと思ったのは、市田忠義著『日本共産党の規約と党建設教室』だ。題名が党員向けのものだから一般の読者は敬遠するかもしれない。しかしこの本に流れる日本共産党の志の核にふれると、深い感動を覚えずにはおれない。

 おりしも来年は、小林多喜二没後90年である。小林多喜二に象徴される戦前の共産党が、治安維持法で最高刑の死刑をものともせずなぜたたかいつづけたのか、現代の日本共産党に引き継がれる志の核にふれることで党の存在意義がよくわかる。日本の政治と社会を考える上で必読の書だと思う。

 多喜二最晩年の「党生活者」は、軍需工場で戦争反対をかかげてたたかう党員たちを描いている作品だが、特高警察の弾圧の網の目をくぐり、戦争のない「新しい世の中」をめざして、彼らは不屈の運動をすすめている。厳しい弾圧のもとでもユーモアと楽天性を失わない活動ぶり。

 市田氏の本は、その党員の「大志とロマン」「不屈性」「先見性」を生み出す科学的社会主義の理論、共産党の組織のありようを詳しく説いている。

 かつて宮本顕治氏は「新しい人間集団」という言葉をつかって、共産党を表したことがある。そのことを実感させる書である。(聳)

 

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軍拡NO! 大砲よりバター 平和外交に努めて

東京都荒川区 風間秀子さん(78)

20221214

 敵基地攻撃能力の保有を認め、軍事費は5年間で総額43兆円に増額する―。岸田自公政権は戦争する国づくりをすすめるなかで、市民には増税と社会保障削減を押し付けようとしています。大軍拡か、暮らしの充実か。「大砲よりバター」を求める市民の声を随時、届けます。

 風間秀子さん(78)=東京都荒川区=は夫と年金で暮らしています。当初は預金残高を気にしていませんでしたが、年々年金が減り常に気にかけるようになりました。

 「特別生活が厳しいってわけじゃないけど、安心できないってことに問題がある」と指摘します。

 岸田政権は年金支給額を削減し、75歳以上の医療費窓口負担を2倍化しました。さらに後期高齢者医療の保険料値上げも検討しています。

 「医療や学費など生きていくうえで基礎となるものが無料の国もあるのに、日本では本当にお金がかかる。教育や医療にもっと税金を使ってほしい」

 風間さんは38年間保育士として働き、退職後は新日本婦人の会の親子リズムに参加。「政府は命の重さを知り、国民の生活を一番に考えて政治をしてほしい。憲法を守るべき政府が『敵基地攻撃能力』やら『軍拡』と言っている。国民のことを真剣に考えていればそんなことを言えない」

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟にも加わりました。犠牲者の家族に話を聞いたり、紙芝居を作ったり、反戦を訴えてきました。体は動かなくなってきましたが、「死ぬまで頑張る」と風間さんは意気込みます。

 「政府は過去の戦争を反省せず、戦争できる国にしようとしている。心から恐ろしい。ウクライナを見ても、戦争は一度始まったら簡単にやめることはできない。平和外交に努めるべきだ」

 

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「伊藤千代子の生涯」アンコール上映会 つながる歴史、確信持って 那覇

2022125

 戦前の治安維持法による弾圧に屈せずたたかった伊藤千代子の生涯を描いた映画「わが青春つきるとも―伊藤千代子の生涯」のアンコール上映会が3日、那覇市で開かれ、上映後には『漫画 伊藤千代子の青春』の著者ワタナベ・コウさんを招いたアフタートークがありました。

 沖縄では、今年5〜7月に県内7会場で同映画が上映され、約1200人が鑑賞しました。再上映を望む声が多くあり、上映実行委員会がアンコール上映を企画しました。

 アフタートークでワタナベさんは、映画や漫画が民主的運動の連帯を広げるための従来の活動の形とは違う工夫のひとつになれたと述べ、映画や漫画を会話のきっかけにしてほしいと話しました。

 日本民主青年同盟沖縄県委員長の野垣麦さんは、「先輩たちがつくりあげた運動の最先端に私たちがいると思う。歴史のつながりを感じ、確信を持って活動を続けたいと励まされた」と語りました。

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟沖縄県本部の大城辰彦さんは、治安維持法下の沖縄のたたかいを紹介する一方、それがあまり知られていないのは沖縄戦で資料が焼失したり運動していた人が亡くなったりしたからだと指摘。「弾圧の後に戦争になる」と述べ、歴史を学ぶ大切さを訴えました。日本共産党の前田千尋那覇市議が司会を務めました。

 

11月

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党創立100周年記念講演に寄せて

mネット・民法改正情報ネットワーク理事長 坂本洋子さん

20221129

「不屈のたたかい」再認識

 日本共産党100周年記念講演についての感想を、mネット・民法改正情報ネットワーク理事長の坂本洋子さんに寄稿していただきました。

 創立100周年を迎えられた共産党に心から敬意を表します。

若い犠牲に衝撃

 治安維持法と特高警察による弾圧と迫害によって、命を落とされた方が多数おられ、その中には20代の若い女性党員が含まれていたことを、衝撃を持って受け止めました。まさに、創立からの100年は「不屈のたたかい」であったと改めて知る講演でした。

 長い間、国民は政治に失望させられてきました。とりわけ「アベ政治」は国民を欺き、より弱い立場の人々を切り捨ててきました。国民の命とくらしを守るよりどころである憲法さえないがしろにしてきました。

立憲主義の理念

 憲法審査会をはじめ国会質疑をみると、憲法をおとしめる発言が散見され、自民党だけでなく、野党議員の中にも、立憲主義の理念が理解されていないことがわかり、大変危惧しています。

 立憲主義は、「個人の尊厳」と「法の支配」原理を中核とする理念であり、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義などの基本原理を支えています。

 選択的夫婦別姓は人権の問題ではなく、家族の在り方の問題であるなどとうそぶき、憲法と切り離す答弁が繰り返されていますが、選択的夫婦別姓はまさに「個人の尊厳」の問題です。

 選択的夫婦別姓やジェンダー平等に反対してきた、統一協会・勝共連合が保守政治家とともに政治と行政をゆがめてきたことが広く知られるところとなりました。この問題を厳しくただすことができるのは共産党だと確信しています。憲法改正論議がかまびすしい今、市民とともに改憲阻止を掲げる共産党に期待する声はますます大きくなっています。

 これからの活躍にも期待しています。

 

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治維法被害知るシンポ 道弁連 高校生「僕らが思い継ぐ」

20221123

 北海道弁護士連合会は19日、「北海道における治安維持法の被害を知る」と題したシンポジウムを旭川市で開きました。日本弁護士連合会が共催し、オンラインを併用。会場は、用意した資料が足りなくなるほどいっぱいになり、熱気に包まれました。

 坂口唯彦理事長は、「戦後77年を迎え、戦前戦中の出来事を経験した方が減少していく中、希代の悪法、治安維持法の被害を語り継ぐことを通じて、日本国憲法の人権保障と平和の尊さを考える機会にしましょう」とあいさつしました。

 戦時中の日常を絵に描いただけで治安維持法違反とされ、逮捕、投獄された「生活図画事件」の菱谷良一氏は101歳の人生を振り返り、「余力がある限り私らしい発信をしていきたい。受け止めて次の時代に頑張ってほしい」とビデオメッセージを寄せました。

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟道本部の宮田汎会長と北海道新聞記者の佐竹直子氏が講演しました。

 宮田氏は、治安維持法が社会変革とは無縁の人びとを弾圧してきたと指摘。「このような体制は許さないという思いを忘れず、日本の民主主義のために語り継いでいきましょう」と訴えました。

 旭川工業高校新聞局の1年と2年の男子2人組が「治安維持法の実態は知りませんでした。語り部がいなくなっていき、僕たちが思いを継いでいくことの意味を実感しました」と話していました。

 

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治維法国賠同盟が全国女性交流集会 3年ぶり 田村智子氏が講演

2022119

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟は6、7の両日、静岡県熱海市で第31回全国女性交流集会を3年ぶりに開催し、約100人が参加しました。

 日本共産党の田村智子副委員長・参院議員が「女性の権利・ジェンダー平等、時代を拓(ひら)く不屈のたたかい」をテーマに記念講演。戦前の困難な時代に女性の権利獲得に向けて不屈にたたかった治安維持法犠牲者の実体験を交えた話に参加者からは「戦前の女性の不屈のたたかいをもっと学びたい」「とても良かった。スカッとした」などの感想が寄せられました。

 集会では、吉田万三中央本部会長は、「世界は大きく変わっている。独立国が増え、核兵器禁止条約がつくられました。日本は侵略戦争に反省しない世界でも遅れた国になっています。『戦争する国づくり』をすすめる政府に対し侵略戦争に反対してたたかった治安維持法犠牲者に謝罪と賠償を求める同盟の役割はますます重要」と指摘しました。

 田中幹夫事務局長は、岸田文雄政権の国民無視の悪政とのたたかいと結んで、映画「わが青春つきるとも―伊藤千代子の生涯」の製作・上映運動は10月末現在、350会場6万人が鑑賞したと紹介。会員拡大では7県が目標達成したとし、2万人同盟の早期達成を呼びかけました。

 大石喜美惠女性部長は「同盟に女性部がなぜ必要」かを解明した『治安維持法と現代』誌を学び、全県・支部に女性部づくりを呼びかけました。

 

10月

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尹東柱碑に友情誓う 戦時中獄死の韓国の詩人 京都で集い

20221030

 宇治川(京都府宇治市)上流の白虹橋(はっこうばし)のたもとに建立された韓国の詩人尹東柱(ユン・ドンジュ)の記念碑「記憶と和解の碑」の建立5周年を記念する集いが29日、同地で行われ、約80人が参加しました。主催は、詩人尹東柱記念碑建立委員会、詩人尹東柱を偲(しの)ぶ京都の会。

 尹東柱は、朝鮮独立運動への関与を理由に治安維持法で逮捕され、1945年2月に福岡刑務所で、27歳で獄死した韓国の国民的詩人です。記念碑は、尹が同志社大学留学中に友人とハイキングに訪れ、生前最後となった写真が撮影された同地に、2017年に建立されました。

 参加者らは尹の詩の朗読や、歌手の李紗栄氏の独唱に耳を傾け、尹をしのびました。

 駐大阪大韓民国総領事館の金亨駿総領事ら来賓があいさつし、今後の両国の信頼と友情が深まることへの期待と決意が語られました。

 記念碑建立委員会の安斎育郎代表(立命館大学名誉教授)が「平和学分野では『地球規模で考え、地域から行動を起こせ』『地域から発想し、地球規模で行動を起こせ』と言われる。ここから世界に向け、歴史に学び平和と友好の取り組みをアピールしていこう」とあいさつしました。

 

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青年が語りあう「日本共産党創立100周年記念講演」

私たちが次の100年つくらなきゃ

20221029

 志位和夫委員長の日本共産党創立100周年記念講演「日本共産党100年の歴史と綱領を語る」について、若い世代の人たちに感想をオンラインで語り合ってもらいました。出席者は、入党して1〜5カ月足らずの10代20代の3人と民青県委員長の若き党員たち。各人のドラマチックな入党エピソードに座談会は熱を帯び、若者が語りあう日本共産党“発見”物語です。

 ――きょうは、党創立100周年記念講演について、ざっくばらんに語りあってもらいたいと思います。まずは初対面なので入党のいきさつなどから自己紹介をお願いします。

 ケイ 首都圏の大学院生です。日本共産党に関心を持ったのは、夏の参院選でした。6月末のジェンダー街頭宣伝でリプロ(性と生殖に関する健康と権利)、性暴力被害、経済格差、LGBTQ(性的少数者)の権利など幅広いイシュー(論点、争点)を取り上げているところを見て、小さな声を取りこぼさない政党だと、これは本格的に支持することができると思いました。投票日の翌日の選挙結果報告の街頭宣伝を聞いていたら民青同盟を紹介され、それ以来、綱領や科学的社会主義などを少しずつ勉強していったんですが、入党はちょっと二の足を踏んでいました。しかし、最終的に入党を決めた決定打は、日本共産党創立100周年記念講演でした。講演を視聴したその日のうちに入党しました。

 猫さん 北海道で教員をしています。高校生の時、ネットで憲法を調べたら自民党の改憲草案が出てきて、平和とか人権という価値観が否定されているような気がしました。おかしいと思いながら10年たち、安保法制が強行された時、市民と野党の共闘で立憲主義を回復させようと、他の野党を巻き込んで頑張る共産党がかっこいいなと思った。社会を変えたいという人がたくさんいるとわかり、自分も頑張りたいと思って先月、共産党に入党しました。

 カエデ 今年、長野県内の大学に入学し、5月に入党しました。7月の参院選でビラのポスティングをしました。私は、もともと科学的社会主義に興味があり、高校生の頃から独学でマルクスやエンゲルスの古典をいろいろと読みあさっています。

 古川大暁 民青同盟愛知県委員長をしてます。大学生の時、学生自治会の活動をしました。学費が払えなくて大学をやめないといけないという学生が身近にいて、衝撃を受けました。党員の先輩から一緒に社会を変えようと誘われて、考えに考えて入党しました。

不屈のたたかい知り 先人に背筋が伸びる

 ――記念講演の第一印象はどうですか。

 猫さん 記念講演を3回視聴しましたが、長いとは思わなかった。今の世の中があるのは、血のにじむような思いをしながら自分の生き方を貫いて生きてきた人たちのおかげなんだと思いました。この人たちの後に続きたいという思いです。

 一番印象に残ったのは、宮本顕治さん(戦前・戦後の党の指導者)が弾圧によって逮捕され獄中で腸結核が悪化して、死は時間の問題と思われていた時に、予審判事が、「『人並み』に一応調書だけとれば外の病院で死なせてやる」と言われて、それを拒絶したところです。自分だったらこんな生き方できるかなとすごく考えました。

 ケイ 私は、一言でいえば背筋が伸びたというか、思わず襟を正してしまいました。記念講演では、100年の歴史を追いながら、党の姿がひもとかれ、日本共産党がどのようにあり続けてきたのか、どうあろうとし続けてきたのかが語られていました。

 記念講演を視聴するちょうど数日前に、映画「百年と希望」を見て、今の若い世代の共産党員がどのようにたたかっているかが描かれていてとても感銘を受けました。記念講演と映画を両方見て、縦糸と横糸がつながるように、党の100年の歴史と今現在の在り方がつながって、いよいよ入党しようという決意に至りました。

 古川 第一印象は、党の不屈性の話です。一見、不可能とか無理なことを共産党はどう乗り越えてきたのか。もし、戦前の天皇制の社会に生まれていたら、命がけで天皇制打倒と言うなんてできるだろうか。当時の人たちの多くはそう思ったのではないか。そのなかで共産党は「国民主権」を掲げました。また、戦後、沖縄人民党と瀬長亀次郎さんが先駆的にたたかった沖縄の島ぐるみの「祖国復帰」運動も、サンフランシスコ条約上は不可能なことでした。最初は絶対不可能だと思われていたことを不屈のたたかいでくつがえしているんだなと思いました。

 だから最賃1500円とか、共産党が参画する政権とか今、無理だと思われることも、あきらめずにたたかうことで実現できると思います。

 カエデ 長い歴史の中で治安維持法など多くの苦難がありましたが、正面から立ち向かって、それを乗り越えようとする、そうしたことが日本共産党を今日まで存続させてきたのだなと思いました。

 それができた理由は何かというと、先人の方々の不屈性とか、不断の努力とか、科学的社会主義だとか、社会の本来あるべき姿をとらえていく姿勢を絶えず続けてきたから実現したので、私は、この日本共産党こそが、今後の日本社会を変革していける政党なんだと思いました。

平和・ジェンダー平等 たたかえたのはなぜ

 ――戦前の宮本顕治さん、それから、戦後の瀬長亀次郎さんの感想が語られました。先人の不屈のたたかいを聞いてどう感じましたか。

 ケイ 戦前の女性党員の存在と、彼女らの本当に文字通り命がけのたたかいの話がとても強く印象に残っています。戦前、女性は合法化されていた政党への加入が禁じられていた中で、日本共産党には女性党員がいて、しかも少なくない女性党員が命を落としています。文字通り命をかけて私の大先輩にあたる人々がたたかっていました。

 今から見れば不十分な点もあったかもしれないけれども、当時から日本共産党が先駆的に女性解放を唱えて、女性党員が男性と肩を並べてたたかっていた不屈さが今にもつながっているんだなと思って、新たに党員となる女性である自分としては、彼女らの存在を心にとめて恥ずかしくないあり方をしたいなと強く思いました。

 カエデ 共産党に対する風当たりが非常に厳しい中で先人の方々が文字通り血を流しながら必死に人間とか社会とかの本来あるべき姿とかを訴え続けてきて、それが今の共産党の形につながっているのではないかと感じました。ジェンダー平等、平和を求める動きが世界中で高まっているということから考えても、先人の方々が訴えた内容、理論的な正しさ、先駆性においても非常に優れていたもので、敬服せざるを得ません。

 ケイ たしかにカエデさんや古川さんがおっしゃったようにあの当時自明とされていたことに対して異を唱えていることがすごいなと思います。

 ちょっと戦後の話になりますけど、50年代に日本共産党がソ連の介入を受けた際も、当時ソ連はある意味“社会主義の旗振り役”のような存在だったところをそのソ連からの介入をはねのけて、ソ連の覇権主義、全体主義を当時から批判していました。ソ連の内実がわかってくる前から、ソ連に対して批判をしていたっていうところ、女性解放を早くから唱えてきたところ、――今の視点から見れば正しかったっていうことを歴史が証明してるんですけれど、でも当時はその状況の中ではそれが正しいかどうかって、多分多くの人は判断がつかなかったと思うんです。

 そういう状況で、今、振り返ってみても、日本共産党が大枠で正しい選択をできてきたのってどうしてなのかなってすごく思いました。何かやはり科学的社会主義を背骨にして理論的に事実をもとに考え続けていたからこそ、正しい選択ができたのかなとか思いつつ、それにしてもすごいなと思いました。

 猫さん 講演のなかで、日本共産党が命懸けで掲げた主張が日本国憲法の中心的内容に実っているところが印象に残っています。

 若者憲法集会の活動を頑張っています。「憲法は大事という人は理想論ばっかり」と思っている人がいます。そう思っている人に「当時非合法だった共産党が命かけて主張してきた内容が今の憲法につながってるんだよ」っていう話をできるようになりたいなってすごく思いました。

 憲法ってまだどんなに攻撃されたって生きてるじゃないですか。政府の行為によって戦争の惨禍が起こることを防いでくれていると思うんです。「外国から日本も攻撃されるんじゃないか」とかって不安に思った時に「ちょっと待って」って思いとどめさせてくれるのが憲法9条。その裏には講演の中にあった先人たちのたたかいがあって、先人たちの声が聞こえてきます。「憲法を大事にするっていうことは決して理想論じゃないよ。現実的な問題なんだよ」と歴史を踏まえて話せるようになりたいなって、記念講演を見て思いました。

自己改革の党いいな 未来社会はあこがれ

 ――記念講演で志位委員長は自己改革の努力を続けてきたことを詳しく語っています。どう思いましたか。

 カエデ 日本共産党の掲げている自主独立路線と自己改革という姿勢は、「共産党宣言」以降マルクスとエンゲルスが発展させてきたその国独自の条件に応じた社会変革といった点をしっかりと受け継ぎながら自分たちで討論を繰り返して成長させ、受け継いでいると感じました。

 猫さん 正しく理解できてるかどうか分からないんですけど、マルクスやエンゲルスを徹底的に分析して研究したからこそ、原点に立ち返って、中国やソ連が誤っているんだっていうことを言えたんだなっていうのをすごく感じました。もし、日本共産党が暴力革命論を支持している政党だったら、自分は入党は絶対にしなかった。

 記念講演の中に、社会主義・共産主義論が出てきます。私は、マルクスの「自由の国と必然性の国」の話がすごく好きなんですけど、労働時間が短縮されれば、その分の自由な時間を使って、自分自身を発達させるために時間を使えるんだっていうのはすごくいいなって。

 教員やってたら、そういうことをすごく思います。仕事が忙しい時はなかなか帰れないし、きょうもこのあと仕事です。(「持ち帰り残業ですか」の声)持ち帰り残業ですね。自由な時間がもっとあれば、その分、映画を見に行ったりとか、おいしいもの食べたりとか、そういうことに使える、それは人が人として発達していくためには、すごく必要だと思います。そうすることで、子どもたちのよりよい教育につなげることもできるから。そういう社会になることは、あこがれです。それは暴力じゃ絶対につくることできない。そういう面でも、日本共産党がいいなって思います。

 ケイ 記念講演で語られていましたけれど、日本共産党は過去に同性愛に関して否定的に述べたことについて、2020年の党大会で公式に謝罪していましたよね。おそらく残念ながら、現在の日本で、これができる政党は、日本共産党のほかにはないかもしれないなと、私は思ってしまっています。

 過去の誤りや時代の制約を認め続けているところって、すごく魅力的だなと。これもあったから入党しようと思ったんだよなって思います。微力ながら、一員となった今となっては、自分も自己改革の姿勢を忘れないようにしないと、と思っています。

 2020年の改定綱領には、ジェンダー平等が盛り込まれましたけれど、時代によって、理念を大事にするだけじゃなくって、今起こっていることや今あがっている小さな声も拾いあげて、練り上げてつくられていくのが日本共産党なんだなということを改めて感じました。

 ――メディアなどで「共産党は間違いを絶対に認めない」「無謬主義」というイメージで言われることがありますが。

 古川 無謬主義の話でいうと、山際(大志郎)大臣(経済再生担当相)が辞めましたけど、自分たちの誤りを認めないのは自民党ですよね。

 それから記念講演での民主集中制の話が印象的です。共産党が民主集中制の組織原則を持つ党でよかったなとつくづく思います。他党は党首が今までと違うことを突然言い出して党内が大混乱していることがあります。

 志位さんはそんなこと言わないわけですよ。それは、志位さんがいい人ということもあると思うけど、民主集中制に基づいてみんなで決めたことを、みんなで実行するというのが組織原則になっているから。党内では徹底議論し、分派をつくらず国民に対してきちんと責任を果たす。共産党が歴史の中で鍛え上げてきた組織原則は、合理的だし力強さがあるなと感じています。

 ケイ 今のお話を聞いて、実は民主集中制に関して少しひっかかり、誤解していた部分が正直ありましたが、少しふに落ちました。

 民主集中制という形になった経緯や必要性も理解していたんですけど、いまひとつ引っかかっていて。私が最初に日本共産党に興味を持ったきっかけは小さな声を取りこぼさない党だっていうことを確信したからです。でも結局縦社会じゃないかという誤解を持ってしまっていたんですね。

 今、お話を聞いていて党の中で派閥が生まれたり、属人的な党内政治が行われたりしてしまわないためっていう意義はすごく大きく、それは確かに民主的なシステムかもしれないなあということを思いました。

若者に語りかければ展望抱いてもらえる

 ――党や民青を大きくすることや今後の抱負を聞かせてください。

 カエデ 党や民青の拡大は本当に最近注力したいと思っています。先日、大学でフードパントリーを民青の主催でやり、それを通じて1人学生が新たに加盟しました。そうやって語りかけて対話していけば民青に希望を見いだして、社会は変えられるという展望も抱いてもらうことができるということを身をもって体感しました。今後もそういった自分にできることから一つ一つやっていけたらと思います。

 ケイ この講演を聞いて改めてその、百年の先人が不屈につないできた流れを止めてはいけないなと思いました。微力ですが私を含めた今の若い党員がこれからの100年をつくっていかなくちゃいけないと考えたときに、これまで通り自己改革を続ける不屈性をもった党であり続けられるかどうかは自分たちの世代にかかっているんだなあと思って、ちょっとやれるだろうかという不安と身が引きしまる思いが入り混じった気持ちになりました。

 これからの100年って私たちや私たちが対話して仲間に増やしていく若い人たちがつくっていくものだと思います。入党したばかりですが、身近なところから始めたいです。

 古川 党を大きくしたいですね。今、民青同盟員が増えているんです。日本の政治は新しい政治への転換をはらむ大きな激動の最中にありますというけど、まさにそういうことを感じています。

 ケイ きょうは、他の方の感想が聞けて、違う角度から記念講演を見ることができて理解が深まりました。

 カエデ 私も普段は他県の方とお話することがないのですが、今回は貴重な機会をいただきました。

 猫さん 時間が足りない、もっと話したい(笑い)。今後頑張りたいことは、まず一つ、若者憲法集会。もう一つは、科学的社会主義を学んでみたいという気持ちでいっぱいです。

 一同 ありがとうございました。(拍手)

 

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「日本共産党常任活動家の墓」第37回合葬追悼式

市田副委員長のあいさつ

20221025

 東京都八王子市の上川霊園で22日にあった「日本共産党常任活動家の墓」第37回合葬追悼式で、市田忠義副委員長が行ったあいさつは次の通りです。

 「日本共産党常任活動家の墓」合葬追悼式は今年で37回目を迎えました。

 今年合葬される人は246人です。これまで合葬された方々と合わせて5000人を超え、5082人が合葬されています。今日の党をつくり、歴史を刻んでこられた方々が、その任務や役割、時代をこえて、同志として合葬されています。

 「不屈の戦士ここに眠る」という碑文が刻まれ、墓碑の除幕式として合葬追悼式がおこなわれたのは今から36年前の1986年7月でした。戦前、公然とした活動が認められなかった日本共産党にとって、共同墓地をつくるなどはとうてい不可能でした。それどころか小林多喜二が死んだ日の通夜にかけつけた者は検挙されるという状況でした。戦前、権力によってその命までもが奪われた同志たちにはせる思いが、この墓碑に込められています。

 1922年7月15日に結成された日本共産党は今年、創立100周年を迎えました。政党として100年の歴史を持つ党は世界でも日本でも稀有(けう)な存在です。この9月には志位和夫委員長が「日本共産党100年の歴史と綱領を語る」と題して党の歴史がなぜ100年続いたのか、その歴史を貫く特質を三つの点で紹介しました。

 その歴史をひもとく一つは“どんな困難なもとでも国民を裏切らず、社会進歩の大義を貫く不屈性”であり、二つ目が政治路線と理論の面でも、党活動と組織のあり方の面でも「科学的社会主義を土台にした自己改革の努力」を続けてきたことです。そして三つ目が“国民との共同―統一戦線で政治を変えるという姿勢”を貫いてきたことです。

 社会進歩の大義を貫く不屈性は、戦前の天皇絶対の専制政治に正面から挑み、治安維持法と特高警察による弾圧と迫害に抗しての命がけのたたかいにつらぬかれてきました。過酷な弾圧によって命を奪われた先輩は少なくありません。この墓地にはこうした戦前の同志の名前も銘板に刻まれ、墓地に納められています。第2回合葬式で戦前の同志を新たに合葬することになり、記念講演で紹介された川合義虎、渡辺政之輔、上田茂樹、岩田義道、小林多喜二、野呂栄太郎、国領五一郎、市川正一などの先輩たちも銘板に名前を刻んで墓地に納められています。

 戦前の同志を合葬するにあたって宮本顕治議長(当時)は、当時の活動の状況を語りながら、戦前の党員への思いをこう述べられました。公然と活動できなかった時代、お互いに知り合うことは少なかった。市川正一とは同郷であったけれども、党に入ってから互いに十数年間、同じ党員としていたけれど、どちらも監獄にいて会うことができなかった。「市川正一は終戦をまたず、獄中で亡くなりました。これは、多かれ、少なかれ、多くの同志たち、途中で弾圧で倒れられた方などに共通の状況」だった、そんな時代をたたかった同志が、今回「共同墓地に眠るということは、私は故人たちも本望ではないか」と。これは共産党員として迫害に屈することなく気高くたたかいぬいた同志に対する宮本さん自身の深い哀悼の思いだったにちがいありません。

 日本共産党の歴史の特質の二つ目にあげられている、科学的社会主義を土台にした自己改革の努力は、今回合葬された多くの同志が、それぞれの党活動の場面で時には深刻な苦悩を体験しながら、今日の党綱領の路線として確立・発展し実を結んできているものです。

 「50年問題」というソ連、中国の乱暴な干渉が行われ、党の分裂という事態が起こった時期に、この誤りを乗り越えて自主独立路線を確立し、組織的統一を回復する過程は、文字どおり日本共産党だからこそ成し遂げることができた科学的総括であり、偉業ともいうべき自己改革だったと思います。戦後直後の日本共産党員の多くは、侵略戦争に反対し、反戦・平和の旗を掲げた唯一の政党の存在に熱い信頼をもって隊列に参加してきました。そのなかで起きた「50年問題」は党の歴史上、「最大の悲劇的な大事件」でした。だからこそ苦渋の経験をのりこえた組織的統一と団結の回復を心から喜び、新たに確立した61年綱領路線を大きな確信に、政治的、組織的前進に総力を挙げていきました。

 綱領路線には、その後のたたかいをつうじて、理論的、政治的な発展もありました。国際的な定説とされていた「二つの陣営」論という世界の図式的な見方の清算や社会主義・共産主義社会―未来社会論の魅力ある豊かな社会への発展の展望なども明らかにしてきました。

 私自身も地方党組織で活動していた時代に覇権主義とのたたかいに遭遇してきましたが、今回合葬された多くの方もこうした覇権主義とのたたかいで奮闘され、今日の自主独立の立場の確立のために力を尽くされた方たちであることを、その党歴からうかがい知ることができます。

 自己改革は党の活動と組織のあり方でも重ねられてきましたし、それは今も続けられています。党の組織と運営も社会の民主主義的な発展と結んでその改革をすすめています。かつての党組織の運営や党活動には克服すべき課題もありました。党綱領で「ジェンダー平等」を明記し、ジェンダー問題にとりくむことを党の方針の中心に掲げた党として、党活動でも、党生活でも個人の尊厳を大切にして党員自身が「学び、自己改革する努力」をしているところです。

 日本共産党の歴史を貫く三つ目の特質として、60年代から今日までの日本共産党のたたかいがどのように展開されてきたか、そこには支配勢力との攻防を繰り返し、どんな困難な状況でも国民とともに政治を変える=統一戦線で政治を変えるという立場を堅持してたたかい抜いてきたことがあります。

 日本共産党は三つの躍進の時期を経験しています。最初は、60年代末から70年代。第2は90年代後半の躍進、第3は2010年代中頃の躍進です。70年代の躍進のときは一大反共キャンペーンが展開され、さらに日本共産党の抑え込みのための「社公合意」が行われ、その後あらゆる分野で「日本共産党を除く壁」が築かれました。

 今回合葬された多くの方は、この時代を生き、活動してきた党員であり、逆風のなかで党をつくる厳しさを身をもって体験された方々ではないでしょうか。

 私も、京都で地区委員長、また府委員長として、逆風にたじろがず、全国の同志のみなさんと必死に立ち向かい、一つひとつの政治闘争、組織建設に力をつくし、その経験によって鍛えられてきたことを実感しています。合葬された名簿を拝見し、中央や地方党機関、議員や専従者としてさまざまな機会にお会いし、ともに選挙をたたかった人など、在りし日の姿がしのばれ、胸に迫るものがあります。あらためて心からの敬意と感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。

 いま私たちは「党創立100周年記念、統一地方選挙勝利・党勢拡大特別期間」の成功に全力をあげています。日本共産党の躍進を阻止しようという反共と反動のくわだてが繰り返され、このたたかいに勝利する最大の力は“強く大きな日本共産党の建設”です。

 60年代の党建設の初心に立ち、先人たちのねばり強い、地道な奮闘に学びながら、21世紀の量質ともに強大な党づくりに大志とロマンをもって挑む決意です。

 最後に、合葬された故人と喜びや苦労をともにされてきたご家族のみなさんに、心から感謝とお礼を申し上げます。ほんとうにありがとうございました。

 ご遺族のみなさんが健康に留意され、お元気ですごされることを願って、追悼のあいさつといたします。

 

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政府に一歩も引かぬ論戦 「山宣」に近づく生き方を

長野・上田 市田氏が記念講演

20221017

 戦前の天皇制下で治安維持法に反対し反戦平和を貫いた「山宣」こと労農党の代議士・山本宣治(1889〜1929年)をテーマとした記念講演会が16日、長野県上田市で開かれ、日本共産党の市田忠義副委員長が講演しました。今年で結成50年となる長野山宣会の主催で、100人以上が参加しました。

 市田氏は、生物学者から社会運動に身を投じ、京都選出の国会議員として奮闘した山宣の生涯を紹介。資本家や地主の代表が占める帝国議会で、山宣は特高警察の過酷な拷問の実態を暴露したとして「独裁政治の下で現場を徹底的に調べ、政府のごまかしに一歩も引かない論戦をした」と彼の議員活動の値打ちを強調しました。

 山宣の議員活動は長野県の農民運動を励まし、右翼に暗殺された際は歌人の与謝野晶子が追悼したなど、彼の死は当時の社会にも衝撃を与えたと市田氏。臨時国会が開かれ、岸田政権が改憲などを狙う中で「今こそ一歩でも二歩でも、山宣に近づく生き方をしよう」と呼びかけました。

 上田市の女性(79)は「市田さんの話で、選挙で負けても頑張らないといけないと思い直しました」と話していました。

 記念講演会に先立ち、山宣の記念碑が立つ上田市別所温泉で行われた長野山宣会主催の碑前祭には約40人が参加。中澤勘介会長があいさつし、来賓の共産党の高村京子県議が憲法を守り抜く決意を表明しました。

 

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ツルシのぶらり探訪 石川・かほく市反戦川柳・鶴彬の故郷 侵略被害よんだ29年の生涯

20221013

 石川県中部に位置し日本海に臨む、かほく市。反戦川柳作家・鶴彬(つる・あきら=1909〜38年)の故郷です。本名は喜多一二(きた・かつじ)。

 鶴は河北郡高松村(現・かほく市高松)に生まれました。高等小学校卒業後、伯父が経営する織り屋で働きながら、「北国新聞」の「北国柳檀」に投稿し、15歳で川柳人としてデビューします。

 18歳の時に上京し、革新川柳人・井上剣花坊(けんかぼう)に入門。「暴風と海との恋を見ましたか」など、ロマンチックな句を作っていた少年が、プロレタリア川柳に目覚めていきます。

 1930年に金沢市の歩兵第7連隊に入隊。雑誌『無産青年』所持により、懲役2年の判決を受け、大阪衛戍(えいじゅ)監獄(大阪陸軍刑務所)で刑に服します。

 37年に『川柳人』に反戦句を発表し、治安維持法違反容疑で東京・野方署に留置されます。38年、留置中に赤痢に罹患(りかん)し、豊多摩病院で獄死しました。29年の生涯で1000句をこえる川柳、90あまりの評論・自由詩を残しました。

 「鶴彬を顕彰する会」副会長・板坂洋介さんの案内で、旧能登街道沿いに点在する、ゆかりの地を歩きました。同会は毎年、鶴の命日(9月14日)のころ、墓前法要と碑前祭を開催しています。

 高松歴史公園には、句碑「枯れ芝よ団結をして春を待つ」があります。72年に高松児童公園に建てられた碑を、98年に移設したものです。

 2009年には生誕100周年記念映画「鶴彬 こころの軌跡」が完成し、神山(こうやま)征二郎監督が揮毫(きごう)した2基の句碑が建立されました。

 一つは鶴の生家跡にある、鶴の甥(おい)・喜多義教さん宅の庭に立つ句碑「可憐(かれん)なる母は私を生みました」。

 もう一つは浄専寺境内に立つ句碑「胎内の動き知るころ骨(こつ)がつき」。隣には没後80周年の2018年に建立された「鶴彬墓碑」があり、岩手県盛岡市の喜多家の墓から分骨した、鶴の遺骨が眠っています。

 浄専寺近くの「たかまつまちかど交流館」3階には「鶴彬資料室」があります。

 展示している句の中には、女性や朝鮮人など虐げられた人々をよんだ作品もあり、強い印象を残します。「みな肺でしぬる女工の募集札」「ざん壕(ごう)で読む妹を売る手紙」「母国掠(かす)め盗った国の歴史を復習する大声」。

 板坂さんは「鶴は大衆にもわかりやすい川柳を武器に、激化する侵略戦争の被害者の実相をはき出し、命がけで反戦・反権力を貫きました」と話します。

 ツルシカズヒコ

【交通】鶴彬関連の句碑や「鶴彬資料室」へは、JR七尾線高松駅から徒歩約20分

【問い合わせ】「鶴彬を顕彰する会」事務局 電話0762810546(浄専寺・平野喜之)

 

9月

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「奇跡の映画」 上映広げる 伊藤千代子没後93年 碑前つどい

2022925

長野・諏訪

 治安維持法下の苛烈な拷問で病に倒れ、24歳で獄死した日本共産党員・伊藤千代子(1905〜29)の命日の24日、彼女の出生地で顕彰碑が建つ長野県諏訪市で没後93年の碑前のつどいが開かれました。東京都など県外を含め約30人が参加。オンライン中継も行われました。

 つどいは同市などでロケ撮影を行い、千代子の人生に迫った映画「わが青春つきるとも―伊藤千代子の生涯」の完成記念なども兼ね、映画製作を支援する全国の会と上映運動長野県実行委員会が共催。地元の顕彰団体・伊藤千代子こころざしの会が協賛しました。

 映画の原作である伝記『時代の証言者 伊藤千代子』の著者・藤田廣登氏の司会で、上映運動県実行委員長の木嶋日出夫弁護士があいさつ。「戦争のない世界をつくるという千代子の志を引き継ぎ、実現するために頑張り抜く」と訴えました。

 全国各地の運動により、6月末までに204会場で上映された「伊藤千代子の生涯」。映画を監督した桂壮三郎氏は「シナリオを読み『千代子がかわいそう』と泣いた俳優さん、当時をよく研究して小道具を集めたスタッフ。彼らの力でできた『奇跡の映画』だと思います」と語りました。

 道内全自治体での上映を目指す北海道実行委員会のメッセージを労働者教育協会元事務局長の大澤進氏が代読。「こころざしの会」の藤森守会長が「当面800地域での上映運動の発展のため、民主・共同の力の発揮を呼びかける」とするアピールを読み上げました。

 つどいに先立ち墓参会が開かれ、追悼の献花が行われました。

 

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違憲の国葬中止を 各地で行動「税金を返せ」怒りの声 和歌山

2022920

 和歌山県の「戦争する国づくりストップ!田辺西牟婁(にしむろ)住民の会」は18日、安倍元首相の国葬に反対する田辺西牟婁住民のつどいをJR紀伊田辺駅前弁慶広場で開き、60人が参加しました。

 同会の田所顕平共同代表は「イギリスと日本では対照的な国葬になるだろう」と指摘。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟西牟婁支部の芝峰進氏は「私たちは10円でも安くと生活しているのに何十億円も使っての国葬。税金を返せ」と怒り、白浜9条の会の高橋幸彦氏は「知人の妻が統一協会に。親戚中に借金し知人は早期退職して返済した。そのような団体と深い関係にあるのが安倍氏だ」と告発しました。「9条ママnetキュッと」の笠松美奈さんは「憲法を守らないと子どもたちも守れません」と憲法違反の国葬に反対し、田辺聖公会の奥村貴充司祭は「国葬は民主主義を根底から破壊する」と批判。日本共産党の高田由一県議は、県議会で国葬問題を追及したことを報告し「憲法に違反する国葬はいますぐ中止せよ」と訴えました。

 参加者らはつどい後、田辺市湊交差点でスタンディング宣伝しました。

 

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日本共産党創立100周年記念講演会 日本共産党100年の歴史と綱領を語る(1)

幹部会委員長 志位和夫

2022919

 日本共産党の志位和夫委員長が17日、「日本共産党100年の歴史と綱領を語る」と題して行った党創立100周年記念講演は次のとおりです。

 全国のみなさん、こんにちは。ご紹介いただきました日本共産党の志位和夫でございます。きょうは、私たちの記念講演会にご参加いただき、まことにありがとうございます。

 今年2022年は、1922年7月15日に日本共産党が創立されて100周年の記念すべき年です。この1世紀は、世界でも日本でも、多くの悲劇とともに巨大な進歩が刻まれた1世紀でした。

 100年のわが党の歴史は、この党とともに社会進歩の道を歩んだ多くの先輩たちの奮闘、この党をさまざまな形で支援してくださった多くの国民のみなさんによって支えられたものであり、私は、そのすべてに心からの敬意と感謝をのべるものであります。(拍手)

 きょうは、「日本共産党100年の歴史と綱領を語る」と題してお話をいたします。

 この間、いくつかのメディアから、「なぜ100年間、続いたのか」という質問が寄せられました。たしかに、一つの政党が1世紀にわたって生命力を保ち、未来にのぞもうとしていることの意義は小さくないと思います。私は、この問いに対して、日本共産党の100年を貫く三つの特質をあげたいと思います。そして、この特質を“次の100年”を展望しても貫き、発展させていくという決意をのべるものです。

 きょうの講演は、例年よりも多少長くなりますが、なにぶん「100周年」というのは100年に1回しかありませんのでご容赦いただき、どうか最後までよろしくお願いいたします。(拍手)

一、どんな困難のもとでも国民を裏切らず、社会進歩の大義を貫く不屈性

 みなさん。日本共産党の党史を貫く第一の特質は、どんな困難のもとでも国民を裏切らず、社会進歩の大義を貫く不屈性であります。

 不屈性と言った場合、ただやみくもに頑張るというものではありません。科学の立場で社会発展の先々の展望を明らかにする先駆性と一体になった不屈性こそが、日本共産党の特質であります。

戦前――天皇絶対の専制政治の変革に正面から挑む



この挑戦は文字通り命がけの勇気を必要とするものだった

 戦前の党の歴史における不屈性は、何よりも天皇絶対の専制政治――絶対主義的天皇制の変革に正面から挑むという姿勢と一体のものでした。

 戦前の天皇制は、今日の天皇の制度とはまったく違います。それは、天皇が国の全権力を一身に集め、国民を無権利状態におく専制国家であり、天皇の命令一つで国民を侵略にかりたてる戦争国家でした。

 日本共産党が誕生する前にも、自由民権運動をはじめ、自由と民主主義を求めるさまざまな運動が生まれ、その最も先駆的な人々のなかには「国民主権」の主張も現れました。しかし、天皇制の問題を正面から問うところまで進んだ運動は、残念ながらなかったのです。

 日本共産党の誕生は、日本社会の発展の最大の障害物であった天皇絶対の専制政治の変革に、科学的社会主義の立場に立って、正面から取り組む政党が、日本に初めて現れたという歴史的意義をもつものとなりました。それは侵略戦争反対、国民主権の実現など、平和と民主主義の問題でも、これに正面から真剣に取り組む政党が初めて現れたという国民的意義をもつものでした。

 天皇制に対する態度は、社会進歩の立場を貫けるかどうかの最大の試金石ともなりました。戦前の日本では、日本共産党ははじめから非合法とされましたが、社会民衆党、社会大衆党など、一般に「社会主義」を名乗る政党は合法政党として存在が認められていました。彼らは「社会主義」や「財閥打倒」を唱えましたが、天皇制には従順でした。そうした諸党がどういう道をたどったか。太平洋戦争に向かう時期、保守政党とともに、「大政翼賛会」に合流して侵略戦争を推進するという道に落ち込んだのであります。

 悪名高い治安維持法は、1928年の改悪によって、「国体を変革」するもの――天皇絶対の専制体制を変革するものへの刑罰は死刑を含む最も重い刑罰に引き上げられましたが、「私有財産」制度を否認するもの――社会主義をとなえるものへの刑罰は、改悪前の「10年以下の懲役・禁錮」のままとされました。これは暗黒権力が何を最も恐れていたかを明瞭に示すものでした。天皇絶対の専制政治への挑戦は、文字通りの命がけの勇気を必要とするものだったのであります。

弾圧に抗しての先駆的活動――その社会的影響力は大きなものがあった

 治安維持法と特高警察による弾圧と迫害によって、多くの先輩たちが命を落としました。命を落とした先輩たちのなかには、川合義虎、渡辺政之輔、上田茂樹、岩田義道、小林多喜二、野呂栄太郎、国領五一郎、市川正一などの諸先輩がいます。

 わが党の歴史には、不屈のたたかいを貫き命を落とした多くの若い女性党員のたたかいが記録されています。伊藤千代子、高島満兎、田中サガヨ、飯島喜美――この4人の同志は、それぞれ24歳という若さで命を落としています。伊藤千代子の女学校の先生だった歌人の土屋文明が、理想に殉じた彼女の死を悼んで、「こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中におきて思はむ」とうたったことは、広く知られています。

 みなさん。こうした先人たちをもつことは、わが党にとっての誇りにとどまらず、日本国民にとっても誇るべきことといってよいのではないでしょうか。(拍手)

 私は、日本共産党が、当時、女性解放の旗を先駆的・徹底的に掲げた党だったことを強調したいと思います。そのたたかいがいかに先駆的だったか。当時の弾圧法・治安警察法は、女性の政党への加入を禁じていました。世論と運動におされて女性の政治集会への参加までは認められましたが、政党への加入は治安警察法が撤廃された戦後まで禁圧されたままだったのです。すなわち当時、合法とされた政党は、すべて男性のみで構成されていたのです。今日、女性の政治参加の問題は、ジェンダー平等の重要な柱になっていますが、この時代に、日本共産党は、多くの女性党員をもち、女性党員の誇るべきたたかいを歴史に刻んだ唯一の党だったのであります。

 日本共産党が、“ここに日本共産党あり”という旗を国民の前に立てて活動できたのは、1928年2月の党機関紙「赤旗」(せっき)創刊から、35年3月、弾圧によって党中央委員会が活動停止に追い込まれるまでの7年間でした。しかしその社会的影響力は大きなものがありました。

 「赤旗」の発行部数は最高時に7000部に達し、その一部一部が回し読みされ、読者は数万人にのぼりました。小林多喜二や宮本百合子の作品は、『中央公論』や『改造』という当時一流とされた総合雑誌が競いあって掲載しました。野呂栄太郎が中心になって岩波書店から刊行した『日本資本主義発達史講座』は、当時の大蔵省、農林省、商工省の役人にも広く読まれるなど一般からも高く評価されました。それは、今日から見ても歴史学と経済学における科学的な金字塔というべき偉業であります。

 のちに「九条の会」の呼びかけ人の一人となった、評論家の鶴見俊輔さんは、当時の知識人から見た日本共産党の存在を「北斗七星」にたとえましたが、それはこの時代の日本共産党の存在と役割がどんなに大きなものであったかを示すものではないでしょうか。

戦後の新しい社会を準備する豊かな営み――宮本顕治・宮本百合子の12年

 1935年、弾圧によって党中央の活動は中断に追い込まれました。これをもって「党は壊滅した」と断ずる論者もいます。しかし、私が強調したいのは、党の活動は続けられ、その中には戦後の新しい社会を準備する豊かな営みも生まれたということです。

 ここでは戦前・戦後、党の指導者として大きな足跡を残した宮本顕治さんと、その妻で著名な革命的・民主主義的作家の宮本百合子さんの12年のたたかいを紹介したいと思います。ここでいう12年とは、宮本顕治さんが逮捕された1933年12月から、敗戦によって解放された1945年10月までの12年です。

 1950年〜52年に宮本顕治・宮本百合子の書簡集『十二年の手紙』が発行され、広く読まれました。この時の書簡集は抜粋のものでしたが、今では顕治・百合子のほぼすべての書簡が読めます。私は、講演の準備であらためて通読しましたが、そこには非転向の日本共産党員として獄中闘争をたたかいぬく顕治と、戦争非協力を貫き検挙、投獄、執筆禁止など絶えず迫害を受けながら日本共産党に所属する人民的作家として苦闘する百合子の、不屈の精神的交流の記録がしるされており、深い感銘を覚えました。

 獄中の顕治から百合子に対する援助や助言がしばしば行われています。そのなかには1938年、百合子が獄中への書簡で「急襲的な批判」――“不意打ちの批判”と呼んだ、百合子の生活と文学の問題点に対する厳しい批判もありました。1943年に顕治が百合子にあてた書簡では、戦時中に文学者を戦争に協力させる組織としてつくられた「文学報国会」が企画した作品集に対して、一切縁を持たない姿勢を貫くことがどんなに大切かを、繰り返し説いています。「良心的に生きるために一見孤独が避け難いときには、いさぎよくその孤独を受け入れることが真の文学者だろう。そんな孤独は……実は少しも孤立ではないのだから」。顕治はこう言って百合子を励ましています。これらの顕治の援助や助言と、それに誠実に全力でこたえた百合子の奮闘が、12年の時期に、百合子を大きく成長、飛躍させたことが、2人の書簡に記録されています。

 12年の最初の時期には、自らを「おさなさ」という言葉で特徴づけていた百合子は、終戦直後に顕治にあてた手紙で、自分が作家として「一点愧(は)じざる生活を過した」とのべ、それができたのは「無垢(むく)な生活が傍らに在った」からだと顕治への感謝をのべています。百合子が、12年に大きく成長し、戦後、日本文学の巨匠としてたち現れることができたのは、顕治の援助と助言、それにこたえる百合子の誠実な努力の結果だったと思います。

 同時に、強調されなければならないのは、顕治の獄中・法廷闘争は、百合子の最大限の支援・参加なしにはありえなかったということです。1951年、百合子が急逝した直後に、顕治は、「百合子追想」「百合子断想」などの論文で、顕治が、1937年、腸結核が悪化して、死は時間の問題と思われていた時に、予審判事が、「『人並み』に一応調書だけとれば外の病院で死なせてやる」といった。その誘いを拒絶して頑張りぬいたたたかいに対して、百合子がとった態度を次のように回想しています。

 「百合子自身も、その間一度も私に『人並みに死ねる』ための妥協をすすめることなく、私の死との格闘をやさしい勇気ではげまし、正しく生きるための不可避的な帰結をも卑怯(ひきょう)なごまかしでさけさせようとはしなかった」

 「巣鴨拘置所の病監で病死が近いとみなされていた私が腸出血と衰弱に歩くのもやっと病舎の面会室に現われたときも、彼女はいつもやさしく力をこめて、『どう』と心から微笑(ほほえ)みかけることをやめなかった」

 百合子は、投獄による健康悪化、経済的困窮のもと、裁判に関わる全記録を自分の費用でつくりあげ、公判闘争で顕治が暗黒権力のねつ造を論破するために必要な材料を準備しぬきました。そのことについて顕治は、「権力側のデマが敗退し、真実が守り抜かれた……背後には、百合子自身の窮乏と艱苦(かんく)による大きな犠牲的努力がひそんでいた」と深い感謝とともに回想しています。

 こうして2人は、日本軍国主義の敗戦を、成長と成熟のなかで、確かな備えをもって迎えました。それは戦後まもなく執筆され、百合子自身が「溢(あふ)れる川のように溢れて書かれた作品」と呼んだ『播州平野』『風知草』、さらに自ら「中途の一節」と呼んだ大作『道標』など、彼女の文学のなかにも現れました。

 12年に2人が交わした書簡、不屈の精神的交流の記録には、百合子を、一人の女性として、その才能、個性、人格を尊重し、その成長のために心を砕く顕治の姿が刻みこまれています。また、そこには、顕治の闘争をあらゆる犠牲を払いながら、共同の事業として支援するとともに、その助言を全身で受け止め成長する百合子の姿が刻みこまれています。

 こうした、人格を互いに尊重しあい、互いに支えあう2人の姿は、当時の時代的条件のもとで、抜きんでたものといえるのではないでしょうか。それは、最も困難な時代に、どのような姿勢で困難に立ち向かい、次の時代を準備するかについて、いまを生きる私たちへの限りない励ましになっているのではないでしょうか。(拍手)

日本共産党が命がけで掲げた主張は、日本国憲法の中心的内容に実った

 戦前の日本共産党のたたかいには、未熟さ、誤り、失敗もありました。裏切りや脱落もありました。しかし、私は、23年にわたる日本共産党の戦前史は、世界の近現代史の中でも、誇るに足る歴史だと考えるものです。

 そして、その不屈のたたかいの正しさは、歴史が証明しました。わが党が主張した国民主権、侵略戦争反対の旗は、日本国憲法に書き込まれました。のちに「九条の会」の呼びかけ人ともなった評論家の加藤周一さんは、1961年に発表した「日本人の世界像」と題する論文で次のようにのべています。

 「天皇主権の廃止・大地主制度の廃止・貴族院と枢密院の廃止・常備軍の廃止・普通選挙の実行・言論集会結社の自由・八時間労働制・最低賃銀制・社会保険・労働組合の法認は、今日の憲法の約束するものである。そのなかで大地主制度の廃止を『大私有地の無償没収と国有』と書き代えただけの綱領を掲げて1922年に結成された政党は、非合法政党としてしか存在しようがなかった。その政党とは日本共産党である」

 日本共産党が――日本共産党ただ一党が――、戦前、命がけで掲げた主張が、日本国憲法の中心的内容に実ったという評価であります。

 2007年、宮本顕治さんが亡くなったさいに、加藤周一さんが、「宮本さんは反戦によって日本人の名誉を救った」という心のこもった弔意の言葉を寄せてくださったことは忘れられません。これは日本共産党の存在と活動の全体に当てはまる評価ではないでしょうか。戦前の日本共産党の不屈の奮闘は、日本人の名誉を救い、日本国憲法の原理となり、日本国民全体にとっての財産となっていると言っていいのではないでしょうか。(拍手)

戦後――アメリカの対日支配の打破を戦略的課題にすえる



綱領論争(1957年〜61年)の二つの焦点と、61年綱領の確定

 戦後の日本共産党の不屈の歩みを支える画期となったのは、1961年の第8回党大会で確定した綱領路線――民主主義革命を当面の任務とし、社会主義的変革にすすむという路線でした。わが党は、1957年〜61年に、足かけ5年にわたる綱領論争を行い、現綱領の土台となる61年綱領を確定しました。

 このときの綱領論争には二つの焦点がありました。

 一つは、アメリカの対日支配を打破する「反帝独立」の課題を、革命の戦略的任務として位置づけるかどうかという問題でした。綱領草案への反対論は、“いまのアメリカ従属のさまざまな現象は、占領時代の遺物であって、講和条約で独立国家になったのだから、日本の経済発展が進んでいけば、おのずから解決してゆく”と、アメリカの対日支配の打破を、革命の戦略的課題にすることに反対するというものでした。

 もう一つは、独占資本主義――財界・大企業の横暴な支配を打ち破るたたかいを「反独占」の民主主義革命ととらえるか、社会主義革命ととらえるかという問題でした。綱領草案への反対論は、「反独占」ならば社会主義革命以外にないというものでした。

 1960年の日米安保条約改定に反対する国民的大闘争、さらに大量の指名解雇に反対した三井三池炭鉱闘争の経験を経て、61年の第8回党大会で全党が一致して出した結論は、「反帝反独占」の民主主義革命――今の綱領の言葉で言えば異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配を打破する民主主義革命を当面の戦略的任務とすることでした。それは、当時の国内外の「常識」をくつがえすきわめて先駆的でユニークな路線でした。

 とりわけ、わが党が、アメリカの対日支配の打破を革命の戦略的課題にしっかりとすえたことは、その後のわが党の不屈のたたかいの最大の支えとなりました。

 その後の歴史は、61年綱領の正しさを証明しました。経済発展とともに、対米従属は解消されるどころか、日本はアメリカの世界戦略にいよいよ深く組み込まれ、従属はいよいよ深刻になりました。軍国主義復活への動きと海外派兵も、アメリカへの従属の深まりと一体にすすみました。独占資本主義――大企業・財界の横暴な支配をただすたたかいが、社会主義の課題でなく、民主主義の課題であることは、今では論じる必要もないほど明らかになっています。

 

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日本共産党創立100周年記念講演会 4氏のメッセージ

劇作家・演出家 永井愛さん

2022918

 17日の日本共産党創立100周年記念講演会にあたり、沖縄県知事の玉城デニーさん、劇作家・演出家の永井愛さん、小説家・法政大学教授の島田雅彦さん、俳優の仲代達矢さんが寄せたメッセージを紹介します。

知性と論理で論戦をさらに

 日本共産党のみなさん、創立100周年おめでとうございます。戦前戦後通して、一つの名前で活動している日本でただ一つの党ということで、すごいですね。あらためてそう考えると、すごいなと思います。

 特に、一番迫害を受けたり、弾圧を受けたりした党が100年続いている、このことにあらためて心打たれます。人一倍強い人たちが集まっていただけではなくて、「自分たちが理想とすることに合理的な理由がある」と、信じられたからではないかと思います。それは根底に、科学だとか哲学だとかがあって、そういう考え方とその時々の事象をてらして課題を見つけて、それに向かっていくということがいつもできていた。それが共産党の強さの原因ではないかと改めて思います。

 私の父(画家・永井潔)は、戦中に治安維持法で捕まっちゃったんですけども、戦後に絵描きだったんですが、日本国憲法をドアにはりだしてました。私はその時に、そこまでする理由がわからなかったんですが、戦争中に「天皇陛下のために死ね」といって召集されて、そして「社会主義を勉強したから」といって捕まって、ひどい目にあうっていうようなことが、「この憲法がある限り、もうないんだ」と父はそれを確かめたくて、アトリエのドアに日本国憲法をはってたんだなというふうに思います。

 いま自民党政治、自公政権の10年間くらいの間に、うそがまかり通るひどい政治の状況になってしまいました。その中で、共産党の魅力というのは知性だと思うんですね。知性と論理。そして共産党が知性と論理で国会論戦に立ち向かっていく姿を多くの人が見て、共産党に対する理解を深めていると思います。

 ウクライナだとかということで、いま武力に頼ろうとする、戦闘機を買ったり、武力にたくさんお金をつぎ込んだりするってことが、日本を守ることだという間違った論理が、また日本国民をだまそうとしているというふうに、私はとても心配しております。

 どうぞ日本共産党の知性と論理の力で、論戦をたたかい続けてください。期待しています。

 

8月

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千代子の生き方学ぶ 北海道苫小牧 獄中の手紙見る会

2022830

 戦前の希代の悪法、治安維持法の犠牲となった伊藤千代子「獄中最後の手紙」を見る会が28日、発見された北海道苫小牧市中央図書館で開かれました。

 24歳の生涯を不屈にたたかい抜いた千代子を描く映画「わが青春つきるとも」完成記念ツアーで、全国交流会も行われました。

 上映運動道実行委員会と映画製作を支援する全国の会の共催。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央本部の吉田万三会長が記念講演し、特高警察は戦後政治にも影響を与えていると指摘。「二度と繰り返さないためにも、政府は戦争責任を謝罪し、けじめをつけるべきです」と訴えました。

 千代子の夫で変節した浅野晃と親交があった入谷寿一氏が特別発言。「最後まで非転向を貫いた千代子の思想までも塗り替え、転向に引き込もうとしたことは許されない」と厳しく批判しました。

 全国交流会は、暗黒時代に「弾圧とたたかった先人たちがいたことを知らなかった」との感想や、ある学校では全校生徒にビラを配り上映会を見に来た中高生がいたと紹介。「まっすぐにりんとした千代子さんの姿を見て、自分の生き方を深く考えさせられた」と感想が相次ぎ、「若い人に共感が得られる映画だと確信を持ち、全国でさらに2万人をめざそう」と話し合いました。

 道実行委員会の高崎裕子(元党参院議員)委員長、桂壮三郎映画監督(オンライン)があいさつしました。

 

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統一協会 危険な二つの顔 反社会的カルト集団 勝共連合 反共・反動の先兵

2022828

 統一協会(世界平和統一家庭連合)は二つの顔をもっています。一つが霊感商法、集団結婚などで甚大な被害を出している反社会的カルト集団の顔。もう一つの顔は、統一協会と表裏一体の政治組織「国際勝共連合」をつくり“反共と反動”の先兵を務めてきたことです。その実相を特集します。

資金集めに高額献金

 統一協会は、「世界基督教統一神霊協会」として韓国で1954年5月1日に設立されました。開祖は文鮮明(2012年死去)で、現在の総裁は妻の韓鶴子です。米国など世界で活動しています。日本では1959年に設立され、64年に宗教法人の認証をうけました。

 米韓関係を調査した米国下院フレイザー委員会の最終報告書(78年)は、61年にクーデターでうまれた朴正煕軍事独裁政権のもとで謀略工作機関「KCIA(韓国中央情報部)」が統一協会を「組織」し、「政治的用具」として利用してきたという情報を記しています。

 報告書は文鮮明の宗教的目的について、こう分析しています。

 「世界的な『政教一致国家』を樹立するという目標、すなわち、教会と国家の分離を廃止し、神の直接のみちびきによって統治される世界秩序を樹立する」―。政教一致国家の中心は、文鮮明と韓国という位置づけです。

 文鮮明が理想とする国家をつくるための資金集めを担ったのが、日本の統一協会です。

 文鮮明の発言を集めた『天聖経』には、「(日本が集めた金は)日本だけのものではありません。アジアを通じて世界のために投入しなければ、日本はぺちゃんこになります」とあります。

 統一協会広報局長で協会系の日刊紙「世界日報」編集長だった副島嘉和氏は、「毎月20億円」を文鮮明側に送金していたと告発しています(『文芸春秋』84年7月号)。

 これだけの資金を集めるために、統一協会は日本の信者を、マインドコントロールで違法な霊感商法や高額献金に駆り立ててきました。

霊感商法 異様な教義

 統一協会は正体を隠して街頭でアンケート集めなどをし、相手から家族構成などを聞き出します。そこから「ビデオセンター」や、数日から数十日の宿泊研修に連れていきます。研修で「霊界」の存在を信じこませ、「文鮮明がメシア(救世主)です」と洗脳します。

 2000年代に脱会したAさん(40代)は、霊感商法にかかわってきました。「『無料で姓名判断をします』という誘い文句のハガキを送り、ヒスイの印鑑を40万円で売った。『霊界で苦しんでいる先祖を解放しなければ』と不安をあおると、信じてしまう人がいた」と証言します。

 「先祖の因縁がある」「運気を払う」などと脅し、高額な印鑑やつぼを購入させるのは統一協会の手口です。なかには3000万円もする『聖本』なるものもあります。

 09年に統一協会の霊感商法が全国で捜査当局から摘発されます。統一協会のダミーである印鑑販売会社「新世」(東京都渋谷区)と信者の社長らが霊感商法で摘発され、有罪判決が確定。判決で東京地裁は、「印鑑販売の手法が、信仰と混然一体となっている」「統一協会の信者を増やすことも目的として違法な手段を伴う印鑑販売を行っていた」と認定しました。

 統一協会の田中富広会長は記者会見で、「霊感商法を、過去においても、現在も当法人が行ったことはない」(8月10日)と言い切りました。

 実際には過去も、現在も霊感商法の被害は続いています。全国霊感商法対策弁護士連絡会によると1987年から2021年までの霊感商法の被害総額は約1237億円にのぼります。統一協会がコンプライアンス(法令順守)を強化したと主張する09年以降も被害は続いています(グラフ参照)。

 最近では、「先祖が地獄で苦しんでいる」とし、先祖を解放するためと称して、信者から高額な献金を集めています。「地獄に落ちる」などと、信者を脅して金集めをしている実態に変わりはありません。

 宗教法人の正体を隠した勧誘、不安をあおって物品の購入や献金をさせることは違法行為です。

 なぜそのような違法行為がまかり通るのか―。

 統一協会は、この世の人も財宝も神のものなのに、現在ではサタンの手中にあるとします。そこで「サタンの所有を神の所有に返還する」と教え込みます。統一協会はこれを「万物復帰」といいます。違法なことをしても、神に返すのだからいいことだとする異様な「教義」です。

人権無視の集団結婚

 「祝福」と称して、信者同士の集団結婚も相変わらず行われています。

 統一協会の「教義」を記した『原理講論』は、「人間の祖先(エバ)が天使と淫行を犯すことによって、すべての人間がサタンの血統により生まれるようになった」としています。

 全人類を「サタンの血統」とし、そこから逃れるためには統一協会が選んだ相手と「祝福」結婚=集団結婚することが必須だというのです。

 それまで面識がないというだけでなく、言葉が通じない外国籍や年齢が離れた人との結婚も。DV(ドメスティックバイオレンス)や経済問題が頻発しています。

 40代の女性Bさんは21歳のときに集団結婚に参加。文鮮明が選んだとされる韓国人の男性と結婚しました。日本で同居するようになって、DVが続きました。統一協会は離婚が悪だとしています。このため周囲に強く反対されましたが、暴力に耐えられなくなり離婚したといいます。

「信者二世」の被害深刻

 最近注目されているのが、「信者二世」の被害です。安倍晋三元首相を銃撃した山上徹也容疑者は、母親が統一協会の信者。約1億円の献金をしていたため、山上容疑者らは経済的に苦しんだとされます。

 親が統一協会から常に献金を求められるため、子どもの貧困問題が起きています。集団結婚の両親から生まれた子は「祝福二世」と呼ばれています。

 祝福二世の30代女性は、「親は統一協会に献金しまくったので、老後資金がまったくない。私たち二世に養わせるのではなく、協会に金をもどさせ信者の老後が成り立つようにすべきです」と言います。この女性は祖父母が残してくれた大学資金や自身が借りた奨学金も、実家の生活費に消えたといいます。

 信者二世は生まれた時から信仰を強要されるという問題も。信者二世のCさん(20代)は、「とくに自由恋愛ができず、結婚相手は自分で決められません。信者との結婚を強いられます」と語ります。

 Cさんは言います。「二世への人権侵害は明らかに憲法違反です。子どもの虐待として、これ以上、新しい被害者を出さないでください。政党に関係なく、被害者を救うために動いてほしいのです」

“共産主義と対峙”で一致

 統一協会のもう一つの顔=反共・反動の最悪の先兵としての活動を進めているのが、統一協会と表裏一体の「国際勝共連合」です。

 「勝共」とは単なる反共ではなく、統一協会が“聖典”としている『原理講論』に「第三次大戦に勝利して共産主義世界を壊滅させ、…理想世界を実現しなければならない」と明記しているように、共産主義の思想そのものを抹殺するという考えです。

 「国際勝共連合」は、統一協会と同じく文鮮明を“創始者”として1968年に結成された政治団体で、「共産主義をこの地球上から完全に一掃する」(文鮮明「統一世界宣言」83年12月)ことを目的としています。

 統一協会がこうした政治活動に乗り出した背景には、61年5月に軍事クーデターによる軍事独裁政権の朴政権の成立があります。クーデターで権力を掌握した朴政権は「反共を国是の第一義」に掲げ、KCIA(韓国中央情報部)を立ち上げます。

 このKCIAのもとで反共謀略組織として勢力を大きくしていったのが統一協会です。米下院のフレイザー委員会報告(78年)には「(初代中央情報部長の)金鍾泌(キム・ジョンピル)と文鮮明機関(統一協会)が相互支持の関係にあったという示唆や、金鍾泌が統一協会を政治的目的に利用したという言明を裏書きする独自の資料が大量に存在した」と記しています。

 韓国での統一協会=勝共連合の活動に注目したのが日本の反動右翼勢力でした。

 笹川良一ら日本の右翼が「勝共連合」を日本に引き入れるため、統一協会開祖の文鮮明らと密議を行ったのが「本栖湖会談」(67年)です。参加者の一人は「本栖湖会議は、文鮮明をはじめて迎えて反共連盟をつくり、反共運動をやろうということだった」と会議の目的を語っています。

 本栖湖会議を経て、笹川良一や安倍晋三元首相の祖父にあたる岸信介元首相らが発起人になって「勝共連合」が68年に日本でも発足しました。

 岸元首相は、その後も「勝共連合」と強い関係を持ち、70年に関連団体の「WACL(世界反共連盟)日本大会」での大会推進委員長を務め、74年と76年の統一協会主催の「希望の日晩さん会」の名誉実行委員長を務めています。

 いま、反社会的活動が改めて国民的批判をあびるなか、今月10日、日本外国特派員協会で記者会見した統一協会の田中富広会長は「私たちの法人並びに多くの友好団体は創設以来、共産主義というものに対して明確に対峙(たいじ)してきました」と「勝共」という原点を強調。自民党政治家らとの関係についても、「共産主義問題に対して明確に姿勢を持っている政治家の皆さんとは、ともにより良き国づくりに向かって手を合わせてきたと思っております」と「反共」での一致点を誇りました。

選挙の“汚れ仕事”も担当

 選挙妨害や反共謀略ビラの配布―。勝共連合は日本共産党に対する激烈なデマ攻撃を繰り返してきました。自民党への選挙支援は、統一協会=勝共連合が反動支配勢力に取り入るための活動の一つです。運動員を送り込み、ビラまきや電話作戦などの選挙支援を行う他、自民党が公然とできないような“汚れ仕事”も請け負ってきました。

 今年の参院選でも反共謀略の妨害が行われました。選挙直前に東京都三鷹市の都営住宅約300戸に配布されたのは、勝共連合の機関紙「思想新聞」の号外です。静岡県内でも全域で同じものがまかれました。「日本共産党100年の欺瞞(ぎまん)」と題されたその中身は、共産党が作成した「はてな」リーフを攻撃するもので、事実無根のデマや共産党への中傷が記載されています。こうした「思想新聞」号外や謀略ビラは選挙のたびに作られ、勝共連合の手によって全国で配布されてきました。

 1992年の茨城県東海村議選の際には、「国際勝共連合」と「自由民主党」の連名の謀略ビラが公然と配布されました。ビラには自主憲法の制定が掲げられ、「全村民一体となり護憲勢力を打ち破りましょう」と記載。まさに、勝共連合と自民党が一体に共産党攻撃を行ってきました。

 勝共連合の活動が反動支配勢力から“高く評価”されたのが78年の京都府知事選、79年の東京都知事選です。勝共連合は反共謀略の宣伝・街頭活動を大々的に展開。共産党の宮本顕治委員長(当時)の演説中に罵声を発した勝共連合の所属者12人が取り押さえられる事態も発生するなど、傍若無人な妨害が繰り返し行われました。

 勝共連合は、統一協会の会員を選挙に立候補させ“勝共派議員”の政界進出も画策。93年の総選挙では、大阪3区に統一協会員の候補が立候補し、その際に、共産党候補を装って広い範囲で「共産党の○○(統一協会候補の名前)をよろしく」と、電話かけや戸別訪問が行われました。共産党候補を落とすための卑劣な妨害です。

 統一協会は、こうした選挙支援を通じて政治家に食い込み、戦略的に「議員を教育」することも狙っています。協会関連団体の全国祝福家庭総連合会の宋龍天(ソン・ヨンチョン)総会長は活動方針の一つに「議員教育の推進」を位置づけ。「世界平和国会議員連合(IAPP)の活動を通じて「(教祖の)み言葉と理念、『原理』を教育し、彼らが天の願われる方向で政策を推進」するようにと述べています。(協会の機関誌『世界家庭』17年3月号)

 原田義昭元環境相は21年6月、フェイスブックで「日本・世界平和議員連合懇談会」の会長に選ばれたことを報告。名誉会長に細田派会長の細田博之衆院議員(現議長)が就任し、「会員議員は約100人の所からスタート」などと投稿していました。この懇談会顧問は、勝共連合会長だと報じられています。

 米下院のフレイザー委員会報告でも「文(鮮明)の支持者たちは、反共主義の名において、笹川良一のような日本の右翼の大物と提携し、日本の選挙運動に公然と参加」してきたと指摘されています。

憲法・ジェンダーを攻撃

 勝共連合は自民党の右翼的潮流と結びついて、政治の反動化を進める先兵の役割を果たしてきました。

 勝共連合が1980年代に総力をあげて取り組んだのが、85年に自民党から提出された「国家秘密法案=スパイ防止法」の制定です。防衛・外交にかかわる「国家秘密」を外国に漏らした者に死刑を含めた厳罰を下す法律で、対象範囲は一般市民にまで及びます。

 自民党が第1次案を発表した80年に先駆けて、78年から勝共連合は同法の推進運動を本格化。「スパイ防止法制定3000万人署名」と銘打って大々的に活動を展開しました。79年には「スパイ防止法制定促進国民会議」を組織し、全都道府県下で地方議会における制定のための請願運動を活発化させました。

 しかし、肝心の「国家秘密」の内容が限定されておらず、取材・報道の自由や国民の知る権利よりも「国家秘密」が最優先となる同法は、国民世論の高まりと国会論戦の末、86年に廃案に追い込まれました。廃案後も勝共連合は現代版「治安維持法」の制定を訴え続けています。

 勝共連合は、改憲運動も、自民党と歩調を合わせて強力におし進めています。

 勝共連合の幹部が、憲法改定案をユーチューブ上で解説。勝共連合の渡辺芳雄副会長が出演し、「憲法改正がどうしても必要だ」と主張しています。渡辺氏は、「戦争」を想定し「憲法秩序を一時停止」する「緊急事態条項」の新設に触れ、「行き過ぎた個人の人権」を攻撃し、「家族保護の文言」の必要性を指摘しています。さらに、「9条が諸悪の根源」だとして、「自衛軍」「国防軍」などの明記を主張しました。

 勝共連合が改憲の優先課題として掲げる(1)緊急事態条項の創設(2)家族条項の創設(3)9条への自衛隊の明記―は、いずれも自民党の改憲案とまったく同じ内容です。

 自民党と統一協会はジェンダー平等反対でも“共闘”関係にあります。先の参院選で統一協会の支援を受けたとされる井上義行議員は「同性婚に反対という事を信念をもって言い続ける」とまで発言しています。

 統一協会は「文鮮明と女性信者との儀礼的性交以外に、人類が救われる道はない」という特異な性教義を背景に、同性婚を人類を絶滅に導く「許しがたい蛮行」(『世界思想』2019年2月号文鮮明のメッセージ)と否定。多くの自民党議員も国家の公益性を唱え、男女平等と性的少数者に否定的な発言を繰り返しています。

 統一協会と自民党は、自らの主義・思想に不都合なジェンダー平等社会にさせないという一致点でまさに結託しているのです。

関係発覚 後絶たず

自民との癒着 底なし

 参院選後、自民党議員と統一協会との関係の発覚が後を絶ちません。

 7月の参院選で比例区で当選した井上義行議員は、統一協会の「賛同会員」だと認めました。井上氏は第1次安倍政権で首相政務秘書官を務めていました。

 参院東京選挙区で初当選した生稲晃子議員は参院選公示前に、当時経済産業相だった萩生田光一自民党政調会長とともに統一協会の関連施設を訪問していたことが発覚。萩生田氏は関連団体に6回にわたり会費を支出していたことも認めました。

 岸田内閣の閣僚の統一協会との癒着も次つぎと明らかになっています。国民の批判の高まりのなか、岸田首相は内閣改造の予定を大幅に前倒しし、統一協会との関係が発覚した7人の閣僚を交代させました。ところが、新たに発足した内閣で閣僚8人が統一協会と関係していたことが発覚。記者会見やメディアアンケートなどで、閣僚・副大臣・政務官・官房副長官に就任した76人のうち33人(43%)が関係を認めています。

 留任した山際大志郎経済再生担当相は就任当日に関連団体への会費支出などを認め、その後も次々と関係が発覚。統一協会の開祖・文鮮明が参加したイベントであいさつしたことを「赤旗」日曜版が報じると、「報道を見る限り、出席したと考えるのが自然」などと無責任な姿勢に終始しています。

 岸田首相はさらに、統一協会との関係を認め交代させた岸信夫前防衛相を首相補佐官に起用。萩生田前経産相を自民党政調会長に就任させました。

 統一協会と関係する議員なしに内閣や党幹部を構成できない底なしの癒着ぶりです。

名称変更 政権“便宜”か

 統一協会と自民党の癒着で政治がゆがめられた疑惑が浮上しています。統一協会の名称変更をめぐり、政権側が“便宜”を図った疑いです。

 統一協会は2015年に正式名称の変更を文部科学省の外局、文化庁宗務課に申請。「世界基督教統一神霊協会」から、「世界平和統一家庭連合」への変更を認証されました。当時は安倍晋三政権下で、文科相は自民党の下村博文衆院議員でした。

 「しんぶん赤旗」は、文化庁がそれまで統一協会の名称変更を拒否していたのに、一転して認証したことを特報(7月20日付)しました。前川喜平元文部科学事務次官によると、同氏が宗務課長だった1997年ごろに統一協会が名称変更を相談してきました。その際、「教義など団体の実体に変化がないと名前は変えられないと伝えた。役人は前例を重んじる。その後も同様の理由で断ってきたはずだ」と証言。「政治的圧力があった可能性が高い」と指摘しました。

 全国霊感商法対策弁護士連絡会は、2015年に統一協会が名称変更を申請する直前に、変更を認証しないよう下村氏や文化庁長官らに申し入れていました。申し入れ書は、統一協会への社会的批判が高まったことで資金獲得が困難になったため、名称変更で正体を隠して資金や人材獲得をしようとしていると指摘しています。出席した弁護士によると宗務課は「変更させない」と説明していたといいます。

 他方で、宗務課は当時の文科相だった下村氏に事前説明していたことも判明。下村氏が名称変更に関与していた疑いがいっそう強くなりました。下村氏は自身が代表の自民党東京都第11選挙区支部で、統一協会系の日刊紙を発行する世界日報社から16年に6万円の献金を受けています。

 文化庁は日本共産党の宮本徹衆院議員の求めに応じ名称変更の決裁文書を提出しましたが、「変更理由」にかかわる記述をすべて黒塗りにしていました。同庁は公にすることで協会の「正当な利益を害する恐れがある」と説明。統一協会を擁護する岸田文雄政権の姿勢が問われています。

地方政界・自治体へ“侵食”

佐喜真・沖縄県知事候補 参加頻繁

 統一協会やそのダミー団体による地方政界と自治体への“侵食”の一端も明らかになっています。

 統一協会は、世界平和や日韓友好などを掲げるダミー団体の活動を通じて地方の首長、議員、行政当局に接触しています。

 このため全国各地で自治体がダミー団体の活動を後援する事態が相次いでいます。その一つが自転車イベント「ピースロード」です。統一協会トップの韓鶴子が総裁を務める天宙平和連合(UPF)のプロジェクトです。日本共産党議員団の申し入れなどを受け、これまでに香川県や熊本県、鹿児島県などが後援を取り消しました。

 沖縄県では、統一協会系のイベントに複数の自民党議員らが出席するなど、協会側との親密な関係が報じられています。

 県知事選に立候補している前宜野湾市長の佐喜真淳氏(58)=自民、公明推薦=は2019年7月から21年4月にかけて少なくとも8回、統一協会やダミー団体の行事に参加していました。

 佐喜真氏は19年9月、台湾で統一協会が開いた「祝福式」に来賓として参加。ステージ上で「素晴らしいです。私も非常に感動しております」と祝辞を述べました。統一協会の徳野英治会長(当時)を迎えた講演会(20年1月)にも参加していました。

 「しんぶん赤旗」などの報道を受けて佐喜真氏は「統一協会だという認識はなかった」と釈明しましたが、協会側との接点は、そうした行事への参加だけではありません。

 佐喜真氏は今年3月、県内のコミュニティーFMラジオで放送された協会系の番組に出演しました。統一協会の那覇家庭教会がホームページで宣伝する番組の一つで、ラジオを通して「真の家庭づくり運動と世界平和」を広く呼びかけていると紹介しています。

統一協会関連団体の一部

■団体・事業

天宙平和連合

世界平和女性連合

世界平和教授アカデミー

世界平和宗教人連合

世界平和国会議員連合

世界平和青年学生連合

ワールドカープ・ジャパン(全国大学原理研究会=カープ)

平和大使協議会

真の家庭運動推進協議会

■企業・法人

ハッピーワールド

一心病院

国際ハイウェイ財団

■メディア・出版

世界日報(ビューポイント)

光言社(中和新聞)

ワシントン・タイムズ

 

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不戦の誓い 津々浦々 運動広げよう 草の根から @新潟

2022819

 新潟県の「9条改憲NO!全国市民アクション@新潟」は、新潟駅前で終戦記念日の宣伝をしました。60人以上の参加者が「武力で平和はつくれない」「国葬反対」などのプラカードを掲げ、5人がマイクを握りました。

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟新潟支部の小日向昭一会長は、日清戦争からアジア太平洋戦争まで50年間、日本は戦争の連続だったが、侵略戦争の惨禍を繰り返してはならないと訴え、憲法9条を手にして以降、国民の固い決意と運動で平和を維持してきたと強調。「戦争か平和か」激しいせめぎ合いの中、平和の誓いを新たに、草の根からの世論と運動を広げようと呼びかけました。

 県原水協の赤井純治代表理事は、ロシアのウクライナ侵略で、独裁者が核兵器使用の運命を握る危険性と力対力の論理でなく戦争をさせない外交努力の必要性が明らかだと述べ、ASEANのとりくみに学び、日本政府は憲法9条を生かしたイニシアチブを発揮すべきだと訴えました。

 

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声あげ「平和憲法守る」 終戦記念日 各地で行動

「赤紙」配布に反響 北海道旭川

2022818

 アジア・太平洋戦争の終戦から77年の15日、北海道旭川市で旭労連や道北原水協、旭川平和委員会の3団体が国民を戦争に駆り立てた召集令状「赤紙」(複製)を配り、平和の尊さを訴えました。

 「戦争が終わった日です。『赤紙』で考えるきっかけにして」とメンバーの訴えに、若い世代や多くの市民が「赤紙」を手にし、真剣に読んでいました。

 「『赤紙』を見るのは初めて」と16歳の女子高校生は「1枚の紙で戦地に送られ、命が軽く扱われている」と言います。メンバーが「戦時教育で『死は鴻毛(こうもう)よりも軽し』(軍人勅諭)と教えられていた」と話すと、「二度とくり返してはいけないですね」と語りました。

 スピーチを聞いていた男性(88)は戦時中、弟と学童疎開して助かったと告白。「終戦の日、父が疎開先に現れ、『これからラジオが入るぞ』と姿勢を正して聞いた。父は肩を落とし、『戦争に負けた』と嘆いた姿が目に焼き付いている。この日に必ず思い出す。戦争だけは絶対にだめだ」と力を込めます。

 スピーチでは、戦時中、国民弾圧の希代の悪法、治安維持法で投獄された「生活図画事件」の100歳の菱谷良一氏が「8月15日は生と死の分かれ道の日。体験した人は少ししか残ってない。最後のお願いです。平和と自由を必ず守ってほしい」とのメッセージを寄せました。日本共産党市議団(能登谷繁団長)が参加しました。

 

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平和憲法が輝く日本へ 治維法国賠同盟が終戦記念日宣伝

2022817

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟は15日、全国で終戦記念宣伝を行いました。「侵略戦争の過ちをくり返さないよう不戦の誓いを新たにしよう」と訴えました。

 東京・池袋駅前では中央本部、都本部から16人が参加。「平和憲法さらに輝く日本へ」と書いたビラを道行く人に手渡しました。

 治維法国賠同盟の吉田万三会長は、日本がアジア侵略を進めたとき、侵略戦争に反対する人たちを治安維持法で大弾圧した歴史を示し、再び戦争と暗黒政治を許してはいけないとして、憲法改悪、大軍拡を止めようと訴えました。

 日本共産党の山添拓参院議員(青年部長)が「9条を守り、平和外交で東アジアの平和を守ろう」と訴え、田中幹夫事務局長、都本部の中嶋育雄事務局長も参加しました。

 

7月

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朝の風 大弾圧にあっても

2022726

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟千葉県本部が『特高警察が踏みにじった人々の記録―千葉県編―』を刊行した。県本部の古い事務机の一番下の引き出しから、特高の手書きの報告書「日本共産党千葉県委員会 日本共産青年同盟千葉県準備委員会 検挙概況」の青焼きのコピーが発見され、それを復刻したものが、メーデーのビラや当時の新聞記事等とともに収められている。

 検挙は1932年10月19、20日で、場所は無産者診療所、全農事務所、消費組合などとなっている。検挙者一人ひとりについて、「罪状」として日本共産党に入った経緯や「赤旗」の配布ルートが克明にかかれている。特徴的なのは、検挙者の多くが1931年に入党していることだ。1928年の3・15、翌年の4・16の大弾圧の後に、新しい活動家が生まれていたことがわかる。

 1929年の恐慌以降、日本でも労働争議、小作争議が広がり、メーデーのビラにも「貧農の小作料税金借金の除免!」「民族性年令に依(よ)る差別反対 同一労働に対する同一賃銀!」などの切実な要求が掲げられている。

 激しい弾圧の中でも国民との共同で政治を変えることを常に追求してきた日本共産党の姿を示す本が、創立100周年の年に出たことは意義深い。

 

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日本共産党創立100年(下) 治安維持法に抗した親子 1歳11カ月で母と留置所に 四津谷伸子さん(90)

よく生き闘った遺志継ぐ

2022722

 創立100年を迎えた日本共産党。弾圧に屈せず生き抜いた人々を紹介するシリーズの2回目は、四津谷(よつたに)伸子さん親子。90歳の伸子さんは治安維持法の下、1歳11カ月で母とともに留置所に入れられました。東京都板橋区の和敬保育園に、伸子さんを訪ねました。(手島陽子)

 伸子さんの母・近藤糸子さんと父・一男さんは戦前、京都で消費組合運動に加わっていました。自宅で「京都プロレタリア消費組合」を開設し、治安維持法に反対した山本宣治の愛称「ヤマセン」を屋号に、一男さんは大八車で野菜などを販売。糸子さんは店舗を担当し、消費組合婦人部で活動するようになります。

「ここで産む」と夫を奪還した母

 1931年8月、特高警察数人が自宅に押し入り、一男さんと仲間を検挙。太秦(うずまさ)署に連行された1カ月後、妊娠中の糸子さんは、お産道具を風呂敷に包み、6歳と2歳の子どもを連れて太秦署を訪れました。「『今日が予定日です。主人を帰さないなら、ここで産ませてもらいます』といいながら、もっていった弁当を開いて子どもたちに食べさせはじめました。特高も一瞬驚いたようでしたが、それから一時間あまりたって二人を釈放しました」(近藤糸子遺稿集『野の花のように』から)。翌10月3日、糸子さんは自宅で伸子さんを産みました。

 33年、一家は東京に移住します。糸子さんは9月、1歳11カ月の伸子さんを連れて関東消費組合連盟の婦人部会に出席中、勝目テルさん(後の新日本婦人の会初代代表委員)らと検挙されました。両国署の留置所内で「近藤糸子はヨチヨチ歩きの伸ちゃんを連れていたので、伸ちゃん相手に“おしくらまんじゅう”をしたり、童謡をうたったり大さわぎをした」「官憲に対する一種のデモンストレーションでもあった」。(勝目テル著『未来にかけた日々』から)

 水はけが悪く床は水浸しでした。「1歳児を留置所に入れる。ひどい時代ですよ」と伸子さん。当時歌った革命歌「小さな同志」の歌詞を「我等は赤旗 プロレタリア」と口ずさみました。

 41年8月、一男さんが検挙され、巣鴨署へ。糸子さんは毎日、差し入れを持って面会しました。4カ月後に東京拘置所に移送。伸子さんは「特高は“おまえたちを何人殺したって、天皇陛下のためだからな”と脅したそうです。父は太ももを蹴られてはれあがりました。母の時は指にペンを挟んで握りしめる拷問だったそうです」と話します。

 太平洋戦争に突入すると、伸子さんは「非国民の子」と石を投げられ、一家は配給を受け取れないなどの迫害を受けました。「父母がやっていることは間違っていないとわかっていました。だからつらいとは感じませんでしたよ」と伸子さん。

戦争反対の正義わかってもらう

 当時の糸子さんの詩にはこうあります。「あの人が戦争に反対したといって/とらわれたのは去年の春」「あの人の正しさを/日本人民のほんとうのしあわせを/多くの人々にわかってもらうために/そして多くの同志を牢屋(ろうや)から/うばいかえすために/この道を/幾度通うとも決して悔みはしない」(『婦人通信』に掲載)

 42年3月19日、一男さんは懲役4年、執行猶予3年で保釈され、2人は教戒師の紹介で、板橋区の和敬会母子寮と和敬保育園を運営しました。戦時下、母子らの食料を入手し、空襲から命を守ることに尽力しました。

 45年8月6日、伸子さんの兄・哲哉さんが広島で被爆。2人が哲哉さんの妻子と一緒に広島で見つけ出した時、兄は後頭部から背中、かかとまで焼けただれていました。一命をとりとめ、後に和敬保育園分園の園長を担うまでに回復しましたが、59歳で永眠しました。

 伸子さんは「終戦後、父は“これで民主的な国ができる”と喜んでいました」と振り返ります。一男さんと糸子さんは戦後、板橋区民主商工会や全国私立保育園連絡協議会などの民主団体の結成に携わり、生涯を通じて日本共産党員として活動を続けました。

 78年の母の死後、伸子さんは夫の修さんとともに入党。5年後に亡くなった一男さんの手記には、こうあります。「生涯をかけての誇りを聞かれるなら、只一(ただひと)つ、第一回目からの永年党員章がわが胸にある。よく生きたもの、よく闘ったものである。ただそれだけだ」(近藤一男遺稿集『雑草のように』から)。その遺志を継ぎ、伸子さんは原水爆禁止世界大会に毎年参加してきました。「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名は、地域住民の過半数を達成しました。

 

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治維法国賠同盟と市田副委員長懇談 過去最高の会員数報告

2022721

共産党本部

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の新役員が20日、日本共産党本部を表敬訪問し、市田忠義党副委員長らと、大会の報告をかねて懇談しました。

 新会長に選ばれた吉田万三氏は、大会の模様を報告するとともに、どのように次の世代に運動をバトンタッチするかが、今後の大きな課題だと述べました。「地力をつけるためにも、組織の若返りを図っていく。今年を運動の新しい出発点にしたい」と語りました。

 田中幹夫中央本部事務局長は、映画「わが青春つきるとも―伊藤千代子の生涯―」(桂壮三郎監督)の上映運動の取り組みに力を入れて、3月〜5月までの3カ月で461人の会員を増やしたことを紹介。「現在過去最高の1万6585人の会員数となった。治安維持法問題に決着をつけるには、政権交代を図ることが不可欠だが、そのためには総選挙での市民と野党の共闘を成功させる必要がある。大いに努力したい」と話しました。

 市田氏は、大会の成功を祝福するとともに、参議院選挙の結果や今後の党の課題について述べ、その中で若い人たちのこの間の大きな変化について「コロナ禍を経験して、自己責任論の呪縛から解放されて、貧困、学費と奨学金、気候危機やジェンダーなどさまざまな問題に関心を持つようになった。昨年12月から7月19日までで、民青同盟員の拡大が1000人を超えたことは、私たちにとって大きな希望だ。お互いに世代的継承のために努力しましょう」と語りました。懇談には、柳沢明夫法規対策部長、小林亮淳副部長らが同席しました。

 

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日本共産党創立100年(上) 弾圧に屈せず生きた女性 村山ひでさん

地域と生きた運動家

2022719

 15日、日本共産党は創立100年を迎えました。治安維持法の下で、権力の激しい弾圧にも屈せず生きた人たちを2回にわたり、紹介します。今回は村山ひでさん(2001年没、享年92歳)。その人生を『明けない夜はない』(労働旬報社)などに著しています。四男で大東文化大学名誉教授の村山士郎さんに聞きました。

 (染矢ゆう子)

 ひでさんは山形県女子師範学校専攻科を卒業後、1927年、生まれ育った町の隣村の小学校に赴任しました。裕福な米問屋の家に育ったひでさんには、村の子どもたちの貧しい生活現実や小作争議は初めて知る世界でした。

ほんとうのもの 放射する子ども

 文学少女だったひでさんは、32年に創刊した『山形詩人』に詩を投稿します。同誌の編集者で、その時期、治安維持法違反で検挙され、小学校教員を免職になっていた村山俊太郎(としたろう)さんが送った彼女の詩への批評を読んで3日間眠れず、文通が始まります。「子どもこそほんとうのものを放射している」と教える俊太郎さんへの信頼を深め、結婚。子どもたちの生活を見つめ、「放射」するものをうけとめようと教師の仕事に開眼していきます。子どもたちの書く日記や作文や詩を夢中で読むようになります。

 当時の天皇制政府は綴(つづ)り方運動を弾圧。復職した俊太郎さんは40年に再度検挙され、2年間獄中で過ごすことになります。

 「当時の文書を見ても、俊太郎は戦前、日本共産党には入っていなかったんじゃないかと思う。当時の政府は、東北の良心的な先生たちが連携し、生活教育運動に成長することを危険視し、弾圧したのです」と、俊太郎さんの教育思想形成と実践をまとめた士郎さんは話します。

 ひでさんは後に『明けない夜はない』で、このときのことをこう振り返ります。「“アカ”とよばれ、“国賊”と呼ばれながら、苦難の人生を選んだのも、この人以外に私の疑問に答えてくれなかったからだ」「村山のような人を弾圧してしまう世の中が、そう長く続くはずはない。かならずこんな世の中はくずれる。真実は必ずとおる」

 ひでさんは、獄中で結核にかかり家に戻った夫を「明けない夜はない」と励まし、子どもたちと支えました。

 戦後、俊太郎さんは山形県教員組合の結成に力をつくします。ひでさんは婦人部をつくり、同一労働同一賃金、産前産後7週間休業の要求を掲げ、教師たちの男女平等に力を注ぎました。その活動によって、ひでさんはレッドパージで教職を追われました。この弾圧は、49年、中学2年から4歳までの5人の子どもを残して俊太郎さんが亡くなって、わずか11カ月後でした。ひでさんは、本をリュックにつめて学校を回って行商したり、雑貨商をひらいたり、生活は困難を極めました。

 「組合運動をやめて俊太郎と関係のあった人との交際を絶つならば、明日にも学校に復職させてあげる」と誘われたこともありました。ひでさんは悩みましたが、「そうなれば私が死ぬことじゃないか」と拒否しました。

 その後、県教組書記などを経て、59年には、日本共産党の東根(ひがしね)市議会議員になります。30人の議員のうち女性は1人。家には多くの人が集まり、そこで出た話を議会で取り上げました。町に農村の構造改善事業が入ってきた時期でした。学校の給食室で働く人の賃金がはだかで払われることに対して、「封筒に入れて」と要求したり、中学生の女子更衣室のドアがなく、むしろだったのを扉に変えさせました。「彼女らしい仕事だった」と士郎さん。

自転車に乗れず徒歩で支持訴え

 ひでさんは、地域の新日本婦人の会の立ち上げや母親運動、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の活動にもとりくみました。士郎さんがひでさんの遺品を整理していたら、15センチほどの紙の束が出てきました。選挙に使った支持者カードでした。「歩いて支持を訴えていたんですね。まだ、電話も車も普及していない時代です。ひでさんは自転車も乗れませんでしたから」「ひでさんは選挙になると候補者ポスターを夜に電柱に貼りにいくのですが、高校生の時に手伝ったこともあります。なぜか選挙になると元気でした」と士郎さんは語ります。

 ひでさんの周りには常に人の輪ができました。「人と話し、地域や生活の問題を一緒に変えていく。多くの人と生きた運動家でした」(士郎さん)

 

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「国葬」に反対 治維法国賠同盟

2022719

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央本部は16日、安倍晋三元首相の「国葬」に反対する声明を発表しました。

 声明は、安倍氏が首相在任中に安保法制を強行し、特定秘密保護法や共謀罪法制定を進めたことは「『新たな戦時体制(現代版治安維持法体制)形成の最終段階』の土台を構築した」と指摘。

 安倍氏の政治的立場や政治姿勢に対する国民の評価は大きく分かれており、「国葬」を行うことは安倍氏の立場や姿勢を国家として賛美・礼賛することになるとして、「日本国憲法の国民主権、思想信条の自由と民主主義の原則と相いれない」と反対を表明しています。

 

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日本共産党創立100周年に寄せて 武蔵大学教授 永田浩三さん 多様で開かれた党に希望

2022716

 企業でも100年続くことは至難の業。ましてや離合集散を繰り返す政党の中で、一世紀の歴史を刻むことは驚くべきことです。猛威を振るった稀代(きだい)の悪法・治安維持法。私は言論弾圧として知られる横浜事件を調べてきましたが、国家の暴力に負けず、平和を訴え続けた先人に改めて尊敬の念を抱きます。

 今年は沖縄の本土復帰50年。一足先に復帰を果たした奄美群島で声を上げたのは、中村安太郎たち、奄美人民党(のちの共産党)の人たちであり、その志はカメジロー・瀬長亀次郎にも引き継がれました。中村が若者たちに呼びかけた言葉は、「世の中は変えられる」「理性的たれ!」でした。「中村学校」のこの言葉は今こそ評価されてよいと思います。

 私が暮らす東京杉並区では、公共の再生を訴える岸本聡子新区長を、住民たちの手で誕生させました。参院選の山添拓さんの票は、杉並ではトップに0・1%に迫るほど勢いがありました。

 こうした成果の陰にベテランの党員の努力があり、その方たちの支えのもとで、われわれ住民はのびのびとネットワークの輪を広げることができたのです。可能性の大きさに希望を感じます。100年の節目を機に、より多様で開かれた政党になっていくことを願っています。(寄稿)

 

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主張 日本共産党100年 立党の原点 いま未来に向けて

2022715

 日本共産党はきょう、1922年7月15日の創立から100年を迎えました。

 この1世紀には、国民の利益擁護、反戦平和、民主主義、社会進歩をめざす立場を貫き、果敢にたたかい続けてきた歩みが刻まれています。どんなに困難な時代でも決して国民を裏切らず、いかに強大な権力に対しても正面から立ち向かってきた歴史は誇りです。

 いま不屈のたたかいの到達点に立って、新たな未来に向け、幅広い国民と力を合わせて時代を切り開く決意です。

歴史を切り開いた不屈性

 日本共産党が誕生した20世紀初頭は、国の統治の権限を天皇が握る専制政治の下にありました。国民の人権は抑圧され、言論は厳しく取り締まられました。対外侵略も拡大されていった時代です。

 主権在民・反戦平和を掲げることは文字通り命がけで、多くの先輩が命を落としました。今年公開された映画「わが青春つきるとも―伊藤千代子の生涯」は、治安維持法で逮捕され、権力による過酷な弾圧で命を奪われた若き女性活動家の足跡を描いています。

 貧困を見て社会に矛盾を抱き、東京女子大で社会科学研究会に加わった千代子は、郷里の長野県の製糸工場の争議支援を行うなどして入党し、激しい拷問や卑劣な懐柔工作にも志を曲げず、24歳で亡くなりました。千代子の生きざまに心を揺さぶられる現代の若い世代も少なくありません。

 激しい弾圧で35年に党中央の活動は中断せざるをえませんでした。しかし、獄中などで不屈のたたかいは続きました。

 戦前、日本共産党以外の全ての党は自ら解散して40年に「大政翼賛会」に合流し、侵略戦争を推進しました。戦前・戦後を通じて名前を変えずに活動している日本の政党は、日本共産党だけです。このたたかいの先駆性は、戦後に制定された日本国憲法のなかで結実しました。

 いまロシアのウクライナ侵略の暴挙に乗じ「大軍拡・改憲」を声高に叫ぶ「翼賛政治」の危険が強まっています。平和と民主主義を壊す逆流を打ち破るために、日本共産党は力を発揮しています。

 戦後の歴史では、旧ソ連や中国から乱暴な干渉を受けましたが、それと果敢にたたかい抜き、どちらもはねのけました。どのような大国であれ、覇権主義を許さないたたかいを通じて、日本共産党は自主独立の立場を確立しました。この立場は、ロシアのウクライナ侵略が続き、中国の覇権主義の深刻さがあらわになる事態のもとで重要であるだけでなく、「日米同盟の強化」の名で異常なアメリカ言いなり政治が際立つ中で、いよいよ重みを増しています。

多くの国民と手を携えて

 日本共産党がなにより大事にしているのは、国民の共同の力で社会を変える取り組みです。各地で公開中の映画「百年と希望」は、歴史を紡いできた日本共産党が若い世代などと広く結び活動する姿に注目したドキュメンタリーです。

 日本の政治を変える道は、市民と野党の共闘を広げるしかありません。そのため奮闘を続けます。

 創立100周年という大きな節目に、一人でも多くの方に党に加わっていただくことを心から呼びかけます。新しい歴史をともにつくっていきましょう。

 

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日本共産党創立100周年に寄せて 東京大学名誉教授 広渡清吾さん 民意・希望実現へ期待

2022714

 日本共産党は、100年、同じ名前です。共産党がこの名前とともに一貫してきたのは、どんな困難があっても人民の要求と希望の実現を自らの使命とすることだと思います。

 「日本共産党は、わが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ」創立されました。大日本帝国憲法下の日本で、神権天皇制に代えて人民主権の日本をつくろうとする共産党は、「法の化け物」(奥平康弘『治安維持法小史』)によって合法的に抹殺される危険にさらされました。それであっても、人民主権は、帝国憲法制定をめぐって、自由民権を知る日本人民のまぎれもない要求だったのです。

 第2次世界大戦後、日本国憲法は、日本社会の発展と共産党の活動に画期的な新しい条件を生みだしました。いま、共産党は、どの政党よりも誠実に、憲法の理念と価値を擁護し、それを現実のものとする活動を担っています。

 21世紀の人類社会は、人類の存続にとって不可避の変革の課題に直面しています。共産党が、これまでにもまして、平和、民主主義、そして社会進歩をめざす世界のすべての人民と連帯しつつ、新たな課題に立ち向かい、日本人民の要求と希望の実現のためにたたかい続けることを心から期待します。(寄稿)

 

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日本共産党創立100周年に寄せて 全日本民主医療機関連合会会長 増田剛さん 真摯な活動に信頼寄せた

2022714

 人権と平和をとことん大切にしてきたのが、日本共産党だと思います。ぶれずに理想を掲げ続ける共産党は、絶えず権力側から攻撃や妨害を受けてきました。そんな中での100周年は、本当に立派なことです。

 綱領を羅針盤に、地域で真摯(しんし)に活動する党員と、その姿に信頼を寄せる多くの国民の存在が、この偉業を支えたのでしょう。

 私たちが共産党に共感を抱くのは、共に人権と平和を守ることを追い求めてきた歴史があるからです。

 民医連のルーツは、戦前の「無産者診療所運動」にあります。当時、労働者や農民など弱い立場の人たちは高額な費用が払えず、まともな医療は受けられませんでした。また、治安維持法により多くの共産党員やその支持者が検挙・拷問されていた時代です。

 1929年に、治安維持法改悪案に国会で唯一反対を貫いた労農党代議士山本宣治が右翼に暗殺されました。通夜に集まった人々が、労働者農民の病院を作ろうと呼び掛け、この運動は全国に広がったのです。その中で多くの共産党員が活躍したことは想像に難くありません。

 日本共産党にはこれからも、人権と平和が大切にされる社会の実現に向けて、道を示し続けてほしいと願っています。

 

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安倍元首相銃撃 テロ「絶対許せない」投票行動変えないで 東京工業大学教授 中島岳志さん

2022710

 今回の事件は一種のテロであり、断じて許されません。

 テロは、世の中全体に恐怖をまん延させ、社会を萎縮させます。自分の思う方向に世界を動かそうとするものです。今、私たちにとって何が重要か。動揺せず、毅然(きぜん)とした態度を取り、きのうと同じきょうを生きることです。

 脅しがあったからといって行動を変えてはいけません。テロリストへの最大のメッセージは「そんなことをやっても何にも変わらないよ」と見せつけることです。投票行動を変えてはいけません。

 そして与野党ともにテロと選挙結果に因果関係を持ち込んではいけません。選挙期間中にテロを実行すると社会が動くという誤ったメッセージを与え、テロの連鎖につながりかねません。

 盛んに論じていたはずの物価高の問題も事件後、吹っ飛んでいます。論点をもう一度思い出しましょう。テロを選挙の要件にしない。自分が考える投票を確実に行うことが重要です。

 大正初期から昭和初期にかけてテロが頻発しました。テロのような非合法的な暴力が発動されると、これを押さえつけようと治安維持権力が増大します。

 1925年に治安維持法が制定され、国民の自由な言論が弾圧されました。左翼だけでなく右翼も、特定の政治的発言はことごとく制限されました。警察や軍部が大きな力を持ち、政党政治は死にました。言論の自由を殺さない。投票日のきょう、私たちは重要な岐路に立っています。

 

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与野党の軍拡論めぐる新聞の姿勢 丸山重威 戦争の芽を摘む言論こそ 思い起こすべき戦前の痛恨の歴史

202276

 「NATO諸国の対GDP比2%を念頭に5年以内に防衛力の抜本的強化に必要な予算水準達成目指す」(自民)、「防衛力を着実に整備・強化」(公明)、「防衛費GDP比2%を目安に増額。核共有を含む拡大抑止の議論開始」(維新)、「攻撃された場合の反撃力整備。サイバー、宇宙などに対処できる防衛費増額」(国民)、「着実な防衛力整備」(立憲民主)…。

 今回の参院選で、物価高と並んで論議されている防衛予算拡大問題。野党を巻き込んだ大合唱の中で、気になるのは新聞の姿勢だ。

 「朝日」は「公約では踏み込んでおきながら、岸田首相は、防衛費は『数字ありきではない』、敵基地攻撃能力は『検討中』などと、あいまい」「具体的な説明をしないまま、選挙後にアクセルを踏むことは許されない」(6月24日)、「東京」も「1%から『倍増ありき』の方針は、防衛力整備の歯止めを失う危うさをはらんでいる」(6月8日)と批判した。

 だが、すでに昨年暮れ「厳しい財政事情の中でも防衛力を着実に強化していくことは不可欠」としていた「読売」は「財政の制約がある中で、防衛予算だけを特別扱いすることに理解が得られるのか」(6月22日)などと曖昧だ。

転換点は

 野党まで「防衛費倍増」を容認し、新聞も曖昧なことで、思い出したのは、大正から昭和初期にかけて、軍部に厳しい姿勢を続けてきた新聞が、1931年の満州事変(柳条湖事件)で大転換し、日中戦争、太平洋戦争では「協力」から「推進」役になった痛恨の歴史だ。

 明治憲法下、出版法から新聞紙法、治安維持法まで多くの弾圧法規や特高警察があったのは確かだが、結局新聞も放送も戦争に協力した。その転換点が、関東軍が自ら満鉄線を爆破、「暴戻(ぼうれい)なる支那兵」の行為として全面攻撃を始めた謀略事件、柳条湖事件だ。

 歴史をたどると、その1年前の30年4月の時点では、ロンドン海軍軍縮条約の批准に軍部と野党・政友会が反対したことを新聞は厳しく批判していた。

 「朝日」は4月26日、「軍事を国家最上最大の国務として、他の国務はすべてこの目的のために奉仕せしめんとする軍事国家」は「国民生活の安定と、民衆の福利、文化への貢献を目的とする文化国家、責任内閣制を中心とする立憲政治とは相容れない」と書いた。「毎日」の前身「東京日日」は「憲政の癌(がん)といわれる軍部」と呼んだ。

報道合戦

 しかし、柳条湖事件が起きると、新聞は大報道合戦になった。「自作自演の謀略」であることを知ってか知らずか、事実の確認もないまま、軍の言う通り、事件を中国側の仕業とし「断じて許すべきでない」(「朝日」31年9月20日「日支兵の衝突、事態極めて重大」)、「満州に交戦状態―日本は正当防衛」(「東京日日」同20日)などと社説が書かれた。

 「朝日」では、論説委員会で「事件への正しい見解と態度」が決定され、号外や付録を含めた大報道とともに、慰問金の募集や、報告演説会が行われた。荒木貞夫陸相は「新聞、新聞人の芳勲偉功は特筆に値する」と感謝したという。(前坂俊之『太平洋戦争と新聞』)

 もちろん90年前の日本と憲法9条を持ついまの日本を同一視はできない。しかしいま、外国に行ってまで「防衛費倍増」を約束し、世界第3位の軍事大国になろうとする政府と、「必要な増額は仕方がない」などと言う野党を、放置しておいていいのだろうか。

 当時の報道を点検した「朝日」取材班は「社論が満州事変で変わったのは、(中略)朝日の社論自体に、つまり論説を書く論説委員や社の幹部の考え方に『もろさ』や中途半端さが内包されていたためでもある」(『新聞と戦争』上)と書いている。

 いま求められているのは「戦争拒否」の原則と思想を貫くことだ。状況に応じ「○○ならやむを得ない」とするのではなく、戦争の芽を摘む「揺るがない言論」が求められている。

 

6月

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ひと 初版から67年、『広辞苑』の編者新村出の業績を伝える新村恭さん(75)

2022622

 国語辞典の代表格ともいえる『広辞苑』。編者の新村出(いづる)の残した資料を所蔵する京都の重山(ちょうざん)文庫の案内人です。文庫を運営する新村出記念財団に嘱託として勤務しています。「言葉があらゆる知識をつなぎ、人びとの学びを深めていく」が新村出の信条でした。

 「岩波書店に勤めていましたが、今は祖父の残したものを社会につなげるのが私の役目です」。『広辞苑はなぜ生まれたか―新村出の生きた軌跡』(2017年)を上梓(じょうし)。

 父の猛さんは仏文学者で、同志社大予科教授のとき、治安維持法違反で逮捕されて失職。戦後は京都勤労者学園の前身、京都人文学園を設立、名古屋大に赴任したあとも平和と民主主義を守る運動に携わりました。文庫には、その資料も保管。

 「若いころは“新村出の孫、猛の息子”と言われるのが嫌だった」「それがなくなったのは50代になってから。自分の人生にそれなりの確信を持ててからです」。祖父と父の平和主義とヒューマニズムを受け継いで活動しています。

 現在は出版労連京都地域協議会議長、市民のためのKBSをめざす実行委員会の推薦で、京都放送の番組審議会委員を務めます。

 「KBS労組と市民の力によって守り再建してきた心を大切にし、独立地方局のために少しでも役にたてればと思っています」。

 

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細谷源二の獄中記『俳句事件』を今こそ マブソン青眼 治安維持法違反で投獄の俳人

2022617

 5月に、パリのPIPPA ÉDITIONS社より、絶版になっている細谷源二(ほそや・げんじ)著『泥んこ一代』(春秋社、1967年)の中から、「俳句事件」の章、つまり戦時中の俳句弾圧事件を第一人称で語る数少ない回想録のひとつのフランス語訳を刊行した。この本は日本でも入手困難ということで、日本語原文の復刻も付録し、150部を買い取り、日本の主な俳人へ謹呈で送った。

日中戦争反対の俳人と同じ境遇

 実はこの事件、80年がたった今日でも、日本の俳壇においていまだに“タブー視”する俳人が少なくない。日本人から返ってきた感想文のほとんどは著名な俳文学者・研究者によるものだった。どれも「これほど詳しく当時の検挙の様子や獄中生活を描いた資料があったことを知らなかった」といった内容である。また、別の大物俳人は「日本人はなぜか恥ずかしがるからね。不当に治安維持法違反容疑で捕まっても、大抵、一生それを語らない」と電話で漏らす。そして、北海道に住む細谷源二の孫弟子は言ってくれた。「今こそ、この証言が必読だ。だって、2月下旬以来、ロシアで1万人以上の平和主義者が逮捕された。80年前の、日中戦争に反対した日本の俳人たちと同じ境遇だ」と切実に訴える。

 そもそも私は、2018年2月、長野県上田市にある「無言館」敷地内で、「俳句弾圧不忘(ふぼう)の碑」の除幕式のひもを引っぱった者として、この回想録に興味があった。自分の母国であるフランスは「レジスタンスの国」と言われたりするが、俳句を作っただけで2年も軍国政権に投獄された日本の俳人に対して、きっとフランスの読者は関心があるのではと思い、2018年夏から仏訳の作業を始めていた。しかしその他の仕事もあり、なかなか翻訳が進まなかった。そんな中2022年2月24日、ロシア軍によるウクライナ侵攻のニュースが飛び込んだ。すぐに、細谷源二の獄中の叫びが脳内に響いた。

 〈房の寒さがこたえた。水っ鼻が流れてくる。手がかじかんでくる。背から冷水をかけられたようで我慢できない。薄い綿入れの囚人服ではどうにもしのげない。立ち上がって狭い房を歩いてみたが寒さがひどい。壁にからだをぶつけることにした。一回、二回、三回、四回、からだをぶつけるたびに、ひしひしと狂おしい絶望感が量をふやしてゆく。「俳句を作っただけでこんな苦しみをするなんて、考えられない」私はつぶやく。「人間いかに生くべきか」を俳句の上でうたい、より正しい人間として生きることがなぜいけないか。わからない、わからない。世のなかなんてみんな間違いだらけだ。戦争も間違いなら、人を殺す武器を作っていることも間違いだ。戦争に反対する人間をこんな小さな部屋に閉じこめるのも間違いだ。〉

「ウクライナの友らに薦める」

 私も再読して涙した。早くこの翻訳を完成させて、パリの出版社に送ろう。残っていた7000字(本文の3割)を急きょ訳し、3月2日、パリへ送った。翌日、出版社の社長から「すぐに出そう! 今こそ、この証言が、世界に必要だ。2カ国語で裏表紙の文を書いてください」という即答が返ってきた。私は以下の通りに書いた。〈世界が第二次世界大戦に逆戻りしたような昨今。暗黒政権がいかにして社会全般を束縛し、侵略戦争を正当化して、平和主義者のあらゆるレジスタンスを潰(つぶ)すのか。(中略)今こそ日本とフランスで、そして願わくば東欧の国々でも、この“獄中俳文”のメッセージに耳を傾けてほしい〉。そして、一句を添えた。

  英霊をかざりぺたんと座る寡婦 細谷源二

 過日、イタリア在住のウクライナ人女性から感想文が届いた。「この文章はレジスタンス文学の傑作です。ウクライナの友人にも、ロシアの友人にもお薦めします」と。

 彼女もいずれ「寡婦」にならないように、今、過去を振り返り声を上げるべきだ。

 *日本での在庫は少々。問い合わせmabesoon@avis.ne.jp(マブソン青眼)

Слава Україні(スラバウクライニ)マブソン青眼

泣きながら「ウクライナ万歳(スラバウクライニ)」着ぶくれて

空襲や河(ドニエプル)も私も生きている

地下壕で笛(ティリンカ)吹くや金髪(きん)に砂利

錆(さび)払う橋に爆弾を掛ける前

爪黒む死者や白旗握ったまま

みぞれ降る腕(て)や嘆願のまま硬直

泥道の花柄毛布に在る遺体

二等兵の目を鵜(う)がつつく花の昼

ニキビあるアゴのみ見えてレイプ語る

ミサ曲のような沈黙空爆後

上空から墓場と化せし聖母町(マリウポリ)

大鴉(おおがらす)二羽が口づけ国境よ

まぶそん・せいがん 1968年、フランス生まれ。長野市在住。俳人、小説家、比較文学者。句集『空青すぎて』『天女節』『アラビア夜話』『渡り鳥日記』『マルキーズ諸島百景』、著書『江戸のエコロジスト一茶』ほか

 

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2020年度決算 市田氏が最後の討論 議場は与野党超えた大きな拍手

2022616

 今期で引退する日本共産党の市田忠義議員は15日の参院本会議で、2020年度決算などへの最後の反対討論に立ちました。(反対討論要旨4面)

 市田氏は、自公政権が労働法制の規制緩和、社会保障の削減、消費税増税を繰り返してきたことをあげ、「四半世紀の政治をふり返ってみれば、自民党政権が進めてきた新自由主義と戦争国家への道はいま、国民の生命・安全と到底両立しえない地点にきていると言わざるを得ない」と指摘。「その大本には、米国追随、財界の利益第一という政治のゆがみがある。日本共産党は、そこにメスを入れて、政治の根本的転換をはかる」と強調しました。

 市田氏は、戦前、治安維持法に反対して右翼の凶刃に倒れた山本宣治の“民衆の政治運動とは代議士のみに任するものではなく、議会外にも活動を要する”などとした言葉を紹介。最後に「議員ではなくなっても引き続き、市井にあって、日本の平和と民主主義の向上のために生ある限り力を尽くしていく」と決意を語ると、議場は与野党を超えて大きな拍手に包まれ、他党議員から「お疲れさまでした」などの声があがりました。

 

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2020年度決算に対する市田議員の反対討論(要旨)参院本会議

2022616

 日本共産党の市田忠義議員が15日の参院本会議で行った2020年度決算などに対する反対討論(要旨)は次の通りです。

 2020年度は、コロナ危機のもと、国民の命と生活をいかに守るかが焦眉の課題でした。自粛と補償をセットで求める国民の切実な要求に耳を貸さぬ政府の対応が厳しく批判されました。その結果政府は、持続化給付金など野党の提案も一部取り入れましたが、自粛への補償・支援は極めて不十分でした。検査の抜本拡充、医療機関への減収補填(ほてん)などにも背を向け続けました。その一方、アベノマスク、「Go To」キャンペーンなど不要不急の事業に多額の国費を投入しました。コロナ対策は失格と言わざるを得ません。

 決算審査では、行財政の問題点を中長期の視点で明らかにすることも重要です。

 私が参議院に議席を得たのは、新自由主義があらゆる分野に本格導入されるようになった時期でした。

 消費税の増税、健康保険の窓口負担の引き上げなど、当時「9兆円負担増」と呼ばれた改悪への怒りを背に、1998年の選挙で国会議員となり、労働・社会政策委員会に所属しました。

 自公政権はその後も、労働法制の規制緩和、社会保障の削減、消費税の増税を繰り返しました。今日では、非正規雇用は4割を超え、保健所は半減。それらが、格差と貧困、賃金が上がらず成長しない経済、医療・公衆衛生の脆弱(ぜいじゃく)化、国際競争力の低下をもたらしました。これらの矛盾はコロナ危機によっていっそう激化しました。

 四半世紀の政治をふり返ってみれば、自民党政権が進めてきた新自由主義と戦争国家への道は今、国民の生命・安全と到底両立しえない地点にきていると言わざるを得ません。

 その大本には、米国追随、財界の利益第一という政治のゆがみがあります。日本共産党は、そこにメスを入れて、政治の根本的転換をはかります。

 私は、今期で参議院議員を引退します。

 郷土の大先輩であり、治安維持法に反対して右翼の凶刃に倒れた山本宣治は、「民衆の政治運動」とは「代議士のみに任して置く」ものでない。「議会における代議士の活動と共に、議会外においても大いに活動を要する」と語りました。私は、議員ではなくなっても引き続き、市井にあって、日本の平和と民主主義、国民生活の向上のために生ある限り力を尽くす決意を述べて、最後の討論とします。

 

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「恣意的な権力行使可能」改定刑法成立 山添氏が反対討論

2022614

参院本会議

 侮辱罪の厳罰化と懲役・禁錮を廃止して「拘禁刑」を創設する改定刑法が13日、参院本会議で自民党、公明党、日本維新の会、国民民主党の賛成多数で可決・成立しました。日本共産党と立憲民主党などは反対しました。(反対討論要旨4面)

 討論で日本共産党の山添拓議員は、侮辱罪による現行犯逮捕について政府統一見解では「慎重な運用」「想定されない」とするが「最終的な判断は現場の捜査官次第だ」と指摘。北海道警やじ排除事件を警察庁がトラブル防止と強弁していることをあげ、「排除ありきの対応で、表現の自由や政治的言論への配慮は見えない」と批判しました。

 さらに、これまでの審議で「『侮辱』の定義があいまいで恣意(しい)的な権力行使が可能だ」と指摘されたことを強調。仮に現行犯逮捕が起きた場合、「起訴されなくても自由な言論・表現への重大な脅威となり、萎縮効果が生じる」と批判しました。

 「拘禁刑」創設については、国連が被拘禁者処遇の最低基準を示した「マンデラ・ルールズ」で「『拘禁刑』は自由の剥奪で、それ以上に苦痛を増大させてはならないとしている」としていることを指摘し、それは「改善更生や社会復帰という名で、受刑者に強制した時代があったからだ」と述べました。

 その上で、戦前の日本では「治安維持法などのもと、再犯防止、再教育の名で転向を促す思想改造が行われた」と強調し、「特定の思想を強制することはあってはならず、法律上、懸念を残すべきではない」と主張しました。

 

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改定刑法に対する山添議員の反対討論(要旨)参院本会議

2022614

 日本共産党の山添拓議員が13日の参院本会議で行った改定刑法に対する反対討論(要旨)は次の通りです。

 本法案は、SNSなどインターネット上の誹謗(ひぼう)中傷が社会問題化するなか、侮辱罪の法定刑に1年以下の懲役・禁錮、30万円以下の罰金を追加しようとするものです。

 国連の自由権規約委員会は、表現の自由は人権の促進と保護に不可欠だという認識の上に、刑事責任の追及をなるべく避けるよう求め、刑罰を科す場合も身体の拘束を伴う刑は適切でないとしています。ところが法務省や外務省は、国連がこうした勧告を出すに至った経緯は「つまびらかでない」「法的拘束力はない」などというばかりでした。

 国家公安委員長は、道警の対応を違法とした札幌地裁判決(北海道警やじ排除事件訴訟)を読んでいないとしながら、道警の対応は適切だった、言論の自由を圧迫するものではないとくり返しました。時の首相や政権への異論や批判を封じた事実を直視せず、反省もないままに、侮辱罪について「慎重な運用」「想定されない」と述べても、なんの説得力もありません。

 仮に現行犯逮捕などが起きれば、起訴されなくても自由な言論・表現への重大な脅威となり、回復しがたい萎縮効果が生じます。侮辱罪の法定刑引き上げは、やめるべきです。

 本法案は、現行の懲役刑と禁錮刑を廃止し、新たに拘禁刑を創設します。身体拘束に加えて刑務作業を義務づける懲役刑への一本化であり、かつ、新たに改善更生や再犯防止の指導も義務づけようとするものです。

 国連が被拘禁者処遇の最低基準を示したマンデラ・ルールズは、拘禁刑とは自由の?奪であり、原則としてそれ以上に苦痛を増大させてはならないとしています。改善更生や社会復帰という名で、さまざまに受刑者に強制した時代があったからにほかなりません。

 戦前の日本では、治安維持法や思想犯保護観察法の下で、社会主義者や国民主権を求める運動が弾圧され、拷問や虐待だけでなく、再犯防止、再教育の名で転向を促す思想改造まで行われました。いかなる政府の下でも、特定の思想を強制することがあってはならず、法律上、その懸念を残すべきではありません。

 現場の職員は、カウンセリングの技法も用いながらねばり強く働きかけ、本人の意思に基づく社会復帰へのとりくみを促しています。懲罰で強制すべきではありません。

 

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戦争・暗黒政治にノー 治維法国賠同盟が全国大会

2022614

 「再び戦争と暗黒政治を許すな!」と掲げる治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の第40回全国大会が12、13の両日、東京都文京区で開かれ、約110人が参加しました。

 2月に急逝した増本一彦さんに代わって新会長に就任した吉田万三さん(東京)は、現在の情勢について「『戦争か平和か』『軍拡か暮らしか』が問われている」と強調。若い世代に運動を継承する努力が求められているとして、戦争する国づくりを許さないために「力を合わせていこう」と呼びかけました。

 討論では、治安維持法による弾圧で命を奪われた日本共産党員・伊藤千代子の生涯を描いた映画「わが青春つきるとも」の上映運動などが報告されました。

 北海道から参加した代議員は、治安維持法犠牲者への謝罪と賠償を国に求める取り組みの広がりに触れて「2020年代に治安維持法体制に決着をつけよう」と述べました。

 沖縄の代議員は「本土復帰50年を迎えても米国占領下から続く基地被害の状況は変わらず、土地利用規制法で基地周辺に暮らす住民を監視する動きも強まろうとしている」と指摘。「同盟を強く大きくし、県民のたたかいの一翼を担いたい」と力を込めました。

 大会では、参院選を勝ち抜いて大軍拡・核共有など「戦争する国づくり」と改憲を阻止し、会員拡大で2万人の同盟を目指す方針を決定しました。

 日本共産党中央委員会がメッセージを送りました。

 

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ツルシのぶらり探訪 宮城 仙台市「五日市憲法」草案の碑 起草者・活動家しのぶ

202269

 街路樹や公園の新緑が映える杜(もり)の都・宮城県仙台市。

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟・宮城県本部会長の横田有史(ゆうし)さんの案内でまず訪れたのは、青葉区北山にある資福(しふく)寺です。この古刹(こさつ)に自由民権思想家・千葉卓三郎(1852〜83年)の墓があります。

 卓三郎は同県栗原郡白幡村(現・栗原市志波姫=しわひめ=)に生まれました。12歳のころ儒学者・大槻磐渓(ばんけい)の門下に入り、仙台藩の藩校・養賢(ようけん)堂で学びました。青葉区本町の県議会庁舎の横に、養賢堂跡の石碑があります。

 卓三郎は戊辰戦争従軍後、さまざまな思想遍歴を経て、五日市町(現・東京都あきるの市)で教員となり、地元の若い自由民権家と深い交流を持ちました。

 その学習と討論の場から生まれたのが、1881年に卓三郎が起草した「五日市憲法草案」です。東京経済大学・色川大吉教授と学生が、旧家の土蔵から発見したのは1968年のことです。

 204条におよぶ条文は、現憲法の源流と評されるほど民主的です。79年11月、草案が作成された五日市町と、卓三郎の生地・志波姫町、墓がある仙台市に、記念碑が同時に建立されました。

 「3カ所の記念碑には五日市憲法草案から抜粋した、六つの条文を刻んだ銅板がはめ込まれています。記念碑建立のきっかけは、仙台市在住の元高校教師や郷土史家の発案でした」と横田さん。その碑の一つが資福寺観音堂の脇にあります。

 資福寺近くの秀林寺には高橋とみ子(1909〜34年)の墓があります。仙台市に生まれたとみ子は、宮城県第二高等女学校卒業後、尚絅(しょうけい)女学校高等科に進学。社会運動家・伊藤千代子も在学した尚絅は、女子社会科学研究会の拠点でした。

 とみ子は尚絅を卒業後、労働組合運動に尽力し、市内の旭紡績や片倉製糸の組合活動を支援しました。

 34年9月、県下に大弾圧の嵐が吹き荒れます。59人が検挙された9・11事件です。とみ子も仙台署に留置され、県北の中新田(なかにいだ)署に移送されます。逮捕から1カ月後、黙秘を貫いたとみ子は拷問により絶命。25歳でした。

 横田さんは「警察の発表は自殺でしたが、『全身が紫色に腫れ上がり、殺されたのだなと直感した』という医師の証言があります」と話します。国賠同盟・宮城県本部は、毎年11月に追悼墓前祭を主催しています。

 夜、海の珍味ホヤで一杯やりました。卓三郎やとみ子の努力や、たたかいが結実した現憲法を思いながら。

 ツルシカズヒコ

【交通】資福寺と秀林寺へは、JR仙山線・地下鉄南北線北仙台駅から徒歩20分

【問い合わせ】治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟・宮城県本部 電話022(222)6458

 

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5月

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創立100年 若手記者がたどる〜そのとき日本共産党は〜 「革命詩人」 槇村浩編 反戦・植民地解放の訴え 今に

2022531

 日本共産党はいま、ロシアのウクライナ侵略に対し、「侵略やめよ」「国連憲章を守れ」の一点で全世界の団結を呼びかけています。反戦・平和の伝統は、100年前の党創立当初からのものです。

 日本が侵略戦争に突き進む中、苛烈な弾圧に抗して、侵略戦争と植民地支配に反対し、国際的な連帯を訴えてきました。その隊列の中には、26歳の短い生涯に、燃えるような詩で反戦と植民地解放・国際連帯を訴えた若者がいました。槇村浩(まきむら・こう)=本名、吉田豊道(ほうどう)です。

 才能を注ぎ、命をかけて詩をつくった理由とは―。彼が残したものとは―。その答えを知るため槇村ゆかりの地へ向かいました。

 おゝ三月一日!/民族の血潮が胸を搏(う)つおれたちのどのひとりが/無限の憎悪を一瞬にたゝきつけたおれたちのどのひとりが/一九一九年三月一日を忘れようぞ!/その日/「大韓独立萬歳(ばんざい)!」の声は全土をゆるがし/踏み躙(にじ)られた××(日章)旗に代へて/母国の旗は家々の戸ごとに翻った

 槇村が1932年に作った長編叙事詩「間島パルチザンの歌」の一節です。1919年3月1日に朝鮮で起こった日本帝国主義の植民地支配からの独立を求めた大闘争―「三・一独立運動」を歌ったものです。

 独立を求める声は、朝鮮全土に波及し、3カ月にわたり200万人を超える人が参加。日本の支配勢力は激しい弾圧を加え、多くの民衆が虐殺されました。

 詩は、朝鮮と接する「満州」(中国東北部)にある間島での朝鮮民族の抗日運動をもとに、郷里の村で「三・一運動」に出合った少年が、日本の侵略に抗するパルチザン(非正規軍およびその構成員)にたくましく成長する物語です。

 『プロレタリア文学』4月臨時増刊号に掲載されましたが、当局は直ちに発売禁止処分に。しかし、詩は反響を呼び、口づてに広がりました。

海を越えた 平和求める心

 槇村浩(まきむら・こう)は、1912年6月に高知市で生まれました。幼少期に医学書を読むなど秀才ぶりを発揮し、地元の新聞では「神童」と取り上げられ、飛び級で中学に入学しますが、興味があることのみに集中し、歴史書や社会運動史を読みあさる少年でした。

 このため、成績不振に陥り、病気もあって長い休学をへて転校。移った先は、軍人養成のためにつくられた学校で、軍国主義的な校風が漂い、肌に合わなかった槇村は反骨精神をむき出しにします。

 「軍事教練」の試験では、白紙答案を出そうと同級生に訴え、4年生全員が白紙で提出し、行動を組織した槇村は学校を追われます。

 戦争の加害や被害の調査、反戦活動家の発掘などをしている高知市内にある平和資料館「草の家」の館長、岡村正弘さん(85)は、「自由民権運動の発祥の地である高知の気風と、当時盛り上がっていた労働運動などに影響されたのではないか。実際に立ち上がった人々を目の当たりにしたことが大きかったと思います」と言います。

めざましい活躍

 1931年、日本プロレタリア作家同盟高知支部の結成に参加。翌32年2月には日本民主青年同盟(民青)の前身である日本共産青年同盟(共青)高知地区委員会を確立して活動します。

 槇村は「革命詩人」としてめざましい活躍を見せます。「間島」や「明日はメーデー」、反戦叙事詩「生ける銃架」などを発表。32年には、旧陸軍歩兵第44連隊の上海出兵の際には、「兵士諸君!敵と味方を間違えるな」「上海出兵に反対せよ」などと書いたビラをまくなど、行動し続けました。

 槇村らのこうした活動を受けて、32年には高知県に日本共産党の組織が結成されました。

 槇村は同年、治安維持法違反で検挙されますが、「マルクス主義の間違いを証明しようと、研究を始めたが、かえって同主義は正当で、無産階級解放の唯一の道だと認めるに至った」と非転向を貫きます。3年の実刑判決を受け、35年に出獄したものの、再び検挙され特高警察による拷問がもとで病気になり、38年9月に26歳で亡くなりました。

火を付け続ける

 死後も、槇村の詩は、海と時代を超え、平和を追い求める人々の心に火を付け続けました。

 「間島」が発表された同じ32年、「赤旗(せっき)」(3月2日付)は、「今年の三・一デー!! 朝鮮民族解放記念日を如何(いか)に斗(たたか)うべきか」の見出しで「朝鮮独立運動三・一記念日万才!」「朝鮮農民に朝鮮の土地を返せ!」「朝鮮、台湾、中国の植民地民族及び半植民地民族の完全なる解放!」と訴えるなど、植民地解放闘争の旗を掲げ続けました。

 槇村の活躍は今も、「朝鮮民族の不屈の革命精神をうたいあげる」(舘野ル『韓国・朝鮮と向き合った36人の日本人』)と評価されています。

 「発禁」とされた槇村の詩は、遠く海を越え、植民地支配に苦しむ現地の人々を励ましました。発表からわずか2年後の1935年ごろ、詩の舞台となった地で、小学校で教師が授業中におこなった朝鮮語での朗読を「聞いた覚えがある」という証言も伝えられています(戸田郁子『中国朝鮮族を生きる』)。

 「草の家」の岡村さんは、「韓国のメディアが槇村のことを取材しに、ここに来ました」とうれしそうに語りました。

遺志を継ぐ若者

 槇村をはじめとする活動家や党員が命がけでたたかったことで、声を上げても命が奪われない社会が築かれてきました。

 高知県の日本共産党で、その遺志を継ぐ若者の一人、松本けんじ参院徳島・高知選挙区候補(38)は「情報統制をされた時代、『戦争を仕掛けたのは誰なのか』と真実を見通した詩を読んだとき、すごいなあと鳥肌が立った。でも、槇村は一人ではなく、いろいろな仲間が彼を支えていたのだと思う。私たちはどうするのか―。声を上げれば社会が変わるということを示していきたい。参院選比例5議席と自分も議席をかちとり、格差や貧困がなく平和な社会をつくる」と意気込みます。

歴史振り返り行動を変える

 高知市内を歩くと、槇村が投獄されていた高知刑務所の跡地の城西公園には「間島」の詩碑が、高知駅近くの高知橋には生誕地の案内板が、平和町には墓碑がそれぞれ立っています。整備されており、「槇村が生き、たたかった歴史を残そう」とする人が数多くいるのだなと感じます。

 戦後77年。植民地支配のさいの徴用工や日本軍「慰安婦」問題、佐渡金山の強制労働など、いまだに解決されていない問題があります。解決しようとするどころか、韓国政府が強制労働の被害などを主張していることに対して、安倍晋三元首相は、「歴史戦」だと称し、侵略戦争や植民地支配といった歴史を改ざんしようとしています。

 高知に行き、わかったことは、「平和な社会をつくるためには歴史を残し、振り返らなければいけないこと。一人の行動が、だれかの行動を変えること」です。

 埋もれてしまいそうだった歴史を掘り起こし、伝えてくれた高知の人たちの姿を忘れず、私も仲間と支え合いながら、一歩ずつ進んでいきたいです。

 (新井水和)

槇村浩関連年表

1910
 日本、韓国を併合。植民地化

1912年6月
 槇村浩、高知市で生まれる

1919年3月
 朝鮮独立を求め「三・一独立運動」始まる

1920
 日本初のメーデー

1922
 日本共産党創立

1929
 高知県立海南中学で「軍事教練」に反対し試験で白紙答案を出す運動を組織

1931
 日本プロレタリア作家同盟高知支部を組織
 日本、中国東北部に侵略開始(「満州事変」)

1932
 日本共産青年同盟に加わり高知地区委員会を確立
 歩兵44連隊兵舎に配布された反戦ビラを執筆
 「間島パルチザンの歌」を発表。治安維持法違反で検挙される
 かいらい国家「満州国」建国宣言

1935
 高知刑務所を出獄

1936
 再び検挙

1937
 重病となり釈放

1938
 病気のため死去

 

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水曜エッセー 信州 佐久平から 南木佳士(3) 夢の跡

2022525

 昭和20年3月6日、妻子を連れた若い外科医が東信州の田舎町の駅に降り立った。空襲の激しくなった東京の大学病院から、診療所に毛の生えたような小さな病院に派遣されたのだ。敗戦の5カ月前だった。

 その前年、彼は治安維持法違反容疑で逮捕され、目白署での1年間の勾留生活に耐え、処分保留で年末に釈放されたばかりだった。

 このあたりの事情は、70年代前後に医学生だった多くの医師が読んだことがあるはずの岩波新書の彼の自伝『村で病気とたたかう』に詳しい。

 若月俊一。「農民とともに」のスローガンを掲げた彼は一代で900床を超える大総合病院を築き上げた。

 ◆………◆

 封建的な大学医学部の医局に入るのを嫌う全国の新人医師たちがこの病院の研修医となって集ったが、長く居つく者はほとんどなかった。理想を高く掲げる指導者はすさまじい現実主義者でもあったからだ。

 病院スタッフが村に出かけて住民検診を実施すれば病気を早く発見でき、結果として医療費も低く抑えられる。外に向けてこういう理念を高らかに発信する一方、病院内の会議では入院患者を確保し、赤字を出さぬようにと幹部職員に厳しい檄(げき)を飛ばしていた。

 検診で早めに病気が見つかるなら入院患者なんて増えるはずないのに。

 会議の末席で机の下に隠した文庫本を読みながら胸の内でつぶやいていた研修医は、こんな病院は早く辞めてやろう、と思いつつ、結局は定年退職まで勤めてしまった。

 若月俊一という大きな矛盾を抱え込んだ指導者の従順な部下にはなれそうもないが、異なる立ち位置から彼をとらえ、本音を引き出すインタビュアーになるためにも作家になっておく必要があった。

 晩年、腹部大動脈瘤(りゅう)の手術後の病室にお邪魔して聞き取りした貴重な証言を本に仕上げたが、まとめ終えたときは安堵(あんど)感に包まれながらも妙に哀(かな)しい気分が去らなかった。

 ◆………◆

 農村の医師不足解消のために農村医科大学を創る。若月俊一にはこんな夢もあったらしいが、様々な事情で実現できなかった。

 いま、大学用地として確保された土地には宿泊施設を備えた全国農村保健研修センターが建っている。植えられて40年以上経(た)つ桜の幹は驚くほど太くなった。

 花の咲く時期、病院への通勤で遠回りして並木の下を行くと、戦前戦後をしたたかに、懸命に生きた先人の想(おも)いがたくましい根にこもっているようで、夢の跡を前にして浮かぶ評論家気取りの無責任なことばは風に乗る花びらとともに飛散してゆく。

 (なぎ・けいし 作家)

 

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治維法国賠同盟 謝罪と賠償 国会請願 100歳菱谷さん「9条守って」

2022512

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟は11日、同法による弾圧犠牲者への謝罪と国家賠償などを求めて国会請願しました。23都道府県から108人が参加。8万5653人分の署名を紹介議員を通じて国会へ提出しました。

 行動に先立つ全体集会で吉田万三副会長があいさつし、ロシアのウクライナ侵略に乗じて、9条改憲や日本の軍備拡張を狙う動きに危機感を示しました。日本共産党の宮本岳志、立憲民主党の近藤昭一の両衆院議員があいさつしました。

 戦時中、治安維持法違反で逮捕された菱谷良一さん(100)が3年ぶりに北海道旭川市から駆けつけ、自身が経験した生活図画事件や釈放後に描いた「赤い帽子の自画像」について語りました。

 最後に菱谷さんが「戦争のない平和で自由な社会が一日でも早く到来することが私の願い。みなさんにその意志を引き継いでほしい。憲法9条を守ってほしい」と声を詰まらせながら訴えると、参加者から大きな拍手が湧きました。

 参加者はグループに分かれ、衆・参の各党国会議員室を訪問。「紹介議員要請文」などを手渡しました。行動後の集会で参加者らは、訪問した議員の対応を報告しました。

 行動後の集会では、日本共産党の山添拓参院議員があいさつ。緊迫する国際情勢に軍事で対応しようとする政治の流れを批判し、「治安維持法犠牲者に向き合わず、反省しない政治がこういう流れに向かわせています。先輩たちの意志を受け継ぎ、憲法を生かした未来を切り開くためにともに頑張りましょう」と訴えました。

 

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青年劇場公演「眞理の勇氣―戸坂潤と唯物論研究会」 主演 清原達之さん 回り始めた戦争の歯車 止めることできるのか

2022510

 治安維持法によって投獄され、日本の敗戦直前に獄死した戸坂潤らの人間像を描く舞台が今月、上演されます。青年劇場公演「眞理の勇氣―戸坂潤と唯物論研究会」(作=古川健、演出=鵜山仁)です。戸坂を演じる入団28年目の清原達之さんに聞きました。(寺田忠生)

 「戸坂潤を率直に言って知りませんでした。著作の『日本イデオロギー論』や『科学方法論』などを手あたり次第読みましたが、ほとんど頭に入ってこなくて、別の『獄中通信』なども含めて何回か読んでいるうちに、おぼろげながら人物像が頭の中にわいてきたような感じです」

 物語は1945年8月9日、東京の戸坂宅で妻・イクが長野刑務所から獄死の電報を受け取る場面から始まります。

 そして13年前、1932年に時代はさかのぼります。「野蛮で反知性的なファシズムに対し、我々はあくまでも知性を武器にして、あらゆる分野で唯物論のものの見方を確立し、体系化していく」と仲間たちと「唯物論研究会」を結成。しかし、特高警察の監視、集会禁止、執筆禁止に追い込まれます。

 「権力に対して立ち上がったヒーローとしてではなく、戦争へと向かう全く先が見えない社会の流れの中での苦悩や、人間としての揺らぎもあった中で、ひとつの道を選び取ってゆく人間像を演じたい。いろんなデコボコもあって完全な人でもないんですね。単なる英雄的な評伝にはならないと思います」

ロシアと重なる

 戦前の「日本的ファシズム」の流れの中で、「ぎりぎりのところまで唯研の旗を守ろう。…闘いを続けよう」と決意する戸坂。こんなせりふがあります。

 〈あらゆる動員の中でも、思想の動員は最悪だ。一度、思想動員がなされたら、体制に好ましくないとされた思想は徹底的に排除されるだろう〉

 戸坂のせりふを語れば語るほど、げんに進行中のロシアによるウクライナへの侵略戦争、日本の現実と重ね合わせざるをえないと言います。

 「いま抑圧されているロシアの人々はどんな気持ちだろうと思うんです。勇気をもってデモで声をあげている人たち。プーチンを止めることはできるだろうか。一度歯車が回り始めたら止めることはできないのか。日本でいえば、この前、自民党の安全保障調査会が『敵基地攻撃能力』を『反撃能力』に言い換えましたよね。ゾクッとしました。歯車のスピードが速まっているんじゃないか。いま、止めなければいけない時じゃないかと。だからこそ、いまこの芝居をやる意味があると思うんです」

自分を磨き続け

 鵜山さんの演出作品に出演するのは、新国立劇場でのシェークスピア歴史劇シリーズ(2009年「ヘンリー六世」、12年「リチャード三世」、18年「ヘンリー五世」、20年「リチャード二世」)以来となります。

 「自分が思っていることを押し付けることなく導いてくれる演出家です。言語感覚がちょっと不思議なところもあって、役者はいっそう考えさせられます」

 劇団の舞台だけでなく、外部の作品にも意欲的に出演し、自分を磨き続けています。

 「つねに今の自分を疑っていたい。とどまっているのでなく、日々、改革していきたいですね」

 *「眞理の勇氣―戸坂潤と唯物論研究会」 13〜22日、東京・紀伊国屋サザンシアターTAKASHIMAYA。電話03(3352)7200

 

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映画「伊藤千代子」に反響 苫小牧市役所にポスターも

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 「命のあるものはみんなあらん限りに生きやうとしてゐる」―。希代の悪法、治安維持法で検挙され、拷問にも屈せず、たたかい続け、24歳で亡くなった日本共産党員、伊藤千代子の「獄中最後の手紙」が発見された北海道苫小牧市。いま、市役所の中央玄関や公共施設に映画「わが青春つきるとも―伊藤千代子の生涯」のポスターが張られています。

 苫小牧市では14、15両日に上映されます。実行委員会は「大きく成功させよう」と意欲を燃やしています。入谷寿一実行委員長は「千代子は平和を願ってたたかい続けました。不屈の精神を引き継いでいきましょう」と呼びかけました。

 20年前に千代子の手紙を発見した畠山忠弘氏(元日本共産党市議)は「いろいろなメディアで紹介され、つながりのなかった市民から『見に行く』と声が上がっています。頑張りましょう」と訴えます。

 「千代子の存在は知らなかったけど、侵略戦争に反対し、主権在民を掲げ、男女平等を貫いた思想は、ジェンダー平等社会の実現をめざす現代にも通じるのではと、視聴を呼びかけました」と話すのは、男女平等参画へ活動する「平等社会を推進するネットワーク苫小牧」の中村こずえ会長です。1983年に設立し、男女平等へ運動を広げてきました。

 「文学が好きで、その中に小林多喜二の存在があります。時代が重なる千代子の生き方に何を感じとるのか、みんなで感想を出し合います」と語ります。

 

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参院選の躍進で応えよう 北海道 野呂栄太郎碑前祭

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 戦前の日本共産党指導者で、すぐれた経済学者の野呂栄太郎の生誕122年、没後88年を記念する碑前祭が30日、出身地の北海道長沼町で開かれました。

 野呂は、侵略戦争に反対し、絶対主義的天皇制の専制支配から主権在民、自由と人権のためにたたかい、正義と理性を貫いた革命的生涯を33歳の若さで奪われました。

 強風の中、記念碑小公園で参加者は碑前に花を手向けました。

 上田久司党南空知地区委員長は、ウクライナ危機に乗じた自民党や維新の会の危険な主張を批判。「野呂の不屈のたたかいを受け継ぎ、頑張り抜きます」と表明しました。

 金倉昌俊党道副委員長は「野呂の理論は、現在の党綱領の精神に引き継がれています。戦争か平和か日本の進路が問われる参院選で反戦平和を貫く党の躍進で応えましょう」とあいさつしました。

 間嶋勉町教育長は「尊い犠牲と労苦の上に築かれた平和と豊かさを忘れてはなりません。子や孫の世代にも引き継いでいく町政にしたい」と述べました。

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟道本部の宮田汎会長が「野呂がめざした平和な戦争のない、すべての人が幸せな社会をつくるために頑張りたい」とあいさつ。立憲民主党の神谷裕衆院議員、岩見沢、夕張、美唄3市と長沼、栗山、南幌3町の首長メッセージが紹介されました。

 

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4月

『漫画 伊藤千代子の青春』 ワタナベ・コウさんが講演会 新潟 自由求めた先輩語り継ぐ

2022428

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟新潟県本部は24日、『漫画 伊藤千代子の青春』の著者ワタナベ・コウさんを招いた文化講演会を新潟市で開き、86人が参加しました。

 小日向昭一会長は、私たちは戦前に平和と民主主義のため命をかけてたたかった先輩たちを発掘し、次の世代に語り継ぐことを使命としていると述べ、伊藤千代子さんの24年の生き方から学びたいと話しました。

 ワタナベ氏は、「ワタナベ・コウの日本共産党発見!!」の連載中に伊藤千代子さんを知った経緯を説明。米騒動やスペイン風邪などで社会構造の欠陥が浮き彫りになり、労働組合や女性運動が進んだ時代を生き、代用教員時代には弁当もない、通学もできない貧しい子らの姿などをみて、貧困や社会の不平等をなくすため自ら活動する道を選んだと紹介。投獄、拷問を受けても自由で平等な社会をつくる決意を貫いた生き方は、長野県諏訪の顕彰運動などに引き継がれていると紹介しました。

 参加者の質問に答えてワタナベ氏は、「40歳まで選挙に行かなかったが、民主団体の活動などを知り、今は自分も一緒に活動に加わり、必ず社会は良くなると思っている」などと話しました。

 映画「わが青春つきるとも―伊藤千代子の生涯」が6月13日に新潟市クロスパルで上映予定です。

 

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映画「わが青春つきるとも−伊藤千代子の生涯」を見て 逆境にめげない勇気 行動力

2022426

山形暁子

 戦前の絶対主義的天皇制の下、治安維持法による残虐な弾圧に屈せずたたかった伊藤千代子の24年の生涯を感銘深く描いた桂壮三郎の初監督作である。

 冒頭に映し出されるのは、「一九二八年(昭和三年)三月十五日」という字幕とともに展開する、息をのむ場面だ。日本共産党の秘密印刷所を訪ねた23歳の伊藤千代子(井上百合子)が、張り込んでいた特高警察に逮捕される、その日の朝の出来事だ。

 後に「3・15事件」と呼ばれる大弾圧で検挙された1600人に及ぶ共産党員らの1人となった千代子の運命はいかなるものか。本作の後半で、壮絶な物語が展開される。

 冒頭シーンから一転した画面には、1935年、東京女子大学で講師を務めるアララギ歌人の土屋文明(金田明夫)が登場。長野県の諏訪高等女学校赴任時の優秀な教え子だった千代子の、逆境にめげない勇気と行動力をもって青春時代を駆け抜けた軌跡を、文明は学生たちに語る。

 彼女が念願の東京女子大学英語専攻部2年への編入学を果たすのは20歳の時。

 学内に結成された社会科学研究会の中心となる千代子。偉ぶらず、常に相手を思いやる優しさ。その源泉は、故郷の諏訪で代用教員として働き、児童の貧しさを見て社会の矛盾を痛感した経験や、紡績工場でストライキに立ち上がった女性工員たちを支援した、実践の中にあるのだろう。

 東大新人会の浅野晃(窪塚俊介)からの求婚を受け入れた千代子は、28年に実施された第1回男子普通選挙のたたかいに身を投じていく。大きな貢献をした彼女は共産党に入党する。

 印刷所から逃げ出す彼女を捉えた冒頭のシーンへ、不意に切り替わるのはそれから間もなくのことだ。

 警察署へ連行された千代子は、未決囚として市ケ谷刑務所に勾留。独房生活は、特高の転向攻撃のなかで拘禁精神病を発症した千代子が松沢病院に収容されるまで続いた。そして38日後の29年9月24日の死。

 独房で錯乱状態に陥った千代子が3週間近くも放置されなかったら、もっと生きていられただろう。理不尽な弾圧の根源にある「戦争する国」の復活を許してはいけないという思いが胸にわき起こる。

 (やまがた・あきこ 作家)

 

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映画 わが青春つきるとも 伊藤千代子の生涯 主演 井上百合子さん 戦前に声あげた人たち 今の社会に生きている

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 戦前、日本共産党員として反戦・平和や主権在民を訴え、天皇制政府の弾圧にも節を曲げず24歳で命を落とした伊藤千代子。その生き方に光を当てた映画「わが青春つきるとも 伊藤千代子の生涯」が完成し、各地で公開されます。千代子役を演じ、長編映画初主演となった俳優・井上百合子さんに、作品への思いを聞きました。(青柳克郎)

 「千代子さん役に決まったときは、うれしさと同時に、その生涯の壮絶さに『自分に演じられるのか』と不安を感じました。私と同年代の女性が、なぜ命がけで信念を貫いたのか。千代子さんに本気で向き合い、その思いをつかみ取って演技するよう努力しました」

 そう話す井上さんは、柔和ななかにも意志の強さを感じさせるまなざしが印象的です。「千代子さんに見られても恥ずかしくない演技になっていればいいのですが…」とはにかみます。

変革への希望を燃やし続ける姿

 本作は千代子と同じ長野県諏訪地方出身の藤田廣登さん(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟顧問)による伝記『時代の証言者 伊藤千代子』が原作。長年、映画プロデューサーを務めた桂壮三郎さんの初監督作品です。

 伊藤千代子は1905年に生まれ、養祖父母に育てられました。代用教員時代、児童の貧しさに触れて社会の矛盾を痛感。東京女子大で社会科学研究会に参加し、長野県の製糸工場のストライキ支援などを経験して28年に共産党に入党しました。治安維持法違反で逮捕され、拷問や過酷な獄中生活で体を壊し29年に生涯を閉じました。

 「千代子さんが生きた時代のことを知る必要があると思い、20世紀初めの日本の歴史を勉強し直しました。『治安維持法』という言葉は、学生時代には名前を覚えて答案に書くだけのものでしたが、千代子の立場で学ぶと、その恐ろしさがよくわかりました」

 作中には、官憲が共産党員を人間扱いしない、見るのもつらいシーンも。「拷問の場面など、撮影とわかっていても怖かった」。それでも権力に屈せず、社会変革への希望を燃やし続ける千代子を熱演しています。

 「獄中で、ほかの独房の仲間を励ますために『赤旗の歌』を歌うシーンがあります。苦しくても明るさや思いやりを失わない千代子さんの心を映し出す場面で、ある意味、作中で最も明るいシーンかもしれません。大きな声で歌って、撮影後は声が枯れていました」

戦争の恐ろしさ より強く感じる

 撮影を通じ、戦前に自由や平和を訴えた人たちの存在が、いまの社会に生きていると感じたと言います。「この作品から、自分のことだけを考えるのではなく、ほかの人の幸せを願い、声をあげることの大切さを教わった気がします」

 俳優を志したのは大学時代。美術大学で舞台美術を学ぶうち、俳優という職業に興味をもちました。卒業後、演劇集団円付属の演劇研究所の研究生に。いまは舞台に立ちながら、1本でも多くの映画や舞台を見て、演技力を磨いています。

 今後も「見る人が『かつて、こういう人がいたんだ』と発見・感動するような役を演じたい」という井上さん。千代子役で得たものは、今後の大きな力になりそうです。それだけに、いまも続く戦争の惨禍は人ごとと思えないようです。

 「子どもも犠牲になったと伝えるニュースなど、痛ましくて見るのもつらいです。以前の自分なら『遠い国で、こんなことが起きているんだ』で終わっていたかもしれませんが、いまは戦争の恐ろしさをより強く感じます。自分には何ができるのかと考える毎日です」

30日から東京・ポレポレ東中野、5月15日から埼玉・深谷シネマ、ほか順次全国で。問い合わせ・電話090(8502)9260

 いのうえ・ゆりこ 1995年、千葉県生まれ。2018年、円演劇研究所入所。19年、演劇集団円会員。舞台「青い鳥」「ピローマン」などに出演。5月に舞台「通りすがりのYouTuber」(シブゲキ)に出演予定

 

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きょうの潮流

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 たかがヤジというなかれです。3年前、札幌で安倍首相(当時)の街頭演説中にヤジを飛ばした市民2人が警察官に排除された事件。「言論弾圧だ」と2人は裁判に訴えました▼この問題に焦点を当てたのが北海道放送の「ヤジと民主主義」(2020年放送)です。担当したのは20代のディレクター。初めて手がけたドキュメンタリーで、「権力に忖度(そんたく)せず、おかしいことはおかしいという」と本紙のインタビューに応えています▼番組は当事者や友人らが撮った映像も駆使して迫ります。支持者が安倍氏に接近し握手するのは歓迎して、遠くから抗議の声を上げる市民は腕(うで)ずくで押しのける。権力の意に沿わないものを弾圧した戦前の治安維持法につながらないかとの問いかけは鋭い▼現在にも通じることです。警察がデモや集会を敵視、監視活動を緩めていません。ロシアでは、国営放送の編集者がテレビ放送中に「反戦」を訴えて警察に拘束され、侵略に抗議する市民が制圧されています▼今年3月、札幌地裁は北海道警の行為は「表現の自由の侵害」とする判決を出しました。「政治家の演説に対して直接抗議や疑問の声を届けることは、民主主義社会において重要な権利行使の局面」としています▼気になるのは地元北海道を除いて、この判決を多くのメディアがまともに取り上げていないことです。言論の自由にかかわる題材なのに、ジャーナリズムとしての見識が疑われます。ちなみに「ヤジと民主主義」はユーチューブで見ることができます。

 

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創立100年 若手記者がたどる〜そのとき日本共産党は〜女性解放に尽力した飯島喜美 ジェンダー平等へ志継ぐ

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 真ちゅうのコンパクトに刻まれた「闘争」「死」の文字。戦前の苦難の時代に声を上げ、激しい弾圧に抗して女性の願い、権利の前進に力を尽くした日本共産党の活動家、飯島喜美(きみ)が身につけていた遺品です。その活動は「ジェンダー平等社会をつくる」と明記した綱領をもつ現在の党に受け継がれています。24年という、短くも情熱にあふれた生き方はどんなものだったのでしょうか。現代を生きる年の近い女性として足跡を追いました。(橋里緒)

 出生届によると喜美は、1911年12月に千葉県の貧しいちょうちん職人の父と母の間(現旭市)に生まれ、小学校を卒業するとすぐに子守の“女中奉公”に出ました。自分の生い立ちを「貧乏な家に生まれた女は、まるで人間扱いされない。働く者ではなくて働く“物”みたい。労働運動に参加して、はじめて人間として認められ、人間らしく生きる喜びを感じたのよ」と語ったという喜美。活動の原点には、女性蔑視や社会の矛盾に苦しむ女性労働者としての怒りがありました。

生活すべて統制

 15歳からは、現在の東京都墨田区立花1丁目にあった東京モスリン紡織の亀戸工場で働き始めます。この地域は、戦前の日本の基幹産業であった紡績産業が集中していました。国はこれの外貨収入を元手に軍備拡張、海外侵略を強め、「富国強兵」を進めました。女性労働者の負担は強まるばかりでした。

 同工場は、紡績工場で働く女性の過酷な実態を記録したことで有名な『女工哀史』(細井和喜蔵・1925年)の舞台。「暑さ百度以上(摂氏四十度ほど)も昇る工場で立ちどうしに十二時間も働いて、夜かえってから氷水一ぱい飲みに出る自由もない」(同書)環境でした。

 寄宿舎では自由な外出は許されず、食べ物や読む本まで制限され、生活の全ての面で厳しい監視、統制を受けました。半数を超す女性がたびたび解雇され、賃金は低く、そのうちの約4割は“積立金”などの名目で会社へ強制貯金させられるという過酷なものでした。

学習を力に行動

 喜美は、社会・労働問題や科学的社会主義を学ぶ労働者たちの研究会に参加するようになり、自分が感じていた苦しみの根源や社会は変えられることを知ります。学習を力に喜美はめざましい行動力を見せ、16歳で500人の女性労働者の先頭に立ち、賃上げ要求のストライキを勝利に導きました。

 

“世の中は変えられる” 確信

ジェンダー平等 人類社会の発展に

 1929年、飯島喜美は17歳で日本共産党に入党。翌年には、モスクワで行われた労働組合の国際組織、プロフィンテルン第5回大会に初の日本人女性労働者の代表として参加しました。女性繊維労働者が農村から「生きた商品」のように集められていることや、賃金が男性の半分であることなどを報告しました。

 女性の政治参加が厳しく制限された時代に、喜美が生き生きと力を発揮できたのはなぜか。『女工哀史を超えた紡績女工 飯島喜美の不屈の青春』の著者、玉川寛治さん(88)=治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟千葉県本部理事=は次のように話します。「工場が密集する南葛(南葛飾郡=現在の葛飾、江戸川、足立区と江東・墨田区の一部)は労働運動の先進地域でした。紡績工場では一つの工場で数千人の女性が働き、女性も前に出て運動に参加しました。喜美は運動のなかで自分が世界の主人公で、日本共産党と一緒に活動すれば世の中を変えられると確信したのだと思います」

 日本共産党が女性の希望になりえたのはなぜか。1月、日本共産党のジェンダー平等政策「ジェンダー平等の日本へ いまこそ政治の転換を」の学習会で飯島喜美の活動にふれた、田村智子党副委員長(参院議員・政策委員会責任者)は「科学的社会主義に根差し、人間に真の自由をもたらすためには、社会の変革で人間による人間の抑圧をなくさなければいけないと日本共産党がつかんでいたからではないでしょうか」と語ります。

 「最も抑圧されている女性が自由を獲得しなければいけないと、政治を変える主人公として位置付けた共産党の立場が大きな存在意義をもったのではないでしょうか。女性も男性とともに変革の事業にかかわっていた。これはすごいことだと思います」

党中央婦人部で

 31年、モスクワから帰国した19歳の喜美は党中央婦人部で女性の組織の拡大に尽力します。各地域の労働組合や農民組織に次々と婦人部をつくり、女性運動の強化に貢献しました。

 32年に作成された赤旗(せっき)パンフレット『勤労婦人間の活動に於(お)ける吾(わが)党当面の方針』には、▽性、年令及び民族の差別なく同一労働に同一賃金!▽大量首切り、賃銀値下、労働強化、時間延長、工場閉鎖、操業短縮反対!▽ストライキとデモの自由!などがスローガンに掲げられており、喜美の奮闘が垣間見えます。

 喜美は「赤旗」に「婦人欄」の常設の必要性を強く主張。党創立10周年記念日の「赤旗」第84号(32年7月15日付)は、1ページを使って婦人欄を設けました。「戦争が拡(ひろ)がる 婦人は起(た)って反対せねばならぬ」と訴えています。

 33年、21歳のとき、治安維持法違反で特高警察に検挙されます。喜美は屈しませんでした。ひどい拷問を受けて体を壊し、肺結核になり、栃木刑務所に収監されました。当局はまともな手当てをせず、35年、24歳の誕生日の翌12月18日に獄中で息を引き取りました。

志もつ者として

 生き生きとした目をしていて“玉ちゃん”の愛称で慕われたという喜美。喜美が未来の展望を育んだ亀戸工場の跡地は、東武亀戸線の東あずま駅から4分ほどの場所にありました。今は都営やURの団地となっています。“性別によって差別されることのない社会を”と同じ志をもつ者として、喜美が確かにここにいたのだと感慨深い気持ちになりました。

 元気に遊ぶ子どもたち、楽しそうにおしゃべりをする人々。そこには、喜美が願った平和な時間が流れていました。ロシアによるウクライナ侵略で人々の尊厳、命、生活が奪われている現実を前に、暴力による支配を強制する戦争は絶対に許されず、ジェンダー平等社会とは相いれないものだと改めて感じました。

 性差別をなくす責任を自覚できる政治が必要だ―“男女の賃金格差の解消を”と喜美が声を上げた時代から、今もなお同じことを訴えなければいけない現状が政府の無関心、無責任さを浮き彫りにします。

 発展を遂げながら脈々と切り開かれ、到達した“ジェンダー平等に本気の政治へ転換を”という道に喜美のたたかいがあったのだと実感し、その生き方を受け継いでいきたいと思いました。どう受け継いでいくか―。

 田村さんは言います。

 「戦前の女性たちが、虐げられることを当たり前としなかったように、資本主義社会のなかで当たり前とされる、女性がより大きな犠牲を背負わされる現状に立ち向かい、ジェンダー平等が人類社会の発展につながる道だという確信をつかんでいくことが大切だと思います」

 社会の改革には困難がつきものですが、絶対にあきらめません。

飯島喜美の略歴

191112月 喜美、生まれる

1922年   日本共産党創立

1925年   治安維持法公布

      『女工哀史』出版

1927年   喜美、東京モスリン亀戸工場入社

1928年   同工場の賃上げ要求ストライキで女性労働者の中心に

      治安維持法に死刑罪追加

1929年   日本共産党に入党

1930年   プロフィンテルン第5回大会に参加

1931年   党中央婦人部に

      日本、中国東北部に侵略開始(「満州事変」)

1933年   喜美、特高警察に検挙される

193512月 栃木刑務所で獄死(24歳)

 

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緊急事態条項 憲法の原則脅かす 赤嶺氏が主張 衆院憲法審

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 衆院憲法審査会は31日、「緊急事態条項」などをテーマに自由討議を行いました。日本共産党の赤嶺政賢議員は「緊急事態条項は憲法の原則を脅かす」と主張しました。

 自民党や日本維新の会などは、内閣が立法措置を行う緊急政令や国会議員任期延長などを明記する「緊急事態条項」について、論点が整理されてきたとして、意見をまとめるべきだなどと主張しました。

 これに対して赤嶺氏は、緊急政令や財政処分は国会の立法権を奪い、内閣に巨大な権限を与えるもので「憲法の原則を脅かす、憲法停止条項だ」と指摘。明治憲法の緊急勅令も議会承認を必要としながら田中義一内閣が乱用し、国会で廃案になった治安維持法の重罰化改悪を勅令で制定したことにふれ、「緊急事態条項は常に乱用の危険と隣り合わせというのが歴史の教訓だ」と述べました。

 また、赤嶺氏は、国会議員任期の延長は、国民の参政権を侵害し、国民主権と民主主義をゆがめると強調。「国民の支持を失った政府が政権を維持することを可能にする本質的な危機がある」との憲法学者の意見を示し、「内閣の一存で任期延長できるなど、権力の統制を幾重にも緩め、時の政権の延命を認めるものであり、許されない」と批判しました。

 赤嶺氏は、歴史的に任期延長は戦時に挙国一致体制をつくるために用いられてきたと強調。1941年に、国民を選挙に集中させるのは不適当だという理由で衆議院任期が1年延長されたことをあげ、「そのもとで戦争翼賛体制がつくられ、太平洋戦争へと突き進んだ」と指摘しました。この反省から日本国憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、制定された。この歴史を重く受け止めるべきだ」と語りました。

3月

 

月曜インタビュー 俳優 安藤聖さん 自分の思想を守り抜く強さ 他者を知ることで心豊かに

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 こまつ座は4月、24年ぶりに「貧乏物語」を上演します。治安維持法違反で投獄された経済学者・河上肇の妻と娘ら6人の女性が登場する舞台です。自らも社会変革の運動に身を投じ、投獄され、心身に傷を負った次女のヨシを演じるのは、こまつ座初出演の安藤聖さん。「自分の思想を守り抜くということが、どういうことか、表現できるところまで表現したい」と話します。(寺田忠生)

 物語の舞台は1934年、東京・中野の河上の自宅です。河上は投獄されて留守で、獄中の夫を励まし続けている妻・ひで、特高警察が仕組んだ事件に関わって出獄したばかりの次女・ヨシ、河上家の元お手伝い、家に転がり込んできた女優らが登場します。彼女らの身の回りに起こる出来事や会話から、表現・言論・思想が統制され弾圧されていた時代を描出します。

 「登場人物のたくましさをまず感じました。そして愛情の深さ。家族愛、親子愛、友情、人情…。いろんな愛の形があります。稽古場には河上肇やヨシに関わる参考資料や本がたくさん置いてあって読みあさっています。演じるから、ということもありますが、一人の日本人として知っておきたい。演劇の持つ本来の力が発揮できる芝居になる気がします」

「人間取り戻す」演じるヒントに

 終盤、ヨシが育んできた「思想」を語る場面があります。〈世の中には貧乏という厄介なものがある、その厄介なものをなくすには、世の中の仕組みを変えなくてはならない〉。獄中の河上肇には特高警察から転向を迫る「ゆさぶり」がかけられようとしていることもわかり、ヨシは獄中での痛苦の体験を吐露します。

 「なにがあっても自分の思想を守り抜く強さ、そして他者の幸せを願う姿勢。いろんな意味で衝撃を受けました。拷問にあうなんて、想像の域をはるかに超えているけど、できる限りの想像をして、体現したい。演出の栗山(民也)さんが、この物語のテーマの一つは『ヨシが人間を取り戻す物語だ』という話を私にしてくださって、とても大きなヒントになっています」

 稽古初日とほぼ同時にロシアのウクライナへの侵略戦争が始まりました。栗山さんからは初日、「このお芝居をとおして、みんなで戦争について一緒に考えていこう」という話があったと言います。

 「感動したというか、胸にずしんと来ました。その言葉をいつも頭の上に置いて稽古をしています。観客のみなさんと一緒に、戦争について考える一つのきっかけになればと思います」

子育て真っ最中 政治に興味持ち

 十代のころからミュージカルやドラマ、映画で活躍する一方、いま4歳の双子の子育て真っ最中でもあります。「子どもが生まれてから日本の政治に興味を持つようになった」とも。

 「保育園のこと、ベビーシッターのこと、海外と比べても子育てのいろんなことが日本は遅れていますよね。女性の置かれた現状も含めて、もうちょっとこの国はなんとかならないかと常々思っています」

 「節目、節目で演劇に救われてきた人生」とも振り返ります。

 「昔はモデルとかアイドルっぽいこともやっていたし、大学を卒業してとりあえず就職もしました。でもやっぱり、自分のやりたいこととは違っていて、演劇に戻ってきました。妊娠・出産も、演劇があったから乗り越えられた気がします。演劇って、他者を知ること。いろんな価値観や生き方があって、世の中が成り立っているんだなって改めて感じています。他者を知ることで、自分にもこんな感情があったんだという発見があります。心が豊かになるんですよね」

 *「貧乏物語」 作=井上ひさし。4月5〜24日、東京・紀伊国屋サザンシアターTAKASHIMAYA。読者割引あり、要事前予約。電話03(3862)5941(こまつ座)

 あんどう・せい 1983年生まれ。東京都出身。ミュージカル「アニー」で舞台デビュー。映画「余命10年」「宮本から君へ」、Netflix「新聞記者」、大河ドラマ「麒麟がくる」などに出演

 

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『子どもたちが綴った戦争体験』シリーズ完結 著者・大東文化大学名誉教授 村山士郎さんに聞く

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加害の視点組み入れ

 昨年の8月に第1巻が出版されたシリーズ『子どもたちが綴(つづ)った戦争体験』が今年2月刊行の第5巻で完結しました。戦中、戦後にかけて、その時代を生きた子どもたちの作文や手記、写真によって構成された本書について、著者の村山士郎大東文化大学名誉教授に聞きました。(横田和治)

 「シナノヘイタイヲノコラズコロシテ、クビヲミヤゲニタクサンモッテキナサイ」(鹿児島県小学1年 ナガゾノマサル)

 「日本ノ人ハ シナヲ タクサンコロシタソウデスネ」(南満州安東朝日小学校1年 草場幹雄、1937年)

 「僕もなんだか軍人さんがうらやましくなった」(山形市立第八小学校5年 古澤正男、37年)

 本書で紹介されている、日中戦争当時に小学生が書いた作文の一節です。

 「子どもたちが『シナヘイヲキリコロセ』とか『鬼畜米英』を語るなど好戦的な気持ちになっていたことが読み取れます。戦時中、教育の現場は軍国主義を押し付けられ、教師が、兵隊にとって死は名誉だ、相手国は野蛮だといった教育をしていました。『学校は戦場だ』といったスローガンが掲げられ、『私たちは、支那の人たちが、自分のわるいことに気づいて、一日も早く日本と仲よしになることを祈ります』などといった標語がつくられました」

どこでなにを 問いかけ必要

 子どもたちの日記、詩、作文は子どもの目を通した戦争を、実感をもって伝えます。日本が行っている戦争は正義の戦争と思って書かれた詩や作文にギクリとさせられます。

 「軍国主義的な教育に抵抗する良心的な教師たちもいましたが、治安維持法のもとで弾圧されていきました」

 村山さんは、本書を出した理由に、戦争を語り継ぐ人が少なくなり、断片的にではなく、時代を含めて伝えることが難しくなっていることをあげます。

 「戦後、日本ではたくさんの戦争体験記録が書かれました。そうした運動が日本の平和憲法を守り発展させてきたと言えます。半面、戦争の犠牲があまりにも深刻だったため、日本が行った戦争が、侵略戦争だったという側面が軽視され『自分たちは悪いことはしていないのに大きな犠牲を払った』といった体験記が多くなっていることへの批判的な視点を組み入れました。植民地にされた側の子どもの声も意識的に盛り込みました」

 戦後の平和教育では小学校4年生の教科書の「一つの花」という教材が大切にされてきました。主人公ゆみ子のお父さんが「戦争に行かなければならない日が、やってきました」という場面があります。お父さんは帰ってきませんでした。

 「今回出した本を全巻読んでいただければ、授業で『お父さんはどこに行って、何をしたのでしょう』という問いが必要なことに気づいていただけると思います」

双方の友人に期待と連帯を

 現在、ロシアがウクライナを侵略し、多くの市民や子どもが犠牲になっています。

 「自国の主張を押し付けるため、他の国を武力で攻撃することは国際法的にも、人道的にも犯罪行為です。私は高校を卒業してモスクワの大学に留学していたこと、研究テーマの一つがソビエト・ロシアの教育だったこともあり、ロシアにもウクライナにも多くの友人がいます。ウクライナの友人たちも、ロシアの友人たちも戦争に反対して活動していることを期待し、連帯していきたいです」

 むらやま・しろう 1944年生まれ。大東文化大学名誉教授。著書に『子育ては世直し』『村山俊太郎 教育思想の形成と実践』ほか

 

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国領五一郎の墓前祭 京都 かじかわ知事候補も参加

2022317

 京都の日本共産党の創立者の一人で戦前の労働運動の指導者だった国領五一郎(こくりょう・ごいちろう)の墓前祭が15日、京都市左京区の顕岑院(けんしんいん)で行われました。国領は、治安維持法によって逮捕され、1943年に40歳で獄死しました。墓前祭は59回目。

 読経に続き、「国領五一郎を顕彰する京都の会」の若宮修会長があいさつ。参加者が追悼の言葉を述べました。

 24日告示(4月10日投開票)の京都府知事選に立候補表明した京都総評議長の、かじかわ憲氏(62)=無・新、日本共産党推薦=は「戦争か平和か、労働者が食えるか貧困にあえぐか、国領さんがたたかってきた歴史がもう一度目の前で問われている」とし、「コロナ前の新自由主義的政治を拒否し、人が大切にされる政治をめざし、知事選で突破口を開きたい」と表明しました。

 日本共産党京都府委員会の地坂拓晃書記長、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟京都府本部の佐藤和夫副会長が言葉を述べました。

 府知事選に合わせて行われる府議補選・京都市北区選挙区(定数1、4月1日告示・10日投開票)に立候補表明した日本共産党北地区委員長の福田ようすけ氏(46)=新=があいさつし、「国領さんが活動した西陣の地で活動する者として、志を引き継ぎがんばりたい」と力を込めました。

 

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水曜エッセー 韓国ドラマの旅 日本の役者が巡る 柳生啓介(3)詩人ユン・ドンジュ

202239

 「母さん わたしは星ひとつに美しい言葉をひとつずつ唱えてみます」(記録社、伊吹郷訳。以下同じ)。韓国の国民的詩人、尹東柱(ユン・ドンジュ)の詩「星をかぞえる夜」の一節です。彼は日本留学中に治安維持法で逮捕され、1945年2月に福岡刑務所で獄死しました。

 彼の唯一の詩集『空と風と星と詩』は、韓国のみならず世界中から愛され続けており、彼の生涯を描いた映画「空と風と星の詩人」は私の大好きな作品です。彼の詩は、役者として人としての私の行くべき道を常に示してくれています。

 ●………●

 2018年夏、私は彼を演じました。「“憲法によせて”というテーマでコンサートをするんです。柳生さん、私のピアノにあわせて尹東柱の詩を言ってくれませんか」。ピアニストの崔善愛(チェ・ソンエ)さんからの提案でした。詩を朗読するのではなく全て覚えて尹東柱自身の一人語りとして表現する舞台です。崔さんが奏でるクラシック曲をバックに、私は暗記した「たやすく書かれた詩」という詩を、ゆっくりと話し始めます。

 「私の名前はユン・ドンジュです。17歳の頃から詩を書いています…」。「平沼」姓を強要され日本に留学したこと、立教大学を経て同志社大学に転入、在学中にハングルで書いた詩が治安維持法違反となり福岡刑務所に投獄されたこと、祖国の解放を見ることなく27歳の若さで亡くなったこと、などを語りました。

 そして、「星をかぞえる夜」を韓国語で暗唱、最後は代表作「序詩」を韓国語と日本語で交互に暗唱しました。「死ぬ日まで天を仰ぎ 一点の恥辱なきことを そしてわたしに与えられた道を 歩みゆかねば」。あの瞬間、私の体の中で尹東柱が確かに息づいていたと今も信じています。

 ●………●

 京都には尹東柱の詩碑が三つ建立されています。私は2月16日の命日に合わせて旅に出かけました。同志社大学キャンパス内と北白川の下宿跡にある「序詩」が刻まれた碑は以前にも訪ねたことはあったのですが、宇治川上流に建立された「記憶と和解の碑」を訪れるのは初めてでした。

 宇治駅から宇治川沿いに歩き、新白虹橋のたもとにその碑はありました。近くには、学友たちと記念撮影をした天ケ瀬吊り橋があり、河原で飯ごう炊飯を楽しみ、皆に請われて「アリラン」を歌った尹東柱最後の青春の地です。碑には「新しい道」という詩が刻まれていました。

 「小川を渡って森へ 峠をこえて村へ わたしの道は いつも新しい道 きょうも あしたも」

 (やぎゅう・けいすけ 前進座俳優)

 

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反戦平和を貫く 京都・山宣墓前祭 たけやま氏決意

202236

 戦前の労農党代議士で、侵略戦争と治安維持法に反対して右翼に暗殺された山本宣治(山宣)の命日となる5日、出身地である京都府宇治市の善法墓地で、93回目の墓前祭が行われ、150人が参加しました。

 山宣は、反戦平和を貫くなか、1929年3月5日、神田の旅館で39歳の若さで刺殺されました。

 参加者一同で、ロシアのウクライナ侵略と核兵器による威嚇を糾弾し、ロシア軍の即時撤退を求める特別決議をあげ、駐日ロシア大使館に送付することを確認しました。

 薮田秀雄副実行委員長があいさつ。

 京都府知事選に立候補を表明している、かじかわ憲・京都総評議長、立憲民主党の安住淳衆院議員らがメッセージを寄せました。

 各団体の代表らが追悼の言葉を述べました。

 日本共産党の、たけやまさいこ(彩子)京都府委員会常任委員(参院京都選挙区候補)は「命がけで民主主義への弾圧と戦争の道に反対した山本宣治さんたちのたたかいを引き継ぎ、ロシアの侵略、憲法9条を壊す改憲派の企てをとめるため全力でがんばりたい」と表明しました。

 山本家を代表して、山宣の孫の山本勇治さん(京都民医連九条診療所所長)があいさつしました。

 

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朝の風 重く響く中村医師の言葉

202231

 2019年12月4日、アフガン東部で凶弾に倒れた中村哲医師と、澤地久枝さん(聞き手)の共著『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る―アフガンとの約束』を岩波現代文庫で読んだ。

 澤地さんは、中村医師の人間像をくまなく彫り上げようと専念し、中村医師は、ひたすらに現地農民の命と暮らしを救う仕事の重要さを語ってやまない。

 本書では、2001年10月と08年の11月の国会に、テロ対策の参考人として呼ばれた中村医師の発言を紹介しているが、圧巻だ。彼の発言への「否認、皮肉、揶揄(やゆ)のひびき」のある自公議員らからの質問に対し、アフガンの現状と問題点をつぶさに述べた上で、「自衛隊の派遣は有害無益、百害あって一利なし」と毅然(きぜん)と述べている。

 「アフガンには、アジア世界の抱える凡(すべ)ての矛盾と苦悩がある」という。そのアフガンから、長く日本を見、世界を見続けた中村医師の言葉は重く響く。

 中村医師の父は、治安維持法下の階級的、戦闘的な労働組合のリーダーで、投獄もされた「コミュニスト」であったという。また、火野葦平の妹である母は、宮本百合子の愛読者であったという。

 アフガンとの約束のように、その地で命をおとしたクリスチャン中村医師の活動の尊さを思った。

 

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ロシアの軍事行動停止、撤退要求

202231

非核政府の会

 非核の政府を求める会は25日、ロシアのウクライナ侵略を糾弾し、軍事行動の即時停止と撤退を求める常任世話人会の声明を発表しました。

 国連安保理常任理事国のロシアが公然と国際法を侵犯した責任は重大だと非難。核兵器で威嚇するプーチン大統領の行為によって、使用も威嚇も禁止する核兵器禁止条約の意義がますます明らかだとし、プーチン政権に核兵器使用政策の放棄と禁止条約への参加を要求しています。

5団体が声明

 ロシアがウクライナへ侵攻したことをうけ、各団体が「ロシアのウクライナへの侵攻に抗議し、撤退を求めます」などとした、抗議声明や談話を相次いで発表しています。新たに声明を出したのは次の団体です。

 日本宗教者平和協議会(24日)

 全国空襲被害者連絡協議会(26日)

 日本中国友好協会(27日)

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央本部(28日)

 日本消費者連盟(28日)

 

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2月

創立100年 若手記者がたどる〜そのとき日本共産党は〜 小林多喜二編 成長し行動する姿が身近に

2022224

 日本共産党は今年7月15日、党創立100周年を迎えます。ひと時として“順風満帆”な時はなかった、奮闘と開拓の歴史です。いま、党が参加する政権を現実の課題として追求する歴史的時期=「新しいステージ」を迎えるなか、党史の“現場”を「赤旗」の若手記者が訪ねます。(随時掲載)

 2月20日は小林多喜二が虐殺された日でした。作家として、日本共産党員として、不屈に自らの信条を貫いた多喜二にとって日本共産党とは何だったのか、多喜二ゆかりの場所を訪ねました。(横田和治)

●東京・中野

刑務所の独房で

 2021年6月、東京都中野区で旧中野刑務所の正門が区の文化財として認定されました。1915年に建造された刑務所の正門に建築的技術価値があると認められての認定です。ここはかつて豊多摩刑務所と呼ばれ、戦前・戦中、多くの思想犯、政治犯を収容した歴史があります。多喜二も収監されました。30年、治安維持法により起訴・投獄され5カ月過ごしました。多喜二は『蟹工船』で有名なプロレタリア作家で、激しい弾圧にも負けず軍国主義をひた走る日本に対して共産主義者として、民衆のたたかいを描きつづけました。

 現在、刑務所正門は保守のための移築作業が進んでいます。柵が設置され、外側から見える当時の外観を残した正門はひっそりとたたずみ、26年までに行われる作業を待っています。

 当時の刑務所の生活を多喜二・百合子研究会の大田努さん(80)はこう話します。

 「刑務所ではコンクリート張りの独房に入れられ、冬の間は寒かったそうです。それでも毎日読書をし、多くの人と手紙のやりとりをしていました」。多喜二はこのときの様子を「独房」という作品に残しています。

●群馬・伊勢崎

弾圧をはね返す

 31年、刑務所から保釈されますが、その後も節を曲げず、その年の10月、日本共産党に入党しました。同じ年、多喜二は、警察に検束されたのを、民衆の力で弾圧をはね返し、釈放されるという経験もしています。

 9月6日に起きた「多喜二奪還事件」です。群馬県伊勢崎市の「共栄館」で行われる予定だった文芸講演会を前に、別邸で待機していた弁士の多喜二ら3人と、数人の劇団員、多くの地元幹部を警察が強制的に逮捕、伊勢崎署へと連行しました。

 それを知った市民が警察署へ押し寄せ、一時警察署を占拠し、協議の末、釈放させました。伊勢崎多喜二祭実行委員会事務局長、長谷田直之さん(65)はこう言います。

 「この事件は治安維持法下では異例中の異例で、群馬県警の公式的な記録からも抹消されています。当時の警察からしてみれば汚点といえるでしょう。しかし現場にいた記者たちがその様子を報道しており、記録として残っています。この事件を契機に、共産党を含む群馬での運動が活発化しました」

 現在の共栄館跡は駐車場になっており、その姿を見ることはできません。多喜二が連行された伊勢崎署も同じく駐車場になっていました。しかし、民衆を描き続けた多喜二が、民衆によって守られる―多喜二らの志は、草の根で深く、粘り強く広がっていたのです。

 

民衆描き民衆から愛され

●東京・築地

拷問をうけ虐殺

 32年春には弾圧が強まり、非合法下での活動を展開。指導的論文や反戦的作品の執筆を行い、この時期に「党生活者」を完成させます。しかし全体の20%が抹消され、多喜二の没後に仮題「転換時代」として発表されました。

 33年2月20日、スパイによっておびき出され、東京・赤坂で再び逮捕されます。現在も警察署として使用されている東京・築地署(中央区築地1丁目)へと連行され、特別高等警察(特高)によって3時間にも及ぶ拷問が行われたのです。

 現在の築地署は築地駅から徒歩5分ほど。外観は普通の警察署となんら変わりません。歴史のことを調べていなければ通りすぎてしまいそうな場所ですが、89年前、2階の拷問部屋で多喜二が拷問され、虐殺された歴史の事実は、忘れてはいけません。

 多喜二の死からわずか12年後、命がけで反対した侵略戦争は多大な犠牲を払って終わり、日本共産党が党創立以来掲げた反戦平和、主権在民、男女普通選挙、思想、学問、集会などの自由は1946年に日本国憲法として定まりました。

 大田さんはこう言います。

 「多喜二にとって共産党は先駆性と不屈さを体現していました。何度も弾圧を受けながら、それでも真正面から立ち向かう。多喜二自身も、時代の最も先進的な思想を身に付け、広い視野から人間変革の課題に挑戦しています。彼の文学は、苦難の時代に家族を抱え、悩み、成長する自分自身を登場人物に重ね、リアリティーを追求しています。その結果、多喜二は殺されてしまいましたが、今でも多喜二の本は広く愛読され、人々の共感を呼んでいます」

●取材をして

 多喜二から何を学ぶのか。取材前は、命を懸けて活動していた共産党員のイメージ像に、自分がそこまでできるだろうかという敷居の高さも感じていました。しかし、大田さんの話にあったように、多喜二自身も悩みながら成長し、行動し、自分の限界に挑戦していた。それを知った時、遠く、高く感じられていた多喜二という存在と、戦前にたたかい抜いていた共産党像が今までよりも身近に感じられました。常に民衆の目線から作品を描き続け、不屈の精神で立ちあがり続けた多喜二だからこそ、今もなお民衆に愛されているのだと、はじめてその背景に思いがめぐりました。

 自分と向き合い、考え、行動することの大切さを多喜二が私に語り掛けてくれたかのようでした。

 

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奈良 ぶれない共産党に期待 大門議員 作家・寮美千子さん訪問

2022213

 日本共産党の大門みきし参院議員・比例候補は10日、「心やさしい正義の味方を、ぜひ再び国政に!」と大門氏紹介のリーフに応援メッセージを寄せた作家の寮美千子さんを奈良市の事務所に訪ねました。

 寮さんは千葉県立千葉高校卒業で、日本共産党の志位和夫委員長が1年上の先輩。「志位さんのように、ぶれない共産党には躍進してほしい」と語りました。

 寮さんは、2006年に奈良県に移住。平城宮跡広場の埋め立てや京奈和自動車地下道計画、奈良公園のホテル建設などに反対し、文化・史跡を守る運動に参加してきました。

 大門氏は、奈良公園のホテル建設問題でも党派を超えて運動が広がった一方で、アベノミクス(安倍晋三政権の経済政策)で文化庁は「稼ぐ文化」に変えようとしていると強調しました。

 寮さんは、奈良少年刑務所(旧奈良監獄)の受刑者に詩を書いてもらう授業を廃庁までの10年間務めたのち、明治建築のその貴重な建物を残そうと運動したことを語りました。17年に国の重要文化財に指定されましたが、現在高級ホテルに改造されようとしており、治安維持法下での弾圧や戦後の少年教育の歴史を語る資料館として残せるよう要望しました。

 

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増本一彦さんが死去 日本共産党元衆院議員

2022213

 日本共産党の元衆院議員・弁護士の増本一彦(ますもと・かずひこ)さんが6日、神奈川県鎌倉市内の病院で死去しました。85歳。家族葬を行いました。喪主は妻・敏子さん。

 1936年5月9日神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。60年日本共産党に入党。72年、神奈川3区から衆院議員に当選(1)。消費税をなくす会発起人。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟会長、神奈川革新懇代表世話人、党県後援会代表委員を歴任しました。

 

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小林多喜二・西田信春 虐殺から89年 若い情熱を社会変革へ 小樽商科大学名誉教授 荻野富士夫さんに聞く

202222

 プロレタリア作家の小林多喜二と日本共産党九州地方再建責任者の西田信春が特高警察に虐殺された1933年2月から89年になります。多喜二は29歳、西田は30歳でした。22年に創立された日本共産党などの弾圧に使われた治安維持法のもとで若い命を燃やした彼らの生き方を、小樽商科大学名誉教授の荻野富士夫さん(日本近現代史)に聞きました。(伊藤紀夫)

運動積み重ねて花が咲くと考え

 ―全権限を天皇が握る専制政治のもと、多喜二はどんな活動をしていたのでしょうか。

 多喜二は28年1月の日記に「俺達の時代が来た」「我等何を為すべきかではなしに、如何(いか)になすべきかの時代だ」と書き、2月には第1回普通選挙(25歳以上の男性に選挙権)の運動に参加します。この時、共産党は、11人の党員を労働農民党から立候補させ、君主制の廃止、民主共和制の樹立、18歳以上の男女の普通選挙権、言論・出版・集会・結社の自由、8時間労働制、大土地所有の没収、帝国主義戦争反対、植民地の独立を国民に訴えました。

 この選挙活動を題材に、多喜二は小説「東倶知安(くっちゃん)行」を書きます。「俺達の運動は皆今始められたばかりさ。何代がかりの運動だなア」。倶知安に向かう列車のなかで、小樽労働運動の指導者「鈴本」に語らせた言葉は、社会変革は一挙に実現するものではなく、何代がかりの粘り強い運動の積み重ねのうえに花開くものだという考え方だと思います。

 この年の3月15日、天皇制政府は普通選挙で国民のなかに姿を現した共産党を大弾圧し、1600人に及ぶ党員と党支持者を検挙し、野蛮な拷問を加えました。多喜二はこの弾圧の悪逆非道さを小説「一九二八年三月十五日」で告発します。

 ―今でいえば当然の主張を処罰にしたのが治安維持法でしたね。

 25年に制定された治安維持法は、28年に緊急勅令(天皇の命令)で改悪され、天皇絶対の政治体制・「国体」の変革を目的にした結社(政党)を組織した者、指導者に対し、最高刑を死刑に引き上げ、さまざまな口実で国民を弾圧する「目的遂行罪」を設けて対象を広げました。その運用は共産党から自由主義や民主主義、さらには異端とみなした宗教にも及びました。

 天皇制の転覆をはかる悪逆不逞(ふてい)の輩(やから)というレッテルを張って弾圧を広げ、侵略戦争を拡大していったのです。

虚偽と怯懦の道 断じてできない

 ―弾圧のなか、西田はどんな思いで活動していたのでしょうか。

 西田は29年1月、合法的に発行可能な機関紙である無産者新聞(25年創刊)の編集局員になり、2月に共産党に入党しますが、4月に「四・一六」事件で検挙されます。

 父宛ての獄中書簡で「私が一度社会科学の研究に身を委ね、社会の現実を見、自分の将来の道を深思した時に、私はどうしても『マルクス主義の道』を捨てて、虚偽と怯懦(きょうだ)への道に足をふみ入れることは断じて出来ない自分を発見したのでした。そしてそれに必然的に伴ってくる凡(あら)ゆる苦悩をも勇敢に堪へて行かうと決心もしたのでした」と書きました。

 31年11月に保釈後、32年8月に共産党の九州地方オルグとして福岡に派遣され、九州組織の再建に尽力しますが、33年2月に検挙され、福岡警察暑で虐殺されました。

 憲法改悪の動きなど「戦前の再来」が懸念される今、社会変革への情熱と強い意志を持った青年の生き方に学ばなければならない重みを痛感しています。

 おぎの・ふじお 1953年埼玉県生まれ。著書は『特高警察』『よみがえる戦時体制 治安体制の歴史と現代』『治安体制の現代史と小林多喜二』ほか

 

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1月

戦争する国許さない 治維法国賠同盟が新春宣伝

2022115

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央本部は12日、東京都文京区で新春の街頭宣伝を行いました。

 「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…」と憲法前文の一節を書き込んだ横断幕を用意し、改憲反対の署名を呼びかけました。

 寒風のなか、岸田政権の9条改憲、敵基地攻撃など戦争をする国への策動を許さないとハンドマイクで訴えると通行人が立ち止まり、「改憲は反対」と署名していきました。

 

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「困窮者に寄り添う活動」東京 30歳民青同盟員迎える

2022112

 東京で9日、30歳の民青同盟員の男性が入党しました。男性は同日行われた、田村智子副委員長とワタナベコウさんとの講演企画「伊藤千代子と日本共産党を語る」(東京都委員会主催)に参加。講演会直後に、地区副委員長と都議、民青同盟都委員会常任委員らが、「あなたをぜひ、党に迎えたい」と入党を訴えると、「治安維持法はひどい。もっと勉強したい」と抱負を語り、入党を申し込みました。

 男性は20歳のころ、父の書斎にあった『共産党宣言』と『空想から科学へ』を読み、日本共産党に興味を持って支持するようになりました。

 貧困で困窮する人に寄り添う活動をしたいと、昨年末に「入党したい」と居住地の地区委員会に連絡してきました。地区副委員長と議員が男性に会い、まず、民青への加盟をすすめ、男性は同盟員になりました。

 男性は、大学の教員が行っている『資本論』の学習会にオンラインで参加しています。改定綱領も独習をすすめました。

 

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2022参院選 田村副委員長とワタナベ・コウ氏対談

伊藤千代子 力の源は

2022110

田村氏「ジェンダー平等の原点」 ワタナベ氏「歴史の前進を確信」

 日本共産党の田村智子副委員長・参院議員は9日、漫画家で『漫画 伊藤千代子の青春』の著者のワタナベ・コウ氏と対談企画「伊藤千代子と日本共産党を語る」を党本部で行いました。共産党都委員会が主催したもの。

 伊藤千代子は1905年に生まれ、28年に共産党に入党。共産党への大弾圧の3・15事件で投獄され、24歳で病死しました。

 ワタナベ氏は「千代子の物語を描く上で、時代の流れを描きたいと思った。共産党が弾圧されたことを知っている人はいるが、千代子たちは国際的な民主主義、平和主義の流れに沿った活動をしていたことを分かるように描いた。治安維持法は共産党と同時に、人間の素直な思いを弾圧したもので、現代にも通じる」と語りました。

 田村氏は「当時、海外派兵が続き、厭戦(えんせん)や軍縮を求める声が起きていた。普通選挙権を求める民衆の大きな運動のもとで日本共産党が創立された。運動が社会変革となることを恐れて治安維持法で弾圧した。共産党だけでなく自由と民主主義を国民から奪う弾圧だった」と強調しました。

 ワタナベ氏は、ジェンダー平等の視点を意識したと説明。「大げさにしなかったが女性ならではの拷問があったことは描いた。読者から『女性としてつらいシーンだが、描いてくれてよかった』と感想をもらった」と話しました。

 田村氏は「千代子は、貧困や女工の苦しみがなぜ生まれるのか知りたいと思い、共産党に接近していった。女性にいっさいの権利がなかった時代に声を上げ、たたかうことで自由を獲得しようとした。ジェンダー平等の原点だと思う」と話しました。

 会場からの「千代子がたたかい続けられたのはなぜか」との質問に、ワタナベ氏は「連帯して学習し、歴史の前進を確信していたからだと思う」と回答しました。田村氏は「参院選で歴史を転換する大きな流れをつくりたい。時代を切り開くのが共産党という生き方だ」と入党を呼びかけました。

 

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