2007年レッドパージ犠牲者の活動】

 

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*         2007(このページのトップへ)

*         個人通信「ざ・むうん」発行35年300号になる柳川月さん

*         名誉回復へ運動前進/レッドパージ反対全国連絡センター、総会と記念講演開く

*         レッドパージ反対全国連絡センターあす東京都内で総会

*         名誉回復と国家賠償必ず/長崎でレッド・パージの集い

*         常任活動家の墓合葬追悼式/追悼式での遺族あいさつ

*         党塩釜地区の歴史学ぶ/値打ちを語り抜こう/宮城

*         犠牲者救済を急げ/レッドパージ反対センター/共産党に要請

*         レッドパージ/国は謝罪、名誉回復を/電産九州国賠同盟、熊本で集い

*         農村医療の原点 若月俊一の遺言/若月俊一著/農民の健康守り50数年の実践哲学

*         東京電産八二六会が集い/レッドパージ名誉回復へ決意新たに

*         元日本電波ニュース社長柳澤恭雄さん死去

*         日本の反共主義解明/レッドパージの公開研究会/労働総研など

*         戦後62年夏に語る/中原東四郎さん(80)名古屋市北区/空襲体験が、私の活動の原点

*         追悼/田中正坊さんの川柳の心/岩佐ダン吉

*         憲法9条手放さない/200人参加、福岡でフェスティバル

*         福岡県国賠同盟、第2陣の申立て

*         対談/日本共産党参院比例候補谷川智行さん/千葉・船橋市在住、牧師安藤肇さん/憲法守る思い語る

*         「戦争をしない国 日本」片桐直樹監督に聞く/憲法はたたかって守ってきたのですドキュメンタリー映画

*         レッドパージ犠牲者励ます/名誉回復求めつどい/兵庫

*         大阪で沓脱タケ子(元参院議員)を知らない人は少ない。

*         日本共産党の故山原健二郎元衆院議員の活動を顕彰する

【本文】2007

個人通信「ざ・むうん」発行35年300号になる柳川月さん

 穏やかな表情の中に気品と凛とした強さを感じさせます。夫と死別後、「仕事だけではむなしい。知人に送ることで楽しみを広げたい」と、名前を模した「ざ・むうん」を一九七二年に創刊。病気で中断していた時期を除き、毎月発行。十月で三百号の峰に。年々読者が全国に広がり、三百五十人になりました。
 手書きのB5判四nで、身辺の出来事や、感じたこと、自作の短歌、読者の手紙、作品集を紹介。特に短歌が圧巻です。四季の移ろいや心情の機微、政治への怒りや平和への思いを詠んでいます。
 高血圧症に怒りは禁物ああされど姥捨山の現実につい
 五〇年、旧青海町の青海電化に勤務中、労働者の権利を勝ち取るために活動し、「破壊主義者」とされました。上司から「今、活動をやめれば首はつながる」と言われるが拒否。翌日、レッドパージで四十人の仲間と解雇されました。そうした体験から、人権を守り、それを奪う戦争に反対を貫いてきました。生活苦から水道料を払えず、水道を止められても「人が体験しないことを体験できたと思い、ものごとをマイナスに考えない」というおおらかさも。
 「戦争反対」言いて命を奪われし君らを胸に九条守らむ
 ふだんは、短歌や文芸同人の会、明治時代の人権弁護士「平出修の会」などで活動し、母親大会や九条の会講演会にも、積極的に参加。周りからは「物静かだが、芯の強さがある人。感動を味わい深い、多彩なことばで短歌に詠み、卓越した表現力」と評判です。「百歳まで書き続け、平和を発信していきたい」
 短歌同人日本海所属。新潟県上越市
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2007年11月22日,「赤旗」)

名誉回復へ運動前進/レッドパージ反対全国連絡センター、総会と記念講演開く

 レッドパージ反対全国連絡センターの第四回総会と記念講演が十五日、東京都渋谷区の日本共産党本部多目的ホールで行われ、全国から七十七人が参加しました。
 同センターはレッドパージ犠牲者の名誉回復と国家賠償を求めて全国で活動を強めています。
 総会では金子圭之事務局長が昨年六月の第三回総会以来の活動報告と運動方針を提案。犠牲者の名誉回復と正当な国家賠償を求める請願署名が一万二千八百九人分(二〇〇五年度の四倍)に達し、弁護士会への人権救済申し立てで八都県六十四人が参加していると活動の前進を報告しました。
 総会では、レッドパージ犠牲者の名誉回復と正当な国家賠償を内容とする特別法の制定を求める請願行動や、日本弁護士連合会や各県弁護士会への人権救済申し立て活動の強化、裁判や国連要請の効果的な運動の追求などの「〇八年度運動方針案」を討議し、確認しました。
 参加者は「ニュースを系統的に発行し、交流しながら活動を強めている」「犠牲者以外の人にも参加してもらい運動を大きくしようと努力している」と発言しました。
 総会では梅崎芳高(九州)、大橋豊(現、兵庫)、藤村三郎(岩手)、宮原文雄(群馬)=現以外は新=の四代表委員と金子圭之事務局長を選出しました。日本共産党の吉川春子幹部会委員が来賓あいさつをしました。
 総会後、弁護士の坂本修さんが「レッドパージ反対・人権回復のために―憲法をめぐるせめぎ合い≠フ渦中から考える」と題して記念講演をしました。

レッドパージ
 第二次世界大戦後、アメリカ占領軍の指令に基づいて日本国政府と財界が一九四九年から五〇年にかけて、「破壊分子だ」などと偽って、日本共産党員と支持者推定四万人を職場から追放した弾圧事件です。
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2007年11月16日,「赤旗」)

レッドパージ反対全国連絡センターあす東京都内で総会

 レッドパージ反対全国連絡センターの第四回総会が十五日、東京都内で開かれます。総会は、レッドパージ犠牲者の名誉回復と正当な国家賠償を求める請願署名が一万二千八百九人分(二〇〇五年度の四倍)に達し、東京、神奈川をはじめとした組織拡大など運動の前進のもとで開かれます。総会では、レッドパージ犠牲者の名誉回復と正当な国家賠償を内容とする特別法の制定を求める請願を運動の柱とする〇八年度運動方針案について討議することにしています。
 レッドパージは一九四九年から五〇年にかけて連合国軍総司令部の指令で政府と財界が「破壊分子だ」などといつわって、全国で日本共産党員と支持者推定四万人を職場から追放した弾圧事件です。
 総会の会場は、東京都渋谷区の日本共産党本部多目的ホールで、午後一時開会。総会後、弁護士・坂本修さんの記念講演があります。
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2007年11月14日,「赤旗」)
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名誉回復と国家賠償必ず/長崎でレッド・パージの集い

 「名誉回復と国家賠償を」を掲げて、レッド・パージ五十七―五十八周年記念長崎のつどいが十日、長崎市内で開かれました。レッド・パージ犠牲者と家族など三十人が参加しました。
 レ・パ反対長崎の会の藤原重郎会長の開会あいさつのあと、事務局の吉田次雄氏が二年間の経過報告をしました。
 塩塚節夫弁護士が記念講演。レッド・パージの社会的背景と経過、レッド・パージ裁判の法的論点を述べ、「講和条約後は、主権が回復して以降、連合国最高司令官の指令は効力を失ったとの認識が広まった。司法の判断とは別に、社会全体がレッドパージが人権侵害であったとの認識のもとに、人権侵害をしたまま、これを容認した国と企業は被害を回復するための一定の措置を講ずべき条理上の義務を負っていると解することができる」とレ・パ反対運動を激励しました。
 特別報告として、労働運動研究家の横崎重雄氏が「戦後の労働運動の性格を正確に認識することの大切さ、ポツダム宣言の立場に立てば、レッド・パージにすることはできない」と自らの労働運動の体験を話しました。
 最後に藤原会長が国会請願署名や「会」への賛同、協力を訴えました。
 県労連の川崎一宏議長、日本共産党の堀江ひとみ県議が激励のあいさつをしました。
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2007年11月13日,「赤旗」)
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常任活動家の墓合葬追悼式/追悼式での遺族あいさつ

 13日に東京都八王子市の上川霊園でおこなわれた「日本共産党常任活動家の墓」第22回合葬追悼式で、遺族の故正森成二さん(元衆院議員)の妻、博子さん、故林邦英さん(元栃木県佐野市議)の妻、美恵子さん、故山根徹雄さん(元山口県北部地区委員長)の妻、秀子さんがそれぞれあいさつしました。要旨を紹介します。

心から拍手送りたい/故正森成二さんの妻 博子さん
 1927年生まれの夫は、気合の入った軍国少年だったそうで、戦争が終わって価値観を失ったとき、「戦争反対」を闘い抜いた共産党と党員が存在したことを知り、20歳で党に入りました。
 7年間、結核で闘病生活を送り、30歳で弁護士になりました。労働事件や共産党弾圧事件の弁護団の一員として働き、弁護士になって10年目、衆院大阪1区(当時)の候補者にと要請を受けて立候補し、8期24年連続当選させていただきました。
 「党と党員、後援会のみなさんの並々ならぬ奮闘のおかげ」といつも感謝し、精いっぱい国会活動、地元での活動に専念してきました。選挙法が変わり、衆院中国ブロックの比例代表候補として、強靭(きょうじん)な精神力で過密強行スケジュールをこなしていました。
 私は50年間、夫とともに過ごし、「国民こそ主人公」の世の中をつくりたいと願う多くの仲間のみなさんに出会うことができ、たくさんのことを教えられ、学びました。私は、そんな夫に心から拍手を送りたいと思っています。

結婚式での出馬表明/故林邦英さんの妻 美恵子さん
 夫は1960年の安保闘争のなかで入党しました。5期20年の佐野市議など、党員として世界の平和と働く者、市民の生活向上のため、生命あるかぎりがんばってきました。
 夫との出会いは、原水禁世界大会成功のため、地域への署名、カンパ活動でした。私たちの結婚式は、市議選出馬表明でもありました。街頭や路地裏を100b間隔で街頭演説する夫の姿を今も思い出します。
 がん発症から5年たち、栃木県原水協の代表委員として、組織確立に力を注ぎ、2005年のNPT(核不拡散条約)再検討会議では代表団の一員としてニューヨークをパレードしてきました。
 この8月、がん発症から描きはじめた絵手紙集を出版しました。何にたいしても全力で真摯(しんし)に生きてきたお父さんの姿が脳裏に焼き付いています。
 がんばってがんばって、がんばりぬいたお父さんゆっくり休んでください。やり残した社会変革の事業の道、子どもたちと力をあわせて歩んでいきます。

家庭で愚痴こぼさず/故山根徹雄さんの妻 秀子さん
 夫は、入党以来58年余、社会進歩と平和を守るために生きてきました。本当にはがねのような人でした。レッドパージで職場を追われながらも信念を曲げず、党専従として活動してきました。
 朝鮮戦争が始まり、広島の平和集会が禁止されるなか、青年たちと平和集会を組織し、連合軍に囲まれながら演説し、核兵器禁止を訴えました。
 私と知り合い、結婚後も大変でした。「赤旗」早朝配達をいち早く始め、日課となりました。
 66年に毛沢東盲従分子が発生し、この反党活動とたたかうため、夫は北部地区委員会へ派遣されました。全国の支援を受け、立派に党を守り抜きました。
 家庭内では絶対に党や党員に対する愚痴をいったり、いらいらしたりすることはしませんでした。信念と誇りをもち、社会発展と平和のために尽くした人生でした。私たちも夫の遺志を継ぎ、微力を尽くそうと思います。
 「不屈の生涯」。この言葉を夫に、そして党員として平和と社会の発展に尽くされ生涯を終えたすべての方にささげたいと思います。
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2007年10月16日,「赤旗」)
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党塩釜地区の歴史学ぶ/値打ちを語り抜こう/宮城

 宮城県の日本共産党塩釜・多賀城・宮城・黒川地区委員会と後援会は六日、塩釜市で「党創立85周年記念地区集会」を開き、六十人が参加しました。
 「党を語る大運動を大きく広げていく上でも、地区の党史を身につけ、先人に学ぼう」と佐藤芳男後援会代表委員が、この二年間の研究、資料発掘の成果をもとに「塩釜地区党史」について記念講演をしました。
 党の前史として、一八八○年代の自由民権運動、一九〇八年の多賀城村の小作争議(東京社会新聞第十一号)などについて説明しました。
 ついで戦前・戦後の困難な時期の党活動が坂猶興氏(当時、坂病院院長)らを中心に弾圧に屈せずに取り組まれたことや、レッドパージに抗しての党建設の苦難の歴史とともに党と青年共産同盟の活発な活動などについて報告しました。党の前史から「50年問題」を乗り越えた第八回党大会までの地区党史についての講演は、参加者に大きな感銘を与えました。
 集会に続いて開かれた「永年党員懇談会」には二十五人が参加しました。
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2007年10月10日,「赤旗」)
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犠牲者救済を急げ/レッドパージ反対センター/共産党に要請

 レッドパージ犠牲者でつくっているレッドパージ反対全国連絡センターの金子圭之事務局長と地方組織代表は六日、日本共産党本部を訪れ、反対運動への援助を要請しました。
 水戸正男国民運動委員会副責任者と吉村文則国民運動委員が応対しました。
 レッドパージは一九四九年から五〇年にかけて連合国軍総司令部の指令で政府と財界が「破壊分子だ」などとして、全国で日本共産党員と支持者推定四万人を職場から追放した弾圧事件です。
 金子氏らは、犠牲者の名誉回復と国家賠償を求める国会請願の実施、弁護士会への人権救済の申し立てなど同センターの活動を紹介。「犠牲者の高齢化の進行などで問題解決は急を要する」とのべ、国会での請願の処理など党の活動強化を要請しました。
 水戸氏は、「レッドパージは憲法、労働法、国際的な人権規約のどこにてらしても、不法、無法ぶりははっきりしている」と語り、これまでの困難ななかでのたたかいに敬意を表するとして、「要請について検討し、対応していきたい」とのべました。
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2007年09月07日,「赤旗」)
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レッドパージ/国は謝罪、名誉回復を/電産九州国賠同盟、熊本で集い (戻る/TOP

 「二〇〇七年電産九州八・二六の集い」が八月二十六日、熊本県南阿蘇村の阿蘇四季の森で開かれ、福岡、長崎、熊本から二十二人が参加、日本共産党元参議院議員の吉岡吉典氏も特別参加しました。
 「集い」は一九五〇年八月二十六日の朝、電気産業に働く日本共産党の党員、支持者に対して、全国いっせいに「赤色破壊分子」の汚名の罵声(ばせい)をあびせて追放したいわゆるレッドパージを受けた人々が、電産九州レッドパージ国賠同盟をつくり毎年開いているものです。同盟では「国はレッドパージの誤りを認め犠牲者への謝罪と名誉回復を」との国会請願署名運動をすすめています。
 吉岡氏は、レッドパージが、アメリカと日本の支配層が共産党撲滅と労働組合の反共的再編を目的としたものと指摘し、「憲法や労働基準法に反する違法な弾圧。アメリカでは赤狩り≠違憲として名誉回復がなされている。日本で今なおこの問題が放置されていることは許されない」と語りました。
 「名誉回復」「憲法改悪阻止、平和と人権に輝く憲法の二十一世紀」をスローガンに運動を展開していくことを確認しました。
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2007年09月02日,「赤旗」)

農村医療の原点 若月俊一の遺言/若月俊一著/農民の健康守り50数年の実践哲学 (戻る/TOP

 敗戦直後の荒廃し疲弊した片田舎の創立直後の病院で、しかも県農協連の院長排斥の策謀(一週間で南佐久郡下の半数の署名で中止)があるなど保守色とレッドパージの嵐の中で、農民の健康を守り、佐久病院を発展させてきた若月さんの五十数年に及ぶ第一線の実践の哲学を本書は語る。全三章にある「解題」が理解を助ける。
 まだ医者の往診など農民には夢の時代、十数`も離れた、地勢的には群馬県側にある広川原・馬坂地域へ牛車に乗って診療に出かけ、またしばしば山村部落に無料診療と移動劇団で予防活動に力を入れた―。以来一貫した農村の第一線での活動の根底にあったのが「センチメンタル・ヒューマニズムがすべての基本」と若月さんは言い切る。
 若月さんは、「病気を診て病人を診ない」と繰り返して批判しているが、これは他の分野にも見られるのではなかろうか。医療問題では政治を糾弾するが看護師の厳しい勤務の話が出て来ない。農業の危機は語っても農民の無声慟哭は語られない。人間不在への批判である。
 若月さんは理論だけでは共感は得られないという。「私の読書論」で「詩とか小説とか戯曲などというものは、すぐれて『人間的』である。血あり、涙あり、愛あり、憎しみあり…それが伝記であれ、フィクションであれ、私などの心を大きく揺さぶる」「…そこには、科学の因果性を越えた、広くそして複雑な、いわば庶民の世界がある」から、「もっと文学を読まなくちゃだめ」という。
 運動論でも庶民の目線で考える。理論家は民衆を低く見る。が、民衆はそんなに理論的ではない。現実はそんなに理論的ではない。現実に生きのびるために、ずるくて、インチキもある。そのうえ騙されやすい。それにもかかわらず民衆は最後の力をもつ=\農政と農業の現状を考えると、この言葉は今日でも新鮮である。医療以外の人にも読んでほしいと思う。
 評者 小林 節夫 農民運動全国連合会顧問
 わかつき・としかず 一九一〇―二〇〇六年。長野県佐久病院で農村医療を実践。
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2007年09月02日「赤旗」)

東京電産八二六会が集い/レッドパージ名誉回復へ決意新たに (戻る/TOP

 「東京電産八二六会」の集いが二十六日、都内で開かれました。五十七年前のこの日は、当時の関東配電と日本発送電(現東電)に働き、電気産業労働組合(電産)で活動していた日本共産党員と支持者が「企業破壊者」といういわれのない理由で職場から権力の力で追われた日です。以来、レッドパージされた怒りや悔しさを忘れられないと、毎年集いを開いてきました。
 東京、神奈川、栃木、埼玉、千葉、長野から被解雇者と家族、運動を支援している電力東京連絡会の人たち三十一人が参加。参加者は当時の状況を語り合い、今日に至っても何ら解決に向けて救済措置をとらない政府への怒りと名誉回復への決意を新たにしました。
 全国連絡センターの金子圭之事務局長は「国会請願署名運動や人権救済申し立てなどレッドパージ反対運動は大きく前進している。電産のみなさんのたたかいが、電力職場の『職場に憲法を』のたたかいの発展に生かされている。屈辱の日を必ず栄光の日にするためにともに頑張ろう」とあいさつしました。
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2007年08月29日,「赤旗」)

元日本電波ニュース社長柳澤恭雄さん死去 (戻る/TOP

 日本電波ニュース社元社長の柳澤恭雄(やなぎさわ・やすお)さんが二十三日、老衰のため東京都台東区の病院で死去しました。九十八歳。葬儀は近親者のみで行います。後日お別れの会を開く予定。問い合わせ先は日本電波ニュース社(電話03―5765―6810)。喪主は長男岡本直(おかもと・ただし)氏。
 一九三八年東大を卒業して日本放送協会(NHK)に。四五年の終戦時は、国内局報道部副部長として日本の敗戦を告げる天皇のラジオ放送にかかわり、ピストルを突き付けて阻止しようとした反乱将校の要求をはねつけ、放送を流しました。
 五○年にレッドパージの弾圧を受けてNHKを去り、六○年に日本電波ニュース社を設立、七九年まで社長。その後は会長、顧問を務めました。
 米国のベトナム侵略戦争時にはハノイ支局を開設し、同戦争の取材に携わりました。著書に『検閲放送』『戦後放送私見』などがあります。
 「しんぶん赤旗」には「有事立法反対」(二〇〇二年)、「報道の真実を守れ」(〇五年)などのテーマでインタビューに登場しています。  
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2007年08月25日,「赤旗」)

日本の反共主義解明/レッドパージの公開研究会/労働総研など (戻る/TOP

 「レッドパージと戦後の労働運動―反共主義とのたたかいの歴史的・今日課題と意義を考える」をテーマにした公開研究会がこのほど、東京都内で開かれました。
 労働運動総合研究所、全労連会館、産別会議記念労働運動図書資料室の共催。全労連、JMIU(全日本金属情報機器労組)、自治労連、電力連絡会、東京レッドパージ連絡センターなどから五十人が参加しました。
 吉岡吉典氏(日本共産党元参院議員)がレッドパージについて講演。アメリカと日本の支配層が共産党の壊滅と労働組合の反共的再編を目的したものであり、アメリカ型の反共主義と日本の治安維持法的発想が結びついたものであることを、資料を使って解明。憲法や労働基準法にも違反する違法弾圧であることが弱点だと強調しました。
 レッドパージ犠牲者の運動は、違法な弾圧にけりをつけ、現代の職場における思想差別の根源を断ち切るたたかいであり、労働運動としての視点を強調しました。
 金子圭之レッド・パージ反対全国連絡センター事務局長などが、国会請願や弁護士会への人権侵害救済申し立てなどたたかいを報告し、発展のために労働運動の役割を強調しました。
 参加した労組幹部の一人は「アメリカでは『赤狩り』を違憲とする最高裁判決が出され、犠牲者の名誉が回復されたことを知って、日本の遅れを痛感する。公開研究会はよい刺激になりました」と語っていました。
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2007年08月24日,「赤旗」)

戦後62年夏に語る/中原東四郎さん(80)名古屋市北区/空襲体験が、私の活動の原点 (戻る/TOP

 「熱田大空襲の体験が、私の戦後の活動の原点」という中原東四郎さん(80)=名古屋市北区在住=。朝鮮戦争勃発(ぼっぱつ)直後から労働組合運動に参加し、名古屋水道労組や自治労(現在の自治労連)愛知県本部委員長など、労働者の生活向上・権利擁護とともに、反戦・平和に力を注いできました。戦争、平和への思いを語ってもらいました。
 私は第二次世界大戦の末期、名古屋市熱田区にあった軍用機メーカー・愛知航空機株式会社の技術者でした。アメリカ軍のB29の空襲やグラマン戦闘機による機銃掃射を何度か受け、「もう命はない」と思うこともしばしばでした。
 一九四五年二月に十八歳で徴兵検査を受け、甲種合格となりましたが、航空機技術者なので入営が猶予されました。しかし、いつ召集されても良いように、「奉公袋」に遺書と遺髪、つめを入れて準備していました。
 四五年六月九日、愛知時計電機船方工場・愛知航空機工場周辺は、アメリカ軍による空襲(熱田大空襲)で、工場内と周辺で約二千人の命が奪われる大惨事となりました。判断ミスで空襲警報が解除され、従業員が安堵(あんど)して工場に戻って間もなくの空襲で、多くの人たちが逃げ遅れました。たった十分間の爆撃で、二百七十八dの爆弾が投下されました。

曲がった鉄骨
 私はこの日の朝、新型機の強度テストのために新工場への出張を命ぜられて、空襲を逃れました。まさに奇跡でした。
 空襲警報解除で作業を開始した直後、誰かが「船方工場がやられているぞ」と叫びました。すぐに駆けつけて目にしたのは、血まみれになった女子動員学徒が泣きながら外に出て行く姿、ひん曲がった工場の鉄骨、ボロかと思いよく見ると爆風で飛ばされ引っかかっている人間の肉片、あぜんと廃墟の中をウロウロしている人たちでした。
 たくさんの死体のなかから、私の上司を探し出しました。多くの人が本社ビルの地下に逃げましたが、爆弾が貫通して全滅。動員学徒も多数死亡しました。終戦の玉音放送を聞いたとき、負けて悔しいではなく、ホッとしたのが実感でした。

銃とらぬ闘争
 私は、四五年十二月に名古屋市水道局の臨時職員になりました。間もなく労働組合が結成され、国民の生活向上や平和・民主主義などで大きな役割を果たしましたが、アメリカ占領軍によるレッドパージで壊滅状態になりました。
 五〇年に朝鮮戦争が勃発し、在日アメリカ軍が朝鮮に出兵しました。アメリカは、日本の防衛が手薄になったことを口実に、日本に再軍備を要求してきました。
 この時期に私は、労働組合の青年婦人部再建に参加しました。二十五歳のときです。まもなく部長になり、全国の労働者・国民と連帯して「再軍備反対」「青年は再び銃はとらない」の大闘争を展開しました。
 私は、その数年前に徴兵検査に合格していたので、再軍備とは、ただちに戦争に行くことを意味しました。学校の軍事教練の経験で、銃の使い方も知っていました。当時の若者にとって再び銃はとらない≠ヘ、命がけのスローガンだったのです。レッドパージ直後の活動で怖さもありましたが、戦争の悲惨さを知っているからこそ、立ち上がらざるを得ませんでした。労働組合が強くないと、平和を守れないことも実感していました。
 結局アメリカは、憲法を変えて再軍備させることはあきらめ、日本政府に警察予備隊を結成させたのです。これが後の自衛隊です。
 〇五年十月に発表された自民党・新憲法草案では、「自衛軍の保持」「軍事裁判所の設置」まで文言化したものの、国民の反撃を恐れて徴兵制にはふれていません。憲法第九条を守る国民のたたかいのおかげです。
 息子の二十歳のときも、孫の二十歳のときも、徴兵検査とは無縁でした。さらに、ひ孫の二十歳のときにも徴兵制とは無縁の日本にしたいものです。憲法第九条は世界の宝。みんなの力を結集して守り抜きましょう。
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2007年08月14日,「赤旗」)

追悼/田中正坊さんの川柳の心/岩佐ダン吉 (戻る/TOP

 万年青の実 日中友好二千 年
 「再び侵略の銃は取らない、壮大な川柳やなあ」、二十年前のある大会で田中正坊さんが発表したこの一句が出会いでした。
 鶴彬に代わり一筆もの申す
 正坊さんとは、二十九歳で獄中死した反戦川柳作家・鶴彬をはじめ「先覚川柳人の反戦平和と社会風刺の精神を現代に生かし」と会則に定めたあかつき川柳会を六年前に共に創立し固い仲間となりました。正坊さんは「イラク派兵血涙流す鶴彬」も詠んでいます。
 赤旗川柳の選評を九年間つとめた田中正坊さん(本名・正三)が五月八日八十四歳で亡くなりました。大阪船場生まれの正坊さんは子どものころは「しょうぼん」と呼ばれていました。
 一合半規則正しく飲んでいる
 二坪の書庫あり僕はリッチマン
 鯉口を切ったが僕に妥協癖
 正坊さんはお酒と話が好きでよく一緒しましたが適量になると議論の沸騰中でも「僕はこれで失礼します」と几帳面(きちょうめん)。二句目、大変な読書家の正坊さんが蔵書の山の中でご満悦の様。三句目の「鯉口」には「正論もよいが傷つく人もある」とさすが、の一句もあります。
 軍拡論 君が鉄砲かつぐの か
 ガイドライン老兵はまだ生 きている
 軍隊生活も経験した正坊さんは「君が鉄砲かつぐのか」と厳しいのです。「タマ除けを産めよ殖やせよ勲章やらう」(鶴彬)―正坊さんは九条の礎のひとりともなった鶴彬がかつて収監されていた大阪衛戍(えいじゅ)監獄跡地(大阪城公園内)に彼の顕彰碑を建立したいと、この五月、澤地久枝さんらと全国に賛同の呼びかけを発表しました。
 ペンだこが支えた妻と二人の子
 清貧もよし良心に生きた過去
 大阪毎日新聞をレッドパージで追われ教育誌の編集長を。揺るがぬ世界観を辛口とユーモアで包んだ正坊節川柳。最後の一句は「ありがとうみなありがとうありがとう」。合掌
 (いわさ だんきち・あかつき川柳会幹事長)
 田中正坊=八日逝去。八十四歳。
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2007年05月22日,「赤旗」)

憲法9条手放さない/200人参加、福岡でフェスティバル (戻る/TOP

 「憲法九条・未来を開く 六本松・憲法フェスティバル」が四月二十八日、福岡市中央区の九州大学六本松キャンパスで開かれました。子どもからおとなまで二百人が参加しました。主催は、九条の会・中央区南、六本松九条の会、九大九条の会などからなる実行委員会。
 似顔絵画家・川柳作家の森一作さんが講演。森さんは、戦時下、九大から学徒出陣、戦後レッドパージも体験しました。
 森さんは、特攻隊で亡くなった三人の学友のことを語り、遺稿集のなかで、二十五歳で亡くなった一人の学生は、特攻前日、母親にあてた手紙で、今度のことは、二十五年間の教育が実を結んだことで、いまさらどうにもならない。妹が幸せになるように≠ニ書いていたと紹介。学徒出陣するとき、当時の学長が「国立大学の学生は国民の税金で勉強させてもらっている。国が危ないときは、ペンを捨てて銃をとれと言った」ことを批判しました。
 「国民のためには、(学生は)戦争ではなく平和のためにつくすべきだった。学友たちの尊い犠牲があって、平和憲法を手にすることができた」と訴え、数少なくなった戦争体験の語り部として、何としても憲法九条を手放してはいけないと訴え続けていきたいと語りました。
 フェスティバルでは、子どもたちの「ぞうれっしゃのうた」の合唱やマジックショー、映画「9―NINE 憲法九条は訴える」の上映が行われました。
 最後に、九条の会・城南の村上陽三さんが、運動を強めて、「改憲手続き法案」を廃案にし、世界の宝、未来を切り開く憲法を守りぬこうと語りました。
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2007年05月01日,「赤旗」)

福岡県国賠同盟、第2陣の申立て

 福岡県レッド・パージ国家賠償同盟はこのほど、福岡県弁護士会人権擁護委員会に、「レッド・パージ犠牲者の名誉回復と正当な国家賠償を求める申し立て」を行いました。昨年末に第一陣として五人が申し立てたのに続くもので、今回申し立てたのは、古賀義明(旧電産)、高橋久吉(旧電産)、江副英郎(旧電産)、石井俊郎(旧全逓)の四氏です。
 四氏は、それぞれのレッドパージの状況についての上申書を提出しました。@日本政府がレッドパージの非を認め、解雇無効を宣言し、名誉を回復し、国家賠償を行うことAアメリカ政府がレッドパージに関するマッカーサー司令官の声明・命令・書簡のすべての無効を宣言し、今後このような反民主主義的・反人権的な政策・行為を行わないことを世界に確約すること―を求めています。
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2007年04月22日,「赤旗」)
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対談/日本共産党参院比例候補谷川智行さん/千葉・船橋市在住、牧師安藤肇さん/憲法守る思い語る
谷川・戦争加担の事実を見つめる
安藤・どんな思想弾圧もいけない
 日本共産党の谷川智行参院比例候補は、日本基督教団牧師で千葉県船橋市在住の安藤肇さんと対談しました。戦前の軍国主義時代に思想・信仰が弾圧された歴史から何をくみとるのか、憲法を守ることがなぜ大切なのか語り合いました。
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 谷川 よろしくお願いします。安藤さんは、戦前の日本のキリスト者たちが侵略戦争に加担した事実を勇気をもって見つめることが大切だと説かれていますね。
 安藤 敗戦のとき、私は神学校の二年生でした。それまで絶対と思っていたものが全部崩れていく中でいくつかの思想が出てきました。マルキシズムも尊敬の念をもたれました。十八年間獄中で、侵略戦争に抵抗していた共産党員がいたことは、衝撃的でした。もう一つはキリスト教。日本を平和と民主主義の国にするためには、アメリカンデモクラシーの根本にあるキリスト教の精神が必要ではないかと。もう一つは実存哲学。西田哲学の全集が出るとき、岩波書店の前で夜中から並んで発売を待った時代です。
 谷川 当時の若者は、これからどう生きるか、哲学にそのこたえを求めたんですね。
 安藤 神学校を卒業した一九五〇年に朝鮮戦争が始まり、レッドパージが行われました。思想の自由を擁護しなければいけないと考え、弾圧される側を理解しようと「赤旗」を購読しました。
 谷川 それはどういうことからですか。
 安藤 日本のキリスト者は、昭和の初めには、人権の自由と平等、民族間の機会均等、不戦条約の促進とか世界平和ということをまだ言っていました。しかし十年たつと、「日支事変」賛成に変わりました。

戦後も「宮城遥拝」
 この十年に何があったか。共産主義にたいする弾圧です。私たちキリスト者は、共産主義とは思想を異にするけれども、いかなる思想弾圧もいけないと言うべきではなかったか。しかし、そういう態度をとらなかった。軍部には表向き従うが内心は違うと思っていたのに、戦争が終わって、もう自由だと言われてもなかなか実感できなくなっていた。礼拝の前に皇居の方向を拝む宮城遥拝(きゅうじょうようはい)をしていた教会がいつそれをやめたかを調べてみると、九月ぐらいでやめているところが多いですね。十月でやめた教会もあります。そのことにもあらわれています。

9条守る一致点で
 谷川 軍国主義によってだんだん心の奥まで侵されていったのですね。戦争に加担した事実に言及することは、大変な勇気がいったのではないですか。
 安藤 そうですね、敗戦間もないころ牧師の集まりで教会が戦争中に「米英撃滅」を掲げた責任についてふれると白眼視されました。昨今の改憲の動きには、危機感をもちます。戦争も最初のうちはみんな無関心でした。
 谷川 安倍首相は繰り返し九条をかえるといっていますが、そんな勝手なことをさせるわけにはいきません。九条を守ろうの一致点でより多くの方と協力していきたいと思っています。
 安藤 命が一番大切ですから、医療の現場から政治の場に立っていただくのは大切なことです。
 谷川 はい、千葉県でも、山武地域の医療が大変な危機を迎えています。地域医療を守ることをはじめ深刻な医療問題にとりくんでいきたいと思っています。
 安藤 国の政策として、国民が安心して生活できる医療体制が必要ですね。ご活躍いただきたいと思います。
 谷川智行(たにがわ・ともゆき) 1971年長崎県生まれ。
香川医科大学医学部(現香川大学医学部)卒。医師。代々木病院(東京都)、東葛病院(千葉県)、協同ふじさきクリニック(神奈川県)などで勤務。現在、野田南部診療所(千葉県)、東京・大田区内の保育園で診療中。著書に『研修医』(共著、新日本出版社)
 安藤肇(あんどう・はじめ) 1926年東京都生まれ。50年日本基督教神学専門学校卒。石動(いするぎ)教会(富山県)、長崎平和記念教会、保田教会(千葉県)の牧師を歴任。66年船橋市に高根台伝道所(現新津田沼教会)を開設、2002年まで開拓伝道に従事。著書に『深き淵より―キリスト教の戦争経験―』(キリスト新聞社)、『摂理としての敗戦』(同)、『あるキリスト者の戦争体験』(日本YMCA同盟出版部)
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2007年03月11日,「赤旗」)
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「戦争をしない国 日本」片桐直樹監督に聞く/憲法はたたかって守ってきたのです

 ドキュメンタリー映画「戦争をしない国 日本」完成記念上映会(十七日)の舞台あいさつのため、福岡市を訪れた片桐直樹監督に、作品に込めた願い、憲法九条への思いを聞きました。
 憲法がどういう形で生まれ、なぜ守られてきたか。たたかって守られてきたんだと伝えたいんです。
 映画人九条の会で、九条改憲阻止にどう貢献するのかを議論したときに、やっぱり映画人なんだから映画をつくるのが本筋だとなったんです。
 なぜ改憲なのか、六十年の歴史を検証してみようと、「シリーズ憲法と共に歩む」の第一弾映画として、憲法九条をテーマにしました。
 ではどんな映画をつくるか。インタビュー形式のすぐれた作品もあるが、われわれは映像で語るべきじゃないか、じゃあ六十年間の映像があるか。
 あるんです。一九五三年に東宝争議やレッドパージにあった映画人たちが独立プロを立ち上げた。記録映画・ニュース映画の全盛期でもありました。砂川闘争など米軍基地拡張・建設に反対する運動をとらえた記録映画がたくさん生み出されました。
 そうした約百本くらいある記録映画・映像がもとになっています。
 どれも客観的な事実の記録ですが、国民の側から撮った映像です。
 それらを編集し積み上げることで、一つの真実、憲法と日本の六十年が浮かび上がってくる映画にしました。
 いまマスメディアは事実の断片は伝えても、なにが真実かわからないようにさせています。
 私はいま七十三歳。空襲を受け、疎開した「戦争体験」がある。それを考えたら、よもや国民が憲法改正に賛成することはないと思っていました。ところが昨年、読売新聞の世論調査を見て、いささかがくぜんとしました。63%が改正してもいいと答えたのです。
 なぜそうなんだろう。二つのことを考えました。一つは、われわれの平和運動を伝えてこなかったんじゃないか。もう一つは、日本史未履修問題に見られるように、学校教育の場で近・現代史を教わっていないんじゃないか、ということです。
 われわれが歴史を伝えてこなかった反省の上に次の思いが基本にあるんです。
 この映画を見たお年寄りの人には、かつてこんなすばらしい時代、元気だった時代があったと思い出して、もう一度がんばってくださいと。
 若い人にはこういう歴史で日本の平和が保たれてきた、成長してきたと知っていただき、「戦争する国」にしないためにいっしょにがんばりましょう、と。
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 「戦争をしない国 日本」の上映相談・問い合わせは、九州共同映画社092(741)7112まで。
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2007年03月03日,「赤旗」)
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レッドパージ犠牲者励ます/名誉回復求めつどい/兵庫

レッドパージ犠牲者の名誉回復を求める兵庫レッドパージ反対懇談会は四日、運動の先頭に立っている川崎義啓さん(90)と大橋豊さん(77)を励ますつどいを神戸市中央区の中央労働センターで開き、参加した犠牲者や支援の人たち七十人が運動のいっそうの前進を誓い合いました。
 旭硝子でレッドパージされた川崎さんは、「犠牲者のなかで自殺した人がたくさんいる。残された家族はどのように生活されたのか、いつも頭から離れなかった。一生かけてたたかいます。今後十年はおつきあい願います」とあいさつ。
 神戸中央電信局でレッドパージに遭った大橋さんは、「破壊分子としてラジオで放送され、妹まで就職を取り消された。私たちが首を切られたことを報道した当時の新聞記事も見つかった。裁判も含めて、これからもがんばっていきます」と語り、それぞれ大きな拍手を受けました。
 同じく神戸中央電信局を追われた小西武雄さんや、川崎製鉄でパージされた安原清次郎さんらも発言し、たたかう決意をのべました。
 日本共産党の岡正信兵庫県委員長、藤木洋子元衆院議員、筒井基二県議らも連帯あいさつしました。
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2007年02月06日,「赤旗」)
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タケ子/稲光宏子著/笑顔の医師が残した団結の力、温かさ

 本書は各方面で反響をよんでいる。大阪で沓脱タケ子(元参院議員)を知らない人は少ない。その名前を聞いただけで、何時も笑顔を絶やさないバイタリティーあふれる彼女を思い出す。あのバイタリティーはどのようにして創りだされたのか、この本は教えてくれる。一九五〇年前後、占領下で全国に吹き荒れたレッドパージ攻撃をまともに受けて闘った「千石荘病院」で、若いタケ子医師が患者・看護婦と共に頑張った記録は、臨場感にあふれ、読者を勇気づける。しかし闘いを終結せざるを得ない状況の中での挫折、それを泣きながら乗り越えていくタケ子の苦悩は、読者の心を釘付けにする感動的な部分である。
 第二次大戦末期中学校以上のすべての学校は一年短縮され、戦場や工場へ動員された。タケ子も繰り上げ卒業、「千石荘病院」に医師として勤務するが、当時若い女医に対する差別は強かった。この中で彼女が医療の腕を磨き、医師として成長するための助言と指導を受けた先輩林喜彦医師の役割は大きい。彼女が常に患者の立場に立った医療を心がけたのに対して、病院経営者が収益先行で彼女が邪魔な存在となり攻撃対象とするのは、今日でも同様である。レッドパージ闘争の時に彼女のアイデアで造られた「仲間の店」を拠点として、地域の仲間と共に活動を続けた医師タケ子の生きざまは、私どもに団結の力とあたたかさを教えてくれる。この時代を知らない若い読者は、この本からタケ子一人の話ではなくアメリカ占領下で闘われた労働運動の実態を知ることが出来るであろう。当時タケ子と共にがんばった仲間は高齢になり、五十年以上前の史実を正確に記す困難は大変な作業であったと推測する。丹念に資料にあたり、聞き取り調査にも時間をかけてまとめられた著者の努力に敬意を表したい。年代を超えて感動を与えてくれる『タケ子』が広く読まれることを願っている。
 柴田悦子・大阪市立大学名誉教授
 いなみつ ひろこ 一九四四年生まれ。日本共産党大阪府委員会学術・文化委員会責任者。
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2007年01月28日,「赤旗」)
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高知・山原資料室/サポーターと友の会茶話会

日本共産党の故山原健二郎元衆院議員の活動を顕彰する高知市の山原資料室で、同室の受け付けなどを務めるサポーターと、同資料室友の会役員の合同の新春茶話会が十五日開かれ、二十数人が参加しました。
 昨年六月オープン後、サポーターは四十八人、友の会会員は三百十二人に増えました。訪れた人は大阪府や神奈川県川崎市などの県外者を含め、約五百人にのぼっています。茶話会では、コーヒーやケーキ、ミカンなどを口にしながらなごやかに歓談しました。「もっと手伝うことがあれば協力したい」などの発言もありました。
 教育基本法改悪に反対する運動が県内でも高まったことに関連し、勤評闘争、レッドパージに反対した山原氏の活動をしのぶ人もいて、多彩な活動で資料室の活動を強化することなどが話し合われました。
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2007年01月19日,「赤旗」)
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