2008年レッドパージ犠牲者の活動】

 

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*         2008

 

*             レッド・パージ/国家賠償求め山口市で署名

*             レッド・パージ反対同盟が総会/神奈川

*             レッド・パージと現代/日弁連の「名誉回復」勧告に寄せて/吉岡吉典/下

*             レッド・パージと現代/日弁連の「名誉回復」勧告に寄せて/吉岡吉典/上

*             レッド・パージ犠牲者救済に道/日弁連勧告の意義/下/問題解決は今日的課題

*             レッド・パージ犠牲者救済に道/日弁連勧告の意義/中/「救済」の必要性示した

*             主張/レッド・パージ「勧告」/国と企業は救済の責任果たせ

*             レッド・パージ犠牲者救済に道/日弁連勧告の意義/上/人権侵害の本質明らか

*             週間日誌/08年10月26日〜11月1日

*             レッド・パージ救済を/申立人ら党国会議員団に要請

*             レッド・パージ被害者救済で日弁連が出した勧告書

*             レッド・パージで免職・解雇/日弁連が救済勧告

*             レッド・パージ/名誉回復へ決意新た/電産の犠牲者らが集い

*             電産九州レ・パ8・26のつどい/福岡

*             レッド・パージ犠牲者救済申し立て運動進む/全国連絡センター事務局長金子圭之さんリポート

*             人権弾圧レッド・パージ/仙台弁護士会に申立書/解雇無効求め反対同盟

*             レッドパージ問題語る/札幌で集い

*             『北のわらべ唄』エッセー集が好評/秋田

*             レッドパージ盛岡で懇談会

*             08水曜随想/参院議員仁比聡平/レッド・パージを問う

*             犠牲者へ国家賠償を/レッドパージセンター代表参院議長に要請

*             レッド・パージ/名誉回復一日も早く/連絡センターが国会要請

*             レッド・パージの証人/名誉回復求めて/5/藤村三郎さん(82)盛岡市/東北中の犠牲者の結集を

*             レッド・パージの証人/名誉回復求めて/4/香野良男さん(81)福島市/風化させてはいけない

*             レッド・パージの証人/名誉回復求めて/3/渡辺愛雄さん(82)仙台市/仲間の無念今も胸に

*             レッド・パージの証人/名誉回復求めて/2/佐藤九二一さん(88)宮城・柴田町

*             レッド・パージの証人/名誉回復求めて/1/レッテル張られたまま死ねぬ

*             岡野庄蔵さん偲ぶ集い開く/治維法国賠同盟支部/秋田

*             背表紙/『占領期の朝日新聞と戦争責任』……激動期の変ぼうを追う

*             レッドパージ国家賠償実現へ/来月20日国会請願

*             レッドパージの不当性認定させ、国家賠償を/宮城反対同盟29日結成へ

*             2008年新春てい談/3ブロック衆院比例候補/下/笠井亮さん/塩川てつやさん/はたの君枝さん

*         【本文】2008(このページのトップへ)

レッド・パージ/国家賠償求め山口市で署名

 山口県レッド・パージ反対同盟はこのほど、山口市の商店街で署名行動をしました。
 レッド・パージでは、一九四九年から五〇年にかけて、アメリカ占領軍の指揮のもと、日本政府と財界が加担し、約四万人の日本共産党員と労働組合の活動家を「企業の破壊者」として強制的に職場から追放しています。
 犠牲者は、名誉回復と国家賠償を求めて、国会請願署名の運動をすすめています。
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2008年12月20日,『赤旗』)
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レッド・パージ反対同盟が総会/神奈川

 神奈川県レッド・パージ反対同盟はこのほど、横浜市内で第八回総会を開いて運動方針を決め、特別決議「レッド・パージ問題の民主的解決と、基本的人権を守るために、総選挙に勝ち抜きましょう」を採択しました。
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2008年11月25日,「赤旗」)
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レッド・パージと現代/日弁連の「名誉回復」勧告に寄せて/吉岡吉典/下


今も続く職場の憲法違反なくすためにも
 レッド・パージは二つの大きな目的を持っていました。一つは、日本共産党を非合法化し、壊滅すること、もう一つの目的は、戦闘的組合幹部のパージによって、反共労働組合幹部に日本の労働運動と労働組合の指導権を握らせ、国際自由労連につながる、たたかわない反共・労使協調の労働組合への、権力の手による再編です。

実行された「反共計画」
 戦後、急速に成長、前進し、階級的産別組合として発展する日本の労働運動を抑えたい占領軍は、2・1スト禁止後、労働運動敵視を強めてきましたが、対日政策の転換を機に資本家団体や反共労働組合幹部も総動員して共産党員と戦闘的労働者を、根こそぎ職場から追い出したのです。これを労働運動の指導権を手にするチャンスとする労働組合の反共右派幹部が、これに全面的に協力したことは、よく知られていることです。
 竹前栄治氏は前掲著書で、GHQ労働課がまとめた「日本労働運動における反共計画」という文書を資料として紹介しています。計画の立案には、日本政府職員、反共的労組役員の協力を得て、GHQ労働課がまとめた労働組合の総合的再編計画です。
 それは、まず「主要な戦略的局面」、ついで「戦略を遂行するに当たっての戦術」としてきわめて具体的な計画が書き並べられています。戦術の冒頭に、総評準備会を成功させ、正式に結成して、国際自由労連に加盟させるとしています。反共主義者が、共産主義者を追い払い、多くの組合を支配できるように労組法を改正することなど新制度をもうけることまで計画していました。レッド・パージは、GHQ、日本政府、反共労組の代表のこうした協議によって計画が具体化され、実行されたのです。

思想差別は克服されず
 レッド・パージを正当化するため、これが憲法・労働法規に適法であるとする見解を大橋法務総裁が国会答弁で示したことも重大でした。
 レッド・パージは戦後労働運動にとって特別に重要な意味をもちました。労働運動は紆余曲折をへて今日に至りましたが、いま、ワーキングプア、派遣問題など労働者が極めて厳しい状態に置かれながら、これと有効にたたかい得ない実態の背景には、こうした歴史的背景があります。たたかう労働運動を強めるためにもレッド・パージの教訓を生かす必要があります。
 それにしても、いまなぜレッド・パージか。日弁連の「調査報告書」は、「本件は今から60年近くも前に起きたものではあるが、現在においても依然として職場における思想差別が克服されたわけではない。現在も形を変え類似の被害は繰り返されている。職場において思想・良心の自由、法の下の平等などが保障されるべきことは、過去の問題ではなく現代的な人権課題である。現在及び将来にわたり、職場において思想差別が繰り返されないようにするためにも、過去の人権侵害に対してその侵害事実と責任を認め、救済をしていくことは極めて重要である」としています。四年余にわたる検討の結論だけに中身は重要です。
 (おわり)
 (よしおか・よしのり 日本共産党元参院議員)
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2008年11月12日,「赤旗」)
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レッド・パージと現代/日弁連の「名誉回復」勧告に寄せて/吉岡吉典/上


アメリカいいなりの政治脱却のためにも
 六十年近く前のレッド・パージ問題が現代の問題としてうかびあがってきました。レッド・パージ犠牲者の救済申し立てをうけた日本弁護士連合会(以下日弁連)がさる十月二十四日、レッド・パージを憲法違反の人権蹂躙事件として、被害者の名誉回復と補償など救済措置をとるよう、政府と関係企業に勧告したからです。私も政府が日弁連の勧告を、速やかに実行することを強く求めます。

労働組合の弱体化策す
 レッド・パージは中国革命の前進と冷戦激化に対抗して、日本を「極東における反共の砦」にするため日米安保体制につながる日本の反動体制の強化に乗りだしたアメリカが、その最大の障害である日本共産党の非合法化と、たたかう労働組合の弱体化を策して、マッカーサーの指令によって強行され、四万人と推定される労働者が共産党員というだけの理由で解雇されました。GHQ(連合国軍総司令部)は、政府、企業に指令するだけでなく、司法にも介入しました。ホイットニー民生局長が当時の田中耕太郎最高裁長官を呼びつけ、口頭で「裁判所は経営者による共産主義者の指名解雇に疑義をはさんではならない」「裁判所はその事件に関与してはならない」と指示しました。占領研究者竹前栄治氏が、元GHQ関係者の資料に基づいて明らかにしています。田中長官は、このGHQの口頭指示を口頭で、全国の下級裁判所に徹底させました(『戦後労働改革』東大出版会)。

占領軍指示絶対化して
 田中長官は記者会見でレッド・パージは、「マルクス主義が日本の憲法と相容れないということであ」る、日本に「裁判権があるかないかの問題もあ」るなどと語っています。(「朝日」一九五〇・七・三一)。最高裁長官がこういう調子ですから、まともな裁判などおこなわれません。裁判はおこなわれましたが、最高裁が、占領軍の指示に抵触する、「日本の法令はその適用を排除される」(共同通信の判決)などと、占領軍の指示を日本の法令の上において絶対化する判決を下し、内容的には、ホイットニーの指示にしたがったのです。レッド・パージは最も露骨な、アメリカいいなり政治のあらわれでした。
 専門家によれば、法律に基づかないこんな裁判は他にないだろうということです。司法権も放棄した裁判でレッド・パージは正当化されて、今日にいたりました。こうして、法治国日本国民でありながら、レッド・パージ被害者は、日本の法の保護を受けることなく、今日にいたったのです。「法治国としてこれでいいのか」との指摘が生まれていました。
 日弁連の「調査報告書」は基本的人権についてその歴史にまで立ち入って検討を加え、GHQの指示にも分析を加え、レッド・パージは、「思想・良心の自由、法の下の平等を侵害する指示は法的効力を有しない」と結論づけると共に、GHQ権力がなくなった講和後、現在にいたるまで「何らの人権回復措置を行っていないことの責任は重い」としていることが特に重視されます。日弁連の「勧告」が実行されることは、当事者の願いが実現するだけでなく、アメリカいいなり政治からの脱却にもつながると思います。
 (つづく)
 (よしおか・よしのり 日本共産党元参院議員)
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2008年11月11日,「赤旗」)
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レッド・パージ犠牲者救済に道/日弁連勧告の意義/下/問題解決は今日的課題

 レッド・パージ犠牲者はいま、「一日も早くレッド・パージ問題の解決を」と「レッド・パージ反対全国連絡センター」をつくり、名誉回復と正当な国家賠償を内容とする特別法の制定を求める請願を運動の柱にすえながら、日弁連に人権救済を求めるなどの活動をしています。

局面開く一助
 日弁連の「勧告」は、レッド・パージ犠牲者の粘り強いたたかいの重要な到達であり、新たな局面を開く一助となるものです。
 「勧告」は、レッド・パージ問題の解決の今日的意義を次のように述べています。
 「本件は今から六十年近くも前に起きたものではあるが、現在においても依然として職場における思想差別が克服されたわけではない。現在も形を変え類似の被害は繰り返されている。職場において思想・良心の自由、法の下の平等などが保障されるべきことは、過去の問題ではなく現代的な人権問題である。現在及び将来にわたり、職場において思想差別が繰り返されないようにするためにも、過去の人権侵害に対してその侵害事実と責任を認め、救済をしていくことは極めて重要である」
 「勧告」が指摘しているように、レッド・パージ犠牲者の名誉回復と補償をかちとることは、今日も続発している、権力による言論・表現の自由への侵害、職場での労働者の権利侵害をなくし、民主主義を拡大、確立するたたかいの重要な一環です。
 世界では、過去の問題であっても、歴史をふりかえり、人権侵害や民主主義に反する行為、誤った歴史評価をただす取り組みを粘り強くすすめています。
 アメリカでは、マッカーシー旋風「赤狩り」をアメリカの最高裁が憲法違反と断定しました。イタリアでは、日本と同じようなレッド・パージが行われましたが、イタリア政府はその後その誤りを認め、犠牲者の年金欠如分を国の負担で補償する特別法を制定しました。チリではピノチェト軍事独裁時代の犠牲者には全面的な補償を行っています。

歴史の見直し
 韓国では、百十余年前の日清戦争の引き金となった東学農民革命について、長いあいだ、農民軍が反徒、賊徒扱いされていた歴史を見直し、国、自治体、住民、学者が一体となって、賊徒の汚名を着せられた人たちを韓国における反封建・民主主義革命の先駆者、反帝国主義闘争の愛国者として評価し直しています。
 こうした各国の動きを調べ、日本のレッド・パージ問題にとりくんでいる日本共産党の吉岡吉典元参議院議員は「歴史を真実にそって見直し、誤りを正すことは歴史の進歩の力となる」と語っています。
 日本でも、侵略戦争を肯定する歴史の逆流に対し、日本共産党や民主勢力、各界の良識ある人びとの反撃のたたかいが展開されました。レッド・パージ犠牲者の名誉回復と国家賠償を求めるたたかいは、戦後史の汚点を正し、日本国憲法をいっそう輝かせ、日本の民主主義をつよめる事業として、広く、日本の民主勢力が受け継いでいくべき課題です。
 (おわり)
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2008年11月05日,「赤旗」)
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レッド・パージ犠牲者救済に道/日弁連勧告の意義/中/「救済」の必要性示した

 レッド・パージの犠牲者は、その不当性を訴え、裁判でも争ってきました。
 一九六九年六月の東京地裁浅賀判決は、「共産主義者またはその同調者というだけで解雇することは信条による差別であり憲法第一四条と労働基準法第三条に違反する」として、元電気通信省電気通信研究所職員五人のレッド・パージ解雇は無効であるとしました。

解雇を「適法」
 しかし、最高裁は、マッカーサー指令を「当時においてはわが国の国家機関及び国民に対し、最終的権威をもっていた」(一九六〇年四月十八日大法廷決定)とし、「国家機関及び国民が連合国最高司令官の発する一切の命令指示に誠実且つ迅速に服従する義務を有すること、従って日本の法令は右の指示に抵触する限りにおいてその適用を排除されることはいうまでもない」(一九五二年四月二日大法廷決定)との立場をとり、レッド・パージによる解雇を適法とみなしてきました。
 この最高裁の態度は決して自然に生まれたものではありません。GHQ(総司令部)ホイットニー民政局長が、日本の当時の最高裁判所長官田中耕太郎を呼んで裁判に干渉したことが明らかとなっています。
 「裁判所は経営者による共産主義者の指名解雇に疑義をはさんではならない。経営者から指名解雇を受けたものはそれ自体共産主義者と考えられるから裁判所はこれに関与してはならない」(竹前栄治著『戦後労働改革GHQ労働政策史』)
 日弁連の「勧告」は、こうしてレッド・パージを適法≠ニしてきた最高裁の態度に批判的立場をとり、次のように述べています。
 「たとえどれだけの時が経過しても、未だ被害回復がなされていない重大な人権侵害事案が存在し、その被害に苦しむ人々が現存し、救済を求める申立が当連合会になされた以上、人権擁護を使命とする当連合会として、これを放置することはできない」
 「勧告」は、こうした見地から、最高裁がマッカーサー指令を絶対視し、占領下での連合国最高司令官の命令を根拠として、人権侵害の解雇を適法とした論理を次のように批判しています。
 「思想・良心の自由、法の下の平等は『人間の尊厳』に由来する自然権的な権利として保障されているものである。それゆえ、思想・良心の自由、法の下の平等は、連合国最高司令官をも規制する上位規範といえる」
 そして「勧告」は、日本管理の指針であり日本における思想の自由の確立を求めたポツダム宣言の実施を任務とする連合国最高司令官には、思想・良心の自由を侵害するような指示を出す権限がなく、「思想・良心の自由を侵害する指示は、権限の濫用・逸脱として法的効力を有しないと解するのが相当である」と論じています。
 さらに「勧告」が、一九五二年四月二十八日の『平和条約』が発効した以降は速やかに人権侵害の救済措置がとられてしかるべきであったとしていることは重要です。

「責任は重い」
 「占領終了・主権回復後は、自主的にレッド・パージを清算し被解雇者の地位と名誉の回復をとることが十分可能であったし、行うべきであったことは疑いを入れない。これを放置・容認し、現在に至るまで何らの人権回復措置を行っていないことの責任は重い」としています。
 これは、最高裁が下した解雇の適法性の当否を別にしても、レッド・パージ犠牲者の人権救済が可能であることを示唆したものとして意義深いものです。
 (つづく)
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2008年11月04日,「赤旗」)
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主張/レッド・パージ「勧告」/国と企業は救済の責任果たせ

 日本弁護士連合会(日弁連)は十月二十七日、兵庫県内に住む三人のレッド・パージ犠牲者の「人権救済申立」について、「名誉回復や補償を含めた適切な措置を講ずる」ことを求めた勧告書を、国とレッド・パージを行った企業にたいして送付しました。
 国や企業はこの「勧告」を真剣に受けとめ、救済措置をとることが強く求められます。

戦後最大の人権侵害
 レッド・パージは日本が全面占領下にあった一九四九年から五〇年にかけ、アメリカと日本政府、財界、反共勢力が労働運動の右傾化と民主勢力の弱体化を狙い、日本共産党員とその支持者というだけで数万の労働者を職場から権力的に排除・解雇した事件です。戦後最大の人権侵害といわれる戦後史の汚点です。今回救済を申し立てた三人も五〇年に当時の電気通信省や企業を解雇されました。
 日弁連の「勧告」は、事実調査をふまえ、三人の解雇が「具体的な企業活動の妨害行為」などを理由にしたものではなく、「特定の思想・信条を理由とする差別的取扱いであり、思想良心の自由、法の下の平等、結社の自由を侵害するもの」と認定しています。そして、こうした差別的な解雇が思想信条の自由や法の下の平等、結社の自由を侵害するものであることをきびしく糾弾、「申立人らがすでに高齢であることを鑑みて、可及的速やかに、申立人の被った被害の回復のために、名誉回復や補償を含めた適切な措置を講ずるよう勧告」しています。
 日弁連が「勧告」と同時に公表した調査報告書は、「わが国においては過去における重大な人権侵害について、司法救済されることなく放置されてきたことが少なくない」と指摘。「たとえどれだけの時が経過しても…被害に苦しむ人々が現存し、救済を求める申立が…なされた以上、…放置することはできない」「当連合会は司法の一翼を担うものとして、人権の最後の砦たる役割を果たさなければならない」と決意を表明しています。
 これまで最高裁はレッド・パージに関する占領軍の指示が「超憲法的効力」を有することを理由に、解雇を適法とする判決を下してきました。これにたいし日弁連は、「思想・良心の自由、法の下の平等は、連合国最高司令官をも規制する上位規範」「連合国最高司令官といえども、…侵害してはならない」と判断。「占領下とは言え、日本政府や企業には、人権侵害を回避するための可能な措置をとるべきであった」とし、とりわけ「一九五二年四月二十八日の占領終了・主権回復後は、自主的にレッド・パージを清算し被解雇者の地位と名誉の回復措置をとることが十分可能であったし、行うべきであった」と指摘しています。

思想差別を根絶するため
 日弁連が、「現在及び将来にわたり、職場において思想差別が繰り返されないようにするためにも、過去の人権侵害に対してその侵害事実と責任を認め、救済をしていくことは極めて重要」と強調しているのはとりわけ重要です。
 今日も絶えない人権や言論・表現の自由の侵害を許さぬたたかいと結んで、レッド・パージ犠牲者が求めている「名誉回復と国家賠償」要求の実現のために力をつくすことは、今日の日本にとって重要な課題です。
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2008年11月04日,「赤旗」)
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レッド・パージ犠牲者救済に道/日弁連勧告の意義/上/人権侵害の本質明らか

 日本弁護士連合会は十月二十七日、兵庫県でレッド・パージを受けた被害者三人の「人権救済申立」について、レッド・パージを人権侵害と認定し、「名誉回復と補償を含めた適切な措置を講ずる」ことを求めた勧告書(以下「勧告」)を、国とレッド・パージを行った企業にたいして二十四日付で送付しました。

適切な措置を
 「勧告」は、申立人の大橋豊(78)、川崎義啓(91)、安原清次郎(87)の三氏について、それぞれ神戸中央電報局(旧電気通信省)、旭硝子尼崎工場、川崎製鉄(現JFEスティール)葺合工場から、「企業活動の妨害行為」を理由としたものではなく、共産党員であることを理由に解雇されたと認定しました。そして免職・解雇は、特定の思想・信条を理由とする差別的取り扱いであり、思想・良心の自由、法の下の平等、結社の自由を侵害するものと断じ、「申立人が既に高齢であることを鑑みて、可及的速やかに、申立人の被った被害の回復のために、名誉回復や補償を含めた適切な措置を講ずるよう勧告する」としています(憲法一九条、一四条一項、二一条一項、世界人権宣言二条一項、七条、二〇条一項)。
 この「勧告」は、裁判の判決と違い、法的拘束力はもちませんが、「司法の一翼を担うものとして人権の最後の砦たる役割を果たさなければならない」(勧告書)との見地にたって、日弁連が初めて、レッド・パージの人権侵害の本質を正面から明らかにし、国と企業に犠牲者の名誉回復と補償を求めた点で、画期的な意義をもつものです。

戦後史の汚点
 レッド・パージは、一九四九年から五〇年にかけて、共産党員あるいはその支持者というだけで労働者が職場から排除・解雇された事件です。アジアの民族解放闘争や日本での民主運動の高揚に直面したアメリカと日本政府、財界、反共勢力が、労働運動の右傾化と民主運動の弱体化を狙って、たたかいの先頭に立っていた日本共産党員と支持者、活動家に加えた弾圧でした。思想信条を理由に数万の労働者を職場から権力的に有無をいわさず放り出した戦後最大とも言ってよい人権侵害であり、戦後史の一大汚点です。
 レッド・パージは、戦後、日本が、「高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要部分をアメリカに握られた事実上の従属国」(日本共産党綱領)としての道を歩まされることとなる重大な転換点における反動勢力の攻撃でした。戦後、長いあいだ、反共的な差別が職場ではびこる原因ともなる事件でした。
 職場を追われた労働者は、本人に「非があるかのように取り扱われその名誉が害されただけでなく、生活の糧を失うことにより苦しい生活を強いられ」(勧告書)ました。新たに職を得ることもできず、精神的・社会的な圧迫をうけ、生活上の困難に耐え切れず、自ら命を絶った人も少なくなく、筆舌に尽くし難い状態におかれました。
 (日本共産党国民運動委員会 吉村文則)
 (つづく)
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2008年11月03日,「赤旗」)
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週間日誌/08年10月26日〜11月1日


政治・経済
 ◆国保証ない子3万3000人 親が国民健康保険の保険料(税)を払えないため国保証を取り上げられ、「無保険」状態になっている中学生以下の子どもが全国で3万2903人にのぼることが厚生労働省の調査で判明(30日)
 ◆首相、「3年後に消費税増税」 麻生首相は、追加経済対策を発表した記者会見で「3年後に消費税の引き上げ」と明言(30日)
 ◆日銀、0・2%利下げ 日銀は金融政策決定会合で、無担保コール翌日物金利の誘導目標を年0・5%から0・2%引き下げ、0・3%とすることを決定(31日)
 ◆空幕長を更迭 航空自衛隊の田母神俊雄航空幕僚長が「侵略国家は濡れ衣」と論文を執筆、浜田靖一防衛相が更迭を表明(31日)

社会・国民運動
 ◆日弁連がレッド・パージで救済勧告 レッド・パージで日本共産党員であることを理由に免職・解雇され、人権救済を申し立てていた兵庫県の3氏について、日本弁護士連合会が、政府・関係企業に救済勧告(27日)
 ◆新銀行東京元行員ら逮捕 新銀行東京の融資をめぐって元行員らを5千万円詐取の容疑で逮捕。不正融資の大もとに過大融資計画と欠陥審査があると、日本共産党都議団が指摘(27日)
 ◆沖縄戦「集団自決」訴訟、二審も「軍の関与」認める 沖縄戦「集団自決」の記述をめぐり元日本軍隊長らが『沖縄ノート』の著者大江健三郎さんと岩波書店を相手に、出版差し止めや慰謝料などを求めた訴訟で大阪高裁は請求を退けた一審判決を支持、控訴を棄却(写真)(31日)
 ◆横浜事件の再審決定 特高警察による戦時下の言論弾圧事件「横浜事件」で、有罪が確定した雑誌編集者の遺族が出していた第4次再審請求に対し、横浜地裁が「脅迫と拷問でやむなく虚偽の自白をした」として再審開始を決定(31日)
 ◆労働総研が正社員化などによる内需拡大試算 労働総研が派遣やパートの正社員化、サービス残業の根絶などで家計支出は14兆円増え、景気回復と生活向上につながると試算を発表(31日)

国際
 ◆駐イラク米軍がシリアへ越境攻撃 イラク駐在の米軍ヘリが国境を越えて隣国シリアの村を空爆し、住民8人を殺害。シリアは「侵略」と抗議、米当局は正式確認を避ける(26日)
 ◆南米10カ国が金融危機で会合 アルゼンチン、ブラジル、ベネズエラなど南米10カ国の財務相・中央銀行総裁がブラジルで会合を開いて金融危機問題を協議。会合に同席した各国外相は会見で、市場規制や国際金融体制の改革を要求(27日)
 ◆仏大統領が新雇用政策を発表 サルコジ仏大統領は雇用不安に対応するとして、失業手当改革、政府援助による雇用拡大、日曜労働の解禁などを提起。労働組合は「不十分で、問題点も多い」と批判(28日)
 ◆国連総会でキューバ封鎖解除要求決議 国連総会は米国のキューバ経済封鎖の解除を求める決議を、これまで最高の185カ国の賛成で採択。同決議は17年連続。反対は米、イルラエルなど3国(29日)
 ◆パキスタンで強い地震 パキスタン西部のバルチスタン州でマグニチュード6・4の強い地震があり、死者は200人超に(29日)
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2008年11月02日,「赤旗」)
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レッド・パージ救済を/申立人ら党国会議員団に要請

 レッド・パージの被害救済を申し立て日本弁護士連合会(日弁連)が政府・関係企業に救済勧告をした問題で、申立人の大橋豊さんと、レッド・パージ反対全国連絡センターの役員は二十九日、日本共産党国会議員団に救済実現へ協力要請をしました。
 仁比聡平参院議員が応対しました。
 日弁連は二十四日付で、日本共産党員であることを理由に職場を免職・解雇された大橋さんら兵庫県内の三氏のレッド・パージ被害救済の申し立てに対して、政府・関係企業に名誉回復と補償をするよう勧告しました。
 大橋さんと、全国連絡センターの金子圭之事務局長、要請に同行した日本共産党の吉岡吉典元参院議員が、それぞれ、画期的な救済勧告であり、実現へ運動を強める決意をのべ、協力を要請しました。
 仁比議員は、「皆さんの解決に向かってのたたかいが、画期的な救済勧告につながった。実現にむけての運動に全力で協力したい」とのべました。
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2008年10月30日,「赤旗」)
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レッド・パージ被害者救済で日弁連が出した勧告書

 日本共産党員であることを理由にレッド・パージで政府機関、企業(旭硝子、JFEスチール)を免職・解雇された三氏が人権救済を申し立てていた問題で、日本弁護士連合会(日弁連)が二十四日付で、政府に出した勧告書を紹介します。(調査報告書はのぞく)
 当連合会は、申立人川崎義啓、安原清次郎及び大橋豊からなされた人権救済申立事件について調査した結果、下記のとおり勧告します。
 〈勧告の趣旨〉
 申立人大橋豊は1950年8月26日に電気通信省(当時)を、申立人川崎義啓は1950年10月26日旭硝子株式会社を、同安原清次郎は同日川崎製鉄株式会社(現JFEスチール株式会社)を、いずれも、日本共産党員であることを理由として免職・解雇された。
 これらは特定の思想・信条を理由とする差別的取扱いであり、思想良心の自由、法の下の平等、結社の自由を侵害するものである(日本国憲法19条・14条1項・21条1項、世界人権宣言2条1項・7条・20条1項)。
 申立人らは、上記免職・解雇によって、申立人らに非があるかのように取り扱われその名誉が害されただけでなく、生活の糧を失うことにより苦しい生活を強いられるなどの被害を被ってきた。
 このような人権への侵害は、いかなる状況下においても許されるものではないが、1952年平和条約発効後は、被害回復措置を容易に行うことができたにもかかわらず、今日まで、これを放置してきたことの責任は重い。
 申立人大橋は国家公務員であり、日本国政府はその人権侵害行為に対し直接責任を負っている。同時に、民間企業に勤めていた申立人川崎義啓及び同安原清次郎らに対する解雇についても、上記各会社等が自主的判断の形をとりながら実施したものではあったが、それらは連合国最高司令官マッカーサーの指示等に基づき、日本政府が支援したものであるから、日本政府にも責任がある。
 よって、当連合会は、国に対し、申立人らが既に高齢であることを鑑みて、可及的速やかに、申立人の被った被害の回復のために、名誉回復や補償を含めた適切な措置を講ずるよう勧告する。
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2008年10月29日,「赤旗」)
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レッド・パージで免職・解雇/日弁連が救済勧告

 日本弁護士連合会(日弁連)は二十七日、レッド・パージで日本共産党員であることを理由に免職・解雇され、同連合会に人権救済を申し立てていた兵庫県の三氏について、「高齢にかんがみて、速やかに被った被害回復のため、名誉回復や補償を含めた適切な措置を講ずるよう」政府・関係企業に勧告した、と明らかにしました。
 日弁連がレッド・パージで勧告をだすのは初めてです。
 申し立てをしたのは兵庫県内の大橋豊(78)=電気通信省(当時)=、安原清次郎(87)=川崎製鉄(同)=、川崎義啓(91)=旭硝子=の各氏。いずれも日本共産党員であることを理由に一九五〇年、免職・解雇されました。
 勧告書は「名誉が害されただけでなく、生活の糧を失うことにより、苦しい生活を強いられてきた」と告発。「特定の思想・信条を理由とする差別的取り扱いであり、思想良心の自由、法の下の平等、結社の自由を侵害するものである」と憲法、世界人権宣言の条項を引用して厳しく批判しています。
 このような人権への侵害は、いかなる状況下においても許されるものではなく、放置してきたことの責任は重いとして、国と関係企業が速やかな措置を講じるよう求めています。

日弁連レッド・パージ被害者救済勧告/日本共産党仁比聡平参院議員に聞く/要求実現へ重要な一助


政府・関係企業は必要な措置を
 日本弁護士連合会がレッド・パージ被害者の救済を求める政府、関係企業への勧告をしたことについて、日本共産党の仁比聡平参院議員に聞きました。
 レッド・パージ被害者の「人権救済申立」について、日本弁護士連合会が、レッド・パージを人権侵害と認定し、国と企業にたいし、「名誉回復と補償を含めた適切な措置を講ずるよう勧告」したことは、レッド・パージの名誉回復と正当な国家賠償を求めて活動している全国のレッド・パージ被害者を励まし、その要求実現へ重要な一助となるものです。
 「勧告」は、三人の申立人の解雇が、企業活動の妨害行為によるものではなく、思想・信条だけの理由でなされたとの事実を認定し、こうしたレッド・パージが憲法一九条(思想良心の自由)、一四条一項(法の下の平等)、二一条一項(結社の自由)、世界人権宣言に定められた人権を侵害したものと断じています。
 「勧告」が、レッド・パージ被害者の申し立てへの日弁連の基本的スタンスとして次のように述べていることは重要です。

司法不十分
 「中外製薬最高裁決定にみられるように、多くの裁判では、マッカーサー指示が超憲法的効力を有することなどを根拠に原告ら(レッド・パージで司法に救済を求めた人々)の要求を退けてきた。人権救済において司法が十分な役割をはたしてこなかったといわざるをえない」
 「たとえどれだけの時が経過しても、未だ被害回復がなされていない重大な人権侵害事案が存在し、その被害に苦しむ人々が現存し、救済を求める申立が当連合会になされた以上、人権擁護を使命とする当連合会として、これを放置することはできない…司法の一翼を担うものとして、人権の最後の砦(とりで)たる役割を果たさなければならない」
 また、「勧告」は、レッド・パージ問題の性格について、「憲法で保障された『思想良心の自由』と『結社の自由』という民主主義社会の根幹に関わる問題であり、現在そして今後も、わが国の社会や企業において鋭く問われ続ける重大な問題」と述べていることは、この問題が過去の問題にとどまらない今日的な問題であることを指摘したもので、大変大事な指摘だと考えます。
 さらに、「勧告」が「このような人権への侵害はいかなる状況下においても許されるものではない」とし、占領下にあっても許されるものではないことを指摘するとともに、「一九五二年平和条約発効後は、被害回復措置を容易に行うことができたにもかかわらず、今日まで、これを放置してきたことの責任は重い」と指摘しています。これは、「マッカーサー指示が超憲法的効力を有する」か否かの判断を別にしても、レッド・パージ被害者の人権救済が可能であることを示唆するものとしても意義ある指摘です。

全力尽くす
 「勧告」は、申立人らがすでに高齢であることをかんがみて可及的速やかに被害の回復のための措置を取るよう勧告しています。この勧告をうけた政府と関係企業が真剣にこの勧告をうけとめ、必要な措置をとることを強く希望するものです。私たちもレッド・パージ犠牲者の要求実現に全力をつくす決意です。

 

日弁連レッド・パージ被害者救済勧告/20歳で被害大橋豊さん(78)=神戸市/正義、認められた

 「五十八年たって、ようやく正義が認められました」
 レッド・パージは憲法違反として政府に犠牲者の名誉回復などを求めた日弁連の勧告に、大橋豊さん(78)=神戸市西区=は満面の笑みを浮かべます。
 一九五〇年八月、神戸市中央電報局に勤めていた大橋さんら四人が局長室に呼び出され、「職場離脱」を理由に懲戒免職を言い渡されました。
 大橋さんは当時二十歳。労組支部の執行委員で、日本共産党員でした。局長は、「君は大家族で申し訳ないが」といいながら辞令を渡したといいます。
 父は他界しており、兄も台湾で戦死。残された五人家族の世帯主となっていました。
 当時の新聞は、大橋さんらの実名をあげて「赤追放」などと書き立てました。

一家離散に
 大橋さんが実家に帰った際、母は、父の位牌(いはい)を手に「家族みんなを殺していけ」と叫びました。母は頭を丸めて尼寺に入りました。
 中学生だった下の妹はバス会社に就職が決まっていて、車掌になるはずでしたが、大橋さんの妹だということで採用を取り消されました。大橋さんは、そのことを妹から来たはがきで知りました。
 小さな文字でいっぱいに書かれたはがきには、「兄ちゃんは好きなことをしているけど、家族がどんなことになっているか知っているんか」とありました。大橋さんは、「このことはいまでも忘れられません」と、涙ながらに語ります。
 家族は一家離散となりました。
 大橋さんはパージ後、日本共産党の常任活動家、神戸協同診療所をへて神戸医療生協で専務、副理事長を歴任。民主的医療運動に従事しました。定年後は、神戸市長田区で特養ホームづくりにとりくみ、阪神・淡路大震災後は、「ひょうご福祉ネットワーク」で被災者の巡回相談を続けています。日本共産党員として常に、苦しむ人たちを助けてきました。
 「ジグザグはありましたが、共産党員として生きてきたことに誇りを持っています」と大橋さん。

名誉回復を
 二〇〇〇年のレッド・パージ五十年を機に、名誉回復、賠償を求める運動の先頭に。〇四年、他の犠牲者二人とともに日弁連人権擁護委員会に救済を申し立て、国連にも四度赴いて訴えました。
 勧告を力に、国にたいする裁判闘争を展望しています。
 「レッド・パージで家族に迷惑をかけたというつらい思いをずっと持っていました。同じように苦しんできた人たちが生きているうちに、何としても名誉回復をはかりたい」

レッド・パージ
 一九四九年から五〇年にかけてアメリカ占領軍の指令で政府と財界が、「破壊分子だ」などといつわって、全国で日本共産党員と支持者推定四万人を職場から追放した弾圧事件です。


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2008年10月28日,『赤旗』)(このページのトップへ)

レッド・パージ/名誉回復へ決意新た/電産の犠牲者らが集い

 日本電気産業労働組合(電産)に所属していてレッド・パージされた人たちでつくる「電産東京八・二六会」の集いが九月二十八日、東京都内で開かれました。
 東京都と神奈川、栃木、埼玉、千葉、長野県から犠牲者と家族など三十二人が参加しました。毎年開いてきた集いは今年で五十八回となりました。
 今年初めて江田五月参議院議長が、レッド・パージ犠牲者の名誉回復と国家賠償を求める要請を受け、日弁連と各県弁護士会への人権救済申し立てが全国的に広がっています。
 集いでは、「人権救済申し立てを通じて、世の中変わってきたことを感じた」「名誉回復と国家賠償を一日も早く実現するため、憲法九条改悪阻止の運動などとともに前進させたい」などの発言が出て決意を新たにしました。
 全国連絡センターの金子圭之事務局長は、「レッド・パージ反対運動は前進している。人権救済では全国の申立者の半数以上が電産で情勢を変える上で皆さんの役割は大きい。要求を実現するためにともに頑張ろう」とあいさつしました。
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2008年10月01日,『赤旗』)
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電産九州レ・パ8・26のつどい/福岡

 五十八回目の福岡「電産九州八・二六つどい」が八月二十六、二十七の両日、福岡県太宰府市のホテルで開かれました。
 レッド・パージから五十八年目となって参加者も少なくなるなか、熊本、長崎、福岡などから家族、遺族、関係者など二十人が参加しました。
 全体交流会で、開催世話人会代表の高橋久吉さんが、「初心を忘れずに人権救済、国家賠償、名誉回復の運動を」とあいさつしました。
 電産九州レ・パ同盟の福島正見事務局長が経過報告と今後のレ・パ運動の方向と課題、国会請願署名、弁護士会への「人権救済申し立て」など六項目を提起しました。
 レ・パ反対全国連絡センター代表委員で兵庫レ・パ懇談会代表の大橋豊さんが「私の意志と行動で生きている間に名誉回復の実現を」と語り、神戸地裁への訴訟準備と支援を訴えました。最後に、健康と運動の前進を誓い、来年のつどいでの再会を約束しました。
 日本共産党福岡県委員会の篠田清副委員長・衆院比例候補が激励のあいさつをしました。
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2008年09月05日,「赤旗」)
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レッド・パージ犠牲者救済申し立て運動進む/全国連絡センター事務局長金子圭之さんリポート

 レッド・パージ犠牲者などでつくっているレッド・パージ反対全国連絡センターがよびかけている人権侵害救済の申し立ての運動が各地ですすんでいます。最近の運動についての同センターの金子圭之事務局長のリポートを紹介します。
 宮城県を中心とした電産、造船、金属、教員のレッド・パージ犠牲者六人が五日、仙台弁護士会に対して人権侵害救済の申し立てをしました。この行動を「しんぶん赤旗」とともに、「河北新報」や「朝日新聞」宮城県版が報道しました。
 東北ではじめての申し立てによって、レッド・パージについての人権侵害救済の要請者は合計十一都県、七十人となりました。さらに岩手県や北海道でも申し立ての準備がはじまっており、総数は増えようとしています。
 レッド・パージは一九四九年から五〇年にかけて、連合国軍総司令部の指示で、日本政府と財界が生活擁護、平和・民主主義の確立をめざして果敢にたたかっていた日本共産党員と労働組合活動家など推定四万人に「破壊分子」などという烙印(らくいん)を押して、職場から追放した不当弾圧事件です。

■たたかい
 犠牲者は非常に困難な状況に追いやられながらもたたかい続け、最近では名誉回復と国家賠償を求める国会請願を重ねています。これとあわせて、日本弁護士連合会(日弁連)が自主的にすすめている人権侵害救済の事業によって要求を実現しようと取り組んでいるものです。
 日弁連や各弁護士会の申し立てに関する調査(事情聴取)はすすんでいます。
 申し立ての先陣を切ったのは兵庫県です。調査はすでに終了し、二〇〇六年十一月一日には、日弁連調査委員会の本調査報告書が人権擁護委員長あてに提出されました。レッド・パージが憲法をじゅうりんしたものであり、マッカーサー総司令官の指令は国連憲章やポツダム宣言に違反した人権侵害行為であると判定し、国に対して「可及的速やかに名誉回復をすべき」と「警告」しています。
 また、日弁連への東京都、埼玉県、栃木県などの申し立て者二十六人の調査は最終段階を迎え、五月二十一日には人権擁護委員会が開かれました。
 会議では申し立てを受けて、最終的な見解(総論)は日弁連が作成し、申し立て者についての各論は各弁護士会がまとめることになったといわれます。しかも、委員会の前段では勉強会がおこなわれ、レッド・パージの研究者である明神勲氏(元北海道教育大学教育学部釧路校教授)が「占領下日本の汚点・レッド・パージ」を講義しています。
 明神氏は「レッド・パージは戦後史における最大の思想弾圧事件」であり、「人間としての誇りと尊厳をふみにじる国家的犯罪」であったと強調し、「占領という時代が犯した歴史の『誤審』は正されなければならない」と結論づけています。
 神奈川県の十九人の申し立てを受けた横浜弁護士会の調査もほぼ終わったようで、担当の弁護士は「兵庫県の調査報告以上の結論を近く出す」と話しています。

■世論喚起
 二次にわたって計七人の申し立てに応じた長崎弁護士会も、八月初旬には調査を終わることになっています。
 全国連絡センターの藤村三郎代表委員は「弁護士会の人権侵害救済の勧告は、強制力をもっていないとはいえ、弁護士会の社会的影響力からすれば、世論を大きく喚起し、レッド・パージ問題の解決にはかり知れない力となることはまちがいありません。私たちは日弁連と各地の弁護士会が憲法の原則にもとづいた積極的な見解を発表してくださるよう、心から期待しています」と語っています。
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2008年08月18日,「赤旗」)
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人権弾圧レッド・パージ/仙台弁護士会に申立書/解雇無効求め反対同盟

 宮城県レッド・パージ反対同盟は五日、仙台市内で記者会見し、レッド・パージの犠牲者である会員が解雇無効と名誉回復などを求める人権被害救済申立書を仙台弁護士会に提出したと発表しました。代理人の小関眞弁護士が同席しました。
 レッド・パージは、一九四九年から五〇年にかけて共産党員や支持者を一方的に職場から排除した戦後最大の不当弾圧です。
 申立人は反対同盟代表の沖直子氏、同事務局長の渡辺愛雄氏ら六人で、一九四九―五〇年当時の東北配電(現在の東北電力)、日立製作所、東北ドックの労働者と中学教員でした。同様の申し立ては兵庫、長崎、横浜でも取り組まれています。
 申立書は、レッド・パージは「日本国憲法で保障された人権を侵害する行為」だとし、日米政府と相手各企業、宮城県に対して謝罪や厚生年金の保証などの勧告を求めています。
 渡辺氏は一九五四年、理由なく多数の労働者を追放した東北配電に解雇無効を求めた裁判で原告団長を務めました。レッド・パージに関するマッカーサー指令を「超憲法的な行為」とした当時の判決は「独立国にふさわしくない不当判決ということをはっきりさせたい」と述べ、「国際的に人権弾圧を見直す流れは強まっており、申し立てが認められる期待はある」と話しました。
 申立人の一人で東北配電を一方的に解雇された柏崎知哉氏(78)は、「政府や大企業が先頭に立って人権を踏みにじった。レッド・パージは憲法を汚したものだ」と思いを語りました。
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2008年08月07日,「赤旗」)
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レッドパージ問題語る/札幌で集い

 「レッドパージ問題を語るつどい」が七月二十七日、札幌市豊平区で開かれ、二十三人が参加しました。
 レッドパージは一九四九年から五〇年にかけて、連合軍総司令部の指令で政府と財界が「破壊分子」として、日本共産党員と支持者推定四万人を職場から追放した弾圧事件です。
 元治安維持法国賠要求同盟道本部の佐々木武志さんがレッド・パージの本質と実態を明らかにしました。
 犠牲者の安孫子登さん(86)=元国鉄函館車掌区=と苗川清一郎さん(86)=元国鉄苗穂工場=が当時の模様と名誉回復のための日本弁護士会人権委員会に提訴してたたかう決意を表明しました。
 「新聞で知り、帯広からかけつけた」という参加者もいました。
 「犠牲者の生の声を記録に残し、たたかいを引き継いでほしい」と感想がありました。
 日本共産党の池田由美市議候補が参加し、あいさつしました。
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2008年08月01日,「赤旗」)
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『北のわらべ唄』エッセー集が好評/秋田

 秋田県藤里町在住の切り絵作家・平野庄司氏(80)が今年五月に出版したエッセー集『北のわらべ唄(うた)』が好評です。
 同書は、平野氏が二〇〇六―〇七年に地元紙で連載した五十本のエッセーをまとめたもので、四十年間作り続けてきた切り絵から選んだものを挿絵にしています。
 「通りゃんせ」から朝鮮民謡「トラジ」まで、白神山地を望む北国には多くのわらべ唄が歌い継がれています。なまはげや雪を割って咲く福寿草など、季節の風物詩を繊細な切り絵で表現しました。
 縄跳びやまりつきなど、「子どものころに楽しんだ遊びを主な題材にした」と平野氏。軍歌一色だった戦時下の日本でも、「軍艦マーチ」を替え歌にして楽しんでいた子どもたちの姿を描きました。夏の終わりに芽を出したフユノハナワラビにレッド・パージ犠牲者の姿を重ねて書いた「冬の花蕨(わらび)」の章には、大きな反響が寄せられたといいます。
 同書には、「しんぶん赤旗」東北版  に掲載された切り絵も含まれています。初版在庫は売り切れ、二刷目を予定しているといいます。秋田文化出版発行で税別千三百円。
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2008年07月19日,「赤旗」)
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レッドパージ盛岡で懇談会

 盛岡レッド・パージ懇談会は十五日、岩手県雫石町で懇談会を開き、犠牲者四人をはじめ、十四人が参加しました。同会を代表して横田綾二さんがあいさつしました。
 事務局長の藤村三郎さんが「連合国軍総司令部の指令で政府と財界が『破壊分子だ』などといつわり、一片の退社辞令により苦難の道を強いた」と自らの体験をまじえて報告。「今、レッドパージとは何であったか、真相を語り継ぐことが自分たちの義務でもある、犠牲者の名誉回復を一日も早く実現したい」と協力をよびかけました。
 参加者からは、「自分の尊敬する先輩が犠牲になったレッドパージとは何かを知りたくて参加したが、犠牲者が元気なうちに政府に謝罪させたい」、「先輩たちが、むごい仕打ちのなかでたたかい、成長してきたことにあらためて感動と憤りを感じる。現憲法のなかでおきた弾圧だけに絶対に許せない」、「当時のたたかいの話を聞いて、今の労働運動にもたいへん参考になった」などの感想や意見が出され交流しました。
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2008年06月18日,「赤旗」)
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08水曜随想/参院議員仁比聡平/レッド・パージを問う

 いま若者たちのあいだで、戦前の弾圧に屈せず労働者と農民のたたかいを鼓舞しつづけた、日本共産党員作家・小林多喜二の『蟹工船』がベストセラーだ。『週刊朝日』の特集「日本共産党宣言―志位和夫委員長、資本主義を叱(しか)る」で、編集部は「今や国際的な投機マネーに引きずられた『超資本主義という妖怪』が世界を脅かしている。共産主義者の目に今の社会がどう映るのか」と書いた。
 貧困と格差、ルールなき資本主義の暴走、地球規模の環境破壊と食糧危機など、資本主義の限界が露呈するなか、志位委員長や不破前議長の「サンデープロジェクト」出演が大いに評判だ。
 これまでの自民党政治に代わる新しい政治を求める多くの若者たちにとって、日本の社会に生まれ不屈にたたかい抜いてきた日本共産党の姿そのものが「かっこいい」のではないか。四十四歳になった私も、中学生のころ多喜二を読んで抑えきれない興奮を感じたことを思い出す。
 きのう議長公邸で、レッド・パージ犠牲者の名誉回復を求めて、レッド・パージ反対全国連絡センターの諸先輩方と江田五月参院議長の面談が実現した。
 軍国主義の除去と民主主義の確立を求めたポツダム宣言と憲法成立にもかかわらず、一九四九年から五〇年にかけてマッカーサー連合国最高司令官はそれをゆがめ、日本をアジアにおける反共の砦(とりで)にするという政治的弾圧の目的で共産党員や労働組合活動家のレッド・パージを強行した。世界各国で、思想信条を理由に基本的人権と生活の土台を脅かした同様の誤りが正されてきたなかで、本来の最高法規である日本国憲法に従った名誉回復がなされるべきは当然ではないか。それはこの国の民主的転換の大きな力になるに違いない。
 「九十三歳になりました」と参加された先輩もおられた。不法な攻撃に屈せず、先輩方は民医連や民商、共産党の常任役員をはじめ、さまざまな分野で頑張りぬいて今日を迎えておられる。その生きざまそのものが若者たちへの大きな激励である。
 みなさんも、身近な先輩のお話、直接聞いてみられてはいかが?
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2008年05月21日,「赤旗」)
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犠牲者へ国家賠償を/レッドパージセンター代表参院議長に要請

 レッドパージ反対全国連絡センターの代表は二十日、江田五月参院議長に対し、レッドパージ犠牲者の名誉回復と国家賠償を求める国会決議を行うよう要請しました。
 要請には同センターの金子圭之事務局長をはじめ役員が参加。日本共産党の井上哲士参院国対委員長、仁比聡平参院議員が同席しました。
 金子事務局長らはレッドパージによって被った精神的、物質的、社会的損害について切々と訴え、日本政府が六十年近く、重大な責任を認めていないとして、問題解決のため国会が決議するよう要請しました。
 これに対し、江田議長は「みなさんの要請を実りあるものとするよう議長としての役割を果たしたい」と答えました。
 レッドパージは一九四九年から五〇年にかけてアメリカ占領軍の指令で政府と財界が、「破壊分子だ」などといつわって、全国で日本共産党員と支持者推定四万人を職場から追放した弾圧事件です。
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2008年05月21日,「赤旗」)
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レッド・パージ/名誉回復一日も早く/連絡センターが国会要請

 レッド・パージ反対全国連絡センターは二十日、「レッド・パージ犠牲者の名誉回復を一日も早く」と名誉回復と国家賠償を求める国会請願行動をしました。
 犠牲者など九都府県から四十四人が参加し、名誉回復と国家賠償を求める請願署名一万五千三十三人分を同行動に参加した日本共産党の吉井英勝衆院議員、仁比聡平参院議員に託しました。
 吉井議員と仁比議員があいさつし、日本の民主主義を切り開く重要なたたかいだと強調し参加者を激励しました。民主党の土肥隆一衆院議員があいさつしました。
 同センターはこのあと、衆院議員会館で交流活動集会を開催。金子圭之事務局長が、日弁連レッドパージ問題調査委員会の画期的な報告書のまとめや参院議長が要請を受けることになった注目すべき変化について報告しました。そして請願署名運動の強化や新たな裁判のたたかい、レッド・パージに関する自分史づくりなどの行動提起をしました。
 各地からは「五十八年ぶりに国に対して裁判を起こす」(兵庫)、「レッドパージ犠牲者以外にも広げて、会員を増やしたい」(神奈川)、「憲法を無視した不法、不当な弾圧は許せない。憲法を守るたたかいとしてがんばりたい」(山口)などの意見が出され、交流を深めました。
 日本共産党の吉岡吉典元参院議員があいさつしました。

レッド・パージ
 一九四九年から五〇年にかけて連合国軍総司令部の指令で政府と財界が「破壊分子だ」などといつわって、全国で日本共産党員と支持者推定四万人を職場から追放した弾圧事件です。
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2008年05月21日,「赤旗」)
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レッド・パージの証人/名誉回復求めて/5/藤村三郎さん(82)盛岡市/東北中の犠牲者の結集を

 一日に開かれた盛岡市のメーデー会場に、レッド・パージ犠牲者の名誉回復を求める署名を訴える藤村三郎さん(82)=盛岡市=の姿がありました。「一日としては最高の百十人も集まった」と声を弾ませます。これまでの合計は七百人を超えました。

GHQ指令で一方的に解雇
 一九五〇年九月二十五日、病気で休んでいた藤村さんに知らせが届きました。事務職として勤める日本通運盛岡支店が、自分を含む組合員三十人を三十日付で解雇するというものです。組合は団体交渉を続け、会社を追及しましたが、解雇基準は明かされませんでした。
 退職後、追放された仲間と運送会社を営んでいたときに、日本が「独立」国家となったサンフランシスコ条約の締結(五一年)を知ります。この報に藤村さんは「やってやろう」との思いで会社に解雇無効を求め提訴。原告団代表としてたたかいの先頭に立ちました。
 裁判の中でGHQ(連合国軍総司令部)幹部が日通側に「企業内の破壊分子は排除すべし」と告げていたことまで分かりながら、六九年の盛岡地裁判決はマッカーサー指令に「超憲法的効力」があると判断。仙台高裁(七五年)、最高裁(七七年)も同じ論法でした。
 「二十七年間のたたかいを『超憲法的』の一言ですまされて、もう腹が立ってね。パージされた仲間には、再就職の内定を取り消された人もいる」と言います。
 入社間もない四六年三月、二十歳で共産党に入党しました。力を合わせ労働組合結成に尽力し、職場環境の改善に取り組んだ同僚の誘いに「彼を信頼していたから迷いはなかった」と藤村さん。いまレッド・パージの誤りを正すのは「共産党の権威を取り戻すことにもつながる。レッド・パージは共産党に対する差別だから」と話します。
 藤村さんは、五年前に結成した盛岡レッド・パージ反対懇談会の一員として、風化させないための「事実の掘り起こし」に取り組んでいます。

3年かかって県内の一覧表
 懇談会はほぼ三年かけて、岩手県内のレッド・パージ犠牲者の一覧表を作成しました。公務員・企業合わせて二百八人。手紙などで、知り合いだった共産党員の消息をたどり、つきとめました。釜石製鉄所を追放された労働者の名簿が犠牲者の母親から送られてくるなど、成果は生まれています。
 昨年十一月、レッド・パージ反対全国連絡センターの代表委員に推されました。「今後はレッド・パージ当時の状況を記録する『自分史』を書く運動も進め、東北中の犠牲者を結集させたい」。思想信条の自由、人権を守る新たなたたかいの先頭に立っています。
 (おわり)
 ◇
 この連載は山本健二が担当しました。
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2008年05月13日,「赤旗」)
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レッド・パージの証人/名誉回復求めて/4/香野良男さん(81)福島市/風化させてはいけない

 福島市の郊外にある住宅街の一角に、九年間勤めた会社をレッド・パージされた香野良男さん(81)は住んでいます。家の庭ではサヤエンドウの葉が風にそよぎ、「実がなったら、毎年近所に配り歩くんだ」と語りながら当時を振り返りました。

突然解雇通告辞令は後でと
 「会社の都合で辞めてもらう。二時間以内に私物をまとめて出て行ってくれ。辞令は後で送る」
 一九五〇年八月二十六日、東北配電(現在の東北電力)で働く当時二十四歳の香野さんに、上司の福島営業所長が一方的に解雇を告げました。十五歳から勤めた職場からの突然の仕打ちでした。
 その前月、会社と結託して電産労組内に分裂を持ち込んでいた「民同」が「0号指令」の確認を組合員に求めました。「0号指令」とは「極左分子排除」などを名目にした思想調査で、当時の労働運動の中で影響力の大きかった電産労組を狙ったものでした。

思想調査行う確認書を拒否
 香野さんは六百二十人の組合員の中でただ一人、確認書の提出を拒否。「0号指令」の是非をめぐって、労組の分会大会で「民同」派の労組幹部と議論するなど奮闘しました。
 「勉強好き」を自任しながら経済的事情で中学進学をあきらめた香野さんは、二・一スト(四七年)の直後に入党した日本共産党員でした。「共産党は貧乏人の味方で一番正しいと思ったから、確認書は出さなかった」
 「民同」から確認書を提出しないと申告を受けた会社は、香野さんに解雇を突きつけました。実際は確認書を提出した共産党員も、労組活動をしていなかった人も職場から追放されました。労働者を守るべき組合が、労働者を追放したレッド・パージは「一生忘れようがない」。強い口調で香野さんは語りました。
 退職後の五二年、電気工事会社に再就職し、技術畑で六十八歳まで勤務。懸命に仕事をこなす姿に、「この会社は香野さんで持っている」と発注元で評判になりました。
 今は、「レッド・パージされた者の端くれとして、あのときのことを風化させてはいけない」と宮城県レッド・パージ反対同盟の結成総会(三月)など、犠牲者の集いには積極的に顔を出すようにしています。ともに追放された配電時代の同僚にも再会しました。
 「五〇年問題」で分裂した共産党に不信感を持って、レッド・パージ後の五十年間は「縁を切って生きてきた」という香野さん。六年前、「死ぬまで共産党員として全うしたい」と再入党しました。レッド・パージで奪われた人生を取り戻すかのように、支部会議やビラまきに加わっています。
 (つづく)
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2008年05月11日,「赤旗」)
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レッド・パージの証人/名誉回復求めて/3/渡辺愛雄さん(82)仙台市/仲間の無念今も胸に

 仙台演劇鑑賞会事務局長や全国演劇鑑賞団体の代表を務めた渡辺愛雄(よしお)さん(82)=仙台市=は、宮城県内の企業で百六十七人に上るレッド・パージ犠牲者の一人です。

武装警官30人つきまとわれ
 一九五〇年八月二十六日、東北配電(現在の東北電力)池月発電所で所員十七人中所長も含め九人もの大量解雇。武装警官三十人が発電所を警備し、「一時間以内に私物をまとめて職場から立ち去れ」と通告しました。二十四歳の渡辺さんは警戒の的にされ、警備は一カ月間続き、どこへ行くにもつきまとわれました。
 当時の電産労組は全国的にも影響力のある組合で、以前からGHQ(連合国軍総司令部)や「民同」が労組への干渉を強めていました。
 退職後は実家のある仙台市に戻り、行商やともに職場を追われた兄と屋台を開いたりしました。
 犠牲者が各地の労働委員会に申し立てる中で、会社側は「勤務怠慢とか、組合活動の域を越え他人を扇動した」などと解雇理由を挙げているのを知りました。「でっち上げだ。あれだけ戦後の荒廃した電気事業の復興に尽くしたのに」。送電線事故のときは復旧のため、腰までつかる雪を押し分けて山の中を歩いたことを思い出しました。
 五四年に解雇無効を求め会社を提訴、東北管内百九十二人の原告団の代表に推されました。原告一人ひとりがいかに電気事業復興に貢献したか証言を積み重ね、裁判の中で被告側に「解雇はレッド・パージによるもの」と認めさせました。
 しかし七四年の仙台地裁判決は「新会社は解雇者を承継していない」とし、マッカーサー指令を「超憲法的な行為」と認定したのです。八〇年の最高裁判決まで約三十年間かかりましたが、地裁判決から何も進展しませんでした。

弾圧を見直す国際的流れが
 渡辺さんは〇五年十一月、吉岡吉典氏(日本共産党元参院議員)の講演に励まされました。
 イタリアでの追放者の名誉回復と年金の支給をはじめ、「赤狩り」のアメリカ最高裁違憲判決など「不当弾圧を見直す国際的な流れがあるという話に勇気づけられた」と再びたたかうことを決意。人生を狂わされ、無念の思いで死んだ仲間や、残された家族を今でも思い出します。
 この三月に開かれた宮城県レッド・パージ反対同盟の結成総会で、渡辺さんは「この活動は当事者の私たちにしかできない」と参加者に訴えました。「国や企業に謝らせて、レッド・パージが間違いだったという刻印を押したい」
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2008年05月10日,「赤旗」)
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レッド・パージの証人/名誉回復求めて/2/佐藤九二一さん(88)宮城・柴田町


アメリカの「わび状」ほしい
 太平洋戦争が始まった一九四一年から教職に就き、国のためには生命をもささぐべしと教えた小学教師だった佐藤九二一(くにいち)さん(88)=宮城県柴田町=。その反省から終戦後、子どもの自主性を育てる教育をめざしました。

自主性育てる教職奪われた
 授業に当たって芝居の脚本を書くように指導案を作り、子どもみんなが発言できるように工夫・研究しました。その佐藤さんから教職を奪ったのがレッド・パージです。
 共産主義者の大学教授は排除すべしとする「イールズ声明」が出され、小・中・高の教職員にまでレッド・パージが吹き荒れた一九四九年の九月、佐藤さんは県学務課の指導主事から「とにかく辞めてくれ」と解雇を告げられました。後に「県教育委員会の方針に従わない、偏向教育をしている」という理由があったと知りました。
 当時三十歳、宮城県教職員組合の青年部長だった佐藤さんは、高校生の不当退学処分をめぐって組合として県に抗議したり、民主教育の実践活動に取り組んでいました。
 「当時は貧しく、成績の良くない生徒を学校側が差別する状況だった。それを正したかったのに偏向なんていわれるいわれはない。当時、仙台駐留の軍司令部の意向に県教委が言いなりになったんです」
 教え子の父母ら六十人が県庁で「なんでこんないい先生を辞めさせるんだ」と抗議しました。決定はくつがえらず、翌月に学校を去ることになりました。仙台空襲のあと不発弾の暴発で命を落とした教え子や、共産党入党のきっかけになった同僚教師の姿が頭を駆け巡りました。
 佐藤さんと同時期に県内でレッド・パージされた教員は、発表されただけでも二十五人を数えました。「夫婦でパージされて布団屋になった先生もいたんだ。思い出すと、悔しくて悲しくてしょうがない」と話します。
 退職後も教育にかかわり続けようと教材販売会社を設立。学校を訪問すると「あいつはアカだから買うな」とささやく校長がいましたが、大多数の教師は「われわれのために犠牲になったのだ」と佐藤さんを励まし、協力しました。自転車で学校回りをして創立した会社は発展し、現在は従業員六十人を超えます。

「偏向教育」の汚名を晴らす
 「会社は米寿を盛大に祝ってくれたし、六十年過ぎた今も教え子たちは私を囲む会を開いてくれる」と語る佐藤さん。いま、宮城県レッド・パージ反対同盟に参加しています。
 「偏向教育をしたから辞めさせられたという汚名を晴らしたい。アメリカがいなかったら私もこうならなかった。補償はいらない。レッド・パージは間違いだったという謝罪、わび状がほしい」
 (つづく)
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2008年05月09日,「赤旗」)
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レッド・パージの証人/名誉回復求めて/1/レッテル張られたまま死ねぬ

 1949年から50年にかけて、アメリカ軍の全面占領下の日本で吹き荒れたレッド・パージ。日本共産党員とその同調者とみなした人々を多くの職場から追放し、その数は全国で4万人に上るといわれる、戦後最も無法な弾圧です。かつて復職や解雇無効を主張してたたかった人たちが、東北各地で再び名誉回復を求めて立ち上がっています。
 「アメリカ、日本政府、財界に『民同』。自分を弾圧したすべての権力は許せないと、今も憎しみを持っているよ」
 逸見(へんみ)光雄さん(89)=山形県河北町=は、十四年間郵便局員一筋に働いていた自分を襲ったレッド・パージを振り返ります。

突然解雇通知CICが指名
 一九四九年八月十二日、山形電気通信局(現在の山形中央郵便局)に勤めていた逸見さんは局長室に呼ばれ、私服警官立ち会いのもとで一通の辞令を渡されました。「行政機関職員定員法により免職する」とだけ書かれた解雇通知。当時三十歳の逸見さんは、全逓山形地区本部の書記長として職場で首切り反対の先頭に立っていました。
 「憲法に反するものだ」と局長に抗議しますが理由は示されず、かつてマッカーサー批判の疑いをかけて尋問してきたCIC(米陸軍情報機関)が自分を解雇するよう指名したと知りました。
 ほどなく局側は、追放した労働者に「共産党に入ったのは本意ではない」と「脱党宣言」すれば復職を考慮すると打診してきました。逸見さんら労組幹部に対して、「民同」幹部の起草した宣言を山形新聞に掲載することが条件でした。

共産党を弾圧治維法と同根
 「アメリカと一緒に組合破壊をしてきた『民同』に従うわけにはいかない。復職すれば裏切りになる」と、逸見さんは退職を選びました。ともに追放された同僚の中には、弟が教員に採用されないなどの圧力を受けて離党した人もいます。
 退職後は農業やせんべいの売り歩きなどしてきた逸見さんが最終的に選んだのは、日本共産党の活動でした。
 一九四七年三月、戦前の弾圧に耐えて献身的にたたかう姿に引かれ、共産党山形県委員会を訪ねて入党。五二年に新庄・最上地域に派遣され、党の発展に力を尽くしました。
 いま治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の県本部会長を務める逸見さんは、治安維持法とレッド・パージは「共産党に向けられた弾圧として同根のもの」と語ります。自身の名誉回復について「もう長い時間がたったとあきらめかけたが、今は私たちが正しかったと必ず理解されると確信している」と訴えました。
 確信の源は、全国各地で広がるレッド・パージの名誉回復・国家賠償を求める動きです。神奈川や兵庫、今年三月に反対同盟を結成した宮城などの動きを知ったときは、思わず体が震えるほどの興奮を覚えました。
 「この年になると歩くのもおっくうだけど、破壊活動者のレッテルを張られたまま死ぬのは残念だからね」。レッド・パージの誤りをただす運動に、残された人生をかけています。
 (つづく)

「民同」
 一九四七年から四八年にかけて、産別会議やその加盟組織などもっとも戦闘的な労働組合の内部で生まれた、「民主化同盟」「反共同盟」などを名乗る反共分裂組織の総称。「共産党の組合支配」から労組を守ると見せかけ、アメリカ占領軍と財界の援護のもとにレッド・パージを推進しました。
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2008年05月08日,「赤旗」)
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岡野庄蔵さん偲ぶ集い開く/治維法国賠同盟支部/秋田

 秋田県の治安維持法国賠同盟本荘由利支部は十八日、前支部会長の岡野庄蔵さんを偲(しの)ぶ集いを開きました。風雨のなか十三人が参加しました。
 高橋信夫同支部事務局長が経過報告をし、渡部馨同支部会長があいさつ、続いて近江谷昭二郎同県本部会長が「社会進歩のため命の限り歩き続けた岡野庄蔵さんを偲ぶ」と題して話しました。
 岡野さんは、一九四六年四月に日本共産党に入党し、労働運動で指導的役割を果たしますが、五〇年にレッドパージで職場を追放され、翌年の二月には、政令三二五号(占領目的阻害行為処罰令)で逮捕され、秋田刑務所に三カ月勾留され黙秘でたたかいました。その後、共産党由利地区委員長、衆院選や県議選、本荘市長選などに立候補してたたかうなど活躍。近江谷氏は、共産党員として社会進歩への厳しい道を命のある限り歩み続けたと語りました。
 参加者は、レッドパージのことや戦前から戦後のたたかいと革新の伝統など、国政革新について語りました。
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2008年04月26日,「赤旗」)
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背表紙/『占領期の朝日新聞と戦争責任』……激動期の変ぼうを追う

 戦時統制下で安定経営が保障されていた新聞は戦後、占領下の激動に遭遇します。戦争責任、公職追放、GHQの直接統制とプレスコード、朝鮮戦争、そしてレッドパージ…。
 今西光男著『占領期の朝日新聞と戦争責任』(朝日新聞社・一四〇〇円)は、社主家と経営陣の抗争をタテ糸にしながら、さまざまな局面で新聞はどう動いたか、どう変ぼうし生き延びたのかを、膨大な資料を駆使して追っています。
 それぞれの動きについての評価はせず、「第三者」の立場で分析・記述し、しかも登場人物はすべて実名。それだけに、ドキュメンタリーを読むような臨場感と迫力があります。
 GHQの指示のもとですすめた労働組合対策、GHQと法務省特別審査局(のち公安調査庁)のリストがもとになったとされるレッドパージ、さらにその水面下で動いた「アサヒ・マン」なる人物。それらをどう読み取り、評価するかは読者に委ねられます。
 それにしても、戦前戦後を通して(そしておそらく「現在」も)変わらないのが、新聞界に張り巡らされた政治権力や右翼とのパイプと人脈。りつ然とさえします。
 著者は前著『新聞 資本と経営の昭和史』で、戦前、新聞が軍部に屈服する経過を追いました。本書はその続編。
 (柿)
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2008年04月20日,「赤旗」)
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レッドパージ国家賠償実現へ/来月20日国会請願

 レッドパージ反対全国連絡センターはこのほど開いた事務局会議で、五月二十日に犠牲者の名誉回復と国家賠償を求めて国会請願行動をするとともに、活動交流集会を開くことを決めました。名誉回復と国家賠償を求める運動は、請願署名が各地で取り組まれ、各地弁護士会への人権浸害救済の申し立ても八都県の六十人を超える人たちが参加するなど前進しています。
 運動の反映もあって日本弁護士連合会レッドパージ事件調査委員会は、「可及的速やかに犠牲者の名誉を回復する措置をとるべきだ」とする報告書をまとめています。全国連絡センターでは、活動交流集会に各地の組織と、各政党、団体に参加をよびかけています。
 レッドパージは第二次世界大戦後、アメリカ占領軍の指令に基づいて日本国政府と財界が、一九四九年から五〇年にかけて、日本共産党員と支持者四万人を「破壊分子」などと偽って職場から追放した弾圧事件です。
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2008年04月17日,「赤旗」)
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レッドパージの不当性認定させ、国家賠償を/宮城反対同盟29日結成へ

 アメリカ占領下の日本で、公務員や民間企業で活動する日本共産党員や支持者と見なした労働者を職場から追放したレッドパージの不当性を国に認めさせ、犠牲者の名誉回復と国家賠償を求める宮城県レッド・パージ反対同盟の結成総会が二十九日午後一時半から、仙台市の県労連会館で開かれます。
 レッドパージは一九四九年から五一年にかけて、アメリカ占領軍の指揮と政府・財界の協力のもとに強行されました。全国での被害者は四万人と推定され、宮城県では百六十六人の民間労働者が職場を追われました。
 一九五〇年八月には、宮城県の電気労働者百二十八人が、会社から理由も示されず解雇を言い渡されました。生活の糧を奪われた犠牲者の中には、自殺した人もいます。東北管内の労働者百九十二人はサンフランシスコ条約発効後の一九五四年、東北電力を相手取り解雇無効を求める裁判を起こし、約三十年たたかいましたが敗訴。国や企業からの謝罪や救済は、いっさいありません。
 レッドパージから約六十年たった現在、アメリカ最高裁で「赤狩り」に違憲判決が下されるなど弾圧犠牲者の人権問題を見直す国際的な流れが生まれています。日本各地でも、再びレッドパージの不当性を問う運動が盛り上がってきました。現在、県内に約二十人の犠牲者がいる宮城県でも反対同盟の準備会が結成総会に向け、民主団体の支援要請に取り組んでいます。
 反対同盟の渡辺愛雄(よしお)事務局長(82)は「レッドパージはアメリカ占領政策のなかの重大な誤りであり、歴史の汚点だと国に認めさせるのは当事者の私たちにしかできない。いま職場差別裁判をたたかう人々にも励みになるよう頑張りたい」と語っています。
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2008年03月22日,「赤旗」)
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2008年新春てい談/3ブロック衆院比例候補/下/笠井亮さん/塩川てつやさん/はたの君枝さん

笠 井/被爆者の母の教え受け
母が初めて会った党員は/塩 川 
はたの/いい世の中へ頑張った父

日米軍事の拠点許さず
 はたの君枝 昨年十二月にキャンプ座間の米陸軍第一軍団前方司令部が発足しました。座間市では市民過半数の六万、相模原市で二十一万の反対署名が集まったのに負担を押し付ける。キャンプ座間は有事になると陸海空海兵隊の四軍全部の司令部となります。首都圏エリアですでに訓練している陸上自衛隊の中央即応集団、その司令部が朝霞(埼玉県)から二〇一二年までにキャンプ座間に移転します。
 米海軍横須賀基地の原子力空母母港化の問題でも、二〇〇六年に続き再び住民投票条例の直接請求運動が進んでいます。
 笠井亮 米軍再編のなかで首都圏の基地が強化されているし、特にミサイル防衛の関係で位置づけがあると思いますね。PAC3(地対空ミサイル)が配備されるのも埼玉・入間、千葉・習志野、茨城・霞ケ浦、神奈川・武山の四カ所の自衛隊。首都の防衛を想定し入間のPAC3を東京に持ってきて訓練するという計画があり、反対の声をあげて防衛省に申し入れたら年末にやるといっていた計画が延期されました。
 塩川てつや 首都圏では在日米軍基地と同時に、自衛隊強化、陸海空の日米軍事一体化の問題があり、これに対する取り組みを強めるときですね。首都圏は沖縄に次いで米軍基地が多く、自衛隊の海外派兵を担う中央即応集団司令部(朝霞駐屯地)傘下の部隊は大宮、宇都宮、習志野、木更津などいずれも首都圏の駐屯地に置かれています。
 茨城の自衛隊百里基地で米軍再編に伴う日米共同訓練が昨年十月に行われましたが、沖縄の負担軽減といいながら嘉手納ではなく青森の三沢から米軍機F16が来るわけです。三沢の米軍部隊はイラク戦争の現地攻撃に参加していた部隊です。報復戦争の実戦部隊と一緒に自衛隊機が訓練するということが自衛隊の海外派兵部隊化を端的に示していると思いますね。
 笠井 昨年十一月に補給艦「ときわ」がインド洋から日本に帰ってきました。二カ月給油をやっていないからといって世界から非難などまったくない。米国と一蓮托生(いちれんたくしょう)で給油を再開したいとあくまで日米同盟にしがみつくのは日本ぐらいですよ。

生活変えるエネルギー
 塩川 国民が政治を動かすということでは、被災者生活再建支援法改正が臨時国会で一番のうれしい成果でした。「ねじれ国会」というけど、もともと国民の要求と自公が多数の国会がねじれていたわけだから、現状は「民意とのねじれ是正国会」なんですよね。
 昨年九月、関東を横断した台風の被害で孤立集落が出た群馬県南牧村に行きました。大雨で川があふれて道路が寸断されたところを歩いて被災者のお宅を訪問したんですけど、仏壇と夫の位牌(いはい)だけ残して家財道具が流された七十代の独り暮らしの女性が「夫が守ってくれた」と。ここで住み続けたいと訴えておられました。そういう被災者を応援するという被災者生活再建支援法の意味があったと思うんです。
 ただ、南牧村の場合は被災家屋が法の対象となる十戸に届かなかった。十戸未満でも国と同等に支援される制度を自治体がつくるようそれぞれの都県で地方議員団と力をあわせて前に進めていきたいと思っています。
 はたの 十三年間候補者・議員活動をしていますがいま党の綱領と国民の生活実態がかみ合ってきていると実感しています。神奈川では若者が「お仕事実態調査」をやって県に『若者労働ガイド』を八万部作らせました。くらしの大変さを変えようという実践とエネルギーがあふれています。
 笠井 自民と民主の「大連立」協議で、選挙での選択、投票と政党という関係について非常にはっきりしたのではないか。自民、民主の片方だけではできないような国民の願いに反する海外派兵恒久法や消費税増税をやるために連立しようとしていると、きちんと話して知らせていけば分かってくれる。攻勢的にやれる解散・総選挙になるんじゃないでしょうか。

「マーロ」が国会に必要
 塩川 私は埼玉の日高市の農家で生まれまして。タヌキは見たことあっても共産党員は見たことがありませんでした(笑い)。世界に飢餓や貧困があるのはおかしいと思いながらどうしたらいいか分からない。大学で日本共産党と出合い、軍事同盟をやめ非同盟に進むという訴えが新鮮であり、入党したきっかけです。
 戦前のアカというイメージを持っていた母が初めて会った共産党員は自分の息子だった(笑い)。「お前がニンジンが嫌いなように私は共産党が嫌いなんだ」、理屈じゃないというんですね。でも私はいまニンジンが食べられるようになったし、食わず嫌いだったと。いまでは母も応援団です。
 先輩たちが戦前、命をかけて侵略戦争に反対を貫いたたたかいは、戦後の反戦平和、主権在民の願いが込められた憲法に体現された。その日本共産党の党名は誇りをもって訴えていきたいです。
 はたの 私の父は戦後、レッドパージでクビを切られ、うんと苦労したんです。軍国青年だった父は本当にいい世の中をつくりたいと思って、共産党員として労働組合運動とか頑張った。父がケーキを買おうと思ったら一円足りなくて「買えなくてごめん」といわれ、切なかった覚えがあります。母は東京大空襲の被災者なんですよ。貧乏と戦争をなくしたいというのが原点で、私は十八歳で党に入ったんです。
 笠井 私はサラリーマンの父と被爆者の母という家に育ち、父は「まじめに人に尽くせ」、母は「地獄のような悲劇を繰り返させるな」と教えてくれた。その結論として選んだのは、まじめに人に尽くし核兵器廃絶・平和を貫く日本共産党に入ることでした。
 青年時代に民青同盟代表でハンガリーに駐在し、旧ソ連の横暴とたたかう経験をしました。ソ連のアフガニスタン侵略は正しいとか、ソ連代表がみんなに支持を押し付ける状況に私一人が反対する。そのときついた私のあだ名が「マーロ」でした。スペイン語で「悪いやつ」だけど「本当はいいやつ」。内心、ソ連のやり方はおかしいと思っていた各国代表の日本共産党への思いでした。
 いまの国会には、自民党の横暴と対決し政治を転換する「マーロ」が必要。その存在を強く大きくしなきゃいけない。人口千二百万人の東京は二議席以上に向け前進の先頭に立たなければなりません。その責任の大きさをしっかり胸に刻み頑張っていきたい。
 塩川 北関東ブロックの定数二十に共産党一人では少なすぎる。倍増が必要です。
 はたの 南関東で志位委員長の議席を守り抜き、大森猛さんの後を引き継いで何としても議席を奪還、前進できるように奮闘したいです。
 (おわり)
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2008年01月06日,「赤旗」)