2009年レッドパージ犠牲者の活動】

 

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*         2009年 (ページトップへ)

*         レッド・パージ誤り認めよ/米大使館に要請/連絡センター

*         10s20sYモード/ピース・ナイト・ナイン/渡辺えりさん学生とトーク

*         国は犠牲者救済を/レッド・パージ国賠裁判弁論/神戸地裁

*         レッド・パージ連絡センター/新役員が党本部訪問

*         「松川事件」上映/福岡で100人

*         映画「松川事件」来月福岡で上映/励ます会

*         ゾウ列車が走って60年/藤村記一郎/次の世代に引き継ぐ音楽運動

*         レッド・パージ連絡センター/運動飛躍へ総会/市田氏あいさつ

*         レッドパージ反対連絡センター総会/きょう1時市田氏あいさつ

*         日本共産党元衆議院議員安藤巌さん死去

*         レッド・パージ反対闘争60年/学問の自由守る糧に/新潟大シンポ

*         レッドパージ被害者が集い/都内・30人参加

*         水曜随想/参院議員仁比聡平/要求と期待の奔流に応えて

*         共産党活動家墓前祭を開く/仙台市

*         レッド・パージ/名誉回復へ支援を/市田書記局長に要請/全国センター

*         歴史的総選挙/人生かけて/水口正夫さん(83)三笠市/「いくつになっても一歩前進」

*         取手「政令201号」事件/土井さんを励ます集い

*         レッド・パージの2人「名誉回復勧告を」弁護士会人権委に申立て/札幌

*         命ある間に名誉回復を/レッド・パージ犠牲者が陳述/神戸地裁

*         名誉回復・国家賠償を/レッド・パージ/国会に請願

*         レ・パ反対の運動で学習会/山口市

*         宮城県レッド・パージ反対同盟が総会

*         レッド・パージの証人/名誉回復求めて/6/長谷部健さん(86)秋田市/人をモノ扱い社会は今も

*         レッド・パージの証人/名誉回復求めて/5/長南善蔵さん(84)福島・須賀川市/人生に一本筋を通せた

*         江別・芦別事件/井尻さんの妻光子さん囲む会

*         レッド・パージの証人/名誉回復求めて/4/盛岡市長尾正一さん(82)/悔しさ今も活動のバネに

*         レッド・パージの証人/名誉回復求めて/3/高橋金三郎(84)宮城・多賀城市/追放′繧烽ツきまとわれ

*         レッド・パージの証人/名誉回復求めて/2/音山信二さん(79)山形市/信念曲げないでよかった

*         レッド・パージの証人/名誉回復求めて/1/渡辺勇一さん(81)盛岡市/人生を左右する仕打ちだ

*         レッド・パージ犠牲者の遺族/人権救済初の上申/福岡

*         社会運動史家・非核政府の会常任世話人塩田庄兵衛さん死去

*         レッド・パージ考える集い開く/神奈川

*         レッド・パージ国家賠償求める3氏の支援集会/神戸

*         レッド・パージ国家賠償訴訟原告/いまも許せない/安原清次郎さん(88)神戸市

*         レッド・パージ償え/犠牲者、国を提訴/神戸地裁

*         文芸時評/三浦健治/青来有一「ブーゲンビリア号の船長」/林田遼子「ぼうねえ」

*         レッド・パージ反対センター/国会請願へ運動強化

*         レッドパージ/人権救済を申し立てへ/熊本同盟

*         レッドパージ考えるつどい/厚木革新懇

*         がんばれ共産党/倉敷市・屋守町内会連合会廃船撤去運動のメンバー道広利三郎さん(65)

*         レッド・パージ犠牲者仁比・吉井議員と懇談/兵庫

*         対談/うどんは命の綱/池上留美子さん/笹岡まさるさん

*         (本文)2009(このページのトップへ)

レッド・パージ誤り認めよ/米大使館に要請/連絡センター

 レッド・パージ反対全国連絡センターの金子圭之事務局長など代表団は24日、アメリカ大使館を訪れ、オバマ大統領あての「アメリカ政府は60年前、レッド・パージの強行を指令した重大な誤りを認め、被害者に謝罪すべきです」との文書を手渡しました。文書は11月の同センター総会で決議したものです。
 代表団は、1949年から50年にかけて4万人(推定)を職場から追放したレッド・パージは、アメリカ占領軍の指令で強行された経過をのべたうえで、日本弁護士連合会の救済勧告で60年目にして解決の光が見えてきたこと、このときこそアメリカ政府がレッド・パージの誤りを認めることが大事であると説明しました。そしてアメリカ、イタリア、スペインなどの解決例をあげて被害者の名誉回復の緊急性を強調しました。
 これに対して応対した書記官は「レッド・パージは人権問題として私も研究したい。これを解決することは、日米両国民の友好関係を強める大事な課題だと思う。文書はオバマ大統領に必ず届くよう取りはからいたい」と約束しました。
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2009年12月26日,「赤旗」) (このページのトップへ)

10s20sYモード/ピース・ナイト・ナイン/渡辺えりさん学生とトーク


核も戦争もない世界へ考え、発信/大いに生きて平和や憲法を語ってほしい
 「憲法9条は私たちが生きるためのものだから、大いに生き、平和や憲法を語ってほしい。それがおのずと平和につながる」―テレビでもおなじみの劇作家で演出家、女優の渡辺えりさんをゲストに、第3回Peace Night 9(ピース・ナイト・ナイン)が11日、早稲田大学で開かれました。
 神田晴雄記者
 米重知聡記者
 
 大学生が核兵器も戦争もない世界をどうつくるかを考え発信する集いです。主催は実行委員会と早大9条の会(Article9)。学生や市民、500人が参加しました。
 戸塚治虫さん(明治大学2年)、木内悦子さん(中央大学4年)の質問に渡辺さんが答える形で進行しました。
 「世の中を変えたいと若いなりに真剣に考えた。それとジュリー(沢田研二)と結婚したかったから」。演劇の道を選んだ理由を二つあげ、冒頭から会場の笑いを誘った渡辺さん。「貧富の差がなくて平等で、だれもが自由に職業を選べる」社会を理想に描いていたこと、「ガラスの動物園」(T・ウィリアムズ作)の舞台に感動したことなど、青春時代から語り始めました。

タブーは危険
 渡辺さんがテレビのコメンテーターをしていることにかかわって、「言いたいことが言えないタブーの雰囲気」について聞かれ、「それは危険なこと」とのべ、こう続けました。
「第2次世界大戦の名残り。特高(特別高等警察)とかレッドパージとか。それが尾を引いている。私は言いたいことが言えない時代が一番恐ろしいと思う」と強い口調で語りました。
 渡辺さんの話は縦横無尽に展開し、「事業仕分け」についてコメントしたときのことを紹介しました。
 「事業仕分けのとき、『演劇とか夢を与えるものにお金を使ってほしい』って発言したんです。自殺する人が3万人。生きがいや生きる目的がないと幸せを実感できません。幸せはお金のあるなしじゃない。夢を(人々に)与えるものにお金を使ってほしい。それを発信するのが演劇ですから」
 トークに先立ってArticle9がおこなった早大生アンケート結果が映像で紹介され、その中にこんな結果が。
 ―「若者が平和に関して発言、行動することをどう思いますか」の問いに、「やりたい人が行えばいい」59%。「積極的に行うべき」36%。
 聞き手がこれにふれて「何もできないことを自覚するのがつらくて現実から目をそらしてしまいがちです」と質問。渡辺さんが答えました。
 「若い人がやりたいことをやれないのはあたりまえ。私もそうだった。でもいま私は54歳。皆さんより残された時間がないから早くやらないと。被爆者の話を聞いたりしている」
 「私たちが生きているこの生活を踏みしめて立たない限り平和も憲法も語れないと思う。自分が大いに生きることから始めてほしい。それが平和につながる」
 渡辺さんのトークに先立ち、早大の教授、被爆者、沖縄出身の大学生、高校生がリレートークをしました。

参加者の感想

わかりやすい/高橋香織さん(25)日本大学学生
 初参加の私にもわかりやすい集会でした。沖縄の人の話で、実際に住んでいる人にとっては基地のある生活が現実なんだとわかりました。

私も考えたい/薬剤師の木内知子さん(24)
 9条や平和は私たちの生活の中にあるんだというお話に納得しました。渡辺さんが紹介していた本など、加害者としての日本の戦争のことなど、考えてみたい。

ポスターみて/永井宏志郎さん(早大国際教養学部1年)
 ポスターを見て来ました。ぼくも平和活動をする側に立ちたい。自分の意見をまず言うところから始めたい。
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2009年12月20日,「赤旗」) (このページのトップへ)

国は犠牲者救済を/レッド・パージ国賠裁判弁論/神戸地裁

 アメリカ占領軍の命令で日本共産党員であることを理由に解雇・免職されたレッド・パージ犠牲者が国家賠償を求めた裁判の口頭弁論が16日、神戸地裁で行われました。
 原告側の松山秀樹弁護士が、レッド・パージの実態と解雇・免職を有効とする最高裁判例の誤りを解明し、被害者が社会的にも排除され、憲法が保障する基本的人権の侵害を政府が救済する義務があると主張。講和条約発効後、主権を回復したにもかかわらず政府が放置していることについて、「(強制されて)川に転落させた人物が、その強制された状態から解放された後で、いまだに目前に自ら転落させた人物がおぼれかけているのを見ながら、そして自らその転落者を容易に救助できるのにもかかわらず、転落させる際に強制されてやったのであるから救助しなくても責任はないというに等しい主張」だと批判しました。
 報告集会で、原告の安原清次郎さん(88)は、「私がたたかって勝つということは、全国の2万人のレッド・パージ被害者が勝つということです」とのべ支援を訴えました。
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2009年12月17日,「赤旗」) (このページのトップへ)

レッド・パージ連絡センター/新役員が党本部訪問

 レッド・パージ反対全国連絡センターの大橋豊代表委員、金子圭之事務局長ら先の総会で選出された役員が15日、日本共産党本部を表敬訪問し、浦田宣昭国民運動委員会責任者、有坂哲夫同事務局長らと懇談しました。
 大橋、金子氏らは11月の総会での市田忠義書記局長のあいさつに謝意を表明。総会の内容を報告しました。「来年はレッド・パージから60周年。ふさわしい行事も考えており、協力をお願いしたい」などと要請しました。
 浦田氏は、心強いたたかいを続け前進方向を切り開いていることに勇気づけられていると敬意を表しました。そして「名誉回復と国家賠償を勝ち取るたたかいにともに全力を挙げていきたい」とのべました。

レッド・パージ
 1949年から50年にかけてアメリカ占領軍の指令で政府と財界が、「破壊分子だ」などといつわって、全国で日本共産党員と支持者推定4万人(レッド・パージ反対全国連絡センター調べ)を職場から追放した弾圧事件です。
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2009年12月16日,「赤旗」)
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「松川事件」上映/福岡で100人

 松川事件とレッド・パージ(行政機関職員定員法)発生60周年を記念して、映画「松川事件」の上映とレッド・パージ犠牲者を激励する会が4日、福岡市中央区でひらかれ100人が参加しました。
 60年間「レッド・パージは憲法違反、名誉回復を」とたたかい続ける4人のレパ犠牲者が登壇し、「みな80歳を超えたが、名誉回復までがんばる」と決意を表明。参加者は大きな拍手で激励しました。
 参加者から、「驚きました。戦後の三大事件はまだ解決していない。被告とされた方々があのような裁判闘争をされていたとは、いまの私たちも学ばなければならないと思う。真実の前には何も恐れるものはない」「ただ涙が出てとまりませんでした。私もレッド・パージを受けた一人です。最後までたたかいます」「レッド・パージを受けた方々がいまもたたかっていることを知りませんでした。こちらが励まされました」などの感想が寄せられました。
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2009年12月08日,「赤旗」)
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映画「松川事件」来月福岡で上映/励ます会

 1949年8月17日未明に東北本線で発生した列車の脱線転覆事件、いわゆる「松川事件」=冤罪(えんざい)事件の、無実を勝ち取る裁判闘争を描いた映画「松川事件」の上映と「レッドパージ犠牲者を励ます会」が12月4日、福岡市中央区荒戸3の福岡市民福祉プラザ(ふくふくホール)で行われます。松川事件60周年を記念した企画。
 当日午後2時開場。同2時20分からの「励ます会」に続いて、3時から、61年に制作された「松川事件」(山本薩夫監督、2時間42分)が上映されます。
 前売り券1000円(当日券1300円)。シニア(60歳以上)・障害者券1000円。
 主催は映画「松川事件」を観る会。治安維持法国賠同盟福岡県本部、レッドパージ犠牲者国賠要求同盟、自由法曹団福岡支部の共催。問い合わせは国民救援会福岡県本部092(713)0144、九州共同映画社092(741)7112。
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2009年11月27日,「赤旗」)
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ゾウ列車が走って60年/藤村記一郎/次の世代に引き継ぐ音楽運動

 戦前、日本軍に抵抗しゾウの命を守り抜いた名古屋市の東山動物園園長、故北王英一さんのおかげで、戦後、「本物のゾウを見たい」という各地の子どもたちを乗せてゾウ列車が走った。今年はそのゾウ列車が走って60年になる。第1号は1949年6月18日に滋賀県彦根市から出発した。
 そのころ、日本はGHQの占領下で列車の運行についても許可が必要だった。社会主義の中国・朝鮮誕生を機にアメリカが日本を〈反共の防波堤〉にしようと、レッドパージや騒乱事件が起こされた。そんな中でも子どもたちは夢の実現のために行動し、大人たちが動き、奇跡的ともいえる「ゾウ列車」が走った。その歴史から学び、「平和と命を守り抜く」という原点をいつも確認しながら未来につながる運動にしようと、私たちは2つの行事を企画した。
 ひとつは「ぞう夏まつり」(7月、東山動物園にて)。会場には、三重県松阪市立天白小学校の昨年度卒業生が、自校のゾウ列車の歴史を掘り起こし、オリジナルの絵本にして表現した巨大壁画が飾られた。特に今回若者が参加する運動に、との思いで企画した〈青年の主張〉では、合唱構成「ぞうれっしゃがやってきた」(以下「ぞう」)の合唱に取り組んできた宮崎県小林市青年団協議会から「取り組む意義を徹底して話し合うことを大切にする」という報告があった。また、子どもの時に「ぞう」を歌って平和について考えた結果、自衛隊に入り、そこであらためて戦争と平和について考え、平和な文化をつくる「ぞう」の運動に戻ってきたという青年の報告など感動することばかりだった。
 〈子ども議会〉では「僕が、私が夢みる動物園」というテーマで、たくさんの子どもたちが動物園への夢や期待を語り、東山動物園園長さんも一つ一つの意見に丁寧にコメントして下さり、「東山動物園の歴史の中でゾウ列車を一番の誇りとする」と語られた。
 もうひとつは、29日(日)の「記念音楽会」(愛知県勤労会館・午後1時半開演。連絡先рO52・805・8089藤村方)。子どものころ「ぞう」を歌い声楽を志した若きソリストたち、「ぞう」で踊るチアリーディング、映像メッセージ、300人を超える全国合同演奏、吹奏楽版愛知初演など、私たちが全国の皆さんと力を入れて取り組んできたものをたくさんの方々に聴いてほしい。「ぞう」は1986年の初演以来、大人も子どもも世代を越えて歌うことで歴史を語り継ごうとしてきたが、今、この運動を次の世代にしっかりと引き継いでいくことが求められている。
 (ふじむら・きいちろう 「ぞうれっしゃがやってきた」作曲者)
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2009年11月25日,「赤旗」)

レッド・パージ連絡センター/運動飛躍へ総会/市田氏あいさつ

 レッド・パージ反対全国連絡センターの第5回総会が17日、東京都内で開かれ、レッド・パージ被害者とその家族、支援者82人が参加しました。
 金子圭之事務局長が方針案を提案。被害者の名誉回復と国家賠償を求める請願署名の前進や日本弁護士連合会による人権侵害救済勧告など運動の前進を強調しました。そして次期総会までを「反対運動飛躍の年度に」と呼びかけ、被害者の名誉回復と国家賠償を内容とする特別法制定を求める請願署名の取り組み、日弁連と各県弁護士会への人権侵害救済の申し立てを広げる―などを提案しました。
 討論では「レッド・パージのそもそもが分かるリーフレットをつくり、署名目標を決め対話をすすめている」「中小業者、女性、市民団体などに広く署名を訴えている」との発言がありました。
 総会では日本共産党、全労連などの代表があいさつしました。
 日本共産党の市田忠義書記局長は、レッド・パージという理不尽な弾圧に対し不屈にたたかってきたことに敬意を表明。「名誉回復と国家賠償の要求実現に全力あげる」とのべました。そして日弁連が政府と企業に人権侵害救済の勧告をし、総選挙で自民党政治に国民の審判が下った新たな局面に確信をもち運動を進めようとよびかけました。
 市田氏はたたかいは歴史の一大汚点をただす意義にとどまらず、職場での思想差別を克服する労働運動・民主運動の一翼を担う今日的な意義をもつと強調、ともにたたかう決意をのべました。
 弁護士の橋本敦さん(元日本共産党参院議員)が記念講演をしました。
 総会では大橋豊(兵庫)、福島正見(新、九州)、藤村三郎(盛岡市)、宮原文雄(群馬)の4代表委員と金子圭之事務局長を選出しました(新以外は再選)。

レッド・パージ
 1949年から50年にかけてアメリカ占領軍の指令で政府と財界が、「破壊分子だ」などといつわって、全国で日本共産党員と支持者推定4万人(レッド・パージ反対全国連絡センター調べ)を職場から追放した弾圧事件です。
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2009年11月18日,「赤旗」)
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レッドパージ反対連絡センター総会/きょう1時市田氏あいさつ

 レッド・パージ被害者とその家族や支援者などでつくっているレッド・パージ反対全国連絡センターの第5回総会が17日午後1時から、東京都渋谷区の日本共産党本部多目的ホールで開かれます。
 被害者の名誉回復と国家賠償を求める国会請願運動と、日本弁護士連合会による画期的な人権侵害救済勧告が出された、この間の運動の前進のもとで開かれます。
 総会では日本共産党の市田忠義書記局長があいさつをします。
 また日本共産党の橋本敦元参院議員・弁護士が「歴史の過ちただす日を―レッド・パージ問題の勝利めざして」と題して記念講演をします。
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2009年11月17日,「赤旗」)
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日本共産党元衆議院議員安藤巌さん死去

 1970年代後半から90年代初頭にかけ愛知6区(名古屋市南部地域)選出の日本共産党衆議院議員として活躍した弁護士、安藤巌(あんどう・いわお)さんが11日、名古屋市内の病院で前立腺がんのため死去しました。84歳。自宅は名古屋市中川区下之一色町。葬儀は近親者で済ませました。偲(しの)ぶ会の日程は未定。
 1925年1月28日生まれ。48年京都大学法学部を卒業後、中部日本新聞社記者になり労働運動に参加。50年に同社をレッドパージされ、同年日本共産党に入党。61年弁護士を開業。東海労働弁護団代表幹事、総評弁護団全国幹事、国際法律家連絡協会理事を歴任。四日市公害、大須事件、中部電力思想差別人権侵害裁判の弁護団に参加しました。
 76年の衆議院選挙で初当選し、以後、衆議院議員に4回当選。衆院法務委員、決算委員、公職選挙法改正特別委員、日本共産党愛知県副委員長を歴任。
 議員引退後は、国民救援会愛知県本部会長、名古屋南部法律事務所所長をつとめました。
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2009年11月17日,「赤旗」)
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レッド・パージ反対闘争60年/学問の自由守る糧に/新潟大シンポ

 新潟大学で強行されたレッド・パージ(共産主義者と同調者などの職場からの追放)から60周年を迎え、「新潟大学のレッド・パージを考える会」は8日、学内で記念シンポジウムを開き、81人が参加しました。
 新潟大学でのレッド・パージは、1949年7月19日の開学式でGHQ(連合国軍総司令部)顧問のイールズ氏が講演を行い、「共産主義者を追放せよ」と述べたことが発端となって全国的にレッド・パージが進められました。新潟大学では、教職員組合、学生自治会を中心とした反対闘争が取り組まれ、これに呼応して学外でも労働組合、民主団体が共同してたたかい、多くの首切りをさせず2人の辞職者にとどめるたたかいをしました。
 シンポジウムでは、小林昭三会代表が「調査・研究の中でいかに重要な問題かが分かってきた。議論をまとめて教訓としたい」とあいさつしました。
 体調不良で欠席した当時の県立農林専門学校(新制大学農学部)助手の福本安正氏の文書報告を補充して発言した西山文四郎氏(専門学校学生自治会委員長)は、反対闘争で学問・研究の自由、大学の自治を守ることができ、その脈絡が民主県政をつくるため長崎明氏(元新潟大学長)を擁して知事選をたたかったことにつながったと強調しました。
 参加者から「教訓を導き出すとすれば、最近危うくなっている教授会、評議会の自治を守ることが一人ひとりの人権を守ることにつながる」との発言がありました。
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2009年11月10日,「赤旗」)
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レッドパージ被害者が集い/都内・30人参加

 1950年8月の米占領下のレッドパージで職場を追われた電気産業労働者らの「電産東京八・二六会」の集いがこのほど、都内で開かれました。
 東京、神奈川、栃木、埼玉、千葉、長野などから被害者と家族、運動を支援している電力東京連絡会会員など30人が参加。新政権に向けて、一日も早い名誉回復と損害賠償の実現を迫る運動への決意を新たにしました。
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2009年10月22日,「赤旗」)
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水曜随想/参院議員仁比聡平/要求と期待の奔流に応えて

 臨時国会をまえに、私の国会事務所は殺到する要求の奔流で、まるで戦場のようです。「崖の上のポニョ」の舞台となった鞆の浦や、沖縄の泡瀬干潟の埋め立て差し止めなど、画期的な判決も相次いでいます。
 再び仕事と住まいを失って路頭に迷う人たちをつくらせない、派遣法の抜本改正、後期高齢者医療制度のすみやかな廃止、母子・老齢加算復活、業者婦人の働き分を認めさせる所得税法56条改正をはじめ議員団は全力をあげています。
 そうしたなか、現場調査や懇談をふまえ、新政権への積極的提案をどんどんすすめています。違法派遣で是正指導を受けながら背を向ける大企業に正社員化の道をひらくたたかい、公立病院の廃止・民間移譲をやめさせ地域医療を再生させる申し入れ、厚生年金病院・社会保険病院の公的存続、住宅リフォーム助成の実現、有明海再生の開門と後背農地のかんがい排水事業を求める申し入れ、川辺川ダム・小豆島の内海ダムなどダム事業の中止・見直し、奄美のおがみ山トンネルなど大型開発依存から自立的発展への転換、福津市の厚生年金スポーツセンター存続問題など。
 水俣病、B型肝炎訴訟の全面解決、肝炎恒久支援法の実現、国鉄1047人問題、レッド・パージ、深刻なハンセン病療養所の将来をめぐるとりくみ、改憲手続き法の具体化を許さないたたかい、沖縄や岩国基地の米軍再編をストップさせるたたかいも強まっています。
 核密約と高知港への米軍艦船寄港問題では大きな変化を生むことができました。「核兵器のない世界」へ「黒い雨」に被爆しながら置き去りにされてきた被爆地域指定の拡大をなんとしても実現させたいと思います。
 国際人権条約と選択議定書の批准や、取り調べの全面可視化、外国人研修実習生の人権と労働条件の確立をはじめ、法務分野の積年の課題も大きく前進を切り開きたいものです。
 自公政治を決定的に退場させた国民みなさんの要求の力で政治を変える砦(とりで)=議席の重みを痛感します。来夏の参院選でこの議席を守り抜くために全力をつくします。
  ◇
 おことわり 総選挙で中断していた「水曜随想」を今月から再開します。筆者は、今回の衆院選で九州・沖縄比例ブロックから当選した赤嶺政賢衆院議員と、来年夏の参院選で中国・四国・九州沖縄を活動地域に再選をめざす仁比聡平参院議員の2氏です。
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2009年10月21日,「赤旗」)
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共産党活動家墓前祭を開く/仙台市

 宮城県日本共産党活動家の墓の第22回墓前祭が26日、仙台市青葉区のみやぎ霊園で開かれました。秋晴れのなか故人をしのび、115人が参列しました。
 今年は、津山町(現登米市)の町議を6期務め、地域おこしの先頭に立って活躍した阿部九内さんやレッドパージの弾圧とたたかい、仙南地区委員長や県常任委員としての役割を果たした田崎政歳さんなど9人が埋葬されました。
 中島康博県委員長は、今年の総選挙では新しい歴史の幕開けと日本共産党の善戦・健闘を歴史に刻むことができたと述べ、「あらためて合葬されるみなさんの社会進歩への献身に心から感謝し、社会変革の事業に全力で取り組む」とあいさつし、参列者が献花しました。
 同活動家の墓は、県内で活動した日本共産党員の故人や遺族の中で希望する人を対象に合葬し、その業績を記念し、しのぶものとして1988年に建設されました。昨年まで195人が埋葬されています。
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2009年09月29日,「赤旗」)
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レッド・パージ/名誉回復へ支援を/市田書記局長に要請/全国センター

 レッド・パージ犠牲者と支援者でつくるレッド・パージ反対全国連絡センターの大橋豊代表委員、金子圭之事務局長ら5人は18日、国会に日本共産党の市田忠義書記局長・参院議員を訪ね、レッド・パージ名誉回復を求める行動への支援を要請しました。吉井英勝衆院議員、仁比聡平参院議員が同席しました。
 大橋氏らは今年3月にレッド・パージによる名誉回復と国家賠償を求めて地元、神戸地裁に国を相手取り提訴しました。また同センターは昨年10月に日本弁護士連合会がだしたレッド・パージによる免職・解雇にたいする救済勧告を力にして活動を強めてきました。
 神戸地裁の第3回口頭弁論を、来月15日にひかえていること、新政権に名誉回復と損害賠償を求めて活動を強めることにしており、この日の要請行動となりました。
 市田書記局長は「レッド・パージは思想信条を理由に多数の労働者を職場から権力的に放り出した人権侵害であり、戦後史の一大汚点といっていい弾圧事件です。みなさんの名誉回復と損害賠償の訴えの実現に力を尽くします」と応じました。

レッド・パージ
 1949年から50年にかけてアメリカ占領軍の指令で政府と財界が、「破壊分子だ」などと偽って、全国で日本共産党員と支持者推定4万人(レッド・パージ反対全国連絡センター調べ)を職場から追放した弾圧事件です。
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2009年09月19日,「赤旗」)
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歴史的総選挙/人生かけて/水口正夫さん(83)三笠市/「いくつになっても一歩前進」


心込め訴えれば通じる/幌内支部の辻宣伝は412回
 「いくつになっても一歩前進の気持ちでやっています」。白い髪に引き締まった黒い肌が印象的な三笠市の水口正夫さん(83)は辻説法の鉄人≠ナす。大雨の日を除いて、ほぼ毎日街頭にくりだし、凛(りん)とした声を家々や緑の田んぼに響かせています。
 「衆院選は2票あります。比例代表はこぞって日本共産党をご支持ください」
 炭鉱が盛んだったころは人口が6万人を超えた三笠市。いまは1万1000人に激減したものの、家から出て水口さんの宣伝を聞く市民も増えました。
 「10世帯に1回の訴えを」と日本共産党三笠市委員会が呼びかけた辻宣伝は、590回をすでに突破し、721回になりました。
 このうち水口さんが所属する幌内支部は、412回と全体の半数を超えています。
 水口さんの演説原稿を見ると、強調する個所やいい回しを変えた内容を赤字でびっしり書き込んであります。
 「歴史的な総選挙で私でもなにか役に立てば」と思い立った水口さん。宣伝カーの運転を買って出、最初はテープを使って市内を流して回る活動でした。

炭鉱の出来事
 「一歩前進」の思いを貫く水口さんの活動スタイルを変えたのは、炭鉱労働者の時のある出来事でした。
 新潟県の小さい農家の三男坊だった水口さん。米を収穫しても半分は地主に納めなければならず、「親の大変な苦労」を見て育ちました。志願して海軍に入り終戦。帰国し名古屋で働きますが、「北海道に行けば農業ができるのでは」と津軽海峡を渡りました。
 炭坑の募集を見つけ、食べていくためにと幌内炭鉱に入ります。翌日から最先端の掘進現場に配属。二段ベッドの6人部屋、100人いる不自由な寮住まいでしたが、会社側は寮費の実費を徴収すると発表します。
 反対のたたかいに打ち込むなか、日本共産党が配っていたビラを手にしました。労働者の要求を実現するにはどうすればいいのか、わかりやすく書いてありました。学習会に参加し、共感して日本共産党に入りました。60年前のことです。
 日本共産党員や支持者を「企業破壊者だ」とレッテルを張り、職場からほうり出すレッド・パージが起きました。「仲間を救わなければならない」と反対の原稿を用意し、組合大会にのぞみました。ところがどうしても手を挙げられません。
 「自分の勇気のなさに悔いが残りました」
 しかし翌日の本部委員会で発言しました。それを聞いた、ある組合役員がいいました。「水口君の話は、とつ弁の雄弁だな」
 その時からでした。「うまく話せなくても心を込めて訴えれば通じるものがある。カラ元気でもいい。一歩踏み出す勇気を持とう」
 宣伝にとりくむ際、「しんぶん赤旗」をよく読むことを大事にしています。毎朝午前4時に起き、時間をかけて丁寧に読みます。

共産党の姿を
 「マスコミは、『二大政党』ばかりを意図的に報道し、日本共産党の姿を隠そうとしています。だからこそ、そういう報道にうちかつためにも、党の考えや政策を多くの人に届けなければならない」
 水口さんは、日本共産党幹部の発言や著書を読むと、21世紀に世界や日本がどう進むのか、見通す力はすごいと感じています。
 「それに比べ、自民党は財界や大企業ばかりを優遇して、私たち庶民の福祉や暮らし、中小企業や農漁業に犠牲を強いています。庶民いじめの自民・公明政権を退場させ、新しい国会で日本共産党の宮内聡さんに大活躍してほしい」。水口さんは訴え続けます。
 (富樫勝彦)
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2009年07月30日,「赤旗」)
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取手「政令201号」事件/土井さんを励ます集い

 「生きているうちに名誉回復を」。戦後の1948年にアメリカ占領軍(GHQ)の命令で、職場から追放された土井尚義さん(88)を励ますつどいが22日、土井さんが暮らす茨城県取手市で開かれ、30人が参加しました。同つどい実行委と日本共産党戸頭支部が主催。
 歴代政府がレッドパージ犠牲者救済の義務を怠ったとして国家賠償を求め神戸地裁に提訴している大橋豊さん(80)が講演し、GHQ司令官のマッカーサーが労働基本権を奪う「政令201号」を発令し、当時、国鉄の職場で安全と労働者を守るためにたたかっていた土井さんを追放した不当性を告発。「不正はたださなければならない」と述べました。
 参加者は「過去のたたかいを身近なものとして聞いた」と感想を語り合いました。
 車いすで参加した土井さんは「たくさんの人に集まっていただき感無量。真実のためにがんばり抜く」とあいさつしました。
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2009年07月29日,「赤旗」)
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レッド・パージの2人「名誉回復勧告を」弁護士会人権委に申立て/札幌

 GHQ(連合軍総司令部)の指令で日本政府と財界が日本共産党員と支持者を弾圧した「レッド・パージ」の責任を問い、名誉回復を求めて元国鉄労働者の苗川清一郎(87)、安孫子登(86)の両氏が29日、札幌弁護士会の人権擁護委員会に、解雇取り消しと謝罪、名誉回復の勧告を出すよう求める申立てを行いました。
 両氏はともに1939年に旧国鉄に入社、軍隊から復員後、国鉄に戻り働いていた時にレッド・パージで職を失い、生活を壊されました。
 苗川氏は苗穂工機部にいた50年12月、足の入院治療後に「職務の適格性を欠く」と解雇されました。安孫子氏も、函館車掌区にいた49年7月、「定員法」を口実に解雇されました。ともに共産党員で平和と生活を守るためにたたかっていました。
 両氏は、レッド・パージが思想・良心の自由、法の下の平等、結社参加の自由の侵害で、違憲・違法だと強調。経済的格差など被害は極めて大きく、回復されていないと言います。
 苗川氏は、「解雇され独身寮も追われた」と当時の苦労を告発。ともに「憲法を踏みにじる状況を正したい」と心情を述べました。
 すでに全国14都府県で70人余が弁護士会に救済の申し立てをしており、昨年10月に日弁連は政府に名誉回復の措置をとるよう求めた勧告を行いました。
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2009年06月30日,「赤旗」)
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命ある間に名誉回復を/レッド・パージ犠牲者が陳述/神戸地裁

 アメリカ占領軍の命令で日本共産党員であることを理由に解雇・免職されたレッド・パージ犠牲者の川崎義啓さん(92)、安原清次郎さん(88)、大橋豊さん(79)が国家賠償を求めた裁判の第1回口頭弁論が11日、神戸地裁で開かれました。
 陳述に立った3人は解雇された状況をのべ、川崎さんは「解雇が憲法に違反した無効なものだったことを日本政府に正式に認めてもらいたい」、安原さんは「憲法違反による解雇の原因をつくった国が長年放置したことに謝罪し償ってほしい」、大橋さんは「人権侵害の真相を明らかにしてください。私たちの命ある間に名誉回復と被害補償の判決をお願いします」とそれぞれ訴えました。
 報告集会で、弁護団長の佐伯雄三弁護士が、裁判の流れや今後の進め方を説明し、「原告が高齢なので、いかに早期に解決するか意識して取り組みたい」と述べました。橋本敦弁護士は「3人の権利回復だけでなく、まちがったレッド・パージの判決を正す、司法の名誉を回復する裁判。憲法を守る多くの仲間に広げ勝利したい」と述べました。
 傍聴した60歳代の女性は「思想・信条の自由は日本国憲法で保障された絶対の権利。過去のことでなく、今の問題として正さないといけない」と話しました。
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2009年06月12日,「赤旗」)
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名誉回復・国家賠償を/レッド・パージ/国会に請願

 「レッド・パージ犠牲者の名誉回復を一日も早く」とレッド・パージ反対全国連絡センターは二十六日、名誉回復と国家賠償を求める国会請願行動をしました。
 十都県から犠牲者ら四十六人が参加し、昨年を五千人上回る二万九十九人分の請願署名(@国はレッド・パージが無法・不当な弾圧であったことを認め犠牲者に謝罪するA国は日弁連の勧告に従って名誉回復と国家賠償を行う特別法制定を行う)を日本共産党の仁比聡平参院議員に託しました。
 仁比議員は「真実を語り広め、名誉回復をかちとるためにともに奮闘しましょう。たたかいと志は現代に生きている。団結してたちむかおう」とよびかけました。
 衆院第一議員会館で開いた活動交流集会では、各地の代表が「レッド・パージにあったことを妻にも話さずに封印してきたが、最近、たたかいにふれる機会があり前向きに生きなくてはと考えを改めた。それから請願署名を必死で集めた」などと報告しました。
 日本共産党の吉川春子前参院議員があいさつしました。
 金子圭之事務局長が、昨年十月の日弁連の政府、関係企業への犠牲者の救済勧告以降の運動の広がりを強調。国家賠償を求めて兵庫で犠牲者が起こした裁判への支援や、レッド・パージが始まった年から六十年となる今年度のたたかいの前進をよびかけました。

レッド・パージ
 1949年から50年にかけてアメリカ占領軍の指令で政府と財界が、「破壊分子だ」などといつわって、全国で日本共産党員と支持者推定4万人(レッド・パージ反対全国連絡センター調べ)を職場から追放した弾圧事件です。
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2009年05月27日,「赤旗」)
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レ・パ反対の運動で学習会/山口市

 山口県レッド・パージ反対同盟準備会(立野正美会長)は十日、レッド・パージ反対全国連絡センターの金子圭之事務局長を迎え、山口市内で学習会を開きました。
 金子氏は「レ・パ反対運動の今日の課題―日弁連勧告をどう活かすか」と題して講演。「昨年十月に日弁連がレッド・パージ被害者の救済を求めて、政府と企業に対して勧告を行ったことから、救済運動が大きく進展する可能性が広がってきた」とのべ、救済勧告の内容について詳しく説明しました。
 参加者から次々と意見が出され、交流を深めました。
 中村満吉県事務局長が、@レ・パ犠牲者の名誉回復と国家賠償を求める請願署名の取り組みA会員の拡大Bカンパ活動―の行動提起を行いました。
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2009年05月21日,「赤旗」)
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宮城県レッド・パージ反対同盟が総会

 宮城県レッド・パージ反対同盟の第二回総会が十八日、仙台市内で開かれ、十五人が出席しました。
 沖直子代表の開会あいさつの後、渡辺愛雄事務局長が同盟結成以降の活動を報告。「米海兵隊の移転費用を日本が負担するという政治の出発点にレッド・パージがある。現代につながる問題として、レッド・パージを多くの人に伝える必要がある」と語りました。
 同盟が昨年八月、仙台弁護士会に提出した人権救済申立書が認められるかの見通しについて、申立書の作成に協力した小関真弁護士が報告しました。
 出席者は今後の活動について、人権救済とともに懇談会の開催など、同盟員一人ひとりが「語り部」となって活動の協力者を広げることを確認しました。
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2009年05月21日,「赤旗」)
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レッド・パージの証人/名誉回復求めて/6/長谷部健さん(86)秋田市/人をモノ扱い社会は今も


下山総裁との団交写真壁に
 長谷部健さん(86)=秋田市在住=の自宅の壁に、一枚の白黒写真が飾られています。一九四九年夏、国鉄労働組合(国労)の代表が当局と団体交渉した様子を収めたものです。当時二十六歳の長谷部さんと、国鉄初代総裁の下山定則氏が向かい合って写っています。
 国鉄仙台管理部に勤めていた長谷部さんは同年、国労の中央闘争委員に選出されました。国鉄が定員法による「行政整理」の名で多くの労働者を追放する計画をめぐって七月二日、国労は当局との団交に臨みました。
 下山氏は、途中までは国労側の意見に耳を傾ける態度でした。ところが、当局側が回覧していたメモを受け取ると急に顔をこわばらせ、一方的に団交を打ち切ったことを覚えています。下山氏はその三日後に突如行方不明となり、れき死体で翌日発見されました。
 下山事件から十日後の十五日、三鷹事件が発生し、国鉄は定員法により九万五千人の労働者を職場から追放しました。十八日には長谷部さんら国労幹部に解雇が伝えられました。覚悟を決めたとともに、なぜ自分たちが真っ先に処分されなかったか考えたといいます。
 「下山さんが国労幹部を行政整理のリストに入れなかったといううわさ、あれは本当だったかと」

活動のルーツ同郷の多喜二
 日本共産党中央委員会の労働部に所属して間もない四九年八月、福島で列車が何者かに脱線転覆され、直後に国鉄と東芝の労働組合員が逮捕されるという松川事件が起きました。
 翌年九月、第一審の特別弁護人として、検察側の主張の矛盾を追及しました。時刻表から、犯行時に被告が出合ったという列車の通過時刻を計算し、自白と食い違うことを指摘したのです。「ダイヤを見れば列車がいつ、どこを通るか分かるよ」。管理部で輸送指令をしていた経験が役立ちました。
 下山事件、松川事件、レッド・パージと歴史的な反共攻撃を次つぎに受けても屈しなかった長谷部さんの共産党員としてのルーツは、同郷の小林多喜二にあります。
 仙台に住んでいたころ、同居するおじが持っていた『蟹工船』を見つけ熱心に読みました。四七年共産党に入党したのは、秋田の共産党の再建に尽力したおじや党町議の父への信頼からです。
 五七年に秋田に戻ってからは、地域医療を守る活動に取り組みました。国鉄を追われたとき「組合にかかわらなければ出世できたはず」と嘆いていた母親は、中通病院設立の運動などで地道に住民の声を聞く息子の姿に「あなたはあなたの道を開いた」と思い直したといいます。六七年からは秋田市議を二期務めました。
 いま、東北各地に住むレッド・パージの犠牲者と交流したいと考えています。「非正規切りなど、人をモノ扱いする社会はレッド・パージのころと変わっていない。事件を風化させず、人間らしく生きられる社会にしたい」 (おわり)

下山事件
 1949年7月5日、下山定則・初代国鉄総裁が行方不明となり、翌日に列車によるれき死体で発見された事件。国鉄職員の大量解雇で労使が対立するなか、日本共産党と国労組合員による犯行などと報道され、労働運動は大きな打撃を受けました。真相は今も不明ですが、占領軍による謀略の可能性が濃厚です。
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2009年05月15日,「赤旗」)
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レッド・パージの証人/名誉回復求めて/5/長南善蔵さん(84)福島・須賀川市/人生に一本筋を通せた

 レッド・パージの嵐が吹き荒れていた一九五〇年の夏、一人の女性が当時二十五歳の長南善蔵さん(84)=福島県須賀川市在住=の自宅を訪ねてきました。全逓(全逓信労働組合)で活動する息子が、職場から追放されたというのです。

一方的解雇と身辺調査が…
 長南さんは当時、日本専売公社(現在のJT)の須賀川出張所に勤め、労組で青年部長などを歴任していました。女性を励ましながら、「次は自分だ」と覚悟したといいます。
 同年十一月十七日、職場の上部機関である郡山地方局長から一方的に解雇を言い渡されました。地方局は、入社二年目の四七年に日本共産党へ入党した長南さんの身辺を探るため、出張所にやってきて下調べしていました。出張所長を問いただす長南さんに、その場に同席していた公社の人事係が「共産党をやめたらいいべ」と懐柔を図りました。「ここで離党したら、今までやってきたことがうそになる」と思い、強く拒否しました。
 労使協調を強める社会党系の労組は会社に抗議しないばかりか、レッド・パージ対象者のリスト作成に協力していたと知り、「彼らに言ってもしょうがない」と失望したといいます。約六百人が勤める出張所の中で解雇されたのは、長南さん一人でした。

ダブルワークでたたかい続ける
 すでに両親を亡くした長南さんにとって、解雇後の生活は困難を極めました。一つの仕事では追いつかず、土木仕事の後、さらに下駄工場で働きました。野菜の行商も始め、妻とリヤカーを引いてかつての同僚を訪ねて売り歩きました。
 長南さんは五七年、「会社に非を認めさせたい」と立ち上がりました。かつての同僚とともに専売公社を提訴し、レッド・パージによる解雇の無効を求めたのです。サンフランシスコ条約締結後の五四年、同じくレッド・パージで職場を追われた東北管内の電産労働者が原告団をつくり、裁判を起こしたことに励まされました。
 会社側は当時の同僚を証言者に立て、長南さんらが「勤務時間中に党活動していた」などと証言させました。福島地裁は六四年に請求を棄却しました。
 長南さんは前年の六三年、須賀川市議選挙で当選していました。「ほかの人たちの生活を守るために頑張ろう」という決意を強めます。
 五五年に初めて立候補して落選。その後党勢拡大に力を注ぎ、悪質な定数減のなか最下位で滑り込みました。「行商していたころのつながりが生きた」と振り返ります。生活相談活動などに精力的に取り組み、市議を九九年まで九期務めました。
 「共産党宣言」などの古典文献に読みひたり、「必ず革命が来る」と考えていた青年時代。今も共産党員としての誇りを持ち続ける長南さんは、「一本筋を通すことができた人生だった」と穏やかに語りました。
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2009年05月14日,「赤旗」)
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江別・芦別事件/井尻さんの妻光子さん囲む会

 一九五二年に芦別市で起きた国鉄線路爆破の「芦別事件」で逮捕された井尻正夫さんと地主照さんの無実を訴え続けた井尻さんの妻、光子さんを「囲む会」がこのほど、江別市で開かれました。
 明治炭鉱で働いていた正夫さんはレッド・パージで解雇され、新たな勤め先でも賃金不払いにあい、団体交渉を始めた最中に事件が起き、正夫さんと地主さんが逮捕されます。
 光子さんは二人の無実と裁判勝利を全国に訴えて歩きました。十一年後の一九六三年十二月、控訴審で二人の無実が証明されましたが、正夫さんは事故で亡くなり、長女芳子さんも亡くしました。
 井尻さんは「無罪確定後、国家賠償請求の裁判を起こし、一審では勝利しましたが、控訴審では敗訴、最高裁は上告棄却でした。多くの人に支えられ、頑張ることができました」と語りました。
 参加者からは「アメリカの占領政策が民主化抑制と反共に転換した中での権力犯罪だった」との声が寄せられました。
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2009年05月13日,「赤旗」)
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レッド・パージの証人/名誉回復求めて/4/盛岡市長尾正一さん(82)/悔しさ今も活動のバネに

 六十年前の一九四九年七月十三日、国鉄の仙台鉄道局盛岡管理部に勤めていた長尾正一さん(82)=盛岡市在住=は、上司である車電区長に呼び出され、いきなり解雇の辞令を手渡されました。国鉄で働く共産党員や支持者を狙い撃ちにした「定員法」の名によるレッド・パージでした。
 区長の部屋には、国鉄助役やほかの上司もずらっと並んでいました。辞令は「冗談じゃない」とその場で放り投げました。職場で同じ仕打ちを受けた仲間は約二十人で、そのうち共産党員は長尾さん一人でした。
 長尾さんは盛岡駅の連結手をしながら夜間中学で学び、四二年に仙台鉄道局盛岡管理部(盛岡駅)へ入社しました。

復帰求め直談判だれ一人戻れず
 職場の先輩に勧められ四五年十月、日本共産党に入党。先輩に弁証法的唯物論を学び、科学的社会主義の世界観への確信を得たことが活動の土台となりました。四七年、仙台鉄道局教習所(車電課)で講習を受け、四八年に盛岡へ戻り、労組分会の執行委員を務めながら「アカハタ」を職場で売り歩いたといいます。
 レッド・パージから三カ月の間、共産党員のグループで各職場へ職場復帰を求めて直談判し続けました。「これが革命家だ」という気概で取り組みましたが、区長は「私が決めたことではない」と拒絶。誰一人、元の職場に戻れませんでした。「あのときの悔しさは、今でも覚えている」と振り返ります。
 国鉄を解雇された後、幼い六人の弟妹を食べさせるためには仕事を選ぶ余裕もありませんでした。

業者守る運動へ融資制度を実現
 葬儀屋を手伝いながら、魚や豆腐を売り歩いて米と交換したりしました。マラソン大会に出場し、賞品を金に換えたこともあります。自らスクラップ会社を立ち上げるまで、そうした生活が四年ほど続きました。
 若き日に労働運動に費やした情熱は、やがて業者の生活を守る運動へ注がれていきます。六〇年の盛岡民商結成に参加し、六八年ごろは理事長を務めました。
 七〇年代前半、全国でも広まっていなかった無担保・無保証人融資制度の実施を求める活動に取り組み、五―六年かかりましたが八〇年四月から、盛岡市で実現させました。この活動では、同じレッド・パージ犠牲者である横田綾二・共産党県議(当時)の援助に励まされたといいます。
 現在、長尾さんは二人の息子と協力して会社を経営しながら、「盛岡レッド・パージ反対懇談会」の活動に取り組んでいます。民商の集会では、犠牲者の名誉回復を求める署名を呼びかけました。
 節を曲げずに生きることの大切さを多くの人に伝えたい―長尾さんの願いです。
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2009年05月12日,「赤旗」)
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レッド・パージの証人/名誉回復求めて/3/高橋金三郎(84)宮城・多賀城市/追放′繧烽ツきまとわれ

 アメリカ軍全面占領下の一九五〇年夏、レッド・パージの嵐が宮城県内で吹き荒れていました。東北配電や日本発送電(統合して現在の東北電力)、河北新報などで働く共産党員や支持者が次々と解雇。高橋金三郎さん(84)=多賀城市在住=は「自分も切られるのを覚悟していた」と振り返ります。

労組書記長から依願退職迫られ
 同年十月十七日、宮城県塩釜市の造船会社・東北ドック(現在の東北ドック鉄工)本社工場に勤めていた高橋さんは、労組の書記長から依願退職を迫られました。そのときの労組は、社会党左派勢力が主導権を握っていました。書記長は、「会社側の方針としては、退職しないなら懲戒免職扱いすることになっている」と言ってきました。理由を聞くと、「あんたは共産党だから、辞めないと会社が困る」と答えました。態度を保留すると、翌日には委員長が説得に来ました。
 終戦間もない四五年十二月、東北ドックへ入社した高橋さんは二年後に青年共産同盟(現在の民主青年同盟)に加盟、日本共産党に四八年入党。「アカハタ」や『前衛』を精読し、松川事件(四九年)が起きたときは昼休みに会社内でパンフレットを配布しました。レッド・パージを受けた後は宮城刑務所に被告を激励し、福島へ現地調査に参加したこともあります。
 労組を通じて執ように退職を要求する会社、背後にいるのはGHQ(連合国軍総司令部)と日本政府。「抵抗しても無駄だ」と退職願を出しました。本社に四百人いる組合員の中で、レッド・パージの対象になったのは高橋さん一人でした。

若いひとたちに歴史を伝えたい
 戦前、日本の支配下の朝鮮で警察官をしたことのある父親は「自分で責任を取れ」とだけ言い、責めることはありませんでした。しかし退職後も、国家権力はひそかにつきまといました。
 仙台でセールスマンに転職しましたが、レッド・パージから三年たったある日、旧特審局(現公安調査庁)が社長に高橋さんの過去を暴露しました。職場の同僚の友人を口実にしばしば職場に来て、高橋さんの身辺を探っていたのです。
 会社側からは、解雇をほのめかされました。間もなく退職しましたが、後輩社員から「自分も辞める」と励まされたのが救いでした。六カ月間の失業生活を送った後、一年ほど仙商連(現民商)事務局を経て宮城厚生協会に勤務し生活の糧を得ることができましたが、「あのころは結婚して間もなくで、妻には迷惑をかけた」と言います。
 いま高橋さんは、昨年結成された「宮城県レッド・パージ反対同盟」の一員となり、仙台弁護士会に人権救済を申し立てています。
 「若い人たちに、昔レッド・パージというものがあったことを伝えたい。生きている間に名誉回復できるか難しいけど、ぼんやり生きていたら再びあんなことが起きるからね」
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2009年05月10日,「赤旗」)
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レッド・パージの証人/名誉回復求めて/2/音山信二さん(79)山形市/信念曲げないでよかった

 「首にするならやれ、来るなら来いと思っていた。あのとき二十歳、若かったからね」。音山信二さん(79)=山形市在住=は張りのある声で、レッド・パージに遭った当時を振り返ります。
 一九五〇年八月、アメリカ占領軍と日本政府により、全国で二千百三十七人の電気産業労働者が一方的に職場を追われました。音山さんは、戦闘的で影響力のある労働組合で知られた日本電気産業労働組合(電産)の山形県支部で活動していました。
 同年八月二十五日、勤務する東北配電(現在の東北電力)山形支店の支店長に呼び出された音山さんと三人の同僚は、いきなり「今すぐ職場から出て行け」と解雇を告げられました。覚悟はできていました。「民同」(民主化同盟)に「確認書」を提出しなかったからです。

「確認書」の名で対象者を調べる
 「民同」はアメリカ占領軍と日本政府の援護を受け、階級的な労組を内部分裂させる活動に取り組んでいました。電産の中央本部の主導権を握った「民同」は、共産党員とその支持者を排除した組合運営を認めるか「確認書」の名で調査しました。提出しなかった音山さんを含め、山形では十五人の組合員がレッド・パージの対象とされました。
 音山さんは三十日付で解雇されましたが、少なくない先輩の共産党員が「脱党声明」を新聞発表するなどして解雇を免れました。一年後に元の同僚と会ったとき、「音山はえらかった。残った人は情けない」と声をかけられました。「職場に残った人も家族がいて大変だったのだろう」と言います。
 レッド・パージされた自分の名は、地元紙で大々的に報じられました。「音山」は珍しい姓です。親せきの目は冷たく、両親は「おまえの息子はばか息子だ」という言葉を浴びせられました。

銀行に就職して労働実態調査に
 祖母の勧めで同年十月、仙台へ住み家を移しました。ガソリンスタンドで働いたときは、店主の自宅を訪れた警察にレッド・パージの過去を暴露され、半年で辞めました。「アメリカが憎い気持ちは今でもある。辞めさせられた人は、みんなつらい思いをしたんだ」
 音山さんの転機は二十二歳のときでした。親類の計らいで山形の銀行に就職します。「絶対に組合活動をしない」が就職の条件でしたが、「人のためにがんばる」という信条で従業員組合の活動に参加。新潟や秋田に出向き、各地の銀行の労働実態調査に取り組みました。
 同時期に「五〇年問題」で遠ざかっていた共産党の活動も再開しました。八十歳を来年に控えた今も、地域で共産党のポスター張りなどの先頭に立っています。「共産党員として信念を曲げなくてよかった」
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2009年05月09日,「赤旗」)
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レッド・パージの証人/名誉回復求めて/1/渡辺勇一さん(81)盛岡市/人生を左右する仕打ちだ

 一九四九年から五〇年にかけて、アメリカ軍全面占領下の各地で吹き荒れたレッド・パージ。日本共産党員とその同調者とみなした労働者を一方的に職場から追放するという無法な弾圧から、今年で六十年になります。レッド・パージで職を失い、その後も生活苦にめげずに共産党や民主団体で活動を続け、たたかってきた人たちを訪ねました。
 (山本健二)
 「まじめに働く人を弾圧する。人の一生を左右する仕打ちをアメリカと日本の行政がやったことはおかしい。明らかな人権侵害だ」
 そう語る元国鉄マン、渡辺勇一さん(81)=盛岡市在住=の怒りは、今も消えていません。

その日のうちに退職を求められ
 一九四九年七月十三日、国鉄は定員法による行政整理という名目で全国六万人を超す労働者の首を切りました。対象者のほとんどが共産党員と進歩的な組合員で、国鉄盛岡工場労組の分会委員を務めていた渡辺さんも狙われました。
 その日のうちに退職を求めるという辞令を受け、憤慨しました。工場長に理由をただしますが、「理由は言えない」の一点張りでした。「民同」(四七―四八年に戦闘的な労働組合の内部で生まれた「民主化同盟」などと名乗った反共分裂組織の総称)が主導権を握る労組は、「会社の決めたこと」として抗議しないと職場集会で決定しました。
 盛岡工場で「行政整理」された労働者は約四百人。渡辺さんは首切りを不当だとし、退職金の受け取りを拒否しました。
 第二次大戦末期の四五年春、工業学校を卒業した渡辺さんは川崎の芝浦製作所に就職しました。四月の川崎大空襲で被災、工場も職員寮も焼かれました。やむなく盛岡に戻り国鉄に転職した後も、終戦間際にまたも米軍の空襲に遭いました。
 二度の空襲に遭い、玉音放送を聞いても「神風はなぜ吹かない」と嘆くほどの軍国少年でしたが、日本共産党に出合って生き方を変えることに。

戦争に反対した政党があったと
 四五年十月、共産党幹部が釈放されたと伝える号外を読んで「戦争に反対した、自分と正反対の考えの政党があった」と驚きました。
 十八歳の誕生日に入党した渡辺さんは職場で機関紙「アカハタ」(現「しんぶん赤旗」)拡大に取り組み、労組の代議員にも立候補。千五百人が働く工場で、「共産党の渡辺といえば、知らない人はいなかった」といいます。
 レッド・パージに遭った翌年、父親を亡くした渡辺さんは三人の妹をどう養うかという状況に追い込まれました。それでも「どうにかなるべ」と希望を持てたのは、共産党への信頼でした。
 定員法で職場を追放された同志でアカハタ盛岡分局を設立。自分を追い出した盛岡工場に出向き、朝鮮戦争に反対するビラをまきました。「五〇年問題」で分裂した日本共産党が第七回大会(五八年)で統一した後は、党盛岡地区委員長、県常任委員を歴任。七一年から盛岡市議を六期連続で務めました。
 「パージがなければ、職場で順調に働けたはず」と語る一方で、「正しいことを信じる。その志を失わずにやってこれた」と振り返ります。今は岩手県生活と健康を守る会連合会の会長として活動しながら、「盛岡レッド・パージ反対懇談会」の一員として自分と同じ境遇の人たちの名誉回復を求めています。

定員法
 正式名称は行政機関職員定員法。1949年5月、行政整理の名目で官公庁・公企業の組合活動家の大量首切りを合法化するために制定。26万7300人の人員整理が策定され、国鉄、郵政、電気通信事業などの労働者が何の法的救済もなく職場を追われました。
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2009年05月08日,「赤旗」)
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レッド・パージ犠牲者の遺族/人権救済初の上申/福岡

 長崎県壱岐市のレッド・パージ犠牲者・藤江忠太郎氏(亨年八十八歳)の遺族で、妻・幸子さん(89)が十五日、福岡県弁護士会・人権擁護委員会(福岡市)に上申書を提出し、人権救済の申し立てを行いました。故人の遺族が上申したのは全国初です。
 高齢で遠方に住んでいる幸子さんに代わって、三女で全国福祉保育労働組合福岡地方本部書記長の大隈昭子さん(59)=佐賀県鳥栖市在住=が上申書を提出しました。
 共産党員や支持者であることを理由にした不当な解雇とたたかう電産九州レッド・パージ国家賠償要求同盟の福島正見事務局長(84)と古賀建造さん(83)の二人が同行しました。
 忠太郎さんは、九州電力の前身、日本発送電九州支店(福岡市)経理課で働いていましたが、一九五〇年八月、理由も示されずに突然解雇されました。
 上申書は、日本政府にはレッド・パージの非を認めること、米国政府には「今後このような反民主主義的・反人道的な政策・行為を行わないことを世界に誓約すること」も要望しています。
 大隈さんは「母は、父が生涯願っていた名誉回復の遺志を継ごうと、上申を決意しました」と話しました。
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2009年04月16日,「赤旗」)

社会運動史家・非核政府の会常任世話人塩田庄兵衛さん死去

 社会運動史家の塩田庄兵衛(しおた・しょうべえ)さんが三月二十日、肺炎のため死去しました。八十七歳。葬儀は親族で行われました。後日、お別れの会を開く予定です。
 一九二一年、高知県生まれ。四三年、東京大学経済学部卒業。
東京都立大学名誉教授、立命館大学名誉教授。著書に『日本社会運動史』『幸徳秋水』『レッドパージ』など多数。『日本社会運動人名辞典』編集代表。
 四六年、志保田博彦の筆名で『共産党宣言』を戦後初めて翻訳。五九年、労働運動史研究会を設立し日本の労働運動史・社会運動史の研究方法の確立に努めました。中江兆民、幸徳秋水の思想研究に足跡をのこしました。
 社会運動に積極的に参加し、四九年の松川事件では、松川事件全国連絡会議代表委員を務め、裁判支援活動を行いました。八六年に摘発された、警察による緒方靖夫日本共産党国際部長(当時)宅盗聴事件では、ジュネーブの国連人権委員会をくりかえし訪れました。
 日本学術会議会員、日本科学者会議事務局長、同代表幹事などを歴任、世界科学者連盟執行評議員としても活躍しました。非核の政府を求める会常任世話人。
 また日本共産党全国学者・研究者後援会の世話人として党の躍進に尽力しました。
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2009年04月03日,「赤旗」)
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レッド・パージ考える集い開く/神奈川

 神奈川県レッド・パージ反対同盟はこのほど、レッド・パージ問題を考える学習講演のつどいを横浜市内で開き、二十四人が参加しました。根本孔衛弁護士が「レッド・パージ反対運動の今日的意義」と題して講演。日弁連が政府、関係企業に対し、レッド・パージ被害者の救済を求める勧告を出したことの意義を語りました。参加者からは「職場における思想差別の是正闘争の意味を深く考えさせられた」の感想が寄せられました。
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2009年04月02日,「赤旗」)
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レッド・パージ国家賠償求める3氏の支援集会/神戸

 日本共産党員とその支持者であることを理由に解雇・免職されたレッド・パージ犠牲者の川崎義啓さん(92)、安原清次郎さん(88)、大橋豊さん(79)の三人が国家賠償を求め神戸地裁に提訴した二十七日、神戸市中央区内で支援集会が開かれました。
 川崎さんは、「毎日三十分以上歩いています。それは裁判に勝つためです。一番の任務は長生きすることです」とのべました。
 安原さんは、「共産党員であるがために首を切られた。そのため、(経済的困窮で)結婚もできませんでした」と語りました。
 大橋さんは、「免職処分を受けて五十八年七カ月。長かったです。国を相手に裁判ができるなんて思いませんでした。どうぞお力添えのほどを」と支援を訴えました。
 橋本敦弁護士(元参院議員)、小牧英夫弁護士、吉田好一・国際人権活動日本委員会代表委員、藤木洋子・国民救援会兵庫県本部会長(元衆院議員)、岡正信・日本共産党兵庫県委員長らがあいさつ。日本共産党の市田忠義書記局長らのメッセージが紹介されました。
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2009年03月29日,「赤旗」)
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レッド・パージ国家賠償訴訟原告/いまも許せない/安原清次郎さん(88)神戸市

 神戸のレッド・パージ犠牲者三人が国家賠償を求めて二十七日に提訴しました。その一人、安原清次郎さん(88)を訪ねました。
 ◇
 「このたたかいのために、あと三年は生きなあかん」
 裁判闘争にかける思いを語ります。
 一九五〇年十月二十五日、神戸市の川崎製鉄葺合工場で働いていた安原さんが夜勤明けで家で寝ていたとき、「止むを得ない事情により、十月二十六日から退職して頂くことになりました」との通告書が、会社から書留郵便で届きました。
 安原さんは、四七年に日本共産党に入党していました。この日、同工場で三十二人がレッド・パージで解雇されたのでした。
 四人兄妹の長男で、父親が早く亡くなったため一家を支えていましたが、収入が途絶えました。その後、日本共産党の常任活動家になり、結核を患い一年間入院。退院後は、職を転々としました。
 知人の鉄工所に勤めたとき、親会社が「安原がいるじゃないか」といってきて、知人に迷惑はかけられないと退職。別の鉄工所では労働組合を結成して即日解雇、裁判で勝って復帰したら会社が解散し、民芸品店で働いたら店がつぶれるなど、不遇の連続でした。
 河原で石を拾ってきて、元町の繁華街で売り、生計を立てていた時期もあります。
 一方、日本共産党員として、きちんと会議に参加し、労働運動や選挙活動にとりくんできました。母親から、「お前のいうことは正しい。しかし、世渡りが下手や」と何度もいわれたといいます。
 通常は四十五`だった体重が、いま三十七`に。「もう歩くのもえらい(きつい)」といいます。
 「パージされたせいで、困窮して結婚もできんかったし、年金は月八万五千円だけ。そもそも、思想信条の自由があるのに、共産党員であるために首を切られたことがいまも許せん。このたたかいが生きがいです」
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2009年03月29日,「赤旗」)
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レッド・パージ償え/犠牲者、国を提訴/神戸地裁

 アメリカ占領軍の命令で日本共産党員と支持者が職場から追放されたレッド・パージ(一九四九―五〇年)で、歴代政府が犠牲者救済の義務を怠ったとして二十七日、神戸市在住の犠牲者三人が国家賠償を求めて神戸地裁に提訴しました。
 提訴したのは、大橋豊さん(79)、川崎義啓さん(92)、安原清次郎さん(88)の三人です。
 訴状によると、レッド・パージは、思想、良心、信条、結社の自由を根底から奪い、法の下の平等を著しく侵害し、日本国憲法、国際法規、ポツダム宣言などに反すると指摘。レッド・パージの根拠とされるマッカーサー指令を絶対のものとした一連の最高裁判決で司法による犠牲者救済は認められなかったが、一九五二年の主権回復後は、政府は名誉回復、職場復帰、損害の補償など救済策を講じる法的義務があったと強調しています。
 国がこれを怠り続けてきたことで、原告らは計り知れない精神的苦痛と財産的損害を受けたとして、国にたいし一人二千万円の賠償請求をしています。
 日弁連は昨年十月、原告三人について、名誉回復や補償を含む措置を講ずるよう国に勧告しています。
 大橋さんは同日、集会で「私たちは高齢者。生きているうちに名誉回復を、と切実に願っています。どうかお力添えを」と訴えました。
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2009年03月28日,「赤旗」)
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文芸時評/三浦健治/青来有一「ブーゲンビリア号の船長」/林田遼子「ぼうねえ」


異なる価値観の尊重を/青来有一「ブーゲンビリア号の船長」
反貧困の戦後の原点みつめ/林田遼子「ぼうねえ」
 本紙の「発言09」(二月二十二日付)で五木寛之が「二十一世紀は、科学的社会主義(マルクス主義)の思想と政党にとって、宗教をどう扱うかが大きな課題になる(略)科学と宗教は、親の敵のように背を向け合うものではない(略)将来、日本共産党が政権を担う時、病める時代に生きる『迷信と祈とう』とは無縁な、人間の心にかかわる宗教問題は、避けて通れない」と述べていた。二十一世紀の新しい社会は、制度だけでなく、人の心が大切にされ、信仰者にも心から望まれるような社会でなければならない、と考えていたわたしは五木発言に大いに共感した。

宗教との共存を現代設定で描く
 カトリックの立場から、日本の伝統的な信仰を含めて、自分とことなる宗教との共存を深く考えたのは遠藤周作であった。青来有一「ブーゲンビリア号の船長」(『文学界』四月号)は、遠藤の提出したその課題を、現代的な設定のなかで反芻している。二十年前、五歳の息子を脳腫瘍で亡くした中年夫婦が波照間島に出かける話である。息子を亡くしたとき精神錯乱に陥り、夫に包丁をつきつけた妻は、今またなくしたはずの、島の御嶽で息子の拾った石が出てくると、息子が返してきてくれと言っているのだと言い張る。心のこわれそうな妻を一人で行かせるわけにいかず、信用金庫に勤める夫は、勤続三十年の休暇制度と旅費の補助を利用して、二人で息子との思い出の地に出かけていく。
 作品の主題は、弾圧された長崎のキリシタンの血を引くカトリックの妻と、浄土真宗の家系の無神論者の夫との、夫婦に深い心の傷を残した息子の思い出をめぐる葛藤である。《もしも息子が完治したら、カトリックの洗礼を受けようとしたが、神はなにもしてくれなかった》という夫の心の描写には遠藤の『沈黙』が反響している。《なんの罪もない子どもがひとりぼっちで死んでいくのを、全知全能で善なる神さまが、どうして許してしまうのか。こう考えれば、すべて説明がつく。最初から、神さまなどいないのだ。すべては原因があって結果がある》と夫は妻に説く。ビリヤードの球が次々に弾けるような、原因と結果の複雑な連鎖という夫の認識は、複雑系の科学が背景にある。それにたいして、妻はこう答える。《神さまはわたしたちが悲しみや痛みに苦しむときは、肩を抱いて一緒に泣いて下さいます。一緒に苦しんで下さいます。魂の痛みを分かち合って下さいます》。ここにもまた遠藤文学がこだましている。
 青来有一はキリシタン弾圧や被爆の記憶を底にひめた長崎を舞台に、感受性ゆたかな作品を書いてきた戦後生まれの作家であるが、かれの作品を読むと、小説の説得力とは主要な登場人物の心の痛みや愛を読者に感染させる力のことだと改めて気づかされる。

紡績女工を通し連帯求める姿を
 ワーキングプアに象徴される現代の貧困は米英を先頭に一九八〇年代にはじまった格差拡大政策の所産である。そこには徹底的な自己責任論があり、これも本紙(三月五日)で反貧困ネットワークの湯浅誠事務局長が述べていたように、「派遣切り」で一気にホームレスに転落させられる社会の異常さを、当事者でさえ自分が悪いと思わせられている。金持ちをもっと金持ちにするため、低所得者をより貧窮させたことが世界同時不況の引き金となった。庶民をとことんばかにしたこのアイロニーのなかを生きるわたしたちは、国民の大多数が貧しく、貧困の社会的原因が見えやすかったがゆえに、人びとが互いに心を通わせて連帯をつちかった戦後の出発点を思い出す必要があるのではないだろうか。
 林田遼子「ぼうねえ」(『民主文学』四月号)は、歴史の暗がりに忘れられた紡績労働の現場を舞台に抑圧のなかで連帯を求めた戦後の出発点を描いている。時代は糸偏景気にわく朝鮮戦争期と景気の後退したその直後で、主人公は母子家庭で定時制高校への進学希望もかなえられず、中卒後、紡績女工になって二年目の早智子である。帰路、夜道で痴漢に襲われ、そこに照明がつくまで早智子は寮に二週間入るが、一つの蛇口を数人で使う芋洗いの浴室など当時の光景がまざまざとよみがえる。けれど、女工たちに暗さはない。みんなが同じ境遇だからだ。ベテラン女工が新入女工の初潮の面倒を見る様子や、月経の血で布団を汚すことに嫌みを言う寮の雑役の小母さんと、威勢よくやり返す女工たちとのやりとりなど描写がたいへんリアルである。
 こうした早智子の職場に二歳年上の美奈子があらわれる。経歴を隠して入社した労働経験のなさそうな美奈子は、はじめ早智子の目でミステリアスに描かれるが、中学も出ていないというのはウソで高卒のオルグだった。組合幹部をダラ幹と面罵する。わざわざ規律のきびしい寮にもぐりこんで寮生活のひどい実情を告発するビラをつくり、仲間の高校生に配らせた。派手な活動はたちまち会社にマークされ、経歴詐称で馘首される。けれど、労働者の団結で待遇の改善を求める美奈子のまいた希望の種は、早智子の心の中で確実に芽を吹く。ちなみに「ぼうねえ」とは街の不良などの使う紡績女工のあだ名である。

女医や青年らの輝きは時代超え
 このほど完結した本紙連載の佐藤喜美子「われら青春の時」も、ほぼ同じ時代を扱っている。こちらは国家試験に通ったばかりの若い女医を中心に青年たちの地域活動を描いた作品である。学生たちのセツルメント活動は、ついに名古屋の僻地に愛知県初の民主診療所を誕生させるにいたった。診療所は朽ちかけた土蔵を借りて、ベニヤ板で改造しただけのものだったけれど。
 活動仲間には大須事件の被告になった青年もいる。民主化からレッド・パージへと占領政策が転換され、日本共産党が分裂した時代でもある。負のイメージで語られることの多い時代だが、この作品を読むと、医療も満足に受けられない貧しい人びとを救済しようとして献身した青年たちの心の輝きは、時代を超えて訴えかけてくるものがある。
 (みうら・けんじ)
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2009年03月26日,「赤旗」)
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レッド・パージ反対センター/国会請願へ運動強化

 レッド・パージ反対全国連絡センターが五月二十六日に予定している国会請願行動へむけて、各地のレッド・パージ反対組織が「名誉回復と国家賠償を求める」署名運動を強めています。
 署名数は十九日現在、神奈川が二千九百、東京は千七百、青森九百、山口四百人などとなっています。京都、長野、山形などでは初めて署名が取り組まれています。
 日本弁護士連合会(日弁連)が昨年十月二十四日、国と関係企業にレッド・パージ被害者への名誉回復と補償を含む救済措置をとるよう勧告をだして以来、運動が広がりをみせています。
 自由法曹団、国民救援会、治安維持法国賠同盟、東京地評などが勧告への支持を表明し、速やかな実施を政府に申し入れています。
 各地の弁護士会への人権救済の申し立ては、群馬県で三人が行い、申し立てをした人は十二都県の七十五人となりました。北海道と熊本でも申し立ての準備が始まっています。
 日弁連の人権救済勧告を受けた兵庫県の三人の犠牲者は二十七日に提訴する予定で、準備をすすめています。
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2009年03月24日,「赤旗」)
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レッドパージ/人権救済を申し立てへ/熊本同盟

 第二次世界大戦が終わった直後に、いわれなく職場を追われた、いわゆる「レッドパージ」を受けた人やその家族たちでつくる「レ・パ熊本同盟」は二十五日、熊本市で会議を開き、近く県弁護士会へ「人権救済申し立て」をすることにしました。
 この申し立ては、昨年十月に日本弁護士連合会がレッドパージをした国と企業に「名誉回復や補償を含めた適切な措置を講ずる」ことを求める勧告をしたことから決めたもの。
 会議には被害者、家族、支援者十五人が出席。「日弁連勧告」要旨を弁護士が報告し、「名誉回復と国家賠償」要求実現のたたかいを県内でどう強めていくか討議。「『日弁連勧告』がたたかう土台を切り開いてくれた。もう高齢だが、私にとって最後のたたかい。力のあるかぎりたたかう」などの発言が相次ぎました。出席した被害者七人全員が申し立てをすることになり、「申立書」の作成にかかることを確認しました。
 レッドパージは、一九四九年から五〇年にかけて、アメリカと日本政府、財界が労働運動と民主勢力の弱体化を狙って、日本共産党員とその支持者、数万人の労働者を職場から権力的に排除・解雇した事件です。
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2009年01月29日,「赤旗」)
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レッドパージ考えるつどい/厚木革新懇

 神奈川県の厚木革新懇はこのほど、レッドパージ問題を考える講演のつどいを同市で開きました。金子圭之レッドパージ反対全国連絡センター事務局長が講演し、一九五〇年の米占領軍による共産党員であることを理由にした解雇、公職追放(レッドパージ)に対し、日本国憲法、労働法、世界人権宣言をかかげ、名誉回復と国家賠償を求める運動を紹介し、「昨年出された日弁連の人権救済勧告を生かし早期解決を」と呼びかけました。
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2009年01月27日,「赤旗」)
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がんばれ共産党/倉敷市・屋守町内会連合会廃船撤去運動のメンバー道広利三郎さん(65)


住民目線大したもんだ
 今回の倉敷市議選(十八日告示、二十五日投票)では、共産党の大本よし子さん(現職)を応援しています。町内のため、地域住民のためなんです。
 大本さんを知ったのはつい一年ほど前です。町内あげての、不法放置された廃船撤去の運動で、お世話になっているんです。
 退職して、この地に帰ってきた四年前、話を聞いて耳を疑いましたよ。この屋守地区は昔から「桃源」と呼ばれ、風光明美な土地柄なんです。その玄関口ともいえる場所に、廃船がごろごろと野積みされている。十数年前からだというのです。許せないと思いました。
 風光明美な町内を取り戻そうと、町内会連合会あげての運動になりました。不正をただしたい、監督不足の市の姿勢をただしたいと、住民四百人が署名をしました。
 その運動で、大本さんは先頭に立ってくださった。まさに矢面ですよ。非常に行動力があるから、町内のみなさんが期待し、感謝しているんです。
 私はもともと共産党とお付き合いがなかったし、レッドパージの印象しかなかったんです。今回お付き合いしてイメージが変わりましたね。住民の目線に立って、弱い者の味方をする。大したもんだと思いますよ。
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2009年01月18日,「赤旗」)
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レッド・パージ犠牲者仁比・吉井議員と懇談/兵庫

 日本共産党の仁比聡平参院議員と吉井英勝衆院議員は十六日、神戸市中央区の兵庫レッド・パージ反対懇談会の事務所を訪れ、レッド・パージ犠牲者の大橋豊さん(78)と安原清次郎さん(87)と懇談しました。
 大橋さんらは日本弁護士連合会に人権救済を申し立て、日弁連は昨年十月、政府・関係企業に名誉回復と補償を勧告しています。
 仁比議員は、「日本共産党国会議員団として、みなさんをお訪ねするのは初めてです。画期的な勧告をかちとったみなさんのたたかいに心から敬意を表します」と激励し、「みなさんの思いをうかがい、ことしをこの問題が大きく前進する年にしたい」とのべました。
 レッド・パージで川崎製鉄を解雇された安原さんは、両議員の問いに答え、石を拾ってきて売って生計を立てていたなど解雇後の苦労を紹介。「とにかく(国や企業に)謝らせることが私の仕事です」と力強く語りました。
 一同は、今後のたたかいなどについてなごやかに語り合いました。
 党兵庫県委員会の松田隆彦書記長が、同席しました。
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2009年01月17日,「赤旗」)
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対談/うどんは命の綱/池上留美子さん/笹岡まさるさん


讃岐うどん人気の秘密は?/高松市の「るみちゃんうどん」
池上製麺所の看板女将£r上留美子さん
日本共産党衆院四国比例候補笹岡まさるさん

おいしいうえに安い/笹岡さん
目が覚めると考えて/池上さん
 年来の「うどんブーム」で、全国の注目を集める讃岐うどん。なかでも「るみちゃんうどん」の愛称で親しまれている池上製麺所(香川・高松市香川町)は、行列が絶えない人気店。マスコミからも引っ張りだこです。お目当ては、味と、看板女将≠フ「るみばあちゃん」こと池上留美子さん(76)の笑顔。日本共産党衆院四国比例候補の笹岡まさるさん(56)が、うまさの秘密に迫りました。

1玉150円、庶民は大助かり
 笹岡 よろしくお願いします。「るみちゃんうどん」は何度か食べにきたことがあるんですが、今日も先ほど行列に並んできました。茹で上がったばかりの麺に卵をからめた「釜玉」をいただきましたが、やっぱり、おいしかった。レジの青年が「ダシは使わず、醤油をたらして食べて」と勧めてくれました。味に自信あり、ですね。
 るみちゃん(池上) ありがとうねぇ。
 笹岡 1玉150円、2玉でも250円。おいしいうえに安い。この不況のなか、庶民は大助かりです。
 るみちゃん それは、うれしいわ。うどんは命の綱≠竄ゥら。
 笹岡 午前10時から3時間半、夕方は4時から1時間という短時間の営業で、売り切れ御免。うまさの秘けつは何でしょうね。
 るみちゃん そんなん分からんけど、毎日、目が覚めると、うまいうどん作らないかん思うて。私は銭のことはあんまり考えんけん、お日さんにおはようござんす言うたら、塩水なんぼ入れるか、どうするかいうんを考える。うまいうどん作ろういう気持ちがあれば、うどんはうまいもんかもしれんなぁ。

終戦直後よりもひどい自給率に
 笹岡 昨年は輸入汚染米問題など、食の安心・安全が脅かされた年でした。子どもたちのアトピーなど健康被害も深刻です。しかし、輸入品の検査官は全国で三百数十人しかいません。冷凍食品や加工食品はほとんどチェックできません。
 るみちゃん 恐ろしいなぁ。
 笹岡 食料自給率4割、穀物自給率は27%。終戦直後よりもひどい状態です。
 るみちゃん 農家の人も、食べる側の人もいっしょに考えんとなぁ。食料不足になってからでは遅いですよ。
 笹岡 茹で汁を浄化する「高濃度うどん排水処理装置」まで付けてますね。県内で初めてじゃないですか。
 るみちゃん そうやねぇ。

きっかけはレッドパージ 
 笹岡 るみちゃんうどん≠ェできるきっかけは「レッドパージ」だったとか。
 るみちゃん 昔、愛媛県の小松いうとこに国鉄の教習所があって、おとうちゃん(夫の明さん。1999年死去、享年79歳)は、体操の教官をしてました。1949年にレッドパージ(「行政機関職員定員法」によって、共産党員や進歩的な人々20万人以上が解雇)で国鉄をクビになった。それから4年して結婚したんやけど、食べていかんならんから、豆腐屋か八百屋か迷うて、うどん屋に決めたんや。
 笹岡 それにしても許せない暴挙で大変でしたね。今、不況を理由に大企業の大量首切り・下請けいじめが横行しています。明さんの遺志を受け継いで、私たちも仕事と暮らしを守るため全力を挙げています。


池上製麺所の看板女将£r上留美子さん
日本共産党衆院四国比例候補笹岡まさるさん

平和へがんばった亡夫/池上さん
遺志しっかり受け継ぐ/笹岡さん

庶民のことを考えん政治では
 るみちゃん(池上) おとうちゃん(亡夫の明さん)は、だれにも習わんと、自分で工夫して、うどんをこしらえた。お店に卸した残りを自転車に積んで2人で売って歩いた。ようけ売れたんよ。
 笹岡 ご自身の生活も大変だったのに、明さんは困っている人がいるとすぐに飛んでいったそうですね。
 るみちゃん 民商(民主商工会)には熱心やったねぇ。税務署が業者さんとこに税務調査に入るいうたら、必ず立ち会いにいって、業者さんを励ましてましたなぁ。その間、うどんは私がやってました。
 笹岡 今、明さんが生きていたら、首切りにあった労働者のもとに飛んでいかれたかもしれませんね。
 るみちゃん トヨタ、スズキもマツダも、さんざん大もうけしてたのに景気が悪くなったら、さっさと働きよる人の首切りやもんね。アメリカのゆうことやったら、ようけお金も出していうこと聞くのに、私ら庶民のことは考えんねぇ。
 笹岡 みんなで頑張って、何としても政治の中身を変えんといけませんね。

広島で原爆におうた亡夫
 るみちゃん おとうちゃんは原爆におうとんですよ、広島で。軍隊の秘密やったから、どこの町か知らんけど、小高い丘の上に司令部があって、8月6日に新兵さん連れて立ち寄った。午前8時ころに外に出て歩いとったら原爆が落ちたらしいです。何かゴム風船がバッちゅうて、焼けて破裂するような音がしたって。目が覚めたら、新兵さんも何ちゃ飛んでおらなんだ。馬がよおけ死んどった≠艪、てました。
 ずっと元気やったけど、死因は悪性リンパ腫やったから、原爆の影響かもしれんね。
 笹岡 困難に屈せず、平和や命、暮らしを守って頑張ってきた明さんの遺志をしっかり受け継ぎたいですね。そのためにも、今年必ずある総選挙で、四国から日本共産党の議席を実現するために全力を尽くします。
 るみちゃん 戦争のない、核兵器もない世の中をみんなで作らんといかん思いますよ。戦争好きなんばっか、ようけおるけんのぉ。おとうちゃんは、選挙になったら、共産党の候補がどこから出ても応援にいきよったもん。東京でも大阪でもどこでも全国の知り合いに「共産党に入れてくれ」いうて電話しよったね。今も、同じようにやったら勝てるんちがうの。
 笹岡 おっしゃる通りです。持てる力を出し切って、ご期待にこたえるよう頑張ります。
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2009年01月06日,「赤旗」)