2010年レッドパージ犠牲者の活動】

 

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*         「見出し」2010年 (ページトップへ)

*         レッド・パージ早く名誉回復を/千葉・岩崎さん

*         レッド・パージ60年で集い/不屈のたたかいに敬意/市田書記局長あいさつ

*         名誉回復・賠償実現へ/レッド・パージ60年で集い/東京

*         レッド・パージ60周年/被害者の名誉回復ぜひ/全国連絡センター事務局長金子圭之さんに聞く

*         レッド・パージ早期解決を要請/神戸法務局に

*         60周年記念集い成功へ/レッド・パージセンター幹事会

*         レッド・パージ60年/裁判勝利へ決意/3原告囲み弁論を報告/神戸

*         レッド・パージ/政府は共同実行者/研究者の明神氏が証言

*         第40回赤旗まつり/分野別後援会のテント、交流会など企画

*         レッド・パージ反対同盟が総会/神奈川

*         綱領を学ぶ/米国従属が明らかに/尖閣問題さすが共産党/新入党員と学び感想を交流/横浜市神奈川区

*         綱領を学ぶ/支部の「綱領講座」におじゃましました/徳島県学習・教育部長代理湊京子さん

*         レッドパージ/日弁連勧告の実現求め集い/電産東京8・26会

*         レッド・パージ/戦後最大の人権侵害60年/12月11日に東京でつどい

*         レッド・パージ被害者の名誉回復を/仙台弁護士会も勧告/首相・宮城知事・日立製作所に

*         富山診療所の60周年で集い/650人が参加

*         人権救済を申し立て/京都・レッドパージ被害者

*         列島だより/岩手/被害の名誉回復を

*         メディアをよむ/阿部裕/検察犯罪とリーク依存

*         ひと/レッド・パージ被害の救済求めて60年佐藤定雄さん(80)

*         党員の長寿を祝う/敬老の日を前に党宮城県委

*         請願署名協力/党都委に要請/レッドパージ反対東京連絡センター

*         記念講演学習が力に/市議選へ党の自力を%ヌ者増やす/愛知・江南市

*         名誉回復へ同盟/岩手

*         週間日誌/10年8月29日〜9月4日

*         主張/「レッド・パージ」/名誉回復と国家賠償を今こそ

*         レッド・パージ名誉回復勧告/首相に日弁連

*         「敗戦とラジオ」を見て/NHK教育「ETV特集」15日放送/メディア研究者松田浩

*         ッドパージ60年不屈のたたかい/河本清さん(84)/戦争許さない思い

*         レッドパージ60年不屈のたたかい/佐野陽三さん(87)/収入断たれ健康も害し

*         レッドパージ60年不屈のたたかい/早見栄子さん(81)/映画の世界追われ

*         レッドパージ60年不屈のたたかい/山元良信さん(84)/平和と命を守る

*         レッドパージ被害者救済/弁護士会が国に勧告/長崎

*         レッドパージ60年不屈のたたかい/堀内栄三郎さん(83)/乗務の夢何十年たっても/正しいこと曲げない

*         レッドパージ60年不屈のたたかい/東浦清子さん(84)/16年後提訴、さらに12年…

*         レッドパージ60年不屈のたたかい/入江幸男さん(83)/組合と会社に職場を追われ

*         レッドパージ60年不屈のたたかい/中辻トヨ子さん(81)/ビラをまき重労働1年の刑に

*         メディアをよむ/阿倍裕/新聞労連60年過去・未来

*         全国組織の拠点完成/レッド・パージ反対事務所開き

*         レッド・パージ反対全国センター/都内に事務所開設

*         レッド・パージ訴訟/研究者を証人採用/神戸地裁

*         弁護士会勧告実施を/神奈川県レッド・パージ反対同盟が要請

*         イールズ闘争安保闘争学ぶ/北海道大学

*         レッド・パージ訴訟/職失い生活も困窮=^原告が証言

*         レッド・パージ連絡センター総会/東京

*         平和・人権/憲法守り生かそう各地で/長崎/福岡/熊本/宮崎/鹿児島/山口/島根/鳥取/愛媛

*         パージ者名誉回復を/熊本

*         レッド・パージ被害の救済へ/北海道懇話会結成

*         山本薩夫監督生誕100年によせて/反戦、生涯のテーマ/分かり易くおもしろい社会派/武田敦

*         レッド・パージ訴訟/佐伯弁護団長に聞く/不当解雇で名誉損なう/国の加害行為問う裁判

*         レッド・パージ救済へ学習会/神奈川・反対同盟

*         参院選のページ/はたの君枝選挙区候補(53)神奈川(定数3)/基地被害なくす先頭に

*         レッド・パージ補償を求めて北海道で運動/準備会

*         レッド・パージ訴訟/原告本人尋問決まる/神戸地裁

*         被害者の名誉回復を/盛岡レッドパージ反対懇談会

*         レッド・パージ告発横浜弁護士会/神奈川県レッド・パージ反対同盟代表委員金子圭之さんのリポート

*         レッド・パージ反対センター「全国情報」創刊

*         治維法国賠同盟の塩釜支部が新年会/宮城

 

 

【本文】2010(ページトップへ)

 

レッド・パージ早く名誉回復を/千葉・岩崎さん

 千葉市緑区在住の元炭鉱労働者、岩崎榮則さん(79)が10日、レッド・パージ犠牲者の名誉回復と正当な国家賠償を千葉県弁護士会の市川清文会長(同人権擁護委員長)に申し立てました。
 岩崎さんは、北海道阿寒町の雄別炭砿鉄道雄別砿業所に勤務。日本共産党員として炭鉱労働者の生活向上や権利擁護、産業復興などをめざし活動していた1950年10月18日、会社側からレッド・パージされ、職場を追放されました。
 会社側は尾行や監視を数年間にわたり続け、岩崎さんは干渉のなかで土工夫などでの苦しい生活を強いられました。職場を追われた人のなかには離婚や自殺に追い込まれた人もいました。
 岩崎さんは「思想、良心の自由を保障し基本的人権を明記した憲法をじゅうりんし、世界人権宣言にも反した無法・不当行為であることは明らか。政府はこれを認め一刻も早く人権救済をすべきだ」と話しています。
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2010年12月12日,「赤旗」)
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レッド・パージ60年で集い/不屈のたたかいに敬意/市田書記局長あいさつ

 あいさつにたった市田忠義書記局長は、まずレッド・パージ被害者が野蛮で理不尽な弾圧をうけ、不屈にたたかいぬいてきたことに心からの敬意を表明しました。
 そしてレッド・パージは、憲法をじゅうりんし、基本的人権、思想・信条の自由、法の下の平等、結社の自由を乱暴に踏みにじった暴挙であり、文字通り重大な人権侵害だと強調。被害者が一日も早く問題の解決をと願っているいま、被害者の名誉回復と補償をかちとることは緊急の課題だとのべました。
 またレッド・パージ被害者の要求を実現することは、歴史の一大汚点をただす意義をもつとともに、職場における思想差別や言論表現の自由など基本的人権を確立する今日的な意義をもっていることを指摘し、ともに全力をつくして奮闘する決意をのべました。
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2010年12月12日,「赤旗」)
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名誉回復・賠償実現へ/レッド・パージ60年で集い/東京

 日本共産党員や労働組合活動家が職場を追放されたレッド・パージから60周年を迎えて11日、東京都内で「戦後最大の人権侵害レッド・パージ60周年記念のつどい」(同実行委員会主催)が開かれました。被害者と支援者など250人が参加。被害者の名誉回復と国家賠償を実現し、歴史の教訓を次世代に伝えていこうと決意を新たにしました。
 実行委員長の大黒作治全労連議長があいさつ。日本共産党の市田忠義書記局長が連帯のあいさつをしました。
 北海道教育大学の明神勲名誉教授は記念講演で、レッド・パージはアメリカの示唆にもとづき政府・財界が共同の実行者として強行したもので、その責任は重大だと強調。被害者の名誉回復と補償の必要性を強調しました。
 「加害者を許すことはできない。日弁連の被害者人権救済の勧告に励まされている。これを力に名誉回復へ全力を尽くしたい」など被害者が次々に立って発言しました。各分野の団体代表が被害者の名誉回復と補償実現のため頑張る決意を表明しました。
 金子圭之レッド・パージ反対全国連絡センター事務局長がこの間のたたかいの広がりを紹介しながら、運動前進へ決意をのべました。
 日弁連の宇都宮健児会長のメッセージが紹介されました。
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2010年12月12日,「赤旗」)
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レッド・パージ60周年/被害者の名誉回復ぜひ/全国連絡センター事務局長金子圭之さんに聞く

 1949年から50年にかけて、アメリカ占領軍の強い示唆のもと政府・財界が強行したレッド・パージから今年は60周年を迎えました。11日には記念のつどいも開かれます。被害者たちは名誉回復と国家賠償を求めてたたかっています。レッド・パージ反対全国連絡センターの金子圭之事務局長に運動の現局面について聞きました。
 
 60年前の今ごろ、全国の多くの職場ではレッド・パージの嵐が吹き荒れていました。
 1949年、官公庁の行政整理や民間の企業整備のなかで日本共産党員や労働組合活動家を狙いうちした不当な免職・解雇が強行されました。
 続いて50年には全産業にレッド・パージ旋風が襲いかかり、合わせて推定4万人の労働者が「破壊分子」などの烙印(らくいん)を押されて、職場から追放されました。

反共の防波堤に
 レッド・パージは当時のアメリカ占領軍の強い示唆と助言のもと、日本政府と財界が強行し、裁判所も容認した大弾圧でした。労働運動の高揚、日本共産党の影響力の拡大と、国際的には民族的運動の前進に恐れをいだいた権力が、日本を「反共の防波堤」に仕立てあげるためのものでした。
 被害者と家族は、経済的にも社会的にも計り知れない損失を被り、自ら命を絶った人さえありました。国民生活の擁護、自主的な経済復興、基本的人権の確立、反戦・平和を求める運動は大きな打撃をうけました。こうして今日見られる対米従属と財界優先の政治への道が開かれたのです。
 しかし、アメリカと日本政府、財界は責任を認めて謝罪したことも、被害者救済をしたこともありません。最高裁判所は、レッド・パージはアメリカ占領軍による「超憲法的措置」と称して司法の独立を投げ捨て、屈辱的な判決をだしました。これが今日、少なからぬ職場で思想差別が続いている根っこになっていることは見逃せません。
 レッド・パージ被害者の名誉回復と国家賠償を求める運動は、絶え間なく続けられてきました。国会請願行動、政府交渉、弁護士会への人権救済の申し立て、裁判闘争などです。このなかで日本弁護士連合会をはじめ、横浜、長崎、仙台の各弁護士会の救済勧告は、レッド・パージ反対運動に新たな転機を生み出しています。
 これらの勧告は、レッド・パージは思想・良心の自由、法の下の平等、結社の自由を侵害するものと断じて、被害者の名誉回復と補償を含む措置を政府などに求めました。

日弁連救済勧告
 とりわけ今年8月の日弁連の勧告は、救済を訴えた被害者だけでなく、すべてのレッド・パージ被害者の救済を求める画期的な内容となっています。
 レッド・パージの無法性、不当性は、これらの勧告によっていよいよ明らかになり、問題解決の条件はますます高まっていると言っても過言ではありません。
 11日には、全労連、日本共産党、全国連絡センターなど15団体以上でつくっている実行委員会の主催で「戦後最大の人権侵害レッド・パージ 60周年記念のつどい」を開きます。ここで歴史の誤りをただし、名誉回復と補償を実現し、教訓を次世代に継承する決意を固めあいます。50周年記念集会はレッド・パージ反対運動を全国的に再建しました。この経験を見れば、60周年記念のつどいが、基本的人権を取り戻そうとする人々の連帯、協力、共闘を広げる機会となることは明らかです。

11日、記念の集い/市田書記局長あいさつ
 「戦後最大の人権侵害レッド・パージ60周年のつどい―いまこそ名誉回復・賠償を、歴史の教訓を次世代へ」は11日午後1時半、東京都渋谷区代々木の全理連ビル(JR・地下鉄代々木駅北口駅前)で。明神勲・北海道教育大学名誉教授が記念講演し、日本共産党の市田忠義書記局長があいさつします。被害者の告発と各分野からの報告があります。
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2010年12月09日,「赤旗」)
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レッド・パージ早期解決を要請/神戸法務局に

 日本共産党員と党支持者が解雇・免職されたレッド・パージ犠牲者の岡井理一さん(89)と犠牲者で国家賠償を求め裁判でたたかう川崎義啓さん(94)、大橋豊さん(80)が6日、「人権週間」(4〜10日)にあわせ、神戸地方法務局へ憲法にもとづく判断とすみやかな解決を要請しました。
 大橋さんが、60年にわたる被害の苦しみとともに、スイス・ジュネーブでの国連人権委員会への要請行動や日本弁護士連合会の救済勧告、国家賠償裁判の内容を紹介しました。大橋さんは、「レッド・パージは、戦後最大の人権侵害。犠牲者は高齢で、はやく解決してほしい」と訴え、レッド・パージにかかわる閣議決定の資料や解雇通告書などを手渡しました。
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2010年12月07日,「赤旗」)
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60周年記念集い成功へ/レッド・パージセンター幹事会

 レッド・パージ反対全国連絡センターの拡大幹事会がこのほど開かれ、「レッド・パージ60周年記念のつどい」の成功へ向け取り組みを強めることなどを確認しました。
 会議では、12月11日の記念のつどい(午後1時半、東京都渋谷区の全理連ビル)の成功は今後の運動の前進を保障するものになる、として関係団体への協力呼びかけを引き続き強めることを確認しました。
 また、名誉回復と国家賠償を求める請願署名の12月末までに1万人達成のとりくみ、兵庫・国家賠償請求裁判、弁護士会への人権救済申し立て運動のとりくみについても強化を確認しました。
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2010年11月20日,「赤旗」)
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レッド・パージ60年/裁判勝利へ決意/3原告囲み弁論を報告/神戸

 日本共産党員と党支持者が解雇・免職されたレッド・パージの60周年集会が16日、神戸市中央区内でおこなわれ、この日神戸地裁で開かれたレッド・パージ裁判の第8回弁論の報告がありました。
 
 レッド・パージ犠牲者で原告の川崎義啓さん(93)、安原清次郎さん(89)、大橋豊さん(80)が勝訴をめざす決意をのべ、証人として証言した明神勲北海道教育大学名誉教授が、意見書提出と証言を引き受けた経過を紹介しました。
 明神教授は「今の日本で3人が名誉回復することは、思想、良心の自由、人間の尊厳を求め困難な状況でたたかっている人たちの大きな励ましになります」と、原告や被害者を激励しました。
 佐伯雄三弁護団長が、「明神先生から、事実をふまえれば、1960年の最高裁決定がそのまま維持されるのはおかしいとふみ込んだ証言をいただいた」と証言の意義を強調しました。
 60人が参加し、兵庫県内外のレッド・パージ被害者が、被害の苦しみや、ともにたたかう決意を次つぎと語りました。
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2010年11月18日,「赤旗」)
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レッド・パージ/政府は共同実行者/研究者の明神氏が証言

 日本共産党員と支持者が職場から追放されたレッド・パージの犠牲者が国家賠償を求めた裁判の弁論が16日、神戸地裁であり、レッド・パージ研究の第一人者、明神勲・北海道教育大学名誉教授が証言しました。
 明神氏は尋問に答え、1950年7月18日付など一連のマッカーサー書簡は「アカハタ」無期限発行停止などを指示したものであり、GHQ(連合国軍総司令部)は公共的報道機関や民間産業でのレッド・パージについては指示でなく示唆したにすぎないと指摘。日本政府は、その示唆を利用して指示であるかのように取り扱い、GHQの権力を利用して念願のレッド・パージを遂行した積極的な共同実行者であり、重大な責任を負っていると強調しました。
 60年の最高裁決定で、マ書簡の指示が「その他の重要産業」にも及ぶとして「そのように解すべきである旨の指示が当時裁判所に対してなされたことは当法廷に顕著な事実」としたことについて、明神氏は新たに入手したGHQ民政局文書を示し、GHQの「解釈指示」の実態は助言にすぎなかったことを論証。「今回、新たな説を提起した。最高裁決定を確定したものとするのではなく、改めて再検討を」と裁判官に要望しました。
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2010年11月17日,「赤旗」)
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第40回赤旗まつり/分野別後援会のテント、交流会など企画

 目前に迫った第40回赤旗まつり(6、7日、東京都江東区の「夢の島公園」)では、労働者、業者、女性など各分野の日本共産党全国後援会がそれぞれのテントを設け、テント開きや交流会をおこないます。それぞれの後援会テントは、中央舞台に向かって左側にある「中央タテ線後援会」の場所にあります。
 
 ▽労働者後援会テント 6日正午〜テント開き・交流会
 ▽教職員後援会テント 6日午前11時〜テント開き
 ▽医療労働者後援会テント 6日午後0時30分〜交流会
 ▽自治体労働者後援会テント 6日午前11時30分〜テント開き
 ※東京の労働者後援会テントでは、単産別に集いを持ちます。
 ▽全国業者後援会テント 6日午前11時〜テント開き、正午〜国会議員を迎えての交流会、午後3時〜交流会、7日正午〜国会議員を迎えての交流会
 ▽医療後援会テント 6日午後3時30分〜4時30分 小池晃さんを囲む医療者の集い、午後4時30分〜懇親会
 ▽全生連有志後援会テント 6日午後3時〜集い(「『地域主権』で国保が危ない」)
 ▽市民・住民運動後援会テント 6日正午〜ハンセン病問題を考える、午後4時〜高齢者の集い、7日正午〜公害・環境団体交流会
 ▽患者・障害者後援会テント 7日正午〜午後1時 国会議員を囲んでの交流会
 ▽女性後援会テント 6日午前10時〜テント開き、7日正午〜地方選挙勝利めざす女性の集い(候補者・国会議員が参加)
 ▽大学人・研究者後援会テント 7日正午〜集い「今宮謙二さんと語ろう 学問のこと、日本共産党のこと」
 ▽文化テント 6日午前11時〜歌人、午後2時〜文学、午後5時〜美術関係者が集まります。7日午前11時〜文化後援会(宮本岳志衆院議員のミニ講演)、午後2時〜詩人、午後4時〜写真関係者が集まります。
 ▽レッド・パージ反対全国連絡センター、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟テント 6日正午〜交流会、7日正午〜交流会
 ▽農業・農民後援会 7日午後3時〜ふるさと・産直通りで集い
 ※両日、国民運動委員会テントで各種案内、入党相談をおこないます。
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2010年11月03日,「赤旗」)
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レッド・パージ反対同盟が総会/神奈川

 神奈川県レッド・パージ反対同盟は27日、横浜市内で第10回総会を開き、37人が参加しました。
 横浜国立大学元教授の下山房雄さんが「戦後レッド・パージと反対闘争―歴史的意義」と題して記念講演をしました。討論では「国会請願署名をやりきりたい」など運動の前進に向けて、活気あふれる発言が続きました。
 日本共産党神奈川県委員会の畑野君枝副委員長が参加しました。
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2010年10月31日,「赤旗」)
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綱領を学ぶ/米国従属が明らかに/尖閣問題さすが共産党/新入党員と学び感想を交流/横浜市神奈川区

 横浜市神奈川区委員会では、9月に続き、新入党員を対象に綱領学習会を開催し、日曜と金曜夜の2コースに、10支部24人が参加して綱領第2章を学びました。半数が新入党員です。(写真)
 綱領そのものを読みあげ、柴田豊勝区委員長が中心点を語り、米軍の占領支配のもとで深い従属関係がつくられたことを、神奈川のレッド・パージの経験など交えて語りました。感想を交流し、用語についてや「尖閣諸島問題で共産党は弱腰ではないか」との質問に、講師が「赤旗」号外でていねいに説明すると、「さすが共産党」との声があがりました。参加者からたくさんの感想が寄せられました。

○第1章に引き続き「綱領の生命力」にふれ、元気になり、引き続き参加したい。討論が活発になりましたね。青年の参加があり、意見が聞けてうれしかった。

○はじめはよく分からなかった。でも勉強になった。次の機会を待っています。

○初めての学習会の参加でした。初めてお会いする方の話が聞けて、感心したところがあり、また参加したい。

○戦後の日本の問題点――アメリカへの従属が、いろいろな例で明らかになり面白かった。神奈川区の中に米軍基地があることがわかりました。

○初めて綱領学習会に参加しましたが、とても勉強になりました。戦後の日本と現在に至る経過がよくわかり、今後も綱領を通して党の政策を学んでいきたい。討論も内容の濃い話ができ、ふだんなかなか話せない人と話し合えた。
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2010年10月30日,「赤旗」)
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綱領を学ぶ/支部の「綱領講座」におじゃましました/徳島県学習・教育部長代理湊京子さん

 徳島県では、2中総での「綱領的・世界観的確信を全党のものに」の提起を受け、支部の「綱領講座」をすすめようと取り組んでいます。
 私は、実際に取り組んでいる経験に学びたいと思い、「綱領講座」にとりくんでいる徳島地区加茂名支部の支部会議におじゃましました。

みんなが参加その秘けつは
 この支部は新しい党員が増えたこともあり、一人でも多くの党員が参加できるよう2班に分かれて毎週、支部会議を開いています。仕事の都合で班会議に出られない党員のために月1回の合同の会議もしています。訪ねた班では、支部委員のお宅で「綱領講座」をしていました。(写真)
 まず、綱領そのものを読み合わせして「他の党も綱領はある?」「ポツダム宣言って?」「レッドパージされたのはどうして?」など、わからないところを出し合い、『月刊学習』の「Q&Aで学ぶ 日本共産党綱領」、や日刊紙の「質問コーナー」に掲載された「Q&A」を参考にしながら、ベテランの党員がていねいに答えています。
 「難しい!」「わかりにくい」という率直な感想も大事にしながら、全員が発言するようにしています。みんなが会議に参加している秘けつは、党員同士の日ごろからの結びつきの強さです。支部委員がそれぞれ分担を決め、連絡を密にとるなど、一人ひとりの党員を大事にして、新入党員の成長も粘り強く見守っています。

支部の要望にこたえながら
 さっそく県学習・教育部では、加茂名支部をはじめ綱領学習をしている支部の経験を「県学習・教育ニュース」で紹介しました。また、未開催の支部の会議にでかけて、「気軽に綱領学習をすすめてみませんか」と呼びかけています。私が参加した島田支部の会議は、「みんなに支部会議に参加してもらえるか」と悩んでいました。
 加茂名支部の経験を紹介すると、「会議参加を訴えるにも、自分たちが党の姿をきっちりと伝える必要がある。そのためにも綱領学習会を始めよう」と、次回の支部会議から綱領講座を始めることになりました。
 講師が必要だという支部の要望にも応えることも含めて直接、支部の悩みを聞き、一つひとつ解決の方向を考えながら取り組むことが大事だと痛感しました。各支部の状況を考慮し、党員同士の結びつき、党機関と党支部の結びつきを大事に進めていきたいと思います。
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2010年10月23日,「赤旗」)
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レッドパージ/日弁連勧告の実現求め集い/電産東京8・26会

 1950年8月の米占領下のレッドパージで職場を追われた電気産業労働者らでつくる「電産東京8・26会」の集いがこのほど、東京都内で開かれました。
 「企業破壊者」といういわれのない理由で職場から権力の力で追われて60年を迎えます。今年、日本弁護士連合会は、電産東京8・26会員を含む26人の申立者の主張を全面的に認め、政府に対して救済勧告を出しました。
 横浜、長崎弁護士会でも勧告がされており、申立者全員について救済の勧告がされたことになります。
 今年の集いには「自分たちの無念さをわかってくれた」と、長野、栃木などから被害者と家族、支援者など40人が参加しました。90歳になる被害者は、「体はきついがうれしくて、今年はどうしても出たく、娘に付き添ってもらい参加した」と語りました。
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2010年10月14日,「赤旗」)
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レッド・パージ/戦後最大の人権侵害60年/12月11日に東京でつどい

 「レッド・パージ60周年記念のつどい」が12月11日に東京都内で開かれることになりました。12日の第1回同つどい実行委員会で確認しました。実行委では多数の参加をよびかけています。
 集会の名称は「戦後最大の人権侵害・レッド・パージ60周年記念のつどい―いまこそ名誉回復・賠償を 歴史の教訓を次世代へ」。12月11日午後1時半から、東京都渋谷区の全理連ビル(JR代々木駅、地下鉄大江戸線代々木駅下車)9階で開きます。
 つどいでは、北海道教育大学の明神勲名誉教授が記念講演をし、レッド・パージの被害者が体験を語り名誉回復と国家賠償を訴えます。労働、法曹、青年などの分野からも発言があります。
 同つどいの実行委員会は、全労連、全商連、全日本民医連、民青同盟、自由法曹団、国民救援会、治安維持法国賠同盟、国際人権活動日本委員会、日本共産党、レッド・パージ反対全国連絡センターなどで構成されています(12日現在)。
 問い合わせは、レッド・パージ反対全国連絡センターへ。рO3(3576)3755
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2010年10月13日,「赤旗」)
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レッド・パージ被害者の名誉回復を/仙台弁護士会も勧告/首相・宮城知事・日立製作所に

 仙台弁護士会(新里宏二会長)は12日、宮城県内に住むレッド・パージ被害者らが申し立てた「人権救済」について、菅直人首相、村井嘉浩宮城県知事、日立製作所の3者に「可及的速やかに、名誉回復や補償を含めた適切な措置を講ずるよう」勧告しました。沖直子県レッド・パージ反対同盟代表ら6氏が2008年、同弁護士会人権委員会に行った救済申し立てを受けたもの。
 勧告では6人が1949年8月〜50年10月にかけて、中学教諭、日立製作所、東北配電(現東北電力)などを日本共産党員であることを理由に免職・解雇され、「名誉が害されただけでなく、生活の糧を失うことで苦しい生活を強いられるなどの被害を被った」と指摘。「このような重大な人権侵害はいかなる状況下でも許されないが、52年の平和条約発効後は、被害回復措置を容易に行うことができたにもかかわらず、今日まで放置してきた責任は重い」と強調しています。
 この日は、仙台弁護士会と申立人らがそれぞれ記者会見。申立人の1人で、県レッド・パージ反対同盟の渡邉愛雄(よしお)事務局長は、「勧告は、補償や名誉回復にむけて国を動かす第一歩になる。勧告のような良識的な考えが日本に広がってほしい」と話しました。
 同様の勧告は、これまで日本弁護士連合会はじめ長崎、横浜の弁護士会などが行っています。

レッド・パージ
 1949年から50年にかけてアメリカ占領軍の指令で政府と財界が、「破壊分子だ」などといつわって、全国で日本共産党員と支持者推定4万人(レッド・パージ反対全国連絡センター調べ)を職場から追放した弾圧事件です。
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2010年10月13日,「赤旗」)
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富山診療所の60周年で集い/650人が参加

 富山医療生活協同組合富山診療所60周年記念のつどいが、富山市内でこのほど開かれ、650人が参加しました。
 富山診療所は1950年に戦後の混乱期の中で、レッドパージを受けた人たちが中心になり、労働者・低所得者にも差別のない医療を提供しようと設立されました。
 つどいでは、組合員や患者、地域住民の、いのちと健康とくらしを守ってきた富山診療所の歩みを映像で紹介。小児まひワクチンの輸入や、イタイイタイ病、老人医療費無料化の運動、富山市北部の大気汚染検診などにとりくんできた歴史が紹介されました。
 富山大学名誉教授で医師の鏡森定信氏が「人、地域そして社会の健康のために」と題して記念講演しました。
 つどいに携わった職員は、「現在も貧困問題があり、収入が年200万円以下の人がたくさんいる。こういう時だからこそ、無差別・平等に診るということは、今後も追求していかなければならない大事な課題だと思う」と話していました。
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2010年10月10日,「赤旗」)
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人権救済を申し立て/京都・レッドパージ被害者

 戦後の京都で、日本共産党員やその支持者という理由だけで不当な解雇、免職処分などを受けた「レッドパージ」被害者が7日、京都弁護士会に人権救済の申し立てを行いました。申し立てたのは、河本清(84)、清水千鶴(86)、関谷健(86)、垰田豊次(90)、高橋昭三(82)、森田高明(85)、湯浅治(86)の7氏。
 各氏は、一人を除いて府内在住者で、この日は5人が出向いて、同弁護士会の石川泰久副会長に申立書を手渡しました。石川弁護士は「人権擁護委員会として、スピーディーに調査し、審査をすすめる」と語りました。
 記者会見では、日本国民救援会京都府本部の大平勲会長が、申し立てに至った経過を説明し、「名誉回復と国家賠償を求めてたたかいたい」と話しました。
 申立人は、近畿電信局や京都簡易保険局などで勤務していた時、突然、解雇や退職を強要された当時の様子を告発。清水さんは、今の職場でも突然解雇される状況があり、「昔のこととせず応援したい」と言ってくれた若いお母さんの言葉を紹介し、「(申し立てすることが)今にも生きる問題だと感じている」、垰田さんは、「レッドパージの背景や真実を世に残したい」などと心境を述べました。
 京都での申し立ては、関西では、神戸市に次ぐものです。
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2010年10月08日,「赤旗」)
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列島だより/岩手/被害の名誉回復を

 岩手県レッド・パージ被害者名誉回復同盟の結成総会が9月29日、盛岡市で開催されました。被害者は岩手では330人以上いるといわれています。同準備会事務局の藤村三郎さんは「被害者の名誉回復と国家賠償を求める請願署名を集めよう」と提起しました。
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2010年10月04日,「赤旗」)
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メディアをよむ/阿部裕/検察犯罪とリーク依存

 厚労省の「不正事件」で、村木厚子元局長の無罪が確定、その捜査を担当した大阪地検特捜部主任検事が「押収した捜査資料フロッピーディスクを改ざんした」として逮捕されました。
 当該検事の個人的資質の問題とする議論もありますが、検察・警察の体質、構造的な問題と考えるのが妥当ではないでしょうか。獲物の大きさに目がくらみ、自ら描いたシナリオ、犯罪の構図に都合よい材料ばかりそろえる。それらを総合し、客観的・科学的に検証する組織的チェックが働かない。
 いうまでもなく、検察は絶大な権力を持つと同時に、多くの問題を抱えています。数々の冤罪事件―足利事件や認知症患者つめ切り事件の経過からも、検察や警察に都合よい自白強要や調書ねつ造で、罪なき人々が犯罪者、被告にされ、長期間勾留され、平穏な生活を奪われた事例は数えきれません。
 9月25日夕、TBS系列で放送した報道特集「獄中死死刑囚は冤罪?三鷹事件」は真に迫る内容でした。国鉄大量解雇、レッドパージ直前の1949年7月、無人列車が暴走し、6人が死亡した事件。松川事件、下山事件と並ぶ国鉄が舞台の三大ミステリー。
 当時、死刑判決を受けた竹内景助氏の長男が父の無念を晴らそうと「死後再審を申し立てたい」と父親の証言や新証拠をもとに準備し、思いを募らせる表情が心を打ちました。
 GHQ占領下の謀略事件、政治的弾圧による多数の犠牲者の思いを代弁する行動です。
 メディアは、権力が仕掛けた謀略、フレームアップ事件も、捜査当局のリーク、発表に依存した報道がほとんどです。菅生事件のように、報道が警察の謀略を暴露した事例はまれなのです。
 いま、メディアには検察、警察の権力犯罪をチェックする調査報道、検証能力が強く求められています。メディアは責任の重さを自覚しなければなりません。
 (あべ・ひろし=新聞ジャーナリスト)
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2010年10月03日,「赤旗」)
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ひと/レッド・パージ被害の救済求めて60年佐藤定雄さん(80)

 東京都台東区の下町。玄関横には、共産党のポスターがにぎやかに張られています。押し入れから、大事にとっておいた一枚のわら半紙を持ち出します。米軍の全面占領下の1950年8月、関東配電(いまは東京電力)社長名の文書です。
 謄写版刷りで鉄筆の文字は鮮明に読めます。「退職の御申出がありませんでしたので、貴殿を解職致しました」と。
 まじめな検針係でした。「突然言い渡された解雇。理由なんかどこにも書いていないでしょ」。米軍の意向を受け、共産党員やその同調者を公職や企業から問答無用で追放したレッド・パージへの怒りが。
 人権救済を求めて日本弁護士連合会に提出した「上申書」に書きました。「憲法を制定し、民主化の道を歩んできた歴史に汚点を残す暴挙は承服出来ません」
 4人兄弟の長男。生活のために家業の豆腐屋を継ぎました。支えたのは、息子の活動を理解する両親や妻…。なにより仲間たちです。「人権裁判」として思想差別とたたかう電力の仲間と心一つにしてきた歳月です。
 菅首相にたいし、名誉回復などの措置を講ずるよう求めた日弁連の「勧告」。何十倍もの勇気をもらったといいます。12月にはシンポも計画中です。
 「思想の自由を保障するのは過去でなくいまの課題。がんばります」。こぶしを握って、ポーズをとりました。
 文・写真 阿部活士
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2010年09月22日,「赤旗」)
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党員の長寿を祝う/敬老の日を前に党宮城県委

 敬老の日を前に、日本共産党宮城県委員会の中島康博県委員長と広沢真柴田町議、槻木支部の畑井馨支部長は18日、90歳を迎えた柴田町の佐藤九二一(くにいち)さんを訪ね、記念品を手渡して懇談しました。
 党県委員会は敬老の日に際して毎年、節目を迎える党員を県・地区の役員が訪問し、記念品を渡してお祝いしています。今年は、白寿(99歳)が1人、卒寿(90歳)が13人、米寿(88歳)が15人、傘寿(80歳)が60人です。
 中島県委員長らは、佐藤さんが陶芸に取り組む柴田町入間田の工房を訪ね、親しく懇談しました。佐藤さんは1949年に、船岡小学校で教師をしていたときにレッドパージに遭い、教師を辞めさせられて苦労してきました。当時のことを尋ねると佐藤さんは、「保護者が60〜70人県庁に押しかけて撤回を求めてくれた。お役人は頭も上げられなかった」と懐かしむように語りました。
 佐藤さんは趣味の陶芸で県の文化功労賞を受賞。現在個展の開催準備に大忙しです。
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2010年09月19日,「赤旗」)
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請願署名協力/党都委に要請/レッドパージ反対東京連絡センター

 レッド・パージ反対東京連絡センターは10日、日本共産党東京都委員会など各団体に「被害者の名誉回復と国家賠償を求める請願」署名への協力を要請しました。
 日本共産党員や支持者が職場から追放されたレッド・パージから60年がすぎ、被害者も高齢です。党都委員会を訪れた同センター世話人の犀川三郎さん(84)は、「すべての被害者へのすみやかな謝罪と救済を求め、国家賠償の特別法制定に向けて活動している」とのべました。応対した望月康子都副委員長は「ともにがんばりたい」と答えました。署名は来年5月の国会請願行動まで取り組みます。
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2010年09月14日,「赤旗」)
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記念講演学習が力に/市議選へ党の自力を%ヌ者増やす/愛知・江南市

 愛知県江南市の党組織は、来春のいっせい地方選で市議会の定数が2減の22となる可能性があるなか、現有2議席から1増の3議席獲得をめざします。
 8期目をめざす森ケイ子市議の地元、江南団地を活動地域とする藤が丘支部は、「年々有権者が減少する団地で、得票目標1800をやりきるには、有権者の過半数の支持を得る構えで、活動する必要がある」と意思統一。とくに党の自力をつけることが「選挙勝利の最大の保障」と、8月は減紙も多いなか、「赤旗」日刊紙2人、日曜版15人の読者を増やし、前進をかちとりました。
 活動を大きく広げる力になったのが、8月29日に党員と後援会員あわせて25人が参加して開いた「党創立88周年記念講演をDVDで視聴する集い」です。
 記念講演を視聴した後、質問や感想を交流しました。「党名を変えた方がいいのでは」という問いに、支部長が「この名前は党の誇り。戦前から反戦を掲げ、レッドパージなど数々の圧力にも屈しなかった歴史がある」と答えるなど、記念講演にもとづき党そのものへの理解を深める場になりました。
 参加者から「財政危機が深刻化した原因が『15年間の三つの失政』だという志位さんの指摘は、本当にそのとおりだと思う。大金持ちへの減税なんて、もってのほか。福祉に回してほしい」などの感想が語られました。
 9月もひきつづき行動し、11日は支部員のつながりを生かして、地域をまわり、「赤旗」購読を訴え、日曜版読者5人を増やしました。
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2010年09月12日,「赤旗」)
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名誉回復へ同盟/岩手

 「岩手県レッド・パージ被害者の名誉回復同盟」結成総会が29日午後1時半から、盛岡市の中央公民館で開かれます。問い合わせは019(624)5908藤村三郎さん。1949年から1950年にかけて強行されたレッド・パージの被害者は、同県内で330人以上と推定されています。
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2010年09月09日,「赤旗」)
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週間日誌/10年8月29日〜9月4日


政治・経済
 ◆政府が追加経済対策の方針 政府が追加経済対策の基本方針を決定。若者の雇用対策や家電エコポイント制度の延長などが柱。日銀も臨時の会合を開き、追加的な金融緩和を決定(30日)
 ◆2011年度概算要求総額96兆円規模に 11年度予算の概算要求が締め切り。総額は過去最大の96兆円超(31日)
 ◆辺野古新基地案で日米報告書 政府が沖縄県・米軍普天間基地(宜野湾市)の「移設」先として同県名護市辺野古沿岸部に建設する新基地に関する日米専門家会合の報告書を発表(31日)
 ◆民主党代表選が告示 民主党代表選(14日投票)が告示され、菅直人首相と小沢一郎前幹事長が立候補(1日)
 ◆概算要求に学力テスト教科数増加の準備費用 文部科学省の2011年度の概算要求に、全国いっせい学力テストの教科数を増加するための準備費用が盛り込まれていることが判明(2日)

社会・国民運動
 ◆母親大会開く 福島市内で開かれていた第56回日本母親大会が閉幕。2日間で、のべ1万3000人が参加(29日)(写真)
 ◆レッド・パージ被害で日弁連が首相に勧告 東京や埼玉などに住む26人のレッド・パージ被害者が「人権救済申立」をしている問題で、日本弁護士連合会(宇都宮健児会長)は、菅首相にたいし「可及的速やかに、申立人らの被った被害の回復のために、名誉回復や補償を含めた適切な措置を講ずるよう」勧告(31日)
 ◆小田急騒音に賠償命令 東京都渋谷区と世田谷区の住民ら118人が小田急電鉄(新宿区)を相手に、騒音差し止めと約7億8000万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁の村上正敏裁判長は差し止め請求を棄却、損害賠償については42人に総額約1153万円の支払いを命じる(31日)
 ◆113年間で最も高温 気象庁は、今年の夏(6〜8月)の平均気温が平年より1・64度高く、統計を開始した1898年以降の113年間で最も高かったと発表(1日)

国際
 ◆「韓国併合」100年で行事 日本による「併合条約」発効から100年を迎え、韓国各地でさまざまな行事開催(29日)
 ◆金総書記が訪中 北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)朝鮮労働党総書記が中国を訪問。胡錦濤国家主席と会談し、北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議の早期再開を推進する立場を表明(27日)
 ◆パキスタン軍過激派空爆で市民にも犠牲 パキスタン軍がアフガニスタン国境付近で自爆テロを準備していた過激派を空爆し、少なくとも30人を殺害。地元当局者によると、女性や子どもを含む市民も犠牲に(31日)
 ◆米大統領がイラクでの「戦闘任務終結」を宣言 オバマ大統領が国民向けテレビ演説を行い、イラクでの米軍の戦闘任務を終結し、今後はアフガニスタンでの戦争に集中すると宣言(31日)
 ◆和平に向け直接交渉再開 イスラエルによる占領の終結と、パレスチナ国家樹立による2国家共存での紛争解決に向け、イスラエルのネタニヤフ首相とパレスチナ自治政府のアッバス議長がワシントンで直接交渉再開(2日)
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2010年09月05日,「赤旗」)
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主張/「レッド・パージ」/名誉回復と国家賠償を今こそ

 日本共産党員やその支持者であるというだけの理由で「企業破壊者」などのレッテルを張られ、職場を追われた「レッド・パージ」被害者の人権救済申し立てを受け、日本弁護士連合会(宇都宮健児会長)があらためて被害者の名誉回復と補償などの措置を政府に勧告しました。2008年10月に続き2回目の勧告です。
 長崎や横浜の弁護士会でも勧告がだされており、国家賠償を求めた裁判も始まっています。申立人の救済にとどまらず、3万人ともいわれる犠牲者すべての名誉回復と補償が急いで求められます。

歴史の誤りをただす
 「レッド・パージ」は、戦後の日本が、連合国軍総司令部(GHQ)の支配の下、事実上アメリカの単独占領下に置かれた1949年から50年にかけ、労働運動が活発だった公務員や民間の職場などで無法・不当な解雇や免職処分を受けた事件です。有無をいわせず職場から追い出された人は、苦しい生活のなか解雇の撤回を求め、粘り強くたたかってきました。
 日弁連の勧告は、日本共産党員かその「同調者」であることだけを理由にした「レッド・パージ」について、「思想・良心の自由及び結社の自由の侵害であり、重大な人権侵害行為であった」と指摘しています。それは文字通り、歴史の誤りへの断罪です。
 「レッド・パージ」は、米占領軍と日本政府による労働運動の右傾化と民主運動の弱体化をねらった日本共産党への大弾圧でした。日本政府はGHQの指示を絶好の機会として、閣議決定まで行い、使用者・経営者を扇動し、解雇を強行しました。
 勧告は、この歴史的経過について、レッド・パージは「日本政府も自ら積極的にその遂行に関与し、または支持して行われた」として、日本政府の責任を明らかにしています。08年の日弁連勧告は自公政権の麻生太郎首相に提出されました。麻生政権は勧告にこたえませんでした。今回の勧告は、民主党政権の菅直人首相にあてられています。菅政権が2度目の勧告にどうこたえるかが問われます。
 日弁連勧告が前回も今回も、52年のサンフランシスコ条約で日本が形のうえでは独立を回復した後、「日本政府として…被害回復措置を容易に行うことができたにもかかわらず、今日までこれを放置してきた」とし、「国の責任は重い」とのべていることは重大です。
 これまで日本政府は、「レッド・パージ」が占領軍による超法規的な命令だったことをたてに解雇された人たちの救済を認めてきませんでした。人権侵害を救済すべき司法も、その責任を果たしてきませんでした。そうした誤りはいまこそ正されるべきです。

民主主義をすすめるため
 弁護士会という日本の司法の一翼を担う法律家の公的組織が、再三の勧告で「レッド・パージ」被害者の救済を求めたことは重く受け止められるべきです。憲法にもとづき民主主義を前にすすめるために、歴史の誤りはあいまいにされるべきではありません。
 同時に日弁連の勧告が、職場の思想差別が克服されていない現状をあげ、思想信条の自由、法の下の平等の保障を「現代的な人権課題」としていることも重要です。「レッド・パージ」被害救済の今日的な意義も、ここにあります。
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2010年09月04日,「赤旗」)
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レッド・パージ名誉回復勧告/首相に日弁連

 東京や埼玉などに住む26人のレッド・パージ被害者が「人権救済申立」をしている問題で、日本弁護士連合会(宇都宮健児会長)は8月31日、菅首相にたいし、「可及的速やかに、申立人らの被った被害の回復のために、名誉回復や補償を含めた適切な措置を講ずるよう」勧告しました。
 勧告では、「レッド・パージ」とは「戦後占領下の日本において連合国最高司令官総司令部(GHQ)の指示や意向を受けて1950年後半を中心に行われた、共産党員及びその同調者の公職や企業からの追放である」としています。申し立てた26人(1人は申告途中に死亡)は、日本電気産業労働組合(電産)の組合員として活動したり、都立高校や日立、国鉄などで勤務途中に突然、解雇されたり、退職強要をうけ、「その名誉を侵害されたばかりでなく、生活の糧を失いました」(勧告)。
 このため勧告は、「申立人の思想・良心の自由、結社の自由を侵害するとともに、重大な人権侵害であった」と認定。「1952年に平和条約が発効した後は、被害回復措置を容易に行うことができたにもかかわらず、今日まで放置してきた国の責任は重い」としています。
 勧告は、「まとめ」で、「職場において思想・良心の自由などが保障されるべきことは、過去の問題ではなく現代的な人権課題」と指摘。「レッド・パージにより解雇された3万人に及ぶ被害者」も同様に救済されるべきだとしています。
 申立人のひとり、犀川三郎さんの話 今回の勧告の特徴は、私たちだけでなく、レッド・パージされた3万人の被害者にも、同様に救済すべきとしている点です。一歩前進です。国会請願署名をはじめ名誉回復と損害補償を求める運動の前進をはかり、この勧告の速やかな実施を政府に求めていく決意です。
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2010年09月02日,「赤旗」)
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「敗戦とラジオ」を見て/NHK教育「ETV特集」15日放送/メディア研究者松田浩


公共放送を問う確かな「志」
 いまから65年前、敗戦を境に日本の放送は大きく変わった。番組は、政府と軍部の宣伝機関だったラジオがアメリカ占領軍の民主化政策のもとで自由で民主的な民衆のラジオとして再出発し、やがて屈折した道を辿るプロセスを、多くの関係者の貴重な証言と資料で浮き彫りにしている。
 番組で注目されるのは、放送現場の変化にも大きく目を向けている点だ。労組の結成や1946年秋の20日間にわたる放送スト、その中で放送の「国家管理」に反対して役職を返上、ストに参加した9人の部課長たち、いずれも戦前には考えられなかった新しい変化である。戦時中のラジオのあり方や自らの責任に対する厳しい反省が背景にあったことも説き明かされる。

民衆の声を代弁
 民衆にマイクを解放した街頭録音や婦人の時間、民衆の声を代弁して爆発的人気を集めた風刺番組「日曜娯楽版」など、自由を得た放送現場には明るい希望と活気が満ち溢れた。だが、そうした流れに暗い影を投げかけたのが、冷戦を背景にした占領政策の転換だった。民主化から反共へ―朝鮮戦争、レッドパージ、そして憲法の平和主義に背を向ける警察予備隊の創設。番組は、「日曜娯楽版」とその育ての親でもあった名物プロデューサー丸山鉄雄に焦点を当て、その逆風下での苦闘を綴る。
 「日曜娯楽版」が執拗に風刺の的にしたのは、再軍備への政治的逆コース≠笳^野党大物政治家たちを巻き込んでの昭和電工疑獄だった。だが、これに対する吉田内閣の圧力はすさまじかった。

消えた「娯楽版」
 NHKの姿勢も大きく揺らぐ。49年12月制定されたNHKの放送準則には、「放送は、公共性の立場から政府の政策を徹底させることに協力する」と明記された。
 また朝鮮戦争では、NHKは北朝鮮向けの謀略放送に電波を提供し、古垣鉄郎会長は全国放送局長会議の席上、これを「他に先駆けての国策への貢献」と胸を張った。こうした負≠フ足跡をも厳しく自己検証する番組の姿勢は、さすがである。
 こうして独立後の52年6月、「日曜娯楽版」は、ついに姿を消す。番組は、丸山が三木鶏郎『冗談十年』の序文に書いた「公共放送とは政府の御用放送という意味ではない」という言葉に重ねて、「放送の公共性とはなにか」という問いは、いまも私たちの前にある≠ニいうナレーションで終わる。ETV番組改変事件と重ね合わせて受け止めた視聴者も多かったのではなかろうか。制作現場の確かな「志」を感じさせる感動的な秀作である。
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2010年08月26日,「赤旗」)
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レッドパージ60年不屈のたたかい/河本清さん(84)/戦争許さない思い


人生に悔いはありません
 1950年の秋、25歳の時でした。旧逓信省京都地方簡易保険局の松ケ崎支店(京都市左京区)の職員だった私は、「明日から来なくていい。マッカーサーGHQ最高司令官の命令だ」とのひと言で首を切られました。
 敗戦の年、45年12月に日本共産党に20歳で入党しました。私の兄は36年、共産党再建運動弾圧事件に関与して投獄されました。出獄後の39年、補充兵の訓練が3日間あり、相当しごかれたんでしょう。訓練明けの翌朝、心臓まひで亡くなりました(享年25)。兄のこと、二度とあんな戦争を許さないとの思いもあって、労働組合の結成大会に来賓として来ていた共産党の幹部に申し込んだんです。
 ◇◆
 私のパージの前年、行政整理の名で大量解雇がおこなわれ、組合幹部の中に残っていた共産党員は私だけでした。私がいなくなると組合は変質しました。「もうあなたは公務員ではない」と支援しようとしませんでした。
 結局、食べていくため、保険会社2社で外交員をやりました。やったことのない飛び込み営業を必死でやりました。だから悔しいけど、レッドパージ闘争はまったくできなかったんです。
 少し生活が落ち着くと、上京区生活を守る会、民主保育園の設立運動など地域住民の要求実現の運動に参加しました。民主診療所の事務長も引き受けました。いまで言う「ウイングを広げ」、国民と深く結びついた党にしなければと痛感しましたから。
 でも53年ごろかな、親戚(しんせき)が営む洋品雑貨の会社に入り名古屋に移りました。「50年問題」で分裂、混乱していたこともあり、党から離れてしまいました。
 その後、京都信用金庫に入りました。支店長に呼び出され「君は共産党の幹部だったらしいな。耳に入ってるで」と言われたこともありますが、他人の何倍も働きました。本部の課長、最後は関連会社の専務に登用され、京都の政財界トップとも交流しました。
 ◇◆
 党への思いは変わらず、近所に住んでいた清水喜代司さん(故人。71年から6期24年、城陽市議)の選挙を手伝いました。ビラ配布、ポスター張りとか、公然と。これが会社に知られ、「本部の課長ともあろう者が、共産党の選挙活動をするとは何事だ」と人事担当の常務理事にえらく怒られました。でも、こっそり続けました。
 職を完全に退いた93年に再入党。いまは城陽民主懇談会に参加し、革新懇運動にとりくんでいます。参院選の結果は残念でした。「二つの異常」(異常な対米従属、財界・大企業の横暴な支配)から抜け出さないと日本社会は立ちゆかない―ことを企業経営者にどうわかってもらうか。企業経営をかじった端くれとして一役買いたいと思っています。
 何事も変化しながら発展する―党に入って学んだ弁証法の考え方が、とても役だっていますわ。人生に悔いはありません。(おわり)
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2010年08月20日,「赤旗」)
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レッドパージ60年不屈のたたかい/佐野陽三さん(87)/収入断たれ健康も害し


党と民主運動一筋
 私がレッドパージで三菱電機姫路工場を追われたのは、1950年10月でした。
 総務課長室に呼び出され、「きょうから解雇や。私物を整理して即時退去しろ」と通告されました。
 私は、40年から日鉄広畑製鉄所で働き、44年に満州(中国東北部)に出兵、2年半のシベリア抑留をへて48年に帰国し、日鉄に戻りました。ところがすぐ解雇されました。後で「課長のおいが入ったので、はみ出して首になった」と聞きました。資本主義の矛盾を初めて感じ、それから勉強を始めました。三電入社後、49年2月に入党し、労働運動に打ち込みました。
 ◇◆
 当時、全国でレッドパージが吹き荒れていて、会社の教育課長から「形だけでもいいから共産党をやめたことにしないか」と働きかけられましたが、断りました。だから解雇は必至だと考えていましたが、いざ通告されたとき、「ついにきたか」という思いと、これからの生活の不安を覚えました。
 同年12月に、党西播地区の専従だった妻と結婚しました。私も専従になったのですが、当時は給与の保障がありません。食事がうどんの玉だけだったり、木綿豆腐だけというような生活が続きました。あるとき、少し何かに当たっただけで体の毛細血管が切れるという病気になり、医者に「ひどいビタミン不足だ」といわれました。シベリア抑留のときでも健康だったのに。
 働こうとしても、レッドパージが徹底されていて難しかった。川崎造船の下請けで働き始めたら、親会社から「入社させるな」と社長に圧力があり、首になったことがありました。社長は「すまんなあ。ほとぼりが冷めたころに偽名でも使って入ってこいや」といってくれました。
 ◇◆
 官憲からも追われました。パージ直後、会社に入って上司に解雇の理由をただしたことが犯罪とされて、「暴力行為等取締法違反」容疑で51年に逮捕され、その後、懲役刑を受けました。
 60年から再び党の専従になり、西播地区や兵庫県委員会に定年まで勤務しました。その間に、安保破棄県実行委員会の事務局次長や県原水協の事務局長も務めました。いまは治安維持法国賠同盟県本部会長です。いろいろありましたが、私から共産党や民主団体の活動を取ったら何も残らないんですよ。(笑い)
 レッドパージは、戦後最大の共産党弾圧でした。それを契機に朝鮮戦争が始まり、警察予備隊がつくられ、情勢が大きく変わっていきました。それだけに、当時の党が指導上の弱点もあって正しく対応できなかったのが悔やまれます。兵庫のパージ被害者が起こした裁判は毎回傍聴しています。何とか勝ってほしいと思っています。
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2010年08月19日,「赤旗」)
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レッドパージ60年不屈のたたかい/早見栄子さん(81)/映画の世界追われ


舞台に立ち裁判16年
 「占領政策に従い、共産主義者とその同調者は企業を破壊するおそれがあるため、これを排除する」―。忘れもしない1950年9月25日。大映京都撮影所の演技道場に集められ、所長から、解雇を言い渡されました。「海峡の鮫(さめ)」(1950年、安達伸生監督)の淡路島でのロケを終えて、前日の深夜に帰ってきた矢先のことで、ぼうぜんとしました。
 大映株式会社で30人が不当解雇されたうち、京都撮影所が22人。女優は、黒田継子と私の2人でした。
 ◇  ◆
 和歌山県に生まれ育ち、幼児期から映画を見ては、主役になったつもりで、ごっこ遊びを楽しみました。疎開先の山深い地で迎えた終戦時、「大映の第一期ニューフェイス募集」の新聞広告を見つけて、「これだ」と応募したんです。46年、16歳で入社しました。撮影所は、自由な映画づくりへの活気で満ちていました。
 そんな中での一方的な解雇です。当時、労働組合の婦人部長でした。組合として、何らかの署名を集めるとか、組合員相互の親睦(しんぼく)の場として演技道場で社交ダンスを習うなどしました。個人的には、「アカハタ」を配っただけです。「…企業を破壊するおそれ」という、むちゃくちゃな言いがかりに納得できませんでした。
 会社側に解雇撤回を求め、組合員向けには、自分たちの思いをつづったニュースを配りました。1年たっても会社側が話し合いに応じないため、翌51年12月、京都裁判所に「解雇無効の仮処分申請」を申し立てました。
 11人のうち、私と黒田さんら4人は勝訴しましたが、会社側が控訴。58年に大阪高裁でも勝って、職場に復帰しました。しかし、半年で退職してやりました。
 ◇  ◆
 何の根拠もなしに首を切られ、生活を奪われた無念さは治まりませんでした。損害賠償の請求を起こし、示談で決着したのが67年。一連の裁判の区切りまで、16年かかりました。
 一生の仕事に選んだ女優の道は断てず、裁判途中の53年から、劇団「京芸」で活動してきました。裁判をしながら、アルバイトで収入を得て、舞台に立つ。楽ではありませんでしたが、観客との一体感が得られる舞台劇にひかれました。
 今年は、劇団初の試み「短期演劇塾」(演劇に興味のある人が参加できる企画)を開講し、講師の一人として、高校生から60歳の受講者十数人と劇づくりをしています。不当な目に遭いましたが、劇団で一生の仕事を得られた思いです。
 レッドパージは、国民の基本的人権をうたった憲法を踏みにじるアメリカ占領軍の行為に、日本政府や企業が従ったことによります。今、沖縄の基地問題を考えると、米国いいなりの政府の態度に共通点を感じます。アメリカと対等・平等につきあえる日本を取り戻したいです。
 ◇
 はやみ・えいこ 1984年十三夜会奨励賞受賞、95年全児演賞受賞、2006年京都市芸術功労賞受賞
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2010年08月18日,「赤旗」)
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レッドパージ60年不屈のたたかい/山元良信さん(84)/平和と命を守る


重い荷ほど人生面白い
 関西配電(関西電力の前身)でパージを受けた山元良信さん(84)=滋賀県大津市=に聞きました。滋賀では関電で13人が不当に解雇されました。
 
 1950年はめまぐるしい年でね。49年に共産党が衆議院で35議席に。50年6月25日に朝鮮戦争が始まって、日本はどんどんのめり込んでいく。戦争するのに共産党、共産党系、民主化闘争がじゃまになってきた。
 電産(日本電気産業労働組合協議会)の中に「民同」(民主化同盟、右派の第2組合)とか「菊旗同志会」なんていうのがつくられ、GHQではできんクビ切りリストを準備した。仕事している机の横へ菊旗が「山元君なあ」と肩たたきに来ました。
 ◇◆
 8月26日に会社の「離職勧告状」が家に入った。「電気企業という公共性に対し不適格である。よって辞職を勧告する」。来るものが来たかという感じでした。
 そのときぼくは虫垂炎の手術で入院していた。30日に団交やというので、抜糸を早めてもらい、サラシ巻いて、リヤカーで県庁横の支社に行きました。次長が「誠に残念。君たちのような優秀な人を解雇しなくてはならない」といいました。占領軍命令ですからね。
 クビを切られたことをぼく自身は光栄やと思っていた。平和を守る、命を守ると掲げてのことやから。こちらも頑張るが、相手も頑張る。その競争です。
 9月に入って、ぼくらはダシジャコやらせっけん、キャラメルなんかを売って暮らすことにしました。みんな25、26歳で若かった。朝3時半に起きて、バタコ(3輪の軽トラック)で、守口に行ってカリン糖仕入れ、大津に戻り、彦根に売りに行く。冬には体にドンゴロス(粗い布袋)を巻いて吹きさらしに耐えていました。
 関配彦根支店は電気の積算メーターを付ける仕事の声をかけてくれました。「助けたい」と思っていてくれた人がいたんやね。
 行商でも彦根の開出今の農作業小屋に寝泊まりさせてもらう。朝、木戸を開けると弁当箱にお米と漬物が詰めてきちんと置いてある。お祭りのときはおもち。だれが置いてくれたのか分からない。ぼくらには警察の監視がついてましたから。
 ◇◆
 蓄積された思想もありました。それは「命を守る。どんなことがあっても」ということにつきると思います。
 ぼくは海軍航海学校に入隊でしたが、在満州(中国東北部)で兵隊にとられた。同期生は8人に1人くらいしか残っていない。共産党は結党以来、戦争反対。ずっと身近に感じてました。後悔なんかない。日本国中、みんな食べられない時代でしたから。
 最後まで結束していた仲間でしたが、52年の秋ごろかな、それぞれで商売するようになりました。ぼくは弟の電器会社で働き、のちに独立して民商の会員にしてもらい、瀬崎(博義衆院議員)さんが国会へ行ったあと、「会長代理」もさせてもらいました。今も「商工新聞」のポストおろしと配達をしてます。民商運動は命を守ることやから。
 家の中では言いませんけど、家内はえらかった。ずっと苦労ばっかり。でも、今思うことは、重い荷をせたろうた(背負った)だけ、人生は面白いということです。
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2010年08月13日,「赤旗」)
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レッドパージ被害者救済/弁護士会が国に勧告/長崎

 長崎県弁護士会(原章夫会長)は11日、「レッドパージ被害者への救済を求める勧告」を国に行ったと発表しました。
 同弁護士会によると、戦後GHQ占領時代に日本共産党員であることなどを理由に職場から追放された「レッドパージ」被害者7人(うち1人は死亡)から、2006年、弁護士会に人権救済の申し立てがありました。
 これを受け弁護士会では人権擁護委員会で、審査・審議をすすめてきました。
 原会長は、いわゆる「レッドパージ」は「思想良心の自由、法の下の平等、結社の自由を侵害するものである」と批判。「申立人がすでに高齢であることにかんがみ、速やかに名誉回復や補償を含めた措置を講ずる」よう、勧告したと述べました。
 同会によると、こうした勧告は、日弁連、横浜弁護士会に続き3例目ということです。
 会見に同席した申立人の一人、長崎市の南嘉昭さん(82)は、「人に後ろ指を指されるようなことは、何もしなかった。思想・信条の自由を主張しただけで、パージされた。弁護士会の勧告が出されたことは、涙が出るほどうれしい」と語りました。
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2010年08月13日,「赤旗」)
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レッドパージ60年不屈のたたかい/堀内栄三郎さん(83)/乗務の夢何十年たっても/正しいこと曲げない

 近鉄(近畿日本鉄道)に運転士として勤めていた1950年10月、会社に退職を強いられて仕事を失ったんや。24歳のときやった。
 母と病気の姉のいる3人の家計を支えなあかんと考えてな。良心に恥じる思いを持ちながらも、退職金の出るパージ(解雇)に同意した。
 ◇   ◆
 近鉄は最初、「トラブルメーカー」だと20人の名前を挙げて「解雇」を組合に申し入れてきた。団交で「秩序を乱すことがあったのなら、一人ひとりについて具体的な実例をあげよ」とせまると、会社は「それは申し上げられない」とまともに答えられなかったな。
 近鉄で真っ先に裁判をたたかった3人は、仮処分の判決では勝利した。「解雇後に裁判でたたかえないように労働組合から除名せよ」というGHQの勧告を私鉄の組合が実行しなかったことが、勝利に結びついたと思うわ。
 これに続いてと自分も含めた10人が職場復帰を求めて裁判をたたかったんや。会社側は法廷で「堀内は破壊的、暴力的扇動を行い、事業の公共性にまったく反する行動」と根も葉もない主張をしよった。けれども、仮処分で勝った人も含めて本裁判では敗訴に終わってしもうた。
 ◇   ◆
 国家権力がでっちあげた三鷹事件(1949年)があったとき、列車の大事故を起こしたのは共産党の運転士やとキャンペーンがはられて。まるで自分が事故を起こしたように「共産党あんなことしたらあかん」と職場で攻撃されることもあった。しかし、つらいとは思わんかったわ。毎日が助役との交渉で。選挙で選ばれた労働組合の代議員としても、共産党員としても、せいいっぱいがんばってきたつもりやから。入社して退職するまで、燃えに燃えた一番楽しい時代やったな。
 パージされて何十年たっても乗務している夢を見ることがある。職場復帰を果たして晴れて電車を運転、しかも反対車線を走っていて、またクビや、と目が覚めるという夢や。
 ◇   ◆
 パージされてからは、1年間支給された近鉄の無料パスを使って名古屋までキャラメルや飴(あめ)を仕入れに行って、奈良のお菓子屋に卸したりして稼いだわ。夏はかき氷売り。それも2年で資金もなくなって、職業安定所通いが始まった。失業対策事業で河原の草刈りとか道路工事とか、日当240円もらって過ごしてたな。仕事場への行き帰りで「赤旗」を配達してたんや。
 とにかく、今まで自分が正しいと思うたことをけむたがられても言ってきた。これは今も変わらんけどな。
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2010年08月12日,「赤旗」)
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レッドパージ60年不屈のたたかい/東浦清子さん(84)/16年後提訴、さらに12年…


神戸市と和解、復職
 1949年9月、神戸市の灘保健所で栄養士として働いていた時に、本庁に呼び出されて、課長から「辞めてもらうことになりました」と一方的に通告されました。一緒に呼び出されていた保健婦の人たちと、なぜ、辞めなければいけないのかと問いただしても課長は、「理由は言えません」「本庁で決まりました」と繰り返すだけでした。
 女学校を卒業して陸軍糧秣廠(りょうまつしょう)の学校で栄養士の勉強をしました。48年に神戸市に採用され、まわりの党員たちが労働者の権利を守るためたたかう姿を見て自然と日本共産党に入党しました。兵庫1区で立花敏男氏が初当選した49年の総選挙では、紙芝居をしたり商店街で宣伝もしました。
 仕事は、医師や看護婦(当時)と協力して栄養指導の検討や新しい知識の習得など、夢中で働きました。公衆衛生院で講習も受けて帰ってきたばかりで、まさか解雇されるとは思いもしませんでした。悔しかったことを思い出すこともあります。
 ◇   ◆
 パージされてからは毎日組合事務所に集まって、宣伝を兼ねて職場を回りました。同僚たちに飴(あめ)を売って、わずかな売上金をみんなで分けました。生活のためいろんなアルバイトをしました。麻袋製造工場では、手も顔も真っ黒になり、全身泥まみれになるきつい仕事でした。冷凍倉庫でも働きました。とにかく毎日生活するのが精いっぱいで、考える余裕もありませんでした。
 灘保健所の宿直室が宿舎でした。しばらくして、同じパージに遭った仲間の家に身を寄せました。その後、神戸市教育委員会で働いていて同様にパージされた夫と結婚して、3畳一間、トイレも炊事場も共同のアパートへ移りました。夜になると会議や活動に出かけて、毎日が楽しかったですよ。それから、信用組合で働き始めました。
 ◇   ◆
 65年12月に神戸地裁に神戸市職員としての地位確認を求めて提訴しました。夫の両親と脳性まひの長男、そして長女の面倒をみながら12年間たたかいました。77年に神戸市と和解が成立して復職しました。前の年に21歳で亡くなった長男が、元の仕事に戻してくれたんだと思います。長男ができて信用組合を退職後、党籍がなくなっていましたが、復職して再入党して、労働運動にとりくんできました。
 私はまだ、ましな方で、もっと大変な思いをしたパージの犠牲者がたくさんいます。裁判でたたかっている兵庫の3人には、ぜひ勝利してもらいたいと思います。
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2010年08月10日,「赤旗」)
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レッドパージ60年不屈のたたかい/入江幸男さん(83)/組合と会社に職場を追われ


仲間の生活守り抜く
 私は日本共産党に入党して2年目の1950年8月26日にレッドパージを受けました。
  ◇◆
 終戦のとき東京の陸軍司政官養成の専門校にいて、両親は出身地の財産没収や日本への引き揚げで無一文になりました。入党前に、当時の町工場の労働者や日雇いをやって、一家の生活を支えていました。
 町工場で働いた人の推薦で、47年4月関西配電に入社、自動的に労働組合に入りました。49年4月から電産関西地方本部常任執行委員として賃金対策にあたりました。
 党に入り、労働運動に従事していただけで、勤め先から解雇者の氏名が掲示されました。憲法無視、人権侵害のレッドパージが起きました。ただちに解雇撤回を求めましたが、組合自身がわれわれ組合員を排除にかかり、会社側もそのまま受け止めて、労働組合が除外したから会社も自動的に首切りになりました。職場を追われた私は生活の糧を得るべく仕事探しに奔走し、翻訳や経理事務で食いつなぎ、後に中小企業の経営コンサルタントになりました。
 電力関係でパージされた人は全国で2137人、関西全体1300人の職場で400人ほどいました。今30人ぐらいしか生き残っていません。
  ◇◆
 レ・パのたたかいは当初「マッカーサー指令」(日本共産党への弾圧指令)に対しての裁判闘争でした。関西配電と日本発送電近畿支店が51年電力再編成のなかで関西電力に統合。83年最高裁の判決で「裁判闘争も組織変更になったから新会社は継承しない」という残念な結末になりました。
 私は現在まで細々と党籍を保持していますが、パージされたときに党の分裂騒ぎのなかで当時の党指導部から、産別会議、大阪東部地区委員会に所属していたことで一度除名されたことがあるんです。しかし半年の間に除名取り消し、復党して、それまでの党籍を全部継続することになりました。
  ◇◆
 私はレッドパージで分散している人たちの生活、問題点について絶えず相談に乗り、生活擁護のたたかいで協力し合い、真の意味でレ・パの不当性を訴えてきました。電力労働運動近畿センターもパージの歴史を尊重しながら、その精神を継ぎました。99年には賃金差別、人権侵害是正を求めた関電争議に全面和解勝利しました。
 レッドパージは、政治的信条だけで、人間の基本に属する問題で排除されているわけですから、このようなことが二度と起きないように、われわれのたたかいを語り継がなければならないと思うんです。
 レ・パ該当者で結成した電産十日会は、レッドパージ60年の今月28日にホテル阪神で会合を開きます。
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2010年08月07日,「赤旗」)
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レッドパージ60年不屈のたたかい/中辻トヨ子さん(81)/ビラをまき重労働1年の刑に


屈辱に耐え顔あげて
 今年は、日本共産党員や支持者が一方的に職場を追放された「レッドパージ」から60年になります。兵庫では、3人の犠牲者が国家賠償を求める裁判をたたかっています。困難の中で不屈にたたかってきた人たちをシリーズで紹介します。
 
 大阪市東区の呉羽紡績本社3階の労働組合事務所に制服、私服の刑事10人余がドカドカとなだれ込むように入ってきて逮捕されたのは、1950年8月1日のうだるように暑い昼過ぎでした。
 6月には朝鮮戦争が始まっていました。この月は日本共産党幹部の公職追放など戦争に反対する勢力へのレッドパージが始まり、大阪でも、NHK労組事務所でアメリカ将兵にピストルを突き付けられて2人が追放される事件が起きていました。
 21歳の私はそのNHK事件を知らせるビラを撒(ま)いただけです。東警察署では「ビラを書いたのは誰や」「ビラを撒けと言ったのは誰や」と激しく攻め立てられました。
 ◇◆
 黙秘を貫いた私のほおに涙がこぼれたのは、留置場に移された夕方でした。壁にぼう然ともたれていると看守から下着の差し入れを手渡されました。職場の党員が自分の着ていた下着を脱いで洗って持ってきてくれたのです。
 10月に淀屋橋駅近くのアメリカ軍事裁判所で「アメリカ軍を中傷誹謗(ひぼう)、占領政策に違反した」とされ重労働1年の刑を受けました。証言者が事実を話そうとすると裁判長が木づちでテーブルをたたく、それ以上しゃべると法廷侮辱罪に問われるという問答無用の裁判でした。
 数日後、会社から解雇通告され、その後12人が職場を追放されました。私は同月に和歌山刑務所へ連行されました。私と女スリに手錠をかけ腰縄を打ち、その2本の腰縄を手元で束ねた女看守が背後から操る、まさしく猿回しの猿同然、人目の中を徒歩とバスと電車を乗り継いでの連行でした。女スリは最後まで下を向いたまま、私は屈辱に耐え、昂(こう)然と顔を挙げていました。
 翌51年1月、半年後に仮釈放されると繊維労働者向けの新聞発行に携わるなどの活動をへて23年間は党大阪府委員会婦人部で婦人運動の開拓の歴史を刻みました。
 ◇◆
 私が入党したいと、上本町の党関西地方委員会を訪ねたのは1948年、19歳の時でした。その前日に開かれた党創立26周年記念集会は東宝争議団の報告にわきかえり、日本の良心がたたかっている、私も、と決心しました。
 父は野菜を積んだ荷車を引いて天王寺周辺の坂道を上り下り、母は毎晩遅くまでボタンつけなどの内職をしていました。「こんなにまじめに働いているのに、家はなぜ貧乏なのか」という幼いころからの疑問が学ぶなかで解け、「貧富の差を生み出す資本主義社会は変えられる」と思ったころです。川上貫一「働くものの経済学」を聞き、河上肇の『第二貧乏物語』など夢中になって読みました。
 今の青年たちも派遣切りや雇い止めなど資本主義の際立った矛盾にさらされています。人間としての誇りを呼び覚ましてどう生きるかの声掛けができれば、必ずや大きく立ち上がります。
 参院選の結果は本当に残念だったけど、レッドパージの目的が党を国民から孤立させることだったのだから、今よりもっと広く深く国民と結んだ大きな党をつくる―それが60年後の私たちの最大の回答だと思う。
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2010年08月06日,「赤旗」)
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メディアをよむ/阿倍裕/新聞労連60年過去・未来

 新聞労連結成60周年記念の集いが7月下旬、都内で盛大に行われ、筆者も参加しました。冒頭、豊秀一委員長は「ペン(言論・報道)もパン(雇用・賃金)も追求していく」と決意を述べました。
 労連結成(50年6月30日)は、朝鮮戦争勃発、レッド・パージ開始、警察予備隊(後の自衛隊)創設―など激動の真っただ中、GHQ占領下で当初から極めて複雑で困難な状況のもとでした。
 その後、「警職法」「60年安保」などの政治的課題にも積極的に取り組む中で、加盟労組も増え、知識人・文化人の運動とも連帯し、先進的役割を果たしてきました。
 「新聞研究集会」「労災・職業病」「労組弾圧・分裂」「経営危機・再建」に取り組み、さらに「知る権利・言論報道の自由」「有事法制反対」「イラク派兵反対」のたたかいなどを通じて「新聞人の良心宣言」や「非正規労働者との連帯」など、平和と民主主義、社会的役割を前面に掲げる取り組みを強めつつあります。
 しかし近年、新聞産業と新聞労働運動をめぐる環境は、かつてない複雑さと困難さを増しています。若年層の新聞離れ、インターネット攻勢、広告落ち込みに加え、マスコミ不信も尋常ではありません。
 日米安保改定50年の全国紙の論調は総じて「日米同盟を深化せよ」―と、沖縄県民の民意に根ざす姿勢が皆無でした。
 新聞労連はいま「記者会見の全面開放宣言」ほか積極的な運動を進めています。ただ、識者からの「勝者の仲良しクラブ」との批判に行動で応えないと、読者や市民の共感は得られません。
 集いの席でOBのジャーナリスト・原寿雄氏が発言しました。「言論報道の自由を守れ! というが、本気でいまある自由を生かしているか? 60年の実績、歴史を学び、生かしているか? 真摯(しんし)に考えてほしい」と。メディアに携わる者が肝に銘ずべき言葉です。
 (あべ・ひろし=新聞ジャーナリスト)
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2010年08月01日,「赤旗」)
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全国組織の拠点完成/レッド・パージ反対事務所開き

 レッド・パージ犠牲者と支援者でつくっているレッド・パージ反対全国連絡センターは29日、先に東京都北区内に開設した同センター事務所の「事務所開き」を都内で行いました。
 事務所開きには各地で運動をしている人たち、支援者などが参加しました。
 同センター事務局長の金子圭之氏が「多くのみなさんのご支援を得て事務所の開設ができました」と謝意を表し、「全国組織にふさわしく活動できる条件が整った。これを力に被害者の名誉回復と国家賠償を内容とする特別法制定を求める請願署名を広げ、各地の弁護士会への人権侵害救済申し立ての運動を強めよう」とあいさつしました。
 日本共産党の最上清治市民・住民運動・中小企業局長が事務所開設への祝意をのべ、連帯したたたかいの強化を表明しました。
 参加者からは、「日弁連や横浜弁護士会の画期的な犠牲者救済勧告や、国会請願署名の広がりなど、この間の運動の前進に確信をもって活動を強めよう」との発言が続きました。
 これに先だって開かれた同センター拡大幹事会では、3万人の国会請願署名をめざす、弁護士会への人権侵害救済申し立て活動の強化など当面の方針を確認しました。
 ◇      
 同センターの事務所は東京都北区滝野川3の3の1、ユニオンコーポ402号室、産別会議記念・労働図書資料室気付。03(3576)3755(ファクス兼)。

レッド・パージ
 1949年から50年にかけてアメリカ占領軍の指令で政府と財界が、「破壊分子だ」などと偽って、全国で日本共産党員と支持者推定4万人(レッド・パージ反対全国連絡センター調べ)を職場から追放した弾圧事件です。
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2010年07月31日,「赤旗」)
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レッド・パージ反対全国センター/都内に事務所開設

 レッド・パージ犠牲者と支援者でつくっているレッド・パージ反対全国連絡センターの事務所がこのほど、東京都北区内に開設されました。事務所はレッド・パージ反対東京連絡センターも共同使用しています。
 事務所には早速、両センターが取り組んでいる国会請願署名についての問い合わせなどの電話がかかっています。「機会を見てお立ち寄りください」とよびかけています。
 事務所は同区滝野川3の3の1、ユニオンコーポ402号室。産別会議記念・労働図書資料室内の一部を事務室と会議室として使用できるようになったもの。資料室にはレッド・パージ関係を含めて貴重な資料が保存されていて利用できます。
 ユニオンコーポは都営地下鉄三田線西巣鴨駅、都電荒川線西ケ原4丁目電停のいずれからも徒歩5分。明治通りに面しています。電話は03(3576)3755(ファクス兼)です。
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2010年07月24日,「赤旗」)
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レッド・パージ訴訟/研究者を証人採用/神戸地裁

 日本共産党員と支持者が職場から追放されたレッド・パージの犠牲者が国家賠償を求めた裁判の第7回弁論が16日、神戸地裁でおこなわれ、原告側が強く求めていた明神勲・北海道教育大学名誉教授の証人採用を裁判所が認めました。
 原告弁護団はこの間、意見書も提出し、▽レッド・パージにたいする日本政府の積極的な関与▽それにともなう人権侵害状態の継続―の具体的事実を立証する必要があること、裁判所としてもそれらに関する証拠調べが不可欠であること、そのためには専門家証人としてレッド・パージ研究の第一人者である明神証人の尋問が必要であることを主張してきました。
 同日の報告集会で、佐伯雄三弁護団長らは、「明神氏の証人採用が決まったことは大きな前進だ」「これまで原告の被害の実態は明らかにできた。次は、レッド・パージとは歴史的にどういう事実だったのか法廷で明らかにしたい」と語りました。
 次回弁論は11月16日に開かれ、明神氏の証人尋問がおこなわれます。
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2010年07月17日,「赤旗」)
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弁護士会勧告実施を/神奈川県レッド・パージ反対同盟が要請

 レッド・パージによる人権侵害救済にかんする横浜弁護士会の勧告(2月18日)の即時実施を求める要請行動が1日、行われました。神奈川県レッド・パージ反対同盟の代表が内閣府に要請書を提出しました。
 要請書は、「横浜弁護士会が1949年から50年にかけて強行されたレッド・パージが憲法や世界人権宣言をじゅうりんする不法行為であると断じ、被害者の名誉回復と補償を含む救済措置を政府に勧告している」とのべています。
 要請行動では加藤桝治事務局長代行が要請の趣旨を説明した後、参加者が発言。「弁護士会に救済を申し立てた21人のうちなくなった人は6人。もう一刻も待てない」「勧告は日本政府の重大な責任を強調している。名誉回復と国家賠償を行う特別法の制定を急ぐべきだ」とのべました。
 山田哲範調査役は「要請は総理大臣あてなので、関係省庁に必ず伝える」と答えました。
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2010年06月04日,「赤旗」)
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イールズ闘争安保闘争学ぶ/北海道大学

 北大の自由・自治・反戦・平和の歴史≠考える集会がこのほど、札幌市の北海道大学で開かれました。
 イールズ闘争60周年・安保闘争50周年にあたって「その歴史的、現代的意義を考える」をテーマに、研究者や当事者らが、記憶の糸をたどり闘争の意義を語りました。
 イールズ闘争とは、戦後、アメリカ占領軍の統治下で、「学園から共産主義者を追放する」として全国の大学を回り、レッドパージをあおったイールズ氏らに対し、「大学の自由と自治を守れ」と教授・学生らが立ち上がった運動です。
 明神勲北海道教育大学名誉教授は、東北大学のように大学側がイールズ氏と通じていたのとは異なり、北海道大学は学長を先頭に「私とあなたの見解は違う」とはっきりとイールズ氏らに対して、大学・学問の自由を主張したと語りました。
 イールズ闘争で退校処分にあった梁田政方氏は、イールズ氏の講演を北大生が妨害して中止になったような報道が当時からマスコミで流されたが、「1日目の講演は、学生も混じって聞いていた。イールズを皮肉る発言も出たが、日本語の意味がわからず本人は拍手までしていた」「2日目は、『ソ連では将来2+2=5になる』という講演を聞かされて、ヤジが出たが中止になったことはない。事実とは異なる」と強調。北大の正史ともいえる『北大の125年』も誤った記述を踏襲しており、135年史では正しい記述になることを望むと訴えました。
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2010年06月01日,「赤旗」)
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レッド・パージ訴訟/職失い生活も困窮=^原告が証言

 日本共産党員と支持者が職場から追放されたレッド・パージの犠牲者が国の責任を問い、昨年3月に提訴した裁判で7日、神戸地裁で原告本人尋問があり、大橋豊、安原清次郎、川崎義啓の3氏が被害実態をのべました。
 大橋さんは、弁護士の質問に答え、神戸市中央電報局を免職された1950年当時、母、弟、妹2人を養っていたが、免職で養えなくなり、自身はうどん1玉を1日1回食べるだけで栄養失調になり入院したことや、報道で犯罪者扱いされて母は尼寺に入り、妹はバス会社に採用を取り消されたことなど、本人と家族が強いられた不遇の人生を語りました。「憲法にもとづき、良心に従った判決を」と訴えました。
 旭硝子を解雇されたた川崎さんは、当時、労働者がまともに食べられるようにと労働運動にとりくんでいたことなどを語り、「共産党員というだけで首になったのはどうしても認められない。そのために一生をなくした」と訴えました。
 川崎製鉄を解雇された安原さんは、その後まともに職に就けず、長年、河原で拾ってきた石を売って生計を立てたことなどを陳述。「助けてくれといっているのではない。思想信条の自由を守ってほしいんです」とのべました。
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2010年05月09日,「赤旗」)
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レッド・パージ連絡センター総会/東京

 レッド・パージ東京連絡センターはこのほど、渋谷区の日本共産党本部多目的ホールで第7回総会を開き、35人が参加しました。
 日弁連が人権救済申し立てを全面的に認め、政府と企業に名誉回復と補償を求める画期的な勧告をしたこと、東京地評が初めて定期大会で被害者を紹介し、署名を呼びかけるなど労働分野での広がりが始まったことなどが報告されました。
 今後2年の運動方針として「レ・パ反対運動の飛躍の年度」と位置づけ、被害者の名誉回復と国家賠償を内容とする特別法制定を求める署名運動を行うことなどを確認。山崎元・治維法国賠同盟都本部副会長、日本共産党の望月康子都副委員長、古館和憲都議があいさつしました。
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2010年05月08日,「赤旗」)
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平和・人権/憲法守り生かそう各地で/長崎/福岡/熊本/宮崎/鹿児島/山口/島根/鳥取/愛媛

 3日、西日本各地で行われた憲法記念日の集会、講演会などを続報します。

長崎
 長崎市内で「ながさき9条フェスタ2010春」(実行委員会主催)が開かれ、市民約700人が憲法について考えました。
 県九条の会事務局で長崎大学の井田洋子准教授が講演。現憲法について世界が共通する価値観を持ったものだと強調し、改憲論者の多くは憲法の普遍的な価値を否定し明治憲法の価値観を懐かしんでいると批判しました。
 コント集団「ザ・ニュースペーパー」が普天間基地移設に悩む鳩山首相などを風刺し、会場を沸かせました。
 終了後、参加者はのぼりや風船を手に市内の「鉄橋」まで行進しました。
 50代の女性は、「改憲のことが国民に十分知らされていません。知らせる運動を強めたい」と話しました。

福岡
 福岡市の都久志会館で憲法記念日のつどいが開かれ、会場に入りきらない200人以上が集まりました。主催は九条の会福岡県連絡会。
 元毎日新聞記者の西山太吉氏が「沖縄密約と日本国憲法」と題して講演。西山氏は外務省有識者委員会の密約調査報告について、「外務省は一貫して密約を否定しており、外務省の密約調査は最初から幕引きを狙った官僚主導のもの」と批判しました。
 普天間基地問題で抑止力論、日米安保絶対の立場から抜けられない鳩山内閣を批判。アメリカに対して正々堂々と日本の立場を主張すべきだと語りました。

熊本
 熊本県では、熊本市民会館で第28回「憲法を守る県民のつどい」が開かれ、170人が参加しました。主催は熊本学者・文化人の会など18団体が参加する熊本憲法記念行事実行委員会。
 つどいでは、高良倉吉琉球大学教授が「沖縄の歴史からみた基地・安保・憲法」と題して講演しました。つどいの宣言は「憲法は『核も基地もない日本と世界』を求めていますが、普天間基地移設問題は、憲法と日米軍事同盟の矛盾を象徴している」と指摘。「憲法9条を高く掲げ、『米軍基地の縮小・撤去』『非核三原則の堅持』『核も戦争もない世界の実現』に向けて、草の根の力を結集して運動をひろげていく」と訴えています。

宮崎
 日本科学者会議宮崎支部と宮崎民主法律家協会は、宮崎市で「第68回憲法と平和を考えるつどい」を開きました。100人を超える市民が参加しました。
 明治大学の山田朗教授が「東アジア禁断の歴史から平和を考える〜韓国併合百年、憲法いかした平和外交へ〜」と題して講演。2010年が「韓国併合」から100年にあたることから、日本の植民地主義と帝国主義的な侵略の事実を学び、憲法を生かした平和外交の在り方を考えました。
 参加者は「現代でも当時と変わらない状況があったことなど分かりやすく聞けた」(30代女性)などと感想を話しました。

鹿児島
 鹿児島県の「憲法記念日市民のつどい実行委員会」は、鹿児島市で渡辺治一橋大学名誉教授を迎え講演会を開き、400人が参加しました。
 小栗実(鹿児島大学法科大学院教授)実行委員長が開会あいさつしました。
 渡辺氏は「憲法9条と25条を生かすのか蹂躙(じゅうりん)するのかをめぐり、いま、政府と国民との間で対立とせめぎ合いが起こっている。全国に広がった「九条の会」をもっと大きくして、憲法9条、25条を豊かに発展させる政治に変えよう」と訴えました。
 50歳の男性は「アメリカなどの改憲の動きが強まるたびに平和を願う国民のたたかいによって改憲が阻止されてきた歴史がよくわかった」と語りました。

山口
 山口県では、山口、周南、下松市で市民集会や講演会、映画上映などが開かれ、憲法を守り暮らしに生かしていこうと訴えました。
 専修大学の有田謙司教授を迎えて山口市民会館小ホールで開かれた「2010憲法を守る山口集会」(同実行委員会主催)では、「人間らしい暮らしができる世の中に変えていこう」とのアピールを採択しました。
 「仕事がないのは、いけん(違憲)?―人間らしく働くということ」と題して講演した有田氏は、労働者の現状を資料で紹介しつつ、「労働者派遣法や最低賃金法、労働基準法などの法制度の見直しが重要だ」と強調しました。
 集会では、マツダ訴訟団の訴えや、グループ「北浦四人衆」による憲法関連の歌が披露されました。

島根
 島根県の34団体、個人でつくる憲法改悪反対!5・3実行委員会は松江市で「憲法9条は世界の宝 メイクピースの集い」を約350人の参加で開きました。
 関谷信生牧師の開会あいさつの後、子どもの本・9条の会代表で作家の松谷みよ子さんが記念講演。「私の青春というのは戦争のなかで飢えと恐ろしい爆撃と高射砲の音で過ぎ去った」と空襲で焼け出され信州に疎開した戦争体験を語りました。
 戦後、北陸へ旅する中で「貝になった子ども」のイメージがわき原稿を書き始めたこと、労組書記の時のレッドパージの体験を話しました。原爆が題材の「まちんと」を朗読、込めた反戦への思いを紹介しました。
 参加者は集会アピールを採択、市内で「平和憲法を守り生かそう」とアピールしました。

鳥取
 鳥取県弁護士会は鳥取市で憲法公開講座を開き、80人が参加しました。
 奈良県の宮尾耕二弁護士が、基調講演で「憲法は誰のために、何のためにあるのか」と提起し、民主党の改正案も自民党案同様に立憲主義の反対側に位置し、「制御棒を抜いて暴走する原発だ」と告発しました。
 9条改正をテーマに市民と意見交換。安田寿朗弁護士は「日本の改憲論は、『馬=国家権力、操者=国民、たずな=憲法』を、『馬=国民、操者=国家権力、たずな=憲法』に変えるもの。9条が改憲の眼目だ」と指摘しました。
 高橋敬幸弁護士は「憲法は、平和的生存権を世界のすべての人々に保障する立場であり、日本は率先して平和の共同体をアジアに築くポジションにある」と強調しました。

愛媛
 愛媛憲法集会が松山市の、ひめぎんホールで開かれ、1000人が参加しました。
 ジャーナリストの斎藤貴男さんが「平和と平等をあきらめない」と題して記念講演。「戦後、日本は戦争していないが、戦争に加担してきたし、朝鮮戦争やベトナム戦争によって発展してきた歴史がある」と強調し、「9条守れというだけでなく、9条の精神を今度こそ本物にしていくことが大事」と述べました。
 アコースティックデュオバンドや三線バンドなどの演奏で会場を盛り上げ、オープンハンドまつやま(ホームレス支援を考える会)による活動報告がありました。集会後、パレードで市民に訴えました。
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2010年05月05日,「赤旗」)
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パージ者名誉回復を/熊本

 共産党員や同調者を職場から追放したレッドパージの犠牲者が22日、熊本県弁護士会人権擁護委員会に名誉回復などを求める申し立てをしました。(写真)
 申し立てたのは、82歳から98歳までの男女10人。@政府と関係企業が、レッドパージが憲法および国際条約に違反した不当な人権侵害であったことをみとめ、名誉回復、国家賠償をするAアメリカ政府が、マッカーサー司令官のすべての命令などの無効を宣言し、反民主主義的な政策行為をおこなわないことを世界に広く制約する―ことの勧告を県弁護士会が出すよう求めています。申し立て者の梶原定義氏(83)は「思想差別に対する名誉回復は世界での常識になっている。日本だけが回復されていない」と日本政府の姿勢を批判しました。
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2010年04月23日,「赤旗」)
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レッド・パージ被害の救済へ/北海道懇話会結成

 「レッド・パージ被害者の名誉回復と補償をもとめる北海道懇話会」が17日、札幌市で結成されました。
 結成総会に先立ち、「戦後史の汚点 レッド・パージをいま検証する―責任を負うべきは誰なのか」と題して明神勲・北海道教育大学名誉教授が記念講演しました。
 明神氏は、1950年の共産党中央委員会の追放や、全労連解散、NHKのレッド・パージがGHQの指示に基づくものであったことから、レッド・パージそのものをすべてGHQ主導とみる「神話」があると指摘。それ以外の第1次および第2次レッド・パージが、「日本政府が主導して行われた」ことを初公開の資料も使って解明しました。
 明神氏は、責任を負うべきは第一にGHQであり、日本政府と企業経営者は「共犯」、これに加担した裁判所、地方労働委、反共右派労組幹部は「従犯」ともいうべきものと述べ、被害者の名誉回復・補償=復権は当然の権利であり、「職場に憲法を」「思想の自由」など今日のたたかいにとっても大きな意義をもつと強調しました。
 結成総会では、日本共産党の西野敏郭道委員長が来賓あいさつ。レッド・パージ反対全国連絡センターをはじめ、4団体と1個人からメッセージが寄せられました。
 舛甚秀男準備会事務局長から、▽被害者の名誉回復と補償をもとめる運動や、「思想・良心の自由」を守る運動などに取り組む▽全国連絡センターに結集することなどを柱とした「申し合わせ」が提案され、満場一致で確認。31人の役員を選出しました。
 会場には、人権擁護委員会に提訴した安孫子登さん(国鉄函館車掌区)、苗川清一郎さん(国鉄苗穂機関区)をはじめ、炭鉱や官公庁で被害にあった人々、国鉄の採用差別とたたかう関係者ら115人が参加しました。
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2010年04月21日,「赤旗」)
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山本薩夫監督生誕100年によせて/反戦、生涯のテーマ/分かり易くおもしろい社会派/武田敦

 山本薩夫監督が亡くなって27年が過ぎた。今年は生誕100年ということで、記念上映会が催され、6月には「生誕100年の集い」が予定、テレビでも代表作が順次放映される予定だ。

戦線から帰還
 敗戦後、山本監督は中国戦線から帰還した。東宝映画に復帰したばかりの監督は、戦時中反戦映画を創ったとして投獄された亀井文夫監督と共同で、新憲法をテーマに映画「戦争と平和」を創り世に問うた。夫の戦死の報を信じて再婚した若い妻の前に戦死した筈の夫が帰って来る――戦争がもたらす不幸、悲惨さを告発した映画は当時大変な反響を呼んだ。生前監督は次のように書いている。
 「私はこの映画を撮るときに、一兵士として中国侵略にかり出されていった自分の、それまでの人生への反省のうえに立ち、ひとつの固い決意を胸に抱いていた。それは、反戦を映画のテーマにすると同時に、それを自分の生涯のテーマにしなければならないという決意であった。そしてそれは、戦時中反戦平和の旗をかかげつづけてきた唯一の政党、日本共産党への入党の決意でもあった」(『私の映画人生』)
 翌1948年、1300名に及ぶ人員整理と企画審議権をめぐって第3次東宝争議がおこり、結果、山本、亀井両監督等16名の組合幹部が退職することになった。

独立プロ運動
 争議を境にして山本監督らは、東宝を含む全映画企業から締め出された。その中で翌年、争議解決金をもとに、映画「暴力の街」が山本演出で製作された。地方都市を思いのままに牛耳る暴力団と闘う町民たちを描いたこの自主製作映画の成功は、ちょうどそのころ日本を席巻したレッドパージの一環として映画産業を追われた多数の映画人に勇気を与え、それは戦後独立プロ運動として新たな展開をみせていくことになる。その先頭に立ちながら、山本監督は同時に日本映画史に残る名作の数々を世に送り出していった。
 天皇制軍隊の非人間的暴力の実態を描いた「真空地帯」をはじめ「太陽のない街」「荷車の歌」「人間の壁」「松川事件」等、これらの作品は、すべて民衆的視点で描かれ、権力と正面切って対決する姿勢は一貫していた。ほかに山本作品の系列には喜劇がある。「浮草日記」「台風騒動記」「赤い陣羽織」「にっぽん泥棒物語」等、ここでは権力を笑い飛ばす庶民の野放図さバイタリティーに寄り添いながら権力の実態を鋭く暴いてみせた。
 私は山本監督とは助監督として8年、その後は脚本家、製作者として映画創りに参加させていただいた。最後は森村誠一作「悪魔の飽食」の映画化であり、その準備の途中で監督は亡くなった。「悪魔の飽食」の脚本第1稿は棺の中におさめられた。長い監督との仕事の中で常に言われていたことは、映画は分かり易く面白くなければいけないということであった。社会派と言われる山本作品は、とにかく分かり易く面白いのである。

大映から依頼
 「松川事件」を制作し終わったころ、山本監督のもとに、大映社長から映画製作の依頼があった。監督は当時、赤旗日曜版に連載中であった村山知義作「忍びの者」の映画化を条件にこれを引き受ける。
 「暴力の街」以来13年目、東宝争議の延長としてつづけてきた戦後独立プロ運動は、ここに一応の区切りをつけたことになる。以後、他の企業でも次々と大作を創っていく。
 「白い巨塔」「不毛地帯」「戦争と人間」3部作「金環蝕」「あゝ野麦峠」等々、そして東宝でも「華麗なる一族」を撮った。争議で締め出されて以来25年ぶりのことであった。独立プロ時代、一貫して日本の現実、その社会的構造に切り込む作品を追求しつづけてきたが、その結実としてのこれらの大河ドラマ的大作がいずれも映画史に残り、且つ世界に誇るべき名作であることに間違いはない。なかでも「戦争と人間」3部作は「戦争と平和」を創った時に決意した「反戦」のテーマが力強く通った超大作に仕上がっている。
 この際、山本監督が世に問うた数々の名作をたどってみるのも楽しくまた、意味あることと思う。
 (たけだ・あつし 映画製作者)
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2010年04月07日,「赤旗」)
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レッド・パージ訴訟/佐伯弁護団長に聞く/不当解雇で名誉損なう/国の加害行為問う裁判

 日本共産党員とその支持者が職場から追放されたレッド・パージからことしで60年。神戸市在住の犠牲者、大橋豊さん(80)、川崎義啓さん(93)、安原清次郎さん(89)の3人が、昨年3月に国家賠償を求めて神戸地裁に提訴しました。5月には原告本人が証言します。佐伯雄三弁護団長に裁判について聞きました。
 (聞き手 兵庫県・喜田光洋)
 
 ――裁判の意義は。
 佐伯 レッド・パージは、占領下のこととはいえ戦後史の一大汚点であり、日本が「独立」を回復した後も放置されたまま60年が経過しました。レッド・パージされた人は4万人ともいわれますが、違憲・違法・不当な解雇・免職によって名誉が損なわれ、被害回復する措置がなされないなかで、その不当性を訴え続けてきた人たちがいました。
 またレッド・パージは、現憲法下における司法の汚点でもあります。最高裁大法廷は過去2度にわたり、レッド・パージによる解雇・免職を容認する判決をだしました。
 これらをぬぐいさる意味でも、訴訟の提起は画期的なことです。立ち上がった原告3人の意気高い志に心から敬意を表します。

救済しなかった国
 ――原告側の主張は。
 佐伯 過去のレッド・パージ訴訟のように解雇・免職処分自体を争うのではなく、国の違法行為としては、GHQ(連合国軍総司令部)の指示にやむをえず応じたのではなく、むしろGHQの権威を利用して積極的に一連のレッド・パージを推進してきた加害行為と、1952年に講和条約が発効し日本が主権を回復した以降、国がレッド・パージ被害者を救済しなかった不作為による加害行為を主張しています。
 単に解雇・免職だけでなく、レッド・パージに至る国の政策、レッド・パージ後の原告らの苦難の人生をトータルにとらえて、そうした結果をもたらした国の行為が違法だと、訴えています。
 ――国側の主張と裁判の状況は。
 佐伯 国は、最高裁大法廷判決など過去のレッド・パージ訴訟の判例を引き合いにだして、レッド・パージはGHQの指令などに基づくものであり有効で、講和条約の発効で同指令などが効力を失った後も解雇・免職の効力には影響がないと主張しています。
 これにたいし原告側は、少なくとも講和条約発効後は、レッド・パージという違憲・違法な加害行為を国は是正すべき法的義務を負うに至ったと主張し、この点に関連する複数の学者の意見書などを準備中です。また原告本人尋問を申請して採用され、5月7日におこないます。

世論と運動大きく
 ――勝利へ何が必要でしょうか。
 佐伯 今回の訴訟は、3人の人権救済申し立てにたいする日弁連の勧告が大きな励みとなってとりくまれました。2月18日には、横浜弁護士会が同様の勧告を出しています。
 日弁連勧告は、レッド・パージによる解雇・免職は、「思想・信条を理由とする差別的取り扱いであり、思想良心の自由、法の下の平等、結社の自由を侵害するものであ」り、原告らは、「非があるかのように取り扱われその名誉を害されただけでなく、生活の糧を失うことにより苦しい生活を強いられるなどの被害を被ってきた。このような人権への侵害は、いかなる状況下においても許されるものではないが、1952年講和条約発効後は、被害回復措置を容易に行うことができたにもかかわらず、今日まで、これを放置してきたことの責任は重い」とのべています。
 このように、憲法の原則にのっとって判断すれば、レッド・パージという国の行為の人権侵害性は誰の目にも明白であり、原告は、裁判所にそれこそ当たり前の判断を求めています。そのためには、世論と運動、支援の力がいっそう必要です。広範なご支援をぜひお願いします。
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2010年03月27日,「赤旗」)
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レッド・パージ救済へ学習会/神奈川・反対同盟

 レッド・パージによる人権侵害の救済を求める横浜弁護士会の勧告(2月18日)についての学習会がこのほど、横浜市内で開かれました。神奈川県レッド・パージ反対同盟の主催で、研究者を含む22人が参加しました。
 講師の金子圭之県同盟代表委員が、勧告について報告。レッド・パージが思想・良心の自由、法の下の平等、結社の自由をふみにじった人権侵害行為であると断じ、被害者の名誉回復と補償を政府に要求する画期的な内容のものだ、と語りました。
 また勧告が1949年の官公庁の行政管理や民間の企業整備のなかで大規模に追放が強行され、教職員のレッド・パージと合わせて、50年の本格的な追放のきっかけになったことを指摘している事実を紹介して、日弁連の勧告(08年10月)でふれていない問題も取り上げている、と解明しました。
 参加者からは「勧告を生かして(名誉回復と補償を求める)請願署名の運動にいっそう力を入れたい」などの意見が出されました。
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2010年03月26日,「赤旗」)
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参院選のページ/はたの君枝選挙区候補(53)神奈川(定数3)/基地被害なくす先頭に


若者の未来良くしたい
 参院選公示の予定日(6月24日)まで100日となるなか、日本共産党がめざす新しい政治の中身を広く知ってもらおうと神奈川県内を駆け回る、はたの君枝選挙区候補(元参院議員)に熱い期待が寄せられています。 (佐久間亮)
 
 8日の厚木基地正門前。はたのさんは、同基地所属の米軍機による部品落下(4日公表)に対する抗議行動の輪の中にいました。
 同基地所属機から落下した部品が綾瀬市の民家を直撃した1月28日の事件から1カ月あまり。「原因は特定できていない」と語る同基地渉外部長に、はたのさんは「繰り返される事故に県民は不安を感じている。特定できていないのなら訓練はやめるべきだ」と迫りました。

欠かさず傍聴
 「はたのさんをはじめ、共産党が支えてくれたから立ち上がれました」。横須賀市で2006年、米空母乗組員に妻を殺害され、国に損害賠償を求める裁判をたたかっている山崎正則さん(62)は語ります。「初めは当然政府が守ってくれるものだと思っていたが、なにもしてくれなかった。はたのさんは欠かさず裁判を傍聴し、防衛省への要請にも同席してくれる。忙しくて大変そうだが、基地被害をなくすためにも、体を大事にし、勝って必ず国会に行ってほしい」
 厚木、横須賀、座間など、沖縄県に次いで米軍基地を多く抱える神奈川県。はたのさんは、事件が起こるたびに現場に駆けつけ、その大本にある基地の撤去を求めてきました。参院議員時代には、国の防災計画に初めて米原子力艦船事故対策を盛り込ませました。
 8、9の両日は逗子市で街頭演説。21日告示の市議選で日本共産党は2議席の確保をめざします。
 逗子駅前でビラを受け取った高齢の女性は「鳩山政権はやっていることが分からん。うちは6人家族。共産党はいっていることが真っ当。政権とれんでもいいから、参院選は家族全員で共産党を応援する」と語りました。
 「街頭での対話が一番」と語るはたのさん。道行く人たちに語りかけます。アザリエ団地で出会った高齢の女性は「医療費負担が高くて大変。子ども手当もいいけど、戦争を乗り越えてきた年寄りにも目を向けてほしい」と嘆きます。はたのさんが「お年寄りを大事にする政治にしなければいけない。後期高齢者医療制度もすぐに廃止すべきです」と語りかけると、女性は「応援してる」と手を握っていきました。

我がこととし
 神奈川県で生まれ育ったはたのさん。子どものころ、東京大空襲のなか逃げまどった母親の思い出や、長崎で被爆した大おじが「水が飲みたい」といいながら亡くなった話をよく聞かされました。父親からは、かつて権力によるレッドパージ(共産党員への不当弾圧、職場からの追放)に遭ったことも教えられました。「戦争や差別、貧困をなくし、みんなが平等にくらせる社会をつくりたい」という思いが芽生えました。
 漫画家を夢見た高校時代。「瞳の中に星が輝く少女の世界」に身を置き、手塚治虫さんや萩尾望都さんにあこがれました。「ストーリーが書けるようになるため文学を学ぼう」と進んだのは横浜国立大学。高校時代の友人に誘われ民青同盟に入り、戦前の侵略戦争に反対した党があったことを知りました。「わたしの思いそのもの」と日本共産党に入党。卒業後に中学校の国語教諭を4年間勤めましたが、要請されて党の活動に専念する道に進みました。「教師を辞めると決めたときは授業中に涙が出ました。でも、若者たちの未来を良いものにしていくという点では同じと思って」と、はたのさんは振り返ります。
 1998年の参院選で当選。文教科学委員会に所属し、文字通り若者の未来を切り開くたたかいの先頭に立ってきました。歴代6人の文科相と論戦。当選後初の質問では、当時の有馬朗人文相から「今後の教職員配置のあり方等について検討を開始したい」との重要答弁を引き出し、2000年には30人学級に必要な経費・教員数をはじめて政府に明らかにさせました。
 「我がこととして」。肝に銘じている言葉です。いすゞ自動車で非正規切り≠ェ吹き荒れたとき、志位和夫委員長とともに、いすゞ本社に申し入れ(2008年11月)ました。JMIU(全日本金属情報機器労働組合)いすゞ支部の三浦慶範副委員長(28)は、「鳩山政権の派遣法『改正』案は製造業派遣に抜け穴を残すなど改正にならない部分がある。現場の声をしっかり届けるはたのさんに、ぜひ国会に行ってほしい」と語ります。
 はたのさんは言います。「雇用や暮らしが大変なときだからこそ、日本共産党の国会議員団の前進は待ったなしです。比例5議席の絶対確保と選挙区で勝ち抜くため、全力でたたかいたい」
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2010年03月14日,「赤旗」)
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レッド・パージ補償を求めて北海道で運動/準備会

 レッド・パージ被害者の名誉回復と補償を求める運動の広がりの中でこのほど、北海道で運動組織結成に向け準備会が開かれました。
 札幌弁護士会の人権委員会に申し立てした安孫子登(国鉄)、苗川清一郎(国鉄)、加藤哲夫(炭鉱)、舛甚秀男(炭鉱)の4被害者をはじめ、民主団体・支援者など24人が参加。申し立てを担当している佐藤哲之弁護士は「犠牲者の支援と憲法19条、20条を守るたたかいを二つの柱に運動を広げましょう」と強調しました。
 討論では、「当時の資料では、弾圧の対象は、共産党員はもちろん、党をやめたもの、『アカハタ(現「しんぶん赤旗」)』読者、同調者と思われるものまで対象としている。まさに思想弾圧だ。思想信条の自由を保障した憲法を守る運動としてとりくもう」「地域の9条の会がレッド・パージ問題の学習会を開くことになった。広く呼びかけて懇話会を結成しよう」などの発言がありました。
 会議では、24人のよびかけ人と7人の世話人を選出、4月17日にレッド・パージ問題研究の第一人者・明神勲氏(道教育大学名誉教授)を講師に、講演会と会の創立集会を開催することを確認しました。
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2010年03月03日,「赤旗」)
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レッド・パージ訴訟/原告本人尋問決まる/神戸地裁

 日本共産党員と支持者が職場から追放されたレッド・パージの犠牲者が国家賠償を求めた裁判の第5回弁論が26日、神戸地裁でおこなわれました。
 原告側は、大橋豊さん、安原清次郎さん、川崎義啓さんの原告3人の本人尋問を申請し、認められました。
 被告の国側は、「レッド・パージに基づく解雇・免職は、マッカーサー元帥の指示に基づくものであり、適法」「確定した最高裁判所の判例である」などとした第2準備書面を提出しました。
 報告集会で佐伯雄三弁護団長らは、「レッド・パージがどういうものだったか、最新の研究成果をふまえた専門家の証言を実現したい。早期の勝利判決をめざす」「次回(5月7日)の原告本人尋問で、被害の実態を明らかにしたい」とのべました。
 橋本敦弁護士は、「裁判もいよいよ立証段階に入った。日本政府の人権侵害を真正面から問いたい。日本の戦後史をただすたたかい。ぜひご支援を」とよびかけました。
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2010年02月27日,「赤旗」)
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被害者の名誉回復を/盛岡レッドパージ反対懇談会

 盛岡レッド・パージ反対懇談会は20日、盛岡市の仁王老人福祉センターで「レッド・パージを考える会懇談会」を開き、関係者や労働組合役員など9人が参加しました。
 レッド・パージは、1949年から50年にかけて、アメリカ占領軍の指揮のもと4万人以上と推定される日本共産党員と支持者、労働組合活動家が職場から追放された無法な弾圧です。
 同懇談会は岩手県内のレッド・パージ被害者を掘り起こし、200人以上の名簿を作成しました。
 レッド・パージ反対全国連絡センター代表委員を務める藤村三郎さん(84)=盛岡市在住=は、県内の被害者のうち生存しているのは十数人に過ぎないと報告。思想・信条の自由を守っていくためにも、被害者の名誉回復を求める運動を進めたいとのべました。
 参加者からは、「レッド・パージのたたかいを多くの県民に知らせるべきだ」「若い人も過去に学んで未来を考えることが大事だ」などの意見が出されました。懇談会では、「レッド・パージ犠牲者の名誉回復と国家賠償を求める請願署名」への協力を広く呼びかけることを決めました。
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2010年02月25日,「赤旗」)
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レッド・パージ告発横浜弁護士会/神奈川県レッド・パージ反対同盟代表委員金子圭之さんのリポート


名誉回復・補償求める/勇気と人情味ある勧告
 横浜弁護士会(岡部光平会長)は、レッド・パージは明白な人権侵害行為であるとして、名誉回復や補償を含めた措置を講ずるよう、国に勧告したと発表しました(18日)。神奈川県レッド・パージ反対同盟の金子圭之代表委員が「勧告書」の特徴をまとめたリポートを紹介します。
 
 勧告書は、神奈川県内でレッド・パージを受けた21人が行った申し立てに対し、同弁護士会人権擁護委員会が調査・検討したものです。日本弁護士連合会(日弁連)の勧告(2008年10月27日)をふまえて、レッド・パージは日本国憲法や世界人権宣言が明記する思想・良心の自由、法の下の平等、結社の自由を侵害するものだと指摘しています。被害者は名誉を侵害されたばかりでなく苦しい生活を強いられ、生涯にわたる著しい被害を被ってきた、とのべています。
 人権への侵害は、当時、連合国軍総司令部(GHQ)の指示や示唆があったとはいえ、許されるものではないとしています。日本政府も積極的にその遂行に関与したことが認められ、サンフランシスコ条約発効後も被害回復措置を放置してきた責任は重い、と指摘しています。
 そのうえで申立人らが高齢であることを考えて、早期の名誉回復や補償を勧告しました。

49年追放も重視
 特徴点についてみます。
 第一は、1949年レッド・パージと教員のレッド・パージを重視していることです。日弁連勧告でも言及していないものです。
 典型的で明瞭(めいりょう)なレッド・パージは50年に強行されましたが、勧告書は、その前年の官公庁の行政整理、民間の企業整備でもかなりの規模でのレッド・パージが行われたことを重視しています。特に国鉄や地方公共団体の例をひいています。
 教員レッド・パージはGHQ民間情報教育局顧問のイールズが、共産主義者たる教授の追放を演説したことがきっかけになりましたが、被追放者を特定している点に大きな特徴をもっています。勧告書は法務府特別審査局が作成した「全国教員整理者名簿」には247人のリストが整理されており、この中には県内でレッド・パージを受け、救済を申し立てた2人も掲載されている、とのべています。
 第二の特徴は、18人の申立人がどんな形でレッド・パージを受けたのか、その後の生活の変化などを詳細にのべています。そのうえで勧告書は政府や企業が主張する「破壊分子」という解雇の理由に反論して、「業務に支障を及ぼすような破壊活動を行ったという事実も認められない」と結論づけています。
 勧告書は、レッド・パージの被害を被った日本共産党員や支持者を励まし、運動を促進するものです。

故人の救済提起
 いま一つ、勧告書のまとめには注目すべき記述があります。それは申立人のうち3人が、「生涯背負い続けた名誉等の人権侵害の回復を見ることなく亡くなられたが、当委員会は、本件救済勧告の対象にすると共に、政府は、故人に対する救済の措置も講ずべきである」と主張していることです。このような人情味のある勧告書に関係者は涙しています。
 私は、勇気があり、説得力をもった勧告を発表した弁護士会の積極的な姿勢に感謝したいと思っています。政府はこの勧告を真剣に受け止め、レッド・パージの非を認め、被害者の名誉回復を実現すべきです。

レッド・パージ
 1949年から50年にかけてアメリカ占領軍の指令で政府と財界が、「破壊分子だ」などといつわって、全国で日本共産党員と支持者推定4万人(レッド・パージ反対全国連絡センター調べ)を職場から追放した弾圧事件です。
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2010年02月25日,「赤旗」)
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レッド・パージ反対センター「全国情報」創刊

 レッド・パージ犠牲者と支援者でつくるレッド・パージ反対全国連絡センターは「レッド・パージ反対運動
 全国情報」(A4判)を創刊しました。(写真)
 「創刊にあたって」では「運動が前進するにつれてニュース発行の要望が強まっている」と発行のきっかけを紹介。「全国連絡センターの方針や活動、各地のレッド・パージ反対運動を」伝えるとしています。当面は不定期刊とし、必要に応じて発行することにしています。
 創刊号(1日付)では、レッド・パージ反対全国連絡センターの第5回総会(2009年11月)後、初の拡大幹事会を開き、@2010年の国会請願署名目標2万5000筆をやりぬくため三つの節を設けて運動をすすめるA全国的なレッド・パージ反対運動を推進するためニュース創刊を決めた―と報じています。
 「全国情報」についての問い合わせ先はレッド・パージ反対全国連絡センター(事務局長・金子圭之方、рO45―773―1993)。
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2010年02月06日,「赤旗」)
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治維法国賠同盟の塩釜支部が新年会/宮城

宮城県の治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟塩釜支部は9日、恒例の「新年会」を塩釜市内で開き、約20人が参加しました。相原君雄支部長が新年のあいさつを行い、県本部の根本京子事務局長と天下健日本共産党塩釜地区委員長が来賓あいさつしました。
 八甫谷実顧問の音頭で乾杯を行い、なごやかに交流が行われ、参加者全員から決意が語られました。参加者の発言で、2010年は、「韓国併合・大逆事件100周年」「レッドパージ弾圧事件60周年」「安保条約改定50周年」そして「治安維持法成立85周年」という重要な事件の節目の年≠ナあるとともに、21世紀を展望する参議院選挙の年≠ナあることを腰に据えて、国賠同盟の役割を自覚した運動を取り組もうという決意を固め合いました。最後に斎藤規夫副支部長が閉会のあいさつをしました。
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2010年01月13日,「赤旗」)