2011年レッドパージ犠牲者の活動】

 

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*                     「見出し」2011年 (ページトップへ)

 

*         レッドパージ控訴審弁論/国会・政府への調査嘱託が実現/大阪高裁

*         レッドパージ反対連絡センター/新役員が党本部訪問

*         レッド・パージ/名誉回復・国家賠償を/全国連絡センターが総会/山下氏あいさつ

*         レッド・パージパンフを作成/全国連絡センター

*         8日に総会/レッド・パージ反対全国連絡センター

*         県レッド・パージ反対同盟が総会/神奈川

*         シリーズ原発の深層/第3部/差別と抑圧超えて/3/労組をパートナーに

*         大災害と日本共産党/3/伊勢湾台風1959年/泥海から立ち上がる

*         映画製作者・監督武田敦さん偲ぶ/見るべきものは見た=^山本洋

*         一枚のハガキ/私の師・新藤兼人最後の映画/神山征二郎/冴える「戦争ダメ」

*         レッド・パージつどい/大阪弁護士会中本会長メッセージ

*         映画「ひろしま」58年ぶりに復活/各地で上映

*         名誉回復と賠償を/レッド・パージのつどい/大阪

*         レッド・パージ/60周年実委が記念誌を発行

*         文化/弁護士・海野普吉の評伝を著した入江曜子さん/戦前・戦後、冤罪とたたかった生涯

*         ひと/映画「ひろしま」の外国語字幕版を世界に小林一平さん(64)

*         日弁連に支援要請/レッド・パージ問題で連絡センター

*         レッド・パージ国賠訴訟/大阪高裁に控訴

*         名誉回復へ国会行動/レッド・パージ反対センター

*         レッド・パージ訴訟神戸地裁判決/人権救済機能を放棄/原告弁護団が抗議声明

*         レッド・パージ判決報告集会/良心のかけらもない/原告・支援者ら怒り

*         レッド・パージ国賠訴訟不当判決/憲法無視の暴挙容認/市田書記局長が談話

*         レッド・パージ国賠訴訟/神戸地裁が不当判決/国の被害救済の義務否定

*         レッド・パージ訴訟/26日神戸地裁判決/良心と憲法に基づく判決を/原告の大橋豊さん語る

*         青年きらり/活動の灯つなごう/民青同盟がつどい/横浜北東地区

*         「ローマの休日」に見る赤狩り≠ニ映画人/脚本D・トランボが託したものは

*         イールズ闘争記録/北大構内で出版記念会

*         憲法生きる民主社会実現へ/レツド・パージ裁判の今日的意義/橋本敦

*         句読点/600号の『俳句人

*         詩壇/人の支えとなる詩

*         署名を広げて/函館市で総会/治維法国賠同盟

*         北海道のレッド・パージ被害者/人権救済申し立て/札幌弁護士会に

*         憲法に沿い判決を/レッド・パージ訴訟結審/神戸

*         ひと/映画への思いをつづった本を自費出版した清水義之さん(71)

*         レッド・パージ権利回復へ集い/仙台

*         朝の風/ある民主書店の60周年

【本文】2011(ページトップへ)

レッドパージ控訴審弁論/国会・政府への調査嘱託が実現/大阪高裁

 日本共産党員と支持者が職場から追放されたレッド・パージの犠牲者が国家賠償を求めた訴訟で20日、大阪高裁で控訴審の第1回弁論がありました。
 同訴訟は、犠牲者の大橋豊さん(81)、川崎義啓さん(95)、安原清次郎さん(90)=いずれも神戸市=が原告となり、2009年3月に神戸地裁に提訴。今年5月に同地裁は原告の請求を棄却する判決を下し、3人は控訴していました。
 原告側の小牧英夫弁護士が陳述し、一審判決のなかで「レッド・パージ対象者に生じた損害について、立法により補償すべきか否かは立法裁量の問題」「立法措置を講じていないことが裁量の範囲を逸脱したとまではいえない」としたこととの関係で、国会や政府でどう検討され、どういう理由で施策や立法措置がされなかったのか明らかにする必要性を強調。申し立てていた国会と政府への調査嘱託(裁判所が他の機関に調査・報告をさせること)を求めました。高裁側はこれを認め、調査嘱託の採用が決まりました。
 佐伯雄三弁護士が憲法にもとづく判決を下すための充実した審理を求め、原告3人が苦難の道のりを語り、救済を訴えました。
 報告集会で弁護団は「調査嘱託が実現し、第一関門を開いた」と評価しました。
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2011年12月21日,「赤旗」) (ページトップへ)

レッドパージ反対連絡センター/新役員が党本部訪問

 レッド・パージ反対全国連絡センターの第6回総会で選出された大橋豊、藤村三郎両代表委員、金子圭之事務局長、鈴木章治同代行らは8日、日本共産党本部を表敬訪問し、応対した仁比聡平国民運動委員会副責任者となごやかに懇談しました。
 大橋氏らは、総会は「60周年記念のつどい」(昨年12月)の成功が確信となっていると発言があった、とのべ、「いい総会が開けてよかった」と報告しました。
 大阪高裁での国家賠償請求裁判へのたたかいの決意をのべるとともに「運動を大きくするために被害者だけでなく、たたかう連帯の輪を広げる必要がある」と今後の課題についても語りました。
 仁比氏は国家賠償請求裁判での神戸地裁の不当判決を改めて批判するとともに、「電力会社の安全神話などレッド・パージがどのようにいまの社会のゆがみをつくり出したかを明らかにしていく必要がある」と強調しました。さらに「レッド・パージ反対の人権侵害をただす運動は、民主主義発展の土台をつくるたたかいになる。ともに手を携え運動をすすめましょう」と呼びかけました。
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2011年11月11日,「赤旗」) (ページトップへ)

レッド・パージ/名誉回復・国家賠償を/全国連絡センターが総会/山下氏あいさつ

 レッド・パージ反対全国連絡センターの第6回総会が8日午後、東京都内で開かれ、戦後の米軍占領下に、日本共産党員、その支持者であることを理由に不当解雇された被害者とその家族、支援者70人が参加しました。
 同センター事務局の鈴木章治さんが総会議案を提案。この間の運動の前進について強調し、方針案として▽学習を強め運動に確信をもとう▽基本的人権の確立を目指す諸団体との協力・共同を強めよう▽レッド・パージ国家賠償訴訟の大阪高裁勝訴へ―などを提案しました。
 討論では「請願署名を多く集めるのには署名集めに協力してくれる人をどれだけ増やすかがカギだと考え取り組んでいる」「レッド・パージのことを若い人に知らせるため映像の活用も」などの発言がありました。
 日本共産党の山下芳生常任幹部会委員・参院議員が「名誉回復と国家賠償の要求実現へともに全力をつくしましょう」とあいさつしました。
 浦田賢治早稲田大学名誉教授が「いま、『レッド・パージ』を読み直す―次の世代に伝えたいこと」と題して講演しました。
 総会では大橋豊(兵庫)、福島正見(福岡)、藤村三郎(岩手)、宮原文雄(群馬)の4代表委員と金子圭之事務局長(以上再任)、鈴木章治事務局長代行(新)を選出しました。
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2011年11月09日,「赤旗」) (ページトップへ)

レッド・パージパンフを作成/全国連絡センター

 レッド・パージ反対全国連絡センターは、パンフレット『レッド・パージ裁判神戸地裁判決の不正義―名誉回復・損害賠償の実現めざすこれからのたたかい』(写真)を発行しました。国会請願行動・全国活動交流集会(6月7日)での坂本修弁護士の講演を補足・加筆したものです。
 パンフは、レッド・パージとは何か、レッド・パージの国家賠償を求めた訴訟での神戸地裁判決の不当性などを分かりやすく明らかにしています。資料編として同判決での日弁連会長談話などが収められています。
 B5判、48n。頒価200円。問い合わせは、同センターрO3(3576)3755。
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2011年11月08日,「赤旗」) (ページトップへ)

8日に総会/レッド・パージ反対全国連絡センター

 レッド・パージ被害者とその家族や支援者などでつくっているレッド・パージ反対全国連絡センターの第6回総会が8日午後1時から、東京都渋谷区の日本共産党本部多目的ホールで開かれます。
 総会は、▽名誉回復と国家賠償を求める国会請願署名運動の前進▽人権救済申し立て運動での各地弁護士会の政府・関係企業への救済勧告▽昨年12月の「レッド・パージ60周年記念のつどい」の成功など、この間の運動の前進のもとで開かれます。
 浦田賢治早稲田大学名誉教授が「いま、『レッド・パージ』を読み直す―次の世代に伝えたいこと」と題して講演します。
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2011年11月05日,「赤旗」) (ページトップへ)

県レッド・パージ反対同盟が総会/神奈川

 神奈川県レッド・パージ反対同盟はこのほど、第11回総会を開き、被害者の名誉回復と正当な国家賠償を求める国会請願署名に取り組むなどの方針を確認しました。
 加藤桝治事務局長代行が2010年の活動報告と11年の運動方針案提案を行い、労働者教育協会の山田敬男会長が「戦後日本における日米安保条約」と題して講演しました。
 日本共産党の畑野君枝衆院南関東ブロック比例代表候補がメッセージをよせ、党県委員会の岡田政彦書記長が参加しました。
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2011年11月02日,「赤旗」) (ページトップへ)

シリーズ原発の深層/第3部/差別と抑圧超えて/3/労組をパートナーに

 東京電力の専制的な職場支配と、無謀な原発推進に労働組合はどうしていたのか―。
 東京電力労働組合(1951年発足)の前身となったのは、全国単一組織の日本電気産業労働組合(電産)から分裂し結成された関東配電労働組合です。
 電産は、戦後のインフレ時に生活給に基づく賃金体系を勝ちとるなど、当時の労働運動の先頭に立っていました。しかし、レッドパージ(50年)、9電力体制への分断(51年)を受けて後退を余儀なくされます。

たたかい排除
 当初、経営合理化に反対していた東電労組は、60年に「経営対策活動を充実」するとして協力方針へ転換。「電源開発の促進」「コスト削減」を掲げる労資協調路線へ踏み出しました。
 「運命共同体としての労使」「人間尊重の経営」を掲げたのは、第4代社長の木川田一隆氏。労務部長として電産と対決した人物です。
 実態は「よきパートナー」を育成するための、労組への介入でした。役員選挙では、特定候補者への投票工作などあらゆる手段を使って、日本共産党員をはじめ、たたかう労働者を排除しました。
 66年に労組は、旧民社党支持を決定。国政に電力業界の利益を代弁する議員を、一党締めつけと「ぐるみ選挙」で連綿と送り出してきました。
 「スリーマイル島のこの事故が、日本の原子力の安全にして正しい開発に支障があってはならぬ」―。
 スリーマイル島原発事故(79年)直後にこう発言し、安全性を問うどころか、政府に原発推進をあおったのは東電労組出身の中村利次議員(旧民社党)でした(参院科学技術振興対策特別委員会)
 労組は、組合員に旧民社党(現在は民主党)支持を押しつける一方で、会社の思想差別を提訴してたたかう組合員のビラ配布を「特定政党の組織介入による反組織行為」とし、抑圧を一層強めました。

事故のたびに
 労組は、過酷事故のたびに原発推進の会社を後押ししてきました。
 スリーマイル島事故後には関係業界の労組とともに「見解」を発表。「日本の原子炉には、(略)起こり得ないという実感を持たざるを得ない。不幸な出来事の中での満足感がある」とし、会社を逆に叱咤激励しました。
 チェルノブイリ原発事故(86年)後も「自信をもって!! 原子力/反対運動恐れるな」と機関紙で訴えました。
 福島原発事故後の、今年5月の大会で掲げられた運動方針では「東電労組として原子力発電の必要性や推進していく考えに変わりはありません」と、原発推進の一翼を担ってきたとの反省はみられません。
 (つづく)
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2011年11月01日,「赤旗」) (ページトップへ)

大災害と日本共産党/3/伊勢湾台風1959年/泥海から立ち上がる

 1959年9月26日夜から翌27日未明にかけて、猛烈な台風15号が東海地方を中心に襲いました。死者・行方不明者5098人という戦後最悪の風水害を出した伊勢湾台風です。日本共産党は直後から救援活動に立ち上がりました。

全員に毛布を
 4b近い高潮に加え、名古屋港各地の貯木場から約20万dの材木が流れ出して堤防や家を破壊し、大勢の犠牲者がでました。海抜ゼロメートル地帯が広がる名古屋市南部の被害は甚大でした。
 被災地での党員と議員の被災者救援のための苦闘は、27日から始まりました。名古屋市港区の党港細胞(今の支部)の故玉村昇さん=当時(36)=は、家財いっさいを流され、身一つで一家とともに港区役所に避難しました。食べ物も着る物もない中で、被災者とともに区役所に要請します。その結果、1日1食しかなかった主食の配給が2食に、毛布が全員に1枚ずつ支給されることになりました。
 半田市議だった故岩川守彦さん=当時(40)=が27日朝、半田市内の避難所にいくと、600人余の被災者は食事も毛布もなく震えていました。岩川市議は、被災者代表とともに市役所へ行き、民生課長を説得。被災者全員に毛布が支給されました。議会で取り上げ、市と交渉して救援の手を打たせ、被災者に報告することを連日つづけました。
 被災地の党員は、各地で「被災者同盟」を組織し、日用品、見舞金の支給、税の減免、仮設住宅の建設、仮設住宅に畳を入れよと要求し、次々に実現していきました。
 党愛知県委員会と名古屋市委員会は合同の災害対策委員会を28日に設置しました。党中央委員会は、29日に全国に被災者救援を訴えるとともに、政府に救援と災害復旧のための緊急対策を求め、災害対策を確立するための臨時国会の召集を要求しました。
 当時の「アカハタ」は、連日、現地の状況や救援活動を伝え、中央委員会は、党内外から党本部に寄せられた救援物資を車で被災地に届けました。
 9月30日には、日本共産党、社会党、愛労評(愛知県地方労働組合評議会)、県学連、全港湾、民商、全日農などによって、愛知民主団体災害対策委員会(愛知民災対)が結成されました。
 同委員会に党を代表して参加していた中家啓(なかや・ひらく)さん(82)=当時(30)=は、「あのころ、党は小さかったけれど、戦前・戦後のたたかいで鍛えられた党員が地域にいました。玉村さんは、愛知時計で戦時中にストライキを組織し、レッドパージで職場を追われた党員でした」と振り返ります。
 民主的団体の救援活動も献身的でした。なかでも、泥海に孤立し、下痢やカゼ、肺炎に苦しむ地域の住民に、民医連の医師と看護婦の活動は鮮烈な印象を残しました。
 全国から救援に参加した民医連の医師・看護婦は延べ約700人、治療した患者は約2万人にのぼります。(『民医連の40年』)
 このあと、港区や南区の主婦たちが「あんな医者や看護婦がほしい」と立ち上がり、賛同人と資金を集め、次々に民医連の診療所や病院を設立していきました。
 みなと医療生協の理事を65年から長年務めた伊藤三月(やよい)さん(75)は、創立時からの先輩理事たちが、「私たちがつくった診療所。私たちが連れてきたお医者さん」と誇らしく語っていたことを思い出します。

さきがけ≠ノ
 被災地救援活動は、住民の間で日本共産党への信頼を大きく高めました。台風前の59年のいっせい地方選挙で愛知県内の当選者は市町村議10人でしたが、63年の地方選挙では19人が当選。半田市で初の2議席を得ました。
 中日新聞社会部編の『あいちの政治史』(81年)は、「ドロ海の中から早々と組織的活動に立ち上がったのは、愛知共産党だった」と評した上で、次のように書きました。
 「いまでこそ災害時に政党や議員が救援活動に乗り出すのは当然になったが、伊勢湾台風での愛知共産党の動きは、文字通りそのさきがけ≠ナあったといっていい」
 (2回目は9月27日付に掲載)
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2011年10月05日,「赤旗」) (ページトップへ)

映画製作者・監督武田敦さん偲ぶ/見るべきものは見た=^山本洋

 武田敦さんと私が共に歩み始めたのは、大映が再建された1974年からになります。永田雅一社長率いる大映の倒産後、私ども組合の1000日のたたかいを経て、大映は徳間康快社長のもと再スタートを切りました。徳間氏から懇願され、武田さんが専務取締役に就任。武田さん47歳のときです。
 武田さんは27年大連で生まれ、戦後の学生運動高揚期である47年、早稲田大学経済学部に入学、「早大新聞」の編集長などを務め、卒業後、東宝をレッドパージされた私の父・山本薩夫、今井正監督らが設立した独立プロの新星映画社に入り、「真空地帯」(52年)の助監督として活躍しました。66年、橘祐典監督らとともに青銅プロダクションを設立し、製作、監督、脚本を手がけ、独立プロのリーダーとして若手作家を育てました。
 脚本家としては、松川事件の真実を目撃した泥棒が証言台で検事たちと対峙する痛烈な権力風刺の「にっぽん泥棒物語」(65)、中国侵略のなかで翻弄される人々と戦争に突き進む時代を描いた「戦争と人間」第二部・完結篇(71・73)などがあります。
 監督として映画史に残るのは、全国金属労働組合を中心とした「十万人の映画製作運動」により作られた「ドレイ工場」(68)で、職場を追われた労働者が地域共闘を基盤にたたかう姿を描き新しい時代の労働運動のありようを知らしめました。「沖縄」(70)では、米軍基地の強制接収への抵抗、民族の怒りを感動的に描き、沖縄の即時無条件全面返還への力となりました。現在でも必見の作品です。
 大映再建には、堅実な事業計画でその基盤をつくり上げました。「わが青春のとき」(森川時久監督75)、「東京大空襲 ガラスのうさぎ」(橘祐典監督79)、全国劇場公開で政財界の癒着を描いた「金環蝕」(石川達三原作、山本薩夫監督75)や終戦直後の米軍占領下を描くコメディー「ダイナマイトどんどん」(岡本喜八監督78)など多くの作品を製作。
 日中初の合作映画「未完の対局」の成功をきっかけに井上靖原作の「敦煌」(佐藤純彌監督88)の準備に入り、交渉、撮影のため度々中国に渡りました。5年かけた「敦煌」に続き、「おろしや国酔夢譚」(92)の製作に入り体調を崩されました。
 肝炎とのたたかいのため大映を退任、20年間の闘病生活に入ることになりました。お会いするたびに数冊の新刊本を抱え、「映画は分かりやすく面白くなければならない」と言っていました。「箱根風雲録」(52)で出会った女優の妻、岸旗江さんを3年前に亡くされたのが一番辛いと弱音を吐かれたことがあります。この5月、ご自宅にお邪魔し、娘で絵本作家の武田美穂さんと共にお話ししたのが最後になりました。強い副作用を覚悟で新薬の服用に挑戦されているとのこと。東日本大災害と原発事故に、敗戦と広島・長崎の原爆を重ねたのか、「見るべきものはすべて見た」とつぶやかれたことが忘れられません。
 (やまもと・よう 映画製作者)
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2011年08月02日,「赤旗」) (ページトップへ)

一枚のハガキ/私の師・新藤兼人最後の映画/神山征二郎/冴える「戦争ダメ」

 3年前テレビ局の依頼で、広島でロケ中の師匠・新藤兼人を追うドキュメンタリー番組をつくった。第47作目に当たる「石内尋常高等小学校 花は散れども」の撮影が師の生まれ故郷の町などで佳境に入っていた。
 現場でキャメラを構えて待ち受けていると、身体障害者用にしつらえたワゴン車から、息子でプロデューサーの新藤次郎氏と孫で映画監督の新藤風さんに支えられて、車椅子の師匠が降り立った。威厳があって、なにか厚木基地に降り立った時のマッカーサー元帥のようである。
 戦勝国の将官と現場に臨む映画監督をいっしょくたにしては恐縮だが、その時95歳だった師匠は全くもってカッコよかったのである。
 万難を排して集結している裏方や俳優諸氏も手を叩かんばかりに出迎えて、これが最後≠フ雰囲気がいやが上にも盛り上がっていた。
 しかし、これが最後ではなかった。本当の新藤兼人の最終作はまもなく公開の運びとなる「一枚のハガキ」だった。
 新藤兼人の近代映画協会は戦争の傷跡も生々しい1950年(昭和25年)に発足した独立プロダクションの最老舗である。占領軍最高司令官マッカーサーの指令で新聞、通信、放送、映画、演劇などの世界からいわゆる赤色分子なるものが追放されたレッドパージの吹き荒れた年のことである。私自身はその15年後の65年に、すでに不況におちいっていた日本映画界の路頭に迷い、この独立プロに拾われた見習い助監督であった。新藤組4作と吉村(公三郎)組3作の助手を経て71年「鯉のいる村」で監督になった。
 監督となって以降も「ハチ公物語」「遠き落日」「大河の一滴」など、数多く脚本家新藤兼人とあいまみえた。父のような存在が私の新藤兼人である。「お父さん」とは呼べないからずっと「センセイ」と呼んできた。
 親は子にとって絶対の存在だから尊敬も従順も、また子ゆえの反抗心のようなものも時に人並みに感じて育った。
 その、これが最後だ、という映画を試写室で見た。映画は監督の存念一つで作れるものではないので、そんなことは百も承知の師が「最後だ」と宣告して挑んだ作を待つ心境は、複雑で悩ましいものだった。
 「なに、1本の映画を見るだけのことではないか」と己を励ますうちに上映が始まった。
 敗色が誰の目にもはっきりとしてきた頃に赤紙召集を受けた高齢兵たちと残された家族の物語である。師自身の戦争体験をふまえた物語は、年々切れ味鋭くなっている演出が不気味なほどに冴えわたり、「戦争はダメだ」と説く。
 この映画で描かれた戦争は多かれ少なかれ当時の日本人全員が体験した。私の母は弟が2人。1人は台湾南沖のバシー海峡に沈み、1人はガダルカナル戦の数少ない生き残り。「人の肉を口にせざるを得なかった」と暗に私に語ったことが一度だけあった。大きなものがみなぎった師の最後の映画だった。
 (こうやませいじろう 映画監督)
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2011年08月01日,「赤旗」) (ページトップへ)

レッド・パージつどい/大阪弁護士会中本会長メッセージ

 大阪弁護士会の中本和洋会長が「戦後最大の人権侵害、レッド・パージ大阪のつどい」(23日、大阪市)に寄せたメッセージを紹介します。

 日本弁護士連合会においても、これまでに2度にわたって、被害者の名誉回復と補償を含めた適切な措置を講じるように求める勧告を発表してきたところです。それにもかかわらず、いまだに、政府がなんらの措置を講じようとしていないことは、誠に遺憾なことであります。
 レッドパージが風化することがないよう、次世代にこの歴史的事実を伝えることは有用なことであり、本日のつどいは、きわめて有意義なものです。
 つどいが、被害者の名誉回復や補償などの措置が実施されることへ向けた大きな力となることを祈念します。
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2011年07月27日,「赤旗」) (ページトップへ)

映画「ひろしま」58年ぶりに復活/各地で上映

 米軍占領下の1953年に製作された映画「ひろしま」(監督・関川秀雄)が、この夏各地で上映されます。当時レッドパージにあった映画人が、広島市民9万人に及ぶ出演と協力のもとに作りました。58年ぶりに映画を復活させたのは、「奇跡への情熱(核廃絶)プロジェクト」(代表・小林一平)です。東京では、映画とともに、被爆者とのトークなどもあります。
 代表の小林さんは、「ひろしま」の復活について、次のように語ります。
 「あの原子雲の下で何が起きたのか。映画には、核兵器の恐ろしさと戦争という人間の罪を問い、被爆者やその家族の平和への願いと核兵器をなくすという強い思いが込められています。『ひろしま』を日本や世界各地で公開して、平和の情熱を大きなうねりにして世界の人たちと共有し、廃絶への強いおもいを情熱に変えて奇跡を起こすことこそ、被爆者や戦争で無念の死で亡くなった人たちへの願いに応えるものだと思っています」
 ◆上映日程
 30日 長野・まつもと市民芸術館小ホール。「第23回国連軍縮会議IN 松本開催記念」オープニング上映として。▽8月6日から26日まで 東京・渋谷オディトリウム。6日に上映とトーク(小林一平氏と熊井明子さん)、7日に上映とトーク(小林一平氏と被爆者・坪井直氏)▽8月6日から12日まで 群馬県前橋市 シネマまえばし▽8月12日に兵庫・宝塚シネ・ピピア ピピアめふ和風ホール▽8月20日から9月2日まで大阪九条 シネ・ヌーヴォ]ほか。問い合わせはрO90(8961)5019小林一平。
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2011年07月27日,「赤旗」) (ページトップへ)

名誉回復と賠償を/レッド・パージのつどい/大阪

 「戦後最大の人権侵害、レッド・パージ大阪のつどい」が23日、大阪市内で開かれました。大阪労連や日本共産党府委員会、法曹など15団体が呼びかけました。
 日本共産党員やその支持者であるというだけで「企業破壊者」などのレッテルを貼られ、職場を追われたレッド・パージ。日弁連が「勧告」をだすなど、違憲・違法な人権侵害を告発する世論が高まり、80人の参加者は、被害者の名誉回復と国家賠償を実現し、歴史の教訓を次世代に伝えていこうと決意を新たにしました。
 日本共産党の山口勝利府委員長が「憲法にもとづき民主主義を前にすすめるため、この歴史の誤りをあいまいにすることはできない」と開会あいさつ、「つどいの成功で大阪の運動を前進させよう」と呼びかけました。
 「こうしてレッド・パージされた」と被害者が次々に発言しました。佐藤貴美子さん(83)は「放送局では、拳銃を突きつけられ、職場から放りだされた」と訴えました。
 各団体代表が名誉回復と補償の実現、語り継ぐためにがんばりたいと表明しました。
 レッド・パージ国賠訴訟原告弁護団の西田雅年弁護士が、「いまこそ被害者の名誉回復と賠償を レッド・パージ国家賠償訴訟の神戸地裁判決を受けて」と題して講演しました。
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2011年07月24日,「赤旗」) (ページトップへ)

レッド・パージ/60周年実委が記念誌を発行

 「レッド・パージ60周年記念のつどい」実行委員会は、この「つどい」の内容を収録した記念誌(写真)を発行しました。
 「つどい」は、日本共産党員や労働組合活動家が職場を追放されたレッド・パージから60年を迎えた昨年12月に開かれました。被害者の名誉回復と国家賠償を実現し、歴史の教訓を次世代に伝えていこうと決意を新たにしました。
 記念誌には、日本共産党市田忠義書記局長のあいさつ、北海道教育大学の明神勲名誉教授の記念講演、被害者の告発、各分野からの連帯のあいさつが掲載されています。
 「たいへん勇気づけられたつどいだった。改めてその思いをかみしめている」(被害者)、「言葉だけは知っていたがレッド・パージをよくわかった」(労組役員)など好評です。
 1部600円。問い合わせ先=レッド・パージ反対全国連絡センターрO3(3576)3755(ファクス兼)
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2011年07月21日,「赤旗」) (ページトップへ)

文化/弁護士・海野普吉の評伝を著した入江曜子さん/戦前・戦後、冤罪とたたかった生涯

 「弁護士になりたいというかなわなかった夢を、素晴らしい弁護士の生涯を書くことに託しました」と作家の入江曜子さん。『思想は裁けるか』の題で、弁護士・海野普吉(うんのしんきち)の評伝を著しました。着手して20年の労作です。鎌倉市の自宅で話をききました。
 児玉由紀恵記者

 入江さんは、1935年生まれ。国民学校の制度が始まった41年に入学して天皇中心の皇民教育を受け、敗戦後は、六三制初の中学1年生になり民主主義の教育を受けるという、めまぐるしい歴史を生きてきました。
 「高校時代は、朝鮮戦争から警察予備隊(自衛隊の前身)が発足するなど、民主主義がかげり始めたころです。対日講和条約をめぐって単独講和か全面講和かの関心はとても高かったですね」
 レッドパージを背景に、松川事件(49年)をはじめとする謀略事件が次つぎ引き起こされた時代。「弁護士になることを夢見たのは、その報道に接して抱く単純な正義感だったと思います」

反戦非戦の信念
 海野普吉(1885〜1968年)は、戦前は、数々の治安維持法違反事件などの弁護人を務め、戦後、48年に日本弁護士連合会の会長に就任。人権擁護に献身したリベラルな弁護士として知られます。その人格は、いかに形成されていったかを、綿密な調査・掘り起こしで、浮き彫りにしています。
 病弱だった青年期。海野は、日露戦争の戦果をたたえる小説「肉弾」を読み、悲惨な戦争描写から逆に「反戦非戦の信念を魂に刻んだ」と入江さんは書いています。晩年も病床から、自分を「戦争否定主義者」にしてくれたこの本を読みたい、と新聞紙上で訴えるほどでした。
 弁護士として、昭和史が避けて通れない重要な裁判のほとんどに関わり、「事件を人間がよりよく生きるための問題としてとらえ、法そのものを問い直すところまで思想を深めていった」と入江さん。名利を求めず、自白を「証拠の王」として冤罪(えんざい)を生み出す体制とたたかった人生を描き出します。
 海野は、列車往来妨害の松川事件(49年)で、被告20人全員に有罪の一審判決(50年)が下された後、二審から弁護団に加わって全員無罪判決を勝ち取り、米軍基地拡張反対をめぐる砂川事件(55〜57年)では、主任弁護人を務めます。
 「松川事件では、作家の広津和郎がめざましい裁判批判の活動をしましたが、私はその理論的支えが海野だと気付きました。砂川事件では、主任弁護士として日米安保条約を違憲とした伊達判決を引き出した。そういう存在として、私は、海野を意識していたのです」
 これらの裁判の推移、検察の論理を鋭く突き崩す海野の活躍を伝える場面は圧巻です。
 同時に、近寄れば矛盾のかたまり≠ニやゆされた海野の私生活の「明治生まれのワンマン」ぶりも、人間の面白さを伝えます。

憲法草案に関与
 憲法草案作成に関わり、第9条の理念を提案したことを、生涯秘して語らない海野の謙譲の美学も本書で明かされます。
 「憲法が改悪されるような事態になったら、街頭に立って辻(つじ)説法をやるつもりだよ」。60年安保闘争の頃、75歳の海野の言葉です。
 「戦争放棄、永久平和の原則は世界に誇るに足るものだというのが今日への海野のメッセージです。そのうえで、憲法第38条(不利益な供述の強要禁止)などを死文とする社会の成熟をもとめていたと思いますね」
 戦争が私を早熟にした、と入江さん。裁判に対する関心は東京裁判から。元満州国皇帝溥儀(ふぎ)の証言と、国民学校の教科書との違いに受けた46年当時の衝撃が、後に溥儀を作品化する動機となっています。貫く探究心。直視すれば目がつぶれるといわれた現人神(あらひとがみ)の神秘を確かめようと、失明を覚悟で実行したという国民学校1年生の頃のエピソードが重なります。
 「あの激動の時代に生まれた人間としての義務を、書くことで果たしたいと思っています。今日の私たちの生きかたを考える手がかりとして」

いりえ・ようこ=作家。1935年東京生まれ。慶応義塾大学文学部卒業。著書に『我が名はエリザベス―満州国皇帝の妻の生涯』『貴妃は毒殺されたか―皇帝溥儀と関東軍参謀吉岡の謎』『少女の領分』『日本が「神の国」だった時代―国民学校の教科書をよむ』など
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2011年07月03日,「赤旗」) (ページトップへ)

ひと/映画「ひろしま」の外国語字幕版を世界に小林一平さん(64)

 原爆が投下された広島の惨状を告発しながら、米軍占領下で「幻の名作」といわれた映画「ひろしま」(1953年、監督・関川秀雄)が復活します。自主上映も各地ですすんでいます。その仕掛け人です。
 「ひろしま」は、戦後の理不尽な弾圧「レッド・パージ」に遭った映画人が結成した「独立プロ」の作品です。自身の父親・故小林太平さんは監督補で、助監督は故熊井啓さんです。製作費は、「教え子を再び戦場に送らない」との思いで、全国の教職員が1人50円、50万人で支えました。広島市民が9万人もエキストラで出演しました。
 「当時日本人としての良識があり、それを意気に感じた映画人の情熱と、被爆者の願いが詰まっている映画です。思いは、核兵器を廃絶することでしょ」
 外国語字幕版を世界中に広げる壮大な計画も発案しました。名付けて、「奇跡への情熱(核廃絶)プロジェクト」です。
 「核兵器をなくすなんて奇跡のことに思っている人もいるけど、世の中は人間の力で変えることができる。その力は情熱であり、芸術、映画です。映画には感情に訴える力がある」
 畳み掛ける話しぶり、情熱の人です。「世界中の人にこの映画をみてもらい、必要のない核兵器がなぜ66年たってもあるのか、なくそうという思いに駆り立てたい」
 映画の問い合わせは、小林さんрO90(8961)5019まで。
 文・写真 阿部 活士
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2011年06月27日,「赤旗」) (ページトップへ)

日弁連に支援要請/レッド・パージ問題で連絡センター

 レッド・パージ反対全国連絡センターの代表は13日、日本弁護士連合会を訪ね、レッド・パージ問題の解決に向けて日弁連のいっそうの支援を要請しました。
 代表団は、これまで日弁連が2度にわたってだした救済勧告や、「レッド・パージ60周年記念のつどい」(昨年12月)への会長メッセージ、神戸地裁でのレッド・パージ国賠訴訟不当判決(5月26日)に対する厳しい批判と「改めて政府に勧告実施の措置を講ずるよう」求めるとした会長談話など、「たいへん激励されてきた」と謝意をのべました。
 そのうえで、レッド・パージ問題の解決に向けて支援をさらに強めてほしいと発言。@政府に勧告実施へ働きかけをしてほしいA人権救済申立に対して未勧告の7府県弁護士会が早期に勧告するよう働きかけしてほしいBシンポジウム開催や同連合会「人権ニュース」でレッド・パージ特集を組むなど可能な手だてを講じてほしい―と要請しました。
 要請には、日弁連人権第一課が応対。人権擁護委員会の次回の会議に要請は必ず報告し、審議してもらうとのべました。
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2011年06月15日,「赤旗」) (ページトップへ)

レッド・パージ国賠訴訟/大阪高裁に控訴

 GHQ(連合国軍総司令部)占領下で日本共産党員と支持者が職場から追放されたレッド・パージの犠牲者が国家賠償を求めた訴訟で9日、原告側は、請求を棄却した神戸地裁判決を不服として大阪高裁に控訴しました。
 レッド・パージで職場を追われて収入を絶たれ、犯罪者扱いされるなど苦難を強いられてきた、大橋豊さん(81)、川崎義啓さん(94)、安原清次郎さん(90)=いずれも神戸市=は、「生きているうちに名誉回復を」と09年3月に提訴。原告側は、日本政府が積極的にレッド・パージを実施したことを明らかにし、被害救済の義務を負っていると主張しましたが、神戸地裁は5月26日、国に救済の義務はないとして請求棄却の判決を言い渡しました。
 控訴状提出後の報告集会で、大橋さんは「良心と憲法にもとづく判決をと大いに訴えたい」、川崎さんは「勝利判決を見ずに死ぬわけにはいかない。そのためにせいいっぱい長生きしたい」、安原さんは「私は悲観していない。このたたかいは生きがいです」と、控訴審勝訴へそれぞれ決意を語りました。
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2011年06月10日,「赤旗」) (ページトップへ)

名誉回復へ国会行動/レッド・パージ反対センター

 レッド・パージ反対全国連絡センターは7日、レッド・パージ犠牲者の名誉回復と国家賠償を求めて国会請願行動をおこない、全国活動交流集会を開きました。
 13都府県から46人が参加し、各党国会議員に要請しました。
 要請後、参院議員会館で国会請願行動・活動交流集会を開催。参加者は昨年を超える2万5670人分の請願署名を日本共産党の塩川鉄也衆院議員に手渡しました。
 塩川議員が連絡センターと固く連帯してたたかう決意を表明して、大きな拍手につつまれました。
 坂本修弁護士が、犠牲者の国家賠償を求める訴えを棄却した神戸地裁判決(5月26日)の「不正義」と題して特別報告。真実に背をむけ憲法と道理に反した最悪の判決だと批判。控訴審で正義の判決をかちとるため法廷内外の力を強め、国会で名誉回復・損害補償のための決議、立法の実現を追求していきたい、とのべました。
 運動の交流で大阪の代表は、「大阪からも運動に合流していこうと被害者の名簿づくりをして46人になった。7月には大阪の集いも開くことにしている」と報告。神奈川の代表は「請願署名数が昨年を超えることができた。友人、知人に手紙で依頼して署名を集める人が増えている」と報告しました。
 交流集会では日本共産党の吉井英勝衆院議員、仁比聡平前参院議員が連帯のあいさつをしました。
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2011年06月08日,「赤旗」) (ページトップへ)

レッド・パージ訴訟神戸地裁判決/人権救済機能を放棄/原告弁護団が抗議声明

 レッド・パージ訴訟・神戸地裁判決で原告弁護団は26日、抗議の声明を発表しました。
 声明は、原告は違憲違法なレッド・パージにより社会から排除され、現在に続くまで継続的な人権侵害を被ってきたと指摘。このことは日弁連「勧告」などで繰り返し認定されているのに、一顧だにしていないと批判しています。
 連合軍最高司令官のマッカーサーの指示が公共的報道機関についてのみならず「その他の重要産業」にも及ぶとし、「そのように解すべき旨の指示が当時当裁判所に対してなされたことは当法廷に顕著な事実」とした1960年の最高裁決定にたいし、明神勲・北海道教育大学名誉教授が「顕著な事実」など存在しないことを詳しく立証したことや、レッド・パージが閣議決定によって決定されたことをまったく顧みようとせず、国の責任を認めなかったのは、司法の人権救済機能を放棄したに等しいとしています。
 GHQ(連合国軍総司令部)の指令は超憲法的効力があるとした、かつての最高裁大法廷決定は、司法の歴史に一大汚点を残すものであり、この汚点を拭うべき判断が求められていたが、判決がこれにこたえず誤った判断に終始したことは厳しく批判されるべきだと強調。不当極まりない判決に強く抗議するとしています。
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2011年05月27日,「赤旗」) (ページトップへ)

レッド・パージ判決報告集会/良心のかけらもない/原告・支援者ら怒り

 日本共産党員であることを理由に解雇・免職されたレッド・パージ犠牲者が国家賠償を求めた裁判で、請求を棄却した神戸地裁判決があった26日、中央区内で報告集会がひらかれました。

 支援者らの怒りと激励のなか、原告の川崎義啓さん(94)は「思っていたのと逆の判決に驚いている。長生きしなくちゃならないたたかいが始まります。認めるわけにはいきません」と力強く決意を表明しました。安原清次郎さん(90)は「まじめに働いて、思想・信条の自由を守って、普通の生活ができるようにしてほしい」と語りました。大橋豊さん(81)は「生きている間に勝ちたい」と思いを語り、弁護団、支援者らが大きな拍手をおくりました。
 弁護士の橋本敦氏は、良心のひとかけらもないむごい判決と批判し、「日本の正義のため、歴史を変るため支援を」と訴えました。藤木洋子元衆院議員は「怒りでいっぱい」と強調、「これだけの社会的問題にした3人のたたかいは素晴らしい。大変な努力です。一緒にがんばりたい」と激励。岡正信日本共産党県委員長は「本当に悔しい思いがある。3人の革命的、楽天性、不屈性を痛感した。たたかいの前進のために力を尽くしたい」と決意を表明しました。
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2011年05月27日,「赤旗」) (ページトップへ)

レッド・パージ国賠訴訟不当判決/憲法無視の暴挙容認/市田書記局長が談話

 レッド・パージ国賠訴訟の神戸地裁判決について日本共産党の市田忠義書記局長は26日、次のような談話を発表しました。

 神戸地方裁判所は、思想・信条を理由に職場から排除され、60年余にわたって苦難を強いられてきたレッド・パージ被害者の国に対する謝罪と名誉回復、損害賠償の訴えを棄却した。これは「占領軍指令は超憲法的効力を有する」と日本国憲法を無視したかつての最高裁決定にしがみつき、「戦後史の汚点」というべき暴挙を今日なお容認したきわめて不当な判決である。
 すでに日本弁護士連合会は、レッド・パージが、特定の思想・信条を理由とする差別的取り扱いであり、憲法と世界人権宣言がさだめる思想良心の自由、法の下の平等、結社の自由の侵害であることを明らかにし、少なくともわが国が主権を回復して以降、被害回復は容易であったにもかかわらずこれを放置してきた国の責任を厳しく指摘して、すみやかに適切な措置を講ずるよう総理大臣に勧告している(2008年)。
 裁判における専門家証言を通じて、「連合国軍最高司令官の指示」は単なる「助言」「示唆」にすぎず、主たる責任は日本政府にあったことが明らかとなった。
 レッド・パージ被害者の名誉回復と補償は、自由と民主主義をわが国に確立するうえで今日的意義をもっている。日本共産党はその実現のためにいっそう奮闘するものである。
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2011年05月27日,「赤旗」) (ページトップへ)

レッド・パージ国賠訴訟/神戸地裁が不当判決/国の被害救済の義務否定

 1949年から50年にかけて日本共産党員と支持者数万人が職場から追放されたレッド・パージの犠牲者が国に対して国家賠償を求めた訴訟で26日、神戸地裁は原告の請求を棄却する不当判決を出しました。

 原告は、大橋豊さん(81)、川崎義啓さん(94)、安原清次郎さん(90)=いずれも神戸市在住=。レッド・パージのため、職を失って収入を絶たれ、犯罪者扱いされて再就職もままならないなど苦難の人生を強いられてきた3人は、「生きているうちに名誉回復を」と09年3月に提訴したものです。
 原告側は、GHQ(連合国軍総司令部)はレッド・パージを指示・指令ではなく示唆したのであり、日本政府はレッド・パージの実施を回避できたにもかかわらず、自ら積極的に実施したことを詳細に明らかにしました。少なくとも主権を回復した講和条約締結後は被害を救済するべき作為義務を負い、これをおこなわないのは違法だと主張しました。
 判決は、「アカハタ」無期限発行停止などを求めたマッカーサー書簡の趣旨は広範なレッド・パージを指示したものと解釈したうえで、政府はそれに従わざるをえなかったとして、被害救済の作為義務はないと突っぱねました。マッカーサーの指示に従った免職・解雇は法律上有効であり、講和条約締結後も同じとする旧来の最高裁決定の論理を踏襲しています。
 原告弁護団は、「人権の最後のとりでたる司法に対する期待をまたもや裏切るもの。原告らの憤り、深い悲しみはいかばかりか、不当極まりない判決に強く抗議する」との声明を発表。大橋さんは判決後、「いまも憲法は生きていないのか。生きている限り、どこまでもたたかう」と語りました。
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2011年05月27日,「赤旗」) (ページトップへ)

レッド・パージ訴訟/26日神戸地裁判決/良心と憲法に基づく判決を/原告の大橋豊さん語る

 1949年から50年にかけて日本共産党員と支持者数万人が職場から追放された憲法違反の暴挙、レッド・パージ。その被害者が国に名誉回復と国家賠償を求めた訴訟の判決が、26日に神戸地裁であります。
 (兵庫県・喜田光洋)

 3人の原告の1人、大橋豊さん(81)=神戸市西区=は、「生きて判決を迎えられるとは、何ともうれしい」といいます。
 50年8月、神戸市中央電報局に勤めていた大橋さんら4人が免職を言い渡されました。父親は他界し、5人家族の世帯主だった大橋さんに、局長は「君は大家族で申し訳ないが」といいながら辞令を渡したといいます。
 4人のうちの1人は直後に自殺。商業新聞は実名をあげて「赤追放」などと、犯罪者扱いしました。
 母親は父親の位牌(いはい)を手に「家族みんなを殺していけ」と大橋さんに叫び、その後、頭を丸めて尼寺に入りました。中学生の妹はバス会社に決まっていた就職が取り消され、家族は一家離散しました。
 大橋さんは職に就けず、苦闘の日々を送ります。後に神戸協同診療所に勤務。民主的医療運動に従事します。
 2000年のレッド・パージ50年を機に名誉回復を求める運動の先頭に。04年、日弁連人権擁護委員会に救済を申し立てました。日弁連は08年10月、レッド・パージは重大な人権侵害と断じ、国と関係企業に救済措置を求める画期的な勧告を出しました。
 大橋さんらは勧告を力に、「生きているうちに名誉回復を」と09年3月に提訴しました。

日本政府が能動的に推進
 同訴訟は、解雇や免職の是非を争ったかつての訴訟と違い、レッド・パージを推進した日本政府の責任を正面から問い、人権をじゅうりんされた大橋さんらへの国家賠償を求めたものです。
 裁判で原告弁護団は、レッド・パージはGHQ(連合国軍総司令部)と日本政府、大企業、最高裁までが共同して遂行したこと、そのなかで、GHQはレッド・パージを指示・指令したのではなく示唆したのであり、政府はその示唆とGHQの権力・権威を利用して自ら積極的・能動的に推進したこと―を詳細な史実をもとに明らかにしました。レッド・パージ研究の第一人者、明神勲・北海道教育大学名誉教授の証言と意見書が大きな役割を果たしました。
 弁護団は、人権を侵害した日本政府には被害を救済すべき義務があり、少なくとも主権を回復した52年の講和条約発効後は救済策を実施できたのにせず、被害を救済すべき義務に違反していると主張しています。

最高裁決定の誤りを論証
 これまで法的救済が閉ざされてきた大もとにある、レッド・パージを容認した最高裁判決・決定についても、誤りを全面的に明らかにしました。
 60年の最高裁決定は、「アカハタ」無期限発行停止を求めた50年7月8日付などのマッカーサー書簡の指示は「その他の重要産業」にも及ぶとし、「そのように解すべきである旨の指示(注 「解釈指示」)が当時当裁判所に対してなされたことは当法廷に顕著な事実」としました。この「解釈指示」をレッド・パージを容認する根拠としたのです。
 これについて明神氏は法廷で、新たに発見したGHQ民政局文書を示し、GHQの「解釈指示」なるものは存在せず、あったのは助言または示唆にすぎないことを疑問の余地なく論証しました。
 3人の原告は、被害の実態を証言。2月の最終弁論で大橋さんは、「私たちは、日本国憲法が最も大切だとする個人の尊厳、思想・良心の自由を奪われたのです。良心に従い、憲法にもとづく判決を」と訴えました。
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2011年05月24日,「赤旗」) (ページトップへ)

青年きらり/活動の灯つなごう/民青同盟がつどい/横浜北東地区

 日本民主青年同盟(民青同盟)横浜北東地区委員会が15日、地区委員会再建6周年記念レセプション「明日エネのつどい」(写真)を開き、地区代表者会議を終えたばかりの現役同盟員と歴代地区委員長などが交流しました。
 「戦時中は軍国少年だった」という経歴から自己紹介を始めたのは84歳の石黒照男さん。1947年に神奈川県小田原市で加盟した日本青年共産同盟(青共)の活動を紹介し、レッドパージで職場を追われ、後に日本共産党中央委員会で活動した経験を語りました。
 70年代に民青同盟地区委員長を務めた小澤和夫さん、横関克弘さん、斉田道夫さんらが、「72年にベトナム戦争に使われる戦車を村雨橋(横浜市神奈川区)で座り込んで止めた」「アパートを軒並み訪問し、スポーツやレクの活動を紹介して加盟を勧めた」など当時の活動を紹介しました。
 2005年の北東地区再建で委員長になった岡崎裕さんは、大勢の同盟員を迎えた経験や「活動だけではない人間関係を築く」ことの大事さを強調しました。
 現役世代からは、「私の祖父と同世代も要求実現や学習など、今と同じことを大切にしていたことが分かった」「先輩たちの活動があって今がある。つながった灯をつなげていきたい」などの感想が出されました。
 「学校では友達がいなくて孤独だったけど、班会議では自分の話を聞いてもらえた。温かくほっとできる場所だった」「活動を通じて、他人の努力を否定せず認めること、相手の思いを考えることができるようになった」など、現在の活動への確信も語られました。
 柏木耕史地区委員長は「自分たちが体験している苦労や喜びと、先輩たちの話は共通。つながっていると実感できました」と語りました。
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2011年05月19日,「赤旗」) (ページトップへ)

「ローマの休日」に見る赤狩り≠ニ映画人/脚本D・トランボが託したものは

「BS歴史館」あす
 過去と現代との対話を試みる。そんな趣向で、「BS歴史館」(NHK衛星プレミアム、金、後9・0)が4月から始まりました。20日は「シリーズ ハリウッド100年@『ローマの休日』赤狩り≠フ嵐の中で」と題して送ります。
  ◇    ◇  
 映画の都、アメリカのハリウッドにスタジオができて100年。「ローマの休日」(1953年作)はウィリアム・ワイラー監督、オードリー・ヘプバーン、グレゴリー・ペック主演で、王女と新聞記者のラブストーリーを描きました。
 鳥谷部寛巳プロデューサーは「誰もが知っている名画と、思想弾圧ともいえる赤狩り、そのコントラスト(対照)から一つの現代史を見てみたかったのです」と話します。
 番組がスポットを当てるのは、原案・脚本を手がけたダルトン・トランボ。赤狩りの対象とされハリウッドを追われますが、友人の脚本家の名を借りて執筆します。
 赤狩り(レッドパージ)。第2次大戦後の1947年、共産主義の広がりを恐れたアメリカ政府はトルーマン大統領のもと、共産主義に共鳴している人々を職場から追放します。それがリベラルな人々にも及び、ハリウッドの赤狩りが始まりました。トランボら10人の監督や脚本家らが、下院非米活動委員会で尋問されます。彼らは証言を拒否。議会侮辱罪で投獄されてしまいます。
 もう一人の担当者・菊池正浩プロデューサーはいいます。「極端な弾圧的な空気がまん延していきます。ハリウッドでの赤狩りは、宣伝効果が絶大だっただろうと思いました」
 密告も横行。ワイラー監督は初め、赤狩りに反対の声をあげた一人でしたが、その後、挫折。ワイラーは、「ローマの休日」をイタリアで撮ることにしました。ハリウッドで作る限り、赤狩りの影響から抜け出せないと考えたといわれます。
 トレビの泉の場面に出演していた、ワイラーの娘・キャサリンが、インタビューに答えます。「父は全部承知の上で、トランボを応援したんだろうと思う」
 トランボが「ローマの休日」に託したものは? ラストの記者会見の場面で、記者は王女の正体を明かすことなく、しかし信頼を確かめ合って別れていきます。トランボの娘・ニコラが涙ぐんで「友情を信じる。信念を裏切らないという父の言葉が聞こえてくるようです」と証言します。
 鳥谷部さんが意識しているのは、現代とどう結んでいくか。「絆が損なわれ、無縁社会といわれます。大震災で見直されてはいると思うんですが。過去のギスギス時代にたたかい、乗り越えた人たちの話は共感してもらえると思っています」
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2011年05月19日,「赤旗」) (ページトップへ)

イールズ闘争記録/北大構内で出版記念会

 1950年5月16日に、連合国軍総司令部民間情報局教育顧問のW・C・イールズが北海道大学で反共講演会を行い、学生らが抗議をした北大イールズ闘争の記録をまとめた『蒼空(そうくう)に梢(こずえ)つらねて』の出版記念会が14日、北大構内で開かれました。
 イールズ闘争に参加した元学生や大学の民主化運動に取り組んだ人たち約50人が、当時の思い出や今後の活動について活発に交流しました。
 全国の大学でレッド・パージを進めた米占領軍の教育顧問イールズの講演について、当時、多くの大学がこれを無難に終わらせようとしました。これに対し北大では「学問の自由」「大学の自治」を守る立場で、学生や教職員がイールズに立ち向かいました。その際、抗議した学生らが退学処分を受けました。
 昨年5月、闘争を担った人たちや北大職員組合が60周年記念集会を開催。今年2月、集会の内容や証言、記録をまとめた報告書を『蒼空に梢つらねて』として出版したものです。
 世話人会の高岡健次郎共同代表は「今日の出版記念会を一つの区切りに、運動は新しい段階に入ります。これまでのご協力に感謝します」とあいさつしました。
 参加者は「イールズ闘争を正しく伝えていない北大史をただしていこう」「大学の法人化で、学問の自由や大学の自治は以前にもまして危機的」などの意見が交わされました。
 北大医学部付属看護学校出身の日本共産党の真下紀子道議があいさつをしました。
 『蒼空に梢つらねて』は柏艪舎の発行で、定価2000円(税込み)。
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2011年05月18日,「赤旗」) (ページトップへ)

憲法生きる民主社会実現へ/レツド・パージ裁判の今日的意義/橋本敦

一 日本戦後史の一大汚点正せるか
 朝鮮戦争前夜、レッド・パージの嵐が吹き荒れてから60年、今や90歳を迎える3名の犠牲者が、「生きているうちに名誉回復を」と提訴した神戸地裁のレ・パ裁判が、この26日に判決を迎える。
 思想・信条の自由を踏みにじるレッド・パージは、日本共産党をはじめ、わが国民主勢力に加えられた憲法違反の暴挙であって、それは戦前の治安維持法弾圧の再現とも言うべき戦後史の一大汚点である。これをたださずして、日本の戦後史は終わらない。

二 政府の責任が各企業以上に重大
 レッド・パージの歴史的経過をみると、労働者を解雇した各企業の責任以上に、全国的国家的体制をとってレッド・パージを強行した日本政府の責任が重大である。
 この神戸裁判で証言された北海道教育大学の明神勲名誉教授は、裁判所に提出した意見書で「国家の犯罪」とも言うべきレッド・パージの歴史的特質を次の通り論述されている。
 「思想・信条そのものを処罰の対象とするレッド・パージは、本来、憲法をはじめとする国内法の容認するところではなく、かつ最上位の占領法規範であるポツダム宣言の趣旨にも反するものであったが、占領下においては超憲法的権力であったGHQの督励と示唆により、それを後ろ盾とした日本政府、企業経営者の積極的な推進政策により強行された。レッド・パージという不法な措置を実施するにあたり、GHQ及び日本政府は、事前に裁判所、労働委員会、警察をこのために総動員する体制を整え、被追放者の『法の保護』の手段を全て剥奪した上でこれを強行したのであった。違憲・違法性を十分に認識し、法の正当な手続を無視したレッド・パージは、『戦後史の汚点』とも呼ぶべき恥ずべき『国家の悪事』であった。」
 そこで、神戸レッド・パージ裁判は、この「国家の悪事」を正面から追及するため、これまでの裁判と違い、国を被告としてその責任を問い、原告らの名誉回復と損害賠償を求めているのである。

三 思想・信条の自由保障が不十分
 過去の歴史のあやまりをただす運動は、スペインのフランコ政権による迫害をただす「歴史の記憶に関する法律」(2007年12月)や、ナチスに抵抗して国家反逆罪に問われた犠牲者を救済するドイツの「包括的名誉回復法」(09年6月)などで明らかなように、今世界でも大きく前進している。
 しかし、日本には思想・信条の自由がまだ十分に保障されていない現状がある。
 そのため、日本共産党の市田忠義書記局長がレッド・パージ反対全国センター第5回総会(09年11月)への激励メッセージで、次のように述べられていることが重要である。
 「みなさん方のたたかいは歴史の一大汚点を正すという点で大きな意義を持つにとどまらないで、現在も根絶されていない職場における思想差別を克服する労働運動、民主運動の大事な一翼を担う今日的な意義を持ったたたかいだと思います。」
 このように、レッド・パージ反対のたたかいは、犠牲者の過去の名誉と権利を回復するだけでなく、思想・信条の自由を保障するわが憲法が生きる民主社会を実現する今日的課題のたたかいなのである。
 憲法と法の正義にもとづく神戸レッド・パージ裁判の勝利判決を心から願う。
 私が神戸の裁判の弁護団に加わったのは原告の皆さんから「私たちはこの裁判のたたかいを神戸だけでなく広く訴えていきたい。そのために神戸で佐伯雄三弁護士を団長に弁護団を作ってもらったが、東京からは坂本修弁護士に、大阪からは橋本弁護士にぜひ参加してほしい」との要請を受けたからであった。
 私は弁護士になって五十余年、いくつもの困難な事件にも加わってきたが、なかでも大阪市立大学本多淳亮名誉教授が「占領軍当局の巨大な魔手におびえて司法権の独立を放棄した」とまで言われている最高裁の共同通信社事件などの不当な判決によって、担当したいくつかのレッド・パージ裁判が全部敗訴した無念は今もなお痛切であった。いつかはこの無念をぬぐい去りたいと心に期していた私は、即座にこの要請に応じて神戸の裁判の弁護団に加わったのであった。
 (はしもと・あつし 弁護士)

レッド・パージ
 米軍占領下の1949年から50年にかけて、日本共産党員とその支持者を職場から追放した占領軍と政府による反共攻撃のこと。官民あわせて数万人の労働者が犠牲になったといわれています。
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2011年05月18日,「赤旗」) (ページトップへ)

句読点/600号の『俳句人』

 600号を迎えた新俳句人連盟機関誌『俳句人』。1946年5月に創立された連盟の65周年記念号でもあります。
 創刊号は、活版。レッドパージのころには、ガリ版での間欠的な発行を余儀なくされたことも。苦難の歴史を経てきた600号に俳句人の感慨が満載です。
 編集長の田中千恵子さんは、滞りなく刊行を続けられたことを「先達が流したぬぐいきれないほどの汗と、現会員・誌友のおしみない献身によるもの」と述べています。
 〈大戦起るこの日のために獄をたまわる〉の句を残した橋本夢道。それに触れ、俳句を詠んで投獄される暗い時代に戻してはならないとの思いで連盟に参加しているという人。5月に開く、初代幹事長・栗林一石路の没後50年・雑草忌の集い(長野)を成功させ、連盟を「新しい高み」へ、と抱負を述べる人―。17音の創造に励む人たちの新たな挑戦に期待したい思いです。
 (紀)
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2011年04月17日,「赤旗」) (ページトップへ)

詩壇/人の支えとなる詩

 『詩人会議』は来年の創立50周年に向け、「先達詩人についての詩人論」連載を開始した。3月号は上手宰氏の「城侑論」、4月号は宮本勝夫氏の「増岡敏和論」が掲載された。この企画の意義は、詩人会議の運動から生まれた作品を、現在の視点から見つめ直すところにあるだろう。
 まず城氏は、詩人会議元運営委員長で、現在は闘病中だが、「泥棒詩」という特異な世界をつくり、若い世代にも大きな影響を与えた。60年代に書かれた一連の「泥棒詩」は、地主と小作の関係を通し、所有とは何かを考えさせる詩で、論理の展開が鋭く、ユーモアもあり、いまなお読者を思考の奥に誘う。
 〈おれの山の木を盗んだな/盗まぬ/それはなんだ/薪にする木だ/どこで切った/山でだ/だれの山だ/だれのか知らぬ/立て札が立っていたろう/憶えていない/(略)/この道はおれの山から降りる道だ/そうかも知れん/隠れていたらこの奥からおまえはでてきた/(略)/切り株を調べにいこう/おれは嫌だ/なぜ嫌だ/切った株はもうないからだ/なぜないのだ/土をかぶせて隠したのだ〉(「二人の山師」より)
 増岡氏は昨年7月、82歳で他界した。広島の原爆で妹を亡くし、自らも二次被ばくしている。戦後は峠三吉と「われらの詩の会」を結成し、反原爆、反朝鮮戦争の闘いを続け、レッドパージを受けた。生涯、労働運動に関わり、詩作を手放さなかった。増岡氏は闘う人であり、自らの詩にも厳しかったが、柔和な人柄で多くの詩人を育てた。『花なき薔薇の傍で』『茜』など14冊の詩集がある。
 この稿を書いている最中、東日本大震災が発生した。原発事故もまだ収束の目途が立っていない。さらに被害が広がらないことを祈るばかりだ。現実的な支援はもちろん、こうしたときこそ、文学の恵みが人の心の支えとなってほしい。
 (柴田三吉・詩人)
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2011年03月25日,「赤旗」) (ページトップへ)

署名を広げて/函館市で総会/治維法国賠同盟

 北海道の治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟道南支部はこのほど、函館市で第17回総会を開きました。
 齋藤幹雄支部長が「情勢はますます同盟の出番になってきている。支部も若返りを図って頑張っていきたい」とあいさつしました。
 治安維持法犠牲者への国家賠償法の制定を求める署名を2000人分集めること、レッド・パージ学習会や、昨年の「戦旗函館支局弾圧80周年講演会」の続きを計画していることなど、活動報告と運動方針が提案され、「治安維持法は国民全体への弾圧であり、もっと視野を広げて訴えよう」「レッド・パージの学習会をぜひやって、記録もしっかりとっておきたい」などの発言が出されました。
 日本共産党の古岡ともや道議候補が来賓あいさつしました。
 新支部長の牧野秀夫さんは「道南支部は結成されて23年。その歴史を踏まえていっそう発展するように努め、いっせい地方選挙でも大いに頑張りたい」と決意をのべました。
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2011年03月12日,「赤旗」) (ページトップへ)

北海道のレッド・パージ被害者/人権救済申し立て/札幌弁護士会に

 日本がアメリカ占領軍の統治下にあった1949〜50年に行われたレッド・パージ(共産党員およびその同調者を公職・企業などから追放すること)による解雇で受けた被害の回復を求めて、北海道の元炭鉱労働者の加藤哲夫さん(81)、舛甚秀男さん(80)が2月28日、人権救済申し立てを札幌弁護士会人権擁護委員会に行いました。
 申し立て後の記者会見で、舛甚さんは「真の民主主義が日本社会に定着しない要因の一つとしてレッド・パージがあり、この被害者への補償を社会に訴えていきたい」と述べ、加藤さんは、レッド・パージ後、住む家もなく、どんな仕事にもつけず、破れた長靴をはいて鉄クズ拾いをした当時の苦境を話し、「何としても名誉回復を果たしたい」と力強く語りました。
 記者からは、全国での運動状況、弁護士会の判断の意味などについて質問があり、同席した佐藤哲之弁護士も交え、答えていました。
 北海道で弁護士会に救済申し立てしたのは安孫子登さん、苗川清一郎さんに続き、この日の2人で4人となります。
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2011年03月03日,「赤旗」) (ページトップへ)

憲法に沿い判決を/レッド・パージ訴訟結審/神戸

 レッド・パージ犠牲者が名誉回復と国家賠償を求めた裁判で10日、神戸地裁で最終弁論がおこなわれ、結審しました。
 50人の傍聴者が集まった法廷で、佐伯雄三弁護団長が陳述。明神勲・北海道教育大学名誉教授の調査と証言により、1960年の最高裁決定の誤りが明らかになったことなどをのべ、「(レッド・パージを)GHQと政府、大企業、最高裁までが協力しあって『共同正犯』のように遂行した歴史的社会的実態は明確」「いまこそ裁判所は、憲法が掲げる正義の理念にもとづき、英断をもって歴史的正義の判決を下されることを心から願う」と訴えました。
 原告の大橋豊さんも陳述し、「裁判官お一人お一人が、この法廷で明らかになった真実を直視され、良心に従い、憲法にもとづく判決をしていただけると信じています。私たちは高齢であり、残された時間はわずかです。生きている間に名誉回復と被害救済を実現していただきますよう英断をお願いします」とのべました。
 判決は5月26日にいい渡されます。
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2011年02月12日,「赤旗」) (ページトップへ)

ひと/映画への思いをつづった本を自費出版した清水義之さん(71)

 国内外の映画3千本を見てきた映画好きです。「神戸出身の映画評論家・淀川長治さんのように、映画の面白さ、楽しさを語る人がもっといていい」。定年退職後、仲間に見どころを紹介する映画の語り部≠始めました。
 10歳の時、神戸新開地の松竹座で「駅馬車」を見たのが映画との出合いです。「美しく果てしない大西部の風景とスピード、アクション。一番好きな映画です」
 就職した会社で、組合活動と社内共働きを理由に不当配転や賃金差別を受けますが、最後まで組合をやめませんでした。「当時見たアメリカ映画にも黒澤映画にも、正義を重んじ、不正義を憤る気概がありました。映画が、私の人間≠つくり、人生を支えてくれたといえるかもしれません」。同じ会社の夫婦の別居配転反対の運動を、当時流行していた8_で撮影。のちに1本の作品に仕上げました。
 鑑賞した映画はすべてノートに記帳し、前売り入場券はアルバムに整理。自他共に認める几帳面さです。
 ライフワークとして、米ハリウッドのレッドパージ(赤狩り)を研究。アメリカには「マジェスティック」「真実の瞬間」など、良心と信念をかけたたたかいを描いた映画が何本もあることに感銘したからです。自費出版した『LIFE WITH CINEMA』(全2冊)には、映画鑑賞団体全国連絡会議の評論賞コンクールで顧問賞を受賞した「ハリウッド・レッドパージ物語」も収録しています。
 文 秋山強志
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2011年02月12日,「赤旗」) (ページトップへ)

レッド・パージ権利回復へ集い/仙台

 仙台弁護士会が、レッド・パージ被害者の人権救済申し立てに対して昨年9月に勧告を出したことを受けて、60年のたたかいを慰労し、権利回復の実現をめざした集いが22日、仙台市で開かれ、50人が参加しました。
 治安維持法被害者国賠同盟県本部の大沼耕治副会長は、レッド・パージは、アメリカ占領軍の命令で法的根拠なく実行されたと述べ、「今も労働者が思想差別され、米軍基地が押し付けられている。この問題の解決は、社会を進める意義を持つ」とあいさつしました。
 人権救済申し立て代理人の小関眞弁護士が勧告の内容を説明。被害者の渡邉愛雄さんは、当時のたたかいを熱く語り、「国と会社と右翼的な労働組合が一緒になって実行した」と訴えました。
 山田忠行弁護士が東北電力レッド・パージ裁判を解説し、最高裁が占領軍の圧力に屈したことを示し、「絶対に許してはならないという運動が必要だ」と強調しました。
 日本共産党の中島康博県委員長が連帯のあいさつをしました。
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2011年01月25日,「赤旗」) (ページトップへ)

朝の風/ある民主書店の60周年

昨年12月5日、長野県上田市の書店平林堂の創業60周年記念パーティーが開催された。同店は長野県下の書店で有数の売り上げを誇り、大手出版社が社員を研修に行かせる程の民主書店である。
 出版関係者はおよそ200人。大阪や京都からの列席者もあった。岩波、講談社、小学館、集英社、角川、新日本出版、大月、信濃毎日出版部などからは社長や幹部社員が来ており、義民研究で知られる横山十四男氏や作家の井出孫六氏ら、いわゆる文化人の顔も多かったが、挨拶の出番はなかった。
 出版界から挨拶したのは日本共産党出版局長であり、民主書店の代表が長野県の書店組合や上田市商工会議所の代表と共に挨拶した。この一事を見ても、並の祝賀会とひと味ちがい、柔軟にして、かつきわめて原則をまもったパーティーだったことがわかる。そこに同店が好成績をあげている秘密がある。
 創業者の平林茂衛氏は「書籍販売は社会運動だよ」と言う。国鉄労働者だった氏は24歳でレッド・パージされ、書店を開き、以来、本を「たたかい」として人様に勧めてきた。氏は問われて語った。「人びとはいまの資本主義の行方を凝視している。これに応える本は必ず売れる」。至言。出版社への要求と聞こえた。
 (千)
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2011年01月17日,「赤旗」)