9日、日本共産党の各衆院比例候補が全国で、「日本共産党の躍進を何としても」と気迫の訴えを行いました。(ブロック名の数字は定数)
営業と暮らしを守る/北海道(8)
日本共産党の、はたやま和也衆院北海道比例候補は、札幌市内の商店街や大型商業施設前などを回り「何としても議席を獲得させてください」と力強く訴えました。
師走の買い物客が行き交う札幌市中央区の狸小路(たぬきこうじ)商店街。はたやま氏は「消費税増税は許しません。増税中止法案を提出します。営業と暮らしを守り、景気を回復させましょう」と訴え、手を振りながらアーケード街を歩きました。
後援会員が「比例は日本共産党へ」とメガホンで訴え、買い物客らに『総選挙政策ダイジェスト版』を手渡すと、若い女性が「がんばってください」と、はたやま候補に駆けよって握手しました。
印鑑店の齊藤清志さん(46)は、「消費税増税、TPP(環太平洋連携協定)、原発に反対する政党を選ぶ。消費税増税をやったら大変。共産党にがんばってほしい」と、店から出てきて、はたやま候補を激励しました。
原発は即ゼロしかない/東北(14)
日本共産党の高橋ちづ子衆院東北比例候補は秋田県入りし、大館市、北秋田市で街頭演説し、「農業、医療、地域経済を破壊するTPP(環太平洋連携協定)断固反対を貫く日本共産党を伸ばしてください」と訴えました。
高橋候補は、「大企業に堂々とものがいえる日本共産党だからこそ、消費税に頼らない道を示すことができる。選挙後の国会に増税中止法案を提出します」「16万人の福島からの避難者にこたえる道は、即時原発ゼロしかない」とのべ、自民党の改憲、国防軍公約と憲法を壊す∴ロ新の会にふれ、「日本共産党は命がけで侵略戦争に反対してきました。これらの党に負けるわけにはいきません。必ず勝たせてください」と訴えました。
演説中、氷点下2度。自営業の女性(65)は「実家は農家、TPPは本当に心配。孫のことを考えると、『原発ただちにゼロ』に共感する。思いが重なる共産党に伸びてほしい」と話しました。
老舗中の老舗の党に/北関東(20)
日本共産党の梅村さえこ衆院北関東比例候補は、茨城県入りし、「北関東ブロックで、何としても党2議席を。塩川鉄也候補とともに、私を国会に送り出してほしい」と支持を訴えました。
牛久市のJR牛久駅西口でマイクを握った梅村候補は「消費税増税は自民、民主、公明の談合政治で強行されたことを思い出してほしい」と聴衆に語りかけ、政党の離合集散劇にもふれながら、「消費税増税にストップをかけ、国民のくらしと憲法を守り、原発即時ゼロを実現するためには、日本共産党を大きくする以外にない」と訴えました。
小林きょうこ衆院茨城3区候補は「農業や医療を壊し、国のあり方を変える日本のTPP(環太平洋連携協定)参加阻止に全力をあげる」と力説しました。
声援を送っていた女性(67)は「消費税は福祉に使うといって導入されたがウソだった。老舗中の老舗、共産党に伸びてほしい」と話していました。
雇用増やして経済再生/東京(17)
日本共産党の宮本徹東京比例候補は、台東、千代田、文京、新宿の各区を精力的に遊説しました。田村智子参院議員が応援に駆けつけました。
上野駅公園口や秋葉原の繁華街などで街頭演説に立った宮本氏は、民主党政権の公約破りで派遣切りや非正規切りに歯止めがかからず、どんどん雇用が失われてきたと指摘。「非正規雇用を正規に切り替えれば経済効果が6・3兆円に上り景気が上向く。国民の懐を温めて日本経済を再生するため、笠井亮候補とともに、私を国会で働かせてください」と力を込めました。
原発問題では、三陸沖でM7・3の地震が起きたことに触れ「活断層だらけの日本で福島の事故を繰り返さないためには、廃炉しかありません」と強調。即時原発ゼロの実現には「財界、アメリカという政治の壁を乗り越えなければならない。企業・団体献金を受け取らない共産党なら政治の圧力に屈せず、『原発なくそう』の思いを実現できます」と訴えました。
政治決断で自然エネへ/南関東(22)
さいとう和子衆院南関東比例候補は、千葉県船橋市内各所で街頭演説しました。JR津田沼駅前では党労働者後援会や地域後援会60人と訴えました。
建設労働者後援会の水垣晋さんは「アスベストを野放しにして職人の命を奪ったのは何十年もの自民党政治のせいです。国民本位の政治へ共産党に倍増してもらわなければ困ります」とマイクで話しました。
さいとう候補は「南関東から志位委員長にとどまらず、2議席、3議席と日本共産党を伸ばしてください」と力を込めました。
遊説中、会社員の青年が「原発は徐々になくすのがいいのでは」と質問。さいとう候補は「東京電力管内で原発は1基も動いていません。廃炉にも時間がかかり、原発ゼロを決断しないと廃炉が先延ばしになり、原発をなくしたい思いは実りません」と話すとともに、自然エネルギーの普及も原発ゼロの政治決断によって広がると説明しました。男性は「頑張ってください」と話しました。
国民と同じ目線で/北陸信越(11)
藤野やすふみ比例候補は、JR長野駅前で50人を超える長野市女性後援会と一緒に街頭宣伝、「原発が集中する北陸信越で何としても原発ゼロの党議席を取り戻す」と訴えました。
藤野候補は「共産党が提案する消費税に頼らない別の道こそ、税収を増やし景気を温める一石二鳥の改革だ」と強調。無駄削減、大企業と大金持ちへの応分の負担と国民の所得を増やす雇用・経済改革こそ今必要なこと、「消費税増税は絶対にやってはならない」と力を込めました。
候補と一緒に訴えた女性後援会員(25)は「共産党以外の党が政党助成金を自分たちはもらいながら、私たちには消費税増税するのはおかしい。国民と同じ目線の共産党を選びたい」と語りました。
子ども2人の母親の後援会員(31)は「子どもたちの未来に原発はいらない。共産党の政策には私たちの願いが一番込められている」と応援しました。
反戦平和に90年一貫/東海(21)
「消費税大増税の3党談合政治に厳しい審判を下しましょう」。浜松市浜北区で日本共産党の佐々木憲昭衆院東海比例候補は、おちあい勝二静岡7区候補と雪のちらつく中、街頭から党への支持を訴えました。
佐々木候補は、大増税で国民に20兆円もの負担押し付けを狙うようなことは戦後政治で一度もなかったと告発し、「自分たちは政党助成金、つまり皆さんの税金を懐に入れながら『消費税増税だ』などと叫ぶのはとんでもない。私は次の国会で増税中止法案を出し、成立に全力をあげます」と訴えました。
佐々木候補は「核兵器保有まで言い出す者もいるが、戦前の暗黒時代への逆戻りを許すわけにはいきません。反戦平和に90年間一貫している共産党へお力添えをいただきたい」と力を込めました。
田中一栄さん(62)は「レッド・パージを受けても主張がぶれなかったことは知っていた。原発や暮らしの問題も信頼している。頑張ってほしい」と話しました。
不当な解雇を許さない/近畿(29)
日本共産党の、こくた恵二衆院近畿比例候補(京都1区重複)は、滋賀県から戻ったあと、1区内の6カ所の演説会場を駆け回り、懸命に訴えました。
仁和小学校(京都市上京区)で、こくた候補は「今度の選挙は、消費税増税を行った張本人の自民党候補か、増税に待ったをかけるために野党共同の要として動いた私を選ぶかの対決だ」と強調。労働者派遣法の原則自由化に反対し、原発立地を阻止してきた党の値打ちを語り、「憲法を守りぬく比例代表は日本共産党、1区は何としても私を勝たせてください」と力を込めました。
日航の不当解雇訴訟の原告が応援演説に立ち、「こくた先生には国土交通委員会で何度も取り上げていただいた。私たちは2年前の大みそかに解雇され、それを聞くやいなや羽田の集会に駆けつけてくれた。解雇された人間と同じ気持ちで、いっしょにたたかってくれている」と述べました。
消費税増税ストップ/中国(11)
日本共産党の石村智子衆院中国ブロック比例候補は、広島市内の12カ所をかけめぐり、街頭演説しました。中区の金座街や本通りの商店街アーケードでは、後援会員ら約40人がプラスターなどを掲げて宣伝。大西オサム衆院広島1区候補とともにハンドマイクで、党議席倍増への支援を訴えました。
石村候補は、広島青年後援会「かえるネットひろしま」が実施していた「政治にやってほしいこと」を尋ねるシールアンケートにも協力しました。
石村候補は、各所で「日本経済を破綻させる消費税増税をストップさせよう」「即時原発ゼロを決断する政治を実現しよう」と呼びかけました。
訴えを聞いて支持を表明した宮中不可止(ふかし)さん(57)=廿日市市=は「選挙になると中国や北朝鮮の共産党を引き合いに出して、日本共産党も同じだと攻撃する動きが出てくるけど、そんな動きが通用しなくなるくらい頑張ってほしい」と語りました。
TPP断固として反対/四国(6)
日本共産党の笹岡優衆院四国ブロック比例候補は、高松市内で街頭宣伝を重ねるとともに、大門実紀史参院議員を迎えての演説会で「四国から何としても議席を」と訴えました。
笹岡候補は、TPP断固反対と即時原発ゼロを強調。「JA香川中央会が、経済懇談会で『TPP推進の背景に財界、アメリカいいなりの政治がある』と言った。響きあうものが広がっている。国民が主人公の立場で頑張る日本共産党を、たたかって広げてほしい」と話しました。
大門議員は、日本共産党の「改革ビジョン」を説明。自民党などの改憲発言を踏まえ、「改憲の動きを許さず9条を守るためにも共産党を大きくしてほしい」と訴えました。河村ただし1区候補、佐伯まもる2区候補、藤田ひとし3区候補が決意を述べました。
参加した坂出市の女性(51)は「あと8日間、まわりの人に共産党の考え方を伝えていきたい」と話しました。
基地も安保もなくそう/九州・沖縄(21)
あかみね政賢衆院九州・沖縄ブロック比例候補(沖縄1区重複)は、党と後援会が主要団地で終日訴える「団地作戦」を展開している那覇市で、早朝からフル回転で気迫の訴えを続けました。
「アメリカいいなり、財界中心の古い自民党型政治を改めない限り、どの党が政権についても国民を裏切った民主党政治と同じ」ときっぱり。普天間基地の即時閉鎖・撤去、オスプレイ配備撤回というオール沖縄≠フ願いを担えるのはどの党かと問いかけ、「日米安保条約をなくし、基地のない平和な日本をと訴える日本共産党が大きくなってこそ基地問題を解決することができます」と支持を呼びかけました。
自民や民主は「候補者の主張は党中央の公約と異なる」(沖縄タイムス5日付社説)と地元紙に「ねじれ」を指摘され、「国民に対する不意打ちにも等しい増税の是非や、民主、自民、公明の3党が密室で決めた政治手法についても、厳しい審判を下す必要があろう」(琉球新報9日付社説)と批判されています。
( 2012年12月10日,「赤旗」) (PageTop)
太平洋戦争中の言論弾圧事件「泊・横浜事件」キーマンで国際政治学者・細川嘉六の没後50周年(1962年没、享年74)と同事件70周年記念の集いが2日、細川出身地の富山県朝日町(旧泊町)で開かれました。
通信社をレッドパージされた人たちが中心に結成したジャパン・プレス・サービス社、細川嘉六ふるさと研究会が共催したもの。
集いには、脇四計夫朝日町長が出席。小野新一(元横浜事件再審裁判代理請求人、事件被害者の小野康人の次男)、橋本進(元横浜事件再審裁判を支援する会事務局、元『中央公論』次長)、阿部不二子(細川嘉六ふるさと研究会顧問)の各氏らが、細川にまつわる思い出や「事件」を風化させない活動などについて語りました。
参加者は、憲法を改悪して自衛隊を国防軍にし、核兵器保有を研究するなどの政策を掲げる勢力を批判し、真の政治革新をめざす勢力を総選挙で前進させることが細川の遺志を継ぐことになる―と語り合いました。
細川は1942年夏、若い研究者や編集者を泊の料亭に招き食事を振る舞いました。それが神奈川県特高に「共産党再建準備会議」とされ、「横浜事件」と総称される弾圧へと発展しました。
(2012年12月06日,「赤旗」) (PageTop)
第37回民主文学関西研究集会が11月17、18日に神戸市で開催された。17日と翌日の全体会にまたがった講演は樋口一葉の評伝で知られる文芸評論家の澤田章子さん(日本民主主義文学会常任幹事)。
澤田さんは冒頭でプロレタリア文学の作家松田解子が翻案した宮本百合子の言葉「書けばこそ在る」をもとに書くことの大切さを語り、「小説を書く意味」(演題)を具体例をあげながらほぼ全方位から明らかにし、最後に夏目漱石の講演「私の個人主義」を例に時代に立ち向かう精神を近代文学から継承し発展させようと訴えた。わかりやすく行き届いた話であった。18日の作品合評会は評論を含む4分科会でおのおの3作品を批評した。
高齢の山田郁子さん(同文学会会員)の小説「螺鈿の時計」は朝鮮戦争が始まった1950年のジェーン台風による大阪下町の海水害の様相を正確に描き、同年のレッド・パージを具体的かつ克明に記したわずか25枚の作品。主人公は高校中退、18歳の女性で公務員労働組合大阪地方本部の書記である。作品は戦時下資本主義の横暴による地盤沈下に起因する人災の海水害(原発・津波被害を連想させる)や米占領軍の正体にも触れた現代史になっている。
あたたかで厳しさもある集会だった。
(千)
( 2012年12月04日,「赤旗」) (PageTop)
レッド・パージ被害者が国家賠償を求めてたたかっている訴訟の控訴審判決(10月24日)が大阪高裁でありました。原告・弁護団は「不当な判決だ」として最高裁に上告し、新たなたたかいをすすめています。たたかいに込めた思いを弁護団長の佐伯雄三弁護士に書いてもらいました。
○なぜ国家賠償か
レッド・パージとは、一般的には1950年に共産党員やその支持者をそのことを唯一の理由として、勤務先の企業や国の機関から解雇・免職処分をしたことをさします。私たちはそれだけにとどまらず、解雇・免職処分にいたるまでの国の政策、そして解雇・免職処分後も社会から抹殺しようとする国の一連の政策全体をとらえてレッド・パージ被害とよんでいます。
被害者は3万人とも4万人ともいわれています。神戸市在住の3氏(このうち2氏は90歳をこえています)が、国を相手にその責任を認めさせようと国家賠償請求訴訟を提起していました。一審の神戸地裁は2011年5月26日に3氏の訴えを全面的に退ける判決を出し、さる10月24日に大阪高裁も一審同様の敗訴判決を出しました。
○人権侵害の事実
国は、レッド・パージで解雇・免職した人たちを反社会的分子であるとして宣伝し、仕事につくことさえ妨害してきました。私たちは、国のこうした政策は社会的殺人行為であるとさえいうべきものであり、憲法違反の人権侵害の最たるものであると主張してきました。しかし裁判所は、レッド・パージ被害者に対する厳然たる人権侵害の事実に目を向けることさえしませんでした。
裁判所は、レッド・パージは占領下にGHQ(連合国軍総司令部)の命令によってなされたのであり、当時はこれに従う義務があったのであるから、何ら問題ではないとの立場です。
しかし、仮に占領下ではやむをえなかったとしても、1952年4月28日に講和条約が発効して独立を回復したあとは、国はレッド・パージ被害者を救済すべき義務があると私たちは主張しました。裁判所はこの主張も排斥しました。
○世論の支援得て
レッド・パージ被害者は、毎年国会に被害救済を求める請願をしてきました。私たちは控訴審で、請願を国会がどのように処理したのか、請願法で定めるように「誠実に処理」したのか、について調査嘱託の申し立てをしました。大阪高裁はこの申し立てを採用しました。
その結果、国会は実質的な審議を一切しないまま「審議未了」で終了させていることが明らかとなりました。また、日本弁護士連合会が国に対し被害回復措置をとるよう勧告していましたが、これについても国は「検討の有無については承知していない」という無責任な対応をしていたことも明らかとなりました。
講和条約発効後、ただちに公職追放が解除された戦争犯罪(容疑)者、戦争協力者らの事例と比較すれば、その理不尽さ、非情さは一目瞭然です。私たちはそのことも訴えましたが、控訴審判決でも一顧だにされませんでした。
3氏は最高裁に上告しました。私たちはひきつづき、国が日弁連勧告の趣旨に従ってレッド・パージ被害者を救済するためのしかるべき措置をとることを求めていきます。多くの国民世論の支援を得てそれが早期に実現されるよう力を尽くしていきたいと思います。
( 2012年11月23日,「赤旗」) (PageTop)
戦後の連合国軍総司令部(GHQ)の占領時代に、日本共産党員であることなどを理由に公職や企業から追放された「レッド・パージ」で被害を受けた人たちの名誉回復と補償を求めて運動している「北海道レッド・パージ懇話会」はこのほど、札幌市で役員会を開催しました。
10月24日に大阪高裁で、兵庫県の男性3人が「レッド・パージ」の国家賠償と名誉回復を求めた裁判で、訴えが却下されたもとでの取り組みについて討議しました。
(2012年11月22日,「赤旗」) (PageTop)
レッド・パージ反対全国連絡センターの大橋豊代表委員、鈴木章治事務局長代行ら役員は13日、日本共産党本部を訪ね、大阪高裁でのレッド・パージ国家賠償請求訴訟の判決(10月24日)を受けて、訴訟への支援のお礼と最高裁への上告に伴う引き続く支援の要請をしました。
党側から、有坂哲夫国民運動委員会事務局長、水戸正男労働局長らが応対しました。
大橋代表委員らは、原告の被害と人権侵害の実情の訴えを棄却した大阪高裁の「不当判決」に対する市田忠義書記局長の抗議談話は原告、被害者に激励を与えたと謝意を表明。原告・弁護団が5日に上告したことを報告し、支援者を増やし広げる運動、レッド・パージ反対運動の地方組織づくり、国に名誉回復と国家賠償を求める運動での引き続く党の協力を要請しました。
また、「総選挙での日本共産党の躍進が国家賠償訴訟の運動の前進の大きな力になるものであり頑張りたい」との表明がありました。
有坂氏らは「要請についてはよく検討して、応えられるよう尽力したい」とのべ、「運動の前進へ日本共産党の躍進をかちとるため、ともに奮闘しましょう」と訴えました。
( 2012年11月14日,「赤旗」) (PageTop)
「レッド・パージ反対尼崎連絡会」は5日、レッド・パージ被害者の体験を聞く4回目の学習会を開きました。
同会代表で元日本共産党県議の安田義(ただし)氏が自らの体験を語りました。1947年に東洋精機に入社し、「会社があってこそ組合員の暮らしがある」との総同盟の考え方にたいし、常に組合員の生活を擁護する立場で組合運動に参加し、労働者の支持を得て書記長になった1951年にレッド・パージで解雇され、裁判闘争をたたかったことを述懐しました。
会社と組合からの激しい弾圧のなか、人生の教訓として「上にだけ目を向けて従うのではなく、大衆に目を向けて活動すること」を学んだことや、入社1年後に参加した労働学校が労働基準監督署主催であったこと、米軍の将校や後の日本共産党衆院議員の三谷秀治氏が講師を務めていたなどのエピソードをまじえて話しました。
最高裁で争われるレッド・パージ国賠訴訟の勝利に向けた運動についても協議し一審・二審の判決、日弁連勧告、明神勲・北海道教育大学名誉教授の証言などを通してレッド・パージの不当性を広く知ってもらおうと話し合いました。
(2012年11月08日,「赤旗」) (PageTop)
レッド・パージの犠牲者、大橋豊さん(82)、川崎義啓さん(95)、安原清次郎さん(91)=いずれも神戸市=が国家賠償を求めた訴訟で大橋さんらは5日、10月24日の大阪高裁判決を不服として最高裁に上告しました。
大阪高裁判決は、「レッド・パージはGHQの強い指示でおこなわれ、日本政府は服従する義務を課せられていた」などとして救済すべき政府の作為義務を認めず、一審判決を踏襲して大橋さんらの請求を棄却しました。
弁護団事務局長の松山秀樹弁護士は、「高裁はレッド・パージの被害を直視せず、従来の国の政策を追認する判断を下しましたが、最高裁では被害の実態をふまえ、思想・良心の自由の保障という憲法の原則にそった結論が出るように全国の支援も受けて頑張りたい」と語っています。
( 2012年11月08日,「赤旗」) (PageTop)
日本弁護士連合会(山岸憲司会長)は1日、レッド・パージ国家賠償請求訴訟大阪高裁判決(10月24日)を受けて、政府に対し「日弁連の勧告の趣旨をふまえて被害回復のため適切な措置を求める」とする会長談話を発表しました。
大阪高裁の判決は、政府がレッド・パージを主導した証拠はないなどとして、免職・解雇を受けた原告3人の国家賠償法上の国の責任を否定しています。
談話では、日弁連は原告の人権救済の申し立てについて、2度にわたりレッド・パージは憲法で保障された思想良心の自由、法の下の平等という民主主義の根幹に関わる人権侵害であり、速やかに、「被害回復のための名誉回復や補償を含めた措置を講じるよう」勧告してきたと強調。勧告について国が何らの検討も行ってこなかったことが訴訟手続きで明らかになったとして、遺憾の意を表明し改めて政府の適切な措置を求めています。
( 2012年11月04日,「赤旗」) (PageTop)
神奈川県レッド・パージ反対同盟は23日、横浜市内で第12回総会と記念講演を開催しました。
加藤桝治事務局長が活動報告で、被害者の名誉回復と国家補償を求める7727人分の署名を集めて国会請願し、冊子『証言でつづるレッド・パージ60年』の普及に取り組んだことを紹介。日本共産党や各界との共同を広げる活動の必要性を強調しました。
代表委員の金子圭之さんは、レッド・パージにかかわって7年間で2冊のリポートを出し、各方面から激励が多く寄せられたことを報告しました。
討論では5人が発言。当時の被害を生々しく語り、たたかいの勝利に向けた熱い決意を訴えました。
総会後、元衆院議員の松本善明弁護士が「戦後謀略とレッドパージ」と題して記念講演し、75人が参加しました。共産党の畑野君枝衆院南関東比例候補が参加しました。
(2012年11月03日,「赤旗」) (PageTop)
オスプレイ配備と運用、米兵による女性暴行事件―。米軍基地をめぐる最近の重大な事態への対応は、結局のところアメリカの裁量に委ねる形になった。この国の対米従属はどこまで深いのだろうか。
国土に長期にわたって外国軍隊の基地を置き、その地位に特権を与えている異常な状態が、どのようにつくられたか、その原点を考える上で興味深いテレビドラマが10月初旬まで放送された。
NHK土曜ドラマ「負けて、勝つ〜戦後を創った男・吉田茂〜」である。(全5回・最終回は10月6日)
必要な検証を
歴史上の人物を描くドラマに対しては、二つの態度が必要である。ドラマの中の主人公の言動が、歴史的事実から逸脱していないかを検証すること、もうひとつは、描かれた人物像自体が現代にどのようなメッセージとなっているかを見極めることである。
例えば、第1回の放送で、吉田はマッカーサーに対し、昭和天皇の戦争責任について、「陛下に責任はありません。開戦は軍部の独走によるものです」と主張するシーンがある。さらに吉田は「日本国民の皇室への尊敬の念はこの国の歴史、伝統、文化に根ざす規範なのです」と言う。
ドラマが全体として吉田を人間味溢れる政治家として肯定的に描いているため、このセリフもまた正しい主張と印象づけられている。
戦前から天皇を尊崇してきた吉田について、このようなシーンが創られても違和感はないが、近年の研究で、天皇の責任についてさまざまな評価が提起されている現在、吉田の主張を現代へのメッセージとして無条件に肯定的に伝えることには疑問をもたざるを得ない。
従属を正当化
同じことが旧安保条約の締結にかかわるシーンでも見られる。講和後、無期限に米軍の駐留を認める条約と、米軍の地位と活動に特権を与える屈辱的な行政協定が、吉田内閣によって締結されたが、第4回では、「アメリカに頼るほかない」「それが日本の現実なのだ」という趣旨の吉田のセリフが随所にちりばめられている。
当時、吉田がそう考えたことは歴史の事実に反しないが、それが吉田を称えるドラマのメッセージとして肯定的に伝えられるのは問題である。この深い対米従属の体制は現在も続き、国民の中に有力な批判もあるからだ。
いまの時期に
ドラマ自体は、さすがに気鋭の脚本家坂元裕二によるだけあって、5回分を飽きさせず見せる力はたいしたものである。しかし、描かれた吉田像には偏りが否めない。
番組では吉田は反戦、反軍の政治家のように美化されているが、外交官として中国で勤務していた時代、満州(中国東北部)を日本の支配下に置くことを主張し、そのために軍事力による威嚇も否定しなかったという研究もある。
戦後も、共産党の非合法化をもくろみ、GHQの指示を受けて大規模なレッドパージも強行した。労働運動の参加者を「不逞の輩」と非難し、全面講和を主張する識者を「曲学阿世の徒」と罵った。また、アジアへの侵略の反省の言もほとんどみられないと指摘されている。ドラマは、こうした戦前からの政治エリートとしての反動的側面を描いていない。
衆院選を前に復古的保守的政治家の活動が目立つ時期、総じてこのドラマは彼らを励まし、国民の対米従属肯定の意識を下支えする効果を持ったのではないだろうか。
制作者は、純粋に、魅力的な政治家とその時代を描こうとしただろうから、この見方はいささか酷かもしれない。しかし、放送時期によっては、番組が強い政治的メッセージを持ってしまうこともまた皮肉な真実なのである。
(とざき・けんじ)
( 2012年11月02日,「赤旗」) (PageTop)
前進座の中心的俳優が、16年間に発表した文章・講演をまとめました。7年がかりの『平家物語』完全朗読CD化、「天平の甍(いらか)」日中公演など多彩な挑戦の中での出あいが満載です。
演じるとは「役の心に添うこと」と教えてくれた故・北林谷栄さん、レッドパージの困難な時代など、劇団を支えてくれた各地の演劇鑑賞団体…。文化をともに創る人への敬意と連帯があふれます。
「今朝の露に」は、初心を意味する座歌の詞。芝居への初心が見えます。
(新日本出版社 2000円)
(2012年10月28日,「赤旗」) (PageTop)
政治・経済
◆志位委員長が野田首相と会談 日本共産党の志位和夫委員長が野田佳彦首相と会談し、論戦で争点を明瞭にし、すみやかな解散・総選挙をと求める(22日)
◆9月の貿易赤字が過去最大 財務省が発表した9月の貿易統計速報(通関ベース)によると、輸出額から輸入額を差し引いた貿易収支は5586億円の赤字となり、9月の赤字では過去最大を記録(22日)
◆田中法相が辞任 暴力団との関係などが取りざたされていた田中慶秋法相が辞表提出。野田佳彦首相は「体調不良」を理由に受理。後任は滝実元法相(23日)
◆石原都知事が辞職表明 石原慎太郎東京都知事が知事辞職と国政新党結成を表明。「たちあがれ日本」のほか、「日本維新の会」との連携も視野に検討(25日)
社会・国民運動
◆誤認逮捕で警察が謝罪 遠隔操作ウイルスに感染したパソコンから脅迫や犯行予告が書き込まれた事件で、警視庁は逮捕した福岡市の男性(28)に、大阪府警はアニメ演出家(43)に対して、誤認逮捕だったことを認め、謝罪(21日)
◆オスプレイ配備反対で集会・デモ 「オスプレイ配備撤回を求める中央集会」が東京・日比谷野外音楽堂で開かれ2000人が参加。日本共産党の志位和夫委員長があいさつ。39都道府県で集会・デモ、街頭宣伝(23日)(写真)
◆レッド・パージ国賠訴訟控訴審で不当判決 戦後、日本共産党員と支持者ら数万人が職場から追放を受けたレッド・パージの被害救済を求めた国家賠償訴訟で、大阪高裁(西村則夫裁判長)は、大橋豊さん(82)、川崎義啓さん(95)、安原清次郎さん(91)の犠牲者3人の控訴を棄却する不当判決(24日)
◆4原発、30`超も避難域 原子力規制委員会は福島原発なみの事故が起きた場合の放射性物質の拡散シミュレーションを公表。東京電力柏崎刈羽原発など4原発で避難範囲が30`を超える(24日)
国際
◆ドイツ、州都初の脱原発派候補が当選 ドイツ南西部バーデン・ビュルテンベルク州の州都シュツットガルトの市長選で、脱原発を主張する「90年連合・緑の党」のフリッツ・クーン氏が当選。州都での同党市長誕生は初(21日)
◆米大統領選、最後の公開テレビ討論会 米大統領選の投票(11月6日)前最後となる公開テレビ討論会で、オバマ大統領とロムニー前マサチューセッツ州知事の両候補が外交・安全保障をテーマに論戦(22日)
◆核非合法化へ34カ国が声明、日本不参加 国連総会第1委員会(軍縮・国際安全保障問題)で、欧州、南米、東南アジア、アフリカなどの34カ国が核兵器の非合法化を求める共同声明を発表。日本は共同声明への参加を拒否(22日)
◆シリア一時停戦合意 シリア内戦の停戦調停を進めるブラヒミ国連・アラブ連盟合同特別代表が、犠牲祭(イスラム教の祭日)期間中の停戦案について、アサド政権と反政府組織の双方が受け入れを表明したと発表(24日)
( 2012年10月28日,「赤旗」) (PageTop)
レッド・パージ国賠訴訟の大阪高裁控訴審判決について、日本共産党の市田忠義書記局長は24日、次のような談話を発表しました。
◇
大阪高等裁判所は、レッド・パージ被害者3人が、国に謝罪と名誉回復、損害賠償を求めた控訴を棄却した。レッド・パージは、占領軍の示唆のもと、国が強行した憲法と世界人権宣言、ポツダム宣言に反する戦後史における重大な人権侵害である。高裁では、政府が、日弁連および各地の弁護士会から度重なる人権救済勧告を受けながら、それをまともに検討さえしてこなかったことも明らかになった。にもかかわらず、判決は、原告のこうむった深刻な被害の実態を直視せず、サンフランシスコ講和条約発効後、今日に至るまでなんらの救済措置を取ってこなかった国を免罪するきわめて不当なものである。
諸外国では、同様の人権侵害の誤りが明確にされ救済措置が取られてきた。レッド・パージ被害者の名誉回復と補償は、自由と民主主義を確立する上で今日的課題である。国は、高齢となった被害者の「生きているうちに名誉回復を」の要求に応えるべきである。日本共産党はその実現のためにいっそう力をつくす決意である。
( 2012年10月25日,「赤旗」) (PageTop)
第2次世界大戦後に日本共産党員と支持者数万人が職場から追放されたレッド・パージの犠牲者、大橋豊さん(82)、川崎義啓さん(95)、安原清次郎さん(91)=いずれも神戸市=が国家賠償を求めた訴訟の控訴審で24日、大阪高裁(西村則夫裁判長)は大橋さんらの控訴を棄却する不当判決を出しました。
判決は、政府はレッド・パージによる被害を救済すべき作為義務はないとした一審の神戸地裁判決を踏襲。一審判決と同様、犯罪者扱いされ、困窮を強いられるなどいまも続く人権侵害の事実にいっさいふれていません。
原告側がレッド・パージへの日本政府の積極的な関与を明らかにし、救済の作為義務があると主張してきたことについて、判決は、作為義務の発生は「政府が実質的に当該レッド・パージを主導し、連合国最高司令官の強大な権限を積極的に利用したような場合」に限定し、その証拠はないとして退けました。
また、大阪高裁による調査嘱託の結果、犠牲者の名誉回復などを求める国会請願は1990年以降173件あり、すべて実質的審議が全くないまま「審議未了」で葬られたことが判明しましたが、「立法府に委ねられた裁量の範囲」を逸脱していないとしています。
会見した佐伯雄三弁護団長は「評価できる点はいっさいない。このまま放置するわけにはいかない。上告し、世論に訴えてたたかっていく」と表明。大橋さんは「司法による救済を期待したが裏切られた。勝つまでやります」、川崎さんは「論外です」、安原さんは「最高裁で結論が出るまで生きる」と語りました。
( 2012年10月25日,「赤旗」) (PageTop)
いまから60年前の1952年10月13日、労働者教育協会(労教協)が創立された。今野武雄、宮川實などによって準備がすすめられ、大山郁夫、末川博などを発起人代表として発足したのである。
なぜ学習教育運動というものが、この時期に生まれたのであろうか。それは労働運動の担い手=活動家の育成を時代が求めていたからである。
この時期は、下山・三鷹・松川などの「謀略」事件やレッドパージなどの反動攻勢によって労働運動の階級的潮流が大きく後退しており、運動の再建とその担い手の育成が重要な階級闘争の課題になっていたのである。この課題を真正面から受けとめ、学習教育運動が開始された。月刊雑誌『学習の友』が創刊され、職場、地域に学習サークルが組織されていった。
やがて、1960年代になると、大衆的な学習教育運動に発展する。すべての都道府県に学習組織がつくられ、各地で労働学校が開催され、『学習の友』も急速に拡大し、勤労者通信大学も創設された。地域や職場に根を張った大衆的な運動になり、その中から多くの民主的活動家が誕生した。
仲間とともに、真実を学び、自分たちの苦しみの根源を理解するなら、人間は必ずかわるということを運動の発展が示したのである。
70年代後半から80年代にかけての歴史の逆流のなかで、大衆的学習教育運動は、さまざまな困難とたたかいながら、労働運動の発展に大きく貢献した。
とりわけ、労働運動の右翼的再編とたたかいながら、階級的前進をめざした統一労組懇運動への貢献は特筆されるものであった。統一労組懇主催の学習交流集会への協賛、『学習の友』別冊による労働戦線問題、臨調「行革」問題などの学習テキストの大量普及、また各産別の『組合員教科書』づくりなど多面的な領域で協力共同の活動が行われ、新しいナショナルセンターである全労連結成に挑む多くの活動家たちのなかに理論的確信と勇気を生み出していったのである。
いま、労教協と学習教育運動は主に二つのことに力を入れている。一つは、「安保を軸」とする総学習運動であり、もう一つは次世代育成に貢献する運動である。総学習運動は安保をやめて、憲法を活かした平和で安全な日本社会≠めざす情勢学習の運動であり、「安保と憲法に強い活動家」の育成もめざしている。
次世代育成は、労働運動の後継者を、とりわけ労働組合の後継者を育成するために、学習教育のあり方や学習内容を労働組合と共同して研究し、交流する運動である。
労働者教育協会と学習教育運動の60年は、労働運動と統一戦線運動に常に寄り添い、その担い手づくりに学習教育を通じて貢献する波乱に満ちた歴史のドラマであった。
(やまだ・たかお 労働者教育協会会長・現代史家)
◇
労働者教育協会創立60周年記念講演会 11月10日(土)午後2時 「戦後労働運動と労働者教育」 講演・山田敬男会長 記念レセプション 午後5時 いずれも全労連会館2階ホール(東京都文京区湯島)
( 2012年10月22日,「赤旗」) (PageTop)
日本共産党国会議員団は16日、レッド・パージ反対全国連絡センターの役員からレッド・パージ反対のたたかいで要請を受け、国会内で懇談しました。
同センターから鈴木章治事務局長代行ら5人が参加し、党国会議員団から井上哲士参院議員、塩川鉄也、吉井英勝両衆院議員、仁比聡平前参院議員が出席しました。
同センターの要請は、官房長官や衆参議長との面会の要請、「レッド・パージ被害者救済法案要綱」づくりへの援助について議員団の協力を得たいというものです。
懇談では、兵庫の被害者が国家賠償を求めて起こしている裁判の控訴審判決(大阪高裁)が24日に予定されるなか、レッド・パージの名誉回復と国家賠償を求めるたたかいをどう前進させるかについて意見交換しました。
2008年の日弁連の被害者の人権救済を求める勧告に当時の河村建夫官房長官が「検討する」と述べたにもかかわらず、大阪高裁の調査嘱託に、政府が「検討の有無すら知らない」と回答しており、レッド・パージ被害者への国の不誠実な態度をどう打ち破っていくかについて議論されました。
「救済法案要綱」についても、レッド・パージの実態や名誉回復と国家賠償の必要性、救済の対象を分かりやすく示すことが運動の前進につながると話し合われました。
( 2012年10月18日,「赤旗」) (PageTop)
レッドパージ反対埼玉県連絡会の結成総会を兼ねた「レッドパージを語り継ぐつどい」が6日、さいたま市の市民会館うらわで開かれ、約90人が参加しました。
弁護士で元衆院議員の松本善明氏が、レッドパージ反対闘争の新たな局面について講演しました。思想・信条の自由はいかなる状況でも侵害されてはならないとした、日本弁護士連合会のレッドパージ被害者の人権救済勧告を紹介し、勧告に基づく国家賠償請求裁判がたたかわれている状況を語りました。
松本氏は裁判の内容について、レッドパージに対する国の責任を新証拠で追及していることや、事件当時と違い日本が国際人権規約を批准していること、外国での同様の差別事件は救済が行われていることなど内外の到達点を踏まえてたたかいが進められていると強調。裁判勝利のために「全国的な大闘争にし、国民の世論に訴えることが必要だ」と話しました。
会場から約10人の被害者が発言し、「人権を守るために名誉を回復したい」「生き証人として頑張る」などと語りました。
レッドパージ反対全国連絡センターの鈴木章治事務局長代行、埼労連の宍戸出事務局長、日本共産党の小松崎久仁夫県委員長があいさつしました。
(2012年10月07日,「赤旗」) (PageTop)
アメリカ占領下の日本で1949年から50年にかけて、日本共産党員と支持者を職場から追放する戦後最大の人権侵害事件、レッドパージが全国で吹き荒れました。全国で推定4万人(レッドパージ反対全国連絡センター調べ)が職場を追われました。レッドパージ反対埼玉県連絡会の結成に奔走する、権田圭助(ごんだ・けいすけ)さん(83)=ふじみ野市在住、全国連絡センター事務局員=に聞きました。
(埼玉県・川嶋猛)
私は、47年10月に関東配電(現・東京電力)熊谷営業所に入社し、民間産業で最大の勢力だった日本電気産業労働組合(電産)に加わりました。ところが50年8月、突然解雇されました。レッドパージされた仲間と抗議しましたが、職場にも入れず、厳しいたたかいでした。「企業破壊者」と、いわれのない犯罪者のような扱いを受け、警察からもつけ狙われました。
埼玉の電産関係では約60人が首切りに遭いました。電産民主化同盟派は、共産党支持を曲げなかった労働者を組合から排除し、レッドパージに積極的に加担しました。
24人の仲間と解雇撤回の裁判をたたかいました。苦しい生活のなか最高裁までがんばりましたが、勝てませんでした。一方、アメリカ占領が終わってからも続いた企業の思想差別に対し、後輩にあたる労働者が「人権闘争」をたたかい、そちらは最終的に勝利しています。
レッドパージについて、国・企業は誤りを認めようとしません。それは、政府、財界、御用組合、司法が一体となってレッドパージを行ってきたからです。
レッドパージ被害者の名誉回復が実現すれば、今後の人権・民主主義を大きく前進させることができます。
日本弁護士連合会は2010年に「職場の思想・良心の自由、法の下の平等などの保障は、過去の問題ではなく現代的な人権課題」だとして、政府に被害者の人権救済を勧告しています。
被害者は高齢化しており、一日も早く名誉回復・国家賠償を勝ち取りたい。ご支援を心から呼びかけます。
6日に結成のつどい
レッドパージ反対埼玉県連絡会は6日結成します。同日午後1時半から、さいたま市の市民会館うらわで「レッドパージを語り継ぐつどい」が開かれ、その中で連絡会の結成が確認されます。つどいでは、松本善明元衆院議員の講演や被害者の発言を予定しています。問い合わせは、日本共産党県委員会048(658)5551まで。
(2012年10月04日,「赤旗」) (PageTop)
レッド・パージで多くの労働者を職場から追い出した国の責任を問い、名誉回復と国家賠償を求めた訴訟の控訴審で大阪高裁は、10月24日に判決を出そうとしています。レッド・パージ反対全国連絡センターの呼びかけに応え「公正判決を求める要請署名」に取り組んでいるレッド・パージ反対兵庫県懇談会の小西武雄さんに活動をリポートしてもらいました。
小西武雄さん活動リポート
「生きているうちに名誉回復を」と訴えてきた神戸市の3人の原告(被害者)は結審となった7月25日の法廷で意見陳述しそれぞれ苦難の人生を述懐しました。
「私はレッド・パージの被害者です。名誉が回復されるまで死ねません」(川崎義啓さん=95歳)
「解雇後、小さな会社で働いたが親会社に『安原がいる』といわれ解雇。河原で石を拾い商店街で石を売って生活した」(安原清次郎さん=91歳)
「私に期待していた母は免職を知り、父の位牌(いはい)をもって『みんなを殺して出て行け』と叫び、その後出家した」(大橋豊さん=82歳)
弁護団は、原告の請求を棄却した神戸地裁判決は被害の実態を直視していないと主張。レッド・パージはアメリカ占領政策を背景に日本政府と財界が、ポツダム宣言などを無視し強行した違法なものだったとのべ、「最高裁決定を乗り越え、高い憲法感覚と熱い人権意識、そして法の良心に基づく正しい判決を心から願う」と訴えました。
レッド・パージ反対全国連絡センターは、今月末までに公正判決を求める要請署名を2万人集めようと呼びかけています。(18日現在、1万4000人)
呼びかけに応えて日本国民救援会が7月末の全国大会で「戦後最大の人権侵害・弾圧事件」として支援を決議しました。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟は、各都道府県組織が目標を決め、取り組むなかで日々署名が寄せられ、運動が広がっています。
私たちは、この裁判を日本政府の人権侵害、戦後史の「一大汚点」を正すとともに思想差別克服の一翼を担う今日的意義をもったたたかいとして頑張る決意です。
(注)署名用紙についての問い合わせはレッド・パージ反対全国連絡センター(рO3・3576・3755)へ。
( 2012年09月28日,「赤旗」) (PageTop)
「レッド・パージ被害者の名誉回復と補償を求める北海道懇話会」の第3回総会がこのほど、札幌市内で行われました。
総会で舛甚(ますじん)秀男事務局長が、レッド・パージ犠牲者の名誉回復と国家賠償を求める署名4000をやり切ることなど運動課題を提起し採択されました。
総会に先立ち、レッド・パージ被害者の組織づくりに尽力してきた佐々木武志さんが「北海道におけるレッド・パージの実相とたたかい」と題して講演しました。
(2012年09月13日,「赤旗」) (PageTop)
「GHQの権威たてに日本政府が推進」と批判
京都弁護士会は、レッド・パージが名誉を侵害し被害を与えたとして、野田首相に当事者の名誉回復と補償措置を勧告しました(8月20日)。勧告書の特徴などについて「レッド・パージ当事者と関係者の交流懇話会」の大平勲事務局長にリポートしてもらいました。
京都弁護士会から、野田首相あての「勧告書」が書留郵便で自宅に届きました。2010年10月7日、レッド・パージ当事者7人が同弁護士会に申し立てを行ったことに対する回答です。
喜びと驚きが交錯するなかで開封しました。というのも、その5日前の「京都新聞」で「占領の記憶」シリーズの2回目として申立人の清水千鶴さん(88)の記事が紹介されていました。そのなかで、「証拠書類は少なく弁護士会の結論はまだ出ていない」と報道されていたからです。
全国で6件目
申し立て前後から、当事者や関係者が2、3カ月ごとに「レッド・パージ当事者と関係者の交流懇話会」を開いてきましたが、今年に入って世話役の高橋昭三さん(83)、河本清さん(86)がお亡くなりになり、90歳前後の他の方々も外出困難となり、昨年の4月を最後に開けていません。
事務局の私が、当事者に代わって弁護士会へ赴き、資料検索や早期の勧告要請を行ってきました。
京都弁護士会の「勧告」は全国で6件目(日弁連2回、横浜、長崎、仙台に次ぐ)で、「日弁連勧告」を踏襲するものですが、「共産党員または同調者であることを理由に名誉を侵害され、生涯にわたる著しい被害に対して、国は可及的速やかに名誉回復や補償措置を講ずる」ことを首相に勧告しています。
特徴的なことは、レッド・パージは「GHQ(連合国軍総司令部)の指令による超憲法的判断」としてきた政府や司法の見解を厳しく批判し、「日本政府はGHQの権威を利用して積極的にパージを推進した」とのべていることです。
不当が「放置」
私は、京都教職員組合委員長、京都総評議長、国民救援会府本部会長として「関西電力賃金差別闘争」などの闘争をその肩書のもとに支援してきましたが、このレッド・パージ支援は派遣切りの「ジヤトコ裁判」(今年3月勝利和解)支援とともに個人的決意でとりくみました。
そのきっかけとなったのは、当事者の関谷健さん(京都市立高校で1949年にパージ)の苦労話を、私が事務局長をしている京都教育センターの研究集会(09年12月)でお聞きしたことからです。関谷さんは当時1人で国会請願署名を集めておられ、なぜこんな不当なことが「放置」されているのか納得いかず、支援を決意しました。
そのころ、地域政治新聞「京都民報」がパージ被害者紹介を連載しており、担当した記者とともに「該当者探し」をしました。記録や労働組合の情報から20人ほどの関係者と連絡が取れ、翌年6月に「レッド・パージ体験者から学ぶ会」の実行委員会(治安維持法犠牲者国会賠償要求同盟、日本共産党、日本民主青年同盟、国民救援会など)を結成。08年の日弁連勧告に副会長として中心的にかかわられた村山晃弁護士(京都第一法律事務所)の講演と「当事者の声を聞く」学習会を開きました。
全国と連携も
当事者のなかには「裁判を」との声もありましたが、弁護士会への申し立てで合意。「どうせダメだ」「寝た子を起こすようなもの」というとらえ方もあり、申立人確定にはかなり苦労しました。
申し立てに当たっては金子圭之氏(レッド・パージ反対全国連絡センター事務局長)の激励をいただきました。
この1年ほどは、私が国会請願行動や神戸の被害者による裁判の傍聴に参加するぐらいで署名集約(救援会などを中心に約2000人)以外は組織的には動きが取れないでいました。この「勧告」を機に学習会開催や全国センターと連携した社会的アピールを推進したいと思っています。
( 2012年09月05日,「赤旗」) (PageTop)
戦後、日本共産党員や支持者を理由に職場から追放された「レッド・パージ」で、京都で被害にあった7人から、人権救済の申し立て(2010年10月7日)を受けていた京都弁護士会が、名誉回復や救済補償を国に求める「勧告書」を出し、野田佳彦首相に送付したことをこのほど明らかにしました。
「勧告書」は、「重大な人権侵害行為」と明言。当時GHQ(連合国軍総司令部)の指示があったとはいえ、日本政府が積極的に関与した上、被害回復措置を放置してきたことをあげ、「国の責任は重い」と断じ、速やかに名誉回復や補償を行うよう求めています。
勧告は日弁連が2回行い、全国では横浜、長崎、仙台の弁護士会に次ぐもの。
支援する会の大平勲事務局長は、申立人7人中2人が今年亡くなり多くが外出困難になるなか、当事者に代わって同弁護士会に「早期勧告」を要請。「60年以上前の出来事を風化させず、非正規切りなど今日の労働者の実態とリンクして社会にアピールしていきたい」と話しています。
( 2012年08月27日,「赤旗」) (PageTop)
大阪弁護士会への人権救済申し立てをめざすレッド・パージ被害者・家族・支援者のつどいが20日、大阪市内で開かれました。主催は自由法曹団大阪支部とレッド・パージ反対大阪連絡センター。高齢による足の不自由や病を押して被害者ら50人が参加しました。
柳河瀬精・治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟会長が1949〜50年にかけて強行されたレッド・パージの歴史的背景を述べ、いまも大企業などでまかり通っている「職場に憲法なし」の底流には反共主義があると指摘しました。
名波大樹弁護士が神戸地裁での国家賠償請求訴訟(一審敗訴、現在大阪高裁で係争中)の争点を報告。「どのような状況下でも人権は保障されねばならないということを改めて確認する意味で重要」と人権救済申し立ての意義を強調しました。
被害者や家族が体験や思いを次々に発言しました。「『アカ』が何で悪いのか裁判ではっきりさせたい」「大阪で歴史の逆行が始まっているという橋下『維新の会』の状況をみて、人権救済を申し立てようと思った」「パージ後の生活は本当に苦しかった。夫が生きていたらはってでもこの場に来たでしょう」と語りました。
( 2012年08月21日、「赤旗」) (PageTop)
太平洋戦争と3・11の大津波の実相を伝えていきたい―。東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手県釜石市は、米英軍の艦砲射撃で廃虚と化した街でもあります。その体験が、いまも受け継がれています。15日は終戦67周年―。
前田泰孝記者
つらくても語り継がねば
67年前の艦砲戦災≠フ語り部を続けている千田(ちだ)ハルさん(88)。大震災では津波が自宅1`手前まで迫りました。近くの小学校に避難。9日間、寒く暗い避難所生活を送りました。でも、子どもや高齢者を優先しての食料配給、救援ボランティアの活動などに勇気づけられました。
「あの戦争の時は、自分が生き延びるだけで精いっぱいだった。大津波はつらい体験だけど、みんなが助け合った。人間は知恵と生きる手だてを進歩させてきた、と強く感じました」
死と紙一重…
千田さんは艦砲射撃で死と紙一重の体験をしました。釜石製鉄所でタイピストをしていました。
1945年7月14日。ビューンと空気を切り裂く音、ドカーンとごう音が防空壕(ごう)を揺らしました。街は焼け野原に。
翌日、焼け落ちた自宅の前でぼう然としていた時です。突然、飛行機の爆音。パイロットの顔が見えるほどの至近距離から機銃掃射。焼け残っていた丸太にしがみつきやり過ごしました。
8月9日、2回目の艦砲射撃。移転先の農家の空き家で、いったん隠れた押し入れから、裏山に逃げました。戻ってみると家中、押し入れまで砲弾片で切り刻まれていました。「ここに残っていたら死んでいた」
終戦を迎えて
そして終戦―。千田さんらは47年2月、職場の先輩たちに誘われて文芸同人誌『花貌(かぼう)』を創刊しました。花の顔ひとつ違うよう個性を大事に生きよう≠ニいう願いを込めて。しかし、米占領軍によって、夫は職場をレッド・パージされ逮捕。朝鮮戦争が始まりました。
「私たちは再び戦争にくみすることを拒否する」。同人誌はやがて戦争の実相を伝えるものになっていきます。71年には別冊で艦砲戦災記録≠発行。2004年に終刊するまでに331人の体験を記録してきました。
顔のない母親、その血にまみれて生き残った赤子∞駅に切符を買いに行かせ娘を死なせたと悔やむ親の苦悩=c。「聞き取りは、忘れたい≠ニ、だれもが思う悪夢を引きずり出します。それでも平和を守り続けるために戦争を風化させたくない一心でした」
しかし、3・11大津波で、戦争を生き延び手記を寄せた多くの仲間を失いました。寝込んだ千田さん。最近やっと元気を取り戻しつつあります。
体験集の原稿、津波で流された
千田さんたちの志を受け継いで、戦争体験集発行を再開させた人がいます。釜石市平和委員会・釜石地域革新懇代表の前川慧一さん(74)です。
09年に『私の8月15日』を出し艦砲戦災や戦争体験手記を掲載。10年の第2集に続き、11年8月、第3集を出すはずでした。そこを地震と津波が襲ったのです。自宅は全壊。原稿10人分も、すべてが流されました。
一軒一軒おわびしながら再執筆をお願いし、聞き書きをしました。兄弟2人をニューギニア戦線と艦砲射撃で失った男性(91)は、書きかけの原稿を残したまま津波で亡くなっていました。
「やっとたどり着いても体調不良で断られたり、ゲラになってやっぱり載せてくれるな≠ニ断られたり」。1年がかりで集めた手記は35人分になります。前川さんは、避難所生活の中で、住民の要望を行政に伝える活動に取り組み、津波体験集『3・11 その時私は』の発行にも尽力しました。
「生の話には数字やデータでは語れない事実があります。戦災も震災も人類に塗炭の苦しみをもたらした。でもそれを克服しなきゃ、人類の未来はないと思って…」
2回目の艦砲射撃から67年の9日、第3集の出版発表会を開きます。
釜石市の艦砲射撃
1945年の7月14日と8月9日、米英軍の艦隊が日本製鉄釜石製鉄所(現・新日鉄釜石製鉄所)のある釜石市を攻撃。米軍だけでも合計5346発の砲弾を撃ち込みました。死者は756人。千人以上という説も。
釜石市の大震災被害
人口約4万人の同市で死者885人、行方不明者176人、建物の全壊3387戸(昨年11月現在)。
空襲被害/全国では
東京大空襲など全国の空襲被害(艦砲射撃を含む)の全容はわかっていません。死者は広島・長崎の被爆を含めて50万人以上ともいわれます。
民間被害者・遺族に国の補償などはなく、東京、大阪で裁判中。全国空襲被害者連絡協議会は、「空襲被害者等援護法(仮称)」「沖縄民間戦争犠牲者に対する特別補償法(仮称)」の制定を求めています。全国空襲連は15日、東京・台東区民会館で結成2周年のつどいを開きます。
(2012年08月12日,「赤旗」) (PageTop)
レッド・パージ犠牲者の大橋豊(82)、川崎義啓(95)、安原清次郎(91)の各氏=いずれも神戸市=が国家賠償を求めた訴訟の控訴審最終弁論が25日、大阪高裁でありました。
佐伯雄三弁護団長が陳述。▽連合国最高司令官がレッド・パージを指示したとしても、占領者は国内法に従う原則を定めたハーグ陸戦条規やポツダム宣言など国際法に違反し、違法無効▽日弁連勧告などをどう検討したのか報告を求めた調査嘱託に、内閣官房内閣総務官室は検討の有無すら知らないと回答したが、政府は救済を何も検討せず放置してきたことを裏づけている―と主張し、「最高裁決定を乗り越え、高い憲法感覚と人権意識、そして法の良心にもとづく正しい判決を心から願う」と訴えました。
川崎さんは「解雇理由を部長宅に聞きにいったら『家宅侵入だ』と逮捕された。どこも雇ってくれなかった」、安原さんは「小さな会社で働いたが親会社に『安原がいる』といわれ解雇。河原で石を拾い商店街で売った」、大橋さんは「私に期待していた母は免職を知り、父の位牌を持って『みんなを殺して出てゆけ』と叫び、その後出家した」と、それぞれ苦難の人生を述懐しました。
判決は10月24日。報告集会では「公正な判決を求める署名を大きく積み上げよう」と議論しました。
( 2012年07月26日,「赤旗」) (PageTop)
原発事故の究極の真相に肉薄
「東京電力はあらゆる意味で日本のシンボルだった。正真正銘のアメリカの属国。経済成長以外に目指すもののない空疎」―著者は「東京電力」研究の最終章でこう結論づける。
第1章安全神話のパラドックス、第2章保守論壇のタニマチから、第6章驕慢なる統治機構まで、戦後史、産業経済史、労働運動史を重層的にたどりつつ、原発事故をもたらした究極の真相に肉薄する。
なかでも、財界の良心・東電中興の祖としてリベラル派にも一目置かれた故木川田一隆社長とその後継者・平岩外四氏の正体≠ノ徹底的にこだわる。
国労潰し・総評解体に執念を燃やした中曽根康弘元首相と、レッドパージ前夜の「電源スト」「電源爆破計画」の謀略、「最強労組の電産潰し」に果たした木川田・平岩という3人のラインが「いつの間にか、またしても繋がった」と書く。それは戦後史の節目(新自由主義化)に決定的な役割を果たすのだ。
評者も、国会事故調を取材しながら、原発導入の張本人・中曽根氏をなぜ参考人に呼ばないのか? そこまで踏み込まなければ真相解明はできない、と痛感した。
本書は、原発事故の賠償訴訟弁護団の「主戦場は法廷の外にあります。強力な世論と政治的潮流の形成こそが、裁判官を覚醒させ、正義を貫く判決を書く決断をもたらすのです」を引用しながら、被害者への賠償を通して世の中の道理を獲得しようとする。
首相官邸前、代々木公園の大集会、東電本社前、大飯原発の門前の人々、そして福島の被災者たちと腕を組みながら著者の思いを共有したい。
さいとう・たかお 58年東京生まれ。ジャーナリスト。『消費税のカラクリ』。
( 2012年07月22日,「赤旗」) (PageTop)
山田五十鈴さんが「人民女優」と騒がれた時期があった。1950年ごろのことだ。
東宝所属だった山田さんは、占領軍の弾圧による東宝大争議を、スター女優として距離をもってみていたが、戦車まで動員された撮影所仮処分のニュース映像には、「働くものとして共通のいきどおりを感じ」た(『山田五十鈴 映画とともに』)。
フリーとなった彼女は、今井正の「どっこい生きてる」を見て、今までの大会社のようなやり方とは違う映画の作り方があるのかと感動。そういう映画への出演を希望し、夕張の炭鉱労働者と3カ月も暮らした「女ひとり大地をゆく」(亀井文夫監督)では選炭婦役に。手ぬぐいをかぶり腰に手をあてすっくと立つ宣伝写真が強烈な印象だ。
そのころ映画界にもレッドパージが波及、新聞には「映画界でも赤追放」「約二百名か 映画界の追放」の見出しがおどり、山田五十鈴さんもその対象になった。後に演劇界に転進していくが、映画界での経験はその後の役者人生の土台となったようだ。
「赤旗」日曜版「とっておき十話」(92年)に登場した山田さんは「役者として労働者として、今が山場と思い舞台に立ちつづけるつもりです。」と言葉を結んだ。謹んで哀悼の意を表したい。
(聳)
( 2012年07月16日,「赤旗」) (PageTop)
「レッド・パージ反対尼崎連絡会」は2日、学習会を開き9人が参加しました。
会員の木津力松氏は、レッド・パージが戦前の治安維持法による弾圧とは違い「自由と民主主義の仮面をかぶったアメリカ式の反共主義による新しい手段と方法による弾圧」と強調。組合幹部に共産主義者でないことを宣誓させ、公務員のストライキ禁止、労働長官への組合活動の報告義務などを定めたアメリカの「タフト・ハートレー法」に準じた労働組合への改変強要などを指摘しました。
木津氏は橋下徹大阪市長・維新の会が進める地方公務員への攻撃は、「ファッショ的な手法で、当時の教訓から許してはならない」と呼びかけました。
(2012年07月06日,「赤旗」) (PageTop)
過日、昔の蔵書を整理していたら『職場作家脚本集(1)』(昭和23年11月、産別会議出版部刊)という小冊子が出てきた。そのはしがき≠ノ「労働者の自覚と専門家の助力によって、自分たちにもっとも適切な台本を自分たちの手でつくる」とある。その当時、職場の演劇サークルで上演した『馬のいる家族』(原源一)ほか、2本の短編戯曲が収録されている。
敗戦後の民主主義的再建をめざす社会状況のなかで、労働組合がぞくぞくと組織され、労働者の自主的な演劇活動も盛んになった。そして1947年11月には東京自立劇団協議会(東自協)が結成される。これが各地方にも広がり、2年後には全国組織に発展した。
その目標として掲げたスローガンには、「全国の工場、農村に自立劇団を作ろう!」「職場中のみんなが演り、みんなが見る劇団に!」「生きた現実を自分で描こう!」「芝居からウソを追い出せ!」などだった。
こうした活動のなかで職場作家が生まれた。その主な人たちと当初の戯曲作品をあげれば、鈴木政男(大日本印刷)『落日』『人間製本』、堀田清美『運転工の息子』『子ねずみ』、原源一(日立亀有)『風吹く一幕』、大橋喜一(東芝小向)『芽生え』、山田時子(第一生命)『良縁』『女子寮記』、鈴木元一(国鉄大井)『モハ三〇〇七三』、石岡三郎(国鉄新橋)『吉奈療養所』、二宮千尋(商工省)『御巡幸』、宮本研(麦の会)『僕らが歌をうたう時』等。
これらのうちの何本かは専門劇団でも上演され、新風を吹きこんだ。また後に劇団の座付作家として活躍した人もいる。5月に亡くなった大橋喜一氏もその一人だった。
盛んだった当初の職場での自立劇団活動も、その後にくる行政整理、レッドパージのもとに、ほとんどのサークルはつぶされ、その活動は地域での自立劇団活動へと転化する。それらは例えば、川崎の建設座から京浜協同劇団へ、あるいは岐阜の劇団はぐるまなどがある。ふり返れば、この活動は変革のリアリズム演劇の原点であるといえようか。
(つがみ・ただし 劇作・演出家)
( 2012年07月06日,「赤旗」) (PageTop)
レッド・パージ反対全国連絡センターの代表団はこのほど、日本弁護士連合会を訪ね、レッド・パージ問題の解決に向けさらなる支援を要請しました。
代表団は、日弁連の2度の救済勧告や、神戸地裁の国家賠償訴訟不当判決(昨年5月)への会長談話に謝意を述べました。支援をいっそう強めてほしいと、@政府への働きかけA2度の勧告が広く世論となるようシンポジウムやニュースで特集を要請しました。
人権第一課が応対し、報告して審議してもらうとのべました。
( 2012年06月30日,「赤旗」) (PageTop)
レッド・パージ反対全国連絡センターは12日、レッド・パージ被害者の名誉回復と国家賠償を求める国会請願行動と活動交流集会を参院議員会館で開きました。
請願行動には9都府県からレッド・パージ被害者と支援者42人が参加。国はレッド・パージが不当な弾圧であったことを認め被害者に謝罪すること、被害者への名誉回復と国家賠償を速やかに行うことを求めました。
活動交流集会で参加者は、2万2千人分の請願署名を日本共産党の井上哲士参院議員らに手渡しました。
大橋豊代表委員が、レッド・パージ犠牲者が国家賠償を求めて起こしている裁判(大阪高裁)の報告をし、いっそうの支援を呼びかけました。坂本修弁護士が大阪高裁で何が起きているか、と題して特別報告。国際人権活動日本委員会の松田順一事務局次長が連帯のあいさつをしました。
大阪センターの代表は「4月に結成して個人50人と人権擁護にかかわる8団体が加盟している。今後、被害者の家族、遺族に参加してもらい大きな運動にしていきたい」と語りました。神奈川の代表は「請願署名の協力者と協力団体を増やすかに努力した」と発言しました。
連絡センターの鈴木章治事務局長代行は請願署名をさらに広げよう、各地の弁護士会への人権救済の申し立てを強めようと当面のとりくみを提起しました。
( 2012年06月13日,「赤旗」) (PageTop)
師・新藤兼人の遺体は大勢の人々が見送る中、東京・港区の増上寺から品川区の桐ケ谷斎場へと向かった。親族、近親の者が最後の別れをして荼毘に付された。およそ1時間後、白骨と化した先生(私は47年間ずっとそう呼んできた)が窯から出てきた。無常である。
「生きているかぎり生きぬきたい」――晩年の揮毫には必ずこれを書いていた。先生にとって生きているということは映画を作っていることだった。だから、「これが最後」と言っては最後とはならず、100歳という天寿を全うする直前まで現役の映画監督を貫きとおした。驚くべき強靱な精神と肉体である。
本当の最後の作となった「一枚のハガキ」は自身の兵隊体験をもとに、戦争という悪が個人を破壊してゆく姿を描いた。セリフの一言一言が、映像の一コマ一コマが『これが最後の言葉です』と言わんばかりのポエジーのような、平和を切々と訴える映画だった。私は先生の遺言を膝を正して拝聴するような心持ちでこれを観た。
戦後、アメリカ占領軍は新聞社、報道機関などと共に、大衆人気の高かった映画産業にもレッド・パージを容赦なくかけた。「来なかったのは軍艦だけ」の逸話が残る東宝争議に象徴される社会主義思想撲滅大作戦≠ネるものが仕掛けられたのである。
新藤兼人は人間の自由をおびやかすものが大嫌いだった。人間として何ものからも束縛されず凜として立って生きていたかったから、占領軍とその言いなりになるしかなかった日本政府に立ち向かって映画を作り続けた。
近代映画協会という独立プロを立ち上げて特にその第1回自主製作作品「原爆の子」で描いた反戦争、平和への希求は鮮烈であった。遺作となった「一枚のハガキ」においても、一歩たりともゆずらない作家の魂はますます健在であった。私が映画を学んだ近代映協は貧乏プロの代名詞だったが、その貧困を恥ずかしく思ったことは一度たりともなかった。そこに新藤兼人がいたからである。
(映画監督)
( 2012年06月08日,「赤旗」) (PageTop)
レッド・パージの犠牲者が国家賠償を求めた訴訟の控訴審第3回弁論が6日、大阪高裁でありました。
控訴人(犠牲者)側の松山秀樹弁護士が陳述。公職追放者は政府が救済措置を講じたのに、レッド・パージ犠牲者は何も救済措置がないのは平等原則に反すると控訴人側は主張しましたが、国側は両者を差別する合理性を何ら具体的に主張できないと指摘しました。
国側弁護士は「レッド・パージはさまざまな諸要素があり、公職追放と単純に比較できない」とのべました。
国会や政府でどう検討されたかを明らかにするための調査嘱託(裁判所が他の機関に調査・報告させること)で、2月に内閣官房内閣総務官室が「事務を所掌しておらず、…検討の有無については承知していない」と不誠実な回答をしたことなどから、控訴人側は再度の調査嘱託を求めてきましたが、高裁側は同日、不採用としました。国側弁護士は4月、これ以上調査は必要ないとする上申書を提出していました。
報告集会で、佐伯雄三弁護団長が裁判勝利へいっそうの支援をよびかけ、一審で証言した明神勲・北海道教育大学名誉教授もかけつけ、3人の原告と支援者を激励しました。
次回は7月25日。
( 2012年06月07日,「赤旗」) (PageTop)
俳優のイキにあわせる/黒御簾に観客の熱気が
歌舞伎などの舞台下座(向って左手)の袖にある黒い簾の掛かっている部屋「黒御簾」で演奏する邦楽家、杵屋佐之忠さん。長年、三味線で劇団前進座の縁の下の力持ちの仕事をしてきました。その歩み、邦楽の魅力について語ります。聞き手は堀川登志子さん(芸能評論家)。署名は本人。
堀川登志子 4月には、お弟子さんたちとの演奏会「楽の会」が前進座劇場でありました。昨年の東日本大震災が起こって、延期されていたものですね。
佐之忠 ええ、自主的に延期して、弟子たちが頑張ってくれました。これからも演奏会は続けたい。今回のような大きな企画は、30年前に武蔵野劇場でやって以来です。
堀川 お生まれは大阪ですが、三味線を習われたきっかけはなんですか。
母の三味線の音色が好きで
佐之忠 太平洋戦争のときは栃木・日光に疎開していました。歌舞伎俳優の初代中村吉右衛門が日光に疎開していて芝居を打った。私はその芝居の3日間・昼夜6ステージ全部、拝見しました。杵屋栄暁師がこの芝居の地方として働いたことで、栄暁師に入門し、三味線の手ほどきをうけた。私が小学6年生ころから、母親が三味線を近所で習っていてその音色が好きでした。父親は「男が三味線などとんでもない」と反対し、「勝手にせい」。反抗期でした。
堀川 初代の杵屋佐之助さんとのご関係は。
佐之忠 16歳で終戦。東京は焼け野原でした。偶然上京して、有楽町の会館で佐之助師の「長唄温習会」があって聴いて感激してしまった。日光に帰って、佐之助師に弟子入りしたいと手紙を書きました。「一度上京しなさい」と返事をいただいて、昭和24年(1949年)7月、お会いした師匠は、「東京に出て来ての生活はどうするのか。芸人は芸以外に仕事はない」といわれた。ほどなく師匠から「いい仕事がある、住むところがなければ、内弟子にしてもいいよ」と連絡があって、喜び勇んで上京しました。
堀川 最初の仕事が前進座で、以来お付き合いが続いていますね。
佐之忠 奇縁というか。佐之助師匠が「前進座という劇団の地方巡業に欠員が出た。君を行かそうと思うが」。私は「前進座はアカでは…」というと、「君は若いのにずいぶん古いこというね。芸の道にアカもクロない。あの劇団は勉強熱心だから、いいものを吸収してきなさい」と説得されてしまった。
堀川 初めての旅回りの印象は。
佐之忠 中村翫右衛門さんの班に参加しました。辛かったのは、先輩が「お前の三味線は下手だ。おれ一人で弾く」といわれましてね。でも1日1日、馴れていきました。当時、日本はGHQ(連合国軍総司令部)の占領下、マッカーサーのレッドパージの圧力で巡業先の小屋が突然、借りられなくなりました。前進座の芝居を楽しみにしてきた観客が「閉鎖」に抗議して警察署にデモ行進しました。私にも私服警官が尾行する、いやな時代でした。
前進座の財産、伝統残す努力
堀川 前進座は昨年、創立80周年を迎えました。佐之忠師匠が劇団の仕事をしてきた訳は。
佐之忠 最初の頃、師匠が前進座を辞めさそうとしたが、座の幹部が「それは困る」「彼はアイデアマンで、新旧の芝居に合わせて音楽を工夫してくれるから」と頼んで、残ることになった。それから40年、今になりましたね。
堀川 黒御簾のお仕事は、時代物や世話物など歌舞伎の演目により使う音曲が違いますが、それだけに芝居の蓄積がいりますね。
佐之忠 前進座の財産となっている「鳴神」「毛抜」などでも口伝を含め伝統を継承し残す努力をしています。翫右衛門さんが得意とした「魚屋宗五郎」の酒の飲みっぷりやテンポの組み立てなどは人と違う工夫をしました。昨年正月に上演した林家正雀さんの落語と歌舞伎のコラボレーション「双喋々 雪の子別れ」、芝居噺のよさを音楽で面白く表現したつもりです。
堀川 そうですね、黒御簾での長唄、三味線などがなくては芝居は成り立たない。そこに魅力があります。心がけていることはなんですか。
佐之忠 私はともかく三味線が好きだった。芸をスタートした日光は、常磐津や清元が盛んな土地柄でしたが、長唄・三味線を選びました。心すべきことは、主役はあくまでも俳優で、こちら(黒御簾)はカゲ。相手のイキに合わせて三味線を弾く。出過ぎないようにして洒落た間を考え、俳優の工夫が生きるようにする。その効果が上がれば、観客席の熱気が黒御簾に押し戻してくるのです。
堀川 佐之忠さんは、演奏の中心となる舞台師であり、付け師(プランナー)でもあるわけですね。ありがとうございました。
きねや・さのただ 1929年生まれ。劇団前進座の邦楽責任者に。現在はフリーで活躍。歌舞伎音楽研究会「黒御簾塾」主宰。著書『黒御簾談話 三味線十二ヶ月』(演劇出版社)、編CD「鳴神 音楽集」「歌舞伎名せりふ音楽集」
( 2012年05月25日,「赤旗」) (PageTop)
オリンピックの話をする前にスポーツとのかかわりから始めたいと思います。私は幼少時代から水泳、スキー、剣道などに親しんできましたが、本格的にのめりこんだスポーツは、都立五中(現小石川中学)で出会ったサッカーでした。
終戦後の1946年、同級生に誘われてサッカー部に入部。日本が焼け跡から再出発するなかで、サッカーボールを追う日々がつづきました。すべてが物不足の時代で、はだしや地下足袋で球を蹴ったときもありましたね。
中3の夏にレギュラーを獲得。全国大会にも出場し、そこで広島高等師範付属中学にいた長沼健さんと出会います。健さんとはその後、日本代表チームの監督、コーチとしてコンビを組むなど、長年の盟友になりました。ほかにも、サッカーで結びついた数多くの友情は後々までつづき、焼け跡世代の人脈は今日ある日本サッカー界の礎になっています。
自分で考える
東大に進んでからもサッカー部に入り、1年からレギュラーとして点を取るポジションにつきました。53年正月、第1回全国大学蹴球大会(現全日本大学サッカー選手権大会)が明治神宮外苑の競技場で開かれ、東大も参加。前年の関東大学リーグで低迷したことから、私たちは胸に期するものがありました。1、2回戦を順調に勝ち上がり、準々決勝は同リーグ2位の中大と対戦。後半1―3とリードされましたが、なんとか追いつき、延長で逆転勝ち。準決勝は立大を1―0で破り、決勝戦も早大を2―1で下して優勝。準決勝、決勝の得点は、いずれも私が挙げたものでした。この大会を東大が制したのはこれが最初で最後でしたね。
学生時代に恵まれたのは、あまり強制的な指導を受けなかったことでしょうか。毎日練習があるわけでもなく、自分で考える時間があった。好きなサッカーを心から楽しめたから、逆に苦しいことにも進んで飛び込んでいけたんだと思います。
全国大会での活躍が認められ、私は同年に当時西ドイツのドルトムントで行われた国際学生スポーツ週間、今のユニバーシアードの日本代表メンバーに入りました。初めての海外遠征です。当時のサッカー協会は予算がなく、各校のOBらが募金を集めて選手らの旅費をつくってくれました。西ドイツに行って驚いたのは、サッカー場の芝生のすばらしさ。ほんとうにここは日本と同じ敗戦国なのかと目を疑いましたね。
共通の文化と
この大会で私は、スポーツが世界共通の文化だということを身に染みて感じました。開幕戦となった地元西ドイツ対日本戦。点の取り合いとなって3―3で終了をむかえようとしたとき、突然レフェリーが笛をふいて相手ゴールを宣告。審判の笛は絶対ですが、今でもボールはゴールラインを割っていなかったと信じています。試合後、意気消沈して食堂に入ったわれわれを、なかにいた世界各国の選手、役員がすべて立ち上がり、盛大な拍手で迎え入れてくれました。開幕試合で主催国を相手に大激戦を演じたことへの最高の称賛。私は感動とともに、「スポーツは国、言葉、宗教、政治体制などのちがいを乗り越えて、相互理解をふかめ、友情をはぐくむことのできるすばらしい文化なんだ。将来、スポーツの仕事を手伝いたい」と、漠然とながら思いましたね。
五輪で銅獲得
欧州遠征の翌年、若手中心の日本代表がビルマ(現ミャンマー)、タイに遠征。そのメンバーにも各大学の仲間とともに選ばれて参加しました。その後、私のサッカー人生は指導者へと比重が移り、「日本サッカーの父」と呼ばれたクラマーとの出会いや日本代表チームのコーチ、監督へとつづきました。コーチとしてのぞんだ64年の東京オリンピックでは、グループリーグでアルゼンチンを破る快挙をなしとげたものの、準々決勝でチェコスロバキアに0―4で敗退。しかし次のメキシコ五輪では準決勝まで進み、3位決定戦で地元メキシコを2―0で破り、歓喜の銅メダルを獲得しました。選手たちは長沼監督と私を胴上げしてくれ、一生忘れられない瞬間を味わいました。
サッカーこそ、わがスポーツ人生の原点といえるものでしたね。しかし、だんだんと私には日本体育協会理事や日本オリンピック委員会(JOC)理事をはじめ、スポーツ界全体の発展にかかわる役職が増えていったのです。
余談ですが、スポーツ界は政治にたいして全方位でのぞみます。共産党さんともお付き合いがあり、以前、椿山荘(東京・文京区)で開いていた党創立記念パーティーに私も招待され、顔を出していました。じつは、不破哲三さんは東大時代の先輩で、当時東大の共産党細胞の中心で活動していました。われわれもレッドパージに反対し、ピケを張ったりね。そのころのサッカー部の主将は小倉寛太郎(おぐら・ひろたろう)くんで、彼は卒業後、日本航空に入社し、山崎豊子さんの『沈まぬ太陽』のモデルになりました。不破さんは今でも署名入りで著書を送ってくれ、楽しく読ませていただいています。
(水曜日掲載)
( 2012年05月23日,「赤旗」) (PageTop)
若い世代に今日的意義広めたい
4月14日の「レッド・パージ反対大阪連絡センター」結成までのとりくみを、日本共産党大阪府委員会の山田隆義市民運動・中小企業部長にリポートしてもらいました。
14日の発足集会には、レッド・パージ被害者と家族15人、支援者37人参加し、日本共産党元参院議員の橋本敦弁護士が記念講演しました。運動方針を確認し、役員を選出しました。
国の責任追及
橋本弁護士は「レッド・パージの国の責任の追及こそ歴史の真実に基づく今日的課題」だと強調しました。
憲法違反の「思想調査アンケート」など、橋下・「大阪維新の会」の民主主義破壊の攻撃とたたかう大阪市役所労組の代表が発言。思想差別による攻撃はレッド・パージそのものだとのべ、レッド・パージ反対運動の意義がいっそう鮮明になりました。
大阪では、レッド・パージ反対全国連絡センターの事務所が2010年7月に開設されたことに刺激を受け、「全国センターに結集する運動を始めるべきだ」との声が当事者から上がっていました。
被害者の名簿づくりからスタート。同年10月、関係者が集まり「レッド・パージ反対大阪連絡センター・準備会」を立ち上げました。その後、さまざまな情報や資料が寄せられました。被害者や家族の名簿、産業別の人数などの実態もわかり、記録集(冊子や書籍)も集まりました。
民主団体が共同
こうした取り組みを通じて、@当事者は80代の半ば前後になっており、身体の故障や病気を抱え気持ちのようには体が動かないAしたがって、組織の運営と運動の前進には支援者の役割が欠かせないBところが支援者、特に労働運動の第一線の活動家でも、レッド・パージについてはほとんど知らない、などのことがわかりました。
運動の目標である「被害者の名誉回復」や「国家補償」の実現には、長期的な取り組みが必要で、被害者と支援者との協力が重要です。とりわけ若い世代に今日的な意義を理解してもらい、引きついでもらう必要があると確認されました。
そのために、東京での60周年記念のつどいに学び、大阪でも当事者と支援者が集まる集会をおこなう企画がまとまりました。
60周年記念のつどいで、日本共産党の市田忠義書記局長は、レッド・パージ反対運動の今日的意義について紹介。思想良心の自由、言論表現の自由など、基本的人権を確立する今日的意義をもったたたかいだと強調しました。今日的意義というからには、現役世代が自らの問題として取り組む必要があります。
そこで、人権を守るたたかいの第一線の民主団体が共同して「大阪のつどい」開催をよびかける形になりました。大阪労連、自由法曹団、国民救援会、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟、民青、新婦人、大商連、民医連など15の団体がよびかけ団体になり、11年7月23日に「大阪のつどい」を開きました。
当事者と家族が14人、支援者が67人が参加しました。山口勝利党大阪府委員長がたたかいの現代的意義について語り、兵庫の国家賠償訴訟弁護団の西田雅年弁護士が講演。当事者4人と支援者7人が発言しました。
議論を重ねて
今後の運動の方向として@レッド・パージ反対大阪連絡センターを正式に立ち上げ、全国連絡センターに結集し、日常的な活動を進めるA国会請願署名を大阪でも取り組むB大阪でのレッド・パージの実態を記録し、活動にいかすC大阪弁護士会に人権救済の申し立てをおこなう―の4点を確認しました。
このつどいの成功をステップに、運動をどう継続し発展させるか議論を重ね、大阪連絡センターを正式に発足させようと機運が高まり、大阪労連などが中心になり発足集会が準備されたのでした。
( 2012年05月23日,「赤旗」) (PageTop)
レッドパージ反対尼崎連絡会がこのほど、藤木洋子・国民救援会兵庫県本部会長を講師に学習会を開催しました。レッドパージ犠牲者2人を含め8人が参加しました。
藤木氏は国会議員当時、いま裁判をたたかっている大橋豊さんを通じてレッドパージ問題や裁判にかかわるようになった経緯、裁判の傍聴を通じてレッドパージの不当性に確信を強めたことなどを語りました。
参加者から、「占領下でのマッカーサー書簡が『超憲法』的なものとしてレッドパージを正当化させる口実のようにいわれているが、4回出された書簡には、共産党員の労働組合幹部や支持者、組合員の追放などは、一切触れられていないことが分かった」などの感想が出されました。
会議では会則とあわせ、代表に塚本一夫氏、安田義氏、事務局長に中川隆道氏を選出しました。
当面、6月6日(水)の大阪高裁での裁判傍聴とレッドパージの実態を知る学習会の定期開催を決めました。
(2012年05月17日,「赤旗」) (PageTop)
数年前から、脚本を書き始めた。
きっかけは、川崎医療生協の歴史を描いた「いのちの砦」(萩坂心一・作)の脚本を担当したことである。
大学演劇科に学び、京浜協同劇団に所属したものの、子育ての時期は何年も活動休止していたし、脚本は一度も書いたことがない。四苦八苦の末、出来はどうあれ(?)ついに上演時間2時間の大作を書きあげてしまった。
その過程で一番おもしろかったのは作品の土台となった「取材」である。
現職の医師や看護師さん、地域の組合員さん、また草創期の人々に話を聞いて歩いた。レッドパージ、川崎公害、ポリオ生ワクチン輸入のこと、「もっと話したいことがある、また来てくれ」とあふれるように語る人たちの顔。この運動を育ててきた思いの強さ…。そこには私の知らない生きた川崎の歴史があった。取材のたびに心打たれ、書きたい気持ちが募っていった。
さらに楽しかったのは、書き始めてからである。
気がつくと、何時間も書き続けているのに疲れないし、お腹もすかない。いや、液体しか喉を通らない。いつもなら、肩コリで頭が痛くなるのに全然平気。いったいなぜ?
理由は、あとになって解明できた。
自分が日頃から感じていたコトを、登場人物のセリフを借りて、じゃんじゃん喋りまくっていたのである。取材で得た材料を膨らませ、たとえば夫婦関係について、自分の職場の愚痴、世の中への怒り・悪態、言いたい放題書きまくっていたわけである。これなら、ストレスも解消するべさ。
私は、合点した。日常で言えないコトも、「ドラマ」でなら思う存分言える。それは自分が本当に何を書きたいのかを発見する通過点でもあるのだ。
「虚構の世界で真実を描く」ってこれか!
私は大胆にも次作の構想を練り始めていた。
(京浜協同劇団 制作)
(金曜掲載)
( 2012年05月11日,「赤旗」) (PageTop)
京浜協同劇団(川崎市)に入団して35年目。今年の目標は二つ、一つは6月公演「臨界幻想」を制作チーフとして成功させる。もうひとつは秋公演の脚本を書き上げる。
本当にやりたいコトなら「家族や身近な人びとへの迷惑に目をつぶってやりぬこう」と、決意を新たにしている。
「臨界幻想」(ふじたあさや作・内田勉演出)は、原発安全神話のウソを克明に描き出した人間ドラマ。大飯原発の再稼働が懸念される今、稽古場の緊張感も少しずつ高まってきている。そんななかで、あの歌の主人公、中嶌哲演さんをお迎えすることになった。
歌の題名は「若狭の海よ(または『若狭の海』)」。チェルノブイリ事故の前年、1985年に作られた。
作曲者の安達元彦さんは「寒風に素足で立つこの人の姿に打たれて笠木透が詩を書いた」と、ソング集(鈴木たか子編)に一文を寄せている。
私は、この歌に出合い、中嶌さんを知った。福井県小浜市明通寺のご住職であり、40年以上も前から「原発銀座」若狭で、原発をなくす活動を地を這うように続けていらっしゃる。でもそのことをシカと受け止めたのは、実はごく最近のことである。
昨年出演されたNHKラジオの録音を聞いた。「ああ、あの歌のあの人だ!」。およそ経験や知識を振りかざすことも誇大な表現も一切なく、自らの行動から得た真実だけを丁寧に話されていた。
その声を聞いているとなぜか心が落ちついてくる。ある劇団員は「この人の話は素直に聞ける。ひとこと一言が身体に沁み込んで来るようだ」と語っていた。
私はどうしても「この人」に会いたくなっていた。
5月6日の「中嶌哲演さんを迎えるつどい」は実行委員の皆さんに支えられ、すでに100人以上の申し込みを受けて早々と満員御礼。当日は「若狭の海よ」を大合唱する予定である。
(京浜協同劇団 制作)(金曜掲載)
( 2012年05月04日,「赤旗」) (PageTop)
レッド・パージ反対全国連絡センターは4月26日、東京都内の同センター事務所で拡大幹事会を開き、名誉回復、国家賠償実現をめざして6月に国会要請行動を実施するなどの方針を確認しました。
金子圭之事務局長の司会で進められ、鈴木章治事務局長代行がこれまでの取り組みと当面の方針について報告。兵庫県の犠牲者が国家賠償を求めて起こしている裁判闘争、各地の弁護士会への人権救済申し立て、レッド・パージ反対大阪連絡センターの結成などを紹介しました。
つづいて、▽6月12日に名誉回復と国家賠償を求める国会請願行動を実施する。政府、衆参両院議長に要請する▽大阪高裁の国賠訴訟支援を強化する▽連絡センターののぼり旗を作製する―の方針を提起しました。
討論では「いまこそ犠牲者以外に運動を広げるのがカギ」など組織の拡大強化への発言が相次ぎ、方針を確認しました。
( 2012年05月03日,「赤旗」) (PageTop)
「戦後の歴史と教訓を次世代へ」とレッド・パージ反対大阪連絡センター発足のつどいが14日、大阪市内で開かれました。
レッド・パージは、日本をアジアの最前線の軍事基地にするとのアメリカの対日占領政策の転換に伴い、1949年から50年にかけて大企業職場や労働組合などから日本共産党員と支持者を追放した大弾圧事件です。
橋本敦弁護士が「レッド・パージは憲法違反の思想弾圧で、重大な人権侵害です」と講演。当事者と家族、支援者が発言しました。
大阪市役所労組の田所賢治書記長は「橋下市長の『思想調査』も職員基本条例も根は同じ」と指摘。攻撃をはね返し、市民のくらしと福祉を向上させるために奮闘したいと表明しました。
日本共産党府委員会の柳利昭書記長は「レッド・パージは、日本の労働運動を妨げ、国民生活と民主主義を守って奮闘する日本共産党に打撃を与えて今日に至る異常な米国、大企業言いなりの政治をつくる役割を果たしました。被害者の救済を求め、次世代に伝えることは、府民の願いに応えるものと重なります」とのべました。
被害者の一人、富田林市の坂本悦己さん(85)は「21世紀に思想差別は許さない。レッド・パージとのたたかいの意義を後世に残すことが大事です」と話しました。
( 2012年04月15日,「赤旗」) (PageTop)
レッド・パージ反対全国連絡センターの鈴木章治事務局長代行らは6日、日本共産党本部を訪ね、同センターの組織強化と国家賠償を求めている裁判への支援を要請しました。日本共産党から仁比聡平国民運動委員会副責任者らが応対しました。
鈴木氏らは、レッド・パージ被害者の多くが80歳を超え運動を継続していくことが困難になっている実情を語り、組織強化のため昨年の総会で規約を改定、当事者以外の団体や個人の賛助会員を募ることを決めたとのべました。そして党に「賛助会員になっていただきたい」と要請しました。
また兵庫県の犠牲者が国家賠償を求めて起こしている裁判で、大阪高裁が政府、国会に求めた調査嘱託に対する政府、国会の回答が極めて不誠実なものであったとのべ、「この問題の打開へ日本共産党の力を貸してほしい」と要請しました。仁比氏らは支援要請に対して、検討し全力で当たる旨を答えました。
( 2012年04月07日,「赤旗」) (PageTop)
滋賀県甲賀市の水口西支部は、2月末に夫妻を党に迎えました。「大運動」に入って初めての新入党員です。
入党をすすめた党員と小松正人市議が、新入党員学習ビデオを一緒に視聴。支部員から支部活動の様子や、戦前の侵略戦争反対のたたかい、戦後のレッドパージに抗した党員のたたかいや生き方などを紹介しました。新入党員夫妻は、「とてもわかりやすかった。党の歴史を初めて知りました」と感想を語りました。
また、党創立89周年記念講演DVDも視聴し、「共産党は戦前から救援活動でがんばってきたんですね。東日本大震災での全国各地の奮闘はすごい」と感動していました。
3月20日には、18人が参加して、入党歓迎会と総会なみの位置づけで支部会議を開催。地区委員長を講師に4中総決定を学んで得票目標と支持拡大目標、「大運動」目標を決めました。食事をして交流を深めるとともに、新入党員が参加しやすいように、昼班と夜班を確立し、昼班を援助する支部委員を補充しました。会議後、3人の日曜版読者を増やすなど、支部の奮闘が続いています。
( 2012年03月31日,「赤旗」) (PageTop)
日本共産党員と支持者が職場から追放されたレッド・パージの犠牲者が国家賠償を求めている裁判で、レッド・パージ反対全国連絡センターはこのほど、「大阪高裁が求める調査嘱託に対する国会と政府の回答内容は不誠実だ」と政府に抗議文を送りました。
調査嘱託は、第1回口頭弁論(昨年12月20日)で原告側が「裁判所自らが、レッド・パージ被害を回復するため政府や国会がどのような措置を検討してきたかを調査するよう」求め、高裁が採用を決めていたものです。
高裁は昨年末、政府に対して日本弁護士連合会の政府に対する名誉回復と補償を求める勧告への対応について、国会にはレッド・パージ犠牲者の名誉回復と国家賠償に関する請願の受理・審議の状況について回答するよう、調査嘱託書を送付しました。
政府は、「本訴訟に関係する事務を所掌しておらず、検討の有無については承知していない」(内閣総務官、2月22日付)と回答。国会は「審理のための委員会が開かれなかった」(参院、2月1日付)、「いずれも一致した結論を出すに至らなかった」として審議未了(衆参両院、同)と回答しています。
レッド・パージ反対全国連絡センターは、回答について抗議するとともに、日弁連勧告に基づく速やかな救済措置の実施を求めて文書を政府に送りました。
( 2012年03月20日,「赤旗」) (PageTop)
レッド・パージ国家賠償訴訟の第2回弁論が16日、大阪高裁でありました。
前回、この問題が国会や政府でどう検討されたか明らかにするために、国会と政府への調査嘱託(裁判所が他の機関に調査・報告をさせること)が認められました。
調査嘱託の結果、衆・参院に提出された名誉回復などを求める請願は90年以降173件あり、すべて「審議未了」として葬られたことが明らかになり、内閣官房内閣総務官室は「本訴訟に関係する事務を所掌しておらず、お尋ねの検討の有無については承知していない」と回答しました。
控訴人(犠牲者)側の佐伯雄三弁護士は、「日弁連が国に救済を勧告したが、それさえ検討したかどうかも承知していないというのは、驚くべき回答だ」と抗議し、「きちんと回答できる部署への調査嘱託をあらためて申し立てたい」と主張。裁判長は「調査嘱託するのはやぶさかではない」と答えました。
松山秀樹弁護士は、提出した準備書面について説明し、▽控訴人の思想・良心の自由の侵害は職場追放時だけでなくずっと続いている▽公職追放者は政府の措置で救済したのに、レッド・パージ犠牲者を放置したのは憲法の平等原則に反する―と強調しました。
( 2012年03月18日,「赤旗」) (PageTop)
「戦後最大の人権侵害」とされるレッドパージの取り消しと犠牲者の名誉と権利を回復する運動に取り組む、兵庫県の「レッドパージ尼崎懇談会」が5日、同市で開かれました。
懇談会には、レッドパージの被害者、治安維持法同盟尼崎支部、国民救援会尼崎支部、尼崎健康と生活を守る会と個人が出席。尼崎市内でも18企業、190人以上の被害の実態が報告されました。
出席者からは、「大阪の橋下市長による『思想調査』は、レッドパージを思い起こさせる」「レッドパージのことを話しても、60年前のことで、簡単には理解してもらえない」など、率直な意見が出されました。
「懇談会」は、他の団体、個人にも参加を広げ、次回からは「レッドパージ反対尼崎連絡会」として開かれます。当面の活動として、レッドパージ被害者3人(神戸市在住95歳、91歳、82歳)の原告による大阪高裁での裁判闘争を支援し、公正な判決を求める署名と要請はがきにとりくむこと、16日の裁判傍聴などを決めました。
(2012年03月08日,「赤旗」) (PageTop)
アヴァンギャルド=前衛。その発生から芸術と政治は密接な関係にあった。日本の前衛芸術のパイオニア、村山知義の足跡を紹介する展覧会が開催中だ。
広大な活動領域
1901年生まれの村山の活動領域は広大だ。美術、建築、舞踊、演劇、文学など。このマルチな才は、ベルリン遊学経験に支えられたところもあるだろう。ダダなど最新の美術、アヴァンギャルドの先鋭かつ横断的な展開は、大いに刺激になったに違いない。
本展は、展示構成を幾つかのジャンルで細分化。さらに抽象画のカンディンスキー、政治諷刺画のグロスなど、当時の最新トレンドも紹介。村山のインスピレーション源と表現結果を概観できる仕掛けだ。
村山の表現の軸は2つある。まず、時代の最新感覚を読み取り、それを形にしていくこと。ロシア構成主義の巧みな移植である、広告デザインと童画。舞踊の型にとらわれないパフォーマンス。当時の男尊女卑的な気風に突きつけた中性的なヘアスタイル。流行ヘアファッションを発信する美容室の建築。キュビスム譲りの形と色面が緊張感を保ったまま錯綜する油彩画。
ここからは単なる新しさにとどまらない、激変する時代精神のエネルギーも感じさせる。爛熟した都市文化と社会の階層化という矛盾、きたるべき戦争の予感。そうした中、2つめの軸として村山は個人の枠を越えた表現を志向する。
現物遺失のため写真資料展示のコラージュは詩情が排され、後年のポップアートで強調された日常と社会の導入がうかがえる。ドキュメンタリー的な写真『首都貫流』には、風俗紹介を越えたルポルタージュの要素がある。村山はプロレタリア系の表現に1925年以降、急接近する。文学、美術、特に演劇は戦後も一貫して心血を注いだ。
社会との接合へ
思想家ハンナ・アーレントは古代ギリシャの民主政で芸術のうち演劇が重視された理由について、「人間生活の政治的分野を芸術に移すことのできるのは、ただ演劇だけ」だからとしている。人々の協業により演じられることで、物語は公共性を帯びるためだ。村山の軌跡は芸術の外部=社会との接合をめざすことの必然的な帰結と言える。まさに前衛の王道だ。
身分制度を越えた朝鮮の純愛劇『春香傳(伝)』の戦前の演劇ポスターは植民地問題、戦後の『みちのく太平記』は中央からの歴史的な抑圧という東北問題の意識がそれぞれうかがえる。
村山は戦後のレッドパージ以降の冬の時代でも、房総が舞台の新時代の複雑な階級闘争を描いた演劇『死んだ海』の作・演出など、没年の77年に至るまで、状況に対して果敢な姿勢を示した。展示は労作で見応えがあるが、戦後の中心活動の演劇が手薄ぎみで、作家の核がややぼけた印象もある。
(あらい・ひろゆき 美術・文化社会批評)
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「すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙」展 25日まで。神奈川県立近代美術館 葉山 神奈川県葉山町一色2208の1рO46(875)2800
( 2012年03月07日,「赤旗」) (PageTop)
レッド・パージ反対全国連絡センターは17日、大阪市の橋下徹市長がおこなった憲法違反の思想調査をただちにやめ、回答済みアンケートを全面廃棄するよう求める抗議文を同市長に送りました。
この調査は「思想差別による弾圧―レッド・パージ」に結びつくとんでもないファッショむき出しの「思想調査」であり到底許されないと批判。憲法は思想信条の自由を保障しており、自治体首長は憲法順守義務を負っているとしています。
( 2012年02月19日,「赤旗」)
レッド・パージ反対全国連絡センターの大橋豊代表委員、鈴木章治事務局長代行らは9日、アメリカ大使館を訪れ、レッド・パージ実行を示唆した米政府の謝罪と被害者救済を求める米オバマ大統領への「手紙」を書記官に手渡しました。
要請は同センター第6回総会での決議に基づくもので2度目。
鈴木事務局長代行は、「前任者は館内で要請をうけ、被害者の訴えも含めて本国に公電で報告している。本日の要請と被害者の声を改めてオバマ大統領に伝えてほしい」と申し入れました。
大橋さんら3人の被害者がそれぞれパージされた時の状況を訴えました。レッド・パージ国賠訴訟神戸地裁判決にふれ、裁判所はいまだに「占領軍指令は超憲法的効力を有する」と日本国憲法を無視したかつての最高裁決定にしがみついているなどと指摘しました。
書記官は、通訳を介しての被害者の訴えに真剣に耳を傾け、「みなさんのことは、前任者から引き継いでいる。こうしてお会いできて大変うれしい。みなさんのお話を聞いて胸を痛める思いだ。手紙は必ず本国に伝える。みなさんからの情報は手紙や電話で、いつでも寄せてほしい」と約束しました。
代表団は、アメリカ、イタリア、スペイン、韓国などの解決例をあげ、被害者が高齢化していることから、謝罪と救済措置を日本国政府に働きかけることも含め、一日も早い問題解決に向けて誠意を尽くすよう本国に伝えてほしいと求めました。
( 2012年02月14日,「赤旗」) (PageTop)
「ALWAYS 続・三丁目の夕日」は夕日町三丁目の駄菓子屋作家の文学賞受賞騒動とその恋がシンとなった温かな下町群像。子役から成長した吉岡秀隆と小雪が魅力的。「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」は4作目で、1950年代の米ソ冷戦を反映、米考古学者とソ連女性諜報員との秘宝争奪戦。原爆実験描写にひっかかる。
NHKBS。山田洋次監督の選んだ100本は、戦前作品が2本と戦後作品が見られる。「祇園の姉妹」は当時18歳だった山田五十鈴と梅村蓉子との芸者姉妹の悲哀感を溝口健二監督がにじませた。「兄とその妹」は、佐分利信、三宅邦子、桑野通子の兄夫婦と妹の家族の愛を描く島津保次郎監督のしゃれた市民映画。「姉妹」は、レッド・パージで松竹を追われた家城巳代治監督の秀作。野添ひとみと中原ひとみの姉妹が、まわりの人々にふれながらそれぞれの道を選んでいく。
「突然炎のごとく」。ジャンヌ・モローの輝くような若さが光る。2人の親友の前にあらわれた女性に揺れ動く友情。フランソワ・トリュフォー監督の代表作。「エリザベス:ゴールデン・エイジ」は、イングランドの女王のケイト・ブランシェットが、恋を捨て国のために生きる姿が強烈。
(石子 順 評論家)
( 2012年01月13日,「赤旗」)
レッド・パージの被害者が国家賠償をもとめて裁判をたたかっています。そこにこめられた思いをレッド・パージ国賠訴訟弁護団の松山秀樹弁護士に書いてもらいました。
神戸市に在住する原告3人(うち2人は90歳を超える)は、官庁や大企業から1950年にレッド・パージによって免職、解雇されました。職を失って収入を絶たれ、その後も「企業破壊者」「暴力分子」などといわれのない烙印(らくいん)を押されて社会から排除され、苦難の人生を強いられてきました。
国の責任を問う
2009年3月、「生きているうちに名誉回復を」と神戸地方裁判所に提訴しました。今回の訴訟がこれまでと異なるのは、免職・解雇の効力を争うのではなく、レッド・パージにおける政府の積極的な関与を理由として直接国の責任を問うた国家賠償請求訴訟である点にあります。
原告と弁護団は、当時の日本政府が単にGHQ(連合国軍総司令部)の指示によってやむを得ずレッド・パージを実施したものではなく、積極的に関与していた実態を明らかにしてきました。
レッド・パージは、日本国憲法施行(1947年5月3日)後に、日本国憲法、世界人権宣言で最も重要な人権として保障されている思想・信条の自由を侵害したものです。この人権侵害によって、単に解雇・免職で職を奪われただけでなく、再就職もままならず、長期にわたり経済的にも困窮した生活を余儀なくされ、その家族までが職を失いました。
原告と弁護団は、人権保障の最後の砦(とりで)として裁判所が、原告ら被害者の救済を図る判決を出すことを求めています。
不当な地裁判決
神戸地方裁判所は昨年5月26日、原告らの請求を棄却する不当な判決を出しました。最も不当な点は、被害者がレッド・パージによって苦難の人生を歩まざるを得なかったという、誰もが否定できない最悪の人権侵害を受けた事実にいっさい目を向けていない点です。
日本弁護士連合会(日弁連)が原告らの申し立てに対して出した人権救済の勧告(08年10月24日)は、次のように指摘しています。
「たとえどれだけの時が経過しても、未だ被害回復がなされていない重大な人権侵害事案が存在し、その被害に苦しむ人々が現存し、救済を求める申立が当連合会になされた以上、人権擁護を使命とする当連合会として、これを放置することはできない」
日弁連の勧告と対比してみると地裁判決の姿勢は、本来の人権救済機関としての司法に求められている役割を放棄したといわざるを得ません。
被害を直視せよ
原告らは控訴して、大阪高裁における審理がスタートしました(第1回が11年12月20日)。原告ら3人がそれぞれ被害の実態を生の声で裁判官に訴えました。弁護団も意見陳述で、次の点を重視した審理を求めました。
第一は、レッド・パージ対象者らの被害実態を直視した審理をすること。
第二は、過去の過ちへの克服はイタリア、スペイン、ドイツ、アメリカなど世界各国で取り組まれており、世界の趨勢(すうせい)を踏まえた審理、判決をおこなうこと。
第三に、裁判所自らが政府と国会に対して調査をおこない、政府と国会がレッド・パージ被害を回復するためにどのような措置を検討してきたのかを明らかにするような審理をすること。
高裁での前進面
大阪高裁は、原告らが申し立てていた調査嘱託(第3点)を採用しました。裁判所自らが、レッド・パージ被害回復のために、政府や国会が何をしたのかを積極的に調査しようとする姿勢のあらわれであり、今後高裁での審理を進めていく上で大きな前進です。
原告と弁護団は、第1点、第2点についての審理を求めていくため、さらに専門家証人の申請、レッド・パージ被害の実態を明らかにするための立証の工夫などを検討していきたいと考えています。
レッド・パージは、60年前という遠い過去の出来事ではありません。思想・信条を理由とした差別的な扱いを許さず、被害者らの人権侵害状態を解消することは、現代に生きるわれわれすべての思想・信条の自由を保障することにつながるたたかいです。
原告らは高齢です。名誉回復と被害救済のために残された時間は多くありません。この裁判を勝利するために、そしてレッド・パージ被害者すべてを早期に人権救済するために、思想・信条の違いを超えて、基本的人権の保障と民主主義を支持する多くの方々の支援を心からお願いしたいと思います。
レッド・パージ
1949年から50年にかけてアメリカ占領軍の示唆にもとづいて政府と財界が、「破壊分子だ」などといつわって、日本共産党員と支持者推定4万人(レッド・パージ反対全国連絡センター調べ)を職場から追放した弾圧事件です。
( 2012年01月13日,「赤旗」) (PageTop)
「どっこい生きてる」。今は亡き映画界の巨匠・今井正監督が、山本薩夫監督らレッドパージ組で独立プロをたちあげ、1951年に前進座と組んで最初につくった映画です▼冒頭のシーンは、朝早くから職業安定所の窓口に殺到する失業者たち。1日あたり、支給240円で働くことから「ニコヨン」と呼ばれています。元旋盤工の主人公もその一人。住む家を追われ、一家は離散。貧しさから抜け出ることの困難さが、赤裸々な現実とともに映し出されます▼それでも、どっこい生きている。仲間のために、なけなしの金を出し合う労働者たち。心中未遂を経て、絶望のふちからはい上がる主人公の姿に、レッドパージに屈せず、再び映画を作り始めた監督たちの思いが重なります▼「この方々は、立身出世のためでなく、確固とした信念をもって地に足をつけて仕事に取り組んでいらっしゃる。人の世の真実を見つめる眼力がありました」。以前、三國連太郎さんに取材した折、こう語られていたのが印象的でした。この監督たちから「物作りの良心、人生の羅針盤のようなものを学んだ」とも▼お寺の住職の息子として生まれた今井監督は、47年に日本共産党に入党し、その初志を曲げることはありませんでした。最高裁の横やりにも負けず、誤った裁判を告発した「真昼の暗黒」(56年)。「部落解放同盟」の激しい妨害を乗り越えてつくった「橋のない川」(69年)…▼今井正監督生誕100年にあたる今年。改めてその「不屈性」から学びたい。
( 2012年01月10日,「赤旗」)
神奈川県レッド・パージ反対同盟は『証言でつづるレッド・パージ60年』(写真)を発行しました。
県レッド・パージ反対同盟は、レッド・パージ犠牲者の名誉回復と国家賠償を求めて、国会請願に力を注ぎ、横浜弁護士会への人権救済申し立てでは弁護士会の政府あて救済勧告を得ています。同盟には、被害者だけでなく広く人権確立を望む人たちの参加も得ています。こうした活動をすすめるなかで迎えた60年の記念の事業として発行したのがこの本です。
3部からなっていて、1部は加藤桝治県同盟事務局長が運動を振り返り、今後の前進方向をしめした「基本的人権の侵害は許せない」とする文や、横浜弁護士会の勧告の特徴をのべた文が掲載されています。
2部では26人が職場・事業所などでのレッド・パージ反対運動をリポートしています。
3部では2010年12月に開いた「レッド・パージ60周年記念のつどい」で採択されたアピールを紹介しています。
A5判、135n。頒価1200円。
申し込み、問い合わせは神奈川県レッド・パージ反対同盟の金子圭之代表委員まで。〒236―0051横浜市金沢区富岡東6の17の13、рO45(773)1993(ファクス兼)
( 2012年01月06日,「赤旗」)