2015年レッドパージ犠牲者の活動】

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「見出し」

 

*         12

*        レッド・パージ65周年の集い/被害者の訴え/加藤舛治さん/浅野径さん/大橋豊さん

*        レッド・パージ65周年の集い/被害者の訴え/舛甚秀男さん(85)/壁新聞張り逮捕された

*        レッド・パージ65周年の集い/被害者の訴え/松田ゆきさん(89歳)/川瀬功治さん(88歳)

*         レッド・パージ語り継ぐ/平和・人権、決意新た/65周年の集い

*         レッド・パージは国民を弾圧/若者に体験伝えよう/埼玉連絡会が総会

*         映画/「杉原千畝 SUGIHARA CHIUNE」(日本)/気骨の人の半生、静かに

*         11

*         全ての被害者救済へ/レッドパージ65周年でつどい/来月6日

*         レッド・パージ65周年のつどい/来月、東京で

*         10

*        レッド・パージ65周年/12月集会へ実行委開く

*         9月

*         節目迎える党員にお祝い/敬老の日を前に共産党宮城県委

*         レッド・パージ名誉回復求める/北海道懇話会

*         8月

*        潮流

*         いま注目の独立プロ映画/ドキュメンタリー映画「薩チャン正ちゃん」公開/米占領軍の弾圧とたたかって生まれた

*         文化の話題/映画「薩チャン正ちゃん〜戦後民主的独立プロ奮闘記」/江原真二郎さん/中原ひとみさん

*         7月

*        レッド・パージ国賠訴訟/三度目の再審申し立て

*        日本共産党創立93周年によせて/各界からのメッセージ

*         6月

*        レッド・パージ/国家賠償特別法制定を/被害者ら交流会

*        共産党国会議員のあいさつ・交流

*         5月

*         レッド・パージ/犠牲者の権利回復を/大阪連絡センターが総会

*         4月

*         月曜インタビュー/声楽家檀上さわえさん/歌でたたかい励まして67年/心に秘めた思いを引き出す

*         3月

*         レッドパージ救済を/熊本県弁護士会、首相に勧告

*         レッド・パージ被害救済ぜひ/共産党議員団に全国センター要請

*         2月

*        神奈川県レッド・パージ反対同盟、党県委と懇談

*        レッド・パージ、謝罪・賠償して/埼玉連絡会が総会

*         1

*         2015焦点・論点/NHK籾井会長1年と放送90年・戦後70年/メディア研究者松田浩さん

*         「政権とってほしい」と注文/年初から宣伝・対話、党勢拡大/神戸市(灘区)味口俊之市議

*          亡国の道許さない=^自由法曹団新春の集い/札幌

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【本文】

(12月)

レッド・パージ65周年の集い/被害者の訴え/加藤舛治さん/浅野径さん/大橋豊さん

組合執行部が解雇容認/加藤舛治さん(89歳)
 1950年、日本鋼管は神奈川県内五つの事業所で178人をパージしました。私は10月23日に、鶴見製鉄所でパージされました。
 この日、終業時間直前に事務所に呼ばれ、解雇を通告されました。会社の事業の非協力者≠ニいうだけで具体的な理由は何も言いません。私はこれを拒否しました。工場から離れないでろう城してたたかう方針を決めました。ろう城して3日目、会社が500人もの警察官を導入して私を工場外に出すというので、やむなくスクラムを組んで組合事務所に入っていきました。
 ところが、組合執行部は会社との団体交渉で、今回の措置は連合国軍総司令部(GHQ)の勧告に基づくものだと強く言われ、これを認める方針をとりました。私たちは、大会場がある会社内に入ったところで警察に逮捕されました。私たちの声の届かない大会で組合から除名され、レッド・パージは容認されました。
 数年後、鋼管30事業所、有志22人が解雇無効を求めて横浜地裁に提訴しました。
 そこで初めて会社の人員整理の基準を知りました。その基準によると、共産党員もしくは同調者で、「アカハタ」を購読した人です。また、労働強化や配置転換など会社の方針に反対する者や、基地反対運動や重税反対の集会の参加者まで含まれていました。
 現在でも首切りが行われています。その根っこは一つです。日本弁護士連合会(日弁連)の人権救済勧告を力に、被害者の名誉回復と国家賠償の実現を目指します。戦争法を廃止する国民連合政府を実現するため、その一翼を担って活動することを誓います。
 私はあと3カ月で90歳になります。頑張ります。

紙っぺらで職奪われた/浅野径さん(86歳)
 私は、わずか2年5カ月の間に2度のレッド・パージが行われた職場の話をします。旧商工省=通産省=調査統計局(調統)という官庁です。毎朝目を覚ますのが楽しみな職場でした。
 1948年7月、公務員はスト権、団体交渉権を奪われました。首切りにつながる定員法が国会に出されると、調統で働く人たちは繰り返し反対しました。ところが、50年8月、共産党員10名に退職届を出すように勧告がありました。1人1人去っていく間にも、職場ではひるむことなくたくさん要求が出てきました。とりわけ、生活危機突破の5000円要求の大臣交渉には、大型バス3台を仕立てて170人の組合員が本省に乗り込みました。この行動は、全国の仲間を励ましたといわれました。
 2度目のパージは、50年11月です。通産大臣がレッド・パージを行うと個人に通告を開始しました。私は、通告の内容を、「公務を正常に運営することを阻害した」という簡単な言葉の紙っぺらで伝えられました。
 働きたいと願う職場を奪ったレッド・パージは、私の人生を破壊しました。日本の民主主義も破壊し、労働組合をつぶす許しがたいものであると告発します。

運動進める新しい機会/大橋豊さん(85歳)
 私は、レッド・パージ全国連絡センター代表委員で、初めて人権救済申し立てを行い、2008年10月、救済勧告を勝ち取りました。これに激励されて、初めて国に対しての損害賠償を求めましたが、最高裁判所は棄却しました。
 レッド・パージ65周年のつどいが全労連会館で開かれるというのは夢みたいです。
 坑内で働いた父は、じん肺で40代から働けなくなった。私は15歳で、逓信省神戸中央郵便局で仕事しながら仕送りする、5人家族の所帯主になりました。それなのに、パージされた。レッド・パージが極悪犯人みたいにラジオで放送されるのは、妹や弟にもつらかったと思います。一番下の弟は最近、目が見えなくなって視力障害1級になりました。
 レッド・パージの超憲法的判断は今も生きているのか。最高裁第3次再審請求をしています。
 今日は、レッド・パージの損害賠償を求める運動が腹を据えて本格的に前進する新しい機会になりました。
 (おわり)
(
2015年12月12日,「赤旗」)

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レッド・パージ65周年の集い/被害者の訴え/舛甚秀男さん(85)/壁新聞張り逮捕された

 北海道の東海産業の豊里鉱業所で1950年10月、パージに遭いました。
 45年12月、赤平にあった昭和電工豊里鉱業所という炭鉱で働きました。昭電疑獄≠ナ有名な会社です。48年1月23日、労働組合の学習会を通じ、命がけで日本国民の平和と生活を守るためにたたかったのが共産党だと初めて知り、入党しました。
 豊里炭鉱は50年8月、昭和電工から東海産業に買収されました。その2カ月後、当時の労働組合の委員長をはじめ、組合の幹部や私たち青年部で活動していた39人がレッド・パージされました。2年前にも1300人の首切り攻撃があり、350人の指名解雇で妥結しました。そのなかに、多くの共産党員が含まれていました。
 共産党の細胞(支部)会議に出たら、70人ぐらいが集まっていました。組合の代議員大会でも100人足らずです。いかに共産党が日本再建の役割を果たしたか証明しています。会社はその共産党が憎たらしくて首を切ってしまえということになったと思います。
 51年10月21日、マッカーサーの占領政策を中傷・ひぼうしたと、政令325号違反で突然逮捕されました。逮捕の理由は、千歳の米軍基地内で女性にたいする暴行事件があって、高校生が殺されたと報じる壁新聞を張ったことでした。
 裁判もでたらめでした。一度の取り調べもなしに、一審で懲役10カ月を言い渡されました。保釈金2000円。私はお金がなく、組合の仲間が2000円を持って車で迎えにきました。
 判決が出た後すぐに共産党の専従活動家になりました。みなさんにぜひ知ってほしいのが、警察が税金を使って、犯罪者でもない共産党の専従活動家のあとをいつも追っていたことです。見ず知らずの火葬場のおじさんが助けてくれたこともありました。心ある人たちは日本共産党を支援し、守ってくれたんです。
(
2015年12月11日,「赤旗」)

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レッド・パージ65周年の集い/被害者の訴え/松田ゆきさん(89歳)/川瀬功治さん(88歳)

 「戦争法廃止 語りつごう戦後最大の人権侵害」と題して東京都内で6日開かれたレッド・パージ65周年のつどいでの被害者の訴えを順次紹介します。

いい先生に思い断たれ/松田ゆきさん(89歳)
 私は、東京都墨田区の小梅小学校で6年生の担任だったときにパージされました。
 1950年2月、校長が応接室に私と他の3人を呼んで非協力的で遅刻が多い≠ニ退職を勧告しました。全く身に覚えがありません。父兄や先生は「後の生活が成り立つように勧告を受け入れて辞めたらどうですか」と言うけれども、私たちは退職の辞令など受け取ることはどうしてもできませんでした。
 2月末、東京の教育長が学校にやって来ました。生徒は「先生を辞めさせることをやめたら、この扉を開けてあげる」と言って、教室の外から戸をしっかりと押さえました。
 3月、長靴を履いたままどたどたと進駐軍の将校2人が学校にやって来ました。「もう辞めなきゃならない先生に教わってはいけないんだよ」と言い始めました。話が始まった途端に生徒全員が立ち上がって、騒ぎ始めました。ほかの教室の子どもたちもやって来て、頑張れ、頑張れ≠ニ言いました。生徒たちが、2人の将校と校長を後ろ向きにどんどん押し戻しました。
 結局、私たちは教壇を追われました。
 職業紹介所で紹介してくれたお店や会社では、「あなたはアカだったそうですね」と言われ、就職できませんでした。
 一緒にパージされた3人の先生方は、民主教育を熱心に研究していました。私は先輩に学んでいちずに、ただいい先生になりたいと思って励んでいたのです。こういう思いを断ち切ってしまったレッド・パージを今思い出しても許すことはできないのです。
 名誉回復と国家賠償を求めてたたかっております。みなさんのご支援をよろしくお願いします。

組合運動を変質させた/川瀬功治さん(88歳)
 私は、関東配電(現在の東京電力)でパージされました。
 忘れもしない。1950年の8月26日朝。立川にある多磨支店に出勤しました。入り口に私と日本電気産業労働組合(電産)の分会長の2人の名前が記された首切り通告書が張り出されていました。
 私は席に着いて仕事をしようとしたら、靴のままの私服の刑事から「あなたはこの建物の中に入ってはいけないという命令書が出てるんだから出なさい」と腕ずくでつまみ出されました。
 解雇の際、その理由は示されませんでした。後の裁判で会社が明らかにしたことによると、業務の運営に協力しないことなどを名目に、共産党員または同調者を企業から排除するという方針だったのです。
 私たちが所属していた電産は電産型賃金と呼ばれる、全産業の模範となる賃金体制をつくり上げ、当時の産別会議の中心でした。電産の被害者は2137人です。全産業で最大です。日本の労働組合運動は大きく変質しました。
 私たちは、解雇撤回を求めて、退職金の受領を拒否して裁判に持ち込みました。マッカーサー指令は超憲法的処置として退けられてしまいました。
 東京中心の被害者で電産東京8・26会を立ち上げて、この怒りを忘れないと毎年集会を開いてきました。
 レッド・パージは、当時の吉田内閣と財界が協力して、憲法が定めた基本的人権を無視して強行したものです。職場での形を変えた思想差別も続いていると思います。
 名誉回復と損害賠償を実現させたい。戦争法を廃止し、安倍内閣を退陣させたい。私の孫の将来のためにも、人権が守られる本物の民主国家、戦争をしない国を残したい。
(
2015年12月09日,「赤旗」)

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レッド・パージ語り継ぐ/平和・人権、決意新た/65周年の集い

 「憲法破壊許さぬ! 戦争法廃止! 語りつごう戦後最大の人権侵害レッド・パージ」と題するレッド・パージ65周年のつどい(主催・実行委員会)が6日、東京都内で開かれました。110人が参加。謝罪、名誉回復と国家賠償を行う特別法制定を求めるアピールを採択しました。
 2度にわたって、政府に救済勧告を出した日本弁護士連合会の宇都宮健児元会長が講演しました。宇都宮氏は、1949年から50年にかけてアメリカ占領軍の示唆をうけた日本政府と財界が公務や民間を問わずに共産党員や労働組合活動家らを職場から強制的に排除したパージの全体像を紹介。犠牲者は3万人ともいわれます。「戦争法廃止とレッド・パージ救済は同一線上のたたかいで、多くの国民が知るべき事柄だ」と強調しました。
 「今も怒りは消えない」として教員、電産、炭鉱、鉄鋼、公務員、全逓の被害者が告発。関東配電(後の東京電力)でパージされた川瀬功治さん(88)は「孫の将来のため、人権が守られる国、戦争法廃止へ頑張りたい」と訴えました。
 小田川義和実行委員長(全労連議長)が主催者あいさつ。日本自治体労働組合総連合の猿橋均委員長、新日本婦人の会の米山淳子副会長ら各分野から発言がありました。日本共産党の畑野君枝衆院議員が連帯あいさつしました。
(
2015年12月07日,「赤旗」)

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レッド・パージは国民を弾圧/若者に体験伝えよう/埼玉連絡会が総会

 レッド・パージ反対埼玉連絡会は11月28日、川越市内で第4回総会と講演会を開きました。
 日本共産党員であることを理由に1950年前後に職場を解雇された、県内在住の被害者の体験を伝えるパンフレット『聞いてください! 私のレッド・パージ体験』の普及や被害者の名誉回復と国家賠償を求める国会への請願署名、埼玉弁護士会への人権救済申し立てなどの活動を引き続き強めていく方針を確認しました。
 高木太郎弁護士が講演。非正規労働者の増大など今日の働く現場の実態を報告し、労働者が声をあげられない状況がレッド・パージの時代と共通していると語りました。レッド・パージで共産党員らが国民から切り離された一方で、被害者たちが民主的な組織をつくりあげてきたと指摘し「多数派を形成し、歴史の教訓として二度と繰り返さないために、若い世代に事実を伝えよう」と呼びかけました。
 参加者から、「レッド・パージは共産党員だけへの弾圧ではなく、国民への弾圧だ。人権侵害に反対するたたかいと運動を広げていきたい」などの発言がありました。
 共産党の伊藤岳参院埼玉選挙区候補が司会を務め、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟県本部の矢島恒夫会長、荻原初男共産党県委員長があいさつしました。
(
2015年12月04日,「赤旗」)

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映画/「杉原千畝 SUGIHARA CHIUNE」(日本)/気骨の人の半生、静かに

 第2次世界大戦下、外交官として赴任したリトアニアで、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ難民に、自らの判断で日本通過ビザを発給し、6000人もの命を救った杉原千畝。近年テレビドラマや舞台化もされ、知られるようになったが、映画は千畝が政府の訓令に背いて独断でビザを発給したわけを波乱の半生をもとに描き出す。
 1939年、リトアニアのカウナスに領事館開設のため領事代理として赴任した杉原千畝(唐沢寿明)と妻の幸子(小雪)。街には日本人の姿はなく、出迎えたのは、のち千畝の右腕となるペシュ(ボリス・シッツ)だ。
 映画は、語学堪能で各国に滞在経験もある千畝の、ペシュとの協力で身の危険を冒して集めた情報を日本に発信する有能な「諜報外交官」の一面も描いていく。
 独ソ不可侵条約締結、第2次世界大戦開戦の1939年、翌40年には日独伊3国同盟締結の時代だ。ユダヤ難民がビザを求めて日本領事館に殺到した。苦悩の末に彼は決断した。「領事の権限でビザを出しましょう」と。千畝が、来る日も来る日もペンを走らせ印を押す姿が感動的だ。
 「頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない」という彼には難民の命の危機に対する切迫感があった。上からの指示に抵抗し「すべてを失うことになっても人間として正直に生きる」選択をした。お国のためにと命が軽んじられた時代に、人間の尊厳を守った気骨の人を映画は静かに描いた。監督チェリン・グラック。
 (うすいすみえ・映画ライター)
 5日から、全国東宝系で公開
(
2015年12月02日,「赤旗」)

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(11月)

全ての被害者救済へ/レッドパージ65周年でつどい/来月6日

 「憲法破壊許さぬ! 戦争法廃止! 戦後最大の人権侵害 語りつごう レッド・パージ」と題するつどいが12月6日、全労連会館で開かれます。
 65年前、4万人を超える労働者を、有無を言わせず職場から追放するレッド・パージが起きました。これを契機に労働組合運動、民主的運動への全面的な弾圧が始まりました。
 元日弁連会長の宇都宮健児さんが「全てのレッド・パージ被害者の名誉回復と補償を含む救済措置を」と記念講演します。
 今も怒りは消えないと、電産、鉄鋼、炭鉱、教員、公務員、全逓の被害者が告発。私たちはこう考えると、労働、法曹、民主団体、青年、女性、争議団の各分野から発言があります。
 午後1時30分〜5時20分、参加費(資料代)500円、問い合わせ先=レッド・パージ反対全国連絡センターрO3(3576)3755
(
2015年11月27日,「赤旗」)

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レッド・パージ65周年のつどい/来月、東京で

 「レッド・パージ65周年のつどい」が12月6日(日)午後1時半から5時20分まで、東京都文京区の全労連会館2階ホールで開かれます。同実行委員会の主催です。
 メーンタイトルは「憲法破壊許さぬ! 戦争法廃止! 語りつごう戦後最大の人権侵害 レッド・パージ」。戦後初期、アメリカ占領軍と日本政府、財界が、日本共産党員とその支持者であるというだけの理由で推定4万人もの労働者を職場から追放したレッド・パージから65年。被害者は高齢になり、早期の名誉回復と国家賠償を求めています。
 つどいでは、元日本弁護士連合会会長の宇都宮健児氏が記念講演。レッド・パージ被害者が体験を告発し、労働、法曹など各分野の代表が発言します。いまも続く職場での思想差別・人権侵害、派遣切りなどの根はどこにあるのかを考えます。
 参加費500円。会場はJRまたは地下鉄御茶ノ水駅から徒歩10分。問い合わせ先=レッド・パージ反対全国連絡センター
03(3576)3755
(
2015年11月20日,「赤旗」)

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10月)

レッド・パージ65周年/12月集会へ実行委開く

 「レッド・パージ65周年のつどい」の第1回実行委員会が9月30日、開催されました。つどいは12月6日に全労連会館ホールで行われます。メーンタイトルは「憲法破壊許さぬ!! 戦争法廃止!! 語り継ごう 戦後最大の人権侵害 レッド・パージ」です。
 レッド・パージは、戦後初期、アメリカ占領軍と日本政府、財界が、日本共産党員とその支持者であるというだけの理由で、推定4万人もの労働者を免職・解雇したという戦後最大の思想弾圧、人権侵害の事件です。
 レッド・パージ被害者は高齢になり、早期の名誉回復と国家賠償を求めています。実行委員会では、戦争法を廃止し、日本に立憲主義、民主主義、平和主義をとりもどすたたかいを発展させるためにも、今回の「つどい」を大きく成功させようと話し合いました。
 「つどい」では、日弁連元会長の宇都宮健児弁護士の記念講演やレッド・パージ被害者の生々しい体験にもとづく「訴え」、労働など各分野からの連帯のあいさつなどが予定されています。
(
2015年10月02日,「赤旗」)

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(9月)

節目迎える党員にお祝い/敬老の日を前に共産党宮城県委

 日本共産党宮城県委員会は、毎年敬老の日に、節目を迎える党員を県・地区の役員が訪問し、お祝いしています。今年は白寿(99歳)1人、卒寿(90歳)が17人、米寿(88歳)が19人、傘寿(80歳)が68人です。
 中島康博県委員長と大内真理県議候補は16日、仙台市宮城野区にある高齢者福祉施設「宮城野の里」を訪れ、卒寿を迎える石垣元子さんと、米寿を迎える黒田文江さん、橋春治さんに記念品を手渡し、懇談しました。
 県委員長が、「一番の思い出は」と聞くと、石垣さんは、党仙台地区委員長を務めた夫の故石垣達郎氏を支えたことを語りました。
 黒田さんは革新仙台市政時代に市議として活動したこと、高橋さんは国鉄をレッドパージされ、党の専従となり、機関紙の仕事をしたことを話しました。
 3人は、宮城野区初の県議を誕生させようとがんばっています。
(
2015年09月22日,「赤旗」)

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レッド・パージ名誉回復求める/北海道懇話会

 「レッド・パージ被害者の名誉回復と補償を求める北海道懇話会」は5日、札幌市内で第6回総会を開き、レッド・パージ被害者の救済とあわせて戦争法案廃案、安倍自公政権退陣を求める運動方針を決めました。
 舛甚秀男事務局長が活動報告と方針提案。被害者の名誉回復と補償を求める署名活動を発展させることや、語り部活動に取り組むことなどを決めました。
 討論では「平和を求めて立ち上がった若い人たちを脅かす政治家がいる。現代のレッド・パージだ」「安倍首相は憲法とは異質の国家をつくろうとしている。クーデターというべきものだ」など怒りや決意が相次ぎました。
 28人の新役員を選出。日本共産党道委員会の千葉隆書記長、治維法同盟道本部の宮田汎会長が連帯あいさつし、札幌地区労連ローカルユニオン結の木村俊二書記長がブラック企業とのたたかいを講演しました。
(
2015年09月08日,「赤旗」)

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(8月)

潮流

 東京・豊島区の新文芸坐で戦後70年の特集上映が行われています。今井正監督の「ひめゆりの塔」(1953年、東映)が上映された23日は、女学生を演じた女優・香川京子さんがトークしました▼撮影中のエピソード、「伝えなきゃ」という使命感、ひめゆり学徒隊の卒業式(79年)にTVリポーターとして参加したこと。再び戦争の時代が来ようとしていることに「若い人を犠牲にしないで」と抗議します▼この映画は当初、大映で撮るはずが占領軍の横やりで中止に。「朝鮮戦争がはじまって、戦争を扱った映画は当分製作を見合わせろ、ということ」だったと今井監督は振り返っています(『今井正の映画人生』)▼50年当時、各職場ではレッドパージの嵐が吹き荒れていました。東宝争議で会社を追われた山本薩夫、亀井文夫監督たちは、自分たちで映画をつくろうと独立プロを設立します▼社名は新星映画社。第1作はフリーになっていた今井監督が前進座と組んだ「どっこい生きてる」。失業者が一家離散を乗り越え、歩み出す姿に自分たちの志を重ねました。題をつけたのは伊藤武郎社長。画面に文字が映し出された時、「涙が出て何にも見えなくなってしまった」と回想しています▼独立プロの作品に積極的に出演した香川さんは、「世の中にはこんなに苦しんでいる人たちがいると教えられた」と。29日から、彼らの軌跡を追う映画「薩チャン正ちゃん〜戦後民主的独立プロ奮闘記」が公開されます。先人たちの努力に学びたい。
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2015年08月25日,「赤旗」)

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いま注目の独立プロ映画/ドキュメンタリー映画「薩チャン正ちゃん」公開/米占領軍の弾圧とたたかって生まれた

 1950年代、大手映画会社を離れ、民主的独立プロ≠ナ名作を送り出した映画人たちがいました。その軌跡を紹介したドキュメンタリー映画が29日から公開されます。戦後70年の今年、なぜ注目されるのか―。

4監督を描く
 映画「薩チャン正ちゃん〜戦後民主的独立プロ奮闘記〜」(池田博穂監督)が扱うのは、おもに山本薩夫(薩チャン)、今井正(正ちゃん)、新藤兼人、家城巳代治(いえき・みよじ)の4監督。陰惨な天皇の軍隊を暴いた「真空地帯」(山本)や、被差別部落を舞台に人間の尊厳を描いた「橋のない川」(今井)など、タブーなく戦争や社会の実相に迫りました。
 独立プロ誕生の背景にあったのは―。
 戦後の民主化運動の高揚で、東宝の労働組合は企画権などを獲得。映画評論家の石子順さんは、「東宝の山本さんや今井さん、黒澤明さんたちは、反戦平和や民主主義をうたう作品で観客の心をとらえた」と話します。
 しかし、米占領軍は労組弾圧へ乗り出します。48年の「来なかったのは軍艦だけ」と言われた第3次東宝争議で労組は「暴力で文化は破壊されない」とたたかいます。東宝は山本監督ら日本共産党員20人を解雇。共産党員と支持者のレッドパージで映画界から137人が追われました。
 50年、山本監督らは東宝争議解決金で、暴力団追放の実話を基にした「暴力の街」を自主制作。この年、弾圧に遭った映画人らが中心となり、独立プロを次々設立します。
 51年の、日雇い労働者の奮闘を描いた「どっこい生きてる」(今井)を皮切りに、青春を断ち切られた特攻隊員を描いた「雲ながるる果てに」(家城)などが作られました。農村女性の苦難の一代記を通し、見る者に希望を与えた「荷車の歌」(山本)は、農村女性のカンパで制作しました。
 石子さんは、「資金的に厳しい中で、作り手と演じ手、配給、見る側が一緒になりつくった」と言います。

人気作が次々
 社会の矛盾に鋭く迫り、娯楽性にもあふれた作品群は、毎年『キネマ旬報』ベストテンに。その人気から映画企業は、追放した監督たちとの仕事を再開。今井監督の「ひめゆりの塔」は大ヒットし、経営不振の東映を立て直しました。山本監督はパージから12年ぶりに大映で「忍びの者」を撮り、忍者ブーム≠起こします。「独立プロの監督が、戦後の日本映画を引っ張ってきました」(石子さん)
 「薩チャン正ちゃん」を撮った池田監督は、山本・今井両監督の助監督でした。「師匠や仲間たちの思いを継承していくんだという決意で作りました。憲法論議が俎上(そじょう)にのぼる今こそ、あの熱気、あの生き方に触れてほしい」

 この企画は、板倉三枝、山本長春、湯浅葉子の各記者が担当しました。

■「薩チャン正ちゃん」
 早乙女勝元、山田洋次、降旗康男、香川京子、高橋エミら各氏の証言や名作の紹介、記録映像でつづります。ナレーターは山本亘、朗読は中原ひとみ、江原真二郎、赤塚真人

■上映案内
 29日から東京・新宿K’s cinemaで公開、順次全国で。94分。「真空地帯」など12作も特集上映。詳しくは新日本映画社
03(3496)4871

独立プロの名作特集上映の12作品(制作年順)
「原爆の子」 1952年 新藤兼人監督
「真空地帯」 1952年 山本薩夫監督
「雲ながるる果てに」 1953年 家城巳代治監督
「にごりえ」 1953年 今井正監督
「ともしび」 1954年  家城巳代治監督
「愛すればこそ」1955年 吉村公三郎・今井正・山本薩夫の3監督によるオムニバス
「姉妹」 1955年 家城巳代治監督
「浮草日記」 1955年 山本薩夫監督
「荷車の歌」 1959年 山本薩夫監督
「キクとイサム」1959年 今井正監督
「裸の島」 1960年 新藤兼人監督
「橋のない川 第一部」 1969年 今井正監督
(
2015年08月23日,「赤旗」)

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文化の話題/映画「薩チャン正ちゃん〜戦後民主的独立プロ奮闘記」/江原真二郎さん/中原ひとみさん

俳優江原真二郎さん・監督たちの物の見方が私に/俳優中原ひとみさん・貫かれた生き方素晴らしい
 戦後の日本映画界に、反戦平和、ヒューマニズムの精神あふれる名作を送り出した巨匠たち。ドキュメンタリー映画「薩チャン正ちゃん〜戦後民主的独立プロ奮闘記」は、山本薩夫、今井正両監督ほか、1950年代のレッドパージ(赤狩り)に抗してどっこい生きてる≠ニ作品を生みだした映画人の活躍を伝えます。ナレーションを務めた俳優の江原真二郎さん、中原ひとみさん夫妻にききました。
 (児玉由紀恵)

 江原さんは、東映京都撮影所の大部屋俳優だったころ、今井監督の「米」(1957年)で主役に抜てきされます。霞ケ浦の農家の職のない次男の役。貧しい農村の実態を描いて高い評価を受けた作品です。
 「京都から夜行列車で東京の東映撮影所に連れていかれました。眠くてしようがないのに、数人いた面接の人から上半身裸になってくれと言われ、何だ、このやろう≠ニ思った。その時の目が役に合うということで決まったようです」

今井監督が世界文学全集を読めば、と 
 今井監督の「純愛物語」(57年)でも主役を務め、「あれが港の灯だ」(61年)でも主人公の在日朝鮮人の役に起用されました。
 「専門学校中退の身の僕に今井先生が、世界文学全集を読めば大学へ行くのと同じだよ≠ニおっしゃり、ズラッとそろえたものでした。田舎に引っ込んでいても起用される俳優になりなさいとも言われましたね」
 中原さんは、「米」で江原さんの妹役を演じ、「純愛物語」でも共演。原爆症の少女と不良少年の、出会いと悲痛な別れが胸をうつ作品です。
 「今井先生は気に入らなければ何回も撮ると聞いていたのに、『純愛物語』ではスラスラいきました。妥協されてるのではと不安になって先生の顔を見るとバンビ(中原さんの愛称)、1回でオーケーになる方がいいんだよ≠ニおっしゃったのを思い出します」

役柄になりきる家城監督の教えを守って 
 2人は、家城巳代治監督の、働く青春を描く「裸の太陽」(58年)「素晴らしき娘たち」(59年)でも共演しています。中原さんは55年に初めて家城監督の「姉妹」に出演。しとやかな姉とは対照的に明るい役柄を好演し、代表作の一つになりました。
 「家城先生には、役柄になりきるように教えられました。この役のように普段から活発で天真爛漫でいるように仕向けられ、私はすっかりそうなりました。『米』の時は、田植えができるくらいまで練習させられたり、紡績工場が舞台の『素晴らしき娘たち』では糸をつむげるようになるまで励んだものです」
 当時、東映の専属だった中原さんは年に十数本の映画に出演する売れっ子。
 「いろんな監督さんの作品に出て、はい、そこで目線落として≠ニか指示されるまま応じて撮影が終わるという状態でしたね。そんななかで、今井先生や家城先生の作品に出て、俳優として人間として育てられて私の土台を築いてもらった気がします」

撮影現場での山本監督すごいなぁ、と 
 江原さんは、山本薩夫監督の痛快な権力風刺「にっぽん泥棒物語」(65年)や、大作「戦争と人間」(70〜73年)に出演しています。
 「山本監督は、『にっぽん泥棒物語』の時は、撮影中に自分から笑い出したり、現場の雰囲気をとても明るくつくっていました。ところが、『戦争と人間』の時は、まるで違う。すごいなぁと思いました。家城、今井、山本という監督たちの物の見方が僕の身についている。貴重な出会いでした。役者も自分のシンみたいなものをしっかり持っていなければと思います」
 中原さんも「どうでもいいや、という生き方では仕事はできないと心がけています。監督さんたちの貫かれた生き方が素晴らしい。今度の映画でぜひ多くの人に知っていただければ」と語ります。

映画「薩チャン正ちゃん〜戦後民主的独立プロ奮闘記」
 東宝争議で同社を解雇された山本薩夫監督は、解決資金で「暴力の街」(1950年)を発表。この成功で山本監督や亀井文夫監督らは独立プロの新星映画社を発足させます。映画界をも襲うGHQ(連合国軍総司令部)によるレッドパージ(共産党員と同調者の追放)で大手の会社では撮れない映画人の生きる道でした。第一作は日雇い労働者を描く今井正監督の「どっこい生きてる」(51年)。
 新藤兼人、吉村公三郎監督らは松竹を辞めて50年に近代映画協会を結成。家城巳代治監督は同年、松竹をパージされました。
 監督たちは独立プロを拠点に活躍。やがて大手映画会社からの誘いも受け日本映画史に刻まれる名作を送り出します。苦節の日々の涙と笑い、市民とも手を携えた映画作り。その軌跡を、香川京子、早乙女勝元、高橋エミ、降旗康男、山田洋次の各氏ほかの証言、名場面、記録映像を交えて描きます。「今こそ、あの熱気、あの生き方に触れてほしい」(監督の池田博穂さん)

 「薩チャン正ちゃん」は29日から東京・新宿ケイズシネマで。9月4日までは「キクとイサム」「姉妹」「雲ながるる果てに」「真空地帯」「荷車の歌」「にごりえ」「裸の島」など12本の独立プロ作品も上映。同館рO3(3352)2471。順次全国で公開。
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2015年08月14日,「赤旗」)

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(7月)

レッド・パージ国賠訴訟/三度目の再審申し立て

 レッド・パージ国家賠償原告・弁護団は10日、最高裁に、同事件の第3次再審申立書を提出しました。再審原告3人を代表した大橋豊さんと訴訟代理人の新宅正雄弁護士及び酒井健雄弁護士らは同日、司法クラブで記者会見しました。
 大橋さんは「当事者は高齢で、救済が急がれている。このままでは死にきれない。日弁連は立派な救済勧告を出した。最高裁はキチンと憲法判断をしてほしい」と訴えました。同席したレッド・パージ反対全国連絡センター鈴木章治事務局長は「日弁連は、裁判所書記官の被害者からの申し立てを受けて最高最長官に救済勧告し、レッド・パージ問題の憲法判断を求めている」と語りました。
 新宅弁護士は、吉田内閣の「共産主義者等の公職からの排除に関する件」とする閣議決定を示し、レッド・パージが政府主導で強行された証しであり、憲法19条「思想良心の自由」の破壊であると主張しました。戦争法案など安倍政権の憲法破壊が強行されようとしている今日、憲法による統治ないし立憲民主主義のあり方を示すためにも、最高裁がレッド・パージに対する違憲判断を示すことが格段に要請されると強調しました。
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2015年07月17日,「赤旗」)

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日本共産党創立93周年によせて/各界からのメッセージ

 7月15日は日本共産党創立93周年記念日です。各界の著名人にメッセージを寄せてもらいました。

日本の未来切りひらこう/名護市長稲嶺進さん
 日本共産党の結党93周年、誠におめでとうございます。国民のくらしと平和な日本の実現に向け昼夜を問わず奮闘する党員と関係者の皆様に対し、心から敬意を表します。
 さて、現在の日本は戦争法案の強行採決や原発再稼働に代表されるように国民不在の状況にあり、沖縄でも、県民の圧倒的な民意を無視した辺野古新基地建設が強行されようとしています。こうした安倍政権の諸政策は、沖縄県民の誇りと尊厳を傷つけ続けています。
 今年は戦後70年の節目の年です。オスプレイの配備撤回、普天間基地の閉鎖と返還、県内移設断念を理念とした沖縄県民の総意である「沖縄建白書」の実現へ向け翁長雄志沖縄県知事と共に、市民運動の先頭に立ち最後まで頑張ります。
 立場の違いを乗り越え、「沖縄建白書」の実現へ向け「オール沖縄」に結集するきっかけをつくった皆様と共に「オールジャパン」で日本の未来を切り拓いていきましょう!

本格的野党、本当の出番/同志社大学教授浜矩子さん
 政府・与党のゴリ押しが言語を絶する。それが政治の現状です。本格的な野党の存在がこれほど大事だった時代はなかったと思います。政党としてよって立つところが明確であり、政権と対じする野党の役割を揺らぐことなく認識しているのが本格的野党です。日本共産党はこの両方を満たしているといえます。ここが本当に力の見せどころです。
 国会では駆け引きが必要な場面があるでしょうが、日本共産党は駆け引きによって自らの足元がおかしくなることがないという点が頼もしいところです。勇躍していただきたい。本当の出番が来ていると感じます。

国民目線でたたかえる/作曲家池辺晋一郎さん
 苦難の歴史を歩んできた日本共産党は、今や本当に一般の人の目線でたたかっていくことのできる唯一の党だと思います。暴走する政権に唯一徹底的に対抗できる勢力です。
 戦前を知らない人々の中で、戦前に憧れるかのような傾向が一部に見られます。社会が間違った方向に行こうとしているときに、正面切って正す党が必要で、それが日本共産党だと信じています。
 昨年、第2次大戦の「ノルマンディー上陸作戦」開始から70年の記念日に、世界19カ国の元首らがフランス北部ノルマンディーに集まりました。旧敵国のドイツからメルケル首相が出席していたのに驚きました。同首相は「(ナチス・ドイツのために)平和と自由を持たなかった人たちの経験をわれわれが生かし、平和と自由を強めなければならない」と発言しました。
 日本では謝罪をすると自虐史観だという声が上がる。それを軌道修正し、正しい歴史認識を持ち、日本の憲法を世界に誇るものとして守り、進める役割も日本共産党に期待しています。

暴走ストップの中心に/弁護士(元日弁連会長)宇都宮健児さん
 党創立93周年おめでとうございます。
 安倍政権の特徴は、社会保障を削減する一方で防衛費を増額し、海外で戦争する国づくりをすすめ、憲法9条と25条を同時に空洞化、破壊する政策を多くの国民や市民の反対を押しきって強行することにあります。
 安倍政権の暴走を止める役割が野党に求められる中で、日本共産党の役割はますます重要になってきています。安倍政権の政策と真っ向から対決する政党として、国民の支持と期待が広がって、この間の議席拡大につながっているのではないでしょうか。
 国会では戦争法案、労働者派遣法の改悪法案や残業代ゼロ法案などが審議中ですが、これをストップさせる役割と期待が大きくなっていると思います。
 これまでもがんばってこられましたが、今後も役割がますます重要になってくるでしょう。日本共産党には安倍政権の暴走をストップさせる中心的役割を担ってもらいたいと思っています。大いに期待しております。

真の平和、世に発信して/エッセイスト海老名香葉子さん
 戦後70年、この平和な毎日が永久に続きますように、ずっと戦後でいられますように、などと言われる方がいますが、私の本当の戦争は戦後から始まりました。
 生きる戦いです。幼い子が一人ぼっちで生きることは、どなたの心にも届かぬ苦しみ悲惨がありました。新しい家族にめぐり合えて、やっと生きる苦しみから解放されるまでの長い年月でした。それほど家族の愛は尊いものだったのです。
 人として戦争は始めも終わりも駄目です。決して地球上に戦争があってはなりません。正しい政治をどしどし進めてください。
 赤旗日曜版、若きも老いも、そうだ! とうなずきみていますことをお知らせ申し、歴史ある党のみなさまに、真の平和を世に発信して下さることを期待いたしております。

一番はっきりした言動/全日本仏教会元会長(天徳山龍門寺住職)河野太通さん
 日本共産党の創立93周年、まことにおめでとうございます。
 いまの日本は、再び戦争への道を歩むのか、「3・11」であれだけの災害を起こしたのにまだ原発を続けるのか、がきびしく問われています。
 私は仏教者で、特定の党派の立場に立つものではありません。それでも、憲法9条擁護や、集団的自衛権行使反対、原発の再稼働反対で、一番はっきりものを言って行動しているのは共産党だと思っています。
 今後も、日本国民の平和と安全のために尽力されることを期待しています。

鋭く、かつ、まろやかに/脚本家ジェームス三木さん
 私は日本の植民地だった「満州」で生まれ育ち、太平洋戦争時は小学生でした。天皇のために戦死する考えでしたが、終戦。神と信じていた天皇は人間でした。
 この戦争に反対して、弾圧され続けていた政党があった、それが日本共産党でした。創立93年、おめでとうございます。
 戦後、大阪に引き揚げたわが家に、父の部下の生命保険会社員がよく来ていて、民主主義の前進を熱心に語りました。その人が置いていったと思われる共産党機関誌『前衛』がわが家にありました。俳優養成所など社会のそれぞれの時期、場所に共産党員がいました。
 常に虐げられた人々の味方、それが共産党の原点でしょう。このままでは核兵器で地球が滅亡してしまうかもしれない時代、日本では安倍政権の時代錯誤な「富国強兵」路線が続いています。日本共産党があらゆる問題の本質にぐさっと切り込む、それでいてまろやかな党であってほしいと願います。

頼れる野党、今こそ出番/立教大学コミュニティ福祉学部教授芝田英昭さん
 戦前は多くの党員が検挙されて命を落とすなか「戦争反対」を貫き、戦後は社会保障の発展に大きく貢献してきましたね。あと7年で1世紀。長きにわたって一度も党名を変えない、理念がはっきりした政党だと思います。
 最近の国政・地方選挙で、共産党が議席、得票を大幅に伸ばしているのも、頼れる野党は共産党しかない≠ニいう国民の危機感と期待の表れです。
 実際、徹底した調査に基づく共産党の国会質問は秀逸です。戦争法案廃案や原発ゼロなど各分野の国民運動が盛り上がりを見せている一因に、この党の存在があることは疑いありません。
 国が戦争に向かう時、社会保障は常に切り捨てられてきました。「戦争する国」と「平和・社会保障を充実する国」は相反するものです。今はとりわけ危機的な状況です。であるが故に、共産党の出番です。社会保障の大改悪を繰り返す安倍政権と、まともに対峙できるのは共産党しかありません。

父の言葉、今ひしひしと/絵本作家武田美穂さん
 両親(父親は映画監督・脚本家・プロデューサーで元大映専務の武田敦さん、母親は女優の岸旗江さん)は、ずっと日本共産党を応援していました。わたしはというと、母がレッドパージにあい、女優としての活躍の場を狭められたのを聞かされていたし、政治になじまず、距離を置いていました。
 でも、ここ数年の状況に、それじゃだめだと改めて世の中の動きをみたとき、与党に対してぶれずに、真っ向勝負で、きちんとした対立軸の役割を果たしているのは、共産党でした!
 安倍政権は議会制民主主義そのものを踏みにじっています。共産党のように頑張ってくれる政党がなかったら、日本はどうなっちゃうのか、とさえ思います。
 父は「1面から3面だけでもいいから新聞は何紙か読むといい。その中の一つに『赤旗』をいれてくれるとうれしい。世の中がどうなっているか、本当のことがわかる」と繰り返し言っていました。今、その意味をひしひしと、感じています。
 頑張ってください。

1本の筋通した党に敬意/映画監督降旗康男さん
 93年という長い間、1本のスジを通した政党は日本にはほかにありません。敬意をはらっています。
 本来なら「おめでとう」と言いたいところですが、今の事態のなかで、「おめでとう」とばかりも言っていられません。
 世論と逆行して、勝手に議会の多数の力で政策が決められていくことに、どう対処していくか。
 世論を背負いながら、今まで蓄積してきた力を十分に発揮して、どうかたたかいを先導していただきたいと思っています。
 そうすれば共産党を中心に大勢の人が集まってくる可能性が開けてくるのではないかと、僕ら年配の者は願っております。
 奮闘を期待しております。
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2015年07月14日,「赤旗」)

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(6月)

レッド・パージ/国家賠償特別法制定を/被害者ら交流会

 レッド・パージ被害者の名誉回復と国家賠償を内容とする特別法の制定を求めて請願署名活動などを交流する全国集会が1日、参院議員会館内でおこなわれました。主催はレッド・パージ反対全国連絡センター。被害者や支援者ら50人が参加し、運動を広げるために意見交換しました。
 レッド・パージは、1949年から51年にかけて、アメリカ占領軍の示唆をうけた政府と財界が、4万人以上といわれる日本共産党員や労働組合活動家を強権的に解雇した戦後最大の人権侵害事件です。当時20代の若者だった被害者も85歳をこえています。日本弁護士連合会(日弁連)は2度、速やかな名誉回復と被害救済をするよう政府に勧告しています。
 北海道、埼玉、神奈川、兵庫などから活動が報告されました。「いまおこなわれている雇用破壊阻止の労働者のたたかいと結びつける必要がある」「ブラック企業に苦しむ若者に関心もってもらおうと、『私のレッド・パージ体験』を語ってもらってパンフにした」との発言がありました。
 来賓として、全労連と国民救援会の代表、日本共産党の畑野君枝衆院議員があいさつ。「父もレッド・パージ被害者で、生きてこの交流集会に参加できたらどんなに喜んだか」と切り出した畑野議員は、日弁連の勧告に触れながら法務委員として役割を果たしたいと語りました。
 交流集会に先立って国会請願行動をおこない、日本共産党の仁比聡平参院議員と清水忠史衆院議員に署名を手渡しました。
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2015年06月02日,

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共産党国会議員のあいさつ・交流

 ……1日 
 仁比聡平参院議員、畑野君枝、清水忠史衆院議員 特別法制定を求める国会請願行動&全国交流集会(レッド・パージ反対全国連絡センター)署名を受け取りあいさつ
 ……29日 
 吉良よし子参院議員、藤野保史衆院議員 原発ゼロ、再稼働反対抗議行動(首都圏反原発連合)に参加しスピーチ
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2015年06月02日,「赤旗」)

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(5月)

レッド・パージ/犠牲者の権利回復を/大阪連絡センターが総会

 レッド・パージ反対大阪連絡センターは23日、2015年度の総会を大阪市内で開催し、1949年から50年にかけて、日本共産党員やその同調者であることを口実に解雇された被害者と支援者ら30人が参加しました。
 総会では、橋本敦弁護士が記念講演。橋本氏は、レッド・パージのたたかいは、犠牲者の権利回復と日本の歴史の誤りを正す正義のたたかいであると同時に、過去の問題ではなく現代的な人権課題だと強調。歴史の誤りを正す正義の実現が諸外国にくらべ、重大な立ち遅れがあると指摘し、国政の革新に取り組もうと呼びかけました。
 討論では、90歳前後になったレッド・パージ被害者が、「生きているうちになんとしても名誉の回復と国家賠償を実現したい」「レッド・パージのひどさと苦労を自らの言葉で語り、若い人の中にも運動を広げていきたい」などと発言。支援者からも「粘り強く運動していきたい」などの声があがりました。
 日本共産党大阪府委員会の柳利昭副委員長が、安倍政権の憲法破壊の暴走が強まる一方、国民のたたかいと世論も、大阪市住民投票の結果に見られるように大きく広がっていると強調し、レ・パ反対運動の前進を呼びかけました。
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2015年05月30日,「赤旗」)

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(4月)

月曜インタビュー/声楽家檀上さわえさん/歌でたたかい励まして67年/心に秘めた思いを引き出す

 たたかいの現場で伸びやかなソプラノを響かせ、労働者を励ましてきた声楽家の檀上さわえさんが、67年の音楽人生を『にほんの女・愛・そして平和』(2枚組CD&BOOK)にまとめました。今も現役でコーラスの指導を続ける檀上さん。「気負わず、コツコツとやってきたことの結果」と朗らかに語ります。
 (中村尚代)

 うたごえ運動の創始者で声楽家の関鑑子が創立した中央合唱団の一期生です。
 「CDを聴いた友人が『あら、さわえさんって、いい声だったのね』なんていうのよ。昔は、関先生に『蚊の鳴くような声を出して、ものになるの?』って言われたのにね。ふふっ」
 ハキハキとした口調に、よく通る声。身ぶり手ぶりを添えて軽快に語ります。
 今回のCDには、リサイタルなどで録音が残っていた150曲の中から44曲を選んで収録しました。荒木栄、木下そんき、高平つぐゆきなど、うたごえ運動を支えてきた作曲家の名前が並びます。
 率直な歌詞が胸を打つ「一度でよい」は、共同印刷で働く17歳の少女が、レッド・パージ(日本共産党員などの職場追放)が吹き荒れる中、職場新聞に投稿した詩から生まれた歌です。
 「母親を温泉につれていくため、死ぬまでに一度でいいからお金がほしい≠ニいう切実な願いに共感して大切に歌ってきました」
 三池炭鉱の合理化反対闘争や、夕張の炭坑ガス爆発事故の現場にも駆けつけました。「みなさん、中央合唱団です!」の一声で空気が変わり、労働者は士気を高めたといいます。
 「コツコツやってきたことをまとめたので若い人たちに聴いてもらえたらうれしいです。うたごえ運動を研究する人が出てきたときに『ああ、こういう歌手がいたんだな』と思ってくださったらいいですね」

よい発声方法/歌に説得力を
 大阪で関西合唱団の創設に参加した後、関鑑子のもとで音楽を学ぼうと17歳で東京へ。それまで専門の音楽教育を受けたことはありませんでした。2カ月の修業≠フつもりが、気付けば中央合唱団の団員となり、うたごえ運動の担い手として忙しい日々を送るようになりました。心がけたのは、自分の生活実感に軸足を置いて歌うことと、よい発声方法を身につけて歌に説得力を持たせること。
 「音楽で世の中は変えられないけれど、芸術や音楽には人間が心の奥に秘めたものを引き出す力があると思います。世の中を変えるのは大多数の国民。その願いをあとおしできるのではないでしょうか」
 40代半ばで独立し、20年で10回のリサイタルを開きました。仙台、福島、神戸、広島、浜松の合唱団や大学の合唱団、劇団から指導者として招かれ、全国を飛び回りました。多忙な中でも学校のPTA活動には積極的に参加し、「そのころの友人とは、今でもさまざまな形でつながっていますよ」と楽しそうに話します。

半歩先を歌い一緒に考える
 14歳で終戦を迎え、戦後は関西配電(現・関西電力)に勤めました。労働組合に入り、何万人もの労働者がメーデー歌を生き生きと歌う姿に衝撃を受けます。「何のために、何を歌うのか」の気持ちは、そのころに芽生えたものです。
 「理想は、みなさんと共感できるちょっと先を歌うこと。こうでしょう≠ニ教えようとすると傲慢になる。関先生は、よく半歩先を歌って一緒に考えていく≠ニ話していました」
 集団的自衛権行使や、9条を変えようとする動き、沖縄・辺野古の米軍新基地建設についても、たたかう現場の思いに寄り添う歌が生まれることを願います。
 「たたかいの歌でも分かったつもりになっていないか、傍観者になっていないか≠ニいつも自分に問いかけてきたの。これからもそうでありたいですね」
 

 『にほんの女・愛・そして平和』の問い合わせは、03(3200)0101音楽センターへ。

 だんじょう・さわえ 1930年、大阪市生まれ。48年、中央合唱団に入団。76年からフリーの声楽家として活動。日本のうたごえ全国協議会常任委員会顧問。CD「檀上さわえが選ぶうたごえの名曲 美しき祖国のために」(音楽センター)発売中。
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2015年04月27日,「赤旗」)

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(3月)

レッドパージ救済を/熊本県弁護士会、首相に勧告

 熊本県弁護士会(内田光也会長)は23日、「レッドパージ犠牲者の名誉回復や補償を含めた適切な措置を求める勧告」を安倍晋三首相あてに行ったことを発表しました。日弁連や横浜、長崎、東京などの弁護士会に続き12例目です。
 勧告は、戦後GHQの指示で共産党員と支持者を公職や企業から追放した「レッドパージ」の犠牲者で熊本県在住の男女10人(遺族2人を含む)が2007年、県弁護士会に人権救済の申し立てをしていたものです。
 会見で内田会長は、調査・検討の結果、レッドパージに該当するものだとして「勧告した」と報告。調査をすすめた人権擁護委員会の藤田洋介委員長は、サンフランシスコ平和条約で主権を回復した後も一切救済をせず、日弁連などの勧告を放置する国の「責任は重大」と指摘しました。
 会見を傍聴した申立人の、梶原定義さん(88)は「戦後最大の人権抑圧事件。国は勧告に従い、過ちを認め謝罪してほしい」と述べ、米岡賢悟さん(87)は「当時の不当な扱いを忘れることはできない。国に名誉回復を求めたい」と話しました。
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2015年03月27日,「赤旗」)

レッド・パージ被害救済ぜひ/共産党議員団に全国センター要請

 レッド・パージ被害者の名誉回復と国家賠償などを求めて活動するレッド・パージ反対全国連絡センターは16日、衆参両院で議案提案権を得る躍進をした日本共産党国会議員団に、問題の解決と被害救済に力と知恵を貸してほしいと要請しました。仁比聡平参院議員、塩川鉄也、池内さおり、清水忠史の各衆院議員が、衆院第2議員会館内で対応し親しく懇談しました。
 鈴木章治事務局長が、ことしで65年になるレッド・パージと同センター結成の思いなどを説明しました。レッド・パージは朝鮮戦争を前にした1949年から50年にかけて起こりました。日本を「反共の防波堤」にしようとしたアメリカ占領軍のもと、政府と財界が共産党員や労働組合活動家を強権的に解雇し、暴力的に職場を追い出して、物言えぬ職場づくりをねらったものだと強調しました。
 日本弁護士連合会をはじめ九つの弁護士会が被害者救済を政府に勧告していることを紹介しました。
 関東配電(現在の東京電力)の組合でパージされた権田圭助さん(85)が、占領下当時の様子やパージのねらいを語り、「派遣切りなどいまの労働者のたたかいにつながるものです。ぜひいろんな形で取り上げてほしい」とのべました。
 小学6年生の担任を追われた松田ゆきさん(89)は、職を奪われ明日の食べ物に困る生活を強いられながら、名誉回復のため仲間とたたかっている人生は、意味があると語りました。
 塩川議員らは「要請を受け止め、みなさんの運動が前にすすむように一緒にがんばりたい」と激励しました。
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2015年03月17日,「赤旗」)

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(2月)

神奈川県レッド・パージ反対同盟、党県委と懇談

 神奈川県レッド・パージ反対同盟はこのほど、日本共産党神奈川県委員会と今後の取り組みなどについて懇談しました。
 同盟の加藤桝治事務局長は「総選挙勝利に力を尽くし、レッド・パージ被害者遺族の畑野君枝さんが当選し法務委員になったことを歓迎している」と述べました。
 宇都宮夕美子党県副委員長は、同盟の奮闘に感謝するとともに、「被害者の名誉回復を求める国会請願署名8000人達成へ、積極的に協力する」と述べました。
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2015年02月10日,「赤旗」)

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レッド・パージ、謝罪・賠償して/埼玉連絡会が総会

 レッド・パージ反対埼玉連絡会は5日、川越市で第3回総会を開きました。県内在住の被害者の浅野径(こみち)さん(85)、児島重助さん(89)、田中宗太郎さん(85)が体験を語り、国会への請願署名や埼玉弁護士会への人権救済申し立てなどの活動を総括、新年度に向けての方針を確認しました。
 レッド・パージは、1950年前後、アメリカ占領軍の指令で日本政府も積極的に関与して行われた、職場から共産党員や労働組合活動家を追放した思想弾圧事件です。被害者は国に名誉回復と国家賠償を求めています。
 官公庁に勤め、労働組合活動をしていた浅野さんは、占領政策違反だとして逮捕・実刑判決を受けるなどの苦難の体験を明かしました。郵便局を解雇された田中さんは「国は日弁連の勧告に従い謝罪と賠償をすべきだ」と訴えました。中外製薬を解雇された児島さんは「このままでは引き下がれない」と、たたかい続ける決意を語りました。
 伊須慎一郎弁護士が講演。低賃金で過酷な働かされ方をしている労働者の実態や安倍内閣による戦争する国づくりの狙いを語り、公正、平和、民主主義の社会を実現するための運動を呼びかけました。
 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟県本部の矢島恒夫会長、日本共産党の荻原初男県委員長があいさつしました。
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2015年02月08日,「赤旗」)

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1月)

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2015焦点・論点/NHK籾井会長1年と放送90年・戦後70年/メディア研究者松田浩さん

戦前の教訓と民主化の理念ふまえ「政権からの独立」取り戻そう
 今年は1925年(大正14年)に日本で初めてラジオ放送が始まって90年です。またこの1月は、安倍政権が送りこんだといえる籾井勝人NHK会長が誕生して1年という節目です。「籾井会長下のNHK1年」を放送の歴史と戦後70年の中でどうとらえるか―長く放送とメディアを研究してきた松田浩さんに聞きました。
 (小寺松雄)

 ―放送誕生はどんないきさつだったのでしょうか。
 松田 日本のラジオは、大正デモクラシーの流れのなかで産声を上げました。当初は新聞資本をバックに商業放送の予定でしたが、当時の犬養毅逓信相が「放送は偉大な広播力がある」ので「政府の監視容易な組織に」する必要があると社団法人でスタート。同年3月から東京、名古屋、大阪で順次放送が始まりました。ところが1年半後に政府は3放送局を強制的に「日本放送協会」に統合してしまう。これがNHKの前身です。日本の放送は当初から強力な「政府管理」下に置かれたのです。
 31年の「満州事変」を経て、放送は急速に軍国主義の宣伝機関となり、40年の内閣情報局設置を機に企画段階から政府の指導下に置かれるようになる。そして一路、「国家政策の徹底」「戦意高揚の道具」へと突き進んでいきます。

戦後再出発の試み
 ―45年、日本の敗戦で放送はどう変わりましたか。
 松田 アメリカを中心とする占領軍は、ポツダム宣言にもとづき戦前からの言論・出版の弾圧法規を廃止し、日本の民主化を進めます。NHKの中からも民主化運動が起き、労働組合が結成されます。
 46年1月には、占領軍の指導のもとでNHK民主化のための放送委員会が発足、新生NHKの会長として経済学者の高野岩三郎(大原社会問題研究所所長)を選出します。
 ところがアメリカの占領政策は47年ごろを境に「民主化」から「反共」へと転換、50年には労働分野を中心にレッドパージが行われ、こうして戦後の民主化に終止符が打たれるわけです。
 戦後の放送法制のもとになる電波3法(電波法、放送法、電波監理委員会設置法)のたどった運命も、時代に大きく翻弄されます。というのは、電波3法には、新憲法と同様に戦後民主化の理念と戦前の教訓が込められ、放送の政府からの「独立」と民主主義のための放送という基本理念が貫かれていました。ところが吉田茂内閣が「日本の独立」と同時に、民間人が政府から独立して放送行政を行う「電波監理委員会」の制度を廃止してしまった点です。
 ―直接、放送行政を握ることで、次々と放送の「独立」や「自由」を空洞化していったわけですね。
 松田 放送法では第3条の「放送の自由」(権力の不介入)が大前提なのに、予算を人質にとってNHKの放送に注文をつけたり、安倍内閣のように経営委員の任命権を使って政府の息のかかった会長をNHKに送り込みました。また、放送法第4条の倫理規定(「不偏不党」「政治的公平」「意見が対立している問題についての多角的論点解明」など)を勝手に解釈して、放送の自由に圧力を加えたりしています。
 そもそも第4条の精神は、放送が「言論・思想の自由市場」として十全に機能するよう政治の影響を排除し、言論の多様性を求めたもので、政府やその代理人の会長が、これを根拠に「放送の自由」を規制しようなどというのは本末転倒もいいところです。憲法や放送法の精神がまるでわかっていない。

籾井氏は「代理人」
 ―25日は籾井会長就任1年です。戦後のNHK再出発から70年という時点で、籾井会長はどのような位置を占めていますか。
 松田 籾井会長の本質は、安倍政権によって組織的に送り込まれた政権の代理人です。しかも自民党の望むNHKの「国策放送局」化を積極的に推進する役割を担っている。NHKの歴史始まって以来のことです。
 安倍政権は第1次政権時代以来、NHK支配に強い意欲を持ち、安倍氏を取り巻く財界人グループ「四季の会」と図って、福地茂雄、松本正之、籾井氏と3代にわたって「四季の会」とつながりのある財界出身会長をNHKトップに送り込んできた。だが、福地、松本両会長は放送面では自民党と一定の距離をとった。
 そこで今度は、政権の期待を一身に担う形で籾井会長が担ぎ出されたわけです。籾井会長は就任会見で、およそ公共放送のトップにふさわしくない暴言をはいて物議をかもしましたが、皆さまのNHK≠安倍さまのNHK≠ノ変えるべく送り込まれた人物が、不見識な発言しかできないのは当然です。

まず国民的議論を
 ―籾井会長は辞任を求める市民や退職者の声に耳を貸さずに居座り続けています。
 松田 政府からの自主・自律を生命とする公共放送のトップに、政府のヒモ付き会長が居座っていること自体が民主主義にとって大問題なのです。即刻、退陣願うこと、そして再び同じ轍を繰り返さぬよう、経営委員や会長の選任システムを国民世論で変えていくことが必要です。イギリスのBBCのように、公募・推薦制によって公開・民主の原則のもとに言論・報道機関のトップに最適任の見識の持ち主を選ぶ仕組みを確立することです。放送行政を政府から切り離す独立放送規制機構(独立行政委員会を含む)の設置は、いまや世界の大勢です。政府が放送行政を握っている国は、日本やロシアぐらいです。まず国民的議論を起こさなければ…。NHKの中でも働く人たちが力を蓄え、市民運動が彼らを包み込みながら大きなうねりを作り出していくことが重要です。

 まつだ・ひろし 1929年生まれ。日本経済新聞記者として長年、放送を取材。その後、立命館大、関東学院大教授を歴任(メディア論)。著書に『ドキュメント放送戦後史 
TU』(双柿舎)、『NHK〜危機に立つ公共放送』(岩波新書、新版)など。

この1年余のNHKと籾井会長をめぐる動き

13年10月 安倍首相を囲む財界人の「四季の会」会合に古森重隆元経営委員長、石原進現経営委員ら
   11月 安倍内閣が百田尚樹、長谷川三千子氏ら首相に近い4人を経営委員に任命
   12月 経営委員会が籾井勝人・元三井物産副社長をNHK会長に選出
14年1月 籾井会長が就任会見で「政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」など数々の暴言(のち取り消すが「考えは変わってない」と表明)
   2月 百田経営委員が都知事選で田母神俊雄候補の応援演説に立ち「南京虐殺は東京大空襲など米国の蛮行を隠すためのデマ」と暴言
   2月 浜田健一郎経営委員長が籾井会長について「自身の立場の理解が不十分」と「注意」(就任会見発言についで2度目)
   2月〜「放送を語る会」など7団体が会長辞任求める署名提出(署名7万超す)
   3月 国会でNHK予算承認、6野党が反対
   9月 退職者有志1572人が籾井会長の辞任を要求、代表7人が記者会見
15年1月 「爆笑問題」が年始番組で政治ネタを没≠ノされたと暴露。籾井会長はこれを受け、会見で「政治家ネタで個人名を出すのはやめたほうがいい」
(
2015年01月25日,「赤旗」)

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*     「政権とってほしい」と注文/年初から宣伝・対話、党勢拡大/神戸市(灘区)味口俊之市議

 味口俊之神戸市議(灘区)は、1日からほぼ連日宣伝し、10日までに支部と共に439軒を訪問して対話し、「赤旗」日曜版読者7人を増やしています。
 灘区委員会は、12日〜18日を「5千人対話、10人の党員拡大」を目標にした特別週間に設定しています。読者は、昨年12月まで8カ月連続前進させています。味口市議は、「対話するほどに、有権者の党への期待の大きさと、それに応える責任の大きさを痛感します。党旗びらきのあいさつを受けとめ、支部といっしょに活動の先頭に立つ」と決意を語ります。
 ドアを開けるなり「よかったですね。夫といっしょに喜んでいた」と相手から話して、「次は僕と、近藤秀子さん(県議候補)の選挙です」との訴えに、「協力しますよ」と日曜版を購読する人が相次ぎました。「この程度で満足せず、政権をとってほしい」と話す元自治会役員、「共産党の躍進を、父が草葉の陰で喜んでいると思う。職場をレッドパージで追われ、それでも節を曲げずに生き抜いた。私も、『赤旗』を読んで、ずっと応援し続けます」という人もいました。
 安倍政権の暴走への危機感も多くの人から出され、「私が一番怖いのは、安倍政権が戦争をすること。戦争は絶対にいやです。正面から対決してくれるのは共産党だけ」と、日曜版を購読した高齢者もいました。
 7日の灘区委員会の会議では、党旗びらきあいさつの「10年余の苦闘が実った」という部分が、大勢に共感をもって受けとめられました。「党づくりのとりくみ」で「コツコツと配達・集金にとりくんできたこと」が躍進に実ったという言及も、支部や党員の確信になっています。
(
2015年01月11日,「赤旗」)

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*     亡国の道許さない=^自由法曹団新春の集い/札幌

 自由法曹団北海道支部(佐藤哲之支部長)は7日、札幌市内で、新春の集いを開きました。弁護士や事務所員、事件関係者、支援団体の代表らが参加。日本共産党から真下紀子道議(代理)、小形香織札幌市議、市議候補らが出席しました。
 佐藤支部長は、安倍政権がすすめる「戦争する国づくり」に警鐘を鳴らし、他団体と協力して秘密保護法廃止を求めてきた自由法曹団の活動や人権を守るたたかいを踏まえ、「安倍政権は国民との矛盾を拡大するだけ。これ以上、亡国への道を許すわけにいかない。『たたかいがあるところにはつねに自由法曹団員がいる』という意気込みでのぞみたい」と決意をのべました。
 道民医連の堺慎会長、道労連の黒澤幸一議長が来賓あいさつ、日本共産党の畠山和也衆院議員のメッセージが紹介されました。
 齋藤耕弁護士は、北星学園大学への脅迫問題の経緯と今後の取り組みについて報告しました。
 レッドパージ人権救済申し立て、生活保護引き下げ訴訟について、原告や弁護士から支援の呼びかけがありました。
(
2015年01月09日,「赤旗」)

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