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レッドパージ/10人名誉回復・補償を/首相に勧告書/福岡県弁護士会
日本共産党員であることなどを理由に、福岡県内の職場を解雇(レッドパージ)された10人が人権救済を申し立てていた問題で、福岡県弁護士会(原田直子会長)が安倍晋三首相にたいし、名誉回復や補償を求める勧告書を出していたことがこのほど、わかりました。
勧告書は10月4日付。申立人10人の解雇をレッドパージだと認めています。レッドパージには、国も関与していたにもかかわらず、今日まで放置してきた責任は重いと指摘。速やかな名誉回復や補償を含めた適切な措置を講ずるよう勧告しています。
西日本新聞社でレッドパージされた諸岡敬一郎さん(90)は「解雇通告を受けたときの悔しさは今も忘れない。弁護士会が認めてくれたことは大変うれしい。申立者も高齢で亡くなっている。政府は勧告に従い、一日も早く謝罪してほしい」と話しました。
( 2016年12月28日,「赤旗」)
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長山高之さん死去
長山 高之さん(ながやま・たかゆき、本名八木沢敏之=やぎさわ・としゆき=作家)18日死去、90歳。大阪市出身。家族葬を行いました。喪主は長女中村京子さん。
1971年日本共産党入党。日本民主主義文学会会員。中央機関紙編集委員会・『文化評論』編集委員会主催の「1974年度文学作品」に「夜霧のナロー」が入選。87年、本紙に小説『春遠き日々』を連載しました。著書に『夜霧のナロー』『小説レッドパージ』『夜明け前の脱走』ほか。
( 2016年12月20日,「赤旗」)
レッドパージ被害/名誉回復求め集会/盛岡
岩手県レッドパージ被害者名誉回復同盟は3日、盛岡市で「語り継ごう、戦後最大の人権侵害―講演と交流の集い」を開き、名誉回復と国家賠償を求める運動への協力を呼びかけました。労働組合や民主団体などから60人が参加しました。
レッドパージ(1949〜50年)で不当解雇され、今年2月に「人権救済申立書」を岩手弁護士会へ提出した藤村三郎(90)、渡辺勇一(88)、長尾正一(89)の3氏が体験を話しました。
藤村氏は「日本通運は500人の職場で30人も解雇した。裁判を27年たたかったが、脱落者は1人もいなかった」と証言。渡辺氏は「国鉄で理由も教えられずに『おまえはクビだ』と言われた痛手を、いまも負っている。たたかいで憲法の大切さを実感した」と語り、長尾氏は「国鉄を解雇された後、幼い6人の弟妹を食べさせるのに必死だった」と振り返りました。
仙台中央法律事務所の小関眞弁護士が「レッドパージ人権救済申立てについて」と題して講演。日本共産党県委員会、いわて労連、新婦人県本部の各代表が連帯のあいさつを行い、「レッドパージは昔の話ではない。いまも大企業では労働者に対する差別が横行している」とのべました。
(2016年12月06日,「赤旗」)
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レッド・パージ実態語り継ぐ/埼玉連絡会が総会
「レッド・パージ反対埼玉連絡会」はこのほど、さいたま市内で第5回総会を開きました。総会は、5000人分の「被害者の名誉回復と国家賠償を求める国会請願署名」を集めることや、レッド・パージの実態を語り継ぐ活動推進などの方針を決定しました。
報告では、今年5月の国会請願で県連絡会の目標の3000人分を超える3402人分の署名を提出したことなどが紹介されました。
総会に先立ち、日本国民救援会埼玉県本部の桜井和人会長が講演。県内の弾圧事件や救援活動の歴史について述べ「共同のたたかいをますます発展させましょう」と訴えました。埼玉県労働組合連合会(埼労連)、日本共産党の畑野君枝衆院議員らがメッセージを寄せました。
レッド・パージ
1950年前後、アメリカ占領軍の示唆のもとで、日本政府と財界が、推定4万人の日本共産党員と支持者らを「企業の破壊分子」などとして職場から追放した事件。被害者は思想・信条の自由を侵害され、事件後も働く権利を奪われ生活苦を強いられたとして、国に名誉回復と国家賠償を求めています。
(2016年12月04日,「赤旗」)
独立プロ作品特集上映/東京で5〜18日
1950年代に映画界のレッドパージで大手映画企業を追われた映画人が起こした独立プロの作品の特集上映「知られざる独立プロ名画の世界」が、東京・神保町シアターで11月5日から開催されます。18日まで。
上映作は、独立プロ映画運動の旗手ともいえる山本薩夫、今井正監督らの映画作りの軌跡を描いた「薩チャン正ちゃん 戦後民主的独立プロ奮闘記」(池田博穂監督)をはじめ、次の7本。今井監督=「婉という女」「どっこい生きてる」。山本監督=「荷車の歌」「浮草日記」。家城巳代治監督=「姉妹」「ともしび」。吉村公三郎、今井、山本の3監督のオムニバス「愛すればこそ」。問い合わせ・同館03(5281)5132
( 2016年11月02日,「赤旗」)
「たたかい終わらない」/レッド・パージ被害者川崎さん100歳祝う会
レッド・パージの被害者で、名誉回復を求めてたたかってきた神戸市西区の川崎義啓さん(99)の100歳を祝う会が28日、同市内で開かれました。
旭硝子尼崎工場で労組の副組合長を務めていた川崎さんは1950年10月、会社から突然「明日から来なくてよい」と通告され、立ち入りを禁止されました。工場長宅を訪ねると住居侵入で逮捕されました。同じレッド・パージ被害者の大橋豊さん、安原清次郎さんとともに国家賠償を求めて裁判闘争をたたかいました。12月1日で100歳を迎えます。
車椅子に座った川崎さんは「レッド・パージの(名誉回復の)たたかいはいままで以上に強めなくてはいけませんが、動けなくて面目ない。しかしたたかいは終わりません。みなさんよろしくお願いします」と元気に語りました。
支援者14人が参加し、大橋さんが「川崎さんは南京(なんきん)に出兵させられ、こんな戦争は絶対だめだと思い、病気で帰国後、台湾に渡って警官になった。中国の人に銃を向けなくていいからです。川崎さんが先頭切ってくれたから名誉回復の運動をやることができた」と紹介しました。
一同は川崎さんを祝い、今後の運動の方向などを語り合いました。
(2016年10月30日,「赤旗」)
合葬追悼式懇親会/最後まで人のために働いた人=^故人をしのぶ
「日本共産党常任活動家の墓」第31回合葬追悼式に参列した遺族と中央委員会の懇親会が1日夕、党本部で開かれました。63遺族の114人が参加し、本部食堂の和洋の手作り料理を味わいながら故人をしのび交流しました。市田忠義副委員長があいさつしました。
大阪から参加した森田夏江松原市議は、父で大阪府委員を務めた植田耕治さんについて「『赤旗』の配達や老人会長の仕事など、最後まで人のために働いた人でした」と語りました。母も参院選候補になり、幼いきょうだいで家事をこなした30年前の思い出を述べ「裕福でなくても、人間らしく誇りを持って生きることを教えてもらいました」と話しました。
党員の誇り
東京から移住して、長野県長谷村(現伊那市)で村議を務めた大出あさみさんの夫・達雄さんは、踊り好きで、地域に伝わる民謡「ざんざ節」の保存会で活動していた妻の思い出を紹介。「『ざんざ節』は歌い手が足りなくて、僕はいまでも歌っています」と明かし、のびやかな歌声を披露して会場をわかせました。
「父は、日本共産党員として生き抜いたことを誇りにしていました」。そう語ったのは、広島県常任委員を務めた渡邊力人さんの長女・清水かおるさんです。孤児として戦争時代を生き抜いた渡邊さんは被爆した妻を大切にし、家には若い党員や労働者が集まって明るい家庭だったとしのびました。共産党員詩人・峠三吉とともに活動し、その姿が詩に描かれたことを生涯の誇りにしていたと話しました。
中央委員会で管理部長を務めた福永嘉三さんの妹、杵渕久美子さんは、1948年に入党した兄の思い出を披露。母親はレッド・パージを目の当たりにし、とにかく安い党専従の給料に「共産党はひどいところだ」とこぼしていたものの、息子を信頼し、決して活動に反対しなかったと話しました。その母親も70代で入党したと述べ「兄も母も党を信じ、愛した生涯だった」と話しました。
遺志継いで
愛媛県八幡浜市議を4期務めた遠藤紀夫さんの妻・素子さんと長女・綾さんは親子で参加しました。素子さんは夫の後を継いだ現職の同市議です。
素子さんは、高校教諭だった紀夫さんが新人時代のある日、校内放送で生徒に「悩みのある方はいませんか。いたら中庭に集まってください」と呼びかけ、悩みをともに解決しようとしたエピソードを紹介。晩年は赤旗手帳に線を引いて党綱領を暗記していたと話し「今回の参院選の結果を知らせたかった。私も遺志を継いで頑張りたい」と話しました。
綾さんは東日本大震災の後、伊方原発再稼働反対の運動に取り組むなかで日本共産党に入党したと自己紹介。「党員として、原発をなくすため頑張りたい」と述べると、大きな拍手がわきました。
懇親会会場で、祖父が合葬された23歳の男性が入党を決意しました。
懇親会は広井暢子副委員長・合葬委員会責任者、岩井鐵也常任幹部会委員・合葬委員が出席し、林通文厚生部長・合葬委員が司会を務めました。
( 2016年10月04日,「赤旗」)
卒寿に敬意/共産党宮城県委、敬老祝って訪問
日本共産党宮城県委員会は、毎年敬老の日に際して、節目を迎える党員を県・地区の役員が訪問し、記念品を贈り、お祝いしています。今年は、白寿(99歳)2人、卒寿(90歳)が18人、米寿(88歳)が20人、傘寿(80歳)が67人です。
15日は、中島康博県委員長と仙台東地区の佐藤克之地区委員長が、卒寿を迎える仙台市若林区の渡辺愛雄さんを訪問し、記念品を渡し、懇談しました。
渡辺さんは、1950年のレッドパージで東北配電を解雇され、党専従を経て、「労音」の事務局に入り、後に「労演」(その後演劇鑑賞会改称)に入り、全国的な運動前進に貢献しました。
渡辺さんは、レッドパージの解雇撤回を求めた訴訟の原告として30年たたかった苦労や、「労演」でサークルを中心とした組織改革に取り組んだことなどを語りました。
佐藤地区委員長が、今も選挙では電話かけでがんばっていると話すと、渡辺さんは、手書きのノートを出し、「こうやって反応を書くのが大事なんです」と現役で奮闘する元気な姿を垣間見せてくれました。
(2016年09月17日,「赤旗」)
各地から/「レッド・パージ被害者の名誉回復と補償を求める北海道懇話会」が総会(3日)
「レッド・パージ被害者の名誉回復と補償を求める北海道懇話会」の総会が、札幌市内で開催され63人が参加しました。
猫塚義夫氏(医療9条の会北海道共同代表)が「レッド・パージの親と私の歩んだあしあと」と題して講演。「弱い立場の人への温かさを持って多方面の活動に精力的に取り組んでいた姿勢を尊敬する」と語りました。来賓の日本共産党道委員会の千葉隆書記長、道労働組合総連合の森国教副議長、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟道本部の宮田汎会長の3氏があいさつしました。
討論では「人権侵害の再来となりかねない共謀罪強行の動きが急浮上しており市民運動で止めていくことが大切だ」などの発言がありました。
(2016年09月14日,「赤旗」)
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レッド・パージ訴訟/再審申請棄却に最高裁へ抗議文
レッド・パージ被害者の名誉回復と国家賠償を求めた訴訟の第2次再審申し立てを3度目も棄却(6月22日)した最高裁に対し、レッド・パージ反対全国連絡センターはこのほど、抗議文を手渡しました。
レッド・パージは1949〜51年、米軍に示唆された政府・財界が日本共産党員とその支持者ら約4万人を職場から強権的に解雇した、戦後最大の人権侵害事件です。
抗議文は、憲法判断を求めたのに何一つ答えず棄却したことは「最高裁が本来果たすべき役割を放棄したもの」と厳しく指摘。思想信条の自由、基本的人権の確立を願っている多くの人々と連帯して、「すべてのレッド・パージ被害者の名誉回復と損害賠償を求めて今後も全力を尽くす」としています。
( 2016年09月13日,「赤旗」)
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演劇/「ハリウッドでシェイクスピアを」(加藤健一事務所)/奇想天外、はじける舞台
舞台は1934年のハリウッド。映画「真夏の夜の夢」の撮影が始まろうとするスタジオ。そこに迷い込んだのが、妖精王のオーベロンと王に仕えるパックだ。現実の撮影現場と妖精たちが作り出す奇想天外なハートフルコメディー。シェイクスピアの「夏の夜の夢」を知る人も知らない人も存分に楽しめる。アメリカのケン・ラドウィッグ=作、小田島恒志・小田島則子=訳、鵜山仁=演出。2003年ワシントンで初演、今回が日本初演。
オーベロンの加藤健一、パックの加藤忍を中心に男性8人、女性4人の俳優でいくつもの役を演じていく。映画監督のラインハルト(小宮孝泰)がワーナー(粟野史浩)に交渉。そして撮影に入る。撮影現場では、オーベロンが新人女優のオリヴィア(瀬戸早妃)に一目ぼれ。そして、若い2組のカップルの騒動がはじまり、魔法の花が登場して混乱する。さらに、ロバのかぶりものをしたボトムやシスビーなども勇躍する。
シェイクスピアの作品「ヴェニスの商人」などの名せりふが出てくるかと思えば、せりふを後ろから読んで聞かせる趣向などもある。俳優陣の力のこもった熱演が客席にも伝わってくる。鵜山演出の妙味だが舞台がはじけているのだ。装置もアテネの森の出現など次々と素早く展開していた。
映画監督・ラインハルトはナチスのユダヤ人狩りを逃れてアメリカに亡命、初の作品が「真夏の夜の夢」だった。ファシズムに立ち向かったという事実も真摯に受け止めておきたい。
(鈴木太郎・演劇ライター)
14日まで東京・本多劇場
( 2016年09月07日,「赤旗」)
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朝の風/いつでも起こる「トランボ」の話
「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」は、東京で7月の公開から上映7週目に入るヒット作となった。
米下院非米活動委員会の聴聞会で「共産党員か、かつてそうだったか」の尋問に答えるのを拒み議会侮辱罪で投獄されたダルトン・トランボ。下獄後ハリウッドから職を奪われたとき、偽名で脚本を執筆する機会をB級映画会社のフランク・キングが与えた。トランボに書かせるなと忠告する委員会のメンバーをキングがバットで追い返すシーンは笑いながらも胸に残る。
今井正監督が東映のマキノ光雄プロデューサーから「ひめゆりの塔」(1953年)の監督をと頼まれた時の話を思い出す。レッドパージ中の身だがという今井氏にマキノ氏は「おれは右でも左でもない大日本映画党だ」と自分が責任を取ると告げ、今井監督のこの映画は東映の起死回生の一作となった。映画に生きる者の思いは洋の東西を問わず相通じるものがある。
キングを演じた名優ジョン・グッドマンの言葉が映画のパンフレットにある。「本作は、我々全員が警戒を怠らず、真実を大事にする必要を気づかせてくれる。トランボのような話はいつでも起こりうるのだからね」。他の出演者の言葉も含蓄に富み、一作の重みを痛感させられる。
(響)
( 2016年09月06日,「赤旗」)
トランボ ハリウッドに最も嫌われた男/ブルース・クック著、手嶋由美子訳/評者村山淳彦東京都立大学名誉教授
赤狩りに抵抗した脚本家に迫る
共産主義とたたかうと唱えて朝鮮戦争、ベトナム戦争を進めた米国政府は、国家機密保護の名のもとに、政府役人、教育界、軍のなかから共産主義者を摘発追放するレッド・パージを推し進めた。なかでも国民的娯楽だった映画に関係する者たちに対しては、最も人目を引く見せしめにしようと、いわば劇場型弾圧が加えられた。一部の脚本家、監督は議会により訴追、投獄され、ブラックリストに載せられて仕事を奪われ、それでも屈せず抵抗した。なかでも有名なハリウッド・テンの一人ダルトン・トランボは、ゴーストライターとして脚本を書き続けてアカデミー賞を二度も受賞し、晩年輝かしい復活を遂げた。
このトランボの伝記から浮かび上がる人物像は、不屈の共産主義的闘士としての姿ばかりでなく、むしろ、独立独行、強い成功願望、家族思いなどのアメリカ人らしい特徴できわだっている。トランボの死んだ翌年1977年に出版された本書は、再び復活したのか、昨年発表された映画「トランボ」(現在日本公開中)のネタ本として再刊された。
トランボの伝記は、死期迫るトランボ本人やその家族、知り合い、映画産業関係者など多くの人々へのインタビュー、あるいは記録、書籍の渉猟を通じて、トランボの実像に迫ろうとした著者クック自身による取材活動の物語のなかに埋め込まれている。おかげで大戦後における一大娯楽産業としてのハリウッド映画界の生々しい内幕がうかがえるだけでなく、トランボ受難の50年代とトランボ凱旋の70年代との対比が見えてくる。
1932〜2003年。批評家、ジャーナリスト、作家
( 2016年08月14日,「赤旗」)
「薩チャン正ちゃん」二人の巨匠特集に寄せて/面白さ、社会性たっぷり/山本洋子
2014年、池田博穂監督から、山本薩夫、今井正を中心にした、独立プロ映画運動の軌跡を描きたいとの話が持ち込まれた。前々からやらなければと思っていたテーマでもある。
独立プロ名画保存会が製作母体となり、手探りで動き始めた。製作資金、配給、製作体制などなどすべてがクリアできたわけではないが、独立プロ運動に、熱い思いを寄せる人々の声に押され、船出してしまったというのが、現実である。
初体験の製作の仕事、つながりを駆使しての資金集め、製作委員会の航海は波高し――。それでもたくさんの方々の思いのたけを込めた手助けで「薩チャン正ちゃん 戦後民主的独立プロ奮闘記」として無事完成! 2015年の夏からの主要都市での劇場公開は、独立プロの生み出した数々の作品とを組み合わせた上映だったが、大勢の人々が見てくれた。「薩チャン正ちゃん」も、独立プロの作品も、両方見たいという相乗効果をもたらした。
独立プロの作品群は、戦後の民主化運動の息吹の中で闘われた「東宝争議」「レッドパージ」などで解雇された大勢の映画人たちが、大企業から締め出されながら、自分たちの本当につくりたい作品、同時代を生きる人々の思いにこたえられるような映画をと、労働組合や、劇団、人々に依拠して、お金に苦労しながらも、この作品こそはと熱意を込めて世に送り出していったものだ。
それらの作品は、少しも古さを感じさせないし、仕事柄、何回も見るが、決して退屈しない。民主主義、基本的人権、戦争と平和、教育問題、労働問題という社会的テーマが、市井の人々の懸命に生きる姿を通してそれぞれの作品に見事に盛り込まれている。
今、格差社会が広がり、非正規雇用が蔓延し、すべての世代に貧困が広がり、人権が無視され、戦争への足音が異常に高くなっている。私たちはどう社会とむきあい、どんな未来を紡いでいくのか、そのことへの大きな示唆をあたえてくれるが、何より映画の楽しさ、面白さをたっぷりと味わわせてくれる。すべての作品を見てほしい。そんな思いに駆られている。
(映画監督、「薩チャン正ちゃん」製作者)
( 2016年07月22日,「赤旗」)
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レッド・パージ被害救済/共産党に支援要請
レッド・パージ反対全国連絡センターの代表は19日、日本共産党本部を訪ね、「レッド・パージ65周年のつどい」の記念誌普及と救済支援のとりくみを要請しました。党国民運動委員会の有坂哲夫副責任者らが応対しました。
レッド・パージとは1949年から51年にかけて米軍の示唆で政府・財界が、共産党員や労働組合活動家を強権的に解雇し、暴力的に職場から追い出した戦後最大の人権侵害事件。つどいは、2015年12月6日に被害者の名誉回復と国家賠償の実現を求めて開きました。
鈴木章治事務局長は、レッド・パージ被害者救済の特別法制定を求める請願署名が今年度初めて3万人を超えたと紹介。「当事者が少なくなっています。当事者に代わって発信する人をつくるためにも記念誌の普及に協力してほしい」と訴えました。神奈川県レッド・パージ反対同盟の大高陽さん(83)は「いま憲法問題が焦点になっており、この運動も、民主主義や人権を守るたたかいの一環です」と語りました。
有坂氏は、記念誌の普及や取り組みの強化について述べ、激励しました。
( 2016年07月20日,「赤旗」)
映画「トランボ―ハリウッドに最も嫌われた男」と赤狩り/脚本家の闘志を今に/上島春彦
ヒキガエルの時代°U名で乗り切る
脚本家ダルトン・トランボ。その名前を聞いてどう反応するかでその人物の来歴が分かる。知りません、という正直な反応もあるだろう。一方「ジョニーは戦場へ行った」の小説家です、と言う方もあろうかと思う。
私がハリウッドのレッドパージに興味を抱いたきっかけは、この小説が本国アメリカで映画化され、1970年代初頭日本公開されたことだった。四肢と顔面下半分を爆弾で吹き飛ばされ、周囲とのコミュニケーション手段を失った若者の意識世界を描いたショッキングな内容であり、いわば私が初めて見た芸術映画だったと思う。脚本と監督を兼任したのがトランボ本人である。
発禁処分経て自らが映画化
しかし彼を今わざわざ「映画監督」と紹介する人はいない。というのも、生涯の晩期に自作を映画にしたのは結局国内でそれをやってくれる人を見つけられなかったからで、本人も自身を監督とは認識していなかっただろう。あくまで彼は脚本家、それもハリウッド娯楽映画のスクリーン・ライターであり、そしてそれに次ぐ肩書は組合活動家であった。
映画「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」は彼の半生をかなり正確に再現しており、脚本家にして活動家という言葉の意味をきっちり分からせてくれる仕上がりである。
本作で描かれるのは、彼が「ジョニー」を映画にする直前までのおよそ四半世紀。20世紀、1940年代から70年代初頭というアメリカ激動の時代だ。
小説「ジョニー」にもう一度だけ言及すると、初版刊行は39年。数度の発禁処分を経ての映画化だから、いわば映画「トランボ」は「ジョニー」の不在時代、「地下潜行期」を背景にしていることになる。
さて、そのような「不在」を一つのキーワードとして映画「トランボ」を見ると、このトランボという人物自体が50年代の丸々10年間を「不在者」として過ごしたことに思い至るのである。
ことの起こりは47年、トランボをはじめとする10人の映画人がHUAC(下院非米活動委員会)の喚問に応じながらも、自身が共産主義者であるかどうかの質問に断固として答えなかったため訴追される羽目に陥ったことであった。
ハリウッド・テンと呼ばれる彼らの態度は、思想信条及び結社の自由を保障する合衆国憲法修正第1条にのっとってのものであり、完全に合理的な判断だった。しかしこの行動が議会侮辱罪に問われ、結局10人全員下獄。時代はトランボ言うところの「ヒキガエル達」のものとなっていたのだ。「ヒキガエルの時代」とは49年に彼が発表した同時代批判パンフレットのタイトルであり、そこに民衆の不寛容と猜疑心につけこもうとする悪徳政治家への怒りが込められているのは明らかだ。
以後、アメリカ映画産業は率先してHUACの言いなりになり、自らブラックリストを作成して、共産主義者とそのシンパを追放する道を選んだ。刑期を終えてもトランボに仕事は来ない。かくして彼ら不在のアメリカ映画の10年が始まる。
自分の名前を取り戻す闘い
と、ここまでが映画「トランボ」の序盤に過ぎない。本編の面白さはトランボがこの時代をさまざまな名前で安い脚本を書いて乗り切っていくてん末にある。しかもその中に数々の名作が含まれ、何と偽名で2本のアカデミー賞まで取ってしまう。
彼の闘いはそこから自分の名前を取り戻すところにより力強く発揮され、これもまたもう一つのクライマックスを形成する。そこには製作者兼監督オットー・プレミンジャー(「栄光への脱出」)や、大スターにして製作者カーク・ダグラス(「スパルタカス」)も登場し、映画は華やかさもいや増すばかり。憲法関連で誠にきな臭い話題が多い今こそ見てもらいたい作品である。
かみじま・はるひこ 映画評論家。1959年生まれ。著書『レッドパージ・ハリウッド 赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝』『血の玉座 黒澤明と三船敏郎の映画世界』ほか
( 2016年07月13日,「赤旗」)
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「つどい」記念誌発行/「レッド・パージ65周年」実行委員会
「レッド・パージ65周年のつどい」実行委員会は、「つどい」の内容を収録した記念誌(写真)を発行しました。
「つどい」は、日本共産党員や労働組合活動家が職場を追放されたレッド・パージから65年を迎えた2015年12月に開催。記念誌には、元日弁連会長の宇都宮健児氏の記念講演、被害者の告発、各界からの連帯あいさつが掲載されています。
宮城県の40代男性は、知人の被害者のすすめで記念誌を入手。「神奈川県議会の本会議で日本共産党の質問を封じたのは現代のレッド・パージだ。まだこんなことがまかり通るのはおかしい」と3部注文するなど好評です。
1部600円。問い合わせ先=レッド・パージ反対全国連絡センター03(3576)3755(ファクス兼用)
( 2016年07月13日,「赤旗」)
レーダー/WOWOWドラマ「沈まぬ太陽」/揺るがぬ男の生きざま
勤務する航空会社の理不尽な人事に耐えながら、節を曲げない男の生きざまを描く、WOWOWのドラマ「沈まぬ太陽」(5月8日から 日、前10・0)。放送前から雑誌などで話題となっていました。原作は山崎豊子の長編小説。中東・アフリカでロケを行い、実力派俳優を随所に配した重厚さ。開局25周年記念番組としての気概が伝わります。
「大地の子」以来20年ぶりの山崎作品主演となる上川隆也が、激しく、しなやかな国民航空社員・恩地元を好演。恩地のライバル・行天四郎役には渡部篤郎を配しています。
物語のスタートは1960年代。人員不足と過密労働で整備部に死者を出しても改善に動かない会社に対し、労働組合委員長の任にあった恩地は捨て身のストライキを敢行。大幅な待遇改善を勝ち取るものの、その後に待っていたのは10年に及ぶ海外僻地(へきち)たらい回しの報復人事でした。
ドラマは全20話で7話まで放送。舞台は現在アフリカですが、物語はこの後、520人の犠牲者を出した御巣鷹山の墜落事故へ―。
国民航空のモデルは言わずと知れた日本航空。映画版「沈まぬ太陽」(2009年)が公開されたとき、日航は社内報で批判を展開しました。しかし「空の安全」を軽視した運営は今世紀以降も続きます。放漫経営で危機に陥りベテランを大量解雇したことは今も大きな問題であり、賃金・昇格で社員を差別する体質に変化はありません。
山崎は、恩地のモデルとなった故・小倉寛太郎氏への取材中、話の生々しさに「もうやめましょうよ」という秘書に、「正論が正論として通る世の中にするために、わたしはこの小説をどうしても書きます」と言い切りました(小倉寛太郎著『自然に生きて』)。
レッドパージを象徴するせりふの数々、団交シーン、経営陣の冷酷さもそのままドラマの中で利いていて、今後の展開と見応えに期待したい。「交通機関の安全の一助となることを願う」とのラストのテロップも粋。
(薮)
( 2016年06月20日,「赤旗」)
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降旗康男監督が家城巳代治監督語る/映画後援会などが集い
日本共産党映画後援会と映演労働者後援会の共催で「日本共産党の映画人たち その6」が、家城巳代治監督をテーマに21日、東京・日本共産党本部で開かれ五十数人が参加しました。
映画後援会代表委員の有原誠治監督、日本共産党学術・文化委員会責任者の土井洋彦さんのあいさつ、平沢清一さん(映画ライター)による家城監督の経歴紹介に続き、同監督の「雲ながるる果てに」(1953年)を上映。レッドパージで50年に松竹を追放された家城氏が独立プロで特攻隊員を描いたものです。
家城監督の「裸の太陽」(58年、東映)に助監督としてついた降旗康男監督が、植田泰治さん(元東映プロデューサー)の問いに答え思い出を語りました。
降旗さんは、57年に東映に入社して1年で家城監督につき、温厚で粘り強い人柄で、新人の自分たちを信じてくれたのを重く受け止めたと言います。
それまでの東映での効率優先の撮影方法や残業の多さに、退職も考えていた降旗さんは、俳優が納得し、スタッフものみこんでから撮るという家城監督の撮影方法に映画の面白さを知りました。
家城監督と同様にパージされていた今井正監督が、東映で「ひめゆりの塔」を撮って東映を立て直したというエピソードに触れ、東映が家城監督を起用したのは、家城作品のみずみずしさが東映作品にほしいこと、レッドパージされた監督の作品には観客が来る、その二つだと思うとのべ、同様に、山本薩夫、関川秀雄監督らも東映に起用されたと述べました。
( 2016年05月27日,「赤旗」)
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レッド・パージ反対連絡センター、名誉回復・賠償求め行動
レッド・パージ反対全国連絡センターは23日、参院議員会館で名誉回復と国家賠償を要求する国会請願行動と全国活動交流集会、講演会を開きました。のべ51人、うちパージ被害者12人が参加。
日本弁護士連合会は、レッド・パージが違憲・違法で、高齢の全被害者の速やかな救済を求めると勧告しています。一方、最高裁は2度の再審申し立てを退けています。
活動交流では、「2月4日に人権救済申し立て書を出した」(岩手)、「若者も含めて、個人の尊厳が失われている私たちが双方向の場で運動を前に進めていく」(北海道)、「90代の被害者が署名集めに頑張っている。もっと活動家を増やし、動けるようにしたい」(神奈川)との発言がありました。
当面の活動について述べた鈴木章治事務局長は「名誉回復と国家賠償を求める署名の輪を大きくしていく」とともに、「語りつごう戦後最大の人権侵害レッド・パージ65周年のつどい」記念誌の普及を呼びかけました。
名波大樹弁護士が、被害者だった祖父の思いも交えて講演しました。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の増本一彦会長、国際人権活動日本委員会の松田順一事務局長、日本国民救援会の鈴木猛事務局長があいさつしました。
午前、衆参の内閣委員、法務委員140人に要請。日本共産党の畑野君枝衆院議員に3万人余の署名を手渡しました。
( 2016年05月24日,「赤旗」)
文化の話題/日美70年に思う/愛と平和を求め続け/権力に抗しアートの大道歩む/鯨井洪
日本美術会は、今から70年前、1946年4月、明治、大正、昭和の民主的美術家が集い、「創立宣言」を発表した。宣言は、「永い間、美術の自由で民主的な生長をはばんでいた軍国主義は、外からの力によって打倒された。…われわれの美術は、一切の偏狭な観念や誤謬から解放されて、人間と世界の前に自由を得なければならない。…今こそ、党派流派を超えて大結集し、真しに創作行動に立ち向か(い)…このことは、民主的な文化日本建設の一環として、一つの力になるだろう」と高らかにアピールしている。
この運動実現のため苦闘した草創期の発起人たちの報告は『日本アンデパンダン展の25年』にくわしい。なお、日本アンデパンダン展は日本美術会主催である。
1950年6月のレッドパージから50年代の警察予備隊と海上保安隊増加反対運動、国民美術の創作と普及の議論、58年の警職法反対闘争は「表現の自由」をめぐる作家自身のたたかいとして発展した。
そして60年安保改定反対の激しい闘争の中でも、先輩諸作家の偉大な制作は持続され、しかもアンデパンダン展に出品展示された。このように、今ある現実を作品化し、批判していくことは同展の最大の魅力であろうと僕は思う。
たとえば4回展の鶴岡政男「重い手」、6回展の森芳雄「煙突と人と」、9回展の本郷新「嵐の中の母子像」、同じく、まつやまふみお「ダレスとカラス」等々の秀作がある。そして、二度と戦争への道は歩まないと決め、愛と平和を求め続けた作品の一つが28回展のいわさきちひろ「戦火の中の子どもたち―3」である。
65年に日美センターが建設され、66年に会付属民主主義美術研究所が設置され、その後、会付属研究所「民美」に名称改定。初代の所長になったのは画家・永井潔だった。
戦後70年の今、時の権力者は「戦後レジーム」の脱却をもくろみ、明文改憲を言明している。日本美術会は戦後のアンデパンダン展の源流を学ぶと同時に、アートの大道を歩む。
今こそ、発表の自由、表現の自由、作家の独立をうたった「アンデパンダン精神」を再度見直し、再挑戦する機会と捉え、共に諸ジャンルが励まし合って、来年の70周年記念アンデパンダン展を成功させたいと思う。
(くじらい・こう 画家、日本美術会代表)
( 2016年04月29日,「赤旗」)
レッド・パージ65周年のつどい/大阪
レッド・パージ反対大阪連絡センターは16日、「レッド・パージ65周年大阪のつどい」を大阪市内で開催しました。75人が参加しました。
国民救援会大阪府本部の姫野浄副会長のあいさつに続き、大阪革新懇の鰺坂真代表世話人が講演。鰺坂氏は、全国で4万人を超える労働者が職場から排除された1949〜50年のレッド・パージが、時の権力者による憲法違反の重大な人権侵害であったこと、その国際的な背景や国内情勢をくわしくのべ、レッド・パージとは何であったのかを明らかにしました。
同時に鰺坂氏は、安倍政権の戦争する国づくりのもとで、過去を振り返るだけでなく、歴史の教訓を学び、今のたたかいに生かしていくことが重要だと強調しました。
大阪のレッド・パージ被害者20人が大阪弁護士会に、人権救済を政府に勧告するよう申し立てている取り組みについて、名波大樹弁護士が経過を報告。レッド・パージ被害者3人が自らの体験を語り、父親や母親が被害を受けた遺族2人もたたかいを受け継ぐ決意をのべました。
有川功治安維持法国賠同盟府本部会長、川辺和弘大阪労連議長、上山勤自由法曹団大阪支部長、柳利明日本共産党府副委員長が、連帯あいさつしました。
(2016年04月23日,「赤旗」)
2016今言わなければ/元自治労北海道本部委員長北村英人さん/市民と野党、力合わせて
日本共産党に、すごい決断をしてもらいました。安倍自公政権が「戦後」を消し去り、歴史を逆転させて、再び「戦争する国」をつくろうともくろむもとで、2月19日に5野党が野党共闘を重視し、候補者の一本化をはかる方針で合意したことに感激しました。
それというのも、私が住む衆院北海道5区補欠選挙で、自公の暴走と手助けする勢力をギャフンといわせるため、勝利しなければと思っていたからです。
戦争だけはだめ
私たちは、安保法制=戦争法の反対運動を北広島市でも、道内でも盛り上げ、「戦争だけはしてはならない」と世論を広げてきた確信を持っています。
「なんとか野党と市民が一緒に選挙をたたかえないものか」と話し合いを重ね、2月6日に「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合北広島」を立ち上げた直後でした。
池田まきさんという統一候補を押し立てて自公に挑む。「市民連合」にとっても、やりがいのある選挙です。
野党と市民の結束を恐れた相手方は、野党陣営に対し、「革命政党と組む」野合だと攻撃していますが、とんでもないことです。
1950年前後、共産党員や同調者というだけの理由で解雇されるレッドパージの嵐が吹き荒れ、北海道庁でも、共産党員たちが職場を追われました。
それから31年後の80年11月の全道庁定期大会。私は不当に解雇された56人の方々の名誉を回復し、特別組合員として処遇する特別決議を提案、万雷の拍手で採択されました。感動的な場面でした。
あの戦争の教訓から生まれた憲法は、「思想信条の自由」「結社の自由」を保障し、民主主義の根幹だと高らかに宣言しています。
改憲勢力に審判
私は戦後日本の出発点を奪われたくない、一人ひとりの組合員を守れずしてどうして労働組合か。大会で共産党の人たちの長年の労苦をねぎらいました。
5区補選は、改憲を狙う安倍自公政権に審判を下すたたかいです。市民と野党が力を合わせて勝ち抜きたい。及ばずながら私もその先頭に立ちます。
聞き手・写真 名越正治
きたむら・ひでと 1933年、佐賀県生まれ。全道庁労連(北海道庁労働組合連合会)委員長、自治労道本部委員長を歴任。「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合北広島」顧問。
( 2016年04月01日,「赤旗」)
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